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2010年7月24日投稿

村崎百郎氏、死去

すでにニュース等でご存知の方もいらっしゃると思いますが、
『社会派くんがゆく!』で私とコンビを組んでいた作家、
村崎百郎氏が死去しました。

23日夕、自宅で仕事中にあがりこんできたファンを自称する
男に刃物で胸を20数回、刺されて即死状態だったそうです。
犯人は村崎さんの書いた実践本(『鬼畜のススメ』か?)
に“裏切られた”と言っているとの報道がありました。

やり場のない怒りに身をふるわせるばかりです。
48歳、これから作家としての本領を発揮できる年齢で、と
思うと歯がみしたい思いです。
彼とは10年にわたり、『社会派くんがゆく!』で、猟奇的
事件を扱った対談を続けていました。その当人が、まさか
このような猟奇的事件の被害者になるとは……。

パートナーである森園みるくさんも村崎さん以前からの知り合い
であり、一時は村崎さんが露悪的に二人の熱々ぶりを電話で
話してきかせてくれたりして、いいコンビだと思っていました。
今はかける言葉もみつからない状態です。

一報が入ったとき、最初は頭がその情報を拒否して、何かの
悪い冗談だろう、としか思えませんでした。編集部にかかって
きた相手が某新聞社の名前を名乗ったそうで、悪質ないたずら
ではないか、そうであってほしい、と願いながら、その新聞社
に務める知人に急いで確認の電話をしてみて、真実であると
知りました。

今は多くを語るべき時ではありません。
また、その余裕もありません。
10年コンビを組んでいた人間の突如の異常な死に
まとまった言葉を選べるわけもありません。

ただ、これだけは言いたい。
私の知る限り、村崎さんは最良の文化人の一人でした。
そして、情の深い男でした。
その、自分の教養とセンシティブさを、あのような鬼畜のキャラで
鎧い隠さねば、この世界でやっていけなかったのでしょう。
それが“時代”だと言えば、哀しい時代にわれわれは生きていました。
『社会派くん』対談では、ことに最近は、村崎さんの発言は
鬼畜どころか、むしろ社会の不条理に、被害者の非運に
憤慨する、いち常識人と化していました。
もちろん、それはテープ起こし校正の段階であとかたもなく
消えるわけですが、読んでみれば、露悪的なセリフの間に
にじみ出る、村崎百郎の、人間という存在に対する愛情と
いうものははっきりわかったでしょう。
村崎さんも、読者がそれをちゃんと読み取ってくれるという
信頼の上に、あのキャラクターを作っていたのです。

もし、犯人が言ったという“裏切られた”という言葉が、その、
村崎さんが作ったキャラクターと、現実の彼のギャップを
指すのだとしたら……。
ライターたちにとり、これは恐怖です。

また、犯人はサンケイスポーツの記事によれば、
2ちゃんねるで彼の自宅住所を調べ乗り込んだようです。
人の住所をネット、ことに大多数が悪意を持って見る2ちゃんねる
のような場所にさらす行為というのは、もはや殺人幇助、
いや教唆と言えるのではないかと思います。
いや、思えばネット上にどれだけ、人の命を軽んじる
発言、脅迫としかとれない発言が蔓延しているか。
正常な判断力を持たないものが、そこからの情報をウのみにして
行動に及んだとしたら……。事件後、私にインタビューしてきた
マスコミ各社も、多くはそのことに言及していました。
ことを村崎百郎一人の特異なケースにしてはいけない。
第二、第三の彼を出してはいけない。
そのような思いをただ、反復しながら、今、彼との
10年にわたるつきあいを記憶の底から甦らせています。

彼の、カルチャー界における位置づけなどに関しては、
あらためて、また。
……おっと、あんな連載のコンビです。
少しは不謹慎なことを言っておかないと彼に怒られそうです。
「いいなあ、これでサブカル界のジョン・レノンって呼ばれるぜ!」
…………いいかい、これで?

船をひっくり返した男【訃報 ロナルド・ニーム】

映画監督ロナルド・ニーム、6月16日に死去。99歳。
かの『ポセイドン・アドベンチャー』で一躍名を上げた監督
であるが、それまではこの人の名は主にテレビの洋画劇場で
ときおりかかる、小じゃれたユーモア・アクションで
覚えたものである。ジャームズ・ガーナーがとぼけた
ヒーローを演じる『ダイヤモンド作戦』とか、マイケル・ケイン
とハーバート・ロムの演技対決が面白かった『泥棒貴族』など、
どちらもテーマ曲が素晴らしかったこともあって印象的で、
イギリス出身の監督らしいユーモアが随所に光るところが
お気に入りだった。

そういう作風の監督がどうしてまたパニック映画に抜擢されたのか
わからないが、ニームはヒッチコックのもとでアシスタントカメラマン
として映画界にデビュー、さらにマイケル・パウエルとエメリック・
プレスバーガーのコンビの映画『One of Our Aircraft Is Missing』
では特殊撮影でアカデミー賞候補にまでなっている。上下逆転した
豪華客船の中の彷徨、というカメラアングルの難しいサスペンス、
ということで、撮影に詳しい監督を、とプロデューサーのアーウィン・
アレンが抜擢したのかもしれない。ともかく、これで世界的大ヒット
を飛ばした(公開年の興業成績をコッポラの『ゴッドファーザー』と
分けた)あと、パニック・サスペンスの大御所みたいに扱われる
ようになり、パニックでSF大作『メテオ』、サスペンスで
フレデリック・フォーサイス原作の『オデッサ・ファイル』を
監督したが、正直な話、両者ともどうにも……な出来であった。

あくまでもこの人は小粋なアイデアで観客をニヤニヤさせながら
ひっぱっていくのが得意な監督。『ポセイドン・アドベンチャー』も、
思ってみれば船がひっくり返るパニックよりも、神を信じられなく
なった神父が神を憎むことで神の存在を再認識する、とか、警察署長と
元売春婦の奥さんの凸凹コンビ夫婦とか、そういう人間ドラマの描写の
方が印象的だったのであった。まあ、晩年がちと残念ではあったが
(小粋なアクションを撮る監督というのはジャック・スマイトにしろ
ジョゼフ・サージェントにしろ、何故か途中で大作を手がけて失敗、
才能が鈍化してしまうことが多い)、それでもサーの位を貰ったり、
81歳で離婚して82歳で再婚したり艶福家としても名を馳せ、
幸せな一生ではなかったかと思う。追悼の意味を込めてDVDで
鑑賞を……と思っても、パニック大作以外、作品の評価での代表作
である『ミス・ブロディの青春』を含め、まるでDVD化されて
ないのだな。……再評価の待たれるところである。

頼りにされた男【訃報 池田駿介】

6月11日死去。
『帰ってきたウルトラマン』『キカイダー01』『緊急指令10-4-10-10』
など、東映と円谷プロの二大製作会社を股にかけ、昭和の第二次特撮ブームを
語る際に外せない人だった。『正義のシンボル・コンドールマン』などにまで
セミレギュラー(主人公・三矢一心の兄で新聞記者)で出ていた。

『帰ってきた……』では最後まで団次郎と主役・郷秀樹の役を争ったと
いうが、最終的に脇に回ることになったのは、顔と演技が、あまりに
正義っぽすぎたのが原因ではないだろうか。第二次特撮ブーム初期の特徴は
その前に一世を風靡していた(第一次特撮ブームを駆逐した)スポ根
ドラマを取り入れて、主人公が悩み、成長していく姿を描くことにあった
(『シルバー仮面』しかり『ミラーマン』しかり)。その傾向の最も顕著
であったのが『帰りマン』であるが、池田氏のあまりにさわやかなスポーツ
青年そのものの風貌は、そういう“悩み多き”ヒーローには似合わなかった。

その点、“悩むヒーロー”であるキカイダーから“悩まない”典型的ヒーロー像
にチェンジした『キカイダー01』のイチロー役ははまり役だった。
原作のイチローは良心回路を持たないが故に善悪という認識そのものが
ない単純バカとして描かれていたが、池田氏演じるイチローは、月光仮面
以来の、人間的な弱さ全てを超越したヒーローそのものであった。これは
ドラマ設定がそうなっていた、というより、池田氏個人のキャラクター
が作り上げたものだろう。原作を後になって読んだ池田氏はびっくりして
石ノ森章太郎氏に謝ったというが、石ノ森氏も、池田氏にはあれが似合って
いるんだから、と笑って許したそうである。結局、“悩む”部分は後半にビジンダーという
不完全良心回路を持つキャラの登場で補われることになる。

池田氏は悩む郷秀樹や、悩むジローの頼れる“アニキ”だった。
兄貴という存在は太陽のようなものだ。誰もが太陽をありがたがるが、
しかし、太陽のことを語る人はあまりいない。はるかに暗い、月の
存在感に太陽はかなわない。『帰りマン』では西田健演じる意地悪キャラの
岸田隊員に、『キカイダー01』では志穂美悦子演じるビジンダーに、
話題性をさらわれてしまっていた。しかし、それでもなお、太陽が
なくてはわれわれは生きていけない。池田氏がこれだけ特徴ヒーロー
番組に出演していたのは、その存在の必要性を誰もが認めていたからに
他ならない。

その後、テレビで『水戸黄門』を見ていたら、池田氏が出演していた。
光圀の息子をおだてて黄門を気取らせ、逆に庶民を苦しめている悪家来
という役柄だった。時代劇を見ると、ときどき子供番組のヒーローが
悪役をやっているのに出くわすが、例えば黒部進や坂口祐三郎が悪党
を演じていても、それなりに面白がれるのに、池田氏の場合はちょっと
違和感を覚えた。心の中に、この人だけは正義の味方しか演じない、
という意識があったのかもしれない(『秘密戦隊ゴレンジャー』での
ダイガー仮面の人間体、モモレンジャーの初恋の人役はそれを逆手に
とったキャスティングだった)。

キカイダーに日本人以上に熱狂するハワイでは、池田氏はジロー役の
伴大介氏とならんで英雄あつかいだったそうだ。役者冥利にはつきた
ことだろう。とはいえ、69歳。早すぎる死ではあった。

池田氏に最期までついていた私の知人から聞いたのだが、
私がBSの番組で特撮のことを話しているのを見て、ぜひ一度
お会いして話を聞きたい、とおっしゃっていたそうである。
その機会が持てなかったことを悔やんでも悔やみ切れない。
黙祷。

映画(『地獄の黙示録』)でも私生活でも泥沼だった男【訃報 デニス・ホッパー】

5月29日死去。74歳。
前立腺ガンが骨にまで転移し、余命いくばくもないことは本人も
認識していたようだ。最近はそういう場合は無理に延命をせず、
痛みだけを除去する加療を行なうので、苦しみはなかったものと
信じる。モルヒネ投与だろうか。一時はハリウッドのドラッグ使用者
と言えばホッパーが代名詞みたいなものだった。そこから彼は自力で
立ち直ったわけだが、人生の最期にまたドラッグのお世話になる
というのは皮肉なことだ、と苦笑していたかもしれない。
3月にはハリウッドの星(ハリウッド大通に名前つきのプレートが埋め
込まれる栄誉)が与えられ、ジャック・ニコルソンやデビッド・リンチが
かけつけてお祝いを述べた、という“いい話”が伝えられ、よかったと
思いながらも“この反逆児には似合わねえな、年取って善人になって
しまったかな“と思っていたら、死の床で5人目の妻に離婚訴訟を
起し、泥沼の係争が行われていたと聞いて、
「うん、それでこそホッパーらしい」
とうなづいてしまった。彼の5人の妻の中には歌手のミシェル・
フィリップスもいるが、彼女との結婚期間は8日間だった。

『イージー・ライダー』(69)は残念ながらリアルタイムでは見ておらず、
反逆児の名前だけが一人歩きしており、やっと公開時にリアルで
見たのは『地獄の黙示録』(79)。神話的構造を持ったこの映画の中で
ホッパーはもっとも現実的・世俗的な戦場カメラマンを演じており、
何か彼が出てくるとホッとしたのを覚えている。パンフレットには
”かつての問題児もおとなしくなってしまった“と書かれていた。
ドラッグでこの撮影の時はセリフもろくに覚えられない状態
だったらしい。

このまま身を持ち崩して終わりかな、と思っていたところで大逆転
ヒットを放ったのがデビッド・リンチの『ブルー・ベルベット』(86)
だった。それまでのヒッピー風イメージを一新し、一応きれいな
格好をしながらも、酸素吸入器をスーハー言わせながらイザベラ・
ロッセリーニを犯すその演技はまさに怪演と言ってよく、
『砂の惑星』でミソをつけたリンチと共に、ホッパーもこの映画で
見事復活を果たした。それも、怪優として。

それ以降の活躍はご承知の通り。以前のようにインデペンデント系
映画にも出演する他、金のために『ウォーターワールド』『スーパー
マリオ』といった娯楽作品(大抵はひどい映画)にも出演したが、
しかしホッパーの出演シーンのみは面白く、まあ彼を見られたから
入場料のモトはとったか、と思わせるのだから大したものだった。
そして、そんな作品の中でも『スピード』(94)のような、後の悪役
俳優たちがこれにハリ合うことを要求されるくらい、悪役演技のハードルを
上げてしまった超テンションの傑作があるのだから凄い。

日本ではツムラの入浴剤の”アヒルちゃ〜ん“が有名だが、あれも
かなりギャラが高かったそうだ。彼はそうやって稼いだ金で
趣味の現代アートを買いまくり、そっちの分野でも一家言持つ人物
になった。人間、ドラッグでキャリアの15年を無駄にしても
ちゃんと取り戻すことが出来るという好例である。

冥福はたぶんすまいと思われる人間ではあるが、ともかくも
まだ数年は頑張れる年齢だっただけに残念。
黙祷。

居場所を見つけた男【訃報 ラッシャー木村】

5月24日、死去。腎不全による誤飲性肺炎。
ミクシィニュースでの訃報記事へのコメントの多さに驚いた。
愛されていたんだなあ、と思う。
人間の運命というものはわからない。
もし、木村があのまま国際プロレスのエースのままだったとしたら、
プロレスファン、それも“通”を気取るひねたマイナープロレスファンの
賛辞を受けるくらいで終っていたのではあるまいかと思われる。

その国際プロレスが倒産し、新日本プロレスに拾われ、
猪木のかませ犬として、似合わぬ悪役稼業。
どう考えたってアングルだろ、としか思えない国際軍団の
殴り込み、三対一デスマッチなどの“作られたストーリィ”にも、
当時の猪木についていたカルト信者的なファンは反応し、
木村の家には石が投げられたりし、愛犬家だった木村は犬にまで
被害が及ばないかとかなり心痛したらしい(実際、愛犬は
ストレスで死んだらしい)。

一度、東京駅のレストランで食事をしていたら、目の前に
木村が座ったことがあった。はぐれ国際軍団で新日に殴り込んで
いたころである。巨大な塊、と形容したくなるような体格を駅のレストランの
小さい椅子に押し込め、黙々と定食を食べるその姿の強烈な印象は
いまだに脳裏に明瞭に残っている。
私が立ったあと、その席に座った学生の二人連れは、前の席の木村を
確認したとたん、思わず
「ラッシャーだあ〜」
と口に出して叫んだが、木村は彼らに(もちろん私にも)一瞥も
くれなかった。悪役はファンに媚を売ってはいけない、と
自らを律していたのだろう。
「男は三年に片頬」
というのがモットーだ、と後に雑誌で読んだが、いや、しかし
プロのレスラーとしてそれはどうか、と、その行き方の不器用さに
いささか心配になった。猪木戦を振り返った当時のスポーツ新聞の
記事にも、“不器用な木村を猪木は徹底していたぶった”と書かれていた。

ところがどうして。
その後の木村は不器用どころか、行く先々で個性を発揮し、
存在感を(自分の希望のそれだったかどうかは別に)印象づけていく。
ひょっとして、プロレスラーの生き方としては最も器用だったとさえ
言えるのではあるまいか。
そのきっかけはやはり、親日に殴り込んだときの、リング上での
「こんばんは」
の挨拶だろう。あれくらいアタリマエで、かつあの場において異様な
一言はなかった。普通なら“使えないヒール”として抹殺されてしまったろう。
それが、当時の日本における新感覚ギャグの勃興にぶちあたった。
つまり、お笑いの世界が、それまでの“プロによる作られた笑い”から、
“素人のかもしだすたくまざるユーモア”にトレンドが移行していった
時代だったのだ。『欽ちゃんのドンといってみよう』や『オレたち
ひょうきん族!』などで、コメディアンたちは素人いじりに日々、
精を出していた。そのムーブメントに、木村の“こんばんは”は見事に
ハマったのである。彼もまた、あきらかな“時代の子”だったのだ。

マイク・パフォーマンス・タレントとして有名になったその自分の
アクシデントによる人気を木村は驚いたことにきちんとキャッチし、
『イカ天』のレギュラー審査員の座を得たり、全日に移籍してからは
彼のパフォーマンスがその日の一番の受け、などというときもあった。
「こんばんは」などという、日本人なら誰もが口にする一言で
運命が変わってしまった人間も、木村くらいだろうと思うが、しかし
そのチャンスを逃さなかったのは、流れ者としての悲哀を徹底して
味わった彼が、“印象に残ったものが勝ち”という、ついにリング上で
つかめなかった秘訣を(金網デスマッチはその試合形式が印象に
残ったので、木村自身が印象に残ったのではない)、そこでつかんだ
からだと思うのである。

プロレスの実力は強さだけではない。木村はあのアンドレ・ザ・
ジャイアントを、新人の頃だったとはいえギブ・アップさせた力を持つ。
しかし、しょせんはマイナーなレスラーだった。
力道山時代にわずかに遅れてプロレス入りした(日本プロレスに入った
のが力道山の死去の翌年だった)彼は、すでにスターだった馬場や猪木
の靴を揃えさせられるところからスタートした。彼ら二人は生涯、木村を
格下扱いしたし、木村もそれを当然と思い、その上に行こうとは
思わなかったようだ。上下関係の厳しい角界からプロレス入りした
者の哀しい宿命かもしれない(最初からトップに立った力道山は例外)。
プロレス界で当時ブレイクしたのは長州力の“下克上”だったのだ。
そっちに見事乗ったのは、同じ国際出身のアニマル浜口だった。

人間、どこに居場所を見つけるか、誰にもわからない。
私の知り合いが監督した映画に出演した木村(私もガヤで出演しているので
私と木村は映画で共演したことになる)は、素人っぽさを残しながら
よどみのない見事なセリフ回しで、試写を見た私を感心させた。
すでにタレントとして、馬場や猪木と並ぶ人気者になっていた頃だ。
あの素人っぽさはひょっとして、木村の演出だったのかもしれない
と思う。やっと自分がハマる場所を見つけた木村は、その位置を
努力してたもとうと、真剣に向き合っていたのではないか。
馬場の死去の後、NOAHに移籍し、そこで引退したが、社長の
三沢は“木村さんは終身、NOAHの所属”と言っていた。
居場所がプロレス人生の最後に見つかって、本当によかったと思う。

享年68。早い、とは思うが兄貴の馬場が61歳、鶴田49歳、
国際で一緒だった剛竜馬は51歳、最後に所属したNOAHの社長
三沢も46歳で逝っている。
あの時代のレスラーとしてはまずまず、生きられた方ではあるまいか。
天国で熱い“昭和のプロレス”をくり広げてもらいたい。
黙祷。

6/22トンデモ本大賞後夜祭盛況御礼

先日新宿ロフトプラスワンにて開催された
『2010日本トンデモ本大賞後夜祭』、120人以上の
お客様が詰めかけ、熱気あふれたイベントになりました!
おいで下さいました皆様、ありがとうございます。

一年に一度のトンデモ本大賞ですが、なかなか時間内に
全てのネタをお見せすることが出来ません。
こぼれたネタ、大規模な会場より小さいところで秘かに見せたい
小ネタ、ちょっと公の場で発表するのはヤバそうなネタ等々……。

ある意味大賞を補完するような、狂乱の一夜でした。
サソリの唐揚げは出るわ、チンコボールペンは次々新作が
発売されるわ、狼に育てられたファミコンゲーマーは出てくるわ。

ゲストの米粒写経さんのネタもまあ、濃いこと濃いこと。
場内、ひきつらんばかりの爆笑でした。
どの発表者も、ウケれば自然、長引きます。
結局、終ったのは予定の11時を30分近くオーバーして。
終電を逃した方も多かったのではないでしょうか。
お詫びいたします。会場の盛り上がりのなせる業、と
ご了解ください。

来年もこのような形で、大賞と連動する企画を行なっていく
予定です。20周年記念に向けて、すでにと学会内部では
活動が開始されております。ご期待ください!

*写真は当日のスペシャル・メニュー、食用サソリの唐揚げ。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa