きょうのコラム「時鐘」 2010年7月23日

 連載小説「三人の二代目」は、本能寺の変を経て3人目の主人公・宇喜多秀家にも本格的な出番がやってきた。作者の堺屋太一さんは10歳の秀家に、「僕は義を尊ぶ」と語らせている

大半の時代劇なら、「余は」などと口にする。「僕」と言わせたのは、巧みな仕掛けであろう。過去の人物や事件を題材に、いまを描くのが時代小説である。だから、秀家も、いまの少年のように「僕」と言う

先月連載が終わった「炎天の雪」の作者・諸田玲子さんの愛読者から、ほかの著作を薦められた。その一つが「青嵐(あおあらし)」で、次郎長一家の石松が主人公。だが、諸田版の石松は「死ななきゃ治らない」オツムの三枚目でなく、ニヒルな男。おなじみの石松像を見事にひっくり返す作家の筆に驚いた

戦国時代に少年君主が自分をどう呼んだかは、もう誰も知るまい。石松兄貴は生国(しょうごく)さえナゾだという。空想や願望が広がり、「思い込み」がどんどん膨れ上がっていく。そんなことはよくある。時代が進めば、政治は良くなっていき、隣国とも仲良くなれる、と思う

そう願うが、思い込みは禁物。そんなことも時代小説は教えてくれる。