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ユーモア話をひとつ。電車が毎日のように遅れるので、腹を立てた乗客が駅員さんにくってかかった。「いつも遅れるのだったら時刻表なんか出しておくな」。すると駅員、「時刻表がないと電車が遅れたかどうか分からないでしょう」▼織田正吉(しょうきち)さんの『笑いのこころユーモアのセンス』(岩波書店)にあった。道理に合わないことで相手をやりこめる詭弁(きべん)型のジョークだそうだ。昔なら笑っておしまいだが、今は笑った後で心配になる。駅員さん、殴られなかっただろうか▼駅員や乗務員への暴力が止まらない。去年の今ごろも同じ事を書いたが、減るどころか増えた。全国の25鉄道会社で昨年度に計869件は過去最悪だ。むろん笑話のようにやりこめたわけではない。強く出られないのを承知の卑劣な暴力である▼よく知られたハインリッヒの法則は、一つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、300の異常があると説く。それに倣(なら)えば、一つの暴力沙汰(ざた)の背後には膨大な暴言や嫌がらせがあろう。駅員さんたちは日々、心をこづき回されているのではないか▼人が暮らすうえで、法律より広くモラルの守備範囲がある。法律が城の内堀なら、モラルは外堀だろう。外堀破りの不心得者が多くなれば、内堀を越える狼藉者(ろうぜきもの)も増えよう。乗降の人波が駅員さんの目に「怖い地雷原」と映るようでは、日本は悲しい▼弱い立場をはけ口にモンスターとやらが横行する「いちゃもん化社会」の一断面でもあろう。いらつく世の中の頭を冷やす、大きな水枕はどこかにないか。