日本の戦争のために働かされた朝鮮の少女たち

Q:朝鮮の少女たちはどうして「勤労挺身隊」に志願したのですか?
A:学校の先生から、うその約束で勧誘されたからです。

当時朝鮮の子どもたちは、「日本ヨイ国、キヨイ国、世界ニヒトツ神ノ国」「天皇陛下ハ神様」だと教えられ、それを信じさせられていました。「挺身隊として日本に行けば、工場で働きながら女学校に通え、お金もたくさん稼げる」と校長先生からいわれ、親たちの反対を押し切って志願しました。女学校に行って勉強したかったからです。

Q:日本に来て、女学校に通わせてもらえましたか?
A:女学校どころか、なんの勉強もさせてもらえず、空腹と恐怖に耐えながら働くだけでした。

朝鮮から来た少女たちは三菱の寮に入り、隊列を組んで「我ら乙女の挺身隊」を歌いながら毎日工場に通いました。作業は一日9時間近く。食事はいつも少なく、お腹がすいてたまりませんでした。捨てられたスイカの皮を思わず拾って食べたこともあるほどでした。

Q:三菱の工場ではどんな仕事をしましたか?
A:戦争に使われる飛行機のペンキ塗りや金属板の型取り、切断などです。

ペンキの臭いで気絶したり、重い金属の板を足に落として怪我をしたり、機械で指を切断してしまったり、子どもにはきつい仕事でした。怪我をしたり具合が悪くても、充分な治療や休息は与えられませんでした。いつも見張られ、少しでも横を向いたりトイレの時間が長かったりすると、怒鳴られたり殴られたりしました。

Q:いちばんつらかったことは何ですか?
A:何かにつけて「朝鮮人だから・・」「半島人は・・」と馬鹿にされたことです。

Q:名古屋で亡くなった少女もあるのですか?
A:空襲と地震で7人の朝鮮の少女が命を落しました。

1944年12月7日に起きた東南海地震では、つぶれた建物の下敷きになって、6人の朝鮮人少女が亡くなりました。もともと紡績工場だった建物は、飛行機をつくるために柱が取払われ、地震に弱くなっていたのです。また、アメリカ軍の空襲にもさらされ、1人の朝鮮人少女が亡くなりました。

日本に行ったことでゆがめられたハルモニたちの人生

Q:帰国してからはどうなりましたか?
A:日本から帰った少女たちは、結婚でとても苦労することになります。

日本は、戦時に『挺身隊』の名で朝鮮女性を「従軍慰安婦」として多数動員し、その事実を戦後も隠しつづけたために、韓国では『勤労挺身隊』が「従軍慰安婦」と見られてきました。
そのため、日本に行ったことを隠して結婚しますが、いつかそれを夫に知られ、家庭不和や離婚に遭遇します。日本での怪我や病気、心の傷も、結婚の障害や後遺症となって人生に影を落しました。

1