(1)酒ゆえの流転の生涯田嶋 庄三郎
そんな山頭火を山頭火たらしめたのが酒だった。酒のためにすべてを失い、酒によって救われ、生かされた山頭火。彼の旅日記を紐解いて、その「命」となった酒と食と句を探ってみたいと思う。 1882(明治15)年、山口県防府市の、造り酒屋の長男に生まれた種田山頭火(本名・正一)。早稲田大学文学部を神経衰弱のため中退後、家業を継ぎ、結婚して男の子にも恵まれたものの、無軌道な酒に溺れるようになり、1916(大正5)年、34歳のとき破産。熊本に移って古書店を開いたが、酒癖ゆえ妻・サキノと離婚したのは20(大正9)年のことだった。 上京し、東京市役所臨時雇いとして一ツ橋図書館に勤務し再起を図るも、3年後に神経衰弱のため退職。熊本のサキノのもとへ転りこみ、24(大正13)年、泥酔して熊本市公会堂前で電車の前に仁王立ちするという事件を起こす。一説には自殺未遂ともいわれたこの事件を機に禅門に入り、熊本県植木町の味取観音堂の堂守となる。
「何と詫びを申し上げたらいいのか解らなくなりました。あの日帰りましてから悪寒と慙愧とのためズッと寝ていました。私の愚劣な生活も比度の愚劣な行為で一段落ち着きました。破れるものはみんな破れてしまいました。落ちるところまで落ちて来た、といったやうな気分でゐます」 この出来事以来、2人は気が合ったのか友情は深まっていった。そして久しぶりの再会にはやはり酒。そして得た緑平の句がこれ。 ・ 夕べの鐘を撞き忘れ二人酔うていた 味取観音堂で山頭火は、こんな句を詠んでいる。 ・松はみな枝垂れて南無観世音 現在、全国の山頭火句碑は1000を超すともいわれるが、生前にはただ1碑のみ。その句碑は福岡県玄海町神湊の隣船寺境内にあり、廃棄され戒名が残る墓石の裏面に、この味取での句が刻まれている。 30(昭和5)年9月9日、山頭火はすべての日記や手記を焼き捨て、熊本を発つ。こうして『行乞記』は書き出された。14日、人吉での日記にはこう記す。 私はまた旅に出た。 所詮、乞食坊主以外の 何物でもない私だった。 愚かな旅人として 一生流転せずにはゐられない私だった。 浮草のやうに、あの岸からこの岸へ、 みじめなやすらかさを享楽してゐる 私をあはれ且つよろこぶ。 水は流れる。 雲は動いて止まない。 風が吹けば木の葉が散る。 魚ゆいて魚の如くとんで鳥に似たり、 それでは、二本の足よ、歩けるだけ歩け、 行けるところまで行け。 旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、 うつりゆく心の影をありのまゝに写さう。 私の生涯の記録としてこの行乞記を作る。 このような悲壮ともいえる決意を胸に、過去の一切を精算する旅に出た山頭火。翌15日には、野菜売りのおばさんから貰った茗荷を肴に球磨焼酎をひっかけつつ、今日が、熊本の藤崎宮御神幸だったことを思い出しては涙ぐみ、「あはれむべし、白髪のセンチメンタリスト、焼酎一本で涙をこぼす!」との自嘲を書き付けている。 <キャプション> <キャプション> | |||
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