企業に寿命はないが、事業には寿命がある。既存の主力事業が寿命を迎えたら、新たに勢いのある成長事業へと乗り換えなければならない。そうしなければ、事業の寿命とともに企業も息絶えてしまう。
私が編み出した言葉で表現すれば、不毛の地と化した既存の事業立地に見切りをつけて、新たに別の肥沃な事業立地を探し出す。いわば転地を行うことが、永続する企業への第一歩となる。
だが、どうすれば転地を成功させることができるのか。これが本コラムのテーマである。今回から各論に入り、転地のタイミングの見極め方やプロセスなどについて、実例を基に論じていく。
ここで断っておくが、転地のパターンは1つだけではない。過去の成功例を見ても、実にいろいろなパターンがある。その中から、典型的なパターンをいくつか取り上げて、成功のポイントを分析していく。「我が社はこれだ」と思うものを見つけていただきたい。
私はこれまで1000社を上回る国内企業の経営戦略を調べ、戦略の成否について分析してきた。その中で主力事業の転換、すなわち転地の成功例と失敗例も数多く見てきた。今回は、成功例の中でも最もダイナミックな例を紹介しよう。
ダイナミックな転地を実現したのは、福井県福井市に本社を置く総合繊維メーカーのセーレン。自動車用シート材では国内シェアトップに立つ北陸地方屈指の優良企業である。
東京証券取引所第1部に上場している大企業だが、その名前を初めて聞く読者の方も少なくないかもしれない。同社がトップバッターとして登場することに違和感を覚える方もいるだろう。
しかし本稿の最後まで目を通していただければ、ほかの会社に先がけてセーレンを紹介することに納得していただけると思う。それほど傑出した転地の成功例である。
同社が創業したのは、今から121年前の1889(明治22)年。1894年に日清戦争が開戦する前のことだ。
それから100年近くにわたって、繊維メーカーから生地を預かって染色加工を行い、加工賃を受け取るという事業を営んできた。ちなみに同社の社名は、生地を染色する前に余分な成分を取り除く「精練」と呼ばれる作業に由来する。
何度かの好況の波に乗って同社は事業を拡大する。ところが、1970年代に入ると、日米繊維摩擦やニクソンショックによる円高、2度にわたる石油危機の影響を受けて、生地の染色加工の収益性は急速に悪化していく。本業が構造不況に陥り、セーレンは83年5月期から3期連続で経常赤字を計上。倒産寸前の経営危機に瀕した。
しかし、そこから自動車シート材を主力とする繊維製品のメーカーへ業態転換し、業績を急回復させる。2008年9月のリーマンショックを発端とする世界同時不況が起きる前の2008年3月期には、連結売上高は1129億円、経常利益は73億円に達した。
賃加工の業者からメーカーへの転地を実現し、経営危機脱出の立役者となったのが、現社長の川田達男氏だ。前任の黒川誠一氏まで創業家出身者が中心となって経営してきた老舗オーナー企業で、87年に創業家以外から社長に選ばれた。
その時、川田氏はまだ47歳。役員になっていたとはいえ最年少である。社長就任には本人をはじめ社内の誰もが驚いたという。もっとも、注目すべきはこの大抜擢人事ではない。
今では売上高の4割以上、営業利益の6割以上を稼ぐ自動車内装材の事業(オートモーティブ事業)。この主力事業を川田氏は1976年に立ち上げる。その時はまだ一介の社員にすぎなかった。
創業88年目に入っていた老舗オーナー企業で、1人の雇われ社員が後の主力事業を起こした。この“偉業”こそが、特筆すべきことなのである。
偉業を成し遂げた川田氏とはいかなる人物なのか。なぜ彼は一介の社員の身でありながら、後の主力事業を立ち上げることができたのか。詳しく見ていこう。
川田氏は1940年、セーレンの地元である福井市内の機屋に生まれた。学生時代は勉学よりもスポーツに熱中したという。62年に明治大学経営学部を卒業して、当時は「福井精練加工」という社名だったセーレンに入社した。
当時の繊維産業は「糸偏ブーム」と呼ばれる好況の最中にあり、同社の新卒採用には150人前後の応募があった。その中から幹部候補生として採用された5人の1人が川田氏だった。
ところが、同氏は入社してすぐに会社のあり方に疑問を感じ、まだ研修期間中の入社2カ月目に早くも経営批判を口にする。その結果、ほかの幹部候補生が本社に配属される中、1人だけ山間部の工場に配属されることになった。
入社してすぐに川田氏が感じた疑問とは何だったのか。それは、顧客から生地を預かり、指定された色に染色加工して加工賃を受け取るという創業以来の本業の性質に対するものであった。
顧客の言われるままに生地を染色するだけなので、粛々と仕事をこなして納期を守ればいい。だから、入社してみると、何も考えない社員が目立った。
一方で、景気が悪化して顧客の製品の需要が減れば、セーレンに対する仕事の発注も減る。さらに加工賃の引き下げまで要求される。何もかも顧客次第で、主体性を発揮する余地がない。
「こうした顧客の言いなりの事業を続けていては、会社の将来は危うい」。こうした強い懸念を、川田氏は入社して2カ月という短期間で抱いたのである。
ここで改めて強調しておくが、同氏が入社した時は先述のように糸偏ブームの最中で、セーレンの業績は絶好調。売上高営業利益率は10%前後で推移していた。これだけ儲かっているのだから、会社の将来が危ういという予兆もなかった。通常は会社の事業のあり方に疑問を持つ者などいないはずだ。
しかし、川田氏は目先の好業績に目を奪われることなく、入社してすぐに染色加工という受託ビジネスの問題点を的確に見抜き、将来に対する危機感を持った。この点には実に瞠目させられる。
「自ら商品を企画して製造、販売するようにならなければ、会社が成長し続けることはできない」。川田氏はこうした信念を持ち、事あるごとに訴え続けた。それが、会社の上層部の不興を買い、左遷街道を歩むことになる。
その皮切りが工場への配属だった。もっとも、川田氏はここで生産現場の面白さに目覚めて懸命に働く。その姿勢に周囲も信頼を寄せた。だが、それも長くは続かない。入社6年目のことだ。新たに工場長に就任した人との折り合いが悪く、今度は大阪事務所の営業部門に飛ばされてしまう。
ここは入社直後に危惧した通り、周りは“御用聞き”ばかり。製品の企画を持ち込んで顧客を開拓するといった本物の営業マンは皆無だった。かねてからの疑問を川田氏は口にし続け、その結果、今度は営業開発に異動を命じられた。
新規事業の開発を担当する部署だったが、実質はほかで厄介者扱いされた社員を集めただけの“窓際”部署。特にこれといった仕事があるわけではなかった。
この時の会社の川田氏に対する評価は、「完全な採用ミス」といったところだっただろう。クビにはしないが、社内で変な考えを広めてもらっては困る。そこで窓際部署に隔離されたのだと思う。
こう書いてくると、「あちこちで不満を言い立てるアジテーター」といったイメージを川田氏に抱かれるかもしれない。だが、本人にお会いすると、外見や物腰からはそうした印象は微塵も感じられない。実に温厚な紳士である。
だが、内面には激しいものを秘めている。幼少の頃から長い冬に耐え忍んできた経験からくるものなのかもしれない。どんな苦難に遭っても屈することなく、自らの信念を貫き通す。そんな反骨精神を隠し持っている。
川田氏のもう1つの特徴は、相当なアイデアマンであることだ。次から次へと新しいことを思いつく。こうした特徴を併せ持った人だからこそ、不遇の日々を乗り越えて、一介の社員でありながら会社の転地を成し遂げるという離れ業をやってのけられたのだと思う。
不遇の果ての窓際部署への異動──。しかし、ここから川田氏の反攻が始まる。
営業開発に異動したのは1975年。この時には会社の業績にも既に変調が表れていた。次のグラフをご覧いただきたい。
それまで軌を一つにするように伸びていた売上高と営業利益の推移が、70年代に入って乖離し始めているのが見て取れる。
仕事が減ったわけではなく、売上高は伸び続ける。しかし採算が急速に悪化。営業損益は黒字と赤字を繰り返す低空飛行状態に入る。恐らく、当時の経営陣は「いつ墜落するか」と恐怖に駆られていたことだろう。
そうした状況の中、川田氏は窓際部署である営業開発の同僚たちと新規事業の立ち上げに取り組む。最初は何を作っていいのか見当もつかず、まずは繊維関連の会社を片端から訪ねて回ったという。
そうやって見つけた新規事業の種が、傘の張り地や婦人靴の中敷きだった。これらを自社で生産して販売する。材料の生地を売ってくれる機屋の確保や販売先の開拓などに川田氏たちは奔走した。
慣れない仕事だけに相当苦労したそうだが、「製品は何でも構わない。とにかく自社の製品を持って、それを生産して販売できるようになりたい」という一心だったという。
だから、いわゆる飛び込み営業もいとわなかった。そうして訪問した自動車メーカーの担当者から持ちかけられたのが、自動車シート用の布地の開発だった。
当時はまだ、マイカーが一般の家庭に普及し始めた頃。シートは塩化ビニール製が主流だった。自動車メーカーがし烈な製品開発・販売競争を繰り広げる中、布製のシートを搭載できれば、塩ビ製のシートに比べて高級感を出すことができ、強力なセールスポイントになる。
だが、布には摩耗が早く、色が落ちやすいといった課題があった。「こうした課題をクリアする布製のシート材を作ってみないか」と声をかけられたわけである。
あくまで担当者個人の誘いであり、自動車メーカーからの正式な要請ではなかった。試作品を作ろうとしても、会社は認めてくれない。途方に暮れた川田氏に救いの手を差し伸べたのが、入社してから6年目まで一緒に働いた工場の人たちだった。彼らが、夜勤の間に会社には内証で試作品を作ってくれたのである。
試作品は自動車メーカーに認められ、1976年から布製の自動車シート材の出荷を始めた。この功績によって川田氏は同年、課長に昇進。それからわずか3年後の1979年には製品営業部長に就く。
トヨタ自動車や三菱自動車工業といった大口顧客を開拓し、かつての“問題社員”の評価は一変。81年には、41歳で役員に抜擢された。
一方で、川田氏のスピード出世とは対照的に、本業である生地の染色加工の営業損益は低空飛行から抜け出せないまま、セーレンは倒産の瀬戸際に追い込まれる。その窮地の中、5代目社長の精一氏が「君の手で会社を変えてくれ」と後を託した相手は、最年少役員の川田氏だった。
社長に就任した川田氏は、受託ビジネスから脱却しなければ会社の未来はないという自分の主張に耳を貸さず、本業に固執し続けてきた役付き役員を全員、平取りに降格する。そして、細々と続けてきた自動車シート材の事業を主力に据えて、会社の再建に乗り出した。
バブルによる特需とその崩壊を乗り越えて、セーレンは1995年から着実な成長を描き始める。そして、2006年3月期に連結売上高1000億円の壁を突破するに至った。
ここまで見てきたセーレンと川田氏の軌跡は、ジャック・ウエルチ氏を思い起こさせる。
彼は米ゼネラル・エレクトリック(GE)でエンジニアリングプラスチックという新規事業を立ち上げて、その功績によって出世の階段を上り、ついにはCEO(最高経営責任者)になった。
エンプラ事業がGEの最も有力な事業にまではならなかったことを考えると、川田氏はウエルチ氏よりも上と言ってもいいかもしれない。
しかも平社員のうちに後の主力事業を立ち上げた。経営者の殿堂があれば、名を連ねるのは確実だ。
セーレンと川田氏のケースからくみ取るべき教訓は大きく2つある。1つは、主力事業が寿命を迎えてから慌てて次の種を探すのでは遅いということだ。
川田氏は社長に就任する10年以上も前に、小規模ながらも次の主力事業を立ち上げていた。これが、セーレンの転地がうまくいった最大の要因だろう。
もう1つは、その新規事業の芽を育んだのは、会社の制度や組織ではなく、川田氏という1人の人間の信念であった点である。転地を成し遂げるのは、制度や組織ではない。人間なのである。
川田氏のように入社直後に会社に反旗を翻すような信念を持った人。不遇が続いてもくじけずに信念を貫き続ける反骨心のある人物。こうした人材は、入社後の教育によって育成できるものではない。もともと、そうした気質や素養を持った人を発掘して採用する必要がある。
最初に若手の社員がリクルーターとして「自分の職場の後輩として問題を起こすことなく一緒に働いてくれそうな人」を選ぶような採用方法を続けていては、恐らく川田氏のような人物は途中で弾かれてしまうだろう。
「健全なる赤字」という言葉があるが、企業は「健全なる不良社員」を抱えなければならない。多くの企業は、社員の採用のあり方を再考すべきである。
読者の中には、川田氏が立ち上げた自動車シート材の事業を社内ベンチャーの一種と受け止める人がいるかもしれない。それは誤った解釈である。
私の見方では、社内ベンチャーはあくまで事業の多角化を目指したものであり、会社の本業の入れ替え、すなわち転地を目的としてはいない。
川田氏は入社直後に会社のあり方に異を唱えてから、一貫して染色加工の受託から脱却し、自社で製品を持って、それを生産・販売するメーカーになることを標榜してきた。つまり、最初から転地を狙っていたわけである。
しかも、社内ベンチャーのように会社からヒト、モノ、カネの経営資源の面でバックアップを受けることはなかった。会社から何の支援も得られない中、ほとんど自らの手で道を切り開き、転地を成功に導いた。この偉業を決して社内ベンチャーによる多角化と混同してはならない。
次回も川田氏と同様に一介の社員が転地を成し遂げた事例を取り上げ、成功の条件についてさらに考察を進める。
故田中角栄元首相はかつて高度成長期の延命を狙って、「日本列島改造論」を打ち出した。現在の日本が必要としているのは、日本列島の改造、すなわち国主導の改革などではなく、日本企業の改造である。改革を断行できない政府より問題なのは、実は民間企業だ。多くが低い利益率に甘んじ、収益性を高める努力を怠っているからである。ここにメスを入れて企業を改造しなければ税収も増えず、国も企業と一緒に沈没しかねない。