青梅区広宣部資料

対法華講用 (初級)
青梅区広宣部企画室

対・日蓮正宗対策マニュアル(青梅区広宣部企画室)





法主の言葉は人師・論師の釈
口伝ではいけない
日蓮大聖人の仏法は御書を根本に

・「仏法の邪正をただす事き皆経文をさきとせり」(星名五郎太郎殿御返事「P1207L6)

・「法用をもて邪正を正すべし」(唱法華題目抄P462L3)

「唯人師の釈ばかりを憑(たの)みて仏説に依らずば何ぞ仏法という名を付くべきや。言語道断の次第なり」(持妙法華問答抄 P462L3)

・「仏法に依憑(えひよう)して口伝を信ずること莫かれ」(撰時抄P281L18)

◎「「法に依って人に依らざれ義依って語に依らざれ知に依って識に依ざれ了義経に依って不了義経に依らざれ選」文、此の文の心は菩・人師の言には依るべからず仏の御定を用いよ華厳・阿含・方等・般若経等の真言・禅宗・念仏等の方には依らざれ了義経を持つべし了義経と云うは法華経を持つべしと云う文なり」(法華初心成仏抄P544L9)

● 「要するに、日常のことや色々な指導とかにおいては、法主はあくまでも法主として考え、法主として指南があり指導がある、ということでよいのです。それを直ち仏果であるとか仏様であるとか言うような証道の意味と混乱するような、あるいは読んだ人がそう取れるような表現は、むしろ慎んでもらいたいと思います。」
(昭和58年3月31日 第四回非教師指導会より 法主日顕の言葉)



偽本尊問題 bP御本尊開眼

M「学会は、宗門猊下の許可なく御本尊を下付している。それは謗法であり、偽本尊である」

S「日蓮正宗中興祖と呼ばれる日寛上人の書写した御本尊を偽本尊と呼ぶということは、目寛上人を否定するつもりか?!」

M「そうではない、猊下の開眼が無い御本尊を勝手に下付しているから偽本尊だといっているのだ」

S「猊下の開眼とは、一体なんですか?そんなものが必用だと御書のどこに書いてあるのですか?我々は、日蓮大聖人を信じているのですから、御書を引いて説明して下さい」

M「それでは引こう。」     
「其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(草木成仏口決」P1339L1)

S「それは、草木成仏の原理にもとずいての説明であり、塔婆の開眼供養のことである。御本尊のことではない」

M@「第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは、五色の絵の具は草木なり画像これより起る。木と申すは、木像是より出来す。此の画木に魂と入るる事は、法華経の力なり天台大師のさとりなり。此の法門は、衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(四条金吾釈迦仏供養事P1145L1)

MA「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を以って日本を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ鬼…」(木絵二像開眼之事P469L17)

MB「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(本尊問答抄P366L14)

S「木絵画像とは絵か木で描かれたり、彫られた仏像を指すのであって、御本尊の事ではない。大体あなた達は、日蓮正宗の信徒のくせに日興上人のお言葉をどう捉えるのか?「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以って本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以って本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(富士一跡門徒存知の事P1606L2)

大体、日興上人様が絵像・木像は本尊としないと言われているのに、なぜ絵像・木像の事ばかり出すのか?又、御書の内容をきちんと読んでいれば、この御書は真言による開眼供養を否定している文証であり御本尊の開眼とは意味が違う。故に、そちらの勝手な切り文としか言いようが無い。御書には御本尊の開眼などのっていないんだ」

偽本尊問題bQ一機一縁の授与書

M「学会下付している日寛上人の御本尊は、本證房日證師が受けた『一機一縁』の御本尊である。それを授与書を消し、多くの会員に下付しているのは、法理の上からもおかしい事であり、故にニセ本尊であると言える」

S「今のあなたの話は、二つの論点がある。一つは、日寛上人の御本尊が『一機一縁』だから大勢に下付するのがおかしいと言う捉え方、二つ目は授与書を削除したことについての否定です。話を整理して片付けましょう。まず、『一機一縁』の御本尊とのことですが、そもそもあなた達は『一機一縁』と言う捉え方が違う。『一機一縁』の御本尊とは、日蓮大聖人様が出世の本懐以前にお弟子の方違にしたためられた御本尊を『一機一縁』と言うのであって、出世の本懐は、一閻浮提総与だから、弘安二年十月十二日以降は、『万機万縁』になる。故に一閻浮提総与の大御本尊を書写した日寛上人の御本尊は、脇書があろうが無かろうが、法理の上から『万機万縁』の御本尊であり、『一機一縁』の御本尊とは言わない。 そして二つ目の脇書(授与書)は、日興上人が富士一跡門徒存知の事で「此の如きの類い其れ数多きなり故に所賜の本主の交名を書き付くるは、後代の高名の為なり」(富士一跡門徒存知の事P1606L11)と言われているように、広宣流布に尽くされた方の名を後代まで顕彰する意味であり、御本尊の相貌とは、関係が無い。それに、学会の事をどうのこうの言うのであれば、学会寄進の寺院の御本尊の願主“池田大作”という脇書を消している寺があるのはどういう事だ?!」



偽本尊問題N。3 相貌 

M「学会の下付している日寛上人の御本尊は略式本尊であり、八界しか書かれていない。だから、ニセ本尊である」

S「御本尊の相貌を我々がとやかく言うのはいけないぞ?大体、戦前戦後にかけて、宗門が学会員に下付していた御本尊は享保三年の日寛上人の御本尊だった。相貌は一緒のはずだが、これはどう説明するつもりか?又、法主日顕も功徳に変わりないと言っているではないか。あなた方が日寛上人の御本尊を否定すればするほど、宗門自体を否定することになる。それが解って言っているのか?」



模刻問題M「(慧妙を持ち出して)学会は、勝手に御本尊を模刻していたんだってね」

S「なにを根拠にそんなことを。だいたい、その話をしていいのか?昭和五十三年十月三日の院達にこうあるぞ。「今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切論議を禁止する旨、御法主上人猊下より御命令がありましたので、充分御了知下さるよう願います。」と。これはどういう事だ?」

M「そうだよ。それは、あの当時、学会は八体の板御本尊のうち七体の板御本尊を宗門にお返しして、反省していたからこそ、我々だって、あの当時には何も言わなかったんだ。しかし、今になって、また日顕猊下を非難するような態度を取るから、今こうして話しているんだ」

S「ほう、じゃあ日達上人を否定するんだ?」

M「別に否定なんかしてないよ。何を言ったって謗法をしているんだから、学会は」

S「何を言っているんだよ。昭和五十七年の裁判で藤本は、本尊模刻について「謗法ではなく、手続き上の問題でした」と発言しているのは、どういう事だ?」

M「藤本総監は「無断で書写すれば謗法になります」と言っているだろう」

S「言っているよ。だから我々だって猊下の許可を得て行っていたんじゃないか」

M「猊下の許可を得ていた?おかしいなあ。じゃあ聞くが、昭和四十九年九月二日の連絡会議の席上で本部常住の御本尊を板御本尊に謹刻したいとの申し出をしたのは知っているな?」

S「もちろん知っているよ」

M「しかしだ、板御本尊のほぞに刻まれていた年月日は、昭和四十九年四月となっていた。これは明らかに申し出をする以前に謹刻していたことを示しているではないか」

S「すり替えるのもいいかげんにしろ。大体、賞与御本尊と、本部常住御本尊とをごちゃまぜにするな。あなたたちが言う昭和四十九年四月と刻まれている板御本尊は正本堂賞与御本尊の事であり、昭和四十九年九月二日に申し出をした本部常住御本尊は同年秋、板御本尊に謹刻している。更に付け加えるなら、あの当時、実際に彫っていた張本人、赤沢朝陽さんが、「日達上人が最初から了解されていたことも、私は庫接、確認しています」と発言しているんだぞ」

M「赤沢なんて、裏切り者の言うことが信用できるか」

S「ならば、証人はいるのか?こちらには当時、実際に彫っていた赤沢さんが言っているんだ。証人も証拠も無しで、信用できないと言うなら、話にならないぞ」

法主の血脈信仰の依文

※「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり」
(生死一大事血脈抄P1338L11)

M「血脈というのは、唯受一人の法主のみが受け継ぐものである、だから、法主を否定する創価学会には信心の血脈が無く、信心をしても無益である」

S「御書の生死一大事血脈抄でいわれている信心の血脈の捉え方が間違っている。御書の中での血脈とは、

1.「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
(生一死大事血脈砂P1338L11)

2.「過去の生死・現在の生死・未来の生死、三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とはいうなり」
(生一死大事血脈抄P1337L10)

3.「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり」
(生一死大事血脈抄P1337L12)

以上の三つの信心の実践の中に、大聖人様の血脈が流れると仰せです。

故に、御書の通り実践しているのが創価学会であり、創価学会に日蓮大聖人の血脈は流れていることは明白である」


●「日蓮日興唯授一人の相伝血脈は、その信心において万人に通ずるのであり、かかる信心の血脈が正法の僧俗一切の行学の根底であります。故に、大聖人より日興上人への血脈が貫主一人しか解らぬ独断的、偏見的な仏法などというのは血脈の真義を解せぬ者の戯言であり、信心の一念に法水が流れるところ、有智、無智を問わず、万人のために即身成仏の功徳が実証として開かれているのであります」
(霊法虫払大法会 御影堂にて法主日顕言葉)


●「又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず」
(曽谷殿御返事 P1055L11)

M「総別の二義は日蓮大聖人様の二義である。(御書が総付属、唯受一人の法主が別付属)総付属は、我々衆生が仏法を広めることであり、別付属が唯受一人の法主である。故に、法主に逆らう創価学会は、総別の二義にそむいているので、成仏は出来ない」

S「ここで言われている総別の二義とは、日蓮大聖入の仏法ではなく、釈尊虚空会の儀式での総別である」

立証―先の文の次の部分に以下のようにある。

・「例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は、全く弥陀・薬師に遇ひて成仏せず。譬へば大海の水を家内へくみ来たらんには、家内の者皆縁をふるべきなり。然れども汲み来たるところの大海の一滴を閣きて、又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり、大愚癡なり。法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし」
(曽谷殿御返事 P1055L12)

ここで言う「例せぱ」とは、総別の二義を説明している事を指している。たとえば、ここでの意味は釈尊に下種された声聞は、他の仏に会って教えを請うても成仏は出来ない。「根源め締を忘れて、余へ心を…(略)」を併せて考えるに、ここでは師匠を間違えてはならないとの説明である。

・Mの主張のように、この文が大聖人の総別の二義であるならば、末法の衆生の我々にとって、どう考えても師匠は日蓮大聖人しか存在しないので、師匠を選べと言う例は適切ではない。ところが、釈尊虚空会の儀式での総別の二義の場合は、付属をした根源の師は、釈尊であるけれども末法の衆生の我々から見ると、師匠は別付属された日蓮大聖人様である。故に師匠を間違えてはいけないと言う例題が適切になる。よってMの捉え方は間違いであると言える。

法主の言葉は人師・論師の釈 口伝ではいけない 日蓮大聖人の仏法は御書を根本に ・「仏法の邪正をただす事き皆経文をさきとせり」 (星名五郎太郎殿御返事「P1207L6)

・「法用をもて邪正を正すべし」 (唱法華題目抄P462L3)

「唯人師の釈ばかりを憑(たの)みて仏説に依らずば何ぞ仏法という名 を付くべきや。言語道断の次第なり」 (持妙法華問答抄 P462L3)

・「仏法に依憑(えひよう)して口伝を信ずること莫かれ」 (撰時抄P281L18)

◎「「法に依って人に依らざれ義依って語に依らざれ知に依って識に 依ざれ了義経に依って不了義経に依らざれ選」文、此の文の心は菩 ・人師の言には依るべからず仏の御定を用いよ華厳・阿含・方等・ 般若経等の真言・禅宗・念仏等の方には依らざれ了義経を持つべし 了義経と云うは法華経を持つべしと云う文なり」 (法華初心成仏抄P544L9)

●「要するに・日常のことや色々な指導とかにおいては、法主はあくまで も法主として考え、法主として指南があり指導がある、ということでよい のです。それを直ち仏果であるとか仏様であるとか言うような証道の 意味と混乱するような、あるいは読んだ人がそう取れるような表現は、 むしろ慎んでもらいたいと思います。」 (昭和58年3月31日 第四回非教師指導会より 法主日顕の言葉)

偽本尊問題 

bP御本尊開眼

M「学会は、宗門猊下の許可なく御本尊を下付している。それは謗法であり、 偽本尊である」

S「日蓮正宗中興祖と呼ばれる日寛上人の書写した御本尊を偽本尊と呼ぶと いうことは、目寛上人を否定するつもりか?!」

M「そうではない、猊下の開眼が無い御本尊を勝手に下付しているから偽本 尊だといっているのだ」

S「猊下の開眼とは、一体なんですか?そんなものが必用だと御書のどこに 書いてあるのですか?我々は、日蓮大聖人を信じているのですから、御 書を引いて説明して下さい」

M「それでは引にう。」  
   
 「其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」 草木成仏口決」P1339L1)

S「それは、草木成仏の原理にもとずいての説明であり、塔婆の開眼供養のこ とである。御本尊のことではない」

M@ 「第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは、 五色の絵の具は草木なり画像これより起る。木と申すは、木像 是より出来す。此の画木に魂と入るる事は、法華経の力なり 天台大師のさとりなり。此の法門は、衆生にて申せば即身成仏 といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」 (四条金吾釈迦仏供養事P1145L1)

MA 「法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のな きに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を 以って日本を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ鬼…」 (木絵二像開眼之事P469L17)

MB 「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」 (本尊問答抄P366L14)

S「木絵画像とは絵か木で描かれたり、彫られた仏像を指すのであって、御本 尊の事ではない。大体あなた達は、日蓮正宗の信徒のくせに日興上人の お言葉をどう捉えるのか? 「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以って本 尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以って 本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」 (富士一跡門徒存知の事P1606L2)

大体、日興上人様が絵像・木像は本尊としないと言われているのに、 なぜ絵像・木像の事ばかり出すのか?又、御書の内容をきちんと読 んでいれば、この御書は真言による開眼供養を否定している文証であ り御本尊の開眼とは意味が違う。故に、そちらの勝手な切り文としか 言いようが無い。御書には御本尊の開眼などのっていないんだ」 偽本尊問題bQ一機一縁の授与書

M「学会下付している日寛上人の御本尊は、本證房日證師が受けた『一機一 縁』の御本尊である。それを授与書を消し、多くの会員に下付しているのは、 法理の上からもおかしい事であり、故にニセ本尊であると言える」

S「今のあなたの話は、二つの論点がある。一つは、日寛上人の御本尊が『一 機一縁』だから大勢に下付するのがおかしいと言う捉え方、二つ目は授与 書を削除したことについての否定です。話を整理して片付けましょう。まず、 『一機一縁』の御本尊とのことですが、そもそもあなた達は『一機一縁』と言 う捉え方が違う。『一機一縁』の御本尊とは、日蓮大聖人様が出世の本懐以 前にお弟子の方違にしたためられた御本尊を『一機一縁』と言うのであって、 出世の本懐は、一閻浮提総与だから、弘安二年十月十二日以降は、『万 機万縁』になる。故に一閻浮提総与の大御本尊を書写した日寛上人の御 本尊は、脇書があろうが無かろうが、法理の上から『万機万縁』の御本尊で あり、『一機一縁』の御本尊とは言わない。

 そして二つ目の脇書(授与書)は、日興上人が富士一跡門徒存知の事で 「此の如きの類い其れ数多きなり故に所賜の本主の交名を書き付く るは、後代の高名の為なり」 (富士一跡門徒存知の事P1606L11) と言われているように、広宣流布に尽くされた方の名を後代まで顕彰 する意味であり、御本尊の相貌とは、関係が無い。それに、学会の事 をどうのこうの言うのであれば、学会寄進の寺院の御本尊の願主“池田 大作”という脇書を消している寺があるのはどういう事だ?!」

偽本尊問題N。3 

相貌

M「学会の下付している日寛上人の御本尊は略式本尊であり、八界しか書か れていない。だから、ニセ本尊である」

S「御本尊の相貌を我々がとやかく言うのはいけないぞ?大体、戦前戦後に かけて、宗門が学会員に下付していた御本尊は享保三年の日寛上人の御 本尊だった。相貌は一緒のはずだが、これはどう説明するつもりか?又、 法主日顕も功徳に変わりないと言っているではないか。あなた方が日寛上 人の御本尊を否定すればするほど、宗門自体を否定することになる。それ が解って言っているのか?」 模刻問題 M「(慧妙を持ち出して)学会は、勝手に御本尊を模刻していたんだってね」

S「なにを根拠にそんなことを。だいたい、その話をしていいのか?昭和五十 三年十月三日の院達にこうあるぞ。「今後は創価学会の板御本尊のことに 関しては、一切論議を禁止する旨、御法主上人猊下より御命令がありまし たので、充分御了知下さるよう願います。」と。これはどういう事だ?」

M「そうだよ。それは、あの当時、学会は八体の板御本尊のうち七体の板御 本尊を宗門にお返しして、反省していたからこそ、我々だって、あの当時に は何も言わなかったんだ。しかし、今になって、また日顕猊下を非難するよ うな態度を取るから、今こうして話しているんだ」

S「ほう、じゃあ日達上人を否定するんだ?」

M「別に否定なんかしてないよ。何を言ったって謗法をしているんだから、学 会は」

S「何を言っているんだよ。昭和五十七年の裁判で藤本は、本尊模刻 について「謗法ではなく、手続き上の問題でした」と発言しているのは、どう いう事だ?」

M「藤本総監は「無断で書写すれば謗法になります」と言っているだろう」

S「言っているよ。だから我々だって猊下の許可を得て行っていたんじゃない か」

M「猊下の許可を得ていた?おかしいなあ。じゃあ聞くが、昭和四十九年九 月二日の連絡会議の席上で本部常住の御本尊を板御本尊に謹刻したいと の申し出をしたのは知っているな?」

S「もちろん知っているよ」 M「しかしだ、板御本尊のほぞに刻まれていた年月日は、昭和四十九年四月 となっていた。これは明らかに申し出をする以前に謹刻していたことを示し ているではないか」

S「すり替えるのもいいかげんにしろ。大体、賞与御本尊と、本部常住御本尊 とをごちゃまぜにするな。あなたたちが言う昭和四十九年四月と刻まれてい る板御本尊は正本堂賞与御本尊の事であり、昭和四十九年九月二日に申 し出をした本部常住御本尊は同年秋、板御本尊に謹刻している。更に付け 加えるなら、あの当時、実際に彫っていた張本人、赤沢朝陽さんが、「日達 上人が最初から了解されていたことも、私は庫接、確認しています」と発 言しているんだぞ」

M「赤沢なんて、裏切り者の言うことが信用できるか」

S「ならば、証人はいるのか?こちらには当時、実際に彫っていた赤沢さん が言っているんだ。証人も証拠も無しで、信用できないと言うなら、話になら ないぞ」 血脈問題 法主の血脈信仰の依文 ※「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり」 (生死一大事血脈抄P1338L11)

M「血脈というのは、唯受一人の法主のみが受け継ぐものである、だから、法 主を否定する創価学会には信心の血脈が無く、信心をしても無益である」

S「御書の生死一大事血脈抄でいわれている信心の血脈の捉え方が間違っ ている。御書の中での血脈とは、

1.「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く 差別無しと解りて南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血 脈とは云うなり」 (生一死大事血脈砂P1338L11)

2.「過去の生死・現在の生死・未来の生死、三世の生死に法華経を 離れ切れざるを法華の血脈相承とはいうなり」 (生一死大事血脈抄P1337L10)

3.「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成し て異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の 血脈とは云ふなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり」 (生一死大事血脈抄P1337L12) 以上の三つの信心の実践の中に、大聖人様の血脈が流れると仰せです。

故に、御書の通り実践しているのが創価学会であり、創価学会に日蓮大聖 人の血脈は流れていることは明白である」

●「日蓮日興唯授一人の相伝血脈は、その信心において万人に通ずる のであり、かかる信心の血脈が正法の僧俗一切の行学の根底でありま す。故に、大聖人より日興上人への血脈が貫主一人しか解らぬ独断 的、偏見的な仏法などというのは血脈の真義を解せぬ者の戯言であり、 信心の一念に法水が流れるところ、有智、無智を問わず、万人のために 即身成仏の功徳が実証として開かれているのであります」 (霊法虫払大法会 御影堂にて法主日顕言葉)

●「又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむ けば成仏思ひもよらず」 (曽谷殿御返事 P1055L11) M「総別の二義は日蓮大聖人様の二義である。(御書が総付属、唯受一人の 法主が別付属)総付属は、我々衆生が仏法を広めることであり、別付属が 唯受一人の法主である。故に、法主に逆らう創価学会は、総別の二義にそ むいているので、成仏は出来ない」

S「ここで言われている総別の二義とは、日蓮大聖入の仏法ではなく、釈尊虚 空会の儀式での総別である」 立証―先の文の次の部分に以下のようにある。 ・「例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は、全く弥 陀・薬師に遇ひて成仏せず。譬へば大海の水を家内へくみ来たらんには 、家内の者皆縁をふるべきなり。然れども汲み来たるところの大海の一 滴を閣きて、又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり、大愚癡なり。 法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさ ば必ず輪廻生死のわざはひなるべし」 (曽谷殿御返事 P1055L12)

ここで言う「例せぱ」とは、総別の二義を説明している事を指している。たとえ ば、ここでの意味は釈尊に下種された声聞は、他の仏に会って教えを請うて も成仏は出来ない。「根源め締を忘れて、余へ心を…(略)」を併せて考える に、ここでは師匠を間違えてはならないとの説明である。

・Mの主張のように、この文が大聖人の総別の二義であるならば、末法の衆 生の我々にとって、どう考えても師匠は日蓮大聖人しか存在しないので、 師匠を選べと言う例は適切ではない。ところが、釈尊虚空会の儀式での総 別の二義の場合は、付属をした根源の師は、釈尊であるけれども末法の衆 生の我々から見ると、師匠は別付属された日蓮大聖人様である。故に師匠 を間違えてはいけないと言う例題が適切になる。

よってMの捉え方は間違 いであると言える。 ※「この経は相伝に有らざれば知り難し」 (一大聖教大意P398乙L3)

M「この信心は相伝を受けなければ、理解することは出来ない。相伝とは唯受 一人の法主にのみが相伝されるものであって、凡夫の我々には到底知り得 るものではない。故に、猊下に背く学会はこの信心を理解することは出来な い」

S「相伝、相伝と言うが、その相伝とは一体何なのか?」

M「唯受一人の法主にのみ解ることであって、我々凡夫に解ることではない。 故に我々は、御法主上人に御指南を受け、信仰して行くことが正しい信仰 である」

S「それでは、法主のみに相伝があると言う、文証はありますか?」

M「ある。御書「P880産湯相承事L5」聖人の言く此の相承は日蓮嫡嫡 一人の口決・唯授一人の秘伝なり神妙神妙とのたまいて留め畢んぬ」 とあるではないか」

S「では、末法の御本仏たる日蓮大聖人様の唯受一人は誰でしょうか?」

M「日興上人に決まっているじゃないか」

S「そう、日興上人ですよね?その末法の御本仏から直接相承を受けた日 興上人様が、未来の広宣流布を憂いて、残されたのが「日興遺讃置文」で す。その中に、「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば 之を用ふべからざる事」とあるではないか?!だから我々は、日顕を用いない。 それに我々を切ってきたのは、日顕自身だろう!」

ポイント―別の切り口として M、相伝の中身は法主にしか、わからないと主張する。

S「相伝に有らざれ知り難し」と、偉そうに引用しておきながら、自分達は それが何かもわからないのか?それじゃ、俺が教えてやる」 ・「此の文に於いで重重の相伝之り、神通之力とは我等衆生の作作発 発と振る舞う処を神通と云うなり」 (御義下口伝 第二如来秘密神通之力の事 P753L2)

・「森羅三千の当体悉く神通之力の体なり」 (御義下口伝 第二如来秘密神通之力の事 P753L1)

・「成仏するより外の神通と秘密とは之無きなり、此の無作め三身をば一 字を以て得たり所謂信の一字なり」 (御義下口伝 第二如来秘密神通之力の事 P753L2)

S「…とある。大聖人の仏法は、御本尊への信の一字をもって成仏へのカギが あると、教えられている。そしてこれこそが、重重の相伝であると、言われて いる。今さら、猊下だけしかわからない事など何も無いではないか!」

M「では日顕上人が一体どんな己義を構えたと言うのだ?!」

S「最近の日蓮正宗は、教義が変わったようで、三宝がすべて法主とのことで すが?これを己義と言わず、なんだと言うのです?」

M「馬鹿なことを言うな、御内証の立場から言えば、昔から猊下も大聖人と不 二の尊体である。」

S「では聞くが、「平成3年7月30日付け宗門の能化が学会牧口門下生等に 宛てた文書」で、法主は大御本尊と「不二の尊体である」と主張し、この法 主と大御本尊の「根本の二つ」に対する信心は絶対でなくてはならないと している。



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