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金網でもマイクでもないR・木村さん真の姿

2010年07月23日
スポーツ

関連キーワード :プロレス

<創刊50周年特別企画「東スポ時空自在」あの事件を再検証>“マイクの鬼”は仮の姿。5月24日に腎不全による誤嚥性肺炎のために亡くなったラッシャー木村(本名・木村政雄=享年68)さんは、ただ「楽しいプロレスラー」だったわけじゃない。国際プロレスの牙城を必死に守る“金網の鬼”いや“ストロングファイトの鬼”だった。盟友・プロレス評論家の門馬忠雄氏(東スポOB)が明かす「ラッシャーの真の姿」。これだ——。


1976年のジャンボ鶴田戦で生涯唯一の年間ベストバウト賞獲得
<若大将を倒した実力>「木村さんが亡くなった!!」。第一報はノアのリングで引退式を行ったばかりのマイティ井上からだった。プロレスリング・ノアの終身名誉会長だった木村さん。「オイ、ラッシャー、オレより5つも若いじゃないか!?」 思わず、叫びたくなった。最も信頼のおける飲み友達だった。自分と同じ脳梗塞に倒れて6年。右半身不随になりながら、社会復帰を目指しリハビリに励んでいたと聞く。残念でならない。
 あえてラッシャーと呼ばせてもらう。振り返ってみれば、大相撲6年、プロレス40年に及ぶ長い格闘人生だった。
 力道山没後の昭和プロレスを語れる貴重な証言者だ。それは寡黙な男には似合わぬドラマチックなプロレス血風録であった。
 ラッシャーの絶頂期は1970年代後半から国際プロが消滅する81年ごろまでだろう。記憶に残るのは、ラッシャーの金網デスマッチによる王座初挑戦の記念すべき試合。75年4月19日、北海道・札幌中島スポーツセンターで王者マッドドッグ・バションに挑み、7分25秒、逆エビ固めで破りベルト奪取。第11代IWA世界ヘビー級王者になった一戦である。ラッシャー、この時34歳。典型的な大器晩成のタイプだ。

 そして全日本プロレスとの全面対抗戦だ。76年3月28日、東京・蔵前国技館におけるラッシャーVSジャンボ鶴田の大将同士の激突。裁くレフェリーは中立の芳の里(元日本プロレス社長)。
 1対1から両者ダブルフォールで決着つかずの大死闘。ラッシャーがジャンボのスープレックス、バックドロップに対抗してクロスチョップばかりではなく、腕ひしぎなど珍しく関節技まで使ってエースの意地を見せた。
「国際VS全日本」全面対抗戦の結果は、4勝4敗2引き分けの互角。ラッシャーとジャンボの一戦は、76年度プロレス大賞のベストバウトに輝く名勝負だった。

<黒タイツは力道山を意識>ある時、鏡に向かったラッシャーに「この頃、よく黒のロングタイツが似合うようになってきたね。力道山をイメージしているんだね!?」と問いかけたら、鏡越しに自慢の大胸筋がピクリ、ピクリ。2度返事してくれた。全盛期のラッシャーは185センチ、125キロ。胸板が分厚く、見事な体格だった。“金網の鬼”は“金網の力道山”なのだ。
 大相撲は宮城野部屋。しこ名は木ノ村。幕下20枚目が最高位。十両入り目前にしながら「関取になったら相撲を辞められなくなる」と廃業を決意し、自らまげを切った。この話は菜っ切り包丁でまげを落とした、という力道山のプロレス転向秘話と重なる。
 アニマル浜口の証言を借りる。ラッシャーはベンチプレスで200キロのバーベルを上げたという。通常、プロレスラーの力持ちは180キロを一つの目安とする。国際プロでは、離脱したストロング小林が200キロ強を上げた。
 75年10月、筋肉のお化けのようなスーパースター・ビリー・グラハムが初来日。後楽園ホールでベンチプレスによる力比べをやった。日本人選手側からは、浜口が出場。200キロを上げた。何とグラハムは230キロをマークして観客を驚かせたことがあった。 いま考えると、なぜあの時、ラッシャーが「オレも出る」と名乗り出なかったのかが不思議でならない。
 日本プロレスでデビューしたラッシャーは、東京、国際、新日本、UWF、全日本、ノアと7団体を渡り歩いた流浪の人だ。その奇特なプロレス人生は、黙々と働くサラリーマンの後ろ姿と重なる。
 人を裏切らず、律義一途に生きた横顔からは、昭和マットの哀愁が漂っていた。(2010年7月16日付)

全日VS国際 威信をかけた戦い
<VTR>木村さんが「国際プロのエース」の意地を爆発させたのが鶴田戦だった。当時25歳の鶴田さんは真っ赤なタイツに赤いシューズ。新時代の旗手そのものといったスタイル。かたや木村さんは黒いロングタイツの力道山スタイル。伝統のストロングスタイルを体現した。 3本勝負の1本目。リストロック、アームロックで攻め立てる。レスリング五輪代表の鶴田さんに、一歩も引かないテクニシャンぶりを発揮。得意のクロスチョップも決めブレーンバスターで先取すると、蔵前国技館の東側に陣取った国際プロ応援団が歓喜の雄たけびを上げた。 鶴田さんのダブルアームスープレックスで2本目を失い勝負の3本目。鶴田さんのジャーマンにロープを蹴って対抗。両者ともに後頭部を強打しレフェリーは3カウント。ダブルフォールの裁定だった。 不完全決着に会場は騒然。ぶぜんとした木村さんは「スタミナには自信がある。いくらでもやってやる」と言い放っている。すでに怪物の片鱗を披露していた鶴田さんを向こうに回して“鬼”の仁王立ちだった。

<国際プロレス>1967年1月、日本プロレスの営業部長だった吉原功代表が東京プロレスとの合同興行で旗揚げ。当初はTBS、74年からは東京12チャンネル(現テレビ東京)で中継された。猪木・新日本プロレス、馬場・全日本プロレスと3団体時代を築いたが、81年8月9日、北海道・羅臼大会を最後に資金不足で活動を停止した。

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