日本に手を出した国は必ず滅びる・・・それが歴史の事実です。 日本は相互信頼主義を根本とする国です。 命をかけて戦った先人たちの努力を見直し、日本の素晴らしさを再認識して、階級闘争主義の汚染から日本を守ろう。

未来を担う子を守らずして何のための経済成長か!・・・中国

Record Chinaの報道によると、最新の調査の結果、中国では毎年80万人から120万人の障害児が出生しており、その確率は4%から6%で世界最多に近いとか。

国国家人口計画生育委員会の江帆副主任は、
「中国では30秒に1人のペースで障害児が誕生している」と発表し、迅速な対策を呼びかけたという。

障害児は、都市部・農村部の両方で増加傾向にあり、成人による二酸化窒素、一酸化炭素あるいは空中に浮遊する汚染物質への恒常的な接触が、障害児出生の原因になっているとしている・・・
■関連記事
障害児の出生率が上昇、急速な経済発展の代償か―中国
http://news.livedoor.com/article/detail/4004638/
障害児出生数、年に100万人前後―中国
http://www.recordchina.co.jp/group/g24044.html

こういうニュース、ねずきちは、まことに腹立たしく、かつ、かなしいのです。
出産て、愛の結晶の誕生じゃないですか。
人が人の新たな生命をこの世に誕生させる、実に不可思議で神秘的な、ある意味、究極の喜びじゃないですか。
しかも中国は、有名な一人っ子政策を実施しているのでしょ?
なのにっ!><;;

だいたい中国は、都合の良いニュースは倍にして、都合の悪いニュースは、半分以下にして報道するというお国柄です。ってことは、もしかして障害児発生は、実は1割に達している?!
ヾ(*`ω´*) ッテオィ、ざけんじゃねえぞっ!!これは大変なことだぞ!!

GDPが世界3位になっただの、改革開放以来GDPが70倍にまでふくれあがっただの、わずか30年という短い期間でこれほどの成長をなしとげた例は歴史上存在しないだの、金融危機の影響の下で、これから世界をリードしていくのは米国と中国だの、約58兆円の米国債を保有しておりその売却は米国に致命的な影響を与えるだの・・・
おいッッ!!☆ヾ(`Д´*)中国っ!!寝言ほざいてんじゃねぇっ!!

ヒトってなぁ、時代を担って次の世代に幸せを伝えるために生きてるんだっ!
いいかえたら、人は子を守るために生きてんだっ!!
自国の赤子を守れねえで、なにが改革開放だっ! 何が世界第3位だっ!
ざけんじゃねえっ!

新型空母を3艘も造ったり、莫大な費用のかかる核なんぞ造ってみたり、米大統領選だの、日本のメディアや政局だのに金をばら撒いたり、そんな余計なカネを使ってる暇があったら、自国の赤ん坊を守れってえのっ!!

以前ね、中国の環境汚染の記事を書いたときに、知りあいに「なんだか中国ひどいらしいねぇ〜」てなことを言ったのですよ。
そしたら、その知り合いが、
「日本だって昭和40年代の公害問題とか、そういう時期があったじゃないか。国が発展する間に、起ることなんじゃねえの?」などという軽い返事が返ってきましたよ。

でもね、いわば工業による高度成長といういわば世界初の試みをして起った日本の公害問題と、その後の環境対策、公害対策への取り組みという先例が身近なところにありながら、自国内の汚染に対し、なんら手を打たないというのとでは、意味が違いすきると、ねずきちは思うのです。

国民あっての国家だ。庶民あっての国家だ。庶民の未来をより良くすることに責任を持つのが国家の責務だ。
中国のこの実情は、いわば主権の放棄に等しい。
人が我が子の未来に責任があるのと同様、国家は国民の未来を担う子供たちに対する責任がある。

いま、日中韓三国で東アジア共同体を作るなんて、一部の官僚やら政治家やらが言っているけど、それを作って、日本は、カネをむしられ、公害と犯罪者を大量に国内にもちこまれるなんて、まじで冗談じゃねぇぞ!!

だいたい日本の政治ってのは、第一義的には、日本に住む日本人のためにあるんです。
よその国のためにあるんじゃない。

そうはいっても日本は食料を輸入に頼っていて、その食料の多くは中国産だって意見もあるようだけど、だからといって毒入り餃子を食わされたり、毒入りミルクを混入されたり、これで日本にまで障害児の発生が増えたりしたらと考えたら、むしろ日本は中国からの食料輸入を全面的に禁止したほうがいいかもしれない。

餃子にはいっていた毒物って、サリンの原料ですよ。
ミルクにはいっていたのは、人体に有害な殺虫剤だ。

事件後、日清製粉などの国内メーカーの製品にも毒物!なんて報道があったけれど、あれだって、中国問題から世間の目をそらすための中国スパイの謀略だってウワサもある。

中国の首席さんが、こないだイギリスで公演中に靴を投げつけられたって話があったけれど、非常に残念だったです。その場にいたら、ボクも一緒に靴を投げつけたかった。

中国の環境汚染=Environmental pollution of China

動画を見たらわかるけど、一つ目の子豚とか、鼻が3つある豚、骨が異様に変形した魚・・こんな国からの豚肉や魚肉なんて、絶対子供たちに食べさせたくないっ!!



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実は世界で大絶賛されている日本の武士道。知らぬは日本人ばかり・・かも?

我が国の武士道を西洋に伝えたのは、東京帝大教授、東京女子大学長を務めた新渡戸稲造氏の著書「武士道」です。

ちょっと前まで5000円札に書かれた人だったのだけれど、最近は樋口一葉にかわってしまいました。

お札のお顔を覚えておいでの方も多いかと思いますが、ちょっと見、マギー司郎みたいなお顔の方です^^b

新渡戸稲造氏が、「武士道」を著わすきっかけは、ある国の法学者と話しているとき、宗教の話題になった。そのとき相手の法学者から、

「あなたがたの学校には宗教教育というものがないのですか?」と尋ねられ、
ないと答えると
「宗教なしで、いったいどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」と繰り返された。

新渡戸稲造氏は、その質問に愕然とし、即答できなかったのだそうです。

で、新渡戸稲造氏は、一生懸命考えた。
そして、はたと思いつくんです。

近代日本の道徳観念は、封建制と武士道が根幹を成しているのではないか!

これを体系化し、本にして世に出すことになったのが、世界的に有名な著書“BUSHIDO”です。

この本、英文のものしかない(笑)
ただ、日本文化を知らない海外の人向けに書かれた本だけに、逆に非常に現代日本人にも、日本の武士道がわかりやすく書かれていると思います。
いまや道徳を忘れた亡国の日本人が、日本人の心を知るには、外人向けに書かれた本でそれを知るしかないのかもしれません。いやはやなんとも皮肉なお話で^^;

お札に新渡戸稲造氏を採用したことが、どこかでどうにか問題になったらしくて、諸般の事情への配慮から、いつの間にかお札の顔は樋口一葉にかわってしまいました。

ちなみに樋口一葉は、著作が売れ出した当時、まだ20代の若い娘さんで、渋谷に住んでいたのだそうですね。

で、貧しくて、着るものがない。

夏の暑い日などは、着ている服を洗濯したら、他に何も身につけるものがなくて、外から丸見えの開け放した長屋の中で、一糸もまとわない素っ裸で、作品を書いていたそうです。

そこに普通に、出版社の人が来て、連載ものの作品をもらって帰ったりしていた。

いまだったら、大騒ぎになりそうな話ですが、
つまりね、当時はそんな姿が、日本の日常的な、あたりまえの光景だったのですね。

武士道の新渡戸氏から、いきなり樋口一葉へ・・・
どんないきさつかは知りませんが、とりあえず、武士道を超簡略要点抜出一行紹介版(笑)で、簡単に内容をご紹介してみます。

1 武士道とは何か

武士道とは、「騎士道の規律」です。
高貴な身分に付随する義務として武士が守るべきものとされた。

成文法ではなく、長い時を経て、武士達が口伝で作り出してきた。
要するに偉い誰かが考えて示した道とかじゃなくて、長い年月の間に自然と規律として熟成されてできあがったもの。

成文化されてないから、よけいに縛られちゃうのかもしれませんね^^


2 武士道の源

新渡戸氏は、武士道の源を、まず仏教と神道に求めます。

仏教は、運命に対する信頼、不可避なものへの静かな服従、禁欲的な平静さ、生への侮蔑と死に対する親近感を与えた。

神道は、主君に対する忠誠、先祖への崇敬、孝心などをもたらした。

次いで孟子の人民主権的な理論も、思いやりのある武士たちに好まれた。
そして王陽明が何度も説いた「知行合一」。これが厳しい。

「論語読みの論語知らず」という言葉があるけれど、
孔子の言葉をただ振り回すだけの(どっかの国のヤン○ンみたいな)人を、武士は頭から嘲った。

なぜなら武士道とは、「男らしさの型」だから。

どんなに豊富な知識を持っていようとも、それが行動に結びつかなければ、何の意味もないと考える。それが武士道なのです。日本の心なのです。



そしてここから、新渡戸稲造氏は、ここから武士の、義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義を説いています。


3 義

「義」とは、サムライの中でも最も厳しい規律。

裏取引や不正行為は、武士道が最も忌み嫌うです。

幕末に蛤御門の変に敗れて自刃した尊攘派の武士真木和泉守が、こう説いた。

士の重んずることは節義なり。
節義はたとへていはば、
人の体に骨ある如し。

されば人は才能ありても学問ありても、
節義なければ世に立つことを得ず。

節義あれば不骨不調法にても
士たるだけのことには事かかぬなり

要するに、少々不作法であっても、節義を欠かさなければ男らしいのだっ!(笑)


4 勇

孔子は「義を見てせざるは勇なきなり」と言った。
つまり「勇」は「義」によって発動される。

水戸黄門は、こう述べている(←テレビドラマの黄門様ではありません。実在した黄門様のほうです^^;)

一命を軽んずるは士の職分。
なれば、

その場所を退いて忠節に成る事もあり
その場所で討死して忠節に成る事もあり

これを死すべき時に死し
生くべき時に生くといふなり

なんでもかんでもね、生きてりゃいいってもんじゃないと思うんですよね。
そりゃ命は大切なものだけど、何かを守るために自分の一番大切なものを捧げるってことは、そりゃ、ありありだと思いますよ。


5 仁

「仁」とは、思いやりの心、憐憫の心。
「愛」「寛容」「同情」という言葉でも置き換えられるのだそうです。

「仁」は人間の徳の中でも至高のものだけど、人は情に流されやすいから、伊達政宗は、

義に過ぐれば固くなる
仁に過ぐれば弱くなる

と言い、慈愛の感情に流されすぎることを戒めています。

「武士の情け=仁」ってのは、生殺与奪の力を背景に持ち、正義に対する適切な配慮を含んだうえで発動されるものなのです。

要するに、いまどきのサヨクには、仁がない!(笑)
「愛」も「寛容」も「同情」もない!
実際そうでしょ??@@
生殺与奪の力を持つ軍事力や、国を愛すること、君が代を愛することに反対なんだから(笑)

逆に言うと、日本が他国に対して「仁政」を行うためには、国力に見合った軍事力と愛国心が不可欠だということです。

個人だって同じです。家族や愛する人に慈愛の情を発揮するためには、男はそれなりにちゃんと稼いで、力強く社会に生きていく強さをもっていなきゃならない。
あたりまえのことです。


6 礼

長い苦難に耐え、親切で、人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。

自己自身の利益を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない、これが「礼」です。

「礼」は、相手を敬う気持ちを目に見える形で表現します。

それは、社会的な地位を当然のこととして尊重することを含んでいる。

だけど・・・ここからが肝心です・・・「礼」は、度が過ぎたら歓迎されない

伊達政宗は、「度を越えた礼は、もはやまやかしである。」と言い、仰々しいだけで心のこもっていない「礼」を軽視しました。

要するに中国的な度を越した儒教的「礼」は、「まやかし」として軽蔑したのです。

「礼」には、必要な条件というものがあって、泣いている人と共に泣き、喜びにある人とともに喜ぶ。「礼」とは慈愛と謙遜から生じ、他人に対する優しい気持ちにから発するという点を持たない、単なる「形式」は、もはや「礼」ではない。
このことって、すっごい大事と思うんですけど・・・


7 誠

「誠」とは「言」と「成」という表意文字の組み合わせです。

武士にとって、嘘をつくことやごまかしなどは、臆病なものと蔑視されるべきものでした。
商人や農民よりも社会的身分が高い武士には、より高い水準の「誠」が求められていると考えていたのです。
だから、「武士に二言はない」。

そのため、武士同士の約束には、たいてい証文などとらなかった。
言葉に嘘がない以上、改めて証文をとる必要がないからです。
むしろ、証文を書かされることは武士の体面に関わることであるとされた。

武士にとって嘘をつくことは、罪悪というよりも「弱さ」の表れであると考えられたのです。
そして、「弱い」ということは武士にとってたいへん不名誉なことであった。
言い換えるなら、「誠」がない武士は不名誉な武士であり、「誠」がある武士こそが名誉ある武士、と考えられた。

新撰組などは、嘘をついたら死罪・・・でしたよね?!


8 名誉

「名誉」は、幼児の頃から教え込まれた、武士の特色の一つです。

武士の子供は、

人に笑われるぞ
体面を汚すな
恥ずかしくないのか

という言葉で、その振る舞いを矯正された。

いまどきの子供は、お笑い芸人が憧れの職業で、
人に笑われて、体面を汚して、恥ずかしいことをして稼ぐのがいいこと、と思っている風潮がある。
そんなの、ありえねぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!(涙)

新井白石は、

不名誉は樹の切り傷の如く、
時はこれを消さず
かえってそれを大ならしむるのみ

と説いた。


西郷隆盛は、

道は天地自然の物にして、
人はこれを行なふものなれば、
天を敬するを目的とす。

天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、
我を愛する心を以て人を愛する也

と、教訓を残した。

つまりね、名誉を守るってことは、人を愛するってことにもつながると考えられていたのですね。


9 忠義

武士道では、個人よりもまず国が存在する。
つまり、個人は国を担う構成成分として生まれてくると考えられた。

ソクラテスは、国家あるいは法について次のように説いた。

汝は我(国家・法律)の下に、生まれ、養われ、かつ教育された

にもかかわらず、汝と汝の祖先も我々の子および召使でない、ということを汝はあえて言うのか?

武士は、主君のために生き、そして死ぬ存在です。
しかし、主君の気まぐれや突発的な思いつきなどの犠牲になることについては、武士道は厳しい評価を下したといいます。

無節操に主君に媚を売ってへつらい、主君の機嫌をとろうとする者は「佞臣」。
奴隷のように追従するばかりで、主君に従うだけの者は「寵臣」と評されました。

家臣がとるべき「忠」とは、主君が進むべき正しい道を説き聞かせることにあると考えられていたのです。

中川秀直氏なども、どうやら新党への動きをあきらめ、麻生氏をたてて選挙における自民の勝利を目指すと昨日の昨日の記事にありましたが、あたりまえのことです。
党として選んだ宰相である以上、その宰相が進むべき正しい道を示すのが中川氏の役割のはずです。でなければ、彼に「忠」はない。

これにたいし民主党は、ちょいとひどいかもですね。
無節操に小沢代表に媚をうってへつらう佞臣や、小沢氏へのお追従だけの寵臣しかいない。
この一事をもっても、まだ自民のほうがましだと思う。


10 武士とお金

この項目については、ボクの論評を避け、原文の和訳のままを掲載します。

↓これ読んだらね、昔のセンセイが偉かった理由がよくわかります><;;
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現代では、頭脳訓練は主に数学の勉強で行っているが、当時は文学の解釈や道義的な議論がその役割を担っていた。
しかし、上記の通り、教育の目的はあくまで品性を高めることにあったため、教師という職業はできた人格を求められ、ある意味では聖職者的な色を帯びてきた。そのため、教師は武士の見本として尊敬されてきたのである。
武士の本性は、算術では計算できない名誉を重んじることに特質がある。
品性を育むという精神的な価値に関わる仕事の報酬は、金銭で酬いられるべきことではなかった。無価値だからではない。尊すぎて、価値がはかれないからである。
武士は、無償・無報酬の仕事を実践していたのであった。ただし、弟子たちが師匠にある程度の金銭や品物を持参するという慣習は認められていた。
清貧な教師たちは貧乏であったので、この贈り物を喜んで受け取った。
彼らは自ら働くには威厳があり過ぎ、物乞いをするには自尊心が高すぎた。
貧しい生活にも高貴な精神で耐え抜く彼らの姿は、鍛錬を重ねる自制心を持った生きた手本であり、その自制心は侍に必要とされたものであった。
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11 武士の感情

武士にとって、自分の感情を顔に表すことは、男らしくないことだと考えられたのだそうです。

それは武士が、自分の苦しみ・辛さを表情に出すことによって、他人の平穏をかき乱すことがないように、という他人への配慮のためでした。

やさしさってのは、男が女を口説こうと、ニコニコ笑顔でいるってことじゃないと思うんですよね。

宮部みゆきの大ヒット作、小説「模倣犯」の主人公の犯罪者は、スマイルというあだ名で、スマイルマークに似たいつもニコニコ笑顔。ところがこの男が、めちゃくちゃな殺人鬼だった><;

最近は、男が笑顔を絶やさないでいることが賞讃されるようだけど、それって、どうなん??


12 切腹

切腹は、自分の罪を償って過去を謝罪するためであったり、友や一族を救うためであったり、武士が忌み嫌う不名誉の烙印を押されることから免れるためであったり、自分の誠実さを証明するためであったりと、目的は様々。

なぜ「腹」を切るのかというと、古い解剖学では、霊魂と愛情は腹に宿ると考えられていたためなのだそうです。

切腹は武士にとって、栄光ある死であったけれど、同時に、真の侍は、いたずらに死に急ぐことは卑怯なことと同じだと考えていた。
戦国時代の中国地方に山中鹿之助幸盛という武将がいた。
彼の主家は戦に敗れて滅んだが、彼は主家の再興を志してたいへんな苦境を戦い抜いてきた。その彼は、下記の歌を詠んだという。

憂き事の なほこの上に 積れかし
    限りある身の 力ためさん

ありとあらゆる困難と苦境に、忍耐と高潔な心を以って立ち向かうことを武士道は教えている。

そうすることで初めて真の名誉を得ることができる。
真の名誉は、天から自分に与えられた使命をまっとうすることである。
そのために死すことは不名誉なことではないが、天が与えようとするものから逃げようとすることは卑怯なことであった。17世紀、ある高名な僧侶は以下のように言っている。

平生何程口巧者に言うとも、
死にたることのなき侍は、
まさかの時に逃げ隠れするものなり
一たび心の中にて死したる者には
真田の槍も為朝の矢も透らず


13 武士の魂「刀」

「刀は武士の魂である」という言葉はあまりにも有名です。

刀は、武士道の力と武勇の象徴として扱われた。
刀を作るのは刀匠と呼ばれる鍛冶屋ですが、刀匠は単なる鍛冶屋ではありません。
彼らは、仕事を始める前に必ず神に祈りを捧げ、身を清めた。
その作業場は神聖な領域だった。
刀を鍛える作業は、ただの物理的な行為ではなかったのです。

そのようにして作られた刀は、持ち主に深く愛され、さらには尊崇の対象でもあった。それゆえ、刀をまたぐことは、武士に対する侮辱とさえいわれた。

このように武器以上の意味を持った刀に対して、武士道は適切に扱うことを強調しました。

不当な使用を激しく非難し、やたらと刀を振り回して威を見せる者は、卑怯者、虚勢をはる者として蔑まれました。

心が洗練されている武士は、自分の刀を使うべき時をしっかりと心得ていたし、そういう機会はめったに訪れない稀な場合であることも知っていた。

傑物に勝海舟は、多くの暗殺者に命を狙われたがけれど、後年、回顧録にこう記している。

俺は一人も斬ったことがねえよ。
腕の立つ河上彦斎は何人も斬ってきたが、最後は人に斬られて殺された。
俺が殺されなかったのは、一人の刺客も殺さなかったからだよ。

刀については、このブログでも、以前、
「なぜ刀は「武士の魂」なのか?」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-187.html
という記事を掲載させていただきました。

実は、日本刀は、戦闘用の武器として考えたときには、3人も斬ったらもう脂にまみれて斬れなくなるし、折れるし、闘いで刃と刃が、チャリ〜ンなんて合わさったら、そこから折れちゃうし、作るまでに時間がかかるし、はっきりいって、あまり役立つシロモノではない。

中国の「剣」や、西洋のソードなどは、鋳造といって、鋳型に流し込んで作るから、すぐにたくさん作ることができる。つまり、兵士全員に配れるし、取り換え用のものも、いくらでもすぐに用意することができる。

ところが、日本刀は、鍛造なので、とにかく作るのにめちゃめちゃ時間がかかる。
戦に出る兵士全員に持たせるなんて、とてもじゃないができるもんじゃないです。
それに、名刀なんていったら、戦で使うなんてもっってのほか。なにせもったいない(笑)

テレビの時代劇では、日本刀をまるで竹刀のように、チャリ〜ンなんてやってるけど、あんなことしたら刃こぼれするし、そのこぼれたところから、刃が折れちゃう。
だから古武術の剣術などを見ると、刃と刃を合わせるなんてことしない。
敵の刃に触れることなく、斬る!!

だから日本の武装には、楯がないんです。世界中どこの国に行っても、剣と楯はセットなのだけど、日本の武装には楯がない。楯を使っているのは、現代の機動隊くらいなものです^^

だって、刀が、楯にガーンってあたったら、もったいない。楯を使うこと自体が卑怯だとされていた^^


14.武士道が求めた女性の理想像

武士道は男性のために作られたものです。
その武士が求めた女性の理想像・・・・
家庭的であると同時に、男性よりも勇敢で決して負けないという、英雄的なものだでったといいます。

だから武家の若い娘は、感情を抑制し、神経を鍛え、薙刀を操って自分を守るために武芸の鍛錬を積みました。
薙刀の鍛錬は、戦場で戦うためではありません。個人と家の防衛のためです。

そして武家の少女達は成年に達すると「懐剣」を与えられた。
その短刀は、彼女達を襲う者に突き刺さるか、あるいは彼女達自身の胸に突き刺さるものでだった。
そして多くの場合、懐剣は後者のために用いられた。女性といえども、自害の方法を知らないことは恥とされていたのです。

さらに、死の苦しみがどんなに耐え難く苦しいものであっても、亡骸に乱れを見せないために両膝を帯紐でしっかりと結ぶことを知らなければならなかった。

男性が忠義を心に、主君と国のために身を捨てることと同様に、女性は夫、家、家族のために自らを犠牲にすることが、たいへん名誉なこととされた。

武士階級の女性の地位が低かったわけではない。

女性が男性の奴隷でなかったことは、男性が封建君主の奴隷ではなかったことと同様です。
戦場など、社会的、政治的な存在としては、女性はまったく重んじられることはなかった。
だけど、妻として、母としての家庭での存在は完全であったし、多くの場合、家庭内で夫は妻に頭があがらなかった(笑)

父や夫が出陣して家を留守にしがちな時は、家の中のことはすべて女性がやりくりしていたし、時には、家の防備を取り仕切ることもあった。

日本の結婚観は、キリスト教の結婚観よりもはるかに進んでいます。

アングロ・サクソン系の個人主義のもとでは、夫と妻は別の二人の人間である、という考え方から抜けることができない。
そのため、二人がいがみ合う時は、それぞれに「権利」が認められることになる。
日本の場合、夫と妻は独りでは「半身」の状態であり、夫妻がそろうことで一個の形になると考えている。
いわば、お互いがお互いの一部になっているようなものです。

社交上、夫が自分の妻を「愚妻」と表現することがあるのは、妻に対して蔑みの言葉を投げているのではなく、自分の半身を謙遜しているからなのである。

このような武士道独特の徳目は、武士階級だけに限られたものではなかった。
時と共に、それ以外の階級の日本人たちも武士道に感化されていき、日本の国民性というものが形成されていったのです。


15.大和魂

武士は一般庶民を超えた高い階級に置かれていた。かつてどの国でもそうであったように、日本にも厳然とした身分社会が存在していました。

その中で、武士は最上位に位置づけられていた。

江戸時代、日本人の総人口における武士階級の割合は決して多くはなかったけれど、武士道が生み出した道徳は、その他の階級に属する人間にも大きな影響を与えた。

農村であれ都会であれ、子供たちは源義経とその忠実な部下である武蔵坊弁慶の物語に傾聴し、勇敢な曾我兄弟の物語に感動し、戦国時代を駆け抜けた織田信長や豊臣秀吉の話に熱中しました。
幼い女の子であっても、桃太郎の鬼が島征伐のおとぎ話などは夢中で聞いていた。このように、大衆向けの娯楽や教育に登場した題材の多くは武士の物語だった。

武士は自ら道徳の規範を定め、自らそれを守って模範を示すことで民衆を導いていったのです。

「花は桜木、人は武士」

武士は日本民族全体の「美しい理想」でした。

「大和魂」は、武士道がもたらした。
武士道は大和魂そのものだった。

日本民族固有の美的感覚に訴えるものの代表に「桜」があります。

桜は、古来から日本人が好んだ花だった。
西洋人はバラを愛でるけれど、バラは美しさと甘美さの裏にトゲを隠している
バラは散ることなく茎についたまま枯れ果てる。それはあたかも生に執着し、死を恐れるかのようです。

けれど桜は、裏にトゲを隠し持っているようなことはない。そして自然のおもむくままに、散る。
淡い色合は華美とは言えないけれど、そのほのかな香りには飽きることがない。

このように美しく、はかなげで、風で散ってしまう桜が育った土地で、武士道が育まれたのもごく自然なことかもしれません。


16.最後に 武士道は甦るか

上記のように、武士道は「武士」と呼ばれた階級に属した人々により形成され、その心は日本人全体に受け継がれていきました。

しかし、明治維新によって「武士」階級は姿を消し、武士道が育まれた土壌は消え去った。

では、武士道はこのまま消えてしまうのか?

答えは「否」だと新渡戸稲造氏はいいます。

欧米諸国から「小さなジャップ」と侮られた日本人は、先の日清戦争の勝利で証明された。

日清戦争の勝利は、近代軍備の力とか近代教育の効果とか言われているが、それらは事実の半分にも到達していない。

武器だけで戦争に勝てるだろうか?
学問だけで勝てるだろうか?

何より大切なものは、民族の精神です。
維新を進め、新たな近代国家「日本」を作り上げた原動力となった人々は、紛れもない「武士」たちであった。

武士道は、一個の独立した道徳として復活することはないかもしれない。
はっきりとした教義を持たないからである。
しかし、武士道が残してきた徳目の数々は、決して消え去ることはない。

時代が流れ、武士道は城郭・武具と共に崩壊した。
既に、その役目を終えたかのようでもある。
しかし、不死鳥は自らの灰からのみ甦ることができる。
武士道の栄誉は再び息を吹き返し、散った桜の花のように風に運ばれ、その香りは人々を祝福し続けるだろう。

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いかがでしたか? 新渡戸稲造氏の武士道。

ボクはね、なんでもかんでも古いものがいいなんて、口が裂けても言うつもりはないです。

だけど、日本が育んだ武士道の精神というものは、混迷する現代にあって、いま最も求められているものじゃないかと思うんです。

そして、サヨクや三国スパイが破壊しようとしてるもの、それもまさに日本の武士道の心そのものではないかと思うのです。

その心を守れるのは、私たち、ひとりひとりしかない。
そんな気がします。

新渡戸稲造 『武士道』 要約


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たおやかに やまとなでしこ 咲きにけり りんと気高く たじろぎもせず

長谷川伸といえば「沓掛時次郎」、「 一本刀土俵入」など 股旅もので、一性を風靡した作家です。その長谷川伸の書いた本の中に、「日本捕虜志」という著書があります。
第4回菊池寛賞を受賞した本なのですが、その中で、二木可南子という実在の女性が紹介されています。

彼女は、日本が降伏した昭和20年当時、数え年20歳でした。
東京で陸軍に徴用され、同じ年頃の娘3人とともに、シンガポールの医薬部隊に配属されます。

可南子さんの父、二木忠亮氏は、はイギリスのロンドンで個人商店を営んでいました。そのため可南子さんはロンドンで生まれ、ロンドンで育っています。そしてある日、可南子さんの母がロンドンで亡くなり、父は娘を連れて日本に帰国します。

やがて戦争が始まり、父は徴用され、大尉相当官の英語通訳を命ぜられ、マレイ半島の攻略軍に配属されました。
娘の可南子さんは徴用されたとき、「父のいるシンガポールへ行きたい」と条件をつけたのが聞き入れられて、医薬部隊に配属されます。

医薬部は軍医少将の指揮下で、軍医中佐3人と、薬剤の中佐と主計少佐などが6人、そして徴用の技術者が600人いました。
女性は可南子さんのほかに3人。いずれも英語が書けてタイプが打てた。ことにロンドン生まれの可南子さんの英語は格調が高かったそうです。

終戦を迎えたとき、このシンガポール医薬部には、イギリス人が部局の接取にくることになっていました。医薬部としては、接収のときのもつれを未然に食い止めるためにも、英語が堪能でタイプの打てる4人の日本人女性はいてもらいたい人たちです。

しかし接収に来るイギリス人が、すべて敬虔で紳士的とは限らない。乱暴狼藉をはたらかれる危険はじゅうぶんにある。結局一人ひとり説得することとし、可南子さんには軍医官があたりました。

軍医官は勇気を奮ってこう言います。
「あなた以外の三人の女性にも、残留してもらいたいと、それぞれ今お話をしています。」
「喜んで残留いたします。」
軍医官の言葉が終わると同時に可南子さんはそう答えた。
「え?」
「わたくし、東京へ帰っても父はおりません。」
「そうでしたね。あなたのお父さまはあのころから消息が絶えたのですね。」
可南子さんの父はその言動が軍の一部の怒りを買い、危険な地域に転出され、消息が絶えていたのです。

「ええ、ですから残留を喜びます。父はいつになってもシンガポールに、わたくしがいると信じているはずです。父は消息が絶える少し前に言いました。『父子のどちらが遠くへ転出となっても、一人はシンガポールにいようね。もう一人はいつの日にかシンガポールに必ず引き返してこよう。
いつの日にかシンガポールで再会の時があると信じて』」

「二木さん、有難う。今後の仕事はあなたを疲労させるでしょうが元気を出してやってください。お願いします。」
「はい。愛国心は勝利のときだけのものではないと、散歩しているとき父がそう言いました。」
「そうでしたか。勝利のときより敗北のときこそ愛国心をと、お父様が言ったのですか・・・・。二木さん、もう一つ、人すべてが善意を持っていはいない。忌まわしい心を持つものもいます。僕は、いや僕たちはあなた方4人の女性に危機が迫ったとき、人間として最善をつくすために、死にます。これだけがあなたがたの残留に対して、わずかに確約できる全部です。」
「いえ、そのときには少なくともわたくしは、一足お先にこれを飲みます。」

襟の下からチラリと見えたのは青酸カリでした。
軍医官が唇をかみ締めて嗚咽を耐えたが、ついに咳を一つした。
それは咳ではなく押し殺したしのび泣きだった。
そして可南子さんは言います。
「できたらどうぞ、わたくしの死骸にガソリンをかけて、マッチをすっていただきたいのです。・・・」
当時、終戦で復員する日本人を狙って、乱暴をはたらき、その女性が死んでもなお恥ずかしめをあたえられるという事件が実際にあったのです。

9月1日キング・エドワード病院にイギリスのハリス軍医中佐が、イギリスの300名の武装兵とともにやってきます。
4人の女性は青酸カリに手をかけて、窓のカーテンに隠れるように成り行きを見ていた。

ハリス中佐と老紳士が印象的だった。老紳士は医学博士グリーン氏だった。彼は穏やかなまなざしで言った。
「日本人の皆さん、私はまだあなたがたの気持ちがのみこめないので、武装した兵を必要としました。日がたつにつれ、武装しない兵をごく少数とどめるだけにしたいと思います。
皆さんはそうさせてくれますか・・・」とにこっと笑った。

ある日、日本刀が幾振りも隠されていたのが発見された。グリーン博士は激しく怒った。
「ここの日本人が私を裏切ったのが悲しい。私の憤りを和らげうる人があれば、言うがよい。」
可南子さんは、軍医の意を受けて発言した。
芸術としての日本刀の在り方、名刀の奇蹟の数々、新田義貞が海の神に捧げて潮を引かせた刀、悪鬼を切り妖魔をはらった刀などの伝説・・・・・

日本の言葉で昼行灯という言葉がある。これを人にあてて薄ぼんやりした人のことをいう。マレイ人の言葉で白昼に灯を点じていくとは、心正しくうしろ暗いことのない人をいう。

「人種と言葉の差のあるところ、感情と思慮にも差があるはずです」とユーモアを交えて可南子さんは説いた。
苦りきったグリーン博士の顔は、いつか和らぎ、何度もふきだしそうにした。

時折、可南子さんのロンドンなまりの英語を懐かしむように眼を閉じて聞いた。グリーン博士はロンドン生まれだった。

可南子が席につくと、グリーン博士は言った。
「発見された日本刀は直ちに捨てます。日本刀を捨てたものの追求はやりません。」
軍医たちは語った。
「いつか警備隊員で色男ぶってるのがいたろう。あいつが上村美保江さんに失礼なことを言ったのさ。すると『汝は警備隊員か侵略隊員か』と毅然として言ったそうだ。後でグリーン博士は『お前の頭の中の辞書にはレディという項がないのだろう』と言ったそうだ。そこでその兵は転属を志願して二度と顔を見せなくなったそうだ。」

「それはね可南子さんが教えたんだ。降伏直後、3人の女性を集めて、イギリスの女性という超短期講座を開いたそうだ。だからあの4人はイギリスの兵隊につけこまれることはない。
だけど、その3人は、イギリス人の将校に階段で会えば、どうぞお先に道を譲るけど、可南子さんは決して譲らないね。僕は何度も見ているよ。
あの子はロンドン育ちだけど、それだけじゃない。
国は負けても、個人の権利をそのために自分で進んで割り引くのは卑劣だという信念があるのだね。」

グリーン博士がかくも寛大だったのには、1942年イギリス軍が降伏して日本軍が入ったとき、博士も捕虜になった経験があったからでした。
監獄はひどかったが、やがて日本軍が、敵と味方を一つに視て、双方をあわせて供養した無名戦士の碑を建てたという話を聞いた。
そして、たびたび監獄に来て、私財を投じて食糧や薬や日用品をながいあいだ贈ってくれた何人かの日本人がいた。
グリーン博士は、自分たちが生き延びたのはこのお蔭です。いつの日か報いたいと語り合っていた。
「わたしは、チャンギー監獄で日本人によって人間愛を贈られたのです。わたしはこれに答えなければならない。」

雨季に入ってグリーン博士はロンドンに帰り、後任としてカンニング博士がくることになった。
ある日、カンニング博士が着任した。
前日に可南子さんがタイプした、残留60人の日本人の名簿を博士に提出した。

グリーン博士がその名簿を読み上げた。
「上村美保江、守住浪子、成田由美子それから二木可南子」

「Oh! フタキ。フタキですね。」
「そうです。カンニング博士」
「私はこの名をずっと尋ねていたのです。」
まもなく二木可南子さんが呼ばれて部屋に入ってきた。
カンニング博士は、またたきを惜しむように可南子さんを凝視した。
「ドクター・カンニング、お忘れになっている言葉をどうぞ」と可南子さんは毅然として言った。
「あっ、おかけください」
「ぶしつけに見つめて大変失礼しました。私があなたをみつめたのは、あなたの顔に見出したいことがあったからです。タダスケ・フタキを知りませんか?」

可南子さんの心は胸打ったが、声に変化はいささかもありません。
「私の父です。」
「OH!」
「1940年、東京へ帰るまでロンドンにいた二木忠亮ならばです。」
「そうです。そうです。そして1942年にシンガポールに日本軍の通訳でいた人です!」
「父です、確かに。」
可南子さんの頬が赤く染まった。
「あなたはあの人の娘か。」
「父をご存じですか?」
「忘れるものですか。」
「父は生きていますか?」
「ああ、あなたも私と同様、あの人の現在を知らないのですか。」

カンニング博士は可南子のそばに来て抱き寄せ、
「カナコの父が、カナコの前に立つまで、私がカナコの父になります。」とささやいた。

カンニング博士も日本軍のマレー攻撃で捕虜になってチャンギー監獄に入れられていた。
200名の捕虜はそこから連れ出されてタイとビルマをつなぐ鉄道の大工事にかりだされた。
その時の捕虜係通訳が二木だった。
二木は捕虜の辛苦をます生活の中で献身的につくした。病人やけが人、衰弱者があるごとに二木はできるかぎりのことを尽くした。捕虜たちは二木を神の使徒ではないかと噂しあった。

二木は長期間捕虜達と一緒だったが、1944年に入って突然姿を消し、二木の後任者も彼がどうなったかを知らなかった。

カンニング博士は可南子に遭遇してから、イギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍、オランダ軍と二木の生死を照会したが一向にわからなかった。

激しい雷雨が去ったある日、カンニング博士が、
「カナコ、誰かカナコを呼んできてくれ」と言った。
可南子さんが姿を見せると
「カナコ、お父さんは生きていたよ! 妻から電話で知らせてきた。 グリーン博士も電話で知らせてくれた!」
そのときの可南子さんの深い微笑みを、後でカンニング博士は「東洋の神秘の花」とたたえたそうです。

「カナコ、お父様はフィリピンにいた。アメリカ軍が今朝知らせてくれた。すぐに希望のところに二木を送還するそうだ。」
これを聞いて可南子さんの眼に涙があふれてきた。
可南子さんは一人シンガポールにとどまり、フィリピンから来た父と再会できたのでした。

----------------

たおやかに
やまとなでしこ
咲きにけり

りんと気高く
たじろぎもせず

-----------------

父を慕って、シンガポールの医薬部に単身、赴任した可南子さん。
強いというか、たくましいですね.

そして、敗戦によって施設が接取されることになったときに、
「愛国心は勝利のときだけのものではない」と、自ら残留を望んだ可南子さん。
この精神性の高さ。素晴らしいです!

そして、万一、残ってもらう女性の身に何かありそうになったら、「自分は人間として最善をつくすために死にます。これだけがあなたがたの残留に対して、わずかに確約できる全部です!」と、嗚咽した軍医官。この軍医官もすばらしいです。

自分の彼女でもなんでもない。いってみれば同じ職場のスタッフの女性です。
その女性に、万一のときは、「自分は人間として最善を尽くして死にますっ!」
しかも、「それが自分に確約できる全部ですっ!」
多少の訓練は受けていたとはいえ、軍医官です。お医者さんです。
そのお医者さんが、職場の女性のために、自分に残されたすべてを賭して、あなたを守って死にます、って言うんです。
筆者などには到底及びもつかない精神の高みです。しかし自分もそういう男でありたいと、
本気で思います。

「いいえ、もしそういうことがあれば、私はこれを飲みます」と青酸カリを見せる可南子さん。そして可南子さんは言いました。
「できたらどうぞ、わたくしの死骸にガソリンをかけて、マッチをすっていただきたい・・・」
これって、死後の自分の遺体をきれいなままで守りたいっていうことです。もうこんなこと言われたら・・・・ほんと絶句です。

そしてイギリス軍が接取にやってきたときも、凛として是非を主張した可南子さん。
イギリス人の軟弱男が、女性に下品な口をきいたとき、「汝は警備隊員か侵略隊員かっ!」と、凛として言い放つ。すごいです。
そうした凛とした人としての高みにある女性。それが大和撫子というものだと思うのです。

可南子さんにいたっては、階段の道すらも譲らない!!気丈です! 考えてみてください。当時のイギリスは、大英帝国です。イエローは、奴隷程度の存在でしかない。身長だって、当時の日本女性は150cm少々。対する英国人は、平均身長185cm以上。大柄なイギリス人将校が前からやってきて、小柄な可南子さんが、道さえ譲らす凛として胸を張って階段をすれ違う。
現代日本人よ、その凛々しい姿を見よっ!と言いたくなります。

そうした気丈さに心打たれたイギリス人の将校が、可南子さんのために、父親を探してくれるんです。
父親が見つかった知らせを受けたときの可南子さんの微笑みを、博士は
「東洋の神秘の花」
と讃えた。わかる気がします。

当時のことです。捕虜の日本人女性は化粧などしていませんよ。スッピンです。
でも、命の輝きというか、人格からにじみ出る美しさというのは、下手な化粧などよりも、はるかに気高く美しいです。

可南子さんのオヤジさんも立派な方です。
捕虜のために、ほんとうに必死で、私財までつぎ込んで働いた。
当時、日本人にすら、配給食や医薬品が行き届かない時代です。

飽食に慣れたイギリス人の生活水準と、日本のそれとでは天地ほどの開きがあった。そういう中で、捕虜のために最善を尽くしたお父さんも、ほんとうに立派な方です。

さて、グリーン博士が、
「帰還の目処がついた、1946年の桜の花咲く頃にあなたがたは日本に帰れるでしょう」とうれしい知らせを告げにきたとき、ちょっと気になることを言った。
「ジェロンの収容所にいる日本人諸君が、あるイギリス人に不満をもっているそうですね。
そういう話を聞いていますか?」
「いえ、聞いていません」
「私も確実には知らないのですから、今の話は取り消します。」

それはどうもこういうことであった。
ジェロン収容所はシンガポールから5マイル離れたところにあった。
帰還船が3隻あったが、輸送指揮官の少佐が男だけ乗せて、女の乗船を許さなかった。
その後、暴風雨が吹く季節風が吹く時期となり帰還船は止まった。
そこで女性のなかで怨嗟の声が起こったのであった。それを残った男どもが声を合わせるものだから不満は大きくなる一方だった。3月下旬にやっと1隻入ったが、やはり女性の乗船は許されなかった。
少佐に対する怨嗟の声は大きくなる一方だった。

やっと次の引き上げ船がタンジョン・バガーの大桟橋に入ってきて、やっと女と子供全員の乗船が許された。
女性たちは満腔の不満を胸いっぱいにして乗船してきた。

するとそのイギリスの少佐がお別れにきてこんなことを話した。
「皆さんは私を怨んでいたそうですね。でも私は皆さんに少しでも楽に日本で帰れることのほうが、私は大切だったのです。私は船が入選するたびに検分しました。そして一番気になるところを見に行きました。この船には婦人用のトイレを心して作ってあります。これならばほかのところもよいだろうと思いました。私は戦時用の輸送船にあなたがたをおしこめて不快な不自由な思いをさせたくなかったのです。」

女性たちの顔から恨みや不満の表情が消え、感謝の表情に変ってきた。
そしてその船が桟橋を離れる時、少佐へのせめての感謝のしるしにと
どこからともなく「蛍の光」が歌われ、歌声は
60人ほどの女性たちの声で唱和されたのであった。

イギリス軍の兵隊達はいついつまでもその船の影が見えなくなるまで見送っていたそうです。

このイギリス人少佐の日本人復員女性にたいする対応は、彼の意識の中に、二木可南子さんによる、日本人女性に対する畏敬の念があったからだそうです。

たったひとりの女性の毅然とした生きざまが、相手を変え、そして多くの日本人女性を救った。このことは、私たち戦後の日本を生きる者も、忘れてはいけないエピソードではないかと思います。

桜散る、日本の今へ


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日本が好きです。ていうか人間が大好きなのかな。心って、ものすごく大きなこともなしとげる。その時代時代に、真剣に生きた人たちから学ぶこと。歴史って、いまを生きる人が過去に学ぶためにあると思う。だから、歴史にIFは禁物だなんて思わない。歴史を学び、もし〜だったらと考えることで、人は何かを感じることができるんだと思う。

政治に混迷が続く中で、もういちど私たちは過去を振り返ってみる必要もあるのではないか。そうすることで、もしかしたら一条の新しい光を見出すことができるのかもしれない。

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口座名
   日心会式年遷宮奉賛金事務局
(ニッシンカイシキネンセンク゛ウホウサンキンシ゛ムキョク)

■他の金融機関からお振込
銀行名  ゆうちょ銀行
支店名  〇三八
(読み:ゼロサンハチ)
店番   038
  預金種目 普通預金
口座番号 5752426
口座名
   日心会式年遷宮奉賛金事務局
(ニツシンカイシキネンセンク゛ウホウサンキンシ゛ムキヨク)

神宮遷宮は、1300年間行われ続けた伝統行事です。
日本の歴史では、古来国家の歳費で行われてきましたが、これが歳費で行われなかった時代が2つあります。
ひとつは応仁の乱から戦国時代。国が荒れて国費は遣われませんでした。
もうひとつは日本国憲法下の日本。つまり現代日本です。
日心会では、国家の伝統と文化保護のため、みんなで力をあわせて式年遷宮の伝統行事を応援します。
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