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演劇界の革命児つかこうへい逝く

週刊朝日7月21日(水) 15時 0分配信 / 国内 - 人
つか・こうへい 1948年、福岡県に在日韓国人2世として生まれる。つかこうへいのペンネームには「いつか公平」の願いが込められている。
演劇界の革命児で、直木賞作家のつかこうへい(本名・金峰雄=キム・ボンウン)さんが肺がんで亡くなった。享年62。「熱海殺人事件」を始めヒット舞台を連発し、風間杜夫、平田満、阿部寛など、数多くの俳優を花開かせたつか氏。人の魂を揺さぶらずにはおかない不思議な魅力の持ち主だった。

つかこうへい氏と出会って人生をガラリと変えられた人物もいる。人気テレビドラマ「HERO」「ドラゴン桜」などの脚本家として知られる秦建日子氏(42)は、その一人だ。つか氏との出会いは20年前にさかのぼる。
「当時僕はクレジットカード会社の販売促進部にいて、つかさんの事務所がある西新宿のマンションに飛び込み営業をかけたのが縁でした。つかさんと小一時間ほど雑談させていただいたんですが、『実はテレビの深夜ドラマの脚本を頼まれているんだが、おまえ、代わりに書いてくれる若いやつを知らないか』と言われて。そこで『物書きに僕もあこがれます』と口走ったら、いきなり『秦というやつに書かせてみることになったから』と電話されるんです。それで『3日で書いてこい』と言われて事務所を追い出されました。

あとで知ったのですが、それは当時のつかさんのお気に入りのいたずらだったようです。同じことを言われた人間が30人くらいいたらしい。それを真に受けてシナリオを書いた馬鹿が10人ほどいて、僕はその一人だった(笑い)」

これをきっかけに秦氏は、つか氏とちょっぴり変わった師弟関係を結ぶ。
「唐突に『今から事務所に来い』と電話がくるんです。早朝4時ごろ呼び出されたときは『これを見ろ』と言われて、勝新太郎さんがパンツに大麻を隠した事件でボツになった、つかさんが手がけたCMを見ました。で、『どうだ、おもしろいだろう? これがボツだぞ。こんなにおもしろいのに』と言うと、『もう帰っていいぞ』って。(笑い)

特に脚本家になるためのアドバイスをいただいたことはありません。ただ『この作品を2週間で映画の台本にしてこい』とか言われるんですね。ところが書いても何も言わず放置されるんです。見捨てられたのかなと悲嘆していると、突然『今度はこれを書け』と言うわけです。言われるがままに必死に書いているうちに、自然に覚えた気がします」

慶大文学部在学中から学生劇団で活躍し、1974年に「熱海殺人事件」で岸田國士戯曲賞を当時最年少の25歳で受賞、「つかブーム」を巻き起こしたつか氏。82年に小説『蒲田行進曲』で直木賞を受け、文筆活動に専念したが、89年に演劇活動を再開した。秦氏はこのころにつか氏に師事したことになる。
「つかさんの稽古場に初めておじゃましたときのことはよく覚えています。5、6人で焼き肉を食べる場面だったんですが、つかさんが一人の役者を指して『ケーッ』と叫ぶんですよ。『おまえだよ、ケーッ』って。で、おまえだと言われた役者は必死で『ケーッ』と叫ぶんですが、つかさんは『違う、こうだ。ケーッ』と。それを何度も繰り返したあげく、つかさんは『もっと狂わんか!』と怒って稽古場を出ていっちゃった。そのあと『ケーッ』の役者がみんなに謝っているんですよ。『僕が狂えなかったばかりに、みんなの稽古を止めちゃった』って。いったいここはどんな世界なのかと思いました。

でもその役者は今、きっとその経験をどこかで自慢しているはずです。つかさんと交わりのあった方とお会いすると、自分がどれだけつかさんからひどい目に遭わされたかということが自慢話になるんです。

僕の知り合いの役者の話ですが、『おまえの役はギターが必要だから習っておけ』と言われて、指定された曲を弾けるように3カ月間必死に特訓した。で、いざ稽古となって言われたとおりギターを弾き語りしたら、『違うな』の一言でその案が立ち消えになったとか。不思議なのは、つかさんからひどい目に遭わされるのが、みなさん楽しいんですよ。つかさんとそれだけ濃密な関係があるというだけで幸せなんです。以前、俳優の古田新太さんとお話する機会があったのですが、そのときもつかさんの話が止まりませんでした。どっちがよりひどい目に遭ったかって」

出会った人の心をたちまちわしづかみにしてしまうつか氏の魅力は、一連の作品に色濃く映っている。秦氏は続ける。
「つか作品に通底しているのは、人に対する熱さではないでしょうか。人間は見苦しい生き物かもしれないけど、生きていかなければいけない。生きていかなければいけないから必死ではいつくばって生きる。それが愛おしいじゃないかと、あふれんばかりの愛情で肯定している。だから先生の作品に触れたあとは、なんか自分が生きていることが許されたような、そういう感じを受けるんです」

劇作家の別役実氏は、つか氏が演劇史に残した功績について、こう語った。
「高校生の感性にまでストレートに訴えかけ、インテリ中心で閉鎖的だった新劇の大衆化を最初に果たしたのがつかこうへいだった」 崔洋一監督もこう話す。
「セリフが飛び交うつかワールドは、はらはらドキドキワクワクさせる緊張感があった。つかさんは通俗の極みというものを知っていたのではないか」

では、つか氏自身は、目指す舞台をどう表現していたのだろうか。劇団設立時から40年近く親交があり、劇の制作を担当した菅野重郎氏(59)は、普段、演劇論を大上段にぶつのを嫌ったつか氏がこう語るのを聞いたことがあるという。
「なかなかつきあってもらえない女の子が、つかさんの芝居の切符があると言ったらついてくる。芝居を見た高揚感で飲みに誘ってもついてくる。その勢いでホテルなんかに行っちゃって、明け方の3時くらいに女の子がふっと布団から顔を出して『どげんして私はこげな男とここにいるんだろう』って言うんですって。つかさんは『それができるかできないかだよ』って。いい意味で観客をだますのが芝居だというんですね。見る者の『記憶に残せ』と」

秦氏の話に戻ろう。
「つかさんは、常人の計り知れない次元で動いていた気がします。作為や計算が感じられない。ただ、つかさんと同じ空間にいたり、つかさんの言葉を目の当たりにしたりすることで、人が勝手に変わるんです」

そのいい例が稽古だ。つか氏は台本にはないセリフを口頭で教える口立てというやり方で演出していた。「稽古場で役者と一対一で向き合い、その役者を通すといちばん輝く言葉は何か、どの言葉を選ぶと役者がいちばん輝くのかということをつかさんは純粋に考えていました。つかさんによって変身する役者が多いのは、あのつかさんが今この瞬間、自分のためだけに言葉を紡ぎだしているということに、おのずと感応するからじゃないかと思います」(秦氏)

菅野氏が最後につか氏と会ったのは今年2月、入院先でのことだった。
「『この病院のレストランは焼き肉がうまいんだ』と言って、ビールを飲み、焼き肉を食べた。最後まで変わらなかった」

今年元日付で残した遺書もつか氏らしかった。
〈戒名も墓も作ろうとは思っておりません。……娘に日本と韓国の間、対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています〉
本誌・岡野彩子、中村 裕
  • 最終更新:7月21日(水) 15時 0分
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