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駆逐艦「朝潮」 最近の日本人は、ほんとうに大人しくなったといいます。
その日本人が、昔はとてつもなく強かったといいます。
当時の日本人は、いまよりもずっと小柄だし、食べ物も粗末だった。
その日本人が、世界中の港町で、絶賛を浴びています。もはや伝説にすらなった。
明治時代に作られたこの伝説のおかげで、なんとそれから60年くらい、昭和40年代頃までは、貨物船などの普通の日本船員さんまでも、日本人というだけで、モテた。
一晩中、お相手をしてもらって無料だというので、お礼に気持ちで着ていたTシャツ1枚をあげてきた、なんて話もあちこちであったようです。
どうして?と聞くと、昔おばあちゃんが若かったころ、日本人の船員さんに助けられたこ
とがある、などと言う。
こちらがちゃんとお金を払うというのに、向こうがいらないというのです。
どうして?と聞いてみると、1890年代といいますから明治の中ごろのことです。
おばあちゃんが日本人に命を助けられたという。
当時の東南アジアや南米の港町は、白人天国です。
絶対的支配階層である白人に対し、現地の人々は人間としてすら認識されなかった。
黒人や東洋人は、魚や虫たちのように「痛覚がない」とすら本気で信じられていた時代です。
男性は単なるモノとしての労働力だったし、すこし気の毒な言い方だけど、若い女性は単なる性器でしかなかった。
とりわけ港町というのは、気の荒い白人たちが集まります。
白クマのように毛むくじゃらで大柄な白人の大男が、大酒を飲んで好き放題に暴れまわる。
そういうところに、海軍の軍服を小ざっぱりと着こなした日本人がやってきます。
みんな小柄で、やせっぽちです。
どうみてもあまり強そうにはみえない。
日本人水兵さんたちが酒場で飲んでいると、いつものように酔っぱらった白人が女性にからんで暴れ出します。
巨漢です。丸太のような腕をして、大暴れする。
こうなると手がつけられません。
そこへ日本人のちっちゃな水平さんが、
「オイ、ヤメロッ!」と割ってはいる。
ちなみに日本では昔も今も、仲間の男性が殴り合いの喧嘩をはじめると、まわりのみんなが「オイ、ヤメロ」と割って入ります。
ときにはみんなで囲んで、ケンカをしている二人を引き離す。
日本人の心なんて、昔も今もかわりません。
ところが欧米の人(というより大陸系の人すべてに共通ですが)は、ケンカがはじまると周囲に人だかりがして、どっちが勝つか応援を始めます。
このあたりのマインドの違いは、実に顕著です。
酔っぱらって女性を乱暴に組み敷こうとした毛むくじゃらの白人巨漢。
でっぷりと太った身長190cmくらいの大男です。
「ヤメロ!」と割って入った日本人は、身長150cmくらいです。
どうみても、オトナと子供のケンカです。勝敗は明らかです。
日本人が叩きのめされるのは時間の問題。
まわりには、面白がって人が集まってきます。
白人の大男が何かわめきながら、日本人水兵さんに殴りかかります。
ところが、そのパンチがまるで当たらない。
毛筋一本で、ひょいひょいと避(よ)けられる。
それもそのはずです。
当時の軍隊は、剣道が必須です。
木刀や竹刀の切っ先のスピードは、プロのボクサーのパンチよりもはるかに早い。
まして酔っ払いの大振りなパンチなど、スローモーションビデオを見ているようなものです。
ちなみに、日本の剣道には、「盾」の概念がありません。
「盾」で相手の剣を受けて、自分の剣で相手をブン殴るという欧米方式と異なり、日本の剣術は、素早さと相手の動きを「読む」ことで敵の攻撃をかわします。
実は昨今のように剣道が防具を付けるようになるのは、比較的最近のことです。
もともとは木刀を持って、防具なしで練習した。
木刀は、当たれば痛いし、打ちどころが悪ければ死にます。
だからそれを交わす訓練を徹底的に受けた。
ついでにいうと、最近の時代劇で、相手の剣を、自分の剣でチャリーンと受けるけれど、あれはウソです。
日本刀で日本刀を受けたら、歯こぼれするし、刀身が折れてしまい、相手を斬れません。
だいたい力一杯撃ち込んでくる相手の剣を、まともに受けたら、猛烈に体力を消耗するし、下手すれば突き飛ばされてしまいます。
ですから日本刀対日本刀の闘いは、刀身と刀身を合わせない(ぶつけない)というのが、基本中の基本です。
そういう訓練を受けてきた日本人水兵さんと、欧米式のブン殴り水兵さんの闘いです。
大男が、いくら拳をブン回しても、まるで日本人には当たらない。
そのうち、ハッと気がついたときには、大男は力一杯、硬い床に叩きつけられている。
そうです。柔道の投げ技です。
柔道の投げ技というのは、柔らかい畳の上で、ちゃんとした受け身をするから怪我をしな
いのです。
受け身を知らない人が、そのまま硬い床に投げられたら、痛くてしばらく体が動きません。
さらに転んだところを間接技や絞め技で決められる。
関節技は、痛いです。
絞め技は、頸動脈を締め付けるので、一瞬で気を失います。
気を失った男は、日本人にエイッと「活」を入れてもらうと息を吹き返しますが、目を覚ました瞬間は、自分がどこにいるかさえわからなくなっています。
どうみても、誰が見ても、絶対に負けると思われた小柄な日本人が、あっと言う間に、大男の白人水兵を、のしてしまう。
バーの店内は、拍手喝さいです。
こういうところは白人のいいところで、ウエットに自分たち人種の勝ちにこだわるのではなく、相手が「すごい!」となったら、ドライに一瞬でみんなの尊敬が集まる。
勝った日本人は、バーでおごられ、襲われていた女性店員には感謝され、それでも鼻高々となることなどなくて、どこまでも謙虚です。
こうした日本人の逸話は、世界中の港町で起こります。日本人は有名になったし、信用され、地元ではそれが伝説にさえなった。
いつもは酔っぱらうと乱暴を働く白人の暴れ者も、日本の軍艦が港に着いたよ、と聞くとおとなしくなったともいいます。
おかげで、日本人がだいぶ弱くなった(笑)戦後も、昭和50年頃までは、日本人とい
えば、世界中の港町でモテモテにだった。
それも、もとをたどせば、戦前の帝国海軍の水兵さんたちが、世界の港で築いた伝説と信用です。
さてその帝国艦隊の中でも、とびきりの荒くれ者揃いだったのが、水雷艇部隊です。
彼らには「水雷屋気質」という言葉があったくらいで、この連中は怒り出すと手がつけられない。
だいたい艦長からして気が荒く、「このばかもんッ」と怒声を発すればまさに雷のごとくで、階級が上の若い将校が、恐れをなしてマストの上まで逃げたという逸話まであるくらいです。
同時に、過ぎてしまえば春風駘蕩としてあとに何も残さない、というのも水雷屋の特徴で、こういうところは実にさっぱりしている。
豪放磊落で笑いが絶えない。
けれど、怒ると怒髪天を抜き、あとはさっぱりして何も残さない。
これが水雷屋です。
水雷部隊出身者といえば、このブログでもご紹介した終戦時の内閣総理大臣
鈴木貫太郎 は、日清・日露戦争の水雷艇の花型でした。
「水雷の鬼」と呼ばれた
吉川潔中佐 は、世界の海戦史を塗り替えています。
鈴木貫太郎は、千葉県関宿のご出身。
吉川潔中佐は、広島市段原のご出身。
そして水雷艇といえば、もうひとり、忘れてならないのが、佐藤康夫大佐(戦死後二階級特進して中将)です。
佐藤康夫中将 佐藤康夫氏は、明治27年、東京の文京区小石川で生まれています。
もともとは、神奈川県の牧野村で代々医師の家系だったそうです。
幕末、徳川さんが江戸城を空け渡して、駿河(静岡)に移ったとき、一緒に静岡に移った。
ただ、母方の祖父が東京にいたので、小学校にあがる直前までは、小石川で過ごされたようです。
小学校から、静岡で過ごします。
通った小学校が駿河城址二の丸あとの学校で、お堀を隔てた向こう側は、静岡連隊の練兵場です。
そこでは毎日勇ましい訓練が行われています。
これが実にかっこいい。
練兵をみて育った佐藤少年は、いつか軍人になろうと志ざします。
静岡中学(いまの静岡県立静岡高校)に進学した佐藤は、そこで猛勉強をして、海軍兵学校に入学します。
ちなみに最近、格差是正だのすべての子供に子供手当を支給するだのという「たわごと」がまかり通っていますが、当時の兵学校というのは、授業料も寮費も、全部免除です。親に負担をかけることなく、自分の努力で国内最高の教育訓練を受けることができた。だからみんな猛勉強したのです。
人は格差があるから努力するのです。
努力しようが何しようが、結果がすべて平等だというなら、まじめに努力する者より「努力しない者」の方が、ラクです。
こういうことは、子を育てようとする教育とはいわない。むしろ教育を奪う愚民化政策です。
兵学校時代の佐藤には、さまざまな逸話があります。
どうも成績はあまりパッとしなかったらしい。
ところが、とてつもなく柔道が強かった。
太めの短躯で、まるでクマが歩くように、のっしのっしと歩いた。
棒倒しが大好きで、、真っ先に突進してゆくときの気迫は物凄く、同期生から本気で恐れられたといいます。
ついたあだ名が「ブルドック」です。
ところが海軍士官候補生でありながら、水泳はからっきし。
まるでブルドックが、溺れているような泳ぎ方です。
体が太いのだからよく浮きそうなものだけれど、ぜんぜんダメです。
海軍にいながら、陸では向かうところ敵なしといっていいくらい強いけれど、水にはいると、からっきし泳げない。
佐藤のこういうところが、実にかわいい。
そのくせ頑張り屋です。
冬でも毛布を用いずに、シーツ一枚で寝た。
その一方で、知的なんですね。
休暇の都度、鎌倉の円覚寺に行って座禅を組んでいます。
日ごろから豪放磊落で、大酒のみで、ひとたび血がたぎれば猛烈果敢に突進する。
その一方で、静かな禅を好む。
大酒のみといえば、佐藤は任官してからも、一行動を終えて泊地に入ると、その夕食時から酒を飲みはじめ、翌日の夕方近くまで、じつに二十四時間近くも、眠りもせずに飲みつづけたなんて逸話も残されています。
まるで日心会関西の某さんと某さんみたいです(^^)b
任官した佐藤は、もっぱら水雷艇を歩み、水雷長、駆逐艦長、駆逐隊司令と進みます。
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水雷ほどいいものはない。
おれは水雷に入って本当に良かったと思っている。
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それが佐藤の口癖だったそうです。
後年、佐藤に仕えた海軍兵学校66期生の西野恒郎氏が、当時の佐藤について、次のような手記に残しています。
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この時期、私が仕えた指令は、後にガタルカナル進攻作戦で2階級特進し中将になられた佐藤康夫指令でした。
「俺は若い頃、司令官の五藤存知大佐から、頭脳雑駁にして勇敢なりと考課表に書かれた」と大笑する豪傑でした。
静岡育ちの佐藤指令は、宴会では必ず
「♪仁義すごろく丁半賭けて〜」と調子外れに歌いだす。
いたずらざかりの少尉の私が
「今日は私が歌います」と言って先に歌いだすと満足そうに聞かれていました。
「航海士、君は俺が何故この歌を歌うか知っているか」と突然聞いてきた。
「知りません」と答えると、
「何時か米国と戦争が始まる。今度の戦争は無傷ではすまない。
戦争がはじまったら俺は駆逐艦を率いて、やるかやられるか敵艦に向かって突っ込み魚雷を打ち込む、博徒が丁半かけるように」
と決意に満ちた表情で言われました。
先輩佐藤指令は、酒席の間にも戦いへの準備をしていたのです。
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太っちょで、丸々とした童顔。
佐藤は、何ごとも「信を相手の腹中におく」という人柄で、まさに戦国武将の風格が感じられた人だったともいいます。
戦闘の最中、至近距離で敵弾が飛んでくると、緊張のあまり大小便をチビル奴も出る。
ところが、佐藤司令の顔を見ると、常にかすかな笑みを浮かべて敵の陣地を見据え、微動だにしない。
佐藤の姿を目にするだけで、乗員は勇気100倍だったそうです。
そんな佐藤の日ごろの楽しみはタバコで、毎日二百本入りのチェリーの大函を買ってくる。それで足らない日があったそうで、佐藤の右手はヤニで黄色くなっていたそうです。
加えて、大飯食いで、菓子も大好き。
そこに置いてあれば、どんな菓子でもぼりぼり平らげてしまったそうです。
肥満体で、大酒のみで、大のタバコ好きで、大飯食いで、甘党。
どう考えても不養生です。
ところが佐藤の健康はまるで「巌」で、血圧も糖尿もまったく心配がない。
内臓も頑丈で、あるといえば足の水虫くらいだった。
これには軍医長も舌をまいたといいます。
のちにガダルカナルの補給や撤収で全軍が苦労した頃、制空権を奪われた危険極まりないガ島往復任務で、これを三回もやると、たいていの士官は眼がくぼみ、頬が尖って異相となり、体重も激減して、血尿が出て、ひどいときは神経衰弱になった。
ところが佐藤はガ島往復を12回もやったのに、顔色ひとつ変わらないし、むしろ以前より太ったそうです。
これには誰もが驚いた。
佐藤は、上海事変、支那事変といく度も戦ったが、大東亜戦争だけでも、何と27回もの戦闘に参加しています。
昭和17年2月27日のスラバヤ沖海戦のときの出来事です。
米英蘭巡洋艦5、駆逐艦9の大艦隊と、西村祥治少将率いる駆逐艦6隻が艦隊戦を行った。
14対6の戦いです。
どうみても勝ち目はない。
両軍が、1万7000メートルに迫ります。
まず「神通」が砲撃を開始した。
米英蘭艦隊も撃ち返してきます。
米英の艦隊は、各艦の砲撃効果識別のために、砲弾に染料を使用しています。
だから轟音とともに、巨大な赤や青や黄の水柱があちこちに立ちます。
西村少将の第四水雷戦隊はさらに突っ込んで魚雷を立てつづけに撃つけれど、これがなかなかあたらない。
しばらく激しい砲雷撃戦がつづいたが、そのうち「羽黒」の一弾が英巡エクゼターに命中します。
さらに魚雷がオランダ駆逐艦に命中する。
轟沈です。
大混乱に陥った連合軍は、全軍退避を始める。
追撃する日本艦隊。
駆逐艦は、距離7500メートルまで接近して、魚雷を発射し、反転するというのが、当時の海戦のセオリーです。
あんまり近づきすぎると、敵弾の餌食になるからです。
ところが、その中で、佐藤康夫司令指揮する第九駆逐隊の「朝雲」と「峯雲」が、7500メートルを超えてさらに全速で突っ込んで行く。
敵弾がすさまじい勢いで、艦の両舷で炸裂し、轟音とともに水しぶきをあげます。
「朝雲」の艦橋では、水雷長が気が気でありません。
「司令、もう撃ちましょう」という。
佐藤は前方をぐっと睨んだまま、
「まだ、まだッ」と答える。
こんな言い合いが二、三度くり返されたそうです。
それでも佐藤は発射を許可しない。
たまりかねた岩橋透艦長が、
「司令、他の隊は反転しました。当隊も反転したらどうですか」と進言すると、
佐藤は、
「艦長ッ、うしろなど見るなッ、前へ!」
ものすごい気迫の大声を飛ばした。
あまりの気迫に、岩橋艦長は思わず首をすくめたそうです。
二艦は、並列して走る単縦陣です。
東方へ逃走する連合軍艦隊に対し、距離4000メートルになった。
海上4000メートルというのは、感覚的には25メートルプールの先の人を撃つ感覚です。もう目の鼻の先に敵がいる。
その頃には、日本側がたった二隻の駆逐艦であることに、敵艦隊も気づきます。
敵は反転攻勢に出る。
多勢に無勢なんてもんじゃありません。
反転攻勢に出られたら、袋叩きです。
そのとき、佐藤司令が
「発射はじめッ」と号令した。
満を持した「朝雲」と「峯雲」が、いっせいに魚雷を発射します。
日ごろの訓練の賜物です。
この距離の日本軍水雷艇の魚雷攻撃は、まさに百発百中です。
放った魚雷は、英国の旗艦マーブルヘッドに命中。
轟音とともにマーブルヘッドは、なんとわずか7分で沈没してしまった。
敵艦隊は、英国駆逐艦「エンカウンター」と「エレクトラ」が捨て身の反撃に出てきます。
なんと距離3000メートルという、超至近距離での砲撃戦となった。
しかしなおも全速力で近づきながら、砲撃してくる「朝雲」と「峯雲」の砲撃に圧倒さ
れた「エンカウンター」はあわてて反転離脱する。
単艦となった「エレクトラ」は、缶室に砲弾が命中して航行不能となる。
しかしこのとき「エレクトラ」の放った反撃の一弾が「朝雲」の機械室に命中した。
「朝雲」は電源故障を起こし電源が止まる。
電源が停まると、主砲が動きません。
砲撃隊は慌てるけれど、電力は戻らない。
佐藤がすぐさま司令を発します。
「砲は人力で操作ッ、砲撃を続行せよッ」
落ちた電源の修復に必死になっていた砲撃隊は、佐藤の命令で、まるで目を覚ましたように人力による砲撃を開始します。
「朝雲」の照準砲撃が再開されます。
さらに「峯雲」が、一撃必中の砲撃を加える。
そして、ついに「エレクトラ」も撃沈してしまいます。
この戦闘は、3時間に及ぶものでした。
敵に大損害を与えた佐藤は、午後8時になって、悠々と現場を引き上げます。
にくいばかりの豪胆さです。
全軍司令であった高木惣吉少将は、当時を振り返って、佐藤の艦隊を次のように激賞しています。
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この突撃戦のとき、巡洋艦は1万7千メートルくらい。
駆逐艦もせいぜい8千〜1万メートルくらいから酸素魚雷を発射していたのです。
ところが佐藤司令だけは、第九駆逐隊をひきいて、勇敢に敵に向かって突進してゆく。
艦長が敵の集中射撃を心配すると、彼は、
「艦長、戦場ではうしろなんか見るな」とたしなめ、友隊の射程距離の半分の四千メートルに迫って魚雷を発射し、悠々と引き上げてきました。
敵の被害の大半は、この佐藤司令の働きによるものです。
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ちなみに、この戦いによって、英重巡洋艦「エクゼター」と「エンカウンター(1,350トン)も轟沈しました。
そして両艦艦長を含む約450人の英海軍将兵が漂流の身となったとき、日本の駆逐艦「雷(いかづち)」の工藤俊作艦長が、英国人水兵450名全員を救助した。
そのときのお話が、
≪エクゼターとエンカウンター・・・日本の武士道精神≫です。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-532.html よろしかったら、是非、ご一読を。
佐藤の駆逐艦隊は、戦局厳しいガダルカナル島への輸送作戦の任務に就きます。
佐藤は、日誌に次のように記した。
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難局に
男冥加と突入す
なるもならぬも
神に任せて
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制空権を奪われ、まる裸で輸送任務を負うのです。
本来、輸送船というものは非武装船です。
国際法上は、攻撃禁止となっている。
だから日本側が米英艦隊の輸送船を攻撃したという記録は、誤射を除いてほとんどありません。
ところが、日本の輸送船は、武装していない船だけに、米英から格好の標的とされた。
やむをえず日本は、戦闘船である駆逐艦で輸送任務を行うようになったのです。
敵軍がうようよいる中でのガ島への輸送作戦です。
ただでさえ小型の駆逐艦は、積荷を艦一杯に積むと、重量がかさんで、軽快な戦闘行動がとれない。船が重たければ、敵が来たら逃げ切れないし、戦闘中の乗員の艦内通行にも支障が出ます。
なので、中にはすこしでも船を軽くするため、積荷を減らすように何かと文句を言う艦もあったそうです。
ところが佐藤は出撃前、「おい、もっと積むものはないか」と逆に催促をしてまで、めいっぱい積荷を積みこんだ。
何事も「俺がやる!」と率先垂範だった佐藤ならではの振舞いです。
当時、船が深夜にガ島に着いて、積荷を降ろしていると、かならず敵機が襲来したそうです。
すると佐藤は、まっ先に司令の乗艦の探照灯をつけるように命じます。
真っ暗闇の中で、煌々(こうこう)とライトを点けるのです。
敵爆撃機に、まさに撃ってくださいと、いわんばかりです。
当然、敵が群がり寄ってくる。
それを友軍の他艦とともに、狙いすましてはたき落とす。
敵が逃げてく。墜ちて行く。
肉を切らせて骨を断つといいますが、射撃場の標的になるようなものです。
普通の神経でできるようなことじゃない。
まさに、佐藤司令ならではの豪胆な作戦です。
昭和17年11月、第三次ソロモソ海戦を戦い、2回も感状を受けた佐藤は、休暇を得て静岡の自宅に帰ります。
彼には、年老いた母と、妻と4人の子供がいました。
ほんの数日の家族との団欒でした。
そしてこの休暇が、佐藤と家族との永久(とわ)の別れとなります。
昭和17年8月、大本営はガダルカナル島奪回作戦を命じます。
しかし、すでに制空権を失った日本側に、ガ島での勝機はなく、
「糧食は9月13、14日で食い尽くし、一粒の米もなく、全員絶食の状態で5〜6日行軍し、檳榔樹の若芽が唯一の食糧であった」という、状況となってしまった。
これについて、たまに大本営はまったく補給を無視した無謀な作戦をやったなどというおバカな歴史家がいますが、とんでもないことです。
輸送船を襲われたのです。
だから糧食を届けることすらかなわなかったのです。
結果からみれば、無謀な作戦といえるかもしれないけれど、補給を無視したなどというのは、当時の海軍将兵に失礼というものです。
彼らは、命がけで輸送任務を遂行した。
実際そのために、多くの船と将兵が犠牲になっています。
ガ島輸送作戦が、我が国「駆逐艦の墓場」とさえ言われたのは、そのためです。
昭和18年2月1日から7日間、ガ島撤収作戦が行われました。
このときガ島から救助できた将兵は、わずかに約1万3千名です。
そしてそのほとんどが飢餓と疫病、戦傷に苦しみ、戦力を失っていた。
敵機の襲撃をうけながら、幾度となく決死の撤収作戦に従事した佐藤は、そのつど剛胆
にして細心な指揮によって、ようやく無事撤収作戦を終わることができたけれど、
陸軍側から、最後の一兵が乗船し終わりました、との報告をうけてもなお、佐藤は陸上
をいつまでも確かめることをやめなかったといいます。
ガ島での困難な輸送、撤退作戦のほとんどに参加した佐藤は、昭和18(1943)年2月末、東部ニューギニアの要衝ラエに対する増援作戦「八一号作戦」の護衛任務につきます。
この作戦は、当初から成算の見込みは、まず無い、とされた。
不成功に終わるということは、全滅する、ということです。
佐藤はラバウル出撃の前の晩、海兵の一期下で同じ分隊であった特務艦「野島」艦長松
本亀太郎大佐と酒を酌み交わします。
彼は言った。
「今度の作戦は危ないかもしれん。
だがな松本、貴様の艦がやられたときにはすぐに飛んでいって救助してやるから安心しろ」
作戦は、米軍機による一方的な爆撃によって、輸送船団、護衛部隊ともに壊滅的な損害を被るものとなります。
すでに無抵抗となった輸送船団に、敵機は、さらに再来襲をかけてくる。
これは戦闘ではありません。屠殺です。
第三水雷戦隊司令官木村昌福少将は、3月3日10時30分、残存艦艇に一時退避命令を下します。
このとき佐藤は、後方の第八駆逐隊の旗艦「朝潮」に座乗していて、まだ無傷だった。
佐藤は、約束を守る男です。
作戦前に松本大佐と交わした、「どちらかがやられたときは必ず救援に駆けつける」という約束を守り、
「我、野島艦長との約束有り、野島救援の後避退する」との信号を発します。
木村少将も、佐藤なら成功させてくれるに違いないと、祈るような思いでこれを許可した。
「朝潮」は、他艦が避退に移る中、単艦で「野島」救助に向かう。
ようやく「野島」を見つけて近づくと、近くに航行不能となった「荒潮」も漂流している。
佐藤は「朝潮」を駆って、松本大佐を含めた両艦の生存者を全員救助し、付近にいた輸送船を連れて避退に移ります。
ところが、この直後、B−17爆撃機16機、A−20攻撃機12機、B−25爆撃機10機、ブリストル・ボーファイター5機、P−38戦闘機11機、合計54機の敵機が来襲し、輸送船団を攻撃します。
この攻撃で、すでに無力化していた駆逐艦、非武装の輸送船「神愛丸」「太明丸」「帝洋丸」「野島」が被弾沈没します。
被弾し航行不能となっていた「大井川丸」、駆逐艦「荒潮」「時津風」も撃沈される。
これが所謂「ダンピールの悲劇」とも呼ばれる「ビスマルク海海戦」です。
海戦というより、屠殺そのものだった。
米英濠の飛行機部隊は、無抵抗の救命ボートの乗員にまで、反復継続して機銃攻撃を加えています。
敵機来襲時、攻撃・・・というより反撃力を持っていたのは、佐藤の乗船する「朝潮」だけです。
「朝潮」は猛烈に反撃したけれど、敵機に袋叩きに遭います。
そして、ついに航行不能になった。
艦長吉井中佐や、救助されていた「荒潮」艦長久保木中佐以下多数の将兵が「朝潮」船内で戦死しています。
やむなく「朝潮」に、総員退艦命令が下された。
この時、この時点でまだ生存していた松本大佐が退艦しようとしたところ、佐藤大佐はまだ無事で、松本大佐を見つけて
「早く退艦しろよ」と、にっこり笑った。
松本大佐が、「司令こそ早く退艦してください」というと、
司令は笑いながら、
「いや、俺はもう疲れたよ。
このへんでゆっくり休ませてもらうさ。
さあ、貴様は早く退艦したまえ。」
そう言って、沈みつつある「朝潮」の前甲板に、背中を向けてどっかりと座り込んだ。
松本大佐は、瞬時に佐藤の覚悟を悟ります。
松本大佐の目から、滂沱の涙が流れた。
松本は、意を決して別れを告げると海に飛び込み艦から離れます。
そして、しばらく泳いでから「朝潮」を振り返った。
そこには、沈みつつある「朝潮」の前甲板で、悠然と手足を組みながら、大空を見上げてタバコを吸う、佐藤大佐の姿があったといいます。
佐藤の駆逐隊司令としての海戦参加回数は27回。
ガダルカナル島への輸送作戦参加が12回。
挙げた武勲は数知れず、その挺身精神とその適切な状況判断能力には定評のあった歴戦の水雷屋、佐藤康夫は、こうして戦死しました。
「水雷の鬼」と呼ばれた吉川潔中佐らと並び称される卓越した水雷指揮官として惜しまれる戦死でした。48歳でした。
佐藤は、生前の軍功に報いる形で戦死後二階級特進、海軍中将に任ぜられています。
みなさんに、これだけは言いたいのです。
日本の軍人さんたちは、無力化した敵や、輸送船のような非武装船に対する攻撃などは一切しなかった。
あくまでも、武をもって立ち向かってくる者に対してのみ、全力を挙げ、正々堂々と戦った。
ましてや、救命ボートにいる敵は、救助こそすれ、攻撃を加えるような卑怯な真似は一切しなかった。
それは武人としての誇りでもあったのです。
そして、そういう正々堂々の戦いを挑んだのは、間違いなく、わたしたちの祖父や曾祖父の若き日の出来事であり、私たちは、彼らと血のつながった孫や曾孫です。
敵兵とはいえ、抵抗できなくなった者に対し、まるで牛や豚を殺処分するかのように平然と攻撃を加えて殺しまくった者たちを「正義」と讃え、正々堂々と戦い、散っていかれた自分たちと血のつながった父祖たちを見下すというのは、絶対におかしな話です。
そういう、おかしなことを、私たち日本人は、戦後65年間、ずっとしてきた。
いい加減、もう目を覚ましましょうよ。
そして、命を賭けて、堂々と戦いぬいた帝国軍人さんたちを、もういちど見直してみましょうよ。
彼らは、私たち自身の民族としての誇りであり、私たち自身の誇りなのですから。
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