……この恐るべき偉業を成し遂げた彼らに、私は『カンピオーネ』の称号を与えたい。
読者諸賢の中には、この呼称を大仰な物だと眉をひそめる方が居るかもしれない。
あるいは、私の記録を誇張したものと見なす方も居るかもしれない。
だが、重ねて強調させていただく。
カンピオーネは覇者である。
天井の神々を殺戮し、神を神たらしめる至高の“力”を奪い取るが故に。
カンピオーネは王者である。
神より簒奪した“権能”を振りかざし、地上の何者からも支配されないが故に。
カンピオーネは魔王である。
地上に生きる全ての人類が、彼らに抗うことほどの力を所持できないが故に!
【19世紀イタリアの魔術師、アルベルト・リガノの著書『魔王』より抜粋】
前座 『“彼”、会話中』
暗く、冥く、昏く。
そこは、底無しの奈落だった。
感覚は無く、感情も湧かない。
ただ俯瞰するような認識だけが存在している。
そんな中で、“彼”はここがどんな場所かを受け入れていた。
―――俺ァ、死んだのか……
感慨はない。
ただそれを事実として受け入れる認識だけがある。
落ちていく、堕ちていく。
底の無い海の深くへ沈んでいくように、底へ向かって墜落していく。
いや、それは誤りだ。
ただ“そう”と認識しているだけ。
本当は昇っているのかもしれないし、あるいは何かの流れに流されているのかもしれない。
あるいはただその場で静止しているだけなのかもしれない。
ただ理解できない感覚を、理解できる感覚に置き換えているだけ。
そうと、我が身に起こっている事象を、他人事のように俯瞰していた。
―――死ぬってのも、存外つまんねェもんだな……
何一つ存在しない空間の中で、“彼”は飽きたように呟く。
「あらそう? ここは結構満ち足りた“場所”だと思うけど」
何一つ存在しないはずの空間で、不意に声を認識した。
―――誰だ……?
意識だけの感覚で、“彼”は唐突に現れた“彼女”を認識した。
それは整った顔立ちの、細身の少女だった。
金色の長い髪を左右で結って、その髪が水中に漂うようにゆらゆらと揺れていた。
「ふふ……。随分とお久しぶりねー。あなたが“あっちの世界”に行ったきりだから、大体五十年ぶりかしら?」
少女の容をした“彼女”が、艶やかに笑う。
十代半ばの、幼いとすら形容できる出で立ちの少女。
だというのに、彼女から感じる印象は紛う事無く蟲惑的な『女』そのものだった。
―――あァ、アンタか……
「あら。久しぶりに会ったママに、随分なご挨拶ねー」
幼い子供のように、頬を膨らませて“彼女”が抗議する。
―――ガラガラガラ……。悪ィが、俺を産んでくれたお袋は一人っきりだ。アンタじゃねェよ、パンドラ
そう言って笑い飛ばす“彼”に、“彼女”――パンドラは不服そうにビシッと指を指した。
「あら、そんな事ないわよ。大体、あなたが神様を殺してその力を奪っちゃった時点で、あなたは間違いなくあたしの養子に迎え入れらたんだから。間違いなく、あなたはあたしの息子なの!」
―――『神殺し』。
それは、“彼”がもと居た世界に存在する一つの儀式であり呪法。
“神”と呼ばれる超越存在を、いと矮小な人の身で打ち倒す事で行われる暗黒の聖誕祭。
それは殺した“神”を生贄に、その“神”の持つ『権能』と呼ばれる神力を己が物とする簒奪の秘儀。
そしてその秘術を行使した存在こそ、不死者エピメテウスであり。
彼の妻である、目の前の少女の姿をした“女神”パンドラである。
―――ああ、そうかい
しかしそんなパンドラに、“彼”はそっけなく言い返す。
「まぁー。本当に生意気な子だこと」
―――そんな事より、訊きてェんだが。ここはどこだ? アンタが居るってことは、ここは生と不死の境界か?
何となく違うのではないかと思いながら、“彼”はパンドラに尋ねた。
そして案の定、彼女は首を横に振った。
「違うわ。ここは……えっとなんて言ったら良いのかしら?」
難しい表情をして、彼女は首を捻った。
「「 」とかアカシックレコードとか根源とか真理とか万世の交差路とか……、呼び名だけなら色々あるんだけれど」
―――? つまりアンタにも説明できないような場所って訳かい
「ん~……、まぁその認識で間違いないわねー。っていうか、言葉として説明出来ないって意味だけど」
―――ほぉ……ここがねェ……
若干“彼”が驚く。
この“女神”をして「説明できない場所」。
それがどれだけ途轍もないことか、“彼”も何となく程度には認識できている。
しかしそんな“彼”に、パンドラは呆れたような息を吐いた。
「ホントに分かってるのかしら? 普通はこんな所、来たくて来れる場所じゃないんだけど……
―――アンタは来てるじゃねーか
「あなたが居るからよ。“あなた”が“あなた”としてここに居るから、あたしもここに居られるの。あたしは自分の子供の居る場所なら、どれだけ離れていても認識できるから。……そうでなきゃ、神様だってそうそうこの場所には来られないんだから」
―――そうなのか? まぁ確かに、居心地は悪ィが……どうも自分がぼやける感じがしてなァ
そう言って“彼”は『自分の姿』を認識しようとする。
しかし身体は辺りの混沌とした暗闇に溶けてしまったように見ることも出来ず、ただ『自分』がここに居るという意識の感覚しか感じられない。
「当たり前よ。というより、普通はこんな所まで着たら『自分』が希薄になっちゃって自我なんて保ってられるはずもないんだけど……相変わらず、出鱈目な子よね~」
パンドラが意識だけになっている“彼”を『視て』、呆れを通り越してむしろ感心したように言う。
―――……それで? 一体何の用なんだ。何か用事があって、俺に会いに来たんだろう?
「うん……あなたに会いに来たのはね、訊きたい事があったからなの」
―――訊きたい事?
「うん」ともう一度彼女は頷くと、ジッと“彼”の意識の目に視線を合わせるように。
あるいは覗き込むように『視た』。
「ねぇ、本当にアレで良かったの?」
そっと。
その小さな唇から疑問の言葉は流れ出た。
「言ったでしょう。あたしはあなたの居る場所なら、どれだけ離れていてもほとんど認識することが出来るわ。たとえそれが“世界”ごと隔たった場所であっても。
だから知ってるわ。あなたがあの世界で、何をして何を選んでどんな生き方をしてきたか……」
―――…………
何もかもを見透かすようなパンドラの言葉を、“彼”はただ黙って聞いていた。
彼女に先までの軽い態度もふざけた調子もない。
ただ何千年もの時間を生きた、正真正銘の女神の姿で彼女は己の義息に尋ねていた。
「だからこそ、訊きたいの。あの世界でのあなたの最期は、本当にアレでよかったの? 世界を救った者の一人でありながら、結局は政治のために世界に悪役を押し付けられて、共に戦ったかつての仲間達に討たれてしまった。
救いたかった者達も、あなたが家族と呼んだ人たちも、そのために失ってこんな場所に叩き落された」
朗々と語られる彼女の言葉に嘘はない。
そのどれもがこの場所に“彼”が落ちてくる直前に起こった、間違いのない事実なのだから。
「あなたはきっと、この場所を永遠に彷徨う事になる。全ての存在するこの永劫の暗闇の中に久遠に閉じ込められる事になる。……それはきっと、死にも勝る退屈よ。心を犯す“孤毒”という猛毒。神々の魂すら蝕むモノ―――あなたに、それが理解できないはずが無いでしょう?」
紡ぐ、紡ぐ、言葉を紡ぐ。
年端も行かないように見える少女の唇から、その言葉は紡がれる。
眼を逸らしたくなるような、耳を塞ぎたくなるような。
朗々とした、絶望の言葉は紡がれる。
「ねぇ、答えて。それだけの事があったのに、どうしてあなたはそんなに凪いでいられるの?」
一切の虚偽を許さない、魂の置くまで覗き込むようなパンドラの視線。
そこから一切の視線を逸らす事無く、“彼”はむしろ楽しげな声音で答えた。
―――決まってんだろう。後悔がねェからさ
「後悔が、ない?」
理解できなかったのか、パンドラが首を傾げた。
―――あぁ。確かに俺ァ負けちまった上に、こんな場所に居る。もうアイツらには会えねェだろうさ。それにあれだけの事があった後だ。残してきた国も危ねェかもしれねぇ。……だがな、
そこで一度、言葉を切る。
―――俺ァ自分のしてきた事に、何一つ後悔なんてねェ。“ヤツ”を俺たちが倒した事で追われることになっちまったアイツらのために国を立ち上げた事も、そのために世界を敵に回したことも、一緒に戦ってきたあいつらと殺し合いの大喧嘩になっちまった事も……何一つ、何一つだって俺ァ後悔がねェのさ
魂すらこもっているような“彼”の本心からの音無き声に、ビリビリと空間が震える。
それに気圧されたように、あるいは心底から驚いたように、眼を見開いてパンドラが一歩引き下がった。
「む、むぅ……でも、それなら国と仲間達はどうするの? あなたも今危ないって言ったでしょう?」
気圧された事が恥ずかしかったのか、パンドラが拗ねたように唇を尖らせて言った。
しかし“彼”はそれこそ心配無用だとばかりに笑った。
―――ガラガラガラ……! あいつらが誰の“身内”だと思ってやがる? 何を心配するってんだ!!
「…………」
呵呵と余裕で笑う“彼”をパンドラはしばらく無言で見つめ、
「ホントに生意気だぞー。義息のクセに、ママをドキドキさせるなんて……」
どこか照れたように、小さく囁くように呟いた。