日本に手を出した国は必ず滅びる・・・それが歴史の事実です。 日本は相互信頼主義を根本とする国です。 命をかけて戦った先人たちの努力を見直し、日本の素晴らしさを再認識して、階級闘争主義の汚染から日本を守ろう。

アッツ島の戦い

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アッツ島
アッツ島


ねずきちがいつも思うのは、戦後にGHQがでっちあげた(あえて“でっちあげ”といわせてもらいます)日本軍悪玉論や侵略戦争論に乗っかって、祖国のため生命を捧げた人たちの魂魄までも汚すような発言は、断じて許せない、ということです。

よく、「昔は、人の命は紙より軽かった。いまは生命は地球より重いとされている」などと、わけしり顔でものを言う人がいます。

馬鹿かっ!といいたくなるのです。
昔も今も、命の重さにかわりなんてない。あたりまえのことです。

むしろ個人主義が礼賛され、自分の命が脅かされないならば、他人が暴行にあっても知らんふり、といういまのご時世のほうが、よほど命を軽くみているのではないか。

それどころか、仲間を助けるために、愛する家族や恋人や妻や子を守るために、親兄弟や妻や子のいる祖国を守るために、命をかけて戦った昔の方が、よほどひとりひとりの命は重かったかもしれない。

人を愛する気持ちは、国家がひとつの共同体であった昔のほうが、いまの時代よりももっともっと重かったかもしれない。

大東亜戦争の防衛戦で、最初の玉砕戦となったのが、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘、世に言う「アッツ島の戦い」です。

山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉砕した。

日本軍の防衛部隊は、2,650名。

米軍が投下した兵力は、12,000名

アッツ島の日本軍の指揮を執ったのは、山崎保代大佐です。

山崎保代大佐(没後中将)
山崎保代中将


彼は、水際防御ではなく、硫黄島と同じく敵を島の高地に引き込む戦術を採用しました。
その結果上陸した米軍との戦闘は大東亜戦争の激戦のひとつとして記憶されることとなった。

1943年5月29日、山崎司令官は守備隊の生存者を司令部前に集めます。

そして、彼自身が先頭になって、米軍陣地に最後の突撃を行った。
この時点で生き残っていた傷だらけの兵士150名が後に続いたそうです。

山崎中将は、右手に軍刀、左手に日の丸を持って攻撃部隊の先頭に立ち、山の斜面を駆け上って米軍の哨戒線を突破する。
スピーカーから流れる降伏勧告を拒否し、撃たれては立ち上がって突撃した。

米軍陣地で激しい白兵戦を展開し、突撃部隊は最後の一人が倒れるまで戦い、山崎司令官も戦死した。

戦後、遺骨収集が行われたとき、兵たちのいちばん先頭で遺品・遺骨が確認されたのが、山崎中将だったそうです。

米軍戦史にも、山崎中将を「稀代の作戦家」と讃えている。

「彼の軍隊は今まで前例がない程に塹壕を利用し、最後まで岩と土とを利用して戦った。米軍は今や日本軍から何を予期すべきかを知った。」と戦訓中に述べています。

また「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と伝え、「バンザイ・アタック」の名とともに今も讃えられていると伝えています。

アッツ


この戦いに参加した辰口信夫軍医が遺した日記が、後日、米軍によって発見されています。

辰口医師の日記は 敵上陸の1943年年5月12日から始まって、玉碎前日の29日で終わっています。18日間の短いものです。

5月29日、最後の日の記述を引用します。

------------------------------------

夜20時、地区隊本部前に集合あり。 

野戰病院も参加す。

最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。

僅かに33年の生命にして、私はまさに死せんとす。
但し何等の遺憾なし。

天皇陛下萬歳。
聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとするところなり。

18時、総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。

私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻妙子よ、さようなら。
どうかまた合う日まで幸福に暮らして下さい。 

美佐江様 やっと4歳になったばかりだが、すくすくと育ってくれ。

睦子様 貴女は今年2月生まれたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。

政様 お大事に。 

こーちゃん、すけちゃん、まさちゃん、みっちゃん、さようなら。

-------------------------------------

辰口氏は、軍医ですから、おそらくは山崎中将と、最後までご一緒だったものと思います。

アッツ島の日本兵


おわかりいただけますか?

亡くなられた方々は、おひとりおひとりが、私たちと同じ、息をしている人間だったのです。

瀬島竜三氏の「日本の証言」という本があります。

この本の中に、アッツ島玉砕を、陛下に奏上したときの模様が描かれています。

引用します。

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アッツ島部隊は非常によく戦いました。

アメリカの戦史に「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と記されたほどです。

それでも、やはり多勢に無勢で、5月29日の夜中に、山崎部隊長から参謀総長あてに、次のような電報が届きました。

「こういうふうに戦闘をやりましたが、衆寡敵せず、明日払暁を期して、全軍総攻撃をいたします。
アッツ島守備の任務を果たしえなかったことをお詫びをいたします。
武官将兵の遺族に対しては、、特別のご配慮をお願いします」

その悲痛な電報は、「この電報発電と共に、一切の無電機を破壊をいたします」と、結ばれていました。

当時、アッツ島と大本営は無線でつながれていたのですが、全軍総攻撃ののちに敵に無線機が奪われてはならないと破壊し、アッツ島の部隊は玉砕したわけです。

この種の電報の配布第一号は天皇です。
第二号が参謀総長、
第三号が陸軍大臣となっていまして、宮中にも各上司の方には全部配布いたしました。

そして、翌日九時に、参謀総長・杉山元帥が、このことを拝謁して秦上しようということになりまして、私は夜通しで上秦文の起案をし、御下問奉答資料もつくって、参謀総長のお供をして、参内いたしました。

私どもスタッフは、陛下のお部屋には入らず、近くの別の部屋に待機するわけです。

それで杉山元帥は、アッツ島に関する奏上を終わらせて、私が待機している部屋をご存じですから、「瀬島、終わったから帰ろう」と、こうおっしゃる。

参謀総長と一緒に車に乗るときは、参謀総長は右側の奥に、私は左側の手前に乗ることになっていました。
この車は、運転手とのあいだは、厚いガラスで仕切られていました。

この車に参謀総長と一緒に乗り、坂下門を出たあたりで、手帳と鉛筆を取り出して、
「今日の御下問のお言葉は、どういうお言葉がありましたか。どうお答えになりましたか。」
ということを聞いて、それをメモして、役所へ帰ってから記録として整理するということになっていました。

車の中で何度もお声をかけたのですが、元帥はこちらのほうを向いてくれません。
車の窓から、ずっと右の方ばかりを見ておられるのです。
右のほう、つまり二重橋の方向ばっかり見ておられるわけです。

それでも、その日の御下問のお言葉と参謀総長のお答えを伺うことが私の任務ですから、
「閣下、本日の奏上はいかがでありましたか」と、重ねてお伺いしました。

そうしたら、杉山元帥は、ようやくこちらのほうに顔を向けられて、

「瀬島、役所に帰ったら、すぐにアッツ島の部隊長に電報を打て」と、いきなりそう言われた。

それを聞いて、アッツ島守備隊は、無線機を壊して突撃してしまったということが、すぐ頭に浮かんで、

「閣下、電報を打ちましても、残念ながらもう通じません」と、お答えした。

そうしたら、元帥は、「たしかに、その通りだ」と、うなずかれ、

「しかし、陛下は、自分に対し『アッツ島部隊は、最後までよく戦った。そういう電報を、杉山、打て』とおっしゃった。だから、瀬島、電報を打て」と、言われた。

その瞬間、ほんとに涙があふれて……。

母親は、事切れた後でも自分の子供の名前を呼び続けるわな。
陛下はそう言うお気持ちなんだなあと、そう思ったら、もう涙が出てね、手帳どころじゃなかったですよ。

それで、役所へ帰ってから、陛下のご沙汰のとおり、

「本日参内して奏上いたしたところ、天皇陛下におかせられては、アッツ島部隊は最後までよく戦ったとのご沙汰があった。右謹んで伝達する」

という電報を起案して、それを暗号に組んでも、もう暗号書は焼いてないんですが、船橋の無線台からアッツ島のある北太平洋に向けて、電波を送りました。

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みんな、血も涙もある人だったんです。
ボクにはね、「死人に口なし」みたいな考え方は、到底許せないんだ。

いま、これを書きながら、ねずきちは、涙でボロボロです。

そうやって戦い、死んでいった英霊に、恥ずかしくない日本を残すことが、いま、我々が生きている現代の日本人に課せられた使命ではないかと、ねずきちは思うのです。

日本を売国屋に渡すな!と思う方
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アッツ島血戦勇士顕彰国民歌

日本人が知らない資源のお話

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日本の天然資源
日本の天然資源


まず、引用します。

2010.4.20、産経ニュースからです。

<引用開始>-----------------------------

沖縄通過の中国艦艇、その後に沖ノ鳥島近海へ
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100420/plc1004200131001-n1.htm

今月10日に沖縄近海を通過した中国海軍の艦艇が、その後、日本最南端の沖ノ鳥島(東京都小笠原村)近海に入り、同島を基点とする日本の排他的経済水域(EEZ)内で島を1周するように航行していたことが19日、わかった。

複数の日米軍事関係筋が明らかにした。

沖ノ鳥島は島ではなく、EEZの基点とならない「岩」だと主張している中国側による日本への示威行動とみられ、日本政府は中国艦艇の航行記録を慎重に調べている。

中国艦艇は、東海艦隊(司令部・浙江省寧波)のソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦2隻、フリゲート艦3隻、キロ級潜水艦2隻、補給艦1隻など計10隻で編成。

10日に沖縄本島の南西約140キロの公海を東シナ海から太平洋に向けて通過した後、11日に沖縄南方海域で洋上補給を行うと、13日ごろに沖ノ鳥島周辺海域に到達した。

防衛省関係者によると、現在も太平洋上で演習を継続しているという。

8日には東シナ海で艦載ヘリが監視中の海上自衛隊の護衛艦の約90メートルまで接近している。

中国軍の機関紙「解放軍報」によると、中国海軍は今回の行動を「近来まれにみる期間と規模の遠洋訓練」と位置づけている。

航海中には、艦載ヘリの誘導で空母機動艦隊を攻撃する訓練や対艦ミサイルによる攻撃を電波妨害で防ぐ訓練などのほか、「世論戦、心理戦、法律戦の訓練」も行うという。

中国は過去、国連海洋法条約で必要な日本への通告を行わずに沖ノ鳥島周辺のEEZ内の海洋調査を進めてきた。今回の行動も独自調査による海流データなどを通じて、同周辺海域で潜水艦を含む軍事行動が可能になったことを誇示するねらいがあるとみられる。

また、艦艇が同周辺海域に進出したとされる13日には、米ワシントンで日中首脳会談が行われていた。鳩山政権の反応を探る意図もありそうだ。

日本政府は、中国艦艇の航行について、11日までの情報は日中首脳会談後の13日午前に公表したが、その後のことは、中国政府への対応を含めて明らかにしていない。

<引用終わり>-----------------------

支那が、「岩だけ」というなら、来る必要もあるまいに。

もうひとつ引用します。

時事ドットコムの4月20日の記事です。

<引用開始>-------------------------

海自機に速射砲の照準=中国海軍の駆逐艦、東シナ海で−関係筋
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010042000046

中国海軍の駆逐艦が今月中旬、東シナ海で哨戒飛行中の海上自衛隊のP3C哨戒機に対し、速射砲の照準を合わせ、いつでも撃墜が可能かのように威嚇する行動を取っていたことが20日、日中関係筋への取材で分かった。

こうした行動は冷戦時代の旧ソ連も、自衛隊機や自衛艦に対して取ったことがないといい、政府は外交ルートを通じ、中国に対し事実関係の確認を申し入れている。

関係筋によると、中国海軍の駆逐艦が海自のP3C哨戒機に速射砲の照準を向けたのは、13日午後3時半ごろ。2種類の速射砲の照準を向け、いつでも撃墜できることを示した。

P3Cは国際法にのっとった通常の哨戒飛行を行っていた。

これに先立ち、中国海軍の潜水艦2隻を含む部隊が10日夜、沖縄本島と宮古島の間の海域を通過し、太平洋の硫黄島方面に進行。8日には、艦隊の艦載機とみられるヘリコプターが東シナ海で、護衛艦に対して水平距離90メートルを切るような近接飛行を行っている。

関係筋は「冷戦時代の旧ソ連さえやらなかったような行動を行っている」と分析


「中国海軍が太平洋や日本近海で何をしようとしているか、慎重に見極めなければならない」としている。

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一般に、日本は「資源の乏しい国である」と言われています。

実際、現状ではエネルギーの50%は石油に頼っているし、その90%は原油であり、原油は99%以上を輸入に頼っています。

ところが、ここにひとつの報告書があります。

国連のアジア極東経済委員会(ECAFE)が行った東シナ海海底の調査報告書です。

調査期間は、昭和43(1968)年10月12日〜同年11月29日まで。

この調査をもとに、翌昭和44年5月に公刊された答申です。

名称は「東シナ海海底の地質構造と、海水にみられるある種の特徴に就いて」という文書です。

そこには、次のような文章があります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「台湾と日本との間に横たわる浅海底は、
将来、世界的な産油地域となるであろうと期待される」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

そしてこの海域における昭和44(1969)年〜昭和45年の日本側調査によると、そこに眠る石油の埋蔵量は、1095億バレル。

1980年代初めの中国側の調査結果では、700億〜1600億バレルです。


ちなみに、世界第二の産油国といえばイラクですが、イラクの推定埋蔵量は1125億バレル。
イランのアザデガン油田の埋蔵量は260億バレルです。


このときの調査報告でも、日本は、実は、イラクに次ぐ世界有数の大油田を保有しているとされている。

さらに近年の調査では、尖閣領域だけで、なんと原油が1000億バレル以上($39.40/バレル)、天然ガス2000億m3($6.68/mmBTU-100万英熱量単位)が埋蔵されていることが確認されている。

実は、中東の石油の枯渇が問題となってきているいま、世界が眼をつけているのが、この日本の東シナ海の海底の大油田なのです。

とりわけ支那は、露骨な示威活動をし、さらに日本国内に大金をバラまいて日本の政治経済、社会を混乱におとしいれ、日本の国力を削ぎ、返す刀で、東シナ海領域の油田と天然ガス田を独占しようと活動しているといわれています。


もし、お時間があるのなら、ネットで、「日本の天然資源」でググってみてください。

上位にあるどの記事を見ても、

日本は資源のない国
埋蔵資源(天然ガス、石油)は、使い物にならない粗悪品、

等々と書いてある。

しかし、「資源がない」と書いているサイトには、資源調査の結果に関する記述はなく、「使い物にならない粗悪品」と書いているサイトには、具体的な調査資料の裏付け記事はまったくない。


日本をめぐる天然資源調査に関しては、戦後間もないころ、実はGHQも、詳細な調査をしています。

その調査報告によると、北海道(千歳〜宗谷岬にかけて)、秋田〜新潟にかけての日本海側、東シナ海の尖閣諸島領域には、豊富な石油資源が眠り、さらに(信じられないことに)東京湾から千葉にかけては、豊富な天然ガス田が眠っていると書いている。

日本の天然資源(関東)


そしてこれに追い打ちをかけるように仔細に調査されたのが、上に示した国連のアジア極東経済委員会の調査報告です。


東シナ海領域の海底資源の分布図を見ると、なるほど国境の支那寄りの部位にも、多少の資源はあるものの、その9割以上は、日本側領海下にあることがわかっています。


ところが、争いをおそれる日本の外務省が弱腰なことをいいことに、支那はすでに勝手に盗掘をはじめており、それも「フィッシュボーン・テクノロジー」という採掘法を使っているという話もある。

フィッシュボーン・テクノロジーというのは、日本側の地下資源の方に採掘パイプを地下で伸ばしに伸ばして、日本が文句を言ってくる前に、ガンガン、これを吸い上げちまおうというテクノロジーです。


そして、現にそういう盗掘をする一方で、上に示したような軍事的示威活動で、日本を脅している。


ちなみに、沖縄の普天間基地問題について、四の五のやっているのは、なにも日本政府や米軍基地を持っている米国政府の都合ではありません。


東シナ海の海底資源を、勝手に盗掘している泥棒国家にとって、眼と鼻の先にFBIがいたら、そりゃあ仕事がやりにくい。

だから何かにつけて文句をつけて、住民運動かなんかを扇動して、いちにちも早く米軍を追っ払おうとしている、という筋書きです。


拳銃を(核)を持っている警官(米軍)がどっかに去ってくれて、残るのが武器をもたない一般人(日本)だけになれば、あとは盗掘だろうが領海侵犯だろうが、要するに「やりほうだい」というわけです。


政権交代を歌った去年の選挙で、支那が莫大な資金を汚ザワに出したともっぱらのウワサが絶えないのも、背景にあるのは、そういう石油をめぐる欲の皮があるからだといわれてもいる。


ちなみに、日本の領土領海をめぐる地下資源に関する報告書は、米国のものも、日本のものもGHQによる古いものを含めて、公的なものはすべていまだに国家関係に重大な影響を及ぼす資料として、いまだに非公開文書となっています。


こういうことを書くと、いささかカルトじみた話と思われるかもしれないけれど、しかし、露骨に支那が欲の皮を突っ張らせて資源の独占をはかろうとしてきているのです。

これ以上支那に振り回され続けることは、もはや日米両国だけの問題をこえ、まさに世界の平和と安定と秩序を脅かす大問題です。

まだまだ石油は、世界の人類共通の資産であり、財産です。

もはや、情報をオープンにして、悪は徹底的に叩く、という抜本的な政治的転換が必要になってきているのではないかと思います。

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田母神塾 メタンハイドレート- (1/3)

日本海軍の誇り、佐久間勉艇長

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第六潜水艇
佐久間艦長と第六潜水艇


人って、いざというときに取り乱したりすることがあります。

ご紹介するお話は、まだ造船技術が発展途上だった明治時代に起こった潜水艇の事故のお話です。

深い海の底で、艇長と乗組員は、持ち場を離れずに、従容として死を迎えた。

酸素がなくなり、有毒ガスが充満し、死を待つのみとなった極限状況の中で、その事故がこれからの日本の潜水艇造船技術の開発に役立つよう、克明に経緯のメモに残した艦長がいました。

そしてその艦長は、それぞれの部署で責任を全うする乗組員ひとりひとりのご家族への特別の配慮を願い出る。

死に直面した中で、冷静沈着にやるべきことをする。

そういう強い精神力を持った人が、この日本にいました。


明治四十三(1910)年四月十五日のことです。

第六潜水艇【せんすいてい】と呼ばれる小型潜水艇が、ガソリン潜航実験の訓練などを行うため山口県の岩国を出航して、広島湾へ向かいます。

ガソリン潜航というのは、ガソリンエンジンの通風筒の先だけを海面上に突き出して、ガソリン機関によって水上走航に近い速度を得ようとするものです。
原理的には、シュノーケルで潜水するものに近い。

水中潜航の場合は、通風筒のバルブを閉じ、蓄電池による電動機により推進します。

当時、日本は九隻の潜水艇を保有していました。
そのうちの七隻は欧米製。
第六潜水艇は、国産の初の潜水艦でした。
まだまだ性能も操作性も貧弱で、技術開発の途上の潜水艦です。


第六潜水艇は、午前十時ごろから訓練を開始しました。

ところが十時四十五分ごろ、何らかの理由で通風筒の長さ以上に艇体が潜航してしまいます。

このため、艦内に海水が浸水。
乗組員はすぐに、浸水を防ぐための閉鎖機構を操作します。
ところが、肝心の閉鎖機構が、故障を起こしてしまいます。


乗組員は、必死になって手動で閉鎖しようと努力します。
しかし、第六潜水艇は、十七メートルの海底に着底してしまう。


付近にいた監視船は、長時間たっても浮上しないことに気づき、ただちに広島県の呉港に在泊の艦船に「遭難」の報告をします。

救援の艦船が駆けつける。

必死の捜索の後、ようやく船を見つけたけれど、そのときは、艇長の佐久間勉大尉以下、乗組員十四人の死亡が確認されていました。


実はこの事故より先に、イタリア海軍で似たような事故がありました。

このときイタリア潜水艇では、乗組員が脱出用のハッチ(昇降口扉)に折り重なり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいました。

ふつう、危機に直面するほど、周章狼狽【しゅうしょうろうばい】して、本性が現れる。
それは、やむをえないことといえます。
誰だって死にたくない。


当時はまだ潜水艇の造船技術が低く、世界各地でこうした悼【いた】ましい事故が起こっていました。
そして、直近のイタリア海軍の事故の模様は、全世界に知られていた。


「佐久間艇長以下の乗組員も醜態をさらしてしまっているのではないか」

帝国海軍関係者一同は、固唾【かたず】を呑んで潜水艇のハッチを開け、艦内の調査を行ないます。

そして乗組員が発見される。

乗員十四名のうち十二名は、艇長は司令塔に、機関中尉は電動機の側に、機関兵曹【へいそう】はガソリン機関の前に、舵手【だしゅ】は舵席に、空気手は圧搾管【あっさくかん】の前にと、それぞれ全員、持ち場に就いたままの姿で亡くなっていました。


「よくやった。世界に醜態をさらさずにすんだ」

ところが、二名がいません。


「どこだっ!」


二人は、本来の部署にはいませんでした。
二人がいたところは、ガソリンパイプの破損場所でした。

彼ら二人は、最後の最後まで、懸命に破損の修理に尽力したのです。
そして、その姿のままで亡くなっていた。


引き上げられた六号艇を検分した一同は、死に至るまで職務に忠実であった様を見て、帝国海軍軍人として正にふさわしい死に方をしたと号泣しました。


この事件は世界中に、日本人の責任感と勇敢さを示したものとして、伝えられました。

イギリスの新聞グローブ紙は、

「この事件で分かることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか、道徳上、精神上も、また勇敢であるということを証明している。
今も昔もこのようなことは前例がない」

と賛辞の声を惜しみませんでした。


各国の駐在武官も、詳細な報告を本国に伝え、わが国の海軍省をおとずれ弔意を表明しました。
それは通常の外交儀礼を超えたものでした。


明治天皇からは、遺族に見舞金が届けられました。これは特別の計らいです。

当時の朝日新聞によって、全国から寄せられたた義援金は、現在の貨幣価値なら億単位となる五万六千円にも達しました。

反戦平和の歌人といわれた与謝野晶子も、次のように追悼の歌を詠んでいます。


 海底の
 水の明かりに したためし
 永き別れの
 ますら男の文


またこのお話は、「やるべきことを最後まで成し遂げる」「職務を全うする」ということで、戦前の小学校の修身の教科書に取り上げられます。
残念なことに、いまの日本の教科書にはまったく取り上げられていませんが。
 

この事故で亡くなられた佐久間艇長は、空気が乏しくなり、薄れゆく意識の中で、死の直前まで手帳に書き続けたメモを残していました。

一頁に三行から五行、全文三十九頁に及ぶものです。
苦しい息の中で、文字は正確、文章は簡潔明瞭でした。

このメモの写しは、当時、アメリカ合衆国議会議事堂の、ワシントンの独立宣言書が陳列されている大広間に、英訳を添えて丁重に陳列されたりもしました。

佐久間勉艇長のメモの一部
佐久間勉艇長のメモ



以下、そのメモを口語訳して掲載します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
■私の不注意によって陛下の艇を沈め、部下を殺すこと、誠に申し訳ありません。

■乗員一同、死に至るまで、皆よくその職を守り、沈着に事を処置しました。

■私たちは、国家のため職に倒れ、死にます。
しかし、ただただ、私たちが遺憾とするところは、私たちのこの誤りが、将来、天下の士の潜水艇の発展に打撃をあたえはしないだろうか、にあります。

■願わくば諸君、益々勉励もってこの誤解なく、将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされん事を。
■さすれば我れら、ひとつも遺憾とするところはありません。

(中略)

■浸水のため、乗員たちの衣が濡れ、寒冷を感じた。

■私は、「常に潜水艇員は、沈着細心の注意を要する。
大胆に行動せざれば、その発展を望むべからず。細心の余り畏縮するな」と戒めた。

■世の中の人は、この失敗をあるいは嘲笑するかもしれない。しかし、私は前言の誤りのないことを確信しています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

メモではまず、艇を沈め、部下を死なせることを詫び、乗組員全員が職分を守ったことを述べています。

当時はまだ、わが国の造船技術は低かったので、佐久間艇長は、この事故で研究や技術開発が遅れることを心配し、逆に益々進むことを願っているのです。

そして、上の文の(中略)のところで、艇内の様子、各機器の状況などを詳細に記しています。
専門用語が並ぶので、ここでは中略としたのでが、佐久間艇長は、薄れていく意識と闇、悪ガスが充満し、体が冷え、手が震える状況の中で、事故の原因、対処した事項、刻々と進む艇内の状況を仔細に報告しています。


次に「公遺言」と明記し、次の文章を書いています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
謹んで陛下に申します。わが部下の遺族をして、窮する者のないよう、お取りはからいください。
私の念頭にあるのは、これあるのみです。

当時は事故に対する補償金などの支払いの制度はありませんでした。
自分が息を引き取ろうとする間際において、部下たちの勇気と冷静沈着な行動に対して、その遺族に暖かな手を差しのべて欲しいと願い出ているのです。

最後に次のように恩人へのお礼を述べます。

以下の諸君によろしく(順序不順)
斎藤大臣、島村中將、藤井中將、名和中將、山下少將一、成田少將

(気圧高まり、鼓膜が破られるような感じがある) 

小栗大佐、井手大佐、松村中佐、松村大佐、
松村小佐(自分の兄です)

船越大佐、成田綱太郎先生、生田小金次先生


十二時三十分、呼吸、非常にくるしい。ガソリンをブローアウトしたつもりだけれども、ガソリンに酔うた。

中野大佐

十二時四十分なり・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


佐久間艇長のメモは、ここで終わっています。
艇長は、このあと、息絶えました。

佐久間艦長は、ひとりひとり世話になった恩人に別れを告げています。
学校で教わった先生にも、よろしくと伝えています。


佐久間勉艇長
佐久間勉大尉



戦前の子どもたちは、修身の時間に、佐久間艇長のお話を通じて、職務を全うすること、責任を果たすこと、部下を思いやることの大事さを学びました。

子どもたちは、わが国の素晴らしい先人達の行動から、生きていくための人として備えなければならない徳目を勉強しました。

そういう教育を、わたしたちはもう一度、取り戻さなければならないと思いますが、みなさん、いかがでしょうか。


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第六潜水艇の事故.avi

これは大罪です。

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政府認定17名
政府認定17名


みなさん、いつもご訪問、ありがとうございます。

皆様からのコメントも、毎日楽しく拝見させていただいています。

その中で、昨日19時35分に「きちん」さんからご投稿いただいたデビ夫人の北朝鮮探訪記は、まさに驚天動地、吃驚仰天、抱腹絶倒、奇想天外、開いた口がふさがらないというか、あきれ果ててものも言えなくなりました。

件の記事は、デビ夫人自身のブログ「デヴィの独り言、独断と偏見」の、4月18日の記事です。

題名は「北朝鮮の旅、 大いなる収穫」
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-10511006071.html

要するに、ブログに本人が書いた「デビ夫人の北朝鮮探訪記」です。

いやはや、その内容たるや、呆れ果ててものも言えない。

内容は、↑のURLをクリックいただいたら読めますので、ご自身でご確認になってください。

まさに、呆れる内容です。


中学一年生(13歳)で拉致された横田めぐみさんは、昭和52(1977)年11月15日の夕方、新潟市内の中学からバドミントンの部活を終えて帰宅する途中で拉致されました。

お母さんの早紀江さんは、突然帰ってこなくなっためぐみさんについて、警察へも通報した。

そして、約20年間、ずっと拉致と知らず、行方不明になった娘を探して、全国の警察から身元不明の遺体の連絡があるたびに、もしかしたら、と現地の警察まで出かけたりされていたそうです。

北朝鮮による拉致だとわかったのが、平成9年1月。
元北朝鮮の亡命工作員が、「中学校一年生の少女拉致」があったと証言したことから、ようやく、その少女が横田めぐみさんだと判明したのです。

20年です。
その間、ずっと「行方不明」と思わされてきた。

判明した月の23日、この問題について、西村真悟先生が政府に質問書を提出し、さらに2月3日の予算委員会で、当時の橋本内閣総理大臣を厳しく追及。
政府に、事実関係の調査を迫ります。

この結果、平成9年5月1日の参議院決算委員会で、政府は、北朝鮮による拉致事件としての認定を明らかにする。


当初、横田早紀江さんが、外務省にめぐみさんの連れ戻しを依頼にいったとき、時の外相のお役人は、「横田さん、いまの日本には、北朝鮮との国交がないのです。連れ戻すのには、あと10年はかかりますよ」と言われた。

あれから、13年。いまだ拉致問題は霧の中です。


そもそも、北朝鮮による組織的な拉致というのは、昭和51(1976)年に金正日が出した「工作員現地化教育のための教官拉致」指令にはじまります。

この指令によって、日本、韓国をはじめ、諸外国から大量な拉致が組織的に行なわれました。

金正日は、父親である金日成の亡き後も、対南工作として、「工作員の現地化教育を徹底して行え、そのために現地人を連れて来て教育にあたらせよ」と拉致指令を下しました。

そしてめぐみさんが拉致された年である昭和52(1977)年から昭和53(1978)年にかけて、工作員の教官にするための外国人拉致が、世界規模で集中して行われています。

北朝鮮によるこのときの拉致は、日本、韓国だけでなく、支那、(マカオ)、タイ、レバノン、ルーマニア、シンガポール、マレーシア、ヨルダン、フランス、イタリア、オランダなど、はっきりわかっているだけでも12か国にのぼる。

そのうち、日本人拉致被害者については、北朝鮮も拉致を認めているのが、横田めぐみさん、市川修一さん、増元るみ子さん、田口八重子さん、有本恵子さん、石岡亨さん、松本薫さん、蓮池薫さん、奥土祐木子さん、地村保志さん、浜本冨貴恵さん、曽我ひとみさんの、計13名。

日本政府が拉致と認定し、北朝鮮がそれと認めていない者が、2名。

他に明らかに拉致と思われる被害者が、6名。

さらに、平成15(2003)年に公表された拉致と思われる特定失踪者が190名。

悪いけれど、そのひとりひとりに、横田めぐみさん親子のような長年にわたる苦しみがあるのです。

それを、いかなる理由があるかはわからないけれど、嘘八百を並べ立て、北朝鮮をむしろ正当化し、返す刀で日本を貶める発言を、たとえブログ上とはいえ、行うとは。

まったくもって、許されざる蛮行といわざるを得ないと思います。

これは、大罪にあたる所業だと思うのですが、みなさん、いかがでしょうか。

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めぐみ 1/3

魚沼産コシヒカリ物語

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冬の魚沼地方
冬の魚沼地方


魚沼産コシヒカリといえば、日本穀物検定協会の米食味ランキングで、、平成元(1989)年から、なんと21年連続で「特A」の認定を受けている国内最高評価のお米です。

値段も高いけれど、味もおいしい。

ずいぶん以前ですが、たまたま単身赴任した頃に、当時流行りのIH炊飯ジャーを買い込み、うれしくてスーパーで魚沼産コシヒカリを2kg買ってきたことがあります。

そんときの感動をいまでも覚えていて、さっそく炊いたご飯が、実にうまかった。

湯気のたった真っ白なご飯。
独特の甘み。

お米ってこんなにおいしいものかと、部屋で、ひとり大感動した覚えがあります。

「魚沼産コシヒカリ」の産地は、その名の通り、新潟県の魚沼です。

このあたりは日本海側気候です。
夏は晴天日が多くて、日照時間が長い。
しかも魚沼は、盆地のために気温の日較差が大きいのです。
おかげでイネの消耗が少なくて、大粒の良質米ができる。

同じ日本海側でも、稲の出穂期にフェーン現象があると、稲に負担がかるのだそうです。
それで甘みのもとになるデンプンの蓄積が足りなくなってしまう。

さらに、魚沼のあたりは、天下の豪雪地帯です。
そのことが、豊富な水量を生んでいます。
透明度が高くて、有機物の汚染のない、良質で豊富な水が、田んぼにはいるのです。

それだけ聞いたら、まさに日本一のおいしいお米の栽培に適している場所といえそうです。

しかし考えてみてください。

もともと「稲」という植物は熱帯性植物です。
稲は、稲は、水田で田植えをし、収穫期には田の水を抜いて収穫する。

これは熱帯性植物である稲を、温帯地方の日本で、人工的に熱帯性気候である雨季と乾季を、作りあげたものです。

対して新潟県は、もともと豪雪地帯です。
熱帯とは対極にある寒冷地でもある。

そういうところに、日本一おいしいお米が育っているのです。

実は、もともとは、新潟県は、米どころではありませんでした。

江戸時代には、天明の大飢饉、天保の大飢饉という2つの大飢饉で、飢えのために、村がまるごと飢えて全滅してしまうという事件も起こっています。

どちらかといえば、そもそも米の獲れにくい貧しい国、であったのです。
その中で、必死に頑張った人々がいたのです。
飢饉にもめげず、互いに助け合い、新潟の米作りを守りぬいたのです。


魚沼産コシヒカリは、昔からあったわけではありません。

開発されたのは、昭和19年。つまり戦時中です。
大東亜戦争の渦中で、食糧難となるなかで、新潟県のような寒冷地でもたくさんのお米がとれる品種はできないものか。

ひとりでも多くの人に、お腹一杯、ご飯をたべてもらいたい。
二度と飢えに苦しんでもらいたくない。
そう思って一人の技官が、戦時中に新潟で、新種の開発をはじめます。

しかし、空襲に遭い、田や家は焼かれ、資料も全部焼けてしまう。

最初に開発をした方は、心労と過労が重なって、53歳の若さでお亡くなりになります。

あとを継いだのは、戦地から復員してきた若者です。

若者たちが、必死に開発を続け、ようやく完成したのは、昭和31年です。

「越後の国に光輝く」

そんな意味を込めて、お米は「コシヒカリ」と命名されます。

しかし、稲穂にたくさんのお米を稔らせた新種の稲は、稲穂が重すぎてすぐに倒れてしまう。しかも病気に弱い。

新種の稲は、世間からもの笑いのネタにさえされてしまいます。

新潟の米を守ろうと、必死で新種の稲を支えた後任の研究所の所長は、ついに左遷され、免職にさえされてしまう。

それでも、あとを引き取った者たちが、必死で頑張り、ようやく誕生させたのが、「魚沼産コシヒカリ」です。

今日は、江戸の飢饉の物語と、コシヒカリのお話をしてみようかと思います。


新潟県内にある遺跡を見ると、ここには縄文の昔から人々が暮らし、古くから稲作も行われていたことが確認されています。

大宝律令の頃には、米ではなく絹織物などによる年貢の納品も認められていたのですが、江戸期になると、納税は、すべて米になります。
しかし江戸時代は気象環境が非常に厳しかった寒冷期です。

地味が痩せて、気候が寒冷だった国で、稲作がどれほどたいへんなものだったか。

とりわけ江戸時代の後期には、天明3(1783)年と、天保7(1836)年に大飢饉が起きています。
新潟県中部では、大秋山・矢櫃村、甘酒村・高野山村が飢饉のため、村自体が全滅している。

天明3年の飢饉というのは、今から227年前の事件です。

何が起こったのかというと、この年の7月に群馬県の浅間山が大噴火した。

噴煙が、空を覆いつくします。
記録によると、昼間でも提灯(ちょうちん)を持って歩かなければならなかったといいます。
このため夏が冷夏になった。
冷夏は、田畑の作物に影響を与え、収穫が激減してしまいます。

米も、野菜も収穫が激減した。

魚沼地方では、木の根や雑草を食べて露命をつなぎますが、なかでも秋山郷では、大秋山村と矢櫃村で、村人が一人残らず飢え死にしてしまっています。


それから53年後。
ふたたび飢饉が襲います。
天保7(1836)年の大飢饉です。

この年は、5月には大雨と洪水、9月には大雪が降ったのです。

そのため田畑の作物がまったく獲れなくなった。
食う者がなくて体力が落ちた人々を、さらに伝染病が襲います。

飢えと病気で、新潟の甘酒村・高野山村が全滅する。

50年前の悪夢が再来したのです。

このとき、庄屋さんに福原新左衛門さんという方がいました。
当時の庄屋さんというのは、いまでいったら農場の経営者といったほうが、わかりやすいかもしれない。

福原新左衛門は、村々を回って飢饉の被害情況を克明に調べます。
あまりに酷い惨状だった。

見かねた福原新左衛門は、小千谷片貝村で造り酒屋をしていた佐藤佐平治を尋ねます。

当時、佐藤佐平治は「忍冬酒」「粟盛酒」という薬用酒を開発し、これを江戸に出荷して大店になっていたのです。
江戸時代にも健康ブームはあったのですね。

この佐藤家という商店は、大店でありながら、飢饉のたびに、飢えに苦しむ人々を救っています。

なかでも第21代の佐藤佐平治は、天保の大飢饉のときに、自宅で酒を造る大釜を使って、お粥や雑炊の炊き出しをして、多くの人を救っていた。

近くの村はもちろん、遠くからも人々がつめかけ、月に千人以上の人々に毎日の食事を与えていたというからすごいです。

その佐藤佐平治を、庄屋の福原新左衛門が訪ねます。
そして秋山郷の飢饉の惨状を詳しく話した。
そして村への支援を要請します。

佐平治は、こころよく、これに応じます。

庄屋の福原新左衛門は、魚沼に帰り、村の人々にそのニュースを伝えます。
そして村から選抜された30人の若者が、食糧を受け取るために出発した。

魚沼郡から、片貝村まで、片道60キロの道のりです。
いまの暦だと12月ごろのことです。
この地方は、いまでも吹雪になると一時間ほどで自動車がすっぽりと雪に埋まってしまうほどの豪雪地帯です。
しかも当時はいまよりもっと気温が低かった。

片貝村に着いた人々は佐藤家で一泊し、翌日、受け取った米や稗(ひえ)の俵を一人一俵ずつ背負い、帰路につきます。

俵は30〜40キロの重さがあったそうです。
往復4日がかりです。

この物資の運搬は、佐藤家で受け取った米や稗を背負って秋山郷まで、交代しながら七回にわたって行われたそうです。
のべ二百人以上の人たちが救援の食糧を運ぶ役目をはたしました。

気の毒なことに、当初、運搬をした農家の若者たちは、みんなはだしだったそうです。

片貝村の近くの真人村の庄屋だった福原太郎左衛門は、村の道を重い俵を背負って通っていく人たちが、雪の積もった道をはだしで歩くと聞き、「冷たかろうに」と、村人たちに言って大急ぎでわらじを作らせています。

やがて、できあがったわらじが秋山郷の人たちに届けられた。
わらじは千足あったそうです。
どんなにうれしかったことか。

こうして、佐藤佐平治からおくられた米や稗によって、秋山郷の人たちは命を救われます。

救援を頼んだ庄屋の福原新左衛門は、その後も米や稗の運搬や配分などについて寝食を忘れて取り組みます。
ただでさえ栄養事情が悪いのです。
寒風の中で、無理を重ねた福原新左衛門は、過労が重なってとうとう病気になってしまう。

新左衛門の娘は、父を一生懸命看病します。
しかし栄養失調と寒さと過労のため、その娘も一緒に亡くなってしまう。

新左衛門は、このとき、まだ43歳だったそうです。


このときの支援物資は、籾と稗が1200表(1080石)、昆布1万把、さらに御救方手金10両、さらに協力金50両もあったそうです。

一両は、現在の金額で約20万円相当です。
それが50両だと約一千万円です。
購買力平価で換算したら、いまの一億円くらいにあたるかもしれない。

さらに佐藤佐平治は、その50両を、自分が結東村から借り受けたことにして、利息7分(3両2分)を毎年村に払い続けてくれます。

なんとこの支払いは昭和42(1967)年まで続く。
実に135年間も、佐藤佐平治の好意は続けらたのです。


そういう志を継いで、この地をなんとかして救いたいと願った農林省の技官がいます。
時は、昭和19(1944)年、大東亜戦争の末期の頃です。

戦況は日に日に悪化し、全国的に食料事情がひっ迫していた。
ただでさえ農地が痩せた寒冷地の新潟では、いつまた飢饉になるかわからない。

すこしでも多くの米が収穫できるようにするためはどうすればよいか。
そのためには、米の品種を改良し、痩せた土地でもたくさんのおいしいお米が獲れるようにする以外にない。

この年の7月末、新潟県農事試験所に、そんな理想を抱いた高橋浩之という若者が主任技師として赴任してきます。

彼は、晩生(おくて)種の「農林22号」と、早稲(わせ)種の「農林1号」との組み合わせで、すこしでも実りの多い米を作ろうとします。

田植え作業には、県農試付属の農業技術員養成所の生徒の手を借りた。
除草作業には、長岡市内の女学校に手伝ってもらった。

当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山錬太郎氏は、当時を振り返って次のような手記を残しています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
高橋さんのように、高官の主任技師で、素足で、真っ先に田んぼに入っていく人はおりませんでした。

あのころ、夕方遅くなっても、圃場に独特の藁帽子をかぶった高橋さんの姿が見え、今日もまた高橋さんは頑張って働いていると思ったものでした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜

新潟という過酷な自然環境の中で、すこしでも多くの稲穂をつけ、収穫の多い米を作る。
そのために彼は、毎日何回となく、水田を自分ではい回ります。
ときには、過労のため、めまいがして畦にしゃがみ込んだりしたこともあったそうです。

しかし昭和20(1945)年になると、戦争激化のため育種事業は全面中止になる。

せっかく作った新種の米を、絶対になくしてはならない。
高橋は稲モミをガラスのケースに入れ、良好な乾燥状態を保ちながら大切に保管します。
開発のための詳細な記録も付けた。

ところが昭和20年8月1日、米軍機による空襲が新潟を襲います。
高橋の家は全焼。
育種に関する資料も全部焼失してしまいます。

田んぼはめちゃめちゃ。
研究室も灰燼。
家も焼かれ、資料も焼失してしまった。

このとき、高橋が防空壕に持って行ったのは、壊れやすいガラスのケースにはいった種モミだけでした。

戦争が終わります。

高橋は、春の訪れを待って、昭和21(1946)年、再び研究を再開する。
そして、この年の秋、高橋は晴れて「農林22号×農林1号」の米を収穫した。第一号です。

しかし戦後のドタバタのなかで、体調を壊した高橋は、人事異動で埼玉県・鴻巣の農業試験地へ転任になってしまう。
そして彼は、過労がたたり53歳の若さでこの世を去ってしまいます。


高橋の去った新潟の農業試験場に、昭和21年7月、外地から池隆肆が復員します。
池は昭和19(1944)年に出征し、終戦後一年経ってようやく復員して、試験場に戻ったのです。

高橋の志を継いだ池は、「農林22号X農林1号」の第2代の生育に取り組みます。
そしてようやく刈り取りの季節を迎えた。

けれども、新種の「農林22号X農林1号」は、大量の稲穂をつけた分、稲穂が重い。
そのため、多くの稲が収穫前に倒れてしまいます。

当然「農林22号X農林1号」の評価は芳しくない。

当時、農林省稲担当企画官だった松尾孝嶺が、育種関係の農林省内の会議で、

「新設される福井実験所へ回す育種材料を出してくれ。
捨てるものがあったら、福井へ送ってくれ」と冗談まじりに言ったという話が残っています。

高橋の開発した「農林22号X農林1号」は、その研究の場を福井県に移されてしまう。
使い物にならない「捨てる品種」とみなされたのです。


ところが翌、昭和23(1948)年、奇跡が起こります。
この年6月28日、福井で大地震が起きたのです。

試験田にある稲は、水が抜けたり土砂が噴出したりして、栽培していたほとんどが壊滅してしまったのです。

そんな中で高橋が開発した「農林22号X農林1号」だけは、「捨てる品種」として、水はけの悪い湿田に、いささか早めに植えられていた。

その「農林22号X農林1号」だけが、元気に生き残っていたのです。

そんな事件から、昭和25年ごろには「農林22号X農林1号」の評価が高まり、福井農業試験場では、「農林22号X農林1号」に、「ホウセンワセ」という名前をつけます。
そして20府県で適応性試験のための生育をすることになる。

ところが評価は芳しくない。

米をたくさんつけ、他の品種よりも早く収穫できるというメリットがある一方で、稲穂が重すぎて、収穫前に、多くの稲がべったり倒れてしまうのです。

この新潟生まれの「ホウセンワセ」をふたたび新潟に取り戻したのは、当時、新潟県農業試験場長の所長だった杉谷文之です。

彼は、昭和31(1956)年に「ホウセンワセ」を正式品種にするよう、農林省に申請します。
たまたま順番で、この「ホウセンワセ」は、「農林100号」というキリの良い名前をもらう。
気をよくした杉谷は、この新種に、未来への夢を込めて「越の国、光り輝く=コシヒカリ」と命名します。

その後も杉谷は、コシヒカリを定着させようと、農林省への申請を続け、昭和34年には有望品種としての表彰までしてもらいます。

しかし、コシヒカリは、いっこうに農家には定着しません。

当時はまだ米は「配給米」の時代で、うまい米もまずい米も、政府の買い入れ価格は同一です。
農家としては品質向上よりも安心して収穫できる品種を育てる。
いくら味が良いと言っても、倒れやすくて、イモチ病に罹りやすいコシヒカリでは、経済的メリットが少なかったのです。

杉谷所長は、ついに農林部参事に左遷されてしまいます。
そして昭和37年12月には依願免職になってしまう。
彼は失意のうちに故郷の富山に引きこもります。

しかし、高橋、池、杉谷の意思を継いだ新潟農業試験場のスタッフたちは、その後もコシヒカリの研究を続けます。

そして弱点である、稲穂の倒れやすさと、イモチ病への抵抗に対して、収穫前の稲の色によって、肥料を抑制する方法で克服できることを発見します。

農薬の使用を抑制するのです。
おかげで、農薬による味の劣化もない。

豪雪地帯だから水が良い。
日本海型気候だから夏の日照時間が長い。

なかでも魚沼は、盆地だから気温の日較差が大きい。
おかげでイネの消耗が少なくて、大粒で糖度が高く、デンプンをたくさん含む味の良い米ができる。

かつて飢饉に苦しんだ、新潟県・魚沼という特殊な土壌が、そのまま素晴らしい米の収穫に適したものとなる。


「魚沼産コシヒカリ」の誕生です。


つらく貧しい痩せた豪雪地帯で、何度も飢饉に遭いながら、それでも人と人とが互いに支え合い、助けあって生きてきた。

100年以上にもわたって、村との約束を守り、村の援助をしてきた人がいた。

そういう人の和が、もしかすると天の神を動かし、高橋浩之という天才技官を新潟に派遣してくれたのかもしれません。

そして、何代にもわたって、絶対にあきらめないという日本人の心が、天の時、人の和、地の利のもとに、最高のお米を生んだのかもしれません。


どんなに苦しくてもあきらめない。
どんなにつらくても、あきらめない。

日本人は、そうやって世界に誇れる日本を築いてきた。

なんだか、そんなことを感じさせてくれます。

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見逃さないでこの魚沼コシヒカリ

藤井厳喜氏、「鳩撃ち猟」プロジェクトを公表

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4・3日心会主催講演会での藤井厳喜さん
藤井厳喜さん20100403


藤井厳喜さんが、鳩山由紀夫内閣総理大臣の妻、並びに鳩山由紀夫後援会を、公職選挙法違反で告発する呼びかけを行っています。

その名も、「鳩撃ち猟」。

実は、ポッポの妻、鳩山幸は、去年の衆院選の前、地元選挙区、室蘭での「室蘭みなとまつり」において、集まった有権者たちにお菓子を配りながら「夫をよろしくお願いします」と投票依頼をしています。

この事実は、室蘭民報の2009年8月1日付けの紙面と、WEBページで報道され、さらに朝鮮日報でも、報道されています。

ところがこれは、立派な選挙違反。
公職選挙法第221条(買収)、199条(寄付の禁止)に抵触する違法な選挙活動です。


さらに、鳩山由紀夫後援会は、昨年の衆院選前の講演会主催のパーティにおいて、パーティの会費は、表面上1000円としていながら、参加チケットを事実上、無料で配布していたのみならず、チケットにはビール券3枚をホチキスで留めていた。

しかもパーティは、たった1000円の会費(実はタダ)でありながら、なんと飲み放題、食べ放題です。

この事実は、週刊新潮の2010年1月21日号でも報じられ、同日付の国会予算委員会で、自民党柴山昌彦議員が、総理に質問しているけれど、メディアは、これを黙殺しています。

これも立派な公職選挙法違反。
第199条(後援団体による寄付等の禁止)に抵触する行為です。


そこで、これら事実をもとに、1万人で鳩山幸、鳩山由紀夫後援会を集団で刑事告発しよう、というのが、今回の趣旨です。

この両名が訴追された場合、公選法違反での連座制(公選法第251条の2)によって、鳩山由起夫議員は、「当選が無効」になります。
当然、総理としての資格も失う。


告発は、5月初旬を予定しており、それまでに、みんなで告発状をダウンロードして、藤井厳喜さんのもとに送り、そこでとりまとめをして、民意をもって検察を動かそうというよびかけです。

詳細は↓コチラ
   ↓
http://www.gemki-fujii.com/blog/


≪具体的な参加の方法は次の通り≫

(1) 下にあるURLから「告発状」をダウンロードし、自分で印刷して手書きで署名、捺印の上、藤井厳喜さんの事務所に送ります。

 ■告発状ダウンロードページ
  ↓
 http://aigis.jp/data/hato-kokuhatsu.pdf

■告発状の送り先
 〒133-0057 東京都江戸川区西小岩1-30-5
    (株)CFG 藤井厳喜 「ハ」係 
 

実行手順は【告発状PDF】の最初のページに掲載があります。

 ※ 印鑑は、認め印でOK(但しシャチハタハ不可)
 ※ 告発状は1人1枚ですが、
   出来る限り、複数人分を同封して送付する。

 ※ 告発内容が自分自身で理解でき、自署(自分での署名)
   が、出来る年齢なら、未成年者も参加可能。

 ※ 在外邦人も可能ですが、告発の締切が4月末ですので、
   それまでに到着するように、ご注意ください。


 ■締切日 2010年4月30日到着分まで

≪藤井厳喜氏オフィシャルブログ≫
http://www.gemki-fujii.com/blog/
 
≪西村幸祐氏ボイスマガジン≫
http://nishimura-voice.seesaa.net/

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【猟師募集中!】「鳩撃ち猟」解禁のお知らせ[桜H22/4/14]

【拡散希望】急増する外国人女性との結婚

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うぃすぱー・ぼいすさんのブログの記事の紹介です。
http://whisper-voice.tracisum.com/?eid=70

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
標題【売国政策に関わらず日本人は滅亡だ!〜急増する外人女との結婚】

外国人参政権がどうたら言う前に、日本男児が日本の女から離れつつある現実を見ろよ。

日本男児の外人女との結婚が激増中!
なんで、こんな事態になってると思う?


こんなの見ると、外国人参政権で騒ぐのなんて、アホらしくなってくる。

日本の多くの女は物欲・性欲と拝金主義で、既に堕落しきっている。
正に”マテリアル・ガール”

希薄な夫婦・家族意識と貞操観念、対価ない家事労働を蔑視、舅・姑との同居拒否など、
そして安直な離婚と、離婚後の子供は母親が引き取れるという優遇意識、離婚しても母子なら国の補助で生活に困らない・・・・・

既に日本の女が求める結婚観なんて、男が嫁として迎えるにあたっては、話にならないレベルに低下。
だから男は、外人妻にそれを求めていくしかなくなる。

そもそも、愛だの恋だの言う前に、結婚とは現実そのものであることを前提とすべき。
男も女も、生き残るための手段にすぎない。
本来、夫婦・家族とは何事にも代え難い存在。有事なら、尚更。

昔の日本女性は、男性以上にとても現実的だった。

だから昔の日本女性はシッカリもので一途、結婚相手としても、とても世界中の男性からモテたのである。
しかし、それは過去の話。

結婚したなら、アホな友達やネットの情報とかに煽られて安直な離婚をするな。
変な映画やTV、マスコミに感化されるな!

今の女たちは、結婚相談とかすると、求める相手の男に対しては山ほどの条件をつけるらしいが、
「それであなたは、相手の男性に、一体どんなことをしてあげられるの?」
と尋ねられると、絶句してしまうのが多いらしい。
結婚しても、男にとっては何も得るものがない結婚相手。

すべてを捨てて嫁いでいく、「瀬戸の花嫁」の歌詞の世界なんて、今や夢物語。
結婚前に処女なんて、今や絶滅危惧種?

すべて、節操ないセックスや男女観を煽り、女子供を甘やかしてきた、左翼マスコミと日教組の左巻き教育の賜物だ。

今じゃ多くの男が、日本の女との結婚なんて、期待どころか、すぐに離婚されたり、子供を連れ去られるんじゃないかという、不信感しか持ってねえのが正直なところだろ?

下記、国際結婚の数値を見れば一目瞭然。
今後ますます、日本の男の、日本女性離れは進んでいくぜ。

結婚してる女にも、実際に保育園とかで接すると、中にどれだけひどい女がいることか。

日本のアホ女は、あつかましい性格を直して、いいかげん心を入れ替えないと、大変な目に会ってくぜ。

これを警告してるのは、恐らく今は、日本で筆者ただ一人。

もっとも某掲示板で既に書いてるので、危機意識を持った人はきっと増えてるはずだ。
いずれにしろ筆者が最初だろう。

マスコミは、この由々しき事態を一切報道しない。

現在、日本の国際結婚は全婚姻数の6%程度、年間4万件超で急増中。大半が夫が日本人のパターン。

その分、年に数万人ずつ外国人の女が増え続け、日本人の女は嫁に行きそびれてあぶれものとなっていく。

日本の男が外人女にどんどん奪われている。
日本の女は危機感持てよ! わがまま言って、選り好みしてる場合か?

日本の女を、正常な旧来の結婚観・価値観(下記)に戻して教育しなおさない限り、亡国 日本の流れは、何も変わらねえよ。

--------------------------------
・無闇に体を弄ばず、結婚は早めにするものであり、子供とは、結婚してつくるもの。

・一人の男性(女性)と人生の苦楽を伴にし、たとえ貧しくとも、どんな苦労、社会の荒波をも、二人が手を取り合い乗り切っていく覚悟を決めること。

・子供が出来たら、夫婦二人で子の成長を願って慈しみ、安らぎある家庭作りに努力すること。子は大きくなり、やがて巣立つ。

・人生が働くことと子育ての連続であったことを、夫婦二人で懐かしみ、互いの苦労を感謝し合い、穏やかな老後を過ごす。
--------------------------------

当たり前のことだが、結婚とは元々、こんなものだろ。

毎年6%ずつ、日本の男が外国人と結婚したら、4世代経った100年後の純日本人の数、一体どうなる!
今後は6%どころか、もっと増えてくぞ!
頑張って、シミュレーション計算でもしてみるとよいだろう。

外国人参政権よりも外国人との婚姻で、遺伝子レベルで日本人なんて滅亡してくんだよ。
左翼による、女子供の堕落洗脳を解かない限り、まともな日本なんて、戻ってきやしない。

--------------------------------

【日本人の国際結婚動向】

2007年の厚生労働省人口動態統計年報によれば、結婚総数(婚姻件数)の約5.6%(=40,272/719,822)が国際結婚であり、この数値は1980年の0.9%(=7,261/774,702)と比較すれば大幅に増加していることがわかる。

全国際結婚数のおよそ8割 31,807件が、夫が日本人というパターン。

対して、妻が日本人である国際結婚は8,465件にすぎない。

以下、2007年人口動態統計年報による、国際結婚の相手の主な出身国籍。

配偶者が外国人女性(夫が日本人)では、
中国 (11,926)
フィリピン (9,217)
韓国・北朝鮮(5,606)
タイ (1,475)
ブラジル (288)
アメリカ (193)
ペルー (138)
イギリス (67)
その他 (2,897)

配偶者が外国人男性(妻が日本人)では、
韓国・北朝鮮 (2,209)
アメリカ (1,485)
中国 (1,016)
イギリス (372)
ブラジル (341)
フィリピン (162)
ペルー (127)
タイ (68)
その他 (2,685)

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〜是非ご一読を〜
≪日本の心をつたえるお話≫
大和心とポーランド孤児
トルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件
エクゼターとエンカウンター
たおやかに やまとなでしこ 咲きにけり
硫黄島の星条旗と日章旗
ランボーは日本人だった!舩坂弘軍曹
公のために働いた武士
キャプテン翼・大作戦
チリひとつなかった江戸日本
花嫁人形
夢の超特急「あじあ号」
弾丸列車と戦後左翼の利権
「日の丸」
国旗の由来と掲揚
「君が代」
「靖国」
「教育勅語(1)」
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「軍人勅諭」
「八紘一宇」
「蛍の光・仰げば尊し」
海軍兵学校「五省」
日本人の誇り
ご皇室は日本の宝
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戸籍について考える
人間を矮小化してはならない
飴を買う幽霊
シコロの木
戦艦三笠を守れ
リンゴの心
日本美の再発見・ブルーノ・タウト
見沼通船堀
ウズベキスタンの日本人
世界に誇る日本の交番
イザベラ・バードの日・中・韓紀行
弁慶の勧進帳
子守りをする少女・・・エドワード・モース
悪代官のお話
有森裕子選手と日本武道
静御前の舞
大理の日本四僧塔
ウガンダの高校生を変えた日本の躾
救出された1200頭の牛
海上自衛隊・海賊船対処

≪人物≫
大山巌・・・西郷の再来といわれた男
明治の貴婦人・大山捨松
津田梅子
クーデンホーフ光子
武士の娘
緒方貞子
楠木正成と七生報国
愛する人とともに・山本権兵衛
死なない男・鈴木貫太郎
昭和恐慌と高橋財政
ご皇室からお嫁に・・嵯峨浩
海戦史を塗り替えた男・吉川潔
軍神・広瀬武夫中佐
言葉の重み・・・大西瀧治郎中将
佐久間勉艦長
陸軍大将今村均
本当の日中友好・・・吉田保男憲兵曹長
敵さえも味方にしてしまった草鹿任一海軍中将
442部隊に学ぶ
東大総長を三度勤めた山川健次郎
金原明善・・・明治の気骨
和井内貞行・・・十和田湖のヒメマス
ダショー・西岡の貢献
鳴門の第九・・松江豊寿大佐
警神・増田敬太郎巡査
沖縄の舞天さん
日本の建築美
友情が生んだ隠岐連絡船
岡藤五郎先生
ヤマハさんと河合さん
スエズ運河を造った男たち
チャンドラ・ボーズ
小灘利春元海軍大尉の遺稿
渡邊美光上等飛行兵曹の遺稿
世のために生きる・田島道治
重き荷を背負いて・・・玉井浅一
自転車で転んで農機具発明・・・佐藤忠次郎
二千人の命を守った警部・・・廣枝音右衛門
日本こそアジアの盟主・・・山鹿素行
実在した怪傑ハリマオー
勝利の要諦は至誠と愛情と情熱・・・藤原岩市陸軍中佐
六十年の時を経て届いた手紙・・・長田和美中尉
日本を救った古代の英雄・・・大伴部博麻
西郷頼母と姿三四郎
昭和の巌流島決戦・・・国井善弥
会津藩の二人の女性・・・中野竹子と瓜生岩子
古くて新しい中江藤樹郎
稲むらの火・・・浜口儀兵衛
なにくそ!・・・早川徳次
身を投げ出して乗客の命を救った車掌・・・鬼塚道雄
新手一生・・・升田幸三
不屈の精神とユーモア・・・高崎弥生さん
男の生きざま・・・山下太郎
老農と呼ばれた男・・・石川理紀之助
宮古湾海戦と甲賀源吾
不自惜身命・・・小原竹五郎と江崎邦助
白虎隊と歴史への姿勢
名将、山口多聞
社員は家族だ・・・出光佐三
人情と情けの人・・・小園安名大佐
戦時下のノーヒトノーラン・・石丸進一
滅んでも勝つ・・・山川大蔵
良心を生きた人生・・・新島襄
天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ・・・長瀬富郎
ライト兄弟より早く飛行機を飛ばした日本人・・・二宮忠八
単騎シベリア横断・・・福島安正
一死をもって責任を貫く・・・石黒小右衛門
愛のかたち・・・快心隊隊長藤井一少佐
歴史から学ぶべきこと・・・広瀬武夫中佐
人情と情けの人…小園安名大佐
プロ野球の特攻隊員・・・石丸進一
滅んでも勝つ…山川大蔵
へりで救出された1200頭の牛の物語
38年間無報酬で働いた村長・・・鎌田三之助
石門心学と石田梅岩
竹カゴとカーボンナノチューブ・・・飯島澄男博士
なりあき少年物語

≪戦後教育の常識を疑え≫
白旗の少女
ちいさくても強いサムライ
赤穂浪士の真実
日本は一国一文化
日本刀と鉄砲伝来
貧農史観というウソ
これでもあなたは日教組に子どもをまかせられますか
聖徳太子と十七条憲法
ハーグ陸戦条約

≪戦記≫
義和団事件とコロネル・シバ
アロハ・オエ
パラオ・ペリュリュー島の戦い
アッツ島の戦い
グアム島の戦い
タラワ・マキンの戦い
拉孟の戦い
騰越の戦い
占守島の戦い(1)
占守島の戦い(2)
回天の志
回天・後日談
マレー沖海戦と戦艦大和
勇敢で高潔で誰からも好かれた日本軍人
三宮事件
日清戦争
日露戦争・・・亡くなられた方の気持ち
日露戦争の勝利はアジアの偉大な救い
日本軍の蛮行・・・デビンティンギ事件
戦争の体験談
義烈空挺隊を忘れるな
第二次上海事変
石頭予備士官候補生の戦い
沖縄の二人の知事・・・泉守紀と島田叡
セヴァストポリの戦いと旅順要塞戦
天誅組に学ぶ、尊王攘華、尊王攘韓
セヴァストポリの戦いと旅順要塞戦
サイパンの玉砕戦(1)
サイパンの玉砕戦(2)
アンガウルの戦い

≪大東亜戦争≫
開戦の詔勅と終戦の詔勅
大東亜戦争に勝利した日本
日本に手を出した国は、必ず滅びる
大義のために戦った日本
12月8日を記憶せよ
大東亜戦争に関する各国の評価
日本の再生こそ世界を救ふ
公正な世界を目指して戦った日本
日本兵の手紙
戦没者の遺書
玉砕までして戦った理由
英霊たちが守ろうとしたかけがえのないもの
植民地支配への戦い
腰の軍刀は竹光か
バシ―海峡の慰霊
戦没者の遺書
インパール作戦とパル判事
五族協和を目指した満洲国
南京の攻防
体験的歴史の真実
B−29との戦い
サンフランシスコ条約と日本
伊58潜水艦と原爆のお話
駆逐艦「雪風」の幸運

≪事件≫
通州事件
尼港事件
斉南事件
通化事件に学ぶ国を失うことの過酷
ノモンハン事件
盧溝橋事件
リットン調査団
重慶空爆
満洲国開拓団の殉難
沖縄の集団自殺の虚構
小野田寛郎さんが語る従軍慰安婦
南京大虐殺というデタラメ
慶長の爆弾三烈士
北条時宗と元寇
大津事件
天狗党の乱
天誅組に学ぶ、尊王攘華、尊王攘韓
刀伊の入寇と竹島

≪台湾≫
台湾2・28事件
日本の台湾統治
日本の台湾統治の真実
台湾・高砂義勇隊

≪支那≫
支那人の残虐性
支那人の“避諱”観念と虚言
支那「日本支配工作要領」
支那に支配された国の実情
「日本は唯一の被爆国」に隠された嘘
支那の盗掘
カネを吸い取られ続ける日本企業
ロシアも怒る支那のパクリ
支那・文化大革命の恐怖
女真族と満洲の話
いまなお続く法輪功弾圧
停車場
カナダの悲劇 中国移民に占拠されたバンクーバー
支那人による日本買占めの恐怖
支那・国防動員法

≪韓国≫
「警戒」を「差別」とすり替える在日朝鮮人
従軍慰安婦問題
在日コリアンたちの本音
犯罪をしたら日本人になりすませ
民団の驚くべき活動
李氏朝鮮の時代(1)
李氏朝鮮の時代(2)
閔妃殺害事件
関東大震災の記憶
朝鮮進駐軍の非道を忘れるな
李氏朝鮮時代の刑罰
在日朝鮮人
韓国建国の英雄
ダライラマの法話で見た韓国人の民度の低さ

≪その他の国≫
アンコール遺跡とカンボジア
ビルマの近代史
アフガンの地雷
二つのアメリカ
ハバロフスク事件顛末(1)
ハバロフスク事件顛末(2)
ハバロフスク事件顛末(3)
シベリアのトイレ
ウクライナ物語
地上の楽園のウソ
インカ帝国の滅亡

≪メディアの偏向≫
毎日新聞英語版のあまりにひどい報道
マスコミが反日になっている理由

≪時事≫
自国の防衛は自国で
日教組に立ち向かえ
外国人参政権
政治資金規正法
竹島問題の真実
夫婦別姓などもってのほか!
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奴らを許すな
中国産新型エイズの恐怖
口蹄疫問題に関する衆議院の質疑の模様
口蹄疫は韓国の陰謀という噂の真相を問え!

≪コラム≫
日本の心をつたえる会
階級闘争主義と信頼主義
「ススキ」と「セイタカアワダチソウ」の戦い!
大麻についての考察
日本人が知らない資源のお話
悪は断じて許さないという心が大切
犬種と人種
ヤプー人の伝説
文化は武器より強し
小学生の妊娠
ギリシャ神話と日本の心
もうひとつの赤穂浪士・矢頭右衛門七
伊勢神宮の式年遷宮
近世のニッポン
正しい万歳
持てる力のすべてを未来への建設に傾け
日本国憲法を否定せよ
華僑と植民地統治について
いくつかの主張
歴史に対する姿勢
仁徳天皇陵を大仙陵と呼ぶまやかしを許すな
ニホンミツバチの勇気ある行動
「理論」と「心」と「都合」のお話
軍艦島のお話
伝書鳩物語
元来日本社会は窮屈、でも窮屈ゆえに安心
Made in Occupied Japan
日本再生のために民度の向上を
地方行政とゴミ処理問題
消えた歴史
核のお話
やまと新聞を守れ
ブログの拡散効果
たった一度の敗戦で日本を失ってはならない
魚沼産コシヒカリ物語
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中国四千年の歴史という馬鹿げた妄想
世界四大文明の嘘
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世界に誇る縄文文化
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ねずきち

Author:ねずきち
日本が好きです。ていうか人間が大好きなのかな。心って、ものすごく大きなこともなしとげる。その時代時代に、真剣に生きた人たちから学ぶこと。歴史って、いまを生きる人が過去に学ぶためにあると思う。だから、歴史にIFは禁物だなんて思わない。歴史を学び、もし〜だったらと考えることで、人は何かを感じることができるんだと思う。

政治に混迷が続く中で、もういちど私たちは過去を振り返ってみる必要もあるのではないか。そうすることで、もしかしたら一条の新しい光を見出すことができるのかもしれない。

このサイトで扱っている動画はYouTubeにアップロードされているもので版権物の知的所有権は、それぞれの著作者・団体に帰属してます。問題があればすぐ削除しますので、

nezu@nippon-kokoro.com

までメールでご連絡ください。

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コメントをくださる皆様へのお願い
いつもたくさんのコメントをいただき、ありがとうございます。
ほんとうに皆様のコメントが、ねずきちにはとっても嬉しく、かつありがたく拝読させていただいています。

議論というものは、すくなくともこのブログのコメント欄が、国政や地方自治、あるいは組織内の意思決定の場でなく、自由な意見交換の場であるという趣旨からすると、互いに互譲の精神を持ち、相手を尊敬する姿勢、ならびに互いに学びあうという姿勢が肝要であると存じます。

ねずきちは、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

従いまして、謙譲・互譲・感謝、そして学ぶという姿勢のない連続投稿、粘着投稿に類する投稿をされた方については、以後のコメント書き込みを、管理人であるねずきちの判断で投稿の禁止措置をとらせていただきますので、あしからずご了承ください。
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やまと新聞を守れ!

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日本の心をつたえる会
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中山成彬先生を国政に!!
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中山成彬先生は日本再生に絶対必要な政治家です。
中山成彬先生は、昨年10月27日、日本解体法案阻止の先鞭をきって「10・27『日本解体法案』反対請願受付国民集会:中川昭一先生追悼」を発起人代表として開催され、その時に国内外から集まった請願書は約10万筆でした。
中山先生ブログ:http://nakayamanariaki.cocolog-nifty.com/blog/ Twitter:http://twitter.com/nakayamanariaki
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ねずきち並びに日心会批判をしている特定の方々へ

ねずきち並びに日心会について、中傷やご批判をしている特定の方々には、専用のトピを立てています。
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なお、下のURL以外の場所では、他のコメンテーターの皆様にご迷惑となりますので、中傷非難の書き込みはご遠慮ください。
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伊勢神宮式年遷宮奉賛金寄付について
日本の心をつたえる会では、20年に一度行われる伊勢神宮、式年遷宮のための寄付を会として行っています。
平成23年末まで、みなさんから寄付を募り、日心会としてこれをとりまとめて伊勢神宮に寄付を行います。

■関連記事
「伊勢神宮の式年遷宮に
協力しよう」


ご寄付のための専用口座は
次の通りです。

■ゆうちょ銀行からお振込
銀行名  ゆうちょ銀行
記号   10380
番号   57524261
口座名
   日心会式年遷宮奉賛金事務局
(ニッシンカイシキネンセンク゛ウホウサンキンシ゛ムキョク)

■他の金融機関からお振込
銀行名  ゆうちょ銀行
支店名  〇三八
(読み:ゼロサンハチ)
店番   038
  預金種目 普通預金
口座番号 5752426
口座名
   日心会式年遷宮奉賛金事務局
(ニツシンカイシキネンセンク゛ウホウサンキンシ゛ムキヨク)

神宮遷宮は、1300年間行われ続けた伝統行事です。
日本の歴史では、古来国家の歳費で行われてきましたが、これが歳費で行われなかった時代が2つあります。
ひとつは応仁の乱から戦国時代。国が荒れて国費は遣われませんでした。
もうひとつは日本国憲法下の日本。つまり現代日本です。
日心会では、国家の伝統と文化保護のため、みんなで力をあわせて式年遷宮の伝統行事を応援します。
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