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「雁(かり)の使(つかい)」という言葉は万葉の昔から歌に詠まれている。秋の空に飛来する雁は古来、懐かしい人の消息をもたらす使いだとされてきた。だから手紙のことを「雁書(がんしょ)」とか「雁の文」とも呼び習わす▼由来は中国の故事にさかのぼる。漢の武将の蘇武は使者として匈奴(きょうど)に赴き囚(とら)われた。匈奴側は蘇武は死んだと言い張ったが、漢の側は「天子の射止めた雁の脚に蘇武の手紙がゆわえられていた」と譲らず、ついに身柄を取り戻した。話はどこか、北朝鮮による拉致事件に重なり合う▼その国の工作員だった金賢姫元死刑囚が来日した。超法規的な入国とものものしい警備は「雁の使」という雅語からは遠い。だがベールの向こうからもたらされる、どんな消息も情報も、被害者の家族だけでなく日本にとって貴重である▼世論が冷めたとは思わない。だが核にミサイル、哨戒艦沈没と続く北の無法ぶりに、ときに拉致問題の影は薄くもなる。この2年は政府間の動きも止まったままだ。今回の来日を、夏の避暑地のいっときの話題で終わらせてはなるまい▼金元死刑囚は昨夜、横田めぐみさんの両親と会った。父親の滋さんは「世論を喚起するきっかけになれば」と話していた。邪悪な国家犯罪を忘れないことが、家族を支え、政府を動かし、ひいては北への圧力にもなる▼「雁書」の蘇武は19年の幽閉ののちに帰国した。その歳月をとうに超えて、めぐみさんは今年で33年、金元死刑囚に日本語を教えた田口八重子さんは32年になる。消息より被害者の身柄を、一日も早く迎えたい。