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2010/04/15

まだまだ書き足りないことを・・・

 改訂版としてoacのことを続けて書いて来たのだが、ハッキリ言ってまだまだ書き足りないことが山のようにあるので少しづつ小出しにして書いて行きたいと思う。

 まずはN院長、この人が如何にセコイかを書いとこうかな。前にも書いたと思うが、院長は役員報酬と言う形で月に200万円の給料をもらっている。雇われ院長として高いか安いか解らないがこれだけで年収2400万円は貰っている計算だ。

 他にいつもクリニックの歳出に調整金という項目があったのだが、どうやら奥さんに「顧問料」の名目で月に8~9万程度の金が振り込まれていたらしい。ちなみに12年間働いていて奥さんの姿を見たのは院長の親父さんが亡くなって通夜に出席した時の一回のみである。それで税金の掛らないギリギリの額の謎の「顧問料」を受け取っていたわけだ。

 「ボーナスとか貰っていない」と言っていたがこれも嘘。毎年ボーナス支給日にはしっかり明細書を貰っていた。恐らくは調整手当とかの名目で100万~200万位の額だろうがしっかり貰っていたのである。

 これだけでザっと計算して年間3000万円程度の収入を得ていたことになる。更に数年前に新車に買い替えたのだが、これも名義は病院の車になっていた。

 他の職員の待遇改善の交渉には踏み込めないのだが、自分の待遇&優遇にはかなり交渉力があったようだ。

 さて院長、職員の送別会等に参加すると、大抵よその病院長なら全額支払ってくれそうなものだが基本会費分しか出さない人である。うんと期限の良い日は1万円置いて行く位。珍しく院長の奢りの時は病院の名前で領収書を貰って経費で落とさせるのである。

 僕がoacを退職する1週間前に「飲みに行こう」と誘われた。事件簿にも書いたが胃がやられてて食事もほとんど取れない時期だ。で連れて行かれたのが見たことも無い汚くて安っぽい居酒屋。

 院長が散々飲み食いする横で僕はオレンジジュースを飲みながらお新香を摘んでいた。帰りに呼び止められて懐から何か出したので「おお!餞別か!」と思ったらタクシーチケットだった・・・

 院長と言うととにかくセコイことが真っ先に思い出される。まあ子供5人もいれば金掛るのは解るけどね~ 

 僕はまだ長く勤めていて何度か(それでも数える程だけど)ご馳走にはなっているから良いけど、殆どの職員は最後まで院長とは口も利かずに辞めていったな~残念な話だ・・・

 こんな話はまだまだある。僕の師匠のH先生達との思い出も腐るほどあるので読者は限られるが少しづつ書いて行こうかな。

2010/04/14

クミコ&マツダ事件⑤ 

 isi女史にして見れば千載一遇のチャンスだと思ったのでしょう。本来は本部へ連絡するのは院長か事務長の役割であり完全な越権行為なのですが、何せ積極的な密告を奨励している医療法人KKK、大喜びで翌日にはW本部長、K副本部長等が乗り込んできたのでした。

 ここから連日、当事者や関係者を集めての会議が行われたのです。本来部外者の私は会議には出席していません。しかし会議の詳細な内容は全職員の知るところになりました。何故か?

 それは事件解決後に、今後このような事件が起こらないようにと詳細な議事録や事件の詳しい内容等、数十枚に渡る書類(もちろん当事者の名前等全て記載された物)を全職員に回覧しその対応への感想を書かせた上で職員全員の前で纏めたものを発表させたのでした。

 まさにクミコ師長及び庇ったマツダ事務長に取っては地獄の拷問のような目に合わされたのでした。

 最初にこの事件の内容が全体会議で報告された時に、W本部長の「みんなに資料を読ませて感想を書かせろ、そして全員で発表をマツダさんやってくれ」と言われた時のマツダ事務長の狼狽ぶりは悲惨の一言でした。

 事件解決までの簡単な内容を纏めると、最初はクミコ&マツダ側に付いていた院長がW本部長が乗り込んでくると案の定、あっさりと裏切って本部長側に寝返り、みんなでクミコ&マツダを集中攻撃した上で本部長、院長、相談員で謝罪に行き慰謝料を払ったのでした(事務長は蚊帳の外)

 更にクミコ師長の不手際を全員の前で発表する会の司会をマツダ事務長にやらせるという、徹底的に2人の分断と排斥を狙ったやり方をW本部長(と言うかイシダ女史)は取ったのでした。

 結局心労が重なり、当日マツダ事務長は司会が出来ず相談員が司会を行い、クミコ師長を袋叩きにする会は強行されました。

 その後、クミコ師長はみるみる力を無くし、以前よりデイケア管理者への返り咲きを狙っていたisi女史はまんまと作戦通りにデイケアの所長に就任。

 研修と称しての旭川本部での3か月間の勤務を言い渡されたクミコ師長は辞表を提出して退職。

 心の拠り所を無くしたマツダ事務長も約1カ月後に退職したのでした。

 2人はやり方に問題はあったとしても本部に頼らずにoacの独自の方向性を打ち出そうとしていました。この事件の発端になったことや対応に問題はありましたが、基本的には院長の指示で動いていたのです。

 しかし私の退職時にも書きましたが、いざとなると裏切るN院長の優柔不断さと無責任さ犠牲者であったと言っても良いのではないでしょうか?

 実はこんな話は幾らでもあったんです。みんな人当たりの良いN院長を信じて付いて行っても最後は使い捨てにされる。そして辞めて行く、これの連続だったのです。

 そして医療法人KKKから見ればN院長も使い捨ての一つでしか無く、N院長も十分にそれを理解しているところにoacの悲劇があるのでした。

 このシリーズ終わりです。

クミコ&マツダ事件④ 改訂版

 3人での話し合いでは、A氏と比較的信頼関係ができている、介護主任が中心にA氏と話をしたようです。

 A氏がMさんに好意を寄せていること、でもMさんも困っているので口説いたりはしないようにして欲しい等と、上手い具合に話を進めていたようでした。それで、A氏も納得して話し合いが終了しようとした時です。なんとか自分が話を纏めたことにしたいクミコ師長が余計な一言を言ってしまったのでした。

 「今後、一切、女性職員へのセクハラ行為は辞めてください!」とA氏にきつく言ったのでした。

 これでA氏が激怒。すぐに相談員とケアマネを呼び出して怒りをぶつけたのでした。クミコ師長は早々にその場を退散し相談員などの質問にも「急に興奮しだした、介護主任が何か言ったんじゃないか?」などと自分の責任を否定しました。

 そして、翌日、事件は起こったのです。

 この日はA氏は利用日ではなく、後から相談員とケアマネが様子を見に行くことになっていました。朝、介護主任のところへA氏から電話がありました。「長いこと世話になったけど、今から死ぬから」と電話を切ったA氏、すぐにケアマネがA氏宅に駆け付けると、糖尿病の薬を大量に服用し意識が朦朧とした状態だったのでした。

 担当ケアマネは急いで救急車を呼びました。

 実際にはA氏が服用した薬の量は、致死量には程遠い量だったのですが、意識が戻ったA氏は、病院を訴える、新聞社に知り合いがいるから悪徳病院だと書いてもらう、Mを連れてこい、クミコ師長を連れてこい、金をよこせ…などと次から次に要望を言いだしたのでした。

 マツダ事務長はクミコ師長に責任が及ばないようにしようと本部には連絡をせずに、院長、事務長、師長の3人で事態の解決を図ろうとしたのですが、ここでやはり、クミコ&マツダの失脚をずっと狙っていたisi女史が本部に事件を報告したのでした。

 そして、本部を巻き込んだ大騒動になっていくのです。

クミコ&マツダ事件③ 改訂版

 クミコ師長が犯した事件とは…。デイケアのA氏という利用者とのトラブルがとんでもない大問題になってしまったことでした。

 A氏はまだ60代と若いながらも、脳梗塞で軽度のマヒを抱えている利用者でした。元来の女好きのA氏は、家族を捨てて、妻と離婚して家を出て、内縁の妻と一緒に住んでいたのですが、そこで病気が発症しました。

 内縁の妻は仕事が忙しいのを理由に介護を放棄、A氏はアパートで独り暮らしをしながら週に3回デイケアと毎日の訪問介護を受けながら生活をしていました。内縁の妻も身元保証人なので週に1回程度は顔を出していたようです。

 さてこのA氏、元来の異常な女好きのためかデイケアでも女性職員へのセクハラが酷かったのです。

 oacのデイケア職員はハッキリ言って、他の介護事業所より女性職員の年齢も高く、また正直言ってこの時期はルックス的にも、厳しい職員が多かったのですが、A氏はお構いなしでセクハラ発言やタッチ行為を繰り返していたのでした。

 特に狙いを定めていたMさんへは完全に口説きに掛っていました。ここで、きちんと対応を協議してMさんを担当させないとか、A氏の来る日は勤務を外すとかすれば良かったのに、結局何の対応もしなかったため、MさんはA氏を露骨に無視し近寄らないようにして担当の日も傍に寄らないなどの態度を取り続けたのでした。

 好意を寄せているMさんに無視されているA氏は、それを不満に思い相談員とケアマネに抗議を度々して、ある日、A氏本人と相談員、ケアマネ、介護主任の4人で話し合うことになったのでした。

 しかし、これを聞いたクミコ師長、元々相談員やケアマネといった在宅部門と折り合いが悪い上に、デイケアの責任者でもある自分が蚊帳の外なのに立腹して(実際はデイケアの業務は介護主任に任せっきりでほとんど何もしてなかったが)その会議に、自分も参加することにしたのでした。ここまでは何も問題はありませんでした。

 しかし、クミコ師長は直前になって相談員とケアマネの会議への参加をを断り、A氏、クミコ師長、介護主任の3人で話し合いを行うことにしてしまったのです。

 ここで、クミコi師長が自分でこの場を納めようと手柄を焦るばかりに余計なことを言ってしまうのでした。

クミコ&マツダ事件② 改訂版

 クミコ&マツダの2人は、共同戦線を張ってoacの経営に動き出そうと始めました。基本的に事務長は事務室、看護師長は外来が仕事場のはずですが、2人は出社すると一日の半分以上の時間を看護師長室での話し合いに使っていました。

 会議などでの議題も、今までは本部からの提案を話し合うだけの場でしたが、2人から議題などが提出されることも多くなりました。

 またこの頃より、本部長が本部から来るのが水曜日のみとなり火曜夜の全体会議には基本的には出席しなくなったのも2人にとっては幸いだったのかもしれません。

 院長とも同い年の二人は、院長を自陣への引き込みに成功しました。すると会議では「この件は院長と相談して決めます」とか、「この件はすでに院長の承認を取ってあります」などの形で報告ばかりが多くなってきました。

 またクミコ師長は外来だけでなくデイケア、デイサービスの管理責任者も兼ねていたので、会議の場でもisi女史などに上から目線で接していました。当然のようにisi女史の本部へのチクリが始まったのでした。

 クミコ師長が休みの日は、マツダ事務長は事務室に籠りほとんどクリニックの方へは顔を出しません。その日を見計らって、本部からW本部長とO統括師長が揃ってやってきたのです。

 そして、外来看護師、デイケア主任、私などを順に呼び出してクミコ&マツダのことを根掘り葉掘り聞き出そうとしました。

 この2人(クミコ&マツダ)が悪かった所はやろうとしている内容は悪くは無かったのですが2人だけの世界に入り込み過ぎてしまい、自分の直属の部下とも信頼関係を作っていなかったことです(クミコ師長であれば看護師、マツダ事務長であれば受付事務員)

 恐らく2人の悪口や批判をタップリ聞き終えたW本部長とO統括師長は聞き取りを終えた後はisi女史と3人で密談をしてました。

 また、isi女史が気に入らない人間を辞めさせようとしているんだなと解りました。実際、このパターンで過去に何人もの職員を退職に追い込んでいたのです。

 しかし、いつもは1人を孤立させて追い込むisi女史ですが、今回は2人が団結していることもあり、この後、約1年近くクミコ&マツダの2人は頑張り続けたのです。

 しかし、それは在宅部門を牛耳っているisi女史と外来、デイケア、デイサービスを牛耳っているクミコ師長の深刻な対立となり、本来連携を取らなければいけない部門同士の横の連携がほとんど取れない状態を引き起こしました。

 そして、1年が過ぎたある日、クミコ師長はある事件を起こして墓穴を掘ってしまうのでした

クミコ&マツダ事件① 改訂版

 十文字君からのリクエストに答えてoac事件簿のkumi&matu事件をきちんと完結させることにした。但し、前回アップがあまりに前なので今回から改訂版と言う形で加筆、修正して掲載したいと思う。

 今から約4年ほど前に、isi女史に真向から立ち向かった2人の話をしたいと思います。その二人の名は(クミコ&マツダ)。

 立ち向かったと言えば、聞こえが良いけど、この二人も約1年半の間にoacを引っかき回したうえで、isi女史とW本部長によって退職に追い込まれたのでした。

 但し、この二人「仕事ができない」「管理能力が無い」などと、本部長やisi女史に追い込まれましたが、実はこの二人がoacを管理運営していた、約二年弱は、最も患者数が多く安定していた時期だったのです。

 今のY&isi女史のコンビよりはよっぽど売上も良く、院長との信頼関係も気付けていました。

 クミコさんは看護師長として入社しました。年齢(50代女性)の割にはかなり無理をした若作りで、白衣もわざわざ裾を短く切ってミニスカートの状態にしていました。

 マツダさんは事務長として入社しました、こちらは年齢はクミコさんと同じだったのですが、全く逆で、年齢以上に老けた老人のような見た目の男性でした。

 クミコさんは前任者のカワタ師長が、独立してグループホームを開業することになったために、代わりに4年前に新師長として入社しました。

 最初の印象は先に書いたように若作りなのと、前任のカワタ師長と比べると貫禄不足かな?程度でした。しかし、引き継ぎが終わってカワタ師長がいなくなると人が変わったようにあちこちに口を出すようになっていったのです。

 マツダさんはクミコさんに遅れること一ヶ月後位に入社しました。前任のシイハラ事務長が本部長を始めとしたKKK幹部にいびられて退職したため、急遽入社したのでした。第一印象は大人しく頼りないというものでした。これはまったく印象通りで最後まで頼りないままでした。

 この一見、水と油のような2人がコンビを組んでoacを動かすようになるのです。それはマツダ事務長に代わって最初の全体会議が始まりでした。声が小さく、しきりべた、また経理や保険の知識にも乏しいマツダ事務長にW本部長が最初の会議から切れてしまい、無理難題を押し付けたのです。

 会議終了後にマツダ事務長が退席した後、クミコ師長はW本部長に「あんまり、いじめるとまた辞められますよ」と言いました。すると本部長「使えない奴だったらさっさと辞めさせた方がいいんだ!」と言い放って帰って行きました。

 これがクミコ師長に火をつけたのでした。運悪くそこに居合わせた私に「従業員を何だと思っているのかしら!T君、一緒にマツダさんを守ってoacを変えて行きましょう!」と力強く言い放ったのでした。結局、私はこの後、いろいろな騒動に巻き込まれていくのでした

2010/01/04

kumi&matu事件④

3人での話し合いでは、A氏と比較的信頼関係ができている、介護主任が中心にA氏と話をしてA氏がMさんに好意を寄せていること、でもMさんも困っているので口説いたりはしないようにしてほしいなどと、うまい具合に話を進めていたようでした。それで、A氏も納得して話し合いが終了しようとした時です。なんとか自分が話をまとめたことにしたいkumi師長が余計な一言を言ってしまったのでした。

「今後、一切、女性職員へのセクハラ行為は辞めてください!」とA氏にきつく言ったのでした。これでA氏が激怒。すぐに相談員とケアマネを呼び出して怒りをぶつけたのでした。kumi師長は早々にその場を退散し相談員などの質問にも「急に興奮しだした、介護主任が何か言ったんじゃないか?」などと自分の責任を否定しました。そして、翌日、事件は起こったのです。

この日はA氏は利用日ではなく、後から相談員とケアマネが様子を見に行くことになっていました。朝、介護主任のところへA氏から電話がありました。「長いこと世話になったけど、今から死ぬから」と電話を切ったA氏、すぐにケアマネがA氏宅に駆け付けると、糖尿病の薬を大量に服用し意識が朦朧とした状態だったので、ケアマネは救急車を呼びました。

実際にはA氏が服用した薬の量は、致死量とは程遠い量だったのですが、意識が戻ったA氏は、病院を訴える、新聞社に知り合いがいるから悪徳病院だと書いてもらう、Mを連れてこい、師長を連れてこい、金をよこせ…などと次から次に要望を言いだしたのでした。

matu事務長はkumi師長に責任が及ばないようにしようと本部には連絡をせずに、院長、事務長、師長の3人で事態の解決をしようとしたのですが、ここでやはり、kumi&matuの失脚をずっと狙っていたisi女史が本部に事件を報告したのでした。

そして、本部を巻き込んだ大騒動になっていくのです。

2010/01/03

kumi&matu事件③

kumi師長が犯した事件とは…。デイケアのA氏という利用者とのトラブルがとんでもない大問題になってしまったのでした。

A氏はまだ60代と若いながらも、脳梗塞で軽度のマヒを抱えている患者でした。元来の女好きのA氏は、家族を捨てて、妻と離婚して家を出て、内縁の妻と一緒にに住んでいたのですが、そこで病気が発症しました。

内縁の妻は仕事が忙しいのを理由に介護を放棄、A氏はアパートで独り暮らしをしながら週に3回デイケア、と毎日の訪問介護を受けながら生活をしていました。内縁の妻も身元保証人なので週に1回程度は顔を出していたようです。

さてこのA氏、元来の異常な女好きのためかデイケアでも女性職員へのセクハラがひどかったのです。oacのデイケア職員はハッキリ言って、他の介護事業所より女性職員の年齢も高く、また正直この頃はルックス的にも、厳しい職員が多かったのですが、A氏にはお構いなしでセクハラ発言やタッチ行為を繰り返していたのでした。

特に狙いを定めていたMさんへは完全に口説きにかかっていました。ここで、きちんと対応を協議してMさんを担当させないとか、A氏の来る日は勤務を外すとかすれば良かったのに、結局何の対応もしなかったため、MさんはA氏を露骨に無視し近寄らないようにして担当の日も傍に寄らないなどの態度を取り続けたのでした。

好意を寄せているMさんに無視されているA氏は、それを相談員とケアマネに抗議を度々しており、ある日、A氏本人と相談員、ケアマネ、介護主任の4人で話し合うことになったのでした。

しかし、これを聞いたkumi師長、元々相談員やケアマネといった在宅部門と折り合いが悪い上にデイケアの責任者でもある自分が蚊帳の外なのに立腹して(実際はデイケアの業務は介護主任にまかせっきりでほとんど何もしてなかったが)その会議に、自分も参加すること、そして、直前になって相談員とケアマネの会議への参加をを断り、A氏、kumi師長、介護主任の3人で話し合いを行うことにしてしまったのです。

ここで、kumi師長が自分で手柄を焦るばかりによけいなことを行ってしまうのでした。

2009/12/26

kumi&matu事件②

kumi&matuの2人は、共同戦線を張ってoacの経営に動き出そうとし始めました。基本的に事務長は事務室、看護師長は外来が仕事場のはずですが、2人は出社すると一日の半分程度の時間を看護師長室で話し合いに使っていました。

会議などでの議題も、今までは本部から提案を話し合うだけの場でしたが、2人から議題などが提出されることも多くなりました。またこの頃より、本部長が本部から来るのが水曜日のみとなり火曜の全体会議には基本的には出席しなくなったのも2人にとっては幸いだったのかもしれません。

院長とも同い年の二人は、院長を自陣への引き込みに成功しました。すると会議では「この件は院長と相談して決めます」とか、「この件はすでに院長の承認を取ってあります」などの形で報告ばかりが多くなってきました。

またKumi師長は外来だけでなくデイケア、デイサービスの管理責任者も兼ねていたので、会議の場でもisi女史などに上から目線で接していました。当然のようにisi女史の本部へのチクリが始まったのでした。

kumi師長が休みの日は、matu事務長は事務室にこもりほとんどクリニックの方へは顔を出しません。その日を見計らって、本部から本部長と統括師長がそろってやってきたのです。そして、外来看護師、デイケア主任、私などを順に呼び出してkumi&matuのことを根掘り葉掘り聞き出そうとしました。

そして、聞き取りを終えた後はisi女史と3人で密談をしてました。また、isi女史が気に入らない人間を辞めさせようとしているんだなと解りました。

しかし、いつもは1人を孤立させて追い込むisi女史ですが、今回は2人が団結していることもありこの後1年近くkumi&matuの2人はがんばり続けたのです。

しかし、それは在宅部門を牛耳っているisi女史と外来、デイケア、デイサービスを牛耳っているkumi師長の深刻な対立となり、本来連携を取らなければいけない部門同士の横の連携がほとんど取れない状態を引き起こしました。

そして、1年が過ぎたある日、kumi師長はある事件を起こして墓穴を掘ってしまうのでした。

2009/12/23

kumi&matu事件①

あまり古い話は、現役の人や、ブログを見ているOBにも解らないと思うので、今から約4年ほど前に、isi女史に真向から立ち向かった2人の話をしたいと思います。その二人の名は(kumi&matu)。

立ち向かったと言えば、聞こえが良いけど、この二人も約1年半の間にoacを引っかき回したうえで、isi女史と本部長によって退職に追い込まれたのでした。

ただし、この二人「仕事ができない」「管理能力が無い」などと、本部長やisi女史に追い込まれましたが、実はこの二人がoacを管理運営していた、約二年弱は、最も患者数が多く安定していた時期だったのです。

今のY&isi女史のコンビよりはよっぽど売上も良く、院長との信頼関係も気付けていました。

kumiさんは看護師長として入社しました。年齢(50代女性)の割にはかなり無理をした若づくりで、白衣もわざわざ裾を短く切ってミニスカートの状態にしていました。matuさんは事務長として入社しました、こちらは年齢はkumiさんと同じだったのですが、全く逆で、年齢以上に老けた見た目の男性でした。

kumiさんは前任者のK師長が、独立してグループホームを開業するために代わりに4年前に新師長として入社しました。最初の印象は先に書いたように若作りなのと、前任のK師長と比べると貫禄不足かな?程度でした。しかし、引き継ぎが終わってK師長がいなくなると人が変わったようにあちこちに口を出すようになっていったのです。

matuさんはkumiさんに遅れること一ヶ月後位に入社しました。前任のSH事務長が本部長を始めとしたKKK幹部にいびられて退職したため、急遽入社したのでした。第一印象は大人しく頼りないというものでした。これはまったく印象通りで最後まで頼りないままでした。

この一見、水と油のような2人がコンビを組んでoacを動かすようになるのです。それはmatu事務長に代わって最初の会議が始まりでした。声が小さく、しきりべた、また経理や保険の知識にも乏しいmatu事務長にW本部長が最初の会議から切れてしまい、無理難題を押し付けたのです。

会議終了後にmatu事務長が退席した後、kumi師長はW本部長に「あんまり、いじめるとまた辞められますよ」と言いました。すると本部長「使えない奴だったらさっさと辞めさせた方がいいんだ!」と言い放って帰って行きました。

これがkumi師長に火をつけたのでした。運悪くそこに居合わせた私に「従業員を何だと思っているのかしら!T君、一緒にmatuさんを守ってoacを変えて行きましょう!」と力強く言い放ったのでした。結局、私はこの後、いろいろな騒動に巻き込まれていくのでした。

2009/12/22

oac事件簿①

光と影シリーズが終了し、自分のoacでの暗黒体験についで、oacの過去に起きた事件やいじめ、騒動などを書いて行きたいと思います。angry

最初のテーマは「いじめ」、大の大人が、しかも医療従事者が…いじめなんて…、これがあるんですよ!

まずは女性の多い職場なので、陰湿ないじめが非常に多い、だいたいisi女史が絡んでいることがほとんどですが、過去に何人辞めたか、まったく把握できないくらいです。

isi女史の凄いところは、本人の前では味方のふりをしつつ、裏ではその人を追い込むように周りのスタッフを誘導するところ。更にKKK本部とつながりが強いため、電話で直接幹部に「〇〇は使えないから何とかしてほしい」と言ってしまうこともありました。

ちなみに院長とisi女史、11年間で15分くらいしか話したことがない位に仲が悪く、isi女史hKKK幹部相手にも院長の悪口をよくいっています。

実質、asacliを仕切っているのはisi女史で、10年前から影の院長と呼ばれていました。今後、具体例を挙げつつisi女史によって辞めさせられた人たちのことを書きたいと思います。

まずは私の入社した翌週には、先に入っていた鍼灸師が本部からの指示で自主退職させられました。理由は…isi女史、本部長に口答えしたからsign02…これ、マジです。

いきなりの展開でビックリですが私は、入って二週目には主任になっていたのでした。まあ出だしからこんな感じですから、看護師や受付、介護ヘルパーなどisi女史のお眼鏡に叶わないものは次から次に退職に追い込まれました。

ただし、平和な時期もあったのはあったんです。開院3年目から4年間程は、isi女史は、ケアプランセンターの所長になっていたので、外来やリハビリに絡むことは無かったのです。

しかし、後に入ってきた看護師長を追い払うために、ある事件をきっかけにisi女史はデイケアに戻ってきてしまうのです。

この時に起こっていた事件は、oac最大の事件でした。私の中では、kumi&matu大騒動と呼んでいます。

これ書いて大丈夫かね? 十文字君?