対・妙観講 対策マニュアル(青梅区広宣部企画室作成)
〈「ニセ本尊」問題について〉
「狂本」P22~:
日顕宗では、学会で下付している御本尊を『ニセ本尊』といっている。その理由として、以下の点を挙げている。
①
法主の許可を受けていない
② 総本山から下付されたものではない
③
創価学会が勝手に作成したものである
④ 本因妙抄に「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり」(御書877頁)とある通り、御本尊に関する権能は法主に限られている
【破折その1】③について
創価学会授与の御本尊は『目寛上人書写の御本尊』です。「勝手に御本尊を作成した」ことはありません。日蓮大聖人が御図顕された一閻浮堤総与の大御本尊から目寛上人が正しく書写した御本尊を「授与」している創価学会に対して、あたかも創価学会が独自に「書写」して作り出しているかのような錯覚に陥れようとしている。日顕宗は「作成」という言葉に「書写」と「授与」を意図的に混同させ、目覚上人書写の御本尊まで『ニセ本尊』と断定するという、悪質な言い掛かりである。
むしろ日顕宗が勝手に下付を停止したために、日蓮大聖人の仏法を広宣流布している「和合僧団」としての使命と責任のうえから、学会が「正しい御本尊」を授与しているのである。
【破折その2】①②について
「御本尊授与には、法主の許可と総本山からの下付が必要」という御金言はない。むしろ御本尊授与は「仏の慈悲」であるというのが大聖人の教え。その慈悲をなくし、一方的に下付を停止したのは日顕宗である。「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裏み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」(観心本尊抄、御書254頁)
「末代幼稚」でも成仏できるように大聖人が計らってくださった御本尊を「授与しない」ということ自体、大聖人への違背である。
大聖人の教えにないことを勝手に作り出すことこそ、大聖人に違背している。「仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か」(唱法華題目抄、御書9頁)
「御本尊を勝手に使うな」という日顕宗独自の教義は、紙幅の本尊に対する日顕の独占欲がその本質である。それが「法華経の行者」として戦うことのない日顕宗にとっての、唯一にして最後の拠り所だからである。しかし「法華経の行者」こそが本尊であると大聖人は仰せである。
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝、御書760頁)
【破折その3】
④
について
日顕宗が御本尊をタテにとって学会を攻撃するときに悪用する御聖訓である。
ここにいう、嫡々座主伝法の書である「血脈」「本尊の大事」とは、「血脈」=「百六箇抄(別名・血脈抄)」「本因妙抄」のことであり、「本尊の大事」=「御本尊七箇相承」のことである。いずれも相伝書を指すものであって、御本尊授与の権能のことではない。意図的な悪用である。
ちなみに引用部分は、御書でも文字が小さくなっており「後加文」(=後の時代に付け加えられた個所)であることも付言しておく。
また、上記の相伝書については
本因妙抄……大石寺5世目時・要法寺日辰・保田妙本寺日我の3つの写本を基にしている。
百六箇抄………要法寺日辰・保田妙本寺日我の写本から写す。
七箇相承………保田日山の写本等を参考にしている。 つまり、いずれも「大石寺だけに唯授一人で相伝されてきたもの」ではないのである。
(参照)『富士宗学要集』(1巻、8頁)
「狂本」P280~
日顕宗は、学会授与の御本尊に難癖をつけるために、
①
学会の本尊には、法主の開眼も許可もない。
②
もともとの御本尊にしたためられていた「授与書き」を勝手に抹消している。
だからニセモノだと言っている。
【破折その1】
①
について
御本尊に「法主による開眼」が必要というのは、御書にない邪義である。
これは歴史の事実に照らしても全くのウソ八百である。かつて宗門の末寺は、それぞれの寺にゆかりの法主が書写した御本尊を下付していた。もちろん「法主の開眼」などはなかった。
また、学会員が草創期に授与されていた日寛上人の享保3年の御形木御本尊は、昭和30年代には東京・池袋の法道院で印刷していた。全国の末寺は大石寺を経ずに直接、法道院から受け取っていたのである。
法主の開眼が必要というのは、歴史的にみても間違っているのである。
【破折その2】②について
御本尊の余白に記されている、授与を受けた人の名前(=授与書き)は、授与を受けた人がそれまで強盛に信心を貫いてきた功績をたたえ、証明する意義がある。しかし、授与を受けた人の名前は御本尊の本体に属するものではなく、御本尊の力用とは一切、関係ない。
御書にも「所賜の本主の交名を書き付くるは後代の高名の為なり(富士一跡門徒存知事、御書1606頁)とある通りである。
ちなみに、日顕宗の言い分通りならば、日顕宗の寺の本尊で「願主池田大作」という文字を削り取っているものも「ニセ本尊」になることを指摘しておく。
ついでながら、
日興上人は「志有る者には本尊を授与し給ふに時を選ばず」(富士宗学要集第5巻175頁)と仰せになり、88歳で遷化される寸前まで御本尊書写の筆を執られ、授与に務められた。
広宣流布への志がある学会員に対して「授与しない」という日顕が、日興上人に違背していることは言うまでもない。
〈学会員はなぜ日寛上人の御本尊に取り替えるのか〉
「狂本」P183~:
学会で授与している日寛上人書写の御本尊について「ニセ本尊」だから、取り替えるのはおかしいなどと難癖をつけている
【破折その1】
御本尊のお取り替えは、宗門の歴史をみても全く珍しいことではなかった。宗門の伝統的な教学から見ても「御本尊の取り替え」は教義的には何も問題がない。だから教義的には一切、破折することができない。しかし日顕にしてみれば、日顕書写の本尊が次々と目寛上人書写の御本尊に変わっていく姿を「ただ指をくわえて見ているだけ」というわけにはいかない。そうした宗門の焦りから生まれた「言い掛かり」なのである。
【破折その2】
現在、学会で授与している御本尊は「中興の祖」として偉大な功績がたたえられる目寛上人による書写。「シアトル事件」「芸者写真事件」「デマ事件」などで敗北した「大謗法」「大ウソつき」の日顕と比べれば「天地雲泥」の立派な法主である。どうせ拝むならば、日顕が書写したものよりも、目寛上人が書写した本尊に替えたいと思うのは、極めて自然である。
「本尊がイヤ」だからではなく、書写した「日顕がイヤ」だから、お取り替えするのである。
【破折その3】
人物としての日顕も最低最悪であるが、日顕の御本尊書写の姿勢も、いい加減極まりない。次のような証言がある。
証言1“日顕は御本尊を書写するにも、いい加減で、ズボラだった。夏の暑い日には、ステテコ姿で、気が乗らない様子で、御本尊をまたいでウロウロと歩き回っていた。本当に驚いた”(大石寺の建築工事に携わった大工さんの証言)
証言2“ステテコ姿で落語のテープを聞きながら、ヘラヘラと本尊を書写していた”(改革同盟・宮川雄法さんら)
〈日顕宗の血脈論〉
日顕宗の「折伏狂本」では「血脈」について大要、次のように述べている。
「狂本」P12、P17~、P269~:
血脈に「法体の血脈」と「信心の血脈」の立て分けが存在するということは、宗門における不変の教義である。そのうち、衆生の成仏に不可欠な「信心の血脈」は「唯授一人の血脈」に従う人にのみ流れ通う。
このことは「血脈の次第日蓮日興」(御書1600頁)と書かれた「身延相承書」と「池上相承書」(合わせて「二箇相承書」という)からも明らかである。
【破折その1】
日興上人・日目上人には伝わったとしても、日顕には伝わっていない
結局、日顕宗が言いたいのは「法体の血脈」は法主にだけ流れるから法主を敬え、ということのようである。しかし、その根拠として挙げている日蓮大聖人の御書は二箇相承書だけである。
二箇相承書は、いずれも大聖人から日興上人に一切を付嘱したことを書き残されたものである。日興上人に付嘱されたものと全く同じものが歴代法主に自動的に伝えられるとは、一言も仰せになっていない。
狂本で引用されている「身延相承書」では「血脈の次第日蓮日興」とあるだけで、日興上人以外の他の歴代法主のことなど一言も出てこない。しかも身延相承書では、日興上人に伝えられたのは「日蓮一期の弘法」であり、日興上人を「本門弘通の大導師たるべきなり」と仰せになっている。簡単に言えば「広宣流布の総大将である日興上人に、日蓮がこれまで広めてきた法を付嘱する」ということに他ならない。創価学会が出現するまで700年もの間、宗門が広宣流布を全く進めてこなかった事実を見れば、大聖人が日興上人に付嘱した「日蓮一期の弘法」は宗門ではなく、むしろ学会にこそ流れ通っていると考えるのが自然である。
また狂本では、日興上人から日目上人への付属書である「日興跡条々事」をもって「歴代法主全員に大聖人以来の血脈が流れている」ことの証拠にしたいようだが、これも、あくまで日興上人から目目上人に伝えられたことの文証にすぎない。歴代法主、ましてや「破和合僧」をはじめ数々の大罪を犯した「ニセ法主」の日顕とは無関係である。
※身延相承書(御書1600頁)日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年壬午九月 日 日蓮在御判 血脈の次第日蓮日興
【破折その2】
「信心」あるところに流れ通う
狂本では文証として第9世日有上人の「化儀抄」の文「信と云ひ血脈と法水と云ふ事は同じ事なり」を引いて〈「法体の血脈」を根本とした上での「信心の血脈」の大切さを教えられている〉などと言っている。
日亨上人(59世)が化儀抄を注釈した「有師化儀抄註解」では、この部分について「此の信心に依りて御本仏より法水を受く、其の法水の本仏より信者に通う有様は・人体に血液の循環する如きなるものに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に……」と書かれている。
つまり「信心」ある者のところに、あたかも人体に血液が流れ通うように「法水」が流れ通うという意味なのである。法主にだけ流れるのが「血脈」なのではない。ましてや法主にだけ「法体」が伝わるわけではない。あくまで「信心ある全民衆」に開かれているのである。
【破折その3】
「生死一大事血脈抄』の御金言
日顕宗は〈唯授一人の血脈を離れて「信心の血脈」はない〉などと、御書にない説を唱えている。この「信心の血脈」について大聖人は「生死一大事血脈抄」で、次の3点を挙げられ、これより他の血脈を求めてはならないとされている。
※生死一大事血脈抄(御書1337頁)①久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり②過去の生死現在の生死未来の生死三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり③総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり結論④相構えて相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり
【破折その4】文証がないのは邪義
以上、見てきたように「法主にのみ伝わる血脈」なるものは、まやかしであるが、その第一の理由は「証拠がない」ことである。
祈祷抄(御書1355頁)若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり
聖愚問答抄(御書482頁)天台大師の云く「修多羅と合する者は録して之を用いよ文無く義無きは信受す可からず」文、釈の意は経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり、伝教大師の云く「仏説に依態して口伝を信ずること莫れ」文、前の釈と同意なり
真言見聞(御書148頁)玄の三に云く「文証無き者は悉く是れ邪偽・彼の外道に同じ」文、弘の十に云く「今の人他の所引の経論を信じて謂いて慧み有りと為して宗の源を尋ねず謬誤何ぞ甚しき」文
〈「五十二年教義逸脱問題」とはどのようなものだったのか〉
「狂本」P75~:
昭和五十二年には、学会に批判的な僧侶に対する吊るし上げを次々と行い、公然と宗門批判僧侶否定の指導をするようになりました。
「教義逸脱」の主なものとして、以下の6点を挙げている。
①
創価仏法の原点は、戸田会長の獄中の吾達にある
②
途中の人師論師は無用である(唯授一人の血脈否定)
③『人間革命』は現代の御書である
④ 池田会長は主師親三徳具備の大導師である
⑤
寺院は単なる儀式の場、会館は広布の道場である
⑥ 供養は在家でも受けられる
【破折その1】
日顕宗は“学会が坊主を吊るし上げてから52年問題が起こった”というが当時、千葉蓮生寺の菅野憲道が学会批判の論文を「冨士学報5号」に掲載したが、この事実を学会側に知らせたのは当時、教学部長をしていた阿部日顕である。そして日顕は学会本部へ出向き謝罪し、菅野に詫び状を書かせ、問題となった「冨士学報」の回収まで行った。いわば日顕が学会に「吊し上げて下さい」と頼み、吊し上げさせたのである。
【破折その2】
「教義逸脱」という6点についての破折。①戸田会長の悟達については、当時すでに『人間革命』に掲載されていたが当時は、まったく問題視されなかった。②御金言の通りである。「唯人師の釈ばかりを懸みて仏説に依らずば何ぞ仏法という名を付くべきや言語道断の次第なり」(持妙法華問答抄、御書462頁)③単なる比喩である。しかも③一⑥は福島源次郎などが個人的見解として述べたものである。もとより学会全体の公式見解ではない。④法華経を弘める者は三徳が備わるとの御金言の通りである。「法華経をひろむる者は日本国一切衆生の父母なり。章安大師云く。『彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり』等云々。されば日蓮は当帝の父母・念仏者・禅宗・真言師等が師範なり。また主君なり」(撰時抄、御書265頁)⑤全くその通りである。逸脱でも何でもない。⑥御金言の通りである。「仏云く『この袈裟をば汝母に供養すべし』」(富木殿御返事、御書968頁)
〈「五十二年教義逸脱問題」は、どのような形で収束したのか〉
「狂本」P78~:昭和五十三年六月三十日、創価学会は聖教新聞に「教学上の基本問題について」と題して、教義逸脱に関する訂正文を掲載しました。しかしその内容は不明瞭で、会長である池田大作の責任を明らかにするものではありませんでした。
【破折】
既に述べた通り「教義逸脱」は、もともとなかったのだから訂正のしようがない。訂正しようがないのだから、内容が不明瞭になるのは当然で、池田先生の責任に言及するはずもない。
ではなぜ「教学上の基本問題について」を聖教新聞紙上に掲載したのか。それは山崎正友のリークした情報で正信会が宗門を突き上げ学会批判を展開したという背景があり、当時の宗門はこの動きを統御できなかった。もちろん池田会長及び学会幹部は僧俗和合のために関係修復を試みたものの、当時の宗門には正信会を説得するカはなかった。そこで学会は「広宣流布」「僧俗和合」を第一義と考え、「教義逸脱はない」と分かっていながらも苦渋の選択として聖教新聞紙上に訂正文を掲載した。宗門のために「泥をかぶった」のである。
「狂本」P78~:
さらにこのころ、創価学会による本尊模刻問題が発覚し、同年九月二十八目学会は急きょ、七体の模刻本尊を総本山に納めました。
※模刻=紙幅の本尊から板本尊にすること
【破折その1】
結論は「模刻問題の原因は目達法主。正信会が後に騒ぎ出したもの」である。
この問題は、学会本部の御本尊を謹刻(=模刻)したことを、日達法主が「日昇上人の御本尊の彫刻については、前に話があったか記憶にない。許可した覚えもない。正月登山の時に会長から『板本尊にしました』という報告はあった」と発言したことに端を発する。しかし当時は紙幅本尊を板本尊にする模刻(御謹刻)する際は全て口頭で日達法主に了承を得ていた。日達法主は事前に模刻を承知済みで問題視していなかったのである。
赤沢猛氏(宗門御用達の仏師)の証言
①昭和48年の暮れに、学会本部から「学会の御本尊を何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は「猊下に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。それで年が明けた1月に、池田先生にお会いした折、先生のほうから「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。(平成5年9月30日付聖教新聞から)
②(昭和49年秋、大奥の対面所で目通りした時)猊下は本来の用件が終わり、いったんお帰りになられようとしたんです。それが思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤沢で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。(中略)(私は)「そうです」と答えました。すると猊下は「ほかのもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が狙下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げたところ、「うん。池田会長から聞いているよ。あと五、六体やらせてもらいたいと言ってたな。大事なものだから、気をつけてやってください」と言われ、それで部屋を出ていかれたんです。(平成9年10月18日付聖教新聞から)
総監・藤本日潤の発言藤本は、正信会関連の裁判に出廷し、御本尊の謹刻について「謗法ではない」と証言していた(正信会側弁護士からの質問に答えて。昭和58年7.月8日、東京地裁)
日達法主の指南“個人が受けた御本尊だから、その人又は会の宝物だから、どのように格護しょうと他がとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは、前からも行なわれている”
では、これだけの客観的な証拠がありながら何故、学会は当時「潔白」を主張しなかったのか。それは「僧俗和合」の立場から、あえて日達法主を守ったのである。
【破折その2】
(52年問題を通じて言えること)当時の宗門、今の日顕宗が「52年問題」で騒ぐのが、ただの「言いがかり」に過ぎないことは明らかである。これらを問題にしたのは、昭和55年に恐喝事件を起こしたペテン師の山崎正友である。山崎が正信会の坊主をけしかけ、宗門と学会の間に問題があるような状況を作り出したのである。このことは、恐喝事件の捜査の過程でも明らかになったものである。最終的に山崎には昭和60年、懲役3年の実刑判決が下り、平成3年に確定している。
つまるところ「第1次宗門事件」とは、山崎に騙され、かき回された宗門の問題でもあったのである。〈参照〉『許されざる悪徳元弁護士一山崎正友の正体』『誑し屋』(第三文明社刊)『暁闇』(平安出版刊)など
〈宗門は「法主本仏論・法主絶対論」を主張しているのではないか〉「狂本」P256~:日蓮正宗には、初めから「法主本仏論・法主絶対論」などはありません。
【破折】宗門は「法主本仏論」「法主絶対論」を主張していたか、否か?答えは明白、宗門は「法主本仏論」「法主絶対論」を主張している。
●「法主本仏論」について 平成3年8月の行学講習会(宗門の公式行事)で元海外部書記の福田毅道が「大聖人・日興上人をはじめとする歴代の法主は「迹」(影)にすぎず、現法主の日顕が「本」(本体)である」と発言している。明々白々な「法主本仏論」である。
●
「法主絶対論」について
平成3年11月28日の「創価学会破門通告書」には「(前略)すなわち、法主は、血脈法水のもとに、本尊書写並びに教義に関する正否の裁定をはじめ、仏法の化導における一切の権能を備えるのであります。故に本宗の僧俗は、自行においても、また広宣進展の上からも、法主の指南に信伏随従しなければなりません」とある。
明々白々な「法主絶対論」である。しかも創価学会を“破門”した時の公式文書で表明したのである。
これらの事実を前に、如何に言い逃れようとも無駄である。
宗門は“「法主本仏論・法主絶対論」を教義の根本とした「邪宗・日顕宗」”であるということは、動かすことのできない事実なのである。
〈日蓮正宗は今や「日顕宗』になっているのではないか〉
今回の「狂本」で日顕宗〈日蓮正宗は、いまや「日顕宗」になっているのではないか〉との項目をたてているが、このこと自体、自分たちが「目顕宗」と呼ばれること嫌がっている証拠であり興味深い。彼らの言い分に沿って「日蓮正宗を『日顕宗』と呼ぶ理由」を確認したい。
「狂本」P248:
日蓮正宗が、宗祖日蓮大聖人よりも御当代日顕上人を教祖のように崇める集団に変質したと会員に思わせるため
日顕自らが次のように発言している。
“学があろうが、なかろうが、どんな僧でも相承を受けた以上は「生身の釈迦日蓮」である”(平成9年8月28日、大石寺での教師講習会)
つまり「相承を受け、法主になった以上は、自動的に“生身の釈迦日蓮”だから、法主を敬え」と、法主である日顕への崇拝を求めている。日蓮大聖人の教えよりも日顕を崇める。だから「日顕宗」と呼ばれるのである。
「狂本」P248:
日顕上人が、創価学会を破門した張本人であると会員に思わせ、会員の憎しみを日顕上人お一人に集中させるため
いうまでもなく、学会破壊の謀略である「創価学会分離作戦=C作戦」を企て、平成2年12月末の、突然の名誉会長の総講頭罷免を皮切りに実行に移したのは日顕である。
①
日顕は平成2年12月25日、反学会のブラックジャーナリストらとの謀議の席で“学会員のうち20万人が本山につけばいい”と発言した。
②「C作戦」に向けた謀議の場でも一番の強硬派が日顕であった。これは平成14年11月に死んだ河辺慈篤のメモからもハッキリしている。
③ 河辺メモによれば「C作戦」と命名したのも日顕である。
④ 平成11年12月の説法でも日顕は‘‘私が総講頭を罷免するための宗規改正を決断した”と発言。実際に作戦を決行したのが日顕本人であることを白状している一挙げれば枚挙に暇がないが「C作戦」は、一から十まで日顕が主導したのである(参照:当資料の次ページ)。
広宣流布を現実の上で進めている創価学会を破壊しようとした一。宗祖大聖人の御精神など全くなく、ただ日顕個人の“学会憎し”の感情のみに支配された“邪教団”であるがゆえに「日顕宗」と呼ぶのである。
〈宗門はC作戦を画策していたのではないか〉
「狂本」P295~:日顕宗では、「C作戦」は存在しない。学会が捏造したものだなどと言っている。
【背景と大意】
学会を破壊する日顕の謀略「C作戦」の動きが表に出たのは平成2年12月27日。池田名誉会長を総講頭から罷免したという記事が一般紙に掲載された時のことである。
今回の「狂本」にみられるように宗門は、ことさら「C作戦」を否定したがるが、それは何故か。
創価学会は宗史建立以来、初めて世界広宣流布の流れを作った団体である。広宣流布を事実の上で進めてきた「和合僧団」である。その和合僧団を破壊しようとすれば「破和合僧」という仏法上最も罪が重い「三逆罪」「五逆罪」の一つを犯すことになる。仮にも法主である日顕が破和合僧を犯したとなれば歴史に大汚名を残すことになる。だから、宗門は「C作戦」の存在を躍起になって否定するのである。
逆にいえば「C作戦」の存在を証明すれば、日顕は「法主失格」「広宣流布の破壊を企む」の天魔と言えるのである。
以下「C作戦があった」という証拠を挙げる。
【証拠その1】
福田毅道からのFAX
平成3年1月、当時、宗門海外部門主任であった福田殻道がSGI職員に送りつけたFAX文書に前年の夏以来、密議されてきた「C作戦」が明記されている。また、同じ文書には「国内の創価学会組織のみならず海外のSGI組織についても、徹底して切り崩し、破壊してまいります」「私はSGIに宣戦布告いたします」などと書いてあった。
【証拠その2】
一般の雑誌などからも「C作戦」の存在が明白に
平成2年9月20日号の『週刊文春』の記事「国税庁に注意された高級イクラ疑惑」の中に“名誉会長打倒を掲げた「C作戦」を持って本山の坊主を訪ねた人間がいる”という文脈で「C作戦」という言葉が明確に登場している。
『週刊朝日』(1991年1月25日号)には「総本山が半年前に企てたC作戦」との記事が掲載。“C作戦が、実は昨年7月末すでに計画されていた”と暴露している。
【証拠その3】
河辺メモ
平成6年には「裏法主」河辺慈篤が書き残した「河辺メモ」が発覚し、そこには平成2年7月に行われた「西片会議」「御前会議」の内容が克明に記録されていた。
「話題は、池田追放の方向で進められ、猊下、八木、関共に“池田追放”で強硬意見」「河辺=それでは、この作戦はG作戦だ。猊下=それは違う、Cだよ」と日顕自らが命名したことまで明確になっており、最も学会を切りたかったのが目頭である事実がハッキリした。 河辺メモは「あれは俺の字だよ。間違いない」と河辺自身が明言した通り、本物であることも明確になっている。平成9年4月17目、青森地裁弘前支部の法廷で庶務部主任・斉藤栄順も証言。
【証拠その4】
山崎正友が日顕に授けた「C作戦」
恐喝事件を起こしたペテン師・山崎正友と最後まで一緒だった正信会の浜中和道の「回想録」に、重大な証言が出ている。
日顕が学会に「お尋ね」文書を出し「C作戦」を断行した直後の山崎正友とのやりとりを再現している。(聖教新聞2000年11月8目付「青年部座談会」ほか)
浜中「今度の問題に噛んでいるのか?」
山崎「当たり前だろ。誰があのテープを阿部さん(=日顕)の手元に届けたと思ってんの。誰が『C作戦』を授けたと思ってんの」
「刑務所に行くまでの時間稼ぎだよ。その前にやることをやって、僕が出て来た時の足場を作つとかなきやならないからね」
【証拠その5】
“ワシが決断した”
日顕は「C作戦」については知らないとシラを切っていたが、平成11年12月19目には次のように述べている(『大日蓮』平成12年2月号)。
「私が、あの平成2年において、ある決断をしました。そして、その第一歩として行ったことが宗会を招集して『宗規』のなかの法華講本部の規約を改正するということでした。これがたいへん大きな意味を持っていたわけでもあり、ここが根本的なところでした」 「もし、下手なことをやっていたならば、例えば裁判等になった場合、泥沼に足を突っ込んだように、につちもさっちもいかないような状況も出てきたと思います」
総講頭罷免のための宗規変更は日顕本人が決断したことを自分の口で白状しているのである。
【証拠その他】
「C作戦」が密議されて以来、「登山停止」「本尊下付の停止」「解散勧告書送付」「破門通告書送付」など、すべて作戦通りに悪逆きわまる動きを展開したこと自体が、「C作戦」が存在したなによりの「証拠」である。
〈宗門は創価学会との訴訟で連戦連敗と聞いているが〉
「狂本」P337~:
学会との裁判において「宗門側の勝訴率は80%以上」と言っているが、これは明白なウソである。
「勝訴」のスリ替え
宗門が「勝った」と騒いでいる裁判の大半は、元信徒等が起こした裁判であり、創価学会が原告となっての裁判ではない。宗門が起こした裁判の相手は、多くが、宗門を離脱した僧侶であったり、学会とは無関係の団体であったりと、なんでもかんでも「学会『側』」に含めている。それで「学会側に勝った」と宣伝しているのである。だが現在のところ、学会そのものが当事者となった裁判で、宗門が勝訴したものは一件もないのである。
【正本堂供養金の裁判】
「正本堂の建設のために供養したお金を返してほしい」と学会員が訴えていた裁判が数多くある。この一連の裁判では、宗門側に返還を命じない判決が出ている。これらは確かに「宗門が勝った」ことになるが、「宗門が悪くなかった」わけではない。ましてや訴えた学会員に非は何一つない。法律上は返す義務が認められなくても「日顕が正本堂のためにお金を集めておいて、勝手に正本堂を壊して、そのお金を返さなかった」という事実は動かない。日顕側が道義的に「信徒を裏切った」事実は動かせないのである。
日顕宗は「敗訴」のオンパレード
最高裁が「日顕本人」「宗門自体」を7回も“断罪”
逆に、宗門の敗訴は、宗門あるいは日顕が原告ないし被告となってのものであり、その敗訴の中身も決定的である。しかも最高裁で断罪されたものだけをみても、わずか2年余りの問で7件もあるのである。
1.改革僧侶への名誉毀損事件:日顕に30万円の賠償命令。改革同盟の池田託道住職(滋賀・世雄寺)をデマで中傷した日顕が名誉毀損で断罪された。日顕本人の発言が「違法」と判断されたのである(2003年7月15日、最高裁で確定)
2.「シアトル」をめぐるデマ事件:日顕宗に400万円の賠償命令。東京高裁では、日顕本人の責任も認定し、宗門と連帯で賠償を命令された。日顕が首謀したデマ事件で学会が日顕、宗門を訴えていた(2003年9月9日、最高裁で確定)
※「1」「2」の2件は「日顕本人」への断罪である。法主が最高裁から名誉毀損で“断罪”されたのは宗門史上でも前代未聞。一般社会の常識に照らしても法人の代表役員がデマ事件で2度も断罪されるなど尋常ではない。
3.「芸者写真」裁判:1審では日顕宗側の主張を認めたものの、2審の東京高裁は学会側の主張を認め、日顕宗側敗訴の判決を下した(2004年3月24日、最高裁で確定)
4.遺骨大量不法投棄事件:遺骨を使い古しの米袋などに詰めて大石寺境内の空き地に「不法投棄」していた事件で大石寺(代表役員=日顕)に対し遺族4人に各50万円(合計200万円)の慰謝料支払い命令(2003年12月19目、最高裁で確定)※「3」「4」の2件は宗門が裁判で敗訴したもの。裁判では、日顕の腐敗堕落した実態や、宗門の反社会的な遺骨の取り扱いの実態が明らかとなった。
5.妙道寺明け渡し請求6.常説寺明け渡し請求7.大経寺明け渡し請求
いずれも宗門が、改革僧侶に対して「寺を明け渡せ」と訴えていた裁判。改革僧侶側は、いずれも日達法主から住職に任命された。裁判で“相承のないニセ法主日顕には「住職を罷免する」権限などない”と主張して、宗門が敗訴。最高裁で確定している(妙道寺二平成14年1月24目、常説寺=同年1月29目、大経寺=同年2月22日)。
※「5~7」の3件は、いずれも日顕の「ニセ法主」疑惑が原因で宗門側が敗訴した事件である。
〈正本堂建立のとき、どのような問題が起こったのか〉
「狂本」P74一:正本堂の建立・寄進について“学会が勝手に「日蓮大聖人御遺命の戒壇」と主張した”と言っている。
これは明白なウソである。
○
“意義づけたのは宗門”と裁判で認定
元信徒が起こした正本堂の建立供養にまつわる裁判では、当初から宗門が正本堂を「日蓮大聖人御遺命の戒壇」であると意義づけていた事実を認定している。特に判決は当時の日顕当人の態度について、静岡地方裁判所が下した判決(2003年12月19目)に、次のようにある。
「阿部信雄(後の被告日顕)は、昭和41年5月4目の創価学会第29回本部幹部会において、『広宣流布の時とは創価学会の出現であり、その指導者たる会長池田先生が身をもって示される御法主上人と宗門に対する不惜身命のご守護をもって、いよいよ広宣流布の時が到来したと断言してはばからない』との祝辞を述べ」
「昭和47年3月26目には、当時日蓮正宗宗務院教学部長であった被告日顕が、宗門公式見解として、『当然大石寺の正本堂が広宣流布の時に三秘抄、一期弘法抄の戒壇となる』旨発表していた」と認定している。つまり正本堂を「日蓮大聖人御遺命の戒壇」と意義づけたのは宗門のほう、しかも発表したのは日顕だったということである。
O“解釈を変更したのは宗門”とも裁判で認定
さらに、判決は、「それにもかかわらず、その後の平成3年3月9目、自語相違を承知の上で、上記の宗門公式見解における正本堂の意義付けを改訂変更ないし撤回している」と認定。
宗門側は池田名誉会長の昭和43年10月12日の正本堂着工法要における挨拶を裁判に持ち出してきたが、これについても
「これ以前に既に正本堂の宗教的意義付けに関する被告大石寺側の発言がなされていたことは前記説示のとおりである」と一蹴している。
日顕は、宗門ならびに自らが「大聖人御遺命の戒壇」と意義づけ、信徒の真心からの浄財で建立・寄進された正本堂を、勝手な言いがかりで破壊した張本人であることが、裁判でも明確になったといえる。
〈大石寺は、遺骨をゴミ同然に捨てたのではないか〉
「狂本」P304~:
ここでは「大石寺の合葬納骨はズサンではない」「遺骨を不法投棄していない」と言っている。が、明白なウソである。
○
「遺骨不法投棄事件」で裁判所から断罪
大石寺は“合葬”と称して、遺族から預かっていた遺骨を他人の遺骨と混ぜ、使い古しの米袋に詰め込むなどしていた。その遺骨を詰めた米袋のうち150-200袋を、境内の空き地に穴を掘って埋めた。この大石寺のずさんな遺骨管理は、最高裁から断罪され、大石寺に対し合計200万円を遺族に支払うよう命じる判決が確定している(東京高裁03年4月8日、最高裁03年12月19日)。
○
判決が指摘する遺骨管理のズサンさ
(東京高裁03年4月8日判決文より)
言い分1「遺骨が埋められたのは埋葬場所としてふさわしい」
判決→「法要等の慰霊の措置は何らとられていないし、遺骨が埋葬された場所にふさわしい施設も全く設置されていない。要するに、遺骨を境内の一画に投棄したと評価されてもやむをえないものである」
言い分2「投棄する際、日達法主が法要をした」
判決→「執り行われたという法要は、その態様がいかにも不自然であって、このような法要が執り行われたということはにわかに信用することができない」「実際にそのような法要が執り行われたのか、極めて疑問である」「法要については記録には全く残っていないし、何らかの方法で公表されたこともなく、遺族に知らせたこともない」
言い分3「投棄した場所には杉まで植えた」
判決→「遺族の全く知らない間に、境内の誰でも立ち入れる一画に穴を掘って袋に入った大量の遺骨を埋めて土をかぶせ、その上に数本の杉を植えたというにすぎない」
言い分4「投棄した場所には題目碑も建っている
事実→この最高裁判決が出た後、宗門が行った姑息な「アリバイ工作」にすぎない
糾弾
判決“大石寺の遺骨の取り扱いは社会通念に適合しない”
遺骨の取り扱いについて判決(東京高裁、2003年4月8日)では、「主な宗派の総本山及び公営施設における遺骨の合葬・合祀の形態をみると、いずれにおいても遺骨は納骨堂等の内部や地下の空間において丁重に納められており、かつ遺骨が納められている場所に遺族が参拝して故人を追善回向できるような外観・施設を有していること、納骨者である遺族においても、どこの場所に故人の遺骨が納められているのか分かっており、そこに赴いて故人を追善回向できるようになっていることが認められる。遺骨についてのこのような取扱いこそが国民の宗教的感情に適合し、宗教的慣習ないし社会通念に照らして適切な厳粛、丁重な方法であるというべきである」としたうえで、「これと対比して(中略)被控訴人の所為は、控訴人らとの間の納骨契約の本旨に従ったものではなく、被控訴人は納骨契約についての債務不履行の責任を免れないものというべきである」と指摘した。 つまり大石寺のように「使い古しの米袋などに誰の遺骨だか分からないような形で詰め込んで、空き地のようなところに埋める」ということが「国民の宗教的感情」「社会通念」に適合しないものであると厳しく糾弾したのである。この裁定は最高裁判所で確定している(最高裁、2003年12月19日。ちなみに、この日は日顕の81歳の誕生日だった)。