先日、話題になった「お前も戦争に行け論」について、少々思うところがありました。
昨日は、終戦の日で、毎年この時期になると、よくメディアで取り上げられるのが、第二次大戦末期、多くの若い命を散らせた「特攻隊」。
今日も本屋を覗いたら、↓の本が平積みされていました。
http://www.poplar.co.jp/shop/shosai.php?shosekicode=80001550
私は、この手の話を聞いたり読んだりする度に感じるのは、特攻「させられた」兵士達への深い同情と悲しみと同じくらいの、特攻などという非道な戦法を考え実行させた当時の軍幹部達への激しい怒りでした。
そして、恐らくそういった「お偉いさん」達は、自分だけは安全なところに居て、犠牲にする若者達に、「一億特攻の先駆け」と鼓舞し続けたのだろうと思っていました。
実際、特攻に関わった殆どの将官、特に現場指揮官や参謀などは何事も無く終戦を迎え、責任も取らずに戦後の民主主義社会で生活を営み、特攻に関しては口を噤んだまま人生を終えていったそうです。
十代の息子を特攻で亡くした親の気持ちを思えば、他人事ながら、抑えがたい憤りを感じます。
恐らく、田中芳樹が作中で開陳する「お前も戦争に行け論」も、元々は、こういった気持ちから発せられたものだと推察されます。
作戦だけ立案し、実際に人間爆弾として散華する役は下の人間に(しかも年端もいかない十代の少年兵を多数含む)強制的にやらせるという鬼畜行為に対して、理屈抜きで「やりたいならお前がやれ!」と怒りが爆発するのは、自然な感情の発露だし、多くの人が共感するものです。
銀英伝の中で、ラインハルトがしきりに「自ら最前線に立つ」ことを是とし、「戦争時に指揮官が兵士達の背中に隠れて自分だけ安全な場所から指揮をするのは卑怯である」という考えを展開しているのも、このようなことへの嫌悪感から出たことなのかもしれません。
田中氏の「お前も戦争に行け論」が、戦略的にも理論的にも破綻していることは、タナウツでも議論し尽くされ、私も何度か述べてきましたが、感情論としては理解できる部分もあるのです。
私は、ごく最近まで、日本の敗戦が濃厚となった太平洋戦争末期に、和平反対、徹底抗戦を主張する派の高級軍人は、皆、頭が空っぽの猪武者どもばかりで、現実感覚に乏しい無知で無能な最低の輩だと決め付けて考えていました。そして、彼らの諦めの悪さが、戦争を悪戯に長引かせ、広島、長崎への原爆投下の一因にもなったと考えていました。
まして、特攻などという戦法を発案し、実行させた人間は、人間の屑で、いくらでも非難できると思ってきました。
そして、そういう特攻をやらせた立場の軍の将官達は、皆、戦後はA級戦犯として処刑されたか、要領よく生き延びて、全く悪びれずに戦後の平和な世を生きたかどちらかなんだろうなと思っていました。
しかし、俗に「特攻の産みの親」と言われている大西瀧治郎海軍中将の存在をネットで知り、その死に様を知ると、考えを少し改めざるを得なくなりました。
【Wikipedia 大西瀧治郎】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E
彼は、当初特攻を「外道である」と考え反対の立場でしたが、戦況の悪化で特攻戦法の導入を主唱するようになり、「二千万特攻論」という今の私たちの感覚ではキチガイとしか思えない持論を本気で唱えて、和平反対徹底抗戦を主張し続けました。
しかし、日本の敗戦を知ると、その日の夜半、介錯なしの割腹自決を遂げます。享年54歳。64年前の今日、8月16日のことでした。
死んでいった特攻隊員へ詫びる為に、できるだけ苦しんで死ぬことを自らに課し、医者の治療を拒否しながら、15時間かけて死んで行くという壮絶な死に方で、自らを最も厳しく裁きます。
遺書の内容は、特攻で散華した兵士達への謝罪と共に、生き残った若者に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭しているものでした。
また、生前、徹底抗戦を唱える一方、終戦の二ヶ月前、当時改革派官僚の代表的存在だった内閣書記官長・迫水久常に対し、「我々は今回の戦いにおいて劣勢を覆すべく、様々な努力をしてきた。しかし、やる事成す事全て誤算と敵に裏をかかれる失態を晒すだけの結果となり…挙句そのつけを若い人達、国民に強いている。……我々は甘かった。本当に甘かった…。」と苦悶の表情を浮べながら話し、最後に「……何か良い考えはないですか……。」と言って静かに半ば憔悴しきった顔になって部屋を出て行ったという逸話が残っています。
彼は確かに当時の日米の彼我の戦力差や物量、国民気質というものについての現実認識が彼自身の言葉で語られたように「甘かった」のでしょう。
しかし、そこには、私が当初イメージしていた「無責任で、辛いことを全部下にやらせて、自分だけ命を惜しむ」という「卑劣漢の高級軍人」とは程遠いものがありました。
彼は、状況を読み誤り、多くの若者を死なせるという愚行を犯しましたが、それは、彼個人の武功の為ではなく、彼なりにその時点で日本にとって最良と信じた方法を行ったのです。
それは、後の世から振り返れば、結果的に間違った方法だったのかもしれませんが、彼が真から日本という主権国家を必死で守ろうとし、日本国民の未来を本気で案じた故の行動だったことが遺書からも死に様からも見て取れます。
そして、大多数の「特攻させた側」の軍人が、責任を放棄し、沈黙という形で逃げる中で、自分の罪と真正面から向かい合い、凡人にはとても真似できない剛毅さで割腹自殺を遂げたのです。
第二次大戦の結果を既に知っている21世紀の私達が、彼のことを「時代の趨勢を見極められなかった無能者」と上から目線で謗ることは簡単です。
しかし、もし、彼等と同じ時代に生き、同じ状況下に置かれた場合、果たして彼のような責任のとり方をできる自信のある人が、どれだけいるでしょうか。
少なくとも私には絶対に無理です。
ところで、話は逸れますが、この大西中将の「傷を負った体をあえて治療せずわざと苦痛を長引かせることで緩慢に死んで行く」という自殺方法は、ロイエンタール最期のモデルとなっていると私は予測しています。はっきりモデルという認識はなくても、田中氏もこの大西中将のエピソードを聞いたことがあり、頭の片隅にあったのではないでしょうか。
しかし、大西中将とロイエンタールとでは、その死の理由に天と地ほどの差があります。大西中将は、あの当時の情勢の中で、真剣に国家の存続の為に、命をかけて戦う覚悟をし、自らの過ちの責任を取る意味で自決しました。一番重要な点は、彼は確かに主戦派でしたが、この大戦の開戦自体が、彼一人の意思でどうにもなるものではなかったという点です。大西中将は、始まってしまった戦争に勝つ為に、自分なりに全力を尽くし、その過程で「特攻作戦」という非人道的戦法を実行させてしまいました。
一方、ロイエンタールの叛乱は、そもそもロインタール自身の意思で、いくらでも開戦回避できる状況で、彼の気持ち一つで数百万人の戦死者は死なずに済んだのです。
これまでの人類の多くの戦争の戦う理由を究極に突き詰めていけば、結局は「富の奪い合い」に至り、それはいわば人間の生存に関わるものでした。第二次大戦の三国同盟VS連合国の場合も最終的にはここに行き着きます。
しかし、ロイエンタールの叛乱に、そこに国民の生存をかけるようなものは何もなく、あるのはただ、ロイエンタール個人のわけのわからない「矜持」とやらだけでした。
表面だけ同じような「かっこいい」ことをさせても、中身の重さがまるで違うので、どこまでいってもジュブナイルの世界です。
最近、創元SF文庫版の銀河英雄伝説外伝5巻「黄金の翼」が発売されていたので、ざっと立ち読みしたのですが、巻末に田中氏のインタビュー記事が掲載されていました。
それによると、ファンレターで一番嬉しかったものは、子供から「以前は大人になるのが嫌でしたが、銀英伝を読んで自分もあんなステキな大人になりたいと思った。」というものだったと仰っていらっしゃいました。
インタビュー自体が何時ものか知りませんが、今刊行されるものに掲載するということは、現時点でも恥ずかしげもなく、そのように思っているということと解釈できます。
はっきり言って、ラインハルトとヤンとロイエンタールは、「なってはいけない大人」の典型例ですよ。特に現在の、平和、軍縮、非核化が叫ばれる風潮の中で、話し合うより先にまず戦闘を行うという発想の彼等を「理想的な大人」と本気で考えるなど論外です。
太平洋戦争時の日本軍で、生き残った軍指導者達のその後は、様々です。前述したように、歴史に名を残していない多くの無名の現場指揮官や参謀は、沈黙して戦後、民主主義国家となった日本で天寿を全うしたようです。
しかし、責任の取り方は、人それぞれで、大西中将のように、自決することだけが謝罪の道でもないことは、他の軍指導者達への後世の評価からも窺い知ることができます。
以下、私的に色んな意味で感銘を受けた旧日本軍指導者達のその後を列記します。
【Wikipedia 富永恭次】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E6%81%AD%E6%AC%A1
所謂、私が最初に抱いていた「特攻させた側」の軍人のイメージそのものの人。
「君らだけを行かせはしない。」と隊員に語りながら、多くの部下を残したまま敵前逃亡した陸軍特攻隊創設者です。
大西中将とは全く正反対の人物像で、最後の最後までひたすら自分の命を惜しんで行動したようです。
終戦後、シベリアのハバロフスク収容所に抑留され、昭和30年(1955年)4月18日引揚船の興安丸で舞鶴港に帰国している。
五年後の1960年に68歳で死去していますが、この当時としては、シベリア抑留の過酷な環境を考えれば、寿命をまっとうしたと言えるかもしれません。
【Wikipedia 宇垣纏】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E7%BA%8F
玉音放送後の8月15日夕刻、22名の部下と共に、沖縄沖の米軍に向って特攻、撃墜される。
彼の行為を、敗戦を受け入れられなかった往生際の悪さととるか、死を覚悟の最後の一太刀ととるかは、評価が人によるでしょう。
客観的に見れば明らかに、11機22名もの部下を道連れにした「私兵特攻」であり、私的には、ロイエンタールは大西中将よりもこの方に近い気がしてます。
この事件を知った、当時の連合艦隊司令長官・小沢治三郎中将は、「自決するなら一人でやれ!若者をまきこむな!」と部下22人を率いて特攻したことに激怒した。
【Wikipedia 小沢治三郎】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E6%B2%BB%E4%B8%89%E9%83%8E
終戦直前の、昭和20年(1945年)5月に、最後の連合艦隊司令長官(海軍総隊司令長官と海上護衛司令長官を兼任)に就任し、終戦を迎える。
終戦時、自決を叫ぶ部下達を厳しく叱責して制止した逸話が残っている。その際、同僚達にも「君、死んではいけないよ。君、死んではいけないよ。大西は腹を切った。宇垣は沖縄の海に飛び込んだ。皆がそうやっていたら、一体誰がこの戦争の責任を取るんだ。」と言って回っていたという。
このあたり、銀英のチェン・ウーチェン総参謀長を連想させます。
戦後は戦時中に関して殆ど何も語らず死ぬまで世田谷の自宅に隠棲し、あまり裕福でない晩年を過ごしたらしい。
作家の半藤一利が何度も訪れ取材しようと試みたが全て断られた。ただ一度だけ、自分の指揮により部下の多くを死なせてしまったことを後悔する言葉を苦渋の顔で述べたといわれるが、それ以外は何も語らなかった。
ただし、防衛庁の戦史作成には全面的に協力しており、この時は戦史室に足繁く通い、滅多に開かなかった口を開き、自分が見聞きしたこと、体験したことを私情を交えず詳細克明に話したという。
これらの態度から、戦争で命を失った兵士達への強い自責の念を持ちながら、同時に、真実を後世に残そうという責任感を持っていた方だったことが判ります。
死に際して、アメリカの戦史研究家から、「近代戦にふさわしい科学的リーダーシップをそなえた名提督」という讃辞が贈られた。
ちなみに、彼の生き方とは対照的に、多くの兵士を死なせた悔恨をいっさい示さず、旧海軍時代の人脈を有効に利用し、戦後の航空、海上自衛隊内で高い地位を得、退役後は参議院議員や衆議院議員に転身して、戦後の日本政界に、国防族/防衛族という勢力を築き上げた元将校も多い。中には若い兵士に直接特攻を命じたり特攻を立案した佐官、将官クラスの指揮官もいたらしい。
彼等の生き方を、恥知らずだと非難するのは簡単だが、選挙で当選しなければ、衆議員にも参議員にもなれない。誰でも選挙に出馬する時に、自分に不利になるような経歴をわざわざ公開したりしないだろう。
私は年代的に、直接彼等に投票したことはないと思うが、彼らの地盤や政治思想を引き継いだ後継者の誰かに、絶対に投票したことはないと言い切れない。
それどころか、もしかしたら、投票しちゃったかも・・・とさえ思う。
それでも、政治家の一人や二人変わったところで、今の自分の生活は変わらないだろうから、まあ、いいか、とか思ってしまったりもする。
ああ、これが「腐敗した民主主義」ってことなのか。