ノスタルジーについて(2)
Mr.Children『Sign』にある次の歌詞、ノスタルジーとはちょっと話が
ずれるかもしれないけれどすごく示唆的だ。
緑道の木漏れ日が君にあたって揺れる
時間〈とき〉の美しさと残酷さを知る
ここでなぜ「残酷さ」なのか。
状況はおそらくこうだろう。
男と女がいた。二人は恋人で、二人の力ではどうしようもない別れが近づいている。たとえば卒業後の進路が違うとか、それは「残された時間が僕らにはあるか
ら/大切にしなきゃ と小さく笑った」という直後の歌詞からわかる。
そんなとき男は思い出すのだろう。並木道を二人で歩いていたとき、女が少し立ち止まって上を見上げた時のことを。
ねえ、きれいだね。
なにが。
木漏れ日が。
そこで初めて男は後ろを振り返る。少しだけ離れて見る女、が光の斑点を身にまとっている。燃えるような夏の緑。その中に絵のようにたたずむ。
その時男の中になにが去来するのか。
ここでこうして当たり前のように過ごしている時間が無限でないこと。それがずっと続くわけではないということ。永遠だと思っていたものが別れの現実の前で
あっけなく敗れ去るということ。そしてまた、だからこそこの瞬間の美しさが際だつということさえ。
それはなかなか自覚されることのない感覚。タイムリミットを意識したときに初めて襲われる感覚。それがいかに残酷な懊悩をもたらすかを知っている人がきっ
とこの詩〈うた〉に感応してしまう。
もう二度と、この瞬間は訪れない。絶対に。
知りたくないのだろう、ぼくたちはその現実を。だから目を背けてあたかもそれがずっと続くかのように思いこんでしまう。果たしてそれは得策か。だがこのど
うしようもない、人間の本性がぼくたちにノスタルジーをかき立てるのだとしたらどうだろう。
答えを急ぐのはやめよう。
以前、大学で所属していたサークルで部誌を作るということで寄稿した文章がある。そこにぼくはこんなことを書いている。そのまま引用しよう。
最近すごく思うのは「それがずっと続くわけではない」というちょっとした悟りです。これはネガティブな意味で言っ
ているのではなくて、楽しいことも「それがずっと続くわけではない」と思うとその瞬間がとてもいとおしく思えてくるということ、あるいは今よりもっと楽し
い瞬間が訪れるかもしれないという予感。
たとえば奥多摩での春合宿、お昼ご飯を食べ終わってすこし練習に飽きたころ四月に新しく入って来た新入生とくだらないおしゃべりをする、窓からは午後の
光とすぐ下を流れる川の音が流れこんできて――そういう瞬間、これがずっと続くんじゃないかという錯覚におちいった。
もちろん昼が過ぎれば夜になり、同じ四月が訪れることはなく、次の年の春にはまた新しい部員が入ってくる。時々刻々と移りゆく中に永遠はない。けれど
「一瞬が永遠になるのが恋」と言ったのはたしか作家の辻仁成。その意味で、まさに書研での時間は「恋」の連続であったように思います(おっと、これは比喩
だからね!)。
特に意識していたのではないのだけれど、同じ問題に触れようとしていると思う。
ただし引用文中であきらかにぼくが無理をしているのはノスタルジーをあまりにも好意的に解釈しようとしているということ。そしてそれがかならずしも成功し
ていないということ。
「それがずっと続くわけではない」という視点は常に現在から過去という視点を要求する。ぼくたちはその言葉を胸に抱くたびに現在を過去に向かって無理に押
し流そうとしてしまう。「いま・ここ」を味わい尽くすことをあえて拒食して見せ、ノスタルジーを抱かせるものとしていったん処理する。その上で、ノスタル
ジーって現在を生き生きと脈打たせるものなんだよね、と涼しげな顔。そんな複雑な工程を経なければぼくたちはこの瞬間を愛することができないのか。そんな
にもぼくたちは過去に対してソワソワなんたがイテモタッテモイラレナイ意識過剰に陥らなくてはいけないのか。
過去とどう向き合うのか、というノスタルジーの問題の根本をと通前に、あなたにとっての過去とは何なのか、という問題もあるような気がする。
05/11/06
