コラム

2010年05月05日号

【新視点ー検察と政治の56年】
昭和29年、造船疑獄、検事総長の法相へ請訓、法相の指揮権発動の筋書を作った高瀬青山


●高瀬青山
 私はこの欄で高瀬青山のことを再三にわたって取り上げた。構成が下手なのと、テーマが古い話なのでアクセスは決して多くはなかった。それでも高瀬を知っている知人から文献・資料とともに次の知らせを貰った。その人は「元新聞記者」だった。この場を借りてお礼を言います。ありがとうございました。

 知らせをくれた方の話や文献・資料によると、高瀬は明治31年(1898年生まれ)というから、三浦義一と同年配、笹川良一の1歳年長、児玉誉士夫より13歳も年長であった。これでは東洋精糖乗っ取り事件の際、児玉の言うことを高瀬が頷かなかったのが、よく理解できる。「陰の棲息者」としての重みが違っていたと考えたのであろう。
 高瀬は終戦時、47歳だった訳だ。栃木県出身、本名は通。祖父は漢学者で作新学院の教頭を務めたという。その祖父が「青山」と号していたと伝えられる。それで「通」もいつのころかはわからぬが、「青山」を名乗ったと推理する。

●横田千之助
 郷里の先輩・横田千之助の書生になったことが「黒幕人生」の始まりだったそうだ。明治・大正・昭和初期に活躍した弁護士で政治家の花井卓蔵に勧められ「総会屋の草分け」となった久保祐三郎と似ている。私は昭和37年の東洋電機のカラーテレビ事件の際、久保と会った体験を持つ。
 横田千之助(1870ー1925)は大正時代の政治家、原敬内閣の内閣法制局長官、加藤高明の護憲三派内閣の司法大臣(1924年6月ー25年2月)も務めた。高瀬の旧丸ビル7階の事務所は横田の事務所を引き継いだのかも知れない。旧丸ビルができたとの高瀬の年齢を考えるとそんな気がするからだ。
 戦時中、シンガポールを占領した山下奉文大将(1885ー1946)の「私設顧問」だったとされる。私は勅任官待遇の嘱託だったのではないかと推察する。児玉は海軍航空本部、高瀬は陸軍に関係していたわけだ。山下将軍の顧問だった時代も旧丸に事務所を構えていたと思う。

●陰で筋書きを作る
 どういういきさつがあったか、はわからぬが、高瀬は造船疑獄当時(昭和29年)、緒方副総理(1888ー1956)の相談相手となり、緒方と馬場義続東京地検検事正(1902ー1977)とのバイブ役となる。56歳だった。高瀬は緒方、馬場に協力して「検事総長の法相に対する佐藤栄作逮捕の請訓、法相の逮捕延期を指示する指揮権発動」の筋書きを作ったと推理する。緒方は検察から「佐藤、池田を守り」馬場は見返りに緒方から「馬場・河井が将来検事総長になれるよう障害は排除することの確約」を得た。馬場は造船疑獄で指揮権発動を予期できていたのである。馬場を語るなら、表の河井信太郎検事、裏の高瀬青山抜きでは語れない。それが誰も語ろうとしないので私が語ることにしたのである。

 高瀬は東急グループの総帥だった五島慶太(1882ー1959)の影武者とも言われていたとも語り継がれている。常日頃から高瀬は「私は陰で筋書きを書いている人間だ。誰それと親しいなどと言えない」と述懐していたとされる。闇の仕掛人だったわけだ。高瀬の沈黙は黒幕=仕掛人の鏡といえる。勿論、私が会った黒幕・笹川良一、三浦義一、児玉誉士夫にしても、多弁な人ではなかった。尤も、笹川は黒幕を卒業、船舶振興会会長として表の主役として有名になった。この時代は多弁だった。弟の了平が「兄貴の話にはまいったよ」と電話でよく言っていた。私は了平と親しかった。

●五島慶太の影武者 
 高瀬は昭和33年5月頃には東急の東洋精糖乗っ取り事件に木村篤太郎(弁護士、元検事総長、法務大臣)、藍沢弥八(東京証券取引所理事長)、田口真二(東京証券取引所専務理事)、大株主として檜垣文市(安田海上火災社長)と共に調停者として表舞台に登場した。大株主の五島の身代わりであった。59歳だった。
 五島の顧問弁護士だった柴田武が昭和33年夏頃、高瀬を「政財界の黒幕」と教えてくれた。柴田は昭和20年代の終わり、第二東京弁護士会会長、日弁連副会長を務めた弁護士業界では大物だった。高瀬は白木屋乗っ取りにも関係していたと柴田から聞いた。この時から高瀬、柴田は児玉、松下幸徳(佐賀潜)の向こう淵に回っていたわけだ。
 児玉は黒幕としては有名になりすぎた。黒幕は有名になった時が上り坂と下り坂の境目であるからだ。児玉の黒幕人生が20数年続いたのは政界から造船疑獄のスケープゴートにされた犬養健を昭和35年8月28日亡くなるまで面倒をみてきたことに由来すると私は捉える、それで鳩山、岸内閣と同様、池田、佐藤、田中内閣と命脈が保てたと私は推理する。

●陰で生き闇に消えた人
 高瀬は1898年に生まれ、横田千之助に仕え、山下奉文、緒方竹虎、五島慶太、馬場義続らの影で生き、緒方、五島、馬場らのために陰で筋書きを書き、馬場の検事総長退官を機に世の中の表から姿を消した人物であることが分かる。
「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」の心境だったと思う。高瀬は馬場より4歳年長だった。世の表面から消えたのは70歳くらいだったと思う。田中角栄とは肌が合わなかったという確度の高い証言もある。
 井本台吉(1905年ー1995年)。馬場の後任検事総長だが、井本は戦前、司法省思想課長をしており、笹川、児玉の戦前をよく知っていたが、高瀬の存在は把握していなかった。法務省刑事局長時代、高瀬と会っておりながら、「政治ゴロ」としか、みていなかった。政治ゴロと黒幕、大きな違いだ。終戦前は位階勲等がなく政財界、華族界を舞台に陰で活動する人を浪人といった。黒幕は浪人でも、総理や副総理、財界人なら五島慶太クラスを動かせたが、政治ゴロにはそんな力はない。井本は見誤ったことは間違いない。
 歴史に「もし」はありえないが、井本が刑事局長時代、高瀬の存在と高瀬の作った筋書きに気付いていたら日本の政治も、検察も違った道を辿っていたと私は思う。

 とにもかくにも私がその高瀬を旧丸7階の高瀬事務所に表敬訪問したことは間違いない。五島の顧問弁護士の柴田の助言による。
 高瀬の生きた証はネット上には「獨協同窓会公式サイト」に今も「天野貞祐後援会の人びと」として写真が残っている。黒幕・田中清玄(1906年ー1993年)とも交流があったようだ。
 高瀬青山は造船疑獄の指揮権発動を巡り「政治権力と検察権力」を妥協させた黒幕であったことは間違いない。特捜検察の1頁を飾るべき人物だった。(敬称略 以下次号)


戻る