牛を飢え死にさせた若いころの苦い思い出
雨がひとしきり激しく降る。
多良岳山系につながる東彼杵町の山村集落を歩く。
小雨になって空が明るくなった。山肌に沿って鮮やかな緑のお茶畑が整然と続く。
雨が上がる。
しっとりとした茶葉の向こう、山々は深い。遠くは墨絵のような青みを帯びた山々が連なる。
その山肌のなかほどに真っ白な雲が、横にたなびいて湧き上がってきた。
「もう夏だ。空気がうまい」
どこからともなく牛の鳴き声が聞こえてくる。
この自然、これにあこがれて、私は若いころ、五島の鬼岳に牧場を開いた。
当時、島ではじめて肥育牛と取り組んで、すでに30数年になる。
そのころ、島原半島には、いろいろな若い畜産仲間がいた。
その一人、八木高人さんはフランスから白い牛シャロレーの種牛を連れてきた。
「ドウザン」と言って4トンはある堂々とした巨体には驚かされたことがある。
今では牛を辞めて、鹿牧場に切り替え、アカシカなど世界各国から鹿を入れて800頭ほど飼っている。
八木さんにも、私にもいろいろなことがあった・・・・・・。
トラクターから落ちて肺を潰し、今では酸素ボンベを持ち歩いているものの今でも意気盛んだ。
その八木さんの弟分で松本千歳君が、牛の肥育では北海道にも牧場を求めて5000頭からの牛を飼っている。なかなか頑張っている。
その松本君から、突然電話があった。
「山田さん、今度長崎県開拓連の理事長になりました」
「おお、よかったな。おめでとう」
「それどころではないんです・開拓連を解散か破産かしなければならなくなったのです」
「それは、穏やかじゃないね・・・・」
畜産は大変だ。
私自身も、肉屋から、牛丼屋さんまでやりながら悪戦苦闘した。
借り入れの金額が半端ではなく、多くの仲間が倒産、中には自殺したものもいるが、私も観光牧場などに切り替えてなんとか切り抜けた。
融資の焦げ付き、事故率だけで3割を超える。
松本君の話では、組合員の一人が、3億円の負債を抱えてまた倒産した。
「組合が債権者なんですが、牛がまだ200頭いるが、餌をやらなければ、どんどんやせ細って価値が下がる。場合によっては死んでしまう。飼料をやり続ければ開拓連の赤字はさらに進んでしまう・・・・・・・・どうしたらいいですか」
現実は厳しい。
私もその昔、苦い経験をした。今でも忘れられない。
あのオイルショックのころ、餌が倍に上がって、牛の値段が半分に下がったとき、牛を飢え死にさせてしまったのだ。
飢えた牛に、私は取って置きの濃厚飼料を手でつかんで食べさせたが、牛は匂いを嗅ぐだけで、食べようとしない。
最後何を与えても、頭を振ってそのまま、息絶えてしまった。
恵まれた自然の中で生きるにしても厳しい現実がある。
私も弁護士として頼まれ、畜産農家などの再生処理をしたことが何度もあるが、どうしても、収入の予測がたて難いために再生計画の作成が難しく、債権者の同意をなかなか得ることができなかった。
それだけではない。裁判官、再生委員になる弁護士に、農業の特殊性を理解してもらえないことがしばしばだった。
畜産など生きた牛を担保に取っているときは、不動産などの競売手とは異なる何らかの法的整備が必要である。
いつも悔しい思いがする。
倒産手続きで、債務者は免責を得て借金ゼロになっても、保証人、担保物件は関係なく取りたてられる。
狭い農村社会のこと、他の職種であれば夜逃げできても、農地を離れて生きることもできず、「死んでお詫びする」と自殺に追いやられているのが現状だ。
漁業も同じこと。
ところがアメリカでは、連邦破産法12章で農業の特殊性を考慮して農家救済の手続きが認められている。
債務のカットのほかに、債務者に農地の保有が継続されること。弁済も超長期であること、天候不順で凶作になっても支払いを猶予できること・・・・。
羨ましい。
雨上がりの透き通った山の空気。
白い雲がもくもくと湧き上がって、青空が覗き始めた。