今気が付いたんですが、今日は銀英の本伝最後の日だったんですね。
色んな意味で少年の心のまま逝ったジュブナイル小説のヒーローは、後始末を全部新妻に押し付けて、天上へと旅立って行きました。
やりたいことをやれるだけやって、後はお任せで死ぬって、ある意味とっても幸せな人生だと思うのですよ。
銀英は青少年向け小説なので、思想とか政治とかを扱ってるわりには、主人公は一度も政治的葛藤を経験せずに終わりました。
ロイエンタールの台詞から、戦争がなくなった平和の世界では、何もやることがなくなって、安穏として怠惰を貪る生活を送ることになり、自分にはそんな生活は耐えられないだろうみたいなのがありました。ビッテンフェルトあたりがそう思って悩むならともかく、ラインハルトやロイエンタールのような「戦術家としてだけでなく為政者としても有能」なキャラがそんな風に考えてたとしたら、政治を舐めてるとしか思えません。
実際、戦争そのものよりもその後の執政の方が遥かに難しくやり甲斐のある仕事だと思うんですけどね。
戦争は、目の前の敵に勝つことだけを考えれば済みますが、政治はそうはいきません。
例えば、作品中頻繁に出てくるラインハルトの私生活の質素さや、式典の簡略化を単純に「無駄な出費をしない名君の行い」として賞賛されていますが、いつも思ってたんですけど、「どんなに豪華な舞踏会を開いても、戦艦一隻より高くないだろう」と。
それ言っちゃおしまいよ的なことを考えずにいられなかったんですよね。まあ、80年代に書かれた話だからと言ってしまえばそれまでなんですが、丁度同じ時期にはまった時代劇の暴れん坊将軍を思い出したんですよ。まだ『歴女』なんて言葉がなかった時代でしたから、今から思えばワタシはハシリだったのかなw
で、ファンが嵩じて徳川吉宗関連の本を読み漁ってたんですが、その中で、吉宗をドラマ化、小説化する時に彼の人となりを現すエピソードとして必ず挿入される「質素倹約」について考えさせられる考察を見つけたんです。将軍が、木綿の着物を着て一汁一菜の食事をして範を示し、緊縮財政を推し進めるのは、果たして本当に正しいことなのだろうか?という問題定義です。
吉宗のライバルとして、ドラマではほぼ例外なく悪役が割り振られるのが、尾張大納言宗春ですが、彼は吉宗とは正反対の豪奢な生活をわざとしてみせて、吉宗の経済政策を真っ向から批判します。そこに、『庶民の暮らしに理解のある質素な吉宗と、貧しい領民を尻目に自分だけ贅沢をする宗春』という図式が出来上がり、一般ではこのイメージで二人が固定されています。ところが、最近の研究で、宗春の行いを緊縮財政は、かえって経済を沈滞化させてしまうという幕府側への抗議と警鐘ではなかったかという説が浮上しました。
実際、経済学の面で見ても、吉宗の政策は、必ずしも最良でなかったのではないかとの見方が現在では主流みたいです。あの時代、吉宗と宗春どちらが正しかったのかは、永久に結論の出ない問題であり、吉宗も幕府財政の建て直しに、それこそ様々な「葛藤」に直面しながら政務を行った様子がよくわかりました。
故ダイアナ元皇太子妃の衣装代は、日本円に換算して年間5000万円前後だったと何かで読んだ記憶があります。しかし、彼女のファッションを見て「世界にはその日の食べ物にも困っている人がいるのに、服にそんなに金を使うなんて」という非難は、あまり聞きませんでした。それは、彼女のファッションが、5000万円の衣装代の何百倍もの経済効果をもたらしていたからでしょう。
度の過ぎた贅沢は論外としても、はっきり言って、質素な生活をしていることが名君の証みたいな単純な描き方は、ジュブナイルでもやって欲しくないです。そこまで単純化するなら、勧善懲悪の完全娯楽モノ作品でやってくれ。少なくとも、民主主義がどうの、政治思想がどうのという、はっきり白黒つけられないことをあえてテーマにしたなら、そこから生じる葛藤から逃げずに、正面から描いて欲しい・・・これがワタシの銀英への不満の一つでした。
ラインハルトみたいな超絶美形がなら、ダイアナ妃以上の経済効果が期待できたと思うんですけどね。
まあ、80年代のジュブナイル小説に『経済効果』などというスパイスを期待するのは、ちと無理がありましたか。