日本に手を出した国は必ず滅びる・・・それが歴史の事実です。 日本は相互信頼主義を根本とする国です。 命をかけて戦った先人たちの努力を見直し、日本の素晴らしさを再認識して、階級闘争主義の汚染から日本を守ろう。

駆逐艦「雪風」の幸運

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駆逐艦「雪風」
駆逐艦「雪風」



今日は、駆逐艦「雪風(ゆきかぜ)」のお話をしてみようかと思います。

日露戦争に勝利した日本は、全世界からの称賛を浴びました。
しかしこの勝利は、同時に世界を警戒させたのです。

これは当然のことです。
すごい国が現れたら、称賛すると同時に、それなりの警戒もする。

それが国際政治というものです。
破れれば国が滅ぶ。
自国民の幾万の命が奪われ、経済が破壊され、それまで蓄積した歴史や伝統、文化の一切を失う。
それが西欧の歴史です。

話し合って解決するなどない。
話し合いに際しても、最後に利害を決定づけるのは常に「力」です。

財力、知力、体力、人間力、技術力、国力、軍事力、経済力、政治力、すべて「力」という字がつく。
国際政治では、常に「力」が正義であり、「弱い」ということは正義ではないということなのです。

だから西欧は、日本が日露戦争に勝利したことを受けて、まさに「建艦競争」の状況になった。

日本が、世界最強とうたわれたバルチック艦隊を破ったのです。

自国の安全を図るためには、日本をはるかにうわまわる海軍力を持たなければならない。

それは「戦争をするため」ではありません。
矛盾するようだけれど「戦争をしないため」「相手に屈服しないため」「自らの自由を守るため」なのです。

世の中とは、そういうものです。

おかげで、西欧各国は、巨額の歳費がかさむことになった。
どこの国でも、カネは無尽蔵にあるわけではありません。

これは国の経済を圧迫する。

そこで、当事者国が集まって、政治的に日本の海軍力を抑え込もう、ということになった。
それが、昭和五(1930)年のロンドン海軍軍縮会議です。

うわべは、「世界平和のために」です。
しかし、世界は「きれいごと」で動いているのではありません。

それ以前に、大正三(1914)年に勃発した第一次世界大戦後、世界は「国際連盟」を作るけれど、そのときのパリ講和会議(大正8年)で日本の牧野伸顕全権が主張したのは「人種差別の撤廃」です。

黄色人種も、黒人も、同じ人間である。
人としての尊厳は、人類みな同じである。

いまでは、ほとんど「あたりまえ」としか思われないかもしれないけれど、当時の植民地全盛の世界にあっては、人種平等論=植民地経済の否定=植民地経営型政治と利権の全否定、ということになったのです。

つまり、日本の主張は、そのまま世界の否定だった。

イギリスのラムゼイ・マクドナルド首相の提唱で開催されたロンドン海軍軍縮会議は、英、米、仏、伊、日の五カ国で協議されます。

そして日本はこの会議で、たとえば駆逐艦は、米:英:日の比率が、10:10:7とするなど、列強に比して海軍力を大幅に制限されることになった。

艦の数=砲門の数でもあります。

日本と英国が、10:7ということは、ランチェスターの法則にしたがえば、√(10^2−7^2)です。

計算上からすれば、日英もし戦えば、日本の艦隊は全滅し、英国艦隊は7隻が生き残る。

米英が同盟すれば、√(20^2−7^2)で、約19隻が生き残り、日本艦隊は壊滅する。

いまにしてみれば、英米の見事な外交戦略です。

日本は、「約束を守る国、信義に厚い国、決まりを遵守する国」です。
国際会議で議決をすれば、ちゃんとその決めごとを守る。
どこかの国のように、「約束しても平気で無視する」いい加減な国家とは違う。

これで、日本に大勝利した。日本を政治的に封じ込めた。
日本に対して、ゆるぎない絶対的優位を勝ち得たと考えたのは、英米です。

ところが日本という国は、ルールが変わると、いつのまにかその新しいルールの枠組みの中で工夫を凝らし、再び「強く」なる。
いまも昔も変わりません。

ロンドン軍縮会議の結果、艦船の量的制限を加えられた日本は、艦船の数が足らない分、それを「性能で補ってしまえ」と、小型で高性能な駆逐艦を、またたく間に開発建造してしまったのです。

これが新造駆逐艦の「陽炎型」「朝潮型」「夕雲型」です。

そして、このとき造られた50隻が、大東亜戦争を通じて大活躍をする。

ちなみにこのときの日本の取り組みは、その後の海軍の様式を一変させています。

よく、日本は航空機の時代に大艦巨砲主義の大和を作ったからバカだとかいろいろ言う人がいますが、これは違います。

当時はまだ世界は戦艦の時代だったのです。

そして「動いている戦艦は、飛行機では絶対に沈めることができない」と言われていた世界の常識を、最初に破壊し、航空戦によってイギリスが誇る最新の巨大戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を撃沈したのも日本です。

参考→http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-531.html

さらにいえば、米軍が世界最大の不沈空母「ミッドウエー」を建造するまで、世界最大最強の空母は日本の「信濃」だった。

もうひとつ付け加えれば、大東亜戦争で、日本の小型駆逐艦があまりに強く、倍以上の敵艦隊さえも殲滅するなどの活躍をしたことで、いまや世界の海軍の主力艦は、イージス艦とよばれる小型で高速の駆逐艦になってしまった。

日本の技術力、押して知るべしです。


話を戻します。
ロンドン海軍軍縮会議を受けて、日本が建造した50隻新型駆逐艦の中に、今日の主役となる奇跡の駆逐艦「雪風」がいます。

「雪風」は、陽炎型駆逐艦の8番艦として、昭和十三(1938)年八月に起工され、昭和十四(1939)年三月に進水しています。
まさに大東亜戦争の直前に就航している。

そして「雪風」は、大東亜戦争で、「激戦」といわれる海の戦いのほぼすべてに参戦し、数々の大戦果をあげただけでなく、ほぼ無傷で終戦まで生き残った。

しかも、大東亜戦争全期間を通じて、「雪風」の乗員で戦死したものは、10人いないのです。

まるでアニメの宇宙戦艦ヤマトみたいな話ですが、事実です。


「雪風」は、排水量2,033トン、全長118.5メートル、全幅10.8メートルと、小柄な船です。

ちなみに「大和」は、排水量72,809トン、全長263メートル、全幅38.9メートルです。

「雪風」が、いかに小柄か、わかろうというものです。

大和と雪風
(大和の手前にいる小さな船が見えますでしょうか?)
大和と雪風


「雪風」の初戦は、昭和十六(1941)年十二月八日です。
そうです。
大東亜戦争開戦の日です。

帝国海軍の巨艦が真珠湾に向かう一方、「雪風」を含む駆逐艦群は、世界最強の水雷戦隊「第二艦隊第二水雷戦隊」として、南方戦線に向かいます。

この頃の帝国海軍の強さは、まさに「化け物」じみています。

フィリピン攻略戦、蘭印攻略戦、セレベス島上陸戦、アンボン島上陸戦、チモール島上陸戦にジャワ攻略作戦、ニューギニア攻略戦等の戦いで、帝国海軍は、次々に敵艦隊を撃破。

おかげで、インド洋から太平洋にかけて、運用可能な英米連合国軍の主力艦艇は、まるでいなくなってしまいました。

ジャワ攻略作戦では、有名なスラバヤ沖海戦がありました。

この戦いは、大東亜戦争における最初の艦隊同士の大海戦です。
歴史に残る戦いです。

このとき日本海軍は、東部ジャワ方面攻略部隊として第四八師団と坂口支隊が登場する輸送船を護ってジャワ海を航行していました。

日本艦隊の陣容は、
 輸送船 49
 重巡洋艦 2
 軽巡洋艦 2
 駆逐艦 14 です。

昭和十七(1942)年二月二七日、その輸送船団に、カレル・ドールマン少将率いる米、蘭、英、濠、4か国の連合艦隊が襲いかかります。

敵の兵力は、重巡洋艦エクゼター、駆逐艦エンカウンターを含む17隻です。

二日間にわたる大砲撃戦の結果、日本軍は、駆逐艦「朝雲」が大破してしまいました。
日本側の被害は、それだけです。

他方、米英4か国の連合軍の方は、重巡洋艦エクセター(英)、軽巡洋艦デ・ロイテル(蘭)、ジャワ(蘭)、駆逐艦コルテノール(蘭)、エレクトラ(英)、ジュピター(英)、エンカウンター(英)、ポープ(米)が撃沈され、米重巡洋艦ヒューストン(米)が大破した。

なんと日本海軍は、攻めてきた17隻のうち、8隻を大破沈没させ、1隻を破壊し、敵の抵抗力を奪ったのです。

しかも、日本の輸送船団は、無傷。

ちなみに、このとき沈没したエクゼターと、エンカウンターの乗組員は、生き残った味方の船にも置いてかれ、付近の海を漂流していしまいます。

本来は、戦闘が終結して敵が去った後、生き残った味方の船が救助にあたなければならないのだけれど、米英の船は、そのまま全部、帰投してしまった。

エクゼターと、エンカウンターの乗組員たちは、陸から遠く離れた海の上を漂流します。

これをたまたま見つけた日本の駆逐艦「雷(いかづち)」が、自艦の危険すら顧みず、敵である英国人水兵全員を救助しています。

後年、このとき助けられた「サー」の称号を持つ大英帝国海軍中尉サムエル・フォール卿が、このときの体験談を綴り、話題になりました。
このお話は、↓でご紹介させていただきました。
 ↓
≪エクゼターとエンカウンター≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-532.html

この戦いで、「雪風」は、僚艦とともに敵巡洋艦2隻を撃沈する武勲を立てています。

その後、雪風は、参戦する海戦で、ことごとく武勲をたてて行きます。

そんな中で、「ミッドゥエー海戦」が起こります。


さて、ここから先の「雪風」の物語には、「雪と風の物語」(URL=http://www.ne.jp/asahi/kkd/yog/gf4_1.htmというサイトにある文章を転載させていただきます。

すばらしく良く書けている文章です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ご存じの通り、ミッドゥエー海戦は帝国海軍の強さの根元たる”機動部隊の壊滅”という最悪の結果に終わります。

雪風もこの作戦に参加してましたが、彼女はミッドゥエー島占領部隊を乗せた輸送船団の護衛として船団の先頭に立って進軍しており、先を進む機動部隊全滅と作戦中止の報が入った為、反転して内地へと帰還する事になりました。

この後しばらく雪風は、残った機動部隊の護衛を任せられることになり、ミッドゥエーから内地へ、そしてトラック諸島へと機動部隊に随伴。
そのまま機動部隊同士における初の海戦「南太平洋海戦」にも参加する事になります。


その後、日本軍のフロリダ島・ガダルカナル島への上陸が始まると、ソロモンにおける地獄のような闘いが始まります。

大日本帝国・連合国共に大量の戦力を投入し、約一年と数ヶ月の間、陸で空で、そして海で……戦いが続く事になるのです。

特に海での戦いは、他に例が無いほどの密度で行われた結果多数の艦船が沈み、何時しかソロモンのガダルカナル近海の海峡は、鉄底海峡と呼ばれるようになります。

この激戦区へと雪風が姿を見せたのは、高速戦艦比叡・霧島を投入した第三次ソロモン海戦です。

双方の水上打撃部隊が殴り合うこの地獄絵図のような戦場でも、彼女は駆逐艦を撃沈する武勲を立てました。

結果的にこの海戦で敵巡洋艦他六隻撃沈・五隻大破の戦果をあげたのですが、帝国海軍側も多大な被害を被る事になりました。

数々の艦が傷つき鉄底海峡へと沈んでしまったのですが、それらの中には高速戦艦比叡と霧島も含まれていました。


戦艦というのは海軍――否、国の象徴でもあり、それが沈む事は兵の士気に大きく影響してしまいます。

無論、精神的な問題だけではありません。

機動部隊に随伴が可能な高速戦艦は、実用的な意味から見れば大和級戦艦よりも遙かに貴重な存在だったのです。


戦艦すら沈み、参加艦艇の大半が傷つき亡くなった第三次ソロモン海戦でしたが、雪風は帰ってきました。

多少の被害はありましたが作戦行動には全く支障はなく、彼女は修理のため内地に向かう空母「飛鷹」の護衛をかねて呉へと戻る事になります。


そして今度は修理が終わった空母「瑞鳳」の護衛をしながらトラック諸島へ進出し、以後再びソロモンの地獄へと舞い戻ります。

この時、既にガダルカナル島の放棄は決定されており、連合艦隊は島に残された将兵達の救出活動に難儀していました。

完全に孤立したガダルカナルの兵を見殺しにする事も出来ず、幾度の救出・撤収作戦が行われたが結果は思わしくはありません。

最新のエレクトロニクスで武装した連合軍の目をかいくぐり将兵を救出する事自体が、既に自殺行為にも等しい状況だったのです。


その様な状況においても、雪風は三度にわたるガダルカナル撤収作戦に参加し、参加作戦における総計で一万三千名もの将兵の救出に成功させました。



昭和十八年――連合国側の大反攻が激化し、ソロモンにおける連日連夜の死闘の結果、大量の艦艇を失った連合艦隊。

ガダルカナルを取り戻す事は不可能となり、それでも日本の死活領域とされていたソロモンの戦線を必死に持ちこたえようとする為に、無謀とも思われる作戦が続けられてゆきます。


雪風もまた、そういった作戦に駆り出される事となり、ガダルカナル撤収作戦が終了した後はニューギニア支援作戦に参加します。

八千名の増援部隊を載せた船団の護衛に就き、一路ラバウルからニューギニアへ向かいます。

ところが米軍に発見され、三月二日から三日にかけて、のべ三百機以上による大空襲を受けるのですが、これが帝国にとって忌まわしき「ビスマルク海戦」です。

この戦闘で米軍は、爆弾を小石のように海面をバウンドさせる「反跳爆撃」という新戦術を投入し、何と輸送船団が全滅する結果になります。

更に護衛の駆逐艦ですら半数が沈められたこの戦いは、戦場だったダンピール海峡の名を取って「ダンピールの悲劇」とも呼ばれました。

悲劇と称される熾烈な戦闘でも雪風は生き残り、しかも撤退する事なく海上で救出した将兵と、もとより雪風に座乗していた一個大隊を無事輸送することに成功させるのです。


しかし雪風一人が健闘したところでソロモン戦線が持ち直すはずもなく、日本にとっての戦況は日増しに厳しくなってゆきます。

島に上陸した軍への補給は滞り、餓死者さえもが続出する最悪の事態となりますが、補給を送ろうにも足の遅い輸送船では米軍の防衛網を突破することも不可能な状況でした。


そこで苦肉の策として、潜水艦や高速の駆逐艦で輸送作戦を行うようになりますが、当然ながら効率は非常に悪いです。

しかもそれらを用いてもなお、思うように補給・輸送作戦ははかどらず、結果的に大切な汎用艦である駆逐艦を多数失う結果になってしまいます。

雪風もまた、そんな輸送作戦への参加が命ぜられ、ニュージョージア島のムンダ飛行場のテコ入れの為の増援輸送任務へと就きました。


そんな十八年七月十二日――輸送艦隊は連合国軍の偵察網に引っかかり、コロンバンガラ沖夜戦が始まります。

この戦いにおいて、彼女に初めて搭載された逆探装置が有効に働き、レーダーを装備した敵艦隊とほぼ同時刻に索敵に成功したと言います。

艦隊戦力差が一対二という劣性において、艦隊旗艦の軽巡神通は捨て身の探照灯照射を慣行、その結果敵艦隊の陣形を把握した二水戦は突撃を開始。

当然ながら神通には敵艦隊からの集中攻撃――六インチ砲弾二六三〇発との事――を受け大破し、後に駆逐艦からの雷撃を受け撃沈してしまいます。


しかし彼女が命がけでもたらした情報を元に、雪風の菅間艦長が艦隊の指揮を執って統制魚雷戦を実施。

敵艦隊の軽巡ホノルル、セントルイスを大破、駆逐艦グインを轟沈させると、更に艦隊運動の混乱を誘い駆逐艦ウッドワースを大破させ、数に優る敵艦隊を退ける事に成功し、千二百名もの陸軍将兵の揚陸に成功させます。



久しぶりの大戦果を喜ぶ間もなく同月二十日、雪風はベララベラ沖海戦に出撃。

九月には一度内地に戻り整備を行うものの、翌十月には物資輸送でシンガポールへ出立。

次いで機動部隊の護衛でトラック諸島へ……と、休む間もなく出撃が続きます。


年が明け十九年六月――連合艦隊が決戦の意気込みで挑むマリアナ沖海戦が始まります。

雪風もまた、この海戦に参加予定でしたが、訓練中の事故で推進器が壊れて速力が半減してしまった為、応急処置の後、油槽船団の護衛をしつつ内地へ帰還する任務に就きます。

彼女が参加しなかったマリアナ沖海戦は、連合艦隊が大敗を喫し、やっと再建した機動部隊も事実上の壊滅となってしまいます。

負け戦に参加出来なくなったのも、彼女の持つ強運だったのかもしれません。


雪風が護衛に就いた油槽船団はと言えば、敵潜水艦に発見され襲撃を受ける事になったものの、彼女の働きで被害をただ一隻にくい止めることに成功し、大事な油を内地に運ぶことに成功するのです。

あ号作戦――マリアナ沖海戦で大敗し、油不足も深刻化した連合艦隊は、帝国の絶対防衛圏をフィリピンから北海道近海までの四つの地域に区分けし、それぞれでで敵を打つ捷号作戦(一〜四号)を計画します。

やがて連合軍のフィリピン方面での一大反攻作戦を察知すると、ついに捷一号作戦へ踏み切ります。

それは言うなれば、連合艦隊の残存戦力をすべて投入して行う、レイテ湾への「なぐり込み」でした。

規模・範囲・双方の兵力、ありとあらゆる意味で人類史上最大の海戦「レイテ海戦」は、こうして始まったのです。

修理を終えた雪風は、大和・武蔵・長門を中核とした三二隻による主力艦隊に配属され太平洋をレイテへ向けて進みます。

途中発生したサマール沖海戦――戦艦が空母を砲撃したという珍しい戦闘――では、雷撃で護衛空母一隻を撃沈したと言われています。

小沢提督自ら座乗する機動部隊を囮に使った捷一号作戦は、大本営が描いた青写真通りに進み、レイテの防衛網に穴が開きます。

後は主力艦隊(武蔵を失ったとはいえ、戦艦四隻――大和・長門・金剛・榛名――の超暴力的戦力が残っていた)が、その穴からレイテ湾になぐり込みをかけ輸送船団を壊滅させるだけでした。


敵からその精神を疑われながらも突撃し、聯合艦隊の全艦艇をすりつぶしながら継続した捷一号作戦は、まさにその成功の瞬間が訪れるという直前、主力艦隊がレイテ湾から反転、ブルネイへ引き返した事で空振りに終わってしまいます。
(この反転劇の詳細は、指揮官だった栗田提督が生涯口を閉ざした為、未だに謎のままです)


本来、主力艦隊の行動と呼応して突入する予定だった西村艦隊は全滅し、囮を務めた小沢機動部隊は役目を全うして壊滅。

そして五度に及ぶ大空襲う受けた主力艦隊も、残存艦艇は僅か一四隻。

それが捷一号作戦の結果の全てでした。


残った艦もその殆どが満身創痍であり、内地に戻ったとしても人員不足と物資の不足により、もはや立て直す事は不可能となり、組織としての連合艦隊は事実上壊滅となりました。

しかし、それでも雪風は無傷で帰還し、彼女には次の任務が与えられるのです。


レイテ海戦で傷ついた長門の護衛任務を終え、横須賀へ戻った雪風に下った新しい任務は、完成したばかりの超大型空母「信濃」(大和型戦艦の三番艦を改装)の護衛任務でした。

時代の流れの影響を受け、世界最大の戦艦の三女として産まれる予定だった信濃は、その途上で空母へと生まれ変わる事を余儀なくされました。

さて、そんな彼女を語る時、最も適切な言葉が「不運」の二文字になります。

人間に幸運な者と不運な者がいるように、艦にも幸運と不運なものが存在するならば、幾多の死線をかいくぐるも生還し続けた雪風は幸運艦となり、生まれて間もない空母信濃は不運艦の代表格といったところでしょう。

大和型戦艦の船体をもつ彼女は、アメリカが戦後になって反応動力型空母を就役させるまで、排水量では世界最大の空母でした。

当然、防御力も大和並――レイテ海戦において米軍は、武蔵を沈めるのに二〇発もの魚雷と十七発の爆弾の直撃を要した――のはずでした。

しかしこのあらゆる不運をかき集めたかのような超大型空母は、米潜水艦アーチャーフィッシュの放った、僅か四発の魚雷であっさりと沈んでしまうのです。


沈む前に護衛の駆逐艦による曳航も考えられ、実際に二隻でワイヤーによる曳航作業を行われたのですが……そこはたかが駆逐艦。世界最大の空母を動かすことは叶わず、信濃艦長の阿部大佐は、この不幸な空母が目的地に辿り着けない事を悟りました。

こうして、四隻の駆逐艦に看取られながら、誕生して僅か十日の生涯で、信濃は阿部大佐と共に海の底へと沈んでします。

直後、雪風の甲板には救助された信濃の乗員達で溢れ、一様に項垂れていた彼らを見て、当時の雪風艦長寺内は――

「慣れっこになったなぁ……こういう光景に」

「こんな風にさ、よそのフネの乗員を助け上げる光景によ」

――と、漏らしたそうです。


彼の言うとおり、雪風はいつでもそうでした。

ソロモンでも、南太平洋でも、インド洋でも、そして今や内地にあっても。
他の艦艇がその生涯を終えても雪風だけは生き残り続けました。

まるで他の艦や兵達の運を吸い取るかの様に……。


故に彼女は、幸運艦とも呼ばれる一方で「疫病神」と揶揄される事もあったと言います。

守るべきものを失ったまま、呉に辿り着いた雪風を迎えたのは米軍の大空襲でありました。

そんな中でも雪風は大いに奮戦し、大したダメージも受けずに生き残ります。
ただ、この対空戦闘において機銃弾を一万五千発も撃ってしまい、二水戦の参謀から大目玉を食らったと言います。


開戦以来数々の戦場を戦い抜き、殆ど無傷で生き残ってきた雪風。

この時点でも十分に彼女の幸運さは有名でありましたが、それが神話の域にまで達するのは、実はこの後からです。

昭和二〇年四月、雪風は聯合艦隊最後の艦隊作戦、「菊水一号作戦」に参加する事になります。

戦艦大和と作戦行動可能な残存艦で編成した最後の艦隊での、沖縄への特攻作戦です。

艦隊と言っても僅か十一隻で、しかも内九隻は駆逐艦。

空母もなければ、上空援護もない裸の艦隊。

「特攻」作戦でありますから、最初から成功する確率はなく、戦略的な意味合いは何もありませんでした。

ただ連合艦隊最後の足掻きとして、かつて無い大兵力で沖縄を責め立てている連合国軍に、一矢報いる為だけに大和を突入させる。日本人の意地と、海軍の面子、そして滅び行く祖国への贖罪として一億玉砕の先頭に立つ――それが作戦の全てでした。


昭和二〇年四月七日――最後の艦隊は、沖縄へ向けて進撃を開始しました。

せめて艦隊戦が行えれば、大和の主砲で一矢報いる事が出来るかもしれないし、駆逐艦が持つ酸素魚雷だって、最後に見事な戦果をもたらすかもしれない――しかし、それが都合の良い絵空事でしかない事は、艦隊の誰もが思っていた事でしょう。

そして、その予想は現実のものとなり、十二時四〇分から第一波二〇〇機の空襲を受け、艦隊はその後二時間に渡り、第二波五〇機、第三波一〇〇機、第四波一五〇機、第五波一〇〇機――のべ六〇〇機による大空襲を受ける事になります。

その激戦のさなか、雪風の寺内艦長は露天艦橋にて、でっかい三角定規を使って爆弾の軌跡を読み、操艦を指示したと言います。

鉄兜も被らずに艦橋から頭を出して、タバコを吹かしつつ大声で「俺には当たらん!」とわめき、航海長の肩をけ飛ばして操艦の指揮をしたと言いますから、何とも剛胆な事です。

この無茶とも思える艦長の行動は、乗組員達の志気を大いに沸き立てる事になったそうです。

以前の呉大空襲の時には、弾を撃ちすぎて参謀からとがめられたが、今日の戦闘において遠慮は不要。

何しろ連合艦隊最後の作戦です。

「訓練は実戦のつもりで、実戦は訓練のつもりでやれ!」
とは寺内艦長の口癖だったと言いますが、その言葉を自ら実践するかのように、寺内艦長は無数の爆弾や火線が飛び交う中、はげた坊主頭に定規をかざして爆弾の軌跡を読み、航海長の肩をけ飛ばして舵を命じ続けました。


艦長の糞度胸が、雪風にさらなる幸運をもたらす一方で、特攻の要であった大和はついに力尽き、巨大な爆炎を上げてその身を海底へと没してゆきました。

大和の爆沈により、連合艦隊にとって特攻の存続が無意味となり、そして米軍にとっても脅威が無くなった事で戦闘は終了となりました。

生き残った艦は雪風を含めて駆逐艦四隻のみでしたが、あれだけの大空襲を受けたにも関わらず、今回も生き残り、多くの漂流者を救出した彼女は無傷で佐世保に帰還する事になります。

帰還してからの調査で解ったのだですが、実は雪風もロケット弾による命中を受けていました。

防御力の乏しい駆逐艦でありますから、爆発していればただでは済まなかったであろうそのロケット弾は、食料庫に突っ込んだものの信管が作動せず不発に終わっていたのです。

九死に一生を得た彼女の幸運はまだ続きます。



連合艦隊が壊滅し、硫黄島、沖縄が占領されると、敵の航空機が我が物顔で本土の上空を飛び回るようになります。

空襲を恐れた雪風は、日本海側に待避しますが、結局は逃げ切れずに米軍の空襲を受けてしまいます。

僚艦が次々に被爆する中においても、彼女には何故か一発も当たりません。

しかし回避行動中、ついに雪風は米軍が敷設した機雷に触れてしまいます。
駆逐艦が触雷すれば、沈没はまず免れません。


誰もが雪風の終わりを確信しましたが、何とこれが回数機雷といって、一度触雷しただけでは信管が働かない(通常の機雷に混ぜて使用する)物だったのです。

実際その後ろを航行していた僚艦「初霜」は同じ機雷に接触、今度は信管が作動し爆発、轟沈してしまったと言いますから、幸運を通り越して、疫病神呼ばわりされるのもうなずけてしまう程です。


数度に及ぶ嵐のような空襲も去り、遂に太平洋戦争は終結を向かえました。

開戦当初存在した陽炎級一八姉妹の中で、その時洋上に浮いていられたのは雪風一隻のみでした。

従姉妹とも呼べる、ほぼ同型と言って良い朝潮級一〇隻と、改良型の夕雲級二〇隻も全て戦没しており、雪風は彼女の一族において唯一生き残った艦だったのです。

そんな彼女は一切の武装を外され、戦う為の牙を失いましたが、それで彼女の戦いが終わった訳ではありません。

特別輸送艦として復員輸送に従事し、戦争が終わっても休む間もなく働き続けます。

ラバウル、サイゴン、バンコク、沖縄、台湾――かつて戦場だった太平洋の各所を走り回り、彼女の一五回におよぶ往復によって祖国の土を踏んだ将兵は実に一万三千人以上にも及びます。

帝国海軍の艦としての最後の日まで、彼女の甲板は救助された人々であふれていました。

故郷に帰る兵士の目に、彼女の姿は輝いて映っていた事でしょう。


昭和二二年五月――雪風は連合国側からも最優秀艦と賞揚され、抽選の結果、賠償艦として中華民国に引き渡しされる事が決まりました。

母国で迎える最期の日、彼女は産まれた時以上に、美しく輝いた姿をしていたと言います。

伊藤正徳氏による「聯合艦隊の栄光」という本の最後にこう書かれています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
引き渡し式が上海の埠頭で行われた。
艦内はくまなく整頓されて、塵一点をとどめず。
検査にのため来艦した米英の海軍将校達は感激して言った。

「自分たちは、こんなに整頓された軍艦をかつて見たことがない!」と。
雪風は最後の日まで、日本の名を守った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


中華民国に引き渡された雪風は、艦名を「丹陽」と改め、何と艦隊旗艦として迎え入れられます。

たかが駆逐艦が「一国の海軍の総旗艦」にです。

勿論、こんな事例は雪風(丹陽)以外には存在しません。

ついで話ですが、雪風は帝国海軍で唯一艦隊旗艦を務めた事がある駆逐艦だったりします。


昭和十八年七月六日より九日までの僅か三日間ですが、第八艦隊の旗艦として将旗を掲げた事があります。

そんな彼女も、まさか自分が一国の総旗艦になるとは夢にも思わなかったでしょう。

中華民国は「礼」を持って彼女を迎えてくれたのです。

ああ、大事な事を忘れていました。
雪風の偉大さは、単に激戦を生き抜いた事だけではありません。

彼女が最も偉大な艦だと言われる本当の理由――それは、開戦から終戦まで、これだけの作戦に従事し、最前線で闘い続けたにも関わらず、亡くなった乗員の人数は何と十指に満たないのです。
これを栄光と言わずに何と言いましょう。

栄光に満ちあふれた彼女は、その後も異国にて歳月による腐食と老朽に耐えながらも何度か戦ったそうですが、昭和四一年――ついに台風の影響を受けてその長い生涯を終える事になります。

現在は彼女の戦歴をたたえ、台湾から返還された舵輪と錨が江田島にて保存されています。

そして終戦から十数年が経過し、復興を果たした日本に、再び軍艦の造船が認められる事になりました。

戦後初めての自国生産による軍艦。

生まれ変わった日本にとって、そして発足間もない海上自衛隊にとって、極めて重要な意味を持つ事になる最初の護衛艦。

その排水量1700トンの彼女に与えられた名は――

「ゆきかぜ」

――です。

この名は、今後も何らかの節目で産まれるであろう大切な娘達に、永延と受け継がれてゆく事でしょう。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

こんど産まれて来る孫の名前、「雪風」にしよっかな^^b

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1-3敵兵を救助せよ 封印された奇跡 Japanese BUSIDO saved lives

日本人という生き方・・・ウガンダの高校生を変えた日本の躾

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国際派日本人養成講座からの転載です。
非常に素晴らしいお話なので、拡散のため転載させていただきます。

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「日本人という生き方」(上)
〜 ウガンダの高校生を変えた日本の躾〜
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「時を守り、場を清め、礼を正す」の躾で、彼らは野球に真剣に打ち込むようになった。


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1.生徒に夢を持たせるには
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札幌の中学校教師だった小田島裕一さんが、青年海外協力隊の一員としてアフリカのウガンダ共和国セントノアセカンダリー高校に赴任したのは、平成19(2007)年9月のことだった。

「野球を通じた国際貢献」を志したのは10年も前のことだった。
教師生活も5年経ち、無気力な生徒たちを見て、

「何か生徒に夢を持たせ、それに向かわせたい」と思っていた。


平成8(1996)年、元近鉄バッファローズの野茂英雄投手がメジャーリーグで大活躍した。当時は日本人がメジャーで活躍するのは「絶対に無理」だと考えられていた。

野茂投手は日本での実績をすべて捨て、その「常識」に挑戦して、成功したのだった。

小田島さんは、野茂投手の夢に挑戦する姿勢を見て、生徒に夢を語らせる前に、自分が夢を持ち、挑戦しなければならないと思った。
そこで中学生時代にやっていた野球を通じて国際貢献する、という夢を描いたのである。


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2.「熱い思いが伝わった」
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夢は山と同じで、遠くから見るときは美しいが、実際に登り始めた途端に多くの困難にぶつかる。
青年海外協力隊の選考試験に何度挑戦しても、合格できない。

ある面接官からは
「あなたみたいな『ただ行きたいだけの人』が行くと、相手の国が迷惑なのだ」とまで言われた。

6回目の不合格通知が送られてきた時は、
「叶わない夢だってある」と諦めかけた。

しかし、それから1週間後、南北海道代表の駒澤大学付属苫小牧高校が夏の全国優勝を果たして、心が熱くなった。
雪や寒さのために練習環境では圧倒的に不利な北海道の高校が日本一になった。
再び、夢に灯が点った。

翌年、7回目の選考も落ちた。

今までは「なぜ自分のやる気を評価してくれないのか」と相手を責めていたが、今回
は「自分が相手の国の人々に喜んで貰えるような一流の野球指導者になることを目指そう」と考えた。

そして一流の指導者、一流の学校を訪ねて、自分を磨き続けた。


8回目、自分の思いを手紙に綴り、2年間の活動計画を添えた。
「合格」を電話で伝えてきた面接官は、
「小田島さんの手紙に感動しました」と言ってくれた。
熱い思いが伝わった瞬間だった。
10年かかった夢がようやく実現しようとしていた。


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3.「君たちは野球の前にすべきことがある」
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赴任したセントノアセカンダリー高校は、中高一貫、男女共学の私立校で、富裕層の子弟が通っている。


案内してくれた先生は、野球部には素晴らしい選手が揃っている、と言っていたが、実際にグラウンドに行って見ると、選手は5人。
上半身裸で練習している生徒やら、ガールフレンドに膝枕され耳掃除をして貰っているもの、練習中に立ち小便をしたり、鬼ごっこをする者。
誰一人としてまじめにやっているようには見えなかった。

部室に案内して貰うと、まるで「ゴミ箱」。
書類や段ボール箱が積み上げられ、グローブやバットが床に置き捨てられていた。


5人の選手に目標を尋ねると、
「ウガンダ・チャンピオンになりたい」と答える。
「コーチのいる2年間でウガンダ・チャンピオンになれますか?」と聞いてきたので、小田島さんが「なれる」と答えると、彼らは喜んで笑顔になった。

聞けば、現チャンピオンであるチャンボゴ高校には、今年1対30で負けたという。


小田島さんは、一言付け加えた。
「ウガンダ・チャンピオンになるために、君たちは野球の前にすべきことがある」。


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4.「いいこと言いますね。コーチは天才です」
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翌日のミーティングで、第一回ワールドベースボールクラシックで、日本チームの優勝シーンをDVDで見せた。

選手の瞳は輝き、背筋が伸びた。

「私は、日本の野球をモデルにして君たちを指導したい。いいか?」
「はい、コーチ」

日本の野球が世界一なのは、その目的が人間を育てることにあるからだ。
私は日本のやり方で、君たちをジェントルマンにしたい。
ジェントルマンとは
「自分のためだけでなく、人のためにも喜んで動ける人」のことである。
野球はあくまでも選手一人ひとりをジェントルマンに育てるための手段である。

その考えを小田島さんは書き出して、部屋に貼った。

__________
【セントノア野球部 理念】
 ジェントルマンになるために

1.私たちは、すべてのものに感謝します。
2.私たちは、礼儀正しく謙虚です。
3.私たちは、日々向上します。
  ・・・
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「この理念でいいか?」と選手たちに尋ねると、
「いいこと言いますね。コーチは天才です」。

小田島さんは、お世辞の混じった答えに安心したが、現実はそんなに甘いものではな
いことを、すぐに思い知らされることになる。


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5.「自分さえ良ければ」という考え方
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ウガンダで暮らし始めて、小田島さんはその生活習慣に驚かされた。
まず、時間の概念があまりない。

学校の教室には時計がなく、生徒も腕時計を持っていない。
学校で唯一、校長室にある時計も2年前から壊れていた。
時計がなくとも困らないほど、みな時間にルーズなのだ。

整理・整頓・清掃の習慣もない。

ゴミはその場でポイ捨て。

一日の授業が終わっても、生徒が掃除をする習慣がない。

だから教室にゴミが落ちていても、汚いままであっても、そのまま下校し、翌日はそのまま授業に入る。

礼儀作法にしても、こちらが挨拶しても、無視するか、横柄な態度で応対する。
話を聞いている時も肘をつき、集中せず、あらぬ方を見ている。

練習中、ボールを拾ってやっても、
「ありがとう」の一言もない。

これらの根底にあるのは「自分さえ良ければ」という考え方だと、小田島さんは思った。

時間を守れない人は、待たせる相手のことを考えていないからである。
後片付けや掃除がきちんとできないのは、次に使う人のことを考えていないか
らだ。
礼儀がしっかりしていないのは、相手に対する敬意が足りないからである。


教育哲学者の森信三が提唱した教育再建の三大原理、
「時を守り、場を清め、礼を正す」という「躾」から始めなければならない、と小田島さんは考えた。

この3つを守れたら、どんな荒れた学校も良くなるという。


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6.「こいつら馬鹿じゃないか?」
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そこで始めたのが、早朝の読書と清掃だった。生徒たちは毎朝4時半に学校の教室に集合。
6時まで教室で読書し、その後、校内の清掃を行って、7時からの授業開始に備える。

生徒たちは校内の寮に住んでいるから良いが、小田島さんの住居はバスで15分くらいの所にある。毎朝3時半に起床し、4時から、いつ来るか分からないバスを待つ。

選手たちのお手本になるためには、遅刻は絶対に許されなかった。

しかし、選手たちは雨が降れば、平気でサボった。
ウガンダでは雨が降ると仕事は休みになるのである。

掃除中でも眠くなれば、寮に帰ってしまう。
そんな選手達に怒り、怒鳴る日々が続いた。

「こいつら馬鹿じゃないか?」
「本当に意志の弱い奴らだ」

いつしか、小田島さんは学校に行くのが憂鬱になった。
ウガンダ・ジェントルマンを育てることなど、できないのかもしれない、と弱気になり始めた。


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7.まず自分が本物の日本人になる
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毎週月曜日は、練習を休みにして部屋の掃除と道具の手入れをさせていた。
そんな月曜日、選手の一人ジミーが掃除中に、

「コーチ、洗剤がほしいのですが」と言ってきた。

「何のために使う」
「ボールをきれいにするためです」
「ボールを?」
「もっときれいになると思います」

軟式ボールを洗剤で洗うという発想は、小田島さんにはなかった。
茶色のボールが洗剤で真っ白になった瞬間、彼らの顔に笑顔が溢れた。

今まで、サボる選手、続かない選手に怒りをぶつけていたが、そんな中にもコーチを信じて、コツコツと努力している選手がいることに、初めて気づいた。

この子たちをジェントルマンにし、成功させてあげたい。
心の底からそう思った。

彼らの進歩に一喜一憂していた自分には、どこか焦りがあった。

選手たちが自分の期待通り動いてくれないのは、自分の側に
「時を守り、場を清め、礼を正す」ことの大切さを、本当の意味で理解していなかったからではないのか。

改めて思えば、日本での自分も、遅刻をしたり、掃除を選手に任せたりしていた。自分自身が習慣になっていないものを、彼らに要求していたのだ。

彼らのミスを責める前に、まず自分が本物の日本人になることを決意した。


選手の行動はコントロールできないが、自分の行動は自分でコントロールできる。うまくいかない原因を選手の側に問題ではなく、自分自身の問題としてとらえるようになってから、不思議なことに選手たちは想像以上に速く成長していった。


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8.選手の心のコップを上向きにしなければ
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朝の清掃と読書を始めた当初、選手たちからは
「ウガンダ・チャンピオンになるために、もっと技術練習をしたらどうですか」と言われた。

たしかに、野球コーチが練習より、遅刻や掃除、挨拶をうるさく言っているのは、彼らには理解できなかったろう。

しかし、時間は守れない、練習はさぼる、人の話は集中して聞けない、という状況は、コップが下を向いているようなもので、いくらコーチが技術指導した所で、水はコップに入らない。

まずは、選手の心のコップを上向きにしなければならない。
そのために必要なのが、

「時を守り、場を清め、礼を正す」

であった。

これが自然とできていくうちに、心のコップが上を向いてくる。
こうなって初めて技術練習の意味が出てくる。

その成果は、やがて試合の結果にもつながっていった。

チャンピオン・チームであったチャンボゴ高校とは、最初の試合は1対19で敗れた。

その1カ月後には、4対14となった。

指導してから3カ月後には2対3となり、6カ月後には9対10とほぼ互角の戦いができるまでになった。

技術練習の時間は1時間のまま変わらなかったが、練習の密度があがっていったのだ。

選手も結果が出始めると、小田島さんのやり方を信頼するようになっていった。


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9.「こいつら、なんでこんなに一生懸命なんだ」
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朝読書、朝清掃を始めて6カ月。

チームとして1時間半、教室で一言もしゃべらず、背筋を伸ばして学習する選手たち。

朝の読書には「座禅」のような効果がある。

読書で集中力を高め、朝の校内清掃に入る。

掃除も、始めた頃は「四角い部屋を丸く掃く」という有様だったが、小田島さんがお手本を示し、掃除の回数が200回を超えたあたりから、彼らの掃除は小田島さんよりも丁寧になっていった。

仁愛保育園の石橋冨知子園長は言う。

__________
単にゴミを拾うことが掃除本来の目的ではありません。

塵が有るのか無いのかを、かがんで、四隅を見て、十本の指を使って一つ一つ確認し、理解していくのです。

一生懸命掃除をすることで、隅々を見る人間、いろいろなことに気づく人間が育ちます。

掃除を心がければ人間が傲慢になりません。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

選手たちも掃除をすることで、「気づく人間」に成長していった。

仲間の表情や態度から、その気持ちを察することができるようになっていった。

ある日、小田島さんは私用で外出し、夕方の練習に遅れて参加した。

いつもと違い、道路から直接グランドに入る小田島さんの姿に、選手たちは気がつかない。

大きな声が響き渡るグラウンド。
一人ひとりの真剣な目。
力一杯、走る姿。

小学生も練習に参加していた。
彼らも高校生選手を真似て、一生懸命である。

「コーチがいないのに、こんなに真剣にやっている」

思わず涙が溢れた。
涙が止まらなかった。
嬉しかった。

「こいつら、なんでこんなに一生懸命なんだ」

一生懸命の姿は美しい。
こんな光景が見られるとは思ってもいなかった。


日本の躾を身につけたウガンダの高校生たちは、「母国を良くしたい」と志すようになった。

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■10.ウガンダのために働いている日本人
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「ウガンダの父」と呼ばれている日本人がいる。
現地で45年以上もシャツ製造会社を経営している柏田雄一さんである。

ある日、小田島さんは選手たちを連れて、柏田さんの工場を訪問した。

柏田さんはウガンダの歴史、環境保護、そして工場内で実践している躾の大切さを語った。

話の終わりに柏田さんは

「私は、もう引退して老後をゆっくり日本で暮らすこともできるのに、なぜここにいると思う?」と選手たちに尋ねた。

誰も答えることができなかった。

その答えは「ウガンダを愛しているから」であった。

その言葉を聞いたとき、選手たちの背筋がピンと伸びたように思えた。

この人はお金のためでなく、ウガンダのために働いている日本人なんだ、ということを肌で感じたようだ。

その効果は翌朝の掃除から出ていた。

前日の移動の疲れがあるので、今朝の掃除は無理かなと思っていたら、10分前
に全員が揃った。

放課後の練習も、今までにないピンと張り詰めた雰囲気となった。

選手の心が変わったのだ。


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11.日本人以上に日本人らしく
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早朝の読書と清掃、そして夕方の練習を続けて半年ほどすると、選手たちの真摯な姿勢、他人へのやわらかい物腰、何かを学ぼうという真剣なまなざしは、日本人以上に日本人らしくなっていた。

「時を守り、場を清め、礼を正す」

だけで、これほどまでに効果が上がるとは思っていなかった。
日本の教育現場は混迷の真っ只中にあるが、この選手たちの成長の姿を見せたら、
忘れかけている日本の躾の素晴らしさを再認識して貰えるだろう、と小田島さんは考えた。

そこで、ウガンダでの様子をDVDに収め、日本でお世話になった人々に送った。

その様子に感動した日本の人々との間で、ウガンダ・チームを日本に呼ぼうという企画が持ち上がった。

日本での有志が「ウガンダ国際交流実行委員会」を立ち上げ、募金活動を始めた。

選手たちには折りにふれ、日本での支援者の様子を伝えた。

__________
彼らは、仕事があるのに、家族でもない、親戚でもない私たちのために動いている。

彼らは、人のために動くことができる、本物のレディーであり、ジェントルマンだ。

その恩に報いるためにも、私たちは、ジェントルマンになって日本に行かなければならない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

選手たちはますます真剣になっていった。

集合時間の1時間前の朝3時半に来て、自発的に読書や授業の準備をする選手も増えてきた。

掃除も、小田島さんが「そこまでやるか」と思うほど徹底してやってくれるようになった。


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12.「試合中に5回ほど涙が出そうになった」
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平成20(2008)年1月24日、セントノア高校野球部選手、校長、そして小田島さんの総勢15名が関西国際空港に降り立った。

折から北海道は大雪で、札幌行きの便が飛び立てるか心配だったが、一行を乗せた便だけが欠航とならずに、新千歳空港に到着した。

選手たち、支援者たちの思いを天が応援してくれたように小田島さんは感じて、涙がこぼれた。

初日は登別の温泉に入る。

母国では、たらい一杯の水で体も頭も洗う彼らは、お湯がなみなみと張られている湯船にびっくりした。

選手たちは体を洗い終えると、使った桶を片付け、腰掛をまっすぐに並べた。

物を使ったら、次の人のためにきれいに片付けるという事が、当たり前のようにできるウガンダ青年たちの姿に、今度は周囲の日本人客が驚いていた。


札幌ドームでは北海道日本ハムファイターズ中学生選抜チームと親善試合を行った。

屋根つきの体育館すらほとんど見たことの無いウガンダ選手たちにとって、屋根つきのドーム球場はまるでSFの世界のように見えただろう。

実力ははるかに上の相手で、大差で負けてもおかしくなかったが、奇跡が起こった。0対0の引き分けだった。

投手のべナードが、何かが乗り移ったのかと思うほど、冷静で粘り強い投球を見せた。

守備での相互のカバーリング、声の掛け合い。
チームの一体感は、相手を上回っていた。

技術の差を「心」でカバーする、まさに日本野球をウガンダ選手たちは見せた。

試合終了後、2千人以上入ったスタンドからウガンダ・チームに大声援が送られた。

夏の甲子園で優勝した駒澤大学苫小牧高校野球部の香田元監督は、試合の様子を次のように語った。

__________
ウガンダ人の野球に対する姿勢が本当に勉強になった。

試合中に5回ほど涙が出そうになった。

子供の頃、初めてボールを握った感覚や、楽しくボールを追っかけていた過去が蘇
りました。

言葉ではうまく表現できないけれども、日本野球に失われたものを彼らは持っている。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


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13.「ウガンダを良くしたい」
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日本への旅は、選手たちを一段と成長させた。

「正しいことを積み重ね、良い人間になれば、誰かが必ず応援してくれる」ということを、経験から学んだのだ。

帰国後20名近くの部員が新たに入部したが、先輩部員たちは、毎朝4時半に彼らを起こし、時間通りに清掃を始めた。

後輩部員も、夢を叶えた先輩を尊敬し、積極的に真似ようとした。
その結果、先輩たちが6ヶ月かかったことを、後輩たちは1ヶ月でできるようになった。

さらに先輩部員たちは、自分たちの経験を多くの人に伝えようと、校内で集会を開いては、「時を守り、場を清め、礼を正す」の大切さを一般生徒にも説いた。
地域の小学校を訪問しては、日本の躾の素晴らしさと、「夢は実現する」ということを語った。

「ウガンダを良くしたい」
「自分たちの生き様をウガンダに広げたい」
「ウガンダのリーダーになる」

そういう志を選手たちは持つようになったのである。


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14.「どうしたらよいでしょうか?」
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そんなある日、キャプテンのアーロンが小田島さんの所に相談に来た。
家庭の都合で学校をやめなければならないという。

アーロンはチームリーダーとして、陰日なた無く働いてくれていた。
彼の夢は、大学に進学し、アフリカの国々を鉄道でつないで、友好の架け橋になる、という事だった。

__________
実は、私は母子家庭です。
お父さんの顔は見たことがありません。
お母さんも働けません。
だから、祖母の遺産で高校に進学することができました。
ただ、その遺産が底をついたようです。
だから学校をやめ、働くことになります。
野球もやめなければなりません。
どうしたらよいでしょうか?
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

と言うアーロンに、小田島さんは返す言葉を失った。


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15.「私は、親にもウガンダという国にも感謝しています」
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アーロンは本当によくやっている。

朝の4時半から学習し、掃除をする日々。

「私の高校時代と比べると天と地ほどの開きがある。
私は、彼らのような努力もせずに大学卒業まで野球を続けることができた」と思った小田島さんは、アーロンを慰めるつもりでこう言った。

__________
もし、君が日本に生まれていたら、絶対成功している。
君ほど頑張っている若者はいないのだから。

ウガンダに生まれたばかりに、かわいそうに。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ところが、彼から意外な返事が返ってきた。

__________
コーチ、違います。
私は運の強い人間だと思います。
ウガンダでは多くの人は高校に行けません。
祖母がお金を残してくれたおかげで、私は高校に通うことができました。
そして、親が許可をしてくれたので野球をすることができました。
そしてコーチに出会い、多くの日本の方々に応援していただき、日本に行くことができました。
こんなウガンダ人、アフリカ人はいません。
ここウガンダに生まれたからこそ、実現できたことだと思います。
私は、親にもウガンダという国にも感謝しています。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

アーロンの言葉に、小田島さんはショックを受けた。

「高校に通えて当たり前」
「野球ができて当たり前」だと信じていた自分の考えを恥ずかしく思った。

世界の8割の途上国の人々にとっては、それは当たり前のことではなかったのだ。

__________
コーチ。私はウガンダのリーダーになりたい、そのために成功する必要がある。
そして日本人の伝統習慣を多くのウガンダ人に伝えたい。

そうすれば、ウガンダが発展すると思います。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

彼の「どうしたらよいのでしょうか」という質問は、この志を遂げるために、今後、どうしたらよいか、という相談だったのだ。

アーロンは小田島さんと話し合って、農業を志すことに決めた。
肥沃な土地と豊富な水に恵まれたウガンダは、農業に大きな可能性を秘めている。彼の目標は、農業で成功するということに変わった。


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16.「どうして日本がそんなに豊かになったのか」
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ウガンダから見れば、高校進学率が95%近くに達し、半数以上の若者が大学に行ける日本は、別世界のように豊かな国である。

小田島さんはセントノアセカンダリー高校の先生から、こんな質問を受けたことがある。

__________
日本は先の大戦で原爆を2つも落とされ、敗戦した。
国がひどい状況になったにもかかわらず、60年たった今、世界で有数の豊かな国になっている。
ウガンダは独立してから50年以上経つが、まだこのような貧乏な国である。
あと10年したら日本のような国になれるのか?

そして、どうして日本がそんなに豊かになったのか教えてほしい。
それがわかれば、ウガンダの発展のヒントになると思う。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

小田島さんは、この質問に答えることができなかった。
日本人でありながら、そのようなことを考えたことはなかった。

この質問への答えを見つけるべく、日本のことを調べていく中で、
「焼き場に立つ少年」という写真に出会った。アメリカ人の報道写真家が戦争直後の日本を撮った1枚で、10歳ほどの少年が死んだ赤ん坊をおぶって、直立不動の姿勢で焼き場の順番を待っている姿である。

__________
悲しみに打ちひしがれながらも、涙一つ見せずに、強い意志を持って自分の責任を果たそうとする少年の姿に、この時代の日本人の精神性の高さを知った。

指先を伸ばし、あごを引いて、直立姿勢を保つ少年の姿に、この頃の家庭及び学校での躾教育の素晴らしさを見た。
わずか10歳でも、このような凛々しさを持っている。彼に理想の日本人の姿を見た。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-782.html

今の豊かな日本は、こういう強い精神力に根ざした先人のたゆまぬ努力の賜物である、と小田島さんは知った。

そして、そういう人物を作る教育こそ、小田島さんがウガンダで目指したものだったのである。


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17.「精神のリレー」
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朝5時からの読書、6時前からの校内清掃は野球部員にとって、当たり前になりつつある。
しかし、一般生徒や教員は、ゴミ箱を増やしても、そこらにポイ捨てしてしまう。

「時を守り、場を清め、礼を正す」という日本人の生き方は一朝一夕にできたものではない。

2千年以上の努力の積み重ねによって出来上がったものだ。
その努力の賜物として、

「高校で野球をする」

というほとんどのウガンダ人のとっては「かなわぬ夢」も、普通の日本人には挑戦可能な幸せな社会が実現している。

__________
先祖のたゆまぬ努力があって、自分の夢が実現する。

そう考えると自分の人生は自分のものだけでなく、先祖のものであり、子孫のものでもあるのだ。
自分のためだけでなく、次の世代のためにも、自分の人生を完全燃焼しなければ
ならない。

「命のリレー」は、「精神のリレー」である。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ウガンダでの2年間、野球部員とともに小田島さん自身の心も大きく成長した。

ウガンダを去るにあたって、小田島さんは次の言葉を選手たちに贈った。

__________
私は日本を良くするために生きる、そして君たちは、ウガンダを良くするために生きてほしい。
私はウガンダで、君たちのようなジェントルマンに会えたことを誇りに思う。
それぞれの国で、人生のチャンピオンになろう。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(文責:伊勢雅臣)

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いかがでしたか?

日本の心をつたえる会の目指すものが、この物語にあります。

日本は、日本人は、ご先祖のたゆまぬ努力によって、いまの繁栄を手に入れているのです。

人生は自分のものだけではない。
先祖がいて、子孫がいて、その連綿と続く連鎖の中に点としての自分がいます。

自分自身が、世界中のおいしいものを誰もが食べることができ、殴りあったり、手足を失ったりすることなく、安全で安心してお腹一杯食べて暮らせるのは、すべて私たちの代々続くご先祖が、その基礎を築きあげてくれた遺産です。

私たちの世代で、この連綿と続く日本文明を折り返し点にしてはならない。

絶対に、それだけは阻止しなければならない。
そう、思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

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ウガンダ2007

38年間、無報酬で働いた村長さん・・・鎌田三之助

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鎌田三之助翁
鎌田三之助


どうなんでしょう。

市庁舎の一階の入り口脇に、つぎはぎだらけでボロボロの衣服を着たおじさんがいて、役所から給料ももらわず、粗末な衣服で町中を巡回していたら。

そしてその人が実は市長さんで、町にものすごく貢献している人だとしたら。

町と町との紛争や、つまらない誤解による争いを、必死になって説得に歩く、まさに聖(ひじり)のような人だったら。

そんな実話があるので、ご紹介します。


宮城県中部に、大崎市というところがあります。

2006年に、古川市、三本木町、松山町、田尻町、鹿島台町、岩出山町、鳴子町が合併してできた市です。

文久三(1863)年といいますから、いまから147年前のことです。
いま大崎市と呼ばれている陸奥国志田郡木間塚村竹谷に、ひとりの男の子が誕生します

それが、鎌田三之助(かまたさんのすけ)です。

鎌田家は、伊達家(だてけ)家臣の流れをくむ名門で、鳴瀬川沿いの大地主の家柄です。

子どもの頃の三之助は、めちゃくちゃ喧嘩が強く、上級生さえも負かしてしまうほどのやんちゃ坊主だったそうです。

鎌田家は、三之助の祖父も父も、地元の治水事業に生涯を賭けた人で、そんな家庭環境から、三之助は、政治家になろうと志し、明治十一(1878)年、十五歳で上京します。

漢学塾や明治法律学校(いまの明治大学)の法学部で6年間学んだ三之助は、二十一歳で郷里に戻り、農業に従事するかたわら、父が行う品井沼(しないぬま)の干拓事業を援け、さらに、木間塚に大成館という私塾を設立して青少年の教育にあたります。

帰郷してまだ間もないころです。

医師のいない故郷の小間塚に、天然痘患者が発生します。

三之助は、疫病が広がることを心配し、いち早く天然痘のワクチンを購入し、すべての費用を自分でまかなって村民に接種をするとともに、東奔西走して、栃木県から大越寿亭(おおこしじゅてい)という医師を招き、医薬品や医療器具を与えて医院を開業させています。

なんとこの費用も、すべて三之助が負担したそうです。

こうした行為の積み重ねにより、三之助は、多くの人から尊敬と信頼を集め、明治二十七(1894)年に、志田郡の議会議員に当選します。

そして翌年には、32歳の若さで宮城県議会議員に当選。

さらに明治三十五(1902)年、39歳の若さで第七回衆議院議員総選挙に立候補し当選、衆議院議員を二期務めます。

この頃の日本は、いわゆる労働力過剰な状況にありました。
簡単にいえば、人口が多く、働き口がないという状況だったのです。

そんな中で、全国的に広く行われたのが海外への移民でした。

全国の農村の救済のために、技術を持った日本人が、相手国の協力を得て、移民し、その国で農業を営むというものです。
それが奨励された。そういう時代だったのです。
なにせ国内にいても仕事がない。食えない。

ブラジル移民のポスター
ブラジル移民のポスター


衆議院議員だった三之助は、メキシコ移民計画に深い関心をもち、明治三十九(1906)年、現地の調査のため、自分で同志の村民24名を連れて、横浜からメキシコに向かいます。

このあたりが、三之助の偉いところです。
というか、戦前の時代を生きた人の偉いところで、先ず、自分で行って確かめる。
昨今の学者や、メディアの評論家などとえらい違いです。
なにせ彼らは自らはまったく動こうとしない。

さて、メキシコの調査もほぼ完了し、いよいよ計画を実施しようとした矢先のことです。

郷里の宮城県知事亀井英三郎から、メキシコにいる三之助のもとに電報が飛び込んできます。

「シナイヌマ モンダイ フジョウ
 キカノ アッセンヲマツ」

(品井沼で問題が起こった。貴下の斡旋を待つ)

一日置いて、矢継ぎ早に急ぎの電報が入ってきます。

品井沼の排水工事をめぐって、工事推進派と中止派がそれぞれ対立し、住民を二分する騒動になっていたのです。

三之助は急いで帰国する。

品井沼の排水工事は、三之助が一年前にメキシコに向けて出発したときからほとんど進んでいません。
三之助がいなくなったあと、それぞれの村で意見の不一致が出たのです。

品井沼の干拓工事について、そもそも工事自体が不要と言い出す者、干拓そのものが不可能だと言い出す者、決まったことだからやろうという者、それぞれが対立し、そこに亀井県知事が仲裁に出張るのだけれど、まったく問題を解決することができない状態だった。

要するに、だいじな参院選を前にして、保守系議員同士や保守系政党、あるいは保守系団体等々対立し、それぞれの応援者たちまで一緒になって溝を深めているようなものです。

三之助は帰郷するとすぐに村に向かいます。

三之助の決意は固い。
私財を使い果たしてでも、水害から村々を救うのだ。
沼の沿岸800ヘクタールの水害を防止しするのだ。
新たに水田を1000ヘクタールつくるのだ。
これが荒れ果てた村々の復興につながる。

三之助の信念は揺るぎません。

品井沼の干拓のためには、急な斜面の山を登り、そこから下って新たに水路を作り、治水のために、トンネルも掘らなければなりません。

たいへんな難工事なのです。
しかし、完成すれば、そこに住む人々の暮らしは、まちがいなく豊かになる。

三之助は、反対派の人々を粘り強く説得します。
要は、信念の問題なのです。

ついに反対派の人々も納得し、ついにはみんなが一致団結して工事を行うことになった。

品井沼の干拓のために力をつくした三之助は、明治四十二(1909)年、村人たちの強い願いで鹿島台村の村長になります。

村長となった三之助は、村から給料ももらわず、そのまま38年間、無給で村のためにつくします。給料だけじゃない。旅費ももらわなかった。

講演の謝礼金などをもらうと、そのまま小学校に寄付をして教材費に遣ってもらった。

なぜ三之助はそんなことをしたのでしょう。

それには理由があります。

せっかく干拓を行い、田畑が増え、農作物の増産が可能になって所得が増えても、それはフローの収入です。遣ってしまったら何も残らない。

富というのは、ストックなのです。

もうすこしくだいて言うと、年収が2000万円あったらベンツに乗れるけど、その分、支払いが多くて、何も残らない。
10年経っても、借金もぐれで華やかそうな生活の割には、豊かでない。
景気が後退して、収入が1500万円に減ったとたん、支払いに追われ破算しなきゃならない。

逆に年収200万円でも、地味に生活し、出費を抑えてつましく暮らしたら、年間50万円の貯金ができる。
10年経ったら500万円です。二年半分の生活費がプールされている。

景気が悪化して、年収が150万円に下がっても、生活は追われないし、蓄えがあるから万一のときにも安心です。

間違えてはいけないのは、明治から昭和初期にかけての日本の発展は、こうした一般庶民の質素倹約によって支えられてきた。

そうやって庶民が蓄えたお金が、銀行にプールされ、銀行はその金で国債を買って、庶民への利払いをした。
そして国債の発行によって集められたお金が、国によって道路や鉄道、橋梁などの国家インフラの整備に回された。


富とは、決して贅沢な暮しをすることではない。
地味にコツコツと蓄えることなのだ。

三之助は、そのことを、自ら模範を示すことで村人たちに広めたのです。

貧しかった村を救うためには、これしかない。
それは三之助の信念でもあった。

さらに三之助は、村人と膝を突きあわせて話をするために、村内を毎日行脚します。

「日の照らない日があっても、村長さんの見えない日はない」と村人たちから言われたほどです。

さらに三之助は、村長室を、役場の入口近くの小さな土間に移させた。

土間から板の間に上がる段のところに、村長席をつくったのです。

そして、破れた帽子をかぶり、つぎはぎだらけの古びた上着とズボンに脚半(旅などで歩きやすくするためにすねにまとう布)を付け、手編みのわらじで村内をくまなく歩いた。

選挙のときだけドブイタで歩くのではない。
毎日毎日、村を歩いた。

そんな三之助村長を、いつしか村人たちは、親しみを込めて

「わらじ村長」

と呼ぶようになります。

三之助の着用していた服
(宮城県大崎市、鎌田三之助展示館)
三之助の服
三之助が使用していたわらじ
三之助のわらじ


誰がどうみても、どう考えても、世界最高の村長です。

三之助が村長を務めた期間は、なんと十期38年です。

その間、三之助は給料もとらず、交通費ももらわず、学校教育の場における統合神社の合祀、村の全村負債の整理(借金がゼロになった)、植林の奨励をはじめ、荒廃し貧しかった村のために、まさに粉骨砕身の努力を重ねます。

そして懸案の品井沼干拓事業も、ついに完遂させる。

品井沼周辺地区の今日は、まさに三之助村長の努力のたまものと言っていい。

そしてその崇高な人格から、村人たちのまさに総意で、大正九年、品井沼排水事業功労者として、宮城県知事から表彰を受けます。

さらに昭和二年には、自治治水功勞者として藍綬褒章を賜り、この後、三之助への褒章は、実に前後二十数回に及ぶものとなります。

そして晩年には、自治功労抜群として、昭和十九年、戦時中でありながら、内務大臣から自治顯功章も拝受した。


それだけの地域貢献の大功労者が、終戦後の昭和二十一(1943)年、GHQによって公職追放になります。

立派すぎたから職を追われたという説もありますが、当時の朝鮮進駐軍が農家から略奪をするのに村の重鎮である三之助村長の存在が邪魔だったからだという話もあります。いまでは、はっきりとした理由はわかりません。

昭和二十五(1950)年、三之助は、87歳の生涯を閉じます。


そして、国内にある程度の平穏が戻った昭和二十七(1952)年、村人たちから、三之助の恩義に報いたいと、三之助翁の像の建立の話がもちあがります。
自然発生的なものだったそうです。

これが村議会に提示されるや、地元住民はもとより、関係各町村だけでなく、全国から賛同の声が上がります。

それが、冒頭の写真です。

とっても良いお顔をされた銅像です。

銅像のお顔を眺めてみて思ったのですが、もはやこのお顔は、神仏の域に達しておられる。そんな気がします。

そういう人が、この日本にいた。

みなさん、そういう日本を取り戻しませんか?

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大東亜戦争の名言集

大理の日本四僧塔

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日本四僧塔
日本四僧塔


大理石(だいりせき)といえば、彫刻や建築に使われるものとして、誰もが知っている石です。

この石は、石灰岩が接触変成作用(熱変成作用)を受けてできる変成岩で、支那雲南省大理の「大理」で産出することにちなんで、「大理石」と名付けられています。

支那雲南省大理というところは、支那の南西部に位置し、いまでは少数民族となっているペー族という民族が支配したところとしても有名です。

大理は、城壁に囲まれた城砦都市で、最盛期には1万人が住んだといいます。

しかし1253年のフビライ汗の侵攻で、約320年続いた「大理国」の歴史は終わり、雲南省の仏教の中心地となった歴史も破壊されてしまいました。

ペー族というのは、黄河文明より古い揚子江流域の長江文明を築いた人々が黄河文明族に終われて逃れた人々といわれています。

最近の研究では、6300年前頃、揚子江流域に、高床式住居に住み、稲作をし、武器を持たない文化を持つモンゴロイドが暮らしていたことがわかっています。

1000年ほどの後、コーカソイドのDNAを持つ人々黄河流域に住みつきます。
この人々は、狩猟採取生活をする人々で、簡単にいえば、武器をもって狩猟と略奪を生業とする人々です。

そのコーカソイドたちが北上して、豊かな稲作をする長江流域のモンゴロイドを攻め滅ぼし、長江文明を完膚なまでに滅ぼし、遺伝子を交えてできたのが、いまの漢人といわれています。

このため、古代漢民族のDNAには、ミトコンドリアにだけコーカソイドのDNAが混じっている。

つまり、コーカソイドの黄河族が、武器をもって長江のモンゴロイドを攻め、軍事的政治的に長江族を滅ぼした。

しかし農業を営む長江族の方が圧倒的に人口が多かったため、約3〜4000年の時をかけて、血が混じり、外見はモンゴロイドで、女性から女性にだけしか伝わらないミトコンドリア遺伝子にのみ、コーカソイドの痕跡が残ったのだといいます。

対人用の武器を持たない文化と、対人用の武器を持つ文化。

武器を手にすれば、ありとあらゆる欲望を満足させることができるという人々に対し、武器を持たない文化の人々もやむなく武器を手にして立ちあがる。

そして互いに殺し合い、その恨みからさらに殺し合いをする。

それが支那四千年の歴史であるというお話は、以前、「中国四千年の歴史という馬鹿げた妄想」という記事でご紹介させていただきました。
URL=http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-815.html

さて、長江には武器を持って戦う人々がいた一方、戦乱に明け暮れる揚子江流域を捨て、新たな平和の地を求めて旅立つ人々もいました。

そうした種族が移り住んだのが雲南省界隈で、冒頭のペー族も、大理の城で、仏教を基調にしたおだやかな文明を築きます。

そしてフビライにいったん蹂躙された大理の城も、元王朝が明に変わる頃には、再び仏教の盛んな都として往時の繁栄を取り戻します。


そんな頃のことです。


明代初めの西暦1380年、明の宰相だった胡惟庸らが日本と結託して謀反を図ったとして洪武帝(朱元璋)に大量粛清されます(胡惟庸の獄)。

この時、仏教を学ぶために留学していた4人の日本人僧侶も事件に巻き込まれます。

4人の僧は辺境の雲南省大理に流された。

明代の詩集には、次のような日本人僧侶の詩が残されています。

故郷を離れて十数年
  異郷をさすらう
一夜、秋風が吹き
  また故郷を想う

明はその後、「海禁政策」を行い海外渡航を制限します。
それにより、4人は帰国することができなくなった。

詩にある「故郷を思う」は、当時、支那で多くの仏典を学んだ彼らが、その学んだ事柄を帰国して日本に伝えることができなくなったことへの悲しさ、さみしさが「秋風が吹き」の言葉に込められているのではないか、そんな気がします。

4人の日本人僧侶は、そのまま大理に留まり、この地で亡くなります。

ペー族の人々と、非常に友好的であったのだろうと思う。

なぜなら、彼らの死後、現地の詩人も日本人僧侶の死を惜しむ詩をささげ、さらに4人の悲劇的な境遇を哀れんで、「日本四僧塔」と呼ぶ、4人の遺骨を納めた供養塔を建てているからです。

いまから600年も昔の話です。

その後もペー族はこの塔を守り、支那共産党成立後も、この供養塔は破壊されず、いまに伝わっています。
ペー族の住民が守ってくれたのです。


2006年、チャン・イーモウ監督の映画「単騎、千里を走る」に主演した高倉健さんは、雲南省政府などからこの話を聞き、供養塔の修復のため、1万ドルを寄付しています。


稲作伝来については諸説あって、大陸から日本に稲作が渡来したというのが、目下、教科書に書かれている説となっています。

しかし、縄文時代の遺跡などから、日本における稲作は、すでに七千年以上も前から始まっていたという説もあり、また、稲作のDNAの解析で、少なくとも大陸から朝鮮半島を経由して稲作が日本に渡来したという説は、いまでは完全に否定されています。

むしろ、雨季と乾季のある熱帯で生まれた熱帯性植物である稲の栽培に際し、初夏に田に水を入れて人工的に雨季を作りだし、晩夏には田の水を抜いて、乾季を演出して稲を育てるとか、ねずみの被害に遭わないように高床式住居にするとか、こうした細やかな技術革新は、日本人の国民性であり、むしろ日本生まれと解釈した方が、馴染みが良いです。

だとすれば、もしかすると水田栽培の稲作技術は、武器を持たない平和な文化(日本の縄文遺跡は国内に数万カ所あるけれど、いまだに対人用武器が出土していない)を持つ日本人が、なにかのはずみで大陸に進出し、そこで長江文明を形成したのかもしれない。

そして黄河流域に住みついた武器を持つ文化の人々に追われた長江文明人たちが、遠く支那奥地の雲南の大理に住みつき、そこで城砦都市を営んだ。

もしかすると、彼らのDNAは、日本人とルーツを同じくする人たちなのかもしれません。

そんな彼らが、十四世紀の終わりごろ、日本から渡来した学僧を、死後も大切にしてくれていた。

もしかすると日本人僧侶とペー族の人々とは、遠く祖先を同じくする遠戚の再会だったのかも知れませんね。

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日本の尊厳を守るための天皇陛下のたたかい

口蹄疫事件続報

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口蹄疫事件
口蹄疫


5月9日の記事で、口蹄疫(こうていえき)についての詳細記事をアップさせていただきました。

≪口蹄疫(こうていえき)から日本を守れ≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-880.html


口蹄疫についての説明は、上の記事に詳しく書かせていただいたので、詳細は省きますが、5月12日正午の時点で、

感染       68例
殺処分対象 76870頭

というのが、現在の状況です。

Twitterで提供された宮崎県東国原知事の報告によると、

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

現場は壮絶である。

殺処分される家畜の悲痛な鳴き声、すえた臭い、
生産者や防疫作業員の疲弊と落胆・絶望・焦燥、
一面の消毒剤、
重機やダンプの喧騒、
自衛隊車両の物々しさ・・・

(5月9日投稿)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

とあります。

昨日のねずブロへのコメントで、共通一次世代さんが、JA宮崎のブログサイトを紹介してくださいました。

そこに「口蹄疫には負けない」という記事が11日、アップされました。

以下、引用させていただきます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

5月11日の衆議院農林水産委員会で、本県選出の江藤 拓代議士が、まさに地元畜産農家の気持を涙ながらに、冷静に、時には厳しく、訴えられました。

これを見ながら、私は涙を禁じえませんでした。

「江藤先生、良くぞ言ってくれた」

と、喝采を送りました。

「我々の代弁者」という言葉が選挙のときに言われますが、この江藤先生の質問は、まさに、農家の声を、絶望、悲哀、怒りを代弁した名質問だと思います。

口蹄疫の被害者は、多いに首肯し、溜飲を下げ、勇気付けられ、慰められるのではないでしょうか。

口蹄疫は、海外においては何百万頭の殺処分をした例もあります。

まさに、国家的な畜産の危機をもたらす病気なんです。

これを機に、政府が前面に立って解決に当たってくれることを期待します。

また、私たちも、被害拡大阻止に全力で取り組んでいくと、覚悟を新たにした次第です。

金融担当常務 仁田脇安博

http://jamcblog.miyachan.cc/e166279.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

現場の生の声、ほんとうにつらいなかを戦っておいでの方でなければ書けない文章だと思います。


相変わらず、メディアは、口蹄疫について、

「本日までに新たに確認されたのが、3例」

程度の報道しかしていません。


それだけ聞いたら、視聴者は

「なんだ、たった3匹の話か」程度にしか思わない。

これを印象操作と言わずしてなにが印象操作なのでしょうか。


実際には、本日時点で、殺さなければならない家畜が、すでに8万頭に迫る勢いになってきているのです。


たいへんな被害です。


この問題については、内閣だの民主党だのという垣根すら越えて、まさに国難として挙国一致で取り組まなければならない問題です。


もし、民主党の支持者の方で、これをお読みの方がいたらお願いします。

口蹄疫問題は、政争の具にあらず。

すべての党と連携し、即時、抜本的な対策を打っていただきたい。

責任ある政治を行っていただきたい。


11日の農林水産省「農林水産関係の基本施策に関する件(口蹄疫の発生状況及びその対応について)」の全編の動画を見ることができます。

URL=http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php

↑の動画で、江藤拓(自由民主党・無所属の会)、長島忠美(自由民主党・無所属の会)の質疑の全編を見ることができます。

下にYoutubeにアップされている江藤議員の動画もアップしますが、みなさん、できれば、↑のURLから、江藤議員、長島議員と赤松農相のやりとりを、しっかりと目を見開いてごらんいただいていただきたいと思います。


体制を作り、人に任せたからいいんだという赤松農相、現地入りして現場の目で大臣も国民も一体となって対策に与えてもらいたいという江藤、長島両議院。

単に、行く、行かないの問題ではなく、たとえば、殺処分した牛や馬をどこに埋めるのか。

近隣の国有地を提供するという大臣。

その場所は水が出る場所なので現実問題として埋めれない、離れた場所に死体を運んだら、その途中で菌がばら撒かれて被害が拡大する可能性すらあるという、現実に即した対応を求める江藤、長島議員。

「農水省をあげて、万全の対策」をとっているという農林水産副大臣。

「万全の対策というのは、責任者が顔を見せることも含まれる、被災者の気持ちをくみとるのも、大臣の仕事ではないか」という江藤、長島議員。


誠実に、挙国一致で対策にあたろうという江藤、長島議員。

我々は万全の対策をとっていると答弁する赤松農相。

みなさんご自身の目で、そのやりとりを実際にご覧になってください。


以上です。


最後に、長島議員の発言を引用します。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私も実は牛を飼っております。

牛は「家族」だと思っています。

そして、その「家族」の命を分けてもらって、われわれは命を永らえているんだと、私はそう思います。

だから、大切に我々は生きなければいけないし、牛や豚を大切にしなければいけないんだと私は思うんです。

もうこれ以上、この口蹄疫によって、牛や豚の命が奪われることのないように、先ほど(大臣が)万全の対策とおっしゃいましたけれども、私は是非、お願いとして、(農家のみなさんに)顔をみせてやって、農家のみなさんの手を握ってやってあげることも、大きな勇気につながるということをわかっていただいて、対策をとっていただきたい。

それをご要望といたしまして、私の質問を終わります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ボクは、江藤さん、長島さんの質問を観ていて、涙が流れました。

口蹄疫から日本を守れ!と思う方
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20100511農水委員会 江藤拓議員

日本再生のために民度の向上を

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上杉鷹山
上杉鷹山


ヴァーシリー・ミハイロヴィッチ・ゴロヴニン(Василий Михайлович Головнин, Vasilii Mikhailovich Golovnin)という人がいます。ワーシリー・ゴローニンとも呼ばれます。

1776年生まれといいますから、日本で言うと江戸中期頃に生まれた人です。

彼は、ロシア帝国ロマノフ朝の海軍軍人で、文化八(1811)年に、軍から千島列島の測量を命じられ、ロシア軍艦ディアナ号艦長として択捉島、国後島を訪れます。

そこで幕府役人に捕縛され、箱館で幽閉されています。

彼は、2年3か月の間、日本に幽囚され、文化十(1813)年、釈放されてロシアに帰国しました。

後日、ゴローニンは、このとき日本での経験を「日本幽囚記」という本にまとめます。

この本は世界各国語に翻訳され、その頃まで日本に対してヨーロッパが持っていたイメージ「クリスチャンへ理不尽な迫害をもたらす野蛮な国」という認識を一変させます。

ゴローニンのは、この本の中で、民であるというヨーロッパの否定的な日本人観を一変させました。

この本で彼は、日本の風俗、習慣、宗教、社会、政治等を鋭く分析し、日本人の戦争観や教育について、あるいはユーラシア外交に対する考え方、皇室についてなど、詳細なレポートを書いています。

そこに書かれている、ゴローニンの文章の訳です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

日本人は天下で最も教育のある国民である。

(中略)

日本人は、誰ひとりとして我々に侮辱を加えたり、嘲笑したりする者はなく、みんなおよそ同情のまなざしで見、なかには心から憐憫の情を浮かべる者もあり、ことに女たちにそれが多かった。

我々がのどの渇きを訴えると、先を争って世話をしようとした。

我々に何かごちそうしたいと護送兵に願い出る者がたくさんいて、酒や菓子や果物その他、何やかやと持ってきてくれた。

(中略)

現在ヨーロッパの人々たちから野蛮人と思われている日本人は、こんな優しい感情を持っているのだ。

(中略)

日本政府は、庶民が自分達のもつ知識水準で満足し、自国の生産品を使い、海外の科学技術と共にその風習が日本に根付かないように 外国のものはどんなものでも使用を禁じている。

日本の近隣の国々は、神々が日本の立法者達にこのような考えを奨励していることに感謝せねばならない。

もし日本が従来の方針を変更して、ヨーロッパのような政策を取ればどうなるか。

人口が 多く、聡明で、感受性が強く、模倣が上手で、忍耐強く、勤勉な、この万事に長けた国民が、外国のものなら何でも模倣しようとし、わが ピョートル大帝ほどの君主をいだけば、日本が持つ能力や富源とあいまって、この国民は数年のうちに東洋の王者となるであろう。

(中略)

しかし、海外のものならどんなものにも深い嫌悪の反応を示す日本や清国の政府も、現在の方針を変えることはあり得ないことではない。

両国が自ら望まなくても、必要に迫られてそのように仕向けられるようになるかもしれない。

フォボストフのような攻撃がしばしば繰り返されれば、おそらく国家をかき乱すこのような一握りの無法者を撃退するために、そのような対策を講じるようになるかもしれない。

こう した事態に至れば、ヨーロッパに倣って軍艦を製造し、それがやがては艦隊となり、この方策が功を奏せば、人類を絶滅に至らせるほど開明化された私達の他の手段をも採用するに至るであろう。

おそらく日本には、ピョートル大帝ほどの天才が介在しなくても、ただ情勢の赴くままに、ヨーロッパのあらゆる発明が徐々に日本に根付かせるであろう。

それ故私は、この正義感が強く高潔な国民を怒らせるような真似を、決してしてはならないと考える。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この「日本幽囚記」を読んで感激し、幕末に日本にやって来たのが、ロシア正教会の大主教ニコライ・カサートキンです。

そうです。

東京の、千代田区神田駿河台にあるニコライ堂を建てた人です。

ニコライ堂
ニコライ堂



ニコライは日本人について、次のように語っています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

上は武士から下は庶民に至るまで、礼儀正しく、弱い者を助ける美しい心、忠義と孝行が尊ばれる国、このような精神的民族をかつてみたことがない。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ニコライは、ロシア人でありながら、日露戦争中も日本を離れませんでした。
そして神田駿河台の正教会本会で没しています。

それほどまでに日本を敬愛した。


内村鑑三の著書に、「代表的日本人」という本があります。

内村鑑三はその中で、西郷隆盛、上杉鷹山(うえすぎようざん)、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人という五人の日本人の生き方を取り上げました。

内村鑑三は、これら五人の生き方や思想に、日本人の精神文化が色濃く現われているとみたのです。

そしてその精神文化は、内村鑑三の魂の中にも脈々と生きていた。
だからこそ、彼ら五人を選んだのです。

この本は、英語で書かれましたが、そののち世界各国で翻訳されました。それを読んだ人のひとりに、アメリカのジョン・F・ケネディがいました。

ケネディは、あるとき「あなたが最も尊敬する政治家は誰ですか」と聞かれて、

「上杉鷹山」と答えています。

ケネディは、上杉鷹山の生き方を、内村鑑三の著書を通して知ったのです。

上杉鷹山は、米沢藩の藩主です。
江戸時代屈指の名君といわれました。

彼は藩主でありながら、偉ぶるところがなく、自ら倹約を行ない、自分も農民のようになって田畑を耕して働きました。

また学問所を整えて、身分を問わず庶民に学問を学ばせてもいます。

こうした政策によって、破産寸前だった藩の財政が建て直され、藩は生き返りました。

上杉鷹山の経済財務分野での藩政改革の成功は、昨今ではややもするとそのテクニナルな部分だけが強調されることが多いようです。

しかし、ボクは違うと思う。

身分制の厳しい江戸日本にあって、鷹山自身が、農を行い、教育によって民度を高めたこと、これが最大の原因であったのではないか。

どんなに経済援助をしても、民度が低く、他国を食い物にするだけ、あるいは、官からの施しやバラマキだけを期待するような国民のもとでは、経済の活性化も国富の増加も見込めません。

このことは戦後日本を見れば明らかなことで、カネも財源も資源も何もない中ですら、戦前の教育を受けてきた日本人は、目を見張る復興を遂げ、またたく間に日本を世界一のGDPの国にまでしてしまった。

ところが、戦後の自由、博愛、平等、反戦教育を受けた世代が世の中の中心となってからは、これが同じ日本なのかと思うほど、経済の成長は止まり、世の中は享楽的になり、ひとりあたりGDPは、またたく間に世界各国に抜かれ、ある種の統計では、日本のひとりあたりGDPは世界第27位、昨今の不況を考えると、もしかすると今の日本は、40位くらいまでその順位を下げているかもしれない。


自由、博愛、平等、反戦は、なるほど庶民の耳にはサワリが良いです。

しかし、忠孝の道を忘れた自由は、単なるわがままや自己中、独善、独りよがりを産み、社会貢献を謳うはずの博愛は、ただの自己愛に、平等は働かなくても分け前だけよこせというご都合主義に、反戦は単なる腰ぬけしか産んでいないように思えます。

もし、ゴローニンや、ニコライ大主教が、いまの日本をみたら何を思うだろうか。

もう一度、民度の高い日本を取り戻すためにも、私たちはいまこそ日本の歴史、伝統、文化を見直し、礼節を尊び、人格の陶冶に励む日本の教育を復活させなければならないと思うのですが、いかがでしょうか。

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communication by cca

日本の心をつたえる会について

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台湾は、昔、日本が約50年統治しました。

日本が統治する前の台湾は、未開の首狩り族や阿片中毒者が横行し、伝染病の巣窟だったそうです。

鉄道も一部にあるけれど、いつ走るかは鉄道員の気まぐれ次第。

何日も走らない日があるかと思えば、突然、一日何往復もする。

そんなところだから、日清戦争のあと、清国は、日本に台湾を割譲します。


日本は、本土以上に費用をかけ、立派な人材を送り込み、道路や街を整備し、上下水道を完備させ、学校や病院を作ります。

列車も、時刻どおりに正確に運行するようになる。

そしていつしか台湾の人々は、官は民を守る公正な人たちであり、軍人さんや警察官は規律に厳しく、服装もきちんとしている立派で優しい人たち、それが「あたりまえの姿」と信じて暮らすようになります。

実際、当時の台湾で警察官といえば、ものすごく立派な人たちだった。


そして終戦を迎えます。

台湾は日本の領土ではなくなり、そこへ支那の蒋介石軍が、大挙してやってきます。


同じ中国語を話す民族がやってくる。
同じ宗教を信じる人たちがやってくる。

当時、少なからぬ台湾人が、台湾の「祖国復帰」を喜びます。

そして港に到着する蒋介石軍(国民党政府の官僚や軍人)を、いまかいまかと待ち構えた。
期待に胸を膨らませ、大歓迎をしようと、多くの市民が港に集まります。

船が到着する。

港は歓迎ムードいっぱいです。

船が着岸し、桟橋が架けられる。

そして蒋介石軍の兵士達が降りてきます。


その瞬間、歓迎の音楽が鳴り響き、爆竹が鳴り、多くの市民の歓声があがるはずだった。

いや、歓声もあがったし、音楽も鳴り響いたし、爆竹も成ったのです。

ひとつ違ったのは、歓声のあと、台湾の市民が凍りついたこと。


日本の軍人さんたちのように、服装も態度も立派なキチンとした人たちが船から降りてくると思ったら、まるで違う。

ひとりひとりの兵士たちは、みなボロをまとい、肩から腰から、鍋や釜、戦利品として押収したのか、一般家庭にありそうな掛け軸やら、置きモノなどを全身にガチャガチャとぶら下げている。

風呂にはいらないのか、全身からただよく浮浪者のような臭気もある。

ぞろぞろと降りてくる兵士たちは、イメージしている軍人の姿とはほど遠く、まるでルンペンと呼ばれた浮浪者の群れです。

銃を持った、浮浪者の群れ(いまならホームレスの人たち?)の群れそのものだった。


「これが・・・軍人???」


なかには、女性の耳から引きちぎったものなのか、血がこびりついたピアスを、いくつも胸からぶら下げている者もいた。

そうです。

支那の兵士たちは、それぞれの個人が得た戦利品を、軍に預けるということができなかったのです。

誰も信用できない。預けたら最後、絶対に誰かに盗られてしまう。

だから、鍋でも釜でも、陶器でも、宝飾品でも、なんでもかんでもそれぞれの兵士が、全部自分の身に付けている。


「この人たち、大丈夫なんだろうか・・・」

多くの市民の不安は、的中します。

上陸した支那兵たちは、軍人だけなく、高級官僚まで一緒になって、市民の家に土足で乱入し、武器を持たない市民に対し、略奪、強盗、強姦、殺人をほしいままにする。

軍隊とよべるようなシロモノではありません。
その振舞は、まるで極道か野盗の群れそのものです。


当時台湾では水道が普及しいつでも蛇口を捻ると水が出ました。

それを見た国民党の兵士が、家の人に命じて、その場で蛇口を外させ、その蛇口を兵士の宿舎に持ってこさせます。

とにかく相手は銃を手にしているから、逆らえない。

宿舎に着くと兵士は、壁を指さして、そこに蛇口を付けろという。

しかたがないから、壁に蛇口を取り付けた。

取り付けが終わったところで、国民党兵士が栓をひねる。

しかし、水が出ない。

あたりまえです。

なにもない壁に、蛇口を打ち付けただけなのです。
水道管に接続しているわけじゃないのだから、水が出るはずがない。

ところがそう説明しても、国民党の兵士には伝わらない。

「おまえは、俺を騙した」といって、家人は、さんざん打ちすえられ、半殺し(当時の半殺しというのは、まず腕や足、肋骨の骨を折られています)の目に遭った。


こうして台湾は、一夜にして中国国民党の支配下におちます。

無教養で粗野な大陸から来た国民党は、台湾人に対して「日本の教育を受けたやつは奴隷教育を受けたのだ」と台湾人を罵しる。

それに対し高い教育と自由な言論で育った台湾人は、
「大きなお世話だ。俺たちが好んで受けたわけではない。
俺たち台湾人に相談もなく下関条約で日本に売り渡したのは誰だ」と言い返す。

すると生意気だといって、半殺しに遭う。
運が悪ければ殺される。

誰がみても理不尽です。
だから訴える。

しかし、国民党の官憲は、犯人がわかっていても、捕まえない。
罰っしようともしない。


連続強姦殺人、幼女誘拐暴行殺人犯といった凶悪犯ですら、マスコミで報じることは禁じられ、さらに軽微な犯罪であっても、加害者が大陸から来た支那人なら、犯人の省籍を報道することは禁止される。


被害に遭ったのは、一般市民だけではありません。

台湾の国家の資材は、支那人官僚によってことごとく接収・横領され、町の物資は、まるごと上海の国際市場で競売にかけられる。

売った国民党の官憲は大儲けかもしれないが、市民には物資が行き届かない。

おかげで台湾の物価は高騰し、急なインフレによって台湾企業の倒産が相次いで、一気に失業者も増加した。


職を失った者、一家で平穏に暮らしていた家を勝手に接取されて浮浪者暮らしになった者、子を殺された者、妻や娘を強姦された者など、これまで戦時中でありながらも、日本統治によって、平穏な生活ができていた市民生活は、いっきに生活状態を地獄のような無法地帯へと堕ちてしまった。

不正なかった日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたく、人々の不満が、いやが上にも高まります。

そうして起きたのが、台湾2.28事件です。

台湾の非武装の一般市民が、抗議のために市庁舎の前に集まった。
その数、10万人です。

ただ公正で平穏な生活を求めて集まった、武器をもたない台湾の市民たち。

その市民たちに対する支那国民党の答えは、市役所の屋上に据え付けた重機関銃による市民への無差別乱射でした。

この事件で、官憲によって機関銃で乱射され、殺害された市民の数は、公表数で2万8千人です。

一説によれば、5万とも8万ともいわれる。

正確な死亡者の数はわからないのです。

つまり、殺害された台湾の一般市民は、人としてすら認知されていなかったのです。


そんな話は、もう大昔のことだよ、という声も聞こえてきそうです。

しかし、ではウイグル族やチベットに対する中共の弾圧はどうなのか。

法輪功に対する弾圧はどうなのか。
2010年の、こんにちにおいてもなお、弾圧や密殺、暴行、強姦は枚挙にいとまがありません。

筆者は、法輪功で中共政府に逮捕されたある若い女性の写真を拝見しました。

テレサテン似の、とても美しい女性です。

逮捕後、気がふれたこの女性は、まるで骸骨のように痩せ細り、全身に火傷や肉をえぐられた怪我の跡があり、毎日何十人もの男に強姦され続けて、まるで別人にされていた。

そんな事例は枚挙にいとまがありません。


日本は、いろいろな問題があっても、それでも世界の中では、とってもとっても公正で清潔で、安全な社会を築いています。

そして、そういう公正で清潔で安全な社会というのは、これを読んでいるあなたがひとりで作った社会ではない。

父祖や代々の日本人が、脈々と続く日本文化の中で、ようやく築き上げた世界に誇る公正な社会なのです。


問題はいろいろあります。

世の中は動いているのです。問題がなにもないなら、それは無人の世界です。

人がいる以上、日々、なんらかの問題は出る。

しかし、それでも、父祖が築きあげてきてくれた公正で清潔で安全で安心な日本という国を、わたしたちは本来、いっそう発展させ、磨き上げ、子供たちの世代につなげていかなければならないはずだと思うのです。

いまの日本は、おおきく歪んでいる。どこか間違っている。

それは誰もが思うことです。

そしてそれを変えるには、方法は2つしかない。

武力をもってクーデターを起こすか、民意をもってこの国の方向を正しく導くか。

そして、もし日本がいま、武力クーデターを起こすなら、おそらくそのクーデター政権は国際社会で孤立し、孤立した瞬間に世界から物品の輸入を止められ、多くの日本人は一瞬にして飢えに苦しむ地獄の日々を送ることになる。

ならば、わたしたちがいまいちばんしなければならないことは、日本を愛する心を多くの人の心に取り戻し、民意をもって正しい日本の姿を取り戻すこと。
それしかないのではないか。

保守同士で喧嘩をし、互いにののしりあって対立するのではなく、それぞれがそれぞれの論よりも前に、日本を愛し、日本が好きだよという心の共有をすることの方が先なのではないか。

日本の心をつたえる会は、そういう日本の心の共有化を目指してできた会です。

ですから日本の心をつたえる会は、政治団体ではない。

もちろん、宗教団体でもありません。
日心会にはいったからといって、願い事は叶いません(笑)。

しかし、日本を好きだ、日本を守ろうよという仲間と楽しい時間を過ごし、みんなで仲間を増やすことによって、日々、自然と会は増殖し、多くの仲間が集うところになる。

対立よりも和を、理屈よりも心を、それが日心会の姿勢なのです。

下に引用しますが、「一方的に送られて来るメール」という言葉がありました。

日心会のMLは、双方向性です。送られてきたメールに返信をしたら、それがもうみんなに発せられた発言になります。

「クラブ活動」もある。「遠足(ミニツアー)」もある。「飲み会」もあります。

そしてどれひとつとっても、強制はない。

みんなが、ひとりひとりが、自分でほんのちょっぴりできることで参加する。

その「ちょっぴり」が、千人いたら千倍になる。
1万人いたら、1万倍になる。

いままでひとりでしていた愛国行動が、いきなりみんなでする愛国行動になる。

日心会というのは、そういう会です。

日心会のご入会は↓コチラから
http://nippon-kokoro.com/kei/index.html


【日本の心をつたえる会の綱領】

▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽

(1) 日本を愛し日本の歴史・伝統・文化を未来へつたえる役割を担います。

(2) 我が国に正しい歴史認識を甦生させ道義と志操に基づく国家の建設に寄与します。

(3) 会員相互で力をあわせ日本の心をつたえ草の根徳育推進運動を行います。

△△△△△△△△△△△△△△


(ご参考)
日心会のMLで、「もっと気楽な話題も」というトピックが立ちあがりました。

このML(メーリングリスト)というのは、誰かの発言に対し、それを会員ならどなたでも意見を書き込むことができるというものです。

掲示版と違い、その都度メールが全参加者に配信される、という特徴があります。

リアルタイムに議論がすすむのです。


そこで行われた会員みなさんの日心会に関する発言です。

以下、引用します。

(文中、行頭に“>_”がついているものは、投稿者が引用した文章です。)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【投稿者Aさん】〜〜〜〜〜〜〜

某所でのやりとりです。

> 私の友人は名ばかりの会員ですが、
> それでも一方的に送られて来るメールでは、
> 「クラブ活動」や「遠足(ミニツアー)」、
> 以前は「忘年会」で会員たちは大盛り上がりだそうで
> これには、皆で大笑いしたものです。

そうそう、日心会はその程度のド素人集団。
公安に監視されたり、公安の情報でドタバタするレベルにない。

というか、日心会はそのレベルの会。

敷居を極力低くして保守の裾野を広げることを目的とした会。

先鋭的であってはいけないし、高度な議論が戦わされる場所であってはいけない。

私としては政治的な話もして欲しくない。

それぐらい低いレベルを狙った会。

ただし、日本の心を掲げてるので「節度だけは低レベルであることが許されない」
そういう会。


> じゃあ「政治ブログ」にはいってくるなよw
> 「老人会ブログ」か「飲み会ブログ」にでも行けよw
> 基本的に日心会のスタンスが間違ってるだろうw
> 日心会って「政治ブログ」で何がしたいんだよw

目的は保守の裾野を広げること。

敷居を極力低くして保守の裾野を広げることを目的とした会が日心会。

大笑いされてムカー!でなく、
老人会だとか飲み会だとかに怒!!でなく、
それでいいんだよ、日心会はってのが私の意見。

これだけ政治の話がされてる中で、それを止めろとは言わないけどさー、
高度な議論をするなとも言わないけどさー、
もっと気楽にやっていいんじゃない?

クラブ活動やら遠足やら飲み会やらで盛り上がるってのもアリでしょ。
どこそこの酒が旨いとか酒の肴にこんなのがとか、そんな話もあっていいのでは? それだって日本の良さの再確認ですよ。
そんな話もしましょうよ。



【投稿者:Bさん】〜〜〜〜〜〜


日心会の大きな目的は「日本の心をつたえること」そのままだと思うんです。
恥かしながら、自分は歴史や政治など本当に詳しくなくて、日本を嫌っている人達と議論なんかしたら簡単にあげあし取られると思います。

でも、ねずきちさんのブログを見ていいなと思い、会に入っていろいろな活動を通して普通では出会えない人達との交流で驚く事があって、自分の成長を感じる事が出来ます。
目的は最初に述べた事ですが、やはり自分が楽しくないと続かないですから。

飲み会や遠足、山登り、デモ、講演会いろいろな活動で日本のいい所を発見し伝えていけたらいいです。

しかし、自分基準で申し訳ないんですが、皆さん本当に見識が深くて僕はレベルが低いとは思わないんですけどね。
いろんな意見があっていいと思います。



【投稿者:Cさん】〜〜〜〜〜〜

日心会というより、大部分の国民はト゛素人集団なのではないでしょうか・・・
自称先鋭的と仰る議論好きな方々は、このド素人には、なんだか≪怖い洗脳された集団≫と見られています。

しかし日心会のユーモアと人間味溢れる国思うベテランの方々は、ちっとも偉ぶらず、保守とはこんなにいいものなんだ・・・と自然に教えてくださいます。

あの田母神先生だって、中山先生だって、小川先生だって(他にもたくさんいらっしゃいますが)とっても謙虚で偉ぶらず、ト゛素人にはとてもわかりやすくユーモアたっぷりにお話しくださいます。

議論や思想以前に、人間性の素晴らしさ・魅力が保守普及のためには、とっても大切であると思いました。

勉強会を通して、レベルの高いお話が自然と身に付く機会を与えてくださるのが日心会であるとも理解しております。

警戒されて誰にも話しを聞いてもらえない寂しい頭でっかち保守より、お願いしたら保守票を集められ、人に好かれるド素人保守が劣る存在でしょうか???

普通の井戸端会議で盛り上がるように、大切な家族や友人に接するのと同じように、仲間を増やすのが日心会の流儀のようです。

これが、保守を主流とする最も重要な戦術であると思うのですが・・・

理解できない方は、お気の毒だと心から思います。



【投稿者:Dさん】〜〜〜〜〜〜〜

この意見はなかなか面白いと思います。

「行動する運動」系と併せて参加されている方も多い中でこういう言い方が妥当かどうかは分かりませんが、いきなり愛国保守としての切れ味のよさをアピールすると、何かと外部との軋轢が多くなるのも事実ですし。

私自身も、入会を考えたときは、気さくで人柄の良い方々の集まった会という印象を持てたので非常に惹かれましたね。



【投稿者:Eさん】〜〜〜〜〜〜〜

すっごく良いトピですね。
私自身少し気が楽になりました。

けど、素人としては、多くの方が高度な話を見ていると、
「カッコイイ!」
「自分もこれくらい知っておきたい!」
って思うのは私だけでしょうか?

ゆるゆるだから私も入会してから今まで続いています。
けど、知らない事がどれほどの「負」なのかも知ることが出来ました。

たまにある保守の「職業病」的な面白い会話も好きですし。

結局今のスタイルが「日心会」として自然に出来た雰囲気なのかな?って思います。



【投稿者:Fさん】

人は、実際に会って始めて、その人となりを感じます。

そして、その、醸し出す雰囲気の中から、この人物が、どの程度の器なのか判断ができます。

普段、一般社会の中でも、きちんと実力を発揮され、なおかつ、人望も厚ければ、そんな方は、なにも、ネットの中で、声を荒げたり、ムキニなったりしている、暇は、そんなに、ないはずです。

普段、現実的に相手にされない人が、必死に、どこかでかじった知識で、論破しているのをみると、あわれだなーとも 感じます。

だから、なんでも良いのです。

人間は本来、楽しいことが、大好きです。

だから、イベントなどで、楽しい時間をもちながら、ネットだけではなく、その人となりから、信ぴょう性を判断していくのでしょう。

私のようなミーハーでも、ここは、いいなあ って感じます。

悲壮感や偏屈な雰囲気では、誰も相手しません。
一部の次元の低い人しか。

音楽も、自分が、不安と不満でいっぱいのときは、相手の演奏も悪いところガ聞こえてきます。
これと一緒だとおもうのです。

なにをきいても、みても、その、悪いところばかり、波長が合ってしまう人は、あまり、相手にしなければ良いかと、私は、思います。

とはいっても。ここは、ケンカしなければーって時は、私も、とことんやります。
もちろん、顔と名前をきちんとだして(笑)。

地域では、ちょっとした、プチスター(笑)状態です。

Aさんの、生き方、まっすぐすぎるところ、それも、長所ですね。

でも、けして、ご自分が自爆するような、行動や言動は、どうか どうか控えてくださいね。

お仲間の一人として、心配で心配で仕方ありません。

実際に会ってますから、私は、一味違いますよ(笑)

だから、会わなきゃ わからないんです。

Aさん 体にきをつけて、日心会をよろしくね。



【投稿者:Gさん】


自分もCさんのご意見に賛同します。

難しい政治用語や専門知識を振りかざして頭デッカチになった学者気取り保守ばかりでは、せっかく歴史の真実、民主党の正体に気づいた人達に、

「あぁ、やっぱり政治の話なんて自分には無理だな」

と思われて一人でも多くの日本人を目覚めさせるなんて無理な話です。

政治は一部の人のものではない。
国民全員が興味関心を持って然るべきものです。

したがって、
「素人はだまってろ!我々政治に詳しい、勉強した者だけが論じていればいい」というようなものではないと思います。

学者気取り保守が、「保守とは何か?」なんて延々と議論したところで、売国法案を粉砕できるのか?

今必要なのは、難しい議論ではなく一人でも多くの普通の市民が真実を知り、行動することです。

1人の学者気取り保守の論説より、100人の素人市民の声や行動が今の日本を亡国の道から救い出すために大事なんだと思います。

そんなに政治が好きで、勉強されたなら、何で自ら立候補して政治家にならない?

本にかじりついて知識を蓄えてばかりで、有効な行動を取ってこなかった人より手探りであっても、デモや抗議集会、講義FAXやメールを送って、なんとか民主党のやりたい放題を防ごうとする素人のほうが、よほど日本のためになると考えます。

日心会は多くの市民が政治という、一見難しそうに見える分野の敷居を下げる役割も大きいと思います。

やろうと思えば、日心会主催でデモを行うことも出来るでしょう。

既にデモや街宣を行う市民団体とのパイプもあるし、素人と言っても色々な分野のノウハウを持った集まりですから。

では、なんでやらないのか?

この会は、あくまでも「日本のよい話、日本人の良さ」を伝える会です。

シュプレヒコールで「日本人は良い民族だー!」と叫ぶ事が「日本の良さ」を広める手段とは言い難いからでしょう。

それを日心会メンバーは、よく知っている。

ネガティブなキャンペーンでは、「日本の良さ」は伝わらないんです。

だからこそ、「ゆるゆる保守」と自ら呼んで多くの人がリラックスして政治に興味をもってもらうようにすべきだと考えます。



【投稿者:Hさん】

私もCさんに賛同します
某会は少し過激で…私にはちょっとだけ怖かったんですよね〜

別な某会は、今も在籍するし好きだけど…会員同士の横の繋がりは希薄で高齢の方が多く、みんな難しい話が大好きで私は頭がついていけなくて…

日心会は決して押し付けて来ないし、しかし暖かく見守って育てようとしてくださっている気がします

私はねずきち会長のブログからでしたので…みなさんに初めてお逢いした時も、名前や職業住所など、あやふやに答えて警戒していたのですが(苦笑)怪しかったと思います…

逢って30分くらいで警戒の必要無し!ってわかりました

みんな本当に日本が好きで、ましてや人間が好きで、知識のある方々が私のような無知な者にもわかるように色々教えて下さる…今まで自分とは関係の無いと思っていた世界から手を差しのべていただいた気がします

私のような底辺の人間にもこの国の為に出来る事があるんだと今は思っています

日心会に出会わなければそう思うことはなかった気がします

敷居を低くして下さった事でイライラされる方もいるかもしれませんが、私のような無知な人間に教えて下さる日心会の方々に本当に感謝しております

これからもきっとそう感じて下さる方が沢山出てくるでしょう

飲み会やお茶会、遠足、デモ…みんなの考えを知ったり、結束を強める為には有効な事だと思います

私は博識なのに偉ぶらず憎めないキャラクターのN会長が大好きです

Wさんも、Xさんも、Y姐さんも、Z様も…集まりに出て実際にお逢いして、みんなすごい人なのに同じ目線まで降りてきて接して下さるのが何より嬉しく思いました

本当に博識な方々の集まりなのに嫌味な所が皆無です

誰が何と言おうと日心会はこれから広まります

私はついていきますよ〜



【投稿者:Iさん】

Gさん いいね〜 その通りだと思います。

これからの保守運動の「核心」はこれです。

庶民が動かないで何ができますか!



【投稿者:Gさん】

自分も知識は重要だし、勉強は欠かせないと思います。

稲田朋美先生や田母神前航空幕僚長の書籍を読んで、正しい歴史認識や本来あるべき外交姿勢などを勉強しています。
(まだまだ皆さんには追いつきませんが・・・)

そうしないと、議論で論破されたり、会社や友人に民主党の売国政策の危険性や日本が誤った歴史を刷り込まれている事の説明が出来ませんから。

行動するために知識は必須です。

「では、何が言いたいのか?」と問われれば、自分の知識が豊富なのに慢心し、自分よりも知識が浅いと認めた人間を、勝手に
「わかってない奴、ど素人」
と断定し見下す姿勢は良くない。という事です。

なぜなら、そうした態度は結局、周囲との調和を乱すだけですから。

議論が嫌なのではありません。

実際、日心会メンバーが顔を合わせても議論はあります。

それは大いにすべきです。

ただし、それが熱くなるあまり中傷合戦になると、それはもはや議論とは呼べません。

知識も議論も大事です。

必要不可欠です。

されど、「実るほど頭をたれる稲穂かな」を心に刻むべきだと考えます。



【投稿者:Kさん】

Gさん!

全面的に賛同します!

やはり貴君は至宝です!!!!

年下の貴君に教えられる事が多いことに気付いた自分は、この会に入ったことの意味をかみ締めています。

貴君と知り合えたことが、私のの宝石です。



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ねずきち

Author:ねずきち
日本が好きです。ていうか人間が大好きなのかな。心って、ものすごく大きなこともなしとげる。その時代時代に、真剣に生きた人たちから学ぶこと。歴史って、いまを生きる人が過去に学ぶためにあると思う。だから、歴史にIFは禁物だなんて思わない。歴史を学び、もし〜だったらと考えることで、人は何かを感じることができるんだと思う。

政治に混迷が続く中で、もういちど私たちは過去を振り返ってみる必要もあるのではないか。そうすることで、もしかしたら一条の新しい光を見出すことができるのかもしれない。

このサイトで扱っている動画はYouTubeにアップロードされているもので版権物の知的所有権は、それぞれの著作者・団体に帰属してます。問題があればすぐ削除しますので、

nezu@nippon-kokoro.com

までメールでご連絡ください。

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コメントをくださる皆様へのお願い
いつもたくさんのコメントをいただき、ありがとうございます。
ほんとうに皆様のコメントが、ねずきちにはとっても嬉しく、かつありがたく拝読させていただいています。

議論というものは、すくなくともこのブログのコメント欄が、国政や地方自治、あるいは組織内の意思決定の場でなく、自由な意見交換の場であるという趣旨からすると、互いに互譲の精神を持ち、相手を尊敬する姿勢、ならびに互いに学びあうという姿勢が肝要であると存じます。

ねずきちは、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

従いまして、謙譲・互譲・感謝、そして学ぶという姿勢のない連続投稿、粘着投稿に類する投稿をされた方については、以後のコメント書き込みを、管理人であるねずきちの判断で投稿の禁止措置をとらせていただきますので、あしからずご了承ください。
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ねずきち並びに日心会批判をしている特定の方々へ

ねずきち並びに日心会について、中傷やご批判をしている特定の方々には、専用のトピを立てています。
ご意見がおありでしたら、そちらで承ります。
なお、下のURL以外の場所では、他のコメンテーターの皆様にご迷惑となりますので、中傷非難の書き込みはご遠慮ください。
 ↓
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-924.html
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伊勢神宮式年遷宮奉賛金寄付について
日本の心をつたえる会では、20年に一度行われる伊勢神宮、式年遷宮のための寄付を会として行っています。
平成23年末まで、みなさんから寄付を募り、日心会としてこれをとりまとめて伊勢神宮に寄付を行います。

■関連記事
「伊勢神宮の式年遷宮に
協力しよう」


ご寄付のための専用口座は
次の通りです。

■ゆうちょ銀行からお振込
銀行名  ゆうちょ銀行
記号   10380
番号   57524261
口座名
   日心会式年遷宮奉賛金事務局
(ニッシンカイシキネンセンク゛ウホウサンキンシ゛ムキョク)

■他の金融機関からお振込
銀行名  ゆうちょ銀行
支店名  〇三八
(読み:ゼロサンハチ)
店番   038
  預金種目 普通預金
口座番号 5752426
口座名
   日心会式年遷宮奉賛金事務局
(ニツシンカイシキネンセンク゛ウホウサンキンシ゛ムキヨク)

神宮遷宮は、1300年間行われ続けた伝統行事です。
日本の歴史では、古来国家の歳費で行われてきましたが、これが歳費で行われなかった時代が2つあります。
ひとつは応仁の乱から戦国時代。国が荒れて国費は遣われませんでした。
もうひとつは日本国憲法下の日本。つまり現代日本です。
日心会では、国家の伝統と文化保護のため、みんなで力をあわせて式年遷宮の伝統行事を応援します。
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■ ブログ名:ダメ人間のつぶやき
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