小人閑居(闍潤E間居)して不善を為す


ベトナムと中国で同じ製品を同じ条件で作らせている日本企業がある。
で、その日本人の技術指導者が視察に出かけて曰く、
「その作業に携わるベトナム人と中国人との違いを強いていうならば」
「ベトナム人は、日本から偉い人が来て自分の作業を見ている、ということをほとんど意識しないで淡々とすべき作業をいつもと変わらず(おそらく)やっている」
「それと反対に中国人は、そういう人に見られているということをものすごく意識している。自分を良く評価してほしいという雰囲気が出ている」と。
あくまでも個人的考察なので、それが正しい判断なのかどうか言えないし、正しかったとしてもその態度のどっちが良くてどっちが悪いという話ではない。個性でありお国柄というものかもしれない。
つまりはそれを享受し乗り越えて品質の高い製品を効率よく生産せねばならぬ、という苦労話の一部である。

しかーし。
これを聞いてひねくれものの私めは、
「ということは、そういう目がなかったら、人に見られてなかったら・・・」
などと思ってしまったのでありました。
だって中国にはぴったりの言葉があるんだものー。ちょっと長くなりますが、関連する前後を抜き出してみます。

曰く
誠意というのは、まず自分の心を欺かないことである。 いやな臭いをいやだなーと思うように、素敵な色を素敵だなーと思うように、心に素直であることだ。自然にそうなれば自分の心の中に本当の満足が得られる。こころよいというのはそういうことなのだ。それゆえに君子たらんとするものは一人でいる時も必ず身を慎んでいなければならない。
が、それに対して、
中身のくだらない人間は一人でいると(人が見てないと)悪いことをする。
しかも際限なくやる。立派な人を見てからやっと自分の悪いことを隠そうとし、あわてて善いことを行う。 でも他人の自分を見る目というのは、内臓まで見通してしまうぐらい(鋭いもの)であるから、そんな風にしても(取り繕っても)なんの役にも立たないのだ。バレバレなのだ。 「本心で誠であればそれは自然に外に現れる」というではないか。何度もいうが、だからこそ君子は一人でいるときでも必ず身を慎むのである。


『大学』の 小人闍盾オて不善を為す が登場する部分である。
これは“誠意”に関して解説された部分で、抜き出しせずに通して読みたいところ。痛いところを突かれてドキドキするが、たまにはこんな文を読んで身を正さねばな、とか思う。
(大学:もともと五経の一つの『礼記』の中の一篇だったが、宋の時代の朱子が、同じく『礼記』の中の一篇であった『中庸』、および『論語』『孟子』を四書として必読の書とした。孔子の言葉と弟子である曽子がそれを解説するという形で、個人的な身の修めかたから始まる天下治世の方法論や原則を述べている)

で、さっきから「う〜ん?」と不審の声を上げていらっしゃる方がいるのではと察します。
「小人かんきょして不善をなす、ってそういう意味だっけぇ? かんきょの字も知ってるのと違うし。ぶつぶつ」
この言葉は普通、『凡人凡夫は仕事がなく暇でいるとろくなことをしない(悪いことをする)。だから時を惜しんで働け』、というような意味で使うはずである。

自分も悪ガキ高校生の頃、教師によく言われたもんである。
「お前ら暇だから悪いことやくだらないことに頭が回るんだ。小人閑居して不善を為す、だな。だから暇ができないように休みの課題はたっぷり出してやる」

自分が君子であると本心から自認自覚する日本人はほとんどいない(はずである)。ゆえに小人=一般人、普通の人、というような認識がある。それゆえ、小人=人はだれでも、というような認識にさらに広がる。
よって、この言葉には日本人全員に「ぼーっとヒマしてるんじゃない、はたらけー!」というような叱咤をあたえているような雰囲気があるのだ。
「ヒマ」という言葉、「働かない」という状態は、日本人の遺伝子を不機嫌にさせるものだから(笑)、よけいこの言葉が身にしみる。

それが、意味が違うとは、どぉゆぅこと〜〜?
問題は「かんきょ」である。
先ほど出てきた『大学』の闍盾フ閨i門構えに月)は、間と一緒。(間は閧フ俗字)
で、実は閑も、間と同じ意味で使われることが多いのだった。
たとえば、閑話休題とも間話休題とも書くことができ、意味はもちろん一緒。
閑人と書くと暇な人のことだが、間人と書いても同じ意味になる。
したがって閑居も間居も同じ意味である。
“閑を使った熟語は間を参照のこと”、なんて注意書きの漢和辞典もあるくらいだ。

しかし、厄介なことにぜんぜん違う意味も同時に持っている。
先ほどの間人は暇な人のほかに、スパイの意味もある。
「大知は閑閑たり。小知は間間たり」という言葉もある。(大知は広くおおらかである。小知はこせこせしている)
経典や礼記に、仲尼(孔子)間居して曰く、というような言葉が出てくるが、それはなにも孔子が一人でいてただぶつぶつしゃべってるのではない(笑) そうだったらただの危ない人で、彼が何を言ったかなんぞ後世に残るわけがない。その時はそばにお弟子さんがちゃんといる。ゆえにこの間居は一人でいるという意味ではない。
小人間居して不善を為す、という言葉の間居が「一人でいるとき」という意味になるのは、 「君子は一人でいるときでも必ずその身を慎むのである」という言葉があり、対になっているからである。

複数の意味を持つ言葉があって、
そして原典を深く忠実に追求する必要がなければ
その言葉の意味は受け取る側に都合のいいものが選択されるのでは、と思う。
そして言葉は一人歩きを始める。

もともと故事成語はそういう経過をたどってできたものだろう。これまでの項でも「今使われてる意味と原義とはちょっと違うよね」、と何回か書いた気がする。

原義にひどくこだわるあまり、
「闍盾フ閧ヘ閑の異字。しかも閑に暇というような意味はない。とんでもない誤解である。使い方を間違えてはいけない」と憤られている方を見かけるが、どうだろう。
繰り返すが、閧ヘ間の正字でさらに間と閑はしばしば入れ替わって使われる、ということである。そして閑居(間居)には「仕事がなく暇である」という意味も、「くつろいで静かに休んでる」という意味も「人を避けて一人でいる」という意味もあるのだ。
だから『大学』での意味は意味として、この言葉を独立させて使うときは『小人は仕事がなく暇でいるとろくなことをしない。暇でいてはいけない、仕事しろ』などとしても間違いではないと、るうは思うのだった。

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所謂其の意を誠にすとは、自ら欺くことなきなり。悪臭を悪むが如く、好色を好むが如くす。此れを之、自ら謙(こころよ)くすと謂う。故に君子は必ず其の独りを慎むなり。
小人は闍盾オて不善を為し 至らざる所無し。君子を見て然る後に厭然として其の不善をおおい、其の善を著さんとするも、人の己を視ること、其の肺肝を見るが如く。然れば則ち何ぞ益あらんや。此れを「中に誠なれば、外に形る」と謂う。故に君子は必ず其の独りを慎むなり。

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同じ部分から 慎独(しんどく) という語ができている。
・自分一人のときでも、心を正しくもち行いを慎むこと。



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