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2005/12/13 第41回 表現規制問題とヘタレ右翼
■このままでは規制賛成派の勝ちは決定 
エロメディアなどの表現規制問題は反対派に不利になってきている。にもかかわらず相変わらず権利だの陰謀論などを持ち出して反対する輩が多い。まあ宗教右翼と日本会議はつながっていることは確かだろうし、警察やヤクザとの癒着は否定できない。しかしそれしか提示されなければミスリーディングになりかねない。宗教右翼と日本会議のつながりにしても崇高な何かと一体化する類の脆弱さがあるからだし、公安とヤクザの癒着だって利権が絡んでいる。それに限らず表現規制問題は多方面から切り込まないとまずい問題故に、規制反対派の主張には突っ込むときりがない。
そうしたことから表現規制問題は日本の不安神経症的なメンタリティそのものを問題にしない限り、対処のしようがないということが分かる。要は単に規制賛成派やそれをとりまくファクターを批判して済む話ではなく、90年代ごろから深刻化してきた様々な問題をまず問わなければならない。規制反対派がそれを意識しないのは自分たちに跳ね返ってくる話であるが故に取り上げないからであろう。
動員手法にしても、「正しいことを訴えれば必ず賛同する人が増える」といった考えが見えてくる。しかし忙しい連中が仕事や私生活を差し置いてわざわざ社会運動に参加するのか。そこが甘いところである。
そして感情的フックを使って動員した場合、力のある者が最終的には勝利を収めるという不公正な争いになってしまう。現に規制反対派と規制賛成派の鍔迫り合いはもはや力技の話になってしまっている。そうなると確実に勝つのは規制賛成派である。規制反対派がそうした手法をやめない限り勝ち目はない。私はそれを危惧するからこそ表現規制反対派を名乗るのをやめた。梯子を外されまくっているのに無自覚な輩に与したくはない。別の所から梯子を掛けることが重要なのに。
■宗教右翼・ネット右翼は「真性右翼」ではない 
前回私が定義した真性右翼から言えば邪道なのが親米右翼・宗教右翼・ネット右翼などのヘタレ右翼。親米右翼は言わずもがな、あとの2つも右翼の本義を弁えないという意味では討たれてしかるべき存在である。この点で言えばカマヤンさんの分析には少し賛同できる。逆に言えば足りない部分がある。そこを補足しよう。
まず親米右翼・宗教右翼・ネット右翼はヘタレ右翼の一部を構成しているに過ぎず、その数はカマヤンさんがブログで提示しているのよりも多いと思われる。そしてヘタレ右翼に共通しうる点は香山リカさんの分析を引用すれば「ナショナリスティックな「表出」を行わないではいられない」こと。斉藤美奈子さんも「新しい歴史教科書をつくる会」を「オヤジ慰撫史観」と批判しており、「脆弱な精神の居場所を滑稽な物語に求めている」という。宮台真司さんは「<癒し>のナショナリズム」(小熊英二・上野陽子)という本の結論だけをこう述べている。
かつてのような地域的な共同体的基盤を失った都市で、昔なら創価学会や左翼団体に入っていたような脆弱な連中が今は「つくる会」に入っている。例えば「つくる会」は左翼批判をしているが、運動形態を見ると左翼的なものと少しも変わらない。でも彼らは左翼についての知識がないので、それに気づかないまま左翼批判をしている滑稽さが目立つ。
これは「つくる会」メンバーの藤岡信勝が共産党員だったことから分かるはずである。さらに、「不安を感じた弱者が同じ弱者を排斥する運動が、ファシズムにつながる」というフランクフルト学派*1のひとりであるエーリッヒ・フロムに倣って言えば、「成熟社会化によって不安になった連中が、ある種の「帰属」を求めて反動的な動きに連なっている」という、フロイト派の反動形成の理論に連なる図式になる。
ヘタレ右翼に共通する主張はこうである。「日本人は自分の誇りを持つべきだ」。まあ言葉としては妥当なところだけど、額面どおりに受け取るのは危険である。というのも、「誇り」の裏に「主体性」があるかどうかが問題で、それがなければ単なる「気分」の問題である。例えば戦争においての謝罪でも、「悪かった」と言えるだけの「主体性」がなければ謝罪しようが何の意味もない。絶対負けると分かっていたインパール作戦に誰も反対しなかったのを「誰かが反対してくれると思っていた」と参謀たちは言い訳するし、極東国際軍事裁判でも「空気に逆らえなかった」と責任を回避しようとした。「日本がダメだった」を出発点にした「失敗の研究」は1945年からしばらくは日本の論壇でも問題にされていたのに、その後頓挫してしまう。そんな「自分で自分のダメなところを自覚できない」ケツの穴の小さい国が謝罪したって、(一部とはいえ)中国や韓国から反発を食らって当然の話である。「日本人は自分の誇りを持つべきだ」? 片腹痛いわ。