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[20298] 【完結】 第六感の奇術師 <ミステリもどき>
Name: しじま◆5654787d ID:1d8f7faa
Date: 2010/07/21 17:39
 ジャンル:超能力+ミステリもどき。

 作者  :しじま。ネガティヴァー。

 メッセージ:読んでくださってまずはありがとうございます。どんな感想でも、いただければありがたいです。
       一応とはいえ、完結させました。改訂も考えていますが、いつになることやら。




[20298] Introduction+『人体自然発火現象』
Name: しじま◆5654787d ID:1d8f7faa
Date: 2010/07/21 17:07


 純白のスーツに身を包んだ男が、体育館の壇上にて挨拶を述べていた。

 普段気だるげに集会を過ごす生徒が半数近い中、今、八割の及ぶ生徒が壇上の男の話に積極的な姿勢を見せている。

 今までの教師はすべて、在校時の思い出、校風についての感想、これからの意気込み、熱心な人生論を話した。

 だが白スーツの男は、微笑みをたたえ、今までと異なる一言を発した。

「皆さんは、何を考えて生きているのでしょう?」

 生徒が目を瞬かせる中、男はそのままの調子で語りをつづけた。


「何も考えず? あるいは平凡これ幸いと? あるいは日々理想像を目指して? あるいは――日々の雑事にのみ囚われているのでしょうか? どれにせよ共通するのは、己の価値観に従っているということ。能力が及ばないとか家がどうとか人間関係がどうとか――はっきり言って、そんなのはごまかしです。生きている以上そんなものはいくらでもある。そして、どんなものも重くあり軽くある。それを決めるのはすべて自分。ゆえに、見定めなければなりません。己の中にあるものごとの価値を、です」


 男の声は、マイクを通してスピーカーから増幅される。取り立ててそう感じられるのは、余韻が残りやすいからだ。


「何かをするとき理由はきっとあるでしょう? なんとなく、なんてものはそもそも悩みません。――そう、皆さんが何か選択に迷ったときの話を、私はしたいのです。周囲に惑わされ、判断を誤る。そういうことは残念ながらままあります。正しい判断とは、つまり、己のしたいがままにする、ということなのです」


 そういう思いを持って、私は教師をやっています、と男は締めくくった。

   ◇ ◇ ◇

 月曜日の、早朝のこと。

 月森結衣(つきもり・ゆい)は学校にいた。

 理由が手紙に朝一番にくるよう書かれていたから。

 そして今、所定の呼び出し場所である部室棟の裏を訪れている。鞄を肩にかけ、白のコートを身にまとった姿だ。

 月森の口から、断続的に白い呼気がもれていた。

 示すのは興奮。

 そして恐怖。

 死体が、月森の二メートル先の眼下に遺棄されている。

 悪臭が――する。

 不道徳にも、まず悪臭について眉をひそめた。

 腐っているわけではない。もっと異常だ。

 全身が炭になっている。

 燃やされたのだろう。

 それもついさっき、と月森は予想する。そう思われるほどに、悪臭がひどく、月森の気分は悪い。

 一方、なぜ冷静に事態を見つめる自分がいるのか、疑問せざるをえない。人生で初めて死体を見てしまった。全身が炭化したショッキングな死体だ。気分が悪い。なのに、依然、月森は死体を見つめつづけている。

 目をそらせず、望むかのように死体を観察している。

 その倒錯。その錯誤。

 やがて、倒れるべきだという思考が芽生えた。


 それはひどく冷静で――、淡白な思考によった。

 倒れるまでの五秒にも満たない時間にも頭脳は働く。

 このときほど脳の優秀さを呪ったことはない。そして共感と同情という人間
にあるべき機能については言うまでもない。

 傾ぐ世界の中、燃えたのだと直感した。燃えて誰かだった人間は焼死体となった。

 抗う間も、悲鳴を上げる間もなく、部室棟の裏で燃え尽きたのだ。その炎は死んでなお炎は勢いを弱めることなく、誰かを炭へと変えた。

 その情景と苦しみと絶望を想像していれば、世界が白んでいく。

 そして、地面がほとんど垂直になる。

 刹那の後、全身に衝撃を受けた。草地で、朝露に体が濡れる。不快感を覚えた時、すでに世界は真っ白だった。

 記憶が途切れる。

 月森は救急車に運ばれ病院にて覚醒するまで、つかの間、誰かの呼びかけを聞いた。同時に頬を冷たい手で叩かれ、うっとうしいとも思う。

 抗議の言葉は弱々しいうめきとして喉を通り、外界へと伝わる。

 呼びかけが勢いづく。安心が得られてのことだろうが、不快でならない。

 月森はいずれ文句を言ってやろうとほんの少しだけ目を開け、声の主の顔を見た。

 瞠目した目でこちらを見つめる顔が間近に見える。色白で線も細いが、明らかに成人男性の顔だ。


 木嶋悠一。
 臨時教諭の顔だと確認して、月森は今度こそ本当に気を失った。


   ◇ ◇ ◇


 死体遺棄事件のあった三週間後の月曜日、放課後。

 月森は北欧を思わせるシックな内装の喫茶店にいた。店名は、看板が独特な書体だったのと、怪しい喫茶店、で伝わってしまう弊害で知らない。
 もっとも、いま『怪しい喫茶店』などというイメージはない。外装からくる暗そうな印象を越えて入ってみれば、よい店である。客足の少なさやそのわりに安いメニューばかりで、道楽ではあるようだが、そのぶん上限が広かろうというものだ。

 店内にいまいるのは四人。店主らしい妙齢の女性が店内奥のカウンタにいるのと、アルバイトらしい女子大生が入り口そばのレジに一人。入り口から見て左手前、のさらに隅のテーブルにつく月森と高校の先輩である佐藤正義、という四人になる。

 佐藤は色白でうっすらと目元に隈があったり、目つきが悪かったりするために、見た目陰気だ。そうは言っても月森も所属する弓道部の大会における手伝いでよく見るし、当たり障りない会話なら幾度もしたことがある。コミュニケーションに問題はない。ただしその一方、エキセントリックな噂があるのが彼の評価のマイナスだ。
 なんでも秘密結社の存在を信じているらしい。映画で見るような、フリーメイソンやシオン修道会というものではない。超能力者が実在し、その存在の秘匿や管理を行っているというのだ。

(ばかばかしい)

 月森はささいな、けれど確かな蔑みを佐藤に抱いていた。男子というものが多少バカとは思うが、高校二年にもなってヒーローを心底信じているとなればばかばかしいと評価するよりない。大方冗談が通じず、通じなかった冗談を元に脚色されたのだろうが、軽蔑する気持ちは消えない。

「佐藤先輩」

 月森は挨拶もそこそこに訊ねた。

「それ、ココアですか?」
 佐藤の手元に白い無地のマグカップがある。こげ茶色のパウダーがこびりついているあたり、ほぼ間違いない。

「そうだが、何か?」

 佐藤が憮然として訊き返す。
 月森は微笑み、小馬鹿にしているのを隠しながら告げた。

「いえ、別に。ちょっと意外で」
「俺が何を飲もうとどうでもいいことだ。ホットミルクだろうがメロンソーダだろうが。そうだろう」
「ええ」
「真行寺の奴はこういうのをからかってくるがな」

 佐藤の言う真行寺とは、弓道部の女子部長である真行寺詠美にほかならない。背が高くモデル体型だが、月森としては近くで見上げざるを得ないのともともとの顔や声の怖さとで苦手だった。

「そのバカが、この場をセッティングしたわけだが、およそお節介というよりないことだ」

 月森は内心同意するが、態度にも言葉にもおくびにも出さなかった。

「心配してくださったとは思うんです。でも、やっぱりご迷惑ですよね」
「いや」

 佐藤はマグカップを置く。視線はマグカップに注がれていたのが、月森の顔へと向く。月森が見返せば、佐藤は無機質な目をしていた。

「別にきみのことを知らないわけじゃない。迷惑ではない」

 月森は『きみ』などという呼び方が嫌だった。キザだ、と佐藤をバカにしもする。

「お節介とは思うがな。その、死体遺棄事件か。嫌なものを見たことだろうが、専門家に任せられるところだ。本人が言い出したわけでもないに世話を焼くのは見当違いであり、空回りしている。実にあいつらしい」

 佐藤は淡々と語り、視線を月森から外した。
 月森は苦笑し、言う。

「そうでもありませんよ。誰か、近しい人に相談したいとは思っていました。ただ……、嫌な話には違いありませんし、愚痴とはどうも違ってきます。佐藤先輩は、ええ、絶妙な位置にいるかと」
「いまだよくわかっていないんだが……、この場の意図は何だ。残念ながら俺は、きみが学校で死体を見てしまったことと、ニュースの知識くらいしかない。いわば死体を目撃した女子高生Aにすぎない。多少なりともきみのことは知っているつもりだが、何を悩んでいるか、どんな意見を述べればいいのか皆目わからない」
「そうですね」

 月森は右のほうへ視線をそらす。黒にほど近い茶色のテーブルがあるが、特に見ているわけではなく、思案にふけるためだ。

 この場を簡素に終わらせようとばかり思っていた。いわば日常の雑事としてとらえていたが、事件に関して『もや』を感じているのも確かである。佐藤への蔑みが組み合わさって、深刻そうな悩みを提示してやろうと考えた。当然解決もできなければ満足な答えも返せないだろうが、佐藤の悩む様を見てやるのも面白そうだった。とかく佐藤という少年は、浮世離れしている雰囲気がある。俗めいた一面が見られれば、『もや』も多少なりとも晴れるかもしれない。

「――事件のことで、少し悩ましいことがありまして」

「死体を見たショックとかではなく?」
「はい。それについては、不思議とありません」

 佐藤がわかりやすく息をついた。
 月森はそのジェスチャをする心理にやや気分を害した。心配であるにせよ安心であるにせよ、自分を低く見たものには変わらないからだ。
 ささいな意趣返しに、畳みかけた。

「実はですねご存知とは思いますが死体と言っても焼死体だったのです。それはもう黒焦げの。ともすれば人の形に見えないような――」

 月森は凄惨な語りをしていることにはたと気づき、口元に手をやって言葉を止めた。
 佐藤が目をほんの少しだけ細める。

「気にしないからつづけるといい」

 月森は苦いものを腹に溜めつつ、ええ、とうなずいて、言葉をつづけた。

「問題はですね、死体が燃えたばかりであったという点です。まさか廃棄された焼却炉を使って燃やしたということもないでしょうけど、まさか超能力なんてことがあるのでしょうか」

 月森は佐藤を言外にバカにする一方、心に棘が突き刺さる。
 自分自身が、その超能力を持つ人間であるがゆえである。
 佐藤が穏やかに笑い、言った。

「まさか。大方テレビのニュースや週刊誌を見てそんなことを考えたんだろうが、ちゃんと説明がつけられる」

 月森は知らず目を大きく見開いていた。次の瞬間には頬の内肉を甘く噛み、それからまもなくして先をうながした。

「説明?」
「俺は事件についてネットニュースくらいしか見ていないからか、予断とか面白がるような真似とかはしていないんだよ。きみの場合、情報量が多いからそんなこと考えてしまったんだろうけど」

 月森の頬を噛む力が強くなる。決して噛み切ってしまうようなことはないものの、腹立たしくてならない。
 佐藤のおかしそうな物言いがつづく。

「論理の飛躍が起きているだけだ。月森君」

 月森は『君』づけなのも嫌だった。とはいえそのことに眉をひそめている時でもないので、怪訝そうな顔をするだけに留めた。

「神様なんていないと思う。多くの日本人がそうだ。けれど多くは慣習、ならわしみたく初詣に出かけるし祭りにも参加する。これはおかしいことだろうか」
「いいえ」

 月森は授業で答える時のように、すまして答えた。

「単なるイベントとして参加しているだけです。本来の形は信仰あってこそのことだと思いますが、いまはそうとは言いがたいです」

 佐藤が満足げにひとつうなずいた。

「そう。そうした理由づけを持って信仰心あっての行事が信仰心のない人々によって行われる不連続を連続した事象としてとらえられる。要はきちんとした理由を与えられれば不思議に見えるかもしれない出来事も自然な出来事になる」
「当たり前じゃないですか」

 月森は包み隠さず呆れてみせた。
 それでも、佐藤は笑みを崩さなかった。

「では今回のことに当てはめてみよう。わかりやすくしてみるとこうだ。死体を見た。焼死体だった。燃えたばかりだった。ゆえに見る前に燃えていたに違いない。しかし状況的に燃やす方法は考えられにくい。けれど事実起きた。だから何か方法があったはずだ。しかしその方法というのが超常現象など持ってくるほかないから迷いが生じている」
「そんなことはわかってます」

 月森は憤りながら言った。
 すると、佐藤があざ笑うかのような表情を見せた。

「どうかな? わかっていないから迷っているんだ。いくら方法について考えてみたところで答えが出ないなら、前提に立ち返ってしかるべきだ。数学の問題を解いている途中だけれど、今までの仮定もしくは場合わけが不適切だった。簡単な話だ」

 佐藤がもっともらしく二度、三度とうなずく。
 月森はそれを見て、す、と目を細めた。

「別にバカにしてるわけじゃない。灯台下暗し、というだけだ。気づかないだけでよくあることだ」

 苦笑を浮かべる佐藤。
 ジャズの音楽をバックミュージックにしての会話は、テンポに反して穏やかならない。

「さて」佐藤は声を張って仕切りなおしを計ったようだった。「とりもなおさず燃えたばかりだったなどという前提を崩せばまず簡単だ。不思議は減少する。およそ一般的な死体遺棄となるんだから。では前提を崩す根拠とは何か。もちろん前提に関する根拠を否定できることだ。奇妙なことが起きたという根拠は、何がある? こちらでもおおよそ見当はついてるが」

 月森は佐藤の嫌味に表情をくもらせたが、あからさまに嫌な顔はしなかった。

「もちろん私の経験です。私があの場を訪れた時、ひどい臭いがしていました。だから、燃えたばかりだったと」

 ふんふん、と佐藤が相槌を打ってから、人差し指を立ててみせた。ちょっと揺らす様がキザったらしい。

「もうひとつ。あるだろう? テレビのニュースや、もしかしたら週刊誌、ひょっとすると噂を根拠としているかもしれない」

「テレビのニュースとかは、それはよく知りませんけど警察の発表を報道しているのですから」

 言いつつ、月森は脳裏にひっかかるものを感じていた。それが何か確かめる間に、佐藤が言ってしまう。

「警察の発表する様をそのまま報道しただろうか。――もちろんそうじゃない。テレビ局というフィルタを通し、きみに届いている。テレビ局独自の報道と言っていいかもしれない。ある程度の信頼性はあるが、絶対じゃない。独自の見解を述べたりするし独自の調査をしたりする。警察の発表でも、まして事実でもない」

 月森が言葉を返しかねていると、佐藤が自信満々に言葉をつづける。

「ではきみの経験は誤りだったのか。いいや、真実だよ」

 月森はイライラするあまり、テーブルの下でスカートのひだをいじっていた。誰も見ていないなら頭をかいてしまいたい。

「訊くがね、月森君。――きみがかいだのは本当に死体の臭いだったのだろうか。焼却炉があるということは、自然、ゴミ捨て場があることもわかるね?」
 月森は刹那の内に頭がクリアになって、ほぼ同時に目を大きくする。
 ややあって、佐藤が微笑んだ。

「たったそれだけの話なんだ」



[20298] 『雪の日の記憶と一匹狼』
Name: しじま◆5654787d ID:1d8f7faa
Date: 2010/07/15 21:48
 つまるところ、警察の事情聴取を繰り返す内、余計なものがそぎ落とされ単純化された。その際超常現象や超能力の可能性というのがいつまでもつきまとっていた。どうしてそんな可能性があると思ったかは忘れてしまったかのように考えず、ただ現代科学の知らない『何か』があるかないかを見極めることにとらわれていた。

 月森は佐藤にそのことを告げられ、ストンと『もや』が落ち、頭がすっきりした。軽蔑を抱いていた相手に気づかされた苛立ちがあるにはある。しかし、気持ちのよさに比べれば実に小さい。何より、感謝すべきなのには違いない。

 思いがけず『もや』を解消されて戸惑ったというのもあるかもしれない。というのも『気づき』が生まれてから、月森は少々みっともない姿をさらした。社交モードが崩れて会話がややしどろもどろになったのだ。駅まで送るという気遣いも受け、それに拍車がかかりもした。

 帰りの電車の中、その日一日何かあったかをすぐに思い出せなくなっていた。ただ腹の辺りに暖かいものを、頭に清涼さを、深く噛みしめていた。

 そして翌日、佐藤に対する評価の変化とともに、月森自身も変わってしまっていたことに気づく。

 佐藤と廊下ですれ違う際両肩がこわばった。佐藤の姿を生徒の中からすぐさま見つけてしまう。ひどい場合、佐藤という誰かの声を聞くたびそちらを振り返る。

 『もや』が生じているのだ。

 昨日解消されたものに比べればささいではある。否、そもそも悪いものではない。

 恋とかいう代物ではない、と月森は固く思っている。知的好奇心だと心中言い張っていた。

 放課後、遠くに女子生徒と話す佐藤を見つけて立ち止まってしまったのも知的好奇心だと考えた。

 佐藤と女子生徒は渡り廊下の半ばにある柱のそばにおり、月森は中庭を挟んだ遠くにいる。中庭にはブロックが敷き詰められているほか、中心に噴水がすえられるとともに、申し訳程度の緑が設けられている。その申し訳程度の緑、六本の内の一本の木に月森が隠れているような形である。

 およそ十五メートルの距離を残しているが、聞き耳を立てていれば会話の内容も十分聞き取れる。

「聞きたくないと言っているだろう」

 と、佐藤がやや声を張る。

 修羅場、と月森は連想する。

 一方女子生徒はうれしそうに佐藤の顔を左から右から下からとせわしなく観察する。

「んー、んー? まあ聞きたまへよ佐藤クン」

 女子生徒のジェスチャが始まる。佐藤に背を向け右手は胸に当てられ、左手は中空へと伸ばされる。目は閉じられていて、

「あれは雪の日の晩のこと、私と木嶋先生は」

 言葉が一旦切られると手がその主の体を抱きしめる。

 身もだえに似たジェスチャがとられる気配があったが、佐藤の指摘にジェスチャは中断される。

「まだ雪は降ってないはずだが」

 確かに本年度において雪は降っていない。また臨時教師として赴任した木嶋悠一は二ヶ月前にやってきたばかりである。昨年度ならば雪は降ったが、木嶋はいないはずなので当てはまらない。

(以前どこかで会っていた?)

「今年の話をしてたんじゃないのか? 妄想力激しいな御堂」

 佐藤の呆れたふうな物言いに、月森は憶測を捨て去る。大阪人であったなら転んでみせたかもしれない。

 呆れと安堵と、ややあって安堵に対する疑問を感じていると、背後から声をかけられる。

「や、月森さん」

 言葉から一瞬遅れるタイミングで肩を叩かれる。

 月森が慌てて振り返ると、真行寺が片手に腰を当て、また小首を傾げて立っていた。

「何してるの、と聞きたいところだけど――佐藤に用?」
「えっと」

 月森はばつの悪い思いで顔を伏せる。覗き見というか盗み聞きの現場を押さえられたし、社交モードにうまく切り替えられずうまく笑えないのだ。

 しばらく言葉に困った後、口から出まかせを述べた。

「えっとですねちょっと佐藤さんの普通でない声が聞こえてきて気になってちょっと立ち止まっていたんですがなかなか話が聞こえなくて、でも一緒に話してる先輩っぽい方がジェスチャの激しくてちょっとした小芝居というかですね、つまり何かしら小さな事件が起きたのではないかと思いそれを見極めようと」

 月森は言い終える頃には社交モードの笑顔を取り戻し、真行寺に笑いかける。

「ただそれだけなんです、部長」
「ふうん」

 と、真行寺は神妙な顔でうなずいた。うなずきは単なる相槌で、いぶかしみが大きいように思われた。
 だがその予測はつづく真行寺の言葉で一変する。

「よくわかんなかったんだけど、つまり何? 梢――ああ佐藤と話してるの御堂梢っていうんだけど――、と、佐藤が何やってるか知りたいと?」
「えっと、はい、そんな感じです」

 ふうん、ともう一度声をもらすと、真行寺は堂々とした足取りで二人に近づいていく。

 真行寺が見つかるのは必然で、月森はそれにともなって自らが見つかることに不安になった。とはいえその場を逃げ出すのは真行寺に対してばつが悪い。思いあぐねている間に真行寺が二人のそばに到達する。

 軽い挨拶の後、月森にとって無為な会話が少しつづく。おおよその内容はつかんでいたのだから。

 その間、幸いにも月森の存在は気づかれなかった。

 けれど、会話の内容がわかると、真行寺が月森のほうを振り返る。つられる形で佐藤と御堂の視線が月森のほうを向き、月森の視線とかち合う。真行寺の手招きもあって、ややうつむきながら月森は三人の元へ近寄った。

 五十センチほどの距離を残して、立ち止まる。

 四人のそれぞれの立ち位置は半ば円上にあり、御堂、佐藤、真行寺、月森の順番で円をつくっている。

 三人ともの視線が月森を向いているので、月森は視線のやり場に少々困った。とりあえず正面を向くのがよかろうと、佐藤のほうを漫然と見る。目をはっきり合わせるような真似はしない。

 真行寺が一番に言葉を発した。

「とりあえず紹介しとく。御堂梢(みどう・こずえ)。二年のバドミントン部。幽霊部員だけど」

 真行寺の手の平が御堂を指し示すので、月森は御堂のほうを見る。

 御堂が笑い、手をひらひらと振る。

「どもども」

「で、月森結衣さん。うちの弓道部の一年で――」

「死体見ちゃった人だよね」

 月森は表情がこわばるのを感じた。同時に自分と真行寺のまとう雰囲気が冷えたのも感じた。それぞれ冷えの種類というか原因が違うけれど、半分場が凍ってしまった。

 場を凍らせた本人はへらへらと笑い、佐藤はといえばいつものように陰気な顔をして突っ立っている。

 月森は御堂に穏やかな微笑みを返す。

 すると悪気はないようで、御堂もさわやかな笑みを月森に返す。

「災難だったね。――木嶋先生とはどう?」
「どう、とは?」
「ほら、あの人月森さんにけっこー世話焼いてるでしょう?」

 『けっこー』の語調が強くて、月森は答えに窮する。そして邪推が生まれた。詳しく聞かないのは、つまり月森の木嶋に対する態度の見極めではないだろうか。答えをほぼ相手に任せる形で、何気なく一番聞きたい答えを導き出す。

 月森は微笑みと笑顔の中間へとシフトした。

「よくしてもらってます。いろいろ心配していただいて。少しこっちが申し訳なるくらい」
「――そう」

 御堂の声のトーンが上がるし、笑みのままだ。

 月森は望む答えを出せたようで安心した。もっとも、率直に答えたところで同じ結果だ。

 死体を見て倒れた月森を介抱してから、何か責任感でも芽生えたか、木嶋悠一は月森をやたら気にかける。回数としてはさほどでないが、生徒に対する声かけを担当するクラスで平均すれば、月森が明らかに一番だ。

 ただし、やはり教師としての配慮である。新米らしいとはいえ、そのあたりの気構えはあるに違いないし、月森がそこに何か他のものを見出すのは愚かというより恥だ。

 御堂が言った。

「ぶっちゃけ、聞いてた? 聞かれてた?」

 月森は背中がひやりとして、とっさに言葉を返せず、また、答えに妙な間が生まれた。その間によって御堂が確信してしまったものと思い、諦めた。

「はい。すみません。立ち聞きするつもりはなかったんですが、声をかけるのも、ちょっとはばかられて」
「そりゃそうだ」

 真行寺により合いの手が入る。つづけて、御堂に対する非難の言葉と視線があった。

「堂々と教師に対する恋を語るかフツー」

 すると、御堂と真行寺による応酬が少々つづいた。

「ふふん、自由な世の中を謳歌するんだ姉御」「うっさい変態」「色気あると言ってほしいわあ」「そっちの意味じゃないっての。こう、なんていうか、恥を恥と思わないのは確かだけど」「仁義? 仁義?」「意味わからないっての」

 真行寺が嘆息して、うなだれる。真行寺が折れたものと思われる。

「――で、月森さんの用が何かあったんじゃないの?」

 御堂がそう言い、真行寺が顔を上げる。そして戸惑う態度を見せた後、御堂に嘘を告げた。

「ほら、佐藤が弓道部にいろいろ貢献してるのは知ってるでしょ? で、今日もちょっと貢献してもらおうと」

 御堂が即座に言い返した。

「嘘ばっかり」

 月森は目を大きくしかけ、外見上痙攣したような動きに留める。御堂の意識の外だったようで、会話はそのままつづいた。

「貢献なんて。無理やり手伝わせてるくせに。相変わらず不運よねえ、佐藤君。だから素敵」

 素敵、という点を除けば月森は大いに御堂の発言を肯定する。弓道部員が見るのは大方真行寺に連れられ佐藤が手伝いにやってくる、というものである。時折暴力を受けているのも見る。それが脅迫かじゃれあいかといえば、佐藤が真行寺に対して堂々と皮肉や嫌味を垂れているところ、じゃれあいであろう。

 結局真行寺に従っているので情けないといえば情けないが、月森は真行寺と佐藤の仲というのを推し量る。それはおよそ他の弓道部女子と一致するもので、夫婦のようなものではないかと思うのだ。あるいは姉弟であるのだと。

 ただし色恋を想像しがちなために、夫婦となりやすい。倦怠期など決して訪れず別居や離婚の危機などに陥りそうな夫婦。なぜ結婚したのかわからないけれど、傍目には一種の理想の夫婦。

 月森もなりたいとは思わないけれど、佐藤と真行寺のやり取りを見ていると年下ながら、微笑ましくなる。

 ただし、無理やりである点に間違いはない。

 真行寺も多少の自覚はあるようで、ちょっと顔をしかめる。

「変態め」
「知ってる」

 言いつつ、御堂は真行寺らにほとんど背を向ける。横顔がなんとか向いている状態で、「じゃあね」とその場を辞した。

 ああ、だか、うん、だかはっきりしない声で真行寺だけが別れの挨拶を返した。月森はどう声をかけたものか逡巡し、佐藤はといえば会話の途中から中庭のほうに顔を背けている。会話に参加する気はなかったらしい。

「佐藤」と真行寺が呼ぶ声で、会話の輪に加わる体勢になった。

「今日の放課後も大丈夫?」
「問題ないが――問題があるのか?」

 佐藤の目が月森を見た。月森は鋭い視線にさらされ、体に妙な力が入る。

 真行寺が佐藤と月森の間に一歩割り込む。

「昨日のことだけでぱっと解決できたとでも言う気?」
「いいや。だがお前の空回りじゃないかと、月森君に聞くのがよかろうと思っただけだ。ちょっと通りがかって立ち止まっていただけで変な勘ぐりをしたのじゃないかとか」

 佐藤の言葉からややあって、真行寺が唇を尖らせた。それきり黙ってしまうので、月森は軽く握った手を首元にやりつつ、真行寺と佐藤に視線を行き来させる。困っている、というジェスチャだが、汲み取ってくれる者はこの場にいそうにない。二秒ほどで意を決し、発言した。

「あの、迷惑でなければ、お茶に付き合っていただければと思ってます。昨日はその、ショックが大きくてあまり話せませんでしたし」

 真行寺がぐりんと目をむいて佐藤を威嚇。佐藤のほうは意に介したふうもなくどこ吹く風だが、見ている月森としては落ち着かない。早口に弁解を試みた。

「あのすみません言葉足らずでした。ショックが大きかったというか、気づかされるところとか勉強になった点が大いにあって、感心しきりでその」

 月森の表現には誇張があるが、誤りではないラインを保ちきった。その上真行寺の怒りが鎮まり、場は何事もなく収まる。

「だそうだ真行寺。よかったな」

 佐藤に言われて、真行寺の表情はいぶかしみと満足の半分半分で彩られる。言葉だけなら褒め言葉だが、真意には嫌味があるのを感じ取ったに違いない。

 どこがどう、とすぐに説明できるものでないので、真行寺の反論は月森が発言することによって流れた。

「あの、よろしいんですか?」

 問えば、佐藤はともかく真行寺までも、驚きの目で月森を見るのだった。

 月森はえ、と笑みを凍らせてしまう。

 佐藤がまず、

「構わない。昨日言った通りだ」

 と言い、真行寺はといえば、

「何を今さら。このバカが今まで弓道部にどれだけ奉仕精神旺盛だったか」

 と言い、言い終わるか否かのタイミングで佐藤がじろりと真行寺をにらんだ。

「実に都合よく解釈しているな」
「帰宅部にして弓道部感覚が味わえてよかったでしょ?」

 悪びれもしない。

 佐藤のにらみがますます険しくなる。

「俺はそういう皆でやりましょう精神が大嫌いだ。協調性の美徳というヤツが、気に入らない。和を尊ぶのはいいが群れるのは違うだろう」
「そりゃあんたがひとりぼっちだったからでしょうに」

 月森は噴き出すのをこらえられなかった。慌てて佐藤をうかがえば、こちらをじっと見ている。にらまれているわけではないにせよ気まずく、愛想笑いを返した。

 すると佐藤は真行寺に顔を向き直り、言い返す。

「俺ひとりがせめてもの抵抗をしてたにすぎない」

 苦しい、と月森は評価する。

 真行寺もにやにやと笑い出したところ、月森とそう変わらない感想を抱いているに違いない。

「でも中三の時は違ったでしょ?」

 あからさまに言葉に詰まる佐藤。しかめっ面をしばらくしていたかと思えば、「そうだな」と認めた。そして重々しく言葉をつづける。

「確かに、そのころは態度をひるがえしたかもしれない。だが――」

 なお言い募ろうとする佐藤を、真行寺が不敵な笑みで押さえ込む。

「でも一年の頃から弓道部の活動に尽くしてくれるじゃない。試合に出たことだってあるし」

 試合に出た、というのが月森は初耳で、さまよっていた視線を佐藤に定める。何ぞ感じたか、佐藤がちらりと月森を見返す。実にばつの悪そうな顔で、

「あれは――、いや、もういい」

 佐藤は真行寺に対して半身になりすぐに手を振る。そして、「じゃあな」とその場を辞そうとした。

「昨日と同じ時間と場所で、よろしくね」

 真行寺が去る佐藤の背中に声をかけると、佐藤は背を向けたまま肩の上くらいで左手をひらひらと振ってみせた。おそらく了承のジェスチャである。

 佐藤が校舎の中へとまもなく消え、月森はふっと真行寺の顔をうかがった。満足と呆れが入り交じっている。月森はそこにやはり、姉を見出した。

「部長」
「ん?」
「佐藤先輩が、その、いわゆる一匹狼――」

 真行寺が激しく噴き出した。

 月森はみるみる顔を朱色に染めて、口をつぐむと同時に顔をうつむける。

 真行寺はそんな月森を省みることなく繰り返し噴き出していたが、大笑いするには至らず、やがて生理的な現象により顔を真っ赤にしながらも落ち着いた。そして言う。

「ごめん、ちょっと面白かったものだから」

 ちょっとですか、と月森は顔をうつむけたままつぶやいた。

「いや、けっこう、かなり、面白かった。そんなもんじゃないから、あれは。すねたガキだから」

 月森は、佐藤を見直したばかりとあって、真行寺の評価は少し面白くなかった。だから、つい反論してしまう。

「でも、いい先輩だと、思うんです」

 真行寺の顔から笑みがふっと消えたかと思えば、儚げな笑みが浮かぶ。

「そうだねえ。まあそういう面もあるんだろうさ。あんなのを好きになる物好きも三人いたんだから」

「その中に真行寺先輩はいないんですか?」

 月森がそんなことを問うと、真行寺は苦笑する。

「小学生の頃から知ってる奴だから。そんなのは全然。二十歳になっても四十になっても八十になっても、やっぱりすねたガキって言ってる気がする」
「八十になっても……」
「それで? 一匹、狼のつづきは」

 真行寺が中途噴き出しそうになりながらも、はっきりと言い終えた。

 月森は再び首から顔へ上ってくる熱を抑えつつ、言う。

「ええ。そんな佐藤先輩を、部長が変えた、とか?」
「いいや」

 確認のつもりだったので、月森は目を大きくした。

 真行寺が言う。

「私じゃないよ。残念ながら。それならあいつは『ああ』じゃない」

 指示語がはっきりせず、月森は首を傾げる。

 構うそぶりも見せず、真行寺がつづけた。

「変えた奴はちょっと遠くに行っちゃってるんだこれが。そのせいでちょっといまおかしいんだけどね、あいつ」
「おかしい、ですけど、あれがナチュラルなんじゃないんですか?」

 真行寺が突然豪快に笑った。やがて笑みをかみ殺すと、月森の問いに答えた。

「ああ、うん。私もなに言ってるんだかね。そう、佐藤はおかしな奴だよ。正しい、百点満点だ」

 過剰な肯定に、月森は含みがあることを察する。ゆえに、さらなる問いかけを行った。

「秘密結社が実在すると信じてるなんて噂があるのも、変という一言で片付けられるとは思えませんが」
「――おかしいね。変な先輩であってほしいのか、いい先輩であってほしいのか」

 月森は虚を突かれた顔をさらすも、プライドの手前すました顔をすぐに取り戻す。

「――両方です」

 再び豪快な笑いが起こる。

「ただ――、えっとなんだっけか、……管理会社? そんなものの存在を見出したのはあれかな、あれの通訳が『遠く』に行ったから、かもしれない。割り切れないことだったんだ。それを割り切るために、ありもしない存在をすえた。そして中学の頃のやりそこないをそんな名目で繰り返してる。いま私は、その手助けをしてることになるかもしれないね」
「え――?」

 呆ける月森の肩に、真行寺が横に立って片手を置く。

「たかがガキ一匹だけどね、女の子ひとりくらいどうにかしてやろうって気概は持ってるから。それとちょっとばかり頭がいいのと、小理屈が得意っての。あのとおり口下手で社会にそぐわない理屈並べ立てる奴だから頼ることはできないけど、利用することはいくらでもできる」

 真行寺の言葉の真意は、つかみかねた。

 月森には佐藤に頼る気などさらさらない。ただ、日常会話の延長線上に、佐藤と話すことを思った。

 自分自身では、そう確信している。

 月森はふっと、思いつきの言葉を述べた。

「部長のようにですか」

 くっはは、と真行寺は笑った。



[20298] 『社会幻想』
Name: しじま◆5654787d ID:1d8f7faa
Date: 2010/07/16 18:31

 名も知らぬ喫茶店を訪れるまでの自転車の道中、月森は思索をめぐらせていた。

 真行寺は佐藤と月森と二人ともに何かをもたらそうとしている。それは善意によるもので、ただし空回りしている可能性は多分にある。

 佐藤の過去が気になるところだが、あえて探り出す類のことでもなく、月森は真行寺に聞くようなまねはしなかった。

 ただ、想像はする。

 中学生男子に見られる精神的不安定さが佐藤にも見られ、しかし中学三年時にある人物によって解消された。それから彼は心を入れ替え、不器用だったり社会常識にいまいちそぐわないなどの欠点をぬぐえないながらも、一人の真人間への道を歩き始めた。一方真行寺の言う『通訳』氏が遠方に行ってしまったことから佐藤が『すねた』のかもしれない。真行寺の口ぶりからそう想像されるが、まさか遠方から連れ戻してくるわけにもいくわけもないだろうから、不満を抱え続けることにはなる。その不満を解消するべく、『中学の頃のやり損ないを繰り返』す一環として、自分、月森結衣の手助けもやぶさかでない。ただし佐藤が積極的というわけでなく――当然。さほど親しいわけでもない――、真行寺の空回りの感があるにはある。一方月森が抱える『もや』があるという点では間違っていないが、佐藤に関しては空回りしているのではないか。

「そもそも大切な人がいなくなったからって――」

 月森は夜の風を浴びながらつぶやく。

 語られなかった部分はさぞ多かろうが、真行寺の推察には納得しかねる。

 つまり、『繰り返し』が一番重要なニュアンスだろう。繰り返しによって擬似的に過去の体験を思い出し、『通訳』氏のいないという現実のごまかしを行う。過去の体験に『通訳』氏はいるのだから――。

「何それ」

 月森は自転車をこぎながら顔をしかめる。見える範囲に人はいない上でのジェスチャだ。

 まもなく喫茶店に到着し、自転車は店の脇の小道に停めた。

 店内に入ると、昨日と同じくジャズが鳴っていて、昨日と同じくカウンタに店長とレジ付近にアルバイトの女子大生がおり、そして昨日と同じテーブルに佐藤がいた。つまり入り口から左手前であり、隅に位置するテーブルだ。書店のカバーがされた文庫本を読みふけっていて、ドアベルが鳴ったことに気づいた様子はない。

 月森はテーブルの対面の席につき、鞄を隣のイスに載せた。

 アルバイトがメニューと水を出しにきて、その文言の際ようやく佐藤は月森に視線を向けた。

 月森は注文を紅茶だけで済ませ、佐藤に向き直る。佐藤は文庫本を閉じ、テーブルの上へ置いた。

「やあ、月森君」
「ええ、佐藤先輩」

 月森は微笑を浮かべ、愛想よく応じた。

 佐藤がしばらく月森の顔を見つめていたが、やがて後ろ頭をかくと同時に顔をしかめる。

「さて、まるで昨日の繰り返しだな」

 気まずさを表すように、佐藤の視線が斜め下にそれた。

 月森も佐藤の顔からやや視線をそらし、首元、胸元へと移す。そして穏やかな気持ちとともに、思案する。

 真行寺の空回り(真行寺が客観的に正しい理屈をもって行動したわけではないのだから)によって再び設けられた佐藤との談話の場である。月森は佐藤から得られるものがあると、昨日の件を理由に期待している。ただしあまりに漠然としすぎていて、何を得たいかさえわからない。だから、どんな話題になればいいのかわからず、ましてや話題の切り口がわかるはずもない。

 ふっと、佐藤の言葉が月森の思考を断ち切った。

「ああ、いや、違うか」
「え?」

 佐藤が口元に手をやったり視線をさまよわせたりするなど迷うそぶりを見せ、その分の間が空いた。少しあって、佐藤が月森を正面から見た。迷ったそぶりのなごりを残しているが、小さな決心をしたようだった。

「――率直なところ、真行寺の空回りだろう。適当に悩み聞いておいたことにでもしておくから、早く帰るといい。本当ならまっすぐ家に帰ってもらっておいたほうがよかったんだが、どこで綻ぶかもわからない。――と、あまり早くに帰っても疑われるか。じゃあ、そうだ、俺がきみを怒らせたことにするといい。それなら自然だ」

 違います、と月森はつぶやいた。

 佐藤が聞き返す。

「違う?」
「私が佐藤先輩と話したいのは確かです。そんな――そんなことは言わないでください。あの、それともやっぱりご迷惑ですか」

「いや。むしろ望むところだ。きみのようなかわいい後輩と話す機会というのはそうないからな」

 予想外の佐藤の発言に月森は数秒混乱するも、いつもの余裕を取り戻すことには成功する。

「弓道部にはたくさんいますよ?」

 月森が持ち前の社交性を見せると、佐藤が神妙な顔をしてつづけた。

「きみのクラスにもたくさんいるな?」
「ええ」
「ではかわいくない子はどのくらいいる?」
「綺麗な子がいます」
「世の女子というものがたとえそう思ってなくとも綺麗とかかわいいとか同性を褒めておいて、実は自分が一番かわいかったり綺麗だったりすると思っているというのを小耳に挟んだが、あれ、本当だろうか」
「佐藤先輩。おそらくそれが外見のみに限ったことでしょう。内面も含めれば、全員がそうです」

 佐藤がこめかみに人差し指を当てている。さらにそらされていた視線が、月森をとらえた。

「きみは?」

 月森は微笑むばかりで答えなかった。

 佐藤が今までの発言と月森のことを分析しているのか、テーブルを指先で叩きはじめる。一定のリズムが刻まれ、長い、と月森が思った瞬間止んだ。

「なるほど」

 佐藤が何を理由に、そして何がなるほどなのか、皆目わからない。

 ただ、佐藤の考えがどうあれ、月森は自分の外見を人一倍よいと思っているが、内面に関しては嫌な女と思っている。

「ちなみに今までのはすべてジョークだ」
「どこからが、いえ、どの点がジョークなのか気になるところですが」

 月森が言外に説明をうながすが、佐藤は不敵に笑うばかりだ。普段からして陰気なので、悪役である。そしてまもなくその悪役笑いをやめて、普段の単なる陰気な無表情になる。

「と、軽く雑談でもしてみたんだが、どうだろう」
「えっと、楽しいですよ?」

 内容はいささか毒があるものの、茶目っ気と思えばまあ楽しい会話だ。

「では人体自然発火現象の話でもしよう」
「なんでそうなるんですか」

 さすがに月森もうんざり顔を作る。

 佐藤はやはり飄々としたもので、

「いや昨日の繰り返しからきみの動機を見出そうと思って。とりあえず人体自然発火現象のオーソドックスな科学的説明というものをしてみようか。それともすでに知ってるだろうか」
「いえ」
「興味は?」
「ほんの少し」

 ふむ、と佐藤がうなずいて、説明をはじめた。

「人体発火現象ははじめ、怪奇現象として扱われた。聖書に、断罪だったか贖罪だったか、罪びとが炎に焼かれるという記述もある。仮に突然火元もないのに炎が体の表面に生じ、消そうとしても消えず炎に焼かれて死ぬことになったら、ああ、聖書の記述通りのことが起きたのかもしれない。怪奇現象の側から見て共通するのは火元がないのに燃えること、主に人体や衣服以外に燃え広がらないこと。その中で両足が残ったり両腕が残ったりするという違いがある。不思議とその中に頭部だけ燃え残る、というの事例はない。ともかく、不思議な炎に人が焼かれた、としたがったようだ。が、このままの現象が起きていない、というのがまず一般的だ」

(自分がまさに一般から外れる例外だけれど)

 などと、月森は声には出さないながらも茶々を入れる。彼女には発火能力がある。

 『ただそうである』。それが、彼女の発火能力だ。燃やそうと思えば燃える。使ったのはただの一度で、詳細は彼女も知らない。

 仮にそれを佐藤が知ったらどう思うだろうか。月森は想像を試みた。けれど、佐藤に事実を告げるつもりなど微塵もなく、また月森にそのつもりがなければ知られるはずもない。荒唐無稽な話だと、すぐにやめてしまう。

 佐藤の話はつづく。

「人体ローソク化現象と、酸素を消費しきったための自然鎮火、と言ってわかるだろうか」

 月森は小首を傾げた後、

「はい、つまり、えっと」

 時間を稼いだ。

 つまり、と佐藤が結ぶ。

「脂肪がじわじわ燃えて、そのうちに延焼を起こさず人体のみを燃やして炎は鎮火。火元はタバコが一番ありえる。寝タバコというやつか」

「ああ」

 月森は感嘆するのもつかの間、すぐに怪訝な顔をつくる。

「でも、実際そんなことが起きますか」
「だからどのみち手品のような工作があるんだ」

 月森は渋面をつくって黙った。

 佐藤がふむ、と右手であごをさすり、言った。

「これ以上の説明はないが、何だ、あまり晴れやかでないな。もしくは昨日のように、きみに間の抜けた感じがない」

「そ、そんなじゃありませんでした」

「常に表情を意識しているのか。では口を半開きに、目をやや見開いて、反応が普段より鈍かったきみは何を意識してのことだ? 天然のお嬢様とか? 突然そんな真似をしたのは一体どのような高尚な理由があるのか、実に興味がある」

「……嫌な先輩です」


 ◇ ◇ ◇


 それから長いこと、無為な会話に終始した。

 普段の月森結衣と異なる発言、思考、そして心理が生じた。一言で言うなら、軽率、であり、気が抜けていた、だった。

 あるいは自分の望んでいたのはこれだったかもしれない、と月森はふと感じた。

 頭が喫茶店に入った時よりずっとクリアになっていたのだ。

 だから結果論としてはそうだ。

 だが脳の中心にくる重みはどうだ。手の届かぬ、手を届かせてはならなぬもどかしさがある。

 このままでいいといえばいいが、よくないという思い。

 大人らしさを受け入れられない幼さのように、常識に無意味に反抗する浅薄な合理主義のように、かみあわぬ力のせめぎあいがある。互いにすれ違い、それでいて泥のようなものにとらわれ、明暗をわけることも許されぬ、灰色の境界線に誰でもなく自分の意志で存在する。

 大小、深い浅い、長い短い、差はあれど、日常的に存在する。

 瞬間、頭が重いことに気づき、けれど、時間は待ってくれない。

 人と言うべきだろうか。

 自然の流れと言うべきだろうか。

 至らぬ自分には、かみ合えず、辛い時がある。

 仮面を被って、中学までは過ごした。けれど仮面を見破られて、気づかされた。

 具体的な方策はなく、高校生になった今も、仮面を被っている。泥の中を歩いている気持ちだ。必死に、必死に、見える世界の追いつこうとしている。

 そう時間を要せず、苦しいという思いが頭を占める。

 だが歩く。その歩を進めるものは何だ。堕落したくないという思いか。

 堕落とは何だ。常識という群集の混沌とした偏見ではないのか。

 思考するのが苦しくなり、月森は会話へと逃げた。

「中学の頃の話は」

 話がそもそも寸切れで不連続なものだったが、やはりこれまでの話の流れを断ち切って、月森はそう切り出した。

「お嫌ですか」
「いや」
「失礼を承知で言います。佐藤先輩の中学の頃の話を部長から聞きました。ごく、断片ですが」
「そうか」
「素敵な人が、いたそうですね」
「そうだ」
「遠くに行ってしまわれたそうですね」
「そうなる」
「どうしましたか?」
「誰が、何を」

 月森はうつむいていた。家以外では、彼女はほとんど常に社交モードでいる。友人と過ごしている時くらいはそれが崩れるが、たいがい清廉で高潔で堂々とした人物を意識している。常に上品で、常に余裕を持つ。

 彼女の姉であり、彼女が目指すところなのだ。

 それが崩れている。否、崩されている。

 月森は答えの出ない問いに支配されていた。

「佐藤先輩が、喪失感を」
「連絡は取れるし、母方の実家に『あれ』が帰ってくる時期もある。普段から会えなくなった程度だ。だから、どうもしない」
「ではその人が亡くなられたならどうしますか」

 何を問いかけている、と月森は思う。

 苦渋が、懊悩が、激しい怒りが彼女の中で暴れまわっている。佐藤の答えを知りたくてしかたない。そしてそれを、否定したがっている。

 自分のステージまで彼を引き摺り下ろしたいのだ。管理会社などという逃避を作っているらしい彼を、自分と同じ苦しみを味あわせてやりたい。

 まるで復讐だ。

 佐藤は目を伏せて沈黙している。

 月森は表面上深い思考をしないで、狂気を目ににじませながら言った。

「中学の頃にですね」

 互いに互いの顔を見ない会話がつづく。

 ああ、と佐藤は相槌を打ってくれる。

「素敵な先生がいたのですよ。ずいぶんと、お世話になりました。花咲真理って言うんですけどね。その方が突然亡くなられて、とてもショックを受けました。でも、そうです、私はやはりどうもしなかった」

 かっと月森は瞬間目を見開いた。顔は伏せたままだったし、すぐに憂いを帯びた表情に戻る。

「佐藤先輩の場合会おうと思えば会えるわけですから、話はまったく違うんですけどね。泣いて、喚いて、怒って、だけど――」

 やはりどうもしなかったのですと、月森はつぶやく。

「何も感じなかったというわけじゃないじゃないか」
「それが余計によくないと」
「何が」
「悲しんでおいて、何ですか。どうもしない。薄情なんじゃないかと。泣くだけならいくらでも泣けます。そのうち泣き疲れるかもしれませんが、それだけなんです」

 佐藤はそれきり、押し黙ってしまう。

 月森はそっとうなだれ、下唇を甘く噛んだ。

 やがて、佐藤の言葉があった。

「火葬というのはだ」

 は、と月森が吐息をもらす。

「仏教に由来する。始祖、仏陀が火葬されたことから今の日本、火葬が一般的だ。けどちょっと日本人という立場から離れてみると残虐な葬儀の方法だ。それに昔から費用がかさむ。もちろん火が神聖であるという思想があることからも、鳥葬など動物に食べさせるほどではないだろうが、忌避感はどうしてもある。それがないのはやはり、生まれた時からの慣れだろう。まあこれはいい。衛生的に理に適っているところがあるのだから。――ではどうして一緒に焼いてしまわないのだろうか。そのほうが明らかに効率がいい」
「そんなの」

 月森は原爆の学習を思い出す。さまざまな凄惨な写真を見た。さまざまな体験を聞いた。そして、さまざまな話を聞いた。話によれば、人々が積まれ、ゴミのように焼かれていたのだ。数人が軽く手を合わせるだけで、焼かれていく、もちろん死体など扱いたいはずがないからやる側も嫌な顔だ。しかたのないことかもしれない。

 だが憤らないのは違うし、実際憤った。

「そう。人の尊厳を無視していると文句があるだろう。文句というか、糾弾が適切か。ともかく、心情の上で問題がある。もはやあれはモノだと突っぱねる手もあるが、あまりに平行線だし、貧しさの象徴となりうる。物質的なものもあるが、精神的に。つまり、葬式を行う意味はそこにあり、きみの疑問もそきにあると思う」

 これから、長い、説明がつづいた。

 だが、月森は聞き入り、繋がりを、言葉の取捨選択を、ひとつひとつ咀嚼した。

 昨日の佐藤を、期待したのだ。

「あるインターネットでの話がある。マイナなウェブサイトがあった。そこは日記や自作の曲がメインのサイトで、ある日管理者でありコンテンツを作っていた青年が死んだ。彼の妹は兄がウェブサイトを運営していることを知っており、時々管理も任されていた。ゆえに、日記にて彼の訃報を知らせ、サイトの閉鎖も宣言しようとした。そうして幕を閉じようとしたんだ。――ところが」

 佐藤の声の調子が上がる。

「彼の生存を信じるメールが、掲示板の書き込みが、ウェブサイトへのリンクが彼女の元へ届き続ける。インターネット上、彼は生き続けたのだ。誰ぞの寄付でサーバーが買い取られ、ほぼ永遠にサイトが残ることになったし、メールも掲示板の書き込みも削除できない。技術的な話でなく、さも青年が生きているかのような扱いであるために、削除できない。この時の青年の妹の気持ちがわかるだろうか。兄の幽霊とも言うべき存在が、インターネット上に居座り始めたんだよ」

「でも、死んでます。それに更新されなければ、死んでるって」

「妹が更新し続けたとしたら? 曲は無理でも、日記なら可能だ。そして画面の向こうの人々は、まずわからない。――このように、情報の錯誤が起きる。もちろん事実は違うが、人々がその事実をそのまま受け取れるとは限らない。ああ、気持ちが悪いことだ。彼の過去の生存が証明されると同時、現在の生存も証明しなければならない。いわば人間のアイデンティティに関わる問題だ。人の死とは一体何なのか。決して肉体だけの話ではない。俺たちの肉体は細胞が日々死に、また生まれている。眠り、起きるたびに生まれ変わっていることになりかねない。ただしあくまで一個人には違いない。昨日の月森結衣と今日の月森結衣が違うなどとは思いたくない。なぜなら記憶があるからだ。ならば、他人の記憶という情報がある以上、ある意味青年は生きている。死体となり灰となろうとも」

「なんですかそれは」

 月森が少しも怒りや苛立ちを隠さず、憤りながら言った。

「幻想だ。青年が生きているなどという幻想が、客観的に幽霊を生み出している。ただしきみのように、そして青年の妹のように、混乱する人もいるのも確かだ。ゆえに、ここで葬式を持ってこよう。その混乱と不安を、解消しよう。清算を――」

 瞬間、佐藤の周囲が重圧を抱いたかのようだった。

「――することにしよう。幽霊を消そう。ハナサキマリという人物は死んだ。その残滓は何だろう。きみが気にするものは何だろう。聞いていると謝りたがっているように思う。世話になって恩返しできないことが気に入らないのだろうか。それはそれでいいが、ひとつだけ言っておく。
 いかにハナサキマリの残滓がきみの中に残っていても、それはきみの自意識が作り出した幻想だ。否定はしてはならない。が、幽霊など存在しない。きみが必要とするからいる。きみが何かで悩み、それを解消するために幽霊を望むだけだ。きみの記憶と悔恨というハナサキマリの残滓と特定の魂、つまりハナサキマリの霊魂であるなどと取り違えないことだ。先のインターネットの幽霊の話のように、いかに存在しているかのように周囲が動き、また生前の行為が他人の記憶に息づいていたところで、彼が生きているような気がするだけで、実際は生きていない」

「そんなこと」

 月森の言葉尻に被せて佐藤がつづけた。

「ないと、言うか。しかし青年の妹を思ってみるとどうだ? 彼女は兄が死んだと知っていつつも周囲の暴走によって混乱した。きみのはそれほどとは言わないが、さもハナサキマリが生きているかのように考えていないか?」

「それは……」

 月森は言い返せず、言葉を濁す。

 ――先生のためと言うつもりは決してないけれど、

 月森の思考回路は花咲真理の意志、否、遺志は確実に認めている。ただし月森にとっては正しく『意志』だった。

「幽霊でも見たか? 声でも聞いたか? きみという意識が存在するように、ハナサキマリの生存を事実としてしまったことがあるのか?」
「それは――いいえ」

 月森はきっぱりと否定した。当然だ。そのような経験は一切ない。

 すると、佐藤の圧が緩んだ気がした。

「それで、どうしてきみが悲しむだけではいけない?」

 言われ、月森は唇を噛みしめ涙を目に溜めた。泣きそうになっていることを気づかれたくなくて、何度もまばたきをする。

 よかった、と思うのと、うれしい、という思いが同時にある。『もや』はずいぶんと消えてしまったし、佐藤が期待以上に応えてくれたのが喜ばしい。

 まもなく涙の気配が消えると、月森は佐藤を見つめ、微笑んだ。

「ええ――。そうですね」

 月森は言い、右方に視線をそらす。


「でも――ただ、復讐するってどういうことなのでしょうね」


 月森はしみじみと言い終えてから、発言の飛躍に気づいた。おおげさなくらい呆然とするも、佐藤のほうだって眉をひそめている。

「何か、あるのか?」

 佐藤が言うので、月森は苦笑を浮かべる。

「えっとですね、自分でもよくわからないんですけれど、ええ、事件のことなんですけど、やっぱり復讐なのかなって」
「やっぱり?」

「ああそうですよね」と、月森は自分を恥じてから、言葉をつづけた。

「――あんなふうに人を殺すのなら、やっぱり何かを怒ってのことだと思って。ただ誰かを殺すんじゃなくて、それを誇示するようにあんな真似をしてみせた。そのくせ名乗りでることがないのは、やっぱり理不尽な怒りなのでしょうけど。そうしたら、つい、復讐と言ってしまったんです」

 ふむ、と佐藤が間を取った後、告げた。

「まったくわからない」
「ええ?」
「論理立てはまったく理解しがたいから、質問するが、動機が復讐だと?」
「そうです」
「疑問点はいくつもある。また反論がいくつもある。――が、復讐という動機を否定するものではない」
「えっと、それはつまり」
「ニュース見た程度の高校生に動機など確証できるわけがないだろう」

 佐藤がしかめっ面を作る。

 月森はあはは、と力なく笑った。

「だからあくまできみのその発想を検討するに留めよう。――復讐ね。月森君、さしあたって仕返しという観念か? ある人物に恨みがあり、生前の悪行を焼死体にするという残虐な方法で証明した。死んだ人間にはやはり痛くもかゆくもない所業だが、本人は彼の『遺志』を認めるがゆえにそれで満足できると思っていた」
「満足、できませんか?」
「死んでいる」

 佐藤が端的に言い切った。

 それはそうだ、と月森は納得。

「ただし以前の自分の気持ちを否定しきるにはいたらず、『もや』を抱えることになるだろう。これが、そのまま恨みを動機とした場合だ。ただしそれからも犯人はそれまでどおり生きていくつもりらしいから、工作は行われた。もしくは繰り返すつもりがあるからだろうが、このケースは『もや』を突き止められなければ次に移れないだろうし、『もや』を正しく理解すれば次に移らない。唯一『もや』を誤解した場合のみ、暴走する」

「でも、ですよ?」月森はふいにわいた疑問を口にする。「復讐は美徳なところがありませんか? ほら、忠臣蔵とか」

「チョイスが渋いな」佐藤が苦笑。ややあって、月森の疑問に答えた。「復讐の亜種みたいなものだな。いわば世直しだ。個人的なものから社会的なもの、政治的なものまである。復讐されるような人間で、生前の悪行を証明。殺されてもしかたなかったんだというメッセージであるか、殺されるべきであったというメッセージ。

 世直しになるのではないか、という点が美徳か。正義をもって悪を倒す、なんて子供じみた論理が好きなのだ、きっと」

「佐藤先輩の話だとそもそも復讐を否定していますけど、それじゃあ」

 月森は顔をあげて訴えかける。

「復讐は何があってもしてはいけないことなのでしょうか? そうだとして――――、復讐の本質とは、一体何なのでしょう?」

 佐藤からそのことについて何の返答もなかった。




[20298] 『街灯下の幽霊』 ※簡易
Name: しじま◆5654787d ID:1d8f7faa
Date: 2010/07/17 15:46
 月森の実家は山間にある。交通の便がことさら悪いわけではないが、夏だと田園風景がそこらに転がっているし、舗装されていない地面がむき出しの道路が多くあるし、店舗はコンビニを一軒持つばかりで、自転車を長距離こぐか、車で移動するよりない傾向はある。

 夜道、月森は帰路をたどりながら佐藤との会話と、自らの考えをつきあわせていた。

 佐藤は復讐を肯定はしなかった。むしろ否定した。

 けれど月森の中には、復讐を肯定する気持ちは大いにある。恋人を殺されて、という筋書きの映画や小説は好きだし、感動する。一方月森も誰かに復讐ほど大仰なものではないが、仕返ししてやりたくなったことは何度もある。

 泣き寝入りになるのではないか、と思えばますますその気持ちは強くなろうというものだ。

 聖人君子になれるものならなりたいと月森は思う。

 けれど現実、傷つけられて耐えていられるとは思えない。傷つけられても耐えつづけるのは、何の進歩があるというのだろうか。

 だから相手を傷つけて何かなるわけでもないというのも、知っている。

 ならばどうしてフィクションのキャラクタたちは、復讐に邁進するというのだろうか。創作だけれど、神や人外によるものでなく、人によって作られたものだ。

 月森の視線はいつの間にか下がり、足先から三十センチの地面を見つづけるばかりだ。

 復讐を終えても生じる『もや』には、理解している、と思う。たとえば相手の財産を奪って自分のものにしてみたところで、『もや』はあるだろう。

 それは自分にも人に復讐される余地を残すから?

 誰かから奪うだけの非生産的なことだから?

 過去の自分はすでに死人と同じだから?

 どれについても、違う、と月森の心は否定する。そして、その意気で顔を上げて正面を見た。そして奇妙なものを見て、足が止まる。

 街灯の向こう、薄ぼんやりとした道に、淡く光るものがあった。

 たちまち月森はそれを認識し、過去の記憶と照らし合わせる。

 短めの黒髪に標準的な体躯、ただひとつ一般から外れるのは、すべてを見透かすような『灰色の瞳』。遠目だが、灰色であることを月森は確信した。

「先生……」

 『彼女』は月森の背後へと焦点をあわせていて、かつ無表情であるため、超俗的な印象が強かった。また妙に体が光っている。

 そのような彼女は見たことがなかった。

 しかし、間違いなく、二年前死んだはずの、花咲真理の姿だった。

 目まぐるしい思考が流れ、すぐに自責の念が芽生えた。

 ――幽霊を望むから、

 佐藤はそう言った。

 月森は復讐を憎む一方、復讐を自分が望んでいるという矛盾に、ひとつの結論を明確に思いかける。

 ――いけない。

 月森は自分の頭から邪念を振り払う。

 そう、邪念だ。月森にとって結果的に害をなすものでしかない。

 月森は決心と覚悟をもって、花咲真理の像へと近づいた。きっとそう見えているだけの『光の像』なのだと思いつつ、近づいていく。

 まもなく街灯の明かりの下まで近寄り、残り二メートルにもなろうとしていた。

 だが、花咲真理の像は消えない。

 月森は直前で、手を伸ばすことをためらった。

 見えているということはつまり自分が望んでいるということで、確かに触れられないかもしれないが、幻聴というのは聞く話だ。

 灰色にしておいたほうがいいのではないか。

 ホラー映画ではいつもそうだ。確かめなければ、その場からすぐに逃げ出していれば、何事もなく日常へと戻る。見ていていつもそう思われるものだ。

 そして、月森がためらっている間に、花咲真理の像は消えた。

 月森は安堵した。けれどすぐに自己嫌悪に陥る。

「佐藤、先輩……」

 かつて頼っていた二人ともと、月森はずいぶん会わないでいる。一人は花咲真理で、これは当然のこと。もう一人は父の弟である叔父になるが、ある事情で月森の側からも、叔父の側からも関係を絶っている。

 だから気づけば、佐藤の名を呼んでいた。中学からの友人でもなく、高校に入ってからの親友でもなく、つい最近親しくなった程度の異性の先輩の名を呼んだのだ。


「いやらしい」


 月森は眉を詰めつつ、自分の体を浅く抱きしめた。





[20298] 間章『父の書斎』   
Name: しじま◆5654787d ID:1d8f7faa
Date: 2010/07/19 20:18
 錆色のドアが閉まる。

 室内は外界からの明かりをさえぎり、また明かりを持たない。

 真の暗闇の中を明かりもなしに歩く人影がひとつ。

 真っ直ぐ彼は突き進み、ドアから正面奥にある机へとたどりつく。

 明かりがつく。

 机を中心として室内が淡い光に照らされる。

 机はアンティークのレプリカだった。漆で演出される深みのある黒茶色と、全体的にほどこされた大人しめの彫刻とが重厚な雰囲気をかもし出している。

 佐藤は机の電球に照らされながら、黒革の張られたイスに座る。

 そして五分、じっと待った。

 五分経過するのを机上のアナログ時計で確認すると、佐藤は机の上のものをすべてサイドテーブルへ移す。すべて移し終えると、今度は棚を収納しはじめた。折りたためるような仕様になっており、留め金を外しつつ、二段あった棚を一枚の板へと変形させた。棚に付属するようについていた電球とそのカバーは一度収納されるが、サイドテーブルに置いておいたスタンドライトで明かりの役目は果たされる。

 少年は天板の隅に指をかける。はじめ試しに力をこめ、わずかに天板が上へと開く。開くことを確信し、今度はしっかり力をこめて天板を持ち上げる。

 天板が開き、隠されていた空間が外気にさらされる。そして、隠されていた一台のノートパソコンが姿を現した。

 少年、佐藤正義(さとう・まさよし)はノートパソコンを起動させ、まもなくひとつのアプリを起動。ネット回線に接続し、外界とアクセス。

 灰色の枠で縁取られた黒いウィンドウが画面に現れ、すぐに働き始める。

 新たにログインのためのウィンドウが自動的に開く。ユーザー名とパスワードを打ち込めば、システムに入ることができた。

 J、というハンドルネームが佐藤に与えられたハンドルだ。

 サイドテーブルの時計は午後十一時五十分を指し示している。

 ポップな電子音と同時、ログインする者がいた。

 C、というハンドルネーム。

 佐藤は入力欄にメッセージを打ち込み、送信。

 基本、チャットのアプリなのだ。

>J:お久しぶりです
>C:....

 Cは確かにログインしているが、反応は鈍く、返事までに七秒かかった。

>C:理由

 簡潔で、そっけなささえ感じさせる。
 佐藤はすぐさま返事を打ち込む。

>J:死体遺棄の件について』

 今度はレスが早かった。二秒である。

>C:理由
>J:そちらの知っている通りです
>C:根拠はない
>J:不自然な点がいくつか
>C:....
>J:ひとつは事件の捜査が滞っている点
>C:....
>C:いくつか
>J:もうひとつは捜査情報のもれが異様に早かった点です
>C:無根拠
>J:月森結衣


 間があく。


>C:不足
>J:復讐
>J:....
>C:了解
>C:何を望む?
>C:....
>J:月森結衣の過去を。何らかの事件に関与していないかについてを。
>C:弊害有
>C:追加
>J:出世払いでいかがでしょう
>C:不足
>C:追求の必要性ではない
>C:きみである必要だ
>J:一人の先輩として、かわいい後輩のささいな悩みを解きほぐてあげるために
>C:焼死
>C:訂正。笑止
>J:本当ですよ
>J:管理会社が関わっているとなれば
>C:要根拠
>J:そちらが把握していることが根拠となりえます
>C:無意味
>J:そうですね
>J:失礼しました
>J:正直申し上げて、わがままです
>J:けれど可能性がある以上
>J:僕が動いて損はありません
>J:どうでしょうか
>C:....
>J:もしもし?
>C:……
>C:目星はつけている
>C:ただ利用方法について計りかねている
>C:そもそも確証がない
>C:まだ動けない
>C:動くべきでない
>J:では僕はどうでしょう
>C:きみは財産だ
>C:悪い意味ではない
>J:わかっています。うれしい御言葉だと思います

>J:ですが、自分で調べるしかなさそうです

 佐藤はCの反応を待った。

 これはあかさらまな脅しだ。

 今までの誠意の分だけ、応えてもらえるものである。

 もちろん信頼をうしなうが、それでこそ出世払いだと佐藤は思う。

 ちらりと時計を見ると、時刻は午後十一時五十八分。時間がない、と佐藤は内心焦りつつも、チャットで発言は控えた。

「さあ……、どうです?」

 問えば、反応があった。

>C:きみを信じていないわけではない。きみの稀有な能力は十分知っている
>C:また情報をいたずらに扱ったりもらしたりすると思っていたわけではない
>C:でなければ我々はきみを必要としない
>C:わかってほしい。詳しく明かせないが、すでに多くを失っている我々だ。
>C:失うことの辛さはきみとて理解していると思う

「いやな言い方ですが」

 佐藤は苦笑。


「それでこそあなただと、俺も思います」


>C:まして我々は大義のために動く者たちだ
>C:その前の小事とて忘れない。が、囚われてもいない
>C:常に動かなければならない
>C:そういうことなのだと、勝手に思っておこう

 佐藤はとどめを刺すことにして、メッセージを送信。

>J:ありがとうございます

 Cは沈黙し、佐藤もまた沈黙しつづけた。

 そして午前十二時が訪れる。

 JもCも強制ログアウトとなり、チャットのアプリも閉じてしまう。

 だが一方、別のアプリが働き始め、新たに小さなウィンドウが開く。

 メールを受信しています、という文字とともに目盛りが埋まっていく。

 一分もすればメールを受信しました、というメッセージに切り替わる。

 佐藤はパソコンのシステムそのものにログインし、管理ユーザーとなる。このパソコンについてすべての権限を持ったというわけだ。

 ユーザー画面からメール画面へと切り替え、Cから送信されたメールを閲覧する。添付ファイルにPDFファイルがあった。

 表題に『極秘資料』とあり、ファイルを展開すれば月森結衣に関する捜査資料を見ることができた。

 月森結衣自身の経歴がまずある。そして親類に関する資料があり、その中にピックアップされた資料がある。

 月森の父の弟、つまり叔父である瀬田和馬という人物のものである。

 二年前の七月十六日、事故を起こしているようだ。

 事故の相手を見、佐藤は驚愕する。

 ――花咲真理、

 ハナサキマリだ。

 佐藤は月森の恩師であると確信する。

 机に肘をつき、頭を抱えた。顔には苦悩がありありと浮かんでいる。

 ――つまり、どういうことなのか。

 思考が泥の中にとらわれそうになった寸前、ポケットで携帯電話が振動する。

 すぐに振動は止んだところ、メールだ。

 佐藤は携帯電話を開き、メールを確認する。月森とメールアドレスを交換したばかりだ。確認のメールかとも思うが、またもや頭を悩ませることが書いてある。

『幽霊は本当にいないのでしょうか?』

 佐藤は彼女が意味もなくこんな質問をするとは思えなかった。家庭環境を調査した資料からも、そう推測される。

 議論が好きというより、彼女は優越感を持ちたがっている。人として、それは自然なことだ。ただし気をつけておくべきことがある。

 ――純粋に議論が好きということはありえないのだ。

 それはごまかしだ、と佐藤はかつての自分と重ねあわせる。

「さて……」

 佐藤は携帯電話をサイドテーブルに置くと、パソコンを切り、天板も閉じる。棚も元に戻すと、イスに深く座り込んだ。

 摩擦もむなしく、徐々に尻がずり落ちていく。ちょうど、イスに飲まれていくかのようだ。

 佐藤はイスから落ちる前に足を突っ張ると、サイドテーブルの上の携帯電話をうろんげに見やる。

「どうしたものかね」

 薄暗い部屋の中、佐藤は瞑想するように思考にふけりはじめた。



[20298] 『教師と生徒、危険な関係』 
Name: しじま◆5654787d ID:1d8f7faa
Date: 2010/07/19 20:18
 携帯電話がある。

 淡い水色で、折りたたみ式。

 充電は目一杯してあり、アンテナの状態も良い。

 その持ち主は今、ベッドに仰向けになって転んでいる。

 視線はほとんど常に携帯電話へと注がれている。

 だがそうしていたところで返信が早く来るわけでもなかった。

 やがて再び、月森は眠りに落ちる。


 ◇ ◇ ◇


 午前七時、外で鳥の鳴き声がしていた。

 月森はまどろみの中、それを聞く。何という鳥かは知らないし、鳴き声さえ初めて聞いたような気がする。

 ふいにまどろみが吹き飛んだ。

 不思議なもので、佐藤へのメールを思い出したのだ。

 月森は慌てて周囲を探して、携帯電話を手に取る。そして開くと、一件のメールを受信していた。『佐藤先輩』とある。サブジェクトは『月森君へ』だ。

 すぐにメールを開くと、簡素な文面が書いてあった。

『いないことは証明できない。だがいたという信頼できる証明いまだかつてはされていない。そして幽霊を認めないこともできる』

 わかるような、わからないような言葉だ。月森は問いただそうと返信を選択、決定するが、右上の時計表示に気づいて苦い顔をした。

 メールを連発していられるような時間ではない。

 そして月森は、半日以上日常に埋没する。


 ◇ ◇ ◇



 英語の筆記の授業が終わると、木嶋が教壇上から月森を呼んだ。

「月森さん」

 月森は顔を上げると、教材とノートを胸に抱えつつ、教壇へと近寄る。

 木嶋悠一はほぼ毎日純白スーツだ。シャツの色の変化があるため新郎の印象がまだ和らいでいるが、それでも遠目だったり一目だったりすると新郎の格好のようだ。

 ついでにいつも微笑を口元にたたえているので、結婚したて、なんて連想も浮かぶ。

「放課後、大丈夫ですか? 少し話したいことがあります」
「は、い――。わかりました」
「ではホームルームの後、相談室に」

 木嶋は微笑をひとつ残し、教室を去った。

 月森は彼が出て行くまでを見送り、自分の席に戻って次の授業の準備にかかる。

 そのかたわら、呼び出される心当たりはないか考えていた。宿題も提出したし宿題に落ち度はないはずだし授業は真面目に受けたし――、思いつかなかった。

 ささいな疑問は日常生活に埋没していくもので、ただ呼び出されたという事実だけを心に留めておいた。

 そして放課後、月森は教室に鞄を残して相談室を訪れた。

 相談室のドアを前にし、少しの間立ち尽くす。また落ち着かず、左右に首を振り、辺りをうかがった。

 相談室があるのは教科準備室や空き教室がほとんどの四階だ。訪れる機会はまずない。唯一天文部の部室があるけれど、彼らの活動時間は日数的にも時間的にも限られている。ちなみに今日、もっと言えば現在、その枠の中ではない。

 ただ一人、誰もいない区域に来てしまったかのようだ。そう思い、月森はやはり落ち着かない。誰かいてほしいが、誰かに見られるのは妙な感じがする。

 ――なんて、どうしようもないじゃない。

 無為な考え事と片付け、月森はドアを控え目にノックする。中からかすかに返事が聞こえ、失礼しますと断りながら入室した。

 相談室は膝くらいの高さのガラステーブルがひとつある。そしてそれを挟んで二つずつ、角ばったデザインをした青色のソファがある。

 木嶋は入って右側のソファに座っており、月森には対面のソファを勧めた。

 月森は木嶋のうながしに従い、体面の手前側のソファに座る。思ったより反発が少なく、腰がやや沈みすぎる。少々落ち着かない。

「呼び出してすみませんでしたね。しかもこんなところ。でも、臨時ですからこんな場所しか設けられないんですよ。――ええ」

 照れ笑いとごまかしにうなずきを交えつつ、木嶋が話しはじめた。

「しかし、なんですね。いざ教師になってみると学生だったころとはやはり違う。教師というものが間近に見え、よい部分も汚い部分も一度に見えてしまう。ただ、ほとんどの同僚に見るのは、貧しい、という思いですよね」

 木嶋がソファの肘掛に頬杖をつく。顔は苦笑のままだ。

「職人と商人がせめぎあっているのはいいのですよ。教師として思う理想像と、現実につきあわなければならない制約された自分相反してしかるべきです。また職人のふりをした商人も構わないと思います。私がおおよそそうです。まだ自由業気分が抜けていないのでいろいろ思ったことをそのまま出していますが。ええ」

 木嶋は足を組み、背を後ろへとそらす。唇は一時結ばれるも、すぐに言葉を紡ぎはじめる。

「逆もしかりです。商人のふりをした職人。――むしろ誰かにとっては理想像かもしれません。中身は職人で、そのための方法として商人という形態を取っていると思われるのですから。ただ気になるのは、貧しさが目につく職人ですね。真実は商人なのか職人の意識を持つのか知りませんが、どちらにせよ学生にとって迷惑な存在でしょう。あまりに柔軟性に欠ける。世間から批判の的になる、公務員像です。彼らは、何でしょうね、およそ世間一般と観念を取り違えてる。五十過ぎた教員に多いですねこういうの。五十過ぎた教員のほとんど、というわけではありませんが。
 生徒に嫌われてる職人――あえてこう呼びますが――が取り違えている観念は二つ。厳しさと、教育です。
 厳しければいい、というわけではない――というのはやはり違う。二重否定だからって肯定しているわけではありません。ただ、厳しいというのはどういうことなのかとね。もしわかっていて己のやり方に固執するなら、教育というのを勘違いしている。
 教育とは何たるか。別に教師を志していたわけじゃない私が語るのはおこがましいですが、これではないと否定できます。こうするといいこうしなさいこうするべきだ――。こんなことを教えるのが教育ではありません。仮に教育というのが知識、教養、道徳を身につけさせるものだとして、イコール言葉として伝えることではありません。言葉を伝えて、そういうものがあることを教えることはできますが、身につけさせることはできません」

 木嶋が嘲り笑いを浮かべる。

「だって――ですよ。人殺しを言葉で伝えて、させられますか? 少年兵士少女兵士がいますが、教育ではないでしょう、あれは」

 木嶋は明言しなかったが、月森は明確にその言葉を頭に浮かべていた。

 ――洗脳、と。たぶんそう呼ぶ。

「人殺しと、知識や道徳は違う。そう言われるものかもしれませんが、本来自然には身につかないものを身につけさせるのが教育だったでしょう。意志があっても道具がなければ学べません。長い年月をかけて学ぶのは、それは自然です。

 学ぶのを拒否する学生もいます。そういう生徒に一体どうします? 彼らにとって人殺しと、勉強というものは程度の差こそあれ同じです。――学びたくない」

 月森は黙って、木嶋の話を聞いていた。そして理解し、自らの中の理屈とつき合わせ、取捨選択する。

 ――いま自分がこうして取捨選択しているのも、木嶋の言う教育ではないだろうか。

 月森は直感でそう思う。

「そこを興味を持たせて学ばせるのが教師と反論されるかもしれません。人殺しはまあそもそも法律とか倫理とかに抵触しますが」

 木嶋は喉の奥で笑う。

 月森は困り笑いを浮かべ、あえてつっこまなかった。

「冗談です」

 と木嶋は場をとりなして、話をつづけた。

「でも、学生に嫌われるような教師というのはそもそもそんなこと忘れているのではないかと思うんですよ。意識的に見ていないと言っていい。一辺倒の方法に固執して、目的というか概念を忘れている。まるで老害です。――年配の教師がそうした傾向を持つのは、楽だからでしょうねえ。同じことをつづけていれば、それは楽でしょう。そのことによって起きる軋轢も摩擦も怒ってしまえばいい」

 木嶋が語り終えたようで、ソファに深くもたれた。

 月森はそれを見て、ようやく発言をする。

「あの、興味深くはあったのですけど、そんな話をされたかったのですか?」
「え? いやいや違いますよ」

 木嶋が背もたれから背をはがし、伸ばす。

「話のクッションというか。かなりハードになってしまいました。――いけませんね、少々腹が立つことがあって知らず、グチを言ってしまっていました。まったくいけないことです」

 木嶋は微笑み、言葉をつづけた。

「月森さんにこのようなことを話しても構わないというのも、いけないことです。私もきみを、特別視してしまっている」

 月森はそう言われ、悪い気はしなかった。むしろその場は気分がいい。けれど、期待は――、

「けど教師たるもの特別視はいけませんね。同様に何かの記号にしてしまうのもよくない。――楽ですが」

 期待は、払拭された。それも貶められない形で、である。

 月森は、ほ、と息を抑え目につく。

 そうです、と木嶋が言う。

「そもそもこういうのがよくないと思ったからきみを呼んだのです。そして、話をしてみる必要があるかと思った」

「――は?」

 月森が嫌味にならないよう聞き返すと、木嶋が笑みのまま二度うなずく。

「あの、事件から――、どうです?」

 どうです、と問われても、月森は答える言葉を持たない。だか答えなければならない。だから、パターンを語った。

「その時はショックも受けましたが、特に大事になったということはありません。私は事件に関して、たまたま見てしまい、事情聴取を受けたくらいですし、ショックというのも尾を引くものではありませんでした。きちんとカウンセリングも受けましたし、問題ありません」

「そうですか。それは――よかった」

 木嶋が心底安心したような顔をする。かと思えば、神妙な顔になった。つづく言葉もあって、月森は変化についていけなくなり、戸惑う。

「なんて言うかと思いました? ――ふふ、私の目は節穴ではありません」
「えっと」

 月森は困り、視線をよそへやった。

 すると木嶋がまくし立てる。

「化粧でクマを隠すことがあったのもわかっています。肌つやが落ちたこともありましたしあくびをすることが増えもしましたね。それに考え事をすることが多くなり、注意力散漫な傾向もあった。何より目がですね、こう、とろんとするというか――」

 わあ気持ち悪い、と月森は笑顔で思った。できることなら言ってやりたい。先生気持ち悪い、と。

 ただ自分は生徒で、相手は教師である。敬意というのは無闇に相手を蔑まないところにある。

 でも心中やはり、気持ち悪い、と思う。

「――どうです?」

「どうと言われましても。気持ち悪いです」

 あ、言っちゃった、と月森は笑みのまま思う。

 ――どうしよう。

「気持ち悪い」

 木嶋が復唱する。顔は笑顔。

 あれ、と月森が思うと、

「いややっとフランクになってくれましたね。こんなにうれしいことはありません。今日はどうしましょう、ちょっと夕食を奮発してですね――」

「あの、木嶋先生?」

「はい?」

 木嶋が拳を握り締めたまま、月森を見る。

 月森は苦笑しつつ、

「えっと、どういう?」

 身の危険を感じていた。

「ええ、そうですね」

 木嶋が拳を解き、手を膝へやる。視線は落として、

「率直なところ月森さん、何か問題を抱えているのではないかと思いまして。悩みとか、不安とか。自分で解決すべきこと、プロに任せること、いろいろ私が関わる必要のないことかもしれませんが、何か私に要望があれば聞きましょう」

「……いえ、何も」

 月森は笑顔で答えた。

「うん、そうですか? ――では、少し話をしましょうか」

 月森は半眼になり、木嶋のネクタイへと視線を落とした。水で溶いたかのような赤色だ。

「ここに赴任した際、初めのあいさつで私が話したこと、覚えていますか?」

 月森はええ、と小さくうなずいた。

「たぶん、半数以上の人が驚いたと思いますから。先生も含めて」

「おかげで好意的な人とそうでない人がはっきりとわかれて大変わかりやすく、またやりやすいです」

 木嶋は笑みとともに感想を述べると、本題に軌道修正する。

「物事の価値というのがすべてを決めます。要はたったこれだけのことを伝えたかった」

 木嶋が息をつき、それから天井を一時仰ぐ。

「価値なき行動はありません。常識、功利、本能、妄想。いずれかで行動し、いずれかの行動がその行動をする人の中で力を持ちます。善悪はありません。そんなものに囚われていてはいけない。そうでしょう、月森さん?」

 月森はしばし言葉に困ったけれど、悩んだ末思いついたことを口にした。

「ですが先生、善悪は価値ではありませんか?」

「それはあなたのものの見方です。およそ善悪の価値は文明人を『自称』する人々にとって大事ですが、紛争や戦争、独自の部族社会の中にいる人々にも同じ善悪を適用できるかどうか。善悪なんてもの、と否定する人もいます。私もその一人。これは善悪の灰色加減が生み出すことです。何が悪い、何が良い、という絶対基準がありませんから。そこで線引きを行い、良い悪いを勝手に決めているにすぎない。国家が最たるところです」

「先生、そんな――」

「ええ、月森さんの言わんとするところはわかっています。ですが保留しましょう。本筋からそれます」

 木嶋が困った顔をして、それからあごを手でさすりはじめる。

「ううん、そうですねえ。否定されてしまったり誤解されてしまったりするかもしれませんが、簡単に結論を述べましょう」

 木嶋が開いた足と足の間で指を組む。顔も笑みが消え、神妙なものになり、独特の雰囲気が生じる。

 月森はその空気につられて、木嶋の次の言葉を聞きのがさまいとした。

「――自分の欲望のままに行動することです」

 わずかな間があり、そして、

「あひゃっ」

 下品な笑い声がした。

 むろん、月森のものである。

 ――失態だ。

 月森は恥じ入り、顔を伏せた。

 木嶋も顔を背けて忍び笑いをしている。

「いや……、何か言ったほうがいいでしょうか?」
「そっとしておいてください……」

 月森は目を閉じた上、拳を握る。

(情けない……)

 しばらく、気まずい時間が流れた。

 月森は帰ることを検討するが、部活動もある。帰るわけにはいかない。かといってこの場を辞する理由もほかにない。

 恐る恐る、木嶋の顔をうかがった。

 平常の微笑に、下品さがにじんでいる。

 それは月森のせいで、いまだ笑われているのだという実感が生じた。

「先生」
「はい」

 木嶋がいつもの微笑に戻る。

「ひとつだけ、訊きたいことがあります」

 木嶋が目に見えて陽気になる。

 月森は木嶋の挙動には言及せず、構わないものと受け取り、つづきを述べた。

「先生は誰かに復讐したいと思って、実際に何かしたことはありますか?」

「――いいえ」

 木嶋の微笑は、凍ってしまっているように動かない。

 そして、迷いのない返答だった。

 迷いがなさすぎる、と月森は思った。

「あの、復讐はおおげさすぎました。その、ちょっとした仕返しをしてしまったとか、そういう――」

「いいえ」

 木嶋の答えは揺るぎない。

 月森は木嶋から『圧』を感じた。自意識がそうさせたのだ。そして、押し黙ってしまう。

 木嶋が問う。

「月森さんは、誰かにそういう?」
「いいえ」

 月森もまた即答するのだった。

 それはつまり、木嶋にも同じ疑いをかけられかねないことだ。

 月森はしどろもどろ、言葉を重ねる。

「いえ、あの、その――。私がこんなことを訊いたのはですね、……いま誰かに怒りを感じてならないということでなく、あの事件のことで」

 ええ、と木嶋の相槌がある。

「あれは、復讐だったのではないかと思うのです」

 木嶋が瞬間だけ、目を細めた。

 月森はその挙動を見逃さなかった。けれど、驚きなのか感心なのか怒りなのかはわからない。何か強く思ったのには違いないが。

「なぜそのように?」

 月森はええ、と返事することで考える時間を稼いでから、

「あんなことをするのは、その殺された人の悪事の証明なんじゃないでしょうか。――いえ、これは受け売りですね。はじめに思ったきっかけは、そう、こんなひどいことをするのならよっぽのど理由があるだろうなって思って、ならそのよっぽどっていうのが、何かを恨みに思って、くらいしかないんじゃないかって思って……」

「それは、わかりません」

 木嶋が言う。

「月森さんはそうかもしれませんが、他人の価値観は計り知れないところがあります。ましてさきほども話したように、人は価値で動いています。その中に倫理や善意も含まれますが、同じように悪徳な悪意を是とするような価値観もまた、存在するのです」

「では先生」

 月森は真っ直ぐ木嶋の目を見つめた。

 目が合う。

 月森は喉を動かし、そして訊いた。

「復讐以外の理由がなぜあるのです? 悪事そのものを正しいとするのはなぜです? 復讐だってなぜしたのかは、本当のところわかりません。そもそも結果として見て、人殺しは理屈に合っていません」

 木嶋が足を組む。

「不合理なことを人間はしてしまうものですよ。そして、すべての人間が理解できるわけではありません」

(違う――。そうじゃない)

 月森は、この木嶋の発言を受けて諦めた。顔をうつむけ、言葉を止め、ここから去ることだけを考えはじめる。

 そして、あるひとつの投石を思いつく。

「ところで先生」

 木嶋が眉を吊り上げ驚いた様子の顔をする。

 月森は間を作った後、言葉をつづけた。

「御堂先輩とはどうなんですか?」

 木嶋が面白いくらい、顔を青ざめさせた。



[20298] 『ペンダント』
Name: しじま◆5654787d ID:1d8f7faa
Date: 2010/07/19 20:18

 月森は部室で道着に着替えると、敷地の隅にある射場へ向かう。

 射場はごく狭い。的までの距離を稼いだせいか、一度に三人が並んで射を行うのが精一杯だ。

 部員数は一年から三年を合計すると十一名。

 ただし全員が毎日部活動をしているわけではなく、実質半分の五名で活動している体だ。

 それが日常。

「えっと……」

 月森は射場の状況を目にし、言葉を失う。

 佐藤が手を後ろ手にして縛られた状態でイスに座らされていた。

 そして一年と二年の女子部員二人が佐藤を立ち挟み、かつ弄んでいる。

 月森は平手を額につきたて、あきれをジェスチャした。溜息もそえる。

 大仰な溜息に射場にいた全員が月森を見るとともに、部長である真行寺が弓を下げつつ、口を開く。

「や、月森さん」
「部長」

 月森は佐藤を見ることで説明をうながす。

 真行寺が、ああ、と言い、

「ちょっといま捕まえてんの」
「どうしてです?」
「うん……」

 真行寺が苦笑のまま言いよどみ、黙ってしまう。

 月森がいぶかしんでいれば、女子部員二人に髪を弄ばれた佐藤が発言する。

「ずばり不当逮捕だ月森君」

 佐藤が大真面目な顔をしているけれど、頬をつっつかれている滑稽さが勝る。

 月森は笑もうとする口元を隠しつつ、訊ねた。

「不当逮捕、ですか」
「現行犯なら逮捕権あんだってのバカヤロウ」

 真行寺が弓を持つ手を腰に当てる。

 佐藤がそちらをにらみ、言い返す。

「現行犯? ペンダントを拾ったにすぎないというのに、ひどい言いがかりだ。痴漢やセクハラというわけじゃないんだぞ」
「そう。明確な物証があんの」

 真行寺が佐藤の前に立ち、言葉の後に顔を突き合わせた。

 佐藤が噛み付くように反論。

「俺が盗んだ場合と、俺が拾った場合とのあの状況での差はない。不確定だ」
「怪しいとは認める?」
「疑うのは不自然ではない」

 射場に不穏な空気が生じる。

(気持ち悪い)

 月森は口元に手をやる意味を変える。

 不穏な空気が気持ち悪いのではない。

 ――嘘を感じたのだ。

 佐藤の盗んでいないという発言にか。

 真行寺が疑っているらしいことにか。

 可能性などいくらでもあって、消去法も使えない。ゆえに、わからない。
 ただ、行動はしておこうと思ったのだ。

「あの」

 佐藤と真行寺の目が、月森を向く。

「どう、なっているんです?」
「佐藤先輩がさ」

 一年の女子部員、牧野あやめが言う。

「月森さんのペンダント持ってるとこを部長が見つけてね。――で、今に至る」


 端折られたが、おおよその想像はつく。

 真行寺の実力行使によって佐藤は射場に連れ込まれ、イスに縛りつけられた。

 本当のことを言うまで、と息巻く真行寺と、本当だと話し、一方でいずれ帰ることができると高をくくる佐藤という構図。

「はい」

 と、牧野からペンダントが手渡される。

 十字架にすがりつく天使のペンダントである。

 月森のものにおよそ間違いなく、月森は手の中に握り締める。それから、佐藤と真行寺らにそれぞれ、視線を回す。

 常識的に、言うべきはまず真行寺だ。

「あの、佐藤先輩が盗むなんてまず考えられないと思うんです。これは、一週間前くらいになくしてしまったものなんです」
「なくした?」

 真行寺の反応に不審を感じつつも、月森はうなずいて答えた。

「はい。――あと、部室の前で私のペンダントを持って、佐藤先輩は何をしていたっていんでしょう」

 月森は微笑み、喋りつづける。

「そもそも、どうして佐藤先輩が盗むんでしょう? 佐藤先輩が私のことを大好きっていうならわからないでもありませんが」

 月森は佐藤に近づき、顔を覗き込む。

 顔を赤らめるどころか、仏頂面になった。

 かわいくないものだと思いつつ、月森は背筋を伸ばす。

「まったくそんな様子がありません」
「いや、かわいらしい後輩だと思っているが?」
「ではちょっとは楽しそうにしてください」

 佐藤が邪悪な笑いを浮かべる。

「結構です」

 月森は顔を背けつつそう言うと、一息を挟む。そして意を決して、真行寺と佐藤に告げた。

「――なんなんです、この茶番は」

 短い沈黙。

 そして、ささやかな笑い声が場にいる全員からもれた。

 二年の男子部員・徳川勇馬が一人我関せずと射をつづけていたけれど、彼が一番大きな声で笑った。そして彼が言う。

「佐藤君の提案だよ」
「は?」
「どっきりどっきり」

 楽しげに言うと、徳川は再び射に戻る。

 月森は怪訝な顔をつくり、佐藤を見る。

 佐藤は目が合うが、挑発的の小首を傾げる仕草を見せた。

「きみを試したのだ」
「なんですかその苦しい言い訳。何がしたかったんですか」

 月森は佐藤を蔑む目で見る。

 月森を除く、弓道部女子の三人が笑う。

 月森は笑われた抗議の相手に迷い、ややって真行寺に決めた。

「部長。こんな悪ふざけに乗るなんて」
「え? あ、うん。まあ、ね」

 真行寺がばつの悪そうな表情を浮かべるも、まもなく軽薄な笑みになる。

「いやでもほら、なんかすっとしなかった?」
「大変気分が悪いです」

 笑い声が再びわく。

 月森はますます顔をしかめた。

「ほらほら。綺麗な顔をそんなにしちゃだめですよう」

 牧野が月森の背後からいつの間にか近づき、月森の両肩を抱きすくめる。

 月森は小さな悲鳴の後、二重の意味で牧野を睨む。

 牧野は真行寺の肩を握ったまま顔を背けたが、すぐに笑顔を向ける。

「ほら、元凶さんはあの通り」

 牧野が手の平で指し示した先、なるほど、佐藤がいる。

 手がイスの背の後ろで縛られ、機敏な動きが不可能な状態だ。

「ああ……」

 月森は艶のある笑みをし、牧野の手から離れると、佐藤の正面に回る。

「きゃー、ユイユイ邪悪う」

 ――女の子に向かって邪悪とは何邪悪とは。

 月森は頭の片隅で文句を思うが、すでに標的は佐藤に限定されている。

 視線の高さが合うようしゃがみ、佐藤に微笑みかける。

「何か言うことはありませんか? 佐藤先輩」

「反省はしていない」

「結構です上等です」

 月森は真っ直ぐ立つと、今度は佐藤の後ろのほうに回り込む。イスの後ろはほとんどすぐ壁なので、正確には斜め後ろになる。

 佐藤がまくし立てる。

「ところで思うんだが月森君。謝ればいいというものなのだろうか。もちろんそうじゃなくて、あくまで許しがあってのことで、しかし結局許すのは誰かっていうとそれは自分に過ぎず――」
「つまり何ですか?」

 月森は佐藤の首に後ろから両腕を回す。体の距離は保っている。

 口を耳元に近づけ、ささやいた。

「私に許してほしいと言ってるんですか? それとも罰してほしいと言っているんですか?」
「人の話を聞け月森君」
「そっちこそ……!」

 月森は佐藤の首をホールドすると、佐藤の腕を一本捻り上げる。

 苦悶の声が上がり、まもなく苦しげな息遣いに変わる。

「つき、もりくんっ……」
「安心しないことです」
「誰がッ」

 佐藤の抗議を無視。月森は妖しく笑いながら告げた。

「肩関節ならはめるの得意ですから」
「予告か? 脅しか!?」
「うるさい口ですね」

 月森は佐藤の首をよりきつくホールド。喋るには苦しくなるはずだ。

 牧野が言う。

「ユイユイなんかエロい、エロいよその状況」
「え?」

 月森はぱっと佐藤を解放し、すぐに距離を取る。

「は?」
「エロいと思った人ー」

 佐藤と徳川、そして月森を除く三人が挙手。

 月森は『イ』の形に口を開けたまま、赤面する。

 月森が固まっていれば、牧野がさらに月森を追い詰めにかかる。

「やんもうユイユイってばてばっ」
「何が『やんもう』だっていうの」

 月森は澄まして応じた。ただし髪の下の耳は赤いままで、頬のも薄い紅潮が見られる。

 牧野が手の平を立て、その指先を唇に当てると、意地悪そうに笑んだ。

 月森は牧野の長いからかいを予感し、済ました顔がほころんだ。




[20298] 『三度の怪』
Name: しじま◆5654787d ID:1d8f7faa
Date: 2010/07/20 19:57

 時刻は午後七時より少し前。

 午後七時が部の活動限界で、七時以降校内に残っている場合即時下校させられる。
 月森が部室から、牧野たちを伴って外に出ると、佐藤がいた。

 弓道部の部室は部室棟の二階だから、四人は佐藤を見下ろす形になる。

 佐藤は体育館を背にもたれかかっていて、やや遅れて四人のほうを見た。

「なんだかんだで律儀に待ってるよね、佐藤先輩。徳川先輩はひとりさっさと帰っちゃったというのに」

 牧野が一人つぶやき、真行寺が応じる。

「徳川君は塾で、あそこに立ってるあれはバカだから」
「バカっていうか思考回路がきっと一般人と違うんですよ、きっと。冷たくあしらわれても愛嬌振りまく犬みたいな」

 月森が八つ当たりに毒をはくと、牧野が食いかかる。

「犬? つまりユイの犬なの?」

 四人ほとんど並んで廊下を歩き、そして階段を歩きつつ、

「ろくでもない聞き取りしかしないわねこの耳は」
「この前のリスニングテストは泣いたよ」

 牧野が誇らしげに笑い、その顔に月森が振り返って手刀をくれる。

「怒った?」
「何にかしら」

 月森は階段を下りた場所から歩き出す。

 すると佐藤が月森を目指して歩み寄ってくる。

 月森は佐藤のほうに近寄り、一定の距離で立ち止まる。ほぼ同じタイミングで佐藤も止まる。

 佐藤が言う。

「何か言いたことは?」

 月森は眉をひそめ、目がにらみに近づく。

「謝ることはないんですか?」
「今朝のメールだ」

 月森は目を丸くし、言葉を失った。

 佐藤がああ、とつぶやき、言葉をつづける。

「いや、少し気になっただけだから」

 牧野の茶々がある。

「え、なになに、なにがどうなってそんなシリアス?」

(シリアスと思うならふざけないで頂戴)

 月森は心中だけで文句をはくと、牧野は無視する。

「少し、ほんの少し思うところがあっただけです。――すみませんでした」
「構わない。なんというか――、唐突に感じたものだから」

 佐藤に言われ、月森はもう一度目を丸くし、固まる。

 メールの中身を振り返ってみれば、なるほど、『唐突』だ。

「はい、そうですね。そうですよね」

 月森は佐藤の目を見る。少しして、佐藤が目を合わせてきた。そしてさらにややあって、月森の背後に控えていた牧野たちに告げる。

「少し、外してもらえるだろうか」
「あーはいはい」

 すばやく応じたのは真行寺で、牧野の背中を押し、二年の女子部員に目配せした。

 三人がまもなく声の届かない範囲にまで離れていき、佐藤が口を開いた。

「――幽霊?」
「自分でも、ええ、どうかしていたと後悔中ですから」
「別に奇妙には思わないさ」
「それはそれで気にします」
「難しいな」
「これでも女の子ですから」

 月森が冗談ふくみで言うと、佐藤が吹き出した。

「な、――んですか!」
「失敬」

 佐藤は手で無理やり表情を修正してみせた。平常の真顔になる。

「私が自分のことを女の子と言ったのがおかしいですか」

「違う。被害妄想だ。……ああ、その点は実に女の子らしいな」
「セクハラです」
「やはり難しいな、『女の子』」

 佐藤が口の端を少しだけ上げる。

 月森はそれを見咎め、

「引きずります――」

 ね、と言葉を終えようとした時だった。

 視界の端で何かが動いた。

 淡い光を持った何かだ。

 月森は反射的にそちらを見上げた。校舎の三階である。

 一秒の間、淡い光を放つ像が観察された。

 佐藤が(月森の心境からすれば)緩慢に月森の見た方向を見る。一度視線の先を確認しなおしてから、訊ねた。

「まさか幽霊でも見えたのかね月森君」
「いえ。何か動いた気がしたんですけど、見間違いですね」

 月森は視線を動かさぬまま答えると、唾を飲み込んだ。

 月森の体調は急激に悪化していた。

 十月の気候で、制服を着込んでいるというのに寒気がする。そのくせ体の芯は異様に熱く感じられ、その上視界の端のほうが白んだ。

 外見上も、顔から血の気が薄れているし、見開いた目が印象的だ。

「月森君」

「――え」

 月森の反応が遅れ、佐藤の不審を招いた。

「どうした。何を見た?」

 月森はごまかしを瞬間考える。が、佐藤の語調の強さと自分の弁舌では佐藤の不審を消すことはできない。

「……何も」

 月森はこれだけ告げる。下手な言い訳を重ねるより、頑なに主張したほうがいい。佐藤が汲み取るという期待もある。

「月森君」

 佐藤の呼びかけが月森には苦しかった。

 ――やめて。

 月森は幼子のように首をいやいやと振ることを真剣に考えた。理性が押し留めるが、おそらく同じ理性が月森に佐藤への臨戦を訴えている。

 佐藤が自分、月森結衣を傷つけると推測し、そうあるものと決めつけていた。

「俺は見てくる。きみはどうだ」

 月森は呆けた顔をし、答えに詰まった。

「どうしてです?」
「気持ちが悪いだろう。きみは当然のこと、俺もだ。何か、見たのだろう?」
「見てません」

 月森は拳を腰元で固めて言い切る。

 佐藤のほうも頑なだ。

「わかった。見ていない。では見に行くとしよう」
「もうじきに下校時間ですよ。反省文書かされちゃいますよ。内申に響きますよ」
「月森君」

 佐藤が微笑む。

「それは俺に行ってくれと言っているようなものだ」

 佐藤は言うと、校舎のほうに歩き出す。

 月森は早歩きに追いかけるが、佐藤の腕をつかむまでには至らない。

「待ってください。――行かないでください」
「断る」
「そんな――」

 月森の歩調が落ち、まもなく立ち止まる。

 二歩遅れ、佐藤が止まり、振り返る。

「きみの意志を無視したいわけではない。きみを蔑ろにしたいわけでもない。だから、言う。行くことを許してほしい。できるだけ早く」
「行けばいいじゃないですか」

「そうも思うが」

 佐藤が小首を傾げ、

「そんな顔をされては」

「――――つ」

 月森は顔を両手で隠し、一歩佐藤から遠ざかる。

「ごまかしに付き合うことはできる。それが正しい価値判断だ。踏み込む必要はなく、ずっと安全だ。けれど俺は、個人的な事情からそうもできない。――ああ、後で許しを請うことにしようか」

 そうしよう、と佐藤がつぶやき、再び校舎のほうに向かう。

 月森は跳ねるように走り出し、佐藤の肘をつかんだ。

「待ってください」
「断る」

 言葉とは裏腹に佐藤が歩を止める。

 月森が強くつかんでいたからだ。

 無理に振りほどけば、まず月森がよろめくか下手をすれば転んでしまう。
 ただし、月森は本気で佐藤を止めようというのではない。

「私も行きますから」
「……大丈夫なのか? ひどい顔だ」

 月森は眉根を下げ、

「ひどい顔とはずいぶんです。それと」

 笑い、

「一人で残ったほうが早くにやられて晒し者にされちゃうものですよ」

 冗談を言った。

 佐藤が辟易した顔を作り、校舎のほうを歩き出す。

「死ぬじゃあないか」

 佐藤の言葉に、月森はふふと笑う。


 ◇ ◇ ◇


 時刻はちょうど午後七時。

 月森と佐藤は校舎の二階まで階段を上り終え、廊下に出た。

 すでに生徒の姿はなく、どの教室からも明かりはない。

 スリッパと廊下のすれあう音が印象的だ。

「どのあたりに見たんだ?」

 佐藤が問うので、

「三階の、生物教室の前だったかと。要は半ばくらいですね……って、正確に把握してなかったんですか?」
「まあ手当たり次第、だ」
「早く済ませないと巡回の先生にしかられてしまいます」

 月森は歩き出し、半歩遅れて佐藤も歩き出す。

 下校時刻を過ぎた学校は暗い。

 今は十月で、場所は日本。ゆえに、すでに真夜中に近い様相を呈している。

 校内の街灯を模した明かりは随所にあるが、すべて校舎から離れたところにある。

 真の暗闇とは決してならないが、常に薄闇を強いられる。

「それを思えばきみ、やっぱり帰ったほうがよかったかと思うんだが。せめて校外に出ておくとか」

「そんなことしたらひとり寂しく死んでしまいます」

「二人ならいいのか?」

 二階廊下の半ばに差しかかり、階段で曲がる。

 踊り場で、歩調がややゆるやかになり、

「月森君」
「はい?」

 佐藤が立ち止まる。

 月森は階段を少し上った地点で振り返った。

 佐藤が、

「花咲真理がきみの前に現れたらどうする?」

「そ――」

 月森は一秒息を溜め、怒気を周囲にもらす。

「そんなことあるわけないでしょう!」

 佐藤が怪訝な顔をし、月森はややあって失態に気づき、頭(こうべ)を垂れた。

「……すみません」

「いや。俺の聞き方も悪かった。こんな場では」

 月森は唇を甘く噛む。そしてふと気づきが生まれ、再び怒気がこみ上げてくる。

「試しましたね?」

「何を」

 佐藤の問い返す声が早く、月森の疑心暗鬼も加速する。

「私が幽霊とか、そんなものについて本気になっているってことをです」
「……ああ」

 佐藤は納得した、という顔をする。

「そんなつもりはなかった。そして仮に本気になっていたとして、別に悪いことではない。生きていて、そういう考えがどこかで耳に入ってくる。ならば自然なことだ」

「でも佐藤先輩は信じていないでしょう?」

「そうだな。でも、きみは誰かが思っていればそう思うのか?」
「違います。そうなら私はぐにゃぐにゃな人間です」
「華奢そうではあるけれどな」

 月森は息を細く吸う。それから言った。

「――それこそ試しますか?」
「いや結構」

 佐藤が歩き出し、月森の横を通り過ぎていく。

 月森は佐藤に追いすがり、追いつき、横から顔を見る。

「どういうつもりなんです? ペンダントの件もそうですし、花咲先生の話を持ち出したことだって」

「単なるお節介だ。その点、『あれ』と同じだが」

 階段を上りきり、生物室前までやって来る。

 暗いだけで、平常の様子と違いはない。

 佐藤が目を走らせつつ、言葉をつづける。

「秘されておくべきものがある。たとえば人間の存在意義なんてものに手を出して、大衆からして狂った人物は存在する。見て見ぬふりは間違っているが、踏み込みすぎるのもまた違うんだ。AかBか、白か黒か。そんなことを考えず、Cも灰色も考えるのが人間であり、また日本人だ月森君」

 佐藤は消火器の箱まで調べ、屈んだ姿勢から立ち上がる。そして月森に向き直った。

「イメージとしては、そう、灰色の水槽に入れてしまうのが近い。何か割り切れぬものがあれば、そこに入れてしまい、その時こそ割り切る。変に近づいてしまって透かして何かを見てしまっても、やっぱり灰色だ」

 月森は佐藤の言葉を噛み砕き、理解する。ただそれ以上の思考をすることができない。考えようとすると、途端に眠くなる。こういった経験が多いとは思っておらず、月森は佐藤の説明の仕方に理由を求め、割り切った。

「よく、わかりません」
「別にそうすべてを理解しようとしなくてもいい。理解しようとするのは、それこそ、白か黒かを求める凝り固まった思考だ」

 佐藤はさて、と話を区切る。

「本物の幽霊でも見たのかな?」
「そんなはずありません」

 月森は眉を寄せるとともに、視線を伏せる。

 佐藤が苦笑する。

「きみは幽霊がいてはならないと思うのか?」
「佐藤先輩は、幽霊がいるとお思いなのですか? 違いますよね? 昨日の今日で」

 佐藤が困ったような顔を作る。

「いると考える、そうした人のことまで否定はしないということだよ」

 下げた眉尻を元に戻し、月森に向かって人差し指を立てる。

「――いると考えるほうが不安がなくなる、というのが正しい。現状いないと考えるのが妥当だが、永く根ざしてきた霊の考えというのは、科学を騙る薄っぺらい合理主義では否定しきれない。なぜなら死は絶対的な終わりだからだ。人生という一連の流れを、ぶった切ってしまう。そこへ行くのは怖い。わからないんだから。けれど人間、誰もが死ぬ。やがて訪れる終わり。無が恐ろしいともいえる。死そのものが恐ろしいのではない。無を理解することはできない。無という言葉はあるが、たいがい暗闇を思い浮かべる。時間も、空間も、意識も、何もかもが存在しない。では『無』は存在するのか?」
「あの」

 月森は眉間に指をやり、苦悩のジェスチャをする。

「もう少しわかりやすく。あとできれば簡潔に。いつ先生がくるともわかりませんから」

 ふむ、と佐藤が相槌を打つと、軽く手を広げてみせられた。

「明日死ぬとしたら、どうするかね?」
「えっと」

 月森は困り、視線をさまよわせる。少しして、棘のない答えを出す。

「たぶん、あいさつするんだと思います。死ぬとは言わないままで、今までのお礼など」
「うん。でも明日死ぬのならきみは何をしてもいいわけだ。たとえばきみが成人男性だったら、酒池肉林を目指すとか言い出すかもしれない」
「やめてください」
「まあ生きている側からすればたいがい迷惑なものだが。だが、道徳からも倫理からも常識からも解放されてもおかしくない。そこを引き止めるものは何か? それが、幽霊を信じる心に繋がる。つまり、死にたくないから己の魂という本質が残るものとしたがる。実にわかりやすい話だ。すでに幽霊という実例をつくっておいて、自分もそうなるものと思う。死後も秩序がほしいから地獄や天国をつくりもする。出発点は、そこだったのだと思うな俺は」

 月森は、結局長い、とは思う。ただ容易に頭に入ってきた。

 当然のことを言っているようにさえ聞こえる。

「幽霊を望むのは、死にたくないから?」

「違う。幽霊を信じる理由だ。幽霊を望むのは、たいがい過去への後悔だよ月森


 それから、月森は、泉のように涌き出る思いを、波紋のひとつひとつを観察するように、じっと観察しつづけた。

 ◇ ◇ ◇

 同日。

 月森は自宅への帰り道にて、昨日と同様に立ち止まることとなる。

「せん、せい……」

 熱い吐息まじりの声を発するも、花咲真理からの反応はない。

 昨日をなぞるように、花咲真理の像は消えた。

 煙が幽霊であったかのように、確かに見えていた花咲真理の姿は、忽然と消えうせたのだ。

 月森は両手を顔で覆うと、こみ上げてくる感情を、息としてもらした。



[20298] 『平穏なはずの前日』
Name: しじま◆5654787d ID:1d8f7faa
Date: 2010/07/21 17:09

 窓の外で鳥の鳴き声がしている。

 月森はベッドの中で目を覚ました。

 布団にもぐりこんだ状態である。

 携帯電話を握り締めているのはいかなる理由か。

 月森は昨晩、メールを打っては消し、消しては打つことを何度も繰り返した。送り先は佐藤である。

 用件はそのまま幽霊のことであったり、放課後の誘いであったり、佐藤自身についての質問であったり、さまざまだった。

 結局一通も送ることもなく、月森は眠りに落ちてしまったというわけだ。

 携帯電話を開き、時刻を確認すると、昨日の繰り返しがはじまった。

 時間は心に応じて待ってくれなどしない。

 月森は義務感の下、気だるい体に鞭打つ。そうして、日常のレールへと自らを乗せた。

 身だしなみを整え、朝食を摂り、鞄を持って通学する。

 そして授業を受け、クラスメイトと談笑をはさみながら日常を消化していく。

 ただしいくらレールを思おうと、幽霊の件が頭につきまとう。

 依然、月森は幽霊などいないと思っている。

 それが常識だし、佐藤とて結局はいないと言った。いると信じる理由も明らかにされたいまである。ささやかな霊感がほとんどの人間には備わっており、それがゆえ幽霊の存在を否定しきれないわけではない。

 死が恐ろしいから、死後のつづきを夢見るために幽霊を信じて死を軽くする。

 それだけの話だ、と月森は廊下を歩いていて思考を締めくくった。

「やほ」

 声が聞こえ、月森は視線を上げる。

 御堂梢(みどう・こずえ)だ。

「あ……、こんにちは」

 月森は軽く頭を下げる。

 すると御堂が手を振り、

「あー、いいっていいって。先輩風とか持ち合わせてないし。それとも、先生とのこと何か気にしてる?」
「は……それは……」

 月森は言葉を濁し、明言は避けた。

「や、私はアドバンテージ持ってるからね。万が一にも間違いが起きないようなアドバンテージが。嫉妬なんかもしないし心配なんかもしないってもんさ」
「はあ……」

 月森は生返事をし、さっと周囲を見回す。聞かれて好ましい会話ではないからだ。

「私がむしろ知りたいのはさ、佐藤君との関係?」
「佐藤、先輩と」

 月森は聞き返す。

「そ。佐藤正義(さとう・まさよし)君。実際どうなの?」
「よい先輩後輩だと思ってます」

 御堂が口元に手をやり、戸を立てるジェスチャをする。秘密ということだろうが、わざとらしい。

「色っぽい話はなし?」

 月森は内申で嘆息する。そして言った。

「ありません」
「そ」

 御堂が身を引き、姿勢を正す。ややあって、中庭のほうへと視線を逃がした。

「じゃあほかに仲良くなった理由がわからないなあ。ほら、佐藤君はあのとおり、世間一般の男子高校生とは違うでしょう? まともな色恋なんて。――急に運命の人だ、とか電波飛ばされたとか?」
「いいえ」

 月森は笑顔で否定し、それから笑みの目はそのままに、口元を下げる。それはまさに、妖しい女の笑みだ。

「佐藤先輩が、その、秘密結社とか超能力とかは信じているらしいですが」
「ああ、その話ね」

 御堂の反応に、月森は腰元で拳を握る。意図したとおり、御堂から佐藤の話を聞くことができそうだ。

 御堂が頬をかきながら語る。

「なんだったかなあ。私たちが一年の時にさ、学校に怪人が出るって話が出たの。都市伝説の、ほら赤マント的な」
「赤、マント?」

 月森は知らない。

 御堂が困り笑いを浮かべる。

「あ、知らないか。まともかく、都市伝説っぽい話があった。面白がって調べようとした連中がいて、その中の一人に佐藤君がいた。――もっとも、一人外れててほかと共同してたってわけじゃないけど。要はその時いろいろあって、佐藤君がこう言った。『管理会社を知ってるか』」
「管理会社?」
「ビル管理会社とか都市危機管理会社とかの管理会社。らしいよ? んでもって秘密結社らしい上、超能力者が構成員――らしいね?」

 月森は思い切り顔をしかめた。

「それはまた、夢見がちな」

 御堂が短く笑う。

「そうだね。まあ、でも、それだけの話」

 御堂は廊下の柱に歩み寄り、もたれかかる。

「どんな意図の下で言ったのか。まさか本気ってことはないだろうけどね」

 御堂が笑うので、月森も控え目に笑ってみせた。

 そして、やや時間が過ぎた。

「……じゃ、ね。引き止めてごめんね?」
「いえ。そんなことは」
「じゃね、月森さん。また」
「ええ、また」

 御堂が元の行き先へ向かうのと同じくして、月森もまた図書室へ向かおうと歩みはじめる。

 五歩ほど歩いてから、月森は御堂を振り返った。

 声をかけようということではない。

 ――アドバンテージとは何だろう。

 疑問が生じ、なんとなく御堂を見てみた。

 生徒が教師に対して優位を持つことはまずない。だから男女か、大人か子供の関係で優位があるのだろう。学校外における社会的地位とは考えにくい。それを当てはめるのなら、御堂が資産家の娘ということである。

 口にすれば失礼だ。だが、月森は御堂がそうとは思えなかった。

「男女か、大人と子供」

 月森はつぶやき、思考を明確なものにする。

 まさか恋仲にあるとでも言うのかと思い、すぐにひとり笑ってしまう。

 月森は問題集を抱きなおすと、今度こそ図書室へ向かった。

 図書室にコピー機があるのだ。

 忘れてしまった問題集をコピーすべく図書室へ向かったのである。

 月森は入学時の校内案内以来、訪れるのは三度目になる。

 中学の規模より少し広く、また充実しているくらいの差だ。あとは、パソコンで貸し出しや所蔵を管理している点か。

 月森はスリッパを脱いで図書室へと入る。

 すると、文庫本を眺めている佐藤を見つけた。

 入り口すぐの回転棚から文庫本を出しては冒頭を読んでいる様子である。けれど、ちょっと読んでは戻している。

 図書室に人影は少ない。

 司書教諭と、閲覧コーナーで読みふける生徒が三人。あとは佐藤と月森がいるだけだ。

 月森は気配を殺して佐藤に近づく、そしてすぐ背後に立つと、背伸びしてささやきかけた。

「佐藤先輩」

 佐藤の背中がはねた。

 そしてすぐに、佐藤の非難がましい視線が月森を向く。

「驚きました?」

 佐藤は憮然としたままで、しばらく黙っていた。

「最近はよく会いますね」

 佐藤が重々しく口を開いた。

「ちゃんと寝ているのか?」

 月森はちょっと間目を白黒させた。そして言う。

「セクハラですか?」

 佐藤が唾さえ飛ばしそうな勢いで口を開いた。

「だ、か、ら、きみはそういう――」
「自意識過剰ですって? それなら反省します」

 月森は言葉の通り、頭を下げる。表情に陰りを作り、声にも匂わせた。

 佐藤が言葉に困ったようで、言葉にならない声をつづける。

 月森がひそかにくすりと笑うと、佐藤がようやく言葉らしい言葉を発した。

「きみは難しいな」

「それは他の人を単純化してしまっているせいですよ。きっと佐藤先輩、他の人のことキャラクタくらいにしか考えていないんです。一人の人間っていう、そんなことを忘れがちで」

「耳が痛いな」

「ただでさえ暗そうな顔してるんですから。実際どうだかしれませんけど、取っつきにくいとは思います。ほら、笑顔ー」

 月森が佐藤に笑いかける。

 佐藤が月森を一瞥すると、よそへ視線をやってしまう。

「選挙で見る笑顔だな」

「は? あんなのと一緒にしないでください。誠心誠意、ほら、笑顔」

 月森は社交モード最高レベルの笑みを浮かべる。社交モードとはいえ、月森の気分によって完成度のいかんが変わる。

 佐藤に対して、自然の笑顔を向けたいとすら思う。けれど、ここ最近の状況がそれを許してくれない。

 佐藤が憮然としたままだ。顔まで背けて、告げた。

「疲れてるのだろう」

 月森は笑顔を取り落としてしまう。そのまま呆けていると、佐藤が言葉をつづけた。

「どうも、そう見える」
「そんなことありませんよ?」
「じゃあ今日の不注意は何だ?」

 佐藤の目が月森の抱える問題集に注がれる。

 月森は我が目でも問題集を見、それから佐藤へと戻す。

「これは、たまたま」
「まあそういう日もあるだろう。問題集を忘れて、その場しのぎにコピーしに図書室へやってきた。それだけかもしれない。だが、俺には、きみが疲れているように思えてならない」

 月森は問題集を抱きしめる力を強めた。そして、顔を伏せると、絞り出すような声音で訊ねた。

「疲れてたら、どうだっていうんですか?」
「俺を利用できるなら利用するといい」

 月森が顔をあげ、丸の目で佐藤を見た。

 すると佐藤は顔をしかめ、視線を下げてしまう。

「利用?」
「そう」
「まるで私が性悪じゃありませんか」
「じゃあ、何と言ったらいい?」
「頼れと」
「頼られるほどの人間じゃない」
「面倒くさい人ですね」
「……きみが、一人の人間として見ろと、ついさきほど言ったばかりじゃないか」

「一人の人間として、佐藤さんは面倒くさい人です。暗いし。愛想悪いし。笑ってもなんだか凶悪だし。真行寺先輩には軽口叩くだけでまるで弱いし。こっちの十に一くらいしか応えてくれません」

「……言葉もない」
「でも、私、佐藤さんのこと好きですよ」

 佐藤がこれまでにない表情を見せた。

 驚いたのだ。

 わざとらしい演技やジェスチャが伴うものでなく、率直な驚きだ。

「あ、勘違いしないでくださいね」

 月森は冷静なものだ。自身でも理解し、理由は佐藤の驚きである。他人がオーバーでいると、冷静になれることはよくある。

「ラブ系じゃありませんから」
「いや。それはもちろん理解している。が……」

 後につづく佐藤の言葉はすぼみ、消えた。

 月森は問題集を脇に抱えるとともに、両手を腰に当てる。顔はうれしさの交じった苦笑となっていた。

「やっぱり考えてしまうんですか? 男の子ですねえ」

 佐藤が押し黙ってしまう。

 会話が途切れ、図書室の静謐な空気が思い出したようにわいてくる。

 月森が次なる話題に思いを巡らせていると、佐藤がつぶやいた。

「葬式には?」
「へ?」
「葬式には出たのか?」

 佐藤が面と向かって、月森に訊ねた。

 月森は少しの間真意をはかりかねた。それから得心がいって、ああ、とうなずく。

「花咲先生の」
「そうだ。――どうだ?」
「出ていません」
「なぜ? そもそも執り行われなかった?」
「いいえ。ご友人が執り行われたそうですけど、何か?」
「では全校集会などで黙祷を捧げただけか?」
「いいえ。それもしていません」

 縷々とした会話で、月森は問われるがまま正直に答えた。それがまずいと気づいたのは、佐藤に問われてからの、遅すぎるタイミングだ。

「教師が死んだとしたら、それくらいありそうなものだが」
「それは、その……ショックで、休んでいたもので。一週間くらいだったでしょうか」
「ふむ」
「葬式とか、黙祷とか。どうかしましたか?」

 佐藤が月森の言葉を黙殺した。

「ではカウンセラはどうだ?」
「受けていません」

 月森は即座に、しかも強く言い切った。示すのは虚勢である。

 だから、佐藤がふむとあごをさする様子さえ、なんだか恐ろしかった。

 佐藤は聡い人間である。月森はそう思う。ゆえに、違和感くらいは覚えていてしかるべきだ。

 それを確信へと導いてはならない。

 月森は自分が情緒不安定だと知っている。聡明で落ち着いた優等生も意識的に作り上げたものだ。さもなければ、中学二年生の頃を繰り返すはめになる。

 同校の生徒、同級生、クラスメイトの順で、演技や過去は知られたくない。部活のメンバがさらに上位にきて……、佐藤が一番にくる。

 そう思うことを、月森は自分がいやらしいのだと戒めた。

「あの、佐藤先輩」
「何だ」

 質問されたことに疑問を示してはいけない、と月森は思う。ゆえに、

「デートしません?」
「……は?」
「デートですデート。男女が連れ立って出かける例のあれです」
「例のあれというと、男が楽しませているつもりで女が楽しんでいるふりをしてあげているのよと思うあれか」

 冗談を言ってくれることに、月森は微笑む。

「そうですそうです。どうです? 泡沫(うたかた)の夢をごひとつ」
「その『あれ』では、人の言葉を喋るうえ、立って歩く『ネズミ』は現れるのだろうか」
「場所によっては。つまり佐藤さんの心積もりで。場所は佐藤さしだいで決まるわけですから」
「しかし俺は行くなら空のがいいのだが」
「ありましたっけ?」
「だからできるまで待ちたいんだこれが」
「いつできるでしょう」
「それはわからないが、さらに次は、そう、VR」
「V、R?」

「ヴァーチャルリアリティ。つまり仮想現実だ。端末を通してさまざまな体験を現実のように体感することができる。ゲームセンタより何世代も上の施設ができ、場所も金も時間もセーブすることが可能だ。さらに数年もすれば家庭にいながらにしてあらゆることが――」

「出不精だったり人が苦手だったりする人にはそれでいいかもしれませんが、人間関係が希薄になりません?」

 月森は明確な嫌悪を佐藤の予想図に抱いていた。

 幸い、佐藤から同意が得られる。

「その通りだ。表層ばかり眺めて本質を見ていない。仮想現実を通じて生じる人の思いは真実。けれど、人間は生物だ。無機物だったり情報体だったりする生物はありえない。人間の脳はあくまで人間という生物が動き、思考するためのものだ。それを完全に零と一の世界にトレースすることはできないよ。いつまでも、仮想現実と現実に違いが人の脳に異常をもたらす。仮想現実で現実そのものを望めない以上、仮想現実はあくまで『仮初』だ」


 だから、と佐藤は言葉をつづける。

「人間関係が希薄になるというのも当然。そしてそれが問題であるというのも間違っていない。生物である以上人間は群れることが多い。真実群れないというのであれば、それは人間じゃないかもしれない」

「それでは、佐藤さんは誰かと仲良くしたいのですね?」

 月森の言葉はつまるところ確認だ。

 佐藤が目をすがめて、口をへの字にしていた。それから少しあって、言った。

「薮蛇だったか?」
「それならなおのこと。――私に付き合ってください」

「……待て。何か誤解が生じた余地がある」
「え? よくあるあれでしょう? 自分が人付き合い苦手だと思い込んで殻に閉じこもっちゃうタイプ。で、話しかけられてドキドキ、さらに『○○くんて話すと意外と――』でドキドキするという」

「きみはまたしても自分の発言と矛盾することを……」

 佐藤が目を閉じて首を控えめに振ってみせる。

「失礼ですね、ちょっとした分析をしているだけですよ。その傾向がある人間には違いなく、けれどきちんと別の性分も備えている。その別の性分のことをきちんと見ましょうと、そう言っているんですよ」

「とても参考になるよ」
「教科書にでもしてください。もしくは座右の銘」
「話を戻して申し訳ないが、いつ俺が『実はさびしい子』になった?」

 月森は顎に手をやる。ややあって身を屈め、身を捻り、身をのけぞらせもする。

「初めて会った時からずっとそう思っていましたけれど」
「言ってくれるなこの後輩」
「だからそんな先輩にかわいい後輩とのデートをプレゼント。どうです?」

 これこそ胸躍るだろう、と月森こそ胸躍らせて佐藤の反応を待った。

 佐藤は真顔で月森を見つめだす。心中の葛藤と、かけるべき言葉を

 月森の思いは時間と比例して募っていく。

 割愛すると、はては佐藤が犬になったらどうしましょう、まで考えた。もちろん己の対応は決まっていて、まあはじめは躾、と考えた。それから徐々に紳士に育て上げると、二人きりの時は躾けて思いあがりや自信を打ち砕き、捨てられた子犬のようになるでしょうからそこで慰めて、ムチムチアメ――あらなんだかいやらしい――の三段活用、素敵、というのをものの五秒で考えた。

 人の頭脳というのは偉大である。

 佐藤が後ろ頭に手をやりつつ口を開いた。

「なんというか」

 さあいらっしゃい、とすでに月森の気分は主人であった。

「そういうのは中学のころに散々経験していてだなあ」

 月森の妄想は刹那で瓦解した。

 月森はすまして咳払いをひとつする。そして佐藤の言葉を吟味し、噛み砕き、理解し、己の気持ちと付き合わせる。冷静、そして上品、と自己評価する。それから伝える概念を削りだし、言葉とした。

「やはり真行寺先輩と?」

 この質問をしたことで、月森の心理状態を現実に還元するとしたら、拍手喝采である。拍手されているのは月森であるが、拍手しているのは定かでない。

「やはり、とは」
「だってずいぶんと仲がいいじゃありませんか」
「ばかばかしい」
「じゃあ、通訳さんですか」

 月森は確認をした。

 佐藤が沈黙したことで、確信する。

「……決定ですからね」
「は?」
「デート!」

 月森は佐藤の胸に人差し指を突きつけた。

 佐藤が居心地悪そうに退いたが、すぐ後ろは本棚である。一メートルくらいの高さのもので、佐藤の腰が打ちつけられる。佐藤が顔をしかめ、ややって受付カウンタ、閲覧コーナーと見回す。

 それぞれの場所にいる人間が顔を伏せる挙動を一様に繰り返した。佐藤が見るとすぐの行動である。

 佐藤は目を片手で覆うと、天井を仰ぐ。

「いやとは言わせません」
「わかった。わかったから……」

 佐藤はそう言うと、小さな溜息をつく。手の平の下から目を覗かせて、月森を見た。

 恐ろしい目だ。

 月森は臆しない。佐藤に悪意や敵意がないのはわかっているし、仮にそうであっても臆しない。

 佐藤への信頼ゆえ、と月森は思う。

 けれど彼女はこのとき気づかない。

 論理立てが明らかに不自然で、飛躍している。

 悪意や敵意があったとしたら臆するべきである。臆することがないのは強引な感情の抑圧にすぎない。

 気づくのは三年後のことである。そして、彼女は後悔する。

 ただし今は関係のないこと。

「――ひとつ、訊きたい」

 佐藤が天を仰ぎ、月森を見下ろしたままつぶやく。

「きみはハナサキマリの死をどうやって知ったんだ」

 それは、周囲を気遣っての声量だった。

 月森はふいの質問に、戸惑うことなく、毅然と答えた。

「お友達からですが」

 佐藤が手の平で眉や目を覆い隠した。

 月森は手の平の下で佐藤がどんなに怒っているかはけしてわからない。




[20298] 間章『夏の井戸端』
Name: しじま◆5654787d ID:1d8f7faa
Date: 2010/07/21 17:24
 夏の日差しがアスファルトの地面に照りつける。

 ある中学の、校門そばの駐車場に紺のスーツに同色のネクタイをつけた男がいた。暑い中、コスモスを中心に植えられた花壇のレンガに腰かけて、空を見上げている。
 眩しげに目が細められていても、男のもつ柔和な雰囲気はしっかり残されている。男のもつ目がもともと優しげであるのと、レンガに腰かけて脱力している様子であるためだ。

 時間帯を鑑みるに、就労していないようにも思われる。教師という可能性もなくはないが、職員室におらずこんなところでぼんやりしているのもおかしな話だ。

 そもそも炎天下で平気な顔をしてたたずんでいる時点でおかしな話なのだ。

 男は流れる雲を見つめては、突き抜けるような青い空に眼を移す。その真意は、何のことはない、見た目どおりぼう、としているだけなのだ。

「こんにちは」

 男は一気に世俗へ引き戻され、声をかけた女性のほうを見る。

 駐車された車の間であり、男の正面でもある位置に、スーツスカートに身を包んだ女性がいた。

 女性は日本人のようではある。黒髪で、体型もスレンダーで百六十前後の身長をしている。顔立ちもおおよそ日本人のそれには違いない。だが筋の通ったやや高い鼻と、切れ長の目、そして何より瞳の色が、日本人と決め付けるには難しい。

 男は仕事柄、外国に出張することも少なくない。ましてグローバル化の昨今、種族の違う人間と接する機会はあってしかるべきだ。実際、平均と比べてずっと多いだろう。

 その男をして、その瞳の色は見たことがなかった。

 灰色なのだ。

 男はそのことを珍しく思う一方、礼儀をもって立ち上がる。そして体にしみついた堅苦しい礼をし、

「どうも。月森結衣の叔父です。――そちらは?」

 男、瀬田和馬(せた・かずま)は灰色の瞳の女性を、手の平で指す。

 女性は微笑み、たおやかな一礼をした後、微笑みながら答えた。

「花咲真理です、と言えばおわかりになりますか? 瀬田和馬さん」
「ああ、知っていますよ。姪がいつも大変お世話になっているようで」

 瀬田が深々とお辞儀をする。

「いえ。私はそこまで、と答えるのも、礼に失しているのでしょうね。こういう場合、どう答えたらいいのでしょう」

 花咲が手を頬に当て、小首を傾げる。

 瀬田は身を四十五度まで上げると、顔だけ上げて花咲を見た。

「いや、これは、失礼しました」

 瀬田が再び頭を下げる。

 あらあら、と花咲がつぶやく。

「結構ですから。それより今日はですね、すこしお話がしたくてきたのです、瀬田さん」
「は」

 瀬田が身を完全に戻すと、怪訝そうな顔をする。

「あまりこういうのは倫理上反するのですが、瀬田さんがずいぶんとよい叔父さんでいらっしゃるようで」
「いえ。僕のほうが姪に救われています。あの通り、綺麗で優しい娘ですから」
「謙遜がないのはいいことだと、私は思います」

 花咲が笑みを深くし、ふふと笑う。

 瀬田もつられて笑う。が、謙遜してこれなのだった。

 ややあって、花咲が視線を落とし、陰りのある微笑とともに訊ねた。

「月森さんのご両親は」
「兄さんは仕事で忙しいですし、義姉さんは、まあ、なんというかぼんやりとした人ですからね」
「あなたも負けず劣らずのようですけれど。――あ、これは、そう悪い意味とかでなく」

 瀬田が腰元で小さく手を広げてみせる。

「そうですね。まさにその通りです。では、理由はこう言いましょう。義姉さんは車の運転免許を持っていないのです」
「それでも、瀬田さん、失礼かもしれませんが、お仕事は」
「え? ああ、あはは」

 瀬田が照れ笑いを浮かべ、首の後ろをかく。

「ちょっと抜けてきてしまいました。常習犯ですよ」
「大丈夫なのですか?」
「優秀な部下と有能な上司に挟まれておりますので」
「あなたゆえのことなのでしょうね、それは」
「いえいえ。僕ではなく、周囲が」

 花咲が口の端を下げ、目を和らげるのではなく細める。花咲のほうが太陽を背にしているので、まぶしくて、ということではない。

 瀬田の暢気(のんき)さを見る一方、瀬田の処世術を見た気がしたのだ。

 花咲は、言の葉の上で追及はせず、元の微笑みへとシフトする。

「そうですか。よく、わかりました」

 ええ、と瀬田が実にうれしそうに相槌を打つ。

 花咲が歩き出し、瀬田の脇を通り過ぎる。瀬田が身を回して花咲の姿を追うと、花咲が花壇のレンガに上から触れた。そして瀬田を見て言うのだ。

「すこし、座ってお話ししましょうか」

 ええ、と瀬田は何の気なしにうなずいた。



 それからの会話は、表面上、瀬田の惚気話である。

 だが時折生じる花咲の眼光は、けっしてそんなものを意図していたのではないことを示していた。

 本質は別にある。

 瀬田は気づかぬまま、手振りや豊かな感情をまじえて花咲に語った。月森が幼稚園の頃。月森とその姉との関係。小学校の月森結衣。月森からの、自分、瀬田和馬への好意。おおむね、この範囲に話は収まった。

 語り疲れると、瀬田は息をひとつついた。そして、花咲のいる右方向へ、斜めまで向き直る。

「先生の目から見て、どうですか」

 そうですね、と花咲が、アスファルトの地面へ、どこへ、ともなく、視線を落とす。

「精神の安定のさせかたが少々不安定ですね。私のような人間に相談にきたのですから、およそ、そうではにわけがないのですが。……詳しく申し上げるわけにはいきませんが、劣等感にとりつかれ、自らを型にはめようとしている傾向が大いにあります。その辺りを本人に、徐々に知ってもらうようにしていますが、その先、一人の人間になったとして、最後は誰かが必要なのです」

 花咲と瀬田の目がかちりと合う。

「聞くところ、瀬田さん、あなたが第一候補のようです。できることなら、ちゃんと愛してあげてください。家族としての愛情を、です。人はあくまで生物なのですから、コミュニティが、必要なのです」
「いまでも、そうしているつもりですが」

 瀬田の苦笑を見て、花咲が視線を正面へ戻した。そして、つぶやくような、口の動きで、語った。

「ええ、ですが、自覚しておいてほしいのです。支えになっていることを。彼女は人より、確実にひとつだけ、異なった点を持っている。そのことをお伝えするわけには参りませんが、特別扱いして何ら問題がありません。真実は、きっとそこにあります」

「僕は」

 瀬田は言葉に迷って、間を空けた。

「あなたも、僕と同じか、それ以上結衣の支えになっているかと思うのですが」
「私は職業があって、彼女に関わっているわけですから。表面上そう言わず、またそう思っていなくても、潜在的にはけっして忘れ得ない事実です。職分を超えた関係なんていうのも、あってはならないものですしね。ですから、あなたと同じというわけには参りません」

 花咲はそう語り終え、空を見上げた。

「夏ですねえ」

「ええ」

 瀬田もまた空を見上げる。

 雲は消えかかっていて、薄い綿のようだ。抜けるような気持ちのよい青空が広がっている。

 夏の生温い風が吹き、瀬田の汗をかいた頬をなでていく。

 瀬田は上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめる。

 ここ最近、姪が苦しんでいることは知っている。理解している。せめてもの手助けは絶対にしてやりたいと、瀬田は思っている。だがその欲求ともプレッシャともつかぬものの一方、姪の様子は好転しない。

 考えることに疲れかけ、暑い中ジャケットを脱ぐことすら考えられなかった。

「――夏なんですねえ」

 風が吹き、少しは涼しくなったかと思われた矢先のことだった。

 蝉が一斉に鳴き始めた。種を問わない鳴き声にも関わらず、まるで示し合わせて鳴き始めたかのようだった。



[20298] 『流れ星』
Name: しじま◆5654787d ID:1d8f7faa
Date: 2010/07/21 17:25
 このまま、いいほうへいいほうへ、物事が運んでいくものだと思っていた。

 月森は昨日、佐藤とのデートを存分に楽しみ、軽口を叩きあいながら、笑顔で佐藤と別れた。

 その日一日幸せだったし、ベッドの中、身もだえまでした。

 朝は冷え込んでいたが、普段なら恨めしくなるところ、清涼な朝の空気に感じられ、月森の心は晴れ晴れとしていた。

 電車の込み具合もさほどでなかったし、体調はいいし、信号にだって引っかからなかった。

 まこと、調子のいいことである。

 だが、月森はすぐに気づく。

 そうなるはずがなかったのだ。

 嘘と演技で生きてきた自分に、そんな甘いことが許されるはずがなかったのだ。まして嘘と演技を自分から取り払ってしまったら、無力で醜い子供がむき出しになる。常に劣等感を抱え、誰かの悪意に怯え、失敗による蔑みを恐れる。

 そんな、情けない人間だから。

 朝の教室の、女子の間で流れる不審も、運命だったのだと、月森は思った。

 あいさつが、はじめ、なかった。

 話しかけてもそっけなく、時に無視されることもあった。

 避けられているのでは、と思い、ひとり授業の準備や小テストの勉強をしていれば、今度は陰口が耳に入ってくる。

 誰が言っているのか、ひどく気になった。

 だが英単語集から顔を上げられず、席に、ひとりたたずむ。

 英単語に集中できず、陰口ばかりが耳に入ってくる。

 ただし、断片ばかりだ。

『佐藤先輩』『べったり』『男には』『みっともない』『見下して』


 ――優等生さん


 冷ややかな声音で聞こえてくるその単語が、月森をひやりとさせた。

 陰口はやまない。

 月森は手元の時計を見、一時限目が始まるまでの時間を確かめた。残り十五分と少しである。

 それまで、いくつもの悪意にさらされていなければならない。

 いつからだ、と月森は考えた。

 ここ最近佐藤にべったりだったことは自覚している。会う頻度が急に増え、こちらも、なれなれしくしすぎたかもしれない。

 今までを省みる。佐藤と接していたのは、喫茶店、弓道場、渡り廊下、夜の学校、図書室、そして駅前のゲームセンタやビリヤード場である。喫茶店や弓道場はともかく、ほかの場所では邪推が立てられてもしかたない。

 けれど、明確な悪意に変わったのはどうしてなのか、皆目わからない。

 ――否。

 はっと、月森は気づいた。

 佐藤と親しくしすぎたことが問題なのではない。彼を評価する声を聞かないでもないが、あくまで善良な後輩であったなら、親しくしていても何ら問題ない。今日び、先輩に憧れる熱狂的な後輩がいるとも考えにくいし、佐藤がその対象となればなおさらだ。

 佐藤に人を熱狂的にさせる点があるものか。

 秘密結社を信じているなんてバカげた噂を流される人物だ。

 そう考えてしまい、月森は息をつく。自分は佐藤を尊敬していたはずだ。

 はず? はずとは何だ。

 月森は思考することに疲労を覚え、ほぼ同時、二年前同じような気分に陥ったことを思い出した。

 当時も、クラスメイトの悪意にさらされ、考えることに疲れ、さまざまなことがおろそかになった。そして一日中、倦怠感が体を支配し、頭を占める。

 月森はつぶやきをもらしそうになり、こらえる。こんなタイミングで何かをつぶやけば、余計悪意にさらされる。

 隙を見せたからか、と思う。

 月森は泣きたくなった。喉から嗚咽をもらしてしまいそうだった。

 だがそんなことをするのは、何かをつぶやくよりずっとひどい。

 懸命に、懸命に、月森は泣いてしまいそうになるのをこらえた。頬をかみ、顔をしかめ、悲しいなどと考えないようにする。

 時間が流れるのが、とても遅かった。


 昼食は慣習としてなんとか一人で食べることは免れた。

 月森はいつもより笑い、相槌を打ち、同調し、よい聞き手を意識した。媚びている、という自意識が芽生えたかと思えば、昼食の場が途端に重苦しいものに感じた。自分から昼食の場を離れ、教室を出た。足早になってしまったのは、背中に投げかけられる悪意が恐ろしかったからだ。

 聞かなければせめてもの慰めになる。

 どうせ四六時中クラスメイトといるわけにはいかないのだ。不安にさいなまれるのは避けられない。

 逃げた先は、図書室だった。

 佐藤がいるかもしれない、といういやらしい計算がないわけではなかった。

 現実は計算を超え、月森が三階への階段を上がろうとした時のことだった。

 佐藤が階段の踊り場に現れた。ちょうど降りてきたのだろう。

 月森は微笑を作り、佐藤に近づく。そして挨拶しようとしたのだが、避けられた。

 月森は踊り場の手前で呆然とする。

 佐藤がまるで月森が単なる障害物であったように、無表情のまま、月森を避けて通ったのだ。

 月森はすぐさま振り返り、非情な先輩に呼びかける。

「佐藤、先輩!」

 やや張ったその声は、佐藤の歩みを止めた。そして振り返らせ、反応をもたらす。

「なんだ、月森君」

 佐藤はにこりともしない。

 会ってすぐ笑うような人間ではにのは知っている。

 だが、朝から悪いことがつづいている。

 まして、自分と佐藤の噂というのが、佐藤に届いていないともしれない。当然佐藤に迷惑をかけているだろうし、彼を貶めていると月森は不安になる。

「いえ……、なんでもありません」

 月森ははにかむと、頭を下げてその場を辞した。

 佐藤がどのような態度を取ったかは確かめず、逃げるかのようだった。

 逃げたのかと問われて、たぶん月森は肯定する。

 階段の陰で、佐藤から隠れる。佐藤も追ってはこないだろうと月森は思った。

 そして壁に両腕をつき、最低限殺した息をもらす。しばらく待って、壁を殴ったが、快音もしなければ自分の手が痛くて余計頭にくる

 そして再び、怒気をこめた吐息をもらす。

 次にくるのは、当然、虚無感だった。



 五時限目で、月森は限界を迎えた。授業中見当違いの答えを口にしてしまったのもあるが、不安、恐怖、そして怒りが解消されることなく山積したのだ。

 それもこれも佐藤という存在だ、と思う。

 彼に期待してしまった。

 そして依存しかけてしまった。

 日常の不意の変化によって、そのしっぺ返しが訪れた。

 春風には意味も時期も違いすぎる。春の訪れとは程遠い、まだ凍える冬の季節だ。

 月森は鈍重になった頭で懸命に授業を乗り切ると、誰にも告げず、保健室へと向かった。

 高校に入ってからは初めてのことだ。けれど、中学の頃は一時期よく利用していた。だから、おそらく普通の人間が持つ抵抗というのは、月森にはない。

 月森が保健室へ行くことで恐れるとすれば、二年前、中学二年生の夏の繰り返しだ。

 ……渡っていた頼りない糸がとうとう切れ、落ちてしまう。

 月森は保健室への廊下で、そんなイメージを抱いた。けれど、保健室へ行くことで糸が切れるのではなく、いま、こうして歩いていることこそが、糸の切れた照明であるとも思う。

 足取りがふらつく中、保健室のドアを開く。顔をうつむけ意図的に髪で顔を隠し、弱々しい声をわざと作って、手順に則ってベッドでの休養を計る。

 養護教諭の質問は腹痛でかわした。

 月森はもう、誰かに本当に気持ちを語る気はないものと思い始めていた。少なくともいま、こちらの顔をうかがってくる三十過ぎの養護教諭に何も心の深層を語る気はしない。

 六時限目を、ベッドの上で休んだ。

 そして七時限目もベッドで休むつもりだったが、ついに帰宅することを考え始めた。一度思いつくとぐるぐる頭の中を回りつづけ、やがて帰らなければならないとまで考え始めた。

 そうなるともう止まらない。保健室へやってきた時と同じだ。

 養護教諭に帰宅したい旨を告げ、早退のための紙に嘘の事情記入した。そして鞄を取りにいくべく、教室へ戻らなければならないことに初めて気づいた。

 クラスメイトの視線にさらされることが、とても恐ろしかった。

 保健室で休んでしまっている時点で、非難も批判もすでにあり、クラスメイトは嫉妬によく似た不満を抱えているだろう。その不満はすぐに蔑みへと表情を変える。

 だが、鞄を持って帰らないことのほうがずっと蔑まれてしまう。

 ベターを取るしかないのだ。

 月森は、心を閉ざした。檻を儲け錠前をつけ壁を作り塀を築く。

 すると、月森の目がガラス玉のようになった。

 先ほどまでよりも足取りはしっかりし背筋も伸びていて調子はよさそうだ。しかし、空ろな目が、けっして彼女が万全ではないことを示している。

 毅然としているようで、見るものに陰鬱さをもたらすことに、彼女は気づかない。

 教室での視線に耐え、学校を出た月森にも、安息は訪れなかった。

 将来への不安にひどくさいなまれている。

 恐怖とも怒りともつかない感情すら渦巻いている。

 そして今、横断歩道を歩いていた青年たちの中の一人と、自転車に乗っていた月森との接触事故を起きた。

 月森の不注意ももちろんあった。しかしあちらが急に月森のほうへと歩みを変えてきたせいもある。

 双方痛みわけと思い、互いに簡単に謝罪すれば場は収まるはずだった。

 法律上青年の側が有利だが、事実上、責任はほぼ対等であるし、そもそも月森のハンドルが青年の腕にぶつかっただけである。

 ところが青年の怒りは烈火のごとく、月森への敵意や悪意へと変貌する。

 自転車から転び、いまも地面に手をついて座っている少女への態度ではなかった。

 月森は呆然と青年の顔を見て、思考を止めた。

 青年が質の低い非難を月森に浴びせかけてくる。動物の鳴き声と同種の感嘆詞、月森を蔑む名詞、そして命令。この三つのカテゴリしか持ち合わせず、どころか同じ言葉を二度つづけて繰り返すことがあった。

 月森は、彼のことを頭が悪い、と蔑んだ。その思いは目を細めて彼を見つめることに繋がった。そしてどれだけ月森に予測が適ったかは知れないが、青年の怒りを助長した。

 青年は髪を染め、ピアスをつけている。肌の状態がやや悪いし、接近すればタバコの臭いが鼻につく。

 駅のパチンコ帰りか、という予想が立った。そして負けて、もともと気が立っていたところに、月森と接触事故を起こした、というわけだろう。

 青年が自転車を回りこんでいま、月森の正面にしゃがみ込んだ。

 青年の顔が月森の顔と突きあわされる。

 月森は対照的に無表情で、青年の顔を見る。

 生温い息が月森に吹きかけられ、気持ち悪い、と月森は思った。

 そして木嶋の言葉が蘇る。


 ――欲望のままに?


 目の前の青年はひどい頭痛の種だ。

 月森は閉ざされた心でも、それだけは感じ取った。

 いやそもそも心を閉ざそうと、脳の機能を歪めることはできない。ストレスを感じないようにすることはできない。意識の表層の上ってこないだけで、確かに、月森結衣は今苦しんでいる。

 月森結衣の心がいくら閉ざされようと、懸命なる脳機能は今の事態をプレッシャーとして感じることで、事態の解決を考えているのだ。

 だから、月森が彼を燃やしてしまおうなどと考えるのも、自然のことなのである。

「燃えろ」

 月森はかすれる声で、そうつぶやいた。

 青年が怪訝そうにするかと思えば、さらに苛立ちを増したようだった。

 月森の中で衝動に似たものがわきあがる。目の前にいる軽薄そうな――自分より年下の、しかも女性にからむという時点できっとそうに違いない――青年を燃やしてしまいたい。

 妄想などではなく、確かに月森はそのための力がある。

 一度『自然発火』としか思えない現象とて身近に起こった。月森の意志に沿ってのことでもある。

 そして、今、炎が上がる。

 月森は、あぜんとした。

 自分の意志があってのことではない。

 と、『思う』。

 目の前の青年が燃えているわけではない。

 ならば、自分が燃やしたわけではない、などと月森は思った。

 いくら不思議なことが起ころうと、そう、たとえば突然何かが燃えたとして、自分のせいではない。

 そもそも燃やそうなどと本気で考えたわけではない、という言い訳も浮かんだ。

 青年は健在で、月森の様子をいぶかり、そっと、背後を振り返った。

 彼にいますぐ状況を把握できるはずがない。

 ただ、まさしく神の鉄槌が振り下ろされたかのような、腹に響く鈍い音が駅周辺に広がった。

 雷がどこかに落ちたと、まず考えるのが一番自然だ。

 けれど残念ながら空は秋晴れの様相を呈している。

 そしていつまで経っても、雷のごろごろという余韻は聞こえてこない。

 代わりに聞こえてきたのは、女性の悲鳴だった。

 にわかに、ついさっきと異なる種類のざわめきが生じた。

 駅にいるどれだけの人間が、事態を把握できているのか。

 少なくとも月森だけは、すべてを見ていた。

 物悲しい雰囲気をかもし出す、夕焼けの街。

 駅ビルを背に、ひとつの光が生じた。

 その夕焼けに似た、朱色の光は、一秒の間に落ちて消えた。

 それは、焼身自殺、とも考えられる。

 だが月森は、己に備わっている能力と、いまの精神不安定な状態から、自分がやったかもしれないと、恐れずにはいられなかった。

 月森は思い出したかのように体の表面が冷え、そのくせ汗をかく。また体の芯だけは熱いくらいで、呼吸さえ苦しくなる始末だ。

 視界が白み、意識を手放すのにそう時間はかからなかった。




[20298] 『奇術師の語る真実』
Name: しじま◆5654787d ID:1d8f7faa
Date: 2010/07/21 17:25


 病院独特の、消毒液の匂いが鼻孔をくすぐる。

 月森は意識が覚醒するや否や、頭がクリアであることを感じた。そして目覚めは気持ちよく、体もいますぐ運動できそうなほど調子がよい。

 試しにベッドから上体を起こしてみれば、そのどれもをより実感する。

 遅れて、どこかの病院の、これまたどこかの個室であることに気づいた。

 院内着を着せられて、ベッドに寝させられていたのだろう。

 月森はしばらく、中空を見上げて思索にふけった。内容は直前の記憶の把握と現在の状況の把握。そして、佐藤やクラスメイトとのこれからの付き合い方、であった。

 そうしていると、病室のドアが開く。開く音はごく小さなもので、足音がしてはじめて、誰かの来訪がわかる。

 月森は中空を見上げる首の傾きのまま、来客のほうへ首を回す。彼女は見下すようでいて、異様な印象を与えることには気づかない。

 佐藤が学生服のままの格好をし、さらに無表情で、入り口そばに立っていた。

 病室のドアは音もなく自然に閉まり、閉まりきると、佐藤がベッドの横まで近づいてくる。そしてすぐそばまでやってくると、口を開いた。

「調子はどうだ?」
「何の用ですか」

 月森は佐藤にとられた態度そのままに返した。

 いまだ見下す首の傾きは直さなかった。

 佐藤は気にしたふうもなく、片手をポケットに入れると、喋り始めた。

「すべてを明らかにしにきた。主に、すでに死人が二人出ている事件を、だ」
「佐藤先輩は普通の高校生でしょう? ――失礼、とてもおかしな、だけど何の力もない男の子でしょう?」

 佐藤が悲しげな表情をするも、まもなく無表情に戻った。

「そうだな。だけど、俺だけは、きみに真実を語ることを恐れない」
「真実?」
「まずは二年前だ」

 月森は佐藤の間にも、言葉を挟まなかった。


「二年前、きみは、いじめに遭っていた。どれほどのものだったか、どれくらいきみが辛く苦しんだのか。わからないが、事実は、きみがスクールカウンセラに相談しにいった、ということだ。そして花咲真理、というのがそのスクールカウンセラだった。業者を除いて学校にいる大人はたいがい、『先生』と呼んでしまう。それに、精神科医とカウンセラの違いなんて、中学生にはわからないだろう」


 月森は見下す首の傾きを、うつむく首の傾きへとシフトする。

 うつむいたわりには、月森の心は晴れやかだ。というのも、うつむきがそのまま落ち込んだことを示すわけではない。むしろ彼女の薄笑いの表情を見るところ、笑いをこらえている、という節すらある。

 なぜおかしいのか。

 救われる心地がしたからだ。

 期待されても、期待に応えられなければ、期待がそのまま悪意にも敵意にも感じられてしまう。

 低く見られれば、たとえ何をしようと、楽なものだ。

 だが自尊心というものがそれを邪魔する。

 ――欲望のままに?

 楽をしたいのならそうすればいい。自尊心などかなぐり捨て、かつて叔父にそうしたように、依存しきってしまえばいい。

 裏切られた時、見捨てられた時、それは苦しいかもしれないが、また依存先を見つければよい。

 月森は、佐藤に依存を見出しかけた。だがもはやそのつもりはまるでない。


「そして花咲『先生』はきみの心を解きほぐした、はずだった。だが車同士の事故に遭い、死亡。きみは花咲先生を頼りにしていて、それが失われると、一時絶望の淵へ叩き込まれた。が、そこは人の強さか、きみは一人で立ち上がり、日々を生き、受験勉強もし、高校に進学し、今に至る。と、思っているのだろう、きみは?」


 佐藤の言葉は、月森の心には決して響かない。月森の薄ら笑いがいい証拠だ。
 だが、理性はどうか。頭の片隅で佐藤を燃やしてしまうことを検討しているところ、凡俗な言い方をするなら、理性は怒っている。


「過去のトラウマは正しい向き合い方をせねば傷となったままだ。かすり傷のように人間に備わっている機能で、回復することはある。だが洗い出さないままいると、長く傷ついたままだ。きみの場合、まさにそれなんだよ」


 月森君、と佐藤は結ぶと、月森に背を向け、隅にあったパイプイスを持ってくると、それに座った。立ったか座ったかの違いで、結局場所は移動していない。


「さてきみに情緒不安定な傾向があることは説明したとおり。さて次に、きみに犯行が可能かどうかを論じよう。……これまた二年前だ。二年前、きみの実家の裏山で、一件の放火事件が起きている。犯人は不明。というのも、その事件では、バーナーで焼き払ったかのように、満遍なく焼かれていた。放火は重罪だ。警察が懸命に捜査したが、今なお犯人は不明。それは当然。超能力なんてものが使われていたのなら」


「そうですか」

 月森は話の途中から、窓の外を見やっていた。まるで佐藤から思い切り目をそらしたかのようである。

 佐藤の言葉はつづく。


「超能力なんてものを持ち出せば、それはすべて解決するさ。学校の焼死体遺棄事件はきみが犯人であり、第一発見者となった。今日起きた焼身自殺の件もきみが犯人。きみの精神的な不安定さを鑑みて、好意的に見るとしたら、どちらも能力の暴走もしくは暴発。そもそも立件できず裁判が無理だから、こんな見解無意味だが」


 佐藤は太ももの間で指を組むと、細く長い息をついた。

 月森は横目でその様子を見ていたが、すぐに窓の外へと視線を戻した。

「それで、それが、真実ですか」
「冷静だね月森君」
「泣きわめくものと思っていましたか?」
「冷静でいるとは、思わなかったな」

 佐藤が小馬鹿にするような笑みを浮かべ、首を傾げる。

 しばらく、月森はその佐藤の様子を見つめていたが、つくのは溜息ひとつだった。

「証拠がありません。超能力があることも、それを使って事件が起きたということも」

「きみの冷静さの根拠はそれだけなのか?」

 月森は横目で佐藤の顔をうかがった。そして言う。

「自分が狂っているかもしれない、くらいは覚悟しています」
「では拘束され病院送りになっても異論はないと? 一切の質問をしないまま?」
「してほしいのならしてあげましょう。今までの付き合いの、終わりとして。……、管理会社というものがあるのですか?」
「ある」
「佐藤先輩はどのような役目を負っているのですか?」
「超能力犯罪の防止と解決」
「ずいぶんと対応が遅かったですね」
「それはこっちにもいろいろあるさ」

 そうですか、と月森はつぶやいて、そっとうなだれた。

 沈黙の時間が三分ほど流れると、佐藤が口を開いた。

「きみ、自覚なし? 人殺しの」
「残念ながら。そもそも、きっと銃以上に人を殺した実感がないと思います」
「じゃあ、いつから狂ったと思ってる?」
「自分の家の山を燃やしてから? ――いいえ、自覚したのはその時ですけど、狂ったのは、きっと、花咲先生が死んだ時からでしょう」

 月森が遠い目をする。

 佐藤が膝を指でつつき、リズムと取る。少しあって、ふいにリズムが途切れた。それから、佐藤が言葉を発した。

「きみの隠したがっているのはそこか」
「は?」

 佐藤が眉を詰め、非難を露にする。

「きっとそれ以前だ、きみが狂っているとして、狂ったタイミングというのは、それよりは前。もちろんショックだったろうが、そこじゃあない。――たとえば、そう、叔父、瀬田和馬に乱暴されたとか?」

 月森の顔が一瞬にして怒りに染まった。

 佐藤があざ笑う。

「怒った?」
「そんなわけがないでしょう、佐藤正義。そんなわけがない。そんなわけが、ない」

 月森が歯をむいて佐藤をにらんでいる。そして膝を曲げ、膝立ちになる。着々と、佐藤に襲いかかるための準備は整っていく。


「汚い言葉を使わないのは、きみの性質か。それとも、常に自分を偽ろうとする性質だろうかね、月森君。いつだってきみは劣等感を抱えて生きてきた。優れた姉を自慢する一方妬みと怒りの感情があり、優しく礼儀礼節の整った母を尊敬する一方甘えられず鬱屈、父親は言葉少なで愛されているのか不安になる。そして、ついには叔父から乱暴を受けた? そしてクラスメイトへも劣等感。心休まる場所がなく、花咲真理というスクールカウンセラの元を訪れたが、何の不幸か、叔父に交通事故とはいえ花咲真理を殺された」


 佐藤が息を吸う。

 その刹那、月森は燃えろと確かに思った。

 レスポンスは早く、炎が生じる。

 ただし佐藤は健在だった。そして少しも怯えたふうがなく、言った。


「以上が、すべての真実だ」



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