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2010/07/21

「ゲゲゲの女房」のモデル総ざらえ

まんが学特講  目からウロコの戦後まんが史 まんが学特講 目からウロコの戦後まんが史
価格:¥ 2,940(税込)
発売日:2010-07-14

ゲゲゲの女房が、プロダクション制になって賑やかでますます人気なんだが、アレって、朝7時半から衛星ハイビジョン、7時45分から衛星第二、8時から総合でやってるので、おいら、三回続けて見てますw つうか、古手の漫画マニアだったらすぐにピンと来る人たちばかりで、モデルを色々と想像してみるのも楽しいんだが、とりあえず「世界一小さい出版社」の戌井さんなんだが、Wikipediaによれば


読書家であった桜井は、ミッキー・スピレイン作品を弟を始めとした漫画家仲間に紹介するなど、「劇画」誕生にあたってブレイン的役割を果たす。1959年には辰巳ヨシヒロやさいとう・たかをらと「劇画工房」を結成。劇画工房分裂後は漫画家をしていたが行き詰まり、1962年後半には漫画家を廃業。

さいとうプロダクションの成功を見て出版社設立を思い立ち、佐藤まさあきと2人で佐藤プロを設立し出版のノウハウを学び、佐藤から無利子の資金を借りた上でみずからの出版社東考社を東京都文京区白山の辰巳ヨシヒロ宅に創業(のち東京都国分寺市に移転)。印刷設備まで自宅に揃え、水木しげるの貸本版『悪魔くん』など、200点以上の貸本マンガを刊行した。

貸本業界が崩壊すると、「桜井文庫」として文庫本形式のインディーズ出版を行い、水木しげるや辰巳ヨシヒロなどの作品を多数出版した。

ひと頃人気があった劇画家「辰巳ヨシヒロ」というのは、この人の弟です。まんだらけあたりじゃ、この人の作った出版物、なんせインディーズで部数が極端に少ないので、ずいぶん高値がついてます。で、アッキーナがやっていた女の子なんだが、モデルは「つりたくにこ」だと言われてますね。

中学生の頃には自ら漫画を描いてたつりたさんは、高校生だった夏休み(或いは冬休みとも)に一人で東京に出て住み込みのアルバイトをしながら「少女フレンド」に漫画の持ち込みをしますが、編集部の注文通りの作品を描いて出すという編集主導型のシステムを知って失望していたそうです。
ガロが創刊されたのはその頃ですが、白土三平さんによる新人作家募集の呼びかけの自由な雰囲気に惹かれて描いたSF漫画を高校3年の夏にガロ編集部に持ち込み、この作品でつりたさんは高校生でガロにデビュー。高校を卒業後に住む場所も決めないまま上京しています。

創成期のガロと貸本少女漫画誌を中心に作品を発表していたつりたさんですが、やがて少女漫画は断念し、この頃に水木さんのアシスタントもしています。その後はガロに作品を発表していたつりたさんですが、次第にガロからも遠ざかり、ブランクを経て、1979年に創刊されたばかりのヤングジャンプの「第一回青年漫画大賞」にペンネームを変えて『フライト』という作品を応募します。

ガロとか、貸本漫画とかいうのは、漫画家としては「正式なデビュー」と見做されない部分があって、その点ではこの人、一生無名なままだったんだが、ヤングジャンプに応募した時には、当時副編集長だった角南さんが気がつき、というのも角南さんは大学生の頃、ガロの熱心な読者で、つりたくにこにファンレター出したこともあったというから、まぁ、業界というのは狭いですw

もっとも彼女はその時すでに、膠原病を患っていて、ペンも満足に握れない状況のまま、1985年には亡くなります。まぁ、メジャーな業界的には「未完の大器」で終わった人なんだが、ガロ的には、支持者も多いです。で、史実としては、つりたくにこがアシスタントをしていた時代には、つげ義春といっしょだったというから、ドラマとはちょっと違いますね。

で、最近になって登場したのが、男のアシスタント三人組なんだが、

一人めは、ゼタから紹介してもらった倉田圭一(窪田正孝)君です(モデル:池上遼一さん)。
看板描きの仕事をしているのですぐ来れないとの話でしたが、布美枝がたまたま茂の漫画を納めにゼタに行った時、丁度、やってきました。
急がないと、他の人に決まってしまうと困ると思って、大将に無理を言って、すぐ辞めてきたそうです。

池上遼一といえば、今じゃ、知らぬものもない一流なんだが、Wikipediaによれば、

1961年に単行本『魔鏡』に短編を発表、1966年『ガロ』に「罪の意識」が採用され、これがきっかけで水木しげるのアシスタントとなる。

というわけで、この人も貸本漫画でのデビュー経験があるわけだ。池上遼一という人は、昔から絵は上手いんだがストーリーが苦手な人で、ほとんどの作品が原作付きですね。で、もう一人。水木しげるが散歩で拾ってきた男。

編集者から逃げるように行った散歩先で、茂は、風景画を描いていた小峰章(斎藤工)君に会いました。(モデル:つげ義春さん?)
デッサンがうまかったので、そのまま、家に連れて来て、アシスタントにしました。
髪の毛長くて、すごい雰囲気でしたが、彼も即戦力になりそうです。

この人が、つげ義春らしい。この当時、すでにつげ義春は貸本漫画家としてはベテランだったんだが、スランプに陥り、どん底の生活を送っていて、自らの作品でも描いているんだが、

しかし作品はなかなか売れず、錦糸町の下宿の支払いを2年分も溜めたため、便所を改造した一畳の部屋に幽閉され、8年間にわたり苦悶の日々を送ることとなった。桜井昌一によると、この頃のつげは錦糸町の装飾店に勤めてフスマなどを張り替えていたという。血液銀行に通って売血したのもこの時期のことである。1962年には、アパートで睡眠薬を飲み自殺をはかるが、病院に担ぎ込まれ未遂に終わる。

『ガロ』創刊当初、社長の長井勝一と三洋社時代に一緒に仕事をしたことのある白土がつげ義春の所在を誌上で尋ね、それに応える形でつげはガロに創作の場を得ることになった。1965年、「噂の武士」で『ガロ』8月号に登場。

1965年10月、白土はつげを千葉県大多喜の旅館寿恵比楼に招待し、また赤目プロのアシスタントは井伏鱒二を読むよう勧めて、これらの経験からつげは旅に夢中になり、のちの一連の「旅もの」作品として結実している。やがて、生活のために水木しげるのアシスタントを勤めるようになる。ガロ誌上でつげを名指しで「連絡請う」と広告を載せる等、水木本人からの強い要請もあったという。

「劇画」の世界では、まず、白土三平が売れ、次に水木しげるが売れたわけで、才能の片鱗を感じさせながらもなかなか芽が出なかったつげ義春を、いわば「劇画業界あげて」支援したという経緯があるわけだ。で、ガロに書くようになったつげ義春なんだが、水木しげるには桜井昌一という「抱き合い心中」とまで呼ばれた熱烈な編集者が付いたわけだが、つげ義春にも「抱き合い心中」志願者が現われますw

本名高野慎三。1940年、寿司屋の三男として渋谷に生まれる。明治大学政治経済学部卒業後、書評紙『日本読書新聞』に入社。当時『ガロ』にて「沼」「チーコ」などの傑作を発表していたつげ義春に「こだわって」、66年9月より青林堂に入社。以後5年間、積極的に新人を登用し、黄金時代の礎を築いた。
69年より幻燈社としてつげ義春らの本を出版していたが、青林堂退社後の72年、「つげ義春以後」を模索する北冬書房を立ち上げ、漫画誌『夜行』を刊行する。

権藤晋というペンネームを名乗ることもあるんだが、ドラマでは嵐星社の新入社員で出てくる男がそうだと思われる。おいら、この人が編集やっていた時代のガロがもっとも好きです。この人の後釜が、南伸坊ですね。で、高野さんにはおいら、会った事があるんだが、この人が熱烈に「ネジ式」を文化人にプッシュしまくったお陰で、あの、空前絶後のつげ義春ブームが来るわけで、漫画家が名前を残すかどうかというのは、こういう抱き合い心中志願者に恵まれるかどうかで決まる部分がありますね。

で、残り一人のアシスタントだが、水木しげるのアシスタントというと、鈴木翁二とか古川益三とか名前が出てくるんだが、古川益三がアシスタントやっていたのは1970年からなので、時代的に合わない。絵が下手なのはピッタリなんだがw

茂に「デッサン力をつけた方がいい」と言われていた男(菅井伸)は水木プロのアシスタント第一号だった北川和義さんという方だそうです。この北川さんは漫画家としては大成しなかったんですが、漫画をほとんど書いたことが無い、という点。茂の家の近くにアパートを借り、押しかけみたいな形でアシスタントになった点が北川さんのエピソードとそっくりなので彼ではないかと。

無名のまま終わった人らしいです。

まぁ、漫画の世界というのは、名を残す人もいれば、消えていく人もその何倍かいるわけで、TVドラマとしては物語を簡単にする都合上、登場人物の詳細までは語られないんだが、色々と掘り下げてみると、日本のコミックが「児童漫画」から脱皮する時期に悪戦苦闘していた人たちの歴史が見えて来るわけです。で、他にも、

城西映画テレビ部のプロデューサーは
東映テレビ部になると思います。

 風間トオル扮する船山信義役は現在の東映の副社長渡邊亮徳さんらしいです。
 業界では「リョウトク」さん・・両方得するリョウトクさんとして有名なんだそうです。
 この人はゲゲゲの鬼太郎を始め、デビルマン、ロボコン、キカイダー、魔法使いサリーそして仮面ライダーとだれもが知っているアニメの制作総責任者。すごい人なのですね。

とか、

大手出版社「雄玄社」の「週刊少年ランド」編集長 豊川悟
 大手出版社とは講談社 です。

 少年ランドは少年マガジン。
 編集長の豊川悟さんは、少年マガジンの三代目編集長の内田 勝さん。
 内田さんも一昨年に癌で亡くなられています。

とか、このドラマではほとんどの登場人物にモデルがあるわけで、ゲゲゲの女房に興味を持った方は、ぜひ、もう一歩踏み込んで、日本劇画史までお勉強してくださいw

コメント

これは、クソみたいな政治臭が無くて、久しぶりに面白い記事だった。

>おいら、三回続けて見てますw 

ウチの母親と同じことしないでくださいw
またいきものがかりかよ!ってびっくりしちゃうんですよね、アレ。

>日本のコミックが「児童漫画」から脱皮する時期に悪戦苦闘していた人たちの歴史

水木しげるがとった賞が講談社「児童」まんが賞だったとか、
週刊少年ランド(マガジン)に描くようになったのは、「W3事件」があったからだとか…Wikiで見た程度だけど、細かく見てくと、確かに面白いですね。

小学生の低学年の頃マガジンを見ていたので大手出版社は判りました。

>これは、クソみたいな政治臭が無くて、久しぶりに面白い記事だった。

「クソみたいな」というところが、所謂、う~ん、そ~だねぇ~、あぁ~~~

いらね。

昔のネトゲリを見た気分です!
野次馬さん、政治の話はもう良いよ。

こんな話、野次馬さんにしか出来ないし、
最高だから続けて下さい!

嵐星社の加納郁子さんのモデルもいるのでしょうか?

池上遼一といえば、小池一夫とのコンビ、これ最強。
「クライングフリーマン」とか。「赤い鳩」までは読んでましたね。
どっちも中途半端な終わり方でしたけど。

>加納郁子さんのモデル

嵐星社のモデルは青林堂なんだが、その社長が長井勝一、加納郁子というのは奥さんの事らしいです。

実際の青林堂は、材木屋の二階にあったね。

リモコン片手に追っかけ三回見ますか。時間に余裕あっていいなw

みなもと太郎のホモホモセブンは物心ついて最初の頃リアルタイムで読みましたが既に従兄弟が持ってたハレンチ学園とか古い杉浦茂とか見てたからこれが普通と思ってたw
池上遼一はマガジンで、ひとりぼっちのリン(競輪もの、ショーケンでドラマ化)が最初と思う。水木さんつながりだったのには今気付きました。矢口高雄は関係ない?白土まがいのマタギが好きだった。村田銃を初めて知ったw
つげさんの旅物って井伏鱒二でしかも赤目プロですかwそうだったのかw

う~む、昔野次馬さんを尊敬していたのは、こういうエントリを読んだからです。非常にすばらしい。冗談でも皮肉でもなく、こういう文章を待ち望んでおりました。

池上遼一は平井和正と組んだスパイダーマンもあるんですよ。当時版権どんなだったか知らないけど。
平井和正は桑田次郎で当てて石森章太郎と幻魔大戦やった後かな?

スパイダーマンは、平井和正は途中から参加です。
連載は月刊少年マガジンだったな。
おいら、当時の掲載誌、今でも大事に持ってます。

>おいら、当時の掲載誌、今でも大事に持ってます。
すごいですね!紙媒体で残すべきです。

子供の頃スパイダーマン(多分再々放送w)はロボットに乗って戦うヒーローだと思っていた。

後に、メリケンのを見たら全然違うしwww

少年マンガというと、どうしても手塚治虫とその周辺にいたマンガ家ばかりが有名だけど、まったく違う流れの作家も多かったのですね。池上遼一が貸し本漫画デビューというのは、ちょっと驚いたし、なるほどという気もします。星の数ほど漫画家がいて、もう誰も思い出すことのない作品も沢山あるのだと思います。小学生の頃読んだ漫画で、ふっと思い出したのが「殺し屋カプセル」とか「のっとり魔子」(?)、「ジャイアント台風」(ジャイアント馬場の物語)。もうすこし後だと「荒野の少年イサム」や「アストロ球団」かな。
そういえば田河水泡と手塚治虫の対談で、話題に出てましたけど、「のらくろ」って漫画は軍部には睨まれていたそうですね。呼び出しを受けて叱られたこともあるって。なぜかというと当時の野党が、「軍は乱れている」と攻撃するのに、「のらくろ」を引き合いに出したから。

朝ドラはボーカルがない方が、朝のしっとり感と尾を引く余情感がある。
視聴者としても、曲⇒本編への移行が自然に行えて良かった。
今のあれは朝の落ち着きを無くしている感。

「のらくろ」ってどちらかというと軍の翼賛的マンガかと思ってましたw

>野次馬様
そうでしたか。ありがとうございます。私もコミック版が実家の押入れに残ってるはず。

マガジンは劇画路線の成功の先に青年誌なみに読者年齢を引き上げましたね。
私は高学年の頃には成人誌総浚いしてましたw旅立てひらりんが好きでたまらず、がきデカにいたる以前の山上作品を夢中で追いかけた結果でした。
はあ、懐かしいです。まんだらけまんだらけw

矢口高雄は田舎で銀行員しながらマンガを書いて30才のころデビュー
ペンネームも梶原一騎につけてもらったりで
縁は薄いですよ

絵的には白土三平の影響アリアリですが
自伝マンガの「9で割れ!」
にあれこれ経緯がかかれてますよ

ふと思い出したが「高速エスパー」作者が、あさのりじから松本零士に写った理由を教えて欲しい。ここ30年来の疑問。ちなみに敵の名前が「バシウト」、反対から読むとスポンサー名称。

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