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冬の魚沼地方

魚沼産コシヒカリといえば、日本穀物検定協会の米食味ランキングで、、平成元(1989)年から、なんと21年連続で「特A」の認定を受けている国内最高評価のお米です。
値段も高いけれど、味もおいしい。
ずいぶん以前ですが、たまたま単身赴任した頃に、当時流行りのIH炊飯ジャーを買い込み、うれしくてスーパーで魚沼産コシヒカリを2kg買ってきたことがあります。
そんときの感動をいまでも覚えていて、さっそく炊いたご飯が、実にうまかった。
湯気のたった真っ白なご飯。
独特の甘み。
お米ってこんなにおいしいものかと、部屋で、ひとり大感動した覚えがあります。
「魚沼産コシヒカリ」の産地は、その名の通り、新潟県の魚沼です。
このあたりは日本海側気候です。
夏は晴天日が多くて、日照時間が長い。
しかも魚沼は、盆地のために気温の日較差が大きいのです。
おかげでイネの消耗が少なくて、大粒の良質米ができる。
同じ日本海側でも、稲の出穂期にフェーン現象があると、稲に負担がかるのだそうです。
それで甘みのもとになるデンプンの蓄積が足りなくなってしまう。
さらに、魚沼のあたりは、天下の豪雪地帯です。
そのことが、豊富な水量を生んでいます。
透明度が高くて、有機物の汚染のない、良質で豊富な水が、田んぼにはいるのです。
それだけ聞いたら、まさに日本一のおいしいお米の栽培に適している場所といえそうです。
しかし考えてみてください。
もともと「稲」という植物は熱帯性植物です。
稲は、稲は、水田で田植えをし、収穫期には田の水を抜いて収穫する。
これは熱帯性植物である稲を、温帯地方の日本で、人工的に熱帯性気候である雨季と乾季を、作りあげたものです。
対して新潟県は、もともと豪雪地帯です。
熱帯とは対極にある寒冷地でもある。
そういうところに、日本一おいしいお米が育っているのです。
実は、もともとは、新潟県は、米どころではありませんでした。
江戸時代には、天明の大飢饉、天保の大飢饉という2つの大飢饉で、飢えのために、村がまるごと飢えて全滅してしまうという事件も起こっています。
どちらかといえば、そもそも米の獲れにくい貧しい国、であったのです。
その中で、必死に頑張った人々がいたのです。
飢饉にもめげず、互いに助け合い、新潟の米作りを守りぬいたのです。
魚沼産コシヒカリは、昔からあったわけではありません。
開発されたのは、昭和19年。つまり戦時中です。
大東亜戦争の渦中で、食糧難となるなかで、新潟県のような寒冷地でもたくさんのお米がとれる品種はできないものか。
ひとりでも多くの人に、お腹一杯、ご飯をたべてもらいたい。
二度と飢えに苦しんでもらいたくない。
そう思って一人の技官が、戦時中に新潟で、新種の開発をはじめます。
しかし、空襲に遭い、田や家は焼かれ、資料も全部焼けてしまう。
最初に開発をした方は、心労と過労が重なって、53歳の若さでお亡くなりになります。
あとを継いだのは、戦地から復員してきた若者です。
若者たちが、必死に開発を続け、ようやく完成したのは、昭和31年です。
「越後の国に光輝く」
そんな意味を込めて、お米は「コシヒカリ」と命名されます。
しかし、稲穂にたくさんのお米を稔らせた新種の稲は、稲穂が重すぎてすぐに倒れてしまう。しかも病気に弱い。
新種の稲は、世間からもの笑いのネタにさえされてしまいます。
新潟の米を守ろうと、必死で新種の稲を支えた後任の研究所の所長は、ついに左遷され、免職にさえされてしまう。
それでも、あとを引き取った者たちが、必死で頑張り、ようやく誕生させたのが、「魚沼産コシヒカリ」です。
今日は、江戸の飢饉の物語と、コシヒカリのお話をしてみようかと思います。
新潟県内にある遺跡を見ると、ここには縄文の昔から人々が暮らし、古くから稲作も行われていたことが確認されています。
大宝律令の頃には、米ではなく絹織物などによる年貢の納品も認められていたのですが、江戸期になると、納税は、すべて米になります。
しかし江戸時代は気象環境が非常に厳しかった寒冷期です。
地味が痩せて、気候が寒冷だった国で、稲作がどれほどたいへんなものだったか。
とりわけ江戸時代の後期には、天明3(1783)年と、天保7(1836)年に大飢饉が起きています。
新潟県中部では、大秋山・矢櫃村、甘酒村・高野山村が飢饉のため、村自体が全滅している。
天明3年の飢饉というのは、今から227年前の事件です。
何が起こったのかというと、この年の7月に群馬県の浅間山が大噴火した。
噴煙が、空を覆いつくします。
記録によると、昼間でも提灯(ちょうちん)を持って歩かなければならなかったといいます。
このため夏が冷夏になった。
冷夏は、田畑の作物に影響を与え、収穫が激減してしまいます。
米も、野菜も収穫が激減した。
魚沼地方では、木の根や雑草を食べて露命をつなぎますが、なかでも秋山郷では、大秋山村と矢櫃村で、村人が一人残らず飢え死にしてしまっています。
それから53年後。
ふたたび飢饉が襲います。
天保7(1836)年の大飢饉です。
この年は、5月には大雨と洪水、9月には大雪が降ったのです。
そのため田畑の作物がまったく獲れなくなった。
食う者がなくて体力が落ちた人々を、さらに伝染病が襲います。
飢えと病気で、新潟の甘酒村・高野山村が全滅する。
50年前の悪夢が再来したのです。
このとき、庄屋さんに福原新左衛門さんという方がいました。
当時の庄屋さんというのは、いまでいったら農場の経営者といったほうが、わかりやすいかもしれない。
福原新左衛門は、村々を回って飢饉の被害情況を克明に調べます。
あまりに酷い惨状だった。
見かねた福原新左衛門は、小千谷片貝村で造り酒屋をしていた佐藤佐平治を尋ねます。
当時、佐藤佐平治は「忍冬酒」「粟盛酒」という薬用酒を開発し、これを江戸に出荷して大店になっていたのです。
江戸時代にも健康ブームはあったのですね。
この佐藤家という商店は、大店でありながら、飢饉のたびに、飢えに苦しむ人々を救っています。
なかでも第21代の佐藤佐平治は、天保の大飢饉のときに、自宅で酒を造る大釜を使って、お粥や雑炊の炊き出しをして、多くの人を救っていた。
近くの村はもちろん、遠くからも人々がつめかけ、月に千人以上の人々に毎日の食事を与えていたというからすごいです。
その佐藤佐平治を、庄屋の福原新左衛門が訪ねます。
そして秋山郷の飢饉の惨状を詳しく話した。
そして村への支援を要請します。
佐平治は、こころよく、これに応じます。
庄屋の福原新左衛門は、魚沼に帰り、村の人々にそのニュースを伝えます。
そして村から選抜された30人の若者が、食糧を受け取るために出発した。
魚沼郡から、片貝村まで、片道60キロの道のりです。
いまの暦だと12月ごろのことです。
この地方は、いまでも吹雪になると一時間ほどで自動車がすっぽりと雪に埋まってしまうほどの豪雪地帯です。
しかも当時はいまよりもっと気温が低かった。
片貝村に着いた人々は佐藤家で一泊し、翌日、受け取った米や稗(ひえ)の俵を一人一俵ずつ背負い、帰路につきます。
俵は30〜40キロの重さがあったそうです。
往復4日がかりです。
この物資の運搬は、佐藤家で受け取った米や稗を背負って秋山郷まで、交代しながら七回にわたって行われたそうです。
のべ二百人以上の人たちが救援の食糧を運ぶ役目をはたしました。
気の毒なことに、当初、運搬をした農家の若者たちは、みんなはだしだったそうです。
片貝村の近くの真人村の庄屋だった福原太郎左衛門は、村の道を重い俵を背負って通っていく人たちが、雪の積もった道をはだしで歩くと聞き、「冷たかろうに」と、村人たちに言って大急ぎでわらじを作らせています。
やがて、できあがったわらじが秋山郷の人たちに届けられた。
わらじは千足あったそうです。
どんなにうれしかったことか。
こうして、佐藤佐平治からおくられた米や稗によって、秋山郷の人たちは命を救われます。
救援を頼んだ庄屋の福原新左衛門は、その後も米や稗の運搬や配分などについて寝食を忘れて取り組みます。
ただでさえ栄養事情が悪いのです。
寒風の中で、無理を重ねた福原新左衛門は、過労が重なってとうとう病気になってしまう。
新左衛門の娘は、父を一生懸命看病します。
しかし栄養失調と寒さと過労のため、その娘も一緒に亡くなってしまう。
新左衛門は、このとき、まだ43歳だったそうです。
このときの支援物資は、籾と稗が1200表(1080石)、昆布1万把、さらに御救方手金10両、さらに協力金50両もあったそうです。
一両は、現在の金額で約20万円相当です。
それが50両だと約一千万円です。
購買力平価で換算したら、いまの一億円くらいにあたるかもしれない。
さらに佐藤佐平治は、その50両を、自分が結東村から借り受けたことにして、利息7分(3両2分)を毎年村に払い続けてくれます。
なんとこの支払いは昭和42(1967)年まで続く。
実に135年間も、佐藤佐平治の好意は続けらたのです。
そういう志を継いで、この地をなんとかして救いたいと願った農林省の技官がいます。
時は、昭和19(1944)年、大東亜戦争の末期の頃です。
戦況は日に日に悪化し、全国的に食料事情がひっ迫していた。
ただでさえ農地が痩せた寒冷地の新潟では、いつまた飢饉になるかわからない。
すこしでも多くの米が収穫できるようにするためはどうすればよいか。
そのためには、米の品種を改良し、痩せた土地でもたくさんのおいしいお米が獲れるようにする以外にない。
この年の7月末、新潟県農事試験所に、そんな理想を抱いた高橋浩之という若者が主任技師として赴任してきます。
彼は、晩生(おくて)種の「農林22号」と、早稲(わせ)種の「農林1号」との組み合わせで、すこしでも実りの多い米を作ろうとします。
田植え作業には、県農試付属の農業技術員養成所の生徒の手を借りた。
除草作業には、長岡市内の女学校に手伝ってもらった。
当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山錬太郎氏は、当時を振り返って次のような手記を残しています。
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高橋さんのように、高官の主任技師で、素足で、真っ先に田んぼに入っていく人はおりませんでした。
あのころ、夕方遅くなっても、圃場に独特の藁帽子をかぶった高橋さんの姿が見え、今日もまた高橋さんは頑張って働いていると思ったものでした。
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新潟という過酷な自然環境の中で、すこしでも多くの稲穂をつけ、収穫の多い米を作る。
そのために彼は、毎日何回となく、水田を自分ではい回ります。
ときには、過労のため、めまいがして畦にしゃがみ込んだりしたこともあったそうです。
しかし昭和20(1945)年になると、戦争激化のため育種事業は全面中止になる。
せっかく作った新種の米を、絶対になくしてはならない。
高橋は稲モミをガラスのケースに入れ、良好な乾燥状態を保ちながら大切に保管します。
開発のための詳細な記録も付けた。
ところが昭和20年8月1日、米軍機による空襲が新潟を襲います。
高橋の家は全焼。
育種に関する資料も全部焼失してしまいます。
田んぼはめちゃめちゃ。
研究室も灰燼。
家も焼かれ、資料も焼失してしまった。
このとき、高橋が防空壕に持って行ったのは、壊れやすいガラスのケースにはいった種モミだけでした。
戦争が終わります。
高橋は、春の訪れを待って、昭和21(1946)年、再び研究を再開する。
そして、この年の秋、高橋は晴れて「農林22号×農林1号」の米を収穫した。第一号です。
しかし戦後のドタバタのなかで、体調を壊した高橋は、人事異動で埼玉県・鴻巣の農業試験地へ転任になってしまう。
そして彼は、過労がたたり53歳の若さでこの世を去ってしまいます。
高橋の去った新潟の農業試験場に、昭和21年7月、外地から池隆肆が復員します。
池は昭和19(1944)年に出征し、終戦後一年経ってようやく復員して、試験場に戻ったのです。
高橋の志を継いだ池は、「農林22号X農林1号」の第2代の生育に取り組みます。
そしてようやく刈り取りの季節を迎えた。
けれども、新種の「農林22号X農林1号」は、大量の稲穂をつけた分、稲穂が重い。
そのため、多くの稲が収穫前に倒れてしまいます。
当然「農林22号X農林1号」の評価は芳しくない。
当時、農林省稲担当企画官だった松尾孝嶺が、育種関係の農林省内の会議で、
「新設される福井実験所へ回す育種材料を出してくれ。
捨てるものがあったら、福井へ送ってくれ」と冗談まじりに言ったという話が残っています。
高橋の開発した「農林22号X農林1号」は、その研究の場を福井県に移されてしまう。
使い物にならない「捨てる品種」とみなされたのです。
ところが翌、昭和23(1948)年、奇跡が起こります。
この年6月28日、福井で大地震が起きたのです。
試験田にある稲は、水が抜けたり土砂が噴出したりして、栽培していたほとんどが壊滅してしまったのです。
そんな中で高橋が開発した「農林22号X農林1号」だけは、「捨てる品種」として、水はけの悪い湿田に、いささか早めに植えられていた。
その「農林22号X農林1号」だけが、元気に生き残っていたのです。
そんな事件から、昭和25年ごろには「農林22号X農林1号」の評価が高まり、福井農業試験場では、「農林22号X農林1号」に、「ホウセンワセ」という名前をつけます。
そして20府県で適応性試験のための生育をすることになる。
ところが評価は芳しくない。
米をたくさんつけ、他の品種よりも早く収穫できるというメリットがある一方で、稲穂が重すぎて、収穫前に、多くの稲がべったり倒れてしまうのです。
この新潟生まれの「ホウセンワセ」をふたたび新潟に取り戻したのは、当時、新潟県農業試験場長の所長だった杉谷文之です。
彼は、昭和31(1956)年に「ホウセンワセ」を正式品種にするよう、農林省に申請します。
たまたま順番で、この「ホウセンワセ」は、「農林100号」というキリの良い名前をもらう。
気をよくした杉谷は、この新種に、未来への夢を込めて「越の国、光り輝く=コシヒカリ」と命名します。
その後も杉谷は、コシヒカリを定着させようと、農林省への申請を続け、昭和34年には有望品種としての表彰までしてもらいます。
しかし、コシヒカリは、いっこうに農家には定着しません。
当時はまだ米は「配給米」の時代で、うまい米もまずい米も、政府の買い入れ価格は同一です。
農家としては品質向上よりも安心して収穫できる品種を育てる。
いくら味が良いと言っても、倒れやすくて、イモチ病に罹りやすいコシヒカリでは、経済的メリットが少なかったのです。
杉谷所長は、ついに農林部参事に左遷されてしまいます。
そして昭和37年12月には依願免職になってしまう。
彼は失意のうちに故郷の富山に引きこもります。
しかし、高橋、池、杉谷の意思を継いだ新潟農業試験場のスタッフたちは、その後もコシヒカリの研究を続けます。
そして弱点である、稲穂の倒れやすさと、イモチ病への抵抗に対して、収穫前の稲の色によって、肥料を抑制する方法で克服できることを発見します。
農薬の使用を抑制するのです。
おかげで、農薬による味の劣化もない。
豪雪地帯だから水が良い。
日本海型気候だから夏の日照時間が長い。
なかでも魚沼は、盆地だから気温の日較差が大きい。
おかげでイネの消耗が少なくて、大粒で糖度が高く、デンプンをたくさん含む味の良い米ができる。
かつて飢饉に苦しんだ、新潟県・魚沼という特殊な土壌が、そのまま素晴らしい米の収穫に適したものとなる。
「魚沼産コシヒカリ」の誕生です。
つらく貧しい痩せた豪雪地帯で、何度も飢饉に遭いながら、それでも人と人とが互いに支え合い、助けあって生きてきた。
100年以上にもわたって、村との約束を守り、村の援助をしてきた人がいた。
そういう人の和が、もしかすると天の神を動かし、高橋浩之という天才技官を新潟に派遣してくれたのかもしれません。
そして、何代にもわたって、絶対にあきらめないという日本人の心が、天の時、人の和、地の利のもとに、最高のお米を生んだのかもしれません。
どんなに苦しくてもあきらめない。
どんなにつらくても、あきらめない。
日本人は、そうやって世界に誇れる日本を築いてきた。
なんだか、そんなことを感じさせてくれます。
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