回答受付中の質問
旧紀伊国が和歌山県と三重県の2県に分かれたのは何故ですか?
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- 質問日時:
- 2010/7/17 19:54:55
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da11entさん
江戸時代は紀州徳川家家が紀伊に加えて伊勢の南部まで領地でした。その大きすぎる行政権を東西に分割したのが西の和歌山県と、東の度会県(三重県南部)です。度会県が安濃津県(三重県北部)に併合されたのが三重県です。
廃藩置県は旧国だけでなく、文字通りもとの藩のまとまりも考慮し、紆余曲折を経て調整されました。単純に紀伊国の一部が切り離されて三重県に編入されたのではなく、紀州徳川家領が西部と東部に分かれ、さらに東部が伊勢国側に編入されたのです。
また、古代伊勢国の国府が鈴鹿あたりに置かれたのにたいし、近代までの歴史の中で伊勢地域の中心地が安濃津(津市)まで南化したことで、より南方まで統治できるようになったとも言えるかも知れません。
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- 回答日時:2010/7/18 10:22:45
紀伊国から三重県に移ったのは、紀伊国牟婁郡の一部です。
1879 年(明治12年)に紀伊国牟婁郡は4分割されました。
そのうち、牟婁郡のうち北牟婁郡と南牟婁郡は度会県
に編入され、西牟婁郡と東牟婁郡は和歌山県に編入されました。
その後、度会県は三重県と合併したので、三重県となりました。
別れた基準は、熊野川を境にして、熊野川以西は現在の和歌山県、
熊野川以東は現在の三重県となったようです。
なお、牟婁郡は律令時代には、「熊野国」という独立した存在でした。
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- 編集日時:2010/7/17 20:41:00
- 回答日時:2010/7/17 20:35:20