統一教会をののしる人たち

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ここは個人のサイトでありますから、内容に関してSAKAに全責任があります。

嘆き・期待・懺悔・抗議・希望。

2010-07-23 23:20:49 | 教義
 先日、非常に残念な思いになってしまったことがありました。
 それは当教会系列の会社の社長様と話(メールのやり取りですが)する機会がありました。
その社長様は経歴を見てみると、本当にりっぱな経歴でした。

 わが、教会には「人の責任にしない、自分の責任として考える。克己。」など、さまざまな崇高な考え方があります。私は教会の責任者様たちは皆様実践していらっしゃると思っており、教会内では「気品があり、気高く実践されている方」を厳選して採用されていらっしゃると思っていたので、さぞかし人格者であり、さまざまな知識を持ち合わせた方なのだろうと思って会話していました。

 ですが、その社長さんは、最初から挨拶もされないからおかしいなぁ、と思っていたら会話は徐々に少なくなっていき、丁寧な書き方ですが、最後には捨て台詞同然な書き方をされ、そんな方だとはこれっぽっちも思っていなかった私にとって、期待は見事に裏切られました。人は鏡だといいますので、私がそのような態度をその人にとっていたのだとも思いますが、会社社長が捨て台詞・・。。このようなことがまかり通っている、ということにとても考えさせられました。

 たまたま、そのような決裂されるような方に出会い、私も悪かったのだと思いますが、そのような方が会社社長として教会系列の会社を采配されているという現状を拝見させていただき、組織は採用するに決してそのような綿密な計画的人事プロセスを得て採用はしておらず、その結果がたいへんな状況をつくりだしているのだと思わされました。

 思わず、「ほんとうに、このようなことはたまたまであると言って下さい。」と神様にお願いしました。系列会社は「気品があり、気高く実践されている方」を厳選人事採用していると思っていたかったからです。
 祈ってみると、神様の嘆きの表情が見えました。採用はされているようですが、自分の責任をなかなか果たせる人間がいないと言うことが伝わってきたように思いました。

 今の社会は、われわれの子供が引継いでいく社会であり、我々ばかりの社会ではないので、教会の崇高な教えが実践できる環境を作るようにお手伝いもしていかなければ・・・。と自らの手で善なる行動を実践しなければと深く自戒した出来事でした。

 教会から影響を受けてそうなったわけではありませんが、一般の方から私も、「あなたは人の話を聞かない。上から目線だ。失礼だ。」と言われたことが何度もありますが、今回ばかりは「本当にその言葉を真摯に受け止めていくようにしなければ、伝道なんか出来ない。」とも思わされました。人を思いやる暖かい心もなくて、「人権がある。」と自分の主張ばかりも、言ってられませんね。
 
 私はいつも教会批判されるK・Y氏のことを批判してきましたが、東京で間近に上層部の方と接していたらそんなお考えにもなるのかもしれないと、少し理解できました。
 また、やめて行った元の方たちのブログを拝見しても、教会批判されているのが全部教会の責任とは言えないと思いますが、「愛がないっていう考え方もありかも?」と自分の期待が教会に対して大きすぎていたという考え方に改めさせられ、反省しました。
 
 でも、「崇高な教え」がある限り今は我が教会員は歩調を合わせることが出来ないだけで、時が満ち、一人ひとりの努力が実れば必ず考え方が一つになり、それが瞬く間に広がり、絶対に理想社会は訪れてくると思います。そこに希望の一点があると思っております。

 と言うことで、確かに「ののしる人たちにも言い分はある。」という結論が出ました。

しかし、だからと言って「拉致・監禁をして強制改宗させること」は犯罪です。

よく映画の中では、刑務所の中での話がありますが、そこでは犯罪が決まった人間がたくさんいまして、「お前たちは犯罪者だからな、・・・」と言葉が続き、刑務所のルールでそこは形成されて矯正していますが、ココは娑婆なのですから、だれもそんなことは言えませんし、言うことさえおかしいです。

「統一教会の人間は犯罪者だからな、・・・」と言えばもっともな理論に見えますが、宗教に対する偏見を持ち合わせた人がもっともらしくこじつけて言っていることも正論にしてしまっているのが現状です。何度も言うように「ココはどんな人でも人権がある娑婆なんです。」言論の自由はありますが実際に暴力をふるったら犯罪になります。お分かりでしょうか?

 それともう一つ。警察は「特商法違反」に対しては何百人と動員して犯罪にしてしまっている事実がありますが、どうして暴力事件の「拉致監禁」は犯罪にしないのでしょうか?
どうして、誰も黙っているのでしょうか?
教会の人さえそのことに触れたがりません。何ででしょうか?
 その国家や公安が「不平等な社会」を作っている限り日本国民は安心して一人も眠れない社会を作リ出しているのであり、援助までしている現状なのではないでしょうか?

 これから、統一教会はそういったことに対して、ガンと戦わなければならないからたいへんです。それも「自分には愛がない。」と悟っている人がストレスをためながら「愛」で戦わなければならないからたいへんです。今まで「罰金を払うが勝ち。」「返金請求には応じるが勝ち」として世論に不条理を思い残しながらも素直にしたがっています。だからこそ、今拉致監禁のビラが全国で配布されているのは、公安に対する「不公平な裁き」に対する抗議とも思います。(私もストレスを感じながら、近くの警察署のポストに入れておきました。)
 
 教会はいつでも見過ごせないような本当にたいへんな状況にある、と思っておりましたが今回はその社長のはずかしい現実を見たので、また特別に「たいへんだ」と実感させられました。自分としても、これからインターネットという媒体ばかり使わず、先に大きな祝福を受けたものとして、実践で自ら現場で汗を流して善の行動をとって行きたいと思っております。

(祈)
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