「死に馬に蹴られた」。口は災いの元(第553回)
19日の夜、砂押邦信氏死去の知らせが入った。立大監督時代は、長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾の1954年入部の黄金トリオを育て、その後は国鉄スワローズ(現東京ヤクルト)の監督も務めた。1962年、国鉄は最下位に沈んだが、砂押監督がらみで真っ先に脳裏に浮かんだのが、その年リーグ優勝を逃した大洋ホエールズの三原脩監督の「死に馬に蹴られた」という名(迷?)セリフだ。国鉄戦に敗れた試合に、腹立ち紛れに吐き捨てたセリフが、国鉄ナインの奮起を呼び、残りの大洋戦でしゃにむに戦った結果、大洋は阪神タイガースとのペナントレースに敗れたと伝えられている。ただ、どこの試合でこのコメントを吐いたのかが特定出来ていなかった。
そのため、国鉄が大洋に勝った試合を後ろから順に追っていったところ、まだ中盤だった7月19日、川崎球場での試合だったことが分かった。5連敗中だった国鉄は2回に8番に入った平岩嗣朗捕手が先制タイムリー、3回には追い打ちの2点適時打。このリードを巽一、金田正一のリレーで守り4-2で逃げ切った。試合後、三原監督は
「それにしても1年に3回しかヒットを打たない打者(平岩)にタイムリーされるようじゃ、死に馬に蹴られたのと同じだ」
平岩捕手は1958年に立命大から入団。控え捕手として毎年、50試合前後出場。通算122安打。三原監督の言うように年間3安打だけに終わったシーズンはない。
ただノーマークだった打者に2本の適時打を許し、勝ちを計算していた相手に破れた悔しさが、“死に馬に蹴られた”発言につながったのは間違いない。その後、このカードは9試合あったが大洋の6勝2敗1分けと圧倒。国鉄は阪神相手の12試合も3勝9敗と大差はない。もっとも、大洋戦2勝の際の国鉄ナインのコメントには「死に馬にも意地がある」など、三原監督の談話が奮起材料になったことも否めない。結局、阪神にリーグ優勝をさらわれた。
日本プロ野球では1989年の日本シリーズで、いきなり3連勝した近鉄の加藤哲朗投手が、「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」(実際は、ロッテより弱いとの質問に、そうですねと相づちを打ったことが前記コメントとなった)で、巨人が奮起して4連勝したのと並んで、ことわざ“口は災いの元」の典型的な例だ。
米大リーグでも、「死に馬に蹴られた」と同じようなコメントによって、痛烈なしっぺ返しを食ったケースがある。1933年ワールドチャンピオンとなったニューヨーク・ジャイアンツは、翌年も連覇を目指していた。ビル・テリー監督は開幕前に、当時同じニューヨークに本拠を構えていたブルックリン・ドジャースの事を聞かれ、「ドジャース? ドジャースはまだナ・リーグにいたのか」と前年リーグ8球団中6位のチームに対し、口を滑らしてしまった。
シーズンに入っても、ドジャースは前年と同じ6位に沈んでいたが、ジャイアンツはカージナルスとのデッドヒートを繰り広げ、2試合を残した時点で同率首位に立っていた。ところが、相手は因縁のドジャースで1-6、5-8とまさかの2連敗で優勝を逃した。
ニューヨーク・タイムズのジョン・キーラン記者は、「テリー様。なぜ、あなたはあのときに笑いながら、あんな事を言ってしまったのでしょうか。あなたは彼らがその言葉を忘れていて欲しいと思ったのでしょう。でも彼らは忘れてなかったのです。彼らは、このナ・リーグに存在していたのです」と皮肉を込めて書いている。
政界、スポーツ界から会社、そして家族生活。皆さん、言葉には気を付けましょう。
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