東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
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才気溢れる文体と、明快な議論で、頭が固く視野の狭い日本史研究者にない能力を持っているとして各方面から評価されているのだろうと、註からみえる著者の著述活動から読み取ることができる。中世史研究者から見ると、わかりきったことをさも自らが発見したかのように述べる、お東大出身のおエリート様の傲慢な文章に過ぎないのだが。内容も著書と自治体史をアレンジしたアラカルトで、「時系列の通史に堕しておらず」というが思いつきの連続に過ぎない。その上に土器データから経済の「V字回復」があったかのように述べたり、儒仏道三教一致が中世とするなど、前提も危うい。そもそも20年前と同じ勧進猿楽の事例を持ち出すだけで、何ら補強できていないのは、学問上の発展がなかったことを露呈している。「V字回復」の肯定(単なるリストラによる企業収支の取りつくろい)、飢饉で施行を受ける人への年越し派遣村をめぐる石原発言を思わせる蔑視(しかもそれを実名での学生作の絵で見せる狡猾さ)、『史学雑誌』回顧と展望に全時代で引用されたから自分は「日本〜史」ではなく、「歴史学」を名乗るのだという権威主義など、表向きは「〜からの自由」といいながら、所詮は新自由主義の申し子として、共同体での中でしか生きられない人々を高みからさげすんでいるだけ。といってもこれが評価されるのが現在の日本史学の立ち位置なのだろうhttp://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2584670。本日は日本史研究会例会に参加http://wwwsoc.nii.ac.jp/cgi-bin/jhs/wiki/wiki.cgi?page=%CE%E3%B2%F1。遺跡保存としては残念な状況に進むようだが、史料の深い読み込みから見えてくる真実と、スリリングなやりとりは大変勉強になった。自身はタイミングがずれた発言をしてしまったが、やはり歴史学の進むべき方法はそこにしかないと実感される。 |
「飢饉で施行を受ける人への年越し派遣村をめぐる石原発言を思わせる蔑視」という批判については、的外れな誤読というほかない。共同体住人から蔑まれた「江湖散人(マイノリティ)の眼」を持って歴史を叙述することを明言し、「かけ落ちする下人」「飢饉下の不完全な家族」「共同体から排除される勧進身分者」「間隙を生きる人々」「退きこもる人々」等々を主題とする同書の、いったい何を読み取られたのであろうか。あまりに読解の質が低い。なお、同書は各章「ウォーミングアップ」に始まる「講義」形式の書であり、受講学生の書いた絵を、歴史を考える教材とする意図については、同書72頁で述べた通りである。181頁の当該作の場合、史料上「悪ねだり」と記述される行為のなかにはらまれた、施す側と施される側の〈心理〉や〈関係性〉を考える上で、極めて多くのことを語ってくれている。そこに描かれているのは決して「蔑視」ではあるまい。(つづく)
2010/7/20(火) 午前 11:34 [ 東島誠 ]
(つづき)それが正当な批判なら、引用した著者の責任に属するが、大村氏の言う「それを実名での学生作の絵で見せる狡猾さ」なる主張は、悪質な誤読にもとづくものであり、受講学生の名誉を著しく損う行為と言える。学生の名誉回復に必要な措置を誠実に講じられることを、強く要請したい。
それにしても関西に在住し、都市京都を研究していながら、「差別」とは何かに鈍感であるというのは、いかにもイタイことではあるまいか。同書207頁の上段に註記した、三浦圭一論文を、それが書かれた1968年という時代背景をもよく考えながら、再読されることを推奨する。その他の論点についても言うべきことが少なくないが、ひとまず最重要と思われる上記の点にとどめ、他日に譲ることとする。
2010/7/20(火) 午前 11:35 [ 東島誠 ]
東島様 しがない個人ブログにコメントありがとうございます。ただしここで貴殿と論争するつもりはありません。なお受講学生が描いた作品からあえてそれを著書に載せることを選択したのは貴殿のほうですので、こちらに責任を転嫁するのは筋違いでしょう。
2010/7/20(火) 午後 9:17 [ 大村拓生 ]