2010年 海の日記念LAS短編 浮力 ~ウキアガルチカラ~ 前編
僕は泳ぐのが苦手だった。
小さい頃から見ていた不思議な夢も原因なんだ。
目の前で誰かがおぼれて沈んで行くという夢を何回も見た。
「人間は浮くようにはできていないんだ」
体育の水泳の授業の時間はとても嫌で逃げてばかりいた。
先生も諦めてサジを投げるくらいだった。
無気力な毎日を送っていた僕の元に、ある日父さんから手紙が来た。
父さんの元へ行った僕は、エヴァンゲリオンという巨大なロボットのパイロットにさせられてしまった。
僕が戦わないと人類が滅亡するって言われても良く分からなかった。
ただ、流されるように僕はエヴァンゲリオンに乗り込んで使徒という怪獣みたいなものと戦った。
いや、あれは戦いじゃなかった。
僕はただ痛い思いをしただけで、使徒は勝手に倒されていた。
こんな辛い思いをするなら逃げ出したいと思ったけど、おじさんのところへ戻ってもみじめな思いをするだけ。
でも、そんな沈んだ僕の心をつかみ上げてくれる、そんな人と会えた。
「シンちゃん、ちょっと散らかっているけど、我慢してね」
「これがちょっとですか……」
僕の上司の人で10歳以上年の離れたお姉さんみたいに接してくれる人。
ミサトさんは僕の本当のお姉さんになってくれたんだって思った……そう錯覚してしまった。
机の上に置かれた『サードチルドレン監督日誌』。
そこには僕のエヴァの操縦に関係するデータが細かく書かれていた。
ミサトさんは、僕をエヴァのパイロットとしか見ていない……。
こうなったらネルフの、いや、父さんの『駒』らしく散ってやろうと使徒と思いっきり戦った。
でも、僕は初めての使徒との戦いに勝ってしまった。
いくら周りのみんなに褒められても僕の心は浮き上がって来なかった。
……そして、僕は重たい心と体を本物の水の中に沈めてしまおうと、ミサトさんの家を飛び出した。
僕が向かったのは第三新東京市で一番景色の綺麗な湖と観光パンフレットに書かれていた芦ノ湖だった。
時刻はちょうど夕暮れだった。
水面が茜色に染まる幻想的な景色を見れるなんて来てよかったと思った。
非常警戒が解除されてまだ数時間しか経っていないからなのか、遊覧船を含めて人の気配はしなかった。
僕もリニアレールの運転が再開した部分から、運休中のバスに乗らずにここまで長々と歩いて来た。
「さあ、あと少しだね……」
僕は自分に言い聞かせるようにそう呟くと、転落防止の柵を乗り越えて、湖の中に向かって思いっきり飛び込んだ。
体は肩まで沈み込んだけど、僕はもがいて水面に顔を出している。
……どうして?
僕はおぼれて湖の底に沈むはずじゃなかったの?
それでもだんだん手足の力が抜けて行く。
そんな僕の耳に届いたのはヘリコプターの音と、誰かが飛び込む水の音だった。
「ミサトさん……!」
ミサトさんは真っ直ぐ僕のところに向かって泳いでくる。
僕はミサトさんに抱きかかえられて浮いているんだ……。
僕はネルフ本部に連れ戻されたけど、不思議と小言の一つも無くミサトさんの家へ戻る事になった。
自分に割り当てられた部屋の隅で僕はずっと座り込んでいた。
すると、そんなに時間も経たないうちにミサトさんが家に戻って来た。
ミサトさんは紅茶色の髪をした、外国人みたいな青い目をした女の子を連れて来ていた。
「シンジ君、紹介するわ。惣流・アスカ・ラングレー、あなたと同じエヴァンゲリオンのパイロットよ。レイが怪我をしているからドイツ支部から来てもらったの」
「よろしく」
「う、うん」
突然、同僚のパイロットを紹介されて僕は何だか分からなくなった。
「これから、シンジ君がバカな事をしないようにアスカに側にいてもらうから」
「ええっ、僕が、この子と一緒に?」
「そ、アスカの部屋はあっちだから」
「ダンケ、ミサト。アタシもホテル暮らしは嫌だったからさ」
僕の目の前で、ミサトさんとアスカの話はまとまって行く。
「あの惣流……さん?」
「何よ?」
「僕と同じ家でいいの?」
「アメリカではルームシェアリングぐらい当たり前よ」
アスカの態度に僕は拍子抜けしてしまった。
「じゃ、私はネルフに戻るから二人とも仲良くね」
ミサトさんはそう言い残して家を出て行ってしまった。
「アンタ、ミサトに甘えて迷惑を掛けるんじゃないわよ」
「僕がミサトさんに甘えてるって?」
「机の上に置きっぱなしにした芦ノ湖のパンフレット、それがアンタからミサトへのSOSじゃないの?」
アスカに指摘されて僕は気がついた。
僕は死にたいと言いながらミサトさんに助けを求めていたんだって。
そしてミサトさんは差し伸べた僕の手を……引き上げてくれたんだ。
……沈んでいた僕の心が、浮き上がってくるのを僕は感じた。
またミサトさんとの、さらにアスカを加えた3人の家族としての生活が再開した。
アスカは僕に料理や掃除、家事全般をやることを強制した。
体を動かしていれば暗い事も考えなくなるって。
学校から帰ったら家事をしなくちゃいけなくなった僕は、確かに落ち込む暇が無くなった。
「アスカって、僕にキツく当たるけど、ひょっとして僕の事嫌いなの?」
「別にそんなこと無いけどさ、アンタがバカシンジだからよ」
「そっか、別に嫌われているわけじゃないんだ……」
それでもアスカはいつも僕に対して厳しいとは思った。
ハンバーグはもうちょっと火を通す焼き方をした方がいいとか、お風呂はぬるめにしろとか、下着はネットに入れて洗濯しろとか……。
さらに僕が下を向いて歩きすぎだとか、同じ上着を何日も着るなとか、もっと大きな声で話せとか、たくさんご飯を食べろとかお節介なぐらいだった。
数日後、零号機とアスカのシンクロテストの最中にネルフの発令所に警報が鳴り響いた。
新しい使徒が出現してこちらに向かってくるんだって。
アスカは零号機とまだシンクロできないから、僕が初号機に乗って出撃する事になった。
父さんは何も言わずに僕を戦場に送りだす。
でも、父さんの事が信じられなくても僕がここに居るためにはエヴァに乗るしかない。
あれ、何で僕はここ居たいって思うんだろう?
答えはわかっている。
ミサトさんとアスカと一緒に居たい気持ちが芽生えて来たから。
「エヴァンゲリオン初号機、発進!」
ミサトさんの号令で初号機が地上に向かって射出されて行くのがわかる。
地上に出た瞬間、ミサトさんから通信が入った。
「避けて!」
「えっ?」
僕はミサトさんの言葉の意味を考える間もないまま、視界一面が真っ白な光に包まれた。
熱い……LCLがまるで沸騰しているんじゃないかと思うぐらい体中がヒリヒリした。
そして、胸の辺りが苦しい……息が苦しい……まるでおぼれてしまったみたいだ……!
……僕の前で、また誰かがおぼれていると言う夢を見た。
いや、おぼれているんじゃない、人がLCLに溶けて行っているんだ。
エヴァに乗るようになった僕には解った。
じゃあ、僕の目の前で溶けているのは誰なんだろう?
夢が覚めて行く……。
「目が覚めた?」
「アスカ……」
目を開けると、そこにはアスカが立っていた。
部屋の中を見回すと、ここは病室。
ゆったりとした服を着て、ベッドに寝かされていたのが分かった。
「アンタ、泣いているみたいだけど、どうしたの?」
「えっ?」
僕はアスカに言われて、目じりに涙がたまっている事に気がついた。
「何でだろう……」
「まあいいわ、ほら、おむすびを持ってきたから食べなさい!」
アスカが僕の前に差し出したおむすびは形がガタガタになっていて、器用なアスカが作ったものとは思えないほどだった。
「これって、もしかしてミサトさんが作ったの?」
ミサトさんが作った料理を食べたら命にかかわるから、確認のために聞いてみると、アスカは顔を赤らめてボソボソと話す。
「う、うるさいわね、アタシは日本に来て初めておむすびを知ったんだから仕方が無いじゃない!」
「ありがとう、でも僕はあんまり食欲が無いから……」
「そんなこと言うと、今夜の作戦中にお腹が空いて倒れちゃうわよ!」
「えっ……エヴァは無事だったの?」
「数時間後に修理が終わるみたい。ミサトやリツコは大忙しよ」
「また、エヴァに乗らなくちゃいけないのか……」
僕は自分の体が震えてくるのを感じた。
本能的に死を悟ったあんな体験は二度としたくない。
「僕はもうエヴァには乗りたくない……」
「そんなこと言って、逃げちゃダメよ」
「アスカはあんな痛い目に合った事が無いからそんな事が言えるんだ!」
「バカシンジ、そんな甘い事言うな! ミサトやリツコもアンタを信じて頑張ってるのよ!」
「もういい、放って置いてよ!」
僕はアスカを追い出すように、手を振りまわした。
でも、アスカはそんな僕の手をグッとつかんで僕に向かって呼びかけた。
「逃げちゃダメよ逃げちゃダメよ逃げちゃダメよ逃げちゃダメよ逃げちゃダメよ!」
「どうして、アスカは僕を見捨てないんだよ! 父さんみたいに!」
僕がヤケクソ気味にそう叫ぶと、アスカは落ち着いた暗い声でポツリと呟いた。
「……それは、アンタがアタシにそっくりだから」
「えっ?」
「おむすび、食べなさいよ」
アスカはそう言って僕の病室を出て行った。
僕はアスカの作ってくれたおむすびを食べないわけにはいかなかった。
お茶が無くて食べにくいと思ったけど、そんなことは無かった。
僕の目と鼻から水が止めどなくあふれて来たから。
「はは、味が良く分からないや……」
僕はそう言いながらアスカの作ってくれたおむすびを食べ続けた。
作戦のため招集された時間になる前に、僕はプラグスーツを着てミサトさんとアスカが待つブリーフィングルームに顔を出した。
「シンジ君、やってくれるのね」
「アンタ、吹っ切れたの?」
ミサトさんとアスカに向かって僕は無言で強くうなずいた。
「アスカ、おむすびありがとう」
「ど、どういたしまして」
僕はこんなふうにお礼を言ったのは生まれて初めてかもしれない。
アスカは照れ臭そうに顔を少し赤くしてそっぽを向いていた。
「それではこれから『ヤシマ作戦』の内容を説明するわ」
ミサトさんがきりっとした顔になって、作戦の内容をを僕達に説明する。
長距離・大出量のライフルを使って強力なレーザーを撃って使徒を倒す事。
シンクロ率の高い僕が射手を担当して、アスカは使徒が攻撃してきた時のために盾を持って防ぐ事。
「もし僕が外したらどうなるんですか?」
「その時は急いで2発目を撃つしかないわね。でも、ライフルの再充填には20秒近くかかるのよ」
「さっき、盾は17秒しか使徒の攻撃に耐えられないって……! それじゃあ、アスカが!」
僕がそう言ってアスカの方を見つめると、アスカは落ち着いた様子だった。
「大丈夫、アタシはシンジを信頼しているから」
そして僕達は作戦開始時刻になるまで、二人きりでパイロット控室で待つことになった。
お互いに座り込んで黙ったままだった。
アスカも緊張しているんだって僕にも分かった。
部屋の空気が張り詰めている。
でも、僕はアスカに声を掛けずにはいられなかった。
「アスカは何でエヴァに乗るの?」
「負けたくないからよ」
「何に?」
「アタシがエヴァから降りたら、きっと何もすることが無くなっちゃう。そしていつもウジウジと悩んでいるんだわ」
「僕もここに来る前はそうだった、いや、最近までそうだったと思う」
アスカは強い子じゃなかったんだ。
必死に暗い思考の海に沈んでしまわないように、浮きあがろうと必死にもがいているだけなんだ。
僕はそう思った。
「時間ね、アタシ先に行くわ」
アスカは僕より早く出口のところに立って、そして振り向いた。
「アンタはアタシが守るから」
バイバイ、と軽く呟いてアスカの後ろ姿は消えて行った。
まるで最期の別れみたいで僕はとても嫌だった。
「シンジ君、私達のエネルギー、あなたに預けるわ」
ミサトさんは戦略自衛隊や日本中の企業・研究所、そして国連の軍隊が持っていた電気や電池を集めてライフルのエネルギー源にしたんだって。
でも、1発目を外したら、2発目は……日本中を停電させてでも電気を集めないといけない……いや、それもあるけど僕はアスカが心配だった。
「電圧上昇中!」
「冷却システム作動します!」
エヴァに乗っている僕の耳に発令所に居るネルフの大人達の慌ただしい声が聞こえる。
「最終安全装置解除!」
「撃って、シンジ君!」
ミサトさんの合図を聞いて、僕はライフルの引き金を絞った!
ライフルから撃たれたレーザーは使徒に向かって命中した!
だけど、信じられない事に使徒は倒せなかったんだ。
「ATフィールドを貫通して使徒にダメージを与える事はできましたが、倒すには至らなかったようです!」
「シンジ君、第2射急いで!」
通信の向こう側の発令所が動揺しているのが分かる。
僕達に気がついた使徒がこちらに近づいて来るのが見えた!
そして使徒からレーザー攻撃が打ち出され、僕は思わず目を瞑ってしまった!
「うわああああ!」
でも、僕が覚悟していた熱線はやって来なかった。
僕を守るようにアスカの乗る零号機が盾を持って攻撃を防いでいる!
「アスカ、アスカー!」
僕の目の前でアスカの持つ盾が溶けて行く。
「早く、早く!」
「後5秒!」
発令所から聞こえる声に僕はショックを受けた。
このままじゃ、アスカが持たない!
「きゃあああああ!」
ついに盾が溶けてしまい、アスカの悲鳴が僕にも伝わってくる!
「アスカぁ!」
「今よ!」
僕が撃ったレーザーは使徒を撃ち抜き、使徒は今度こそ倒れたみたいだった。
そして崩れ落ちる零号機。
初号機で僕は零号機のエントリープラグを引き抜き、アスカを助けようと自分も初号機を降りて向かう。
でも、自分一人の力では零号機のエントリープラグのハッチは簡単には開けなかった。
「こんのおおお!」
それでも僕は普段では考えられない力を出して、何とかハッチを開く事が出来た。
「アスカ!」
「う……シンジ?」
僕が呼びかけると、エントリープラグの中に居たアスカはゆっくりと目を開いた。
「よかった、無事で。……また会えてよかった」
僕は一人で立ち上がる事が出来ないアスカに肩を貸して抱え上げながら歩き出した。
「出発前にバイバイなんて悲しい事言わないでよ」
僕はそう言ってアスカの肩をつかむ手に力を入れる。
「今の僕達にはエヴァに乗る以外何も無いかもしれないけど……いつか自分のしたい何かが見つかると思うんだ」
アスカは黙ってうつむいたままだ。
「それに……アスカがエヴァのパイロットを辞めても、僕もミサトさんと一緒にアスカの側に居るよ。その僕達……家族だろう?」
「……ありがとうシンジ、でもアタシがパイロットを辞めても、アンタがパイロットを辞めても、2人ともパイロットを辞めても一緒には居られない」
僕がアスカの言葉に戸惑っていると、アスカの方から僕に囁きかけて来た。
「だから、2人でパイロットを続けるのが良いと思うのよ」
アスカの言葉に答えるように、僕はアスカの肩を握る手に力を入れた。