海の広さを知るために近くの海へ行った。クラゲがいた。家に持ち帰った。二日で死んだ。海は止めにした。
先日、旧友の姫宮リンネを訪ねた。タッパーに詰まったクラゲの死体を見るなり、彼女は眉をひそめてこう言うのだった。
「君は一体何がしたいんだ?」
そんなの決まってる。海の広さを知ることだよ。
「海の広さってのはそんな十数センチ四方のプラスチックの容器に収まるもんなのかい? ま、君がそれでいいなら別にかまわないんだけどさ」
いやいや、こんなので納得できるほど僕は人間ができちゃいないよ。かと言って海の広さを追求するのは億劫になってしまった。だからさ、投げ出すことにするよ、うん。
「ふー。君の継続力の無さには一種の清々しささえ覚えるよ」
でもね、僕の知識欲はまだまだ満たされてなんかいない。もっともっと知りたい。
「何を?」
世界を。
「無理な話だ」
即答しないでくれよ。諦めずに前進を続けていればいつか必ず目標を達成できるって言ったのはお前じゃないか。
「無理だって。だってその前提条件に当てはまらないんだもん。君のその行為は前進ではなく旋回だよ。円運動。同じ軌道を永遠に回り続けるの」
意味がわからないよ。
「当たり前だろ。“意味がわからないこと”がわかるように言ったんだから」
でもさ、お前がなんと言おうとも僕はもっともっと世界が知りたいんだ。結果が欲しいんじゃない。飽くまで探究の過程を経たという結論が欲しいんだ。
「ふうん。そこまで言うのなら好きにすればいいよ。だがね、これだけは覚えておいたほうがいい」
言って、リンネはそのしなやかな指をつぅっと上げてタッパーに詰まったクラゲの死体を指差す。
彼女の青い瞳が、僕の視線を捉える。冷淡な眼をしていた。思わず萎縮してしまう。
「世界なんてものは、そこに無造作に転がっているクラゲの亡骸そのものなんだよ」
意味がわからないよ。
「わかれよ。“意味がわかること”がわからないように言ってやったんだから」
……これが世界だって? 一体どうして?
「正確に言えばそいつを囲っているタッパーも含めて、だ。世界なんてものはさ、そういうちっぽけな入れ物にギチギチに収まっているクラゲの死骸みたいなもんなんだよ。私らはその死骸に群がって餌にしてるプランクトン。今度は“意味がわかること”がわかるように言ってあげたよ。どう? 理解できた?」
……まあ、漠然とは。
「死骸。そう、死骸。私達が存在しているこの空間は死臭が立ち込めているとても不快な場所なんだよ。しかしどういうわけかこの上なく居心地が良い。その死骸を遠慮なく餌にしている分には、私達はこの上ない安寧を享受していられるんだ。快適すぎてたまらないね。
さて、一体私達は何の死骸に群がっているんだろうね?」
それは―――
「ああいや、言わなくても良い。多分、今君が思っていることが正解だ。キレる君のことだ。実は最初から全ての答えを知っていた上で私を訪ねてきたんじゃないのかい?」
―――。
「愚問だったね。今からお茶を入れるよ。何がいい? 生憎この家には雑草しかないけど、好きな銘柄を言うといい。カップにそのラベルを貼ってあげるよ」
コーラで。
「素敵だね。ちょっと待ってて。裏庭の草を摘んでくるから」
リンネは席を立った。軽やかな足取りで裏口へ向かう。
僕はただ、彼女の華奢な背中を眺めるばかり。
なるほど。これも世界か。僕はテーブルを叩き割った。