生きることと暮らすこと
社会人1年目を終えてみて、ふりかえれば相当タフな時間を過ごしたように思う。
文学部といういわば虚学の雄にして観念の牙城に閉じこもって「スタイル」などというこれまた観念的概念とたわむれていた大学生活の後半は、一方で具体的な
「生活」に対する強烈な飢渇感を醸成するにあまりあるものでもあったように思います。果たせるかな、東京のど真ん中にそびえ立っていた安田講堂からこの茨
城県の片田舎にやってきて、初めての寮生活や時には連日深夜にまで及ぶフルタイムワーカーとしての生活は、確かにある断面で自分が求めていたものと一致し
たかもしれません。
ところが、かつて思い描いたその「生活」がやはり観念が生み出した予定調和にすぎなかったこと思い至るには、この身でいくつもの痛みを知らなければならな
りませんでした。それが世間で一般的な、学生生活から社会人生活へのブリッジなのかどうかはわかりません。ただ、その痛みについては書き記しておくべきで
しょう、他でもないこの先の自分のために。
「会社に入った方が書く材料はいくらでもあるよ」と言われて入った会社で最初にぶつかった問題は皮肉にもノスタルジーについてでした(その断片は既にス
ケッチされています)。けれどそれはある意味で当然のことだったのかもしれません。会社生活に入ってその内部に目がいくまでにはある程度の時間を要するだ
ろう。まずその異質な世界に入って意識させられるのはそれまでの生活とのギャップであり、それがぼくにとっては現在否定の方向に向かったためにノスタル
ジーを噴出させたのです。
幾度か大学のキャンパスに用もないのに足を運びました。東京に行くことが、つらかった。そこで待っているのは過去の自分の足跡であり、新しい何かを始める
場所がどこにもありませんでした。親にも顔を見せず、残業代で本を買い込んで帰りの高速バスに乗り込む。日曜日の夜。戻らない過去からの逃亡。でもどこ
へ?
問題は「生活」に時間をかけることで解決されていきました。好きな家具を買い、豆から挽いたコーヒーを飲み、白い本棚に好きな本を並べていく。休みの日に
は車で水戸や成田に出かける。たまには同期と遠出をする。アクセルはゆっくり踏む。左折時は左後方もちゃんと確認する。近くのファーストフードに行って読
書に耽ることもある。もちろん小説も書く。そうしたひとつひとつのフラグメントに心を配ることで、少しだけ丁寧にものごとをこなすことで、意識は過去から
現在へと向いていきました。
「生きる」という言葉で何かを語ろうとしてきました。けれどノスタルジーと適度な距離感を保つことが出来るようになったとき、頭を支配していたのは「暮ら
す」という言葉でした。気づいた人はいなかったと思うけれど、自分のブログのカテゴリーも「日記」から「暮らし」に変えたのです。
「暮らす」という言葉。もしも「生きる」という言葉が書生式観念論を好む男たちの言葉なら「暮らす」という言葉は厨房で手を動かす女たちの言葉と言えるで
しょう。英語では「live」ですまされてしまっても、この二つには大きな違いがあります。「暮らし」とはいちいちが具体的具体物との格闘なのです。もし
観念がそこに入り込もうとしたらやっぱりいちいち具体的な所作と手を結ばなければならない。「シンプル」な「暮らし」を観念で論ずることとは出来ない。
「暮らし」における「シンプル」とはなんぞや、という問題はどのように暮らすか、という具体論を提起する。どこで買うのか、なにを買うのか、いつ起きるの
か、いつ寝るのか、週末はなにをするのか……。
もちろん「生きる」ことの議論がおろそかにされるべきではありません。理想は大切。自堕落な生活を「暮らし」と呼ぶことは出来ない。だから、そう、この先
ぼくが取り組んでいかなければならないのは学生時代に考えすぎるくらい考えた「生きる」ということと、この一年でなんとか一定の形にまで持ってきた「暮ら
す」ということとの間にブリッジを架けるということ。それがきっと故郷=過去を断ち切って無思想の暮らしを始めることの悲壮さから守ってくれるはずです。
この新しい試みを「Capacity of
"STYLE"」で続けることはできない、と判断しました。ここにあるのは「生きる」ことの議論であり、まずはこれを一度ひとつの完結したものとして把握
しなければなりません。と言って、「暮らす」ということを一つのテーマにして新しい議論を始めることはこれもまた不毛でしょう。マルクス的アウフヘーベン
を期待する? それもいいでしょう。けれど「生きる」ということを引き継ぎながら「暮らす」ということを考える、そんな場所が欲しい。そこで、作りまし
た。
新しいサイトは「Full-time Life」。
「Life」という英語になんの訳語を当てるのかは最大限に拡大解釈して推測してみてください。柴崎友香の同名小説から拝借しましたが、けっこう気に入っ
ています。
年末から年始にかけてこのサイトにあるいくつかのエッセーを出版社に送ってみました。ほとんどは黙殺されましたがいくつかの出版社からは感想をいただくこ
とができました。同音異口に「観念的」「抽象的」と評されながらも「あんたのその観念論を現実生活にapplyして見せてよ、そういう時期なんじゃない
の、今は」というようなコメントを(今の言葉通りじゃないですよ)寄せてくれた方がありました。まったくその通りだと思いました。自分でわかっていながら
逃げていた問題を見ず知らずの青年に書いて送ってくれたその編集者を尊敬します(ちなみにその出版社が出しているパトリスジュリアンの著作を通じて「暮ら
す」ということに思い至ったのも事実です)。その敬意を一時の感情として処理してしまうのはあまりにももったいない。
「Full-time Life」
この少しだけ長い終了宣言は、もちろん始まりの合図でもあります。それでは、どうぞ。
06/03/18
