No.1 凍結 2010/05/27 00:27:12 削除依頼
金襴緞子の帯締めて姉やはお里へ向かいます。小さなお里へ向かいます。白髪の増えた殿様の、お顔を見上げに参ります。金襴緞子の帯締めて姉やは急げどくたびれて華奢な足には遠すぎる。ハハソの土地も近からず二つ山さえ憎からじ。金襴緞子の帯締めて姉やはおかへと参ります。金襴緞子の帯締めた、我が子をおかへと埋めました。白髪の増えた殿様が見下ろし姉やを詰ります。金襴緞子の帯埋めて、姉やは手ぶらで帰ります。愛し子捨てて、ひとつちいさなまがさした。きっとあの子は生きれない。きっとあの子は生きれない。金襴緞子の帯振り切って、まがさされた体ではしる。見事な見事な帯だった。けれど子には代えられぬ。可愛いあの子は代えられぬ。金襴緞子の帯埋めて姉やは鬼になりました。姉やはおかを下ります。白髪の増えた殿様の苛む目から逃れよと、姉やはお椀を投げました。零れた汗が足を追う。とっぷり暮れた遅い朝、姉やは足に枷はめて、幼いあの子が眠る傍。子守の唄を紡ぎます。金襴緞子の枷はめて、姉やは幼い子供に語ります。結局呪いはどれなのか、姉やはポツリと言いました。子供はまだまだ夢のなか。
可愛いお前。小さなお前。いずれお前も鬼になる。呪いはどれか分からない。
No.2 凍結 2010/05/27 00:28:06 削除依頼
小さな幼い手を引いて、老女は急な坂道をゆっくり下って呟いた。
『いつかお前も鬼になる』
聞いてる子供は寝ておらず、不思議な歌を覚えてた。
きんらんどんすのおびしめてねえやはおさとへむかいます――むかいます。
子供は不思議なその歌を覚えて一人で口ずさむ。誰も知らないその歌は歌の意味さえわからずに子供は音で覚えてた。意味を知らずに。誰も知らずに。
ましろいむしょくのおびしめてばさまはあのよへむかいます――むかいます。
婆様の死んだその夜に子供は一人で口ずさむ。家族は疾うに川越えて誰も子供を叱らない。子供は一人で口ずさむ。聞き咎められる其の日まで覚えておれよと聞いたから。意味も分からぬその歌をいずれか分かる時が来る。
歌を覚えた素直な子供は時間も分からぬ約束を一人じっと待っていた。いつかいつかと後回し、裏切り感じた素直な子、歌と一緒に子供を忘れた。
あの日は小さな其の子供、覚えた歌は記憶の底へ。二度と歌うことはなく思い出しもしないだろう。あの日は小さな其の子供、馬鹿馬鹿しいと大人になった。
家族という牢獄の奥にあるのだと、歌も忘れた大人になって、何があるかも忘れてしまい、其れでもそれだけ覚えてた。自分を見捨てた肉親はどこまで人を馬鹿にするのかとあの日の小さな其の子供嘲る声音で呟いた。
***
No.4 凍結 2010/05/27 17:07:12 削除依頼
「――Bタイプの貴方は同性愛タイプ! 恋人が出来ないのは自分の性癖を理解していないからではありませんか?」
だってーキャーハハハ。目の前に座る女子の群れが如何にも可笑しげな嬌声をあげている。其の甲高い音は放課後の教室のなかで寂しげに響き渡った。
楽しそうに広げた雑誌を押しあいへし合い、根拠のなさそうなチャート式占いをこぞって覗きこんでいる少女達。其の机をひとつ挟んだ対岸にぶすっと不貞腐れた少年が頬杖をついて彼方を見上げている。其れは少し引っかかる光景だった。日が傾く夕暮れに、もう誰もいない教室で集っているということはそれなりに仲が良い間柄なのだろうはずが、少女達と少年の間には明確な温度差がある。
其れもそのはずで少年は元から自分のコンプレックスをからかう彼女たちがそう好きではなかったし、今だって本当の事を言えばさっさと席から立って家路へと駆けて行ってしまいたいのだ。どうかもう二度とこんな事にはなりませんようにと現状を呪う少年にしてみれば、通りかかりの人が自分達のほうへ少し視線を留めてしまうのも無理はないほどに珍しいシチュエーションだろうと自覚している。
「お前らさー帰ったら?」 もう外暗くなるぞ、苦々しくそう呟いた。
其の言葉を受けて、また嬌声が湧く。やっだーと馬鹿にするような声音。
「うーちゃんに心配されるとかマジうけるー」
「自分の心配したほうがいいんじゃね」
「何だよ。其の下っ端の悪役みたいな台詞はよ」
「だってうーちゃんのがよっぽど女の子みたいじゃん?」
ニヤニヤ。うーちゃんうーちゃんと、男子を呼ぶにしては可愛げがありすぎる其のあだ名は別に親愛を示しているわけではない。
No.5 凍結 2010/05/27 21:05:33 削除依頼
うーちゃんの本名は遠江浮雲と言う。読みはそのまま"とおとうみうきぐも"だ。読めないほど凝った名前ではないが、長ったらしいことこの上もなく、尚且つ名前のようには――如何いじくりまわそうと精々が女の名前のようにしか見えない自分の名前を彼は嫌っていた。だからと言って皆にうーちゃん等と呼んでくれるよう言っているのではない。彼の友達が彼を呼ぶ際に用いる呼称は"ウキ"であった。
『ああ海に浮いてるあれね』 まさしく浮き、所謂フロート・ブイである。
『え? 雨の降る季節のことでしょ』 其れは雨季である。
こういう反応がないわけではなかったが、少なくとも女の名前ではないと理解してもらえる。女だと思われるより海にプカプカ浮いてるあれだと、もしくは雨の降る季節のことだと思われる方がずっとマシだとウキは思っていた。
女顔だとからかわれる事の多いウキにとっては其れが絶対の価値観なのだ。
とはいえ、だからと言ってうーちゃんという呼称を其処まで嫌っているわけではない。ウキが其の呼称を苦々しく思う事をして『たかがあだ名じゃない』と笑う心ない級友――主にそう笑う級友は小中の学区が違う――彼らはうーちゃんが何の略かを勘違いしている。浮雲の頭文字をとってのうーちゃんなら、ウキもここまで不快感を露わにしなかっただろう。幾らウキでも呼び名に其処まで拘らない。他の男子でも可愛く呼ばれている奴はいる。込められているのが親愛だったならウキも自分の女顔コンプレックスを煽るような可愛すぎる其のあだ名を気にしなかった。
No.7 凍結 2010/05/27 21:24:23 削除依頼
うーちゃんのうーはうんこの"う"。
小学校4年生の春、大のトイレに入るところをガキ大将に見つかった翌日からウキのあだ名は"うんこ大魔神"となった。更に其の翌週からウキの不登校人生が始まる。小学校4年生から中学を卒業するまで不登校を貫いたウキはうんこがために人生を狂わされた少年として学区内では有名になっていた。
子供の時分だ。学校のトイレで催すことをからかう風潮はどこの学校にもあった。だからして別にうんこのせいで不登校になったわけではない。うんこ大魔神という馬鹿げたあだ名を、多分につけた当人達にしてもからかい半分であって虐めにはなりえなかっただろう其のあだ名を悲観して不登校になったわけではない。オレはそんなに馬鹿ではなかった。そう言っても無駄な事は高校生活一年目で骨身に染みて理解している。知らない間に彼は悲劇のうんこ魔人として有名になりすぎていたのだ。何が真実だなんてことは如何でも良い。彼がウンコ大魔神と呼ばれた翌週から学校に来なくなり、中学卒業まで不登校児であった事実は確かなのだ。其の燦然と輝く事実の前には不登校の理由など如何でも良いのだろう。ウキは其れを理解した。そんなわけで未だにウキが主張しているのは、あの時トイレに駆けこんだ理由は大ではなく小だったという、何の名誉も回復されないだろう言い訳のみである。今更大だろうが小だろうが、あだ名がちょっと変わるだけで失った5年は戻らないし、排泄物のせいで不登校になった間抜けというレッテルも剥がしてはもらえない。しかし素直に認めるのは嫌だと言う反抗の表れが其の主張なのだろう。
あー学校うぜえ不登校にもどりてえ。
うーちゃんってオカマじゃないのーいやーオナベでしょーだからうーちゃん大のトイレはいったんだよねーあーそっかーカナあったまいーでしょでしょー。
机の対岸ではしゃぐ女子達から顔を背けて、ウキは現実から逃避した。5年前のことなどいい加減忘れろ。そう思わずにはいられない。
No.8 凍結 2010/05/28 00:07:55 削除依頼
ウキの視界の真ん中に居座る時計の針は夕方5時半を差そうとしている。
彼女たちが帰る様子は一向になかった。はあと眉をしかめてからウキはチラと引き戸の曇りガラスを見やる。人影はなかったが、あと数分もしない内に来るだろう人物をこの場にいる誰もが知っていた。ウキはもう一度溜息をついて、きゃあきゃあやかましい女子の一群へと視線を戻す。へらへらと笑って見せる。
「いやまーオレはオレとしてね」 ポツンと前置きをひとつ。
にこにこへらへらと柔和な作り笑顔を張りつけたまま、続く言葉を考えていた。不満を顔に出しても、いや出した後にこんな相手の機嫌を伺うような態度をとるから馬鹿にされ続けるんだとウキ自身自覚している。しかしただでさえ5年というブランクがあるウキにはそうするよりクラスに、級友に馴染む術がなかった。
「変なおっさんだって幾ら女顔でもオッパイなくて学ラン着てる男子より可愛いミニのプリーツスカートひらひらさせる君らのが良いでしょーよ」
「やだー! うーちゃんのえっちー」
女子の内の数人、立っている子らが自然とスカートの裾を手で押さえた。
「えっちって……正論だよ正論」
まあオカマ扱いされるよりはセクハラ野郎扱いされるほうがマシかな。セクハラだの変態だの連呼されるなかでボウと考える。
「待たせましたか」
遠くから流れてきた声音に場の空気が静まり返った。
No.9 凍結 2010/05/28 00:36:34 削除依頼
一拍おいてから、微かにざわめく音が聞こえる。人の声だと判別がつかないぐらいの小さな音で、しかしざわざわと動揺している様子が聞き取れた。ウキに向ける嘲るようなからかうような嬌声とは全く違う、こちらに向かって歩いてくる男性への憧憬とも慕情とも取れぬような幼い好意が詰まった響きだ。こうまで差をつけられると同じ男として劣等感を煽られる。だからとっとと帰って欲しかったのに――そうは思うものの、彼女らの目的が自分の待ち人である彼に会う事だと知っていればこそすぐに抱いた劣等感を胸の奥にしまいこむことが出来た。
「氷渡先生、昨日あげたクッキー食べてくれましたか?」
淡く恥じらいの灯る笑みで、少女のうちの一人が氷渡に語りかける。
ピクリと眉が動いた。ウキは其の僅かな仕草で氷渡が少女から貰ったクッキーのことを今の今まで忘れていたのだろうことに気付く。多分彼の散らかった教員デスクの何処かで書類の海に埋もれているに違いない。平教員であるからしてそうデスクワークが多いわけではないが、氷渡の授業は小テストが多いので有名なのだった。ついでに片付けられない男であることも有名だが、其れは其れで母性本能をくすぐられるのよねーなんて彼の顔しか見ていない女子が最もらしく言っていたりする。この世は不公平だ。もし自分と氷渡の顔が入れ替わったなら、女子は自分の事をうんこのうーちゃんなどとは呼ばなかっただろう。ウキ君は神経質なのよね(はぁと)なんて言って庇ってくれたに違いない。嗚呼女なんて女なんて。
No.10 凍結 2010/05/28 01:06:13 削除依頼
「浮雲さん、あの」 氷渡がウキを呼んだ。
ウキが一人でブツブツと世界人口の約半分を呪っている間に女子と氷渡の間では話が終わっていたらしい。というより氷渡が強引に終わらせたんだろう。食べてもいないクッキーの感想など言えるわけがない。氷渡はそういう男だ。
実直で誠実で下らない嘘がつけない代わりに時々自分達の想像も及ばないような事を口走る。顔を抜きにしても彼が女子達にモテるのも分かる気がした。男も女もミステリアスな人物に得も言われぬ魅力を感じるのだという。女子の人気が高い氷渡は当然彼の授業で出される大量の小テストも関係して男子に好かれる教員ではないが、そう嫌われているわけでもないらしかった。不思議である。
反応を返すのが遅れたからか「あの」ともう一度。労わるように氷渡の手がウキの肩に添えられる。労われるようなことはした覚えがないが、そんな事に関わらず彼はいつ如何なる時も宝物に触れるような慎重さでウキに触れようとする。
だから女子達を帰らせたかったのに。ウキは諦めが混じる言葉を心中で呟く。
「待たせましたか」
ぼーっとしているウキを引き戻すように、ウキの視界に自分が映っている事を確かめるように、先ほどと同じ問いが落とされた。
No.12 凍結 2010/05/28 01:26:18 削除依頼
自分を覗きこんで、真っすぐに目を見てくる氷渡。ウキは彼のかけている、スチール製の100均ででも売っているような有り触れた型のメガネを見つめた。
「保住達との話は終わったんですか? ――終わったん?」
先ほどから遠巻きに自分と氷渡を眺めている彼女達を見やれば、既にスクールバッグを肩にかけていて、寄せ集めの椅子もきちんと元の座席へ戻されていた。
「はい、終わりました」 速答。
「いやさ、え、保住達は良い」 良いの? と言うより先にコクリと頷かれ、氷渡の視線がそちらに向けられると同時に彼女らは教室から出て行った。
パタパタと軽い足音が遠ざかっていくにつれ、教室の静寂さが強まっていく。
「浮雲さん、何の御用でしょうか」
「あ、え?」 ハッと氷渡を見上げる。慌てていたから、ばっちり視線がかちあってしまった。日本名に合わないブルーグレーの瞳がウキを凝視している。
「お待たせしてしまって申し訳ありませんでした。今年度は火曜の6時限目にも授業がはいってまして、急な用事でなければ私から伺ったのですが」
ウキが言うべき用件を手繰り寄せている間に氷渡は淡々と言葉を続けていた。
「ああ、あのさ」
「なんでしょうか」
そんなにじっと見られると話しにくいんだけど。そう言うのも気まずい気がして、ウキはゆらゆらと視線を泳がせながら口を開いた。
「もううちに来ないで欲しいんだ」
No.13 凍結 2010/05/28 01:41:04 削除依頼
沈黙が満ちる。
シンと静まり返ったきり、もう5分ほども誰も声を発していなかった。
氷渡は相変わらず感情の読めない瞳でウキを見つめている。
ウキはウキで、氷渡と視線が合わないよう、自然に逸らせるよう西日で真っ赤に染まった窓を眺めてみたりと気まずい空気を緩和させるべく苦心していた。
同時にもっとまともな言い方もあっただろうにと先の言葉を後悔してもいる。
あれでは、まるで、恋人に別れを告げるような台詞ではないか。
うああああ! と羞恥で床を転げ回りたくなる感情を押さえて、ウキは夕日がきれいだな―なんて台詞を心中で呟いている。
なんでもいいから早く返事をくれとウキは切に望んでいた。しかしそう望んで既に7分近くが経過している。このままでは夢の二ケタにも到達するだろう。
仕方がないとゴニョゴニョ、ほらーとかあのさーなんて言ってみる。多分氷渡には聞こえなかっただろう。とはいえ彼を正気に戻す効果はあったらしかった。
「命令ですか?」 淡々とした声音で、感情の変化は見られない。
「えーと……まあ、そういうことです」
「分かりました。他になにか用はありますか」
「いや、ありません」
それだけのためにお手数をかけました、とウキが軽く頭を下げる。
No.14 凍結 2010/05/28 23:54:07 削除依頼
こんなに呆気なく自分の願いを聞き入れてくれるとは思わなかった。再び満ちる沈黙のなかで、今度はもう其の気まずさを如何こうしようと苦心していないウキはそう考える。もっと縋るように自分の願いを突っぱねるのではないか――望みを口にした瞬間、僅かにそう思っていた自分がとても愚かしく思えた。
本当は最初からこうなるだろうとは分かっていたのだ。分かっていたなら、放課後に待ち合わせをする意味などなかった。こんなたった三言で終わることのために氷渡を待つ理由など何処にも存在しはしない。今朝に彼を捕まえた廊下の片隅で喧騒に紛らせながら終わらせてしまえば良い、そんな下らない用件だった。
そうなのだと自覚した途端に胸の内から溢れる黒いものが気道に触手を這わしはじめる。ウキは空白の表情で自分の指を、否指の向こうにある何かを見つめた。
幼さなのか、女色なのか、どちらにせよ少年のものと言うには数拍の躊躇いが生じるだろうぼやけた印象の容貌からは完全に感情が抜け落ちている。
ウキは頭を下げたまま浅く俯いていたが、彼の表情は氷渡の目にも映っていた。映ってはいる。映っているものの、氷渡はウキを宥めるでも場の空気を盛り上げるでもなくじっとウキを見つめているだけだった。
一分後、ようやっと氷渡は固い表情を動かして呟く。
「浮雲さん」
ピクリとウキの体が揺らいだのが、肩に添えたままの指先から伝わった。興奮しきった犬を宥めるような優しい手つきでウキの背に掌を滑らせる。其れでも声音は硬質で、其の容貌も氷のように冷たく怜悧に頑ななままだった。
「貴方が宜しければ――」
前置き。ウキはボンヤリ、遥か遠くの祭囃子に耳を傾けるように聞いていた。
「宜しければ、貴方の許しなく屋敷に伺わない代わりに、私に敬語を使うのを止めて下さい」
全くもって馬鹿馬鹿しい、馬鹿げている。ウキは他人ごと染みた感想を浮かべた。
No.15 凍結 2010/05/29 00:04:06 削除依頼
氷渡はウキに逆らわない。ウキに従順であるし、ウキの望まない事をしようとはしない。氷渡自身がウキにそう誓っている。事あるごとに彼は其の誓いを更新する。貴方の意思に忠実でいます。誠実でいます。そう続けて幾度も口にする約束。
オレは約束が嫌いだ。そう口走った翌日から口にされなくなった約束。
馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい、とウキは口腔内で反芻する。
「ああ、うん」
わかった。じゃあ帰る。じゃあまた明日な。
何の深い意味もなく、ただ体裁だけを考えて使っていた敬語を取り下げるのはそう難しい事ではなかった。寧ろ平均的男子学生なウキとしては例え教師相手であるとはいえ、使いなれない敬語を無理に使い続けるよりはタメ口を利くほうがずっと容易なのである。氷渡は其れを知っているのだろうか? 多分、知ってるだろう。
01:等価交換の貧乏くじ
***
No.16 凍結 2010/05/30 18:50:48 削除依頼
「お前ってさ、ホモなの?」
「……誰の入れ知恵?」
ズッ、ズズッ。パックを凹ませて口をすぼめた少年はウキの問いに答えようとはしない。困ったようにうろうろと空中を彷徨う視線がウキの右隣を歩く、涼しい顔で自分達のやりとりを眺めている少年を掠めた。その視線の動きだけで問いの答えとするには十分だったのだろう、ウキは僅かに眉を顰めると溜息をついた。
「ユウタさ、篠原のどこがいいの?」
数日前の放課後の教室、氷渡にきゃあきゃあとはしゃいでいた少女の輪郭をなぞる。嫌いでも好きでもないし、彼女の人となりを知っているわけでもない。それでも自分以外の男にああも入れあげる女子と、如何して付き合っていたいのかと思う。ミーハーな篠原と大人びたユウタとが恋人同士であるのは不思議なことだ。
「ホモは言う事が違うな」
くしゃりとユウタが笑う。
「ホモじゃねえよ」
子供だなと哂われているようで、不機嫌が増したウキが視線を逸らした。
「え。違うの?」
「ちげーよ馬鹿アキラ」
逸らした先でかちあった、きょとんとしているアキラの顔にグーパンを叩きこむ。正式名称を高明信二と言う彼はその騙され易さ故に"馬鹿アキラ信じるな"と言う長いあだ名がついている。略して馬鹿アキラ・アキラと皆から呼ばれていた。
No.18 凍結 2010/06/02 20:01:41 削除依頼
「ホモでもオレ全然気にしないけどな」
アキラはそう呟きながら、空になった紙パックをぎゅっと握り潰すとポケットにしまいこんだ。アキラはゴミをゴミ箱に捨てるという行為を滅多に行わない。そのずぼらさに相応しく彼の血液型はO型だ。どうも最近では血液型占いは丸きり嘘っぱちだとうのが定説となりつつあるが、この友人を見ている限りではそう誰にでも少しは当てはまる可能性のあることを並べただけの適当でもないんじゃないかとウキは思う。少なくともウキもユウタも鞄の中にカビの生えたパンは入ってない。
元々から潔癖症の嫌いがあるウキがアキラの世話係となったのも自然な流れであった。ブツブツと小言を溢れさせつつアキラのポケットから紙パックを抜き取る。数メートル先にあるロッカーの影にあるゴミ箱へ早足で向かった。
「オレは嫌かな……友達に尻を狙われたりとか」
のんびりとしたユウタの声が自分の背を追いかけてくる。
あんまりな言い様にウキの顔が険しくなった。振り向いて精一杯の低い声。
「しねーよ。するにしても加山とか狙うっつーの馬鹿」
加山ことかっちゃんは野球部エースの、絵に描いたようなイケメンである。あだ名の由来など言う必要もないだろう。ウキと同じちゃん付けあだ名であろうと其の待遇の差は天と地ほどもある。ほんとに、ほんとに女子って……。
「なにそのリアルな例」
「落ちつけ、オレはいつでもウキの理解者であるように努めたい」
「はいはい希望的観測希望的観測」
友達がホモ扱いされていると言うのに全く親身になってくれない薄情者二人を置き去りにウキはザカザカと廊下を急ぐ。チラと時計を見ると遂に駆けだした。
No.19 凍結 2010/06/02 20:19:26 削除依頼
「つか何でそんな急いでるん? またトイレ?」
走ると先生に叱られんぞとぼやく二人もウキに合わせて走っていた。ウキが呼吸を乱しているのに比べると二人は肺活量に余裕があるらしく、口やかましい。
「いい加減お前男子トイレアレルギー治せよ。其の内あだ名のグレードがうんこ大魔神からお漏らし大魔神に昇格するぞ」
「うるさい黙れ」
「図星か」 伺うようにアキラ。
「図星だな」 こっくりと断定するユウタ。
ゼエゼエと息も絶え絶え、今にも酸欠で倒れそうなウキと反対に走れば走るほど活き活きしているようにすら見えるユウタとアキラ。たらたら歩いていた時にウキにぎゃあぎゃあと騒がれた仕返しのつもりかピッタリとウキの横に貼りついて言葉を続ける。三人が話している(一人は一方的に聞いているだけ)内容を一言に纏めてしまえば排泄物となるが二人ともウキとは小学校の頃から同じ学区なのでウキのトラウマについてはよくよく知っている。ついでに言えば二人とも大小の違いはあれど漏らした経験があるためウキ本人に会う前から比較的"うんこ大魔神"に同情的であった。仲良くなってから其の事を知ったウキが「オレは漏らしてはいない、大のトイレに入っただけだ」と言い張ったために友情が壊れかけたこともあるけれど、良い排泄物フレンズだとクラス中から生温かい視線で見守られている。
No.20 凍結 2010/06/02 20:58:18 削除依頼
完全に失速し、ついでに着陸にも失敗したウキが廊下にへばりついている。リノリウムの床に倒れ込んで、見ているこちらのほうが苦しくなるような深い呼吸を繰り返していた。其れをアキラが助け起こす。
運動神経は悪いわ、背は低いわ、体重は軽いわ、病弱だわ――その上童顔。
女顔だというのならまだ笑える余地があったかもしれない。しかしウキの容貌は女とも男ともつかなかった。良く言えば中庸の神々しさとでも言うのか、一方で未知のものに対する警戒心と恐怖をも煽るような顔立ちをしている。
無理に彼と似ている容貌を探すのだとすれば誰もが真っ先に産婦人科を訪ねただろう。ウキの容貌は人としての自覚が目覚める前の、何も知らないあどけない赤子の印象に似ている。大人とか子供とか以前に人としても未熟な雰囲気を纏っていた。それはどこか恐ろしくもあるし、特別を羨むこの世代特有の嫉妬を煽られもする。それがうんこのおかげで、小中と不登校を貫き通した大馬鹿というレッテルのおかげで本来なら其の容貌と纏う空気に向けられただろう妬み嫉みも薄まっているのだ。
そんなことも知らずに、自分の体質も容貌も気にかけずぐったりとアキラに寄りかかっているウキに手を貸して立たせる。分かってはいたが、全体重を掛けられても本当に踏ん張っているのかと思うほどに軽い。あーありがととフラフラ歩き始めたウキの後も追わずに、ユウタは先の感触を思い出すようにグーパーと手を動かした。思考は纏まらない。数メートル離れて、ようやっとユウタは二人の背に走り出した。幸いなことに速度はカタツムリにも劣るほどだったのですぐ追いついた。
「でもほんと、17歳にもなって昇格とか嫌だろ? オレらだってお前学校こなくなったらヤだしさ」
追いつきぎわ、左腕でウキの首を絞めるようにドンと抱きついた。
ウキがよろける。
No.21 凍結 2010/06/02 21:18:38 削除依頼
「何ならお前がトイレ行く時オレらが入口見張っててやるし」
グイと反対からウキの腕を引っ張って支えてくれるアキラがケラケラ笑う。
「……良い噂になるだろうな。うんこ大魔神の手下A、Bがあらわれた」
「オレ、ヒャド系効きにくい設定ね」
「じゃあオレは必ず先制攻撃してくる嫌な設定」
「も、だいじょぶ。――お前ら相手とか誰でもレベル99扱いだろ」
どーも。だるそうに呟きながらウキは一人で歩きだす。勿論歩みはのろい。
「ウキに言われるとか屈辱以外の何物でもないな」
「いやいや、いざとなったらうんこ投げるし勇者とかイチコロだろ」
「こないだ中学生にカツアゲされてイチコロ状態にされてたの、もう忘れたのか」 冷たい視線を投げかけられたアキラがワッと泣き真似をして掌で顔を覆う。
「凄い傷ついた……」
「ウキ、責任とってアキラと結婚しろよな……」
「高校生なんだからもっと持ってるだろジャンプしてみろっとか言われる全財産が26円の馬鹿とは死んでも結婚したくない」
「今は2000円あるし……」
「知るか」
ペッとひややかに言い捨てるウキの腕にアキラがしがみ付く。こんなとこ見られたら――否見られたからオレがホモだなんて噂が立つんだ。やや元気が戻ってきたらしくそう喚くウキの口をユウタがため息混じりに自分の掌でふさいだ。
「まあとりあえず漏らす前にうんこ行こうぜ」
「そんなに必死になるとかうんこ以外ありえないよな」
「違う」 ベリっとユウタの掌を剥がしたウキが血走った瞳で二人を睨む。
「じゃ何」
無言。
No.23 凍結 2010/06/03 20:44:43 削除依頼
「信じろよ」
ユウタがニヤニヤとウキの肩を叩く。
「オレらはうんこに結ばれた排泄物フレンズだろ?」
「全く情けなくて涙が出るねっ」
「待て、オレは小のほうだ」
「どっちも同じだろ。つかそもそもオレは漏らしたわけじゃな――」
「だめえ! キンブオブウンコのうーちゃんがウンコを否定しないで!」
――いし。今度はアキラに口を塞がれた。何々と楽しげに、若干の嗜虐性のこもった声音で吐けと強要してくる。離してくれなきゃ話すことも出来ない。否、こう思えば手を離した時に言うべきだとか、手を離して欲しければ言えだとか、なんやかやと屁理屈でもって攻められそうだ。酸欠気味の頭がいつも以上に空回る。ぐるぐると訳の分からない理論が充満しきったらしきところで、ペロンと解放された。
「うーちゃん、どしたん」
言ってもこの悩みが解決されるわけでも同情してくれるわけでもない。
「授業中に書いてた手紙を……」
あとは野となれ山となれ。うーちゃんは隠し事も下手くそだった。要領が悪いと言うことだろう。要領が良ければきっと上手い事大のトイレに入ることが出来たのかもしれない。そう考えるとうーちゃんはうーちゃんだからうーちゃんなのだと言う事も出来る。そう言えるからといって、ウキは要領が悪いから馬鹿げたあだ名をつけられたのだと言う方がずっと手っ取り早く、分かりやすいのだけれど。
微かな戸惑いが手を伸ばしてウキの言葉を捕まえている。そのささやかなる抵抗もアキラの「手紙を?」という相槌のような請求の声によって遂に崩された。
パクパク。数秒の空白の後に絞り出される――手紙を、手紙を。
「トムヤムクンに、没収、された」
No.24 凍結 2010/06/03 23:54:17 削除依頼
「トムヤムクンに?」
「富田か」
富田は別にタイに親類縁者がいるわけでも、そちらの国の方々を思わせる面立ちをしているわけでもない。最初はトムという至極真っ当な略名だったのが、其れだけでは寂しかろうという多大なる余計なお世話によりトムヤムクンに昇格した。
「そういえば三限のときになんか騒がしかったな」
窓辺の最後尾という素晴らしい席を手に入れたユウタはさり気ない自慢を織り交ぜてくる。グースカ寝ていたユウタは怒られず、確かに内職はしていたもののきちんとノートも取っていた自分だけが如何して怒られるのかとウキは思った。
「で、なん、あーあれか」
「あの手紙ね」
「時代錯誤も甚だしいあのこっぱずかしい恋文」
「もしくは自分の年齢を弁えないポエム」
「または常時アドレナリン大放出感謝祭状態なラブレター」
「大変だな」
「お悔やみ申し上げます」
二人してペコリペコリとウキに頭を下げる。其の掌はお手ての皺と皺をあわせてウキの不幸せは二人の幸せです状態になっていた。
「今頃晒し者かあ」
ヒュウと吹けもしない口笛を吹こうとするアキラ。
「今度はうんこ大魔神ザ・ムービー茶色い恋の季節とか言われちゃうんだなあ」
しみじみと苛立たしくなるほどの憐憫を瞳に込めるユウタ。
「他人ごとだと思って……」
ここまで友達がいのない人間もそうはいるまい。ウキは左手首の腕時計に視線を滑らせると再び走り出した。リミットまではあと僅かだが目的地までも僅かだ。
「兎に角、職員会議終わる前にとっとととり返すぞ」
No.25 凍結 2010/06/04 00:18:22 削除依頼
「そうだよな、うんこも恋をするんだねとか言われるの嫌だもんね」
「オレはお前と友達でいる現実のほうが嫌だ」
「よーし職員室まで走ろうぜユウタ!」
「任しとけアキラ、手に入れた手紙の内容は日直日誌に書き込むべきだよな」
ハハハ。明るく朗らかに走るべく床を蹴ろうとした二人の肩をウキが掴む。
「陸上のエース二人が友達とかオレすげえ幸せもんだよな……」
「分かってくれたか」
「嬉しいよオレ」
「分かったからとっとと手紙とってこいっ」
思い切りアキラの足を蹴った瞬間ロングホームルームの始まりを知らせる鐘が鳴り響いた。まさかロングホームルームの時間まで自習なんてことはないだろう。
ウキが床に膝をつく。
「死にたい」
「生きろ」
「トムヤムクンの民度を信じてやろうぜ……」
「そうだよな、幾らなんでも他人の恋路は踏みにじらないだろ」
流石に良心の呵責を感じたらしい二人が必死にウキを慰めはじめた。
「先週ラブレターを掲示板に貼られて以降保健室登校になった女子がいる」
ああ、そりゃ駄目だ。口にしかけた言葉を必死で飲み込む。
「オレはウキの精神力を信じてる」
「うんこが恋をして何が悪いって言ってやろうぜ!!」
「山田くん、練炭持ってきてー」
「おいいいいい! ホイッスルはまだパリの灯が目に映っているうううう!!」
「うるさいだまれ」
廊下のど真ん中で取り込み中の三人の横を、出席簿を脇に締めた教師たちが歩いて行く。さっさとクラスに戻れやらと声を掛けて行くもウキのフリーズが解けない限り教室に戻ることは出来ない。あれやこれやと慰めてみるが、口にする何もかもがウキを慰められないことなどユウタもアキラも嫌になるほど自覚していた。
一体如何すればウキはいつもの憎まれ口を取り戻してくれるのか。浮かばない。
No.26 凍結 2010/06/06 15:40:03 削除依頼
「浮雲さんの字ですよね」
するりと便箋を持った手がウキの前に差し出された。
「え、あ……」
「そうですよね」
自分がウキの書いた文字を見間違うはずがないという自信に満ちた声音で、しかしウキに押し付けようとしない。氷渡は床に膝をつき、じっと手を差し出したまま動かない。そして今日もまた真っすぐにウキの瞳を見つめているだろう。氷渡の足元を見ているウキはやはり視線をあげることを躊躇った。
「あー、う、うん」
あからさまに戸惑いまじりの返事を呟くと、ウキは視線を落としたまま手紙を受け取った。ウキがしっかりと便箋を掴むまで氷渡は手を離さなかった。
「先生イッケメーン」
「先生カッコイイ!!」
ユウタとアキラが冷やかしにも似た称賛を浴びせかける。
「そういうものはあまり公の場でしたためないほうがよいと思われます」
二人のことなど歯牙にもかけず、ウキだけを見つめて淡々と続ける。校則だとか学生なんだからとかそう言うこととは全く無関係だと言う口ぶりで続ける。あとで面倒くさいことになるのはウキなのだから、やめなさいと言いたげな口ぶりで。
「わかった、えと、ありがとう」
受け取ってからふと気付く。
「中、見た?」
「誰のものか分からなくて」
あんまりに静かに言うので、恥ずかしいとすら思えなかった。掲示板に張り出されてしまうかもと絶望していたのに比べればマシだからというよりは、相手が氷渡だからなのだろう。自分に関心を持っていない相手に何を思うでもない。
思う、でもないのだが――。
No.27 凍結 2010/06/07 23:27:18 削除依頼
何故こんなに親切にしてくれる氷渡から好意を感じ取れないのだろう。
自分が冷たいからなのか? いや、まさか……でも、そうなのかもしれない。
「おホモだちって奴か」
アキラの声で我に返った。
「まあオレらはおしりの心配をしなくてすむわけだし、マジ応援する……」
「やめろ」
からかう声音でウキに話しかけてくるユウタの頭をパシンと殴った。
「オレはノーマルなんだよ。おっぱいが好きなの。くびれが好きなの」
「廊下で叫ぶ内容じゃねえぞ」
「わかったわかった。お前はおっぱいが好きでおっぱいと文通してるんだな」
「違う! この人は別にそんな……」
「貧乳か?」
「黙れ」
自分の片思い相手を愚弄する気かとウキが珍しくも凄む。
ウキがしっかと握る便箋の宛先である少女は、おっぱいだとか貧乳だとかそういう下賤な話題とは縁遠い人なのだ。狂信者の其れにも似た声音でウキが語りはじめた。アキラとユウタはチクワ耳をフル起動させて無関係な考え事をしている。
内容など聞くまでもない。時代錯誤も甚だしくこっぱずかしい惚気に自分の年齢を弁えないポエムを絡め、垂れ流し状態のアドレナリンで整えたような話だ。地球が滅びウキと二人きりになってしまい、孤独を感じていようと聞く必要などない。そもそもにして其の片思いの君の手さえ見た事がない癖して、自分達抜きで進めているロングホームルームのことを思えば文句の一つも言いたくなるものだ。アキラとユウタがウンザリしてから3分が経過した頃ウキの惚気がやっと終わった。
「わっかんねー奴」
「……片思いの君が?」
お前の方がよっぽど分からないよと言いたげな視線を向けるユウタに、小首を傾げた。
No.29 凍結 2010/06/08 03:35:59 削除依頼
「いや、氷渡」
「お前の脳内を一回覗いてみたいな」
すっとんきょんなことしか言わないアキラまでがしみじみとそう言うので流石のウキも気まずい気持ちを噛み締める。片思いの君から氷渡の話題へと繋がった理由を説明出来ないではなかったが、二人に其の理由を話すのは躊躇われた。
「あー、まあ」
ユウタがもういない背を探して、ついと曲がり角を見やる。シンと静まりかえった廊下と壁一枚隔てた向こうからざわざわと落ちつかない音が漏れていた。心当たりがあったら手を挙げろ、皆伏せて、張り上げた声が聞こえる。ロングホームルームに出なくて良かったかもしれない。否面倒なことになるだろうか。
「お前色々考えすぎじゃね? あいつすげえ淡泊じゃん」
「そ、うなのかな」
「そーかもね」
アキラが肩を竦めた。馬鹿野郎お前に比べりゃ誰だって賢者だ。
「お前神経質すぎる。オレにしてみりゃあいつはただのとうへんぼくだね」
「そうか?」
「そう。んで、オレはああいう奴嫌い」
にへら。笑みにそぐわない台詞すぎて、ウキは耳を疑った。
おいおい冗談はやめろよ。お、と掠れた声が喉をせりあがると同時。
「お前騙され易いから言ってんだぞ」
ユウタが冷めた視線でウキを射抜いていた。
No.30 凍結 2010/06/08 22:33:38 削除依頼
「オレの叔父さんもな、あいつみたいに実直で誠実な奴だったよ」
「あ……」
『オレ? オレんち母子家庭だから』
ユウタの父親は弟の借金の連帯保証人になって以後何処かへ消えてしまったと言う。弟の残した莫大な借金を背負って何処へ消えたのか。ユウタは父親のことでとりみだす様子を見せないし、其の母親も日々の暮らしのためにきちんと雑事をこなしていてそんな悪夢を背負っていることはおくびにも出さない。
父親がもう何年もいないのに残されているスペースと、ユウタが懸命に走る姿だけが其の喪失を思い起こさせた。
ユウタが氷渡に対してどんな思いを抱いているのかは分からない。其れでも確かにすっかり気を許してしまうのは、あまり良いことではないだろうと納得する。
「ちゃんとしろよ」
――お前、家長なんだからさ。ポスンと頭を撫でられた。
三人の共通点:トイレ関係でのトラウマ的思い出がある。
追加:両親のいずれか、もしくは両方がが欠けている。
アキラの家は父子家庭、ユウタの家は母子家庭、そしてウキは天涯孤独だ。
ユウタの言う事が正しい。夕暮れの迫る廊下でウキはボンヤリと年上のように見える友人を眺めていた。
02:繋がるいと
***
No.31 凍結 2010/06/10 19:06:53 削除依頼
家長、ねえ。
ウキはごろんと布団の上に寝転びながら、ユウタの台詞を思い出していた。
言いたいことは分かるが台詞として使うには珍しい言葉だ。否母と自分と妹という家族構成であるユウタなら兎も角、今更守るべき親族が誰もいないウキにはいささか実感のわきにくい言葉であるようにも感じていた。
祖父は疾うに亡く、ウキの母もウキが産まれるのと入れ替わりに死んだと聞いているし、父も物心つく前に交通事故で死んでしまったらしい。ウキにとって家族と言えるような存在は祖母一人きりだ。しかしそんな祖母も一年前の春に逝ってしまった。
親戚がいるとも聞いたことはない。事実祖母の死に莫大な遺産が降ってわいたにも関わらず葬式はおろか遺書の公開日にさえ誰一人邸を訪れる人はいなかった。
その時のウキは引きこもりであったし、学校に行かなくなってから自然と外にも出なくなったので学校外の知り合いもいなかったのだ。丁度中学も卒業した春で、高校に入学する前の春だったから教師たちもこなかった。
孫もこうであったし、祖母も活発に誰かと交流するような性質ではなかったから、寂しい葬式になるだろうことは前々から分かっていたに違いない。
結局家に長くからいるお手伝いさんが唯一の参列者だったが、葬式の手はずを整えたのが彼女であることを考えると、参列者はゼロだったと言うべきだろう。
No.32 凍結 2010/06/10 19:14:20 削除依頼
今は昼間お手伝いさんが通ってきてくれているものの、ウキが帰宅してすぐ帰るか、もしくは帰宅すると既にいないことが多いので殆ど一人暮らしだ。
それで家長と言われても、実感はあまり湧かない。頼るべき家族はいないんだからちゃんとしないとなぁと思いはしても、家長なんだからとは思えない。
まあ意味はないんだろう。ユウタは自分が母子家庭で「家長としてきちんと妹と母親を守らないと」と思っているからついそれをウキに強いてしまっただけだ。
「ちゃんとしないと、か……」
あのタイミングで言われたのは、やはり氷渡に気をつけろという意味なのだろうか。
氷渡は教師であるし、男同士であるし、何を考えているか分からない点以外では特に気にする必要はないと思っている。まあ怪しいと思わないでもないが、今更何が無くなっても気にしない。土地の権利も遺産も骨董品もウキには無関係である。
No.34 凍結 2010/06/10 19:15:27 削除依頼
氷渡がウキの邸を訪れたのは祖母が死んでからひと月ほど経った日のことだ。
高校の入学式はとっくに終わっていて、お手伝いさんに高校に行ったら如何かと仄めかされたものの入学式から数日経つとウキが一日中家にいるのは暗黙の了解となった。例年通りお手伝いさんが学校の指定教科書をウキに渡してくれて、ウキはそれを見ながら自力で勉強を進めていく。大学に行く気があるわけではなかったが、遊びに行くでも趣味があるでもないので勉強以外することがなかったのだ。
既に不登校も六年目に突入していると復帰を促しにくる教員もいない。元々ウキの家は地元では名の知れた地主の家であったし、成績も良かったので義務教育の中学までは出席の有無に関わらず卒業扱いにしてくれた。流石に高校は通わないといけないかなあ、いっそ通信にしてしまうかなあ、でも手続きのみで入学出来たぐらいだし裏金使えばなんとか進級出来るかなあ。テレビのみの知識でぐだぐだと考え、やはり学校に行かないと駄目だろうなと思い始めたもののもう五年も日の光を浴びていないと外に出ることすら億劫であった。幸いなことに遺産はあるし、引きこもりのまま一生涯を終えようかとすら考えていた。今思えばおぞましい考えだ。
お手伝いさんに案内された氷渡がウキの部屋の襖を開けたのはそんな時だった。
No.35 凍結 2010/06/10 19:16:39 削除依頼
『うきふね――浮舟さんですか』
髪は伸びっぱなし、流行りの服も知らず興味もないから祖母の形見の着物をだらしなく羽織って寝転んでいる。前もって男子生徒であると知らされていた氷渡が言葉を失ったのも仕方のない格好だったと、未だに思い出すのも恥ずかしい。
自分の教え子の格好を見て絶句していたのだろう氷渡を見て、ウキはと言えばああやはり学校にいかないと進級するのは難しいのだろうなと納得していた。この五年間で訪ねてくる者など教員以外にいなかったため、ウキは氷渡が教員であることに名乗られる前から気付いていた。フリーズから復活した氷渡が自己紹介すると、ウキは開口一番『最低出席日数を教えてください』と言った。
『……学校に通いましょう』
『毎日ですか』
『毎日です』
『はあ』
特に行きたくない理由はない。周囲からはうんこがトラウマで引きこもっていると思われていたが、ウキ自身は学校に通うことになるまでそう思われていたことを知らなかった。寧ろウキが引きこもっていた何よりの理由は祖母が学校に行くなと言ったからである。理由は知らないが、まあウキ自身特に行きたい理由もなかったので祖母の言いつけに従っていただけだ。その祖母が亡き今は行かない理由がない。
一応高校ぐらいは卒業しておこうか。したいこともないし。ぼんやりそう思ったウキを氷渡はじっと見つめていた。出されたお茶を挟んで向かい合って座り、不意に湯呑みが倒れた。あっと思った瞬間とっさに浮いた手を冷たい手が握っていた。
『私は貴方のご先祖に恩があります』
No.36 凍結 2010/06/10 19:19:14 削除依頼
お茶が倒れましたよ。拭きましょうよ。そう言う隙もないほどに、氷渡がじっとウキの瞳を覗き込んでいた。あー綺麗な色してんなあ。ハーフかなあ。そう考えた。
名前の響きは明らかに和名なのだが、ダークブルーの瞳の色に全く違和感を感じさせない洋風の顔立ちであった。
『ごせん……あの、それは先生のご先祖様がということですか』
『ええ』
どこの時代劇だ。そう言いたいが、確かに自分の家はそこそこ名家であるし、相手は真剣だし、そういうこともあるのかもしれない。後にユウタとアキラにそう言ってみたら訝しげに『それ間違いなくなんかの詐欺だろ』と言われたがこの時のウキは氷渡の真面目な面持ちと声音にそういうもんなのかななんて納得していた。
『学校側としては出席日数が足りなくても如何にかすると言ってますが、私としては今後のことを考えるときちんと毎日出席したほうが良いと思います』
『はあ、まあそうですね』
じわじわりとお茶が畳に吸い込まれていく。
『あの』
『何でしょう』
『先生は、どうして敬語なんですか。癖ですか』
小学校とテレビでの知識しかないが教師が生徒に敬語を使うというのは、あまり見かけない光景だと思った。
『貴方の先祖に』
『ああ、はあ、わかりました』
遮ってしまった。
『そうですか』
しかし気にしている風でもなかった。
なんだかロボットのような人だな。真面目で淡々としていて、表情が硬い人。ウキが氷渡に会った日に抱いたイメージは一年後の今も変わっていない。
No.37 凍結 2010/06/10 19:20:01 削除依頼
『明日から待ってます』
『あー』
一応制服の注文も済ませてある。遂に卒業するその日まで着ることがなく、ただの装飾品になり下がってしまった学ランの隣に吊る下がっているブレザーをチラリと見て氷渡が呟いた。
『それとも迎えに参りましょうか』
『ああ、じゃあお願いします』
そういや学校までの道のりすら知らない。ウキは素直にそう頼んだ。不登校児のお迎えに来る教師、そう珍しいことでもないだろうと思ったからだ。
この日氷渡と交わした会話がウキが学校に復帰する切欠であった。
学校に通うようになって、アキラやユウタと仲良くなれたのを思えば氷渡には感謝している。理由が電波だろうとなんだろうと、殆ど学校から見捨てられたウキを迎えに来てくれたのは教職員として褒められるべき事に違いない。
No.41 凍結 2010/06/10 20:33:29 削除依頼
とはいえ復帰してからもう一年が経つのに、未だに毎朝迎えに来るのは行き過ぎている気がしないでもない。
否十全に行き過ぎているか――他の生徒のことは出席番号でしか呼ばないのに、自分のことだけ下の名前で呼ぶことからもそれが伺える。
なのに何故相応の好意が表情に表れないのだろう。何かしらの特別ではあるのだろうとは思うが、その特別というのが好意的なものなのかと思うと首を捻るばかりである。生徒の内で特別であろうが、好意的に思っているかまではわからない。
ひょっとすると先祖云々というのは全て嘘で、引きこもりキングとしてあることないこと言われていた自分をなんとか学校に引きずり出すための台詞だったんだろうか。そうすれば、如何して先祖云々言いだしたかはさておき、緊張するか混乱するかしていたのだと片付けることができる。敬語――のことはよくわからないが、先祖云々なんて訳のわからないウソをついてしまったばかりに、その収集方法が分からなくて戸惑っているだけなのかもしれない。となれば氷渡は多少感情の露出が薄いだけの、教師としての使命感篤い教師の鑑である。
そうすれば好意が見えないのも理解できた。氷渡にとってのウキは自分が学校復帰させることに成功しただけの、個人的にはなんの興味もない単なる生徒ということになる。特別扱いされているのはまた不登校になられては堪らないという、腫れものに触るような心持ち故だろう。好意を感じられない理由に納得がゆく。
ピンポン。
少し寂しい気もするが、これが一番自然な理由だろう――ピンポン。
ピン、ポン。ピン――――ポン。ピンピンピンポン。ピンポン。ピンポーン。
「うっさい!」
No.42 凍結 2010/06/10 20:34:20 削除依頼
跳ね起きる。はっと薄暗い部屋のなか、手探りで目ざまし時計を手繰り寄せた。深夜1時。草木も眠る丑三つ時には少し早いが深夜である。
ピンポン。もう一度呼び鈴が鳴らされた。ウキの部屋が入口に近いとはいえ、夜だからかよく響く。ご近所さんというものもいないので近所迷惑云々は気にしなくてよいが、ピンポンピンポン五月蠅いなかでもう一度眠りにつける自信もない。
ウキは座椅子の背もたれに掛けられた着物を羽織ると玄関へ向かった。
ピンピンポン。ピンピンピンピンピンポン。幽霊という線も考えなくはないが、幽霊はこんなふざけた音を出さないだろう。アキラかユウタか、先月の頭に肝試ししようぜウキんちで! とか馬鹿げたことを言いながら深夜の邸を訪ねてきたのを思えば幽霊よりも馬鹿な友人たちの特攻である可能性のほうが高かった。
ピンピンピンポン。ピンピンポン。ピンポピン。ポンの音は二回出せません。
「はいはい、今出るって……近所迷惑ならぬ大体オレ迷惑なんだよ」
ささくれ立った声音で文句を紡ぎながら引き戸を出て、黒々とそびえる門の閂を外すか外さないか、ギイという傾ぐ音と共に青い瞳が視界に飛び込んできた。
「ハルはいるか」
夜分遅くに申し訳ありませんでも、お手数お掛け致しましたでも、こんばんはでもない。最近の若い子は……自分もまだまだ若く未成年ではあるが相手が自分より年下そうなのを良いことにウキはそう毒づいた。そして同時に表札に祖母の名を刻んだままだったなと思いだす。近々自分の名前に変えなくては。
No.43 凍結 2010/06/11 22:33:23 削除依頼
呆気に取られ、反応が鈍いウキに少女の眉間が寄せられる。
「ハルはいるか」
「はる……」 二度目の問いにもおうむ返し。
祖母に異人さんの、それもこんなに若い知り合いがいたとは驚きだ。目の前で自分を見上げる如何にも勝気そうな少女と、口数が少なく大人しかった祖母との接点が全く思い浮かばずに混乱する。そもそもにして寝起きであるし、元々頭の回転が速い方でもない。ウキが返事に窮するのも仕方のないことだと言えた。しかし少女はそんなことを推し量る義理はないと言いたげに性急な響きでもってウキを押しのける。
ドンとウキの肩を突き飛ばした。
「ハルに用がある。あがるぞ」
その華奢な体躯からは想像もできないほどの強引さだった。ポカンとしているウキを突き飛ばすと、スタスタと速足で辿りついた玄関口でローファーを脱ぎ散らかす。
「おい、ちょ」 慌てて追いかけ、我が物顔で不法侵入かます少女の肩を掴んだ。
「話が通じないのでは埒が明かない」
振り向いた少女の表情は不可解極まると言いたげなものだった。
「埒があかねぇのはこっちだよ! 今何時だと思ってんだ」
「時間は関係ない。ハルに用がある」
No.44 凍結 2010/06/12 23:00:07 削除依頼
知るか、そんなもの。この深夜に人の家を訪ねておいて、すまなそうな素振りを見せるでもなくなんだその態度は。子供だからってなんでも許されるわけじゃないんだぞ、ちょっと可愛いからって、ちょっとすらっとした華奢な体躯だからって、ちょっと睫毛がバサバサに多いからって、ちょっと眼が人より大きくて青に美しく澄んでいるからって、日本人の誰しもが外人にコンプレックスを持っているわけじゃないんだからな!! 日本語を話すのは誉めてやるけど、わかったら出て行け! さもなきゃ警察を呼ぶぞ――そう怒鳴りつけることは終ぞ叶わなかった。
「なんなんだよ……」
ウキはくしゃりと前髪をかきあげると、ぐったりと床に倒れ伏している少女の傍らに膝をついた。すぐ脇にあるウキの自室から洩れる灯りが彼女の繊細な容貌に映えている。
少女は、ついの刹那までこちらを睨んでいたというのにあっと言う暇もなく、まるきり電源を落とされた人形のように軽やかに音もなく崩れ落ちてしまったのだ。バタンともドシンとも音はしなかった。ふうわり、全く人に正確に伝えやすいことこの上ない倒れ方をしたのだった。美少女だと倒れ方まで人と違うのだろうか――先ほどまでの傲慢な態度の原因がその愛らしさだと思えば倒れ方まで忌々しい。
彼女に好意を抱いているにせよ嫌悪を抱いているにせよ、どちらにせよこのまま放って置くわけにはいかないだろう。ウキはそっと労わるように少女の肩に触れた。
「起きてる?」
返事はない。
聞く前から分り切っていたことだが、最後の希望が潰えた気がした。
痛む額へ自然にそえられていた掌で視界を覆う。掌を滑らせた。
「あー」
このときほどマジシャンになりたいと思ったことはない。
No.45 凍結 2010/06/12 23:56:32 削除依頼
視界のなかでは先ほどと一寸も位置を違えていない少女の寝姿。細い光を浴びた金の髪が滑らかに輝いている。夜に相応しく落ち着いた煌めきを見せる金糸は陽光を吸ったことがないような、ウキはブロイラーの養鶏場を思い出した。あまり運動しないよう真っ暗な部屋に、何百何千羽とぎゅうぎゅうに詰め込まれ、出荷されるその時にしか陽光を見れない鶏たち。自分たちの食卓にあがる鶏肉の多くはこういう人生を送ってきたのだと、そうテレビで流れてからウキは鶏肉を食べなくなった。少女の髪色は美しくて、彼女は自由だ。何故あの鶏たちのことなど思い出すのだろう。
「子どもだし、しゃあないよな」
先ほど言ってやろう、怒鳴りつけてやろうと暗唱した自分の台詞に目を瞑ってウキはそうぼやいた。幾ら夏とはいえ自分より年下の子供を外へ追い出すつもりはない。
そもそも自分には少女を外まで運ぶ体力がないように思えた。
仕方がない。仕方がない。根が善良であると言われるウキはそう繰り返すと、少女の両肩を掴み、上半身だけ浮いた格好で自分の部屋へと引きずり込んだ。
先まで自分が寝そべっていた布団は勿論乱れていたが、見知らぬ少女を眠らせるのにそう失礼なほど汚れているようでもなかったし、来客のない遠江の邸にある来客用布団よりは自分の布団のほうが使える代物であるのは明白だったので躊躇いもせず其処へ少女を横たわらせる。ぴくりと瞼が動いた。
「起きた?」
ゆるゆると、眉間にしわがよる。よもやこれが返事の代りでもあるまい。もしそうなら、そのときは叩き出してやろう。ウキの眉間にもしわがよった。幸いにもというべきか案の定というべきか、起きたわけではないらしかった。
「う……うあ、ぁ」
「え?」
うぅ、と少女の喉から苦しげな声が漏れる。
「うなされ、てる?」
戸惑いがちの疑問に返される言葉はなかった。あっても困るし求めてもいないが。
苦しそうに、悲しそうに、その美しい容貌を歪めて呻いている。
それを尻目に一人寝支度を整えられる人間だったなら、最初から彼女を介抱したりなどしない。
No.46 凍結 2010/06/13 00:06:15 削除依頼
「――きんらんどんすのおびしめて」
きんらんどんすのおびしめて、ねえやはおさとへむかいます。ちいさなおさとへむかいます。しらがのふえたとのさまの、おかおをみあげにまいります。
きんらんどんすのおびしめて、ねえやはいそげどくたびれて、きゃしゃなあしにはとおすぎる。ははそのとちもちかからず、ふたつやまさえにくからじ。
きんらんどんすのおびしめて、ねえやはおかへとまいります。
きんらんどんすのおびしめた、わがこをおかへとうめました。
しらがのふえたととさまが、みおろしねえやをなじります。
きんらんどんすのおびうめて、ねえやはてぶらでかえります。いとしごすてて、ひとつちいさなまがさした。きっとあのこはいきれない。きっとあのこはいきれない。
きんらんどんすのおびふりきって、まがさされたからだではしる。みごとなみごとなおびだった。けれどこにはかえられぬ。かわいいあのこはかえられぬ。
きんらんどんすのおびうめて、ねえやはおにになりました。ねえやはおかをくだります。しらがのふえたとのさまの、さいなむめからのがれよと、ねえやはおわんをなげました。こぼれたあせがあしをおう。
とっぷりくれたおそいあさ、ねえやはあしにかせはめて、おさないあのこがねむるそば。こもりのうたをつむぎます。
きんらんどんすのかせはめて、ねえやはおさないこどもにかたります。
けっきょくのろいはどれなのか、ねえやはポツリといいました。こどもはまだまだゆめのなか。かわいいおまえ、ちいさなおまえ、いずれおまえもおにになる。
のろいはどれかわからない。のろいはどれかわからない。ねえやのかわいいすえむすめ、おまえのふこうがしのびない。のこしておいてくあわれをゆるせ。
まくろいはこのいずこのそとへもゆくでない。きんらんどんすのおびしめたしりょうがおまえをさがしてる。さだめのうたがひびくまでどこのそとへもゆくでない。
ポツ、ポツと途切れがちに歌う。
少女の手をそっと握って思い出し思い出し紡いでゆく。
この歌はいつ聞いたものか――誰が歌ったのだったか――何故忘れていたのか不思議なほど鮮明に記憶が溢れ出す。
うつらうつら。次第にウキは思い出の海の中へ沈んでいった。
*
No.47 凍結 2010/06/13 00:38:35 削除依頼
ああ、またまどろんでしまったのか。そうと気づいたのは誰かの声がしたからだった。もう朝なのか、寝過してしまったのだろう。昨日は深夜に珍客があったからな――そこまで考えたのと、少女の声と、さっと血が引く感覚とは同時だった。
「走れ!」
掛け時計があるはずの場所から月が見える。そして何か、一瞬で何と言えないようなものが月の下にあった。其れが何かじっくり見ようとした瞬間視界が壁に阻まれる。あー走っているのだと、行動から一歩遅れて認識と共に空気が喉に詰まる。
「ハルの部屋は何処だ。其処ならまだ封が残っているだろう」
封て、瓶とかにするものですか。
「いい加減起きろ!」
バチンと頬を叩かれた。文句と疑問と空気とがわれ先にと気道を塞いでいて、少女の質問になど答える隙間がない。ウキは指で祖母の自室の場所を示した。
まるきり足手まといだと思ったとおり、少女に引きずられるように祖母の部屋へと駆け込んだ。パンと勢いよく障子張りの戸を閉め、突き飛ばされたウキは尻もちをついた。見上げた先で何事か呟いていた少女が、すっとウキに向かい合う。
「お前、ホモか」
「死ね」
思わず即答してしまった。
No.48 凍結 2010/06/13 02:34:32 削除依頼
しかし暴言に難色を示すでも文句を言うでも、意図を説明するでもなく矢継ぎ早に質問を浴びせかける。失礼な、と怒鳴りつけたくなるものばかりを。
「誰かに女男と呼ばれたことは」
「な、ね、そんなんない」
「髪を伸ばしていたことは!」
其れが最後の質問であった。そして少女が嘘でもいいから頷けと言わんばかりに美しかった青い目をギラギラさせてウキを睨んでいる。頷くしかなかった。
「それなら……」
グイと胸倉を掴まれた。
「なら手伝え、もっとも手伝わないと死ぬけどな」
そう凄むと少女はまた戸のほうを向き、ブツブツと聞き取りがたい羽音のような言葉を羅列させるのに精を出し始めた。パニックがゆっくりと解けていく。
「お前、何だよ。あれも」
目は覚めていて、少女に引っ叩かれた頬はまだ少し熱を持っている。よっぽど強くたたいたのだろうなと頭のどこかで少し苛立った。その苛立ちがあんまりにリアルだったから、ウキは自分が眠っているわけでもなく、そして現状がそれなりに逼迫しているらしき――少なくともいつも通りではない――ことを理解した。
それでもまだこのときのウキは精々が泥棒か、常識の範囲内に存在する何かが自分の日常に割り込んできたのだろうぐらいにしか考えていなかった。
いや薄々、なんとなく、気づいてはいたのかもしれない。少女の言葉はウキの価値観で計ってみれば滑稽というしかない台詞だったが、嘲う気にはなれなかった。
「悪魔だ」
唇から内臓が零れおちる。
No.49 凍結 2010/06/13 03:16:38 削除依頼
咆哮が思考を貫いていた。まっしろにフェードアウトしてから、ゆっくりと瞳の焦点が戻ってくる。ギリギリと何かが胴体を締め付けていて、腕が焼けたように熱い。視線の先にあるものを焼き尽くすような憎悪を込めた瞳がウキを見上げていた。オレが一体何をしたんだと思ったが、労わるような視線が自分のものと絡む。
何かがオレを掴んでいる。そう気付いた。
「考えるこたァ一緒だなあ」
顔の横にあった黒い影が喋る。傍で聞いているからなのか、地響きが言葉として形を成しているのかと思うほど煩雑でぼうやりと輪郭のない声だった。
月の下にあった鈍い色を発する白、テラテラとどす黒い光沢をのせた草原。口……なのだろうか? ウキの知っている限り、どんな動物のものとも一致しなかった。
頭がガンガンと痛む。それは耳の横でわあわあと騒がれているからなのだと言い切ることは出来ないように思った。
「そうだな」
少女がそう呟く。途端に世界はまた静寂を取り戻した。
なんと言えばいいのだろう。少女は歴史の老教諭のような、壇上にあがった生徒会長のような、シンとしなくてはならないと思わせる雰囲気を纏った声音で話すのだ。
ぎゃあぎゃあと喚いていた何かはウキの鼓膜を攻撃するのを止めた。
「シファ……おめェもわかるだろお。もうオレはウンザリなんだ」
「勿論さオセ」
シファはオセと呼ばれた、ウキを掴んでいる黒い影に同情するように頷く。
「だからここに来たんじゃないか――"東の花嫁"を探しに」
No.51 凍結 2010/06/13 14:12:39 削除依頼
>削除さん
お知り合いの誰かでしょうか(´▽`)コメ有難うございます!
それは……盲点だったぜ……とおもいました>ハルってハルンケア?
私もそろそろ名づけの段階からもう無意識化でシモネタを持ってくるレベルにまで昇格しているんだなと自分の成長を実感できました! 若干複雑!
面白いと言っていただけてとても嬉しいです。
進みが鈍いことに定評がある私ですが、これからも思いだしたときになど覗いていただければ光栄です。ありがとうございました!
No.52 凍結 2010/06/13 17:02:26 削除依頼
「へへぇ、ま、でなきゃこんなところで会わねえよなア」
オセの笑い声に合わせて体が揺れた。一体何が楽しいのだとウキは思う。かれらと自分が同じ空間に存在しているのが不思議なほどかれらの考えること・置かれている状況、何一つ理解できなかった。ジクジクと痛む腕の熱が、これは夢ではないかと逃避しかける頭を辛うじて現実に繋ぎ止めていた。
青い視線がぼうと呆気にとられたまま固まっているウキの表情を掠める。
「其れを離してやれよ」
ぎこちなく肩を竦めてシファが呟いた。
労わるような口ぶりはオセに親しみを覚えているからというよりは、傷んだ動物を興奮させないよう、腫れものに触るかの如き印象だった。
ピンと張った水の染み込んだ紙が渇くに従い縮んでゆく。ゆっくりゆっくりと。
「嫌だね。離してほしきゃ、ハルを引きずりだせ。さもなきゃ喰うぜ」
急速に温度を増した空気のなかで何かが破裂した。
「ケダモノめ」
ギラギラと、既に取り繕うことさえやめたシファがオセをきつく睨んでいる。合間にチラリ、ウキの安否を気遣う視線が向けられていた。
瓦礫の真ん中に佇む、大きな二足歩行の獣のような黒い影。見上げるほど背が高いというではないが、ゆうにシファの二倍はあるだろう。その黒々とした胴体から生えた、ウキの胴体ほどもあるだろう腕が乱暴にウキを掴んでいる。
ウキはぐったりと頭を垂れており、やぶけた着物の左の肩口は鮮血に染まっていた。一刻を争うというほど失血しているわけではないと分かっていても焦る。
「おうとも」
それを見透かすようにオセはどす黒い口を歪めて嗤った。
No.54 凍結 2010/06/14 19:29:49 削除依頼
シファにはウキというアキレス健がある。オセには何もない。
否実際はウキを失うのはオセにとっても大きな痛手になりうるのだが、それを知られるわけにはいかなかった。何故ウキを失う訳にいかないのか――其れは自分が持っているカードの内で何よりも重要なものだとシファは自覚している。
切り札を晒すのは愚かしい行為だ。しかし何らかの情報を差し出さなければウキを殺めるだろう。オセはウキを手にしているという点で圧倒的優位に立っている。
だが幸いにしてというべきか、シファはオセよりも早くこの邸に辿りつくことが出来た。ほんの数時間の差で収穫はまるきりなかったが、オセが自分の知らない情報を握っていると勘違いしていてくれるのだから馬鹿正直にそう言う必要はない。
自分から情報をせしめるためにはウキを殺せないだろう。よくよく考えれば優位に立っているのはこちらだ。オセが“シファが何かを知っている”と思っていてくれる限り。
オセはシファを値踏みするように不躾な視線を向けている。やはり獣かとシファは心中で馬鹿にするような溜め息をついた。駆け引きは望めない。シファがオセを騙すことは出来ても、オセがシファから情報を抜き取ることは出来ないだろう。其れは安心して色々な策を考えられるということでもあったが、同時に感情の爆発で予期せぬ出来事が起きるかもしれない不安をも孕んでいた。
刺激するのは得策ではないと考えたシファはカードを一枚めくることにした。
「私もハルが何処にいるかなんて、」
知らない。そう続けようとしたのをふいに小さな声が遮った。
「ばーさんは死んだ」
ぎょろりと四つ、視線がウキに突き刺さる。
「ばーさんは一年前に死んだ!」
No.55 凍結 2010/06/15 00:36:54 削除依頼
その場にいる誰よりも早く事を起こしたのはシファだった。
鼻の先を掠める熱気と、しわくちゃに歪んだ獣の容貌、浮遊する体。
「馬鹿め、余力を残していないと油断しくさったか」
落ちてきたウキを抱きとめたシファが高らかに哂った。
音としての形を為していない絶叫が響き渡る。青く踊る炎がオセの右半身を包んでいた。箪笥が、襖が、鏡台が、癇癪を起した子供のように畳の上をのた打ち回るオセが瓦礫の山を積み上げてゆく。
シファは茫然と、オセの暴れ様に呆けた表情で見ているウキを床に下ろした。
「遠視の童、大丈夫か」
心配そうでも何でもない、事務的な声音で問われる。
返すべき言葉を探しているうちに、もうシファの意識はウキから外れていた。青い視線を追った先で、獣とも巨人とも言いようのない黒い影のなかにある、ポツポツと血を垂らしたような赤い瞳がウキをねめつけていた。肌が泡立つ。
「遠視……てこたア」
「私達はふりだしに戻ったんだ」
シファは静かに呟いた。それを聞いたオセはあくびをする猫のように、ぐうと背骨をしならせる。足がもつれた。壊れる前は何だったか、ウキはもう原形を留めていない何かに足を取られる。歯医者でかけられる、苦い麻酔が全身に広がるように体が重い。グイとシファが思い切りウキの腕を引いた。
「"東の花嫁"は遠視の者ではなかった!!」
オセの爪がウキの太ももを切り裂く。飛び散る鮮血、響き渡る怒声、音を立てて折れる柱、視界を覆う粉塵――何故、如何して、如何すれば良いのかと混乱し、怯えて震えそうになるなかで腕をぎゅっと握る華奢な手だけが頼りだった。
気付けば何が何だか何も理解しないままウキは自らシファの腕を掴んでいた。
No.56 凍結 2010/06/28 22:51:32 削除依頼
再び二人は廊下を駆ける。オセの叫び声は小さくなり、妥当に遠ざかっているのだということがウキの思考を取り戻した。いつまた耳元であの恐ろしい音が響かないとも知れなかったが、今度はウキも己が走っていることを自覚し、シファの足手まといであろう事実は変わらないにせよ彼女に協力しようという意思が見えた。
「何処かハルが大事にしていた場所はあるか」
怯えるでも怒るでもなく、素っ気ない表情のシファが呟いた。その響きは先程“東の花嫁”と口にしていた少女と同じ人間が口にしているのだとは思えないほど無機質で如何でも良さげなものだった。まるで二人いるようだ――そこでふと思い至った。彼女の掴めなさは氷渡に似ている、と。
その思考は所謂現実逃避というものなのだろう。シファの青い瞳は言葉を纏める時間を与えてくれない。
「く……蔵、裏庭の」ジロリときつく睨まれて口ごもった。
「ほう」
シファがくっと喉の奥で笑みを転がす。どうやら彼女の御気に召す返事だったようだと、不思議にほっとした。妙な安心感だった。
No.62 凍結 2010/06/29 13:50:54 削除依頼
これは信頼というものなのだろうか。つい数時間前に初めて会った、それも得体が知れないばかりか非常識なこの少女への? そもそも彼女の名前がシファだということは知っているが、未だに彼女はウキに名乗ることさえしていないのである。そんな怪しさの塊のような相手を信頼しているかもしれないなどと、これが噂のつり橋効果という奴なのだろう。少し冷静になれば、この少女が自分を害さない確証がないことぐらい気付ける。しかし、一人ではあの化け物に対処することが出来ないから、だから共にいる――それだけ、それだけなのだ。まだ混乱は静まらない。今のウキに出来るのはこれ以上混乱が思考を蝕まぬよう皮膚を伝う血の速度に、冷えて行く足の温度を忘れることだけだった。幸いと言うべきか肩の怪我は然程でもない。心臓より上の位置だからだろうかとテレビでみた救急看護の知識を掘り起こす。とはいえ早く手当てか、止血だけでもしなければ動けなくなる。恐らくに今動けているのは興奮しているからで、興奮が静まると同時に気絶するに違いない。
救急セットはどこにあっただろう、庭の傍にはなにがあったか、紐で止血を。
「どこへ」ぶりかえした混乱のせいで愚かしくも答えを知っている問いを呟いたウキの口のなかに赤い味が広がった。シファの白い指が唇にねじ込まれている。咄嗟に噛みかけたのをシファの鋭い視線で威嚇された。
「飲め」
「ぐ」歩みが止まる。
うめき声と共に舌の上に溢れる血がコポと泡になり、弾けた。じわりと味蕾に滲む鉄の臭いへ嘔吐きたくなる。涙が頬を伝う前にシファがずいと顔を近づけた。その強い炎を宿した瞳がウキの拒絶を非難している。
「お前がやるんだ」飲むんだと鼻をつままれ、口に突っ込まれた指で気道も塞がれる。飲むほかなかった。いつあの化け物が来るか考えれば、風が吹くままにされている場所で立ち止まっているのはあまりにも恐ろしかったのだ。
「こちらだな」
喉の奥まで指を突っ込まれたせいか幾度も咳を繰り返すウキを突き飛ばし、シファはストンと縁側から飛び降りた。そのまま余裕のある足取りで蔵に近づく。
No.63 凍結 2010/06/29 13:51:23 削除依頼
幸いと言うべきなのかシファの訪問からずっと家の鍵は持ったままだ。表情のみで急かすシファに従い、口元を押さえながらウキも蔵へと縁側を降りる。
ウキは手首でジャラリと揺れる鍵の束を外すと、錠に差し込もうとした。が、鍵の先が穴に入らず、カチカチとやたらめったら穴のすぐ横を突く。そっとウキの手に華奢な手のひらが添えられた。
「あれのことだ。あと十数分は癇癪を鎮められないだろうよ」添えられた手は月明かりによく照らせば美しいだけでなく、傷だらけだった。
カチリ。鍵が解ける。重い扉をシファがあけると予想に反して埃の臭いは全くしなかった。代わりに民族料理屋から漂うようなキツイ香りが溢れだす。
「祭儀の場だな。入るのは初めてか?」
まあ私も初めてだけれどもな。親しみの満ちた響きにも気付かずウキは蔵のなかを見つめていた。暮らし慣れた家にこんな場所があるとは思いもよらなかったのだ。多分何処かに仕舞われたのだろうと無関心でいた季節外れの、見慣れた物達の奥へ青い畳が見える。其の上にしかれた赤い座布団の上に丸い鏡が置かれていた。
「ハルは遠視の女ではあったが、その力は微々たるものだったからな」
「……さっきから、トオミってなんだよ。うちはトオトウミだ」
「あぁ、家名ぐらいは聞かずとも知っている」
No.64 凍結 2010/06/29 13:51:50 削除依頼
シファが扉を閉め、閂をかけた。そうか、ここは鍵が二つあるんだった。内から閉める木製の閂と外から掛ける鉄製の重い錠前、両方を解かなければ扉は開かない。そして片方でも閉まっていれば開かない。幼い頃、祖母に酷く叱られた思い出が蘇る。蔵の中に入ってみたいと駄々をこね、適当にあしらう祖母とお手伝いさんに痺れを切らしたウキは正面玄関にある鍵をくすねて蔵の鍵を開けたのだ。否正確に言えば、掛けたのだろう。幾度鍵を回しても、当然内で閂をかけられていれば開くはずもない。結局飽きたウキは鍵を閉めたか開けたかさえも忘れて何処かへ遊びに行ってしまったのである。鍵を持ったままで――家に帰ったウキを待っていたのは般若と化したお手伝いさんと銅で出来た重い扉の向こうで怒り狂う祖母だった。閉じ込められたことだけではなく、ウキが蔵へ興味を持ったことへの叱責をも貰った。酷く折檻されたのだろう、でなければ今まで其の事を忘れているはずがない。思い出した途端亡き祖母への罪悪感からぶわっと脂汗が噴き出してきた。
「その反応を見る限りでは本当に何も知らないのか」
「何も、って」
「別に私とて全て知っているわけではない」
ふんと鼻で笑った。ウキの無知を嘲笑っているというより、呆れているらしかった。自分に? 否、自分を通り越して、自分の後ろにいる誰かに。
視線を外し、今となってはこの蔵のなかにあるのが不釣り合いなほどにウキの知っている日常の一部を拾い上げて手持無沙汰に弄る。カチリと眩しい光がウキを照らし出した。懐中電灯の背後にいても青い瞳は影にくすまない。
「私たちは利害が一致しているとは思わないか」
お前が――お前がやるんだ、お前が。
歌が聞こえる。
No.65 凍結 2010/06/29 13:52:16 削除依頼
祖母が歌う。病床のなか、白い布団に白い肌どんどん沈んでいきそうな祖母の手をとって、傍らに座っていた。掠れた声が紡ぐ歌詞に怯えたのはいつまでの事だろう。姉やの可愛い末娘、お前の不幸が忍びない。掠れた声に呆れた声で返す。またその歌か。オレはもうおとぎ話なんかに怯える年じゃないよ。祖母は歌うのを止めない。病気が脳にまで達したか、と。そんなはずはないのに臓腑からざわざわとせりあがってくる恐怖を己で茶化した。遺しておいてく憐れを許せ。祖母が歌う。仕方ないじゃないかと返す。ばあちゃんはオレよりずっと年上なんだから、仕方ないことだ。そう返す。返してからふと気付いた、知っている歌詞は疾うに尽きているのだと。真黒い匣のいずこの外へもゆくでない。祖母は天井の向こうにあるあの世を見つめながら歌う。真黒いはこ、そんなのは前聞いたときにはなかった歌詞だ。前、多分もうずっと前。うん、聞いてない。つづきとポツリ呟く。あ、そう。続きがあったの。コクリと祖母が頷く。自分を認識してくれていることにほっとした。
『じゃあ、続きを全部思い出すまで逝くなって』うっすらと微笑んだ。
祖母の瞳がぎょろりとウキを捉える。身が竦んだ。でも、笑みを崩さなかった。
『金襴緞子の帯締めた死霊がお前を探してる』
怯えた孫から視線を外さず、瞬き一つせず祖母が歌う。
『さだめの歌が響くまで何処の外へも往くでない』
其れはいつ響くの? "末娘"は、いつまで閉じこもっていればいいの? 凍った頬を懸命に動かして返した。骨ばった祖母の掌がウキの口元に伸びていた。
歌い手はお前なのだよ。
歌はいつしか途切れていた。恐怖を最後の一滴まで絞り出さんと言葉を紡ぐ祖母。冷たい指が唇をなぞる。
『お前が聞かせる相手を選ぶんだ。それまでは、誰にも』
誰にも聞かせてはならぬ。歌ってはならぬ。お前が選ぶんだ、お前が――。
「お前が迎え撃つんだ」
急にクリアになった音へウキははっと面をあげた。
No.66 凍結 2010/06/29 13:52:40 削除依頼
「いつまでも逃げ惑うわけにはゆかない」
シファは思いつめた瞳で扉を見詰めている。と、視線を降ろした。
「これはなんだ?」汚れているからか手を伸ばす気配がない。
「え、あー」
仕方なく彼女に歩み寄り、視線の先にある塩化ビニルの透明な巾着を手に取った。いつの間に仕舞われていたのか、自分は此処に入ったことがないのだから十中八九お手伝いさんが此処に片したのだろう。お手伝いさんは此処で祖母が何をしていたかを知っていたのか。多分に知っていたのに違いない。
「去年の残りだよ……真空パック。湿気るから」
そっけない声音で呟く。
ウキの手の中にある包みをじっと凝視していたかと思うと、シファは笑った。
「あとはお前次第だ」
その響きがあまりに余裕ある勝ち誇ったものだったので思わずウキも笑ってしまった。
*
No.67 凍結 2010/06/29 14:08:13 削除依頼
オセはヒトではない。そして世間一般が知りうるどんな生き物とも種を違えていた。彼がそうであることはきっと誰にでも一目で分かっただろう。何故なら、巨大な獣の風体をしていながら人と同じ二足歩行で移動する姿はまるきり異形だったからだ。
尚且つ彼自身自分が異形であることは重々承知していた。何しろオセがこの世というものを意識しだしてからもう三百年ほどが経つ。彼の体からは地上の全ての動植物に等しく与えられるはずの死が抜け落ちていたのだ。それを異形と言わずに何と言うのだろう。オセは自分は生き物として不完全であると感じていた。
死ぬことがない――自我が生まれた時からずっとそうと理解していたオセは自分が不老不死なのだと言って喜ぶことはなかった。オセのことを知り、恐れずに接する様々な人間の多くは不思議なことにオセの体を素晴らしいと称えたが、オセは微塵もその賞賛に同意することは出来なかった。とはいえ彼らの言うことを否定するではない。前提からして間違っているのだ、とオセは思う。
つまりヒトは生き物として血の通う肉も終わりのある命もその何もかもが完成しているから己を永久に保存しておきたいと考えるのであり、生まれた時から異形として血の通う肉も終わりのある命も持たないオセは己が不完全な生き物を保存したいと思うことはない。この考えはオセのみに限らず、彼の同胞全てに言えただろう。
彼らは、オセ――悪魔――達は己が不完全な存在であることに飽き飽きしていた。
しかし存在し続けることを放棄すれば残る選択肢は消滅でしかなく、肉体は不完全でも精神としては生き物に近かった彼らは消滅を恐れた。
ヒトは普通肉からなる本能と心からなる理性とが複雑に絡み合い、ヒトとしての人格を形成してゆく。しかしオセ達悪魔は肉がない故に本能とは無縁で、その癖心だけはヒトと同等かそれ以上、消滅を理解するには十全な知性があった。
食事をし、肉体を保持し、種を遺さなくてはと望むのを生き物全体に存在する本能の基盤だとすればオセ達悪魔にとっては肉体を得たいという望みが其れにあたるのだろう。肉体を得て、種を遺したい。そうしなくとも永遠を存在し続けられると知っていても彼らは生き物を模倣するのである。生き物を模倣して作られた存在であり、語る言葉・思考・立ち居振る舞いの全てが生き物に依っている故に。
No.68 凍結 2010/06/29 14:10:46 削除依頼
不完全か完全か、そのことを議論する前提として"完全である条件"もしくは"これが完全なものであるという定義"を要する。とあるヒトが己が存在を不完全だと感じようと、必ずしもヒトの全てがそうであると思う訳ではない。一定数のヒトがそう考えようと、己が存在は完全であると感じるものが一定数が同時に存在するのである。
それは何故なのか。恐らくに"完全である条件"・"これが完全なものであるという定義"が個々の価値観によって揺れ動くからなのだろう。ヒトは――生き物というのは何処から来て何処へ往くのか、その問いに対する答えは永久に得られない。命が産まれ、やがて力尽き消えてゆく。其れを説明出来る、誰もが納得する説を語る賢者がいるのならヒトは宗教も信仰も全て手放していたに違いない。
ヒトを含む生き物は全て不明瞭なもので形作られている。
オセ達悪魔はそうではない。己が何処から来て何処へ往くのかを重々承知している。彼らは混沌の闇、虚空より出でてはやがて其処へ帰って往くのだ。そこには神も天使も悪魔もない、魔女の鍋よりも残酷な虚無である。空が青い、花が赤い、彼女は美しい、木々が茂る、車が走る、店が開く――認識することで繋がっていく世界からスッポリと抜け落ちてしまう。抜け落ちてしまえばあとはもう二度と繋がることはない。他者が繋がっていたことを忘れるだけではない、己すら己がいたことを忘れてしまうのだ。それは肉の体を持たない彼らにとって、ヒトが死へ対して思う以上におぞましいことだった。
種を残せるなら子々孫々、種が途絶えるその日まで己の存在は血に刻まれるだろう。肉体を得られたなら、やがて己が体より出でし芽が大樹へとなるだろう。
個が存在し続けることではなく、種として生産し続けることが永遠なのである。
終わりがある代わりに生み出すことが出来る命と終わりのない代わりに生み出すことが出来ない存在。どちらが優れているかは議論する意味すらない。所詮オセ達悪魔達が有限の命を羨むのはそれらの模倣として作られたからなのだ。
時の流れに翻弄される肉体。限りのある命。完全な存在。
それの象徴が"黄金のリンゴ"であった。
No.69 凍結 2010/06/29 14:11:09 削除依頼
『東の花嫁は黄金のリンゴを与えるだろう。』
造物主から悪魔達に送られた最初で、そして恐らくは最期の便りである。
それは"最後の一匹になるまで殺しあえ"と言ったも同然のことだった。
悪魔達はヒト・生き物――完全な存在になりたいのだ。それが本能であり、そのためならばリスクを背負うことを厭わない。どんな逆境でも手を伸ばすことを諦めない。
誰かが黄金のリンゴを得たとして、奪われないと言い切ることが出来るだろうか。得ていなかったとしても、邪魔されぬよう一匹でも多く殺しておきたいと考えるのは自然ななりゆきではなかろうか。現にオセは何匹かの同胞をほふってきた。今も自分の邪魔をするシファを消し去りたくてたまらないのだ。しかし彼女が自分の知らないことを知っているだろうと思うと、自分の苛立ちを鎮める他なかった。
黄金のリンゴが奪われないという保証どころか、それを得るための道筋が些細なことから瓦解しないということも、奪うことが出来るという保証すらないのだから。
慎重に進めてゆくしかない。獲物に忍び寄る蛇よりもずっと静かにする必要があった。オセは少なくとも造物主が遠江の、遠視の娘を東の花嫁と呼んで珍重していたことだけは知っている。それだけで他より抜きんでているのだから、焦る必要はないではないかとくすぶり続ける苛立ちの火種へ囁いた。焦るな、と。
オセはまず第一に作られた悪魔だったので、だからこそ造物主の影響も支配も色濃く受けていて造物主に従順であった故に造物主と遭遇する頻度も高かった。オセ自身も同胞達のなかで一番造物主に要されていると思っていた。
思って、そう思って、思えるほどの時は過ごしたのに主の"特別"はいつまでも遠視。
オセは苦々しく口腔内で呟いた。
No.70 凍結 2010/06/29 14:13:22 削除依頼
いつまでも、永遠に、気がついた時にはもう造物主は遠視の娘を連れていた。
従順なわけでも、悪魔達のように長い時を生きるでもなく、造物主を慕っているでもない。また造物主でさえも遠視の娘達に特別情をかけているというわけでもないようだった。会うたびに変わる遠視の娘達は皆造物主を憎んでいたし、造物主もそれを悲しむでも怒るでもなく如何でも良いと言いたげに無口でいた。オセ達悪魔といる時と同じ無関心な態度のままで、なのに造物主は遠視のそばにいた。どの悪魔とも共におらず、遠江の傍らで暮らしている。利用出来るわけでも、何かが満たされるわけでもない。何故遠視なのか。如何してオレではないのか。
"生き物"になれば造物主の関心が惹けるのだろうか? 遠視が永年いたその場所に今度は己が存在出来るのだろうか? 造物主の思惑がわかるのか?
No.71 凍結 2010/06/29 14:13:44 削除依頼
そう期待していたのに、まさか女が途絶えていたとは。ハルが死んでいたとは。
生き物の死は幾度も見ているが、未だに何年生きればヒトが死ぬのかということには疎い。同時に生殖ということに関しても分からないことだらけだった。
ヒトであれば産まれた子供が男か女かの確立は五分五分でどちらが存在していても可笑しくないと殆どが知っていても、オセはそんなことを知らないのだ。
男物の着物を着ていたあの子供が女か男か、ハルの血縁のものなのかすら知らなかったが、そんなオセにも唯一分かることがある。
あれが東の花嫁へと続く扉への鍵なのだ、と。
そうでなければシファがあれほどまでに固執する意味がない。何よりも"そうでなければ"遠江の邸にいるはずがなかった。女ばかりの遠江の家系には珍しい男の子供。オセに理系知識は全くといってなかったけれど、そもそもにして確立としては同等のはずなのに女ばかりが産まれる遠江の血筋に科学的な知識が然程有効であるはずもない。ひょっとすると本当はそれなりに男も産まれていて、オセが会ったことがないだけという可能性もあった。しかしオセは端からそうと疑いはしなかった。遠江にとって何が特別で何が特別でないか理解出来るほどには遠江を知っているという自負があったからだ。東の花嫁が遠視の娘達のことだと知っていて、遠江の家がある場所も知っていたにも関わらずシファに後れをとったのはそんな油断も関係していた。相手は手負いで、魔力も涸れている。先の炎が最後っ屁だろう。
シファをほふれば後はあの子供から東の花嫁について知っていることを洗いざらい吐かせるだけだ。東の花嫁が何処の誰のことなのかすら分かっていないものが多いなかで、あとは手負いのシファさえいなくなればもうオセを阻むものはない。
No.72 凍結 2010/06/29 14:21:27 削除依頼
二人の臭いを辿り、オセはじゃらじゃらと玉砂利を響かせて蔵へと歩く。
ゆっくりと、もはや補食される運命を待つだけで絶望しきった獲物を怯えさせるように"オレはここにいるぞお。お前達を殺してやるぞお"と主張しながら一歩一歩確実に二人の潜んでいる蔵へと進めていく。石垣造りの古びて頑丈な蔵の、銅製の青く錆びた扉には錠が掛けられていたが、そんなのはオセの腕力の前には紙のようなものだ。オセは扉の取っ手を思い切り引い――瞬間ドンと足元が爆ぜた。不意を突かれたのに戸惑い、力の込め方を誤った故に取っ手だけが壊れた。扉はオセの前に悠然と佇んでいる。火薬の焦げる臭いがツンと鼻先に匂った。
なんというささやかな抵抗、なんという憐れなことだろう。オセはシファに同情した。悪魔として"生き物"でいない、不完全な存在である代わりに与えられた魔力すらもはや満足に使えず、ヒトの道具に頼らなければ爆発ひとつ起こせない。そして今から遺体さえ、記憶さえ、輪廻さえ奪われた時計のない闇に落ちてゆくのだ。自分とて数歩間違えればシファと同じ道を辿るやもしれない。それを思えば同情せずにはいられなかったし、こんな惨めな最期を迎えなければならないのかと自覚すれば尚更こうはなりたくない・黄金のリンゴが欲しいという感情が湧いてきた。
オセは扉を隆々とした腕でガンと殴りつける。蝶つがいが傾ぐ音が響いた。殴った拍子に出来た隙間に手をいて、ねじ切る。とうとう二人を守る盾は失せたのだ――と、ボソボソ、何か声が聞こえた。シファのものではない、あの子供の命乞いだろうか。シファがとうとう悪あがきを止めたのだという安堵がオセを包んだ。あの子供は、遠視の者でさえなければ殺さずにいてやっても良い。
油断と怯え、恐怖、高揚。そんな一寸の感情の揺れが隙を招くのだろう。 果たしてそれは命乞いではなかった。
「十とや、豊旗御旗の朝日影いよいよ隈無し君が代の――」
漆喰と土煙の向こうから震える歌声が漏れてくる。ウキが扉の前に立ち、オセを見上げていた。シファがウキに覆いかぶさり、腕を繰っていた。
ピッと人差し指と中指で空を十字に切る。ウキの黒い瞳がオセを映し出していた。抜かったと気付くより、ウキが呪を唱え終わるほうが早かった。
「燃し尽くせ《火界呪》!」伸ばした腕はウキに届かない。
オセを中心に青い火柱が立ち上った。
No.73 凍結 2010/07/10 23:47:14 削除依頼
黄金のリンゴを手にしていたつもりでいたオセに、神経を限界まで尖らせて反撃の機を狙ていたシファ。
彼の最大の誤算はシファの《契約条件》を思い出さなかったことだった。
ゆらゆらと炎のなかで蠢くオセを火芯代わりに、火柱が夜空を青白く照らす。
何事か叫んだと思しきうめき声も幾度か響いたが音は炎の壁に阻まれくぐもりウキの耳に辿りつくことはなかった。そしてそれで良かったのだろうと思う。今自分が何をしたのか、其の理由も過程も結果も何一つウキの知り得ぬものであるべきだった。このままずっと頭に靄がかかったままでいれば良いのにとすら思っていた。ウキは確実に自分が置かれた状況を理解することを拒んだのだ。
拒んでいたのだ――拒んでいたのに。
「運が良かったな」耳朶をくすぐるように囁かれた。
「今のは……あいつ……オレ」
シファに支えられ、脱力しきった体を動かそうと腹筋に力をいれた。オセが来る前に止血だけは施したとはいえ、元々健康とは程遠い。疾うに限界は越えていた。
オレ、オレと三度ばかり反芻。
「オレは、あれを殺したのか?」
「いいや」ようやっと口にした疑問をシファは一拍も置かずに否定した。
ずるずる。ウキの体はその意思に逆らい弛緩してゆく。
「消しただけ……あるべき場所に戻っただけさ」
ポツリ呟いた。それはウキの耳に入ることはなく、ウキの体はぐったりとシファに預けられていた。失神したか、眠ったか。シファはウキの服を肌蹴させると傷に指を這わせた。遠江の男たちの特質のことも考えたが、とりあえず手伝いの者が来るまで布団に寝かせておくだけでよいだろうと思考を進めてゆく。
兎に角布団に寝かせようと思いついたところでふと寝入りばなに聞いた歌を思い出した。歌詞はどうだったか。金襴緞子の帯締めて――ぱっと浮かんでくる。勿論歌声も滑らかに滑りだしてくるものと思っていた。
No.74 凍結 2010/07/10 23:47:24 削除依頼
「――ぁ」
歌えない。
漏れたのは戸惑いの満ちた掠れ声だけで、声に出そうとすると思考が真白に染まるのであった。シファは顔を歪める。そういうことを予想しなかったわけではない。だが実際にハルがウキを守るために仕組んだ罠にまんまと嵌まった事を思えば、快い気分になれるはずもないだろう。
ハルは分かっていたのだ。シファがウキを利用しようと、悪魔達がやがては遠江に群がることを、その時ウキが一人でいることを知っていたのだ。
「なら何故、この童に何も教えなかった?」
能力を持たない、ただでさえ無防備な遠江の男に情報という武器さえ与えなかった罪は重すぎやしないか。シファは少し青ざめてはいるものの穏やかに眠るウキの容貌を視線でなぞった。
「お前の殺した弟に似ているな」
シファはそう、どこかにいるはずのハルへ語りかけた。
03:主人の不在
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