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[20130] クラゲの死骸を呑みこみたい。
Name: バケツチーズ◆53829272 ID:169a7848
Date: 2010/07/08 02:08
 はじめまして。

 もりもりめりめりとキーボードを叩いていたある日、僕はふと思い立ちました。

「そうだ、小説を書いてみよう」

 その日を境にパソコンへ向ける僕のベクトルは斜め35度ほど変化しました。

 それから数年後。僕はまた思い立ちました。

「そうだ、どこかに投稿してみよう」

 というわけで僕はここにいます。
 皆さん宜しくお願いいたします。

 日常が内包する非現実を描いた、そんな作品となります。



[20130] プロローグ
Name: バケツチーズ◆53829272 ID:169a7848
Date: 2010/07/08 01:07
 海の広さを知るために近くの海へ行った。クラゲがいた。家に持ち帰った。二日で死んだ。海は止めにした。

 先日、旧友の姫宮リンネを訪ねた。タッパーに詰まったクラゲの死体を見るなり、彼女は眉をひそめてこう言うのだった。

「君は一体何がしたいんだ?」

 そんなの決まってる。海の広さを知ることだよ。

「海の広さってのはそんな十数センチ四方のプラスチックの容器に収まるもんなのかい? ま、君がそれでいいなら別にかまわないんだけどさ」

 いやいや、こんなので納得できるほど僕は人間ができちゃいないよ。かと言って海の広さを追求するのは億劫になってしまった。だからさ、投げ出すことにするよ、うん。

「ふー。君の継続力の無さには一種の清々しささえ覚えるよ」
 
 でもね、僕の知識欲はまだまだ満たされてなんかいない。もっともっと知りたい。

「何を?」

 世界を。

「無理な話だ」

 即答しないでくれよ。諦めずに前進を続けていればいつか必ず目標を達成できるって言ったのはお前じゃないか。

「無理だって。だってその前提条件に当てはまらないんだもん。君のその行為は前進ではなく旋回だよ。円運動。同じ軌道を永遠に回り続けるの」

 意味がわからないよ。

「当たり前だろ。“意味がわからないこと”がわかるように言ったんだから」

 でもさ、お前がなんと言おうとも僕はもっともっと世界が知りたいんだ。結果が欲しいんじゃない。飽くまで探究の過程を経たという結論が欲しいんだ。

「ふうん。そこまで言うのなら好きにすればいいよ。だがね、これだけは覚えておいたほうがいい」

 言って、リンネはそのしなやかな指をつぅっと上げてタッパーに詰まったクラゲの死体を指差す。
 彼女の青い瞳が、僕の視線を捉える。冷淡な眼をしていた。思わず萎縮してしまう。

「世界なんてものは、そこに無造作に転がっているクラゲの亡骸そのものなんだよ」

 意味がわからないよ。

「わかれよ。“意味がわかること”がわからないように言ってやったんだから」

 ……これが世界だって? 一体どうして?

「正確に言えばそいつを囲っているタッパーも含めて、だ。世界なんてものはさ、そういうちっぽけな入れ物にギチギチに収まっているクラゲの死骸みたいなもんなんだよ。私らはその死骸に群がって餌にしてるプランクトン。今度は“意味がわかること”がわかるように言ってあげたよ。どう? 理解できた?」

 ……まあ、漠然とは。

「死骸。そう、死骸。私達が存在しているこの空間は死臭が立ち込めているとても不快な場所なんだよ。しかしどういうわけかこの上なく居心地が良い。その死骸を遠慮なく餌にしている分には、私達はこの上ない安寧を享受していられるんだ。快適すぎてたまらないね。
 さて、一体私達は何の死骸に群がっているんだろうね?」
 
 それは―――

「ああいや、言わなくても良い。多分、今君が思っていることが正解だ。キレる君のことだ。実は最初から全ての答えを知っていた上で私を訪ねてきたんじゃないのかい?」

 ―――。

「愚問だったね。今からお茶を入れるよ。何がいい? 生憎この家には雑草しかないけど、好きな銘柄を言うといい。カップにそのラベルを貼ってあげるよ」

 コーラで。

「素敵だね。ちょっと待ってて。裏庭の草を摘んでくるから」

 リンネは席を立った。軽やかな足取りで裏口へ向かう。
 僕はただ、彼女の華奢な背中を眺めるばかり。

 なるほど。これも世界か。僕はテーブルを叩き割った。



[20130] 第一章 真夏の虚構 1
Name: バケツチーズ◆53829272 ID:169a7848
Date: 2010/07/08 02:09
 うだるような暑さの夏。
 何をするでもなく街中をぶらついていたその日、路肩に見慣れない黒いものが転がっているのに気がついた。

「………?」

 怪訝に思って近寄る。見ると、横たわっている人間らしかった。長く伸びた艶やかな髪が路上に貼り付くように散らばっていて、その不衛生さがより一層野生的な雰囲気を醸し出させていた。
 どんな風貌をした奴なのだろうか、という好奇心から俺はそいつの顔を覗き込むため、もっと近づいてみることにした。
 何食わぬ顔で。若干の期待を胸に秘めて歩を進める。
 そして絶句した。
 そいつの胴体と下半身は真っ二つに別れていた。胸の下あたりで横一線に分断されていて、切断面からはいくつか内臓がこぼれ出ている。
 だが奇妙なことに、そいつの体からは一滴も血が流れ出ていなかった。

「………」
 
 まるで精巧な人形のようであった。誰かが俺みたいな通行人を驚かすためだけに放置しているんじゃないか、と、俺の思考が平和ボケした安全地帯へ逃避する。
 現実逃避する余地がそのときはまだあった。だから俺はあまり動揺せずに済んだ。

「……ふぅー」
 
 目を閉じて大きく深呼吸する。とにかく落ち着こう。目の前に転がっているこいつのことは冷静に対処しよう。
 そんなその場限りの安い決心を終えた俺が目を開けたとき、そいつは平然と俺の前に立っていた。
 ついさっきまで死体だったそいつが、離ればなれになっていた身体をくっ付けて。
 
「……あ?」

 ―――理解の範疇を超えていた。

「? 何見てんの? 何か用でもあるの?」

 訝しげに俺のほうを見てそんなことを言ってきた。
 さっきまで顔が隠れていたのでよく見えなかったが、そいつはなかなか整った顔立ちをしている少女だった。肘のあたりまで伸びた黒髪が艶かしい。歳は……俺と同じくらいか。
 どうして、生きている?

「いや、何って……。俺にも何がなんだか……」

 しどろもどろになって要領を得ない返事をしてしまう。頭がどうにかなりそうだった。
 どっと嫌な汗が吹き出る。

「ふーん。ま、いいけど」

 凛とした態度でそう言い捨てると、彼女は俺に背を向けてこの場から去ろうとした。
 瞬間、彼女に対する葛藤が俺を駆り立てた。

「ま、待ってくれ!」

 咄嗟に彼女を呼び止めてしまう。
 彼女は足を停め、ゆっくりと振り返った。その大きな二つの眼で不思議そうに俺を見ている。

「何?」

 突き刺すように言う。
 喉元まできていた貧相な語彙の塊が逆流する。

「あ、いや、その……。えーっと……」
「……何?」

 彼女は歯切れの悪い俺に苛立ってきていた。その刺々しい態度がますます俺を圧迫し狼狽させる。

「あ、あー、あの、大丈夫、だった?」

 ……俺は一体何を言っているんだ。

「は? 大丈夫って、何が?」

 あなたが死んでいたことが。
 なんて言えるはずもなく、俺はただただうろたえるばかり。突き刺すような真夏の日差しが俺の思考力の低下になおさら拍車をかける。

「何って、その、君が死ん、いやそうじゃなくて、君があんまり無事そうじゃなかったことというか、えー……」

 違う。そうじゃない。
 酷い有様だった。今の俺が彼女に言える言葉なんてあるはずもないのに、それを無理に紡ぎ出そうとしている。滑稽だ。

「はあ。すいません、用が無いんならこれで……」

 とうとう彼女はしびれを切らして足早で去って行ってしまった。
 段々と小さくなっていく彼女の背中を眺めながら、俺はひとり後悔していた。

「あーあ……。俺、疲れてんのかな……」

 酷い見間違いだ。いや幻覚か。最近あまり眠れていないせいかな。

(変なやつだって思われちまったよなぁ……。今晩はちゃんと寝よう……)

 彼女には悪いことをしてしまった。迷惑をかけてしまったなぁ。
 とはいえいつまでもそんなことを考えていても仕方がない。今日のことはもう忘れることにして、俺はさっさと家に帰ることにした。
 不気味なほどに澄み渡っている空は、端から伸びてきている入道雲にその風格を侵されつつあった。見慣れているはずの夏の風物詩。なのにどういうわけか、その日常的な蹂躙の光景はただならぬものに見えた。嵐の前の静けさ。戦闘に入る前の緊迫状態。白い軍勢がじわじわと空へ侵攻いくにつれて、俺の中の灰色の不安が膨らんでいくような―――そんな感覚であった。

「……一雨きそうだな」

 俺は空から視線を外して足を進めた。

/

 少女はなぜ自分がこんな所にいるのかわからなかった。
 気がついたらここにいた、としか言いようがない。そのうえ自分に関する記憶を殆ど思い出すことができないでいるので、彼女は自分が何者なのかさえよくわかっていなかった。わかっていることといえば、この場所はそれなりに高度な文化水準で形成されている街で、それでいてやたらに蒸し暑い気候の所であるということくらいだ。
 少女は彷徨っていた。あてはない。ただ静止しているよりも動いたほうが何か手がかりを掴めるかも、という淡い期待を根源に、彼女は行き先もなくとぼとぼと歩いていた。
 しかし特に何もない。あったことといえば、ついさっき妙な男に声をかけられたことくらいだ。何が言いたいのかよくわからない態度だったので大して相手にもせずに放っておいたが、果たして彼は何がしたかったのか。

(ま、過ぎたことは仕方がない)

 しかし収穫もあった。
 彼女が唯一扱える言語でさっきの少年と会話できていたことから、自分がここの住人と同じ語族の人間である可能性が高いことがわかっていた。
 とはいえその言語が日本語であり、日本語は日本という国で幅広く使われているということまではわからない。その結論に至るまでのプロセスを補完する情報が欠如している以上、そこまで理解できるはずもない。
 彼女は自分に関するエピソードをほとんど忘れてしまっていたが、社会的なエピソードはそれなりに覚えているのに助けられた。何もかも忘れてしまっていたら本当にどうしようもなかっただろう。

「………」

 暫く歩いていると、やたらと人通りが多くなっているのに気がついた。道の両脇に所狭しと並んでいる店舗もなんだか華美なものが増えてきている。繁華街に出たらしい。

(うーん、どうするかなぁ)

 と、そのとき、彼女の腹の虫がぐぅ、と小さく音を立てた。そういえば目が覚めてから何も食べていなかった。何か食べるかな、と思ったが、

(さすがにタダじゃ無理よね。ここの通貨持ってんのかな?)

 とりあえずパンツのポケットを探ってみる。と、そのとき、彼女の右手が後ろポケットの中で何か硬い物に触れた。

「お……?」
 
 取り出してみると、それは小さなガラス玉だった。透き通るような空色をしている。

「なんじゃいこりゃ……」

 彼女はそれを名指しする語彙を持っていない。透明で硬質な物質で作られた球体、という理屈での理解はしているのだが、ビー玉という単語を喪失してしまっているので言い表しようが無かった。
 しかしそんな些細なことはどうでもよく、問題はこれが金になるのかどうかということだった。

「………」

 辺りを見回してみる。
 近くのクレープ屋の露店で二人組の少女が買い物をしているのが目に留まった。

「はいよ。二つで800円ね」
「わー、おいしそっ」
「じゃあそこで食べよっか」

 クレープを受け取る際に数枚の硬貨を店主に手渡す少女達。そのまま二人揃って近くにあったベンチに腰かける。

(あれがここの通貨ね。さて、どうしたもんか……)

 ビー玉をポケットの中に押し込み、思案する。
 しかしどうしようもない。手ぶら同然の彼女が何かを買えるはずもないし、通貨を得ようにもその方法がわからない。……あのクレープ屋のように何かを売ればいいのか? でも無理だ。何も持っていないんだもの。
 少女二人が美味しそうに頬張っている色鮮やかなクレープが、ますます彼女の空腹を駆り立てる。
 ぐうぅ、とさっきよりも大きな音で腹が鳴る。

「うぅ……」

 惨めさのあまり思わず泣き出しそうになったそのとき、ベンチに座っている少女の片割れがこちらを指差して隣りに向かって何かを言った。話しかけられたほうの少女も相槌を打ち、なにやら二人でこそこそと話している。
 ほどなくして二人の少女は立ち上がった。そして彼女に向かって歩いてきた。

「おねーさん、どうしたの? 大丈夫?」

 少女は彼女の顔を覗き込んだ。なかなか大人びた顔立ちをしているな、となぜだか彼女はそんなことを呑気に思った。

「あ、いや、大丈夫よ。なんでもないから。あはは……」

 そのとき、彼女の腹の虫が大きな音を鳴らした。空気が固まる。

「は、ははは……」
「……お腹へってるの?」

 声をかけてきたほうとは別のほうの、幼さがまだいくらか残っている風貌の少女がきょとん、とした顔で訊いてきた。

「……ええ。お恥ずかしながら」

 彼女は自分の顔が赤く染まっていくのを感じた。
 二人の少女は無言で顔を見合わせて、それから手元の食べかけのクレープに視線を移した。クレープと彼女に視線を行ったり来たりさせた後、

「あの、よかったらどうぞ!」

 と、二人同時にクレープを差し出してきた。
 突然だったので、ぐむっ、と反射的に彼女はたじろいでしまう。

「でもそんな、悪いし……」

 ぐぅ、とまた彼女の腹が鳴った。
 暫くの沈黙の後、彼女はついに意を決した。

「えーっと……じゃあ、いただきます」



「なに? 二人は姉妹なの?」

 指についたクリームを舐めとりながら、彼女は両脇に座っている少女達を交互に見比べる。

「うん。ぼくが姉ね」

 彼女に最初に話しかけてきたほうだ。年長なだけあって凛とした雰囲気を持っている。

「名前は須川愛華って言うんだ。よろしくね」

 愛嬌のある笑いを浮かべて愛華は右手を差し出してきた。

「? ん?」

 彼女は握手を知らない。なんだろう、と愛華を小さな右手をじっと見る。

「ほら、握手握手。手、にぎってよ」

 愛華が催促してきた。ああなるほど、そういうことか。一種のコミュニケーション手段ね。

(あ、さっき指舐めてたじゃん。……ま、いっか)

 些細なことを気にしていても仕方がないので、愛華に言われたとおりに彼女の手を握る。その瞬間、ぎゅっと握り返された。

「っ……!」

 ―――ぞりっ、
 と、背筋に走る悪寒。
 背骨に沿って皮膚の内側に硫酸を流し込まれるかのような不快感。それが、彼女の思考を停止させた。
 しかしそれは一瞬だった。愛華が手を離す頃には怖気は消え去っていた。

(なんなの今の!?)

 愛華が何かしたのか? と考えたが、初対面の自分にそんな真似をしてくるはずもない。第一そんな素振りは一切見えなかったではないか。

(気のせい、かな……)

 そうやって無理矢理納得せざるをえない。

「かなみは佳奈美っていいます」

 妹のほうも握手を求めてきた。

「……うん、よろしくね」

 さっきのことがあったので彼女は少し躊躇ったが、気にしないことにして佳奈美の手を握った。
 別になんともない。佳奈美の体温が手を通して伝わるだけだ。

(うん、なんともないなんともない)

 手を握ったまま自分に言い聞かせる。

「あの、もう離してもいいですか?」

 佳奈美はちょっと困ったような顔をしていた。しまった、離すのを忘れていた。

「あ、ごめんごめん」
 
 慌てて手を離す。佳奈美が照れたような顔して、えへへ、と微笑んだ。
 純粋そのものである。この世の穢れとは生涯無縁であることを裏付けるような微笑だった。

「おねーさんはなんて言う名前?」

 ぴくっ、と彼女の眉が引きつった。
 名前―――。

「スココビッチ桜田よ」

 ま、なんでもいいや。

「へー! 外国の人なの!? どこ? ボスニア・ヘルツェゴビナ? モルドバ? それともマルタ騎士団国!?」

 目を輝かせて恐ろしくマイナーな国ばかりを挙げてきた。当然、記憶を失っている彼女にはわかるはずもない。
 というより本気にされても困る。しれっと受け流してほしかったのに。

「えー……まあ、あっちのほうの国よ。そこで生まれてここで育ったの」

 適当に右のほうを指差す。すると愛華は更に目を輝かせて、大盛りの餌を前にした空腹の犬のように食いついてきた。

「すげー! あっちってことはガイアナ? 南米の中で唯一公用語が英語のあのガイアナ!? イングランド出身のニュートン兄弟がサッカー代表に選ばれてるあのガイアナ!?」

 どんだけガイアナ好きなんだよ。

「うん。そうだよ」
「ひょー! ぼくガイアナ出身の人に美味しそうにクレープを食べてもらうのが七番目の夢だったの! ここでスココビッチさんに出会わなかったらクレープ背負って日帰りでガイアナに行くところだったよ! ありがとう叶えさせてくれて!」

 なんと共感を得づらい夢なのだろう。彼女は人生の縛りプレイでもやらされているのだろうか。

「あ、いえいえどういたしまして」
「あの、よかったらサインもしていただける? ガイアナ出身の人に油性ペンで服に直接サインをされるのが二番目の夢なの!」
「夢のグレード高っ! なのに安っ!」

 愛華は物凄い速さで油性ペンを懐から取り出し、ずいっ、と彼女に押し付けるようにして差し出してきた。緊張のせいかぷるぷると体が震えてしまっている。必死すぎる頼みっぷりである。

(これは……書くしかないか)

 後に退けなくなってしまった。口からでまかせばかり言っていると碌なことがない、と身に染みて実感した。
 愛華から油性ペンを受け取るやいなや、愛華はばばっと彼女に背中を向けた。小さく丸くなっている背中がなんとも愛らしい。

「全面にでっかく『スココビッチ桜田』でおねがい!」
「よしきた!」

 もうどうとでもなれ。
 頭の片隅に残っている記述言語を参考にして、愛華の背中全体に勢い良くペンを走らせる。キュキュキュッ、という小気味の良い音とともに愛華の背中を黒い線が蛇行していく。

「できたわ!」

 娘ざかりの可憐な乙女の背中に雄々しく広がる『スココビッチ桜田』の文字。かなり無理をして見れば、異質を通り越して一種の現代芸術のように見えないこともない。

(ごめん。やっぱ見えない)

 愛華のほうから頼んできたこととは言え、彼女は心の中で贖罪せざるをえなかった。これからスココビッチTシャツを着て家まで帰る彼女のことを思うと落涙を禁じえない。

「おおっ! ありがとうありがとう! どうだ佳奈美、今のあたしは最高だろ!」

 満面の笑顔で佳奈美に背中を向ける愛華。胸が痛くなるほどの純真さ。

「うん、すっごくかっこいいよお姉ちゃん! いいないいなー!」
「そーかそーか! そんなにかっこいいか!」
「かっこいいよ。特にこの『チ』の弓なりっぷりには垂涎ものだね!」
「はっはっは、そんなにいいのか! ぶっちゃけ背中だから全然見えん! どーだ、佳奈美もスココビッチ桜田さんにサインしてもらうか?」
「え、別にいいよ。服汚れるし」
「ハハハ! こいつはまいったぜ!」
「イェーイ!」
「ヒーハー!」

 ばちん! と軽快にハイタッチをする須川姉妹。なんだこのノリ。

(あ、やば)

 ひょっとしてこいつら物凄く面倒くさい奴らなんじゃないか。そんな不安が脳裏をよぎった。
 これ以上嘘を重ねないように今までのを無かったことにしないと。スココビッチ桜田の犠牲になった愛華には申し訳ないけれど、いずれバレることだから仕方ない。

「ここでお知らせです」
「はい、なんですかスココビッチ桜田さん」
「実はわたしの名前はスココビッチ桜田ではありません」
「なんだって!?」

 地面にめり込むんじゃないか、というくらいの勢いで愛華がずっこけた。異常なまでの体の張りっぷりである。芸人でも目指しているのだろうか。

「そのうえわたしはガイアナ出身でもありません」
「ひ、ひえー!」

 愛華はぶるぶると体を痙攣させた。眼はどこを見ているのか知れない不安定な目つきにになっていて、ひどく動揺しているのが窺える。あ、こいつ女を捨ててるな、と彼女は直感した。

「なのでそのTシャツは、ただの一般人である女に訳のわからん単語を書き殴られただけのTシャツです。お絵描き帳にするくらいしか価値がありません」
「う、うわぁぁあああああ!!」

 びくん! と愛華の体が一際大きく跳ね上がった。表情も女の子らしからぬとんでもない形相になってしまっている。
 ぴくぴく、と体の動きが弱まっていく。ついには、しん、と指一本動かなくなった。

「……勝った」

 何に。

「じゃあ、お姉さんのお名前はなんていうんですか?」

 実姉の醜状をものともせずに佳奈美は訊いてきた。かわいらしい見かけとは裏腹に随分とメンタルが強い。

「うーん……。それがさあ、思い出せないのよ。自分の名前だけじゃなくて、ここがどこで、どうして自分がこんな所にいるのかさえもね」

 特に隠すようなことでもないと思ったので彼女はさらっとカミングアウトした。というか最初からこうするべきだった。そうすればスココビッチ桜田絡みの面倒くさいことも起きなかっただろうに。

「記憶喪失ですか? なんでまた?」
「うーん、その理由もわかんないんだよね。気づいたらここを歩いてて、あなたたち二人に出会って、それで今に至るわけよ」
「はあ。大変ですね……」
「でもどうするかなぁ。行くあてもないし、お金も持ってないし。ジリ貧だよ、うん」

 自分で言って、彼女は事の重大さを改めて痛感した。そうだ、身寄りがなく独りで生きる力も充分に備えていない自分はこれから先どうすればいいのか。どうにもならない。どこかで野垂れ死ぬのが容易に想像できる。

「なら、うちに来ちゃいなよ!」

 突如、跳ね上がるようにして起き上がった愛華が両手を広げて叫んだ。

「おねーさん、右も左もわからないんでしょ。だったらあたしたちと一緒に住もうよ。そっちのほうが安心できるでしょ?」
「いや、でも。気持ちは嬉しいんだけど迷惑にならない?」
「いいっていいって! どうせ三人しか暮らしてない家だから一人増えてもへーきへーき!」

 ……三人?

「三人ってことは親が一人しかいないの? だったらなおさら……」
「ん? 違うよ、兄貴と住んでるの。バカな兄貴だけど信頼できるやつだから安心していいよ」
「でも……」

 初対面の相手の家に住まわせてもらう、というのはさすがに気が引ける。しかし断ったら断ったでこの先路頭に迷って困窮するのは目に見えている。
 どうするべきか、と悩んでもじもじしていると、横から佳奈美が肩を軽く叩いてきた。

「とりあえず今日はうちに泊まったらどうですか? 宿のあてもないでしょうし。それに、結論を出すのは今日一日ゆっくり考えてからでもいいと思いますよ」

 兄さんにも直接話しておきたいですしね、と付け足す佳奈美。
 立派で大人な振る舞いだ。姉の愛華よりもしっかりと物を考えている。

「……じゃあ、お言葉に甘えさせていただこうかな」

 これ以上二人の好意を無下にするのも居心地が悪い。それに実際のところ夜を越す場所が与えられるのはありがたいことだった。

「おー! そうと決まれば早速うちに行こうよ。今日の当番はあたしだから腕によりをかけて作っちゃうよ!」
「あはは。お姉ちゃん、今日も創作料理の題目でゲロを作るの?」

 にこやかに笑ってとんでもないことを言う。

「ひ、ひどいよー! あれでも一生懸命に作ってるんだよ?」
「結果が伴わなきゃだめだよ。今日はお客さんがいるんだからかなみかお兄ちゃんにまかせてっ」
「むー……」
「じゃ、行きましょうか」

 佳奈美が彼女の手を取って立ち上がった。そのまま彼女の手を引っ張って歩き出す。
 愛華が後ろから慌ててついてくる。
 佳奈美は彼女の手をぎゅっと握り締めている。こうしているとなんだか本当の姉妹みたいだなぁ、と彼女はぼんやりとそんなことを考える。
 
「あっ、そうだ。名前がないとなにかと不便ですし、なにか呼び方を決めません?」
「ん、別にいいけど」
「ヒポポマス篠原なんてどうですか?」
「佳奈美ちゃん」
「はい。なんですか」
「お姉さん、なんだか無性に佳奈美ちゃんの背中に何かを書きたくなってきちゃったよ」
「あはは、冗談ですよ。本気で言うわけないじゃないですか」
(……どうだか)

 やはり姉妹だ。最初はあまり似てないと思っていたがそんなことはなかった。本質的な部分では同じだ。

「お姉さんはなにか希望とかないんですか?」
「特にないかな。ま、わたしを識別してくれる呼び名だったらなんでもいいわけよ」
「そうですか。うーん……」

 佳奈美は顎に指を当てて思案する。愛らしい仕草である。
 
「じゃーさ、深く考えても仕方ないしぱぱっと決めちゃおっか」

 愛華が二人の前に出て振り向きざまに言った。

「髪が黒いからクロ? 目が二重だからフタエ? おっぱいが手頃な大きさだからフツウノオッパイ? こういうのは深く考えずに直感的に決めようよ」
「さすがに最後のは無い」

 彼女は想像した。フツウノオッパイという大変不名誉な呼び方をされる自分の姿を。フツウノオッパイさんおはよう、フツウノオッパイさん醤油とって、フツウノオッパイさん洗濯物取りこんで、フツウノオッパイさんおっぱい普通だね、フウツノオッパイさん……、………。
 なんてすてきなせかいなのでしょう。

「えー! 一番自信があったのを却下されちゃったよ。じゃあどうしろっていうのさ」
「埋まっとけばいいと思うわ」
「ひどい」
「……あの」

 くい、と佳奈美が握っている手を引っ張ってきた。何か言いたげに彼女のほうを見上げている。

「なに?」
「かなみの中では二つの候補が挙がったんですがどっちがいいと思いますか? 揉みやすそうでちょうどいいという意味のテゴロナオチチと、空がきれいな日に出会えたからソラ」
「テゴロナオ」
「ソラ。問答無用でソラ」

 愛華の言葉を遮った彼女の顔は恐ろしいまでに無表情だった。

「本当にソラでいいんですか? かなみの中では6:4でテゴロナオチチ優勢なんですが……」
「わたしの中では10:0でソラだよ! なんでその二つで悩むの? ソラ一択じゃないの!」
「でもテゴロナオチチで良かったー、って思えることもありますよ?」
「へー。例えば?」
「ブラジャーを買うときに店員さんが目安にしてくれます」
「普通にサイズ測ってもらうわ! どんだけ名前に頼ってんのよ! なにより変。変な名前すぎて嫌」
「仕方ないですね……。ではソラさんと呼ばせていただくことにします。うち八割はテゴロナオチチと間違えて呼ぶかもしれませんが」
「そんだけ間違えたら明らかにわざとじゃないの。名前決めた意味ないじゃない」
「かなみだって人間ですから間違えることだってあります。それにテゴロナオチチさんには、一生涯大事にしたい、と思えるような名前を差し上げたつもりです!」
「早速間違えたよ! わたしはテゴロナオチチのほうで一生を過ごすつもりはないからね!?」
「テゴロナオチチさん落ち着いてください。せわしなく動いてるとせっかくの手頃なおちちが崩れてしまいますよ」
「上手いこと言ったつもり? おちちは手頃でも器量は手頃じゃないわよ?」
「え? ブラジャーのサイズ合ってないんですか?」
「どうしてそうなる」
「それは大変ですよ。サイズの合わないブラジャーはおちちの形を崩します。テゴロナオチチさんのおちちが手頃じゃなくなってイビツナオチチさんになってしまうじゃないですか!」
「佳奈美」
「はい」

 暫定ソラはにっこりとした微笑を顔面に貼り付けていた。眼は笑っていない。昏い光をその瞳に湛えているだけだ。
 彼女は口元を機械的に動かして呪いの文句を押し出す。

「そろそろ泣くぞ」
「すいませんでした」

 次の瞬間、すさまじい速さで路上で土下座をする女子中学生の姿があった。
 暫定ソラがソラになった瞬間だった。




--------------

行の間って詰めたほうがいいのでしょうか?



[20130] 第一章 真夏の虚構 2
Name: バケツチーズ◆53829272 ID:169a7848
Date: 2010/07/11 00:48
「兄貴ー、ただいまー」

 ベッドの上でケータイをいじっていると、玄関のほうから愛華の声が聞こえてきた。

「うーいおかえりー」

 ケータイでかちかちメールを打ちながら適当に言葉を返す。我ながら素っ気ない対応である。

「今日はお客さんがいるぞー。兄貴、出てきてくれー」

 愛華が声を張り上げて言う。心なしか嬉しそうだ。

「……お客さん?」

 はて。誰だろうか。妹の友達か? それとも姫宮さんか?
 ひとまずケータイを閉じて部屋から出る。廊下を通って玄関まで行くとそこには、

「へいへーい、待たせすぎだぜい」

 えらく達筆な『スココビッチ桜田』が玄関先で俺を出迎えていた。
 愛華。どうして仁王立ちで俺に背中を向けているんだ。

「あの」
「へい、なんだい兄貴」
「家、間違えてませんか? うちはスココビッチでも桜田でもないですよ」

 言い終わると同時に玄関のドアを即座に閉める。

「こらー! 開けろー!」

 ドアの向こうで何か喚いている。
 言われた通りにドアを開けると、そこには親愛なる我が妹のしかめっ面があった。

「おかえり。さっき変なやつが来てたけどお前の知り合い?」
「ただいま。どんな人だった?」
「なんかすっげーかっこいいTシャツ着てたわ」
「ほほう」

 ここで愛華はドヤ顔をしてきた。今にも目の前でゆで卵を握り潰しそうな顔である。

「兄者にはそのTシャツを八千円で買い取る権利を与えよう」
「で、お客さんって誰?」

 茶番を続けていたら話が進まないのでサクッと愛華をスルーする。
「無視すんなよー!」と口を尖らす愛華の傍から、ぬっと二つの人影が出てきた。片方は末妹の佳奈美で、もう片方は―――

「げっ」

 無意識に声が漏れてしまった。
 おいちょっと待て。なんでよりにもよってその女なんだ。気まずいだろうが。

「あんた、あの時の」

 その女はじとーっとした目つきで俺を睨んでいる。不信感丸出しである。

「兄さんとソラさんはお知り合いなの? ひょっとして、兄さんが急いで登校していたら曲がり角でソラさんとぶつかってその拍子にパンツの中に頭でも突っこんだの?」
「違うわ。それにぶつかっただけでどうして下着の中に俺の頭が入るんだ。そこまでいくと器用を三段跳びで通り越してホラーじゃねえか」

 佳奈美。彼女が『あの時の』って言った瞬間に容易に想像できてたぞ。お前がそういうことを言うのは。

「そんな大層な出会いじゃないんだけどな。ほぼ初対面だよ」
「……ふーん、二人のお兄さんなんだ。よろしくね」

 彼女は右手を差し出してきた。おお、もっと邪険に扱われるかと思ったのに案外まともな反応。なかなか器が広いではないか。

「おう、よろしく」

 彼女の手を握ると、ぴりっ、と一瞬だけ電流のようなものが流れた気がした。静電気か? 夏なのに珍しいもんだ。

「俺のことは陸斗って呼んでくれ。あんたは?」
「ソラ。ソラって呼んで」

 佳奈美が舌打ちした。なんで?

「ソラさんか。立ち話もなんだしとりあえず上がってくれ。それと愛華、脱いだTシャツを俺にぐいぐい押し付けるのはやめてくれ。八千円で買い取らないから」



「で、どういう馴れ初めで二人はソラさんと知り合ったんだ?」

 四人でダイニングテーブルを囲んで座るなり、俺は疑問に思っていたことを尋ねた。

「出会い系だよ」

 愛華がしれっと答える。

「愛華、ケータイ出せ。元凶を叩き割ってやる」
「冗談だよマイブラザー」

 ひらひらと手を振る愛華。やれやれまったく悪ふざけが過ぎる妹である。

「して、実際のところはどうなんだ?」
「んーと、佳奈美と買い物に行ってたら、お腹空かしておろおろしてるソラさんを見つけたの。そんでクレープあげて仲良くなった」
「……漫画みたいな話だな」

 信じられない、っていうほどでもないが、腹が減っていたのになんで自分で飯を食いに行かないんだ。

「お金も持ってなかったから困ってたんだよ。ね?」
「あ、うん。そうそう」

 怪訝に思っていたのが俺の顔に出ていたのだろう。佳奈美が横から補足した。

「それにね兄さん、ソラさんは記憶をなくしてて自分が誰なのかここがどこなのかもわからないらしいの。気づいたらこの辺りをふらふらしてたんだって。だからとっても困ってるんだよ」
「記憶喪失かよ。マジなのか、それ」

 てっきりそういうのはドラマや漫画の世界の中だけで起こるものだと思っていた。実際にそんな目に遭っている人間がいるとはにわかにも信じ難かった。

「ほんとだよ。ソラさんの名前もかなみたちでつけてあげたんだよ。ね、ソラさん?」
「ええ。感謝してるわ」
(………)
 
 妹達が嘘をつく理由も道理もない。彼女が何も覚えていないというのは本当だろう。
 しかし困ったことになったな。

「身分証とかそういうのは持ってないのか?」
「何も持ってない。あるのは今着てる服と、これだけ」

 ソラはポケットの中から何かを取り出し、テーブルの上に置いた。ことっ、という軽い音がした。見るとそれは淡いスカイブルーのガラス玉だった。

「なんだこれ? ビー玉?」

 指でつまんで眺めてみる。角度を変えたり照明をバックにして見てみるが特に変わった部分はない。ただのビー玉みたいだ。

「それって価値ある?」

 ソラが平坦な口調で訊いてきた。ああ、それを訊くってことはそういう知識も欠けているんだな。

「無いよ、金にならない。はい、返す」

 ビー玉をテーブルの上に戻す。「うーん、やっぱりならないか……」と唸りながらポケットの中にビー玉を押し込むソラ。
 ふと、右側から視線を感じた。見てみると佳奈美が神妙な面持ちでこっちを見ていた。

「どうした? 何か付いてるか?」

 はっとした表情になる佳奈美。

「ううん、なんでもないよ。なに考えてるのかな、って思ってただけ」
「ふうん。ちなみに何考えてたと思う?」
「……白スクを着ている場合ニーソは黒と白どちらを装備すべきか、あるいは白黒ストライプという選択もアリなのか、について?」
「ビー玉見ながらそんなこと考えてたら病気だろ。俺はそこまで終わってない」
「どれが好き?」
「無視かよ。まあ白スクには黒ニーソが至高に決まってるけどさ」

 旧スクだったらなお良し。あの隙間から手を突っ込めるからね。

「閑話休題。兄貴、ソラさんをうちに泊めてあげてもいい?」

 ずい、と愛華が身を乗り出す。

(うちに泊める、ね……)

 そういう話になるんだろうな、と薄々と勘づいてはいた。ソラの身の上だと宿が決まっているはずもないだろうし、必然的に俺たちに頼るしかない。

(………)

 家長である俺の匙加減一つでソラの今後が大きく変わってくる。そう思うと、俺の対応は一つに絞られてしまうじゃないか。

「いいよ。部屋は空いてるからそこを使えばいい」

 三人の表情がぱあっと明るくなった。

「ありがとう、陸斗」

 微笑んでいるソラに名前を呼ばれて、少しどきっとしてしまう。なんだ、機械みたいな女だと思ってたのにちゃんと笑うこともできるじゃないか。

「なに、当然のことだよ。何か進展があるまでうちで居ればいい。最近妹達の相手も大変になってきてね、援軍が欲しかったところなんだ」

 ここで俺は最高の笑みを浮かべる。好青年スマイル。特に意味はない。

「やったー! 兄貴ありがとっ!」
「兄さん、無理言ってごめんなさい」

 はしゃぐ愛華、苦笑いする佳奈美。

「気にすんなよ。三人で使うには広すぎる家だと思ってたし、今更一人増えたところで大して変わらんよ」

 実際その通りである。両親が遺してくれたこの家は俺達兄妹だけで使うにはいささか広すぎる。一人増えても別段困るようなことはない。
 ……しかしそれとは別の問題もある。性的な問題だ。年頃の若い男女が一つ屋根の下で暮らす以上、やはりそういう事態が起こるのも危惧するべきなのだが、

(確かにべっぴんさんだが、さすがに俺はそこまで腐ってない。万が一の事があっても……妹達がいるからまあ大丈夫だろ)

 この点に関しては俺が自制すればいいだけの話だ。頑張れ俺の理性、堪えてくれ俺の煩悩。

「陸斗」

 突如、ソラに名前を呼ばれた。
 彼女のほうを見る。戦慄が走った。

「本当の本当にありがとう。あのままだったら、わたし、きっと居場所がなかった」

 彼女は真摯な目つきで俺の眼を見据えている。
 ―――。

「礼なら妹達に言ってくれ。俺は何もしていない。あんたを助けたのはこの二人だよ」
「それも勿論そうだけど、違うの。そのことじゃなくて、わたしが言ってるのはあなたとわたしが初めて出会ったときのこと」

 彼女の瞳は異様なまでに澄んでいる。一切の罪も一点の穢れも取りこぼしなくこそぎ落としたかのような静謐さ。
 ―――――。

「気づいてしまったの。ひょっとしたらわたしは、」 

 ――――――――――。

 彼女の言葉を遮るようにして、俺のケータイの着信音が大きく鳴り響いた。湿った空気が震える。

「………」

 ケータイを取り出して画面を見てみる。姫宮さんからだった。通話開始のボタンを押し、耳に押し当てる。

「……もしもし」
『陸斗クン? どうしたの、もうバイトの時間よ。早く事務所にいらっしゃい』

 ――しまった。
 咄嗟に立ち上がり、壁に掛けてある時計に視線を移す。時刻は四時半を指していた。なんてことだ。まさかバイトの時間を忘れるだなんて。

「今すぐ向かいます。ご迷惑をおかけしてすいません」
『もう、待ってるから早くいらっしゃい』

 電話の向こうから不機嫌そうな姫宮さんの声が聞こえてきた。その後すぐに、ぶつっ、と通話が切れる。まずいぞ、これは大分怒ってる。

「兄貴、姫宮さんから?」
「ああ、バイトだ。夜まで帰れそうにない。食材はまだ結構残ってるはずだから晩飯は作って食べてくれ。悪い」

 言い終わるよりも先に玄関に向かって駆け出す。そのとき背後から、

「あっ、待って陸斗!」

 ソラが呼び止めてきた。悪いが相手にしている余裕はない。

「すまん、後にしてくれ。じゃ、留守番頼んだぞ」

 俺は振り向かずに返事をしてその場を後にした。
 後ろを見たくなかった。見れるはずもない。

(あれは気のせいじゃなかったのかよ……!)

 テーブルの上に乗っかっている胴体だけの彼女を、どうしてまともな精神で見続けることができようか。

(なんだってんだよ、一体……)

 俺は壁を殴った。鈍い痛みが拳に伝わった。



[20130] 第一章 真夏の虚構 3
Name: バケツチーズ◆53829272 ID:169a7848
Date: 2010/07/11 01:12
 姫宮リンネは俺の雇い主である。変わった名前をしている。
 本人曰く日本人とイギリス人のハーフらしい。涼しげな蒼い瞳と結い上げたブロンドの髪が印象的で、シュッと締まった輪郭やスラリと伸びた鼻筋も魅力的な綺麗な大人の女性だ。スーツ越しに窺える悩ましい肉付きのボディラインもポイントが高い。
 彼女が構えている事務所“ディープデザイン”は五階建てのテナントビルの三階部分に在る。一階は某英会話教室、二階は某金融会社の事務所となっていて、四階から上は空白。
 お世辞にもそのビルは立派とは言えない。ビルというよりは窓が付いた箱という形容のほうがしっくりくる安っぽい外観となっていて、所々が欠けたり汚れたりしているコンクリートの外装がその年季を物語っていた。
 ビルの中はまだいくらかマシだが、それでもあちこちでガタがきているのが見受けられる。剥げている壁紙や通路の隅に空いているネズミ穴など。ここの管理人は改修する気が無いらしい。
 エレベーターは無い。毎回、埃っぽい空気が充満している階段を登らなくてはならないのが嫌だった。

「姫宮さん、遅れてすいません!」

 三階の事務所に飛び込むなり俺は声を張り上げて謝った。
 部屋の奥の窓際で姫宮さんが立っている。こっちに背中を向けていて、窓の外の景色を眺めているようであった。

「時給マイナス三十円ね」

 短く言い放つ彼女の語調は冷ややかだ。

「うっ……」
「何か文句でも?」
「いえ……」

 姫宮さんの背中が怖い。あの周りだけ空気の重さが違う気がしてならない。

「陸斗クン、キミは今まで無遅刻無欠勤だったから評価してたのよ? どうやら買い被りだったみたいね。時間にルーズなのはダメよ、うん」
「……返す言葉もありません」
「あっそ。まあいいわ、これ以上キミをなじっても仕方無いし。早速作業に取り掛かりましょう」

 ……相変わらず辛辣だ。

「今日のは大して難しいことじゃないわよ。とってもとっても簡単なお仕事。だから、ね。安心してね?」

 彼女の声は笑っていた。でもきっと顔は笑っていないのだろう。
 俺は嫌な予感しかしなかった。彼女の言う“簡単なお仕事”で実際にその通りだったものは一つも無いのだ。最近やったものの中では“雑草ティーの味を向上させるお手伝いをするだけの簡単なお仕事”が記憶に新しい。一日中その辺に生えている雑草を煮出した汁を飲まされた。結果、三日間下痢に苦しむこととなった。

「……何をすればいいんですか?」

 暫しの間。
 先に動いたのは姫宮さんだった。かつ、と軽く靴を鳴らして俺のほうを向いた。

「なっ……!」

 そして絶句した。
 彼女の右手に握られている無骨なそれは――

「ナ、ナイフ!?」
「動かないでね。殺しちゃうから」

 即座に彼女は地面を蹴り上げ、凄まじい速度と正確さで俺の懐まで潜り込んできた。――反応できなかった。いくらなんでも速すぎる。

「う、うわぁあ!」
「動くなっつってんだろ」

 恐ろしく低いトーンで威圧された刹那、俺の顔が彼女の左手に鷲掴みにされた。ぎり、と万力のように締めつけられる。慌ててそれを振り払おうとするがびくともしない。

 つぷっ、と右手に冷たい金属が触れる感覚。次いでそこから流れ出す生温かい液体。血だ。

「………っ!」

 恐怖のあまり言葉が出なかった。命の危機を察知した全神経が俺の身体を硬直させる。

「動かないでね。そのまま、そのまま……」

 姫宮さんが耳元でそっと囁く。寒気がした。一粒の汗が顔を伝い落ちる。
 動悸がする。視界が白む。上手く呼吸ができない。身体が動かない。
 俺は死を覚悟した。

「…………」
「…………」

 辺りを包む静寂。しん、と固まった空気が時間の流れを錯覚させる。十秒が一時間に感じられるような、短く長い沈黙が続いた。
 慈悲も救済も恩寵もそこには無く、ただただ無情な時間が過ぎていく―――

「―――はい、おしまい。協力ありがとね」
「は……?」

 彼女の左手が俺の頭を開放する。急なことで拍子抜けしてしまい、思わずその場にへたりこんでしまう。

「うん、結構採れたかな」

 彼女は赤い液体が入った小瓶をちゃぷちゃぷと揺らす。俺の血だ。

「姫宮さん、それは……」
「ん、キミの血だよ」

 そんなことはわかってる。

「いえ、そうじゃなくて。そんなもの一体何に使うんですか?」
「そんなの決まってるじゃない。いつも通りのことをいつもと違うようにするだけよ」

 ……なるほど。そういうことか。
 俺は思い出した。彼女が追究している“それ”の存在を。

「いいんですかそんなことにかまけて。本業のほうが疎かになったりしません?」
「大丈夫よ。私にとっちゃ本業のほうが道楽みたいなもんだし。お客さんだって滅多に来ないしね」

 本業、というのは彼女が営んでいるウェブデザイン業のことである。個人や法人からウェブホームページ等のデザインの製作を委託される仕事であるが、俺は彼女がそんなことをやっている場面を一度も見たことがない。というかここの事務所にパソコン自体が無い。本当に仕事をやっているのがどうか疑わしいものである。
 にも関わらず俺への給料は毎月ちゃんと支払われている上に、彼女の生活が困窮しているという話も聞いたことがない。……実家が資産家か何かなのだろうか。
 では仕事もやらずに連日何をやっているのかというと、馬鹿げているとしか思えないことをやっている。
 曰く“非科学の探究”。曰く“真理の解明”。曰く“限界の底上げ”。
 姫宮リンネはそれを“魔導”と呼んでいた。

「ほら、包帯。巻いておきなさい。それからいつまでそんな所に座ってるの? 早く立ちなさい」

 彼女は床に腰をついている俺に向かって包帯を投げてよこした。立ち上がってそれを受け取り、血がたらたらと流れている右手の甲に巻く。

「びっくりしましたよ。殺されるかと思いました」
「ええ。半分殺す気だったしね」

 恐ろしいことをさらりと言う。

「そんな怖い顔しないでよ。冗談よ、ジョーダン」

 彼女は俺に背を向けて屈んだ。すると右手に持っているナイフの切っ先をタイルの床に突き立て、がりがり、と床を引っ掻き始めた。
 俺は彼女の意図がわからず、呆然とその行動を眺めるばかり。

「何を始める気なんです? というかいいんですか? そうやって傷つけても」
「何って、陣を作ってるのよ。それに元々ぼろっちぃんだからちょっとくらい傷が増えても問題無いでしょ」
「はあ」

 俺は生返事をするしかない。彼女の振る舞いがあまりにも毅然としているものだから突っ込みようがなかった。

「陣って言っても諸葛亮の忠告を無視して馬謖が山頂に敷いた陣とは別物よ?」
「えらいディープなのを挙げてきましたね。三国志好きなんですか」
「ええ。家の本棚には横山輝光の三国志は勿論、蒼天航路も全巻揃えてあるわ。当然のことながら正史と演義も読破済みよ」
「ほほう。では武将が全員美少女になっている例のあのゲームもご存知ですか?」

 公孫賛ちゃんは俺の女神である。あのふわふわ赤髪ポニーテールをぎゅっぎゅっしたい。

「うーん、それはちょっとわからないかな。何? 陸斗クンはそういうのが好きなの?」

 がりがりがり。ナイフで床に模様を描きながら、彼女は若干引き気味に訊いてきた。

「はい、お恥ずかしながら。たまに妹に隠れてこそこそプレイしています。特に最近は暑いので服を脱いでパソコンの画面とにらめっこしていますね」
「陸斗クン気持ち悪い」

 軽蔑された。
 悲しくなった。でも俺は泣かない。

「生きてる価値が無いと思うの。あなたが早く首を吊るのを心待ちにしてるわ」
「酷いこと言いますね。俺だって一人の人間ですよ?」
「それは衝撃の事実ね。私、あなたのことを女物の下着とアイドルの歯ブラシの間から産まれた獣欲の権化だと思っていたわ」

 どんなクリーチャーだよ。

「さすがにそこまで言われる筋合いは無いですよ。まるで俺が盛りのついた犬であるかのような言い方じゃないですか」
「違うの? てっきり私はあなたが涎を撒き散らしながら見境なく女性に向かって突進していく淫獣なのかと……」
「すいません。あまりの信用のされなさっぷりに閉口してしまいます」
「何言ってるの。冗談に決まってるじゃない。あなたが本当に性欲の塊なら女性フェロモン大絶賛放出中の私は今頃襲われてるはずだしね」

 何言ってんだこのおばさん。

「……襲いませんよ。そんな恐れ多いことできませんって」
「そう。あなた童貞だものね」
「………」
「無視? それとも童貞が進行すると耳が遠くなるのかしら?」

 ぷつん、と俺の中で何かが切れる音がした。頭に血が昇るのを感じる。

「……行き遅れのくせに」

 口の中だけで小さく呟く。自分の耳でも聞き取れないくらいのか細い声。
 ―――びゅん、と俺の顔のすぐ横を何かが驚異的なスピードで過ぎ去った。それは後ろの壁に衝突する。ひどく鈍い音が部屋中に響き渡った。
 俺の頬から一筋の血が流れる。

「ごめんなさいね、手から滑り落ちちゃったわ」

 不気味に笑う彼女の手元にナイフはない。俺は恐る恐る背後を見た。……彼女の手から放たれたそれはコンクリートの壁に突き刺さっていた。刃の根元まで深々と埋まっている。

「ところで陸斗クン、さっき何か言ったかしら。ワゴンに積まれた売れ残りクサレババァとか聞こえた気がしたんだけど」

 そこまで言ってねぇ。

「はは、何も言ってませんよ。矮小でゴミカス以下の存在であるこの俺が宇宙規模の高潔さと美貌を兼ね備えている姫宮さんの悪口を言うはずないじゃないですか」
「うふふ、そう。でも何か言いたげな顔してるわよ?」
「言いたいことですか? ありますよ。偉大なる姫宮さんの下で働くという地上最高の幸福をゴキブリ以下のクソムシである俺一人で独占してもいいのだろうか、という疑問を常々感じていることです」
「謙虚ね陸斗クン。そういう男の子好きよ」
「はっ、大変ありがたきお言葉。感慨無量で言葉が出ません」

 うふふふふ、とにこにこ笑う姫宮さん。恐ろしくてたまらない。
 
「さて、と」

 ここで彼女は大きく伸びをした。んー、と間延びした声を上げながら全身の骨をこきこきと鳴らす。

「始めましょうか。“魔導”を」

 にいっ、と口の端を吊り上げて姫宮リンネは不敵に笑った。
 彼女は先ほど描き上げた陣の中央に突っ立っていた。それは両手両足を広げた俺がすっぽりと収まるくらいの大きさの円陣で、円の内部のあちこちに幾何学的な模様が描かれている。漫画やアニメでよく見かけるような、いわゆる魔法陣だった。

「あのー、俺は何をしていればいいんですか?」
「何もしなくていいわよ」

 とのことなので、近くの壁に寄りかかって事の顛末を眺めることにする。
 横に視線を移すと壁にぶっ刺さっているナイフが見えた。とりあえず両手で掴んで引っ張ってみた。抜けない。びくともしなかった。

(どんな力で投げればこんな芸当ができるんだか)

 などと思っているうちに、姫宮さんが何やら始め出した。
 手に持っている小瓶を傾けて、中に入っている血を陣に垂らしていく。暫くして、小さな血溜まりが出来上がった。

「姫宮さん。それって俺の血である必要性ってあるんですか?」
「勿論よ。童貞の血じゃないとね」

 くそっ、まださっきのこと根に持ってるのか。

「あら、これは大真面目な話よ? 性行為を行っていない人間の血を魔術の媒介にするっていうのは割とよくある伝承なのよ」

 だったら自分のを使えばいいじゃん、と一瞬思ったが、思うだけにした。言葉に出したら今度こそ殺されかねない。

「はあ。それでそれからどうするんです? 呪文とか唱えたりするんですか?」
「唱えないわよ」
「じゃあ生贄でも捧げたりするんですか?」
「捧げないわよ。何もしない。これで終わりよ」

 あっさりと彼女は言い放った。
 思わず俺はあっけらかん、としてしまう。 

「……あー、ちなみにそれはどういった魔導なんですか?」
「んー、結界?」
「何で疑問形なんですか。というか結界って……何から身を守るつもりで?」
「そりゃ外敵に決まってるでしょう」

 外敵、ねぇ。
 今の時代、こんな陳腐な事務所にわざわざ攻め入る敵なんていないだろうに。泥棒避けのおまじないのつもりなのか。童貞の血で近寄らなくなる泥棒ってどんな泥棒だよ。

「ところで、その結界を張る魔導ってのはどこで知ったんですか? 魔導書とかですか?」
「ん、我流だけど?」

 ……我流。
 まあ、予想はできてたけどさ。姫宮さんがやる魔導とやらはいつもいつも彼女が独自に編み出したよくわからないものだし。それで結果が出ればまあいいのだが、無論魔導チックな現象が起きたことは一度もない。いつも徒労に終わっているのだ。
 オカルト道楽の遊び事。毎回それに付き合わされる俺の身にもなってほしい。これで給料が出なかったら俺は壊れるかもしれない。

(……あ、そうだ)

 ふと、俺はあのことを思い出した。時折、身体が真っ二つに別れて見える彼女のことを。
 俺はそのことを姫宮さんに話してみることにした。この人、こういうオカルトな話が好きだろうし。

「話は変わるんですが、最近妙なものが見えるようになったんですよ」
「ふうん? どんなの?」
「人の身体が二つに別れた死体に見えたかと思うと、気づいたときには元に戻って平然と動いてるんです。変な見間違いですよね」

 見間違い。そんなはずがなかった。あの生々しさは紛れもない現実だ。
 しかしそうやって自分に言い聞かせざるをえない。そうやって現実から逃げないと気がどうにかなってしまいそうで。

「………」

 姫宮さんは無言だ。真面目な表情で俺の話を聞いている。
 俺は彼女に肯定してほしかった。キミのそれはただの見間違いよ。疲れているんでしょう。カウンセリングでも受けに行ったほうがいいわよ。そんな言葉を期待していた。
 そうしてくれないと、圧し潰される。

「……それはいつから見えるようになったのかしら?」

 彼女の口調は重い。

「今日からですね。昼間、外をぶらついていたら見えました」
「最初はどれくらい死んでるように見えた?」
「……十秒くらいですかね。地面に倒れ伏していたはずの死体が急に元通りになって立っていました」
「その人が普通に見えるようになってから妙なことは起きなかった?」
「いえ、特には……」

 彼女は俺に質問を畳みかけてくる。
 雲行きが怪しくなってきたのを俺は感じた。

「ふうん。今までに何回くらいそういうのが見えた?」
「二回、ですね」
「二回か。二回目も一回目と同じように見えた?」
「はい。でも経緯がちょっと違いますね」
「経緯が? どういう風に?」
「一回目のときは最初見たときから死んでるように見えてたんですが、二回目のときは会話している最中にいきなり身体が二つに別れて見えました」
「へえ? それも十秒くらいで元に戻った?」
「いえ、怖かったので元に戻るのを待たずに逃げました」

 いつまで待っても彼女が二つに別れたままだと思うと、怖くてたまらなくて。

「なるほどなるほど。それがキミの見た異常の全て?」
「はい。やっぱりおかしいですよね、そんなものが見えるだなんて。疲れが溜まってるんですかね」

 肯定してくれ、俺の希望を。否定してくれ、俺の現実を。

「……………」

 長い沈黙が続いた。

「……須川陸斗。君は」

 姫宮リンネは俺に近寄ってくる。かつりかつりと乾いた音を立てて。

「どうしてそこまで見ているのにそれを信じない」

 姫宮リンネは足を止めた。顔と顔が数センチしか離れていない距離で。彼女の蒼い瞳が俺の眼を見据える。心の底まで見透かされているかのような、そんな感覚を覚えた。

「そしてなぜ気づかない。その現象の答えに」

 姫宮リンネは壁に突き刺さったままのナイフへ手を伸ばす。しなやかな手つきでナイフの柄を掴み、そのまま難なく引き抜いた。ぬるう、と。まるでケーキに突き立てたフォークのように。

「意味も無く起こることなんて存在しないんだよ。君がそれを見てしまうってことはそれ相応の理由があるってことだ」

 姫宮リンネの艶めかしい唇が開く。

「須川陸斗。君は」

 姫宮リンネの、姫宮リンネの―――

「―――君は、ひょっとして自分が普通の人間だと思っていたのかい?」

 俺は―――。



[20130] 第一章 真夏の虚構 4
Name: バケツチーズ◆53829272 ID:169a7848
Date: 2010/07/13 00:54
「―――なんてね。驚かせてごめんなさいね。悪ふざけが過ぎたわ」

 姫宮さんは軽い調子でそう言って俺の前から離れた。

「私、能力者モノの漫画とか好きなのよね。ああいう台詞を言ってみたかっただけなのよ。なかなか真に迫る演技だったでしょう? これでも宝塚を目指してた時期もあるのよ」

 彼女はナイフを持った右手をひらひらさせながら歩く。俺の血で彩られている魔法陣の中央で彼女は足を止めた。

「大丈夫よ陸斗クン。君は普通の人間よ。人間の私が保証する」

 自信ありげに彼女は言う。

「幻覚が見えるってことは疲れてるんでしょう。最近スプラッターな映画でも観た? それの印象が強すぎてありもしないものが見えてしまうんじゃない? 情緒不安定なときは周りの影響を受け易いものよ」
「……そうですかね。だったら良いんですが」
「そうよ。第一、そんな非現実的なことが実際に起きるわけないじゃない。身体が別れたり元通りになったりって、そりゃどこの∨ガンダムよ。だからただの見間違い。気にすることないわ」

 非現実の象徴である“魔導”を追究しているあなたが、それを言う。

「今日はもう家に帰りなさい。ぐっすり眠るといいわ。……ああ、それから。これあげるわね」

 彼女はナイフをハンカチでサッと拭って俺の足元に投げた。タイルの床の上で小さく跳ねる。冴え渡った鉄の音がした。

(………)

 ぎらぎらと輝く鋭利な刃がその残虐性を明瞭に物語っていた。刃渡り六寸足らずの暴力の塊。それが、俺の視線を釘付けにさせた。

「実はそれ旧友から貰った曰く付きのナイフなのよね。なんでも持ち主の命を守り抜く魔除けのナイフだとか。今まで百人もの手に渡ってきていて、百人全員がそれのお陰で死を免れたっていう逸話があるとかないとか」

 眉唾だけどね、と彼女は付け加える。

「お守り代わりに持っておきなさい。健康祈願よ」

 彼女はウィンクした。

「………」

 俺は足元のナイフを拾う。鈍い重みが腕に伝わった。……嫌な感触だ。

「そのままだと持ち帰れないわね。そこの棚の脇に新聞紙を積んであるからそれに包んで持って帰るといいわ。あ、それから明日も今日と同じ時刻にここに来るように。やってほしい“簡単なお仕事”があるのよ」

 彼女の言葉はほとんど俺の耳に入ってこなかった。入ってくるはずがなかった。
 包帯に巻かれている右手の傷が、ずくん、と一際痛んだ気がした。



 帰り道、俺の内心は酷く淀んでいた。
 その原因は言うまでもなく姫宮さんのせいだ。彼女は悪ふざけだと軽く言ってのけていたが、そんなわけがない。あんな取って付けたような言い訳を誰が信じるものか。
 彼女の言葉が俺の胸の内で渦巻く。

『―――君は、ひょっとして自分が普通の人間だと思っていたのかい?』

 思っていたさ、途中まで。
 まるで俺が非人間であるかのような物言い。見えないはずのものが見えるイレギュラー扱い。
 しかし今の俺はそれを否定できなかった。
 俺は見てしまった。
 姫宮リンネの背中から伸びていた、一本の黒い腕の存在を。

「………」

 それは彼女が壁に刺さったナイフを抜いたときから見えだした。ソラのときと同じように、何の予兆も無く唐突にその黒い腕が彼女の背中に生えていた。いや、付いていた、と言うべきか。
 奇妙な腕だった。大きさは俺のそれと大して変わらないが、なにしろ全体が真っ黒なのだ。墨をぶちまけたかのような黒さだった。
 その腕は不規則にゆらゆらと揺れていた。時計の振り子のように、のったり、のったり、と。……上に向いた状態で揺れていたから、メトロノームのほうが近いか。
 宝塚を目指していたとうそぶいたときも、俺にナイフを渡したときも、別れの言葉を告げたときも、彼女の背中でそれは不気味な自己主張を繰り返していた。
 力無くぶらんぶらんと揺れる黒い腕。ひどく人間めいた動きだと思った。だからなのだろう、その動きが、こっちへおいで、と手招きしているようにさえ見えたのは。
 行かねえよ、そっち側になんて。

(……姫宮さんも、か)

 ソラは真っ二つに見えて、姫宮さんは黒い腕が生えているように見える。……人によって見えるものが違うのか? まあそんなことはどうでもいいが。何が見えるかではなく、見えていること自体が問題なのだから。

(明日、報告しておこう)

 今日は言い出すタイミングを逃してしまった。
 案外彼女は喜ぶかもしれない。自分の身体からそんなものが出てるなんて凄いわ、なんて言って。オカルト好きな姫宮さんのことだ、充分にありうる。
 しかし俺としては気が気でない。姫宮さんに打ち明けて少しでも心の負担を軽くするつもりだったのに、逆に悩みの種が増えてしまった。気が重くなる。

(っつーか、このナイフ。貰ってきたけどいらないよなぁ)

 左手に握られている新聞紙の塊に視線を移す。大袈裟に巻いたのでかなり大きな団子になってしまった。
 彼女はこれを魔除けのお守りと言っていた。気持ちはありがたいが、さすがに抜き身のナイフを渡されても扱いに困る。生憎俺には想像力と行動力豊かな中二病よろしくナイフ片手に深夜徘徊する趣味もないし。どうせ机の引き出しの肥やしとなるだろう。

「あのー、すいません」

 突然声をかけられた。
 半ば自動的に進めていた足を止め、声がしたほうを向く。一人の少年が立っていた。学生なのだろう、学ランを着ている。

「道を教えていただけますか?」

 少年は微笑んだ。見る人に好印象を与える綺麗な笑い方だった。
 それでいて、いやらしい笑みだ。

「いいよ。どこまで?」

 ぶっきらぼうに俺は答える。愛想良く喋る気力も起きない。

「“ディープデザイン”って所なんですけど、ご存知ですか?」

 姫宮さんの事務所である。ちょっと驚いた。お客さんか? 珍しい、初めて見た。
 しかしこの少年は見た感じ学生。仕事の依頼を受けてもあまり金にはならないだろうな、と失礼な想像を頭の中でしているうちに、ふとある考えが俺の頭の中に浮かんだ。

(こいつも変な風に見えたりすんのかな)

 とりあえず全身をさっと見渡してみる。……特に何もない。普通の人間そのものだ。
 しかし途中で変化が起きるかもしれない。なので彼の挙動から注意を逸らさずに道を教えることにする。

「この道を真っ直ぐ行って最初に見える信号を右に曲がる。んで、しばらく歩いてたら右手側にビルがあるのが見える。古くて小さいビルだからわかりにくいかもしれないけど、ちゃんと看板かかってあるから」

 説明している間も特に何も起こらない。
 期待し過ぎか。それもそうだ。今まで何十人と通行人を見かけてきたがその中で変な風に見えたやつは一人もいない。今のところソラと姫宮さんだけだ。

「ありがとうございます、助かります。あ、そうそう、もう一つお尋ねしたいことがあるんですが、よろしいですか?」
「いいよ。何?」

 俺の返事は相変わらずそっけない。

「些細でくだらない質問で恐縮なんですが、そのー、あなたはどうして生きているんですか?」

 ……は?
 何を言われたのか一瞬意味がわからず、呆けてしまう。

「……何? 宗教の話になったりする?」

 勧誘なら丁重にお断りするが。

「いえいえいえ! 違いますよ、そんなんじゃないですって。ただ疑問に思っただけですよ。どうして鉄の塊の飛行機が飛ぶのか、どうして何万トンもある水が遥か上空で浮かんでいられるのか、そんなくだらない疑問と同枠の質問なんです」

 少年は顔の前でわざとらしく両手を振った。
 ますます意味がわからない。こいつは一体何が言いたいんだ。

「ごめん、用が済んだならもう帰るわ。じゃあな」
 
 俺は露骨に苛立った口調で吐き捨て、この場から去ろうとした。
 がしっ、と右腕を掴まれる。止められた。

「ちょっと待ってください。確かにくだらなくて答える価値がないかもしれませんが、しかし、だからこそ答えなくてはならないものってあるじゃないですか。例えば五歳児が出すひどく拙い問題。パンはパンでも食べられないパンは何? フライパン! それと一緒ですよ。答えなかったらぐずって泣いちゃう。だから答える。僕は五歳児。僕はひどく拙い問題を出した。あなたはどうして生きているんですか? さあ何で?」

 少年は言葉を畳みかけた。

(何なんだこいつは……。頭がイカれてんのか?)

 少年の眼は無垢な輝きで満ちていた。まるでおもちゃを前にした五歳児のような、悪意の欠片も存在しない表情。どうしてそんな顔ができる。

「おや、右手を怪我しているみたいですね。うーん、こっちはこっちでなかなか興味深い経緯がありそうですね。ですが手に余るほどの面白いことになってしまいそうなので敬遠しておきましょう。自分のキャパシティを見定めるのって大事ですよね。ああすいません、脱線してしまいました。こんな面白すぎる話題を出すべきじゃなかった。もっとくだらないことを話さないと。ええ、はい。となると必然的に僕はあなたにこう言ってしまうことになる。あなたはどうして生きているんですか?」

 彼の身体に変化はない。至って普通のままだ。普通であることが、逆に恐ろしい。

「あれ、もしかして答える気がない? いやあそれは困るなあ。だってそんなことされたら泣いちゃいますもん、僕。五歳児だし。わんわんわんわん泣いて、じたばたじたばた地団駄を踏んで、ぎちぎちぎちぎちあなたの首を締めなくちゃいけなくなるじゃないですか。そんなのあなたも嫌でしょう、困っちゃうでしょう? だから、ね? 答えてくださいよ。なあに、複雑な回答なんかしなくていいんですよ。至極シンプルに答えてくれればいいんです。それこそ、フライパン! みたいに一言で済ましちゃっても構わない。それで怒ったりしませんよ。だから気にせずに、ね? 答えてくださいよ。

 あなたはどうして生きているんですか?」

 喋っている間も少年の表情は一切変わらない。聖人のような顔で、口だけを機械的に動かして悪魔のような言葉を吐き出していく。
 俺は底知れぬ危機感を感じた。得体の知れないものに触れた恐怖によるものであった。
 だめだ、耐えられない。

「―――!」

 言葉にならない叫びを上げて、少年の手を振り払って駆け出した。背後から何か聞こえた気がした。無視した。
 全速力で俺は走った。後ろは振り返らなかった。









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これにて第一章終了。



[20130] 第二章 真夏に空白 1
Name: バケツチーズ◆53829272 ID:169a7848
Date: 2010/07/18 12:40
 家に帰るなり、エプロン姿の佳奈美が出迎えてきた。

「おかえり兄さん。夜遅くまで帰ってこないんじゃなかったの?」
「思ったより早く片付いたんだよ」

 ぶっきらぼうに返事をする。

「でもどうしたの? 汗ぐっしょりだけど」

 ここまでずっと走り通してきたのだ。俺のシャツは絞れば滴り落ちるほどの汗で濡れていた。
 肩で息をしながら俺は答える。

「なんでもない。最近運動不足だったから走ってきただけだよ」

 我ながら下手な嘘である。
 佳奈美はぽかん、とした顔で、

「はあ。兄さん、怪我してるみたいだけど大丈夫?」

 俺の右手を指差して訊いてきた。

「大丈夫。ちょっとバイトでミスっただけ」

 姫宮さんに血を採られたからだ、なんて言えなかった。佳奈美に余計な心配をさせたくなかった。

「そう? だったらいいんだけど……」

 佳奈美の視線が俺の左手に移る。握り締めている新聞紙の塊が気になるようだった。

「これはお土産。姫宮さんから貰ってきた」

 嘘は言ってない。

「ふーん」

 佳奈美は左手の新聞紙の塊をじっと見据えている。真剣な目つきだ。まるで年配の専門家が中世の工芸品を品定めするかのような、そんな眼だった。
 不意に、俺は違和感を覚えた。

(……あれ?)

 なんだろう、この眼。佳奈美のこんな表情を今まで見たことがない気がする。まるで別人のような、佳奈美らしからぬ深刻な顔だが……。
 なんだ? そんなに中身が気になるのだろうか。

「食べ物とかじゃないよ。ただの置物だ」

 置物、という表現に自分で少し引っかかったが、どうせ使わずに放置することになるだろうから間違ってはいないはず。
 佳奈美は視線をナイフを包んだ新聞紙から外す。俺の目を見てきた。純真な輝きを持っているいつも通りの佳奈美の眼が、そこにあった。

「そう。兄さん、右手の包帯とりかえようか? 結構血がにじんでるみたいだし」

 言われて気がついた。確かに包帯にはかなりの血が滲み出ていて、ほとんど赤く染まってしまっている。

「ん、そうだな」
「包帯はずすよ。ほら、手出して」

 言われるままに俺は右手を突き出した。少し照れ臭くなった。なんだかお母さんとその子供みたいで。
 
「んー、結び目はどこなのかな」

 佳奈美は微笑んで、俺の右手にそっと触れた。
 ぴりっ、と傷口から微弱な電流のような痛みが流れた。

「っ!」

 瞬間、佳奈美は凄まじい勢いで俺の右手から手を離した。その反動で彼女はそのまま二,三歩後ずさる。
 その表情は驚愕に歪められている。信じられない、今にもそう言い出しそうな形相であった。

「ど、どうした。何かあったか?」

 不安に思って佳奈美に近づく。すると彼女はびくっ、と体を震わせて、俺が近づいた分後ろに下がった。
 ひどく狼狽している。尋常ではない。……なんだ? 何があった?

(なんだ……?)
 
 まさか、と思い右手を見てみる。特に何もない。血で汚れた包帯が巻かれているだけの至って平凡な手だ。
 一体何が、佳奈美をここまでうろたえさせたのか。

「……ごめんなさい、兄さん。ちょっと具合が悪いみたい。包帯、自分でとりかえてね」

 弱々しい口調で佳奈美は言葉を搾り出す。顔が青くなっていた。
 佳奈美は逃げ出すように俺に背を向け、ぱたぱたとスリッパを鳴らしてリビングのほうへと早足で向かっていく。

「………?」

 一人取り残された俺は、わけが分からず呆然と立ち尽くすだけだった。
 どうしたんだろう。前々から変な妹だと思っていたが、こんなにも訳のわからないことをされたのは初めてだ。何があったんだ?
 しかしいくら考えても答えなんてわかるはずもない。

「……とりあえず、これを部屋に置いてくるか」

 左手で握っている新聞紙の塊の視線を移し、俺はぽつりと言葉を漏らした。

/

 リビングにはテレビゲームに興じているソラと愛華の姿があった。
 レース物のゲームだ。二分割された画面を二台の四輪駆動車が駆けている。ソラが上、愛華が下の画面を食い入るように見ていた。
 二人とも真剣そのものだ。体を前後左右にゆらゆらと揺らしながらコントローラーで画面内の車を操作していた。

 不意に、背後からスリッパが鳴る音が聞こえた。佳奈美が戻ってきたらしい。

「兄貴帰ってきたー?」

 画面から視線を外さずに、愛華が間延びした声で問いかけた。
 しかし佳奈美からの返事はない。

「どしたん?」

 自分の車が直線コースに入ったところで、不審に思った愛華は後ろを見た。
 台所で具材を包丁で切っている佳奈美の小さな背中が見えた。愛華の言葉に応える気配は無い。

「………?」

 声が聞こえなかっただけかな、そう思って画面に向き直る。
 後ろからソラの車が迫ってきていた。慌ててハンドルを切り、ソラの行く手を妨害する。

「ずるい! そんなのされたら前に出られないじゃん!」

 ソラが口を尖らせて抗議してきた。
 しかし愛華は進路妨害を止めない。ソラの動きに合わせて右へ左へと動かしている。ついには調子に乗って口笛なぞ吹き始めた。

「勝てばいいからねー」

 にやにやと、いやらしい笑みを浮かべながらコントローラーをさばいていく。

「ぐぬぬ……!」

 ソラが唸った。眼には怒りの炎が灯っている。
 攻めつ守られつ、右へ左へ。そんな走りをしているうちにゴールが見えてきた。当然、愛華の車がソラの手前にきている。
 これは勝ったな、と愛華が確信したそのとき、ソラが急に身を乗り出して愛華のコントローラーをゲーム機本体から引き抜いた。

「あっ!」
 
 当然、統制を失った愛華の車は徐々に速度を落としていき、ついには動かなくなる。コントローラーのケーブルを挿し直す頃には、横から追い抜いたソラの車が颯爽とゴールラインを割っていた。
 コントローラーを握り締めたまま、愛華は間抜けに大口を開けて、隣に座っているソラに視線を移した。

「勝てばいいんだっけ?」

 不敵に口元を吊り上げたソラが言い放つ。

「むうー……!」
「ふふん」

 ばちばちばち、と二人の額の間で火花が散る。一触即発の雰囲気である。

「二人とも何やってんだ……」

 背後から陸斗の呆れた声が聞こえてきた。二人が振り返ると、すぐ後ろに右手に包帯を巻いた陸斗が立っていた。

「おかえり。どしたん、怪我?」
「まあな。いつも通りバイト絡みだよ」

 やれやれ、と大袈裟に両手を振ってみせる陸斗。

「包帯、どこに置いてあるか知らないか? 忘れちまったんだよな」
「うん? ちょっとぼくもわからないかな。佳奈美に訊いてみたら?」
「そうするか」

 そんなやり取りの後、彼は台所で料理をしている佳奈美まで包帯の場所を訊きに行った。佳奈美と数回言葉を交わして、彼は頭を掻きながらリビングから出て行った。どうやら別室に置いてあるらしい。

「よーし、今度は格闘ゲームやってみようか」

 愛華が気を取り直して朗らかな口調で提案してきた。
 ふと、ソラは何気なく窓の外に視線を向けた。空全体を暗雲が覆っていた。入道雲だ。夕立が今にも降り出しそうである。

「………」

 彼女はぼんやりとした表情で空を見続けている。



 陸斗はかつて両親が使っていた寝室まで来ていた。佳奈美が言うにはここのタンスの一番下の引き出しに救急箱を入れてあるとのこと。
 
「えーっと、このタンスかな」

 見る限りタンスはこれだけだ。漆塗りの高級そうな造りをしている。
 彼は腰を落とし、一番下の引き出しを開けてみた。中には赤十字のマークが刻印されている救急箱だけでなく、湿布や虫除けスプレーといった雑多な備品も入っていた。
 救急箱を取り出し、蓋を開ける。消毒液やピンセット、頭痛薬などに埋もれるようにして包帯が二巻詰まっていた。一巻を取り出したところで、ふと彼は気がつく。

「あ、これ風呂入ってから変えたほうがいいな。濡れるし」

 というわけで、とりあえずその一巻をポケットの中に突っ込む。用が無くなったので救急箱を引き出しの中に仕舞おうとしたら、

「……ん?」

 引き出しの底に何か紙のようなものが貼ってあるのに気がついた。湿布の箱で半分以上隠れているが、見た感じお札のように見える。

「………」

 なんだろう、と思って湿布の箱をどけてみる。やはりそれは一枚のお札だった。赤いインクで文字とも絵とも取れるような古めかしい模様が描かれていた。なんとなく既視感を覚えた。そう言えば陰陽師モノの映画でこれとよく似た感じのお札を見たことがあるような気がする。
 魔除けか何かのおまじないだろうか。

(親が貼ったんだろうな。迷信とか信じる人だったのか)

 ふと、陸斗の頭の中に両親の顔が思い浮かんだ。二人とも良い親だった。母は躾に厳しいながらも母性的な優しさを持っている人物であったし、父は典型的な頑固親父であったが何だかんだ言っても家庭を第一に考えていた。人間として立派な二人であった。
 二人は宗教などには興味無さげにしていたはずだ。それだけに、ここにお札を貼ってあるのが少し引っかかった。

「……ま、陳腐なおまじないのつもりなのかね。絵馬に願い事を書くとか、それと同レベルのもんか」

 深く考えても仕方が無い。それに二人がもういない以上、答えなんて無いのだから。

「兄さーん、ご飯できたよー。早くきてー」

 ダイニングのほうから佳奈美が呼ぶ声が響いてきた。

「おう、今行く」

 彼は咄嗟に言葉を返し、無造作に救急箱をタンスの中に押し込んで部屋を後にした。
 救急箱の下敷きにされたお札は暗闇の中で静かに佇んでいる。



「今日は張り切って作っちゃった」

 陸斗は閉口していた。それはなぜか愛華が全身をテレビゲームのコントローラーのケーブルでぐるぐる巻きにされていたからでもないし、なぜかソラの頭の上に真っ二つに割られたゲームディスクが乗っかっていたからでもない。テーブルの上にでん、と構えている巨大なケーキが原因だった。

「え、何これ。今から結婚式でもすんの?」

 天井に届く寸前のケーキを指差しながら、彼はにこにこと微笑んでいる佳奈美に問いかけた。

「なに言ってるの兄さん。ただのおもてなし用の料理じゃない」
「へえ、知らなかった。この国ではウェディングケーキで客人をもてなす風習があったのか」

 彼はうそぶきながら席についた。彼以外の三人は既に座っている。四人で東西南北に四角いテーブルを囲む形になっており、右手側にソラ、左手側に愛華、正面に(ケーキで隠れて見えないが)佳奈美が座っていた。

「愛華。それは新しいファッションか何かなのか?」

 コントローラーのケーブルで雁字搦めにされている愛華に陸斗は冷めた口調で訊ねる。

「うん。ソラさんにしてもらったんだ。最高でしょ?」

 悪意のこもった言い方だ。
 愛華とソラはケーキ越しに睨み合っていた。眉間から飛ばしている火花でケーキが焼け焦げるんじゃないか、と思わんばかりに敵意を剥き出しにしている。

「そうかい。それはそうと、ソラはえらい斬新な帽子を被ってるな。自家製か?」

 今度はソラのほうを向いて白々しく言う。
「まあね」と彼女は頭の上のゲームディスクをさすりながら「愛華に作ってもらったんだ。格好良いでしょ?」と皮肉っぽく言い放った。

(やれやれ……)

 彼は呆れた。どうしてこうなったのか容易に想像がつく。どうせテレビゲームの内容で喧嘩でもしたのだろう。二人ともなんて子供なのだろうか、と彼はため息をつく。

「それにしても……」

 彼は再びテーブルの上の巨大ケーキに視線を移した。でかい、いくらなんでもでかすぎる。机の面積のほとんどがケーキで占められているではないか。というか我が家にこんなに大きな平皿があったとは、と彼は嘆息した。

(あれ? そもそもうちにこんなの焼き上げるオーブン無いじゃん)

 どういう過程を経ればこの完成形に至ることができるのか。彼は末妹の料理の才能が恐ろしくなった。

「ささ、早くいただきましょう。受け皿に好きなだけ取って食べてね」

 食いきれねーよ、と心の中で突っ込みつつ、両手を合わせて、

「いただきます」

 と四人揃って合唱した。見よう見真似でやっていたソラだけワンテンポ遅れていたが、些細な問題である。



 十分後、腹を抱えて机に突っ伏している陸斗の姿があった。彼は五皿目でリタイアした。三皿目あたりで胸焼けを感じ、四皿目で限界が見え、五皿目は牛乳で無理矢理流し込んだ。当分甘い物は食べたくない、心からそう思った。

「兄さんもう食べられないの? 男なのに情けないね」

 もりもりとケーキを頬張りながら言う佳奈美。彼女は既に一二皿目に突入していた。

「おいしいー。佳奈美ちゃん、料理上手ね」

 ソラはフォークで一七皿目のケーキ小さく切り分けながらを口の中に運んでいく。上品な食べ方だ。

「うめぇ! めっちゃうめぇ!」

 愛華は最早フォークを使っていない。ケーキ本体に顔を突っ込んで直接食らっている。まるで犬だ。

「うるせー。俺はお前らみたいに胃の中にピンク色の丸いやつを飼ってねぇんだよ」

 片手をひらひらと振りながら釈明する。実際、彼女らの食欲は異様だった。とっくに胃の容積以上の分量を詰め込んでいるはずなのに、どうして一向に手が止まらないのか。不思議でならなかった。
 糖分でできた摩天楼は既に三分の一ほど平らげられている。恐ろしいペースだ。しかも彼女らが失速する気配は見えないので、もう暫くすれ根こそぎ食い尽くされることであろう。

「……うーむ」

 彼は顔だけを上げて顎をテーブルにつき、おいしそうにケーキを食べているソラに視線を向ける。
 別になんともない。真っ二つに別れて見えたりなんかしない。至って普通の少女にしか見えなかった。

「………」

 また急に変わったりするのかな、などと思いながら眺めてみる。
 三人がケーキを完食するまでソラを見ていたが、結局彼女に変化が起きることはなかった。
 なんとなく、彼は窓の外を見てみた。満月が出ていた。月光に照らされて見える地面は濡れていた。いつの間にか雨が降っていたらしい。気がつかなかった。夕立なら雨音で気がつきそうなものなのだが、ケーキに集中し過ぎていて聞き逃していたのだろうか。
 夜が更けていく。



「ふー……。良いお湯……」

 客人ということで一番風呂をいただいたソラは湯船に浸かっていた。入浴の作法は佳奈美に教えてもらったので、彼女は不自由無く風呂の快適さを堪能することができていた。
 ちゃぷ、ちゃぷ、と指先で水面に波紋を立たせながら彼女は思う。

(記憶、ちゃんと戻るのかなぁ……)

 あの三人の前ではさほど気にしていないように振る舞っていたが、やはり不安を感じていないと言えば嘘になる。自分が誰なのかもわからない不安定な存在、そう思うと気が重くなって仕方が無かった。
 それに、彼らの世話になりっぱなしなのも申し訳ない。居心地が悪いわけではないが、いつまでも居座っていると好意につけこんでいるみたいになってしまうし。

「……自立しないとなぁ」

 とは言ったものの、右も左もわからない彼女が一人でまともに生活できるわけがない。しかし一生面倒を見てもらうわけにもいかない。記憶が戻るまで、とは言わないが、ある程度の知識と常識が身に付いたらこの家を出たほうがいいかな、と彼女は浴槽の縁に顎をつきながら考えた。

「ソラさーん、着替え置いとくよー」

 脱衣所のほうから愛華の声がした。

「はーい。ありがとねー」

 愛華に言葉を返す。狭い浴室の中に彼女の声が反響した。

「……よし!」
 
 ばしゃっ、と顔にお湯をかけて彼女は気持ちを切り替えた。



 時が過ぎ、満月が南の空に昇った頃。
 その日は熱帯夜となった。
 既に就寝時間となっており、ソラはリビングのソファの上に横になっていた。が、暑さのせいで寝ることに集中できないでいる。

「んー……」

 愛華から借りた胸周りが若干苦しいパジャマも睡眠妨害の一因となっていた。じっとりとかいた汗でぴたっとまとわりつく感覚が気持ち悪い。
 かれこれ一時間はソファの上で暑さと闘っていた。しかし一向に眠れる気配が無い。

(……ちょっと気分を変えよう)

 と思い、起き上がって台所まで足を運ぶ。電気は点いていないが、窓から差し込む月明かりで室内の様相は把握できていた。
 戸棚からコップを取り出し、蛇口を捻って水を注ぐ。コップを口に付けるとひんやりとした心地良い感触が唇に伝わった。一気にコップの中の水を喉奥に流し込む。水の冷たさが腹の底まで染み渡った。

「ふー……」

 大きく息を吐いてコップをシンクの中に入れる。ことん、とガラスと鉄が触れる涼しい音がした。
 これで眠れるかな、と手で顔を扇ぎながらソファへと足を進める。

「あ……」

 途中で彼女の足が止まった。
 彼女は見た。窓越しに見える、遥か上空で煌く満月を。

「綺麗……」

 思わず彼女の口から言葉が漏れる。それは彼女の脳裏に直感的に浮かんだ率直な感想であった。

「………」

 美しかった。それでいて清らかだった。一点の曇りがないその黄金色の輝きを浴びていると、胸の中の不安な気持ちが浄化されていくような気分になった。

「……綺麗」

 もう一度、言葉にしてみる。すーっと心のもやが晴れていく。
 どれだけそうしていただろう。一分間だけだったような気がするし、一時間はこうやっていたようにも思える。いずれにせよ、このとき陸斗がリビングに入って来なければ、彼女は朝まで空を見上げ続けていたに違いなかった。

「どうした、ソラ」

 訝しげに訊く彼の額には汗がじんわりと浮かんでいた。彼もソラと同様に寝苦しさのあまり水を求めてやって来たようだった。

「あれ、すごく綺麗」

 陸斗を一瞥して、ソラは窓越しに満月を指差す。月の呼び名は彼女の頭の中に無い。

「満月だな。綺麗に昇ってるじゃないか」

 陸斗にとっては大して珍しいことでもないので、彼の感動は薄いものだった。

「満月……」

 ソラは、その言葉を大事そうに口にした。
 陸斗が彼女の元を離れて台所のほうへ向かう。手際よく戸棚からコップを取り出し、蛇口から水を注いでそれを豪快に飲み干す。シンクにコップを入れ、口元を拭って彼は言う。

「ソラ、眠くないんだろ? 俺もだ。夜風に当たりに散歩でもしにいかないか?」

 それは一体どのような意図があっての提案なのか。

「いいよ。行こう」

 彼女は特に断る理由も無いので賛成した。屋外で見る満月も堪能してみたい、という気持ちが彼女を後押しする。
 月は輝く。二人の横顔を静かに照らして。



[20130] 第二章 真夏に空白 2
Name: バケツチーズ◆53829272 ID:169a7848
Date: 2010/07/21 20:14
 月明かりに照らされる夜道。
 陸斗とソラは並んで歩いていた。

「………」

 彼らの他に人はいない。この辺りは郊外なため、夜遅くに出歩く人影はそうそう無かった。
 外は家の中に比べて大分涼しかった。夜風があるからだろう、丁度良い涼味を感じながら二人は歩を進めていく。

「綺麗な月だな」

 何の気なしに陸斗が上を向いて呟いた。
 隣で歩いているソラは、そうね、とだけ返して満月を仰ぎ見る。
 夜の闇にぽっかりと穴を開けるようにして浮かんでいる黄金の円形。それは雲一つない夜空を照らし出し、辺りに散らばる無数の星々の存在を浮き彫りにしていた。
 どこか幻想的な光景であった。

「………」

 二人は足を止めた。首を上に傾けたまま動かなくなる。
 冴え渡った静寂が流れた。

「―――……」

 どれほどそうしていたことだろう。
「ねえ」と、先に静寂を破ったのはソラだった。

「何か話があって外に連れ出したんじゃないの?」

 彼女は陸斗の顔に視線を向ける。月光を浴びる凛々しい横顔が彼女の視界の中に入った。

「話、ね」彼は独り言のように呟き、視線を下に落とした。

「あるにはあるけど、滑稽な話だよ。真面目に聞くようなもんじゃない」

 自嘲気味に彼は言う。

「それでもいいよ。聞かせて」

 ソラは優しく言葉をかける。
 暫くの間、陸斗は言おうか言わまいか逡巡して押し黙っていたが、ついには意を決して口を開いた。

「見えるんだよ」

 彼は苦々しげにその言葉だけを喉奥から押し出した。
 何のことだかわからないので、ソラは「何が?」と問い詰めた。陸斗は彼女の眼を見据えて言葉を続ける。

「あんたが死んでいるように」
「は……?」

 あまりにも突拍子も無い告白だったので彼女は思わず面食らった。

「何、それ。どういうこと?」
「言葉の通りだ。たまにあんたの身体が真っ二つに別れた死体のように見えるんだよ。普段は普通に見えるけど。そうだ、初めて出会ったときも死んでるように見えてた。だから俺、あんなにしどろもどろだったんだよ」

 言われて、彼女は彼との邂逅を思い出す。確かにあのとき彼はひどく狼狽していた。ただならぬ表情で自分のことを見ていたが、しかし―――生きている人が死んでいるように見えてしまうなんて、果たしてそんなことがありえるのか。いやありえない。明らかに異常だ。

「……見間違いとかじゃないの?」

 訊ねる彼女の表情は重い。

「だったらいいんだけどな」彼は嘲笑うかのように吐き捨て、「一回だけじゃない。俺がバイトに行く前にも死んでいるように見えてた。はっきりとな」

 彼は半ば自棄になっていた。一度開放された懸念は留まることを知らない。彼の心を圧迫していた不安要素が次々と言葉になって吐き出されていく。

「それだけじゃない。姫宮さんの背中から黒い腕が生えているのだって見えた。ありえないだろ、何なんだあれは。なあ、どうして俺にだけ見えないものが見えるんだよ。何で理由も無しにいきなりあんなものが見えるようなったんだ。どうして……」

 彼は落ち着きを失っていた。理不尽にソラは責められるが、しかしどのような言葉をかけていいのかもわからず、彼女は黙然と陸斗の醜態を眺めるのみだった。
 生温い夜の風が彼女の頬を撫でる。嫌な汗が額に滲み出るのを感じた。

「くそっ、何でだよ……。何でお前が変に見えちまうんだ。なあ、ソラ、」

 陸斗は彼女の顔を睨むようにして見た。鬼気迫る表情に、彼女は無意識にたじろいでしまう。

「お前は本当に、普通の人間なのか?」

 ぴしっ、と空気に亀裂が入る音がした。
 彼女は何も言わない。躍起になった陸斗にかける言葉が見つからず、無言で立ち尽くすことしかできなかった。
 重い空気が流れる。

「あっ……」

 自分の失言に気がついた彼は一瞬目を伏せて「……すまん」と消え入りそうな声で謝った。
 気まずい雰囲気が二人を包む。暫くの間、黙って俯く二人の姿があった。

「……悪い。気が動転してた。不愉快にさせてごめん」

 ぼそぼそと言う彼の視線はソラに向いていない。沈んだ表情でアスファルトの地面を見つめている。

「………」

 唐突に、ソラはゆったりとした動作で足を前に出した。
 ざり、ざり、と彼女は数歩前に出て足を止めた。彼女は上を仰いだ。神秘的な光を放つ星々が視界全体に広がる。
 彼女の顔におよそ感情と呼べるものは浮かんでいない。何かを深く考えているかのような、あるいは何も考えていないかのようなひどく無機的な表情。
 静かに彼女は言う。

「わたしね、陸斗たちと出会えて良かったって心の底から思ってる。得体の知れないわたしみたいな人に優しく接してくれただけじゃなくて、衣食住の面倒まで見てくれたんだもん。本当に感謝してる」

 でもね、と彼女は言葉を切った。くるりと後ろに振り返り陸斗と向き合う。皓々と照る満月を頭の上に乗せて、彼女は微笑を浮かべた。絵になる光景だった。
 その姿がやけに清艶だったので陸斗は思わず紅潮してしまう。ごくり、と生唾を呑みこんだ。

「わたし、怖かったの。自分の記憶が戻らなかったらどうしよう、ずっと陸斗たちに迷惑をかけることになったらどうしよう、って。不安だった。なのに何もできない自分が嫌だった」

 悲しそうに彼女は言う。

「上っ面は元気なふうに見えても、心の片隅じゃ嫌なことばかり考えてたの。でも、あなたがそこまで思い悩んでたなんて知らなかった。ごめんなさい、自分のことばかり考えて力になれなくて」

 その言葉を聞いた瞬間、陸斗は胸を矢で射られたような衝撃を受けた。瞬く間におぞましい自己嫌悪が彼の意識を支配する。

(自分のことばかり考えて、だと? 何を言っているんだ。それはあんたじゃなくて俺のことだろうが……!)

 今日一日、彼はソラに気をかけてやったことがあっただろうか。無い。自分の身に降りかかっている異常のことを考えてばかりで、ソラの身の上を心配したことなど一度も無かったではないか。
 自分で自分が嫌になる。ソラのほうがよっぽど過酷な環境に身を置いているに違いないのに、どうして自分だけが不幸者だと思える。
 なんて厚かましいんだ、と彼は自分に唾棄した。

「……ソラ、それは違う。自分のことしか考えていなかったのは俺のほうだ」

 苦虫を噛み潰したような顔で彼は弁明した。ソラは黙って聞いている。

「自分本位で考えてた。変なものが見える俺ってかわいそう、って自分で自分の不運に酔っていたのかもしれない。不幸なのは自分だけだと思ってた。……悪い、お前の気持ちを悟ってやることができなくて」

 それは本心からの言葉であり、決意表明でもあった。ソラの不安を自分も負担してやりたい、という気持ちが今の彼にはあった。

「いいよ、気にしなくても」

 そう言うソラの口元は小さく笑っている。
 それから彼女は何食わぬ顔で陸斗の目の前まで近寄り、片目を閉じて意地悪そうに唇の端を吊り上げた。

「わたしたちの関係はこれからなんだから、重苦しく考えないようにしよう」

 その仕草があまりにも艶めかしかったので、陸斗は胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。彼女が窮屈そうに着ている小さめのパジャマに健康的な胸のラインが浮き出ているのも原因の一つだったが。
 そんなわけだからソラの顔を直視して会話できるはずもなく、視線をあらぬ方向に向けて頬をぽりぽりと掻きながら、彼は照れ臭そうに、

「あ、うん。まあ、よろしく」

 とだけ言葉を返した。

「何照れてんのよ」とソラは笑い飛ばして彼の左手を握る。「ほら、歩きましょう。夜はまだまだ長いし」

 ソラが彼の手を引いて歩き始めた。彼は半ば強引に引っ張られるようにしてそれについて行く。

(………)

 陸斗はソラの手のぬくもりを感じていた。人間独特の、心地良いあたたかさだ。
 彼はソラの後ろ姿をじいっと見つめた。何の変哲も無い華奢な少女の背中だ。どこからどう見ても、普通の人間。

「……ソラ、悪かったな。変なこと言って」

 それを聞いて彼女は振り向いた。そしてちょっと困ったように眉をしかめて言う。

「だから気にしなくてもいいって」

 ここで彼女は一旦言葉を切った。視線を上げて考え事をしているかのような素振りをしてみせ、間もなく何か思いついたような顔をして、

「ね。今の私も身体が別れて死んでるように見える?」

 にやにやしながら訊いてきた。
 彼はやれやれ、と言わんばかりにため息をつき、

「いや、普通にしか見えないよ」

 平然と嘘をついた。
 彼の手にぶら下がるソラの上半身。その濁った眼は穏やかに彼の顔を見上げていた。
 夜は、更けていく。

/

 姫宮リンネは深夜の町外れを徘徊していた。
 昼間陸斗と会ったときと同じスーツ姿で、かつりかつりとハイヒールの靴を鳴らして月明かりに照らされている夜道を闊歩していく。

「………」
 
 力強い歩き方だ。彼女の凛々しい容姿によく合っている。

「……………」

 ほどなくして彼女は足を止めた。そこは寂れた公園の中だった。土地が余っているせいか無駄に広い造りだが、各所に設けられている設備は長期間雨風に晒されたせいで酷く色がくすんでいた。元の色合いを残している物は一つも無い。
 リンネは公園の片隅に視線を送った。街灯の白い光に照らされるその一画に、目深にフードを被ったそいつは立っていた。

「やあ、君が鼠か」

 旧知の友に挨拶でもするかのような軽い口振りで彼女は言った。

「君だけかい? 一人じゃないだろう、お仲間はお留守番かい?」

 強気な態度で彼女は捲くし立てる。

「………」

 そいつは何も言わない。少女のような小柄なその身でただ突っ立っているだけだ。
 顔は見えない。フードの陰に隠れている。

「ふーん、無視か。まあいいよ。期待してなかったし、命乞いされても困るし」

 君はどうせ消えるしね、と言外に彼女は言い捨てる。そこに陸斗と会話するときのような甘さは無い。

「ていうかさ、何? わざわざ私を待ち構えてたわけ? いやー、殊勝だね。でもそれは順番を間違えちゃってるよ。私の存在を抹消したいのなら、私が寿命でくたばって棺桶に入れられるところまで待たないと。それなら抵抗のしようが無―――」

 そこで彼女の台詞は止まった。いや、止められた。
 嫌な感触の振動を、彼女は胸の辺りで感じ取った。
 
「――あ?」

 彼女は視線を下に向ける。
 いつの間にか接近していたフードの彼の華奢な右腕が、リンネの胸を無惨にも貫いていた。―――目にもとまらぬ速さだった。いくらなんでも速すぎる。移動する素振りも攻撃する所作も一切見えなかった。まるでコマ落ちした映像の前後のように、ふと気付いたら彼はそこにいた。
 背中を突き破っている細腕の先には赤黒い大きな塊が握られている。心臓だ。

「っ………」

 彼女の口から血が溢れ出た。フードのてっぺんにかかって赤く汚れる。
 フードの彼は何も言わない。そしてそのままの無言で、害虫を握り潰すかのように、一切躊躇せずに心臓を握る手の力を強めた。
 ばぢゅっ、という不快な音が閑寂な公園の中に響いた。
 リンネの身体から力が抜け、だらん、と彼に寄りかかる。

「………」

 彼は右腕をリンネの身体から引き抜いた。根元まで真っ赤に染まっていた。青白い月の光がその不気味な様相をより際立たせる。
 どしゃり、とリンネだった肉の塊が崩れ落ちる。

「………」

 フードの下から覗く口元に感情らしきものは浮かんでいない。人ひとり殺しても何とも思っていなかった。
 彼は足元の屍に背を向けて歩き出した。小さな足で目の粗い公園の土を踏んでいく―――そのとき、彼の背後で地面に突っ伏している姫宮リンネの指先が、ぴくっ、とほんの僅かに動いた。
 しかし彼は気がつかない。全てが終わったものと思い込んでいる彼は落ち着き払った様子で公園から立ち去ろうとしている。

「………?」
 
 不意に彼は立ち止まった。それはリンネの動きを感知したからではない。
 右腕にべっとりと付着しているリンネの血が、ぞぞぞっ、と大きく波打ったからだった。

「っ!」

 咄嗟に彼は振り返った。俯せに倒れているリンネの亡骸が視界に入る。それは一見死んでいるように見えるが、しかし奇妙なことに、背中に開いた風穴から夥しい量の血が流れ出ていた。
 血流を作る心臓が無いのに。

「―――!」

 彼は危険を感じ取った。即座に大地を蹴り上げてリンネから距離を取る。

「ぐっ……」

 彼は自分の右腕に視線を落とした。まとわり付いているリンネの血の蠢きは止まらない。それどころかむしろ動きの幅が大きくなってきている。まるで生き物のような生々しい動きだ。
 リンネの血はぞわぞわと無数の蟲のように彼の腕の上を這い回り、そして、

「がっ!」

 腐り落ちるようにして彼の右腕が肩から外れ落ちた。彼の口元が激痛で歪んだ。
 支えを失った右腕は重力に従って落下していき、地面に触れたその刹那、あろうことか粉々に砕け散ってしまった。それはさながら、経年劣化した紙切れに触れたらぐずぐずに崩れ落ちてしまうように、僅かな衝撃にも耐え切れず物質の結合が崩壊してしまったかのような、そんな壊れ方だった。

「ちっ……」
 
 舌打ちして、彼は右腕の切断面を見た。不思議と血は出ていないが、露になっている肉の断面が事態の深刻さを明確に物語っていた。
 しかしそれだけだ。右腕を失っただけでまだ活動停止に追い込まれてはいない。
 彼はリンネに再び視線を向けた。彼女の風穴から流れ出ていた血はもう止まっていた。
 止まっていて当然だった。
 姫宮リンネは素知らぬ顔でそこに立っていた。彼女の胸元に穴は開いていない。服の胸の部分が丸い形に破れているだけだ。しかも不思議なことに、あれほどの血を流していたというのに彼女の服と身体には一滴も血が付着していなかった。

「素晴らしいね」

 半ば馬鹿にしたような口調で彼女は口を開いた。

「私の虚を突くことができるとはなかなか優秀みたいだ。恐らく所属している魔術結社の中でも上位に位置しているんじゃないかな。帰ったら自慢してもいいよ、人間気取りの“自称魔導士”に一応傷を負わせたってね」
「………」

 彼女の挑発的な言葉を受けても、フードの彼の表情に変化は無い。

「どうする。まだ続ける? 私としては別に構わないけど、そっちはもう一回死ぬことになるよ?」

 もう一回死ぬ。
 その言葉を聞いた途端、彼の口元が小さく強張った。
 だが、何を言われようとも彼の心の内が揺らぐことはない。彼は把握していた。今の自分がするべきことを。

「まだ手の内は全部明かしてないんだろ? なら明かしたほうがいい。今のままだと十秒も経たないうちに死ぬだろうけど、君が本気を出せばなんと一分も生き長らえることができ……って、あれ?」

 間抜けな声を上げ、リンネは目を丸くした。
 ついさっきまでそこにいたはずのフードの彼がいつの間にか忽然と姿を消していた。彼女は一瞬唖然としたが、しかしほんの一瞬だけだ。すぐに彼女は彼が最初に見せた瞬間移動と同じことをしたのだと理解した。
 攻撃は来ない。夜風に吹かれた柳の葉音が聞こえるだけだ。

「ふーむ……」

 難しい顔をして彼女は腕を組んだ。そして考える。彼がどんな行動を取ったのか。答えは案外、すぐに出た。

「あいつ、逃げたな」

/

 魔術番号キャンサーAAL11は逃走していた。
 キャンサーの走るスピードは明らかに異常だった。アスファルトの地面を蹴る度に十メートル近く前方へ跳躍しており、次の足を繰り出すピッチも異様な速さだ。人間の限界を軽く越えていた。
 青白い月明かりの下を、赤い斑模様をフードに付けた片腕の非人間が駆けていく。
 やがて目的地に着いた。キャンサーは足を止めた。足先に働く慣性が彼の足元のアスファルトをがりっ、と僅かに削った。

「………」

 彼の目線の先にはありふれた外観の一軒家があった。そこそこ広くて大きめな洋風の家屋だが、見る限り特に変わった様子は無い。普通の家だ。
 普通の家で当たり前だ。
 そこは、須川兄妹が暮らしている家だった。

「………」

 躊躇うことなくキャンサーは玄関の扉を開けて中に入った。玄関先に靴を脱ぎ捨て、堂々とした立ち振る舞いで板張りの廊下を歩いていく。彼が歩を進める度に木が軋む音が暗闇の中に響いた。
 階段を登り、二階の廊下を歩く。と、ほどなくしてキャンサーの歩みが止まった。
 彼はドアの前に立ち尽くしていた。フード越しに窺えるその淀んだ眼は、ドアに掛けられている一枚のプレートを凝視していた。
 プレートには可愛らしい文字で『愛華の部屋』と書かれている。

「………」

 キャンサーは隻腕でドアノブに手をかけて回した。鍵はかかっていなかった。いや、かけていなかった。
 部屋の中に入り、ドアを閉じる。

「くそったれ……」

 悪態をつくその声は甲高い。少女の声そのものだ。
 キャンサーは手をフードにかけた。そのまま無造作に外す。
 潤いのある若さ特有の髪が露になり、そして窓から差し込む月光に照らされるキャンサーのその顔は―――

「姫宮リンネ……。侮っていた。正攻法では勝てないか……」

 忌々しげな表情で、須川愛華は毒づいた。


 魔術番号キャンサーAAL11の実態を浮き彫りにさせるかのように、満月の光は彼女の部屋の中に否応無く降り注いでいた。
 夜は、まだ終わらない。


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