日本に手を出した国は必ず滅びる・・・それが歴史の事実です。 日本は相互信頼主義を根本とする国です。 命をかけて戦った先人たちの努力を見直し、日本の素晴らしさを再認識して、階級闘争主義の汚染から日本を守ろう。

北条時宗と元寇

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元寇
元寇


東北地方の山間部に、「モッコ」という言葉があります。

「モッコ」というのは、ふるくから“この世の中で一番怖いもの”とされるもので、「何だかわからないけれども、とにかく一番怖いものなの」なのだそうです。

その「モッコ」は、じつはモーコ(蒙古)のことだといわれています。

元寇の恐怖が、東北の山の中で、いまでもこのような形で語り継がれている。

それほどまでに蒙古襲来は、鎌倉時代の恐怖のできごとだったわけです。

1268年、高麗の使いによってフビライの書簡が九州の太宰府にもたらされました。
ちなみにこの書簡をフビライが書いたのは1266年。その書簡が高麗を経由して、ようやく太宰府に届くまで、なんと2年を経由しています。どこで書簡が停滞していたかというと、高麗です。

当時高麗は元の属国だった。蒙古と日本が戦争になると高麗は兵員や食糧を負担しなければならない。事大主義でああでもないこうでもないと、高麗の国内であれこれ議論やっている間に、2年が経っちゃった。

さてその書簡が、いよいよ大宰府にもたらされます。
当時の太宰府は、中国・朝鮮をはじめとするアジアに向けられた日本の玄関だった。

太宰府はこの書簡に驚き、幕府をとおして朝廷に書簡を届けます。
朝廷も、書簡を見てびっくり。連日会議を重ねたあげく、諸国の大きな寺や神社に蒙古が来ないよう、来ても勝つようにと加持祈祷祈を命じます。
いまでいったら、憲法9条論者に命じ戦争・放棄経を読むように命じたというところでしょうか。

他方、鎌倉幕府にも、蒙古襲来そなえよと命じます。
つまり自衛隊にミサイルに備えよ、と命じた。
これも、命じただけです。この時点で具体策はなにもない。

蒙古の書簡が到着からわずか6日後、北条時宗は、若干18歳にして幕府の頂点、執権の座につきます。

幕府も当初は朝廷と同様だったのでしょう。鳩首会議をするけれど、主戦派、穏健派に分かれ、容易に結論がでない。

時宗もこの時点では、執権に就任したばかり。周囲の声もかしましかったのでしょう。なんの手も打たずに放置した。

しびれをきらしたフビライは、何度か高麗に命じて使者を日本に派遣します。

ところが高麗は、天候が悪いの、海が荒れたのと理屈をつけて途中で帰ってしまったり、日本に蒙古と通交するようにすすめたりと、まるでらちがあかない。

業をにやしたフビライは、4度目(日本には2度目)の使者としてシナ人の趙良弼に命じ、日本に赴かせ、日本との交渉を前にすすめます。蒙古にしてみれば、高麗は属国といっても、なんの信頼に足る国ではなかったのでしょうね。

同時にフビライは、6千人の兵を高麗に送り、日本との戦いに備えます。
高麗はそのために土地や人や農耕のための牛を出さなければならず、人々は草や木を食べて飢えをしのいだと記録に残っているとか。
わずか6千人の兵の駐屯で、そこまで飢えるとは、当時の高麗の国力や、推して知るべしです。

太宰府に着いた趙良弼たちは「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」とまで言います。

ところが、今回も返事はない。

4ヶ月滞在した趙良弼はいったん高麗に戻りますが、再び日本にやってきて一年間日本に滞在します。

この滞在は、戦争準備のための日本の国力調査のためだったといわれています。
趙良弼の報告を聞いたフビライは「大変よくできている」とほめています。

最初の使いから6年後である1274年1月。

フビライは高麗に対して日本遠征のための造船を命令します。

高麗はそのための人夫3万5千人と食糧・材料の木材を出すことになります。
労働者として使われたり食料を出さなくてはならない庶民の生活は苦しくなり、飢えて死ぬ人も多くいたという記録もあるそうです。

それでも高麗は、わずか10ヶ月の間に大型船300艘、中型船300艘、給水用の小型船300艘、あわせて900艘の船を作りました。

最近でも、韓国が請け負った橋梁工事で、その橋が落ちたとか、できあがった高層ビルが傾いたとか、韓国製品の粗雑さは有名ですが、このことは当時もいまもかわらない。

高麗は、船を作るのにあたり、頑丈な中国式ではなく、簡単な高麗式の船を作った。


1274年10月3日、中国兵6,000人、高麗兵24,000人、合計3万の兵を乗せた船が、高麗の合浦を出発します。

10月5日には対馬、14日には壱岐を襲います。島民の数は、当時おそらく数千人。
いきなり襲ってきた3万の兵にかなうはずもありません。

対馬・壱岐の人々は殺され、生き残った人は手に穴をあけられ、そこをひもで通して船のへりに鎖のように結ばれたといいます。
戦前の通州事件や、尼港事件、終戦直後の半島人やシナ人の残虐さを考えれば、壱岐対馬の方々の惨状は、想像するだに恐ろしい。


中国・朝鮮の連合軍は、19日に博多湾に集結します。
そして10月20日、連合軍は、筥崎・赤坂・麁原・百道原・今津あたりに上陸を開始します。

当時の日本の武士たちは、ほぼ全員が兼業農家です。

それまでの日本の国内のいくさというものは、おおむね次のようなものだった。

農家の長男坊が、いざ鎌倉の掛け声で、馳せ参じる。家の人は心配だから長男坊に、小者4〜5人をつけて出征させます。
おおむね、馬上の者が武士。その周囲には4〜5人の小者。

そしていくさがはじまると、双方の陣地から腕自慢の者が前に出て、
「やぁやぁ我こそは○○県○○村の○×△太郎と申すもの。腕に自慢のあるもの、おであえそうらえ」とやる。

そうすると、敵の陣地からも、同じく腕自慢の男があらわれて、
「我こそは□□村の◇◇と申すもの。いざや尋常に勝負、勝負〜〜」と名乗りをあげ、互いに一騎討ちをやる。

小者を含めた全軍が見守る前での勝負です。いまでいったら、K−1や、ボクシングの試合みたいなもので、ギャラリーとなる観客(この場合は戦いの場にいる武士や小者たち)にとって、名だたる武士の一騎討ちなんてのは、当時としては最高のスポーツ観戦だった。双方、全軍あげて、応援する。

なんどかそうした試合が行われると、双方のギャラリー(兵士たち)の興奮も最高潮に達し、小者たちが、敵陣に向けて、石投げをはじめる。

ちなみに日本の鎧かぶとは、弓矢は通すし、槍や刀も、突かれたら、刺さってしまう。
でも、考えてみてください。兜をみても、よろいを見ても、投石は、よく防ぐ仕様です。

そうした個人試合と、投石にはじまって、大将首をあげたら、それで終わりという日本式いくさ法に対し、シナと高麗の連合軍は、長年の奴隷を使った集団戦法です。

日本の武士が前に出て行って、「やぁやぁ我こそは」とやると、いきなり矢が飛んでくる。

凝り性の日本人は、弓も矢も、凝りに凝って作りますから、なにせ弓も矢も、値段が高い。当然、弓矢を持つのも武士だけです。名入りの高級品です。当然、敵の雑兵に向けて弓を射るなんてもったいない。雑兵相手には、小石で充分。なにせ小石なら、地面にいくらでもある。

これに対し、集団戦術の蒙古隊は、粗製の矢を雨のように射かけてくる。名乗りをあげるなんてのもありゃしません。

こりゃたまらんと、とりあえず、引きに引いて遠巻きにするくらいしかなすすべがない。

ところが一夜明けると、シナ・高麗の連合軍の船が一艘もない。
湾内を埋め尽くしていた船が一艘も見あたらない。

一説によると、この第一回蒙古襲来(文永の役)は、大暴風がやってきて多くの船が沈んだというけれど、日本側の記録である八幡愚童記などを見ても、嵐のことは一行も触れていない。そればかりか「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた」と書いてある。

どうやら、文永の役では、嵐が来た(神風が吹いた)のではなく、そもそもが様子見に来寇したシナ・高麗連合軍が、無抵抗だった壱岐対馬と異なり、意外に日本側が武器を持って戦いに臨んだので、驚いて帰っちゃった。。。というのが真相のようです。

高麗の歴史書である「東国通鑑」には、夜半に大風雨があったこと、多くの船が海岸のがけや岩にあたって傷んだと書かれているけれど、これはどうやら、いがいな抵抗を受けて逃げ帰ったシナ・高麗連合軍が、本国である元に報告する際に、記録を捏造したというのが、最近の通説になっています。
なんと、かれらの捏造史観は、いまにはじまったことではない!


これに対し、ほんとうに神風が吹いたのが、文永の役の7年後に起った1281年の弘安の役です。

この7年の間に、幕府の執権、北条時宗は悩みに悩み、尊敬する日本に禅宗を伝えた宋のお坊主、蘭渓道隆からも、

「宋は蒙古を軽く見て、だらだらと交渉している間に侵略され、国をなくしてしまった」と教わり、

また蘭渓道隆の後継者である無学祖元からは

「莫煩悩(ばくぼんのう)」=あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおしなさいの意

を教わり、武家の棟梁として、日本を守るために断固戦う決意を固めます。

北条時宗
北条時宗


そして北条時宗は、敵が世界を手中に収める大元帝国であろうと、座して死を待つより、いさぎよく戦って死のう、と決意する。

文永の役の翌1275年4月15日、元は、杜世忠を正使として、日本に降伏を迫る書簡を解けどます。

文永の役は「蒙古の恐ろしさを知らせる」のが第一の目的で早々に撤退したけれど、こんどはもっとたくさんの軍隊を送るよ。言うことを聞くなら今のうちだよ」というわけです。

しかし。「国を守る」。そう覚悟を決めていた北条時宗は、竜の口で、杜世忠一行5名を、全員を処刑。見せしめとして首はさらしました。いまでいう打ち首獄門さらし首です。
時宗は、これによって、日本の国内世論を、開戦やむなしに固めたのだといいます。

ところが、全員殺してしまったので、肝心の元の側は、使者が死んだとは知らない。
いつまでたっても杜世忠が帰ってこないので、元は翌1279年6月に、周福を正使とする一行を、再度日本に送り込みます。

ちなみに杜世忠も周福もシナ人です。さしもの元も、この時点ではまるで高麗を信用していなかったということでしょう。

北条時宗は、この周福一行も、博多で斬り捨てる。

杜世忠と周福が首を刎ねられたことを知った元は、怒りまくります。
「日本をうつべし」
元の腹は固まります。

一方、北条時宗は、全国の御家人に命じて、博多に防塁を築きます。この工事への参加には、時宗は一切の反論を認めなかったし、各藩の御家人たちも、国を守るためにと、幕府の命に従った。

そして、1281年(弘安4年)、元は、范文虎を総大将とする14万の大軍を博多に差し向けます。

これに対する日本の武士団は、小者の数まで入れて6万5千人。武士だけなら、おそらく1万の軍勢です。
なんと武装兵力でいえば、14倍の大軍を相手に日本の武士たちは戦いを挑むことになった。

日本の武士たちは、夜陰にまぎれ、敵船に乗りこんで火をつけたり、敵兵の首を取るなどゲリラ戦を用いて果敢に戦います。
一方、元軍は、あらかじめ日本軍が用意した防塁に阻まれて、侵攻ができない。

戦線は膠着状態となります。

そうして運命の7月1日がやってくる。

旧暦の7月1日は、いまでいう8月16日です。

この日、北九州方面を、大暴風雨が襲った。

港をうめつくしていた4千艘の船は、台風のまえに、ひとたまりもなく破壊されます。なんといっても船は手抜きの高麗製。どうにもならない。


翌2日、船の残骸と無数の死体が海をうめつくした。

当時を記した「八幡愚童記」は、このときの様子を
「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」と記しています。

「高麗史」もまた「大風にあい江南軍皆溺死す。屍、潮汐にしたがって浦に入る。浦これがためにふさがり、踏み行くを得たり」と書き残しています。
つまり海を埋め尽くす死体の上を歩くことができた。

同史によれば、生存兵19,379名。
士官や将官などの上級軍人の死亡率7〜8割、一般兵士の死亡は8〜9割だった。


すっかり戦意を無くした范文虎らは残った船で宋へ引き上げます。
港には、置き去りにされた元の兵士が多数残った。

これを見た日本軍はたちまち生き残りの元軍兵士におそいかかります。
戦闘は7月7日まで続いた。
捕虜となった数千の兵士はそれぞれの御家人の生け捕り分を記録後、ことごとく首をはねたと記録されています。残虐な殺し方はしない。いっきに首を刎ねている。

殺害したことに抵抗のある人もいるかもしれないが、壱岐対馬での彼らの残虐行為を考えれば、当時の日本軍のやり方は、紳士的にすぎるといっていい。

今でも博多周辺には蒙古塚とか首塚と呼ばれる場所が残っているけれど、これらは当時元軍兵士の首を埋めた場所でもあります。遺体は、日本はちゃんと供養までしている。この供養に行われたのが”踊り念仏”です。

こののち、鎌倉幕府は、弘安の役に対する御家人への恩賞が不十分だった・・・外国からの防衛戦だったために、恩賞を与える土地がない・・・ことから、教科書によっては、
「鎌倉幕府は、外国からの侵略は防げたが、御家人の生活を守れなかった。このため鎌倉幕府は御家人たちの不満が募り、滅亡した」などと書いています。

アホか!といいたい。戦後左翼の思考はそんな程度か!
もし日本が元に侵略されていたら、その後の日本はなくなっている。

それに鎌倉幕府の滅亡は、1333年です。弘安の役の52年後です。そして幕府は源家から足利家に移るけれど、その後1868年の明治政府樹立まで、日本は長い武家政治の時代が続きます。なるほど鎌倉幕府は滅んだけど、日本の国体が解体されたわけではない。征夷代将軍が、交替しただけで、武家政治は、その後500年続く。

つまり、武家を施政者として認める風潮が我が国に定着した。
いいかえれば、元寇によって、世間で、武家の信用が増したといえるのです。

文永の役と弘安の役、この2つの日本史上の大事件、そしてわずか1万の武家で14万の大軍と対峙したという事実は、東北地方の「モッコ」の怖さの伝説同様、武家というものが、国を守る誇り高き志士たちであるという認識を深く日本人の心に刻んだ事件だったのです。


最後にね、蒙古のフビライが日本に送ってきた書簡(文永の役の前のもの)の口語訳を掲載しますので、是非、一読してみてください。

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大蒙古国・国書

天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。

昔から国境が接している隣国同士は、たとえ小国であっても貿易や人の行きなど、互いに仲良くすることに努めてきた。

まして大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきたものであり、はるか遠方の国々も代々の皇帝を恐れうやまって家来になっている。

例えば私が皇帝になってからも、高麗が蒙古に降伏して家来の国となり、私と王は父子の関係のようになり喜ばしいこととなった。

高麗は私の東の領土である。

しかし日本は、昔から高麗と仲良くし、中国とも貿易していたにもかかわらず、一通の手紙を大蒙古皇帝に出すでもなく、国交をもとうとしないのはどういうわけか?

日本が我々のことを知らないとすると困ったことなので、特に使いを送りこの国書を通じて私の気持ちを伝える。

これから日本と大蒙古国とは、国と国の交わりをして仲良くしていこうではないか。

我々は全ての国を一つの家と考えている。

日本も我々を父と思うことである。

このことが分からないと軍を送ることになるが、それは我々の好むところではない。

日本国王はこの気持ちを良く良く考えて返事をしてほしい。

至元3年8月(1266年・文永3年)
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わかりますか?

相互に仲良くしようといい、一通の国書をも送らないとささいなことでケチをつけ、すべてをひとつの国であるなどと調子のいいことをいい、シナを父と思えと都合のいいことまで云いながら、その一方で言うことを聞かないのなら軍を送るぞと、脅かしている。

これって、いまのシナの対日外交姿勢と似ていると思いませんか?

日本は戦いました。元を強大な国家と知って戦った。

そのおかげで、いまのわれわれがいる。
先の大戦と同じです。
当時の人は、何十倍もの兵力を持つ相手と、必死になって戦った。

それとね、もうひとつ。

文永の役では、実は神風は吹かず、弘安の役で神風が吹いたと書いたけど、上の文にいちばんたいせつなことを加えます。

当時、ただ動揺するだけの朝廷や、幕府の閣僚に対し、北条時宗は元の使者を切り捨てることで、明確に「戦う意思」を示した。

おそらくは当時の多くの「護憲・9条派」から、反対と怨嗟の声を浴びたと思う。

だけど北条時宗は、断固として「戦う意思」を示した。

これに多くの武士たちが賛同し、弘安の役の備えをした。

ぼくはね、元寇における真の「神風」は、台風ではなく“北条時宗の決断”そのものだったのではないかと思っています。時宗そのものが「神風」だったのかもしれない。

そしてその決断に、日本の八百万の神々が、台風をもって答えてくれた。

そしてたぶん、いまの日本に一番必要なのは、北条時宗なのではないか。

ちなみに元も、高麗も、元寇のあと、内乱に次ぐ内乱が起こり、元は明に滅ぼされ、高麗は李氏朝鮮に統治が変わり、とりわけ李氏朝鮮は、国民にとっての収奪国家としてその後の半島の発展を400年間にわたって失わせています。

日本に手を出した国は必ず滅びるのです。

弘安の役で、もし日本が戦うことをしなかったなら、元の大軍は、易々と上陸を果たしていたことでしょう。

そして上陸していたならば、彼らは台風で軍団が壊滅することもなかった。

明確に戦う意思を示した北条時宗の英断と、命を的に戦いぬいた鎌倉武士たちの活躍がなければ、その後の日本の歴史は大きく変わっていた。そのことは、誰でもが理解できることだろうと思います。

日本を守ってくれた北条時宗、そして鎌倉武士団に、わたしたちは深く感謝すべきだと思うのです。

同様に、先の大戦で亡くなられた多くの日本の将兵のみなさんも同じです。
国を守るために必死になって戦った。

施政者は、その苦しい戦いに大決断を下した。

その彼らに対し、わたしたち現代に生きる日本人は、やはり、深い感謝と哀悼をささげなければならないと思うのです。

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玉砕してまで戦った理由

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アッツ島に残された日本軍守備隊の写真
アッツ島


先の大戦では、多くの戦場で日本の将兵が「玉砕」の道を選びました。

「敵は幾萬」とい軍歌には、
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敗れて逃ぐるは國の恥
 進みて死ぬるは身のほまれ
瓦となりて殘るより
 玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬ事は
 武士のなすべき道ならず
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という歌詞があります。
この歌は1886年(明治19年)の歌です。

この歌詞にあるように、玉砕は武士道の一端という見方もあります。

東条英機氏の戦陣訓には「生きて虜囚の辱めを受くることなかれ」とあることから、日本の将兵は、敵兵の捕虜となることもできずに、貴重な人命を犠牲にされた、というように書く人もいます。

そして勝てる見込みも、救済できる見込みも、敵に大きな兵力的損害を与える見込みもない中で、大勢の味方の人命が確実に喪失する玉砕戦は、しばし、大本営や日本軍の人命軽視の象徴のようにいわれることが多い。

大東亜戦争における玉砕戦には、以下のようなものがあります。

おいおい、ひとつひとつの戦いの検証もしていきたいと思いますが、どれも悲しい戦いであったことは事実です。

1943年5月29日:アッツ島守備隊玉砕
1943年11月22日:ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊玉砕
1944年2月5日:マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕
1944年2月23日:マーシャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕
1944年7月3日:ビアク島守備隊玉砕
1944年7月7日:サイパン島守備隊玉砕
1944年8月3日:テニアン島守備隊玉砕
1944年8月11日:グァム守備隊玉砕
1944年9月7日:拉孟守備隊玉砕
1944年9月13日:騰越守備隊玉砕
1944年9月19日:アンガウル島守備隊玉砕
1944年11月24日:ペリリュー島守備隊玉砕
1945年3月17日:硫黄島守備隊玉砕
1945年6月23日:沖縄守備隊玉砕(指揮官の自決により組織的戦闘終了)

このほか、はじめから死ぬことを前提に出撃する特攻や、単騎出撃した戦艦大和の例もある。本土決戦、一億総玉砕といった言葉もある。

しかし本当にそうなのでしょうか。
日本の将兵は、ただ命令があったから、ただ命を軽視されたから玉砕したのでしょうか。
ただ戦陣訓に書かれていたから、それで命を捧げたのでしょうか。

そんな簡単に死ねる?
ぼくにはどうにも、納得ができないのです。

もし、あなた自身が、徴兵され、戦地にいたとして、意味もわからず上官から玉砕せよ!と命令されたら死にますか?

指示・命令だけで死にますか?

会社の社訓に「恥ずかしめをうけないようにしなさい」と書かれていたら死にますか?

日本人の心というものは、いまも昔も、変わりはありません。

死ね、といわれて「はい、そうですか」と簡単に死ねるほど、人は簡単な生き物じゃない。
生に対する執着は、いまもむかしもかわりなどありません。

あなたは死を選ぶかもしれない。では、あなたの周りの同僚の方々はいかがですか?

人間、そんなに簡単に、命令だからといって死ねるものではないです。

上官の命令だから「やむなく」従っただけというのなら、その上官が死んだら、自分はさっさと降伏し、戦いを放棄して逃げ出す。それが人間というものの普通の行動です。

実際大陸での昔の戦争や、シナ兵などの行状をみると、背中から銃を突きつけられてやむなく戦わされていた徴用兵(一般市民から徴用された者)は、戦線の敗色濃厚となったとき、クモの子を散らすように逃げ出した。それどころか、敗色濃厚になったら、真っ先に逃げたのは、後ろから銃を突き付けていた兵士たちです。

上に記した各玉砕戦でも、米軍は日本語で、再三、投降を呼び掛けています。

戦後の学者やマスコミは、日本の兵士は、指示や命令で玉砕を余儀なくされた、と説くけれど、そんなことは、はっきり申し上げて不可能です。

可能だとおっしゃるなら、あなたが、部下に「いますぐに車の前に飛び出して死んでこい」と命令してみてください。

あるいは、あなた自身が、上司からそう命令されたとして、即座に「はぁい♪」と命令を聞きいれ、車に跳ねられて死ぬことができますか?

「平時と戦時は違うよ」という人がいるかもしれない。

戦時だから死を選んだ?

ならば戦地ならあなたは上官も指揮官もいなくなったあとで、突撃しますか?
そこにいる全員が、死を選びますか?

諸外国の兵士たちは、戦局不利が明白になったとき、わりと簡単に投降しています。

では、日本兵だけが特殊だったのですか?

いまこれを読んでいるあなたも日本人です。ではあなたは、上司の命令とあれば、死を選びますか? その上司がいなくなったあとも、ひとりのこって戦って死ぬことを選びますか?

人間、そうそう簡単に死ねるものではないです。

玉砕戦というのは、日本だけのものではありません。

守備側が降伏を拒否し、全滅するまで戦ったものとしては、

テルモピュライの戦いでのスパルタ軍の全滅。
マサダ砦でのユダヤ人の全滅。
アラモの戦いでのテクシャン反乱軍の全滅など、海外にもいちぶその例はあります。

しかし先の大戦のように、日本軍の守備隊が、ことごとく玉砕戦を戦い抜いたという例は、世界史に例をみません。

なぜでしょう。
どうして日本兵は、そこまでして最後の一兵まで戦い抜いたのでしょう。

ひとつには、捕虜となったときの敵の残虐さへの恐怖があった・・・これも事実でしょう。

ご紹介した通州事件や、尼港事件など、敵の残虐さは枚挙にいとまがない。

でもね、愛する人、愛する家族や、恋人、友のいる祖国をね、守るために自分たちがそこにいて、守備隊をしていて、ここで一日でもいいから敵をくぎ付けにしたら、もしかしたら愛する人の命を、ほんのいちにちでもひきのばすことができる、そう思ったら、あなたは戦いませんか?

自分は、ここで死ぬかもしれない。でも、ここでいちにちでも長く敵をくぎ付けにしたら、愛する人がいちにちでもながく生きられるかもしれない。

自分たちが最後の一兵まで戦い抜くことで、日本畏るべし、という印象を敵に与えることができたら、なんとか早期に講和して、愛する人の命を守ることができるかもしれない。

上官の命令なんかじゃないです。

上官に指示されたから死ぬんじゃないです。

戦陣訓なんて関係ないです。

日本の兵士たちは、ひとりひとりが強烈にその思い・・・愛する人を守りたい、愛する人のいる祖国を守りたいという思いがあったから、みんなが死ねた。

日本の将兵は、そのために玉砕戦を戦い抜いた。

補給もない、食べるものも、飲み水さえもない中で、命を懸けて戦った。

それは、祖国にいて生き残る者たちのためであり、未来のわたしたちのため。

そのために、日本の軍人は、ひとりひとりが最後の一兵まで戦い、散って行かれた。そういうことなのだと、ボクは強く言いたいのです。

戦後を生きている私たちの命は、そうやって散って行かれた200万の英霊に守られた。

そして私たちに託された未来は、人々が平和であかるく、そして誇り高く生きることなのだと思います。

そのことを、わたしたちは、いまいちど胸に手を当てて、しっかりと考えてみなければならないときにきているのではないでしょうか。

亡くなられた英霊の死を無駄にするな!と思う方
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KAMIKAZE 〜或る特攻隊員の手記〜

田原総一郎氏の大きな間違い

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ご紹介するVTRは、朝まで生テレビのものです。

朝まで生テレビ


田原総一郎氏「日本はどうして負けるとわかっている戦争をしたのか」

田母神俊雄氏「日本は侵略される側にいた。戦わなければ日本は植民地になった」

田原総一郎氏「それは玉砕主義だよ(笑)」

・・・・・・・・・・・・

戦わなければ日本は植民地になっていた。

それだけじゃない。いまごろは、東南アジアで植民地になっていない国はおそらくひとつも残っていなかった。

大東亜戦争当時、日本の人口は約8千万人だったけれど、過去の歴史を見て、植民地にされた国の国民はすべて、人口の9割を失っている。

とするなら、2009年の日本の人口は800万人程度だ。

いまの日本の人口は1億2700万人。

つまり、もし日本が戦っていなければ、いま生きている日本人の16人にひとりしか生きていない。16人中15人までは、いまこの世にいない。

こういうことを書くと、「歴史にIFは禁物でしょう」などと、番組に出演している村田晃嗣同志社大教授や、共産党のおじさんなどから嘲笑をかいそうだけれど、ボクにいわせれば、歴史にIFは禁物という言葉自体がサヨクのプロパガンタだ。

歴史はIFを考えることで、いまをいきる我々の血となり肉となる。
歴史にIFを考えるな、というのは、我々庶民に頭脳停止しろと言っているに等しい。

日本が先の大戦を戦わず降伏して、植民地となっていれば、おそらくこのこの番組に出ているすべての人は、いまこの世にいない。

上の動画で、田母神氏を批判している、いっけん平和主義を装う紳士(?)諸君は、戦い、散っていった先人達への感謝の思いすらもてない忘恩の徒と、あえて断じたい。

田原氏は、玉砕主義だと言った。

ものすごく冷たい言い方になるかもしれないけれど、先の大戦で日本が失った戦没者は、約200万人。(なくなられた将兵ならびに一般人の方々には、深く哀悼の意を捧げます)

戦争というものを「人口損耗率を最小にとどめながら勝利を目指すもの」とするなら、日本は、人口の2.5%を失うことで、人口の97.5%にあたる7800万人の命を救った。

植民地となって、人口の90%を失うことと、人口の2.5%を失うことで、多くの人命を守ったことと、そのどちらが日本にとってよかったのか。
これをお読みになっておられる皆様なら、もう答えは明白だろうと思います。

そして、以前にも書いたけれど、戦争というものを「ある政治目的を達成するための究極の手段」(クライヴィッツ“戦争論”)とするならば、日本は東亜の人種差別撤廃と、植民地支配への抵抗、そして日本および、既植民地化された東亜の国々の独立の保持を目的に先の大戦を戦った。

日本は、多くの戦没者を出し、本土を焼土と化したけれど、上に述べた戦争の目的は、すべて達成している。

実際、東亜諸国は次々に独立を果たし、欧米列強と謳われた欧米諸国は、植民地の権益をことごとく失った。

しかも、戦後の復興はめざましく、いまや世界2位の経済大国にもなった。

日本は「ろくな戦略もなく、負けるとわかっている戦争をした」のではありません。

すくなくとも日本は、誠心誠意ひたむきに、まっすぐに、極めて苦しい戦いであることを承知で戦い、戦争に勝った。

「ろくな戦略もなく」というけれど、それも違う。断じて違う。

一例を述べます。

戦艦大和は、日本の誇る巨大不沈戦艦だった。

その大和ですら、日本は沖縄突撃を敢行し、そして米航空機によって破壊された。

日本はバカだから時代が航空機の時代に移っていたのに、大和を単騎で、沖縄に向かわせたと、いわれています。

それも違う。断じて違う。
なぜなら世界ではじめて航空機によって戦艦を沈没せしめたのは日本軍です。
→参照:マレー沖海戦と戦艦大和
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-531.html

しかもそのとき日本軍は、大和攻撃に米軍が用いた航空機の、わずか5分の1の兵力で大英帝国誇る戦艦2槽をいっきに沈めている。

すでに制空権を失っていた日本の大本営は、大和が出撃すれば、敵が航空機をもって叩きにくることは十分に承知していた。

それでも大和を出撃させたのには、理由があります。

すでに戦争は末期だった。日本にはもはや戦艦や航空機を自在に動かすだけの石油もなかった。

石油がなければ、戦艦も無用の長物でしかない。

そして日本は、なんとかして有利な条件での連合国との講和を目指していた。

一方、連合国側も戦費が底をつき、財政は破たん状態。英国はロンドンを焼かれ厭戦気分が増していたし、米国も、戦死者のあまりの多さに、国内世論が終戦を求めていた。

そんな中で、日本は、あくまで戦い抜くぞ、大和を犠牲にしてでも戦いぬくぞ、という姿勢を、大和出撃で世界に示した。

日本はどこまでも戦い抜くのだぞ、というメッセージを発信し抜くことで、日本は、すこしでも有利な条件で講和を図ろうと最後の抵抗をしていた。

大和の最後の出撃は、そういう目的をもった出撃だった。

それは乗組員の貴重な人命をあまりに粗末にした無謀な行為だ、という人がいるかもしれない。

なるほど大和の乗員3,332名のうち、生還したものは、わずか269名だ。

しかし、戦艦沈没時というものは、ふつうは、乗員の95%以上は海に避難し、助かるものです。

大和の乗員が亡くなったのは、米軍が、残存し、海に漂流する乗員に対し、飛行機や艦船から機銃掃射を加えたことによる。

武器も持たず、丸裸で漂流する戦艦乗組員は、もはや戦闘員ではない。

そして非戦闘員に対する虐殺行為は、あきらかなジュネーブ条約違反です。

ついでにいうと、情報戦のことがある。

よく、アメリカは艦船にレーダーを搭載し、日本の飛行機や艦隊が来襲すると、その何百キロも手前から、敵兵力を察知していた。日本はバカだからそうしたレーダーを持ちいなかった。

これもウソです。大和にはそのレーダーがちゃんと搭載してある。

搭載してなかったのは、旧式の艦船(主に輸送船)です。これはどこの国もレーダーの搭載はしていない。

さらにいえば、そのレーダーのためのアンテナは、八木アンテナといって、日本の八木秀次氏が開発した技術です。

アメリカは、その技術をパクったうえ、戦後、科学者であった八木秀次氏を右翼と断定して公職追放している。

日本は「ろくな戦略もなく戦い、負けた」のではありません。
究極の苦しみの中を、味方に莫大な犠牲を払いながらも、戦いぬき、そして戦争目的を達成した=戦争に勝った、のです。

いま、ボクたちが、この世に生を受け、こうして生きているのは、亡くなられた英霊の方々が、それこそ命がけで祖国を守ってくれたからだ。ボクはそう思います。

そしてお亡くなりになられた英霊の方々に、心からの感謝と哀悼の意を表したいと思います。


日本はいい加減、自虐史観から目を覚ませ!と思う方
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尼港事件・・・日本はなぜシベリアに出兵したか

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尼港 1900年
尼港 1900年


国民の生命財産を保護するためにはどんな屈辱にも耐えろ、という考え方があります。いまの日本政府の外交がまさにこれにあたります。

これに対し、「黙って殺されるよりは戦い抜く」という考え方があります。

あなたならどちらを選択するか、尼港事件で振り返ってみたいと思います。


1917年、レーニンに指導されたロシア革命が起こりました。

歴史教科書などをみると、なにやらロシア共産主義革命によって、ただちにロシア全体が自由と希望に満ちた国家になったかのような記載になっていますが、これはまったく事実に反します。

当時、レーニンの政権は、列国のいずれからも承認されていない。むしろ過激派政府として警戒されていたというのが実情です。

そしてロシアは、この革命によって各地で無政府状態が出現した。

多数の囚人が送られていたシベリアでは、「シベリア送り」となっていた凶悪犯罪者らが牢から出され、共産パルチザンとして残虐な悪行の限りを尽くすようになっていた。

当時、シベリア方面には、まだ保守派のロシア極東総督、ロザノフ中将、コルチャック提督などがいて、彼らが革命派勢力およびそれと結託した武装した共産パルチザンと戦っていた。

武装した共産パルチザンは、外国勢力追放を叫び、各地で外国人の襲撃事件を起こしていた。

英米日の3国は、これに対抗するため1918年8月、シベリアに出兵します。

ところが翌1919年になると、、シベリア・オムスクにあったロシアの穏健派総督府が武装共産パルチザンの攻撃を受けて崩壊してしまう。

危険を感じた米英両国はシベリアから撤兵してしまいます。

このため均衡を保っていた日本の防衛線が極度の戦力不足となり、補充の為やむなく第12師団を各地に分散して派遣せざるを得なくなったのが、シベリア出兵の実状です。

日本側にしたら、友好で穏健な総督府があれば、極東の平和と日本居留民の安全みならず、日本の安全を守る利益にもつながったけれど、その穏健総督府が倒れたとなると、これは日本居留民ならびに日本本土防衛上からも、大問題です。
なぜなら、地理上シベリアは、北海道・樺太に直結している。

相手が武装集団である以上、軍の増援は、やむをえない措置であったといえます。


そして1920年1月29日、問題の“尼港事件"が起こります。

尼港(ニコライエフスク)という地は、黒龍江河口から20キロの地点にある町です。
樺太の北端に近いところにある。

当時、尼港には、
日本居留民 約   700名
白系ロシア人約1万5000名
中国人   約  1000名
朝鮮人   約   500名
の、合計約1万7千名あまりが住んでいた。

シベリア出兵以来、この地には、日本軍の2個歩兵中隊が駐屯し、現地の居留民保護にあたっていて、付近の共産主義武装組織は一時鳴りを潜めていた。

ところがこの日、トリビーチンを首領とする約4000人の共産パルチザンが、尼港市街を包囲します。

守備していたのは、石川少佐率いる2個中隊と無線電信隊の40名、それから保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ぶ)、合計しても約500名のみです。

そして共産パルチザンは、和睦すると見せかけて市内に入るやいなや、このロシア白衛軍の将兵を捕らえて全員を虐殺。

あわせて一般市民の中から「有産智識階級」と思しき市民を虐殺。

さらにユダヤ人を選んで虐殺した。

共産パルチザンは、次々と白衛兵と白系市民を銃剣で突き刺し、黒龍江の結氷を破ってつくった穴から、凍る流れに人々を放り込んだ。
これによってロシア人とユダヤ人約2,500人が惨殺された。

尼港の石田副領事は、この暴虐に対し「厳重抗議」を行います。

しかし、共産パルチザンたち武装組織はこれを受け入れず、逆に日本側に対し武装解除を要求してきました。

日本兵が武装解除したら、そのあと何をされるかは明らかです。

現地の日本軍部隊は、日本に急を知らせる電文を打つのだけれど、日本からの救援隊は海面凍結のために派遣することができない。

さっさと撤退すればよかったのではないかという人もいるかもしれないけれど、冬のシベリアは海が凍り、小樽からの救援部隊も容易に近づけなかったし、陸上からの救援も到着に40日を要した。
日本軍部隊は、撤退するにも撤退できなかった。

駐留部隊は、シベリアの尼港で、完全に孤立していたのです。

白人たちの惨殺を目の当たりにしていた日本人部隊は、義勇隊を募り、110名で武装パルチザンの本拠を急襲します。
しかし、敵は4000人の大人数。
衆寡敵せず、駐留部隊指揮官石川少佐以下多数がまたたくまに戦死した。

日本人居留民700名は、領事館に退避しましたが、この時点で集まることができたのは、わずか250名。
逃げ遅れて武装した共産パルチザンの手にかかった者も多数いた。

共産パルチザンは、子供を見つけると2人で手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女と見れば老若問わず強姦し、おもしろ半分に、両足を2頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺したといいます。

日本領事館での戦闘はまる一昼夜続きます。

そして領事館内の生存者も28名となり、弾薬も底をついた。

残った一同は、まず子供を殺し、石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決します。

そして尼港に残る日本人は、河本中尉率いる別働隊と領事館に避難しなかった民間人121名となった。

抵抗を続ける日本人に対し、共産パルチザンは策を弄して、「山田旅団長の停戦命令」を偽造します。

河本中尉は、あやしいと思いつつも、「停戦命令に従わなかった事が、他日、国際上の問題となることを心配し」これを受け入れます。

そして121名は武装解除のうえ投獄され、食事もろくに与えられず、日本の救援軍に対する防御陣地構築に駆り出され、さらに零下30度のアドミラル河岸で両手を針金で後ろ手に縛られたまま共産軍によって次々と川に放り込まれ殺された。

残された在留日本人(この人達は当時商社などに勤めていた一般市民)も、多くが共産パルチザンの手で惨殺された。


春になって、旭川第7師団の多門支隊が現地の救援にようやく赴きました。

そこで彼らは、地獄絵図を見た。

焼け野原と化した尼港には死臭が漂い、
「いったん撤退するが再び来て日本人を征服し尽くす。覚悟せよ」
と記した共産パルチザンの声明書が残されていた。

日本の救援部隊来着近しの報を受けた共産パルチザンは、5月14日、中国人の妻妾となっていた14名以外の日本人全員を虐殺していたのです。

唯一生き残った彼女らの話では、投獄された日本人たちは、

生きたまま両目を抉り取られ、
5本の指をバラバラに切り落とされ、
死ぬまで何度も刺された。

そして金歯があるものはあごから顔面を裂かれて抜き取られ、
女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺された。

獄舎の壁には、血痕、毛のついた皮膚などがこびりついていたそうです。
被害者の手によると思われる鉛筆書きで「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」と書かれていた。

尼港事件
尼港事件


以上が尼港事件の概略です。

この事件が起こった時点は、日本とロシアは戦争状態ではありません。
そもそも帝政ロシアは崩壊しており、レーニン指揮下のソ連も、この時点ではまだ国際的に国家として承認すらされていなかった。まだロシアもソ連もなかった。

しかも武装した共産パルチザンは、共産主義を語りながら、その実は、凶悪犯と夜盗の群れでもあった。

いま、日本の歴史教科書には、日本のシベリア出兵について、次のように書いてあります。

「日本がシベリアでの勢力拡大を狙い、連合国間の協定に違反する大兵を派遣し、撤退したのも最後になった」(中学社会 歴史 教育出版)

これだけ読んだら、まるで日本が悪者です。

でも、上の文をお読みになった方にはわかるはずです。

ロシア革命によって無政府状態に陥ったロシア・シベリア。
その地にあった穏健派のロシアのシベリア督府への英米日の軍事派遣。
督府崩壊によってさっさとシベリアを放棄して逃げだした英米軍。
日本本土防衛上、軍の駐屯を続けざるを得なかった日本。

なるほど日本は第12師団をシベリアに派兵していますが、師団は、各地に分散し、尼港のような大きな都市でも、守備隊は、わずか2個中隊だった。(中隊というのは、1中隊136名の小規模部隊です)

そして日本軍が少数であることをよいことに、4000人という大人数で襲いかかった極悪非道な武装共産パルチザン。

なるほど日本は、尼港事件の救援に、師団規模の救援隊を差し向けました。(=軍の増援を図った。)

しかし、この一連の流れのどこがどうして「日本がシベリアでの勢力拡大を狙い、連合国間の協定に違反する大兵を派遣し、撤退したのも最後になった」という記述になるのか?

日本人が共産党のパルチザンに殺害されたこの尼港事件は、一大国辱事件として、当時の日本の全国新聞によって大々的に報道されています。
国際的にも、大きな報道となった。

にもかかわらず、現行の歴史教科書が、この事件に全く触れず、日本の立場のみを悪くするような記述に終始するのはなぜなのか。

当時、シベリア派兵したのは日本だけでなく、英米も同じです。

各国が共産主義の拡大に脅威を感じていたのであり、どこの政府も現行教科書が記述するような「共産主義革命」を歓迎していない。

しかもレーニンの過激派政府は、列国のいずれからも承認されていない。

日本は、米英と比べてロシアに対する近さが違う。
シベリアの赤化は日本本土に対する直接的脅威だった。

犠牲になられた日本人に、心から哀悼の意を表します。

同時に、いつまでも、こうした自虐史観にしばられた教育というものを、日本は、本気で見直さなければならないと、ボクは思います。

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日本視点の戦争
(前3分の1くらいから通州事件、尼港事件が紹介されています)

敗れて濡れ衣

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大東亜戦争開戦時、日本は12月8日のマレー半島上陸から、わずか55日間でマレー半島のイギリス軍を降伏させました。

マレー半島はイギリス軍が支配していましたが、彼らは橋を爆破しながら撤退。

マレー半島内の橋梁を破壊するイギリス軍工兵
マレー半島内の橋梁を破壊するイギリス軍工兵


橋がない中で、日本軍が戦車や武器弾薬、食糧をどうやって運んだのかというと、実は、工兵隊が、川につかり、木材をみんなで担いで、その上を兵士や自転車、戦車などが通った。

ご存知の方も多いとおもうけれど、マレーの川は日本の川のような澄んだ川面じゃないです。

泥水で濁っている。

そこに工兵だったひとたちが、板を担いで飛び込んだ。

イギリス軍が破壊した橋、250本。
橋の修理をしていたら、進撃に間に合わなかったのです。

マレー戦での戦いは、戦闘95回。

日本軍の移動距離、1,100キロ。

日本軍の損害は戦死1,793、戦傷2,772。

その間、イギリス軍が遺棄したイギリス兵士の遺体約5,000の埋葬も、日本軍は行っています。

この作戦の指揮をとったのが山下奉文大将です。

山下隊は、2月8日、日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸した。

主要陣地を次々奪取し、11日にブキッ・ティマ高地に突入。

ところが、イギリス軍の集中砲火がものすごくて動けない。

山下隊は、ありったけの火力で応戦するのだけど、15日、日本軍の砲弾がついに底をついた。

「司令、弾がありません」

「うーん、とりあえず、まて」

そして弾のなくなった日本軍が、その場からどうやって逃げようかと算段しているときに、イギリス軍から、白旗があがり、降伏の使者が到着した。

水源が破壊され給水が停止したことが抗戦を断念した理由だったといいます。

限界ギリギリの戦いだったのですね。

降伏交渉を行う山下奉文大将と
シンガポール駐留イギリス軍のアーサー中将
降伏交渉を行う山下奉文大将と


この戦いのあと、キッティマ高地にあるフォード自動車工場で、山下大将が目をむいてイギリス軍司令官に「イエスかノーか」と迫ったというのは有名な話なのだけれど、実は、これは当時のマスコミの創作。

実際には、この言葉の相手は、イギリス司令官に対してではなく、台湾人の通訳に対してはなった言葉だったそうです。

山下大将は、通訳に、
「まず降伏する意思があるかどうかを聞いてほしい」と述べますが、通訳の日本語が怪しい。いらだった大将が、「降伏する意思があるかどうか、イエスか、ノーか、聞いてほしい」と、言ったシーンが、上手に脚色されて、あのシーンになった。(下動画参照)

話が一人歩きしていることに対し山下大将は気にしていたようで、「敗戦の将を恫喝するようなことができるか」と否定したといいます。
実際、その場に居合わせた全員が、この出来事を否定している。

ついでにいうと、このときの交渉の模様の映像は、交渉の迫力を増させるために早送り再生されています。

マレー作戦の成功で、山下大将はメディアによって国民的英雄にされますが、山下大将自身は、こうした戦いに勝ったことよりも、戦いで亡くした多くの部下の死を悼む思いが強かったといいます。

大東亜戦争終結時、かつてシンガポール攻防戦で降伏調印させたイギリス軍のパーシバル中将のもとで、こんどは逆に山下大将が降伏文書に調印した。

敗戦を知って自刃しようとした山下大将を思いとどまらせたのは、玉砕突撃を敢行しようとする部下たちを無益な死から守るためだったといいます。

山下大将は、戦後、戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられ、死刑になります。

山下大将への求刑は、彼の部隊がフィリピンのマニラで、現地のフィリピン人10万人を虐殺したというものです。

1945年1月にフィリピン、ルソン島のマニラに、米英連合軍が上陸しました。

2月3日、米軍第1騎兵師団と第37師団がマニラへ突入した。

山下大将はマニラの市街戦を避ける方針だったけれど、米軍との間で3週間以上の激しい市街戦を行った。

当時、マニラ市内には約70万人の市民が残っていたといいます。

そして米軍の軍の砲撃は、市街地が灰燼に化するほど激しかった。
市民が巻き添えになった可能性は十分あります。

そして亡くなられたとされるフィリピン人10万人は、マニラの戦いを通じてのフィリピン人犠牲者の数とほぼ同数でもある。

つまりこの裁判は、米軍が行ったマニラ市街の完全破壊による一般市民の犠牲者への責任を、まるごと日本軍に転嫁した裁判だった。

それでも山下大将は、マニラ軍事裁判の席上、「私に責任がないとは言わない」と、従容として死刑を受け入れます。

この判決には、米陸軍の法務将校らが猛然と反発もありました。
彼らはフィリピン最高裁、アメリカ連邦最高裁判所にまで死刑の差止めと人身保護令の発出を求める請願までした。

しかし米最高裁6対2の投票で請願を却下。

山下大将は、マニラで、軍服の着用も許されず囚人服のままで絞首刑に処せられました。

「敗ける」ということは、こうしたあまりにも理不尽な振る舞いさえも、受け入れなければならないということなのでしょうか。

いま、日本の政界は、「日本を貶めることを是とする勢力」と、「日本の自立再生を図ろうとする勢力」とが次期衆院選で争おうとしています。

すでに、地方知事選では、前者が勝利。

いよいよ国政レベルでの対決が迫っています。

戦う以上、勝たなければならない。

日本を売るような政党、日本を貶めるような候補者を、絶対に勝たせてはならない。

そう、思います。

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マレー戦記

リットン調査団の虚構

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リットン調査団
リットン調査団


リットン調査団と聞けば、現代日本人の多くは、

「リットン報告書を国際連盟が認め、国際連盟を脱退しているから、リットン報告書といえば、日本の「満洲侵略」を国際社会がこぞって非難したリポートだ」という印象をもっている人が多いように思います。

ところが、実はリットン報告書は、満洲国を認めているのです。
同時に、日本の立場をかなりの部分で、擁護している。

そうすると、どうしてこの報告書で、松岡洋右は、日本は、国際連盟を脱退してしまったのかが疑問になります。

どうやら私たちは、リットン報告書→満洲侵略→国連脱退→戦争突入という認識を刷り込まれているようです。

当時、満州国を承認した国は以下の通りです。

日本、エルサルバドル、ローマー教皇庁、イタリア、スペイン、ドイツ、ポーランド、ハンガリー、スロバキア、中華民国(汪兆銘政権)、ルーマニア、ブルガリア、フインランド、クロアチア、デンマーク、タイ、ビルマ、フイリッピン、ドミニカ、エストニア、リトアニア、ソ連(領事館開設)、自由インド仮政府(チャンドラ・ボーズ首班)

昨日の記事で、宣教師の女性奴隷狩りを書きましたが、ここではなんとありがたいことに、ローマ教皇庁も、満州国を承認しているし、中華民国も、満州国建国を承認している。

いったいなにがどうなっているのでしょうか。

そこで、リットン報告書の内容を見てみます。

リットン報告書は、10章からなっています。

第1章では、清の没落、その後の内乱、国民党の結成、共産党の跋扈までを詳述しています。

第2章では、満洲の今日の発展は日本の努力によることを詳述。

第3章では、日本の満洲における合法的権利を説明し、満州国の世界に類例を見ない特殊性を認識し、鉄道、商租権その他に関する諸争点、殊に事変勃発前数年間の重要問題・・・満州における朝鮮人の横暴問題、中村大尉殺害事件の詳報などを解説しています。

第4章は、1931年9月18日の柳条湖事件(以後の張学良軍との戦い=「満州事変」)を詳述し、当夜の日本側の軍事行動は正当防衛の措置と認められないまでも、将校等が自衛のために行動したという仮説を排除し得ないと記述。

第5章では、上海での2月20日から日本軍撤退までの行動を略記。

第6章で、満州国の建設は、日本の文武官の一団が、独立運動を計画し、組織したものだから、満州国は自発的独立国とはいえないとしながらも、満州国政府の財政、教育、司法、警察、軍隊、金融は、非常に整ったものであり、満州の人々に相当のメリットがあることを詳述。

第7章では、日本が持ち込んだ近代的行政や商業制度に対し、支那の文化が優越するという信条を持った支那人が、合理的思考ではなく、政治信条的思考によって、満州国の産業の育成阻止を図った不法行為を詳述。

第8章では、その満洲国の人々の経済基盤(資源および開発)には、日中両国の親善回復が不可欠であると結論付けています。


以上の記述からうかがえることは、日本の正当性をリットン報告書はちゃんと認めている、という事実です。

ところが、9章になると、その様相が変化します。
すなわち、日本の支えによる満州国の存在に疑問を呈している。

そしてその解決方法の仮設として、続く第10章では、

「満州国は、その統治にあたり、諸外国による諮問会議を招集すべきこと、ならびに満洲自治政府には一般条約締結、外交関係設定、税関、郵便、塩税、印紙税、煙草税の管理、ならびに行政長官の任命権を与えず、これを中国政府に留保し、特別憲兵隊は外国人の協力を得て組織し、満洲における唯一の武装団体とするため呂国軍隊は全部撤退し、行政長官は外国人顧問を任命し、その大部分を日本人とすべしとしています。

どうも最後のクダリは、日本の権益を認めず、さりとて中国にその権利を与えるのでもなく、ある程度日本が構築した満州のインフラを、そのまままるごと満州国、中国、日本の手から取り上げようとする意図が見え隠れしています。

以上の諸点を、逆さに読むと、リットン報告書の性格が、非常に明らかになる。

すなわち、

満州国を認めず、その統治を事実上英米仏等に委ねさせよう(第10章)。

対立する日中では、満州は落ち着かない(第8・9章)

そもそも中国に、満州統治の能力はない(第7章)。

日本によって、荒野だった満州は、非常に肥沃な地域に生まれ変わっておいしい国になっている(第1〜6章)。

要するに、簡単にいえば、最初から列強が満州を支配するための“できレース”にすぎなかったリットン調査団ですら、日本の満州統治の、人道性、合理性、適法性を認めざるを得なかった。

そこで、「日本の実質統治はかならずしも現地の人々に指示されているとはいいがたい」などと、とってつけたような屁理屈で、満州国を否定するしかなかった。

そもそも、中国は清王朝時代に、列強に食い物にされ、国内は内乱状態にあった。

日本で学んだ孫文がこれを嘆き、中国国内に中華民国を建て、清の最後の皇帝溥儀が退位し、清王朝が滅ぶ。

ところが中華民国に対立する中国共産党が暗躍し、列強も利権をめぐってこうした中国国内の内乱を後押し、中国国内における植民地の拡大を図っていた。

清王朝は、もともと満州地方の女真族の王朝です。

日本は、溥儀らの求めに応じて、満州に、正当な女真族の王朝国家を築く手助けをした。

その国のインフラの整備に、莫大な投資もした。

もちろんそれは、日本にとってメリットのあることではあったけれど、彼ら満州人にとっても、日本以上に数多くのメリットのある出来事だった。

それをこころよしとしなかったのは、中国国民党であり、欧米列強だった。

なぜかといえば、欧米列強は“植民地”拡大の利権が欲しい。
中国国民党にしてみれば、清王朝が生き残ることは、そのまま自分たちの存在の否定につながる。
いずれも、自分たちの都合です。

誰も満州人の平和と繁栄など考えてなどいない。
それを考え、かつ実現しようとしたのは、唯一日本だけだった。
これが、歴史の事実です。

だから日本は、通州事件等、悲惨な事件を経由しながらも、満州の国益を必死に守ろうと努力した。

日本は、ときに蒋介石率いる国民党と干戈を交えた。
戦いは日本の連戦連勝だったけれど、大東亜戦争で日本は敗退し、大陸から撤退した。

このとき、ソ連から武器援助をもらって、日本との戦いに疲弊した国民党を叩いたのが、毛沢東率いる八路軍です。

そして、毛沢東は国民党を追い出し、中華人民共和国を建国した。

中共は、我々は日本と戦ったと胸を張るけれど、彼らが日本軍と戦った史実は、まったく、ない。一発の銃弾も交わしていない。

彼らが戦ったのは、中国国民党であり、日本とは戦っていない。

にもかかわらず、同じ中国人同士で戦ったというと聞こえが悪いから、「我々は日帝と戦い、中国人民を解放した」と、ねつ造した歴史観を、国民に刷りこんでいる。

はっきりといえるのは、日本は、明治以降、人道的に「正しい」ことをし続けたということ。

戦争で亡くなられた日本の200万の英霊は、その「正しい」ことのために、命を賭けて戦ったということ。

いま、私たちがこうして生きていられるのも、その英霊たちの命がけの「善」の戦いのおかげであること。

そのことを、わたしたちは、いまいちど認識しなおす必要があると思います。

リットン報告書の全文は、「15年戦争資料 @wiki リットン調査団報告書」に掲載されていますので、ご興味のある方は、どうぞ。
URL=http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/14.html

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昭和初期・敗戦・国際復帰迄の近代史総集編 2/6

ユダヤを救った日本人

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ナチスの迫害を逃れ、
上海の「日本租界」にはるばるやって来た
ドイツ系ユダヤ人たち
日本租界


1937年秋。

ドイツの軍靴がチェコ、ポーランドと進むにつれて、数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるを得ない状態になりました。

ところが・・・・


彼らの目指すアメリカ、中南米、パレスチナなどは、入国査証の発給を非常に制限し、ユダヤ人の入国を拒否した。

英統治領パレスチナなどは、海岸に着いたユダヤ難民船に、陸上から英軍が機関銃の一斉射撃を加えるという非人道的行為まであった。

こう書きだすと、「おっ!、映画“シンドラーのリスト”の杉原千畝氏の話かと思うかもしれませんが・・・・ちがいます。日本軍が行った人道支援は、それだけではないのです。

陸軍中将 樋口 季一郎氏
樋口 季一郎


1937年12月26日、日本の関東軍の認可によって、第1回極東ユダヤ人大会が開かれました。

3日間の予定で開催された同大会に、日本陸軍は「ユダヤ通」の安江仙江陸軍大佐をはじめ、樋口季一郎ハルピン陸軍特務機関長(少将)らを派遣。

この席で樋口氏は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策に対し、
「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」
と激しい批判演説を行ったといいます。

これを知ったドイツ外相のヨアヒム・フォン・リッベントロップは、駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議した。

ところが、樋口氏の上司に当たる関東軍参謀長・東條英機氏は、かたくなに樋口少将を擁護。日本との同盟関係崩壊を怖れたドイツも、それ以上の強硬な態度に出ることはできなかったといいます。

1938年3月、数千人のユダヤ人がナチスの迫害下から逃れて、ソ連と満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅まで避難してきました。

彼らの亡命先である満州国は、外交部が入国の許可を渋り、ユダヤ人たちは、吹雪の中で、足止めをくらった。

樋口少将はこの報告を聞くと、直ちに直属の部下であった安江仙江陸軍大佐、河村愛三少佐らとともに現地に向かい、即日、食糧とと衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施した。

そして、膠着状態にあった満州国内への入植を斡旋し、上海租界への移動の斡旋等を行なった(オトポール事件)。


日本海軍は、上海の虹口(ホンキュー)地区の警備を担当していました。

そして1938年当時、ユダヤ難民が入国査証(ビザ)なしに上陸できたのは、世界で唯一、上海の虹口地区だけだった。

犬塚惟重犬塚惟重
(いぬづか これしげ)・海軍大佐


1939(昭和14)年、犬塚惟重海軍大佐は、上海ユダヤ首脳部から午餐の招待を受けました。

ユダヤ避難民委員会副会長M・スピールマンが、ヨーロッパ各国を歴訪した結果を聞く集まりだった。

スピールマン氏の報告は非常に悲観的なもので、9月の第2次大戦の勃発により、パリやロンドンのユダヤ人団体からの上海への送金も途絶え、アメリカのユダヤ人団体からの上海への送金もいつ停止するか分からない。難民を受け入れてくれる国もないというものだった。

万策尽きた段階で、犬塚大佐が、
「一つ私からの提案がある」と切り出した。

「アメリカに日本の必要物資を供給させることができれば、私はユダヤ難民に満洲国か支那の一部をユダヤ人居住区として開放し、まず試験的に2,3年にわたり、毎年約1万5千人ぐらいの避難民を移住させる案を考えているが、皆さんはこれを支持できるだろうか?」

翌々日、満洲ハルピンで、第3回極東ユダヤ人大会が開かれた。

大会は、日本、および満洲帝国が人種的、宗教的差別をせず、各民族に平等に権利を認めている点を感謝する決議を行った。

その間に秘密代表会議が開かれ、犬塚大佐の案に基づいて、日本政府にユダヤ人居住区設定の請願をし、アメリカのユダヤ人社会に協力を求める決議を行った。

<決議文抜粋>------------------

大日本帝国が極東在住ユダヤ人に対して、八紘一宇の国是に基づき、人種平等の主張を堅持し、何らの圧迫偏見なく、大なる同情をもって保護を与え居らることは、我ら同族の感謝に堪えざるところなり。

帰るに国なき我ら同族に対し、大日本帝国の尽力により極東いずれかの方面にユダヤ民族のため、一部の地域を設定し、安居楽業の地を与えられなば、我ら全世界ユダヤ民族の幸福にして永遠に感謝するところなり。・・・

1939年12月25日
極東ユダヤ人代表会議議長 カウフマン
大日本帝国内閣総理大臣阿部信行閣下
--------------------------------

他方、アメリカのユダヤ人指導者ステファン・ワイズ・ユダヤ教神学博士は、米国のユダヤ指導者階級の中心人物のみならず、全世界ユダヤ民族の指導者ともいうべき人だった。

ルーズベルト大統領ある所には、必ず影のようにワイズ博士がついていたと評され、米国政策を左右する実力を持っていた。

ところがこのワイズ博士、頑迷な反日主義者だった。

1938(昭和13)年10月、米国ユダヤ人代表会議での対日態度決定の討議でも、ワイズ博士がただ一人、対日強硬姿勢を主張したため、遂に未決定に終わったこともあったといいます。

ところが、上海のユダヤ人指導者から犬塚提案がもたらされると、ワイズ博士の態度は大きく変わった。
東京在住のユダヤ人を通じて、次のような回答がもたらされた。

「ユダヤ避難民問題を日本が解決してくれるという案なら、それが日本の権威ある筋よりの提案なら、我らユダヤ機関は深甚の考慮を以て受理します」

またワイズ博士は友人に、
「もし真に日本政府が満洲国においてユダヤ避難民問題の解決に興味を有するなら、公然と日本の友たるべき決心をしていると、伝えたといいます。

しかし、ワイズ博士の思いも、アメリカの対日制裁の前に、実現が拒否されます。

ワイズ博士は次のように言って、肩を落とした。

「実は日本当局が上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種偏見を持たず、公平に扱ってくださる事実はいろいろな情報でよく知っていました。

その好意に深く感謝し、今回の借款でその恩に報い、われわれの同胞も救われると期待していました。

しかし今日の米国政府首脳や一般米人の反日感情の大勢に逆行する工作を行う力はありません。」

それでも犬塚大佐は、地道なユダヤ人保護の活動を続けます。

この年の7月26日、犬塚大佐のもとに、上海ユダヤ中でも最高の宗教一家アブラハム家の長男ルビー氏から一本の電話がはいります。

「宗教上の大問題でぜひ会っていただきたい」

ポーランドがドイツとソ連に分割され、ミール神学校のラビ(ユダヤ教の教師)と神学生ら約5百人がシベリア鉄道経由でアメリカに渡るために、リトアニアに逃げ込んだという。

そしてアメリカへの便船を待つ間、日本の神戸に滞在できるように取りはからっていただきたい、というのが、ルビーの依頼であった。

宗教上の指導者ラビと神学生を護ることはユダヤ人にとって大切なことです。

「よろしい」と犬塚大佐は答えます。

「ユダヤ教の将来のために、さっそく関係当局を説得しよう。期待して待っていてよろしい」

大佐が胸を叩くと、ルビーは涙ぐんで「アーメン」と指を組み、伏し拝まんばかりに感謝したといいます。

犬塚大佐は外務当局に働きかけ、公式には規則を逸脱したビザ発給は認められないが、黙認はすることとなった。

この情報が上海のユダヤ首脳部を通じて現地にもたらされ、神学生たちは8月中旬、リトアニアの領事代理・杉原千畝氏からビザを受けることができました。

ちなみに杉原氏は、この「黙認」の工作を知らされず、発給規則逸脱で職を賭して「命のビザ」を書き続けたのです。

ユダヤには古くから『ゴールデン・ブック』というものがあります。

ゴールデンブックには同族(ユダヤ人)の出身で世界的に傑出した人物の名を代々登録され、その功績を永遠に顕彰する。

ユダヤ人しか登録されないはずのゴールデン・ブックに、6名の日本人が登録されています。安江仙弘陸軍大佐、樋口季一郎陸軍中将、小辻節三博士、内田康哉外務大臣、手島郁郎、古崎博。

そして、犬塚大佐にも、ユダヤ人保護工作への感謝から、ユダヤ人の恩人としてゴールデン・ブックに記載したいという申し出があったそうです。

しかし、犬塚大佐は、

「私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、しいて名前を載せたければ陛下の御名を書くように」 と、これを固持しました。

日米開戦後も犬塚大佐のユダヤ人保護工作は続きました。

1942年1月、ナチスがユダヤ人絶滅の決定をした頃、上海ユダヤ人絶滅のためにドイツで開発したガス室を提供するという申し出があったそうです。

犬塚大佐は、断固としてこれを阻止してくれた、というユダヤ人の証言もあります。

大戦中も「上海は楽園でした」という詩を当時の難民生活を経験したユダヤ人女性が残している。

その楽園の守護者は、海軍大佐犬塚惟重氏だったのです。


八紘一宇というのは、「八紘」=世界、「一宇」=ひとつ、つまり、世界はひとつという概念です。

そしてこんかいご紹介したような八紘一宇の精神に基づく、無償の日本軍人の平和貢献は、無数にあります。

杉原氏、安江氏、東条氏、樋口氏などの功績を、後日またご紹介していきたいと思います。

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日本が好きです。ていうか人間が大好きなのかな。心って、ものすごく大きなこともなしとげる。その時代時代に、真剣に生きた人たちから学ぶこと。歴史って、いまを生きる人が過去に学ぶためにあると思う。だから、歴史にIFは禁物だなんて思わない。歴史を学び、もし〜だったらと考えることで、人は何かを感じることができるんだと思う。

政治に混迷が続く中で、もういちど私たちは過去を振り返ってみる必要もあるのではないか。そうすることで、もしかしたら一条の新しい光を見出すことができるのかもしれない。

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