Fate
第一話 神に仕える悪と邪なる聖人
一千年
今では世界共通の暦である西暦にして、十世紀もの昔。ある魔術師の一族が一つの奇蹟を求めた。
『ラインの黄金』
天の杯とも呼ばれるそれは魔術の域を超えた領域に位置する最高の神秘。
現存する魔法のうちの三番目に位置する黄金の杯。アインツベルンから失われたとされる真の不老不死、魂の物質化。
過去にいた魂から複製体を作るのではなく、精神体でありながら単体で物質界に干渉できる高次元の存在を作る神の業。魂そのものを生き物に変え生命体として次の段階に向かうものであるため魔術協会でも秘密にされてきた禁忌中の禁忌。
これを再現するために、アインツベルンの血族は最早語ることすら敵わぬほどの歳月を重ねてきた。
ありとあらゆる犠牲を費やし、ありとあらゆる願いを踏みにじり、ただひたすらに奇蹟の黄金を求め、彼らは走り続けてきた。
しかし、800年も過ぎる頃、ついに自分達だけでは奇蹟の座に至ることは叶わぬことを悟り、他の家と協定を結び極東の地にてとある儀式を開始する。
聖杯戦争
万物の奇跡を詰め込んだ聖なる杯を賭けて己が覇を競い合う魔術師同士の闘争。やがてそう銘打たれることになる儀式は、原初の時、純粋な願いのみを受けて成就するはずであった。
今より二百年前にあたるその時、ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンと遠坂永人、マキリ・ゾォルケンによって創始された大聖杯の儀式。当時は魔術協会と教会は殺し合いをしていたため召喚の地には教会の眼が届かない極東の地が選ばれ、アインツベルンが聖杯の器を用意し、遠坂がサーヴァントを降霊し、マキリがサーヴァントを律する令呪を作り上げた。
しかし、儀式は結局失敗に終わり、悲願は果たされることなく今も子孫に伝えられ続ける。
現在においても未だに根源に至ろうとしているのは既に遠坂のみ、アインツベルンもマキリも聖杯の完成、つまり第三魔法の再現のみを望んでおり、再現した後に自分達がどこを目指すのかすら忘却の彼方にある。
いや、そもそも彼らは狂っていたのだ。そうでもなければ一千年もの間同じものを求め続けることなど出来る筈もなく、その宿願の根源を疑いすらしない彼らは例外なく狂気に染まっている。
あえて言うならば、遠坂のみが狂いきっておらず人間らしい思考の欠片を残していたというべきだろう。アインツベルンもマキリもまた正当に狂い続けており、その狂気を今もなお継承している。
しかし、彼らは気付かない、彼らの宿願の根源にあるはずのそれに気付くことなはない。
彼らの祖先はなぜ黄金を求めたのか?
ラインの黄金を再現するというのならば、なぜそれは失われたのか?
そしてそもそも、最初にラインの黄金を発見したのは一体誰か?
物事には始まりがあるからこそ終わりがある。失われた奇蹟ならばかつてそれを作り出した者があって然り。
少し考えれば子供でも疑問に思うようなそれらの事柄に一度も思いをはせることなく、聖杯戦争は繰り返され続けた。始まりの御三家の祈りは届かず、ただ屍のみが冬木の地に積み重なっていく。
そして、いまよりおよそ61年前
ちょうど世界大戦の末期であった1944年、第三次聖杯戦争が開始され、アインツベルンは呼んではならぬものを呼び出した。
この世全ての悪とも呼ばれるそれをなぜアインツベルンは呼び出したのか、その真意を知る者はいない。
しかし、真相を知ることはなくともそれを推察するものはいた。なぜならその男は実際にその目で監督役と共に第三次聖杯戦争を眺めていたのだから。
そして、その時に監督役を務めた言峰璃正と僅かながら縁があったその男は今、当時とは全く異なる容貌にてその息子と語らっていた。
「東方正教会双頭鷲(ドッペルアドラー)、ええ、かつては私もそれと関わっていたことがあります。まあ、その因縁も10年ほど前に無くなったようなものですが、奇妙なことに人の繋がりというものは容易には断ち切れない。人の命は、簡単に散るものだというのに」
冬木市に存在する丘の上の教会、冬木に存在する霊地の中でも三番目の霊格を誇り、第三次聖杯戦争においては聖杯を降ろす場所ともなった屈指の霊脈を有する要地。
元は始まりの御三家の一角たるマキリがおさえていたが、後に土地の霊気が一族の属性にそぐわないことが判明し、間桐邸は別の場所に移築され、土地は後から介入してきた聖堂教会が確保した。
第三次聖杯戦争の監督役だった言峰璃正が教会から派遣され管理を行っていたが、第四次聖杯戦争の折に他界し、息子の言峰綺礼が引き継ぎ現在に至る。
「そして第八秘蹟会。確かに、貴方の経歴から考えれば父と面識があったというのも頷ける。なるほど、このように当時の人間の話を聞く機会に恵まれるとは、私の運も存外捨てたものではないらしい」
そう呟くのは僧衣に身を包んだ長身の男。ソファーに腰を埋めながらも相手を威圧するかのような雰囲気を滲ましている。
そして、彼と対峙する男もまた僧衣に身を包み、こちらは対照的に温和な雰囲気を身に纏っている。
だが、果たしてそうだろうか。常人が見るならば彼は普通極まりなく、人畜無害な好人物であるかのような印象を受けることだろう。
しかし、この人物をよく知る人間による評価はそれとは真逆のものである。まあ、“邪なる聖人”という魔名を持つ時点でまともな人物であるはずがないのだが。
「神は高みを在りて常に我等の行動を見ておられる。ここに我々が友誼を深める機会を得ることができたのも神の思し召しというものでしょう」
「ほう、貴方は神を信じるか」
「ええ、信じておりますとも」
その言葉にどれほど意味が込められているのか、両者は語る必要もなく理解していた。
片や、生まれつき人間の幸福というものを知らず、他人が苦しむことでしか己の幸福を感じることが出来なかった男。
片や、生まれつき他者と認識が共有できず、認識がずれた世界で独り飢えながら歩み続けた男。
似ているようで決定的に異なる両者は、同じような理由によって信仰の道に入った。
神は全てを許すという、神は全てを救うという。
ならば、罪深き自分をも神は救うのではないか?
その思いを胸に意味のない道を歩き続けた両者は、ある意味同じ結論にたどり着いた。
この世に神はいない。だが、しかし……
「私の信ずる神は今も高みにおられる。そして、私は神の代行者なのですよ」
黄金の代行、クリストフ・ローエングリーン。
ヴァレリア・トリファという男が持つ洗礼名であり、祝福であり、呪いであるその名。
そして、彼の信じる神とは、その対極に位置する筈の愛すべからざる光(メフィストフェレス)に他ならない。
「代行者か、ならば私はどうなのだろう」
言峰綺礼という男もまた、神の代行者という立場にいたことがある。
それはあくまで人間世界の最大派閥がもつ異端審問組織の一部に過ぎないものであったが、それを神の意志とするならば紛れもなく彼は代行者であったのだ。
しかし今、彼は別の神に祈りを捧げている。
この世全ての悪(アンリマユ)
その泥を心臓として機能させている彼はその分身、一部といってもいい存在となり果てている。ならば、彼をして神の代行と呼ぶこともまた不可能ではないだろう。
そうした背景などを考えても、やはりこの二人は似たもの同士ではあるといえた。共に聖杯戦争に浅からぬ因縁を持ち、余人は知る筈もなく、極一部の限られた人間しか知らない情報を互いに隠し持っている。
「さてさて、その答えを得るためにかつて貴方は聖杯を求めた。違いますかな?」
そして、聖餐杯は人を知る。俗人ならば見ただけでどのような人間かまで看破する彼ではあるが、その彼をしてこれほどまでに内面を読み取りにくい相手は数えるほどしかいない。
もし、かつての自分、ヴァレリアン・トリファならばこの男の内面すら余さず読み取ったのであろうが、黄金の代行である今の自分はその能力を失っている。
しかし、それは己の願いの結果であり当然の帰結、脆く歪んだ器を捨て去り、高次の白鳥へと変生することこそ彼の渇望なのだから。
「確かに、否定は出来ぬ身。若い私は答えを知るために聖杯を求めた。だが、その答えは未だ出ていない」
もし答えが出ていたのならばそもそも言峰綺礼は生きていない。この世全ての悪の泥によって偽りの心臓を機能させている彼は己の渇望に喰われているのと大差ないのだ。
仇敵である衛宮切嗣の命を奪った聖杯の泥は彼に真逆の効果を及ぼした。それまで人類を救うという渇望に囚われていた衛宮切嗣はこの世全ての悪によってその渇望を否定され、生きる意味全てを失った。
その果てに、彼が託すべき者を見出したことまでは言峰綺礼も知らぬことではあったが、衛宮切嗣は確かにこの世全ての悪によって死んだのだ。
だが、本来は死んでいたはずの言峰綺礼は今も生きている。まともな人としての在り方とはかけ離れた存在となり、ただ、この世全ての悪の生誕を願うだけの渇望の具現と評した方が適当ではあるが、それでも生きている。
10年前、溢れ出た泥によって生者と死者はその立場を入れ替えた。
そして、その渇望が満たされた時こそ、言峰綺礼の肉体は活動を停止する。いかに聖杯の力の一部であるとはいえ、意思の力のみでそれを維持している言峰綺礼はいったい何者なのか。
「ですから、そのお手伝いをして差し上げたい。もっとも、私にも打算はあり、望むものがある身ですがね」
聖餐杯は笑う。彼には言峰綺礼の願いを理解することが出来た。具体的な内容までは分からずとも、それがどのような願いかは分かる。
己の渇望を成就させるためにこの世全ての悪を受け入れ、なおも歩み続ける言峰綺礼。同じく、己の渇望を成就させるため、自己の器すら捨て去り黄金への変生を果たし、歪んだ聖道を歩み続けるヴァレリア・トリファ。
そして、二人の道は今、この冬木の地にて交わろうとしている。
「そうか、ならばいくつか質問があるのだが良いだろうか?」
「なんなりと」
「およそ60年前、私の父が監督役を務めた第三次聖杯戦争において、アインツベルンはこれを召喚した」
そうして彼が指し示すのは己の心臓、それがなんであるかなどこの相手に説明する必要もない。
「なぜ彼の家がそのような真似をしたのかについては知りようもないが、疑問が残る。そも、なぜその召喚は成功したのか?」
それはつまり、卵が先か鶏が先かという議論。
第三次聖杯戦争において、アインツベルンはこの世全ての悪(アンリマユ)召喚した。そして、それ以降、正統な英霊のみを呼ぶはずの大聖杯は狂い始め、第四次聖杯戦争においてはキャスターのクラスに反英雄が招かれている。
だが、アヴェンジャーを呼び出すまでは確かに聖杯は正確に機能しており、正英雄以外は呼び出されるはずがなかった。
アインツベルンは聖杯を作る家ゆえに抜け道を知っていたと考えればそれまでだが、それを独力で行えるのならばそもそも遠坂やマキリの協力などいらなかったのではないか、という疑問が残る。
ならば。
「第三次聖杯戦争が行われたのは今より61年ほど前の話、ちょうど世界が大戦の戦火に飲まれていた時代、我々が人として生きていた時代」
そして、聖餐杯は静かに語り始める。
「当時、ナチスドイツの高官であったハウスホーファーなる人物。その男が見定めたというシャンバラの候補地の中に冬木という土地が存在していたと記憶しております」
当時は大戦中であり、大日本帝国とナチスドイツ第三帝国は同盟国であった。
ならば、黒円卓と冬木になんらかの繋がりがあってもおかしくはない。そして、黒円卓はその名の通り闇を強く孕む、そう、清純なる聖杯を黒く染め上げる程に。
そもそも、“円卓”という言葉自体が“聖杯”と強い因果を含む。ならば、あの副首領がそこに何の介入もしなかったなど、そちらの方があり得ない。
「なるほど、つまり」
「この冬木の地は我等、黒円卓の騎士にとっても約束の地。我らもまた聖杯を求める騎士なれば、この儀式を見過ごすことは叶わぬのですよ」
聖槍十三騎士団
わずか60年ほど前に出来た小さな組織であるはずが、国際連合という表の組織はおろか、聖堂教会、魔術教会の二大組織からも恐れられる超人の集まり。
最早それは超人と呼ぶのもおこがましく、天災と表現する方が妥当といえる。
特に、『白いSS』と呼ばれる吸血鬼は最悪の災害。聖堂教会が誇る異端審問組織『埋葬機関』、魔術教会が誇る封印指定執行者、その両者を幾人も返り討ちにし、死徒二十七祖をも仕留めたとされる戦争の怪物。
そして、このヴァレリア・トリファこそが黒円卓の騎士を率いる首領代行。
不思議なことに幹部に関する情報はほとんど外に伝わっていないが、現在も活動を続ける騎士団員の情報ならある程度は知れ渡っているのだ。
“白いSS”、“最終魔女”、“戦乙女”、などは欧州の裏側を知る者ならば誰もが一度は聞いた名である。
諜報活動に徹する“紅蜘蛛”と首領代行である“邪なる聖人”が表に姿を現さないのは当然ではあったが、残りの三人についての情報は裏側ですら知られていない。
唯一知るのは10年前に崩壊した双頭鷲(ドッペルアドラー)くらいであっただろう。
「それは矛盾するな。聖杯戦争が黒円卓の騎士の悲願ならば10年前の第四次聖杯戦争になぜ介入がなかったのか」
そして、それを知りながら悠然と対峙するこの神父もまた只者ではない。むしろ、この状況を心の底から愉しむかのような笑みを浮かべている程だ。いや、恐怖という感情が擦り切れているだけなのか。
「それは言わずともお分かりでしょう。当時、我々も色々と立て込んでおりまして、このような遊戯に参加する余裕がなかったのですよ」
つい先程、黒円卓の騎士の悲願であると告げておきながら遊戯と断ずる。全く矛盾そのものであるが、矛盾なくして聖餐杯は成り立たない。
「確か、諏訪原といったか、その土地にて黒円卓と双頭鷲がぶつかったと聞いた覚えがある。まあ、我々も色々と立て込んでいたためそのような遊戯に関わることもなかったが」
双頭鷲は東方正教会に属する機関であり、ローマを本拠地とするカトリックの聖堂教会とは立場を異にする。
表側の話だけでも幾度となく闘争を繰り返したローマ・カトリックと東方正教会の関係は最早名状しがたいものになっている。最大の仇であると同時に最愛の人であるかのように。人間社会における最大派閥の構成する組織であるためか、それらは人の矛盾を体現するかのように愛憎劇を繰り返している。
「ええ、当然蹴散らしましたが。多少の傷を被ったのもまた事実なのですよ」
それは紛れもない事実であり、怒りの日の前哨戦。
ならばこの聖杯戦争は来るべき本番に向けた大規模な演習と呼ぶべきだろう。作戦が大規模になればなるほど事前の演習にも力を入れるもの。
そして真に迫った演習ならば気を抜けば命を失うことにも繋がる。要はそういうことなのだ。
「熟練兵を失ったからといって新兵を代わりに据えたところで容易に穴は塞がりません。ならば、実戦訓練こそが最も効率的な養成方法でしょう」
「つまりは、それも目的であると」
聖餐杯の言葉には必ず裏がある。表だけを受け取っているといつの間にか袋小路に入っていることになりかねない。
「ええ、それも目的です。それを口実に口うるさい妻と優しい娘を騙してこのような戦場までやってきたわけでして」
どの口がほざくのか、どこまでも飄々と口にする聖餐杯。
「ほう、貴方に妻と娘がいるとは。これは驚くところなのか判断に苦しむな」
「ははは、これは耳が痛い。ですが、貴方はどうなのです?」
「さて、どうだったか」
それは言峰綺礼にとって数少ない、考えてはいけないことだった。実際、家族という言葉は彼にとって鬼門といってよい。
それを全く表面に出さない精神の頑強さは他の追随を許さないものではあるが、そういう部分を察することにかけてはヴァレリア・トリファに一日の長がある。
しかし。
「かつて私が零してしまったもの、それを恐れる心がある限り、私が家庭を持つとは思えんな。特に、私に子供を育てる資格などありはしない」
それは言峰綺礼とて同じこと、他人の心の傷を開くことに関してならば他の追随を許さない。
「く、くくくく、ははははは」
「ふ、くくく、ははははは」
そして両者は乾いた笑いを浮かべる。
「愉快ですねえ、実に愉快だ。このように傷を抉られたなど、副首領閣下以来ですよ。ああ、実に懐かしい」
「ああ、その心、誰よりも理解できるとも。十年前にあの日より、このような気分になったことなど一度もなかった」
結局、この二人が言葉を発する以上、互いに傷つけ合う以外にあり得ない。互いにそのような業を生まれもった身であり、それを変える意思もない故に。
「よかろう、貴方の協力を仰ぐとする」
そして、言峰綺礼は決断した。いや、理解した。
この聖杯戦争はこれまでとは全く違うものになるであろうことを、そして、この戦争の裏には自分も知らぬ途方もない悪意が蠢いているということを。
「譲歩、感謝いたします」
聖餐杯は静かに頭を下げる。その顔に仮面のような笑みが貼り付けたままで。
「依頼しているのはこちらの方だ、感謝される云われはない。欲望もあれば打算もあってのこと」
「それはお互いさまでしょう。私とて未だに隠し事は多い、全てを明かすことなど出来ませんし、する気もない」
「ならばこそ、対等な立場の同盟、いや、協力関係というわけか。実に面白い」
実際、彼らは愉しんでいた。この状況を。
「それでは具体的な話に移るとして、まず、私が現在保有している戦力についてですが……」
そして、神の家における彼らの密談は続く。
神に仕える悪と邪なる聖人、この両者の奇妙な友誼が何を意味するのか、何をもたらすのか。
『ああ、実に結構、実に至高。所詮は児戯に過ぎぬが、座興としては申し分ない、共に楽しむと致しましょう、獣殿』
全てを見透かし、笑い続ける詐欺師のみが知っている。