2009-11-25
■[fiction]カニバリズム
朝から宿命的に蟹に彩られた日だった。その日僕は玄関に蟹を飾ってある悪趣味な病院に勤めている女の子と蟹を食べに行く約束をしていたので、早起きして溜まっていた仕事を片付けた。BGMとしてかけていたテレビでは若いキャスターが今日の運勢を気に障る強調をつけて紹介していた。「蟹座の今日の運勢は最悪!対人関係でトラブルにまきこまれる予感大です!余計なことには首をつっこまないよ……」
約束までの時間をつぶしに髪を切りに行くことにした。こういうときでないと髪を切る気にはなれない。意味がないだけならまだしもつまらない話で時間をただただ浪費していく営みに耐えるには、それと見合うだけの薄い時間の持ち合わせが必要だ。しかも彼らは、自分から話題を振っておきながらこちらの受け答えなんか聞いちゃいないのだ。彼ら自身の話をしたいだけなのだ。昼すぎまでコーヒーを飲みながらどうしようか迷っていたが、僕は腹を決めててきとうな美容院をみつくろい、重みのあるドアを押して入った。
僕の担当になった男は23,4くらいで、全体的に縦長のひょろっとした体形をしており、黒ぶちのセル眼鏡が知的な印象を醸し出していた。僕は少し好感を持ったが、彼の首にまかれているチェックのスカーフがひっかかった。椅子に座り、鏡の中で見つめあってどんな髪型にするか聞かれて作業が始まったあと。ここからが美容院の辛抱のしどころになる。僕は身構えてどんな話題を振ってくるものかと神経をはりつめた。
「お客さんはふだん何をされてるんですか?」
まっとうな質問だ。
「大学で研究をしています。もう大学に7年もいることになりますね」
「それはずいぶん長い。勉強されてますね。何を研究されてるんですか?」
「主に夢についてですね。普遍的無意識に興味がありまして」
「へぇ…そうなんですか」
彼ははさみを戻し、黒ぶち眼鏡をくいっと押し上げた。
「実は私、妙な夢を見ましてね」
ここから彼の話が始まった。
☆
「私はその夢の中で蟹使いでした」
彼は頭頂部の髪をさくさく切りながらこう切り出した。
「ちょっと待って。蟹使いってなんですか?」
「私にも正確にはわからないんです。でも私の夢を語ることによって蟹使いについてひょっとしたら何かわかるかもしれません」
なるほど。
「はじめはとにかく私は蟹使いだ、ということだけはわかっていました。それはただもうはっきりと自分の頭の中で諒解されているんです。私は蟹使いである。
私は新宿の路上に立っていました。その通りは両脇に大道芸人たちがずらっと並んでいて、大勢の人たちが行き交って見物したり拍手喝采を送ったりしていました。私もそういう芸人たちのひとりだったのです。お金を集める袋と蟹を前に並べて、私は調子をつけて客寄せをしました。「これからクラブショーをやりますよ!ぜひ見に来てください!」ってね。私の相棒の蟹がクラブかどうかはわかりませんが、なかなかしゃれたネーミングセンスだと思いませんか?
芸人たちは信じられないほどたくさんいたのですが、蟹を使っているのは私ひとりでしたし、私はそれなりに名の通った蟹使いだったので直ぐにひとだかりができました。小さい子どもがお父さんに肩車してもらって後ろのほうから眺めているのを見て、私は悪くない気分になったものです。じゅうぶんな人が集まってから、私は蟹と会話を始めました」
「どうやって蟹と話すんですか?」
「夢の中では不可能なことはありません。どうやっていたかな、確か、すぅっと息を吸って集中するんです、そうして外界との関わりを薄く薄くしていく。そうすると次第に身体が空気の違いを感知できるようになってきます。蟹の空気は独特です。一度経験したら忘れることはありません。
私は彼に語りかけてさまざまな芸をさせました。片方のはさみだけで逆立ちしてくるくる回ったり、シオマネキダンスを踊ってみせたり、はさみを使って書道をしたり。どのパフォーマンスも観客の熱狂的な喝采を受けました。最後に紳士的にうやうやしくお辞儀をさせてみせたあと、私は満足感でいっぱいになったのです」
彼ははさみの手を止めて遠い目をしていた。僕ははさみを持つ彼がだんだんと蟹に見えてきた。
「その蟹には名前があったはずなのですが、それは思い出せません。けれども私たちはとても通じ合っていました。パフォーマンスのない日には彼と話し合って新しい芸を作ることに専念していましたし、彼とパートナーを組んでやる芸はたいてい受け入れられました。毎日きちんと甲羅干しをさせてやりましたし、芸での収入で彼の好物のオキアミを買ってあげることも欠かしませんでした。私たちはとてもうまくやれていたのです。
けれども、ある日を境にして私たちの芸は全く受け入れられないものになりました。どういうわけだかわからないのですが、夢ってそういうものでしょう。同じ通りに立っている他の芸人たちのところにはお客さんが寄り付くのですが、私たちのところにはひとりも足をとめないのです。私は打ちのめされました。
そのうちに貯金が底をつきました。貧困が私たちをじりじりと追い詰めていきました。新しい芸を考えてそれを披露しても、まるで観衆は興味を示さない。私たちはすきっぱらを抱えて街をさまよいました。
そのような日を何週間か過ごす中で、私はだんだんと彼を欲望の混じったまなざしで眺めるようになりました。しょせん彼は蟹なのです。気持ち良さそうに甲羅を干している彼を見て私は初めて彼をうまそうだと思い、そう思った自分を恥じました。けれども空腹の状態が長く続くうちに、次第にその感情はおさえきれないものになって行きました」
彼はごくり、と唾を飲み込んだ。
「そしてついに私は彼を食べてしまったのです。極度の空腹に耐えかねた私は、いつもの甲羅干しに連れていくようにして彼を持ち上げて、そのままぐらぐらと煮立った鍋の中に彼を放り込みました。彼は一瞬で真っ赤になりましたが、私は放心したようにお湯の沸騰する様を眺めていました。はっと気付いて私はゆであがった蟹を取り出し、むさぼるように食べました。爪を折り関節をぱきんとはずして、骨についたその肉をずずずと啜り、足の殻を割って肉をほじりだし、蟹みそを音を立てて吸いました。どんなに夢中になって食べるのに集中しても、嫌な後ろめたさは決して消えることはありませんでした。でもですね、その蟹がめちゃくちゃうまいんですよ。今までに食べたどんな食物よりもうまいんです。私はぼろぼろと涙を流しながらうまいうまいと言って蟹を食べました。不思議とその蟹肉は尽きることがなかった。どんなに食べてもいっこうに減らないのです。折ったと思った爪はいつの間にか元の状態に戻っており、蟹みそは吸うそばから元通りになってゆくのです。私はいつまでもいつまでも蟹肉をむせび泣きながら食べなければなりませんでした。
そこで私は目を覚ましました。鏡を見ると、頬に涎と涙の筋が乾いて残っていました」
☆
「いかがでしたか、私の夢は」
僕は言うべきことばを持ち合わせていなかった。
「哀しい話ですね」
「みんなそう言うんですよ」
彼は泡のついた口をぬぐい、目を細めた。
☆
「ということがあってね」
そのあとで待ち合わせていた彼女に会い、蟹を食べながら僕は美容室で聞いた奇妙な話をした。
「興味深い話ね」
「僕はずいぶんかいつまんで話しているから、興味があるなら銀座の○○に行くといいよ。きっと蟹の話が聞ける」
「蟹使いの話でしょう」
「そうだね」
「ところで彼、蟹座の生まれじゃなかった?」
「どうしてわかったんだい?」
チェックのスカーフはその日の蟹座の唯一のラッキーアイテムだったのだ。
「そんなの決まってるじゃない」
彼女は蟹の肉を懸命にほじりながら捨てるようにそう言った。