日本に手を出した国は必ず滅びる・・・それが歴史の事実です。 日本は相互信頼主義を根本とする国です。 命をかけて戦った先人たちの努力を見直し、日本の素晴らしさを再認識して、階級闘争主義の汚染から日本を守ろう。

長野の矢崎公二を許すな!あらためて選挙民の正義を問う!

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真実ゆう子さんのブログ「ねぇ、知ってたぁ」の記事を見て驚きました。
http://xianxian8181.blog73.fc2.com/

長野県4区から、民主党公認候補 矢崎公二(やざき こうじ)(衆議院/新人/)が出馬するというのです。

元毎日新聞記者
民主党長野県第4区総支部長

長野日報によると、矢崎公二氏は、民主党県連から次期衆院選長野4区への出馬を要請され、都内で羽田孜党最高顧問に出馬の意向を伝えたところ、「精いっぱい頑張ってほしい」と激励されたという。

と、ここまで書いて、それがどうして「いまあらためて選挙民の正義を問う」ことになるのか、おわかりにならない方もいるかもしれません。

ねずきちが問題としているのは、矢崎氏が、海外に10年間「日本人は性的にヘンタイだ!」という記事を配信してきた毎日新聞デジタルメディア局の責任者であったという事実です。
http://www.info.sophia.ac.jp/sophiaj/jgenzai07/1127.pdf

矢崎公二が、その毎日新聞デジタルメディア局の責任者として、10年間、何をしてきたか。

具体的には以前、毎日新聞英語版のあまりにひどい報道」(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-179.html)で、書かせていただいていますが、あらためて、記述させていただきます。

矢崎氏が責任者を勤めた毎日新聞デジタルメディア局では、インターネットの自社サイトである「毎日新聞英語版」、および、紙媒体の「英字毎日新聞のwaiwai」において、10年間にわたり、日本および日本人に対する誤解を招くような記事を英語で全世界に向けて配信していた。

そこで彼は、いったい何を世界に向けて情報発信してきたか。

記事の内容は、次の動画に詳しいので、まずは、とにかく動画を見てください。

ものすごく見る者に苦痛を与える動画です。
しかし、しっかりと目を見開いて見ていただきたい。

TVでも報道 まだまだ続く毎日新聞問題


報道された中学生との売春買春テク


毎日新聞「女子高生がノーブラに」__「母親がフェラチオ」



いわく、

■多くの日本の女性たちは、自分が必要とされていると感じる風俗嬢になるため、キャリアの仕事を捨てている。
■日本の主婦たちは日常的にコインランドリーに付属のコインシャワーで売春をしている。
■日本の歯科医では、治療室で魅力的な女性が男性患者の性欲を処理している。
■日本の寿司屋では、注文をすれば女性店員が裸になって男性の性欲を満たしてくれる。
■日本の街中は、道行く女性たちが陰部に装着したバイブレーターの騒音でいつも賑やかだ。。。

他にも・・・

■日本人は食事の前にその材料となる動物を獣姦する。
■日本の母親は息子の成績のために息子の性処理をする。
■日本の漁師は海でマンタとセックスをしている。
■日本では性を売る50〜70代の年配の女性が増えている。
■日本のファーストフードは女子高生たちを性的狂乱におとしいれる。

当然のことながら、わたしは日本の女性がこのようなふしだらな女性であるとは思いません。いまこれを読まれているあなたも、そうだろうと思います。

ところが矢崎公二という男は、毎日JPマルチメディア局の責任者として、それがあたかも日本の女性の日常かつ一般的姿として、10年の長きにわたり情報発信し続けてきた。

おととしの暮れから去年の春にかけて、このことがインターネットで問題になりました。
そして去年の6月、毎日新聞社は、約一か月の調査の後、4名の役員の役員報酬を20%(1カ月だけ)カット、社員数名を処分したと報道した。

ところがその月の30日に行われた毎日新聞社株主総会では、問題を起こした関連役員が全員昇格または留任。英語版の担当常務は、なんと代表取締役に昇進した。

そして今度は、この英語版の総プロデューサーだった矢崎公二が、衆院選に出馬する。

ありえなくないですか?

キリスト教やイスラム文化圏では、性的にふしだらな人間は品格が劣り人間としての価値、もっというと「命の価値」すら、軽んじられる。
性に対する道徳観は、日本人の比ではない。

そういう文化圏に向けて、上記のような変態報道を10年も続けてきた人物が、日本を代表する衆議院義委員に立候補する。

ふしだらな国は、ソドムであり、ゴモラであり、人類から国ごと抹殺しても構わない対象とされるのが、キリスト教文化圏の考え方です。
ユダヤ人は、シオン議定書というでっちあげの議定で、実際に大虐殺・ホロコーストの憂き目にあっている。

日本がそうならないという保証など、世界のどこにもないのです。
実際、街ゆく若い女性の姿をみてください。
外国人の目から見たら、売春婦とみまごうばかりの服装の女性が、最近、とみに増えている。
服装は個人の自由・・・それもよいでしょう。

しかし、その一方で、上述のような記事が海外に向けて英語で垂れ流されたら、世界の人々は、日本人というものをどうみるか。

そしてそれを行った人物が、国民を代表する国会議員となり、しかもその所属政党が仮に政権与党にでなったら、世界は、日本をどうみるか。

韓国や中国が、いらぬおせわの日本民族劣等論を世界で声高に宣伝している中で、日本の大手新聞社が、わざわざご丁寧に英文で、日本民族劣悪論を書きたてれば、それがすべて、事実であるという誤認を世界に対して与えてしまう。いや、現に与えてしまっている。

実際、以下のような投稿もありました。

<引用>---------------------------------
仕事でイタリアに赴任していた時、The REALっていうテレビ番組で日本の受験生に、スケスケ下着でお夜食持って行く母親っていう再現VTRが流れた。
まだ子供が、新しい環境に慣れていなくて学校の成績が悪く、他の子供の親に
「お前の奥さん、もうちょっとエロい下着を着けたほうがいいんじゃない?」・・・って言われて絶句したことがある。
なんせ番組名がThe REALだもんな。
嫁さんは、その日、一人で泣いてた。
「他の親ごさん達に、そんな風に見られてたなんて」ってさ。
結局、嫁さんと子供達は、日本に帰ったよ。
俺達の家族を、バラバラにしやがって。
ネタをネタと見分けるスベのない、日本から遠い国である程(←ここ重要)ちゃんとあれはウソでしたって言ってほしい。処分は当たり前だが、垂れ流しっぱにしたデマを、払拭するフォローをしろよ。こんな屈辱的な目で家族が見られるのは沢山だ。
先週、日本に帰ってきてからこの騒動を知ったんです。
海の向こうじゃ、未だにずっと偏見、好奇の目で見られっぱなしですよ。
どうか毎日新聞さん、こんな家族をつくらないために、海外でのフォローをお願いします。


スコットランド・♪ナカムラが俺の犬喰った〜〜〜♪
【毎日新聞】ネット上に変態報道の処分と無関係の社員を誹謗中傷する書き込み→名誉棄損で法的措置を取る方針★36
六本木の獣姦レストランの記事にはこんなことも書いてあるみたいだよ。
Incidentally, prices range from 200,000 yen to 500,000 yen for a chicken, dogs cost somewhere between 300,000 yen and 800,000 yen, ← ここ注目 !!
while pigs and goats start at around 800,000 yen. Charges are higher depending on whether the creature is female and how active it is.
"The owner says he is prepared to cook up any kind of animal at all," M tells Jitsuwa Knuckles. "He even said he'd prepare elephants ... but I think he might have been joking about that." (By Ryann Connell)
毎日新聞は「日本人は犬を食う」と触れ回っていたんだな!笑!
中村俊介がスコットランドで
♪ナカムラが俺の犬喰った〜〜〜♪
って馬鹿にされてたのはこれが原因か。
----------------------------------------------

昨年公開された映画「バベル」で、日本人女性が部屋で全裸になるシーンがありましたが、そのシーンも、この毎日新聞英語版の記事が影響を与えていたという話もある。

ねずきちはみなさんに問いたいのです。

日本人女性について、毎日JPが垂れ流した報道は、ほんとのことですか?
どこのご家庭でも、そのようなふしだらな事柄が日常的に行われているのですか?

そうでないなら、そのような報道は、ウソ偽りです。

では、そういうウソやいつわりを海外に宣伝し続けた人物が、国会議員になることに、ついては、いかがお考えになりますか?

そういう人物を、日本を代表する衆議院議員にするのですか?

そういう人物に、投票するのですか?

矢崎公二の出馬は、長野4区です。
長野4区は、岡谷市・諏訪市・茅野市・塩尻市・諏訪郡下諏訪町・富士見町・原村・木曽郡上松町・木曽町・南木曽町・王滝村・大桑村・木祖村です。

そこに住むみなさん。
もし、矢崎のような人物が当選するようなら、ボクは、一生、長野4区に住む選挙民のみなさんを軽蔑します。

もうひとつ言います。

こういういかがわしい人物を党の公認候補に選ぶ民主党って、いったいどういう政党なのですか?

民主党は、こういういかがわしい人物を党の公認候補に仕立てて、いったい日本をどういう国にしたいというのでしょう。

そういう政党に、あなた方選挙民は投票するのですか?

他にもいます。

在日韓国人民団の白 真勲(民主党)。
韓国の反日デモに参加する岡崎トミ子(民主党)

そして民主党の後援団体は、自治労、日教組、部落解放同盟、民団等々です。


先日来、ボクはこのブログで、大東亜戦争で散っていかれた多くの先人達の、命をかけた戦いについて、いろいろな側面から記事を書かせていただきました。

我々と血の繋がった先人達が、命をかけて戦い、守りぬいた日本。

その日本を、かかる矢崎公二のような人物や、そういういかがわしい人物を公認候補にするようなとんでもない政党に委ねるのですか?

ボクはね、必ずしも自民党がいいとは思いません。
一昨日、LAYさんがコメントして下さったとおり、自民党もどうしようもない政党だと思う。
今回の鳩山総務相の事件にしても、おそらくは自民内部で、「鳩山総務相擁護なら党を割るぞ」という圧力が麻生さんにあったのだろうと思うけれど、筋を通そうとした鳩山氏を斬ることで、自民内部の亀裂が起れば、喜ぶのは民主党だ。

しかし、その“民主党は、あまりにも危険すぎる”といいたい。

すくなくとも、日本女性を世界に向けて貶め続けた矢崎のような人物が、候補者として採用するような政党が、ボクにはまともな政党には思えない。

もちろん、民主党の中にも、まともな人はいることでしょう。
同様に自民の中にも、まともな人はいる。

本音をいえば、国を思う真正保守による政権第一党の誕生を望みます。
しかし、いまの時点では、差し迫った衆院選には、間に合わない。

だからこそ思うのです。
日本は、主権在民の国だと。

間違っても、主権政党の国家ではない。
我々自身が主権者だ。

その主権者である我々は、しっかりと、ほんとうにしっかりと候補者を見極めないと、日本は、ほんとうに取り返しのつかないことになる。

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442部隊に学ぶ

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442部隊

手取側さんに触発されて、今日は442部隊のお話です。

正式名称は、第442連隊戦闘団(英:442nd Regimental Combat Team)。

第二次世界大戦中の米国陸軍において、日系アメリカ人のみで編成された部隊です。

部隊の要員数は、3,800名。

ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘し、のべ死傷者数9,486人という激闘をし、米国史上、もっとも多くの勲章を受けた部隊です。

このお話には、前段があります。

そのお話は、以前、「アロハ・オエ」(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-406.html)で書かせていただきました。

要約すると、ハワイ王国が滅亡の危機に瀕したとき、ハワイ国王の要請で、1885年、日本人25,000人がハワイに入植した。
当時、ハワイの人口が、わずか57,000人に減少したなかでの出来事です。

その日系人たちが、二世・三世となった1941年12月、日本と米国は戦争に突入します。

米国は、1942年2月には、アメリカ西海岸に居住していた日系人約12万人の全財産を没収。日系人全員を強制収容所に強制収容した。

当時の日本の戦争目的は、「人種差別の撤廃」です。
アメリカでの日系人強制収容は、当然、米国の横暴の典型となる。

日本は、世界に向けて、米国の日系人財産没収と強制収用を糾弾します。

このため、アメリカは、それにたいする反撥として、日系人による戦闘部隊の編成を決定します。

1943年2月、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始まりました。

部隊名は第442連隊。

歩兵連隊である第442連隊を中核に、砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団です。

募集と同時に、募集定員1,500人の6倍以上の志願が殺到した。そこで急きょ定員が1,000人増やされ、442部隊は、3800名の連隊となった。

1943年9月、442部隊はイタリアのサレルノに上陸。29日にはドイツ軍と遭遇し、初の戦死者を出した。

1944年1月から2月にかけて、ドイツ軍の防衛線「グスタフ・ライン」の攻防。

1944年5月の、ローマ南方の防衛線「カエサル・ライン」の突破。
ローマへの進撃の途上で激戦地モンテ・カッシーノでの戦闘にも従事。

442部隊は、多大な犠牲を払いながらローマを目指します。

ところが連戦に次ぐ連戦で、多大な犠牲を払いながらいよいよローマに入場となったとき、442部隊に停止命令が出されます。

そして、後からやってきた白人部隊がローマに入城。
ローマ解放の栄誉を手にします。

1944年9月、442部隊はフランスへ移動します。

10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦闘。

10月には、ブリュイエールの街を攻ブリュイエールの町の通りに、「第442連隊通り」という名称がつけられています。

1944年10月、米国第34師団テキサス州兵によって編成されていたテキサス大隊が、ドイツ軍に包囲されるという事件が起きた。

テキサス大隊は“救出困難”とされ、「失われた大隊」 (Lost battalion) とまで呼ばれていた。
そのテキサス大隊救出命令が、442部隊に下されます。
命令はなんと、フランクリン・ルーズベルト大統領自身からの救出命令です。

442部隊は、休養も不十分なまま、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げます。

一週間の激戦の末、442部隊は、ついにテキサス大隊を救出することに成功します。

逸話があります。

救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだ。
このとき、テキサス大隊のバーンズ少佐が、
「ジャップ部隊なのか」と言った。

442部隊の一少尉が怒ります。

「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」

少佐は謝罪して敬礼したといいます。


この作戦の2週間後の逸話があります。

11月11日の第一次世界大戦休戦記念日に、ダールキスト米陸軍少将が442部隊を閲兵します。
集合した戦闘団を見て、ダールキスト少将が不機嫌になります。

「部隊全員を整列させろといったはずだ。」

442部隊の連隊長代理が答えます。

「目の前に並ぶ兵が全員です・・・」

442部隊は、211名のテキサス大隊奪還作戦で、約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたたのです。

この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられています。

再編成を行った第442部隊は、ドイツへと移動します。

442部隊は、ドイツ軍との戦闘のすえ、ミュンヘン近郊・ダッハウの強制収容所の解放を行いました。
しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は 1992年 まで公にされることはなかったのです。

ヨーロッパ戦線に投入された442部隊は、その活動期間と規模に比して、アメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊となりました。
特にその負傷者の多さから、名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)とまで呼ばれた。部隊は総計で18,000近くの勲章や賞を受けています。

こうした輝かしい武功をあげながら、第二次世界大戦終了後も、アメリカ白人の日系人に対する人種差別は変わることがなかったといいます。

442部隊解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちを待っていたのは
「ジャップを許すな」
「ジャップおことわり」
といったアメリカ人たちの冷たい言葉であり、激しい偏見によって復員兵たちは仕事につくこともできず、財産や家も失われたままの状態に置かれました。

このような反日系人的な世論が変化するのは1960年代です。

1960年代のアメリカにおける人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになった。

日系人には3つのイメージで語られます。

1 きれい好き
2 礼儀ただしく約束を守る
3 442部隊の勇猛さ

ジャパンタウンは、とても清潔です。このことは、米国社会において、他のタウンと比較してもきわめて特徴的といわれています。
実際、黒人街は汚い(涙)。
米国に行くと、よく「黒人お断り」というレストラン等を目にしますが、実際、彼らは、シャワーを浴びないせいか、かなりにおうことが多々あります。
上品なレストランでは、ホームレスのようなすさまじいニオイの客がはいってきたら、やはり、困る。
黒人差別というけれど、やはり、彼らの側にも何らかの反省点はあるような気がします。

また中華街は、中華街は独自性が濃厚すぎて白人社会に受け入れられない。
コリアタウンは、凶暴で危ない。

442部隊は、第二次大戦後、1946年にいったん解体されます。

しかし1968年、ベトナム戦争が起こると、1968年には再編され、ベトナム出兵を行っています。

2005年3月には、ハワイ州兵大隊の一つとして、イラクにおける任務につき、2006年には帰還しています。

古代、都市国家形成からスタートしたヨーロッパ、アメリカの文化には、古くからのひとつの大原則があります。

それは、

「市民を守るために戦うものにのみ市民権はあたえられる」

というものです。

ここでいう市民とは、都市国家市民であり、現代社会では転じて、国家を指します。

つまり、自国を守る者にのみ、国民としての権利が与えられるのです。

言い換えれば、日本に住み、日本の憲法や慣習を大事にし、そして日本を守るために戦う者こそが日本国民、なのです。

他国の憲法を遵守し日本の法と秩序に従わず、その他国の徴兵にすら応じないような者は、少なくとも日本の国民ではないし、また彼らの国の国民ともえいない。
■参照:「警戒」を「差別」とすり替える在日朝鮮人
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-526.html

そしてそういう連中に安易に国籍を与えるなどという意見を持つ者は、悪いけれど国賊以外のなにものでもない。

もし、在日外国人が日本での市民権(国民権)を得たいなら、彼らは、日本人以上に日本のために戦わなければならない。それもできずに、「差別」がどうのとか、図々しいにもほどがある。


それから、もうひとつ。

激戦を戦い抜いた日系アメリカ人たちは、もちろん米国軍人として戦いました。
同時に、彼らひとりひとりの心の内に、「人種差別撤廃のために戦う」という、日本人としての熱い誇りと自覚があったことを忘れてはならないと思います。

なぜなら彼らは、そのために命を燃やし、米国陸軍史上、最大の名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)の称号を得ている。

そして彼らは、いまも、戦地で戦い続けているのです。

442部隊の叙勲・・・・

○名誉勲章(議会栄誉章)
アメリカ軍における最高の栄誉。セラヴェッツァ近郊での戦いで数々の殊勲をあげ、1945年4月5日に友軍をまもるために、投げ込まれた手榴弾の上に自らの体を投げ出して戦死したサダオ・ムネモリ上等兵が受章。
第2次世界大戦における名誉勲章の授与数は464。
そのうち殊勲十字章から格上げされた20とあわせた21の名誉勲章が442連隊に与えられている。

○陸軍殊勲十字章 52
このうちの20に関しては、2000年6月に再調査の上で名誉勲章に格上。

○銀星章 560
複数回獲得を表す樫葉の追加28。

○勲功章 22
○陸軍軍人章 15
○銅星章 4000+樫葉追加が1200。
○名誉戦傷章 9486
○大統領部隊感状 7枚
第442連隊としては7枚目となる「大統領部隊感状」は、トルーマン大統領が自らの手で連隊旗に括り付けた。
これは合衆国陸軍では初めての出来事です。
7枚という数字は合衆国陸軍の最多受賞部隊でもあります。

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1942-43 Japanese Relocation and the 442nd Regiment in Color

心に響く明治天皇の御歌

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明治天皇御百首


「明治天皇御百首」という本があります。

この本、なんと大坂毎日新聞社が出版している。大正12年のことです。

「なんと」と書いたのは、戦後・・・とくに最近の毎日新聞社の売国偏向があまりに著しいからです。
(参照:毎日新聞の偏向:http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-179.html)

そのことはさておき、五七五七七の31文字をきちんと踏まえられた明治天皇の御歌は、非常に格調が高く、内容が濃く、美しい。

しかも明治天皇が残された御歌は、実に九万首余にのぼります。

陛下は、「人の心の誠は、敷島の道の言の葉、即ち歌にあらはれる」と仰せられたそうです。

その陛下の、国を思い国民を思いたもうた大御心の御歌は、そのまま日本人の、倫理観や、終身、鍛錬の御歌でもある。

ここで、100首すべてをご紹介するわけにはいきませんが、その素晴らしい御歌のいくつかをご紹介したいと思います。

注釈はボクが勝手につけています。間違っていたらごめんなさい。
-------------------------------

よもの海 みなはらからと 思ふ世に
    など波風の たちさわぐらむ


めっちゃ有名な御歌です。世界はみな血の繋がった兄弟と思うのに、どうして波風がたつのだろうか、の御意と拝せます。
明治という国家を築きあげ、さらに世界から人種差別を撤廃しようと生涯を戦われた陛下の御心を端的にあらわした一首だと思います。

目に見えぬ かみの心に 通ふこそ
   ひとの心の まことなりけれ


神のお姿は見えないし、お口もきいて下さらないけれど、そのお心にかなうように生きることが、人の心の誠というものなのです、という御意と拝せます。
どうも、戦後の哲学なき個人主義というものは、人に迷惑さえかけなければ、自分はなにをやってもいい、というように解されている。このこと、人に知られなければ、なにを悪さしてもよい、というように転じていく。
そうではなく、人がみていなくても、日本という国の共同体の一員として、ただしく立派に生きていくことのほうが、よほど大切なことだと、思います。


まごころを 歌ひあげたる 言の葉は
ひとたびきけば わすれざりけり

 
真情を言ひあらわした歌は、一度耳にすれば、その真情に感じて、二度と忘れることはいという意に拝せます。


かぎりなき 世に残さむと 国の為
たふれし人の 名をぞとどむる

 
世の果てまでも国に尽くした英霊の名を書き止めよ、との御意の御歌と拝せます。
自虐史観など、英霊に対する冒涜以外のなにものでもないし、先の戦争でなくなられた英霊に対するいまの我々の姿勢は、ほんとうにこれでよいのでしょうか。
昨日紹介した硫黄島では、いまだ幾万の英霊の遺骨が放置されている。
 

いかならむ ことにあひても たゆまぬは
        わがしき しまの大和魂

 
いかなる大事にあっても屈せない心が、日本の大和魂です。
その大和魂は、現代日本人の奥底に、必ず眠っている。
日本は、封印されたその大和心を、いまこそ解き放つべきときにきているのかもしれません。


敷島の 大和心の ををしさは
  事ある時ぞ あらはれにける

 
日本人の雄々しい大和魂は、平生はあらわれなくも、一朝事のある時には、決然としてあらわれるのです。

------------------------------

すみません><
なにやら、選歌が血の気の多いものになってしまいました^^;

しかし、思うのです。

日本人は、もっと日本をたいせつにしなければならない。
そのたいせつにしなければならない、最大のものこそ、日本人の心なのではないか。
そんな気がします。

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【外交史】 日本の外交・明治編 Part.1

硫黄島の星条旗と日章旗

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硫黄島の戦いは1945年2月16日 - 1945年3月26日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間に生じた戦闘です。

日本軍は、20,933名の守備兵力のうち20,129名までが戦死した。

アメリカ軍は、戦死 6,821名、戦傷20,1865名。

大東亜戦争後期の島嶼での戦闘において、アメリカ軍地上部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が、日本軍を上回った壮絶な戦いでもあります。

第二次世界大戦中にアメリカ海兵隊に与えられた名誉勲章の実に4分の1以上は、硫黄島侵攻部隊のために与えられた。

米海軍は、いくつかの艦船に「イオー・ジマ」と命名もしている。

大戦後に制定されたアメリカ海兵隊記念日は、硫黄島の戦いにおいて、同島の擂鉢山に星条旗を立てた日でもあります。

そして戦没者を弔う米アーリントン国立墓地の近くに位置するアメリカ海兵隊戦争記念碑は、硫黄島の戦いで掲げられた星条旗をかたどったものでとなっています。

硫黄島の星条旗と日章旗
当時、全米で新聞紙上を飾った硫黄島の戦いを象徴する一枚の写真


この戦いについては、クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」という映画にも描かれましたし、戦いの詳細についてはWikipediaの“硫黄島の戦い”でも、詳しく知ることができます。
■硫黄島の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

今日書くのは、この写真の星条旗を立てるのに使われている“棒”のように見えるもののことです。

硫黄島は、その字のごとく、島全体に硫黄が噴き出す島です。
地下壕内の温度は、摂氏50度に達するところもあったという。

その地下壕内に水はなく、雨水を引き込むためにパイプが使われていた。

その雨水を地下壕に引き込むためのパイプが、写真に写っている旗を掲げるためのポールです。

掲げられた星条旗は、いったん掲揚されたあと、あらためて大型の星条旗を掲げられた。

AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールが写したその写真は、同年のピューリッツァー賞(写真部門)を受賞しています。

そして、実は創立以来常にその存在意義が問われ続けていたアメリカ海兵隊は、この写真によって水陸両用作戦のプロとしての存在を広く世界へ向けて示しました。

この光景を目撃したフォレスタル海軍長官は「これで海兵隊も500年は安泰だな。」と語ったといいます。

この旗について、映画に出てこなかった実話があります。

実は、米軍が擂鉢山に星条旗を掲げた翌日、摺鉢山守備隊の日本兵がこれを奪還して、日章旗を掲げていた。
 
米軍は、この日章旗を引きずり下ろし、火炎放射器で焼いたそうです。

そして、かなり時間をかけて、次の星条旗を掲げた。

更に、何と、この二度目の星条旗も、日本側の守備隊は奪い取った。

そして今度は、やや赤茶けた色の日の丸の旗が掲げられた。

その日の丸は、擂鉢山守備隊の日本兵が、日のところを、血で染めて作ったものだったそうです。

この旗も、三度、星条旗に変わり、その後、日章旗に戻ることはなかった。


このときの様子を、当時17歳の通信兵だった秋草鶴次さんが手記に記しています。
(「17歳の硫黄島」秋草鶴次著)

米軍は、上陸5日目に、硫黄島南端の摺鉢山に星条旗を掲揚した。

秋草通信兵はそのとき、島の周囲に展開する米側の艦船群から汽笛が鳴らされ、上陸していた多数の米将兵から一斉に歓声が上がり、口笛が吹かれるのを聞いています。
大変、賑やかであったようです。 

その翌日、秋草通信兵は、摺鉢山の頂上に今度は日章旗がへんぽんと翻っているのを見た。

「守備隊は頑張ってるな」と、思わず感涙にむせんだと記しています。

手記によると、日本兵が立てこもる地下壕の中は、凄惨を極めた。

水も食料もなく、蚤や虱は追っ払うのでなく、捕まえ、つぶして食べたと言います。

傷口が化膿してウジ虫がわいてきますが、それも口に入れます。
噛んで汁を吸い、ついで皮を噛み砕こうとしますが、これが意外と堅かったという。

また、実家で豚に炭の餌に混ぜていたことを思い出し、炭も口にした。

壕の中は、息苦しく、ありとあらゆる不快な臭いに充ち満ちていたそうです。
天然の硫黄臭、排泄物や死臭はもとより、流れ出た血の腐臭など、耐え難いものだった。

死体からは燐が流出し、浮遊しながら、あちこちで燃えていたそうです。
著者は書いていませんが、これが、ひとだまと呼ばれてきたものなのでしょうか。

大怪我をしていた秋草通信兵は、まどろみ、もうろうとなり、三途の川らしき光景に身を置くところまで見たと言います。

敗色濃厚となった頃、米軍から投降の呼びかけがあったそうです。

既に捕虜となっていた日本兵が「戦争は終わった。米軍は安全を保証する。心配ない。みんな安心して出てきてくれ。」と放送して回ったりもした。
しかし日本兵は誰も応じなかった。


日本兵は、なぜそうまでして戦ったのでしょうか。


硫黄島の戦いのあった前年(1944年)夏、アメリカ軍はサイパン島を攻略し、11月からB-29による日本本土への長距離爆撃を開始しました。

サイパンと日本本土のちょうど中間地点にある硫黄島は、日本本土へ向かうB-29を見張り、無線で報告する早期警戒システムの索敵拠点として機能していました。

日本軍は戦闘機をB-29の迎撃に向かわせることができた。

日本軍の爆撃機飛龍や銀河・一式陸攻が硫黄島を経由してマリアナ諸島にあるB-29の基地を急襲し、地上のB-29に損害を与えてもいた。

とりわけ、12月には硫黄島を飛び立った零戦隊「第一御楯特別攻撃隊」の機銃掃射によって、サイパンのイスレイフィールド・アスリート両飛行場で11機のB-29を破壊し、8機に大きな損害を与えてもいます。

加えて、グアム、サイパンからの出撃では、距離の関係上、米軍は護衛戦闘機を随伴させることができない。
さらに日本上空で損傷を受けたり故障したB-29がマリアナ諸島までたどり着けず海上に不時着することも多かった。

アメリカ統合作戦本部は、

1 日本軍航空機の攻撃基地の撃滅
2 日本軍の早期警報システムの破壊
3 硫黄島を避けることによる爆撃機の航法上のロスの解消
4 損傷爆撃機の中間着陸場の確保
5 長距離護衛戦闘機の基地の確保

等を目的として、硫黄島の占領を決定します。

このことは、日本からすると、硫黄島を死守することは、上記の目的の裏返し・・・を達成することにもつながる。

しかし、敗色濃厚となり、すでに制空権、制海権を奪われた日本軍にとって、硫黄島への補給は困難を極めた。
硫黄島が長く持ちこたえることができないことは明白だった。この戦いははじめから玉砕戦だった。

しかし硫黄島守備隊は、上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をしていた。

いちにちでも多く硫黄島を守り抜けば、それだけ日本本土にいる多くの人々が、疎開できる。

いちにちでも多くの日を稼げば、多くの日本人が、ひつつでも多くの防空壕を作ることができる。すこしでも深く防空壕を掘ることができる。

そのための石杖となろう。その決意と覚悟で、2万人の硫黄島守備隊は決死の戦いに臨んだ。

ペリリューの戦いでは、日本軍は地下陣地を活用して長期の抵抗に成功しています。

栗林中将率いる硫黄島守備隊は、この戦術をさらに発展させ、地下陣地による持久抵抗によって、いちにでも長く敵を硫黄島に踏みとどまらせ、上陸部隊をすり減らすことを狙った。

実際、硫黄島を奪われたあとの日本本土へのB−29による空襲爆撃では、東京だけでも、死者83,793人、負傷者40,918人、被災者1,008,005人、被災家屋268,358戸(警察庁調べ)の被害を出している。

東京一面を焼け野原にした東京大空襲による死者、負傷者の数が被災者数に対して意外とすくないのは、硫黄島守備隊が、およそ1か月半にわたる長く苦しい戦いを戦い抜いてくれたおかげで、それだけ多くの人が疎開や、防空壕の政策・強化を行うことができたおかげということができます。

もし、疎開がまだ十分に進まない状況下で本土空襲が始まっていたら、どれだけ多くの民間人が亡くなったか。おそらく東京だけでも100万人以上の死者が出たのではないか。

それを考えたら、生き残った日本人の子である我々は、硫黄島で散って行かれた将兵の方々に、心から感謝しなければならない。それは人として、当然のことなのではないか、ねずきちには、そう思えます。

秋草さんは、
「死んで行った戦友に、この六十年戦争が無かったんだから、その死は無意味ではない。そう言ってやりたい」との趣旨を語られているそうです。

ねずきちは、戦争は反対です。戦争を賛美するつもりもない。
ボク自身、自分のからだにわいたウジ虫など、食べたくもない。

しかし、そうまでして我々の祖先が守り抜いてくれたこの日本という国を、わけのわからない「友愛」などというきれいごとで、他国に売り渡すようなマネだけは、絶対に許せない。

他国と仲良くすることは、大いに結構です。
外国人がたくさん日本列島にやってくることも、結構なことだ。

しかし、日本を攻撃し、日本の文化を破壊し、日本の奴隷化を目論むような、とんでもない連中を日本に引き込むことは、家の中にあえて強盗を招き入れるようなものなのではないか?

実際、東トルキスタンや、ネパールで何が行われたか。

反日教育を受けた半島人が、現にいま日本で何をやっているか。

在日韓国人の魯漢圭は、在日韓国人のための民団の新聞にこう書いている。

「もはや裏社会は我々(在日韓国人)が制圧した。その暴力と経済力を背景に日本の政官財界を侵略する。60万在日の経済力は日本経済の2割に相当し、それは実に韓国の経済力の2倍という凄まじい物だ。
経済力に加え、地方参政権によって政治力も手に入れ、やがては軍事力も手にした日には完全に日本から独立した、世界で最も豊かな国家を手に入れることが出来る。
もはや完全に在日の奴隷状態の日本人には、在日国家の軍門に下って貰うことになる。
こうして、在日朝鮮民族はアジアの頂点に立つことが可能となり、半島と日本を実質支配する」

ひとりでも多くの日本人を守るために、自分のからだにわいたウジ虫まで食べて戦い、玉砕し、散っていった日本人達がいた。

そうやって、まさに命がけで守って出さった英霊たちのおかげで、いま、われわれは、こうして生きている。
その命を、その日本を、いまを生きるわれわれ日本人は、もっと大切にしなければならないのではないか。
ねずきちは、そう思うのです。


擂鉢山に立てられた星条旗。

これを奪還して、自分たちの血で染めた日章旗を立てた、名もなき日本の一兵士。
彼らの思いを、彼らの誇りを、彼らの血を、我々日本人は、決してわすれてはいけない。
そう思うのです。

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Battle of Iwo Jima 硫黄島の戦い

在日朝鮮人は「警戒」を「差別」にすり替える

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5月23日、韓国の聯合ニュースは、韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領が登山に同行した警護要員を押しのけるようにして投身自殺を図ったと報じました。

24日、韓国政府は臨時閣議を開き、前日に自殺した盧武鉉前大統領の葬儀を、哀悼と敬意を表するため国葬に次ぐ国民葬で執り行うことを決めました。

韓国でいう国民葬というのは、葬式期間が最大7日間。葬式費用の一部が国庫負担となるものです。

前職大統領の韓国国民葬は、2006年10月に死亡した崔圭夏氏に次いで2人目だった。

ノムヒョン国葬
盧武鉉前大統領の国民葬
弔問の群衆で埋め尽くされたソウルの斎場


さて、その盧武鉉前大統領が生前残した言葉に、次のようなものがあります。

「韓国戦争から逃げた連中が、祖国統一を口にするのはおかしな話だ。
日本には弾は飛んでこないだろう。
僑胞(在日韓国人)にそんなことを言う資格などない。」

「私は僑胞の連中を信用などしていない。
徴兵の義務を負わないくせに韓国人を名乗り、日本の選挙権を求める。
馬鹿げていないか。
つまりは、いいとこどりではないか。」

「私たちが苦しい思いをしていた頃、僑胞の連中は私たちよりいい暮らしを日本でしていたのだ。」

「僑胞は僑胞だ。韓国人ではない。」

・・・

在日韓国人の皆さんは、自分たちは戦前、日本政府によって無理やり強制連行されてきた被害者である、と主張されます。

北朝鮮に無理やり拉致された日本人について、日本に住む日本人の多くは、拉致被害者の一日もはやい帰還を、みんな祈っています。それが普通の国民感情です。
自国の民が拉致されたのなら、その国の大統領は拉致被害者の帰還を喜ぶはずです。

にも関わらず、韓国民から圧倒的な支持を集めた盧武鉉元大統領は、在日韓国人に対し、上述のような発言をしています。

なぜでしょう?

一般的に、戦前の法律である国家総動員法によって、多くの朝鮮の方々が連れてこられたとされています。

事実、国家総動員法を根拠にした国民徴用令などによって、多くの朝鮮人の方が日本工業の基盤となる各種業務をこなしてくれていました。

しかし、この法律によって来日していただいた朝鮮人の方々は、実は戦争が終わると故郷へと帰っているという事実が、意外にも現代では無視されています。


帝国政府は、日本の為に働いてもらった朝鮮人の方々を放置する事なく、その責任を以て帰郷の事業を開始しました。

その過程で発生した最も有名な事件が「浮島丸事件」と呼ばれるものです。

終戦直後の昭和20年8月24日、京都府舞鶴港で日本海軍の輸送艦「浮島丸」が米軍の設置した機雷に接触し撃沈され、乗員乗客ら500名以上が死亡した事件がありました。

この輸送艦の乗客は朝鮮人の方々です。

というのも、日本政府は8月21日の次官級会議で、日本の為に協力してくれた朝鮮人達の帰郷方針を決定し、22日には専門委員会を発足させていました。

浮島丸事件は、その過程で発生した痛ましい事件です。
まだ戦闘終結直後であり、米軍の敷設した各種機雷が依然として海上を漂っていたため、それに触雷しての結果でした。

そして、この事件から考察できる史実は「日本政府は朝鮮人の方々を帰郷させていた」という事実です。


日本政府は、朝鮮半島から来ていただいていた朝鮮人の方々を、じつは、戦争が終わると全員帰郷できるよう、旅費やその他全ての経費を政府が負担した上で、責任をもって送迎している。

戦争が終わった後、朝鮮人の方々は「半島に帰るか、それとも日本にとどまるか」という選択肢を選ぶことになった。

故郷に帰りたい者は帰郷し、既に日本で事業に成功して財産を蓄え或いは家族をつくった人達は、自分の意志で日本にとどまることを決意した。

明治40年の日韓併合条約締結以後、日本の内務省によって朝鮮人の日本移住が許可されました。

その直後、朝鮮半島と日本本土の経済落差から出稼ぎ労働の憧れの対象となり、昭和5年には298,091人の朝鮮人が移住してきています。

昭和10年には62万人もの朝鮮人が日本へ移住。。。


国民徴用令がだされたのは昭和14年です。当時の移住者は「強制」とは全く関係の無い人達だという事がわかります。

現在、朝鮮半島に住む韓国人の方は、日本国内に住む在日韓国人へ対して、多かれ少なかれ一定の感情を持っているといいます。

それは、同じ韓国民でありながら、韓国軍への徴兵がない等、顕著な行政上の差別があるからです。

そして、「なぜ同胞なのに差別を?」という疑問の答えは、
「強制的に連れてこられてそのまま帰れないでいる」ということに対してではなく、

「日本住む在日韓国人は、自分の意志で朝鮮半島を捨てて日本に住むこと決意した」

という歴史的背景によるものだという点にあります。

ちなみに、国民徴用令は大東亜戦争開戦前の1939年に施行されましたが、朝鮮半島での施行は、戦争末期の1944年です。

日本のにいる在日朝鮮人への徴兵も1944年からです。

当時の状況は、日本人ならば主婦や学生までが総動員態勢で工業生産に従事していました。

当時は同じ日本国民と認識された朝鮮人だけが、何もせずに遊んでいなけれはならないという理由はありません。
むしろ、その方が差別だし、悪質だ。

当時の日本人は朝鮮人を差別する事なく日本人と同等に扱うため、日本人と全く同じ「強制」という行政を執ったのだと思います。

ですからむしろ「朝鮮人だけ強制をするな」という主張のほうが、
「朝鮮人は無能だから仕事もできないので強制する必要性もない」という、極めて悪質な人種差別・朝鮮人差別的発言であろうかと思われます。

戦前の日本では、朝鮮は日本の一地方という認識がありました。同じ日本という国の一部だった。

ではなぜ、半島に住む韓国の人々が、在日韓国人の人を蔑む発言をするのか。

実は、現在日本に住む在日韓国人の多くが日本に来日してきた時期は、朝鮮戦争(1950年〜)の時期とほぼ一致しています。

朝鮮半島では、新しくできた韓国を守ろうと多くの人達が必死に戦いました。

その中で、「戦うのは嫌だ」と日本へ避難してきた朝鮮の人達が存在します。

この行動が、現在も根強く残る朝鮮半島内の在日者に対する差別の根拠となっている。

自分たちが必死に戦って守った国が平和になったら、のこのこやってきて、自分たちも韓国人であると主張する。

半島に住む人々が、「なんなんだ、おまえら!」という気持ちになっても、なんら不思議はありません。

「他のみんなが頑張っているのに、自分だけは楽をしたい」

この精神性を持つ人達が朝鮮戦争のさなか、祖国を裏切って戦後に来日し、現在も在日朝鮮人としての身分を得ている。

在日朝鮮人が本国に帰国すると、「差別」をうけるといいますが、ある意味、それは当然といえようかと思います。

そして、このような「自分さえよければ良い」という考えの持ち主が、現代では国民年金を払っていないにもかかわらず、年金の支給を要求したりする一部の在日朝鮮人達の思考形態へと派生しているのではないでしょうか。在日朝鮮人の中には税金すら払わない人達がいます。

自分に都合の悪い事が起きれば、

「私たちは強制的に連れてこられたんだ」

の一点張りをし、全ての責任追及を回避しようとする。
こうした姿勢も、「朝鮮人だから」ということではなく、そういう精神性の持ち主達の集まりだから、ということに起因するように思えます。

ちなみに、戦後の在日韓国人の方の戸籍は、大半が役所に存在しないか、あるいは男が女だったり、兄弟が夫婦だったりと間違った登録がされています。

理由は、朝鮮戦争当時に密入国してきた為、行方不明人として扱われた結果です。

さて、差別とは、不当な条件によって不当な扱いをする行為を指す言葉です。

従って、人種・門地・性別といった、本人の意思とは全く関係のない情報によって、その者を不当に扱うことが差別であり、それは許されない事です。

しかし・・・

犯罪・テロといった類を根拠にするよる嫌悪感は、果たして差別と呼称できるものなのでしょうか。

朝鮮人の犯罪の第一歩は初代内閣総理大臣の殺害から始まりました。
これは誰もがよくご存じだと思うので割愛致します。

そして、昭和7年には桜田門事件が発生します。朝鮮人テロリストの李奉昌が、爆弾を昭和天皇へめがけて投げつけ、暗殺未遂を起こしています。

昭和天皇の暗殺は幸いなことに失敗しましたが、警備をしていた人達に重傷を負わせました。
この事件によって、当時の日本国民はとても大きな不安を覚えました。

しかし、昭和天皇はこれを李奉昌個人の犯罪とし、朝鮮の人民にその責任を負わせることをしませんでした。

セルビア人青年がオーストリア皇太子を殺害したことによって発生した第一次世界大戦の規模を考えれば、とても寛大な判断です。

また、同じ年の4月29日の天皇誕生日に、また朝鮮人テロリストが爆弾殺傷事件を起こしました。

天皇誕生日の記念祝典に参加していた日本人を狙って、尹奉吉が爆弾を使用し、多くの日本人を殺傷しました。

このテロで、白川義則上海派遣軍司令官と河端貞次居留民団長が殺害され、重光葵、植田謙吉、野村吉三郎らが重傷を負い、多くの日本人が殺傷されました。

このような朝鮮人の犯罪が度重なる事によって、日本人の心の中には多くの不安が蓄積していきました。

確かに、全ての在日朝鮮人がこのような悪質な犯罪をしているわけではありません。

しかし、韓国も北朝鮮も、在日半島人の誰もがこれらの犯罪へ対して謝罪の意を表していない事は事実です。

それどころか、全ての朝鮮人が教科書等で、上記に挙げた犯罪者を「英雄」として賞賛してさえいます。

戦争が終わると、朝鮮人達は「準戦勝国民」という地位を連合国から与えられました。

その地位を利用して彼らは様々な犯罪をおかした。
以下に、その一部を少し紹介してみましょう。

一番最初は1946年の「首相官邸暴動事件」です。
約2000人の在日朝鮮人が「戦勝国民」の権利を謳って首相官邸に乱入し、警官隊や米軍憲兵隊と戦闘を行いました。

1948年には同じくして「戦勝国民」の地位に酔った朝鮮人3万人が一斉蜂起し、様々な破壊行動を行い、米軍憲兵隊(MP:ミリタリーポリス)の指揮下で鎮圧され、約1000人の逮捕者をだしました。
また大阪と神戸では府県庁を襲撃して知事や役人に暴力を行った上で監禁しました。
アメリカ軍は緊急事態命令としこれを取り締まり、累計2000名近い朝鮮人を逮捕した。

1951年、滋賀県では「日野事件」が勃発し、朝鮮戦争の戦禍から逃亡してきた朝鮮人50名が武装集団となり、警察を襲撃した。

1952年の「吹田事件」では、朝鮮戦争の開戦をお祝いしていた「在日朝鮮統一戦線」の学生達およそ1100名が「革命思想」をもと興奮し、警察や街の工場施設を襲撃した上で拳銃を奪って逃走しました。この事件では113名が逮捕された。

1954年に起きた第二の神戸事件では900名の在日朝鮮人が区役所や税務署を襲撃して破壊し、警官隊と戦闘を繰り広げ、188名の逮捕者をだした。

このようにして数々の犯罪を繰り返し、米国の占領中に発生した朝鮮人犯罪を米軍が統計したところ、1947年から50年までの間の、

殺人・強盗が4656件
レイプが224件
放火が57件
傷害が17,552件
窃盗が44,494件 も記録されています。

集団での蜂起以外にも、朝鮮人個人の犯罪を朝鮮人全体が賛美した例も少なくありません。

1958年(昭和33年)8月20日、東京都江戸川区の進学高校、小松川高校に通っていた太田芳江さんが何者かによって犯され殺された事件がありました。

犯人は犯行後に遺体から遺品を盗り、送りつけて遺族の悲しみを煽ることで楽しみ、また警察へ対しては自分の犯行を楽しそうに語る電話をかけました。

この様子は全国的にラジオで報道され、犯人の残虐性に多くの日本人が畏怖しました。

後に逮捕された犯人である在日朝鮮人の李珍宇は、逮捕後に別の女性もレイプして殺した事を自供しました。

通行中であった田中せつ子さん(当時23才)を突き飛ばして怪我をさせ、動けなくした所でレイプし、その後殺害しました。

犯人の李珍宇は死刑判決を受けましたが、犯人の母親は「息子の行いへ対して死刑は重すぎる」と主張し、控訴・上告をしていますが棄却されています。

また、「差別されているのだから強姦や殺人を行っても仕方ない」と主張する、在日朝鮮人ら数万人の減刑嘆願署名が集まりました。これには共産主義者文化人の大岡昇平も協力していました。

このように、多くの在日朝鮮人が「我々は差別されていたので、日本人女性をレイプして殺しても仕方がない」という主張をしていました。

これは、現在の朝鮮総連関係者が言う「植民地統治されていたのだから、日本人数名を拉致したくらいなんだ」という論調と酷似しています。

注意すべき点は『一人の異常者が朝鮮人の中に存在した』という事ではなく、朝鮮人が総体として一人の異常者を擁護し、同調していたというところです。

この事実をどう受け止めるかは各々によって違いますが、認識を改めざるえない注意すべき史実だと思います。

続いて、1968年には同じく在日朝鮮人の金嬉老がライフル銃で日本人男性二人を射殺した上で旅館に立て篭もり、女性一人と九才以下の児童三人を含む九人を人質にとる事件をおこしています。

この時もはやり同様に、金達寿らによって「差別されていたのだから、女性と子供を人質として虐待しても仕方がない。差別されていたのだから男性二人を殺害しても仕方ない」といった主張がされ、韓国では金嬉老を「日本人を殺した英雄」として賞賛するメディアが多数制作されました。

このような惨劇の延長線上にあるのが、極めつけの拉致事件です。
やはり、過去と同様多くの在日朝鮮人は「植民地統治の問題があるのに、拉致ばかり言うのはおかしい」といった主張を繰り広げ、まだ拉致被害者が帰国できていないのにもかかわらず、国際空間では「拉致問題は解決済み」という発言をしています。

朝鮮人へ対して深い理解をする事は大切ですが、理解と盲目になる事は違います。

彼らがどのような歴史をもっており、過去から現在に至るまでどのような姿勢をとり続けるのかという事を我々は認識しなければなりません。

戦争が終わったとき、日本国内に約60万人いた在日台湾人へ対しては何も負の感情が無いのに、朝鮮人へ対してだけは何故存在するのか。

我々はそのことを深く省みる必要性があるのではないでしょうか。

すくなくとも、「警戒心」と「差別心」は違う。

警戒心を差別だとすり替えて、様々な反社会的行動を正当化するためのレトリックに利用することは、けっして許されることではない。

繰り返しますが、大勢いる朝鮮人の中の一部だけに、上記に紹介したような一部の異常者がいるということではないです。

そうではなくて、多くの朝鮮人が一部の犯罪者を賞賛し、褒め、称え、なおかつその罪を罪と思わず、教科書にまで載せて「誇り」にしているという事実を無視する事はできません。
【以上、ブログ「朝鮮歴史館」より一部文章を修正して引用】
http://ameblo.jp/campanera/page-2.html#main


最後にひとつ、朝鮮・韓国人による日本人虐殺事件−『和夫一家殺害事件』を紹介します。ものすごく残酷なので、以下は、女性の方は読まないでください。
引用:http://bbs.jpcanada.com/log/6/2950.html

日帝時代、慶尚道地域の日本人地主であった『和夫一家』は、日本政府の朝鮮移住政策によって、朝鮮生活を始める事になった。
普段から人情に厚かった和夫さんは、小作料を収穫全体の10分の1しかとらず、村人達を家族のように考え、朝鮮総督府の法令で規定された小作料の中から最低限しかとらなかった。

貧しい朝鮮の小作人が食べ物が無いと哀訴すると、喜んで食べ物を分け与えてあげ、村で誰かが亡くなると、家族全員が駆けつけて食事の用意はもちろん、自ら慟哭までして悲しみを分け合った。

和夫さんはとても人間への暖かい愛情を持った人であった。
また、和夫さんの家族は、周囲に孤児がいると連れて帰って面倒を見ていたが、一人、二人と増えていき、1945年にはいつの間にか施設孤児院の規模にまで増えてしまっていた。

しかも、和夫夫婦はこの孤児達を家族のように愛し、自ら喜んでその子達の父母と名乗った。
和夫一家は日頃から朝鮮人を愛し、日本の軍国主義を批判していた。
だが、天皇の降伏宣言後、自ら育てた朝鮮人孤児達によって、むごたらしく虐殺された。


<和夫の孤児キム・ソンス君の報告>

和夫さんが実の子のように育て、東京帝国大学まで留学させていた朝鮮人Aを中心に、和夫さんの家で教育を受け、成人するまで育ててもらった朝鮮人青年達が、カマとツルハシ、シャベルをもって、和夫さんのもとに押しかけた。当時、現場にいたキム・ソンス君は、この時の状況をこう語っている。

和夫:(優しい目で)何故こんなことを、お前たち。

朝鮮人A:チョッパリ!日本へ失せろ!失せろってんだ!!

和夫:(わざと怒り声で)「私が何かお前たちに間違った事をしたかい? 
お前たちは、みな私の子供達だし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。
お前たちの祖国が独立する事は、私も日頃から強く望んできた事だ。
踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器を持って私のところにつめかけてきたんだ? 
私はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。(涙を流して)本当に悲しいよ、朝鮮の子供達。
私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり合う事は出来無いということなのかい? お前たちが望むんなら、帰ってやろう

朝鮮人A:意味深長な目配せをBに送る。(財産を全部処分して帰ったら、俺達はどうやって食ってくんだ?)

朝鮮人B:死ね!チョッパリ!!(日本人への蔑称)この糞野郎!!!

次々にツルハシが和夫さんの後頭部に振り下ろされ、それと同時にたくさんのシャベルとカマが体をズタズタに引き裂き始めた。

和夫さんの妻は耐えられずに飛び出してきた。

それまでじっとしていた朝鮮人Cは、和夫さんの妻を見ると、彼女の髪をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。

そして、なんとその和夫の孤児達13人は、一週間前まで「お母さん」と呼んでいた“彼女を強姦し始めた”。

彼女はひどい集団強姦の途中で虐殺された。

朝鮮人Dは、普段、お母さんと呼んでいた彼女の“全身をめった刺し”にし、それでも足りずに“内臓をかき出して”撒き散らした。

和夫さんには「ひみこ」という娘が一人いた。
普段から模範的で良い子だった「ひみこ」は、学校が終わって家に戻り、両親に起きた“惨状を”見ると、気が触れてしまった。

当時、「ひみこ」の慟哭が何日も続き、近所の住民は眠れなかったという。

その後、孤児となった「ひみこ」は、食べ物乞いに村を回ったが、誰一人見向きもせず、知らないふりをした。

結局、「ひみこ」は9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。
「ひみこ」は小学六年生だった。

和夫の財産は、和夫が精魂込めて大切に育てた朝鮮人孤児達(この恩知らずの鬼畜ども)の手に丸ごと渡り、この事件は、『村人達の沈黙の中で徐々に忘れ去られていった』

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どこかの学校で、教師による生徒へのわいせつ事件が起これば、多くの子女を持つ親御さんは、その学校へ進学させることに躊躇します。

同様に、小学校の正門に、生徒の生首を置かれたら、日本中の小中学校が、放課後の校門を閉ざし、不審者の排除をします。

住んでいるマンションに泥棒が入れば、そのマンションに住む多くのご家族が、不審者に対する警戒をする。

たったひとりの犯罪者が出ただけで、多くの人々は、自分や自分の子供たちが同種の事件に遭わないように「警戒」する。あたりまえのことです。

それを「差別」だと言葉を置き換え自己を正当化する。さらに出自の同じ人々が総体として一人の異常者を擁護し、同調する。

警戒されて当然です。

太平洋側の多くの都市は、駅前の一等地にパチンコ店があります。

戦時中、艦砲射撃や、空襲で焼け野原になったその一等地に、半島から逃げてきた朝鮮人たちが、縄張りを張り、その土地を占拠した。

その土地の本来の所有者は、空襲ですでに死亡。そしてその土地の所有者のご家族が、土地に戻ると、すでに半島人がその土地を占拠している。
交渉し、立ち退きを要求すると火病を起こして抵抗する。
仲間を集めて、遺族に復讐する。

そうやって占拠した土地が、いま、駅前一等地のパチンコ店になっている。

多くの日本人が彼らを「警戒」するのはあたりまえのことです。

上に示した和夫一家の事件は、たまたま和夫さんが、多くの半島孤児をひきとっていて、なかにまともな子供もいて、それを手記に残したから、いまでもその事実が伝えられている。

しかし、和夫さんのご家族同様の被害に遭われた日本人ご家族は、数万世帯にのぼっています。

それで「警戒」されないなら、「警戒」しないほうがどうかしている。

その、多くの人々の「警戒」を、「自分たちに対する差別をやめろ!」と、言葉をすり替えて、戦後60年間も運動してきた、在日朝鮮人たち。

日本人は、彼らの「警戒」と「差別」を履き違えた行動を、きちんと認識すべきなのではないでしょうか。

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日本が併合する前の19世紀の朝鮮人

パラオ・ペリリュー島の戦い

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パラオ・ロックアイランド
パラオ・ロックアイランド


パラオと聞けば、上の写真が有名です。観光ガイドなどでご覧になった方も多いのでは・・・。

日本からだと、成田を出て、グアム経由で、だいたい8時間くらいかかる南洋の島です。

パラオMAP


最近の遺跡などの調査で、この島には約4000年前から人が住んでいた。

そしてパラオは、1885年にスペインの植民地となりました。

スペイン人によってもたらされた天然痘や、略奪、殺戮の結果、パラオの人口は当時90%も減少したといわれています。

1899年、スペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却します。
この中に、パラオも含まれた。

1914年に第一次世界大戦が開始されると、ドイツに対して宣戦を布告した日本が海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領した。

1919年、第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の“委任統治領”になります。

当時のパラオの人口(パラオ先住民の人口)は、約6000人でした。
スペインによって植民地にされる前の人口は、約6万人だったともいいますから、いかに西欧の植民地政策がすさまじいものだったかが、推してわかろうというものです。(ちなみに2005年のパラオの人口は20,323人)

日本は、この島に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、稲作、なす、きゅうり、さとうきび、パイナップルなど野菜や果実の栽培を持ちこんだ。

また、缶詰やビールなどの工場を建設。道路を造り、舗装し、橋を架け、電話をひき、学校、病院をつくるなど、各種インフラの整備を行なった。

さらに日本は、パラオの住民すべてにたいして、数種類の疾病に対する予防接種をうけさせています。

パラオの町並み
1920年代のパラオの町並み


パラオの尋常小学校では、文字をもたないパラオの人々のために、日本語教科書を用いて、日本語教育を行った。

中島敦という作家をご存知でしょうか? 
「李陵」「弟子」「名人伝」など、格調高い文芸作品を残した方ですが、彼は、このパラオ南洋庁の、国語教科書編集書記だった。彼の作った教科書で学んだパラオの老人たちは、いまでも日本語を話すことができる。
中島敦は、パラオ赴任中に有名な「山月記」を著わしています。

パラオの人々は優秀で、小学校1年生ですら掛け算九九を暗証できたといいます。

そして第二次世界大戦がはじまる。

日本は、1941年にはパラオ南部のペリリュー島に、1200M滑走路2本の、飛行場を完成させている。

パラオは、日本軍にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の絶対的防衛圏上の、重要な拠点だったのです。

ところが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、フィリピン戦の背後をとるパラオ・ペリリュー島の日本軍基地は、まさに目の上のたんこぶになった。

そこで、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画する。

1943年の時点で、ペリリュー島には、899名のパラオの村人がいた。

刻一刻と迫る米軍。

村人たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験している。

日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた村人は、仲間たちと話し合った。
そして村人たちは、大人も子供も、一緒になって日本軍とともに戦おう。
そう決めた彼らは、代表数人とともに、日本の守備隊長である中川州男大佐のもとを訪れます。

平素、温厚な中川隊長なら、自分たちの頼み・・・一緒に戦う・・・を聞いてくれるに違いない。

そして中川隊長に、「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出た。

それを聞いた中川隊長は、瞬間、驚くような大声をあげた。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」

・・・・・・

驚いた。日本人は仲間だと信じていたのに、・・・みせかけだったのか。。。。

村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流した。


そして、日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきた。

港には、日本兵はひとりも、見送りに来ない。

村人たちは悄然として船に乗り込んだそうです。


そして、汽笛が鳴る。

船が岸辺を離れた。。。。



次の瞬間、


ペリリュー島に残る日本兵全員が、浜に走り出てきた。

そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送った。

中川大佐02
中川州男大佐
1898年1月23日 - 1944年11月24日
享年47才


そのとき、船上にあった村人たちは、わかった。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。

涙が出た。

岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら、手を振った。

誰もが泣いた。ちぎれるほどに手を振った。


1944年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたは切られた。

島に立てこもる日本軍10,500名。

対する米軍総員48,740名。

そして航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃を行う米軍は、すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を投下した。

最初に米軍は、は艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払った。

そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28,000名が島に上陸した。

対する日本軍は地中深くに穴を掘り、米軍の上陸を待ち構えていた。

米軍上陸直後の水際での戦闘は凄惨を極めた。
米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却するという場面もあったという。
この戦闘によって米軍の血で海岸が赤く染まり、現在でもこの海岸には「オレンジビーチ」の名が残っている。

オレンジビーチ
オレンジビーチ


10月30日には米軍第1海兵師団が全滅。
海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病した。
この時点で3日で終わるとされた戦いは1ヶ月半も継続されていた。

しかし、日本軍には決死の逆上陸による兵力増援はあったものの補給が一切なかった。

日本軍の抵抗は次第に衰えを見せ、米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落。
さらに食料や水もなくなった。

11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定。

中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が割腹自決。

ペリリュー島の戦い


その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による「万歳突撃」が行われた。

こうして11月27日、ついに米軍はペリリュー島の占領を果たすこととなる。

上陸開始から2ヵ月半が経過してのことだった。

中川隊長の異例の奮闘に対して昭和天皇より嘉賞11度、感状3度が与えられています。
また中川隊長は死後に2階級特進し陸軍中将となった。

なお、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延びており、終戦後の1947年に米軍へ投降しています。

【ペリリュー島の戦い】

日本軍 戦死者 10,695名
     捕虜    202名

米 軍 戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名

村 人 死者     0名
     負傷者    0名

1981年、パラオ共和国が誕生したとき、パラオの人々は、独立を記念して、ペリリュー島守備隊を讃える歌をつくりました。

パラオ国旗2


【ペリリュー島守備隊を讃える歌】
一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  つわものたちはみな散って
  ペ島はすべて墓(はか)となる

二 小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち
  弾射ち尽くし食糧もない

三 ヘいしは桜を叫ぴつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの”桜"に意味深し

四 日本の”桜"は春いちど
  見事に咲いて明日は散る
  ペ島の”桜"は散り散りに
  玉砕れども勲功はとこしえに

五 今もののふの姿なく
  残りし洞窟の夢の跡
  古いペ島の習慣で
  我等勇士の霊魂守る 

六 平和と自由の尊さを
  身をこなにしてこの島に
  教えて散りし"桜花"
  今では平和が甦る

七 どうぞ再びペリリューヘ
  時なしさくらの花びらは
  椰子の木陰で待ちわびし
  あつい涙がこみあげる    

1994年、パラオはアメリカから独立をはたしました。
独立にあたり国旗を制定することになり、国民の間からデザインを一般公募した結果、日の丸をもじった今のデザインが採用となりました。

パラオ共和国・国旗
パラオ共和国・国旗


周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月をあらわします。

月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。

そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと,わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。

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お亡くなりになられた、英霊の方々に深い哀悼の意を表するとともに、深く深く感謝いたします。

日本とパラオ 〜歴史を越えた友情〜

「八紘一宇」のこと

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八紘一宇の塔
宮崎市の平和台公園に聳える八紘一宇の塔


戦前において、日本のスローガンとして掲げられた「八紘一宇」について書きます。

「八紘一宇」というと多くの人は「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」程度の認識しかないようです。

ほんとうにそうなのでしょうか。

世界大百科事典では、「八紘一宇」を、
「自民族至上主義、優越主義を他民族抑圧・併合とそのための国家的・軍事的侵略にまで拡大して国民を動員・統合・正統化する思想・運動である超国家主義の典型」と説明している。

昭和32年9月、衆議院文教委員会で、松永文部大臣は、
「戦前は八紘一宇といって、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発していた」と説明。

昭和58年1月衆議院本会議で、中曽根康弘総理大臣は
「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持ち、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」と説明しています。

ほんとうにそうなの?

普通に考えて、人々が口々に唱える日本のスローガンがそうした「侵略」目的のものであったとするなら、多くの日本人は、ついてこない。
そう思いませんか?

「八紘一宇」を唱え、命をかけて戦ったのは、私たちの祖父であり、祖母であり、曾祖父・曾祖母たちです。しかも彼らは青春を「八紘一宇」に賭け、「八紘一宇」のもとに青春を駈け抜け、そして亡くなられた。

仮に、いまこれを読んでいるあなたが、あるいはボクが、日本には八紘一宇という侵略思想があるのだ。その思想は、他国を蹂躙して財物や婦女を奪い、その国の庶民を殺しまくるものだ。だから一緒に悪事を働こう!! と言われたら、その気になりますか? そのことに命をかけて戦いますか? 自ら特攻までして命を落としますか? 玉砕戦を最後まであきらめずに戦いますか?

ボクならしませんよ。逃げだしますよ。馬鹿馬鹿しい。誰が好き好んで悪事に手を貸しますか。

内地にいた多くの母親たちだってそうです。誰が好き好んで愛する我が息子・・・それも、兵役にとられるのは、学業優秀、身体頑丈な、とびきりかわいい息子です・・・を、そんな悪事に加担させるために送り出しますか?

婦人会、町内会、子供会・・・村中総出で、日の丸の小旗を振って、出征兵士を送ったのですよ?

それが侵略のためですって?? 誰がそう考えていたのですか? 軍部ですか?

じゃあ、軍部・・・いまで言ったら自衛隊が、独善主義に陥り、自民族至上主義、優越主義を他民族抑圧・併合とそのための国家的・軍事的侵略にまで拡大して国民を動員・統合・正統化するから、子どもを差し出せと言ったら、あなたたちは万歳といって子供を差し出すのですか?

戦前、出征兵士を送った人たちも、送られた兵士たちも、いまとおなじ、我々と血の繋がった日本人なのです。

時代がそうさせた? じゃぁ時代ってなんです?

その時代のひとつの理想が、あったんじゃないですか?

みんながその理想に納得し、みんながその理想を本気で信じたから、命がけで戦った・・・そう考えた方が、自然なのではありませんか?

その時代の理想・・・それが「八紘一宇」だった。

「八紘一宇」とは、日本書紀に出てくる言葉です。

「掩八紘而爲宇」
(=八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む))が語源となっています。(「日本書紀」巻第三神武天皇の条)

「八紘」というのは「8つの方位(東西南北、北東、南西、南東、北西)」です。
8つの方位は、天地を結ぶ8本の綱だ。そしてこれが転じて「世界」を意味する語となった。

「一宇」というのは、「ひとつの家」という意味です。

つまり、「八紘一宇」は、世界はひとつの家族だ、という意味になります。

明治天皇の和歌にある、

 四方の海
  みなはらからと 思う世に 
   など、波風の たちさわぐらむ

四方の海=八紘 です。
みなはらから=一宇 です。

「一宇」を指して、「これは天皇の傘の下に世界を統一しようという侵略性を持った言葉である」などとしたり顔をして説くアホがいるけれど、上に示した日本書紀の文のどこに「天皇が」と書いてあるのか?

単に世界は一家と説いているだけで、どこにも「天皇が」などいう主語はつけられていない。よく文章を読め! と言いたいです。

そして東京裁判の折、清瀬弁護人は、

「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」と述べている。

その通りだと思う。

「八紘一宇」について語るとき、よくひきあいに出されるのが、日蓮宗から新宗教団体国柱会を興した田中智學です。
彼は、1903年(明治36年)、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」と説いた。

これが、八紘一宇の侵略性を示していると説く人もいる。

まったく、ヽ(´o`;lll オイオイです。
いつから戦前の日本は日蓮宗の国になったのか?

なるほど日蓮は、日本の宗教を日蓮宗に統一し、国立戒壇の建立を説いた。

しかし、戦前の日本は国家神道であったはず。いつから国の宗教が日蓮宗の、それも当時の新興宗教「国柱会」になったのですか?

彼の意見は、多様な価値観と言論の自由を許容する日本社会の中の、ひとつの少数意見にすぎない。

こう書くと、「そんなことはない、日本には憲兵がいて、反日思想をとりしまったじゃないか」という人がいる。
それも違う。
田中智學がこの説を説いたのは明治36年(1903年)のことだ。一定の言論統制をした大東亜戦争の40年以上も前のことです。当時の日本では、実に様々な言論が、自由に主張されている。だいたい創価学会が結成されたのも1930年だ。

「八紘一宇」は、戦前の日本の国策とされました。
それは、昭和15年7月26日の「基本国策要綱」に掲げられています。

皇国ノ国是ハ
八紘一宇トスル嚢国ノ大精神ニ基キ
世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ基本トナシ
先ツ皇国ヲ核心トシ
日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル
大東亜ノ新秩序ヲ建設スル


ひらたくいえば、「日本の国是は、世界はひとつ、人類はみな兄弟という我が国の道徳観に基づき、世界の平和を希求し、日本国(満州・台湾等を含む)を中心に東亜の新秩序をつくる」という意味です。これって、いまの日本国憲法の前文そのままです。

東亜の新秩序というのは、アジア諸国が植民地支配を脱し、それぞれの国の独立を促すという意味で、実際、戦中から戦後にかけて、多くのアジアの国々が独立を果たし、植民地支配という隷属からの脱出を図ることに成功した。

その被植民地からの脱出と独立にあたって、日本がおこなった現地での学校建設、行政指導、教練等が、きわめておおきな役割を果たしたのは、その後の歴史が物語る通りです。

2つの言葉を紹介します。

ひとつは、平成3年、日本傷病軍人会代表団が戦時は敵国であったオランダを訪問した際に、オランダ・アムステルダムの市長の挨拶で、公式に残っているものです。

------------------------------------
貴方がた日本は、先の大戦で負けて、勝った私どもオランダは勝って大敗しました。

今、日本は世界一、二位を争う経済大国になりました。
私たちオランダはその間屈辱の連続でした。
勝ったはずなのに、世界一の貧乏国になりました。

戦前のオランダは、アジアに本国の36倍もの大きな植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で本国は栄躍栄華を極めていました。

今のオランダは日本の九州と同じ広さの本国丈となりました。

あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。

あなた方こそ自らの血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。

何故ならあなたの国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、或いは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史をふり返って、真相を見つめる必要があるでしょう。

本当は私共白人が悪いのです。

百年も三百年も前から競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。

植民地や属領にされて長い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想をかかげて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。

本当に悪いのは侵略して権力を振っていた西欧人の方です。

日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現しました。
即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わりました。
その結果アジア諸民族は各々独立を達成しました。

日本の功績は偉大です。
血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。

自分をさげすむのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです。
----------------------------------

八紘一宇の精神による東亜の解放。
そんなものは日本の大義名分にすぎず、内容は侵略戦争だったという人がいる。

もしほんとうにそうなら、なぜ、日本軍は、インパール作戦で、38,000人の戦死者を出し、4万人以上の戦病を出し、街道に日本兵の白骨を折り重なるように晒しながら、その街道筋にある民家や畑を襲っていないのでしょう?

飢えと病に苦しみながら、何日も水さえ呑めずに撤収する街道筋には、ビルマの村や寺が点在している。現地の人が住んでいる。家畜もいる。畑もある。女性もいる。
しかも彼らは非武装だ。
そして、敗軍となって徒歩で帰る日本兵は、実弾を込めた銃を持っている。

にもかかわらず、日本兵はその街道筋で、ただの1件も、盗みをしていない。強姦もしていない。殺人もしていない。

自らが、飢えと空腹、渇きにあえぎながらも、だたの1件も奪わず、殺さず、姦せず、飢えに苦しみながら、日本兵という名の多くの日本人の若者が死んでいった。
これが侵略者・掠奪者の姿ですか?

八紘一宇は、我々日本人にとって、大義名分などではなかった。いやそれ以上の、我々日本人の生きざまだった。心の柱だった。

どんなことでもそうじゃないですか?
生きるということは、心です。

戦うということは、銃をポンポン撃つことではない。
明確な目的のために命がけで戦うということです。

ボクはね、戦争を美化するつもりも、礼賛するつもりもありません。
しかし、命を賭けて戦った先人達の思いと、その心を、単に「大義名分であり」、「侵略だった」などと蔑むような真似だけは、絶対に許せない。
なぜならそれは、先人に対する冒涜だし、先人を冒涜するということは、とりもなおさず、いまを生きるわたしたちひとりひとりを冒涜することだからです。


もうひとつの言葉、それは先般ご紹介したパラオの碑文です。

パラオに、ペリュリュー島という島があります。
この島が、先日ご紹介した記事の舞台です。
■関連記事:大東亜戦争に勝利した日本
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-510.html

その島に慰霊碑があります。
慰霊碑には、こう書かれています。

--------------------------------------
諸国から訪れる旅人たちよ 
この島を守る為に日本軍人が
いかに勇敢な愛国心を持って戦い
玉砕したかをつたえられよ

ペリュリュー島の慰霊碑

Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.
-------------------------------------

この詩を作ったのは何と敵であったアメリカ大平洋艦隊司令長官のニミッツ提督です。

ニミッツ提督は、戦後、日本の戦艦「三笠」が荒れ果ててダンスホールに使われている事を知るとこれに激怒し、海兵隊を歩哨に立たせて荒廃が進む事を阻止し、

1958年には『文藝春秋』に「三笠と私」という文を寄稿し

「この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の名で寄付させてほしい…」と訴え、

「三笠」の保存費用として個人的に当時の金額で二万円を寄付し、

アメリカ海軍を動かして揚陸艦の廃艦一隻を日本に寄付させ、そのスクラップの廃材代約3千万円を充てさせた。

もし、日本軍が、山賊や海賊のような侵略者であり、悪の権化の魔軍であったのなら、敵の将であるニミッツ提督が、こういう碑文を残しますか?

「八紘一宇」の精神は、なにも戦前の特殊な思想ではありません。

「八紘一宇」は、世界の人類は皆、兄弟だ、という人類普遍の心だとボクは思うのですが、みなさんは、どうお感じになりますか?

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二つのアメリカ
ハバロフスク事件顛末(1)
ハバロフスク事件顛末(2)
ハバロフスク事件顛末(3)
シベリアのトイレ
ウクライナ物語
地上の楽園のウソ
インカ帝国の滅亡

≪メディアの偏向≫
毎日新聞英語版のあまりにひどい報道
マスコミが反日になっている理由

≪時事≫
自国の防衛は自国で
日教組に立ち向かえ
外国人参政権
政治資金規正法
竹島問題の真実
夫婦別姓などもってのほか!
子供手当が在日外国人の母国に残した子供にも出る?!
奴らを許すな
中国産新型エイズの恐怖
口蹄疫問題に関する衆議院の質疑の模様
口蹄疫は韓国の陰謀という噂の真相を問え!

≪コラム≫
日本の心をつたえる会
階級闘争主義と信頼主義
「ススキ」と「セイタカアワダチソウ」の戦い!
大麻についての考察
日本人が知らない資源のお話
悪は断じて許さないという心が大切
犬種と人種
ヤプー人の伝説
文化は武器より強し
小学生の妊娠
ギリシャ神話と日本の心
もうひとつの赤穂浪士・矢頭右衛門七
伊勢神宮の式年遷宮
近世のニッポン
正しい万歳
持てる力のすべてを未来への建設に傾け
日本国憲法を否定せよ
華僑と植民地統治について
いくつかの主張
歴史に対する姿勢
仁徳天皇陵を大仙陵と呼ぶまやかしを許すな
ニホンミツバチの勇気ある行動
「理論」と「心」と「都合」のお話
軍艦島のお話
伝書鳩物語
元来日本社会は窮屈、でも窮屈ゆえに安心
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日本再生のために民度の向上を
地方行政とゴミ処理問題
消えた歴史
核のお話
やまと新聞を守れ
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たった一度の敗戦で日本を失ってはならない
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ねずきち

Author:ねずきち
日本が好きです。ていうか人間が大好きなのかな。心って、ものすごく大きなこともなしとげる。その時代時代に、真剣に生きた人たちから学ぶこと。歴史って、いまを生きる人が過去に学ぶためにあると思う。だから、歴史にIFは禁物だなんて思わない。歴史を学び、もし〜だったらと考えることで、人は何かを感じることができるんだと思う。

政治に混迷が続く中で、もういちど私たちは過去を振り返ってみる必要もあるのではないか。そうすることで、もしかしたら一条の新しい光を見出すことができるのかもしれない。

このサイトで扱っている動画はYouTubeにアップロードされているもので版権物の知的所有権は、それぞれの著作者・団体に帰属してます。問題があればすぐ削除しますので、

nezu@nippon-kokoro.com

までメールでご連絡ください。

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コメントをくださる皆様へのお願い
いつもたくさんのコメントをいただき、ありがとうございます。
ほんとうに皆様のコメントが、ねずきちにはとっても嬉しく、かつありがたく拝読させていただいています。

議論というものは、すくなくともこのブログのコメント欄が、国政や地方自治、あるいは組織内の意思決定の場でなく、自由な意見交換の場であるという趣旨からすると、互いに互譲の精神を持ち、相手を尊敬する姿勢、ならびに互いに学びあうという姿勢が肝要であると存じます。

ねずきちは、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

従いまして、謙譲・互譲・感謝、そして学ぶという姿勢のない連続投稿、粘着投稿に類する投稿をされた方については、以後のコメント書き込みを、管理人であるねずきちの判断で投稿の禁止措置をとらせていただきますので、あしからずご了承ください。
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ねずきち並びに日心会批判をしている特定の方々へ

ねずきち並びに日心会について、中傷やご批判をしている特定の方々には、専用のトピを立てています。
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なお、下のURL以外の場所では、他のコメンテーターの皆様にご迷惑となりますので、中傷非難の書き込みはご遠慮ください。
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伊勢神宮式年遷宮奉賛金寄付について
日本の心をつたえる会では、20年に一度行われる伊勢神宮、式年遷宮のための寄付を会として行っています。
平成23年末まで、みなさんから寄付を募り、日心会としてこれをとりまとめて伊勢神宮に寄付を行います。

■関連記事
「伊勢神宮の式年遷宮に
協力しよう」


ご寄付のための専用口座は
次の通りです。

■ゆうちょ銀行からお振込
銀行名  ゆうちょ銀行
記号   10380
番号   57524261
口座名
   日心会式年遷宮奉賛金事務局
(ニッシンカイシキネンセンク゛ウホウサンキンシ゛ムキョク)

■他の金融機関からお振込
銀行名  ゆうちょ銀行
支店名  〇三八
(読み:ゼロサンハチ)
店番   038
  預金種目 普通預金
口座番号 5752426
口座名
   日心会式年遷宮奉賛金事務局
(ニツシンカイシキネンセンク゛ウホウサンキンシ゛ムキヨク)

神宮遷宮は、1300年間行われ続けた伝統行事です。
日本の歴史では、古来国家の歳費で行われてきましたが、これが歳費で行われなかった時代が2つあります。
ひとつは応仁の乱から戦国時代。国が荒れて国費は遣われませんでした。
もうひとつは日本国憲法下の日本。つまり現代日本です。
日心会では、国家の伝統と文化保護のため、みんなで力をあわせて式年遷宮の伝統行事を応援します。
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■ ブログ名:ダメ人間のつぶやき
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