我が国の武士道を西洋に伝えたのは、東京帝大教授、東京女子大学長を務めた新渡戸稲造氏の著書「武士道」です。
ちょっと前まで5000円札に書かれた人だったのだけれど、最近は樋口一葉にかわってしまいました。
お札のお顔を覚えておいでの方も多いかと思いますが、ちょっと見、マギー司郎みたいなお顔の方です^^b
新渡戸稲造氏が、「武士道」を著わすきっかけは、ある国の法学者と話しているとき、宗教の話題になった。そのとき相手の法学者から、
「あなたがたの学校には宗教教育というものがないのですか?」と尋ねられ、
ないと答えると
「宗教なしで、いったいどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」と繰り返された。
新渡戸稲造氏は、その質問に愕然とし、即答できなかったのだそうです。
で、新渡戸稲造氏は、一生懸命考えた。
そして、はたと思いつくんです。
近代日本の道徳観念は、封建制と武士道が根幹を成しているのではないか!
これを体系化し、本にして世に出すことになったのが、世界的に有名な著書“BUSHIDO”です。
この本、英文のものしかない(笑)
ただ、日本文化を知らない海外の人向けに書かれた本だけに、逆に非常に現代日本人にも、日本の武士道がわかりやすく書かれていると思います。
いまや道徳を忘れた亡国の日本人が、日本人の心を知るには、外人向けに書かれた本でそれを知るしかないのかもしれません。いやはやなんとも皮肉なお話で^^;
お札に新渡戸稲造氏を採用したことが、どこかでどうにか問題になったらしくて、諸般の事情への配慮から、いつの間にかお札の顔は樋口一葉にかわってしまいました。
ちなみに樋口一葉は、著作が売れ出した当時、まだ20代の若い娘さんで、渋谷に住んでいたのだそうですね。
で、貧しくて、着るものがない。
夏の暑い日などは、着ている服を洗濯したら、他に何も身につけるものがなくて、外から丸見えの開け放した長屋の中で、一糸もまとわない素っ裸で、作品を書いていたそうです。
そこに普通に、出版社の人が来て、連載ものの作品をもらって帰ったりしていた。
いまだったら、大騒ぎになりそうな話ですが、
つまりね、当時はそんな姿が、日本の日常的な、あたりまえの光景だったのですね。
武士道の新渡戸氏から、いきなり樋口一葉へ・・・
どんないきさつかは知りませんが、とりあえず、武士道を超簡略要点抜出一行紹介版(笑)で、簡単に内容をご紹介してみます。
1 武士道とは何か武士道とは、「騎士道の規律」です。
高貴な身分に付随する義務として武士が守るべきものとされた。
成文法ではなく、長い時を経て、武士達が口伝で作り出してきた。
要するに偉い誰かが考えて示した道とかじゃなくて、長い年月の間に自然と規律として熟成されてできあがったもの。
成文化されてないから、よけいに縛られちゃうのかもしれませんね^^
2 武士道の源新渡戸氏は、武士道の源を、まず仏教と神道に求めます。
仏教は、運命に対する信頼、不可避なものへの静かな服従、禁欲的な平静さ、生への侮蔑と死に対する親近感を与えた。
神道は、主君に対する忠誠、先祖への崇敬、孝心などをもたらした。
次いで孟子の人民主権的な理論も、思いやりのある武士たちに好まれた。
そして王陽明が何度も説いた「知行合一」。これが厳しい。
「論語読みの論語知らず」という言葉があるけれど、
孔子の言葉をただ振り回すだけの(どっかの国のヤン○ンみたいな)人を、武士は頭から嘲った。
なぜなら武士道とは、「男らしさの型」だから。
どんなに豊富な知識を持っていようとも、それが行動に結びつかなければ、何の意味もないと考える。それが武士道なのです。日本の心なのです。
そしてここから、新渡戸稲造氏は、ここから武士の、義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義を説いています。
3 義「義」とは、サムライの中でも最も厳しい規律。
裏取引や不正行為は、武士道が最も忌み嫌うです。
幕末に蛤御門の変に敗れて自刃した尊攘派の武士真木和泉守が、こう説いた。
士の重んずることは節義なり。
節義はたとへていはば、
人の体に骨ある如し。
されば人は才能ありても学問ありても、
節義なければ世に立つことを得ず。
節義あれば不骨不調法にても
士たるだけのことには事かかぬなり
要するに、少々不作法であっても、節義を欠かさなければ男らしいのだっ!(笑)
4 勇孔子は「義を見てせざるは勇なきなり」と言った。
つまり「勇」は「義」によって発動される。
水戸黄門は、こう述べている(←テレビドラマの黄門様ではありません。実在した黄門様のほうです^^;)
一命を軽んずるは士の職分。
なれば、
その場所を退いて忠節に成る事もあり
その場所で討死して忠節に成る事もあり
これを死すべき時に死し
生くべき時に生くといふなり
なんでもかんでもね、生きてりゃいいってもんじゃないと思うんですよね。
そりゃ命は大切なものだけど、何かを守るために自分の一番大切なものを捧げるってことは、そりゃ、ありありだと思いますよ。
5 仁「仁」とは、思いやりの心、憐憫の心。
「愛」「寛容」「同情」という言葉でも置き換えられるのだそうです。
「仁」は人間の徳の中でも至高のものだけど、人は情に流されやすいから、伊達政宗は、
義に過ぐれば固くなる
仁に過ぐれば弱くなる
と言い、慈愛の感情に流されすぎることを戒めています。
「武士の情け=仁」ってのは、
生殺与奪の力を背景に持ち、正義に対する適切な配慮を含んだうえで発動されるものなのです。
要するに、いまどきのサヨクには、仁がない!(笑)
「愛」も「寛容」も「同情」もない!
実際そうでしょ??@@
生殺与奪の力を持つ軍事力や、国を愛すること、君が代を愛することに反対なんだから(笑)
逆に言うと、日本が他国に対して「仁政」を行うためには、国力に見合った軍事力と愛国心が不可欠だということです。
個人だって同じです。家族や愛する人に慈愛の情を発揮するためには、男はそれなりにちゃんと稼いで、力強く社会に生きていく強さをもっていなきゃならない。
あたりまえのことです。
6 礼長い苦難に耐え、親切で、人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。
自己自身の利益を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない、これが「礼」です。
「礼」は、相手を敬う気持ちを目に見える形で表現します。
それは、社会的な地位を当然のこととして尊重することを含んでいる。
だけど・・・ここからが肝心です・・・
「礼」は、度が過ぎたら歓迎されない。
伊達政宗は、「度を越えた礼は、もはやまやかしである。」と言い、仰々しいだけで心のこもっていない「礼」を軽視しました。
要するに中国的な度を越した儒教的「礼」は、「まやかし」として軽蔑したのです。
「礼」には、必要な条件というものがあって、泣いている人と共に泣き、喜びにある人とともに喜ぶ。「礼」とは慈愛と謙遜から生じ、他人に対する優しい気持ちにから発するという点を持たない、単なる「形式」は、もはや「礼」ではない。
このことって、すっごい大事と思うんですけど・・・
7 誠「誠」とは「言」と「成」という表意文字の組み合わせです。
武士にとって、嘘をつくことやごまかしなどは、臆病なものと蔑視されるべきものでした。
商人や農民よりも社会的身分が高い武士には、より高い水準の「誠」が求められていると考えていたのです。
だから、「武士に二言はない」。
そのため、武士同士の約束には、たいてい証文などとらなかった。
言葉に嘘がない以上、改めて証文をとる必要がないからです。
むしろ、証文を書かされることは武士の体面に関わることであるとされた。
武士にとって嘘をつくことは、罪悪というよりも「弱さ」の表れであると考えられたのです。
そして、「弱い」ということは武士にとってたいへん不名誉なことであった。
言い換えるなら、「誠」がない武士は不名誉な武士であり、「誠」がある武士こそが名誉ある武士、と考えられた。
新撰組などは、嘘をついたら死罪・・・でしたよね?!
8 名誉「名誉」は、幼児の頃から教え込まれた、武士の特色の一つです。
武士の子供は、
人に笑われるぞ
体面を汚すな
恥ずかしくないのか
という言葉で、その振る舞いを矯正された。
いまどきの子供は、お笑い芸人が憧れの職業で、
人に笑われて、体面を汚して、恥ずかしいことをして稼ぐのがいいこと、と思っている風潮がある。
そんなの、ありえねぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!(涙)
新井白石は、
不名誉は樹の切り傷の如く、
時はこれを消さず
かえってそれを大ならしむるのみ
と説いた。
西郷隆盛は、
道は天地自然の物にして、
人はこれを行なふものなれば、
天を敬するを目的とす。
天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、
我を愛する心を以て人を愛する也
と、教訓を残した。
つまりね、名誉を守るってことは、人を愛するってことにもつながると考えられていたのですね。
9 忠義武士道では、個人よりもまず国が存在する。
つまり、個人は国を担う構成成分として生まれてくると考えられた。
ソクラテスは、国家あるいは法について次のように説いた。
汝は我(国家・法律)の下に、生まれ、養われ、かつ教育された
にもかかわらず、汝と汝の祖先も我々の子および召使でない、ということを汝はあえて言うのか?
武士は、主君のために生き、そして死ぬ存在です。
しかし、主君の気まぐれや突発的な思いつきなどの犠牲になることについては、武士道は厳しい評価を下したといいます。
無節操に主君に媚を売ってへつらい、主君の機嫌をとろうとする者は「佞臣」。
奴隷のように追従するばかりで、主君に従うだけの者は「寵臣」と評されました。
家臣がとるべき「忠」とは、主君が進むべき正しい道を説き聞かせることにあると考えられていたのです。
中川秀直氏なども、どうやら新党への動きをあきらめ、麻生氏をたてて選挙における自民の勝利を目指すと昨日の昨日の記事にありましたが、あたりまえのことです。
党として選んだ宰相である以上、その宰相が進むべき正しい道を示すのが中川氏の役割のはずです。でなければ、彼に「忠」はない。
これにたいし民主党は、ちょいとひどいかもですね。
無節操に小沢代表に媚をうってへつらう佞臣や、小沢氏へのお追従だけの寵臣しかいない。
この一事をもっても、まだ自民のほうがましだと思う。
10 武士とお金この項目については、ボクの論評を避け、原文の和訳のままを掲載します。
↓これ読んだらね、昔のセンセイが偉かった理由がよくわかります><;;
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現代では、頭脳訓練は主に数学の勉強で行っているが、当時は文学の解釈や道義的な議論がその役割を担っていた。
しかし、上記の通り、教育の目的はあくまで品性を高めることにあったため、教師という職業はできた人格を求められ、ある意味では聖職者的な色を帯びてきた。そのため、教師は武士の見本として尊敬されてきたのである。
武士の本性は、算術では計算できない名誉を重んじることに特質がある。
品性を育むという精神的な価値に関わる仕事の報酬は、金銭で酬いられるべきことではなかった。無価値だからではない。
尊すぎて、価値がはかれないからである。
武士は、無償・無報酬の仕事を実践していたのであった。ただし、弟子たちが師匠にある程度の金銭や品物を持参するという慣習は認められていた。
清貧な教師たちは貧乏であったので、この贈り物を喜んで受け取った。
彼らは自ら働くには威厳があり過ぎ、物乞いをするには自尊心が高すぎた。
貧しい生活にも高貴な精神で耐え抜く彼らの姿は、鍛錬を重ねる自制心を持った生きた手本であり、その自制心は侍に必要とされたものであった。
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11 武士の感情武士にとって、自分の感情を顔に表すことは、男らしくないことだと考えられたのだそうです。
それは武士が、自分の苦しみ・辛さを表情に出すことによって、他人の平穏をかき乱すことがないように、という他人への配慮のためでした。
やさしさってのは、男が女を口説こうと、ニコニコ笑顔でいるってことじゃないと思うんですよね。
宮部みゆきの大ヒット作、小説「模倣犯」の主人公の犯罪者は、スマイルというあだ名で、スマイルマークに似たいつもニコニコ笑顔。ところがこの男が、めちゃくちゃな殺人鬼だった><;
最近は、男が笑顔を絶やさないでいることが賞讃されるようだけど、それって、どうなん??
12 切腹切腹は、自分の罪を償って過去を謝罪するためであったり、友や一族を救うためであったり、武士が忌み嫌う不名誉の烙印を押されることから免れるためであったり、自分の誠実さを証明するためであったりと、目的は様々。
なぜ「腹」を切るのかというと、古い解剖学では、霊魂と愛情は腹に宿ると考えられていたためなのだそうです。
切腹は武士にとって、栄光ある死であったけれど、同時に、真の侍は、いたずらに死に急ぐことは卑怯なことと同じだと考えていた。
戦国時代の中国地方に山中鹿之助幸盛という武将がいた。
彼の主家は戦に敗れて滅んだが、彼は主家の再興を志してたいへんな苦境を戦い抜いてきた。その彼は、下記の歌を詠んだという。
憂き事の なほこの上に 積れかし
限りある身の 力ためさん
ありとあらゆる困難と苦境に、忍耐と高潔な心を以って立ち向かうことを武士道は教えている。
そうすることで初めて真の名誉を得ることができる。
真の名誉は、天から自分に与えられた使命をまっとうすることである。
そのために死すことは不名誉なことではないが、天が与えようとするものから逃げようとすることは卑怯なことであった。17世紀、ある高名な僧侶は以下のように言っている。
平生何程口巧者に言うとも、
死にたることのなき侍は、
まさかの時に逃げ隠れするものなり
一たび心の中にて死したる者には
真田の槍も為朝の矢も透らず
13 武士の魂「刀」「刀は武士の魂である」という言葉はあまりにも有名です。
刀は、武士道の力と武勇の象徴として扱われた。
刀を作るのは刀匠と呼ばれる鍛冶屋ですが、刀匠は単なる鍛冶屋ではありません。
彼らは、仕事を始める前に必ず神に祈りを捧げ、身を清めた。
その作業場は神聖な領域だった。
刀を鍛える作業は、ただの物理的な行為ではなかったのです。
そのようにして作られた刀は、持ち主に深く愛され、さらには尊崇の対象でもあった。それゆえ、刀をまたぐことは、武士に対する侮辱とさえいわれた。
このように武器以上の意味を持った刀に対して、武士道は適切に扱うことを強調しました。
不当な使用を激しく非難し、やたらと刀を振り回して威を見せる者は、卑怯者、虚勢をはる者として蔑まれました。
心が洗練されている武士は、自分の刀を使うべき時をしっかりと心得ていたし、そういう機会はめったに訪れない稀な場合であることも知っていた。
傑物に勝海舟は、多くの暗殺者に命を狙われたがけれど、後年、回顧録にこう記している。
俺は一人も斬ったことがねえよ。
腕の立つ河上彦斎は何人も斬ってきたが、最後は人に斬られて殺された。
俺が殺されなかったのは、一人の刺客も殺さなかったからだよ。
刀については、このブログでも、以前、
「なぜ刀は「武士の魂」なのか?」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-187.htmlという記事を掲載させていただきました。
実は、日本刀は、戦闘用の武器として考えたときには、3人も斬ったらもう脂にまみれて斬れなくなるし、折れるし、闘いで刃と刃が、チャリ〜ンなんて合わさったら、そこから折れちゃうし、作るまでに時間がかかるし、はっきりいって、あまり役立つシロモノではない。
中国の「剣」や、西洋のソードなどは、鋳造といって、鋳型に流し込んで作るから、すぐにたくさん作ることができる。つまり、兵士全員に配れるし、取り換え用のものも、いくらでもすぐに用意することができる。
ところが、日本刀は、鍛造なので、とにかく作るのにめちゃめちゃ時間がかかる。
戦に出る兵士全員に持たせるなんて、とてもじゃないができるもんじゃないです。
それに、名刀なんていったら、戦で使うなんてもっってのほか。なにせもったいない(笑)
テレビの時代劇では、日本刀をまるで竹刀のように、チャリ〜ンなんてやってるけど、あんなことしたら刃こぼれするし、そのこぼれたところから、刃が折れちゃう。
だから古武術の剣術などを見ると、刃と刃を合わせるなんてことしない。
敵の刃に触れることなく、斬る!!
だから日本の武装には、楯がないんです。世界中どこの国に行っても、剣と楯はセットなのだけど、日本の武装には楯がない。楯を使っているのは、現代の機動隊くらいなものです^^
だって、刀が、楯にガーンってあたったら、もったいない。楯を使うこと自体が卑怯だとされていた^^
14.武士道が求めた女性の理想像武士道は男性のために作られたものです。
その武士が求めた女性の理想像・・・・
家庭的であると同時に、男性よりも勇敢で決して負けないという、英雄的なものだでったといいます。
だから武家の若い娘は、感情を抑制し、神経を鍛え、薙刀を操って自分を守るために武芸の鍛錬を積みました。
薙刀の鍛錬は、戦場で戦うためではありません。個人と家の防衛のためです。
そして武家の少女達は成年に達すると「懐剣」を与えられた。
その短刀は、彼女達を襲う者に突き刺さるか、あるいは彼女達自身の胸に突き刺さるものでだった。
そして多くの場合、懐剣は後者のために用いられた。女性といえども、自害の方法を知らないことは恥とされていたのです。
さらに、死の苦しみがどんなに耐え難く苦しいものであっても、亡骸に乱れを見せないために両膝を帯紐でしっかりと結ぶことを知らなければならなかった。
男性が忠義を心に、主君と国のために身を捨てることと同様に、女性は夫、家、家族のために自らを犠牲にすることが、たいへん名誉なこととされた。
武士階級の女性の地位が低かったわけではない。
女性が男性の奴隷でなかったことは、男性が封建君主の奴隷ではなかったことと同様です。
戦場など、社会的、政治的な存在としては、女性はまったく重んじられることはなかった。
だけど、妻として、母としての家庭での存在は完全であったし、多くの場合、家庭内で夫は妻に頭があがらなかった(笑)
父や夫が出陣して家を留守にしがちな時は、家の中のことはすべて女性がやりくりしていたし、時には、家の防備を取り仕切ることもあった。
日本の結婚観は、キリスト教の結婚観よりもはるかに進んでいます。
アングロ・サクソン系の個人主義のもとでは、夫と妻は別の二人の人間である、という考え方から抜けることができない。
そのため、二人がいがみ合う時は、それぞれに「権利」が認められることになる。
日本の場合、夫と妻は独りでは「半身」の状態であり、夫妻がそろうことで一個の形になると考えている。
いわば、お互いがお互いの一部になっているようなものです。
社交上、夫が自分の妻を「愚妻」と表現することがあるのは、妻に対して蔑みの言葉を投げているのではなく、自分の半身を謙遜しているからなのである。
このような武士道独特の徳目は、武士階級だけに限られたものではなかった。
時と共に、それ以外の階級の日本人たちも武士道に感化されていき、日本の国民性というものが形成されていったのです。
15.大和魂武士は一般庶民を超えた高い階級に置かれていた。かつてどの国でもそうであったように、日本にも厳然とした身分社会が存在していました。
その中で、武士は最上位に位置づけられていた。
江戸時代、日本人の総人口における武士階級の割合は決して多くはなかったけれど、武士道が生み出した道徳は、その他の階級に属する人間にも大きな影響を与えた。
農村であれ都会であれ、子供たちは源義経とその忠実な部下である武蔵坊弁慶の物語に傾聴し、勇敢な曾我兄弟の物語に感動し、戦国時代を駆け抜けた織田信長や豊臣秀吉の話に熱中しました。
幼い女の子であっても、桃太郎の鬼が島征伐のおとぎ話などは夢中で聞いていた。このように、大衆向けの娯楽や教育に登場した題材の多くは武士の物語だった。
武士は自ら道徳の規範を定め、自らそれを守って模範を示すことで民衆を導いていったのです。
「花は桜木、人は武士」
武士は日本民族全体の「美しい理想」でした。
「大和魂」は、武士道がもたらした。
武士道は大和魂そのものだった。
日本民族固有の美的感覚に訴えるものの代表に「桜」があります。
桜は、古来から日本人が好んだ花だった。
西洋人はバラを愛でるけれど、バラは美しさと甘美さの裏にトゲを隠している
バラは散ることなく茎についたまま枯れ果てる。それはあたかも生に執着し、死を恐れるかのようです。
けれど桜は、裏にトゲを隠し持っているようなことはない。そして自然のおもむくままに、散る。
淡い色合は華美とは言えないけれど、そのほのかな香りには飽きることがない。
このように美しく、はかなげで、風で散ってしまう桜が育った土地で、武士道が育まれたのもごく自然なことかもしれません。
16.最後に 武士道は甦るか上記のように、武士道は「武士」と呼ばれた階級に属した人々により形成され、その心は日本人全体に受け継がれていきました。
しかし、明治維新によって「武士」階級は姿を消し、武士道が育まれた土壌は消え去った。
では、武士道はこのまま消えてしまうのか?
答えは「否」だと新渡戸稲造氏はいいます。
欧米諸国から「小さなジャップ」と侮られた日本人は、先の日清戦争の勝利で証明された。
日清戦争の勝利は、近代軍備の力とか近代教育の効果とか言われているが、それらは事実の半分にも到達していない。
武器だけで戦争に勝てるだろうか?
学問だけで勝てるだろうか?
何より大切なものは、民族の精神です。
維新を進め、新たな近代国家「日本」を作り上げた原動力となった人々は、紛れもない「武士」たちであった。
武士道は、一個の独立した道徳として復活することはないかもしれない。
はっきりとした教義を持たないからである。
しかし、武士道が残してきた徳目の数々は、決して消え去ることはない。
時代が流れ、武士道は城郭・武具と共に崩壊した。
既に、その役目を終えたかのようでもある。
しかし、不死鳥は自らの灰からのみ甦ることができる。
武士道の栄誉は再び息を吹き返し、散った桜の花のように風に運ばれ、その香りは人々を祝福し続けるだろう。
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いかがでしたか? 新渡戸稲造氏の武士道。
ボクはね、なんでもかんでも古いものがいいなんて、口が裂けても言うつもりはないです。
だけど、日本が育んだ武士道の精神というものは、混迷する現代にあって、いま最も求められているものじゃないかと思うんです。
そして、サヨクや三国スパイが破壊しようとしてるもの、それもまさに日本の武士道の心そのものではないかと思うのです。
その心を守れるのは、私たち、ひとりひとりしかない。
そんな気がします。
新渡戸稲造 『武士道』 要約
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