純白のスーツに身を包んだ男が、体育館の壇上にて挨拶を述べていた。
普段気だるげに集会を過ごす生徒が半数近い中、今、八割の及ぶ生徒が壇上の男の話に積極的な姿勢を見せている。
今までの教師はすべて、在校時の思い出、校風についての感想、これからの意気込み、熱心な人生論を話した。
だが白スーツの男は、微笑みをたたえ、今までと異なる一言を発した。
「皆さんは、何を考えて生きているのでしょう?」
生徒が目を瞬かせる中、男はそのままの調子で語りをつづけた。
「何も考えず? あるいは平凡これ幸いと? あるいは日々理想像を目指して? あるいは――日々の雑事にのみ囚われているのでしょうか? どれにせよ共通するのは、己の価値観に従っているということ。能力が及ばないとか家がどうとか人間関係がどうとか――はっきり言って、そんなのはごまかしです。生きている以上そんなものはいくらでもある。そして、どんなものも重くあり軽くある。それを決めるのはすべて自分。ゆえに、見定めなければなりません。己の中にあるものごとの価値を、です」
男の声は、マイクを通してスピーカーから増幅される。取り立ててそう感じられるのは、余韻が残りやすいからだ。
「何かをするとき理由はきっとあるでしょう? なんとなく、なんてものはそもそも悩みません。――そう、皆さんが何か選択に迷ったときの話を、私はしたいのです。周囲に惑わされ、判断を誤る。そういうことは残念ながらままあります。正しい判断とは、つまり、己のしたいがままにする、ということなのです」
そういう思いを持って、私は教師をやっています、と男は締めくくった。
◇ ◇ ◇
月曜日の、早朝のこと。
月森結衣(つきもり・ゆい)は学校にいた。
理由が手紙に朝一番にくるよう書かれていたから。
そして今、所定の呼び出し場所である部室棟の裏を訪れている。鞄を肩にかけ、白のコートを身にまとった姿だ。
月森の口から、断続的に白い呼気がもれていた。
示すのは興奮。
そして恐怖。
死体が、月森の二メートル先の眼下に遺棄されている。
悪臭が――する。
不道徳にも、まず悪臭について眉をひそめた。
腐っているわけではない。もっと異常だ。
全身が炭になっている。
燃やされたのだろう。
それもついさっき、と月森は予想する。そう思われるほどに、悪臭がひどく、月森の気分は悪い。
一方、なぜ冷静に事態を見つめる自分がいるのか、疑問せざるをえない。人生で初めて死体を見てしまった。全身が炭化したショッキングな死体だ。気分が悪い。なのに、依然、月森は死体を見つめつづけている。
目をそらせず、望むかのように死体を観察している。
その倒錯。その錯誤。
やがて、倒れるべきだという思考が芽生えた。
それはひどく冷静で――、淡白な思考によった。
倒れるまでの五秒にも満たない時間にも頭脳は働く。
このときほど脳の優秀さを呪ったことはない。そして共感と同情という人間
にあるべき機能については言うまでもない。
傾ぐ世界の中、燃えたのだと直感した。燃えて誰かだった人間は焼死体となった。
抗う間も、悲鳴を上げる間もなく、部室棟の裏で燃え尽きたのだ。その炎は死んでなお炎は勢いを弱めることなく、誰かを炭へと変えた。
その情景と苦しみと絶望を想像していれば、世界が白んでいく。
そして、地面がほとんど垂直になる。
刹那の後、全身に衝撃を受けた。草地で、朝露に体が濡れる。不快感を覚えた時、すでに世界は真っ白だった。
記憶が途切れる。
月森は救急車に運ばれ病院にて覚醒するまで、つかの間、誰かの呼びかけを聞いた。同時に頬を冷たい手で叩かれ、うっとうしいとも思う。
抗議の言葉は弱々しいうめきとして喉を通り、外界へと伝わる。
呼びかけが勢いづく。安心が得られてのことだろうが、不快でならない。
月森はいずれ文句を言ってやろうとほんの少しだけ目を開け、声の主の顔を見た。
瞠目した目でこちらを見つめる顔が間近に見える。色白で線も細いが、明らかに成人男性の顔だ。
木嶋悠一。
臨時教諭の顔だと確認して、月森は今度こそ本当に気を失った。
◇ ◇ ◇
死体遺棄事件のあった三週間後の月曜日、放課後。
月森は北欧を思わせるシックな内装の喫茶店にいた。店名は、看板が独特な書体だったのと、怪しい喫茶店、で伝わってしまう弊害で知らない。
もっとも、いま『怪しい喫茶店』などというイメージはない。外装からくる暗そうな印象を越えて入ってみれば、よい店である。客足の少なさやそのわりに安いメニューばかりで、道楽ではあるようだが、そのぶん上限が広かろうというものだ。
店内にいまいるのは四人。店主らしい妙齢の女性が店内奥のカウンタにいるのと、アルバイトらしい女子大生が入り口そばのレジに一人。入り口から見て左手前、のさらに隅のテーブルにつく月森と高校の先輩である佐藤正義、という四人になる。
佐藤は色白でうっすらと目元に隈があったり、目つきが悪かったりするために、見た目陰気だ。そうは言っても月森も所属する弓道部の大会における手伝いでよく見るし、当たり障りない会話なら幾度もしたことがある。コミュニケーションに問題はない。ただしその一方、エキセントリックな噂があるのが彼の評価のマイナスだ。
なんでも秘密結社の存在を信じているらしい。映画で見るような、フリーメイソンやシオン修道会というものではない。超能力者が実在し、その存在の秘匿や管理を行っているというのだ。
(ばかばかしい)
月森はささいな、けれど確かな蔑みを佐藤に抱いていた。男子というものが多少バカとは思うが、高校二年にもなってヒーローを心底信じているとなればばかばかしいと評価するよりない。大方冗談が通じず、通じなかった冗談を元に脚色されたのだろうが、軽蔑する気持ちは消えない。
「佐藤先輩」
月森は挨拶もそこそこに訊ねた。
「それ、ココアですか?」
佐藤の手元に白い無地のマグカップがある。こげ茶色のパウダーがこびりついているあたり、ほぼ間違いない。
「そうだが、何か?」
佐藤が憮然として訊き返す。
月森は微笑み、小馬鹿にしているのを隠しながら告げた。
「いえ、別に。ちょっと意外で」
「俺が何を飲もうとどうでもいいことだ。ホットミルクだろうがメロンソーダだろうが。そうだろう」
「ええ」
「真行寺の奴はこういうのをからかってくるがな」
佐藤の言う真行寺とは、弓道部の女子部長である真行寺詠美にほかならない。背が高くモデル体型だが、月森としては近くで見上げざるを得ないのともともとの顔や声の怖さとで苦手だった。
「そのバカが、この場をセッティングしたわけだが、およそお節介というよりないことだ」
月森は内心同意するが、態度にも言葉にもおくびにも出さなかった。
「心配してくださったとは思うんです。でも、やっぱりご迷惑ですよね」
「いや」
佐藤はマグカップを置く。視線はマグカップに注がれていたのが、月森の顔へと向く。月森が見返せば、佐藤は無機質な目をしていた。
「別にきみのことを知らないわけじゃない。迷惑ではない」
月森は『きみ』などという呼び方が嫌だった。キザだ、と佐藤をバカにしもする。
「お節介とは思うがな。その、死体遺棄事件か。嫌なものを見たことだろうが、専門家に任せられるところだ。本人が言い出したわけでもないに世話を焼くのは見当違いであり、空回りしている。実にあいつらしい」
佐藤は淡々と語り、視線を月森から外した。
月森は苦笑し、言う。
「そうでもありませんよ。誰か、近しい人に相談したいとは思っていました。ただ……、嫌な話には違いありませんし、愚痴とはどうも違ってきます。佐藤先輩は、ええ、絶妙な位置にいるかと」
「いまだよくわかっていないんだが……、この場の意図は何だ。残念ながら俺は、きみが学校で死体を見てしまったことと、ニュースの知識くらいしかない。いわば死体を目撃した女子高生Aにすぎない。多少なりともきみのことは知っているつもりだが、何を悩んでいるか、どんな意見を述べればいいのか皆目わからない」
「そうですね」
月森は右のほうへ視線をそらす。黒にほど近い茶色のテーブルがあるが、特に見ているわけではなく、思案にふけるためだ。
この場を簡素に終わらせようとばかり思っていた。いわば日常の雑事としてとらえていたが、事件に関して『もや』を感じているのも確かである。佐藤への蔑みが組み合わさって、深刻そうな悩みを提示してやろうと考えた。当然解決もできなければ満足な答えも返せないだろうが、佐藤の悩む様を見てやるのも面白そうだった。とかく佐藤という少年は、浮世離れしている雰囲気がある。俗めいた一面が見られれば、『もや』も多少なりとも晴れるかもしれない。
「――事件のことで、少し悩ましいことがありまして」
「死体を見たショックとかではなく?」
「はい。それについては、不思議とありません」
佐藤がわかりやすく息をついた。
月森はそのジェスチャをする心理にやや気分を害した。心配であるにせよ安心であるにせよ、自分を低く見たものには変わらないからだ。
ささいな意趣返しに、畳みかけた。
「実はですねご存知とは思いますが死体と言っても焼死体だったのです。それはもう黒焦げの。ともすれば人の形に見えないような――」
月森は凄惨な語りをしていることにはたと気づき、口元に手をやって言葉を止めた。
佐藤が目をほんの少しだけ細める。
「気にしないからつづけるといい」
月森は苦いものを腹に溜めつつ、ええ、とうなずいて、言葉をつづけた。
「問題はですね、死体が燃えたばかりであったという点です。まさか廃棄された焼却炉を使って燃やしたということもないでしょうけど、まさか超能力なんてことがあるのでしょうか」
月森は佐藤を言外にバカにする一方、心に棘が突き刺さる。
自分自身が、その超能力を持つ人間であるがゆえである。
佐藤が穏やかに笑い、言った。
「まさか。大方テレビのニュースや週刊誌を見てそんなことを考えたんだろうが、ちゃんと説明がつけられる」
月森は知らず目を大きく見開いていた。次の瞬間には頬の内肉を甘く噛み、それからまもなくして先をうながした。
「説明?」
「俺は事件についてネットニュースくらいしか見ていないからか、予断とか面白がるような真似とかはしていないんだよ。きみの場合、情報量が多いからそんなこと考えてしまったんだろうけど」
月森の頬を噛む力が強くなる。決して噛み切ってしまうようなことはないものの、腹立たしくてならない。
佐藤のおかしそうな物言いがつづく。
「論理の飛躍が起きているだけだ。月森君」
月森は『君』づけなのも嫌だった。とはいえそのことに眉をひそめている時でもないので、怪訝そうな顔をするだけに留めた。
「神様なんていないと思う。多くの日本人がそうだ。けれど多くは慣習、ならわしみたく初詣に出かけるし祭りにも参加する。これはおかしいことだろうか」
「いいえ」
月森は授業で答える時のように、すまして答えた。
「単なるイベントとして参加しているだけです。本来の形は信仰あってこそのことだと思いますが、いまはそうとは言いがたいです」
佐藤が満足げにひとつうなずいた。
「そう。そうした理由づけを持って信仰心あっての行事が信仰心のない人々によって行われる不連続を連続した事象としてとらえられる。要はきちんとした理由を与えられれば不思議に見えるかもしれない出来事も自然な出来事になる」
「当たり前じゃないですか」
月森は包み隠さず呆れてみせた。
それでも、佐藤は笑みを崩さなかった。
「では今回のことに当てはめてみよう。わかりやすくしてみるとこうだ。死体を見た。焼死体だった。燃えたばかりだった。ゆえに見る前に燃えていたに違いない。しかし状況的に燃やす方法は考えられにくい。けれど事実起きた。だから何か方法があったはずだ。しかしその方法というのが超常現象など持ってくるほかないから迷いが生じている」
「そんなことはわかってます」
月森は憤りながら言った。
すると、佐藤があざ笑うかのような表情を見せた。
「どうかな? わかっていないから迷っているんだ。いくら方法について考えてみたところで答えが出ないなら、前提に立ち返ってしかるべきだ。数学の問題を解いている途中だけれど、今までの仮定もしくは場合わけが不適切だった。簡単な話だ」
佐藤がもっともらしく二度、三度とうなずく。
月森はそれを見て、す、と目を細めた。
「別にバカにしてるわけじゃない。灯台下暗し、というだけだ。気づかないだけでよくあることだ」
苦笑を浮かべる佐藤。
ジャズの音楽をバックミュージックにしての会話は、テンポに反して穏やかならない。
「さて」佐藤は声を張って仕切りなおしを計ったようだった。「とりもなおさず燃えたばかりだったなどという前提を崩せばまず簡単だ。不思議は減少する。およそ一般的な死体遺棄となるんだから。では前提を崩す根拠とは何か。もちろん前提に関する根拠を否定できることだ。奇妙なことが起きたという根拠は、何がある? こちらでもおおよそ見当はついてるが」
月森は佐藤の嫌味に表情をくもらせたが、あからさまに嫌な顔はしなかった。
「もちろん私の経験です。私があの場を訪れた時、ひどい臭いがしていました。だから、燃えたばかりだったと」
ふんふん、と佐藤が相槌を打ってから、人差し指を立ててみせた。ちょっと揺らす様がキザったらしい。
「もうひとつ。あるだろう? テレビのニュースや、もしかしたら週刊誌、ひょっとすると噂を根拠としているかもしれない」
「テレビのニュースとかは、それはよく知りませんけど警察の発表を報道しているのですから」
言いつつ、月森は脳裏にひっかかるものを感じていた。それが何か確かめる間に、佐藤が言ってしまう。
「警察の発表する様をそのまま報道しただろうか。――もちろんそうじゃない。テレビ局というフィルタを通し、きみに届いている。テレビ局独自の報道と言っていいかもしれない。ある程度の信頼性はあるが、絶対じゃない。独自の見解を述べたりするし独自の調査をしたりする。警察の発表でも、まして事実でもない」
月森が言葉を返しかねていると、佐藤が自信満々に言葉をつづける。
「ではきみの経験は誤りだったのか。いいや、真実だよ」
月森はイライラするあまり、テーブルの下でスカートのひだをいじっていた。誰も見ていないなら頭をかいてしまいたい。
「訊くがね、月森君。――きみがかいだのは本当に死体の臭いだったのだろうか。焼却炉があるということは、自然、ゴミ捨て場があることもわかるね?」
月森は刹那の内に頭がクリアになって、ほぼ同時に目を大きくする。
ややあって、佐藤が微笑んだ。
「たったそれだけの話なんだ」