2009-03-08 「臆病さ」の背後にみえる「恋愛の規範性」

- 本当のところこの21世紀に起こっているのは、リスクが可視化されたことによって、男性の側に自己防衛する選択肢が与えられた、ということだと思う。
- つまり、「異性に対して積極的でない男性」の次の一手は、虚勢を張ったり「自分は優しすぎるから」などとエゴイズムを正当化したりすることではなく、「勇気を持たないのは正しいリスク低減である!」と言うことだと思うのだよね。
- 男女交際の社会的リスクはまず3点。民事訴訟の対象となるリスク、刑事訴訟の対象となるリスク、社会的信用を失墜させるリスク。これらのリスクが後期近代において可視化されたことにより、「積極的に異性に働きかけない」という形でのリスクヘッジも可能となった。これが欧米とかだと"rule girls"みたいな形で現れる。これは保険や「リスク分散型商品」が流行るのと同じ理屈。
ネタバレしますと、昨日の「異性に対して積極的でない男性」についてのエントリーの裏の意図は本田透とか精神論タイプの非モテ論をDisりたいという部分にありまして、「真実の愛が」とか「非モテこそが本当に女性に優しいのに」とかいう話は、まさしく20世紀末の恋愛至上主義の生んだアダバナではないか、と思うんですね。どうして彼らはああもマッチョイズムを批判しつつ、自分の臆病さは糊塗しようとするのかと、臆病さを糊塗するのはマッチョイズムのはじまりじゃないかと思うんです。
(中略)自分の場合「女の子が怖いんですよね。なんか喋ってても酷い失言とかしちゃわないかと思うので……」というようなことを、多少なりともカミングアウトするようにしたら、男女交際の話題が出るような会話でもそこそこに、緊張しないで済むようになりました。リスクは二つあって、一つは社会的なもの、もう一つは(男性本人の)心理的なものですね。ただ、この二つの線引きは勘違いすると大変なことになるし、社会的なリスクの方を侵すのは危険が大きすぎる。だから、社会的に何が本当のアウトなのか、というのは今後明文化・可視化されていくだろうし、「臆病系男子」にとってはそういう社会のほうが(必要以上にリスクに怯えなくて良い分)生きやすくなるだろう、と思うのです。
まず「(恋愛や性愛関係に対して)臆病であることは悪くない、むしろ合理的である」という視点、特に「なぜ臆病になるのか」に関しての分析はこれまであまりなかったのではないかと思いますので、その点ではなかなか面白い考察だと思うんですね。似たような視点の考察としては、私の知る限りでは鳥山仁氏の乱交パーティのリスクについての考察があるくらいです。
ただ、視点は面白いし、本田透氏のような「真実の愛が」とか「非モテこそが本当に女性に優しいのに」という類の非モテ論については同感なんですが、肝心の「なぜ臆病になるのか」という分析にはあまり説得力を感じませんでした。転叫院氏の分析は「恋愛や性愛に対して臆病である」ことに対して合理的な説明をつけようとしすぎているきらいがあるように思えます。恐怖や嫌悪感というのは、必ずしも合理的に説明のつくものではないし、合理的に説明しなければ困るというわけでもありません。
この転叫院氏の記事は一般論としてではなく、転叫院氏自身の恋愛観・性愛観が強く滲み出た「語り」として読むのが妥当だと思います。その上で、「臆病であること」や「恋愛関係」そのものについて、もう少し深く突っ込んで考えてみたいと思います。
転叫院氏は最初の記事で「恋愛の社会的リスク」を三つに分けて述べておられますが、これらは後の追記記事で簡単に一つにまとめられています。
僕が思うのは、せっかく可視化されたのだから、その「臆病系男子」にとって生きやすい社会のあり方をガチで模索できないだろうか、ということです。友人に関しては、自分のコンプレックスによるバイアスがかかっているかもしれませんが、異性相手のほうがハラスメントの加害者になってしまうリスクが大きいと思ってます。「異性へのハラスメントの加害者」というのはかなりの社会的リスクだと思いますので。(太字は原文ママ)
私はこの記述に一つの違和感を覚えました。ただ普通に喋っているだけで、「深刻な社会的リスクとなりうるような」致命的な性的ハラスメントになるということが、そんなに起こりうるでしょうか? 確かに、意識していなくても性に関して相手が不快になるようなことを言ってしまうこともあるかもしれません。ですが、注意されても何度も似たような発言を執拗に繰り返したならともかく、指摘されて謝罪した場合、そんなに大きな社会的リスクになるとは思えません。
転叫院氏とは、去年の二月に京都でのシロクマ氏を囲むオフで直接お会いし、お話ししたことがあります。その時の私から見た氏の印象は「非常に気を遣って丁寧な話し方をされる方」というものでした。そのことを考え合わせてみても、やはり「ハラスメントの加害者となってしまうリスク」は取り越し苦労ではないか、と思えてきます。
しかしそもそも、「ハラスメント」は恋愛関係の中で特別起こりやすいというものではありません。性的なハラスメントはヘテロセクシャルの同性間でも起こり得ますし、実際に起こっています(「非モテの苦しみとは何か?」参照)。むしろここは「ハラスメント」だからおかしいのであって、恋愛関係の中で生じやすい別の何かをあてはめて考えた方がいいかもしれません。そうだとすると、転叫院氏の言う「臆病さ」の別の側面が見えてきます。
恋愛関係とは何か、ということを語ろうとすると、すぐさま「恋愛は人によって意味するところが多様だから一概には言えない」という(それ自体は非常に正しい)指摘が飛んできます。ですが、この指摘を無条件に認めてしまうと「恋愛」について何も語れなくなるばかりか、「恋愛関係」と他の「友人関係」などの関係性との区別もつかなくなってしまいます。現実に「恋愛」は「友人」その他の関係性とは明確に区別して使われている以上、「どのように区別されているか」はきちんと考えてみなくてはなりません。
「恋愛」は他の関係性とどのような点で異なるか。それはすなわち、「恋愛関係においては何が許されて、何が許されないのか」という規範性の問題です。重要なものを幾つか挙げてみます。
- ただ一人の相手を特別な相手とし、異なる相手との間で同時進行してはならない。(相互独占規範)
- お互いの弱みや甘えを適度に開示し、また受け入れなければならない。(相互依存規範)
- お互いに「好きであること」を何らかの形で相手に示し続けねばならない。(愛情表現規範)
これらは、友人関係など恋愛以外の関係性では要求されないか、またはあまり重視されない要素です。
このような書き方をすると、まず「『恋愛』とはそんなに狭いものではない」という反論がやってくるでしょう。もちろんその通りで、実際の恋愛関係では二股や不倫もありますし、恋人同士だけどお互いにあまり甘え合わない人達も、愛情表現をあまりしない人達も沢山いるでしょう。しかしながらそれらは「好ましくない恋愛」とか「恋人らしくない」などと見做され、場合によっては「本当の恋愛ではない」などと言われたりします。例えば、「二股」という言葉が好ましくない意味で使われ、「本当の恋愛」からの逸脱と見做され、当人達自身もそのことを了解した上で行動しているということ、それらの状況全体が「相互独占規範」が確固たる規範であることの証明です。
またあるいは、これらの規範性の指摘が「本末転倒だ」という反論があるでしょう。規範があるからそのような行動をとるのではなく、「愛」故に自然とそのような行動として発露するのであり、順序が逆だ、というものです。これも特に否定はしません。愛していれば自然と他の人には目がいかなくなるし、甘えたり甘えさせたくなるし、愛情表現したくなるもの、確かにそうなのでしょう。しかし、あなたにとって仮にそれらが「自然な」ことであったとしても、あなた以外の誰かにとっては、もしかしたらそうではないかもしれません。それでもあなたは言うでしょう。「他の人を同時に好きになるなんて、それは本当に『好き』なんじゃない」「好きだからこそ、甘えたり甘えられたりしたいはず」…と。さらに、それらのセリフがもし、あなたが他の誰かに呼びかけたものではなく、あなたがあなた自身に対して問いかけたものだとしたらどうでしょうか?
話を戻しましょう。「恋愛」を私達が「恋愛」として他の関係性から区別する限り、これらの「規範性」は否応なくまとわりついてきます。これらを明確に意識して初めて「臆病さ」をきちんと捉えることができます。「臆病さ」とは社会的なハラスメントの加害者となってしまうリスクなどではなく、「恋愛の規範性」が暗に要求する「自然な」感情の発露にうまく乗れないことへの恐怖、と考えられます。
別の言い方をすると、「臆病さ」とは「恋愛的相互依存への恐怖」です。恋愛関係の破綻の場面などにおいてよくある「傷つける・傷つく」ことの一つは、「相手が本当は自分を愛していなかった(または愛さなくなった)」という「気付き」です。これは「ハラスメント」ではありませんが、「女の子が怖いんですよね。なんか喋ってても酷い失言とかしちゃわないかと思うので……」という転叫院氏の言葉とよく合います。これは「期待を裏切られた」という「傷つき」ですが、単に期待に反したというだけならそこまで深く傷つくことではなくても、「恋愛の規範性」があるからこそ「自分は愛されていなかった」ということが深刻な「傷つき」になりうる、ということです。(そしてそれは、「恋愛の規範性」があるからこそ「自分は愛されている・愛している」という特別な充実感を得ることができる、ということでもあるんです。)
さて、これらの解釈が正しいとするならば、転叫院氏が引き合いに出した自動車保険のような「恋愛のリスクヘッジ」は残念ながら期待できないことになるでしょう。「愛」とは「自然な感情の発露」であり目的論的に構築されるものであってはならない、ということが「恋愛の規範性」の中には含まれているからです。そして、それらが「規範性」である限り、社会の小集団内で倫理的に糾弾されるような意味でのリスクを避けることは難しいでしょう。
ただ、最初に述べたように、これらが深刻な社会的リスク(訴訟など)に繋がることは(不倫などを別にすれば)あまりないと思いますから、そのあたりは楽観視してもいいんじゃないかな、と個人的には思います。それよりも、ここで述べたような「恋愛の規範性」が、あまりにも自明なものとして「規範」として意識されずにいることの方が、私にとってはずっと重要な問題です。
「臆病であることは悪くない」。全くその通りだと思います。が、問題は自分達の「臆病さ」をいかにして語りうるか、ということだと思うんですね。転叫院氏の記事はそうした「語り」の試みの一つだと思うのですが、最初に述べたように、やはり拙速に整合性を求めすぎていると思えたので、このような解釈を加えてみました。「臆病さ」を名指されている人達自身の「語り」のために、何か示唆になるところがあれば幸いです。
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2009-02-26 「草食系男子」の他称性と差別性

俺にとってセックスって、もう30年近く「自分の薄汚ねえ欲望で女の肉体を汚す行為」でしかなかったんだよ。だから、俺の性欲の対象は、相当に早い時期から二次元にしか向かわなかった。このへん烏蛇さんだったかな、自分の性欲について似たような感覚を持ってた記憶があるんだけど。ついでに言っとくけどなんか更新して烏蛇さん。ずっと待ってるんで。
はい、すみません。 実は久しぶりすぎて、書くことが溜まりに溜まって収拾つかなくなってます。本当なら前回の続きから書くべきだとは思うんですが、どうも今ひとつうまくまとまらないので、ちょっと違う話(でもそこそこ関連性のある話)から先に書いていくことにします。待っておられる方、申し訳ないです…。
さて、今回の本題は、巷でどういうわけか流行りつつあるらしい「草食系男子」という言葉についてです。この言葉を初めて知ったのは、以前取り上げたこともある森岡正博氏のブログで「草食系男子の恋愛学」という著書が紹介されているのを見てからでした。この著書に関しては、以前の議論の巻き直しの意味も含めて改めて検討しますが、今はさしあたり置いておきます。
「草食系男子」なる言葉の初出はおそらく、日経ビジネスオンラインでの深澤真紀氏のコラムだと思われます(引用文中では「草食男子」になっていますが、本文中では「草食系男子」で統一します)。
かつて、男性にとって、恋愛とセックスは「積極的」(ガンガンいく)か、「縁がない」(もてない)かの、大きく2つに分かれていました。
現在U35男子の中には、この2つのパターン以外に新しい人種が誕生しています。
それは恋愛やセックスに「縁がない」わけではないのに「積極的」ではない、「肉」欲に淡々とした「草食男子」です。
彼らのこうした淡々っぷりは、彼らと付き合う人、使う人に、自らの固定観念の根本的な転換を強います。上の世代には存在そのものが信じて貰えなかったりする難易度の高い男子、それが「草食男子」なのです。
深澤氏は、以前はこのような男性は存在自体あるはずがないと思われていたのだが、近年特に目立って増えてきた、と述べています。その真偽はともかくとして、まずはっきりわかるのは、その定義の曖昧さと恣意性です。恋愛とセックスに対し「積極的」か「縁がない」かという好い加減な二分法を用いている時点で、そのことは説明を要しないでしょう。これに限らず深澤氏の「U35男子マーケティング図鑑」のコラムは、どれも概ねこんな感じです。
とはいっても、「定義が曖昧である」というだけで特別何か問題があるわけではありません。定義が曖昧で文脈によって意味を変える言葉などいくらでもあるわけで、何か問題があるとすれば、それはその言葉の使われる文脈の中にあります。
深澤氏はなぜ「草食系男子」という言葉を新たに作り出す必要があったのでしょうか? 恋愛やセックスに対して「積極的な男性もいれば消極的な男性もいる」という前提を氏が持っていたなら、このような新語は必要なかったでしょう。つまり、まず大前提として「男性は恋愛やセックスに対して常に積極的であるはず」という認識が氏にはあるわけです。だからこそ、コラムの中で氏は「草食系男子」に対して色々と分析を試みているんですね。
そして、「草食男子」はそこそこもてるので、恋愛経験もセックス経験もあります。
女子からコクられたり(編注:「告白されたり」の略)、ただの女友達でも飲んだはずみでうっかりHしてしまったり(しかもそのあと気まずくならない)、元カノ(同:以前付き合っていた女性、もと彼女)と久しぶりに会えばこれまた深く考えずにHしたりするので、ちゃんとした彼女がいなくても、恋愛やセックスに困ってもいません。
「草食男子」が増えたもう1つの原因には、アダルトビデオやネットのアダルト情報があります。これが最近では大変充実していますから、性的な関心には、これである程度は対応できる、なんて考えているのです。
(中略)彼らにとって「男女に友情は成立するか」という命題は、ちょっとしたギャグにしか聞こえません。「昔の人はマジでそんなこと思ってたんですか?」とびっくりされてしまいます。
「だって全部の女と恋愛したりするわけないじゃないですか?」と思うのです。
彼らは、異性の友人はおろか、異性の親友もいて、大事な存在なのです。 女子というものが、恋愛やセックスの対象だけではないことを知っているのです。
その半面、ひとりの相手に恋して、徹底的に夢中になることもあまりありません。送り狼にならず、雑魚寝はOK、とは、そういうことです。
ちょっと考えてみれば分かる通り、単に「恋愛やセックスに対して消極的な男性」というだけでこれらの分析があてはまるわけがありません。こうした「分析」は、「男性は恋愛やセックスに本来積極的なはず」であるのに、それがなぜイレギュラーになってしまっているのか?という問いを内包しています。すなわちこれは、未知のものにラベリングして安心を得るための「分析」であり「問い」です。
それ故に、この「問い」の中には「恋愛やセックスに対して消極的な男性は以前から居たのではないか」という視点が十分に省みられず、安易な世代論に還元されてしまっているんですね。
同様の指摘は、Uruchi氏やParsley氏によって既になされています。
恋愛(セックス)に消極的な男の否定的な呼称は「朴念仁」やら「根性なし」から「ヘタレ」「(アニメ)オタク」を経て「草食系男子」に言い換えられようとしているっぽい。別にこのエントリの書き手に恥ずかしくないの?と言いたいわけではないけど、「草食系男子」という言葉には、当然「草食系でない男子」がノーマルであり理想的な存在であるという意味が込められてると思うから、草食系男子=セックスにガツガツしてない男子はアブノーマルであって、新たにカテゴライズされる必要があるっちゅうハナシではないのかな。
で、ですよ。この「草食系男子」という言葉に感じるのは、いかにもコピーライター的なワードですね、と(笑)。
あと、深澤氏や、白河桃子女史のような、60年代生まれバブル経験女性が、ロスジェネ世代以下の男性を分析観察した上で生まれた言葉であり、実際に草食系男子が「ボク草食系なんです!」と自称している言葉ではないということも特徴として挙げられるだろう。つまり、「生きている」言葉ではない。
ここでParsley氏の述べている「自称している言葉ではない」という点が非常に重要であると私は考えます。たとえ似たような人々を指すカテゴリーや言葉であっても、それが「自称」であるか「他称」であるかによって、その「政治的意味」が全く異なってくるからです。
そのような例として、例えば「ゲイ」と「ホモ」や「オカマ」の違いが挙げられます。「ゲイ」が本人達自身による呼称であるのに対し、「ホモ」や「オカマ」はかれらに対する侮蔑語として用いられてきた歴史を持ちます。「歴史を持つ」とは単に過去の経緯のみを指すのではなく、現在に至るまでの、その語が使われてきた文脈の積み重ねを意味します。
こうした言葉は「イレギュラーと見做した相手へのラベリング」を目的に使われるため、名指す側の規範(この場合は、男性は男性的に振る舞い女性を性愛の対象とすべき、といったこと)を揺るがさないように相手に過剰な意味を押し付ける機能を持ちます。例えば、女性的に見える男性を皆「オカマ」と呼び、同性愛的であると決め付ける、といったようなことですね。このような理解は差別的であるだけでなく、事実としても間違っています。
自称としての呼称であっても、あとから外部者によって「ラベリング」され過剰な意味を押し付けられる場合もありますが、他称としての呼称が定義が曖昧で恣意的であれば、そのような「ラベリング」の可能性が高くなる(というか、最初からラベリングを目的として言葉が作られる)と言えるでしょう。
話を元に戻しますと、「草食系男子」という言葉は、まさしくこうしたラベリングのために用いられています。この言葉によって守られているのは「男性は本来、恋愛やセックスに積極的であるはずだ」という規範であり、これはたとえ「草食系男子」を「これまでにない価値観を持つ新人類」というように高く評価する場合でも同じです。
最近で「草食系男子」という言葉をめぐって最も話題になったのは、neji-ko氏のこの記事でした。ここでの話題はあくまで「ふられた相手をネタにした冗談」であり一般論ではありませんが、先に述べた「規範」がわかりやすい形で述べられています。
「でもさーうちらとしては『男はオオカミ!』だと思って育ってきたわけで、いきなりここにてき草食とか言われても困るよね」「大体どうしてこっちが『どうやってホテルに連れ込むか』とか考えなきゃいけないわけ?」「昔の男の子が女の子に『オレンジジュースだよー』てゆってスクリュードライバー飲ませて潰そうとした気持ちがわかるよね」「別にわたし特別セックスが好きだというわけでもなくてただ好きな人とやりたいというごく自然なことを望んでいるだけなのに……」「大体手をつなごうとして拒否されるとかなんなの?処女なの?」「十八十九の処女ならそういう反応もわかるけど三十目前の男がそれって」
この記事が話題になった原因は、一部の人に冗談が冗談として理解されなかったこともあるでしょうが、何よりこの「規範の正当化」の言説にこそあったのだと思います。規範を「自然」だと思い込んでその只中にいると、それが規範であることにすら気付かなくなってしまいますが、その規範から弾き出される人にとってはそうではないのですから。
めびなー
草食系男子になったら、セルラーゼがもりもり出てきました!
本筋とは関係ありませんが、かつて「世界OTOKO紀行」というサイトを開設されていた、ジャックさんのブログが好き過ぎます。
それで、こちらの記事を読み返すたびに、「政治的に正しい呼称の文脈が当事者間で一致していない問題」の呼称を募集中。
http://jack4afric.exblog.jp/8072611
http://jack4afric.exblog.jp/8099424
http://jack4afric.exblog.jp/5654168
http://jack4afric.exblog.jp/7830304
2番目の記事は要するに「クィア」のことじゃないかという人がいそうですが、たとえば「クィアネス」という言葉を
ジャックさんは好まないような気がします。言葉に文脈を感じないんじゃないかと。
crowserpent
>めびなー氏
あい、もしかして誰か指摘する人いるかなーと思ったらやっぱり貴方でしたか。(笑)
「ゲイ」という語がいかにも輸入された言葉であり、しかも政治的な主張を少なからず内包しているということを良く思わない当事者の人達がいるというのはよく理解できます。単なる呼称の問題というよりも、マイノリティのアイデンティティ全般に関わる問題ですね。ここで簡単にコメントするのはちょっと控えておきます(あとで腐女子のアイデンティティ問題とかと絡めてお話したいので)。
めびなー
>マイノリティのアイデンティティ
匠雅音先生のこちらの発言↓ と
ファッシズムの足音 投稿者:たくみ 投稿日:2009年 3月 8日(日)14時56分18秒
我が国のフェミニズムは、自由を求めて、自立へと羽ばたかなかった。フェミニズムは女性を弱者と見なし、女性という弱者の救済を国家に託してしまった。国家と社会の亀裂がおおきく広がり、社会的な不安は国家によって吸いあげられ、透明で清潔な管理社会化がすすんでいる。
清潔な管理社会は息苦しい。そこで、明日への希望を失ってくると、身を捨てて希望の実現をはかろうとする。政治が沈滞し社会不安がますと、何とかその突破口をひらこうと、哀しきテロリズムが横行する。そして、テロルの季節が終わると、待ちかまえているのはファシズムである。
http://9002.teacup.com/tm2290/bbs?OF=10&BD=10&CH=5
2ちゃんねる同性愛板のこちらの発言↓ を
714 :くしこ:2009/05/11(月) 21:49:33 ID:lkyYNQFP
こっちの社会で政治的な傾向が生まれるってことや、
何らかの制度を主張するってことは、
あらゆる利権や権力の侵入や横暴を受け入れる
意思表示をしたってことになるんだけどね。。。
こっちの社会が、どうして政治・宗教・野球をタブーにしてきたのか?
ノンケ社会で利権を肯定してる人や人権運動や政治運動やってた人までもが
そのタブーに対して何故逆らわないどころか、むしろ肯定してきたのか?
ゲイリブの答えによると、それは差別があったからだというのさw
でも、それは実は嘘なんだよね。。。先人達の知恵なのさ。。。
わかりやすくエロゲーで説明するとこうなると思いました!
http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20090612/p1
とりあえず、「差別の内面化」とか「反動形成」とかの便利な言葉はNGワードにしたいと思います!
なお、ゲイ向けアダルトソフトのほとんどはソフ倫にもメディ倫にも加盟していませんが、
パッケージ版はゲイタウンで細々と流通しております(同人DLサイトが押さえられたら、DL版はアウトかもしれません)。
つまり近い将来、辱ゲイマーが辱ゲイタウンに集まって、島宇宙化で宇野さん。
2008-08-05 「恋愛放棄」にまつわる個人的な話

最近更新が滞りがちなのはネタがないのではなくて、書こう書こうと思いつつ、うまくまとまらないままネタばかりが溜まっていっているという状況なんですが、書けるものからぼちぼち消化していきたいと思います。
今回はその、これまで何度も書こうと思いつつ何となく書いてなかった記事の一つ、私自身の「恋愛放棄」についての話です。基本的に自分語りなので、大して面白い話でもないですが、少しばかりお付き合いください。
「恋愛放棄」という言葉は割と非モテ界隈特有の用語かなぁと思っていたんですが、実際にGoogleで検索してみるとそういうわけでもないみたいです。とはいえ、二番目にシロクマ氏のページ、三番目に喪男道と、非モテ関係のページが上位にヒットすることは確かです。
この二つのページを改めて読んでみて印象的だったのは、立場こそ違えどどちらも「恋愛すること」のメリット・デメリットについて語っているということでした。まぁ、「恋愛放棄」という言葉を使う以上、そうなるのは自然だとは思います(私自身も、喪男道に書き込んでいた際には「恋愛放棄」をメリットの問題として語っています)。が、私が最初に「恋愛放棄」を考えたときには、それは単純なメリットやデメリットの問題ではありませんでした。
以前こちらの記事などでちょっと書いたことがありますが、私の小学生時代は一貫して友人関係が極端に乏しく、クラスの中で誰かと話すことすらも滅多にないくらいで、休憩時間は基本的に図書室に入り浸りでした。それほど極端な状況になると、自分がクラス内での「異端」であることが当たり前になってきます。「スクールカースト」という言葉で表されるようなクラス内の人間関係や権力構造にも鈍感になります(考えても意味がないので)。当時のクラスメイトの名前は覚えていても、誰が人気者だったとかいうのは全く分かりません。覚えていないんじゃなくて、もともと意識していなかったし、意識のしようもなかったんですね。
今だからこそこのように整理して語れるわけですが、当時は私は「自分のこと」を語ることができませんでした。コミュニケーションから断絶されているということは、楽しかったとか辛かったとか、そういう感情すら語れないということでもあるのです。当然ながら作文は極端に苦手で、放課後何時間も残されても一行も書けなかったりしたことがよくありました。
唯一自己表現らしいことが出来ていたのは、三歳下の弟との「遊び」においてだけでした。弟と二人で、おもちゃを様々なキャラクターに見立て、手にとって台詞を語らせ、交互にロールプレイをしながら空想物語を作っていくというもので、テレビゲームやアニメ、時には小説などから題材を取っていました。今でも、その空想の世界でのいくつかの固有名詞や設定、出来事などのいくつかを詳細に思い出すことができます。ただ、弟との「遊び」の中での語りでは、私は現実の自分自身を語ることはできませんでした。「遊び」の世界において、私は私でなかったからこそ語れたのでしょう。
ともあれ、コミュニケーションから断絶されていた私にとって、「自分を語れない」ということは他のどんなことよりも決定的でした。自分を語れないということは、確固たるアイデンティティを何も持てないということであり、それは「自分には価値がない」ということと同義でした。もちろん「今から考えれば」そうだったということであり、当時にしてみれば「自分に価値がない」ということは空気のごとく自明のことだったので、特に意識していたわけではなかったのですが。
そんな状態にあって、恋愛するとかしないとかを現実的に考えられるはずもなく、ただ漠然と自分からは遠いものと考えていただけでした。自分にとっての「恋愛」を初めて意識的に考えたのは、中学に上がってしばらく経った頃で、その頃読んでいた一冊の本が原因でした。
中学に上がってから、幸運にも友人と呼べるような同級生に出会い、その友人が社交的な性格だったおかげで、学校でのコミュニケーション断絶状態は小学校に比べると改善されてきていました。相変わらず自分の感情や気持ちを表現することは苦手で、図書室にも入り浸ってはいたものの、それはそれでそういうキャラクターとして認知されつつありました。ただ、「自分を語れない」ということに端を発する「自分には価値がない」という感覚は、まだまだ強く残っていたと思います。
そうした中、中学二年の夏休みに入る頃、母の蔵書の中からたまたま見つけて読み始めたのが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの書いた「第二の性」という本です。これは戦後の女性解放運動の一つのきっかけを作った著作として知られており、フェミニズムをかじった人ならよくご存知でしょう(当時の私はそんなことは知りませんでしたが)。フェミニズムにあまり詳しくない人でも、冒頭の「人は女に生まれない。女になるのだ」という一節はご存知かもしれません。
この本は、「女性の生涯において、女性が置かれている社会状況や抑圧」について中心的に述べています。当時中学生男子であった私がそれのどこに共感したのかといえば、やはり「語れなさ」でした。
女性は一般的に受身で依存的で主体性を欠くと考えられがちだが、そのように見えるのは女性に固有の特性によるのではなく、女性の置かれた「状況」に依るのだ、とボーヴォワールは言います。その「状況」を形作る重要な要素のひとつとして指摘されているのが、「自分の尊厳を他者(男性中心社会)に委ねざるを得ないということ」だったんですね。男性に認められなければ自身の価値=アイデンティティを自分で定められないということ、それはすなわち「自分を語れない」ということと同義です。それはあくまで「女性」について書かれたものではあったものの、自分自身の過去から現在までの「状況」と呼応するものでした。もちろん、最初に読んだ時はそこまで意識していたわけではないのですが、とにかく私は、この本を「自分に対して言われているかのように」読み、そして、本を読んで初めて「自分は何をすればいいのだろう」という掻き立てられるような思いを持ったのでした。
「第二の性」でボーヴォワールは、男女間の恋愛について数多くの事例を扱っていますが、その中にはデートレイプに類するような事例が少なからず出て来ます。「第二の性」に入れ込んでいた当時の私は、それらを女性の側に感情移入して読んでいました。性愛が暴力を伴うことがあることや、女性にとっての異性愛が常に妊娠などの恐怖とともにあることを、肌身に感じるように受け取った私は、本を閉じて「男性」としての立場に立ち戻ったとき、自分がどうしたらいいかを考え、こう結論しました。「これから一切、誰とも性的関係を持たないようにしよう」と。その考えから「恋愛放棄」という考えに至るのは、当時の私には必然のように思われました。
そういうわけで、13歳のとき、私は「恋愛放棄」を一人で心に誓ったわけです。とはいえ、当時の私は、それは特に難しいことでもなんでもないと考えていました。告白などの具体的なリアクションさえ取らなければ、誰かを「好きになる」ことがあったとしてもそれだけに留めておけば、「恋愛関係」を避けて通るのは簡単だと思っていたんですね。
ただ、簡単なことだとは思っていても、それには「自分で自分を規定し直す」という意味があったのではないか、と今では思っています。自分を語れなかった私にとって、それは重要なことだったのでしょう。
その後、中学三年の夏休みに私は「第二の性」をもう一度読み直し、学校の課題だった読書感想文をそれで書きました。それまで作文の類が全く書けなかったのに、その時はすらすらと筆が進んで自分でも驚いたことをよく覚えています。
ずっと後になって、ある女性に自分の恋愛観についてすこし語ったとき、その人から「自分の責任ばかりで、相手の責任を考慮に入れてないんじゃないか」と言われたことがあります。同様の感想を持った方もいらっしゃるかもしれません。13歳当時から私の「恋愛」をめぐる考え方もかなり変わりました。そのことはまた、次の機会に話すことにしたいと思っています。
めびなー
期待していたよりもおたくでも変態でもなくて、がっかりです ><
でも、図書室って結構人がいてうざったくありませんでしたか?
休み時間には抜け穴から脱走。コレ。
crowserpent
そりゃ、めびなーさんに匹敵するような変態さんなんてそうそう居ませんって。(笑)
図書室は学校にも依るかもしれませんね。私の通ってた小学校の図書室は、大抵いつも閑散としてましたよ。
イカフライ
お久しぶりです。
>私の小学生時代は一貫して友人関係が極端に乏しく、クラスの中で誰かと話すことすらも滅多にないくらいで、休憩時間は基本的に図書室に入り浸りでした。
素朴に質問なのですが、そういう状態で、イジメにあったり、先生から目をつけられたり、学校での様子を聞いた親に何か言われたりしなかったのですか?
ていうのは、子供は大人より共同幻想が強いので、みんなと違うことを嫌います。また、教師の側からみれば小学校時代の烏蛇さんのような児童は「協調性の無い子」「クラスになじめない子」とみなされがちです。
私なりに考えられるのは、そういう子(この場合、烏蛇さん)がすごく成績が良い場合ですが。クラスでもトップクラスの成績なら、クラスメイトも「あの子は特別頭が良いから」(自分達と違うから)と、一人の友達とも付き合おうともしなくても別格扱いしてくれるし、大人は言うまでも無くですね。
実際のところは、どうだったんでしょうか?
crowserpent
>イカフライ氏
回答は「両方ともYES」です。いじめに遭ったことも何度かありますし、学校の成績(主要四教科に限って)はトップクラスでした。
担任教師がどのように考えていたのかは分かりません。おそらく、「目をつけられていた」というよりは、クラスで一人孤立していた子どもでしたから、その分気を遣ってくれては居たんじゃないかと思います。(それが却って同級生の反感を買ったという可能性もありますが、何とも言えません。)
めびなー
私の通ってた小学校の図書室は、大抵いつも賑やかでしたよ。2学期前半ぐらいまでは女子が多く、3学期になると男子も越冬のために渡って来てました。声に出して読みたい蔵書No.1、『はだしのゲン』。うわーん うわーん ばかたれっばかたれっ
中学校の図書室は昼休みと放課後に開放していたのですが、昼休みの時間は相変わらずで(メンバーの半数は小学校と同じだから当たり前)、放課後は閑散。
中学一年生の頃の私はなぜか図書委員になってしまい、ある日の放課後、二年生の相方と仕事をしていたところ、私とは面識がない彼女のクラスメートが図書室に現れました。
「あ、○○(クラスメートの名)ー。んと、(こいつは)めびなー君ね。 でも 変 態 だから」
人の性生活は13歳で決定するということで、美しくまとまりました。
私はこの先輩と 男 の話しか記憶がないのですが! くやしいのう
めびなー
私はこの先輩と 男 の話以外した記憶がないのですが!
すみません、脱字してたので訂正。
私の知っている範囲で恋愛放棄者と呼べそうな人々は、どれもレベル7の変態能力者で、現実世界では性行為不可能とか願望を現実にしたら即実刑判決とか、そんな有様なのですが、このエントリーの主旨は普通の人々である烏蛇さんが恋愛放棄という「思想」に至るまで、ということだと思うので別の意味で興味があります。要するに変態として!
crowserpent
オチを期待してる人もおられるみたいですけど、これ以降は時系列で語るつもりは(今のところ)ないですよ。いきなり現代に飛びます。たぶん。
>Masao_hate氏(ブクマコメントより)
>『いくら衝撃的だったとはいえ、13歳のときの決意を未だに実践しているなんて!』
いや、13歳の頃と今とじゃ「恋愛放棄」の意味合いがかなり違うんで、「決意」がそのまま続いてるわけじゃないのです。詳しいことは次の記事で書きますが。
>めびなー氏
>私の知っている範囲で恋愛放棄者と呼べそうな人々は、どれもレベル7の変態能力者で
あ、そうか。変態レベル高すぎて恋愛とかできないよ!って人も確かに居ますよね。完全に失念してました。
というか、めびなーさんの体験談の方が百倍くらい面白そうなんですけど! ブログを閉じてしまわれたのが実に残念です。
nakamurabashi
続きに期待します。
このエントリを読んだ限り、自分の経験と重なる部分があるので、そうした人が「現在」なにを感じているのかには、興味があるところです。
めびなー
変態的恋愛放棄者と政治的思想的恋愛放棄者との間の亀裂が明らかに!
ところでモノバイとポリバイが議論とか煽り合いをする場面に何度か遭遇したことがあるのですが(ヘテロセクシャルやホモセクシャルの人々は何故かバイセクシャルの人々ほどモノポリで議論しないような気が)、ポリガミーの人のお話を聞くと、たとえば
「順位を付けないとかえって付き合ってる相手に悪いと思うから、あえて彼(女)らに序列をつけることにしているんだ」
というような事を言っていて、ボーヴォワールとサルトルが思想とか信条でやっていたこととは相当に違うんだろうなぁと思いました。どっちがいいとかそういう話ではないですが。
あと、変態性の違いによりブログは解散しました!
「ノンケ」と「相互独占」と「合コン」と「周囲で半強制的にくっつけちゃえ」は、どれか1つ欠けてもうまくいかないもんだなあというのが、私の考えなのですが。
こちらの名無しさんの発言を突き詰めるとそうなるらしいよ!
718 :禁断の名無しさん:2008/05/11(日) 01:35:16 ID:sK6OXsyq
同姓婚を導入することの問題点ってなんだろう?
同姓婚自体の問題ではなくて
異性婚でも問題は色々発生してる訳だし
その方向性は男女間のそれとは違うかもしれないけれど
法律が出来たところでゲイ自体の人口が変わるわけじゃないんだから(隠れゲイが表に出てくる可能性は高いけど)出生率にも深刻なダメージは与えないと思う
法律が作られること自体のデメリットがよく分からない
結婚することによる義務がめんどくさいなんてカップルはしなきゃいいだけの話だと思う
結婚願望のあるゲイと無いゲイがカップルになったらめんどい事になりそうだけど、それも男女間では普通にあるしなぁ
って事は結婚制度が無い方が男女間のような障害が少ない分男を見つけやすいって事か?
あ〜確かに男を見つけにくくなるのは大きなデメリットだ…
記事参照そんなに気になりますか(;´∀`) それほど関連性のないとこだったので一応消しときました。
>「ノンケ」と「相互独占」と「合コン」と「周囲で半強制的にくっつけちゃえ」は、どれか1つ欠けてもうまくいかないもんだなあ
ヘテロセクシズムとモノガミズムは切っても切り離せないってことですよね? 関連性は確かにあるとは思うんですけど、うーん、どうかなぁ…。
>ヘテロセクシズムとモノガミズムは切っても切り離せないってことですよね?
そうでもないですね、すみません。「ノンケ」単体は独立していると思いますが、
「ノンケ」+「相互独占」だと「合コン」の数合わせが必要になってきます。
以下、その件について考えた床屋談義理論。
【独女通信】既婚男性は合コンに来るな!
http://news.livedoor.com/article/detail/3464138/
この記事を踏まえて、男好きの男同士が集まって何かするとき(男女合同ではないので何と呼べばいいのか)に、
厳格な数合わせが存在しない理由を考えてみました。というか、考えるまでもないのですが。
・「男女」のような色分けが明確ではない。
ゲイも性的嗜好のレベルでは「○○専」で細分化されていて、タチとかネコとかもあるわけですが、
なぜか、自称若専の男が中年男も良かったとか言い出したり、痔が悪化したのでいつのまにかネコから
タチになっていましたとか、自分はリバですとかで、明確な色分けが意外と難しいです。
なので、多少の調節も可能です。
加えて、男女の場合、その場の人数の半数しか狙えません。
例えば、男性同士6人の場合は、1人の男が狙える男性の数は、5人です。もちろん性的嗜好のレベルでは(以下同上略)
ですが、理屈の上ではそうなります。というか、とりあえず自分以外の男を全員見るでしょう!(ジャックさん風断言)
これが、男性3人と女性3人で計6人の場合は、1人の男性(女性)が狙える女性(男性)の数は、3人です。
このうち1人が既婚だと、狙えるのはたった2人です。真理子さん(仮名・34歳)が怒るのも無理はありません。
もちろん性的嗜好のレベルでは(以下同上略)ですが、嗜好と指向は違うらしく、自称女好きの男が男をお持ち帰りして
男も良かったとか言い出した話はあまり聞きません。私個人的にはアリですが!
>「人数あわせでも、男性陣に既婚者がいるのは、何だか許せない」と話す独女は多い。前出の真理子さんは「なんか、損した気分になる」と素直な気持ちを語る。
紅白戦でありながら、チームの勝利は目指さないというのが合コンなのですよ。よって、紅組の損は白組の得なのです。
同性チームの不備は自分の得だけど、異性チームの平均レベルは底上げして欲しいな! こうして、
同性を棚上げして異性を煽る人たちが増加するのですね! いいぞ ベイベー!!
ここで、「男女同数じゃなくてもいいと思います。(逆)ハーレムでもよろしくてよ!」と真理子さん(仮名・34歳)が
言い出せば、それは相互独占ルールを破ることになるわけです。
関係あるかも知れない記事。
http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/book-2/474-renai_kekkon.htm
http://9002.teacup.com/tm2290/bbs (2月13日以降)
http://aruite5.blog.shinobi.jp/Entry/236/
(ご希望があれば)つづく。
まず、この物言い(https://twitter.com/crowserpent/status/18934798826)は私だけを悪者にしようとしている意図が透けて見えていかがなものかと思います。
これだと私が転叫院を揶揄したから彼が「Twitter・ブログ・HP全削除」したかのように誤解されますし、実際誤解している人が殆どですよね。
ですが実際は違います。
参照:http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:5i9Abb8GPSoJ:d.hatena.ne.jp/tktemp/20100717/1279343849+http://d.hatena.ne.jp/tktemp/&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
このエントリを私が発見して激怒し、コメント欄でのやり取りがあり(キャッシュには残っていませんんがもっと長いやり取りでした)、あとは彼の個人的な事情でブログ等を削除したというのが本当のところです。
ですのであのtweetは削除して訂正をお願いします。もしできないのであれば何故なのか説明してください。
ところで、この記事が転叫院のエントリについてのものなので書いておくと、彼は私にセクハラ的言動をしましたし、だからこそああいう風に書いているのです。初対面や知り合いへの態度と恋人への態度が違うのはよくある話です。
しかし、自分が悪いくせに「男女交際はリスクが高い」だとか「臆病系男子」などと書いているのを見ると、自称非モテってなんなんだろうなと思いますね。