日本に手を出した国は必ず滅びる・・・それが歴史の事実です。 日本は相互信頼主義を根本とする国です。 命をかけて戦った先人たちの努力を見直し、日本の素晴らしさを再認識して、階級闘争主義の汚染から日本を守ろう。

終戦の詔勅、開戦の詔勅

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昭和天皇
昭和天皇


一昨日の記事のコメントで、椿さんから「私はあの先の大戦は、決して『負けた』とは思っていません。『終戦』だったと思っています」というコメントをいただきました。

「敗戦」と「終戦」では、言葉の意味も重さもまるで違います。

以下、椿さんの言葉をそのままお借りします。

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(終戦をしたのは)米軍が強かったから日本軍が負けたのではなく、敵側が、国際法違反をあまりにも犯しまくり、尋常ならざる卑怯な手を使い、ナチスも真っ青な“日本民族の浄化”を強行しようとしたからです。

天皇陛下は、このまま血に餓えた米英の残虐行為を放置すれば、人類文明を破滅させると直感され、『堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、戦争を止めよ』と国民に命じられた。

だから、止む無く全軍が銃剣の『戈(ほこ)』を収め、こちらから戦争を止めただけです。敵の暴虐を止めさせるために、こちら(日本)から、『終戦を宣言』された。

世界の半分に拡大していた日本軍の戦線は、昭和天皇陛下の『終戦の詔書』が発せられるやいなや、一斉に武器を収め、以後日本軍のゲリラも無かった。これほど見事な停戦振りや、一糸乱れぬ日本軍の規律正しさは、人類史上、例を見ません。
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まさに、その通りなんです。
もうね、ねずきちが言いたいことを、まるごと書いて下さった!
椿さん、ありがとうございます。

だから8月15日は「終戦記念日」なのです。まちがっても「敗戦記念日」ではない。

「だって日本は戦争に負けたじゃないか!」という人もいるかもしれない。

違います。

戦争というのは、「国家がその政治目的を達成するための究極の手段」です。

そして大東亜戦争は、欧米列強の植民地政策に対し、人種差別撤廃を主張する日本が、東亜諸国の植民地支配からの脱皮と独立、そして繁栄のために、これを拒否しようとする勢力を相手に戦った、戦争です。

なるほど物量に乏しく軍は苦戦を余儀なくされたけれど、我が国が掲げた戦争の目的は、戦後15年ほどの間に、ことごとく達成した。

欧米諸国は植民地を失い、東亜の諸国は独立を果たした。そして多くの国々が欧米と肩を並べる発展と栄華に浴している。

日本は戦争の目的を達成したのです。

達成したということは、戦争に勝った!ということです。

昭和20年8月15日は、そのための戦闘行為を終結させたにすぎない。

歴史というものは、常に「流れ」の中にあります。

宣戦布告や、終戦の詔勅は、その流れの中のひとつの区切りです。

実際、宣戦布告の前に、外交交渉上も軍事面でも、国家対国家の主義主張の違いによる戦いは始まっていたし、終戦後も、亜細亜ならびに日本の独立自尊の戦いは続いている。

そしてね、これも大切なことなのだけれど、大東亜戦争のあと、きちんと宣戦布告して戦いに臨んでいるケースは、以後、たくさんの戦争が起こっているけれど、実は、まるで“ない”のです。

「宣戦布告」というのは“しなければならないもの”ではありません。

「宣戦布告」すると、戦時国際法が適用されます。当然、戦争当事国の武力行使には交戦法規が適用され、第三国には中立法規が適用になる。

大東亜戦争の後も、世界各国で数々の戦争が行われているけれど、いずれも「宣戦布告」なしで、事実上戦争に突入しています。

日本が、堂々と、日本の数十倍の国力を持つ列国に対して「宣戦布告」を行ったのは、それだけでも、じつに立派な武士道精神のもたらしたもの、ということを、ねずきちは、ここで再確認しておきたいのです。


そして、大東亜戦争の開戦の詔勅が次に示すものです。

原文と現代文の両方を示したいところですが、長文なので、原文は写真だけにし、口語訳の抄だけを以下に載せます。

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【米英両国に対する宣戦の詔書】
大東亜戦争開戦の詔勅


私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。

私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、
私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、
私の国民はおのおのその本分をつくし、
一億の心をひとつにして国家の総力を挙げ、
この戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。

そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、私が常に心がけている事である。

そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。

今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。

まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。
残念なことに(内乱状態にある)中国は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。

さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石一味は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。

米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。

それだけでなく、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。

私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、

米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている(ABCD包囲網)。

このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。

ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。

御名御璽
昭和16年12月8日
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歴史の真実は、この開戦の詔勅に書いてある通りです。

当時のシナは、欧米列強の植民地分捕り合戦によって、清王朝が崩壊し、無政府状態、内乱状態に陥ってた。

なかでも最大勢力となっていたのが、蒋介石率いる国民党です。
本来、国民党にしても、武器がなければ言論戦程度の戦いしかできなかった。

実際、当時シナにあった毛沢東率いる八路軍など、大東亜戦争当時は、八路“軍”とは名ばかりで、武器も食料もなく、単に流浪の共産主義者の群れであったにすぎない。

八路軍が力をつけ、戦後のどさくさまぎれに中華人民共和国を設立したのは、終戦時にシナに乱入したソ連が、武装解除した日本軍から武器や弾薬をとりあげ、これをまるごと八路軍に手渡したことによる。

そして、国民党に武器弾薬、果ては高射砲やら迫撃砲など、近代的軍事装備一式を提供したのが、シナ事変当時の米英だった。

米英は、せっかくまとまりつつあり、平和を取り戻しつつあったシナを、内乱の嵐に陥らせることで、漁夫の利・・・すなわち、戦争で疲弊したシナをまるごと植民地として飲み込もうと画策した。

そしてシナに平和と治安の回復を図ろうと平和維持活動をしていた日本に対し、あろうことに軍事・経済封鎖まで図ろうとした。

日本をどうにもできないところまで追い詰めようとした。

このままでは、日本自体が自滅してしまう。
やむを得ず戦いに踏み切った詔勅が、上に示した開戦の詔勅です。

ちなみにね、近年で大きな戦争といえば、イラク戦争や、アフガニスタンでの戦争などがあげられるけれど、これなど、米国大統領が「攻撃がはじまるであろう」と演説しただけで、戦争がはじまっている。

ベトナム戦争にしても、宣戦布告など、ないです。

さらにいえば、イラクのケースでは、その大義名分となったフセインの大量破壊兵器というものも、発見されていない。

日本は正々堂々、なのです。


そして、終戦の詔勅です。

終戦の詔勅は、玉音放送として、全国に放送された。

難しい漢字カナ交じり文だけど、ここには、日本人としてとても大切なことが書かれています。

これほどまでに切々とした文章を、昭和天皇がどんな想いで起草し、読まれたか。

そして、なぜこの終戦の詔が「昭和の御聖断」と呼ばれたか、読んだらわかります。

大東亜戦争終結の詔勅
大東亜戦争終戦の詔勅


【原文】

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ 惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ

御名御璽
昭和20年8月14日

【口語訳】

朕は、深く世界の大勢と、帝国の現状をかえりみて、非常措置をもって事態を収拾しようと考え、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げる。

朕は、帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させた。

そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにすることは、天照大御神からはじまる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてきたもので、朕はそれをつねづね心がけてきた。

先に米英の二国に宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときは、もとより朕の志すところではない。

しかるに、交戦状態はすでに4年を過ぎ、朕の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、朕のすべての官僚役人の精勤と励行、朕の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善をつくしたのにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の大勢もまたわが国にとって有利とはいえない。

そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。

この上、なお交戦を続けるであろうか。

ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。

そのようになったならば、朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。

以上が、朕が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である。

朕は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。

帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、朕の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。

かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保証にいたっては、朕の心より深く憂うるところである。

思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではない。

汝ら臣民の真情も、朕はよく知っている。

しかし、ここは時勢のおもむくところに従い、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したいと思う。

朕はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。

もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、朕のもっとも戒めるところである。

そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、

持てる力のすべてを未来への建設に傾け、
道義を重んじて、志操を堅固に保ち、
誓って国体の精髄と美質を発揮し、
世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。


汝ら臣民、以上のことを朕が意志として体せよ。

御名御璽
昭和20年8月14日

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終戦の詔勅は14日に承認され、15日に玉音放送となって全国に流れた。

そして日本は国としての戦闘行為を、この日を境いに、ピタリと止めている。

実に整然としている。

陛下は、はっきりとおっしゃられた。

「(この戦争は)帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときものではない」と。

そして原爆が落とされ、これ以上戦闘を続けるならば、

「日本民族が滅亡するだけでなく、万国共存共栄して楽しみをともにしようという八紘一宇という、諸国友好を希求する人類文明の願いそのものを破滅させてしまう」と述べられている。

つまり、戦闘行為を終結させたのは、あくまで「諸国友好という人類普遍の願いの実現のため」であった。

だからこそ、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したい」と述べられている。

万国の未来のためです。
日本だけでない。世界の人々の子々孫々の諸国友好のためです。

その任務は任務は重く、道は遠いけれど、

日本の臣民は、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、
道義を重んじ、
志操を堅固に保ち、
誓って国体の精華と美質を発揮し、
世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。
そして汝ら臣民は、これを陛下のご意志として体現せよ、と結ばれています。

思うに、戦後の日本は、持てる力のすべてを「(箱物の)建設」と、「経済的発展」のために用いてきた。

物質的な建設と、それを行うための経済的な発展の部分だけは、必死になってやってきた。

しかしその一方で、戦後日本は、陛下の御心である、『道義』や『志操』をゴミ箱行きにしてきた。

『国体の精華』なんて、国民体育大会の聖火としか思われないほど、精神性を捨て去ってしまった。

いまでは、『挙国』『一家』という言葉すら、戦前の軍国主義への偏見や、ヤクザの一家という歪曲されたイメージでしかみられないという、情けなさです。

そのうえ昨今では、反日であることが、まるで正義のように喧伝されている。
そういう政党が、政権与党となろうとすらしている。


でもね、米英中ソなどの施政者が、もっとも恐れたのは、日本の軍事力ではないのです。

彼らが脅威に感じたのは、他の何ものでもない、日本人の国を挙げての相互信頼意識、そしてその相互信頼に基づく精神力です。

日本社会の相互信頼を破壊し、日本人の精神力を崩壊させて日本人を骨なしすることが、日本という驚異を取り除くための彼らの最大の課題だった。

なぜかって? 簡単なことです。

日本人はね、100の利益を100人で稼いだら、100人が1ずつ利益を分ける。

多くの会社でもそうです。会社に利益があがったからって、社長さんが利益を独り占めにしようなんて会社は、日本人経営者の会社なら、稀です。

みんなが利益を享受できるから、みんなで力を合わせるし、互いに信頼し合うし、みんなの力が揃うから、100の利益が200にも300にもなる。

利益をあげるために、もっとみんなで頑張ろう!となる。

ところが、欧米や特アの考え方は違います。

100人で100の利益をあげたら、ひとりが80を奪い、残りの20を99人で分ける。

下の人間が利益を享受しようとするなら、自分よりもっと下の人間を作らなきゃならない。つまり奴隷や被植民地の人々を作る。

人を支配することで、多くの人の命を犠牲にして上位の者だけが利益を享受する。

そういう社会に対し、日本のような相互信頼に基づき、みんながみんなのために働くなどという高度な社会構造と精神文化を持った社会というのは、邪魔者でしかない。

一例をあげます。現代放送業界です。

実際に番組の制作をしている下請け、孫請け会社の人々は、極めて劣悪な労働条件、低賃金で働いている。

そして放送局内を見ると、平均年収1500万。プロデューサークラスになると年収3〜4000万円。みのもんたあたりは、番組出演だけで2000万円・・・・

その番組制作に携わっている裏方の大道具や小道具の下請けのおじさんたちは、だいたい年収150〜200万円・・・

そして放送業界の広告料収入が減って傾きだすと、業界をあげて日本政府にカネをくれとせがむ。まるでどこかの国と同じです。

ちなみに、旧帝国軍人さんの場合、徴収兵(1等兵・2等兵)さんたちの給料が月15円、将校クラスが25円だった。その責任の重さに対し、給料の差が著しく少ないのが日本軍の特徴です。

これが米軍になると、最下級兵士の年収がだいたい150万円。
司令官クラスで1500万円。10倍もの開きがある。

さらにイラクの軍人の場合だと、一般の軍人の年収が5〜6,000円、将校クラスが5〜600万円。1000倍からの開きがある。

話が脱線したけれど、相互信頼を築き、みんなで力を合わせて難局にも立ち向かう、そしてみんながよくなることが自分の幸せと考える、そういう日本という国の精神性は、世界史上も、稀有の存在とみていいのではないかと思います。

実際、そうした日本の精神は、戦前、日本自体が貧乏国でありながら、巨費を投じて台湾のインフラを国家規模で整備したし、満州においても、わずかな期間で社会資本を整備し、治安維持を促進した。朝鮮半島またしかりです。

加えて僅かな期間の統治にすぎなかった太平洋諸国についても、現地の文化や宗教をまるごと認め、それを維持しつつ、国家規模のインフラ整備を図った。

戦後、欧米諸国がイラクやアフガニスタン、中東、ソマリアなどに政治介入しながら、またシナが、ウイグルやチベット等に政治介入しながら、いっこうに治安維持が促進されず、現地のインフラが整備されない様子をみれば、日本の統治がいかに素晴らしいものであったかがわかろうというものです。

このあたりのことについて、戦前の日本統治がいかなるものであったのか、ブログ「台湾は日本の生命線」の永山さんが、

「精訳「日本人が変えた未開の島―台湾」―台湾でも話題となった百年前のニューヨーク・タイムズ記事」で紹介してくださっています。是非、ご一読をお勧めします。
ちなみにこの記事については、永山さんのご了解を得ましたので、いずれ、ねずきちの本文でもご紹介させていただきます。
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-825.html

ともあれ、戦後、そしてこれからの日本を考えるとき、この玉音放送で読まれた昭和天皇の御心は、すなわち

日本の臣民は、
道義を重んじ、
志操を堅固に保ち、
誓って国体の精華と美質を発揮せよ


というものであった。

私たち日本人は、もういちど、この陛下のお言葉をしっかりと噛みしめる必要があるのではないかと、ねずきちは思うのです。

ちなみに「臣民」という言葉について、以前誰かがコメント欄に、

“臣民とは、天皇に直接支配される人民のことだから、教育勅語下では、国民は天皇に隷属するものです”などとアホなことを書いていました。

悪いけど、このように自分の不勉強を棚にあげて、狭量な自分の世界だけでものごとをとらえようとするところに、そもそもの問題がある。

「臣民」については、その後Layさんが、ただしくその意味を書いてくださいました。

以下に引用します。

-----------------------------------
臣民の言葉は、近世までは用語例は少なく、特に、帝国憲法で法律用語として使はれたことによつて注目された。

そもそも、「臣」と「民」とは全く異なつた概念である。
臣とは、治者である君主に仕へる「人臣」(臣下)であり、民とは、被治者である。

臣の文字は、象形文字で、下に伏せて俯いた目を意味し、民の文字も象形文字で、目を針で突いて目を見えなくした姿を意味するとされる。

同じく目(知見)に関する文字で、これらが寓意するやうに、治者側と被治者とは峻別されるものである。

ところが、それを帝国憲法において一体混合したした概念として創造したのは、「臣たる民」として民を臣に昇格させ、天皇の下に一視同仁の平等社会を実現する理想に基づくものである。

これは、まさしく『五箇条ノ御誓文』においても明らかである。

それは、
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其ノ志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

とあり、「民」を「盲(めしひ)たる民」(盲民)とせずに「臣たる民」としたことにあり、「臣民」とは、神国日本の民の自覚により「神民」となり「公民」、そして「皇民」となるための名称である。

そして、この「臣民」概念は、現代においてまさにその効用が求められてゐる。

「国民」は、言語的には「国の盲民」を意味したままであり、官(臣)と民とは待遇においても隔絶されたままの概念である。
------------------------------

終戦の詔勅においても、陛下が我々国民に呼びかけられているお言葉は、「臣民」です。

そして「臣民」いう言葉には、単なる「国にいる人」=「国の民」と意味でなく、ひらくたくいえば、我々日本人を、心から慈しむ心、国の民全員を「大事な臣」として、すなわち「大臣」として大切にお考えくださている心がある。

陛下は、我々臣民(誇りを持って“臣民”と言います)を守るために、終戦の詔勅を発せられ、戦闘を終結せられた。

しかし、陛下は同時に、我々臣民に、

道義を重んじ、
志操を堅固に保ち、
誓って国体の精華と美質を発揮せよ


と託された。

戦後60年、いまだ私たち臣民は、陛下のこのお言葉、「道義、志操、国体の精華と美質」を実現していません。

わたしたちは、この祖国日本を守るために亡くなられた二百万の英霊へのご供養のためにも、いまこそ、志操を取り戻すべきときにきている。ねずきちにはそんな風に思えます。

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終戦の詔勅 (玉音放送)


中東に平和と繁栄の回廊を描け
 〜 麻生太郎の挑戦 〜
この動画必見です。これが日本流の戦いではないかと、ボクは思います。

蛍の光・仰げば尊し

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ちょっと季節はずれの話題です。

「日の丸」「君が代」「靖国」ときましたので、今日はどうしても「蛍の光」に「仰げば尊し」^^♪

かつて、楽しかった日々を思い出し、明日への希望を胸に、眼に涙をいっぱいためて、卒業式で、みんなで歌った歌です。

【蛍の光】

1.蛍の光 窓の雪
  書(ふみ)よむ月日 重ねつつ
  いつしか年も すぎの戸を
  開けてぞ今朝は 別れゆく

2.とまるも行くも 限りとて
  かたみに思う 千萬(ちよろず)の
  心のはしを ひとことに 
  幸(さき)くと許(ばか)り、歌うなり


50、60歳になっても、この曲を聞くと当時の心がそのまま蘇って、涙を誘う。

ちなみに「蛍の光」は、もともとはスコットランド民謡の“Auld Lang Syne”。

“Auld Lang Syne”は、いまでもアメリカやイギリスなど英語圏の国々では、大晦日のカウントダウンでの誰でも知ってる定番曲なのだそうです。

日本では、1881年(明治14年)に我が国最初の音楽教科書『小学唱歌初編』に掲載されて広まり、全国の小中学校の卒業式で歌われ続けた。

また、日本ではデパートなどの閉店時間になると、この『蛍の光』のメロディーが店内BGMとして流された。大切なお客様との別れを惜しむという趣旨なのだそうです。

じつは、大東亜戦争前には、「蛍の光」は、韓国や台湾にも伝えられ、彼の国でも、卒業式で「蛍の光」を歌う文化が定着しました。

「蛍の光」は、いまでは、2番までしか歌われなくなったのだけれど、昔は、じつは4番まで普通に歌われていた。

3.筑紫のきわみ 陸(みち)の奥 
  海山遠く へだつとも
  その真心は へだてなく
  ひとえにつくせ 国のため

4.千島のおくも 沖縄も
  八洲の内の、守りなり
  至らん国に、勲(いさお)しく、
  努めよ我が背、恙無く(つつがなく)



「ひとえにつくせ 国のため」、「千島の奥も沖縄も、八洲の内の守りなり」などの文言が、おそらくGHQにひっかかったのでしょうね。戦後は残念ながら3番、4番は歌われなくなった。残念なことです。


「仰げば尊し」も原曲はスコットランド民謡です。

1884年(明治17年)に小学唱歌を編集する際に、当時の教育者伊沢修二が唱歌として加えた。

伊沢修二は、信濃の高遠藩士の家に生まれ、ハーバード大学留学経験を持ち、後に愛知師範学校校長、東京師範学校校長、文部大臣などを務めた人です。
日本にダーウインの進化論を紹介人でもあり、また教育勅語の普及にも努めています。

「蛍の光」が、小学校、中学校の卒業式で歌われたの対し、「仰げば尊し」は、高校、大学等の卒業式で歌われることが多かった。

歌詞が文語調でちょっと難しかったからかもしれません。

1 仰げば尊し 我が師の恩
  教(おしえ)の庭にも
  はや幾年(いくとせ)
  思えば いと疾(と)し
  この年月(としつき)
  今こそ 別れめ いざさらば

2 互(たがい)に睦し 日ごろの恩
  別るる後(のち)にも
  やよ 忘るな
  身を立て 名をあげ やよ 励めよ
  今こそ 別れめ いざさらば

3 朝夕 馴(なれ)にし 学びの窓
  蛍の灯火 積む白雪
  忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
  今こそ 別れめ いざさらば


かつては、どこでも歌われ、誰もが知っていたこの「仰げば尊し」も、戦後、日教組によって否定され、いまでは卒業式で歌われなくなった。

“歌詞”の内容が、教師を称えるもので、民主主義にそぐわない”というのがその理由なのだそうです。


で、いまでは、小中学校、高校、大学の卒業式でどんな歌が歌われているかというと、

・贈る言葉 海援隊
・卒業写真 荒井由実
・卒業   尾崎豊
・なごり雪 イルカ
・春なのに 柏原芳恵
・想い出がいっぱい H2O
・乾杯   長渕剛
・いい日旅立ち 山口百恵
・未来予想図II Dreams Come True
・制服   松田聖子
・じゃあね おニャン子クラブ

などなどなのだそうです。
特に学校では指定せず、生徒達に決めさせているケースも多いのだとか。

曲名を聞いても、どんな曲なのか、ねずきちには半分もわかならいのですが、きっと、それぞれは、それぞれなりに良い曲なのでしょう。

だけど!・・・とねずきちは言いたいのです。

「子供たちから、共通の思い出となるものを奪うな!」

子供たちの人生は、その瞬間だけじゃないのです。

学校を卒業し、社会に出たら、それこそいろいろな人との出会いがある。

生まれも育ちも出身学校も全然違うひとたちが、相互に交流し、情感を通わせるのに、やはり共通の思い出にあたるものって、ぜったいにあったほうがいい。

「仰げば尊し」を聞いて、ぐしょぐしょに泣いた卒業式、我が師の恩、仲良くした友達・・・・

人間、死ぬまでそうした思い出は、消えることがないです。

そうした思い出の中にある情感を共有することで、知らない人と相互に信頼関係を形成し、互いの信頼の中で物事を運んで行く。

そんな相互信頼によって結ばれた社会というものが、日本社会の特徴です。

それを、この十数年で、日教組は、大切な日本の子供たちから奪った。

だいたい卒業式などに歌う歌を「子供たちに選ばせる」という発想からして間違っている。

なにもない子供たちに対しては、先ずはきちんと「教える」ことからはじめなければ、子どもたちは何をどうしていいかすらわからない。

これから野球をするのに、野球のコーチが子供たちを集めて、「これからみんなで野球をします。ついては、みんなで野球のルールを考えてみよう!」などといっても、そもそも野球とはなんぞやすら知らない子供たちには、何をどうすればいいかわからないのは、誰がどう考えたってあたりまえのことです。

にもかかわらず、社会人として生きるために必要なことを、「さぁ、みんなで考えよう」なんて発想は、一見、きれいごとにみえるけれど、実は子供たちから“教育を奪う”もの以外のなにものでもない。

卒業式の歌は、「蛍の光」「仰げば尊し」でいいんです。

「蛍の光」は、一途に学問に励む事を褒め称える中国の故事が由来です。
「蛍雪の功」といわれる。

東晋の時代の車胤という人物が、家が貧乏で、灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強した。

同じ頃の孫康が、夜には窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強していた。

そして、この二人はその重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世した、という故事からきています。

子供たちに一心に勉学に励むことを奨励し、過ぎし日々をかたみに思って、幸せをもとめて旅立つ、と謳う「蛍の光」の、なにがまずいのか。

師の恩を、仰げば尊しと歌うことの何がよくないのか。

よくないと感じる教師がいるなら、その教師自体がすでに社会常識を逸脱している。日本の相互信頼社会という日本の美徳であり、日本の産業の強さの基盤になっているマインドを理解していない。

そして、老人も、子どもも、ひとしく同じ文化として共有する財産である、心の歌を否定することは、老人と子供たちとの間の断絶、隔絶を生む。

「そっかぁ、おばあちゃんも、仰げば尊し歌ったんだぁ〜♪」

「うんうん、そうだよ。女学校でね、あの頃は大泣きしたもんさ」

「そーなんだ。あたしもすっごいいっぱい泣いちゃった」

・・・・・・

「ワシの頃は、蛍の光をうたったもんじゃがの。女子生徒がみんな泣いてたもんだよ」

「蛍の光? しらねーよ、そんな歌。ん? なに、あぁ、パチンコ屋の閉店間際にかかる音楽か。あんなもん歌ってたの? ま〜じで? ばっかじゃねーの。 卒業式がパチンコかよっ!」

・・・・・

ねずきちは、前者のような社会の方が、絶対に好きなのですが><;;


民主党が政権をとると、民主党代表代行で、日教組出身の輿石東が、文部科学省の大臣になるのだそうです。

この男、2009年3月に小沢一郎の公設秘書が西松建設違反献金容疑で逮捕されると、即座に「間違ったことはしていない」と擁護した。

法律違反が、「間違ったこと」でないのなら、何が間違ったことになるのか?
この男の言わんとすることは、いちいち支離滅裂です。

しかも輿石東自身も、支持母体である山梨県教職員組合所属の小中学校の教職員から、組織的に選挙資金を集めていたことが明らかとなり、山教組幹部ら2人が政治資金規正法違反で罰金30万円の略式命令を受け、山梨県教育委員会は教員24人に対し、停職などの懲戒処分となっている。

そもそも、教職員の政治的な活動は、教育公務員特例法や政治資金規正法違反です。

輿石東自身は、国会議員としての不逮捕特権によって逮捕免れているけれど、他にも「教育に政治的中立はありえない」発言など、あちこりで“とんでも発言”を繰り返している。

日本の教育の敵・反日売国政治利権屋・輿石東
この薄汚い男に投票する人の気がしれない
輿石東


この輿石東のような階級闘争主義者が、日本社会の相互信頼性を、教育という国の基礎となる部分から、崩壊させ、日本人をなにやら異質な、なんの誇りも、共通の文化ももたない、異様な社会に導こうとしている。

せっかく、「蛍の光」「仰げば尊し」で、きれいな心を蘇らせたれた読者の皆様には、ほんとうに申し訳ないのだけれど、このようなとんでも男を代表代行に据える民主党というものの反社会性、反道徳性を、わたしたち庶民は、もういちどはっきりと思いだす必要があるのではないかと思うのです。

蛍の光(全番,レコード音源超音質)


仰げば尊し



輿石東のような売国反日階級闘争主義者を許すな!
日本の美しい心を取り戻そせ!と思う方
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靖国

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靖国神社
靖国神社001


先日、会津出身の友人と話す機会がありました。

彼は、現憲法破棄・大日本帝国憲法復活、核武装実現、自衛隊の陸海空正規国軍化、教育制度の戦前回帰促進など、誰がどうみてもガチガチの右翼主義信奉者です。

彼は、大学以降、ずっと東京に住み、某会社役員を経て、いまは引退暮らし。

その彼が、言うのです。

「俺の家は代々靖国神社に参拝したことがねぇんだよ」(笑)

彼は、かなり顔の広い男です。しかし彼の友人で、会津出身者は、全員が靖国参拝をしたことがないという。

なぜかというと、彼らは会津の出身だから。

戊辰戦争(明治維新)の際、会津藩は、幕臣として薩長土肥の連合軍と戦いました。

有名な白虎隊を生んだのも会津藩です。

そして幕軍は負け、明治政府が誕生しました。

明治政府は、大村益次郎の建言によって、戊辰戦争で亡くなられた“官軍の”将兵を慰霊するために、明治2年(1869年)に「東京招魂社」を東京九段に創建します。

これが1879年(明治12年)に改名され、いまの「靖国神社」となった。

つまり、会津藩の武士たちや、奥羽越列藩同盟軍の武士たち、彰義隊、新撰組を含む旧幕府軍の戦没者は、祭祀の対象外。

だから、幕臣として戦った先祖を持つ彼らは靖国への参拝はしない。

そういえば、ねずきちは、以前、裁判所から呼び出しをくらった名古屋の某社長が、
「薩長の裁判所なんぞに、わしゃ絶対にいかにゃぁで」
と真顔で言われていた場に出くわしたことがあります。

なにも、いまさら140年以上の前の話など・・・と思う方もいるかもしれませんが、意外とこういうことは、しぶとく残る。
先祖の歴史といものは、かようなまでに重いものなのです。

そうは言っても、大東亜戦争での戦没者もあるでしょう、と言ったら、

「うん、そのことは申し訳なく思っている」とのこと。

どうやら、旧幕臣としてのこだわりだけのようです(笑)

その頑固者の彼が、「ワシは今年は靖国神社にいった」と言う。

7月にはいって、靖国神社の「みたままつり」に、行かれたというのです。

どういう心境の変化か聞いたら、

「旧幕臣に対する慰霊は、会津に帰郷して行えばよい。
日本がここまで反日勢力に貶められていて、
これ以上戊辰戦争にこだわるわけにはいかん」

で、大型献灯までしてきたとか。
(注:大型献灯=ちょうちんの献灯。大形ちょうちんと、小型ちょうちんがある)

靖国神社・献灯
靖国神社献灯


なので言っておきました。

靖国神社には、じつは会津藩士も祭られているよって^^

どういう方たちかというと、禁門の変で長州藩勢との戦いで戦死した会津藩兵らです。彼らは、朝廷を守護したとして祀られています。

禁門の変というのは、元治元年(1864年)7月19日に、京都御所で起きた事変です。
蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも呼ばれています。

京都を追われた長州藩の久坂玄瑞らが、新撰組の池田屋事件で藩士を殺され、朝廷奪還を期して京都御所を守る会津・桑名藩兵と衝突。一時は筑前藩の守備する中立売門を突破して御所内に侵入を果たすけれど、薩摩藩兵が援軍に駆け付けると形成が逆転。長州勢が敗退した、という事変です。

この事件により、薩摩と長州は仲が悪くなるのですが、この両者の仲立ちをしたのが坂本竜馬で、彼の運動で薩長連盟ができあがり、いっきに明治維新が加速した。

靖国神社に祀られているのは、こうした戊辰戦争時の7,751柱、その中には、幕末の志士である吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎なども合祀されています。

一方で、明治維新の功労者でも、その後に反乱を起こし、あるいは反乱に加担した西郷隆盛や江藤新平、前原一誠らは祀られていません。

薩長土肥だから祀っているというわけではないのです。

この国を守るために戦っい、散っていかれた戦時の英霊を祀っている。

戦没者だから祀るというわけではない。そこには厳格な一線がある。

また、乃木希典、東郷平八郎といった著名な軍人や、八甲田雪中行軍遭難事件の遭難者など、戦時の死没者でないため祀られていない。

逆に、西南戦争、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争における軍病院、病院船の従軍・救護看護婦など、戦争で犠牲になった女性たち、

および、沖縄戦でのひめゆり学徒隊、白梅学徒隊等の7女学校の生徒、南樺太での真岡郵便電信局事件の女性などの女性たち、57,000柱は、祀られています。

さらに、学徒動員中に軍需工場で爆死した学徒や、輸送船「対馬丸」で沖縄から鹿児島への学童疎開中に敵潜水艦により撃沈された小学校児童達なども祀られています。


どうなんでしょうね。

こうしてみると、靖国神社というものの性格が非常によく表れているように思う。

靖国神社は、左巻きの方々に言わせると、「軍国主義礼賛のための施設」というイメージで語られるけれど、どうやらぜんぜん、違う。

「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創立された神社」(靖国神社HPより)という性格がはっきりと出ている。

「国家のため」ですから、哀しいけれど賊軍となった幕府側兵士は祀られない。明治政府にたてついた西郷隆盛も祀られない。

戦争礼賛ではない。そこには正邪の唆別が厳格なまでになされている。

旧幕軍はおろか、明治天皇が尊敬してやまなかった西郷隆盛すらも祀られていない。

このことには、正義とは決して甘くないという国家的決意が込められているような気がします。

靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて参拝に訪れています。

その際に、陛下がお詠みになられた歌が、

 我國の為をつくせる人々の
 名もむさし野に とむる玉かき


「靖国」という社号も明治天皇の命名によるものなのだそうです。。

「祖国を平安にする」
「平和な国家を建設する」

という願いが込められているといいます。

祖国を平安にすることも、平和な国家を建設することも、口舌の徒がペラペラとしゃべるだけで済むような甘いものではない。そこには正邪の識別が明確になされなければならない側面があるということを、わたしたちにはっきりと教えてくださっている。

なるほど残念なことに、戊辰戦争における旧幕臣は祀られていないけれど、明治維新以降、会津藩他、旧幕臣、奥州連合諸軍、桑名、筑前藩士たちは、こんどは政府の正規軍隊として、また、後方支援要因として、亡くなられた方の御霊は、男女の別なく祭祀されている。

過去のいきさつはどうあれ、その時点で日本のために戦った者は、祭祀の対象となる。

明治以降の厳しい戦いで、命を落とされた多くの英霊たちは、おそらくいまさら幕末の官軍だ、賊軍だという言葉にかまってなどいないと思います。

この国を守る。

そのことに、一致団結して戦い抜き、靖国神社に祀られている英霊、その数、なんと、246万6,532柱。

この国の危機に際し、亡くなられた英霊の方々のために、頭をたれ、いま起きつつある国難に立ち向かうことは、おそらく、戦いに散って行かれたすべての英霊の望むことではないかと思います。

実は、ねずきちの家も、旧幕臣です。

なので、ボクも長いこと、靖国には参拝していなかった。

父も、祖父も、曾祖父も、東京の文京区に住んでいながら、歩いて行ける九段の靖国神社には足を踏み入れたことがない。

でも、ボクもいまは、靖国神社に行き、御霊に頭を下げてきています。

この国を守るために命を捧げられた人々・・・靖国に祀られる人々は、決してそのすべてではないけれど、多くの英霊の祀られる靖国に詣でることは、確かに意義のあることだと思うからです。

そしてね、はっきりといえるのは、仮にこの国に、反日勢力と相互信頼主義の日本人勢力との間で、内乱が起きたと仮定したとき、反日勢力として亡くなられた方は、靖国に祀られることは決して、ない。

靖国は、正邪の唆別というものを、かくも厳しくわたしたちに、悟らせるものでもあると思います。

日本の、総理他、政府要人の靖国参拝は、きわめて政治的色彩の強いものだといわれています。

そして、本来、御霊への慰霊なら、8月15日ではなく、7月の“みたままつり”や新年祭、新嘗祭の方が適切なのかもしれない。

しかし、それだけ政治色が強い総理・閣僚参拝だけに、今年は、是非とも麻生総理に、靖国参拝を実現していただきたいと思うのです。

それは反日勢力にまさに乗っ取られそうになっている日本人の目を覚ますための、日本の首相の究極の戦いになると思うからです。

そしてそのことは、旧幕臣の家の者も、西南戦争で敗れた家の者も、みんなわかってくれる。

もはや意地をはっているときではない。

いまこそ、英霊たちとともに、この国に巣くう反日勢力という悪をくじき、この国の精神文化の復興を遂げるべきときがきていると思うのです。

麻生総理は靖国参拝すべし!という方
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金美齢女士 於 靖国神社(再掲)

君が代

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君が代と日の丸


昨日、日の丸の記事を書かせていただきました。

やっぱ「日の丸」ときたら「君が代」☆

というわけで、今日は「君が代」について書いてみたいと思います。

実は、7月15日に書かせていただいた「大山巌元帥」と、この君が代、深い関係がある^^v
■大山巌・・・西郷の再来と言われた男
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-560.html

明治維新の頃のことです。

横浜の英国大使館護衛部隊に、軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton)という人物がいた。

フェントンは日本ではじめての吹奏楽の練習として薩摩藩の青年たちを指導していた。

それが「薩摩軍楽隊」で、実は日本初の吹奏楽団です♪

なにせ、楽器といえば、お琴や三味線、和太鼓、和笛くらいしかなかった時代のことです。言葉も通じない。さぞかしたいへんなご苦労だったことと思います。

「薩摩軍楽隊」は、フェントンの指導を受け、明治元年(1871年)には、「日本海軍軍楽隊」へと発展します。

翌明治2年(1872年)10月、フェントンは、大山巌に進言した。

「明治新政府になにか儀礼音楽が必要です。ついては、何かふさわしい曲を選んだらどうでしょう?」

「なるほど」とうなづいた大山巌は、数人と相談して、平素自分が愛唱している琵琶歌の「蓬莱山」に引用されている「君が代」を選び、作曲をフェントンに頼みました。

ところがフェントンが作曲した「君が代」は、イマイチ評判が悪かった。
コラール風で、アイルランド民謡ぽかったのだそうです。
どんな旋律だったのでしょうね^^b

で、1876年(明治9年)に、海軍楽長・中村裕庸が「君が代」楽譜を改訂する上申書を海軍軍務局長宛に提出します。

ジョン W.フェントンと中村裕庸
ジョン W.フェントンと中村裕庸


中村裕庸は、こう書いた。

「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」

もちろんフェントンも同意の上です。

そしてようやく、1880年(明治13年)、明治政府は、宮内省雅樂課に委嘱し、課員数名の中から奥好義の作品が選ばれた。

選ばれたメロディに、一等伶人(雅楽を奏する人)の林広守が補作して、発表されたのが、いまに伝わる「君が代」です。

ちなみに、この曲に洋楽風の和音をつけたのは、当時音楽教師として日本に滞在していたドイツ人の音楽家フランツ・エッケルトです。

君が代の旋律は、いわばイギリス、ドイツ、日本の合作なんですね。


この曲については、次のようなエピソードがあります。日本の代表的作曲家山田耕作氏
は、若い頃ドイツに留学していました。

その頃、ドイツの大学の音楽教授たちが、世界の主な国歌について品定めをしました。

結果、第一位に選ばれたのが日本の「君が代」だったそうです。


さて「君が代」の歌詞です。

君が代の歌詞は、古く、平安時代の延喜5年(905年)に編纂された『古今和歌集』の『巻7、賀歌の初めに「題しらず」「読み人知らず」として、掲載されている。

ちなみに、『古今和歌集』は、実は、日本で初めての勅撰和歌集です。
醍醐天皇の勅命によって編まれました。

『古今和歌集』は、万葉集から撰者らの時代までの140年間の名歌を集めたもので、カナで書かれた“序”の執筆は、なんとまぁ紀貫之です。すごい!

『古今和歌集』は、天皇の勅命により、国家事業として編んだ最初の和歌集であり、平安中期の国風文化確立にも大きく寄与したといわれています。

『枕草子』には『古今和歌集』集を暗唱することが、平安中期の貴族にとって教養とみなされたとも記されている。つまり「君が代」も、それだけ著名だった。

そして君が代は、その後に編纂された、『新撰和歌集』にも、『和漢朗詠集』にも掲載された。名歌なんですね。

時代が下がり江戸時代になると、神様のお祭りや、仏様の供養、それに酒宴の席などでは、盲目の乙女や、琵琶法師が歌い、全国的に広く普及していた。

例えば婚儀の席で歌われるときは「君」とは新郎のことを指し、すなわち新郎の長寿と所帯の安息を祝い祈願する歌として用いられたんです。

大山巌は、フェントンの進言を受けたとき、きっと、薩摩琵琶の歌の『蓬莱山』の祝い歌の歌い出しにある「君が代」に、すぐにピンときたのでしょうね。
君が代は、当時においてもそれほどまでに一般的なものになっていた。


君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで


さて、「君が代は」でいう「君」とはなんでしょうか。

左巻きの人たちは、君とは天皇であり、この曲は天皇崇拝、軍国主義賛美の曲であると主張します。

しかし、君が代の「君」には、どこにもそんなことは書いてない。

「君」とは、友であり、親兄弟であり、恋人であり、妻であり、子や孫でもあります。
そしてそれらを統合した日本国民すべてであり、もちろん陛下でもあらせられる。

だから、そうした「君」が、千代に八千代に(未来永劫栄えるように、あるいは長生きして平和に幸せに暮らせるように)と詠んでいる。

歌う人は、永遠に守り抜くと、詠んでいる。

永遠です。

千代に八千代にです。

攻めることではなく、守ると詠んでいる。

実に平和的で、実にやさしくて、実にありがたい歌詞だと、ボクは思うのです。

愛するあなたを未来永劫守り抜くために、小石が固まって岩になって、苔が生えるまで、ずっとずっと・・・・なんて、愛の告白としても、最高です。


「さざれ石」というのは、細かな石です。
その細かな石が、固まって岩石になったものを「礫(れき)岩」といいます。

細かな小石が、岩になるのです。

さざれ石
さざれ石


その順序はこうです。

日本列島の周辺に地向斜という細長い海ができる。
そこに大陸から運ばれてきた小さな石(さざれ石)が堆積を続ける。
何千万年という長い間に、小石が圧力で固結して岩石となる。
そこが、やがて地殻変動で、隆起して山脈となる。
そしてその山脈から発見されるのが、さざれ石の“礫岩”です。


そんなにながい間、気の遠くなるような永い間、ずっとずっと君を守り抜く。

いや、それだけじゃない。その岩に、苔がはえるまでも、ずっとずっと・・・


ヾ(*`ω´*) オィ!!
このどこが軍国主義なんじゃ!!言うてみぃ!!(笑)


戦争云々をいうなら、どこの国でも、戦争のときは国歌を歌い、その軍隊は、国旗を掲げて戦争をしています。

実際、どこの国の国歌も国旗も、みな戦争につながっている。

ちなみに、シナの国歌は、次のような歌詞です。

【中華人民共和国国家】

立て、奴隷となるな
血と肉もて築かむ
よき国 われらが危機せまりぬ

今こそ 戦うときは来ぬ
立て立て 心合わせ敵にあたらん
進め進め 進めよや

なんともまぁ、血なまぐさい。
興味のある方は、曲を検索してみてください。
めっちゃ、勇ましい旋律にもなっています。


【アメリカ合衆国国歌】

見よや 朝の薄明かりに
たそがれゆく 美空に浮かぶ
われらが旗 星条旗を

弾丸降る 戦いの庭に
頭上を高く ひるがえる
堂々たる星条旗よ
                       
おお われらが旗のあるところ
自由と勇気共にあり


これらにくらべて、日本の国歌「君が代」の、なんと平和なことか。


ちなみに戦争をいうなら、1480年(文明12年−室町時代)から、1941年の(昭16年)までの戦争の回数は、次のようになっています。

イギリス 78回
フランス 71回
ドイツ  23回
日本    9回

日本は、極端に少ない。日本はそもそも争い事を好まないんですよ。

そして明治天皇の有名な御歌・・・

四方の海
みなはらから(同胞)と思う世に
など波風の 立ちさわぐらむ

「みなはらから」です。

平和を希求し、人々が互いに争うことなく、人々が千代に八千代に栄えようとする陛下の御心が、この一首をみてもあきらかといえるのではないでしょうか。


話が脱線してしまいましたが、この「君が代」を国歌として認めないだとか、「君が代」を歌わないだとか、そういうヤカラは、ようするに、

日本の伝統を知らない(教養がない)、
平和を守る気持ちがない(好戦的)、
人を未来永劫愛するという心がない(愛を知らない)

つまり、どうしようもないクズであると、ねずきちは断じたいのです。


しかし残念なことに、戦後日本にはこうしたどうしようもないヤカラがいるから、平成11年(1999年)、「君が代」は、正式に国歌として法制度化された。

実は、それまで、君が代は、明治大正昭和にかけても、国歌とする法はなかったのです。

それでもみんなが「君が代」を国歌と思ってきた。

法があろうがなかろうが、幾百年にわたって、広い地域で多くの先人に歌い継がれてきた御歌が、興るべき時に稀世のメロディを得て、世界に認められる儀礼曲となった「君が代」です。

「君が代」の旋律と歌詞は、それだけ多くの日本人の心の歌となっていたのではないでしょうか。


「君が代」は、我が国一千年を越す歴史の所産です。
琵琶曲から、洋風曲となってからも129年用いられて、今日に至ったている。

すばらしいじゃありませんかっ!

わたしたち、いまを生きる日本人は、なにも木の股から産まれたわけじゃない。
親がいて、そのまた親がいて、そのまた親がいる。

代々続く伝統や先人達の努力のおかげで、わたしたちはいま、こうして生きています。


古今和歌集編纂から1100年。
綿々と歌い継がれた「君が代」が、私たちの住む日本の国歌であることは、わたしたち日本人の誇りといえるのではないでしょうか。

やっぱ日本て、いいなぁ〜♪

♪ 君が代は
  千代に八千代に
  さざれ石の
  巌(いわお)となりて
  苔(こけ)のむすまで


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君が代

日の丸

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日の丸と青空


一 白地に赤く 日の丸染めて
  ああ美しい 日本の旗は

二 青空高く 日の丸揚げて
  ああ美しい 日本の旗は


ご存知、日の丸の歌です。

この歌、発表当時の元歌は、次のような歌詞だったんですね

一 白地に赤く 日の丸染めて
  ああ美しや 日本の旗は

二 朝日の昇る 勢い見せて
  ああ勇ましや 日本の旗は

ねずきちは、いまの歌詞の方が好きかな^^

さてその日の丸の旗ですけれど、明治のはじめ、日本に着任した各国大使に注目されたことがあるのです。

そしてついにはフランスが、正式に・・・なんと「正式に」です・・・政府代表を立て、明治政府に対して、「日の丸を500万円(当時の金額)で売ってほしい」と依頼してきたのです。

当時の明治新政府は、まだよちよち歩きもいいところ。
財政難で金はいくらあっても足りない。

明治政府にとって、500万円という大金は、喉から手が出る程欲しい。

ちなみに幕末のころ、官軍である薩長側が立てた旗は“錦の御旗”、対する徳川幕府が使った旗が“日の丸”だった。

政府内部でも、大激論が起こるのだけれど、結果、明治政府は、

「国旗を売り渡す事は、国家を売り渡す事」

として、この申し出を断ります。

当時、500万円の誘惑を断ち切って国旗「日の丸」を守った明治の先人達が、いま、特アからカネをもらって売国を公然とうたう連中をみたら、一体どんなふうに思うでしょうかね。

日の丸の起源は古く、『続日本紀』には、文武天皇の701年(大宝元年)の朝賀の儀に関する記述で、正月元旦、儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれています。

現存する最古の日章旗としては、後冷泉天皇より源義光(新羅三郎)へ下賜された旗があり、これは、甲斐源氏宗家の甲斐武田家に家宝として伝えられた。

甲斐武田家の家宝の日章旗
武田家の日章旗


同じく中世の日章旗とされるものとしては、奈良県五條市(旧西吉野村)の堀家に伝わる後醍醐天皇下賜のものが知られているそうです。

また、源平合戦のとき、扇に描かれた日の丸の扇子を、那須の与一が射ち落したという話も有名。

そして室町時代の勘合貿易、豊臣秀吉から徳川家光の第3次鎖国令が出される1635年(寛永12年)までの間に行われた朱印船貿易の際に日本の船籍を表すものとして船の船尾に日の丸の旗が掲げられている。

勘合貿易船・・・船尾に日の丸があります
勘合貿易の日章旗


また、1673年には、江戸幕府が御城米廻船に船印として「日の丸」の幟を掲揚するよう指示。

1854年には、江戸幕府が「日の丸」の幟を日本惣船印に制定。

1860年の幕府渡米使節団は、アメリカ・ブロードウェイで「日の丸」で迎えられたなんてこともありました。

明治にはいると、1870(明治3)年 太政官布告第57号「商船規則」で、日の丸は、「御國旗」として規定され、日本船の目印として採用されました。

以降、日の丸は慣習上、日本の国旗として用いられてきた。

日の丸の赤は、太陽の象徴です。四界を照らす太陽。太陽の光は一直線であり、円は、丸を、つまり、人々の環、輪、和を表します。

そして白字は、汚れなき心、至誠、私心なき心、純粋、純白を表します。

実に素晴らしい国旗だと思います。

ちなみに、日の丸は、その寸法が詳しく決められており、図にすると次のようになっています。

日章旗の制式
日章旗の制式


ちなみに、日の丸の揚げ方には、一定の決まりがあります。

(1) 日の丸を門前に一本掲げるときは、家の外から見て左に掲げる。
日の丸の掲揚1


(2) 日の丸を二本交差して掲げるときは、外から見て左(旗竿の根本は右)のほうが前に出るようする。
日の丸の掲揚2


(3) 高い建物やバルコニーなどから日の丸をたらして掲げるときは、旗竿を水平または斜めにして出し、旗の端が地面にふれたり、建物の壁にふれないようにする。

(4) 国旗は、およそ日の出から日没まで揚げる。雨天のときは揚げない。

(5) 国旗の掲揚、降納に際しては、起立、黙礼あるいは脱帽するなどして、敬意を表す。

(6) 弔意を表するときは、竿球を黒布で包み、旗を竿頭より少し下げる。


日曜日の政治討論番組を見ていたのですけれど、議論がどれも枝葉末節。

野党は民主党を筆頭に、政府与党の実績をあげつらい、政権交代をしきりに主張するけれど、ではいったいあなたがたはどうするのか、というと、「これから議論します」(笑)

--------------------------------
A君「社長!、先日社長が示された社の営業方針には、このような弊害が生まれています」

社長「うむ、なるほど。では君は、具体的にどのように改善したらいいと思うのかね?」

A君「それはこれからみんなで議論します」

社長「議論しますというが、君たちには具体策はあるのかね?」

A君「あります。たとえば自分は“A案”を持っています。」

社長「うむ。その“A案”という案は、みんなが納得しているのかね? B君はどう思う?」

B君「Bですが、わたしは“A案”よりも“B案”がいいと思っています」

社長「A案かB案か、どっちなんだね?」

AB「これからみんなで議論します。」

社長「うむ。それで君たちは、どうししたいのかね?」

AB「社長、引退してください!」
--------------------------------

断言します。
たぶん、↑のような会社は、つぶれる(笑)

ていうか、このA君、B君のようなヤカラを許しておくこと自体が、この会社にとって最大のマイナスだと思う。

いま与党に必要なことは、旗印ではないかと思うのです。

とかく経済問題というのは、利害得損。
なにかの政策を実施すれば、必ず得をする人もいれば、損する人もでる。

野党は簡単だ。損した人をみつけてきては、政府の失策だ失策だとわめけばいい。

しかし、責任政党ならば、そうは言っていれない。
具体的に取り決めをしなければならない。

そして決めれば、それに対してまた野党はケチをつける。
で、与党が野党に対してケチをつけても、はじまりません。

細田さんも頑張っているけれど、それだけではなかなか庶民には通じないような感じがしました。

で、思うのです。

自民党は、旗を明確にせよ!と。

いまこそ、堂々と日の丸を立て、麻生総理以下、閣僚、自民党幹部で、靖国を参拝し、英霊たちに、この国を守ると誓え!と。

そして、村山談話、河野談話の破棄を正式に閣議決定せられたい。

日本は、日本人のものであると、明確に断じていただきたいのです。

なぜなら、そこが民主党その他の野党各党と、自民党の最大の違いだからです。

日本に住むのは、なんといっても、圧倒的に日本人です。当然のことです。

なのに、なぜわずか60万ばかりの在日にいいようにふりまわされなければならないのか。嘘八百をいいつらねられ、それに対し、いちいち反論してあげなければならないのか。

自民党は日本のための日本人の政党である。日本政府は、日本のための政党である。

総理の靖国参拝は、そのことを何よりも日本人の心に沁みいらせます。

そして参拝のあと、参加した全閣僚で、政府の公式見解として、村山談話、河野談話の破棄を取り決め、世間に向けて明らかにしていただきたい。

日本を信じ、日本のために戦い、散って行かれた靖国の246万6千余柱の御霊と、いまを生きる多くの日本人が、そのことを固唾を飲んで見守っていると、ねずきちは思うのです。

麻生総理の靖国参拝と
村山河野談話の破棄を求める方は、
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きけ、わだつみのこえ

工作員?

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“けんぶつ”という方からのコメントについて、投稿禁止措置を取らせていただきました。

舌鋒鋭いねずきちの本文への反論で、それなりにおもしろいコメントではあったのですが、管理画面からこの方の投稿時のIPアドレスをみると、近いものから順に、

110-54-102-80.ppp.bbiq.jp
116-94-129-220.ppp.bbiq.jp
125-31-81-126.ppp.bbiq.jp
203-135-209-18.ppp.bbiq.jp
203-135-209-223.ppp.bbiq.jp
ppp3596.ohashi06.bbiq.jp
ppp23248.ohashi06.bbiq.jp
ppp2406.ohashi06.bbiq.jp
ppp0022.ohashi06.bbiq.jp
ppp4189.ohashi06.bbiq.jp
p222013006043.ppp.prin.ne.jp
ppp3215.ohashi06.bbiq.jp
ppp3215.ohashi06.bbiq.jp
ppp3215.ohashi06.bbiq.jp
ppp3215.ohashi06.bbiq.jp
ppp3632.ohashi06.bbiq.jp
ppp1670.ohashi06.bbiq.jp
ppp1670.ohashi06.bbiq.jp
ppp5431.ohashi06.bbiq.jp
ppp5431.ohashi06.bbiq.jp
p222013017079.ppp.prin.ne.jp
ppp23154.ohashi06.bbiq.jp
ppp4847.ohashi06.bbiq.jp

となっています。

初期の頃の投稿には、一部同一IPからの投稿もあるのですが、それ以外はほぼ毎回、投稿するたびごとに、IPアドレスが微妙に異なっている。

これはいったいどういうことでしょうか?

IPアドレスというのは、データ送信に際して割り当てられるパソコンのルーター(回線接続の際の弁当箱みたいな機械)ごとの固有アドレス(住所のようなもの)です。

ですから、小規模の事務所などで、3〜4台のパソコンが置いてあるような場合だと、その3〜4台は、全部、おなじIPアドレスになる。

ネットカフェなど、相当数のパソコンを置いているところでは、ルーターの回線容認本数によって、3〜5本のIPアドレスが割り当てられることもある。
だけど、特定の1台のパソコンからの送信は、かならず、同じIPアドレスになります。

ちなみに、いつもコメントをくださるその他の方からの投稿は、まったく毎回、同一のIPアドレスからの送信になっています。

つまり、同じパソコンからコメントを送ってくださっている。

ところが、けんぶつ氏や、以前問題になった大阪のおっさん、その他、批判的なコメントを複数回いただいている特定の方々のIPアドレスをみると、どういうわけか、毎回、異なるIPアドレスから、コメントを送信しておいでだ。

ちなみに人気ブログランキングなどのランキングサイトでは、このIPアドレスでランクリの管理をしていて、同じIPアドレスから同一日に複数回ランクリしても、1回としてしか認識しない。

つまり、データ送信の都度、IPアドレスを誤魔化すことができれば、どうやら、ランクリも、異常な数のクリックで数を伸ばすことができるようなのです。

聞くところによれば、IPアドレスを詐称してデータ発信をすることができるソフトが、市販されているとのこと。

ねずきちは、機械のことに詳しくないのでよくわかりませんが、そのようなソフトを利用すると、たとえば、ヤフーの政治関連掲示板や、2ちゃんねるなどの掲示板に、“投稿するたびごとに別人が投稿しているようにみせかける”ことができるそうです。

そういえば先日、リチャード・コシミズ・ブログの人気ブログランキングが、わずか1週間で4万ポイントものアクセスとなって、彼のブログが上位に進出しました。
そのとき、彼は、ブログの中で、次のように書いていた。

≪どっかのタコ部屋にクリック掛やリロード係が専属で張り付いて、1日アクセス数稼ぎに汗水垂らしているとか。あるいはプログラム組んでアクセス自動で繰り返すような設定を作っていりして≫

だいたい、他人を批判する言葉というものは、自分のことをいうので、おそらくは彼自身が、そういうインチキをしていたのだろうと、推察し、ボクは、
「ランクリねぇ・・・」という記事を書きました。
URL=http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-561.html

その後、彼のブログのアクセスがあまり伸びていないことを考えると、どうやら、彼のインチキが証明されている??

ヤフーの政治関連アンケートなども、アヤシイものです。

なぜなら、IPアドレスの詐称ができるなら、同一人物が、500人、1000人のクリック数を詐称することも可能なのだし、連続してネトウヨ叩きのコメントを書き連ねて、いかにもそれが世論の大勢を占めているように仮想することができる。

でね、おもしろいことに、文章というものには、顔がある。

書きグセというか、表現のしかたというか、主張の展開の仕方や、漢字の使い方、「、」や「。」の打ち方、改行のしかた等々、文章にはかならずその人なりの書きグセがあって、なんとなく、その人の人柄のようなものまでかもしだしてしまいます。

そういう眼であらためてヤフーの麻生さん叩きの掲示板とか、民主党よいしょ、中共よいしょの掲示板などをみると、どういうわけか、どのコメントも、みんな同じような書きグセ、同じような改行、おなじような漢字の使い方、同じような「、」や「。」の使い方がしてある。

つまり、200人とも500人ともつかない大量のクリックや、批判コメントは、よくよく見ると、ほんの数人が、IPアドレスや、ハンドルネームを仮想して書き込みをしているようにも見えるのです。

これに対し、ネトウヨと総括される人々のコメントは、どれもみんな文章の書きグセが違う。どうみても、いろいろな人がそれぞれの思いを書いておられる。

ねずきちは、人の文章や論文を検査する機会が多いのですが、部下の書いたレポートが、どうもいつもと書きグセが違う。で、本人を呼んで、「これ書いたの、君じゃなくて、○○だろ?」というと、たいてい、当たり!(笑)

日本はスパイ天国だというけれど、ねずきちのような、そこらのおっさんのブログにまでこうして工作員か、工作員もどきのようなヤカラがやってくるところをみると、これはこれは、相当彼らはがんばっているなぁと恐縮します^^

同時に、サヨク系のブログの多くが、コメント禁止措置をしているのもよくわかる。

自分たちがそういうインチキをしていたら、当然、同じことをされるのではと警戒するでしょうし・・・(笑)

相互信頼主義者である多くの普通の日本人は、つねに「信頼」を根本におきます。

だから、インチキや詐称、仮想を、ふつう嫌うし、まさかそのような悪質な行為がまかり通っているなんて思わない。
もしねずきちが、そのようなインチキをしていたのなら、ここにコメントくださっている多くの方々は、一瞬のうちに、ボクのブログから離れて行ってしまう。

やはり、正々堂々、インチキなどせず、ふつうにしていたほうがいい。あたりまえです(笑)

それにしても、階級闘争主義者というのは、嘘やねつ造だろうが、おかまいなしに、繰り返す。彼れらは、闘争主義で、「信頼」という概念がないのだから、とにかく勝てればいいと考えるのかもしれませんね。

だけど、そういう連中が国家の主流派になったら大変です。

そこには自由な言論なんてない。
国民には、真実は知らされず、施政者が伝えたい情報だけ伝えられ、煽動され、正を邪に、邪を正と詐称されてしまう。

あれっ? それて、いまの日本のメディアそのもの??

いやはや、失礼しました(笑)

だけど、変えなきゃね。
みんなが互いに信頼しあい、尊敬しあうことができる社会の方が、ボクは絶対にいいと思うから。

おわりに、禁止措置について、ひとこと。

言論は自由であるべきものと、ねずきちは思っています。

だから発言も自由です。

しかし、その自由は、不正をはたらき、故意や悪意で事実をねじまげようとする卑劣なヤカラにまで与えられるものではない、とねずきちは思います。

自由というものは、 「好き勝手に何をやっても良い」という意味ではない。そこには一定のルールがあるべきものです。

以前、LAYさんのコメントにありましたが、アメリカ合衆国憲法の“liberty”の訳は、【自由】ではなく、正しくは【道理】なのだそうです。

「自由」と「道理」では言葉の持つ意味も力も違います。

表現の自由は→表現の道理、学問の自由は→学問の道理、恋愛の自由は→恋愛の道理、職業選択の自由は→職業選択の道理。

そして、言論の自由は「言論の道理」です。

したがって道理にもとるコメントをする者は、本ブログにおいても、当然排除の対象となります。

互いに尊敬と互譲の精神を持ち合わせない者、批判のための批判、非難中傷を繰り返す者、互いに「学びあう」という姿勢のない者、そして、IPアドレスを誤魔化す者。

多くのここを訪れる皆様への配慮として、管理人であるねずきちは、今回、”けんぶつ”氏を、大阪のおっさんさんに続く2番目の対象として、このブログのコメント欄への投稿を禁止させていただきました。

あしからずご了承ください。

日本は相互信頼主義がいいと思う方
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国境を越えた愛・・・艱難辛苦を乗り越えて

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愛心覚羅溥傑と嵯峨浩
愛心覚羅溥傑と嵯峨浩


かつて、国境を越えて結ばれた皇族いました。

ときは戦時中。

今日は、国家さえも崩壊する激動の時代に、愛を貫き通したお二人のお話です。


愛新覚羅溥儀といえば、映画ラスト・エンペラーでも紹介された満州皇帝として有名です。

映画ラスト・エンペラーに、わずか4歳の幼子が清朝第12代皇帝として、紫禁城で数万の兵士と謁見するシーンが出てきます。

これが、愛新覚羅溥儀です。

しかし、清王朝は1911年、孫文が起こした辛亥革命によって滅びます。

翌1912年、孫文は、清王朝にかわる新たな国家として“中華民国”を打ち立てる。

ところが、清王朝崩壊後も大清皇帝として紫禁城で暮らす愛新覚羅溥儀に不満を抱く中国の軍閥の長“袁世凱”は、自らが皇帝になるよう奔走し、1915年12月、中国内に“中華帝国”を打ち立てます。

ところがこの袁世凱も、各方面の軍閥の抵抗にあい、翌1916年3月には滅んでします。
袁世凱は、同年6月に死去します。

翌1917年になると、この政治的空白を利用して政権を獲ろうと画策した張勲によって、7月に溥儀がふたたび皇帝に復職。

ところが内紛によって張勲は紫禁城を追われ、溥儀の皇帝復職は、わずか13日間で挫折。

そして中国は、この後、長い内乱期に入り込んでいきます。

簡単にいったら、この後の中国には、政府がなかったのです。

いまでいったら、海賊や盗賊が略奪と暴行をほしいままにし、一般庶民は飢えに苦しむ無政府状態のソマリアと同じです。

そして当時の欧米列強は、すでに政府が崩壊している中国を、好き放題に切り取り、自国の植民地にしていた。

ほっておけば、中国の内乱と欧米列強による植民地支配の波は、早晩、日本へと波及してしまったでしょう。

とりわけ、ロシア革命によって新政権となったソ連は、太平洋側への領土ならびに植民地支配の拡大を目論んでいた。

このままでは、大陸だけでなく、韓半島、そして日本が危ない。

満州国


そう考えた日本は、愛新覚羅溥儀を招き、1935年、満州に満州国を建国し、溥儀を初代満州国皇帝とします。

中国にあった清王朝は、もともと満州地方に住む女真族です。いまから400年前に、ヌルハチがあらわれて、女真族を統一。そのまま中国に攻め入って中国皇帝となった。
それが“清王朝”です。

愛新覚羅溥儀は、ヌルハチから数えて12代目の清皇帝であり、その溥儀を迎えてもともとの女真族の本拠地である満州に新国家を建設し、せめて、満州国内の治安維持によって、満州国の政治的安定と、満州国民の生活の安定を図った。

それが満州国です。

満州国皇帝の愛新覚羅溥儀には、弟がいた。

弟の名前は、愛心覚羅溥傑(ふけつ)です。

この愛心覚羅溥傑と、彼の妻の嵯峨浩が、今日のお題です。


弟・溥傑は、1907年の生まれです。

1929年に日本の学習院大学に留学し、1933年には、陸軍士官学校に入学。
陸士当時の愛心覚羅溥傑を知る人は、一様に、彼を頭の切れる秀才、部下思いで優しい男、スケールの大きい立派な人と評しています。

彼には、立命館大学名誉法学博士なんて肩書もあります。

それとね、彼は書家としても有名です。独特の流水のような書は、流麗で人気が高いです。
ネットで画像検索したら出てくるけど、なんか濡れたような色気のある字を書く。
書は人を表すといいます。なにかわかるような気がします。

溥傑の書
溥傑の書


この愛心覚羅溥傑のもとに、1937年、嵯峨侯爵家のご令嬢で天皇家の親戚にあたる嵯峨浩(さが・ひろ)さまが嫁ぎます。

当時のことですから、もちろんお見合い結婚です。

嵯峨家というのは、浩の祖母の叔母が、明治天皇の生母という名門の公爵華族。

明治初期、欧米風の爵位が日本でも用いられていた時期があった。爵位は、公・侯・伯・子爵・男の順番。だから公爵家のご令嬢という浩は、当時の我が国最高の姫君でもあらせられた。ようするに深窓の令嬢であり、すごい姫君です!!

えっと、お名前、“浩”と書くと、なんとなく(ひろし)って、男性名みたいな感じがするかもしれないけれど、呼び方は、(こう)です。れっきとした華族の女性です。


さて、その嵯峨浩、当時22歳。

お相手の愛心覚羅溥傑は、29歳。

お見合いのお席で、はじめて溥傑に会った浩は、

「軍服姿の気高い、ちょっと普通じゃお見かけできない立派な方だと思いました」
と第一印象を述べています。

そして、ご交際を通じて、溥傑の人柄にすっかり惹かれてしまう。


お二人の結婚式は、1937年4月3日、東京九段にある、軍人会館(いまの九段会館)で行われました。

愛心覚羅溥傑と嵯峨浩2


この年の10月には、お二人で満州国へ帰国。

翌1938年には、長女慧生が誕生。

溥傑は、産まれた我が子のそばを離れたらがらず、溥儀皇帝から苦情のお言葉をちょうだいまでしたそうです。娘さんがよほど愛しかったんでしょうね。

愛心覚羅溥傑と嵯峨浩3


1940年には、次女嫮生(こせい)も誕生。

夫の溥傑は、満州と日本を行ったりきたりではあったけれど、子煩悩の夫と、愛娘に囲まれたこの時期を、浩は、「幸福の絶頂期であった」と述懐しています。


日本の敗戦が濃厚となった1945年8月9日、突如ソ連軍が日ソ不可侵条約を破り、満州国に侵攻します。

一刻の猶予もありません。

溥傑、浩のご一家は、皇帝一行とともに特別列車に乗って、新京を脱出。
小さなお子様を抱いて、長白山中にある大栗子まで逃げのびます。

国を失った彼らに残された選択は、日本への亡命しかありません。
一行は奉天(いまの瀋陽)飛行場から、2陣に分かれて飛び立つことにした。

第一陣は、皇帝溥儀と、夫の溥傑、それとわずかなお供の者。
第二陣が、皇后と浩などの女・子供。

第二陣は、第一陣の到着の報を受けて出発することになっていた。

ところが、溥儀ら第一陣の一行は、出発直前、奉天飛行場でソ連兵に捕縛されてしまいます。

溥儀も、溥傑も、そのまま連行され、ハバロフスクの収容所に入れられてしまう。
残されたのは、女・子供ばかりです。

そして彼女らの逃避行が始まります。

満州に安全なところはどこにもない。
シナ人や、朝鮮人たちによる日本人への略奪や集団暴行、殺人、強姦などの被害が出始めている。

女性は、全員髪を切り、顔に泥を塗りつけ、男装しての逃避行がはじまった。
幼子を抱え、徒歩で大陸をさまよう旅です。どんなにかおつらかったことでしょう。

5ヶ月後の1946年1月、浩ら一行は、ようやく朝鮮との国境に近い通化(吉林省)に到着します。

ところがここで、八路軍(中国共産党)に捕縛された。
そして彼女らは、八路軍公安局のビルの2階の一室に幽閉されてしまいます。

当時の通化には、もともと1万4千人の日本人居留民、10万人以上の他の地域からの避難民がいた。

そして武装解除された日本兵が次々とシベリアへ送られていく。

日本軍が持っていた武器を、ソ連兵はその場で八路軍(共産軍)に渡し武装させていた。

武装して支配者となった八路軍と、八路軍から武器を分けられた朝鮮義勇軍たちは、武器を持たない日本人難民に対し、掠奪、暴行、拉致、殺戮の地獄を繰り広げた。

そして2月3日に起ったのが世にいう「通化事件」です。

通化事件


略奪や暴行を加える者たちの中には、延安からやって来た筋金入りの日本人共産党員もいた。
その日本共産党員が組織した「日本解放工作委員会」は、あるいは「清算運動だ」、あるいは「集団訓練だ」といって、居留民の財産没収、自由拘束、不服従者の人民裁判など弾圧を繰り広げた。

戦時中、共産主義に走り、日本を捨てて延安に行った彼らは、戦時中は“売国奴”として同邦の日本人にののしられた。
その日本共産党員たちは、日本が戦争に負けると、こんどは逆に英雄気取りとなり、
「避難民が乞食同然の生活苦に追いやられている時、彼ら工作員は立派な服を着て街を闊歩しており、罪なき日本人を売って得意となっていた。

そして彼ら日本共産党員は、一部の日本人が国民党と組んで八路軍(共産軍)を攻撃したという嘘をでっちあげ、理由で、大規模な日本人狩りを行なう。

そしてこの日、3千人とも4千人ともつかない日本人が、零下30度の寒さの中で、
両手を上げさせられて八路軍(共産軍)に銃剣で追い立てられた。

男性は、16歳から60歳まで、先頭から氷の上で射殺され、川に投げ込まれた。

途中で方向転換した列は、旧通運会社の小屋に100人近くが押し込まれた。
身動きできず酸欠で口をパクパクしている日本人たちを、八路軍は、窓からライフルで撃ち、足元が血の海になったが死体を外に出すことも許されなかった。

一週間にわたる拷問と銃殺、あるいは凍死によって軍とは何のかかわりもない民間の2千人近く殺された。

女性や子供たちがどうなったかは、記録がないのでわからない。
でも、それは“記録できないほど惨たらしいものであった”ことが容易に想像できる。


中国共産党の本拠地である延安から若い裁判官がやってきて人民裁判が始まった。

台の上に日本人が立たされる。

裁判員が、満州時代の罪状を民衆に問う。

黒山の野次馬の中から「俺達を酷使した」、「俺達を殴った」というデタラメな罵声が上がる。

裁判長が「どうする」と問うと、「打死!打死!(殺せ殺せ)」と民衆が叫ぶ。裁判は終わり、その日本人は背中に「南無阿弥陀仏」と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺された。

この裁判によって、居留民会長であった寺田氏を始め、通化在住の実業家、著名人約180人は、こうして共産党の人民裁判により、罪状をねつ造され、処刑された。


そうした騒然とした通化の中で、旧日本軍人の一行が、浩たち一行の救出のため、決死隊を組んで公安局に乗り込んだ。

このため、逆に八路軍公安局の建物が、八路軍によって猛攻撃された。

機関銃の一斉射撃で窓ガラスが吹っ飛ぶ。
砲弾が落下する。

耳をつんざく轟音。

浩は、娘を抱きしめ、息を殺して祈るばかりだった。

浩の目の前で、校庭の老乳母が砲弾の破片で手首を吹き飛ばされた。
「痛い、痛い」と泣き叫びながら、絶命。

溥儀の皇后はあまりの恐怖のために、気が触れてしまった。

そして日本人義勇隊は、全員が絶命。


阿鼻叫喚の地獄絵図を目の当たりにしながら、浩たち一行は、なにもできないまま、4月、八路軍によって、長州(満州国時代の新京)に移送され、さらに、吉林・延吉・佳木斯へと身柄を移され、同年7月に佳木斯で釈放される。

釈放後、浩は、同年9月に葫芦島に至り、そこで日本への引揚船を待った。
しかし、こんどは同地で国民党軍に身柄を拘束されてしまう。
そして、北京を経由し、同年12月に、上海へと移される。

たまたま、上海には、旧日本軍元大尉、田中徹雄氏(のちの山梨県副知事)がいた。
彼の勇気ある行動によって浩たちは救出され、上海発の“最後の”引揚船に乗船することができた。間一髪のできごとだった。

翌1947年1月、浩たち一行は、ようやく日本に帰国する。

流転の日々、浩は帰国までの間、ずっと次女の嫮生を伴っていた。

そして、日吉(神奈川県横浜市港北区)に移転していた嵯峨家の実家で、長女の彗生と、涙の再開をはたした。彗生は、日本の小学校にはいるために、日本の実家の嵯峨家に引き取られていたのである。

浩は、父の経営する町田学園で書道教師をして生計を立てながら、娘たちとの生活を始める。

そんなある日、母や妹の苦労を仄聞し、行方知れずの父の身を案じる心優しい長女の彗生は、1954年(昭和29年)周恩来に「父に会いたい」という中国語で書いた手紙を出す。

周恩来はその手紙に感動し、浩と2人の娘と、夫との文通を認めた。

昭和32年(1957年)12月10日、学習院大学在学中だった慧生を、突然の悲劇が襲います。

交際していた同級生とピストル心中したのです(天城山心中)。

一緒に死んだ青年は、青森県出身の同級生だった。

生きる望みを失っていた青年に、心優しい彗生が、同情し、行動を伴にしたものだと伝えられています。


この事件で、浩は、すっかり打ちのめされてしまいます。

自宅の床に伏し、起きあがれなくなった。

中国撫順の収容所にいた溥傑は、手紙でこの事実を知ります。

「なんという悲しみであろう。清朝の子として、薄幸であることは宿命なのか。将来の夢のすべてを彗生と嫮生に託し、楽しい夢を描きながら苦しみに耐えてきたのに、なんということであろう。誰にも罪はない。もしあるとすれば、すべては私の罪だ」

溥傑は、清朝の血を背負う自らを責め、浩は娘を守れなかった自分の非力を責めた。


1960年12月、溥儀と、溥傑は、特赦になり、釈放されて北京に帰った。

浩は、夫のいる中国に渡る準備を始めた。


中国共産党に遠慮する兄の溥儀は、「日本人の義妹の顔など見たくない」と言って、浩の帰国に猛反対したといいます。

しかし、溥傑は、きっぱりと言った。

「私も妻も、お互い、信じ、愛し合っています。
娘もいます。
たとえ、民族や国が違っていても、夫婦親子一緒に暮らすことだけを願って、いままで私は耐えて生きてきました。
一家団欒の楽しみを、取り戻すのです」


1965年5月、溥傑は、広州駅のプラットホームで、香港経由で中国入りする浩と、嫮生を待っていた。

人混みの中に、夫の姿を見つけた浩は、たくさん用意していた言葉も出ず、ただ黙って頭を下げることしかできなかった。

溥傑も、黙ってうなずくばかりで、言葉にならない。

二人は、人眼をはばかることなく、肩を寄せ合って、泣いた。

それは、16年・・・16年の長かった別離が終わりを告げた瞬間だった。

浩は、大切に抱いてきた彗生の遺骨を差し出した。
そして、「申し訳ございません。。。。」と言って泣いた。

溥傑は、何も語らず、両腕に彗生の遺骨をしっかりと抱きしめた。
彼は遺骨を、ホテルに着くまで離そうとしなかった。

部屋に着くと、花を飾った机の上に遺骨を置き、「申し訳なかった・・・」とひとこともらしたあと、その場に泣き崩れてしまったといいます。


それから27年後の1978年、日中平和友好条約が締結された時期のこと、浩は、慢性腎不全を患い、人工透析を受けるようになった。

その頃、妻を看病しながら、「もし浩が死ねア、私も生きておれない」という溥傑のつぶやきを周りが聞いています。


そして1987年6月20日、夫・溥傑に見守られながら、浩は静かに息を引き取ります。享年73歳。

溥傑は、浩の遺体の枕もとに立って、ポロポロと流れる涙を拭おうともしないで、葬儀の参列者に丁寧に挨拶をしていた。

娘の嫮生は、溥傑が、浩の亡骸に取りすがって「浩さん、浩さん」と慟哭する姿を見たといいます。

後年嫮生は、
「母は、こんなにも父に愛され、惜しまれながら亡くなったのだから、幸せだったとつくづく思います」と述懐しています。


清王朝の皇帝の実弟として生まれた溥傑。
日本の華族の家に生まれた浩。

お二人の遺骨は、長女彗生の遺骨とともに、半分が日本の山口県下関市の中山神社(祭神は浩の曾祖父中山忠光)境内に建立された摂社愛新覚羅社に納骨されています。

浩・慧生の残る半分の遺骨は溥傑の死後、溥傑の遺骨の半分と共に中国妙峰山上空より散骨されたそうです。

次女嫮生(こせい)は日本に留まって日本人と結婚して5人の子をもうけ、2008年現在、兵庫県西宮市在住。


ねずきちには、お二人の数々の苦難を乗り越えた愛が、なにか、ものすごく大切なことを伝えてくれている気がします。

夫である愛心覚羅溥傑と、義兄の愛心覚羅溥儀の二人は、中国に抑留され強制収容所に入れられていた16年の間、両名とも中共によって徹底的な洗脳教育を受けているであろうことは想像に難くないです。

ときの中国は文化大革命まっさかり。

文化大革命という名前こそ立派だけれど、その中身は中国共産党幹部以外のあらゆる権威・・・学校の先生やお医者さん、商店主、政治家、宗教化等々を、ことごとく階級闘争の名のもとに弾圧し、追放し、殺害し、再教育と称して収容所で過酷な思想教育を施した、というものです。

とりわけ溥儀や溥傑は、日本との結びつきが強い皇帝とその弟であり、中共の反日プロパガンタのために、彼ら両名には、およそ人間の知恵で考えられるありとあらゆる弾圧と拷問による思想教育が施されている。

実際、釈放後の溥儀は、反日のための中共のカードとして、利用され続けた。

しかし、と、ねずきちは思うのです。

どんなに過酷な思想的弾圧と思想教育、拷問を施しても、溥傑の妻や子に対する愛までを、中共は奪うことはできなかった。

中国共産党に恐怖するする兄の溥儀は、「日本人の義妹の顔など見たくない」と言って、浩の帰国に猛反対したというけれど、それさえも、溥傑の愛を奪うことはできなかった。

溥傑も、浩も、日本の古い相互信頼主義の教育を受けて育っています。

浩は、溥傑に会って、彗生の遺骨を差し出したとき、「申し訳ございません。。。。」と言って泣いた。

それは、夫に託された子の命を守れなかった。愛する夫の信頼に答えられなかった自分を恥じての言葉であったろうとご推察されます。

そして溥傑も、、「申し訳なかった・・・」と泣き崩れた。

この言葉は、階級闘争主義じゃないです。子を持つ親として子を守ってやることができなかった、子の信頼に答えられなかった自分を恥じての言葉ということができます。

どんなに、どんなに中共が階級闘争主義をあおっても、人の心にある相互信頼の心は、この世が人と人との世の中である限り、絶対に変えることができない真実なのだと、ボクは思う。

なぜなら、相互信頼の心は、一家団欒の心、愛の心でもあるからです。

昨今、日本社会には階級闘争主義がまん延し、部下は上司を、民は官を批判し、批難するばかりで、自らを省みて恥じるということがない、そんな社会へと変貌しつつあります。一家団欒なんてない。

信頼より強圧、信頼より批判、信頼より中傷・・・それが正義と勘違いするヤカラが、ものすごい勢いで増殖しつつある。

それはまるで、映画バイオハザードに出てくるゾンビのようだ。

しかし、そういう批難と中傷と強圧による階級闘争主義というものは、どんなに正義ぶっても、どんなに理論武装(?)しようとも、所詮は、人間を社会を崩壊に導くものでしかない。

人にとってたいせつなことは、愛であり、一家団欒であり、相互信頼であると、今日ご紹介した物語を通じて、ねずきちは強く思うのです。

愛心覚羅溥傑と嵯峨浩に何かを感じた方
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満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟溥傑と妻浩の夫婦愛3/5
「知ってるつもり」で放送された映像です。
かなり偏向した内容もあるのだけれど、
お二人のお写真等が豊富です。1〜5まであります。
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≪台湾≫
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日本の台湾統治の真実
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支那「日本支配工作要領」
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「日本は唯一の被爆国」に隠された嘘
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支那・文化大革命の恐怖
女真族と満洲の話
いまなお続く法輪功弾圧
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カナダの悲劇 中国移民に占拠されたバンクーバー
支那人による日本買占めの恐怖
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≪韓国≫
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民団の驚くべき活動
李氏朝鮮の時代(1)
李氏朝鮮の時代(2)
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関東大震災の記憶
朝鮮進駐軍の非道を忘れるな
李氏朝鮮時代の刑罰
在日朝鮮人
韓国建国の英雄
ダライラマの法話で見た韓国人の民度の低さ

≪その他の国≫
アンコール遺跡とカンボジア
ビルマの近代史
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ハバロフスク事件顛末(1)
ハバロフスク事件顛末(2)
ハバロフスク事件顛末(3)
シベリアのトイレ
ウクライナ物語
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≪メディアの偏向≫
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日本の心をつたえる会
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日本が好きです。ていうか人間が大好きなのかな。心って、ものすごく大きなこともなしとげる。その時代時代に、真剣に生きた人たちから学ぶこと。歴史って、いまを生きる人が過去に学ぶためにあると思う。だから、歴史にIFは禁物だなんて思わない。歴史を学び、もし〜だったらと考えることで、人は何かを感じることができるんだと思う。

政治に混迷が続く中で、もういちど私たちは過去を振り返ってみる必要もあるのではないか。そうすることで、もしかしたら一条の新しい光を見出すことができるのかもしれない。

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