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サイパン島最大の町ガラパン サイパンの玉砕戦について書いてみようと思います。
ご存知の通り、サイパンは北マリアナ諸島にある島です。
面積は、115.39km²ですから、岐阜県美濃市、土岐市、福井県なら、あわら市、北海道 の滝川市、千葉県の柏市、神奈川県なら小田原市、愛知県なら一宮市と同じくらいの面積の小さな島です。
この島で、昭和十九(1944)年六月十五日から七月九日にかけて、日米の大激戦が行われました。
もともとサイパンは、気候もよく、高温多湿で気温変化が少ない海洋性亜熱帯気候の常夏の島です。
一年中泳ぐことができ、海水の透明度は世界一といわれるくらいの美しい自然を持った島です。
南洋諸島にもともと暮らしていた人々は、もともと武器を持たず、所有の概念がなかったといいますから、おそらくは、サイパンの人々も、長年にわたって平和な暮らしをしていたのだろうと思います。
そこに、1521年、日本では武田信玄が生まれた年の3月6日、マゼランがやってきます。そして1565年には、マリアナ諸島全域の領有を西欧諸国に布告する。
以降、サイパンは、三世紀に渡ってスペインの統治下におかれます。
統治するスペイン人と、抑圧されたチャモロ人との間には、数限りない戦いがあったようです。
しかし、1695年、スペインは、サイパン以北のマリアナ諸島の島民全員をサイパン島に強制移住させたあと、3年後にサイパン島の島民を含む全員を、グアム島に強制移住させています。
おかげで、サイパン島は、この後、約120年間、無人島となっています。
他国に支配されるというのは、こういうことなのです。
日本でもいま対馬に韓国が、沖縄に中共が触手を伸ばしてきています。
「まさか」が現実になるのです。日本本土も同じです。
清王朝は、もともと満洲人たちの王朝です。
大清帝国を打ち立てたヌルハチは、満人たちの保護を図るために支那に攻め込み、そこに王朝を樹立します。そして万里の長城から北側、つまり満洲の地に「漢人立ち入るべからず」の高札を建てた。
その後200年にわたって安住の地となった満洲は、清国の崩壊とともに漢人たちに蹂躙されています。
なんと、人口わずか300万人の満洲人の居留区(満洲)に、2700万人の漢人たちが押し寄せた。
そして今度は、自分たちの方が人口が多いからと、漢人による満洲の統治を要求します。
それを認めたらどうなったか。
彼らは満人たちに、何十種類もの税金を課し、5年先の税金までも武器を手にして強硬に取立ます。
しかも税を取り立てる税吏は、政府が要求する税金以上に取立ができたときは、多く取った分は、自分のフトコロに入れてもいい、とした。
結果、満洲人たちは、まる裸にされてしまいます。
周囲が騒然となり、暴動や暴行が近所で日常的に行われるようになったら、我が家は我が家で守らなくちゃならないのは、当然のことです。
でなければ、家族全員が殺されてしまう。
国を守るということは、私たちの生活と未来の子どもたちの生命と財産を守るということなのです。
ごめんなさい。話が脱線しました。
サイパンに話を戻します。
無人島となったサイパンに、1815年、ナポレオンがヨーロッパで戦い、日本では南総里見八犬伝が刊行された頃、サイパンには、カロリン諸島のサタワルから酋長アグルブに率いられた一団が移住し、人が住むようになります。
1898年、スペインはアメリカと戦い(米西戦争)、敗北して賠償金の支払いのために、マリアナ諸島をドイツに売却します。
ドイツは、マリアナ諸島にはあまり興味がなかったらしく、サイパンなどは、流刑地にしています。ずいぶんと待遇の良い流刑先です。
大正三(1914)年七月、第一次世界大戦が勃発します。
この年の十月には、連合国側であった日本が、ドイツ軍を蹴散らし、赤道以北の南洋諸島全体を占領します。
そして、大正九(1920)年には、マリアナ諸島他、赤道以北の太平洋諸島は国際連盟から正式に日本が委託を受けた日本の委任統治領となります。
この頃、サイパン島は、日本の地図には「彩帆島」と表記されています。
日本は、サイパンに、南洋庁サイパン支庁を置き、サイパンは内地から南洋諸島に出かける玄関口としておおいに栄えます。
昭和十八(1943)年八月時点のサイパンの人口は、
日本人(植民地の台湾人、朝鮮民族含む)
29,348人
チャモロ人、カナカ人
3,926人
その他外国人 11人
となっています。
大東亜戦争は、日本対米・英・豪・仏の太平洋をめぐる戦いでもあったわけですが、緒戦で日本軍に大敗し、フィリピンや、東南アジア諸国、太平洋で、あっという間に駆逐され、追い出されてしまいます。
なにせこの頃の日本軍の強さは、鬼神もこれを避けるというくらいのすさまじいものです。
駆逐され、排除された米国は、豪と結び、チェスター・ニミッツ提督率いる太平洋艦隊と、レイモンド・スプルーアンス提督率いる中部太平洋艦隊、それと新しく大統領令によって編成された南西太平洋方面軍の大部隊で、日本に対抗します。
よほど日本軍が怖かったのでしょう。
米国は、豪と組み、空母15隻を含む750隻の大小艦隊と、10万の歩兵部隊、約25万の水兵を包含した大部隊で、マリアナ諸島作戦を開始します。
そして空母搭載の艦載機は、なんと902機です。
この時点で、日本側は、昭和十七(1942)年のミッドウェー海戦で、主要な海軍力を失っています。
それでも、残存する兵力を結集して、米豪の艦隊に挑んだけれど、その陣容は、わずかに空母9隻、戦艦5隻、重巡洋艦11隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦28隻、合計56隻です。
艦載機も、439機。
守備隊の飛行機は、規定では1750機となっていたのだけれど、実際に配備できたのは、米軍の半分にも満たなかった。
日本側はマリアナ沖でおおいに奮戦するけれど、衆寡敵せず、結果として制海権、制空権とも奪われる。
とりわけ、米軍が新たに配備した高射砲は、VT信管といって、飛行機の近く50メートル付近に達したときに熱を感知して爆発する。
そしてその破片が飛行機に当たって致命傷を与えます。
これによって、マリアナ沖海戦では、航空部隊同士の戦いでは、力量にまさる日本側が圧倒的勝利を飾るけれど、巡洋艦や戦艦に搭載した高射砲によって、300機以上も発進した日本軍機のうち、目標とする米空母の上空には、わずか数機しか達することができなかった。
この件について、よく日本軍は精神力に頼り近代兵器の開発を見下したからだ、という戦後の論調をよく耳にします。
なるほど、科学力、技術力、工業力で、日本が圧倒されたのは事実です。
しかし当時の日本の状況を考えれば、科学技術、工業力の前に、すでに経済力が壊滅していた。軍の装備を全部新装備に改めたくても、配給する銃器、弾薬にすら困っていた。
敵の戦闘機や爆撃機が群がって攻めてきたからと駆逐艦ゆきかぜが弾薬を湯水のように使って敵機を撃退したら、大本営から大目玉をくらった。
弾を撃ちすぎた、というのです。
そういう状況で、日本は、それでも戦っていたのです。
戦わなければ、日本人という民族そのものがなくなるからです。
このことは先に書いておきたいのだけれど、たしかに大東亜戦争は悲惨な戦争です。
236万人もの英霊の命が失われた。
しかし、当時の日本人の人口は約8000万人です。
人口損耗率からいえば、わずか3%(すみません。あえてわずかと書かせていただきます)で、日本という国を、植民地化から守りぬいた。
戦争の目的である、人種平等を実現した。
もし戦わずに降伏していたら、アメリカインデアンや、他の植民地支配を受けた国々が皆、そうであるように、人口の8〜9割を失っているのです。
つまり、8000万人のうち、7000万人が、拉致され、殺され、そして東亜もアフリカも、いまだ植民地支配を受けたままであったであろうことを、理解すべきと思います。
アメリカインデアンは、北米に約800万人いたそうですが、いまやわずかに35万人です。そしてその全員が、DNAに白人のDNAを持っています。
大東亜戦争において、日本は科学力や技術力を十分に発揮できなかったけれど、経済力が復活してからは、イラク戦争で、日本の装備を施した米軍戦車隊は、わずか5分でソ連軍の最新型大戦車部隊、最新型の世界最強最大規模の戦車部隊を壊滅させています。日本の先人達を馬鹿にしちゃいけません。
さて、マリアナ沖海戦で、制海権、制空権をものにした米軍は、いよいよ日本の南洋諸島への玄関口であるサイパン島に迫ります。
昭和十九(1944)年五月三十日、いまではナウル共和国(主都がない珊瑚礁の共和国)となっている日本海軍ナウル基地を飛び立った偵察機「彩雲」が、マジュロ環礁に停泊するアメリカ軍の大艦隊を発見します。
六月五日、ふたたび「彩雲」がマジュロ環礁を偵察し、米軍が出撃準備を整えているころを目視確認します。
六月十一日、米豪軍艦載機1100機が、サイパン島を空襲します。
空を覆わんばかりの戦隊からの空爆です。
さらに十三日には、戦艦8隻、巡洋艦11隻を含む上陸船団を伴った艦隊が来襲。
なんと18万発もの砲弾で、3500トンもの艦砲射撃を行います。
米軍の攻撃開始前の時点での双方の兵力は次の通りです。
【日本側】
陸軍部隊(第三一軍北部マリアナ地区集団)
28,518名
海軍部隊(中部太平洋方面艦隊の第五根拠地隊、第一四航空艦隊)
15,164名
合計
43,682名です。
このうち海軍部隊は、地上戦闘部隊ではなく、その多くが補給部隊、陸軍部隊も急遽、満州の内陸部から送られてきた部隊です。
なかには輸送船が撃沈されて、駆逐艦などによって救助され、身体一つで上陸した将兵も少なくなかった。
実際のこの当時の日本軍の戦闘能力は、わずかに2万人程度です。
しかも、航空機は壊滅。海軍軍船による保護もない。武器弾薬の補給もない。食料も水も供給がない。
そこに米軍は、ありあまる物資とともに、35万の兵力を差し向けてきたのです。
敵上陸を水際で食い止めようとして、沿岸部の陣地を固めていた日本側は、この空爆と艦砲射撃で、せっかくの水際陣地をすべて失っただけでなく、内陸部の陣地も半壊、サイパン基地にあった航空機150機も、すべて壊滅、一般人の住む民家や、宗教施設、商店街、学校等も、すべて壊滅してしまう。
本来、これはハーグ条約違反です。
条約に従うなら、民間人がいる以上、攻撃前に、攻撃の予告をし、一定の時間をかけて攻撃開始時間を遅らせ降伏を勧奨する、最低でも一般の民間人をきちんと避難させる。
そのうえで、戦闘を行うが、その際、軍事施設以外の施設に関しては、これを爆撃、攻撃してはならない。
それが国際法のルールです。
どこの戦地でも、日本は、そのルールを守っている。
これに対し、米軍が行ったのは、日本に数倍する航空兵力、海軍力がありながら、予告なく、民間人施設を含む、完全な無差別攻撃を行った。
6月15日7時、米軍は上陸を開始します。
東京大空襲に使用した量の2倍の火力を、小さな島に集中したのです。
当然、日本軍の大砲はすでに全滅したものと考える。
米艦隊は、上陸部隊の先発隊を島の沿岸に向かって出発させます。
上陸用艇がリーフを越える。
盛大な艦砲射撃のあとです。
日本側がこさえた遮蔽物は、ことごとく破壊されている。
米軍の第一陣が、島に上陸します。
島からの砲撃、銃撃はありません。
米軍は、続いて大量の上陸用艇を、一斉に出発させる。
兵員を乗せたもの。戦車を乗せたもの。武器を積んだもの。
まるで群がる蜘蛛の大軍のように、一斉に島に向かって上陸用艇が進んでくる。
米軍が、次々と島に上陸します。
島からの砲撃はありません。
午前7時からはじまった、上陸作戦は、約2時間で、300以上のLVT(Landing Vehicle Tracked、上陸用装軌車)を接岸させ、海兵隊8000名がサイパン島の西海岸に上陸した。
そして米軍上陸部隊が、火器を整え、島内への侵入を開始しようとしたそのとき、日本軍から猛烈な砲撃がはじまります。
日本側の攻撃は、米軍のような物量にまかせた乱射ではありません。
日ごろの訓練の賜物です。
一撃必殺。
ただでさえ、火力が不足しているのです。
日本側は、一発一発を大事に撃つ。
そしてその砲弾は、まるでピンポイント砲撃のような正確さで、米軍の上陸用装軌車、戦車、火薬庫、兵士たちを直撃します。
もはや撃ってくる力はないと過信していた米軍は、水際でパニックに陥る。
第二海兵師団では四人の大隊長が負傷し、米軍は騒然となります。
米軍は、上陸作戦で、もっとも死傷者が集中する初日の攻撃作戦については、そのときの死傷者数を島での戦闘による死傷者数にカウントしていません。
死亡者は行方不明に、戦傷者は送還兵としてカウントしています。
なので、この日の緒戦で、米軍側にどれだけの死傷者が出たかは、正確にはわかっていません。
しかし、米軍側の資料によれば、この日の上陸後の、日本側の充分敵を引きつけた上での猛反撃により、米兵2000名が死傷したとされています。
他の史料等によると、緒戦における戦傷者というのは、即死ではなく、しばらく息があった者は、戦傷扱いにカウントしていますから、実際には米軍は、このとき上陸した8000名の海兵隊のうち、2000名を瞬時に失い、他の6000名も、ほぼ壊滅に近い打撃を受けたのであろうと推測されます。
本来、死傷者の数というのは、軍の無線が崩壊しているのでもない限り、正確に把握できなければ軍とはいえません。当然米軍はこの日の死傷者を正確に把握したでしょうし、それが「2000名の死傷」としか発表されてないということは、実際には相当な被害が発生したであろうと推測できるわけです。
日本軍の猛反撃に驚いた米軍は、慌てて洋上の艦船から爆撃機を発進させるとともに、日本軍が撃ってくる場所を特定して、そこに猛烈な艦砲射撃を行います。
これにより、日本側は、戦車第四中隊、独立混成第四七旅団等が全滅してしまいます。
日本側の砲が沈黙することにより、米軍は、日没までに海兵2万名を新たに上陸させ、海岸に幅10km、奥行き1kmにわたる前進拠点を構築します。
ちなみにこれは、米軍にとっては、当初の予定の半分の広さです。
ロバート・シャーロットという従軍記者が書いた「死闘サイパン」という本があります。
その本の中に、上陸第一日目の午後遅くにシャーロット自身の目の前で起こった出来事が書かれています。
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チャラン・カノアの未完成の滑走路の端で、その夜のためにタコツボをせっせと掘っていると、突然けたたましい叫び声が聞こえた。
「あの穴のなかに日本兵がいるぞ!」
そう叫んだ海兵隊員たちは、私がタコツボを掘っているところから約3メートルばかりはなれた、丸太でおおわれた砂丘の方を指さした。
その声が終わるやいなや、穴にひそんだ一人の日本兵が、われわれの頭上に乱射をあびせながら飛びだしてきた。
彼はそのとき銃剣で武装しているだけだった。
一人の海兵隊員が、この小男の日本兵を目がけて手榴弾を投げつけた。
その日本兵は痩せていて、身長1.5メートルにも足りなかった。
彼は爆裂によって吹きたおされた。
すると、この日本兵はふたたび立ちあがって、手にしていた銃剣を、敵に向けないで自分の腹に、差し向けた。
そして彼は、自分で腹を掻き斬ろうとしたが、まだハラキリをはじめないうちに、海兵隊の誰かが撃ち倒してしまった。
そのため、だれも切腹をおわりまで見られなかった。
しかし、日本兵はじつに頑強であった。
彼はまたもや起きあがった。
カービン銃を持った海兵隊員が、この日本兵にまた一発、撃ちこんだ。
それからさらに三発も撃った。
その最後の一弾は、この日本兵の真っ黒な頭の皮を3センチばかりはぎとった。
彼は苦しみでのたうちながら死んだのである。
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いまとなっては、このときに勇敢な戦いをした日本人が、誰であったのかすらわかりません。
水際作戦のために、海岸沿いに掘った穴のなかで、米艦隊からの猛爆の中を他の兵士たちとじっと堪え、おそらく、戦友たちは全員爆撃にやられて死んでしまった。
その深い悲しみといかり。
彼は、米兵たちが上陸してくるのを、タコつぼの中でじっと堪え、夕方の薄闇を待って、たったひとりの斬り込み突撃を図ったのだろうと思います。
当時としても、身長150cm足らずというのは、かなり小柄です。
しかも、痩せこけていた。
艦砲射撃のために、体中、大怪我をしていたかもしれない。
シャーロットは、「乱射をあびせながら飛びだしてきた」と書いているけれど、日本兵の持っている銃は、速射、連射のできる機関銃ではありません。
三八式歩兵銃です。
明治三八年制のこの銃には、米軍の銃のような速射能力はありません。
一発ごとに、ガチャンと弾をこめる。
なんと幼稚で古臭い銃を使っていたのかと、笑う人もいるかもしれません。
しかし、軍の装備というものは、その国の哲学が反映されるものです。
ハンディタイプの歩兵用機銃は、5.5ミリ弾を用います。連射するから反動を抑えるために、弾が小さくなる。
そして弾が小さい分、敵兵を容易に殺さず、重傷を負わせるにとどまります。
戦場は過酷なところです。平時とは異なる場所です。
軍にとって、死亡した兵はそれまでですが、戦傷者は、救助しなければならない。
そして戦傷者の増加は、軍の機動力を損ね、軍の敗北を招きやすい。
しかし同時に、大怪我をした兵士の多くは、結果としてはほとんど助かりません。
長く、痛い思いをして苦しみ抜いたあげく、結果として死亡する。
これに対し、三八式歩兵銃は、6・5ミリ弾です。
この弾は、殺害力が大きく、当たった相手は、まず即死します。
敵兵に余計な負担をかけず、殺すときも苦しませずに殺す。
しかも三八式歩兵銃は、連射や速射には向かないけれど、命中率が極端に高い。
敵軍に対し、正々堂々、最小の被害で戦意そのものを削ぎ、降伏に導く。
古臭いとか、連射力がないとか、後世の人間からはボロカスに言われる歩兵銃だけど、そこには、戦に対する明確な日本軍としてのポリシーがある。
したがって、シャーロットが目撃した日本兵も、持っていたのは三八式歩兵銃であり、この銃は、乱射できるようなタイプの銃ではない。
おそらく、タコつぼから這い出した日本兵は、歩兵銃で、二発撃って、二人の米兵を倒し、そのまま銃剣突撃して、敵をひとりでも多く倒そうとしたに違いない。
身長150cm、敵の米兵は、190cm台。
オトナと子供くらいの体格差があり、しかも、敵は多数です。
その中を、戦友を思い、たったひとりで斬り込み突撃をした日本兵は、手榴弾に吹き飛ばされても立ち上がり(おそらくこの時点で、重傷を負っています)、万事休すと、腹切って戦友のもとに行こうとしたところを、銃で撃たれて転倒し、さらに3発を撃ち込まれ、頭の皮をはぎとられて(顔の傷はものすごい血が流れる)、苦しみのうちに死んだ。
彼だけでなく、この時点で、すでにサイパン島に立て篭もる日本兵(わたしたちひとりひとりにとっての若き日の祖父たち)は、最早、勝ち目はない、と知っていたろうと思います。
しかし、問答無用で殺戮をしかけてくる敵に対し、もはや戦うことしか選択肢はなかったし、サイパンを奪われることは、サイパンから日本本土に向けての空襲を許すことになる。
そうなれば、祖国にいる父や母、幼い兄弟姉妹、友人たち、大好きだった彼女たちが、蹂躙され、殺される。
それを防ぐためには、一日でもいい。
戦って、敵をこの島に釘付けにして、日本軍の怖さ、恐ろしさを、敵に知らしめる他はない。
この日、夜襲をしかけようとする日本軍に対し、米軍は休みなく照明弾を打ち上げ、一晩中、海岸一帯を真昼のように明るく照らし出して防御を図ります。
日本軍は夜襲によってなんとか頽勢を挽回しようとするけれど、真昼のような明るさでは、夜襲の効果も半減してしまった。
この「夜襲」についても、すこし補足しておきます。
よく「日本軍は夜襲が得意だった」という人がいます。
別に「得意」というわけではない。
実際、支那戦線では、特段、日本軍は夜襲を好んでいません。
しかし、圧倒的な火力を持ち、しかも自軍に補給がない、という過酷な環境下で、敵の猛烈な弾幕に対抗するには、敵から自軍の姿が見えにくい夜に、暗闇にまぎれて攻撃するしか他に方法がなかったし、弾薬も底が見えているという状況下では、銃剣と軍刀をもってなんとか1:1の白兵戦に持ち込むしか、敵と戦う手段がなかった。
日本の兵士たちは、夜襲が「得意」だったのではなくて、それしか他に方法がなかった、というのが正解だと思います。
この日の夜襲は、米軍の絶え間ない照明弾によって、夜襲の利点が損なわれた結果、圧倒的な米軍の火力によって日本側の2個大隊と、横須賀第一陸戦隊がほぼ全滅しています。
日本軍は、島の北部へ退却せざるを得なかった。
翌16日、米軍第二七歩兵師団が上陸し、日本側の飛行場に向かって進撃します。
途中には、サトウキビ畑が広がっている。
日本軍は、このサトウキビ畑にひそみ、米軍を襲います。
捨て身の戦法です。
やわらかいさとうきびでは、姿は隠せても、敵の猛射は防げない。
それでも果敢に抵抗する日本人に対し、米軍は火炎放射器で、畑をまるごと焼き払うという挙に出ます。
日本兵が、体中火だるまになって飛び出すと、それを全員で撃ち殺す。
火が燃える。日本人が飛び出す。よってたかって撃ち殺す。
射撃する米兵にめがけて、体中を真っ黒に焦がした日本兵が立ち上がって銃撃を加える。米兵が撃ち殺される。
この日いっぱい夜半まで、そうした攻防戦が繰り広げられます。
夜になると、日本軍は、飛行場奪回のために、戦車第九連隊(44輌)を先頭にたてた8000名が、米軍に総攻撃をかけます。
しかし、数十発連続して撃ったら、砲身が真っ赤に焼けて、撃てなくなる日本側の砲門に対し、米軍は、一時間に、野戦砲800発、機銃1万発という猛射で、対抗します。
これにより日本側守備隊8000名が、ほぼ全滅する。
18日の時点で、日本陸軍サイパン守備隊の斎藤義次中将は、飛行場を完全に放棄。そのため南部に残された日本軍が完全に孤立してしまいます。
この段階で、重要な事件が起こっています。
敵の上陸を水際で食い止めるという作戦は、大本営の指示によるものです。
しかし、敵の圧倒的な火力の前に、敵上陸を許し、さらに敵上陸後3日間の戦いは、日本側の敗退と多大な兵力の損耗に終わっています。
そもそも水際作戦のために、日本軍の陣地、火力は海岸付近に集中していたし、これが敵の艦砲射撃や空襲の的にもなった。
このため守備隊は早々に壊滅しています
サイパン攻防戦における水際作戦を指示した大本営の晴気誠陸軍参謀は、この作戦の責任を感じ、自らサイパンへ行って玉砕戦を行いたいむね、志願します。
しかし、いまさらひとりの参謀が行ったところでどうなるものでもないし、晴気参謀を送り届けるために損耗する兵力の方が、逆に高くつくし、有能な参謀を失うことは、日本としても避けなければならなかった。
当然、志願は、却下されます。
しかし、晴気参謀は、このときの作戦の失敗を、ずっと胸に抱き続け、もはや水際では防衛戦はできないからと、この後の作戦では、すべての作戦において、敵を内陸部に誘い込んでの抵抗戦に切り替え、米軍の損耗を増やしています。
常識的に考えて、いわばマシンガンを持った100人の敵に対し、たったひとりで銃剣だけを頼りに戦うような戦いです。
火力と兵力の違いを考えれば、いかに日本の軍人さんたちが、すさまじい戦いを行っていたかがわかろうというものです。
そしてすべての戦いに、頭脳と智慧の限りを尽くした晴気参謀は、終戦を迎えた昭和20年8月17日、それまでの戦いの全責任をとり、大本営馬場の上にある大正天皇御野立所に正座し、同期生に介錯を依頼して古式に則り割腹自決を遂げています。
晴気誠陸軍少佐 晴気少佐は、8月10日に遺書を先にしたためています。
割腹は、覚悟の上のものだったと推察されます。
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戦いは遠からず終わることと思う。
しかして、それが如何なる形に於て実現するにせよ、予はこの世を去らねばならぬ。
地下に赴いて九段の下に眠る幾十万の勇士、戦禍の下に散った人々に、お詫びを申し上ぐることは、予の当然とるべき厳粛なる武人の道である。
サイパンにて散るべかりし命を、今日まで永らえて来た予の心中を察せられよ。
武人の妻として、よくご納得がいくことと思う。
しかして、予の肉体は消ゆるとも、我が精神は断じて滅するものにあらず。
魂はあく迄皇国を護持せんのみ。
予はここにこの世におけるお別れの言葉を草するにあたり、十年間、予と共に苦難の途を切り抜け、予が無二の内助者たりし貴女に衷心より感謝の意を捧ぐ。
又、予は絶対の信頼を以て、三子を託して、武人の道に殉じ得る我身を幸福に思う。
然るに、夫として、又父として物質的、家庭的に、何等尽すことを得ざりし事を全く済まぬと思う。
今に臨んで、遺言として残すべきものは何ものもない。
予が精神、貴女が今後進むべき道は、予が平素の言、其の都度送りし書信に尽く。
三子を予と思い、皇国に尽す人間に育ててもらえれば、これ以上何もお願いすることはない。
三子には未だ幼き故に何事も申し遺さぬ、物心つくに伴い、貴女より予が遺志を伝えられよ。予がなきあと、予が残したる三子と共に、更に嶮しき荊の道を雄々しく進まんとする貴女の前途に、神の加護あらんことを祈る。
予が魂、また共にあらん。
昭和二十年八月十日記
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(明日の記事に続く)
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