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[7033] 麻帆良学園都市の日々(ネギま!×GS美神)
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/16 16:23
 麻帆良学園都市――東京にほど近い、関東平野の中央に位置する、日本最大の学術都市である。おおよそ“学校”と名の付く全ての施設が街中に存在し、その都市に暮らす人間の殆どが、何らかの形でそれらの“学校”に関わっているという、まさに“学園都市”の名に違わぬ、特異な街である。
その成り立ちは古く、一説には明治時代に外国人によって、その基礎となるものが作られたという。その影響からかは不明だが、数多くの学校群を除いても、県の名所の一つに数えられる西欧風の町並みが美しい。
その西欧風の町並みに、薄桃色に染め上げられた風が吹く。桜舞い散る春――始まりの季節。この国の象徴とも言えるその淡い色の風に、異国風の町並みが染め上げられるこの春に、学園都市のほぼ中央に位置する麻帆良学園本校――女子中等部に於いても、これから始まる不思議な物語が、既に胎動を始めていた。

「三年!」
「A組!」
『ネギ先生!!』

 少女達の息の合ったかけ声と共に、教壇に立ってはにかんだ笑顔を浮かべるのは、ここ麻帆良学園女子中等部三年A組担任、英語担当教師のネギ・スプリングフィールドその人である。
 そう言う言い方をすれば、生徒に人気がある教にとって、新たに迎える一年の始まりに相応しい光景――ただそれだけの話である。けれど、このイギリスからやって来た若い教師を担ぎ上げるその光景を、“ただそれだけ”と言って形容するのはいかがなものだろうか。
 ネギ・スプリングフィールド教諭は、確かに若い。
 けれど、普通彼をして、そう言う形容のしかたは誰もしないだろう。果たして、彼を目の前にした誰もが、普通はこう言う筈である――“幼い”と。

 彼は、わずか十歳にして、自分よりも年上の、中学三年生の教え子達に対して教鞭を振るうという、特異な教師なのである。
 もちろん、それには理由がある。
 彼は故郷のイギリスにおいて、“メルディアナ魔法学園”なる教育機関を主席で卒業した、れっきとした“魔法使い”なのである。
 実は、この巨大な学園都市を束ねる麻帆良学園学園長もまた、その世界では名の通った魔法使いであり、彼がこの学校で教師をしているのは、“魔法使い”としての修行を積むために、彼に与えられた試練なのである。
 ――もっとも、こんな事を誰かの前で口にしようものならば、普通は相手の精神構造を疑うだろう。最悪、救急車を呼ばれてしまっても文句は言えない。
 しかし、ネギ・スプリングフィールドという幼い少年が、教師として教壇に立っている事は純然たる事実であり、果たして頭の中身が沸騰したのか腐れ落ちたのか――そういう心配をされてしまいそうな、彼の背負う“事情”も、果たしてまた事実なのである。

「はい、今年もまた、皆さんと一緒に勉強することが出来るようになりました。これから一年間、よろしくお願いします!」

 そしてネギ少年は、その見た目に似合わぬ礼儀正しさで頭を下げる。彼が日本にやってきて、このクラスの担当となったのは、まだ彼女たちが二年生の頃であった。それから三ヶ月。彼の回りで、彼女たちを巻き込んで起こった様々な事件は、既にこのネギ少年とこのクラスを強く結びつけるに十分なものであった。
 けれど、敢えてこういう形通りの言い方をするのは、事情はどうあれ“教師”であろうとするネギ少年の信念の現れ故であろう。彼の生真面目さを知る生徒達は、ぽつぽつと茶々を入れながらも、目一杯背伸びをする少年を暖かく見守る。

「ええとそれでは――突然ですが、このクラスに転校生がやって来る事になりました」

 一つ大げさな咳払いをして、ネギはそう言った。途端にクラス中が、蜂の巣を突いたような騒ぎになる。三人寄れば姦しいだとか、箸が転がっただけでも笑い転げるだとか、ともかくそう言う年頃の少女が、三十人から集まれば――一度沸き立ったこのクラスを鎮めるには、ネギはあまりにも、教師としても人間としても経験が足りなかった。
 この少女達の前に話題を吊り下げれば、このような騒ぎになるのはわかりきったこと。もっと他にやりようはあったろうし、他の教師ならばそうしただろう。しかし残念なことに、そう言う教師としての小狡いやり方をマスターするには、ネギ少年は純朴すぎた。
 果たして、紹介に上がった「転校生」は、この騒ぎのせいで廊下で待ちぼうけを食っている――その事実を前に、我らが三年A組が沈静化するには、いまだ数分ばかりの時間を待たねばならないのであったが。

「それでは改めて――転校生の“犬塚シロ”さんです。犬塚さん、どうぞ中へ」

 ネギの声に応え――教室の扉が開き、一人の少女が姿を現す。
 ざわめきがさざ波のように、教室に広がった。
 その少女は、不思議な容姿を持っていた。緩く三つ編みにした、腰程まである髪は、まるで雪のような白銀の輝きを放っている。しかし、頭頂部から前頭部にかけて、綺麗に切りそろえられた前髪は、目が覚めるような赤色である。しかしそれは決して不自然ではなく、多分にあどけなさを残すものの、整った彼女の顔立ちによく似合い、また、すらりと背の高いそのスタイルにも程よいアクセントを添えていた。
 誰かの口から、思わず小さな息が漏れる。見た目云々の問題で言えば、留学生を複数人も抱えるこのクラスの事である。些細な問題だろう。けれど、彼女の纏う独特の雰囲気は、今までのこのクラスには存在しないものだった。

「――東京の六道女学院から転校してきました、犬塚です」

 そのまま少女は、小さく腰を折り、これからクラスメイトになる少女に向かって一礼する。

「元来物覚えの悪い性格故――色々とご迷惑を掛けるかと存じますが、これから一年間、どうぞよろしくお願い致します」

 顔を上げた少女に向かって浴びせられたのは――教室が割れんばかりの歓声だった。具体的には、隣の教室の教師が、しかめ面をして様子を見に来るほどの。
 そしてそんな隣のクラスの教師に対して、必死になって頭を下げるネギ少年の姿を見ながら、金髪の留学生の口元が小さくつり上がったことを、そのクラスの少女達は、誰も知らない。




 多少のごたごたはあったものの――主にネギ“教諭”の名誉のためにその内容は伏せておくが――始業式の短い日程が消化される頃には、“転校生犬塚シロ”は、三年A組にとけ込み始めていた。
 放課後を迎え、クラスの面々が思い思いに、過ぎ去った春休みに思いを馳せ、またはこれから始まる一年間へ、期待に胸高まらせている中で、真っ先に口火を切ったのは、朝倉和美という名の少女であった。
 彼女は麻帆良学園の報道部に所属しており、その活動に日々情熱を燃やしている。時折その情熱がオーバーフローを起こし、結果として彼女には“麻帆良のパパラッチ”などと言う不名誉な二つ名が冠せられる事になったのだが、果たして当人はその様なことを気にもしていない――いやむしろ、ある面に於いては誇っている節さえもある。
 そんな彼女が、新年度早々舞い込んだ“転校生”という名の異邦人に、興味を示さないはずがなかった。

「犬塚さんは、六道女学院から来たんだって? あそこってもの凄いお嬢様学校だって聞いてるんだけど、もしかして犬塚さんもそう言う人?」
「いえ、拙者は特に、高貴な家柄の出身と言うわけでは御座らぬ。ほれ、あそこには――霊能科があるで御座ろう? 拙者、以前ゴーストスイーパーの助手をしていた故に、その縁故で通っていたので御座る。それと、拙者のことはどうぞ、シロと呼び捨てに」
「ふーん、それじゃ、シロちゃんでいい?」

 何故だろうか、和美の中に、まるで愛玩動物のようにデフォルメされた彼女の姿が浮かび――結果として和美は、目の前の新しい旧友を“ちゃん”付けで呼ぶことにした。むろん、当人としては愛情を込めたつもりである。

「霊能科――霊能科ねえ。いや、あたしには当然霊能力なんて無いしね。こう言ったら何だけど、良くわからないというか――悪く言えば胡散臭いって言うか――ああ、悪気があってそう言ってるんじゃないの。気を悪くしたらごめんね」
「いえ、それが普通の人間の認識でござろう。普通に暮らしていれば、霊障だの霊能力だのと言うのは、正直なところ無縁の世界の事。むしろ一般人にはわからない事柄故に、ゴーストスイーパーという職業は成り立つので御座るよ」
「成る程ねえ。ところでシロちゃんのそのしゃべり方は、何かのポリシー? いや、うちのクラスにも、そう言うしゃべり方をする奴がいるんだけど」

 自分では否定している、忍者っぽいナニモノカが、と、和美は手を振る。シロはそれを聞いて、何か変なものを飲み込んだような顔をしていたけれども、ややあって苦笑を浮かべると、首を横に振った。

「昔からこういうしゃべり方で御座った故に。まあ、辺鄙な場所で育ったで御座るから、奇異の目で見られることには慣れたで御座るが」
「別にそれが悪いって言うわけじゃないから、良いんじゃない? 個性ってのは大事だよ。特にうちのクラスじゃあね」
「なにやら見たところ、随分と賑やかなクラスで御座るな。異国の方やら――」

 そこでシロは、何故だかあさっての方向に視線を遣り――すぐに、和美に向き直った。

「あたしも最初は自分を棚に上げて驚いたもんだけどね。なんつうか、もう慣れちゃったよ。あたしが言うのも何だけどさ、“アク”は強いけど、楽しいクラスだよ」
「是非に、拙者もその一員と慣れることを願いたいもので御座るなあ」
「シロちゃんなら大丈夫! あたしが保証するから、大船に乗ったつもりでいなさいな!」

 胸元を叩き、和美は言う。そんな彼女の様子に、シロは目を細めた。

「というわけで、まずはそんなシロちゃんの事が色々知りたいわけ。取材半分自己紹介半分で、色々質問しても構わない?」

 突然に彼女に漂ったえもいわれぬ迫力に、思わずシロは口元を引きつらせた。




「拙者の歓迎会?」

 心なしか、幾分疲れた表情のシロと、幾分上気した表情の和美が教室を出ると、シロと対を成すような、鮮やかなブロンドの長髪が美しい少女――クラス委員長の雪広あやかが、彼女を呼び止めた。聞けばお祭り好きなクラスの幾人かが、是非シロの歓迎パーティを開こうと話を切り出したらしい。

「ええ、もしよろしければ、ですが」
「まあ、このクラスの恒例行事みたいなもんよね。ネギ先生の時にもやったし」

 何故かあやかの肩に手を回しながら、和美が言う。あやかはそれを鬱陶しげに払いのけながら、シロには柔らかな笑みを向ける。

「それはもちろん――喜んでお受け致すが、宜しいので御座るか?」
「もちろんです。クラスの誰もが、貴女とは早くお友達になりたいと思っていますから」
「ご厚意、誠にかたじけない。ああ――家の者に連絡をする故に、少々待って貰えるで御座るか?」

 そう言って、シロはポケットから携帯電話を取り出した。巷で流行の機種に、白い犬のストラップがついている。時代がかったと言う言葉が相応しい少女の見せた、思わぬ普通の女子中学生らしい一面に、思わず和美とあやかの表情がほころぶ。

「シロちゃんは、寮に入ってないの? そう言えば、そんな話は聞いてなかったけれど」
「ああ、拙者、すぐ近所に越してきたで御座るからな。それに――家の手伝いをしなければならない故に、学校の方には理由を説明して、寮には入らなかったので御座るよ」
「家の手伝い、ですか?」
「手伝いというか――ああ」

 あやかがシロに問うたが、どうやら彼女の問いに応えるよりも先に、電話の方が相手に繋がったらしく、シロは申し訳なさそうに彼女を一瞥した。そうなればあやかとしても、無理に会話を続けようとは思わない。

「先生で御座るか? はい――今、学校が終わったところで――いえ、それで、何と級友が、拙者の為に歓迎会を開いてくれると――いえ、先生の夕餉はきちんと作ります故に、その様に体に悪い事は――何を馬鹿なことを申される。拙者の級友と言えば、中学三年生で御座りますよ? ああもう、柱に頭をぶつけない!」

 電話に向かう彼女の言葉に――思わず、あやかと和美は顔を見合わせる。一体彼女は誰と、何について話しているのだろうか?
 ややあって携帯電話を切ったシロに、二人は同時に問いかけた。












 プロローグですのでかなり短いですが。
 お初にお目に掛かります。スパイクと申します。
「二次」創作小説を書くのは初めてですが、いやあ、楽しいものですね。
自分の好きな作品に対して、あれこれと熱く語る。それの何と楽しいことか。
何だかそれに近いものを感じます。

「魔法先生ネギま」「GS美神」
どちらも、大好きな作品です。

本作品は、「原作の設定」をあまり重視しておりません。
従って、原作中の「設定」が、しばしば無視される可能性があります。
自分は「物語重視」でこの作品を書いたので、
物語にとって「原作設定」が欠かすことの出来ないものだとお考えの方には、
あまり楽しめない内容であるかも知れません。

それを理由に「それを許せる方のみ――」という気はありません。
この言い訳を読んでおられる方は、既にここまで読んでしまったのですから。

代わりと言っては何ですが、せめて色々な価値観を持たれる方が、
それでも少しでも楽しめるようなものを書いていきたいと思います。

では、また。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・彼女の始まりの頃に
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/03 23:09
――急ぎ足になる必要なんて何もない。ゆっくり大人になればいいじゃないか――
その言葉を、君に贈ろう。




「麻帆良学園都市で一番偉いのは、この麻帆良市の市長さん――じゃないって事は、この街に住んでる人間なら誰にでもわかってる、ってか」

 麻帆良学園都市は、名目上自治体としての麻帆良市が治めている事になっているが、その言葉を額面通りに受け取る人間はここには居ないという。
 この街を動かすのは、この街を形成する教育機関群であり、それが一種の“学園国家”とでも言うべき形態を形作っている。麻帆良学園都市が、まるで、個々の学生達や教師達、そして学校を国民とした、一つの国家のように機能し、そして振る舞っているのだ。
 そしてその“国”を統治する人間――麻帆良学園本校学園長、近衛近衛門その人の執務室が、この建物の中にある。つまり――

「しかし何でそんな大層な奴が居るのが、寄りにも寄って女子中の敷地内なんだ?」

 麻帆良学園本校女子中等部――れっきとした女子中学校の敷地の中に存在するその建物を見上げて、彼は呟いた。果たしてそれが意味するものは何なのだろうと、彼は暫く思いを巡らせ――そして、ぽつりと呟く。

「きっとその大層なオッサンとは、無二の親友になれるか、そうでなけりゃ最悪の怨敵になるか、どっちかだろうよ」
「横島忠夫さんですね。お待ちしておりました。学園長がお待ちですので、こちらへどうぞ」
「あ、こりゃどうもご丁寧にすいません」

 果たしてまるで意味のない事を真剣な顔で呟いた青年は、声を掛けてきた、眼鏡を掛けた壮年の男に向き直り、先ほどとは打って変わって、何処か間の抜けた顔で頭を下げた。




 ゴーストスイーパー――公的には、国家試験に合格し、対心霊現象特殊作業免許という資格を持つ人間の事を指すが、果たしてそのものずばり、悪霊を退治する事を生業とする人間である。
 そのゴーストスイーパーの間で、横島忠夫という名前を耳にする事は多い。
 普通の高校に通う高校生でありながら、かの美神令子除霊事務所の一員であり、司法試験以上の難関として知られるGS試験に合格。先に述べた対心霊現象特殊作業免許を取得し、その当時、彼は弱冠十七歳であった。
 そんな彼の名前を一躍有名にしたのは、数年前に起こったある事件だった。魔界に住むと言われる魔神――それも、かつてソロモン七十二柱と呼ばれた大魔神の一柱である、“恐怖公アシュタロス”が、人間界に対して侵攻を開始したのである。
 この事件は世界中に少なくない被害を与え、日頃オカルトに縁のない人間にとっても「核兵器のジャック」という、目に見える脅威として認められた。事件が一応の解決を見てから数年を経た今でさえ、かの魔神がこの世に与えた恐怖は語りぐさになっているほどである。
 そして横島忠夫は、そのような恐ろしい魔神の軍勢に、単身スパイとして乗り込んだ経験を持っている。
 しかし、アシュタロスの手先として幾たびか現れた“ポチ”を名乗る謎の少年――彼こそが、“横島忠夫”という人物であることや、その人となりを知る者は、一般人には殆どいない。
当時の彼は結果として戦いに身を投じていたとは言え、その経緯は“成り行き”であり、そして彼は未成年でもあった。果たしてメディアは、魔神の手先“ポチ”が、実はゴーストスイーパーが魔神の陣営に送り込んだスパイである事を報道し、人類の敵と言われていた彼の汚名を払拭したものの――それ以上の事は何もせずに、“悪の手先ポチ”として扱われていたものを含めて、彼の報道記録を全て抹消した。
 もちろん、これだけの大事件である。少し調べれば、彼の名前をいくつかの記録に見つける事は難しくないだろう。
 けれど、最終的に魔神を倒したのは、日本屈指のゴーストスイーパーと呼ばれる美神令子とその仲間達であり、決して敵うはずのない魔神を退けた彼女たちにこそ、世間は目を向けた。
 抜群の美貌を誇り、超一流の技術と、膨大な知識を併せ持つS級ゴーストスイーパー、美神令子。
彼女と比肩するほどの実力を持つという、日本が世界に誇る稀代の黒魔術師、小笠原エミ。
かつて日本のゴーストスイーパー界にその人有りと言われ、そして美神令子の師匠でもある唐巣神父。
唐巣の弟子であり、神の聖なる力を自在に操る容姿端麗な半吸血鬼、ピエトロ・ド・ブラドー。
失われた技術から、誰も理解する事の出来ないオーバーテクノロジーまでをも操る、魔王とまで呼ばれた錬金術師、ドクター・カオス。
その様な華々しい面々の影で、スパイという裏方として戦いに参加した日陰の英雄は、人々の記憶からすぐに消え去っていった。
しかし、かの戦いの中心となったゴーストスイーパー達の中には、彼の名前を知る者は多い。曰く――

「アシュタロスを倒した本当の英雄、文珠使いの横島忠夫――とな」
「何処で聞いたか知りませんが、冗談きついですよ」

 まるで仙人の如き異様な容姿を持つ、麻帆良学園都市の主――近衛近衛門の言葉に、青年――横島忠夫は、手をひらひらと振りながら苦笑を浮かべた。

「俺が文珠使いなのは事実ですが、まあそんなのはゴーストスイーパーの年鑑でも見ればわかることですし。美神さん達も、文珠はレアな能力だとは言っていましたが、魔神と人間の力を覆せる程のもんじゃない」
「ほう。人界で顕現させたのは君をおいて記録にないとまで言われる文珠が、かね」
「そうですよ。例えばいつだったか、何処かのクソガキの逆恨みを買っちまいましてね。自転車のサドルに棘が生える呪いを掛けられた事があったんですが――ええまあ、思い出したくもないんですが、その程度の呪いが、文珠じゃあどうしようもありませんでした」
「……」
「まあそう言うわけなんで、“本当の英雄”だとか、そういう大言壮語はよしてください。なんつうかこう、背中がムズムズして仕方ないです」

大体魔神を倒したのは美神さんで、と言いながら、横島は尻の辺りをさする。

「ほっほっ……どうやら君は、随分と謙虚な人間らしい」

 髭を撫でながらそう言う近衛門に、横島は苦笑しながら応える。曰く、自分で自分が一番信用できないだけだ、と。

「つまり俺は、単なる馬鹿でスケベな男なんですよ――時に学園長先生。この建物が何故女子中の中に建っているのか――聞いても差し支えはありませんかね?」
「ふむ。この建物が出来たのは、この辺りが麻帆良学園本校女子中等部――麻帆良女子中となる以前の事じゃった。つまりそこに明確な意味などは存在せんが――時に横島君。“馬鹿でスケベな男”である君はその事実を、額面通り受け止めるかね?」
「俺の身内が、今年からここに通う事になってるんですよ? やましい意味が無いならその方が良いに決まってる」
「して、本音は?」
「何でその時女子高を建てんかったんやっ!」

 横島は拳を突き上げて叫び、それを見た近衛門は、愉快そうに笑った。

「ま、冗談はさておき」
「俺は割と本気ですが」
「君もゴーストスイーパーならば、この学園都市の裏の顔は知っておるじゃろう?」

 近衛門は、机に置かれた湯飲みに手を遣り、程よく冷めた緑茶を啜る。しかし心地よさそうに細められた瞳には、先ほどとは違う光が宿っていた。
 横島は無言で湯飲みを傾けた後に、一応はと応える。

「ここに引っ越してくるに当たって――まあ、“知り合い”から一通りは」
「ならば話は早い。確認させて貰うが、この学園都市は、日本屈指の学術研究都市であると同時に、“魔法使い”の組織、“関東魔法協会”の本拠地でもある」

 近衛近衛門は言った。
 今現在、“魔法使いの世界”は揺れていると。そして、その原因を作ったのが、他ならぬ恐怖公アシュタロスである、と。

「魔法とは、突き詰めればただの技術じゃ。しかし、人間の手に余るほどのその力が、無制限に人の手に渡ることを恐れた古の魔術師達は、己を“魔法使い”――ただの人間とは違う何者かとして、区別してしもうた」
「ただの人間には興味ありません、って奴っすかね」
「さて、それはどうかのう」

 近衛門の表情は揺るがなかった。

「しかし、時代は変わった。人は科学という新しい力を手に入れた。そして、科学では手の及ばないこの世の闇が――君たちゴーストスイーパーという、新しい力を持つ人間達を生んだ」
「つまり?」
「人々が新たな力を手にした今、魔法を特別な力として隠匿する意味合いは、もはや薄い。そこにあるのは、自分達が“ただの人間”に立ち返る事を恐れる魔法使い達の、根拠のない恐怖だけだと言っても良かろう。そこに来て、魔神アシュタロスの起こした世界規模での天変地異――魔法使いは否応なしに、自分達もまた人間である事を認めざるを得なくなったのじゃ」

 横島の脳裏に、“魔法使い”を名乗る知人の女性が浮かんだ。成る程あの時は、一時は彼女を特別な人間だと思いはしたが――結果として、己の雇い主との天秤になど、掛けられようはずもなかった。
 まあ、魔法使いという“程度”で、美神さんの相手にはならないわなあ――と、横島は一人、心の中で呟く。口に出してしまったら、そこがどんな状況であれ、後を考えるのが恐ろしくなる。彼は数年を経て、それくらいの成長は遂げていた。

「果たして現在、魔法使いの世界では、自分達も人間に立ち返り、かつて足を向けた世界と一つになろうという動きと、それを認める事の出来ない動きが対立しておる」
「一応聞いておきますけど、麻帆良学園都市――いやさ、関東魔法協会は、どっちの立場に立ってるんですか?」
「自分は魔法使いだから、“ただの人間には興味ありません”――などと吹聴して、勉学に励む教え子達の道しるべとなることが出来ると、君はそう思うかね?」
「愚問ですか」

 横島は湯飲みを机に置いて、苦笑した。

「それで――俺をここに呼び出した理由ってのは、“それ”がらみなんですか?」
「うむ。実はこの学園に、魔法世界において、間違いなく将来中心となるであろう人物がおる。儂らは彼を導き育て、時に諫め、そして守るべきじゃと考えておる。横島君――ゴーストスイーパーという、新時代の“魔法使い”を代表して、儂らに力を貸してくれはせんかね」

 もちろんそれなりの対価は払おう、と、近衛門は音を立てて湯飲みを置いた。その湯飲みの中には、既にお茶は残っていなかった。
 横島の吐息が、豪奢な学園長室に響く。彼は改めて一つ息を吸い――近衛門の言葉に応えた。

「申し訳ありませんが――お断りします」
「……ふむ、すまんが儂にとって、君は諦めるには惜しい人材じゃ。はっきり言うが、断ると言われて、残念だと踵を返すには、あまりに悔いが残る。もし良ければ、理由を聞かせてもらっても構わんかの?」

 横島はふと、上着のポケットに手を突っ込んだ。そのままポケットの中をなにやらかき回しながら、口を開く。

「先に言いましたが、俺がここに引っ越してきたのは、俺の――“身内”を、ここの学校に通わせる為です。その子にとって、この学園都市で学ぶことが一番ベストだと、“俺たち”は考えた。言い換えれば、もっとおあつらえ向きの場所があったなら、俺はここには来ませんでした」
「ふむ」
「“魔法使い”の事なんぞ知ったことか、とまでは言いませんよ。俺だって、一度は非日常に身を置いた人間だ。学園長先生の言うことは、よくわかります。けどね、実際俺には、そういうものは大きすぎるんですよ」
「君ならば、そこに手を伸ばすに十分な人間であると判断しているから、儂はこうやって声を掛けておるんじゃが?」
「いいえ、俺が手を伸ばせる距離なんて、たかが知れてます。おまけにその腕は、もう伸ばす先が決まってて、生憎空きが無いんです」

 近衛門は腕を組み、小さなため息をついた。彼からすれば、さる信頼できる筋から入手した、横島忠夫という人物の情報――それが本当に正しいならば、彼の力は色々な意味で、喉から手が出るほどに欲しい。けれど、これ以上の問答を続けたところで、彼はこちらに靡くことはない。
 長い人生経験を蓄えた近衛門には、直感的にそれがわかってしまった。
 何――彼はこの街に自分からやって来て、腰を据えた。この先、彼と歩く道が交わる事など、いくらでもある――近衛門は、自分にそう言い聞かせて、残念そうに肩をすくめた。

「――忙しい中、呼び立ててすまんかったの。お詫びに今度、一緒に飲みにでも誘わせてもらおう」
「出来れば綺麗なお姉ちゃんの居る店で」
「ほっほっ……ではとっておきの店を探しておくとしよう」
「本当ですか! 是非、是非にお願いします! もう最近大変なんです! 何というか毎日が、こう、甘ったるい砂糖で出来たあり地獄に捕らえられている感じというか!」
「――それはどういう意味かのう?」
「……出来れば聞かないで居てくれませんか――ああ、それと」

 上着のポケットを全て引っかき回して、ようやく目当てのものを見つけた横島は、机の上にそれを取り出して伏せる。それは一枚の名刺だった。

「学園長先生の言葉を訂正させてもらいますが、今の俺は――もう、ゴーストスイーパーじゃありません」
「……何じゃと?」

 近衛門の細められていた目が、僅かに見開かれる。その名刺には、こう書かれていた。

 ――村枝商事 金融対策部門 非常勤特別監査役―― 横島忠夫

「それでは学園長先生。これで失礼いたします――綺麗な姉ちゃんの居る店の約束、忘れないでくださいよ!」
「――うむ、近いうちに電話をさせて貰おう――では、またな、横島君」

 名刺を机にしまいながら、学園長は横島の後ろ姿を見送った。
 けだるそうに車椅子を漕いで部屋から出て行く、白髪の青年のその後ろ姿を。




――ああ、シロか? もう学校は終わったのか? ――なに? 歓迎会? 遅くなるんだったら、晩飯は気にすんな。この間のカップラーメンがまだ――だからそんな気にするなっつうの。それよりお前、友達は出来そうか? 美人だったらちゃんと俺に紹介――ぐはっ! い、いや、今のは違う、そう言う意味じゃっ! 俺は、俺はぁっ!――




 桜色の風に、青年の賑やかな叫び声と、鈍い破壊音が重なる。
 これより、彼らの織りなす不思議な物語は、ゆっくりと幕を開ける。










二次創作とは楽しいものです。
こういう場が存在しているのも、本当に嬉しいことです。

仕事中の茫漠たる時間にネタを考えていたら、
「何か悩みでもあるのか?」と言われたけれど(笑)

このほかにもやりたいことは色々あって、
仕事がなかったらなあと思うこともあるけれど、
きっと今の日常全てが、もちろんここも含めて、
凄く大事なものであると、そう思いたい。

これで一応のプロローグ終了。次から分量が増える予定。
けれど仕事の都合で、そうなると更新頻度は落ちる予定。
何だこのトレードオフ(笑)



[7033] 麻帆良学園都市の日々・始まりの朝
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/05 22:35
 麻帆良学園本校女子中等部、三年A組所属であるエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、不機嫌さと高揚感の入り交じったような御しがたい感情を持てあましつつ、校内を歩いていた。クラスメイトの大半は、新年度早々の転校生を歓迎するために開かれた歓迎会に出席しているが、彼女には最初から、その様な馬鹿騒ぎ――必ずそう言う結末を辿るだろう――に首を突っ込むつもりは無かった。
 まるで西洋人形のような可憐な容姿と、その名前からわかるとおり、彼女は西欧からここ、麻帆良学園にやって来た留学生である――と、言うことになっている。

 しかし、その内情はそんな単純なものではない。
 彼女は、強力な力を持つ吸血鬼――それも、吸血鬼と呼ばれる怪物の多くがそうであるような、“吸血鬼によって吸血鬼にされた”という類のそれではなく、自分の力で吸血鬼となった――専門的には“真祖”と呼ばれる、特異な吸血鬼である。
 吸血鬼は元々は人間と同じような肉体を持ちつつも、そのあり方は、人間を構成する根本的なもの――つまりは魂だとか精神だとか、そう言うものがそのまま形を持った存在――神や精霊と言ったものに近い。もっと言えば、吸血鬼という“概念”が、そのまま肉体を持って存在している、と、言い換える事も出来る。
 だから果たして、強力な力を持ちつつも、十字架や太陽の光――そういった、抽象的なものを弱点として抱えてしまうのは、彼らの宿命とも言える。何故なら、吸血鬼という“概念”が、それらのものを拒否しているからだ。

 しかしエヴァンジェリンは、そのうちのいくつかをも克服した、強力な吸血鬼である。
 かつて多額の賞金を掛けられ、闇の世界で恐れられた過去を持つ、屈指の魔法使いでもある。
 そうは言っても、麻帆良学園女子中の生徒としてこの学校に通う彼女から、その様な姿を連想するのは難しい。
 何故、悪の魔法使いとして恐れられた彼女が、普通の中学生としてこの麻帆良女子中に通っているのか――いくら時を経ても色あせない記憶が、エヴァンジェリンの脳裏に過ぎる。
 唐突に自分の前に現れたその男は、何もかもが規格外だった。そのあり方が規格外なら、秘めた力も規格外――とどめに、その考えすら規格外だった。不可能としか思えない事を可能とし、誰も考えようともしない事をあっさりと思いつく。
 見た目からは想像も付かないが、数百年という長い時間を生きた彼女の中で、彼と過ごした短い時間だけが、まるで別世界――夢の中の出来事だったかのように感じられる事がある。
 しかし、その時間は夢ではない。良い意味でも、悪い意味でも。自分が中学生としてこの学校に通っている以上、彼との出会いは現実であり――彼によって、出口のない日々を繰り返しているこの今も、また現実なのである。

 ナギ・スプリングフィールド。

 魔法使いの世界で“英雄”と呼ばれる男。千の呪文を使いこなし、あらゆる敵を打ち砕くとまで言われた、伝説の魔法使い。そして――今年の初めから彼女たちの“担任”となった少年、ネギ・スプリングフィールドの父。
 彼は吸血鬼の真祖――正真正銘の化け物である自分に、新しい世界への扉を開いて見せた。宵闇に立ちつくしていた彼女が、その扉の向こうに見たのは、まぶしい光だった。
 宵闇に慣れた目が、そして闇にとけ込む心が、自分に訴えかけた。あの光の中は、自分の生きるべき世界ではない。この闇の中にこそ、自分の生きる世界があると、そう訴えかけてきた。
 エヴァンジェリン自身も、そう思っている。悪の魔法使いとして生きてきた自分に、その扉の向こうはあまりにもまぶしすぎる。けれど、その男は何でもないことのように言うのだ。たまには薄目を開けて、こっちに出てくるのも悪くないと。
 彼女は認めたくなかった。けれど彼女はいつの間にか、その扉の前に立っていた。
 認めたくはなかったけれど――心の何処かで思っていたのかも知れない。彼がそう言うのならば、この扉の向こうも、そうそう悪いものでは無いのかも知れない、と。
 しかし、彼女は扉をくぐれなかった。
 その扉の最後の鍵を持ったまま、男はこの世界から居なくなってしまったからだ。
 それ以来ずっと、彼女は同じ所に立ち続けている。宵闇の中で、すっかり光に慣れた瞳で、扉の向こうに見える違う世界を見つめながら――ずっと、同じ所に。

(柄にもない)

 エヴァンジェリンは、内心で毒づいた。自分は誇り高き悪の魔法使いだ。今は憎い怨敵――ナギ・スプリングフィールドの呪いによって雌伏の時を過ごしてはいるが、それもそう長い話ではない。数百年を生きた自分に取ってみれば、十数年を待つことくらい、どうと言うことではない。
 全ては呪いのせい――きっと、柄にもなく馬鹿な感傷に浸ってしまうのもそのせいだろう。彼に掛けられた呪いのせいで、吸血鬼としての力の殆どは封印され、脆い人間の肉体のみで、今の彼女は生きている。

「くしゅっ!」

 堪えようにも堪えきれないくしゃみが、“らしくない”と毒づいていた考えを全て吹き飛ばしてしまったのは、彼女にとっては幸いだろうか。この不快感ばかりは、彼女から全ての余裕を奪う。
 果たして、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル――数百年を生きた真祖の吸血鬼は、春の暖かな風に舞い散る命の欠片に翻弄されていた。端的に言えば、花粉症であった。

(くそ、忌々しい! 見ていろ、ナギ・スプリングフィールド――この屈辱、貴様の息子の命を持って償わせてやる――)

 乱暴に服の袖で鼻を擦る。普段ならば、忠実な下僕である彼女の従者が、彼女にその様なことはさせないのであるが、今現在その彼女は、麻帆良市街地の方に買い物に出掛けている最中であった。

「――?」

 しかし果たして、横合いから伸びてきた手が、彼女の視界に入る。その手には、某消費者金融の電話番号が入ったポケットティッシュ。
 はたとそちらを見てみれば、車椅子に乗った青年が、彼女に向かってそのポケットティッシュを差し出していた。

「何のつもりだ?」

 少なくともその行動は、彼女にとってあまり気持ちの良い物ではなかった。屈辱的な所を見られた、と言う苛立ちも大きい。しかし、今の自分が、力のない少女でしかないという事実と、目の前の青年が車椅子に乗った――つまりは“障害者”であるという事実が、彼女の行動を押しとどめる。
 いや――今の彼女には本当に何も出来ないのだから、その言葉は適当でないだろうか。

「何のつもりって、ご挨拶だなお嬢ちゃん。駄目だぞ、服の袖なんかで鼻を擦っちゃ」
「ふん。貴様には関係のない事だ」
「素直じゃ無いにも程があるな。これがゆとりと言う奴か? とにかく使えよ、鼻の下、真っ赤になってるぞ?」
「なっ!」

 鼻の下と言わず、エヴァンジェリンの顔全体が、羞恥と憤怒で赤く染まる。

「貴様! 私を馬鹿にしているのか!」
「何でそうなるよ。俺はたまたま通りかかっただけで、お嬢ちゃんが――花粉症か? 辛そうにしてるのを見たもんだから、ついついお節介を焼いちまっただけだ」

 だがしかし――と、青年は急に難しい顔になる。

「ひょっとして――下校中の小学生に声を掛けるという行為が、世に言う不審者と思われているのだろうか? ノウッ! 俺の築き上げてきた爽やかな好青年のイメージが!」
「――誰が小学生だ」

 突然に頭を抱えて呻き始めた彼を見て、エヴァンジェリンの体から力が抜ける。馬鹿馬鹿しくなってしまった――とも、言うだろうか。その手からポケットティッシュをひったくるようにして奪うと、彼に背を向けて鼻をかむ。数百年を生きた吸血鬼に、肉体的な成長の概念などを問う意味はない。それでも敢えて言えば、彼女の体は十歳そこそこの少女のものであるから、青年の勘違いも致し方なかろう。
 しかし何故か、その勘違いが苛立たしいものであることも、また確か。

「あー、ゴミはこの中にな」
「ふん」

 青年が差し出した、ビニール包装のクズや空き缶などが押し込められているコンビニの袋に、エヴァンジェリンは乱暴に鼻をかんだティッシュを押し込むと、彼に向き直った。

「私は小学生ではない。この制服を見てわからんのか」
「そう言われてもなあ、俺はここに越してきたばかり――待てよ? その制服って確か、シロの――」
「……シロ? シロというのはひょっとすると、犬塚シロの事か?」
「え? お嬢ちゃん、シロの事知ってんのか?」

 青年は素っ頓狂な顔をして、エヴァンジェリンに問うた。貴様に教える義理はない――と、一蹴しようかとも思った彼女であったが、何の気まぐれか、素直に頷く。

「私のクラスに転校してきた女の名前だ。貴様、犬塚シロの縁者か?」
「保護者代わりって事になるのかな、一応な。そうかそうか、お嬢ちゃんはシロのクラスメイトか――あいつ、変なところで俺に似て、呆れるほど馬鹿だけど、根はすげえ良い奴なんだよ。心配してるわけじゃないが――仲良くしてやってくれ、な?」
「ふん、それこそ余計なお節介という奴だ」

 エヴァンジェリンは腕を組み、鼻息荒く応え――ようとしたのだが、鼻づまりのせいで欠片も威圧感は存在しなかった。もともとの見た目に威圧感など皆無に等しい、と言う事は、この際気にはすまい。

「――って、お嬢ちゃん、そんな見た目で中三かっ!?」
「大きなお世話だっ!」

 時間差を持ってもたらされた青年の驚愕に、エヴァンジェリンは自分の体調も忘れて怒鳴り返した。




 聞けば、青年がエヴァンジェリンの前に現れたのは偶然ではなく、単純に、すぐ側に停められていた一台の車――国産のスポーツセダンであるが――が、その青年の車なのだという。青年は車椅子を漕いで車に近づくと、ポケットからリモコンキーを取り出してボタンを押した。
 すると後部のドアが自動で開き、パネルのような物が降りてくる。彼はそこに車椅子を漕いで載せると――

「――よっ、と」

 小さく気合いを入れて、立ち上がった。

「なんだ貴様。歩けるのか?」

 気まぐれに、エヴァンジェリンは彼に問うた。ある意味では不躾な質問であったが、青年は特に気を悪くしたような様子もなく、手を振ってみせる。

「まあ、全然歩けないわけじゃないんだが、脚には殆ど力が入らんから――普通の移動にはこいつを使った方が楽だな」

 そう言って再びボタンを押すと、パネルに乗った車椅子が、そのまま後部座席に収まった。ふらつく足取りで、彼は運転席のドアを開ける。エヴァンジェリンは車の事など良くわからないが――運転席に存在する、明らかに後から付け加えられた装備を見るに、その車が、脚が不自由な人間の為に改造された物であると言うことはわかった。

「そうそう」

 運転席に収まった青年は、ドアを閉めようとして、エヴァンジェリンの方を向いた。

「お嬢ちゃんがシロのクラスメイトだって言うなら、何時までも“お嬢ちゃん”ってのもアレだよな。名前を教えてくれるか?」
「エヴァンジェリン、だ」

 自分でも驚くほど、するりと自分の名前が、喉から滑り出した。どうもこの男は自分の調子を狂わせる類の人間だ――そう心中で悪態を突いてみる。
 もっとも、彼がシロの保護者だと言うのなら、遅かれ早かれ、見た目“だけ”ならばあのクラスでも目を引く自分の事は、彼に伝わるのだろう。エヴァンジェリンは自分を、そういう風に納得させた。

「すげえ名前だな。外国のお姫様みたいだ」
「当たらずとも遠からずだ。地にひれ伏して拝むが良い」
「十年経ったらそれも悪くねえんだけどな。ああ、俺は横島――横島忠夫って言うんだ。よろしくな――エヴァちゃん」

 まるで悪戯好きの少年のように笑みを浮かべた彼に、エヴァンジェリンは腕を組んで言った。

「勝手に略すな」




 麻帆良市の郊外には、住宅地が広がっている。もちろんその大半が、この麻帆良市に存在する学校関係者の自宅である。そしてその住宅街の更に外れに、一軒の日本家屋が建っている。
 焼板と漆喰で作られた瓦葺きの平屋は、歴史と重厚さを感じさせるが、時として日本家屋――富豪の邸宅に感じられるような豪奢さは、微塵も感じられない。ただ周囲の自然にとけ込み、誰もが不思議な懐かしさを覚える、昔ながらの家――春先の長くなり始めた夕日が、その家屋を照らす頃、白銀と深紅、二色の髪を風にたなびかせる少女が、その家の門をくぐった。

「ただいま帰ったで御座る。遅くなって申し訳ない――おや、この匂いは」

 玄関の扉――もちろん引き戸である――を開いた少女、シロは、その瞬間に鼻をひくつかせた。匂いをかぎ取る事に掛けては、人間の想像も付かないような領域にいる彼女でなくとも、その匂いを感じ取る事は容易であった。酷く薄っぺらな調味料の匂いと、果てしなく濃厚な甘い香り。その二つが渾然となった匂いが、家の奥から漂ってくる。

「まったく――夕餉には間に合わせると言っておいたで御座ろうに」

 苦笑を浮かべながら、玄関で靴を脱ぎ、家に上がる。綺麗に掃除が行き届いた床板を踏みしめて居間に向かえば――そこには予想通りの光景。
 白髪の青年は、カップラーメンの容器から麺を啜り上げた格好で。
 緑色の不思議な光沢を持つ髪の少女は、壺から蜂蜜を掬い上げた格好で。
 それぞれ、ばつが悪そうにシロの方を見上げていた。

「全く先生もパピリオも……先生には電話で言った筈で御座るが。夕餉の用意はきちんとするので、その様に体に悪い物を食べてはならぬと。パピリオもパピリオで御座る。先生を止める事の出来る唯一の立場でありながら、先生に便乗などとは――」
「い、いやまあ、今日は色々と忙しくてな」

 白髪の青年、横島は、慌てて口の中の物を飲み込むと、首を横に振って見せた。

「だからこれはおやつみたいなモンで。もちろんシロの作ってくれるメシは別腹だ。俺の食い意地は、お前も良く知ってるだろう?」
「確かに先生の食い意地は、拙者のそれと張るくらいだと言うのは良く存じているで御座るが――“カロリーオーバー”は体に良くないし、出来ればそういう塩気や脂の多すぎる物は控えて頂きたい」
「う……すんません。気をつけます」
「それとパピリオ」

 横島ががっくりと項垂れた事に満足したのか、シロは腕を組んだまま、緑色の髪をした少女、パピリオに目線を向ける。

「蜂蜜をそれだけで食べるのはやめろと、何度言ったらお主は理解するのか」
「え、えーと。私もちょっと小腹が――だ、大体駄目ですよシロ。ここでは私の事をそんな風に呼んでは――」
「ではさ言い直すで御座る。お主に学習能力という物は無いので御座るか、“あげは”」
「よせよパピ……あげは。こうなった時のシロには下手に逆らうな。こんな時にウチの女共に勝てる奴なんていねえよ。つまみ食いがおキヌちゃんにバレた時、お前、無事に逃げ延びる自信あんのか?」

 恐らく日本人にとっては、もっとも馴染みの深い蝶の名前を与えられた少女は、横島とよく似た動作で、がっくりと肩を落とす。もっともこっそりとお互いの肘を突き合い、横島がさっさと食べればばれないなどと言うからだ――いいや、あげはの方こそそれを良いことに――などと言い合っているその様子は、実に往生際が悪い。

「……ま、結構で御座ろう」

 ため息と共にそう言ったシロに向き直り、二人は安堵に胸をなで下ろす。むろん、正座は未だに崩さない。

「今日のようなめでたき日の事。拙者もそこまで狭量な人間では御座らん。些細な事には目を瞑るで御座るよ。それにお体の不自由な先生に、何時までもその様な格好をさせたとなれば、弟子として申し訳が立たぬ故」
「よせよ」

 苦笑しながら横島は足を崩す。その隣ではパピリオ――“あげは”が、形容しがたいうめき声を上げながら、横島の膝の上にぱったりと倒れ伏した。短時間の正座ではあったが、すっかり脚がしびれてしまったらしい。“体の頑健さ”で言えば、そうそう右に出る物の居ないだろう彼女ではあるが――その様子が何だかおかしくて、シロと横島は同時に吹き出した。

「では、早速夕餉の支度に取りかかる故――そう言えば、あげは、お主の方は、ちゃんと学校に馴染めそうで御座るか?」
「心配しなくてもお前と同じだよ、シロ。小学校だから切り上げる時間は早かったけどな――こいつも、クラスの連中に歓迎会を開いて貰ったって言って、はしゃぎながら帰ってきたぜ」
「は、はしゃいでなんかないですよ。あれは、クラスのみんながどうしてもと言うので――」
「そう言うときは素直に“楽しかった”って言っておけば良いんだよ、あげは。日本一小学校時代を遊び倒した男を自負するこの俺が言うんだから、間違いねえ!」
「その自信は何処から来るのか存ぜぬが――何だか、その様子が目に浮かぶようで御座るなあ」
「単純に横島は、昔から成長してないって事じゃないですか?」
「何だとこら!」

 日が落ちて、家々に光が灯り始める頃。町はずれにぽつんと建つ、この小さな一軒の家からも、灯りと共に明るい笑い声がこぼれ出ていた。




 麻帆良学園都市に暮らしていると、余程のことが無い限り、ある一つの生活の変化が現れるという。
 果たしてそれは、朝、寝坊することに気をつける心配が無くなる――という物である。
 とはいえ、麻帆良に存在する全ての企業や学校が、遅刻を容認しているというわけではない。むしろ、当然ながら学校は遅刻に厳しく、企業となれば言わずもがなである。
 では何故、その心配をしなくても良いのか――それは、この光景を見れば明らかであった。
 通りという通りを埋め尽くす、人の波、波、波。
 それらの大半は、学生服に身を包んだ学生達であり、彼ら彼女らで構成された人の波は、まるで朝の麻帆良市を洗い流すような勢いで、街の隅々を迄を駆け抜けていく。この勢いと、轟音。そしてこの朝の空気に当てられて、果たして惰眠を貪ろうという人間は、ある意味で根性が座っていると言っても良いほどだ。
 いつしか学生には、自分もまたその波に乗り、その波を形作る習慣が身に付く。大人もまた、起き抜けの状態でその波に揉まれれば、嫌でも意識が覚醒する。
 そんな人並みから少し外れて、二人の少女が並んで走っていた。白銀と濃緑の長髪が、朝の風に翻る。シロと、あげは――横島忠夫という青年の保護下に暮らす、つい先日麻帆良にやって来たばかりの二人組である。

「妙神山では考えられない光景です――」
「まあ、そうで御座ろうなあ。東京の人混みを見慣れた拙者でさえも、この光景には圧倒させる物がある」
「“人類でもっとも孤独だった人間”というギネス記録を、シロは知っているですか?」
「はて、拙者は存ぜぬが」
「月に行ったロケットのパイロットだそうですよ。自分から三千キロ以上離れた場所にしか人間が居なかったと」

 あげはの言うのはアポロ宇宙船のこと。シロは知識欲は旺盛であるものの、幼少期を隔絶された場所で過ごしたため、知識の絶対量は豊富とは言えない。月面着陸船が月面に降りている間、月を周回していたアポロ司令船――そのパイロットが、人類でもっとも孤独だった男であるとは、彼女には知る由もない。

「そう言えば先生も月に行った事があるので御座ったな」
「いろんな意味で、人生生き急いでますよねー、横島は」

 苦笑を交わしながらも、二人は余裕を持って走り続ける。人外の健脚を誇る二人には、造作も無いことだ。麻帆良学園都市の学校のいくつかは、その学生の多さから、バイクや自転車での通学を禁止しており――そうでない学校であっても、インドの交通渋滞を鼻歌交じりで走り抜ける程度の自負が無ければ、この中を乗り物でかいくぐろうとはしないだろう。
 もっともそう言った猛者の姿も、少なからず見受けられるとは言え――大半の学生は、電車やバスと言った公共の交通機関を利用して通学している。
 しかし、この二人に限って言えば、本気を出せば自分の脚で走った方が余程速い。余裕を持って家を出れば、学校まで走って通学することくらい、何という事はない。むしろ、すし詰めの公共交通機関に揉まれない分、ゆとりがある。

「ともかく妙神山なんてそんなもんですよ。私と小竜姫と、サルのお爺ちゃん以外には、もう誰も――」
「鬼門のお二方をナチュラルに忘れているようで御座るが」
「ああ――そんなのもいましたね、確か。と言うよりも、シロは良く覚えていましたね?」
「いいや、あのお二方はそれなりに何というか――普通は印象に残ると思うので御座るが――おや?」

 ふと、視界に映り込んだ人影に気づいて、シロは足を止めた。輪郭を失い、後ろに向かって溶けて流れていた世界が、途端に鮮明になる。そこに映り込んだのは、亜麻色の――彼女のかつての上司によく似た髪を、頭の両側でおさげにした少女と、何故か彼女に米俵の如く担ぎ上げられている少年――そして、その二人を困ったように見つめている、黒髪の少女の姿だった。
 果たしてそれは、昨日シロが出会ったばかりで、そしてこれから共に歩いていくだろう、仲間達の姿。

「神楽坂殿、近衛殿――それに、ネギ先生。おはよう御座います――しかし、一体何をされておるのですか?」
「あ、犬塚さん、おはよう」
「シロちゃん、おはよう」

 亜麻色の髪の少女――神楽坂アスナがこちらに気づいて片手を上げ、黒髪の少女、近衛木乃香が、穏やかな調子で微笑みかける。
 その間、アスナの肩に担がれている少年は、彼女の手から逃れようと必死にもがいているが――彼の力が知れているのか彼女の力が強すぎるのか、未だにそれは果たされていない。

「シロ――この人達は?」
「ああ、拙者のクラスメイトの方々と、担任の教師で御座る。黒髪の方が近衛木乃香殿、ええと――その、“担いでいる”方が、神楽坂アスナ殿で、“担がれている”方が、担任のネギ・スプリングフィールド先生で御座る」

 彼女にしては、必死に言葉を選ぶ努力をしたのだろう。何処か引きつったような表情を浮かべながらも、あげはに向き直る。

「して、近衛殿、神楽坂殿――こっちは、芦名野あげは。麻帆良学園本校初等部に通うために、うちに下宿している知り合いの子で御座る」
「よろしくです、近衛さん、神楽坂さん、それと――ええと、ネギ先生? 聞こえているかどうかは知りませんが」
「よろしゅうなあ、あげはちゃん――あげはちゃんでええか?」

 柔らかな笑みを崩さずに問いかける木乃香に、あげはは小さく頷いた。

「こちらこそよろしくです。それで――一体何が起こっているのか、聞いてもいいですか?」
「ああ、うん、それがね――ああ、私の事はアスナでいいよ。犬塚さんも聞いてよ。実はこの馬鹿がさ――」

 ネギ少年を担ぎ上げたまま、アスナは小さくため息をつき、首を横に振った。

「学校に行きたくない、なんて突然言い出すモンだから」










良い程度の長さ、と言うのがイマイチわからない。
誰か詳しい人がいたら、教えてください。
作成環境は、マイクロソフト・ワード。34×40字/ページで作成してます。

横島君は横島君、ネギ君はネギ君でなければいけない。
けれど、原作の焼き直しでは面白くない。
二次小説は楽しい。けれども凄く難しい。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・それぞれの気持ち
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/07 19:48
「昼食をご一緒しても宜しいか?」

 唐突に自分に掛けられた声に、エヴァンジェリンは軽く驚いた。
 真面目に付きあっていられない――麻帆良学園本校女子中等部、その中でもとりわけ“あくが強い”と呼ばれる三年A組に在籍してはいるが、それが彼女の偽らざる本心だった。
 自分と彼女たちでは、あまりにそのあり方が違う。律儀にクラスメイトとして付きあう必要はないし、ましてや歩み寄る必要もない。仮に歩み寄った所で――彼女は“十五年間”そうやって生きてきた。その終わりのない学園生活を、どうしてゴールが用意された少女達と共に歩めるだろうか?
 いや――“エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、誇り高き悪の魔法使いである。そんな彼女が、まだ乳臭さの残る雌ガキなどに付き合う道理が何処にある?
 だからこの十五年間、彼女はそうして一人で生きてきた。
 あるいはこのこのクラスの事だ。彼女に歩み寄ろうとした生徒も、一人や二人ではない。けれど、彼女は全くそれを相手にしなかった。果たしていくら、“あくの強さ”が人一倍の連中が集まったこのクラスと言えども――「彼女は一人で居ることが好きなのだろう」という自己解釈の元、このクラスとしての最後の年を迎える頃には、誰も彼女に近寄る者はいなくなっていた。
 エヴァンジェリンはそれを当然のことだと思っていたし、クラスメイトもいつしかそれが彼女のあり方だと思っていた。
 だから、昼休みにそんな声を掛けられたときに、彼女は一体何処の馬鹿が――と、顔をそちらに向けたのである。
 果たしてそこには、雪のような白銀と、目の覚めるような深紅の髪。

「……犬塚シロか。悪いが、私はガキと談笑しながら飯を食う趣味はないんだ」
「まあ、そう言わずとも良いでは御座らぬか。親睦を深めるには良い機会で御座ろう?」
「ふん――何を思ってそう言うのかは知らんが、私と親睦を深めても良いことなど何もないぞ? 後ろの方で何か言いたげな連中とでもそうすれば良かろう」

 ちらりと、何処か心配そうな顔でこちらに視線を向けている和美やあやかの方を一瞥する。その時に胸に去来した感情が、何を意味するのか、本人にもわからないまま。

「――拙者は、物覚えが悪いし、空気を読まないと評判の女で御座ってな」

 シロは腰に手を当てて、小さく笑みを零す。その際に、普通の人間より明らかに鋭い犬歯が、ちらりと口元から覗いた。吸血鬼であるエヴァンジェリンとはまた別の――“牙”と形容しても良いだろう、それが。

「このクラスでの常識がどういう事になっているかは知らぬが、今日は貴殿と昼食を共にしたい気分なので御座るよ。少しばかり、貴殿には聞きたい事も御座るよってな」
「……ふん。勝手にするが良い。私などと食事をしても何も楽しくないとは思うがな」

 そう言ってエヴァンジェリンが席を立つと、淡い緑色の――日本人にはあり得ない頭髪の色をした少女が、音もなく彼女に寄り添う。絡繰茶々丸――確か彼女はそう言う名前であったと、シロは記憶していた。

「何だかんだ言いながら、しっかりご友人がおるのでは御座らぬか」
「こいつは“友人”などではない。私の下僕だ」
「級友を“下僕”等というものでは御座らぬよ」

 内心、腕を組んで高笑いするかつての上司と、その膝元でがっくりと項垂れる己の師匠の姿が脳裏に鮮やかに浮かんでしまい、シロの顔が知らず引きつった。当然、彼女の内心など察する事が出来るはずもないエヴァンジェリンは、怪訝そうに整った眉を動かす。

「いや――何でも御座らぬ。何でも御座らぬよ」
「そうか――では私は先に行くぞ。屋上で待っている」

 そう言って、エヴァンジェリンは茶々丸を従え、教室を出て行った。

「シロちゃん」

 最初にシロに声を掛けたのは、昨日最初に彼女に声を掛けた和美だった。最初に彼女がそうした理由は、“麻帆良のパパラッチ”としての興味だったのかも知れない。けれど、きっかけなどは些細な事柄に過ぎない。今となっては和美は、シロの事を大切な友人の一人だと思っている。

「その――こういうのはあんまり良くないとは思うんだけどさ、あんまりエヴァちゃんに関わっても、仕方がないと思うよ」
「和美殿――と、仰ると?」
「あの子なんて言うか――こっちに対して、バリバリに壁を作ってるって言うか。あたしらも何度か、これじゃいけないって思って声を掛けた事もあったんだけれど――」
「彼女にとっては、それ自体があまり愉快な事でない――言い換えれば、迷惑なことであるようです」

 和美の言葉のあとをとり、あやかが小さくため息をつく。クラス委員長でもある彼女は、何だかんだで今の状態を憂いているのだろう。しかし、エヴァンジェリンの方がこちらに対して拒否姿勢を取っている限りは、彼女がどれだけ気を揉んだとしてもあまり効果はない。そうこうしているうちに、二年があっという間に過ぎてしまった。

「クラス替えが無いって言うのも考え物よね」
「手に負えない事柄から逃げようとするのは、あまり褒められた事ではありませんわよ、朝倉さん」
「そう言うわけじゃ無いけどさ。単純に、あたしらには無理でも、他の誰かには出来るかも知れない。現にちょっとおかしいとは思うけど、あの子、絡繰さんには心を開いてるみたいだしね。仮にクラスが新しくなれば、その中には気が合う子だっているかも知れない」
「それは――そうかも知れませんけれど」
「あやかはね、色々と深く考えすぎなのよ。責任感が強すぎるって言うか。自分がやらなくたって、他の誰かがやってくれる――時々、そういう風に楽をしたって、誰もそれが悪いなんて言わないわよ?」
「そんなことは――」

 単純に、自分の気持ちの問題です、と言って、あやかは首を横に振った。和美もその気持ちはわからないでもない。彼女らとて、今の状態が決して好ましいものではないことくらい自覚している。

「和美殿、あやか殿――ああ、このクラスは素晴らしいクラスで御座るな。拙者はこのクラスの一員となれた事を、心から嬉しく思うで御座るよ」
「ちょ、シロちゃん――何か照れるじゃないの」
「そう思って頂けるのは何よりの事ですが――あまり過大に感激されるのも、何だかくすぐったい感じがしますわね」

 和美は苦笑し、あやかははにかみながらも嬉しそうな笑みを浮かべた。シロはそんなクラスメイトの顔を満足そうに見遣ったあとで、自分の鞄を掴むと、席を立つ。

「では、拙者が――たまたま彼女と拙者の波長が合うことを祈って、歩み寄ってみるで御座るよ。願わくば、これからの一年が、拙者らにとっても彼女らにとっても、かけがえのないものであることを願って。では」

 軽やかな動きで教室を出て行ったシロの背中を見送って、和美とあやかは自然と顔を見合わせた。

「なんつーか……すごい良い子だよねー、シロちゃんって」
「私が言うのも何ですが――今時そうそういないでしょうね、ああいう子は」
「単純に凄いって思うけどさ、思うだけで、あたしにはとてもああいう生き方は無理だわ。だからってそれを斜に構えて“自分には関係ない”って言い方も出来ないけどさ」
「意外ですわね。マスコミは全てを客観的に観察する必要があるのではなくて?」
「“麻帆良のパパラッチ”としてはね。けどまあ、それとは別。シロちゃんは、私の友達だもの。委員長だってそうでしょう?」

 苦笑して頷くあやかの頬は、少し照れくさそうに赤く染まっていて――その様子は何だかとても可愛らしいと、和美は思った。




「――さて、何の話をするんだ?」
「そう気を焦るでないよ、エヴァンジェリン殿。話したいことというものが特別にあるにしても、拙者、単純に貴殿とは友達になりたいと思っているが故に」
「私と友達に、だと? ふん、酔狂な事を抜かしてくれる。それとも、それは貴様が人外の存在だからそう言っているのか? 人狼の女よ」
「おや、気づいておったので御座るか」

 屋上に現れたシロに対して、エヴァンジェリンは目一杯の挑発を込めて言ってみたのだが――当の本人は気にする様子もなく、鞄から弁当箱の包みを取り出した。肩すかしを食らったエヴァンジェリンは、彼女に対して何か言ってやろうかとも思ったが――結局はやめておいた。
 何故だろうか、聞くのも馬鹿らしい――彼女にとっては自分の常識を揺るがすような回答が戻って来る、そんな気がしてならなかったから。

「どうでも良いが――貴様の弁当箱は、年頃の女のものにしては大き過ぎはせんか?」
「はっは――拙者、燃費が悪いで御座るからなあ。これでもどちらかと言えば、我慢している方で御座るよ?」

 育ち盛りの少年のそれだと言っても違和感ない程度の大きさの弁当箱を広げながら、シロは苦笑した。きっとその台詞と、シロの体型を見れば、悔し涙に暮れる女性は少なくないだろう。

「別に貴様が人狼だからと言うわけではなさそうだが」
「ま、拙者の世界のかなりの割合は、先生と散歩と食事で出来ていると言っても過言で無い故に。そう言えば、この学園には“さんぽ部”なる部活が存在するとかで――多少、興味を引かれているので御座るが」
「……貴様の世界とやらはともかく、決して勧めはせんがな。お前のコピーではなかろうかと言う女と、頭の中身に花でも咲いている雌ガキ共が、ただ学園内を歩き回るだけの“自称”部活だ」
「拙者の――ああ、長瀬殿で御座るか――あの御仁も何というか、変わったお方で御座るな。年頃の女として、あの体つきだけは素直に羨ましいで御座るが――時に、エヴァンジェリン殿」

 シロの脳裏に、自分と同じような――しかし幾分ぎこちない調子で話す、長身の“忍者っぽい何者か”である少女の姿が浮かぶ。
 微妙な笑みを浮かべながら、彼女はエヴァンジェリンに問うた。

「何だかんだと言いつつ、クラスメイトの事を良く見ているので御座るな?」
「ふん――あのクラスに居れば、どうでも良い物を嫌と言うほど見せつけられる。貴様も覚悟しておいた方が良い」
「その様な覚悟ならば、むしろ大歓迎で御座るな」

 腕を組んでなにやら頷くシロに、エヴァンジェリンは――そこまで至って、はたと気づいた。気まぐれで彼女の同席を許したとは言え、今の自分は妙に饒舌だ。それこそ、どうでも良いことをぺらぺらと喋ってしまう程には。

(こいつ……)

 彼女は内心で舌打ちした。こいつは――危険だ。知らない間に、するりと人の心の内側に入り込んでこようとする。まるで、かつて出会った“英雄”や――そう、昨日出会った、不思議な青年のように。
 いや待て、昨日の青年は何と言った? シロは彼にとっての――

「犬塚シロ、貴様――」
「ん? 何で御座るか?」

 鶏の唐揚げを、幸せそうな表情でほおばっていたシロの顔を見て、エヴァンジェリンは言葉を切った。まあ、今はそれを問うても仕方がない。彼と彼女の繋がりなど、自分にとってはどうでも良いことだ。

「何でもない。それよりも、いい加減に話したいこととやらを切り出したらどうだ。私は貴様が平和そうに弁当を掻き込んでいる様を、馬鹿面をして観察するためにここに来たのではない」
「絡繰殿は如何致した?」
「茶を買いに行っている。この時期に冷たい茶で食事をするというのは、私には我慢出来ん」
「左様で御座るか。では、単刀直入に――」
「待て、その前に、貴様の口の周りについている米粒を何とかしろ。気分が萎える」

 これは失敬、と、シロは口の周りを一拭きし――次の瞬間、彼女の瞳には、研ぎ澄ました日本刀の様な鋭い煌めきが浮かんでいた。

「何故、我らが学友やネギ先生を襲ったので御座るか?」
「さて――何の話かな」

 エヴァンジェリンは、その底冷えするような鋭さが心地良いと感じた。少なくとも、生ぬるい日常に浸っている――決して届かない光の世界を、暗闇の中から眺め続ける日常よりは、このぞくりとするような感覚は身に馴染んだものだ。
 ――それを彼女が求めているのか、単に彼女がそれに慣れているだけなのか――その線引きが、彼女自身出来ていない事に気づかず、エヴァンジェリンは言い返した。

「ネギ先生かその仲間がそんなことを言ったのか? ならば幻滅だな」
「人と人との諍いは、誰かが間に入ることで解決する事もままあるで御座ろう。もっとも、ネギ先生も神楽坂殿も、果たして魔法使いの世界云々の部分は、拙者には隠そうとしておったようで御座るが。知るところに寄れば、一般人には魔法は隠されているらしいので、それも止む無しと言えようが」
「ふん――少しは裏の世界の事を知っているようだな。伊達に人狼の身で、人間の群れに身を投じているわけではないと言うことか」
「いや、そっち方面は――何というか、知り合いからの受け売りなので御座るが。ほれ、拙者、ゴーストスイーパーの事務所で働いておったことがある故に」

 格好を付けた手前、言いづらかったのか、シロは少しばつが悪そうに、頭を掻いた。

「拙者、“そう言う世界もある”と言うことくらいしか知りはせぬわけで。それと――拙者は人間の群れに入ろうと思ったわけでは御座らぬ。たまたま選んだ群れの主――先生が人間であったと、それだけの話で御座る」
「“先生”――か? ふん、群れの主か。それでは貴様は、ただ本能に従って、強い雄に尻尾を振る雌犬のようではないか。貴様にはプライドと言うものは無いのか?」
「うーん……先生自身がプライドなどとは無縁のお方で御座るからなあ――それに、先生がそれをよしとするならば、先生の雌犬と呼ばれるのもあるいは悪くない――いやいや! 拙者は狼でござる! それに拙者は、ただ先生に与えられるだけの存在ではありたくないと、誓った筈では御座らぬか! 自分はその様な妥協などを由とする人間ではあるまい、犬塚シロ!」
「――雌犬などと口汚い言い方をしたのは詫びよう。だから、少し落ち着け。話が進まん」

 何故だろう、目の前の少女に、昨日出会った白髪の青年が重なって見える。エヴァンジェリンは知るよしもないが、もしもここにシロを良く知る人間が居れば、果たしてこういうだろう。ああ、この似たもの師弟め――と。

「まあ――私がネギ・スプリングフィールドの事を快く思っていないのは事実だ。私と奴の間には、それなりの因縁があってな」
「因縁、で、御座るか」
「そうだ。それを知って何とする? そこに首を突っ込むつもりか、犬塚シロ」

 視線に少しばかりの殺気を乗せて、エヴァンジェリンはシロを睨み付けてみた。その可愛らしい姿に似合わぬ本物の殺気を受ければ、普通の人間ならば体がすくみ上がってもおかしくはないが――

「首を突っ込むという表現は適当では御座らん。拙者は部外者では無い故に」

 シロの表情は揺るがなかった。不満さと満足さの両方を覚えながら、エヴァンジェリンは問う。

「何がだ。貴様は魔法使いで無ければ、私や奴の縁者でもない。そんな貴様がこの話に割り込んできて、それが部外者が首を突っ込むと形容する以外の何だと言うのだ?」
「知れたこと。拙者とエヴァンジェリン殿は、同じクラスの仲間では御座らぬか。そしてネギ先生は、我らの敬愛する教師で御座ろう?」
「は――何を言うかと思えば。青臭いにも程があるぞ、犬塚シロ」
「青臭いと言われようが、大いに結構。拙者まだ十五であるが故に、世の中の道理など知らぬ若輩者で御座る。されど、今の拙者は今の自分を大切にしたい。拙者が青臭いと言うのならば、それが拙者という人間で御座る故」
「……」

 エヴァンジェリンは、従者が作った弁当を突く手を止める。そのまま真っ直ぐにシロの目を見つめて、口を開いた。

「では、聞かせて貰おうか、犬塚シロ。確かに、級友や担任の教師に対して危害を加えるというのは褒められた行為ではない。その理由如何では、私の掲げる“悪”にすら値しない、下劣な行為だ。ならば、犬塚シロ――私は、どうすればいいのだ?」
「――どう、とは?」
「断っておくが、今更ネギ・スプリングフィールドに頭を下げろという意味では無いぞ? お前に言っても仕方ないかも知れないが、試みに問おう。お前は、私がこの先ずっと――終わりのない学園生活を続けたまま、この地で朽ち果てて行けと、そう言いたいのか?」
「事情を聞かせて貰っても構わんで御座るか? 拙者、“魔法使いの世界”の事柄には疎い故――エヴァンジェリン殿が、何かしら人外の存在であるとは、匂いでわかっていたけれども」

 ほう、と、エヴァンジェリンは大げさに驚いてみせ、弁当箱の上に箸を置いた。

「戯れに聞かせてやる。私は何を隠そう、真祖の吸血鬼だ。かつては魔法の世界では、私の名を知らない者は居ないほどの、悪の魔法使いであった。そんな私が何故、このような場所でこのような日々を過ごしているのか――聞かせてやろう、犬塚シロよ。お前は青臭い事を厭わないと言ったが、それが無責任で身勝手である事にも気がついていない。なればと言うのなら、聞かせて貰おう。お前のような純粋無垢な人間は、私に一体、どうしろと言うのかを」




「お……やっぱりヨーロッパの企業が動いてやがるか――さすがクロサキさん、仕事が早いねえ」

 シロが曰く付きの級友と、訳ありの昼食会を開いている頃、横島は一人、自宅でパソコンに向かい合っていた。彼は、パソコンに送られてきたデータを一瞥して、満足そうに頷く。

「妥当に行けばこの市場は押さえたも同然だな。親父も伊達に、ナルニアでゲリラ相手に生き延びて来たわけじゃねーってか……いや、あの親父とお袋が、ゲリラ程度に屈するビジョンが想像出来ん」

 そう言えばいつだったか、彼が高校生だった折に、両親が離婚寸前の喧嘩をやらかした騒ぎがあった。結局あの時は、テロリストを生け捕りにした父親が空港のターミナルに飛行機で突っ込む――という、一歩間違えなくても無茶苦茶な状況を経て、全てが元の鞘に収まったのだが――

「そういやあの時、あの飛行機だとか空港の建物だとかどうなったんだ? 騒ぎになる前に美神さん達と一緒に事務所に引っ込んだけど、美神さんとお袋がブチ壊した空港の床も含めて、あれから何も聞いてねえぞ?」

 深く考えると何だか怖くなりそうだったので、横島はあっさりと、その思い出を、脳内に存在する記憶の海に、重石を着けて不法投棄することを決め込んだ。軽く頭を振って、思考を仕事用のそれに切り替えると、再び画面を見つめる。

「――でも、何だか気になるんだよな――何だ? 上手く行っているのに、何か引っかかるような、特にこの、ヨーロッパのファンドの動きが――」

 リアルタイムに増減する数字と、自分の持つデータを照らし合わせる。彼が籍を置く村枝商事を取り巻く今の状況は、決して悪くない。悪くないはずであるのに、この胸騒ぎは何だろうか? 果たしてそれは、霊能力者として慣らしていた頃の勘であるのか――
 いや、それはないな、と、自分で自分の考えを否定する。彼は煩悩を霊能力に変換すると言う、恐らく世界でも彼を置いては他に居ないだろう特殊な能力の持ち主ではあったが、それがいわゆる“霊感”――ゴーストスイーパーには必須と言われるそのシックス・センスに直結していたかと言えば、答えは否だ。いくら煩悩を高めた所で、第六感が鋭くなるわけではなかった。

(ま、結局――それも単純なものでもなかったんだが――)

 無意識に、手が胸ポケットに伸びる。何時しか嗜むようになっていた煙草を求めていた事に気がついて、苦笑する。このような体になってからは、シロやあげはを筆頭とした仲間達が、体に悪いからと――彼は半ば脅迫めいた禁煙を迫られる事になった。

「なら、別のことで気分転換でもするかね。こういうときは少し、気持ちを変えなきゃ何も進まねえ――例えば、ナンパにでも行くとかな!」

 そのまま後ろにひっくり返りそうな程に、車椅子の背もたれに体重を預けてみるが――どのみち父親と違って、自分のナンパの成功率はゼロに等しい。その事を理解していないわけではない。
 それも当然だ、彼の中でナンパ――見た目麗しい女性に声を掛けるという行為は――

「……ま、気分転換には丁度良いだろ」

 知らず顔に浮かんだ表情に、それを苦笑で上塗りし――机の上に投げっぱなしなっていた車のキーを掴んで、彼は車椅子を転回させた。




「ちぇー、やっぱり男は顔と金ってか。俺も昔よりは結構金持ってんだけどなー」

 ひとしきり街角に出向いて、目にとまった女性に声を掛けてはみたものの、皆一様に引きつった笑みを浮かべて、横島の前からそそくさと居なくなってしまった。
 彼が車椅子に乗っている事に、必要のない引け目を感じているのか――かつてのように、真っ正面からひじ鉄を食らうような状況はもはや無い。彼自身も少しは成長しているから、さすがに初対面の相手に飛びかかって撃墜されるような行為は、もはや冗談では済まないと言うことも自覚している。
 とはいえ――時々、馬鹿をやっていた過去が懐かしく感じられるのも、致し方ない。横島は殆ど感覚のない両脚を撫でると、小さくため息をついた。

「全くこんなのは俺らしくねえな。永遠の煩悩少年を信じて疑わなかったあの頃の俺は、一体何処に行っちまったのやら」

 昔だって、あのようなやり方でナンパをして、自分に靡く女性が居るはずもないと言うのは何となくわかっていた。けれど、あの頃仲間に向かって言っていた馬鹿な言葉――美人の嫁さんを貰って退廃的な生活を送りたい!――だとか――美女で埋まった武道館で、ジョニー・B・グッドを熱唱したい!――だとか、実現するはずも無かったとしても、それは紛れもなく、自分の一つの“夢”だった。
 だから、断られるのがわかっていても、ナンパという行為は本気であったし、美女に声を掛けないのは失礼だ――という無茶なポリシーも、少なくとも偽りではなかった。
 今のように、純粋に“気分転換”以上の意味を成さない行為では、少なくとも無かった筈だ。

「ほんとに、全くこんなのは俺の柄じゃねえよ。シロやあげはに見限られちまうな、これは」

 彼が目をやった書店の店先には“女は危険な男に惚れる”という、いかにも安っぽい見出しの週刊誌が平積みにされていた。むろん、もしも二人がそれを聞いたら、決していい顔はしないだろうが――

「ん?」

 いい加減に仕事に戻ろうかと考えていたときに、駅前のファーストフード店の中に、横島は見慣れた人影を見つけた。




「それじゃ――エヴァンジェリンさんとはうまく行かなかったの?」

 フライドポテトをつまみながら、朝倉和美は、目の前に座る犬塚シロに問うた。シロは、オレンジジュースのカップに突き立てられたストローを弄びながら、小さく首を横に振る。

「上手く行かなかったと言うわけでは御座らぬが――少なくとも今の拙者程度では、彼女の気持ちを察してやることは出来なんだと、そう言う話で御座る」
「……何、あの子、何か悩みでも抱えてんの? あ、いやこれは、純粋に私個人のお節介だけど」

 慌てて言い直す和美の様子を見て、シロは苦笑した。このような場面での苦笑いという行為は、あまり彼女には似合っていない。

「和美殿が“麻帆良のパパラッチ”と悪名高いのはあやか殿やアスナ殿から聞いたで御座るが――少なくとも和美殿は、本物の“パパラッチ”とは違って、相手のことをちゃんと考えて居るで御座ろう。和美殿はただ、真実が知りたいだけ――」
「真実というか――まあ、あたしの事はどうでもいいわ。何かくすぐったいしさ」
「エヴァンジェリン殿が、ネギ先生と喧嘩をしているという話は、和美殿なら知っているで御座ろう?」
「ああ、今朝方、アスナに引きずられて学校に来たって言うアレね。でも仕方無いんじゃない? ネギ先生は世に言う天才児だって――だからイギリスの学校と麻帆良の計らいで、あの年で教師なんて出来てるわけだけど――結局は十歳の子供なんだから。頭がどれだけ良くたって、心までが飛び抜けて成長できるわけじゃないし」

 そう言うエヴァンジェリンも、見た目だけなら彼とそう変わらない――そんなことを考えながら、和美はハンバーガーをかじった。一応はカロリーを考えてフィレオフィッシュだが、人はそれをしてこう言うだろう、五十歩百歩――と。

「そうで御座るな――しかし、エヴァンジェリン殿の方にも、色々事情がある。されど、ネギ先生にしてみれば、その事情を全て受け止めては、体の方が持たぬ」

 シロはため息をついて、小さく零す。

「少なくとも拙者のような子供では――他人の気持ちを真に理解してやることは出来ぬ。間違いがわかっていても、それを正す方法までを知っているわけでも御座らぬ」
「いやいやいや、それって当たり前でしょ。シロちゃんが子供だって言うなら、あたしなんてもう幼稚園児みたいなもんじゃん? それに問うのエヴァちゃんとネギ先生だって子供なわけだしさ」
「いや……いや、そうであっても――いや、そうだからこそ悔しいので御座る」

 和美は思う。理想で世の中を渡っていくことは、不可能だと言い切っても良いだろう。たった十五年程度しか生きていない自分でさえ、そんなことは薄々わかっている。けれど、こと目の前に座る友人に限って、そうではないと願いたくなる。願わくばこの冷酷な世界が、この友人にだけ特別扱いをしてくれないかと、そう思う。
 そしてそう思わせるのがきっと――彼女の魅力なのだろう。

「あのさ、シロちゃん――」
「よう、シロ。深刻そうな顔してどうしたんだ?」

 突然に投げかけられた声に驚いて、和美は振り返った。それは間違いなく男の声であって――果たして振り返れば、白髪の青年が、車椅子を漕いでこちらに向かってきていた。
 和美は何度か、街中でナンパされたことがある。中学生にしてはスタイルが良く、顔も整っている彼女のことだ。しかし、彼女は当然、持ち前のバイタリティでそれを軽くあしらってきたわけだが――目の前のこの男は、ナンパと言うには少し違う気がする。
 そしてこの男は、シロの名前を呼んだ。と言うことは、彼女の知り合いだろうか?

「先生――何でこんな所をうろついているので御座るか?」
「何でってお前、俺にも息抜きは必要なんだよ。そう思って街中にナンパでも――」

 と、思っていた矢先の台詞に、和美は思わず、その男に全力で突っ込みを入れそうになって、必死で自制心という名のブレーキを掛けた。

「先生はいい加減、経験に学ぶと言うことを覚えてくだされ」
「学んでるよ。最近はルパンダイブだって封印してるだろ?」
「それは学んでいるとは言わぬで御座るよ。そもそもその“なり”で異性に声を掛けた所で、驚きこそすれ女性が靡くと思うで御座るか?」
「わかんねーぞ。千匹のサルにタイプライターを与えたら、そのサルがシェイクスピアの原文を間違えずに打つ可能性はゼロじゃない――そんな話だって聞くじゃねえか」
「そう言うのをして“悪魔の証明”というので御座るよ。ひのめ殿が仰っていた故に」
「……正真正銘の幼児に馬鹿にされた?」
「ともかく、先生に声を掛けられて“ほいほい着いていく”のは、ここでは拙者かあげはくらいで御座る故に。無駄な体力を無駄なことにお使いなさるな。拙者――」
「あの」

 親しそうな様子で話し始めた二人の様子に、慌てて和美が口を挟む。何だか、目の前の友人は、この男の出現に自分の事を忘れていたらしかった。

「何この人――シロちゃんの彼氏? 裏切り者っ!」
「え? い、いや、そう言うわけでは――」
「ああ、初めまして美しいお嬢さん。俺は横島忠夫と申します。シロのご学友ですか? いつもこいつがお世話になっています――ああ、こいつとは単なる先生と弟子という関係で、それ以上の事は何も。時にお嬢さん、お名前を窺っても?」
「……忘れているようだからもう一度言うで御座るが、拙者の学友であると言うことは、和美殿は中学三年生であると言うことをお忘れなさるな」

 何故か――何故か、顔を赤くしてぽつりと言ったシロの言葉に、白髪の青年――横島と名乗った彼は、ぴたりと動きを止める。ややあって――切腹して果てる寸前の武士もかくや、と言うほどの苦悶の表情を浮かべた彼の様子に、和美は慌てた。

「ちょ、ちょっと、大丈夫ですか?」
「落ち着け――確かにこの子は十五歳――中学生かも知れない。だが考えてみろ、俺だってまだまだ若い。年齢が一回り以上違う夫婦はこの世に大勢存在する。いや――世の中は世の中であって、俺は俺だ。かのフェンリルと対峙する前、俺はシロに胸をときめかせたか? いやさ、違う! 違うだろう、横島忠夫!」
「ちょっと――あの、シロ?」
「いつものご病気で御座る故、暫く放っておけば発作も治まる」

 何処か赤い顔のまま、疲れたような顔で言うシロの言葉に従ってみると、果たして横島は三十秒ほどでけろりと復活したのであるが。その際に発せられた、「俺は真理に目覚めたかも知れない」という言葉の意味は、いまいち和美にはわからなかった。

「なるほど、先生と生徒が喧嘩ねえ――麻帆良学園って言ったらそこそこの名門だろうに、そんな時代外れのスケバンみたいな奴が、お前らのクラスには居るのか?」
「そう言うわけでは御座らぬ。ただ――」
「まあ、シロみたいなタイプにはそう言うのは難しい話だよな。なあ、和美ちゃん――こいつって一度走り出すとブレーキ効かなくなるタイプだから、悪いけどフォローしてやってくれな」
「え、あ、はい」

 和美は自然と頷いた。
 当然、シロは不満そうに頬を膨らませる。その仕草を、和美は意外だと思う。シロは変わってはいるが、もう少し大人であるように思えていたからだ。まるで幼い子供のような仕草に――彼女と、この横島という男との間にある絆の深さが、自然と感じ取れる。

「――俺にはそう言う経験は無いから、何も言ってやれなくて悪いと思うが――いや、あるか? ある時は身体測定、ある時は体育の着替え、ある時は修学旅行の風呂――女子の柔肌という桃源郷を目指さんとする俺の前には、いつも教師という名の至高の敵が立ちふさがっていた」

 腕を組んでそんなことを言う横島に、和美は吹き出しそうになった。当然彼女はその言葉を、少々過激な冗談と受け取ったのであって――シロはと言えば、冷たい目線を彼に向けていた。

「でもま、結局卒業式には、俺とあの先生、抱き合って泣いたっけ。いやあ、男に抱きつかれて感激するような、気持ちの悪い趣味は持ってねえつもりだったんだけどな――元気にしてっかな、あの先生は」
「つまり横島さんは――いがみ合っていても、結局最後には仲良くなれるって、そう言いたいんですか? ええと、雨降って地固まる――みたいな」
「いやまあ、はっきり言えば俺もあの先生も、馬鹿のつく単純な男だったからさ。いくらなんでも話に出てきてる先生と生徒が、あの時の俺と先生程馬鹿だとはとても思えんし」

 ひらひらと手を振りながら言う横島に、和美はおかしそうに笑う。既に横島と和美の間には、少なくとも緊張を感じるような壁は存在していなかった。
 シロはそんな二人の様子を、苦笑混じりの目線で見つめ――そんな時、横島の携帯が鳴った。

「ああ、ちょっとすまん――もしもし、横島です――何だ親父か? ああ、わかったわかった。何でゴザイマショウ、横島取締役――何?――ああ、ヨーロッパのファンドの――何だって!?」

 突然に大声を上げた横島に、和美は思わず体を硬くする。それに気づいたのか、客の目線の方に気づいたのか、横島は声の大きさを落とし――だが、鋭い調子のままで続けた。

「嫌な予感はこいつだったか! 何のことだって――馬鹿野郎! 耄碌するにはまだ早えぞ親父! こいつは連中の金融攻撃だ!――そう、つまりは劣化番の大蔵省攻撃だよ! こうしちゃいられねえ――ああ、多分そいつはおとりだぞ――ああ――ああ、わかった。俺も今からそっちに行くから――うん、後でな」

 横島は携帯をたたむと、テーブルの上に五千円札を一枚置いて、シロの方に顔を向けた。

「すまん、仕事でちょっと厄介な事になった。多分今夜は帰って来れないから、夕食はあげはと二人で食ってくれ」
「――承知いたした。先生――お気をつけて」

 車椅子とは思えない速さで店を出て行く横島に、シロは小さく手を振った。
 和美はと言えば、突然の目の前の出来事に脳の処理が着いていかず、半分口を空けたまま、その様子を唖然と見送るしかなかった。

 果たしてこの時――シロは礼儀として、エヴァンジェリンの名前も、ネギの事も口には出さなかった。
 横島は横島で、まさかシロの話題に出てきた人物が、自分が昨日出会った“お姫様のような少女”であることなど、知るよしもない。
 彼らの運命の糸は、未だに交差しないまま、しかし複雑な螺旋を描き始める――



[7033] 麻帆良学園都市の日々・「悪者」の辿る道
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/08 16:44
 ――ここで少し――時間を遡る。
 桜通りは、麻帆良学園本校にほど近い場所にある、文字通り街路樹に桜が植えられた通りである。春――この季節ともなれば、満開となった桜が、淡いうす桃色のアーチを形成し、そこを通る人々の目を楽しませてくれる、そんな場所であるが――
 そのような美しく、心安らぐ場所に、場違いな噂が流れ始めたのは、今年の春先の事だった。もっとも、その噂とは曰く、満月の夜に桜通りを歩くと、吸血鬼が現れる――そんな、怪談と言うにも都市伝説と言うにも足りないような、たわいもないものであったけれども。
 しかし果たして、桜通りは先に述べたとおり、この麻帆良学園都市の中核を成す、麻帆良学園本校に近接している。このご時世に、夜に現れる不審人物の噂――そう、吸血鬼などという風に脚色されているが、桜通りに何か得体の知れないものが現れるということそのものは、確かに問題であると言えた。
 とは言うものの――結論から言ってしまえば、その様に事態を深刻に考えている人間は殆ど居ないと言って良い。一昔前に流行った、切れると願いが叶うという腕飾りや、あるいは大昔に流行った、自分の所に届くと数人に出さねば不幸になると言う手紙や――学生のうわさ話の信憑性とはその程度のものであり、ましてやここは麻帆良学園都市――学生が作り上げる特異な国家である。
 埼玉県警麻帆良署にも、桜通りに関する不審な情報などは寄せられておらず。学生や教師の有志によって構成される麻帆良自警団が通り一遍の調査を行った事はあるが、その際にも特に不審なものは見つからなかった。
 そして桜通りが、文字通り淡い桜色に染め上げられる時期には、桜通りに現れるというその吸血鬼の噂は、麻帆良学園本校の生徒達の会話に、思い出したように顔を覗かせる程になっていた。
 しかしそのたわいもない話を、まさに桜通りを通っている最中に思い出し、闇夜に揺れる夜桜の美しさに、言いしれない不安を覚えた者もいる。
 そしてそのうわさ話を、取るに足りない四方山話として聞き流す事の出来ない生真面目な――もはや風変わりと言っても差し支えないほどに生真面目な人間も、この麻帆良学園には存在していた。
 麻帆良学園本校女子中等部三年A組担任――僅か十歳にして英語教師という役職に就く英国紳士の卵、ネギ・スプリングフィールドもまた、そう言った希有な人間の一人であった。

「――あなたは――」

 そして、本来なら笑い飛ばされても然るべき――杞憂と言い換えられるべきだったその不安感は、現実の物となって彼の前に姿を現す。
 エヴァンジェリン・A・Kマクダウェル――ネギ・スプリングフィールドの前に現れた、一人の少女。紛れもなく、彼の教え子である三年A組の一員であった。




「いい夜だな、ネギ先生」
「エヴァンジェリンさん?」
「……エヴァちゃん?」

 まるで夜の闇の中から切り取ったような、漆黒の外套を羽織り、その下には、見た目に不相応な妖艶な装いを身に纏って、金髪の少女はネギ・スプリングフィールドと――彼の生徒である、宮崎のどかの前に現れた。
 彼女は、西欧からの留学生であり、普通ならばクラスで目立つ存在の筈である。けれど、幸か不幸か、我らが三年A組は、“その程度”の下地が目を引く事が出来るクラスではなかった。果たして自己主張をしているのかと勘違いするほどに強力な個性を纏った少女達の中で――普通なら目立つはずの彼女の存在は、とりわけ目を引く者ではなかったのである。
 さりとて、同じクラスで勉学を共にする仲間のこと。彼女の姿自体は、ネギにとってものどかにとっても見慣れたものだった。
 いや――見慣れたものであるはずだった、と言うべきか。
 今目の前に立つ少女が纏う空気は、いつもの彼女とは明らかに違うものだった。
 何が違う、と言われても、それは二人には応えられない。ただ、空気が硬さを帯びて肌に突き刺さり、呼吸さえも忘れさせてしまう――たとえるなら、得体の知れない、それも恐ろしいものを目の前にしたような錯覚が、ネギとのどかを襲った。

「エヴァンジェリンさん、夜更かしはいけませんよ。こんな所で何をしていたんです?」
「どうもその言葉には説得力というものが欠けているな、ネギ先生――何、夜桜に誘われてふらりと出てきただけだ。桜は良い。月夜に照らされたこの姿を見てみろ。底冷えがするほどに美しい。かつてこの国の文豪は、桜の下には死体が埋まっていて、その血肉を花に変えて咲き誇る桜は、だから美しい等と言ったらしいが――あながちその様な趣味の悪い冗談さえ真実ではないかと――そう信じてしまいそうだ」

 一陣の風が吹き、桜の花弁が辺り一面に舞い踊る。
 ネギは息を呑んだ。桜の美しさにではなく――宵闇の中、淡い桜色と月の光に照らされた目の前の少女が、あまりにも自分とかけ離れた――どうやっても手の届かない、その様な存在に感じられたからだ。

「……そうですね」

 それでもネギはどうにか、喉の奥から声を絞り出した。

「僕もこの国に来て、初めての春を迎えて――なんて綺麗な花がこの国にはあるんだろうと、そう思いました」
「ネギ先生は桜を見たことが無かったの?」
「もちろん写真やテレビではありましたが、ウェールズには縁のないものでしたし」

 隣に立つのどかの問いに、ネギは首を振って応える。すぐに彼はエヴァンジェリンに向き直り、彼女に言った。

「桜が綺麗なのは僕も同感ですが、あまりこんな時間に出歩かないでください。知っているでしょう? 桜通に最近、不審な誰かが現れるという噂があることを」
「ほう、それはひょっとすると、“桜通りの吸血鬼”というそれか?」

 エヴァンジェリンの言葉に、隣に立つのどかが体を硬くする。心なしかその表情を見て、エヴァンジェリンの口の端が、僅かにつり上がったように、ネギには感じられた。彼は小さく頷く。

「現れるのが吸血鬼かどうかはともかく――教師として、夜間に生徒が外出することを好ましいとは思いません。何も用事が無ければ、早く帰った方が――」
「その心配はないよ、ネギ先生」
「え?」
「何故なら――その“桜通りの吸血鬼”というのは、他ならぬ私の事だから――と言ったら、ネギ先生はどうする?」

 エヴァンジェリンは、マントの中から右腕を差し出すと、天に向かって掲げた。月明かりが妙に明るいこの宵闇の中で、漆黒のマントから伸ばされたその腕は、驚くほどに白い。
 果たしてその伸ばされた指先が――小気味の良い音を立てて鳴らされた時、ネギの隣に立っていたのどかは、まるで糸の断ち切られた操り人形のように、地面に倒れ伏す。

「宮崎さん!?」
「心配するな。危害は加えていない」

 ネギは視界の端に、小さな蝙蝠が飛んでいるのを見た。闇にとけ込むようなその姿は、満月の光と桜吹雪を少しずつ切り取りながら飛んでいき――やがて、エヴァンジェリンの纏う外套に、吸い込まれるように消えてしまった。

「ただ、そいつが居ると何かと不都合も多いのでな、少々幕から外れて貰う事にした。なかなか美味そうな血の持ち主ではあったが――今夜のメインディッシュが自分から私の前に現れてくれた以上、もはやその女に用はない」
「まさかこれはあなたが――何故こんな事をするんですか、エヴァンジェリンさん!」
「ネギ先生はもう少し、自分の置かれた立場と言う者を自覚するべきだ」

 はっと気づいた時、自分の目の前には、淡い燐光を放つ不思議な液体が収まったフラスコが舞っていた。慌てて杖を構え、口を開こうとするが――それよりも、相手の方が遥かに早い。

「氷結武装解除――フリーゲランス・エクサルマティオー――」

 エヴァンジェリンの小さな呟きと共に、ネギの目の前でそのフラスコが爆ぜ飛んだ。外気に触れた液体は凄まじい速度で周囲に広がり、その周辺では、何かが月の光を反射してきらきらと輝く。
 それは、凍り付いた空気中の水分。エヴァンジェリンの唱えた言葉は、ただの呟きではなく“魔法”――世界を形作る要素に訴えかけ、奇跡を起こす秘匿された技術の、その一端――その奇跡を、己の意志の下に制御するための言葉、果たして“呪文”と呼ばれる一種の祝詞であった。
 果たして指向性を持って解放させられた奇跡の力は、巻き込んだあらゆるものを凍り付かせていく。“氷結武装解除”は、敵の武装を凍り付かせることによって相手を無力化する、戦いのために特化された魔法の一つであった。
 その周辺を舞い踊っていた桜の花弁が、凍り付いて雪のように煌めき舞い散る中、エヴァンジェリンは――小さく笑った。

「驚いたぞ。ろくすっぽ呪文も唱えずに、己の魔力のみを圧縮して盾とし、武装解除を受け流したのか?」

 桜色の雪の中から現れたのは、身の丈を超える杖を構え、荒く肩で息をするネギの姿だった。彼だけでなく、隣に倒れ伏す宮崎のどかまでを、魔法とも言えない純粋な力の塊で守りきったのだろう。そんなことをせずとも、彼女はのどかにまで危害を加える気は無かったが――もちろん、そんなことを弁解する必要など無い。何せ――

「エヴァンジェリンさん! 何故魔法使いであるあなたが、こんな事をするんですか!」
「ふん――私はな、ネギ先生。“悪の魔法使い”を自負している。ならば、悪事を働くのは当然の事だろう?」

 魔法使いである事と、このような行為に及ぶことを、関連づけて問う――
 そのような、冷静に考えれば意味の通らない問いかけを、こちらにぶつけてくる相手だ。わざわざ、彼の納得するような答えを返してやる必要はない。
 もっとも自分が何を言ったところで、今の彼は聞く耳を持たないだろう。だが――だからこそ、楽しめる。

「まあ、今夜は良い夜だ。教えてやろう。私は魔法使いである前に、真祖の吸血鬼でもある。だから、人間の血を狙う。こんな事を先生に言っても仕方なかろうが、その中でも処女の生き血はこたえられんよ」
「まさか――桜通りに現れる吸血鬼というのは、貴女のことなのですか!」
「最初にそう言ったじゃないか。ネギ先生、先生であるなら、人の言葉はきちんと聞かなければいけない」

 エヴァンジェリンはそう言って、顔を上げた。ネギが怪訝な顔をすると、彼女は彼の方にもう一度顔を向け、妖艶に笑った。

「どうやら、招かれざる客がこちらに向かっているらしい。神楽坂明日菜に、近衛木乃香――まったく、空気の読めん奴は最近では嫌われるというのにな」
「く――エヴァンジェリンさん!」
「ネギ先生――ネギ・スプリングフィールド。貴様とは色々と話したい事があるが、こんな場所ではどうやらそれもままならんらしい。貴様の方にも私に何か言いたいことがあるなら、場所を変えよう。ついてこい」

 エヴァンジェリンが、軽く地面を蹴った。大した力が籠もっていたようにも見えなかったその跳躍で、漆黒の外套に包まれた体は軽々と舞い上がり――桜並木の向こうに消える。
 ネギはその様子を見て、慌ててその場を駆け出そうとしたが、足下に倒れ伏すのどかの事を思い出して、歯噛みして足を止めた。

「ネギーっ! 今こっちで凄い音が――って、のどかっ!?」
「はぁ、はぁ――ネギくん、のどかに何かあったん?」

 ややあって、エヴァンジェリンが告げたとおりに駆け寄ってきた二人の少女は――息を切らせながらも、ネギの足下に横たわるクラスメイトの姿に驚愕する。明日菜は思わずネギにつかみかかり、木乃香は慌てて電話で救急車を呼ぼうとする。

「大丈夫です。のどかさんは――無事です」

 二人が駆け寄ってくるまでの間に、のどかがただ気を失っているだけであるらしいという事を確認したネギは、木乃香をひとまず落ち着かせる為にそう言った。

「明日菜さん、木乃香さん――宮崎さんをお願いできますか? 桜通りの吸血鬼――そう呼ばれている者が現れました。僕は今から、その相手を追います」




「呪文始動――風精召喚・剣を執る戦友――捕らえよ――ラス・テル・マ・スキル・マギステル――エウォカーティオ・ワルキュリアールム・コントゥヴェルナーリア・グラディアーリア――アゲ・カピアント――!!」

 視界の先――満月を切り取るように存在する漆黒の影を校舎の屋根に認めたネギは、己の意志を呪文に込め――“魔法”を発動させる。彼の回りにある大気が渦を巻き、ややあってそれは陽炎のように景色を歪める。果たしてその歪んだ景色の中から、ネギと同じ姿をした何かが飛び出してきた。その数、八人。
 杖に乗って尋常ならざる速度で飛んできたその勢いのまま――八人のネギ・スプリングフィールドは、校舎の屋上に立つ漆黒の影に襲いかかる。

「氷爆――ニウィス・カースス――」

 しかしその殆どは、エヴァンジェリンが一言呟くと同時に、真っ白な霧に包まれて消滅する。風に吹き流される霧が、きらきらと月の光を浴びて輝く。ダイヤモンドダスト――空気中の水分が凍り付いた結晶。彼女の言葉は、全てを凍てつかせる純白の嵐となって、ネギの“魔法”を迎撃した。
 しかし、ネギ・スプリングフィールドは、本国で英雄の息子と言われ――“天才”の名を恣にする少年である。多少の不器用さを考慮に入れても、その能力は、優れている、の言葉を通り越して、空恐ろしい。
 視界が歪む程の強烈な加速の中で、彼の瞳はしっかりと、魔法を打ち落としたエヴァンジェリン自身を見据える。

「風花・武装解除――フランス・エクサルマティオー――!!」

 ダイヤモンドダストが肌に突き刺さるのを感じながらも、それを吹き飛ばし――ネギは、霧を突き抜けた瞬間に、目の前に現れたエヴァンジェリンに向かって、次なる呪文を放つ。ネギの言霊が込められた、魔力を含んだ暴風が、エヴァンジェリンに向かって吹き荒れる。
手で顔を庇っても、何の意味もない。一瞬にしてエヴァンジェリンが身に纏っていた外套と衣服――そこに仕込まれていた魔法を使うための道具が、砂が吹き散らされるように風の中に解けて消えた。

「……なかなかやるじゃないか、ネギ・スプリングフィールド。多少、貴様のことを侮っていた」

 暴風が過ぎ去り、僅かばかりの下着を残して裸にされたエヴァンジェリンは、小さくため息をついて、体に張り付いていた服のなれの果てを払い落とす。

「やれやれ、安くない服だと言うのに派手にやってくれたものだ。しかし下着は残したのは、紳士としての礼儀か? だとすれば随分と甘いじゃないか。女性には色々と奥の手がある――それを身を以て教えてやろうか?」
「結構です!」

 顔を赤くして――しかし、状況が状況だけに、目の前の少女から目線を外す事も出来ず、ネギは喚いた。

「み、見たところ貴女は、魔法の発動に媒介を必要とするようですね。ですがもはや、その媒介はありません。理由はわかりませんが、真祖の吸血鬼でありながら、あなたの体から感じられる魔力は、かなり少ない。今更僕と戦っても、勝ち目はありませんよ」
「それをして油断だと言うんだよ、ネギ・スプリングフィールド。私が自分で魔力を押さえているのでないと、何故わかる?」
「――確かにそうかも知れませんが、あなたは僕に話したいことがあると言った。もしあなたが、吸血鬼という人外の種族が持つ力を存分に使えると言うのなら――こんな回りくどいやり方は取らなかったように思うのです」

 そう、あの悪魔たちのように――ネギは、内心で呟いた。
 吸血鬼と言えば、人間を遥かに超える力の持ち主である。ネギがいくら魔法使いの間で天才と言われていようが、真正面からやりあうことに躊躇いは無かろう。桜通りに不穏な噂を流し、ネギが現れるのを待つ――人外の化け物は大概狡猾であるが、彼らに対する“狡猾”という言葉と、エヴァンジェリンの行動は――何処かずれているような気がした。
 例えば表の世界をも揺るがせた魔神――恐怖公アシュタロス。ネギはその事件、かの魔神の侵攻が起こった折には、あまりに幼くて、実感としてその事件を体験していない。しかし資料で見た魔神は、悪虐で狡猾ではあったが――それ故に、自分の力と、その使い時を知っていた。
 ネギの原初の記憶にある――あの恐ろしい悪魔達が、そうであったように――

「ともかく、貴女は僕に話したい事があると言った。ならば、話してください。貴女が話したいことというのを」
「大事なことを話してやろうと待ちかまえていた相手に対して、いきなり魔法を撃ったのは何処の誰だ?」
「あれは――ただ、貴女を捕まえようとしただけで――」
「まあ、揚げ足を取っても始まらんな。だがネギ先生――油断は良くないと言ったのは、貴様のためを思っての事だぞ?」

 その刹那、ネギの足首が何者かに掴まれた。はっとして足元を見ると、影の中から現れた細い腕が、彼の足首を掴んでいる。

「確かに貴様の言うとおり、今の私に操れる魔力の量など、たかが知れている。しかし人間とそれほど変わらない魔力であったとしても、その使い方さえ考えれば、この程度の事は出来るのだよ」

 影の中から現れた腕は、ネギの体を手がかりにするように、ゆっくりと影からその姿を現していく。緑色のつややかな頭髪が現れ、濃紺のエプロンドレスに包まれた華奢な体が現れ――そうやってネギの体を完全に抱え込む体勢となった彼女は、ネギの良く知る人物であった。

「……絡繰さん!」
「はい。三年A組出席番号十番、絡繰茶々丸です――ああ、犬塚さんが割り込んだので、十一番になりましたが」
「そして私の“魔法使いの従者”でもある――絡繰茶々丸だ」

 魔法使いの従者――戦場において、主である魔法使いを敵の攻撃から守る戦士。
 魔法とは、世界や自身に満ちる様々な力を、強固な意志でもって制御し、奇跡として顕現させる古の技術。そして制御された力に、最終的に指向性を持たせて発動させるための“鍵”が、呪文である。
 呪文がなければ、押さえ込まれた強大な力は行き場を無くして暴発する。つまり、魔法は失敗する。
 言い換えれば、どのような強力な魔法であっても、それを唱える魔法使いであっても、呪文を唱え、魔法を完成させるまでの間の時間は、完全に何も出来なくなる。その無防備な時間を補う役目を与えられたのが、“魔法使いの従者”と言われる存在であった。
 魔法そのものが隠匿された技術であるので、その存在を知る人間はあまり多くない。ただオカルトに興味を持つ人間なら、日本屈指の黒魔術師として知られる小笠原エミの戦闘スタイルが、これに近いものである――などと、得意げに語るかも知れない。
 もちろん今のネギに、その様なことを言っても仕方がないのだが――

「とはいえ、魔法使いの従者というのは、主と強力な信頼関係で結ばれた存在。とはいえ、今ではもはや恋人探しの言い訳にすら使われる事があるというのが、現状であるらしいが――だが、そう言うものが生まれた背景には、それなりの理由がある。つまり、今の貴様のような状態を想定しての事だ」

 また一つ賢くなったな、ネギ先生――エヴァンジェリンはそう言って笑った。
 その愉快そうな笑みは――果たしてすぐに、背筋が凍るような冷たいものへと変わる。

「では、月夜の語らいと洒落込もうではないか、ネギ・スプリングフィールド――」

 犬塚シロが、エヴァンジェリンが抱える出口のない問いに頭を悩ませる、その前日の夜に起こった出来事である。




 果たしてその後、エヴァンジェリンは自らに掛けられた呪いを解くために、ネギの血を欲している事を彼に告げた。結局それが遂げられる――具体的には吸血行為の末、ネギが失血死するという自体は、明日菜の突然の乱入によって避けられたと言うが――その恐怖が未だ尾を引きずった挙げ句が、今朝の醜態らしい。
 犬塚シロには、彼を責めるつもりはない。
 未だ彼の纏めるクラスの一員となって二日目であるが、時々彼女はネギがまだ十歳の少年であると言うことを忘れそうになることが、しばしばある。それくらいに彼はしっかりしている。子供は大人が考える程に子供ではない――色々な意味で歪な少女時代を過ごしているシロは、その程度の事はわかっているが、そう言うものにも限度がある。
 ネギは色々な意味で純粋だ。そして、強い。その上、更に高みを目指そうと、己を研鑽している。
 普通の子供が将来の夢に思いを馳せ、新鮮な毎日を楽しんでいる時に、ネギは一人、血を吐くような思いで己を強くしようと頑張ってきた。己を磨き上げ、高みを目指す事を至高の喜びとする侍――それを自負する彼女には、その考え方はわからなくもない。
 けれど――みっともなく喚くあの姿が、不意に顔を見せた彼の素顔ではないかと思ってしまった。そうネギはまだ、守られるべき存在だ。回りの人間がかれを守り育ててこそ、彼の純粋な人柄は、より大きく強く成長する。
 全く、イギリスの魔法学校とやらは、何をそんなに彼の尻を叩いているのだろうか?
 そう言えばイギリスと言えば、自分が良く行くレストランのオーナーも、そこで魔法を学んだと言っていた。魔法が広く、人を豊かにする技術であると考え、魔法の隠匿をよしとせず、果たしてネギ達が所属する魔法の世界とは、別の世界に一人その身を置く女性――彼女ならばあるいは、と、シロは考えてみたが――

(ま、それは最後の手段で御座ろうな)

 本当に最後の手段は彼女のかつての上司に泣きついてみることだが――その後の事を考えて、シロは身震いした。一応“彼女”の弁護のために、彼女も何も鬼ではないと付け加えておくが――そう言えば、彼女はその“鬼”を下したこともあったと聞いたような――
 頭を振ってそれを忘れると、シロは一つ、小さくため息をつく。

(それよりも――エヴァンジェリン殿で御座るな)

 彼女の脳裏に、昼間、エヴァンジェリンから投げかけられた言葉が蘇る。

『貴様は――ナギ・スプリングフィールドという名前を知っているか?』
『申し訳ないが拙者、魔法の世界には無知であるが故に――しかしその御名前、ネギ先生と似ているで御座るな』
『そうだ。ナギ・スプリングフィールドは、魔法使いの英雄にして、ネギ・スプリングフィールドの実の父だ』

 彼女はそう言って、透き通ったアイスブルーの瞳で、シロの赤みがかった黒い瞳を見据えた。

『私はかつて、魔法使いの世界では恐れられた賞金首だった。その多くは、我が身に降りかかる火の粉を振り払っただけだと言っても――果たして私は、悪の魔法使いを自負している。その事に対してもはや言い訳はすまい。私は悪の魔法使いとして、宵闇の中で生きていく事を心に誓っていた』
『――』
『何か言いたげな顔だな、犬塚シロ』
『いや――何でも御座らん』
『そんな私の心の世界に、土足で踏み込んできた人間がいた。それが、ナギ・スプリングフィールドだ』

 すうっと目を細めて――エヴァンジェリンは続けた。

『奴は私の内面を、さんざん踏み荒らした挙げ句に、私の目の前で扉を開いて見せた。私が必死に背を向けてきた世界を私に見せつけて、何でもないことのように、たまにはこっちに出てきたらどうだと、そう言った』
『その扉の向こうの世界というのが――この麻帆良学園であるのか』
『単純にそうではない』

 彼女は、小さく息を吐き――首を横に振った。

『奴は無茶な魔法を使って、私の力を押さえ込み――そして、この麻帆良学園に送り込んだ。もう一度普通の少女として生きてみれば、何か見えてくる物がある――果たしてこの学園を私が卒業する頃に、その答えを聞かせて貰うと、一方的にそう言ってな』
『拙者がエヴァンジェリン殿の匂いが、人間とそう変わらぬと感じたのは――そういう理由があっての事で御座ったか?』
『“登校地獄”等というふざけた呪いだ。学校に通い続けなければ、呪いの力が私の体を責めさいなむ』
『……聞けば愉快な呪いで御座るがなあ』

 苦笑を浮かべたシロであったが――エヴァンジェリンの表情をかいま見て、自分が地雷を踏んでしまったことを悟った。
 エヴァンジェリンの瞳に浮かんでいたのは――冷たく、しかし、相手を凍えさせるようなそれではなく――ひたすらにただ寒いと感じる、そんな色だった。

『この際だから言うが――私は、表面上は不服だと言いながらも、唐突に与えられたこの日常を楽しんでいた。宵闇の中を生きてきた私には、確かにこの世界は新鮮だった。その光はとてもまぶしくて目にしみたけれども、毎日訪れるその鮮烈な色彩は、私に喜びを与えてくれた。友人も出来た。時には意地を張ったりもする私を、優しく受け入れてくれる存在を、私は初めて知った』
『――』
『だが――三年が過ぎ、私の世界は一変した』

 エヴァンジェリンの口元に、自嘲的な笑みが浮かぶ。

『麻帆良学園本校中等部の卒業式――あの男は、私の前に現れなかった。何だ、お前が感想を聞かせてくれと言ったのに――私は肩すかしを食らったような気分だった。だが――そんなことはもはやどうでも良い。律儀に時間を守るような男ではない。それよりも、私は夢を見ているように過ぎ去った三年間に思いを馳せ――その翌日に、自分の浅慮を思い知った』
『何が――あったので御座るか?』
『……これからどうするべきかと、私は麻帆良の街を歩いていた。その時、たまたま出会った友人――友人であった者に、私は声を掛けたのだ。それはごく自然な事だった。昨日まで、進路の決まらぬ私を気遣ってくれた友人だ。無駄な会話でもしていれば気が晴れるかと――だが』

 彼女の表情は、金色の頭髪に隠れて見ることが出来なかった。

『その友人は――私のことを覚えていなかった』
『……何と』
『そいつは私のことを、初対面の子供のように扱った。つい昨日――私を抱え上げて、三年間の日々を思い返し、涙を浮かべていたそいつがな――それから後のことは良く覚えていない。私は呆然としたまま日々を過ごし――新年度が始まったその日に、麻帆良学園本校中等部――その新入生のリストの中に、自分の名前を見つけたとき、全てを理解したよ。つまりこの呪いは――まさしく“登校地獄”なのだと。それが、十二年前の事だ』
『……では、エヴァンジェリン殿は』
『ああ、もう十五年も、ここで無為な日々を過ごしていると言うわけだ』

 凍り付いたように、箸を持ったまま動きを止めたシロの顔を、下からのぞき込むようにして、エヴァンジェリンは続けた。

『私は言ったはずだ、犬塚シロ。私に関わっても愉快な事はないと――どうせこの学校を卒業すれば、貴様は私の事など忘れてしまうのだ。いやさ、覚えていた所でどうにもならんだろう。その時貴様がどういう顔で私の前に立つのか、見物だな。朝倉和美や雪広あやかを前に、私のことを何という?』
『――』
『もっと単純に、貴様ならこの呪いを掛けられてどう思う? いくら時間に対する概念が、貴様らとは違う私であっても、十五年は長かったぞ? そして、これから先も何もしなければ、私はただ繰り返される日々を消化していく。遠い未来に、ここに麻帆良という学舎があったことが過去の事となれば、どうなるかはわからんがな』
『それで、ネギ先生を襲ったので御座るか?』
『そうだ。言っておくが、腹いせと言うわけではない。奴のでたらめな呪いは普通にやっても解けるような代物ではないが――その根源になるのは、奴のでたらめな力だ。奴の息子であるネギ・スプリングフィールドの血には、その力に対する強い親和性がある。うまく使えば――呪いを解くことも、あるいは不可能では無かろう』

 シロは何も言い返せなかった。ただ強く、歯を食いしばる。
 エヴァンジェリンはそんなシロを暫く見つめ――ややあって、口を開いた。

『戯れに問うただけだ、犬塚シロ。顔を上げろ。私は誇り高き悪だ。弱い者虐めをするのは性に合わん』
『……』
『だが、少しはその足りない脳みそで考えてみたか? 私のやっていることは、確かに褒められたことではない。そうとも、私は悪だ。その事に何の引け目もない。今までの話は単に、バックグラウンドを貴様に聞かせてやっただけで、間違っても同情してもらおうなどとは考えていない』

 そのところを勘違いするな――と、エヴァンジェリンはシロに言った。
 その段になってやって来た茶々丸が、温かなお茶をエヴァンジェリンに手渡し、そしてそれをシロにも勧め――シロは生まれて初めて、食べかけの食事を残すと言う行動を取った。
 そして時間は流れ――彼女は、台所の窓からのぞく月を見上げている。
 背後の居間では、子供向けのアニメが流れるテレビを寝転がって見ているあげはが、やっぱりヨコシマが居ないとつまらないなどと呟いている。暗に、台所で夕食の支度をするシロに、早くしろと催促しているのかも知れない。

『私は滅ぼされて当然の悪党だ。だから私の現状は、こんな私への仕打ちとしては軽すぎるものだと言えるかも知れん。理由はどうあれ、私はネギ・スプリングフィールドの血を奪おうとした。その結果奴が死のうとも、別に構わんとそう思ってな。だからそれが正しい行動とは言えんだろうし、奴が怯えているのは間違いなく“私が悪い”せいだ』

 だがもう一度言う――と、エヴァンジェリンは、シロに問うた。

「少しはその足りない頭で考えてみたか――で、御座るか」
「シロ、それはひょっとしなくても、私に対して喧嘩を売っているんですか?」
「ああ――別にあげはに対して言ったわけでは御座らぬ。拙者、これでも少しは成長したと思っておったが、その実、先生と出会ったあの頃からどれほど成長できたものか――そういう事を感じたというだけで御座って」

 知らず、口からこぼれた言葉を拾ってしまったあげはが、居間からこちらを睨む。シロはそれを片手であしらいながら、首を横に振った。
 エヴァンジェリンは、己を悪の魔法使いであると言った。
 何だかんだと言いつつも、彼女の言葉が真実である保証はない。シロが自分の目的に対して、余計なちょっかいを出さない為に打った布石――なのかも知れない。
 仮にそれが真実であったとしても、彼女の内心などはシロには想像も付かない。登校地獄という呪いが本当だったとして、彼女が感じたという孤独感もまた、本当であるという保証は何処にもない。ひょっとするとこの十五年間、ネギの父に復讐する事だけを考えて生きてきたのかも知れないのだ。
 彼に対する当てつけに、彼の息子であるネギの血を吸い尽くしてやろうと、恐ろしい思考を紡いでいるのかも知れない。
 だが、シロは思う。
 何処までが本当かわからない、彼女の言葉の中で――間違いなく何かが、自分の心に触れた。

(これが、霊感に訴えるというもので御座るかな)

 横島にそれを聞けば、自分の師匠は何という返答をくれるだろうか? だが、折り悪く彼は、仕事の都合で今晩は不在だ。彼の慌てようからして、今電話を掛けたところで繋がるかどうかもわからない。
 シロは小さな吐息を吐いて、ガスコンロの火を落とした。

「さて、出来たで御座るよ――これあげは、いい加減机の上を綺麗にすることを覚えぬか。その様な状態であってはいつまでも、お主は夕餉にありつけんで御座るよ!」



[7033] 麻帆良学園都市の日々・見るべき場所、知るべき物
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/09 13:49
「ああ、ほら――これだよこれ。どっかで聞いたことのある名前だと思ってたんだ」

 モバイルパソコンの画面に映し出されたのは、一冊の雑誌。誰もが一度は聞いたことのある、世界で三千万人近い読者数を誇る、世界でもっとも有名な英字雑誌の一つ――その数年前の一冊であった。

「どうせなら全部訳してみるつもりだったけど――委員長なら楽勝でしょ。ちょっとここに書いてある事だけでも訳してくんない?」
「気楽そうに言いますわね」

 実に楽しそうな様子でこちらを振り返った麻帆良のパパラッチ――朝倉和美に対して、雪広あやかは、疲れた様子でため息をついた。何だかんだで彼女との付き合いは浅くない。何の因果か座席まで隣である――放課後になったというのに、自分の座席に一人残って、パソコンを操る和美の姿が気になり、声を掛けてみたのが運の尽きだった。
 ため息混じりに、あやかはパソコンの画面に映し出された雑誌――その英語で書かれた表紙の文字に目をやる。財閥の令嬢であり、幼い頃から英才教育を受けてきた彼女の語学力は、和美を含めて一般的な女子中学生のそれを大きく上回る。

「――オカルトGメン日本支部の英雄、ヨコシマタダオ――あら?」

 何処かで聞いたことのある名前だった。しかしあやかが逡巡するよりも早く、和美が解答を口に出す。

「シロちゃんの“保護者”だよ」
「犬塚さんの――この方が、ですか?」

 その雑誌の表紙には、こちらを振り返るように見る、見た目麗しい金髪の青年の姿が映っている。しかしそれは――

「しかしこの方は、どう見ても外国人ではないですか。横島忠夫という名前とは――」
「うん、知ってる。この人はね、ピエトロ・ド・ブラドー。ちょっと調べてみたんだけれど、今オカルトGメン――委員長はオカルトGメンって知ってる?」
「存じておりますわ。国際警察の一機構で、怪奇現象を専門に扱う部署だとか」
「さすがは委員長。そこの期待の新人らしいよ? 何でも核ジャック魔神の事件の時に、日本のゴーストスイーパーに混じって大活躍したんだって」

 あやかも、その事件の事は知っている。だが事件当時、彼女らはまだ小学生。魔神の行動は世界を驚愕させ、少なからぬ被害も出たとは言え――さすがに、世界中がかの魔神の放った怪奇現象に覆われ尽くしたわけではない。
 幼き日の彼女たちは、その事件を、何かとてつもなく恐ろしい物だと感じはしたものの――それは結局、テレビの中での出来事だった。

「実のところ、私が報道を目指そうと思ったきっかけが、あの事件だったりするんだけどね」
「そうなのですか?」
「うん――あたし達は、あの事件をテレビの中の事として、暢気に眺めてただけだった。けどあたしは、あの報道がとても恐ろしかった。常識を越えた魔神の出現――世界を焼き尽くせるだけの核兵器のジャック――それは確かに恐ろしいんだけど、もっと何て言うか――わけのわからない怖さみたいなものを、あの時のあたしは感じたの」

 和美は、パソコンの画面に映る金髪の青年を眺めながら、苦笑いを浮かべる。

「あたしはね、その時の恐怖が何なのかを知りたかった。自分が怖がっている物の正体が、どうしても知りたかった。知りたいと思ったその瞬間から――あたしの中で、世界が弾けた。気がついたら――」
「麻帆良のパパラッチが誕生していた――と、言うわけですか」

 あやかは苦笑し、再びパソコンの画面に目をやる。

「それで、そんな事件で活躍したというこのお方が、犬塚さんの保護者と何か関係があるんですか?」
「それなんだけどさ、委員長、その下の細かい文字を訳してくんない? ニュアンスくらいはわかるんだけど、あたしじゃすぐには――」
「……魔神アシュタロスの陣営に、単身乗り込み生還した奇跡の男――と」
「この写真なんだけどさ、どうも、マスコミの人が間違って撮っていったみたいなのよね。それで何でか知らないけど――それがそのまま、この雑誌の表紙を飾っちゃった、って」
「……まさかそんな、そこまでいい加減な事があり得るのですか?」

 その辺の事は良くわからないけれど、この当時の情報を少し探ってみると――信じがたい事に、どうやらそれが事実らしいと、和美は言った。どうやら、横島忠夫という人物は、ピエトロというこの青年に比べれば目立たない男だったらしく、マスコミも奇跡の偉業を成し遂げた英雄が、まさか本当に平凡な青年だったとは思わなかった――

「とか、なんとか。まあ、実際このブラドーって人、その業界じゃあ、かなりの有名人らしいし。そう言うこともあって、間違えちゃったんじゃないの? マスコミに先入観って禁物だから、あたしとしては納得いかないけど」
「確かに、許される間違いではありませんね。しかし――これがどうかしたのですか?」
「いや、大したことじゃ無いんだけどね」

 和美は、タッチパネルをなぞっていたペンタブレットを置いて、あやかの方に向き直った。

「ほら、昨日シロちゃんが悩んでたっしょ。エヴァちゃんとの昼食会、アレが上手く行かなかった、って」
「そう言えば――全く、犬塚さんは優しすぎるところがありますからね。私たちとて、マクダウェルさんの事が気にならないわけでは無かったのですが――」
「そこがシロちゃんの魅力だよね。何て言うかあの子は、人の心の内側に入ってくるんだよ。気がついたら、心の片隅で笑ってんだよね。あたし――たかだか三日前にあの子と会ったばかりだって言うのに、もう何年も前から、あの子の知り合いだった気がするよ」

 苦笑しながら言う和美に、あやかは頷いて見せた。
 彼女とて、新しくクラスの一員となったあの犬塚シロという名の少女の事は、何も知らない。けれど、はたと気がついてみれば――彼女が側にいることに、自分は何の違和感も感じない。
 世渡りが上手いと言うのではない。誰からも好かれる性格だとか、そういうわかりやすいものではない。
 他人の心の垣根を、自然と乗り越えてしまう――良くも悪くも、それが犬塚シロという少女の長所なのだろうと、あやかは思う。時として、世界はその様な人間に優しくないかも知れない。けれど――彼女は新しい友人の幸せを、心から祈った。

「んでさ――この横島って人も、シロちゃんと同じような人間なんだよね」
「あら――朝倉さん、彼とお会いになったのですか?」
「ん、昨日の夕方に、駅前のマックでね。あたし暇してたから、シロちゃんが落ち込んでるの見て、ちょっと話でも聞いてやろうかって。そしたらそこでたまたま鉢合わせしてさ」
「どのようなお方だったのですか?」

 単純な興味から、あやかは和美に聞いた。和美は、机に置いたタブレットを手に取り、それを手の中でくるりと回す。

「面白い人だったよ。シロちゃんと同じで、一緒にいると楽しい感じ。ちょっと変わった人だったけどさ。でも――あれで目立たないって事も無いと思うかなって、そういう感じ」
「と、言いますと?」
「いや、こういう見た目で人を見るのは良くないんだろうけどさ――」

 その人、若いのに真っ白な髪に車椅子だったから、と、和美は苦笑した。もちろん、自分はそれを気にしているわけではないが、と、少し慌てて付け加えておく。あやかとしては、色々と問題のあるこの朝倉和美という友人であるが、それでも本質的に、些細なことで人を差別するような人間でないことは知っている。
 しかし確かに、見た目だけで言うならば、その姿は目を引くだろう。
 ましてやそんな人物が、恐ろしく強大で暴虐な魔神の陣営に、単身で乗り込み、人類にとって貴重な情報を持ち帰ったと言うのだ。
 何故その間違いは起こったのか? そして、その様に有名な事件であるのに、何故自分は、全く彼の名前を聞いたことが無かったのだろうか? あの事件をきっかけに、将来の道を決めたという和美ですら、彼のことを殆ど覚えてはいなかった。

「気になると言えば――いや、これもあんまり趣味がよくはないんだけどさ。横島さんって、どう考えてもシロちゃんの親戚じゃあ無いんだよね。ほら、歓迎パーティの時も、あたしが会ったときもそうだったけど、シロちゃん、彼のこと“先生”って言うんだよ」
「――確かにあまり趣味の良い興味ではありませんが――」
「単純に、何かの先生と生徒ってわけじゃないよね。そんな人が保護者代わりになるわけないもん。それに――」

 和美は、くるくると手の中で回していたタブレットの動きを、ぴたりと止める。

「シロちゃん、間違いなく横島さんの事が好きだと思うんだよね。こう、行動の端々に漂う仄かなラブ臭が」
「早乙女さんが乗り移ってますわよ、朝倉さん。そう言うことを言うなら、それこそその手の詮索はおやめなさいな。馬に蹴られても知りませんわよ」




「全くもう、やってらんないわよ」
「まあまあアスナ、そんなに怒ると体に良くないよって」

 しっとりと濡れた長い髪を、タオルで拭きながら、神楽坂明日菜は苛立ちを隠せない調子でそう言った。そんな彼女を見ながら、この寮――麻帆良学園本校女子中等部学生寮において、彼女と同室である近衛木乃香が、やんわりと彼女を窘める。
 もう夜の八時を過ぎてはいるが、もう一人の同居人――いつしか女子寮であるはずの彼女らの部屋に転がり込んできてしまった子供先生、ネギ・スプリングフィールドの姿は、今はここにはない。だからこそ明日菜は、こうやって好き放題に彼を悪く言っているわけだが。

「そりゃあね、私だって鬼じゃないもの。エヴァンジェリンがネギをこっぴどくいじめたってのなら、同情してやらなくもないわ」

 彼女は、ネギが教師としてこの学校にやってきて早々にトラブルに巻き込まれ、図らずも魔法の世界の事を知ってしまった。しかし同室の近衛木乃香は、その事を知らない。隠匿された魔法の世界には、その事を口外してはならないという定めがあり、罰則がある。本人の意志とは無関係にその事を強要されている明日菜は、目の前の親友に事の次第を打ち明けることも出来ない。
 それがまた、彼女の苛立ちを加速させる。

「あの子性格きつそうだし、ネギは普段気取ってても所詮ガキだし。そりが合わないってのもわかるわよ」
「明日菜、難しい喩えをちゃんと使えるんやなあ。ウチ、ちょっと安心したえ」
「……木乃香、私を何だと思ってるのよ」
「せやけど、明日菜、まだ馬鹿レンジャー言われても、否定出来へんのやろ?」

 この友人に、悪気などが一切無いのは明日菜も知っている。知っているからこそ、彼女の言葉は、明日菜の胸を深く抉る。

「……私の事はともかく、あの馬鹿の事よ。確かにあいつはまだ十歳だし、エヴァンジェリンと性格が合わないのも何となくわかる。でも、木乃香だって覚えてるでしょ? 二年の終わりに、私らが試験で学年最下位脱出しないと、ネギが先生辞めさせられるって言うあれ――」
「覚えとるえ。あの時の図書館島の秘境――もう一回行ってみたいんやけどなあ、あれからどうやっても場所がわからへんのよ」
「私はもう二度と勘弁して欲しいっての……ともかくあの時、ネギってばみっともなく駄々こねてたじゃない。先生やめたくない、って。つまり、あいつは自分の意志で先生やってんのよ。まだ十歳。本来出来る事じゃなくて、やめたって全然おかしいことじゃないのに」
「ウチは、ネギ君の事立派やと思うけどなあ」

 明日菜はテーブルに突っ伏し、小さく呻く。

「やろうとしてることは、そりゃあ立派だわよ。けど――あんな風にガキみたく喚くくらいなら、無理に先生らしく振る舞おうとするんじゃないっつうの」
「ふふっ……明日菜は優しいんやなあ」
「どーゆー意味よ。私は今、あのガキに対する文句を並べ立ててる最中だけど?」
「たまには子供らしく、ウチらに頼ればいいって、そう言いたいんやろ?」
「――違うわよ。あんなのに泣き付かれてホイホイ付き合うほど、私だって暇じゃないわ」

 木乃香は小さく笑う。テーブルに伏せられた明日菜の表情は窺うことが出来ないが、付き合いの長い彼女にそれを想像する事は難しくない。腕の隙間から見える頬が少し赤いのが、その証明になっている。
 全くこの親友は可愛らしい――木乃香は、そう思う。

「せやけど、ネギ君遅いなあ。晩ご飯にも帰って来へんかったし」

 木乃香はため息混じりに、キッチンに据えられた電子レンジの方を見る。そこにはラップにくるまれたネギの分の夕食が収まっていた。

「まあ心配する必要無いんじゃない?」

 心配そうに言う木乃香に対して、明日菜はひらひらと手を振ってみせる。

「今日の授業が終わった後に――今日の授業なんて、酷いもんだったじゃない? 楓とアキラがね、何だかネギを元気づけるイベントをやるって言って、あいつを引きずって行くの見たわよ」
「えー、そんなイベントあったん? 酷いわあ、ウチ、仲間外れやん」
「いや……水着がどうとか風呂場がどうとか言ってたから、私としては関わらない方が良いんじゃないかと思うけど」

 折り悪く――彼女の主観では折り悪く、雑用でその場に居なかった木乃香は、不服そうに頬を膨らませるが――このようなときに自分のクラスメイトが何をしでかすか、大体想像が付いてしまう明日菜は、げんなりした様子で呟いた。だからこそこうやって、大浴場には行かずに狭い部屋のシャワーで入浴を済ませたわけだが。
 大体、彼女らが自分のスタイルに自信を持っているのはわかるが――下手をすれば露出狂ではないか。願わくば、自分のクラスメイトが逆セクハラで捕まった――等という記事が、自分の配っている新聞の紙面を賑わせない事を願う。まあ、自分達はまだ十五歳で、ネギは十歳――

「ギリっギリでセーフかしら?」
「何がやね、明日菜?」
「何でもない。委員長辺りが、突っ走った挙げ句に警察の厄介にならなきゃいいなって話よ」
「考え過ぎやよ明日菜。委員長やって、ちゃんとその辺の節度は心得えとるよ……多分」

 お人好しという言葉を具現化したようなこの親友でさえも、最後に小さく付け加える辺り、雪広あやかという人物の人となりが知れると言うものである――もっとも彼女の名誉のために、詳細は伏せるけれども。

「そう言えば委員長と言えば、放課後に朝倉と一緒に何かやってたわね」
「あ、ウチ、教室に戻ってきたときにちょっと聞いたえ。ゴーストスイーパーの、横島忠夫さんって人について調べとったらしいんや」
「よこしまただお? 誰それ。有名な人なの?」
「ようわからへんけど、何でも何年か前に、悪魔が核ミサイルをのっとったー、ゆうニュースの時に活躍した人らしいえ。その人が、どうもシロちゃんの保護者や、ゆうて」
「犬塚さんの?」

 悪魔が核ミサイルを――という事件は、数年前に世間を騒がせた大事件だろう。しかし当時の麻帆良にはさしたる影響もなく、覚えていることと言えば、そのニュースを見た彼女の思い人――高畑・T・タカミチ教諭が、難しそうな顔をしていて、幼い日のアスナは、何だかそれが嫌だった――というくらいのことだ。
 大体にして、ゴーストスイーパー等という職業は、普通に生活していれば縁のないもの。華々しい活躍と共に、長者番付の上位に名を連ねる美神令子などの話を聞くと、苦学生である明日菜には思うところが無いでもないが――どちらかと言えば胡散臭い、そんなイメージが拭えない商売である。
 ゴーストスイーパーという職業が大成したのは、バブル時代の事。急激な発展がもたらした歪みが、あらゆる物を狂わせ――しかし、人々がそれに気づかずに、世界の闇を広げていった時代である。
 今やゴーストスイーパーと言う職業を聞いて、真っ先に連想される美神令子や小笠原エミと言った人物は、厳密には第二世代のゴーストスイーパーであるが――それでも、彼女たちはそう言う時代を目の当たりに育った人間である。
反面、経済学者達の言う“失われた十年”の頃にはまだこの世に生を受けていない明日菜達が、当時の混沌を想像することは難しい。
 ともすれば、体力仕事の高収入――その健脚を活かし、今時新聞配達に精を出す明日菜あたりならば、目を付けていてもおかしくはない業界であったが、今ひとつ彼女は、そう言う気にはなれなかったのだ。

「木乃香はオカルトとかわりと好きなのよね。前にゴーストスイーパーの雑誌とか買ってたことあるし」
「んー、あれなあ、いろんな霊能力者の話が読めるのは面白かったんやけど、半分以上がそう言う業界向けの本やったから――正直なところ、ウチみたいに趣味でオカルトに手を出しとる人間には、専門的すぎてあんまりわからへんのよ」
「へえ」

 明日菜は、洗面所からドライヤーを取ってきたが、頭髪の水分があまり取れていない事に気がついて、もう一度タオルでよく頭を拭く。亜麻色のつややかな髪の毛は、自分の密かな自慢でもあるが――時々手入れが面倒だと思ってしまう自分は、十五歳の乙女としては失格だろうかとも思う。

「それで、その“よこしま”さんって人は?」
「聞いて驚いたらあかんで、何でも、あの美神令子の事務所に所属しとったそうや」
「美神令子って言ったら――」

 オカルトに縁遠い明日菜ですら、その名前を耳にしたことは少なくない。まさに名前の通り、美の女神の寵愛を受けたかの如き抜群の容姿と、溢れんばかりの才能を併せ持つ、現代のゴーストスイーパーを代表する女性。
 自分には関係の無いことと思いつつも――新聞の長者番付をついついチェックしてしまう明日菜にとっては、思うところのある人物であった。そして先の話――核兵器をジャックし、世界を恐怖に陥れた魔神の侵攻――人類に打つ手無しと言われたその窮地を、仲間と共に打ち破ったのが、他ならぬ彼女である。
 近年ではかつてのように、露出の多い衣装に身を包んで派手な立ち振る舞いをすることは減ったと言うが――むしろ落ち着いた大人の色気を醸し出すようになった彼女には、オカルトに全く縁のないファンも多い。
 そんな場所に所属していたという、シロの保護者――アスナの脳裏に、スーツをラフに着こなした、何処かのホストのような男が浮かぶ。

「渋さが足りないわね、趣味じゃないわ」
「明日菜、明日菜。勝手に友達の身内を妄想して、失礼な事言うたらあかんえ」
「は――ご、ごめん。ついね、つい。でも、何で朝倉と委員長が、犬塚さんの保護者を調べてるわけ? 朝倉のパパラッチは今に始まった事じゃないにせよ、委員長にそういう趣味は無かったと思うんだけど」
「何や、朝倉さん、シロちゃんとマクドに行った時に、その人に会った――ゆうてたえ」

 会った――? と、明日菜は瞬きする。

「何や、不思議な感じのする人や言うてたけど――面白い人やとも。ええなあ、うちも一度、会うてみたいわ」
「ふうん……まあ、犬塚さんが良いって言うなら、会わせて貰っても良いんじゃない? あの子、そう言うお願いだったら喜んで聞いてくれそうだし」
「どやろなあ、朝倉さんの話やと、シロちゃんは横島さんにラブラブらしからなあ」
「え? マジ?」

 思わず木乃香の言葉に、明日菜は顔を上げる。何だかんだと言っても彼女も十五歳の少女。色恋沙汰への興味は、人並み以上にある。
 明日菜は、犬塚シロという少女とは仲良くなりたいと思っていた。もともと明日菜はそういう性格である。多少直情的すぎる所はあるが、基本的にお人好しで情に厚い。けれど、シロが転校してきてからまだ三日目――先陣を切って話しかけた“麻帆良のパパラッチ”や、たまたま彼女の隣の席であるあやかなどは、それなりに彼女と仲良くなれたようだったが、明日菜はと言えば――今朝方、シロの家に下宿していると言う少女と共に、彼女に僅かばかり言葉を交わしただけだった。
 ――しかも、米俵の如くネギを抱え上げた状態で。しかも口をついて出てきたことと言えば、彼への愚痴だった。

「あー、もー、絶対変な奴だって思われたよー」

 それを思い出し、明日菜の頭は再びテーブルに沈む。

「大丈夫やて明日菜、犬塚さん、そう言うこと気にする人には見えへんかったし」
「そりゃまあ確かにそうなんだけどさ」
「それに――今更やしな」

 木乃香は、何故か明日菜から目線を逸らしてぽつりと呟いた。

「……ねえ、木乃香――私たちって、親友よね?」
「何言うてるん、当たり前やないの。それとも明日菜は、ウチの事が信用出来へんの?」
「それならいいんだけど」
「せやせや。明日菜に嫌われてもうたら、ウチ、悲しゅうて生きていけへんわ」

 明日菜は思う。目の前で泣き真似をする、一見おっとりとしたこの友人――実のところ、底が知れない、と。
 彼女は何だか複雑な気分になって、木乃香に声を掛けようと――

「すいません! 遅くなりました!」

 部屋のドアが勢いよく開かれ、息を切らせたネギが入ってきたのは、まさにその時だった。相変わらずの傍若無人振り――しかも本人に自覚はない――に、明日菜は小さく舌打ちしてしまう。
 木乃香は立ち上がり様、そんな明日菜を軽く窘めると、ネギの分の夕食を温め直す為に、キッチンに向かう。

「随分遅かったじゃないの。教え子はべらせて、大浴場で水遊びでもしてたわけ? キョーイクイインカイに訴えてやろうかしら」
「いえ、どちらかと言えば連れ去られたのは僕の方で――それに、あれは水遊びというか何というか――」

 顔を引きつらせながら言うネギに、明日菜は浴場で起こった出来事を大体把握したが、もちろん口には出さない。

「まったくここの管理も甘いわね。お風呂で遊ぶなって叱られた事無いのかしら、あいつらは」
「まあまあ、明日菜。みんなかて、ネギ君を元気づけようとしてやった事やろ? ネギ君、すぐにご飯あったまるから、もうちょい待ってえな」
「あ、はい。すいません、わざわざ」

 呼吸を整えて、ネギは明日菜の前――空いていたクッションの上に腰を下ろす。
 その時になって――明日菜は気がついた。ネギの肩に乗っている、白い何かに。

「ちょっと、ネギ、それ――」
「何やの――うわ! ちょお、待ってえな、この子めちゃめちゃかわいー!!」

 彼女が何かを言うより先に、木乃香がネギを押し倒す勢いで、肩の上に乗る“それ”に身を寄せる。長い尻尾を持つ、白い体毛に包まれた、細長い体を持つ動物――

「あ、しょ、紹介します。僕の友達で、オコジョよう――んんっ! オコジョの、アルベール・カモミール君です」

 ネギはなにやら大きく咳払いする。またぞろ口を滑らせ掛けたのだろう、いい加減、明日菜にはこの少年の行動という物がだんだんわかるようになってきていた。ともかく、ネギの言葉に応えるように、彼の肩に乗った白い動物――白い毛皮のオコジョが、小さく前足を上げるような仕草を取った。




 麻帆良市郊外の山中――しかし、中心部からそれほど離れていない場所。不動産業者がうたい文句を付けるならば、自然に囲まれた――などと吹聴すること請け合いの場所に、まさにその様なイメージに相応しい、丸太作りのログハウスが建っている。
 外見から想像されるとおりの、可愛らしくも落ち着いた雰囲気を持ったそのログハウスの中で、一人の少女がティーカップを傾けていた。

「マスター、宜しかったのですか?」
「何がだ」

 濃紺の給仕服を身に纏う、緑色の長髪を持った少女に、彼女――エヴァンジェリンは、けだるそうに応えた。

「放課後すぐに、学園都市の結界に侵入者の反応がありました」
「何だ、そんなことか」

 心配そうに言う、己の従者――絡繰茶々丸の言葉に、エヴァンジェリンは、さも鬱陶しいと言ったふうに手を振る。

「何故私が、その様なことにわざわざ骨を折らねばならん」
「ですが、侵入者に対する対処は、マスターの役割の一つで御座います」
「そんなのは、あの妖怪ジジイが、勝手に私に押しつけようとしたことだ。たまたま、私も己の力を過信して、のこのここの地にやって来る害虫共が鬱陶しいとは思っていた。その時は単なる利害の一致だったんだ」

 だが果たして、麻帆良には、ちゃんとした治安組織が存在する。麻帆良市警察や住民の自警団、あるいは一般の警備会社という意味ではなく――“魔法使い”の世界においてのそれ。魔法使いの教師や、魔法使いの生徒で構成された、裏の治安組織。
 その様な物が、日夜“関東魔法協会”の本拠地であるこの麻帆良の地を、虎視眈々と狙う敵――そんな相手に対して死闘を繰り広げているのだ。

「そんな状況にあって、“悪の魔法使い”が何をどうするというのだ。昔の特撮ヒーロードラマのように、そいつを攫って脳みそをいじくって、奇声を上げながら魔法使いに襲いかかる怪人を作るのか?」
「左様で御座いますか――」
「お前は私に似ずその様な性格だからな――主の義務として安心させてやるが、結界に侵入したのは極小さな魔力だった。それこそ普通の人間ほどの力も持たん」
「そのように偽装して、麻帆良に侵入したのでは?」
「何のために? 結界を超えた事を気取られないと言うのならわかる。こちらが対処できないほどの大きな力を持って結界を破ったというのもわかる――だが、小さな力でもってして、結界を超えた事を私たちに気づかれると言うのは、どういう意味だ?」

 それは単純に、本当に力が小さいナニモノカである――その可能性が一番高いと、エヴァンジェリンは言った。
 もちろん、そうではない可能性もある。こちらの思惑を遥かに超えた何かの脅威である可能性もあるが――しかし“悪の魔法使い”である彼女は、“悪の従者”になりきれない少女に、そのような事は言わない。
 ややあって――エヴァンジェリンは、傾けていたカップをテーブルに置いた。果たしてそのカップには、まだ紅茶が半分ほど残っていたが、彼女はそれに手を付けるつもりは無さそうであった。

「マスター……何か、粗相がありましたか?」
「いや、お前の淹れてくれる茶は絶品だ――だが、私とて、せっかくの茶が不味くなるという事はある」
「――差し出がましいようですが、ネギ先生の事ですか? それとも、犬塚さんの?」
「どちらも、だな」

 小さくため息をつくその様子には、見た目に不似合いな色気のような物がある。幸か不幸か、今この場にはそんなことを気にする人間は居ないけれども。

「茶々丸は妙だと思わんのか? 私たちがあれだけネギ・スプリングフィールドに手を出しておきながら、私を飼い殺しにしているこの麻帆良は、何のアクションも起こさん」
「それは――」
「ネギ・スプリングフィールドが、意地を張って助力を誰にも求めていない――か? ふん、馬鹿馬鹿しい。うちのクラスの連中にさえ秘密が守れんような奴が、どれだけ意地を張ったところで――その結果張れる秘密の壁など、その辺りの障子にも劣る」
「つまりマスター、我々は――泳がされていると?」
「私が奴を殺す筈はないとたかをくくって居るのか――そうでなければ、いざというときに私を押さえ込めるだけの備えがあるのか。恐らく両方だろうがな。まったく――茶が不味くなるには十分だ」

 とはいえ、やはり思うところがあったのか、エヴァンジェリンはティーカップの方に手を伸ばす。既に冷めてしまったその紅茶を、茶々丸は入れ替えようとしたが、彼女はそれに先んじてカップをひったくった。

「どうせ、美味いと感じられんもったいない茶だ。わざわざ淹れ直すまでの事ではない」
「――ですが、何のために?」
「少し考えればわかることだが――お前には、そう言う自発的な思考は難しいのだな。まったく、テレビ画面を相手に語りかけるゲームでもしている気分だ」
「……申し訳ありません」
「何のために、だと? 決まっている。“立派な魔法使い”になろうかと言う奴が、英語の教育がどれだけ上手かったところで意味はない。要するに教師と言うのは単なる言い訳だ。都合が良かったのさ、この麻帆良という土地が。強力な結界に守られ、大勢の仲間がいて――しかし、程よいレベルの敵がいて、尚かつ、私という不確定要素がある」

 少し考えればわかること――彼女はそう言った。ネギ・スプリングフィールドという、魔法の世界では知らぬ者の無い少年が、この麻帆良にやって来ると知ったとき――エヴァンジェリンは考えた。何故、今になってそんな人間がここにやって来るのか――
 すぐに解答に行き当たった。考えるまでもない事だった。
 ネギの安全を堅守しつつも、彼を成長させるために“当て馬”をぶつける――言ってみれば彼にとって、ここ麻帆良は、彼が“立派な魔法使い”になるためのシミュレーターに過ぎないのだ。
 馬鹿げている、と、エヴァンジェリンは思う。
 もちろん、それなりの理由はあろう。今の魔法使いの世界は揺れている。文明の発展や、神や魔物と言った存在のあり方の変化――そして、魔神の人間界への侵攻――そして、人間界が、魔法使いの関与無しにそれを打ち破ったという事実が決定打となり、大きく揺れているのだ。
 自分達は人間に立ち返るべきなのか、それとも魔法使いで居続けるべきなのか。
 そもそも――魔法という技術はどうあるべきで、どのように使われるべきなのか。魔法使いという特殊な“技術者”は、どう存在していくべきなのか。
 未だ、結論は出ていない。

「何のことはない――英雄が動乱の中で失われた今、英雄の息子という新たな旗印を担ぎ上げることに躍起になっているだけだ」

 確かにそれ自体は悪いことではない。歴史を見てみればその様な事実はいくらでもあるし、担ぎ上げられた偽りの英雄が、何時しか本当の英雄となった事実もいくらでもある。
 虚構であろうが、目に見える希望があれば、人々の心は折れない。どのような逆境が降りかかろうと、呆れるほどにしぶとく、何度でも立ち上がる。
 そして、ネギ自身が、そう言う人間を目標としている――そう、本質を突けば嫌な言い方になるにせよ、決してそれ自体が悪いことではない。

「ただな、そんなやり方に、誰もが納得すると思っては困る。私は私なりに生きていく。あの坊やの当て馬になるために、私は生まれてきたわけではない」
「……マスター」
「心配するな。私はお前のマスターだ。お前が心配するような事など、既に心の中で整理を付けている」
「ですが――いえ、私も少し前まではそう思っていました。しかし昨日――犬塚さんとお話をされてから、マスターは少し様子がおかしいように思えます」
「犬塚シロ、か」

 不思議な女だ、と、エヴァンジェリンは思う。何というか――色々な意味で、住む世界が違うと。純粋な人間でないという意味においては、むしろそのあり方はエヴァンジェリンに近い筈なのに――

「んん……どうも、頭がすっきりとせん。誰を責めても仕方ないのだが、この季節はどうしても、本調子になれん」
「マスター、もうお休みになられますか?」
「そうだな。余計なことをあれこれと憂うのは、誇り高き“悪の魔法使い”のすることではない。そう言うのが似合う者こそ、わかりやすい英雄――ネギ・スプリングフィールドらの方だ。ふん――せいぜい恐れおののけ。少しは溜飲が下がる」

 エヴァンジェリンは自室に戻り、ベッドに潜り込んだ。
 ふと――ベッドから見える棚の奥の方に、何かが置かれている事に気づいた。この部屋は茶々丸が掃除しているので埃などは積もらないが――彼女は極力ものを動かそうとはしない。そこに何かがあることを忘れていたと言うことは、ずっと前にそこに置いて、それからずっと忘れていたと言うことだ。
 少し体を起こしてみれば、それはフォトスタンドだった。
 しかしそこに写真は収まっておらず、あまつさえ、手前に向けて倒されている。
 エヴァンジェリンは、ベッドから暫くそのスタンドを眺めていたが――ややあって、再びベッドに倒れ込んだ。

 ログハウスに灯っていた灯りが、静かに消える。










朝倉さんが、アシュタロス事件をきっかけに報道を目指し始めた、
と言うのは、完璧な作者の捏造(当たり前だろ)ですが、

この元ネタがわかった人は、絶対僕とお友達になれるはず(笑)



[7033] 麻帆良学園都市の日々・心の在処
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/16 11:28
 魔法とは、言い換えればただの技術である。
 本人の資質に左右される不安定な部分はあるが、それでもそれを学ぼうと思えば、大抵の人間が魔法を操る事が出来るようになる。
 万人が広く扱える、強大な力を発揮できる技術――それが戦いの中に取り入れられて行ったのは、自然な流れだったのだろう。それを知らぬ者からしてみれば、神の力にも等しい威力を、その人間のみで発揮できるのだから、使わない手はない。
 しかしどれだけ強力な魔法が使えようと、魔法使いには一つの弱点がある。
 それが、呪文の詠唱であった。
 魔法を使うという行為は、非常に抽象的で概念的だ。例えば、我々は普段、どうやって自分の手足を動かしているのかを知らない。自分の事であるのに、それがわからない。実際に、脳から発せられる電気信号によって体を動かしている――と、知識で知っていても、その電気信号の出し方や、シグナルの内容を知っているわけでもない。
 もちろん魔法は、使用する者の意識の下に制御されるから、そこまで本能的なものではない。にしても、魔法使いが“魔力”と呼ぶ、己や外界に満ちるエネルギーが何なのか、実は良くわかっていない。
 それが何らかのエネルギーであるのはわかる。それを観測することも出来る。
 しかし、“それ自体”が何なのかは、実はよくわからないのだ。
 しかし、魔法使いが魔法を使うプロセスは、長い間に積み重ねられた研究によって明らかになっている。そういうよくわからない力を、己の中に溜め込んで、強固な意志の下に制御する。
 明確な意識を、明確な対象に向けて。それでも足りない部分を“呪文”という、イメージを具現化する祝詞によって補正し、確立された一つの“魔法”として発動する――
 小難しい言い方をするとそう言うことになるのだが、つまり魔法が銃の弾丸ならば、呪文は銃身であり、引き金である。
 弾丸そのものだけでも、釘か何かで雷管を叩けば発射自体は出来るが、誰もそれをして「銃弾を撃った」とは言わないだろう。呪文とは、“何らかのエネルギーを使う技術”という、魔法の本質とは関係ない所にありながら、魔法使いにとって不可欠な行為なのである。

「だから何だって言うのよ」
「歯を磨きながらメシは食えねえ、そう言う話でさ」

 “由緒正しきオコジョ妖精”――自分の事をそう名乗った、怪しげな白いオコジョは、訝しげな目線を向ける明日菜に対して、得意げに語った。

「魔法使いってのは、確かに強力な戦力だ。けど、“魔法を使う”となりゃあ、その為に呪文を唱えてる間は、完全に無防備だ。つまり姐さん」
「姐さん言うな」
「そこで単純だが、合理的な発想って奴だ。魔法使いは強いが、致命的な弱点がある。だったら、その弱点を誰かにカバーして貰えば、魔法使いって奴は最強の戦士になれる。そうは思わねえか?」

 明日菜の抗議を軽く無視して、“カモ”と呼ばれるオコジョは言う。けれどその体は、明日菜自身の手によって拘束されていた。

「それが、今の状況とどう関係あるってのよ」
「だ、だからよ、ネギの兄貴は才能に溢れる魔法使いだが、如何せん体もまだ出来てねえ十歳の子供だ。そんな子供が真っ正面から真祖の吸血鬼――それも、向こうも魔法使いで、魔法使いの弱点は当然熟知済み――なんて奴と戦ってみて、結果は見えてるだろ?」
「それで?」
「だから、ここは俺っちが人肌脱いでだな、兄貴の盾となれる“魔法使いの従者”を探してたってわけでさあ。いや、そりゃまあちょっと強引な手段は使ったって反省しているが、姐さんだって、むざむざ兄貴があの吸血鬼に干物にされちまうのを、見てる趣味はないでしょうが」

 明日菜は、白いオコジョを握りしめたまま、もう一度周囲の状況を確認する。傍らに、がっくりと項垂れるネギ。ネギの上着を枕に、意識を失って倒れ伏す、クラスメイトの宮崎のどか。
 彼女はカモが作った偽の手紙で呼び出され、ネギもまた、偽りの理由で同じ場所に呼び出され――魔法使いと、魔法使いの従者の結ぶ契約――仮ではあるが――をさせられようとしていたところに、事情を知った明日菜が割り込んだという次第である。

「でも結局の所、あんたは下着泥棒の罪を有耶無耶にしたくてこっちに来たんでしょう――大体、オコジョが人間の下着なんて集めてどーすんのよ」
「いやあ、俺っちもちゃんと雌のオコジョに興味はあるんスけどね、何でかわかんねーが、華やかな女性の下着には、何故か心奪われるものが――あっ! あ、姐さん! 締まってる! 締まってるからっ! 姐さんが聞いたんでしょうがっ!」

 思わず、彼を握りしめる手にも力が込められてしまう。その気になれば、素手でリンゴを握りつぶせる明日菜である。華奢な小動物でしかないカモは、全身の骨が軋む音を聞いて、必死で助けを乞う。

「あ、明日菜さんっ! それ以上はほんとにカモ君が死んじゃいますから!」
「ち」

 痙攣を始めたカモに気づき、項垂れていたネギが慌てて止めに入る。
 さすがに、一応は言葉の通じる相手を圧殺してしまったとなれば、明日菜とて寝覚めが悪い。手に込めた力を解いてやると、カモは彼女の手の中で、涙目で咳き込んだ。

「まあその理屈はわからなくもないわ。でも、何で寄りにも寄って選んだ相手がのどかなわけ? 魔法使いを守って盾になるって柄かどうかくらい、見てわかるでしょ? あんたの言ってること、矛盾してるわよ」
「あ、明日菜さんが矛盾なんて言う難しい言葉を――」
「黙ってろ」

 視線で人が殺せるならば、彼女は伝説級の大量殺人者になっているのではないか――陳腐な想像ではあるが、ネギの脳裏にあまりにリアルなヴィジュアルが浮かび、立派な魔法使いを目指す少年は――保身に走った。
 つまりは、無言で頷いた。

「そう言う役目を任せられるって言うなら、もっと屈強な男の人とかがベストじゃないの? えーと、例えば――ガンドルフィーニ先生みたいな」

 明日菜の脳裏に、強面の外国人教師の姿が浮かぶ。彼を選ぶかどうかは別として、選ぶなら彼のような人間を選ぶべきではないのか。カモの話を聞いていた明日菜は、そう思う。

「り、理想を突き詰めればそうなんですが」

 若干、丁寧な言葉を選びつつ、カモは明日菜に言う。
 本来、魔法使いと従者の契約というのは、先にカモが述べた通りのものであった。戦場に於いて、魔法使いを守る盾となり、その魔法使いの秘めた力を存分に引き出すための存在である。
 必然的に、魔法使いと従者の間には、信頼関係が必要となる。魔法使いは従者に安心して背中を任せられねば、おちおち呪文を唱える事は出来ない。従者は従者で、自分が必死で守り抜くだけの価値を、魔法使いがその戦場に於いて持っていなければ、自ら剣を片手に敵陣に吶喊でもした方が、余程手っ取り早い。
 果たしてその信頼関係が、魔法使いと従者が異性であった場合――お互いへの愛へと変わることがある。
 魔法使いの世界というのが、そんな恋に恋する少女のような思考回路の持ち主で溢れていたわけではなかろうが――時代が流れ、争いが減ると共に、契約の意味合いは、“魔法使いとしての愛”とでも言うべきものに変化していく。
 自分の背中を任せられるのは、あなたをおいて他には居ない――と、そう言うことだろう。現代では、口説き文句に使われるだとか、契約そのものが恋人探しの口実に使われる事すらあるのだという。
 もちろん、本来の意味合いで従者を捜すことも悪いとは言わないが――恋人と言い換えられるほどに信頼できる異性を見つけることが、ある意味で今の時代の理想なのだろう。

「……呆れた。大丈夫なのかしら、魔法使いの世界って――」
「も、もちろん、魔法使いの世界全てがそうってわけじゃありやせん。魔法使いなら一度は、“立派な魔法使い”を目指すもの。従者と共に、数多の戦場を駆け抜け、英雄となる――魔法使いの憧れなんです」
「それはそれで危険な気もするけど。好戦的って言うか」
「ですが姐さん。強い事が悪いわけじゃねえ。大切な者を守ろうとするときには、その脅威からその誰かを守れるだけの強さが必要なんでさ」

 それは否定しない。
 明日菜も、年頃の少女だ。自分を守ってくれる異性に、ときめかないはずがない。もっともそれが彼女の場合、年齢が一回り以上違う壮年の男性であるのが理想なので、その辺り一般的な少女の憧れとは一線を画すが。

「それで、のどか?」
「へ、へえ。出過ぎた真似とは思いやしたが、この娘っ子、兄貴の事が好きみたいだったんで――」
「それ以前にのどかは一般人でしょうがっ! のどかが魔法使いの従者になる前に、ネギがオコジョにされちゃったら、意味無いでしょ!」
「あ、姐さん! ギブ! 潰れるっ! 肋骨が! 変な音立ててる!」
「あ、あああ! か、カモくうんっ!」

 しかし、魔法使いの従者という存在は、今のネギにとって必要である。仮契約一件に付き、それをコーディネイトするオコジョ妖精に報酬が出るだとか――色々と付加的な思惑はあるにせよ、その根っこの部分もまた、カモの本心であった。ネギから聞いたところに寄れば、敵である真祖の吸血鬼――エヴァンジェリンは、既に己の従者を従えている。
 おまけに、その従者――絡繰茶々丸は、一般人以上の戦闘力を有して居るだとか。これでは、単体の戦闘能力がそれほど高いわけではないネギに、勝ち目はない。
 確かに、目の前の強大な敵に目が曇って――ついでに多額の報酬に目がくらんで――近視眼的になっていた事を、カモは素直に認める。未だ目を覚まさないこの少女が、すぐに実戦で役に立つとは、到底思えない。
 しかし、しかし――やはり従者は必要なのだ。どうしたものかと、薄れ行く意識の中でカモは考え――そして、一つの結論が、電撃のように脳裏に浮かび上がった。

「だ、だったら!」

 カモは力を振り絞り、明日菜の手から半身を乗り出して、彼女の鼻先に顔を近づける。思わず顔を引き、力を緩めた彼女に、彼はここぞとばかりに告げた。

「図々しい頼みだとは承知してやす! 明日菜の姐さん――どうか、ネギの兄貴に力を貸してやってはくれやせんか!」




「くぁ……春眠暁を覚えずというで御座るが――」
「ほんとよねえ……」

 麻帆良学園本校女子中等部――そこからほど近い公園で、犬塚シロと朝倉和美は、並んで大あくびをしていた。仮にも年頃の少女であるが、この辺りは、彼女らの通う女子中学校を含めて、女子校の多い区画である。この時間帯、彼女らが視線を気にするような――具体的に言えば若い異性などは、殆ど通りかからない。
 もっとも、だから良いのだと言うわけでも無いのだが。
 そんなとりとめもない事を考えながら、和美は隣に座る友人の方を盗み見た。日本人には殆どあり得ないだろう、鮮やかなコントラストを持った髪が、春の日差しを受けて輝いている。綺麗だな、と、彼女は素直に思う。
 以前に感じたとおり、和美は既に、このシロという少女と共に過ごす事に、何の疑問を感じていない。まだ出会って数日――なのに、古くからの友人のように、何故か付き合えてしまう。
 いくら何でも、三年A組全体で見たときに、シロに友人と言える相手は、まだ少ない。自分と、たまたまその時一緒にいた雪広あやか――あとは、何もしなくても向こうからやって来るお祭り連中くらいだろうか。
 ……いや待て、お祭り連中という形容を当てはめたときに、果たしてあのクラスに何人の“例外”が居るだろうか?

(なるほど――クラスの殆どが、もうシロちゃんの友達ってわけか。ウチのクラスならあれだけど――これは“シロちゃん効果”も大きいわよね)

 その言葉をもしも隣に座る友人が聞けば、彼女は別の知り合いを思い浮かべて苦笑を浮かべるだろうが、そのような事を和美が知る由もない。

「ねー、シロちゃん」
「何で御座るか?」
「エヴァンジェリンさんの事――まだ悩んでるの?」
「――悩んでいる――事になるので御座ろうか。少なくとも、彼女より渡された“宿題”は、未だ答えが出せていない故」

 何処か暈かしたようなその言い方に、“麻帆良のパパラッチ”としての血が疼かないわけではなかったが、どうにか和美は、理性でそれを押さえ込む。羽目を外して良いときと悪いときの区別くらい、今の自分には出来るつもりだ。あくまで“つもり”ではあるが。

「そっか――あたしも、他人とコミュニケーション取る事は苦手じゃないんだけど――あの子はねえ……シロちゃんが駄目なら、あたしも駄目だろうなあ」

 現に前は、一度失敗したわけだし――と、和美は呟く。
 クラスの誰もが、一度はエヴァンジェリンを気にした事がある。しかし、彼女のその頑なな態度の前に、誰もがそれ以上、彼女に関わり続ける事が出来なかった。

「悪い子じゃない、ってのは、何となくわかるんだよね」
「ふふ――本人は、悪の――あー、“不良”を気取っているで御座るがな」

 危うく魔法使いという単語を口に出しそうになって、シロは慌てて言い直した。和美は眠気のせいか、深く気にならなかったのだろう、それに対して特に、何の反応も示さない。

「あれで、ねえ」
「あれで、で御座るよ」

 和美の脳裏に、アフロヘアーのようなかつらをかぶり、異様に丈の長いスカートをはき、意味不明の当て字が刻まれたマスクを付けたエヴァンジェリンの姿が浮かぶ。自分が生まれる前の話であるが、かつてツッパリスタイルの猫が流行した事があったと言うが――何となくそういうものを彷彿とさせるその姿に、思わず和美は吹き出してしまう。

「エヴァンジェリン殿が、“不良”かどうかはさておいて」
「いや、無理っしょ、あれは」
「怖いんで御座るよ、彼女は」
「……怖いって?」

 和美の問いに、シロは言う。

「友達を得て、それを無くすことが」
「それは――エヴァンジェリンさんがそう言ったの?」
「はっきりとそう言ったわけでは御座らぬが――おそらくはそう言う事で御座ろう」

 詳しいことは拙者も知らぬ、と、彼女は首を横に振った。
 想像もしなかった解答に、和美は暫く言葉を無くし――しかしややあって、小さく笑った。

「そっか――それじゃ、あの子はあたし達が嫌いってわけじゃないんだね」
「今の彼女の中では、恐らく拙者らに対して、好きだとか嫌いだとか――そういう感情自体が存在せぬのであろう。好きでも嫌いでも、近づけばいつか失う時が来る。それを彼女は、極端に恐れているので御座る」
「……そっか」
「そうで御座る」

 和美はそれ以上何も言わなかった。彼女が“麻帆良のパパラッチ”と呼ばれる少女であり、その威力を身を以て知っているシロではあったが――それを不自然だとは思わなかったし、敢えてそれ以上何も聞いてこない彼女を、好ましく思った。
 しばらくの沈黙の後――口を開いたのは、果たして和美の方だった。

「だったら――まだ完全に解決したわけじゃないけど、とりあえず一歩前進――なのかな?」
「……そうかも知れんで御座るな」

 和美の笑顔に、シロもつられて笑う。桜の花びらが舞い散る空の下に、少女達の小さな笑い声が響く――

「ん?」

 ふと、シロがあさっての方向に顔を向けた。和美はそれに気づき、彼女に問う。

「ん?どうかしたの?」
「この音は」
「音? 何も音なんか聞こえ――あら?」

 風にそよぐ木々の音以外には、遠くを行き交う車の音しか聞こえない――そう思っていた和美も、ややあってそれに気づく。少し離れた幹線道路から、一つのエンジンの音が、だんだんとこちらに近づいてくる。
 この公園は、幹線道路と麻帆良学園本校を結ぶ直線上に横たわっては居るが――それだけに、通る車は少ない。こんな時間に、この近くを経由して学園に向かう車など、皆無に等しい。
 暫くして、緩いカーブの向こう側から現れたのは、一台のバイクだった。攻撃的なシルエットの外装を纏う、リッタークラスのスーパー・スポーツ。運転しているライダーの顔は、フルフェイスのヘルメットに隠されて見ることは出来ないが――バイクの大きさと比べてかなりの長身の持ち主であることがわかる。
 そんな長身を、黒ずくめのライダースーツで固めた男。加えてそのヘルメットも黒一色である。その姿は、かなりの威圧感を和美に与えた。

「こんな時間に暴走族ってわけじゃなさそうだけど――この辺じゃ見ないわね。学園に何か用なのかしら? それも女子校に――」

 和美は、眉をひそめて、公園の手前でバイクを止めたライダーを見遣る。
 不意に、隣に座っていたシロが立ち上がった。

「シロちゃん?」

 するとバイクの青年がこちらに気づき――何とヘルメットを脱いで、明らかにシロに向かって手を振ったのだ。黒いヘルメットの下から現れたのは、意外にも、まだあどけなさを――少年の面影を多分に残す、若い青年だった。

「え、シロちゃん――あの人と知り合い?」
「ああ、彼は――ケイ殿! お久しぶりで御座る!」

 良く通る声でのシロの言葉に、ケイと呼ばれたそのライダーは――人なつっこい笑顔を浮かべて、ヘルメットをタンクの上に置いた。

「シロさん! お久しぶり!」




「紹介するで御座る。この方は、藪守ケイ殿。昔、先生がゴーストスイーパーをなさっていた頃の知り合いで、今は美神除霊事務所の職員で御座る」
「あ、はじめまして、藪守ケイです。よろしく」

 そう言って青年はグローブを外し、和美と握手を交わす。全身を漆黒のレザーで固めた、和美から見れば見上げるほどの背丈の青年――しかし果たして、その段になって、彼女は先ほど感じた緊張感や威圧感を、殆ど感じて居なかった。
 それほどまでに、その青年の表情は軟らかで、そして子供のように純粋だった。

「ケイ殿、こちらは、拙者のクラスメイトで、朝倉和美殿」
「あ、朝倉です。よろしく――あの、藪守さんは――あの美神事務所の――ゴーストスイーパーなんですか?」

 単純な興味から、和美は聞いた。
 日本最高峰の、一般人にさえ名の通った除霊事務所――美神除霊事務所。和美はもちろんゴーストスイーパーなどになるつもりはないが、それでも今の彼女からしてみれば、彼は遥か遠くに立つ人間だと感じられた。

「あはは、僕はまだ見習いだけど」

 そう言って青年――ケイは、恥ずかしそうに頭を掻く。

「僕にはあんまり才能がないし、度胸もないし――もう二回もGS試験に落ちちゃって。美神さんからも、ウチの事務所に泥を塗るのはあの甲斐性無しだけで十分だって、毎日怒鳴られてる」
「全く――ケイ殿は、実力はあるのに、その自信のなさが足を引っ張っておると言うことに、いい加減気づくで御座るよ。全くあの頃の先生と言い、今のケイ殿といい、美神事務所の男共と来たら――」
「そんなこと言ったってシロさん、僕に横島にーちゃんみたいに振る舞えってのは、ちょっと厳しくない?」
「誰もそんなことを言ってはおらぬで御座ろう。先生のような人間が二人も三人も居てたまるものか」

 GS試験。司法試験や国家公務員の上級試験さえも凌ぐ、日本最難関の国家試験。アシュタロスの事件から、報道を志した和美は、その内容を知っている。知識はもちろんのこと、悪霊と戦って生き延びられるだけのサバイバビリティが求められる、過酷な試験。時には事故により、最悪命すら残らないかも知れないという――
 その様な試験に、二度も三度も挑戦しようと言うだけでも、十分褒められたものだ。和美は素直にそう思った。

「して、ケイ殿は何故に麻帆良に? 先生ではあるまいし、うちの女子校に惹かれたわけではあるまいに」
「さすがにそれは――横島にーちゃんだって、さすがに女子校なんて――」
「六道女学園では、ちょっとした伝説で御座るよ。校舎の屋上で何故かトランペットを吹いておったゴーストスイーパーの事は――もっとも、拙者が入学する前、おキヌ殿達が通っていた時代の話で御座るが」
「……にーちゃん、僕、にーちゃんを尊敬する気持ちが“また”揺らぎそうだよ」

 ケイは立木にもたれ掛かり、がっくりと項垂れる。かなりの長身の持ち主であるというのに、その姿は何だかとても小さく見えた。

「落ち込むのは後で構わぬから、要件を言わぬか」
「要件って言うか、仕事のついで。東北の方で仕事があって、その帰りに美神さんからの頼みで妙神山におつかいに行って――これをあの子に渡してくれって、ほら――」

 そこでケイは言葉を切り、何かを思い出しているようだった。そうしながらも、バイクに括り付けてあった荷物の中から茶封筒を取りだし、その口を開いて、原稿用紙のようなものをシロに見せた。

「ああ、“あげは”に」
「あ、そう。“あげは”さんに」

 あげはというのは、確かシロの所に下宿しているという少女のことだ。麻帆良学園の初等部に通うためにそうしていると、彼女から聞いたことがある。和美はそう記憶していた。しかし、この二人共通の知人であろうに――ケイが悩んだ一瞬の時間が、和美には何か引っかかるように感じられた。

「そうしたら、シロさんの姿を見かけたもんだから――ここってもう学校の中?」
「いや、ここは学校の敷地内では御座らぬが、この先にはもう女子校しか無い故に、ケイのような若い男がふらりと入ってくれば、随分と目を引くので御座るよ。いつぞやの先生と同じ目で見られたく無ければ、早々に引き上げるのが宜しかろう」
「あー、うん。そうする――機会があったら、にいちゃんに顔を見せて置きたかったんだけど」
「折が悪かったで御座るな。先生なら、仕事の都合で今は東京に戻っているで御座る」

 あちゃあ、行き違いか――と言って、ケイは額に手を当てた。シロはそんな彼の様子を見て、苦笑いを浮かべ、和美の方に振り返る。

「ケイ殿は昔から、あまり要領が良くない御仁故」
「あ、ひどいなあシロさん。僕だってそれなりに――」

 彼はその言葉を耳ざとく捕らえ、何か反論しようとした。しかしそれは、彼のポケットで鳴り響いた、携帯電話の着信メロディによって遮られる。
 しかしその着信メロディというのが――ジェームス伝二郎の歌。デビュー以来、お年を召した方達の間で大人気の演歌歌手である。彼のような若者が、携帯電話の着信に選ぶには、あまりに不似合いな曲であった。しかし和美の微妙な表情に気づかず、ケイは通話ボタンを押す。

「はい、藪守ですが――」
『ちょっとケイ! あんた何処でアブラ売ってんのよ! 今日は午後から、新築ホテルの除霊があるから、雑用済ませたらさっさと帰ってこいって言ったでしょうがっ!』

 携帯電話越しに和美の立ち位置にまで聞こえた怒鳴り声に、面白いほどにケイの肩が跳ね上がる。見れば彼女より彼に近い場所に立っていたシロは、耳を押さえてよろめいていた。

「あの、美神さん、僕、今、麻帆良についたばっかりで――大体、あの仕事先から妙神山経由して、午後までに戻ってこいって言うのは、物理的にちょっと――」

 引きつった笑みを浮かべながら電話に応えるケイは、どうやら強靱な鼓膜の持ち主であるようだった。

『あぁ? あんた私に口答えしようってえの? 大体、あんた無駄金叩いて横島君のバイク乗ってんでしょ? 魔理ちゃんに聞いたら、あれ、私のコブラより速いって言ってたわよ?』
「いえ、美神さん、いくら乗り物が速くても、日本には道路交通法という法律が御座いまして――」
『あ、そう。そう言う言い訳をするのね? いいのよ別に。そんなに給料要らないっていうなら。私も助かるし』
「ちょ、美神さん!? そんな殺生な! 僕が何か悪いことしましたか!? こないだのGS試験で、小笠原さんの所のタイガーさんに負けたこと、まだ根に持ってんですか!? 大体――あ?」

「相変わらずで御座るな、美神殿」

 ひょいと、シロがケイの電話を取り上げると、自分の耳に当てた。電話口の向こうで喚いていた女性は、一瞬何が起こったのかを計りかねていたようだったが――ややあって、先ほどに匹敵する大声を上げた。

『ちょっと、あんたシロ!? 何でシロがケイの電話に出てんのよ!』

 もちろん、自称――“いくらか成長した”シロは、携帯電話を耳から離してそちら側の耳を塞ぎ、ダメージを回避している。

「別に理由は御座らん。たまたま外に居たところを、通りがかったケイ殿に出会った故に」
『――そう……そこに、横島君も居るの?』
「いえ、拙者だけで御座る。先生は仕事で東京に戻られておるので――何となれば、連絡致しますが」
『あ、そう。ううん、別に良いわ。あんた共々元気なら――って、元気でないあんたらってのも、ちょっと想像出来ないんだけど』
「褒められているのか馬鹿にされているのか、微妙で御座るな」
『好きな方で良いわよ――ん、わかった。特に――言うことはないから。ケイに伝えて。あと二時間以内に帰ってこなかったら、今月の給料日を楽しみにしておく事ね、って』
「委細承知」

 シロは、通話の切れた携帯電話をケイに渡すと、にっこりと微笑んで見せた。

「と言うわけで御座る故に、早々に引き返すのが良かろう」
「……シロさん、僕って、何処で人生間違ったのかな」
「間違ってはおらぬよ。最初からアップダウンの激しい人生を走る運命であったので御座ろう――先生と出会ったその時から。さりとて、道は一つではない故に、今から平坦な道を探すのもまた、ケイ殿次第で御座ろうが」
「――シロさんって、時々ずるいよね」
「人聞きの悪いことを言うでない、ケイ殿。さ、美神殿をあまり待たせると、本当に今月を生き延びられなくなるで御座るよ。この書類は拙者が預かっておく故に」




 その背中に哀愁を漂わせて、藪守ケイは去っていった。和美は遠ざかっていく彼のバイクを眺めながら、呆然と呟く。

「……すごいのね、美神除霊事務所って」
「あー……参考までに、どういう意味合いで凄いのか、聞いても構わんで御座るかな」
「……色々な意味で」
「ま、まあ、あのお方は色々規格外であるが故に」
「何だか、テレビとかで見たイメージと全然違うね、美神令子さんって」

 和美の言葉に、もはや何も言えずに、視線を逸らすしかないシロ。有名人の知り合い――という肩書きは、実のところ嫌いではない。今となっては苦笑の漏れる思い出だが、遊園地のヒーローショーで、サインを求めた事もある。
 けれど――これは何かが違うと、そう思う。人類の英雄、日本最高のゴーストスイーパー、美神令子――そして犬塚シロは、その関係者。

(……穴があったら入りたいで御座るよ、美神殿……)

 何も知らずにいられた頃が懐かしい、と、シロが軽い現実逃避に入っていると、隣の和美が、ぽつりと呟いた。

「でも、何だか楽しそうね。すっごく」
「……」

 その声が、意味を持った言葉としてシロに届いたとき――彼女の顔には、笑みが浮かんだ。

「ああ……少なくとも、退屈とは無縁で御座るよ」
「シロちゃんは、どうして美神事務所を辞めちゃったの? あの……ひょっとして、給料の未払い、とか?」
「……い、いや、さすがにそう言うわけでは――されど」

 シロは、空を振り仰いだ。青空に、桜吹雪が舞う。彼女はその中に――何か、忘れかけていたものを見た気がした。

「されど、あの場所は、拙者の心が生まれた場所。拙者の心が帰る場所――随分遠くに来てしまった気がしておったが、それはきっと気のせいだったので御座ろう。美神殿――拙者はまだまだ未熟で御座った。これからも未熟者で御座ろうが――心より、感謝いたす」










休日最後の更新。さあ寝よう(笑)

「ある程度の分量」ではなく「ある程度の区切り」で、
話を区切るべきだろう。
ええ、今更言っても仕方ありませんが。
内容はともかく、見せ方としては大失敗も良いところ。
日々精進、勉強いたします。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・迷い道の先
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/13 01:55
 わからないことを、わからないというのは、案外難しい事なんじゃないか。だって、それは相手の期待を裏切ってしまう事だから。




「エヴァンジェリン殿」

 麻帆良学園本校女子中等部――その屋上に寝転がり、流れていく雲を見つめていた金髪の少女は、ふと、自分に投げかけられた影に顔を上げた。
 声の主など、見なくてもわかる。
 このような馬鹿げたしゃべり方をする人間を、彼女は二人しか知らない。果たしてそのうちの一人は、今のところ自分と接点がない。だから必然的に、声の主は、もう一人の少女。

「犬塚シロか」

 体を起こせば、少し離れた場所に立つ、赤と銀の髪を風になびかせる少女の姿。エヴァンジェリンは、口元に薄い笑いを浮かべて立ち上がり、彼女の前に立った。

「昨日の今日で、良く私の前に顔を出せたものだな」
「友人の前に顔を出すことに、何の理由が必要で御座ろう?」
「友人――友人、だと? 貴様と、私がか? 貴様、どの口でそのような事を言う?」

 エヴァンジェリンは不機嫌そうに、屋上に置かれているベンチに腰を下ろす。シロは彼女の睨み付けるような視線を気にする様子もなく、彼女に向き直る。

「今日は、授業に出てこられぬようであったが」
「ふん――何が悲しくて、あの餓鬼の、程度の低い授業を受けねばならん。私は今朝から機嫌が悪いんだ」
「生理痛か何かで御座るか?」
「……貴様、言うに事欠いてそれか?」

 シロは何でもない事のように、彼女の隣に腰掛ける。鞄を開き、現れたのは、先日と同じ、女子中学生のものにしては、かなり大きな弁当箱。

「まあ、事情はわからぬでもないが、授業は真面目に出ておくもので御座るよ。お陰で拙者、今朝からエヴァンジェリン殿と語り合う機会を逸してしまったで御座る」
「貴様には関係ない」
「ならばせめて、再びの昼食会と洒落込みたいもので御座るが――如何かな?」

 シロは、真っ直ぐにエヴァンジェリンの瞳を見つめる。吸い込まれそうな黒い瞳の奥に、エヴァンジェリンは何か、一昨日とは違うものを見たような気がした。
 だから、彼女は問うた。

「一昨日、私は貴様に質問をした」
「そうで御座るな」
「応える必要はないとも言ったが、私はあれでも、自分にとって重要な事を、惜しげもなく貴様に語ったつもりだ」
「身に余る光栄で御座るよ」

 小気味よい音を立てて割り箸を割るシロの仕草が、何故だかエヴァンジェリンの癇に障る。

「犬塚シロ、貴様は、私の言ったとおりに、足りない脳みそで、私の問いに答えを見いだそうとしたのか? それとも、私の問いなど取るに足りないものだと決め込んで、無かったことにしたのか?」

 こんな事を聞くのは、自分らしくない――むしろ、恥ずかしいことだと、エヴァンジェリンは思う。これでは、自分の吐露した悩みが無視されて、悔しい思いをしているようではないか。
 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、誇り高き悪の――そして最強の魔法使いを自負している。その悪の魔法使いが、多少特異な出自を持つとはいえ、ただの女子中学生に、いいようにあしらわれるなど、あってはならないことなのだ。
 目の前の少女程度の存在は、自分の足下に跪いて、自分の事を伏し拝むべきだ。自分の命令に服従させるというのも悪くない。しかし、「自分を無視するな」と地団駄を踏むなど――あっていい筈がない。
 そんな、プライドと呼ぶにも足りないような思考が、彼女を苛立たせる。
 しかし果たして、シロは弁当を頬張りながら、事も無げに言った。

「むろん、拙者は考えたで御座る」
「ほう――ならば、答えを聞かせて貰おうか? 私にはその権利があるはずだ」

 何せ、答えを求めていないとは言ったが、質問を投げかけたのは自分だ。どういう答えにたどり着いたのか、聞く権利くらいはあるだろう。
 果たして、シロは口の中のものを飲み込むと――またしても事も無げに、そう、何でもない事のように言った。

「拙者には、エヴァンジェリン殿の問いに対する答えは出なんだ。拙者程度の人間がどれだけ考えたところで。そのような問いに答えは出ぬ――それが拙者の導き出した答えで御座るよ」
「……犬塚シロ、それは普通、思考停止だとか思考放棄だとか言うのではないか? いやさ、この際それが悪いとは言わん。どのみち貴様などに理解してもらえるとは思っていなかったのだからな」
「その通りで御座るよ」
「何?」

 シロは、鞄とは別に持っていたナップサックから、大きめの水筒を取り出す。それはどうやら魔法瓶のようで、蓋を開ければ、温かそうな湯気を立てる液体が、カップの中へと注がれる。

「この時期に冷たい茶など飲めぬと、エヴァンジェリン殿は言った故に。宜しければ如何かな?」

 何と無しに、エヴァンジェリンはそれを受け取った。カップを傾けて、一口それを口に含んでみる。この風味は、ほうじ茶か――いや、それだけではない。複雑な味わいを持った苦みが、心地良い刺激となって、喉を滑り落ちていく。

「変わった茶だな」
「拙者の里から送られてきたものでござる。薬草やら木の実やら、色々と煎じたもので――体にも良いと評判で御座るよ。悪くなかろう?」
「……まあ、な」

 エヴァンジェリンは、こう見えて日本文化に造詣が深い。この不思議な茶は、彼女にとって及第点を与えられるものであった――もちろん、素直にそれを褒めるわけでもないが。

「それで――私は先ほど、いまいち理解出来ん事を聞いたような気がするのだが?」
「だから拙者には、エヴァンジェリン殿の問いはわからぬと――そう言ったので御座る」
「……やはり貴様、私を馬鹿にしているのか?」
「そう言うことでは御座らん。もっと単純な話で御座る」

 シロはそう言って、首を横に振った。

「エヴァンジェリン殿の境遇には、拙者も同情するで御座る。エヴァンジェリン殿は、拙者の同情など必要ないと言うので御座ろうが、それでも拙者が同情してしまったのだから、それは仕方ないと諦めてくだされ」
「……」

 エヴァンジェリンの胸の奥で、もやもやした何かが更に広がる。
 目の前の少女が言うことは、本当に気に入らない。気に入らないのだけれど――その原因を作ったのは、他ならぬ自分である。
 何故自分はあの時、あんな事を言ったのだろうか? ああいう風に言えば、彼女は自分にはもう近づいて来ないと思ったから――ならばしかし、自分の過去を語らずとも、彼女を突き放す事は出来ただろう。
 ただの気まぐれ――あの時の自分がそう言ったように、ただの気まぐれだったと言ってしまえばそれまでだ。けれど――

「しかしエヴァンジェリン殿は同情を嫌う。それも当然で御座る」
「お前の言っていることの意味が、私には理解出来んが。当たり前の事をいちいち確認しながら口にして、それでどうしろというのだ?」
「だから、こういう事で御座る。拙者は、エヴァンジェリン殿ではないのだから、エヴァンジェリン殿の気持ちなど、本当の所ではわかるはずがない。せいぜい、わかったつもりになるのが関の山で御座る」

 シロはカップを使い回した事など気にせずに、一口お茶を飲んだ。

「拙者とて、それなりに数奇な人生を生きてきたという自負はある。むろん、過去を比べてどちらが――などという問いは無意味で御座る。よって、拙者が自分でそう思っているだけで御座るが――仮に、それを誰かに話して、拙者の気持ちはよくわかった――などと言われたところで、拙者はそれを信じられはせぬ」
「……つまり、自分が私と逆の立場だったら、と言うことを考えてみたと? 仮に貴様が、自分の人生をして何が正しいのだと、私に問うていたらと?」
「うん――何と言えばいいのか、拙者はエヴァンジェリン殿の言うとおり、それほど頭が良いわけでは御座らぬ故、もどかしいが――」

 自分を見つめるアイスブルーの瞳に、シロは困ったような表情を浮かべ――ややあって、口を開く。

「自分にとっての最善、というものを、考えてみたので御座るよ」
「……聞かせて貰おうか」
「拙者、エヴァンジェリン殿の言うことの真意はわからぬ。エヴァンジェリン殿の、本当の気持ちもわからぬ。せいぜい、わかったつもりになるだけ――なんと、もどかしいことで御座ろうか。なれば、拙者に出来ることは何か?」

 エヴァンジェリンは何も言わなかった。シロは、もう一度首を横に振る。

「エヴァンジェリン殿の行為は間違っているのか? 否、それはわからぬ。ネギ先生のお父上や、ネギ先生自身が、エヴァンジェリン殿に報復されるのを、当然と見過ごすか? それも、否。その問いに答えが無いことは、エヴァンジェリン殿、貴女自身が教えてくれた故に」
「……ならば、貴様は何とするのだ? 犬塚シロ」
「拙者は拙者の正しいと思うことをする。それだけで御座る。それはエヴァンジェリン殿にとっても、ネギ先生にとっても、あるいは果たして、単に迷惑となるだけかも知れぬ。しかし、拙者にはそれしか出来ぬ。それしか出来ぬのならば、拙者はそれをするしかなかろう」

 どれほどの時間が流れたのか――次に口を開いたのは、エヴァンジェリンだった。彼女は自分が今、どのような表情を浮かべているのかもわからずに、シロに言う。

「……何という馬鹿者だ、貴様は」
「褒め言葉と受け取るで御座るよ」
「結果的に、私の意志も、あの餓鬼の意志も無視して、自分の独善的な行為にのみ、価値を求める――何という身勝手で、何という馬鹿げた行動だ。貴様はそれをして、本当に正しいと言うのか、犬塚シロ」
「身勝手も馬鹿も、委細承知。拙者は、拙者としてしか物事を判断できぬ。拙者にとっての正しさでしか、物事を測れぬ。何故ならば、拙者はエヴァンジェリン殿でも、ネギ先生でも無いので御座る故」
「そう言うのを世間一般でどういうか知っているか? エゴと言うのだよ」

 もはやそれは、子供に言い聞かせるような口調だった。けれど、その表情に蔑みの色は見られない。
 あまりに身勝手――確かにそうだ。自分が正しいと思ったら、相手のことなど考えずにそうする――それを、エゴと言わずして何というのか。その様な事は、堂々と口に出すようなものではない。

「エゴ――で、御座るか。時に世の中には、一度しか会わぬ捨て猫に情けを掛けて餌をやるのは、自己満足でしかないと批判する意見もあるとか」
「私はその程度の事をグダグダと考える趣味は無いが――そういう言い方も出来なくはなかろうな」
「確かにそれは、身勝手な優しさであろう。今の拙者のように。物事の深くを考えず、ただ目の前の事に対して、刹那的に、感情の動くがままに行動し、僅かばかりの満足を得る――成る程、確かに褒められた行為ではござらぬ。されど」
「何だ」
「されど――飢えと寒さ、そして孤独に震える小さな瞳に、僅かばかりでもぬくもりを与えてやりたいと思うのは――人として、間違っているので御座ろうか」

 シロは小さく――しかし、はっきりとした口調でそう言った。

「その行為は、確かに浅はかなものであるのかも知れぬ。されど、その優しさまでを否定することに、拙者は意味を見いだせぬ。拙者が人生の師と仰ぎ――恋焦がれるお方が、そうであるように――拙者は、優しい愚か者でありたいと、“身勝手に”思うので御座る」
「戯れ言だ」

 エヴァンジェリンは俯いて、首を横に振った。

「貴様にとっては、私もその子猫と同じか、犬塚シロ。ふん――魔法の世界で知らぬものの無い悪の魔法使いを――剛気な事だ。貴様の師とやらも、大馬鹿者に違いない」

 彼女の脳裏に、白髪で車椅子に乗った青年の姿が浮かぶ。彼は言った。自分は犬塚シロの保護者である――と。果たしてそれは、状況から考えれば、彼女の言う“師”とやらの事に違いなかろう。
 もちろん、そこに思い当たろうが、わざわざ確認する事を、エヴァンジェリンはしないけれども。
 成る程――確かに、色々な意味で“愚か”そうな男であった。

「その通り、あのお方は、正真正銘の大馬鹿者で御座る。誰よりも優しい――馬鹿なお方で御座る。拙者は未熟者故、そのような大切な事を忘れておった。つまり、自分がただの、馬鹿な一人の人間でしかなくて、喩えどのようになろうとも、それはそうそう変わるものではないと――そういうことを」




 猫が一声、甘い声で鳴いた。
 光の当たり方によって、淡い緑色に輝いて見える、不思議な色合いの金髪を持った少女は、優しげな笑みを浮かべて、その背中を撫でてやる。猫は気持ちよさそうに目を細めて、喉を鳴らした。
 それはまるで、一枚の絵画を見ているような光景だった。慈愛――その言葉を目に見える形にしてみれば、それはこのような光景になるのではなかろうか、ネギ・スプリングフィールドは、そういう風にさえ錯覚する。

「カモ君」
「……兄貴の言いたいことはわかりやす。けど、奴が兄貴を襲ったのも事実なんでしょうに。こういう言い方はしたくねえが――奴が今の見た目通りの人間だったら、兄貴は何に怯えてるんでさ?」
「それは――そうなんだけれど」

 少し離れた場所から、集まってきた野良猫たちに餌をやる少女――絡繰茶々丸の姿を眺めていたネギと、その肩に乗っていたカモは、小さく囁き合う。彼らの隣に立つ亜麻色の長髪の少女――神楽坂明日菜もまた、難しそうに腕を組んで、囁きあう二人を見下ろしていた。
 理由ははっきりしないが――かつて闇の福音と呼ばれ、恐れられた“悪の魔法使い”、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、現在その力の大半を使えない状態にある。おそらくは、彼女にネギの父、ナギ・スプリングフィールドがかけたという呪いのせいであろうが――
 しかしそれでも、相手はネギとは比べものにならない程戦い慣れしている。実際に、ネギは万全の状態で彼女に敗北した。明日菜が割って入らなければ、どうなっていたのかわからない――目の前で、優しく微笑む少女が、ネギを押さえつけ――ともすれば、彼の命を奪う手助けをすることになっていたかもしれない。それもまた、現実なのである。
 絡繰茶々丸、エヴァンジェリンの、“魔法使いの従者”。
 いくらエヴァンジェリンの力が弱まっているとは言え、今のネギに、この二人の連係攻撃を防ぐ事は難しい。
 ならば、と――カモが画策したのが、先日、ネギの教え子である宮崎のどかがとばっちりを受けたあの一件――ネギの方にも、“魔法使いの従者”を付けてしまおうという作戦だったのである。
 こちらもまた、明日菜の乱入でご破算になった。
 とはいえ、彼女の言うとおり――彼女は魔法使いの事を知らない一般人であり、ただの女子中学生だ。彼女が“魔法使いの従者”になっていたところで、現時点で戦力として扱うのは難しい。
 もはやなりふり構わないと、カモは明日菜にこそ、ネギの従者となって欲しいと願ったのだが――その答えは、未だに出ていない。

(――魔法使いの従者、ね)

 目の前の、見ているだけで心の棘が洗い流されていくような光景を見ても尚、明日菜の心には、小さな棘が刺さったような不快感が残っていた。
 カモの言っている事は、わからなくもない。
 だが、事は中学生の喧嘩ではない。もはや、明日菜の常識の範疇を超えている。

(エヴァンジェリンさんの事情は聞いた――ネギの事も。そんなことがあったんじゃ、エヴァンジェリンさんがネギを目の敵にするのも無理はない)

 けれど、と、明日菜は思う。

(だからネギは、身を守る必要がある。何だかんだ言って、私もネギが死ねばいいなんて思ってるわけじゃないし、エヴァンジェリンさんが――あの子が何者であったとしても――誰かを殺そうとする所なんて見たくない)

 彼女は、小さく首を横に振る。

(それは、わかるんだけれど――何なのよ、戦うとか、殺すとか――私は単なる中学生だし、ネギだって、魔法使いかも知れないし、天才かも知れないけれど――単なる子供でしょう?)

 頭では理解している。魔法使いという存在が、今の自分達の常識の外に立つものであると言うことを。けれど、感情がそれを理解できない。彼ら魔法使いは、それこそ常識では考えられないような大きな力を持っている。世間に隠匿された、巨大な力を。
 エヴァンジェリンの呪いも、“魔法使いの従者”という存在もまた、その力の一端である。

「ネギ」

 明日菜は小さく言った。

「話し合いで全てが解決出来るなんて思わない。けれど、今必要なのは、本当に争う事なの?」
「……明日菜さん」

 そう、ネギ達は、戦うためにここにいた。エヴァンジェリンの従者である茶々丸が、一人になる時を狙い、あわよくば各個撃破をするために。彼らの身に降りかかる脅威から――身を守るために。

「姐さんの言いたい事も、理解してるつもりだがね」

 ネギの肩の上で、カモが言った。

「話し合って全てが解決出来るなら、俺っちだってその方が良いに決まってる。けど、相手の出方を見てみなよ、姐さん。桜通りで何人もの人間が、奴等の被害に遭ってる。兄貴だって、姐さんが助けなきゃどうなってたのかわかんねえ」
「そんなこと、言われなくてもわかってるのよ」
「魔法ってのは、単なる武器じゃねえ」

 明日菜の言葉を聞いても、カモは語るのをやめなかった。体を揺らすような動作で首を横に振り、彼女に言う。

「魔法使いにだって理非はある。敵対すればすぐさま魔法の乱れ撃ち、じゃあ、命がいくつあっても足りやしねえ。魔法使いであることイコール、争わなきゃいけないことなのか――姐さんはそう言いたいんだろうが、もちろんそうじゃねえ」
「だったら」
「けどな、現実を見てくださいよ、姐さん。確かに姐さんの言ってる事は理想だ。こんな事になるくらいなら、いっそ魔法なんてねえ方が良いのかも知れねえ」

 その言葉に、一瞬だけネギが反応する。彼の目標は、父のような“立派な魔法使い”になること。その為に、彼は年に似合わぬ研鑽を続けてきた。ものの喩えであるとはいえ、そんな彼にカモの言葉は重い。

「武器をちらつかせて、和やかに会話なんて出来るわけがねえ――けれど、一度剣を抜いちまった会議の場で、相手を信じるからってそれを収める事が出来るんですかい? 自分から歩み寄れば、他人は理解してくれる――そう言うことも、確かにあるかも知れねえ。けれど姐さんは、それを理由に、盗賊が跋扈する無法地帯で、丸腰で野宿する気になりますかい?」
「でも――茶々丸さんはクラスメイトよ?」
「それじゃ単純に、担任の命を狙うクラスメイトと、それを防ごうとする担任――姐さんは、どちらの味方に付くんで?」

 そう言われてしまえば、明日菜に返す言葉はない。そう問われれば、誰だって同じ答えを返さざるを得ないだろうし、彼女自身そうであるから、ここにいる。
 答えに窮した彼女は、ネギに目線を向け――凍り付いた。その先に立っていた茶々丸と、目線が合ったからだ。彼女は、こちらに気がついていた。さりげなく、足下にまとわりついてくる猫を引き離し、しかし優雅に、こちらに向かって一礼する。

「こんにちは、ネギ先生、神楽坂さん」
「茶々丸さん」

 ネギの声が、明日菜には酷く苦しそうに感じられた。

「私に、何か御用でしょうか?」
「単刀直入に言います。エヴァンジェリンさんが、僕の事を狙う理由はわかります。僕の父さんがエヴァンジェリンさんにしたことは、恨まれても仕方ない事だと思います。でも――我が儘かも知れませんが、僕はあなた達と争いたくありません」

 明日菜の喉から、小さな息がこぼれ落ちた。それは安堵故のものか、緊張故のものか――彼女自身には、判断できない。カモが小声で、何かを言ったような気がするが、よくわからなかった。

「それは、私たちがあなたの生徒だからですか? ネギ先生」

 茶々丸の澄んだ声が、明日菜の耳にも届く。ネギは黙って頷き――ついで、付け加えた。

「それはもちろんです。ですがそれ以上に、僕はあなた達と争いたくない。争いたくないから、争いたくないんです」
「そうですか」

 茶々丸は満足そうに頷いたが――ややあって首を横に振ると、一歩、足を踏み出した。彼女を心配そうに見上げていた猫たちも、一変した周囲の気配に気がついたのか、いつの間にか姿を消している。
 明日菜は、周囲の空気が、唐突に肌を突き刺すほどに張りつめたような錯覚を覚えた。

「私も出来れば、ネギ先生達とは争いたくありません。ですが、私はマスターの命令に背くことは出来ません」
「どうしてですか?」
「それが私の有り様だからです。ネギ先生や、神楽坂さんにはわからないかも知れません。それは、あなたがたに、どうしてあなた方は、ネギ・スプリングフィールドであるのか、神楽坂明日菜であるのか――そう問うているようなものです。恐らくお二人とも、その問いに答えなど見いだせないでしょう」

 ですから、と、茶々丸は言った。

「お二人を相手に力及ばずとも――お相手になりましょう」

 喉が引きつったように、声が出なかった。
 こんな、闇討ちのような真似をするのは、当然ながら明日菜の納得できるところではない。けれど、相手が――エヴァンジェリンと茶々丸が、ネギの命を奪うかも知れないという事実が、それに勝っていた。
 けれど茶々丸自身を前にして、明日菜は自分の体が、彫像のように言うことを聞かない事に気がついた。
 相手は、“ネギの命を狙っている敵”――という、記号的な対象ではなく――色々と事情を抱えている、自分のクラスメートだったからだ。
 今の今まで、何故それを忘れていたのか? ネギが血を吸われようとしているところを目の前で見たから? カモの言葉に丸め込まれていたから? 多分それは、どちらもあるのだろう。

「ネギ――」
「風楯――デフレクシオ――!!」

 目の前で、空気が渦を巻いた。ネギが唱えた呪文に呼応して歪められた空気が、茶々丸の一撃を受け止める。明日菜には、その動きそのものが殆ど見えなかった。
 攻撃を受け止められた茶々丸は、その場でたたらを踏みそうになったが、反動を利用して踊るようにネギから距離を取る。ネギは、その背中に明日菜を庇うように、杖を構えた。

「姐さん! ボーッとしちゃいけねえ! わかったろう! 姐さんの言いたいことは俺っちにもわかるが、向こうはそれをさっ引いても、こっちを敵として見てるんだ!」

 カモが叫ぶ。ネギの魔法がなければ、茶々丸の一撃は明日菜に届いていただろう。あれだけの速度の一撃を、無防備なところにもらったら――ただの怪我で済むかどうかは、保証できまい。
 明日菜の視界の中で、ネギが、茶々丸に杖を向ける。

「茶々丸さん、あなたが僕らと戦う理由は何ですか?」
「先ほど申し上げた筈です。私は、あなた方とはあり方そのものが違う。あなたがたがマスターの敵だと言うのならば、それだけで私には、あなた方と戦う理由があるのです」
「……僕は、エヴァンジェリンさんの敵にはなりたくないです。彼女が怖いからと言うんじゃない。確かに今の僕は逃げ回ってばかりの弱虫だけれど――それでも、あなた達の先生なんです」
「――それが教師としての義務だから、というのですか、ネギ先生」

 僅かに体の緊張を解いたように見える茶々丸が、ネギに対して問う。
 ネギは、油断無く杖を構えたままで、彼女の問いに応えた。

「いろんな思いが、僕の中でぐるぐる回っています。僕は、“立派な魔法使い”になるために、修行として教師になった。けれど気がつけば、少しでも立派な先生でありたいと思うようになっていた――それは多分、茶々丸さん達のお陰です」

 彼女たちが、ネギを「先生」として扱ってくれるから――自分は彼女たちの「先生」であろうと思う。彼は、そう言った。

「身に余るお言葉」

 にらみ合いの最中だというのに、茶々丸は小さく、頭を下げた。

「ですから!」

 そんな彼女に対して、ネギは懇願するように叫ぶ。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。明日菜はその様子を見て、場違いに考える。ああ、この少年は、傍若無人ではた迷惑な存在ではあるけれど、それでも一生懸命頑張ってきたのだ、と。
 それをして、今の状況だとか、彼のあり方だとかを全て認めようとは思わない。けれど単純に、明日菜はそう思った。そして彼もまた、自分の信念や、自らに降りかかる火の粉を払いのける、と言う当然の行動と――教師としての自分や、茶々丸やエヴァンジェリンの背負うものの間で揺れているのだろう、と言うことに気がついた。

「お願いです! もうこんな戦いを、これ以上続けたって意味が無いと思います! どうか――これ以上、僕らを狙うのはやめてください! 呪いの事だったら、僕も協力します。死なない程度だったら僕の血をあげたっていい。だから、だからもう――」
「……ネギ先生の仰ることはよくわかります。けれど、私はそれでも止まることは出来ません」

 茶々丸は、小さく、だがはっきりとそう言った。

「……吸血鬼の下僕の姉ちゃん――“茶々丸”さんよ」

 彼の肩の上で、カモが言う。

「俺っちは、兄貴や姐さんと違って、あんたら三年A組の生徒との接点は薄い。だからあんたを単なる“敵”として、ここで各個撃破しちまおうと思ってた――単純にその事は詫びよう」
「カモ君」
「だがな、それは無いんじゃねえか? 相手はあの真祖の吸血鬼――六百万ドルの元賞金首、闇の福音エヴァンジェリンだ。そしてあんたはその下僕だ。そりゃあ、マスターの言うことには逆らえねーだろうよ。けど敢えて言わせて貰うぜ。そりゃあねえ話だろう、茶々丸さんよ」
「ネギ先生の私たちを気遣う気持ちは――身に余る喜びです。あなた達と敵対しなければならないことが、残念でならない程に」
「それが言い訳になると思ってんのかよ、ええ?」

 ちょっとカモ君――と、ネギは慌ててカモを窘める。

「いや、兄貴、ここは言わせておくんなせえ。俺っち、それだけは言っておかねえと気がすまねえ。茶々丸さん、あんたは確かにいい人だ。ここに来るまでの間、それは見させて貰った。さぞ、今の状況はあんたの良心に響くだろうよ」
「……」
「だが、兄貴はここまで妥協したんだ。姐さんとは違って、兄貴は骨の髄まで“立派な魔法使い”なんだよ。その兄貴が、本来問答無用で滅ぼされるべき闇の福音を相手に、救いの手をさしのべようって言うんだぜ?」
「カモ君、僕はそんな――」
「そんな兄貴を、あんたは倒そうって言うのかい――俺っちはこの通り、居ても居なくてもいいような存在だからなあ、余計にそう思うんだ。こんな事をあんたに言っても仕方ねえのかも知れないが――あんたらの身勝手には、腑が煮えくりかえる思いだぜ」

 短絡的――と言えばそうなのかも知れない。けれど、カモにもそれなりの気持ちというものがある。彼は確かに少々後ろ暗いところがあるお調子者だが、危険が集約することがわかっているネギの側に身を置くと言うことは、利己的な意味で考えれば正しい判断とは言い難い。
 ネギも明日菜もそれに気がつかないし、カモ自身も恐らく、自分のことはずる賢く、余計なことばかりをする馬鹿だとしか考えていないだろう。
 けれどそんな彼が発した言葉は、確かに茶々丸の心を捕らえた。

「――ネギ先生」

 茶々丸が、小さく口を開く。

「私はもう、自分の意志では止まれない――ネギ先生達の脅威となるために、先生の前に立ちふさがり続けるでしょう」
「……茶々丸さん」

 明日菜の口から、自然と彼女の名前がこぼれる。

「ですから――敢えて言います。私を破壊してみなさい。そうでなければ、私は止まりません」
「なっ……!」

 茶々丸は腰を落とし、構えを取る。先ほどの攻撃とは桁違いの殺気を、そこには感じ取ることが出来る。ネギの魔法では、その攻撃を受け止め切れまい。ましてや一般人の明日菜が、そんな攻撃を喰らった時には――

「やめてください!」
「私からはそうすることは出来ません――私を止めてください、ネギ先生」
「兄貴! やっちまえ! 奴は本気だ! 兄貴ならともかく、姐さんを狙われたら、もうどうにもならねえっ!」

 明日菜は動けない。
 視界の中で、茶々丸が軽く腰を落とし――

「――呪文始動――光の精霊十一柱・集い来たりて――魔法の射手、連弾、光の十一矢――ラス・テル・マ・スキル・マギステル――ウンデキム・スピーリトウス・ルーキス・コエウンテース――サタ・マギカ・セリエス・ルーキス――!!」

 ネギの杖から、光の奔流が迸った。











暗中模索。
何度か書き直して、とりあえず上げてみる。
後日修正の可能性――あまりこういうのはよくないのだろうけれど、
それでも、今は何をどうすればいいのかがわからない。

じっくり考えて、じっくり勉強して――
もっといい話を作ろう。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・異邦の住人
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/15 10:55
 誰にでもある、原初の風景。最初の記憶。
 それは、あなたが心を持った瞬間。本当の意味で、あなたという人が生まれた瞬間。




 「――呪文始動――光の精霊十一柱・集い来たりて――魔法の射手、連弾、光の十一矢――ラス・テル・マ・スキル・マギステル――ウンデキム・スピーリトウス・ルーキス・コエウンテース――サタ・マギカ・セリエス・ルーキス――!!」

 “魔法の射手”は、戦闘に使われる魔法の中では、基本的なそれである。己の得意とするものによって、それぞれに炎であったり氷であったりと形態はさまざまであるが、魔法の力で凝縮したエネルギーを、敵に向かって撃ち出すという単純な技だ。
 しかしその威力は、普通の人間が出せる力の限界を軽く凌駕する。物理的な威力に付加的な威力が上乗せされ――熟練された魔法使いの放つ“魔法の射手”をまともに受ければ、生身の人間などひとたまりもない。
 今まさにネギが、その様な強烈な魔法を放った相手は、人間というわけではないが――いくら彼女であっても、この攻撃を受けて無事で済む筈はない。
 ネギの意志の下に紡ぎ出されたそれは、まさに光の矢。高純度のエネルギーの塊である“魔法の射手”に触れた大気が一瞬で膨張し、衝撃波が轟音となって響き渡り、砂塵が巻き上がる。
 ネギはその光景を――まるで、スローモーションでも見ているかのように眺めていた。
 自分がその魔法を撃ったと言う実感が、まるでない。その魔法の向かう先に立つ彼女は――一体何だったか? 
 ああ、そうだ――彼女は、絡繰茶々丸。凶悪な、そして強大な吸血鬼、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの“魔法使いの従者”。つまりは、彼の敵である。
 自分は、出来る限りの事をやったはずだ。しかし彼女は、それに聞く耳を持たず、自ら敵であることを選んだ。ならば、自分が躊躇う必要はない。今ここで躊躇えば、自分を信じてこちらについてくれた少女、神楽坂明日菜の身にさえ、危険が降りかかる。

(僕は――敵を倒さなきゃならない。“立派な魔法使い”なら、敵を倒して味方を守らなきゃならない。そんなのは当然だから――)

 “立派な魔法使い”――ひどく抽象的でおおざっぱで、しかも乱暴な括りである。しかしそれは、“魔法”という技術を知る人間全ての憧れであると言っても良いだろう。
 魔法とは、人間が扱う技術でありながら、生物としての人間の範疇を大きく超えた力。それを御する人間は、その力が持つ大きさ以上に、色々な意味で強く、そして立派であらねばならない。
 それが、“魔法使い”達の常識だった。
 例えば、赤ん坊に銃は使えない。下手をすれば、自分自身を拳銃で撃ち抜いてしまうだろう。
 つまりはそれと同じ事。銃は確かに強力な武器だが、ちゃんとした人間が扱わなければ暴発する。道具ではなく、自分の力として扱う魔法ならば、それはなおのこと。自分達は赤ん坊ではない。つまり、“立派な魔法使い”でなければならないのだ。

(――お父さん)

 霞が掛かったような脳裏に、一人の男の姿が浮かぶ。もはや、はっきりと覚えていないけれど、自分によく似た赤毛を持った、長身の青年。父親と言うよりも、兄のような雰囲気を漂わせた青年。
 ナギ・スプリングフィールド。
 魔法使いなら知らない者の居ない、伝説の英雄。千の呪文を操り、並はずれた魔力を持ってして、全ての敵を打ち砕いたと言われる、まさに現代に生まれた“伝説の英雄”。自分――ネギ・スプリングフィールドの実の父親。
 彼の誕生と時期を同じくして死亡したと言われながらも、六年前、ウェールズの村が魔物の急襲を受けた際に現れ、それを一人で薙ぎ払ったと言われている。

(立派な、魔法使い)

 あの日の光景は、今もネギの脳裏に焼き付いている。
 燃えさかる村、物言わぬ石像と化した村人達、深手を負いながらも、自分に向かって逃げろと叫ぶ、大切な人――そして、命運尽き果てたかと思ったその時、一陣の風の如く現れて、恐怖を一掃してしまった父親。
 それが、ネギの原初の風景。
 今のネギを形作る、もっとも深い場所。
 それ以来ネギは、ひたすらに彼の背中を追ってきた。魔法を学び、己を鍛え、立派な人間であろうと努力してきた。人はそんなネギを天才と呼び、神童と褒め称えた。
 けれど、ネギはそんな周囲の言葉に満足しなかった。何故なら彼自身は、目指し続けるものへの道半ば――それもまだ道を歩き始めたばかりであると思っていたからだ。
 彼の目指し続けるもの――それは“立派な魔法使い”であり、彼にとってのそれとは、己の父、ナギ・スプリングフィールド。
 実のところ、ネギはナギの事を殆ど知らない。それを単なる憧れであると、ある人は言うかも知れない。
 けれど、それがどうしたとばかりに、ネギは、僅かばかりにかいま見た父の背中を追い続ける。
 ネギは確かに優れた才能を持っている。僅か一ヶ月足らずで外国の言語を覚え、自分より年上の女学生に対して指導が出来る頭脳も、超人的な飲み込みの早さと、宝石のように恵まれた資質を併せ持つ身体能力も――そして、ずば抜けた魔力の容量も。
 そのどれもが、天才と呼んで相応しいものかもしれない。
 けれど基本的に、ネギは己の力を頼りに力を振るうことをしない。そう言う意味で言えば彼は努力の人であり――逆に、彼をして天才と呼ぶのならば、一つの目的をとことんまで目指すそのあり方であろう。
 だから彼は、人が見れば無茶だと言えるまでの努力をしてきた。
 僅か十歳の子供に対して、外国で教師をやれなどとは、常識的に考えてどうかしている。けれど、彼は必死に頑張ってきた。
 “立派な魔法使い”に――いや、自分が目指すもののために。
 だから、立派な教師であろうと――

(……そうだ、僕は――魔法使いであるけれど、今は先生でもあるんだ)

 ならば、と、ネギは自問する。
 目の前に立つ少女は、何者だ?
 悪の魔法使い、エヴァンジェリンの従者?
 人間ではない、何か別の存在?
 それとも――自分達の、敵?

 いや――そのどれでもないに決まっている!

(茶々丸さんは――僕の生徒だ!)

 色あせていた景色が、一瞬で本来の色を取り戻す。錆び付いていたように淀んでいた時間が、加速したように動き出す。
 気がつけば、“魔法の射手”は、茶々丸を飲み込む寸前だった。

「散れっ!」

 ネギは、喉も裂けよとばかりに叫んだ。今まさにその力でもってして、茶々丸を蹂躙せんとしていた“魔法の射手”は、強烈な意志の上書きにより制御を失う。何発かが彼女の体を掠めたものの、彼女自身には損傷を与えることなく、あさっての方向に飛び去る。
 自らの意志が作り出し、自らの意志で操っていたとはいえ、それは、的に向けた放った矢を、強引に空中でねじ曲げるに等しい行為。精神力を使い果たしたネギは、その場に放心するように膝を突き――

「あ、ちょ、ちょっと、ネギっ!」
「兄貴っ!」

 明日菜はそんなネギに焦ったような声を上げ――カモは彼の方から飛び降り――
 その刹那、“魔法の射手”が飛び去った方向から、それが着弾したのだろう爆発音と――凄まじいばかりの、自動車のタイヤのスキール音が聞こえた。
 この場所のすぐ近くには、あまり交通量は多くないとは言え、道路が通っている。まさかとは思うが――明日菜の脳裏に、謎の怪光線に貫かれた自動車が事故――などという新聞記事が鮮烈に浮かぶ。この辺り、新聞配達というアルバイトをこなしている事が裏目に出た。
 へたり込んだネギが気にならないわけではなかったが――そちらを一瞥して、彼女は茂みを乗り越えて、音が聞こえた道路へと向かう。
 今のネギとは、顔を合わせづらいと言う自分の気持ちに、気がつかない振りをして。

 ――茶々丸は、何時しかその場から姿を消していた。




「大丈夫ですかっ!?」

 明日菜の視界に入ってきたのは、目を覆いたくなるような光景だった。と言っても、そこに無惨な光景が展開されていたわけではない。これからのことを考えると頭が痛くなる、そう言う意味で、明日菜は一瞬、文字通りに額と瞼の辺りを、手で押さえてしまった程だ。
 地面に、数メートルほどの大きな穴が空いている。これは恐らく、ネギの“魔法の射手”が抉った穴であろう。
 これが茶々丸に命中していたら――と考えると、背中を冷たいものが走る気がしたが、彼女は努めてそれを考えないようにした。
 果たして、彼女は叫びながら、その光景の一角に駆け寄る。
 一台の車が、歩道に乗り上げていた。
 特に破損している様子はないので、単純に道を外れて、勢い余って歩道に突っ込んだだけだろう。それに巻き込まれた歩行者も居ないようである。
 けれど、道路に刻まれたクレーターの辺りから、今現在の車の位置にまで、黒々と路面に残るタイヤの跡が、このドライバーがどれほどの恐怖を覚えたかを代弁している。少しの躊躇いはあったものの、明日菜は思い切って、車のドアを開けた。

「あのっ――大丈夫ですか? 怪我とか、してませんか?」
「あー……死ぬかと思った……」

 運転席に座っていたのは、一人の青年だった。年が若い、と言うのは一見してわかる顔立ちをしているのだが、その頭髪は老人のように白い。
 頭を押さえながら呻く、その少し変わった青年を、明日菜はどうにか助け起こそうとしたが、彼はそこで彼女の事に気がついたのだろう、苦笑して首を横に振る。

「ああ、平気平気。何処にもぶつけず何とか上手くスピン出来たから――それに、俺の言う「死ぬかと思った」ってのは、全然平気なのと同義だって、仲間内じゃそれなりの評判なんだ」
「……はあ」

 青年の言うことの意味が、いまいちわからなかった明日菜は、曖昧に頷く。

「しかし何だって、道路がいきなり爆発なんてするんだ? ガス管でも破裂したか? それとも、大昔の不発弾とかが埋まってたってオチか?」
「あ……それはその……何――でしょうね」

 まさか、自分の担任教師が放った“魔法”の流れ弾である――そんなことが言える筈もない明日菜は、顔を引きつらせてそう応えるしかない。もっとも、普通はそんな事実に思い当たる人間など居るはずがない。青年は明日菜の様子を不思議そうに見ていたが、ややあって言った。

「で、お嬢ちゃんの方は大丈夫か? すぐすっ飛んできた所を見ると、結構近くに居たんだろう?」
「い、いえ、私は――その、もの凄い音が聞こえたのでこっちに来ただけですから」
「そうか。ならいいんだが――全く、このところこの手の理不尽トラブルとはおさらば出来たかと、内心で期待してたんだが――まったく神様ってのは人が悪い――いや、それは大分前にわかってたことか?」
「何かあったんですか?」
「え? あ、ああ、いやいやこっちの話。ともかく俺は大丈夫。車を動かすからそこを――あ、いけね」

 青年は、ハンドルの脇――エンジンが止まってしまったせいだろう、点滅を繰り返すイグニッションスイッチを押し込もうとしたが、メーターの片隅で点滅する記号を認めて、小さく舌打ちする。

「お嬢ちゃん、悪いんだけど、助手席の下にキー落としちまったみたいなんだ」

 申し訳なさそうに、青年は言う。最近の車が、キーをポケットに入れたままでもエンジン始動が出来る――ということは、テレビのコマーシャルなどから明日菜も知っている。けれど、そのリモコンキーの電波範囲から外れてしまえば、当然エンジンは掛からない。こういう場合、鍵穴にキーを刺しっぱなしにしていた昔の車ではあり得なかった手間である。
 しかし助手席にキーが落ちたのならば、自分で拾えばいいではないか。まさかこの男は、自分を車に連れ込むつもりだろうか――あり得ないとは思いつつも、明日菜の顔に、僅かに緊張の色が浮かぶ。

「ああ――悪い、俺、脚が悪くてさ。この車だって、見ての通りの車椅子用だし」

 しかし果たして、その表情を機敏に読み取ったのか、青年は苦笑しながら、運転席周り彼女に見せる。ハンドルに取り付けられた取っ手や、シフトノブの脇に存在する見慣れない大きなレバー。明日菜は障害者用の自動車など見たことがないが、青年の言っている事が嘘では無いことくらいはわかる。
 途端に、失礼な事を考えていた自分が恥ずかしくなって、彼女はわけもわからずに謝ってしまう。

「あ、あの、ごめんなさい!」
「いいっていいって――女の子に犯罪者扱いされるのは慣れてるから」
「……はい?」
「あー、いやいやいやいや、何でもない。とにかくそう言うわけなんで、悪いけど頼めるかな?」

 青年の言葉に、何か引っかかるものを感じながらも、明日菜は左側後部のドアから、車内に上半身を突っ込んで、助手席の下に手を伸ばす。この時に、運転席の後ろ側に収まった車椅子が嫌が応にも目に入り、彼の言葉が真実であったと、彼女は重ねて理解した。
 鍵はすぐさま見つかった。手を伸ばした先、指先に触れた固いものを、頑張ってもう少しばかり手を伸ばし、引っ張り出してみれば、それが果たして、この車のメーカーエンブレムが刻印されたキーだった。
 彼女は小さく頷いて、顔を上げたところで――青年の白い頭髪が目に入り、動きを止める。

「どうかしたか?」

 白い髪、けれど、歳は若く、そして車椅子に乗っている――級友から聞いた断片的な情報が、唐突に明日菜の頭に蘇る。何故今まで気がつかなかったのだろうと言うくらいに、その話は、目の前にいる青年に当てはまる。
 だから、明日菜は言った。

「あの、ひょっとして――横島――横島忠夫さんですか? 犬塚さんの保護者の――」
「えっ? ――そうだけど、お嬢ちゃんは? シロの友達?」

 明日菜は小さく頷いた。

「はい、私、犬塚さんのクラスメイトの、神楽坂明日菜って言います」




 横島忠夫――かの魔神アシュタロス、核ジャック事件の折に活躍したと言われる、当時の若手ゴースト・スイーパーの中心的人物。その詳しい人物像まではわからないが、どうやら霊能力者としてかなりレアリティの高い能力を持ち、日本最高のゴースト・スイーパーとして名高い美神令子除霊事務所に所属している――
 それが、明日菜がクラスメイト――主に和美やあやかと言った“腐れ縁”を持つ人物から聞き及んだ情報であった。しかしその殆どは、同じクラスに転校してきた“犬塚シロの保護者”というものであり――その折にエヴァンジェリンの事でネギに振り回されていた明日菜には、それ以上の事を知ろうとする気もなければ、その余裕もなかった。
 しかし、考えてみれば彼はゴースト・スイーパー。
 怪奇現象に関しては、プロフェッショナルである。

「あのっ……」
「ん?」

 だが言葉を紡ぎかけて、明日菜ははっとした。
 魔法の秘匿がどうとか、ネギとエヴァンジェリンの問題を勝手に外部に持ち出す事への躊躇いだとか、そういうものではない。
前者に関して言えば、相手は“魔神”すら相手にしたゴースト・スイーパーだ。魔法の事など既に知っているか――仮に知らなかったとしても問題は無いだろう。実際はどうだか知らないが、明日菜はそう判断した。
そして後者では――既に、その様なことを言っていられる段階を過ぎていると、明日菜は感じていた。何故なら――

「お、おい、大丈夫か?」
「……平気です」

 身震いして己を抱きしめる明日菜を心配して、青年――横島が声を掛ける。
 明日菜は、思い出してしまっていた。体がすくみ上がり、言うことを聞かなくなるほどの、茶々丸の本気の殺気を。そして、人間などひとたまりもなく吹き飛ばしてしまうだろう、ネギの放った恐ろしい魔法を。
 ここに至るまで恐怖というものを感じなかったのは、ひとえにその実感が無かったからだろう。ネギと出会ったあの日のトラブルも、ドッジボール勝負の一騒ぎも――巨大な図書館、図書館島での出来事でさえも、それは単なる「トラブル」であり、単なる「騒ぎ」だった。
 真剣に、相手を傷つけんとする強烈な意志のぶつけ合い――“争い”という言葉が、今日初めて、明日菜の中で実感を持ったのだ。

「平気ですって言ったって――」
「大丈夫です。本当に、大丈夫だから――」

 震えだしそうになる体を、必死に押さえ込む。ともすれば涙が溢れそうな瞳を、強く閉じる。
 明日菜が躊躇ったのは、魔法の秘匿のためでも、ネギとエヴァンジェリンの為でもない。いつしか、相手といかにして争うかを考えている自分が、恐ろしくなったからだ。これでは――自分には到底理解できないと感じていた、あのオコジョ妖精――カモと何も変わらないではないか。
 いくら自分自身でそれを否定したところで――自分は何故、目の前の青年を頼ろうとしたのか、その理由を考えてみれば、結果は明白。
 自分は、茶々丸を、そしてエヴァンジェリンを“倒す”方法を探ろうとしていたのだ。世の中の怪異――時には魔法だとか吸血鬼だとか、その様な常識外の代物を相手にする事もあるだろう、プロフェッショナルの意見を求めたかったのだ。
 ――もちろん、彼女自身、自分の今の気持ちが整理できているわけではない。もしかすると、一種の恐怖と高揚感が、彼女にそう思わせているだけかも知れない。けれど、自分自身がそう思ってしまったのだから、仕方がない。
 だから、明日菜は耐える。自分に対する嫌悪感と恐怖心に押しつぶされてしまわないように。

「……」

 そんな明日菜を、しばらく困ったように見つめていた横島だったが、ややあって、軽い調子で言った。

「あー、何だ。 そこのおじょーさん。君のような子にそんな顔は似合わない。今から俺と、笑顔を探しに行かないか?」

 こういう時の自分のあり方と言えば――道化になるに限る。果たしてそれは逃避とも言えるのだが――昔からの親友である、某美形人気タレントの真似をして微笑みかけてみせる。はっきり言って、それは滑稽であった。けれど明日菜は、そんな彼の表情を見ていない。
 力なく、彼女は言った。

「……はい」
「え」

 横島忠夫、二十代半ば独身、扶養家族有り――厳密には単なる言い訳であり、誤魔化しであったとはいえ――人生で初めて、女性に“甘い言葉”を呟いて受け入れられる――つまりは“ナンパ”に成功した瞬間であった。
 もっともその瞬間の彼の顔と言えば――言うまでもなく、そのような決定的瞬間には不似合いなものであったけれども。




「横島さんは――車が好きなんですか?」

 小気味の良いエンジンの鼓動を感じながら、助手席に座る明日菜は、隣でハンドルを握る横島に問うた。
 先ほどから沈黙に耐えかねていた横島は、渡りに船とばかりに、彼女が振ってくれた話題に食いつく。

「何でそう思うの?」
「いえ――私は車の事なんてよくわからないけど、これってスポーツカーでしょ?」
「ん、まあ、そうだね。ポルシェとかフェラーリとかランボルギーニとか――そういう“スーパーカー”とはいかないけど」

 彼の操るこの車は、国産スポーツセダンのラリー・レプリカモデルだ。“自動車”という常識から逸脱しないその落ち着いたスタイルに、所々に専用にあしらわれたカスタムパーツが、程よいアクセントを添えている。
 体を包み込むようなこのシート――バケットシートと言うらしいが――も、ひとたび座ってみれば、適度な硬さとホールド性が、明日菜には心地よく感じられた。横島は、アクセル代わりのスロットルレバーを押し込み、ハンドルに後付けされたパドルを軽く引いて、ギアを入れ替える。

「まー、無駄と言えば無駄なのかも知れないけどさ。美神さんがこういうの好きで――ああ、美神さんって言うのは」
「ゴースト・スイーパーの美神令子さんの事ですか?」
「そう。車に関して言えばその母親も、かな? とにかくその影響で――お金にあんまり不自由しなくなってからは、見事にはまっちまって。いやさ、俺も最初はボロの軽四か何かで良いと思ってたんだけど、美神さんが、そんな車でうちの事務所に来るなって。まったく、そう言うこと言うならちゃんと給料払ってから――」

 そこで横島は、何故か大きく咳払いをした。

「ど、どうしたんですか? 風邪ですか?」
「いや――あの人に関して言えば、迂闊な事は絶対に言えんのよ」
「でも、ここって車の中ですよ?」
「喩えそれがどんな状況下であってもだ。あの人は死の淵に――九割九分死にかけていたところで、“このシリコン胸”の一言で目を覚まして俺をぶん殴る人なんだぞ?」
「……なんですか、それ」

 あまりにもと言えばあまりの横島の言葉に、明日菜は呆然と彼を見る。

「呼び出すのが目的だったとはいえ、電話で悪口言ったら、物理的にあり得ない速度で飛んできて半殺しにされたこともあったっけ。いやー、あの頃は俺も命知らずだった」
「あはは……」

 何処までが本当なのか冗談なのか判断できず、明日菜は引きつった笑いを浮かべた。それを見た横島は、自身も悪戯好きの子供のような笑みを浮かべる。

「おー、どうにかこうにか笑ってくれたな。明日菜――ちゃんだっけ? 俺みたいな奴が言っても気持ち悪いだけかも知れないけどさ、君みたいな子は、やっぱり笑顔でいるのが一番似合ってるよ」
「そんな、私は――」
「おっと、今は余計なことは考えなくていいさ。何せ、俺たちは君の笑顔を探すためにドライブをしてるんだぜ?」

 ハンドルを切りながら、横島はウインクをしてみせる。
 それがまた、それこそ気持ちが悪いくらいに似合っていた。似合っていたのだけれど――何故だろうか、その表情を見ると吹き出しそうになってしまうのは、彼のキャラクターであろうか?

「悩みなんてのは、考え出すときりがないもんなんだ。おまけにパニクってる時は、すぐ側にあるものだって見えやしない。だったらそう言うときにはどうすればいい? 一度全部忘れてみればいい。ああ――格好付けて悪いけど、これ、知り合いの受け売りだけどさ」
「でも――」

 そうする事への罪悪感のようなものを、明日菜は感じる。
 実際に、彼女は何か悪いことをしたわけではない。カモの口車に乗せられた面はあっても、ネギに――ひいては、彼の側にいる明日菜に、直接的な危機が迫っていたと言っても間違いでは無いのだから。
 彼女が間違っていたわけではない――けれど、まかり間違えば取り返しの付かない事になっていたかも知れないと考えれば、どちらかと言えば責任感の強い彼女は、自分に何か責任があるように感じてしまう。
 誰がそれを、錯覚であると言ったとしても。

「そういえば、シロは明日菜ちゃんのクラスでちゃんとうまくやれてるか? まあ、あいつのことだから心配はしてねえけど――なんつうか、保護者としてな」

 唐突に変えられた話題に、再び思考の海に沈みかけていた明日菜は、はっと我に返る。

「え、ええ――まだ転校してきて日が浅いけど、もうクラスにとけ込んでますよ? 朝倉や委員長と一緒にいるのをよく見るし――」
「ああ、朝倉――和美ちゃんか。三年後くらいが実に楽しみな――ん、んんっ! うん、まあ、もともとあいつのことだから、そうだろうとは思ってたんだよ。あいつ、変な奴だけど、良い意味で明け透けで」

 座敷犬みたいに、人の心に入ってくる、と、横島は言った。明日菜は、横島が吐いた不穏な言葉にも気がつかずに、言い返す。

「座敷犬はないんじゃないですか?」
「それがなあ、あいつ、年々座敷犬化が進行して来てる気がするんだが。これ言ったら怒るからあんまり言わないけど、近頃じゃ――ははっ、花の独身だっつうのに、何か父親になったみたいな気分だな」
「父親ですか?」
「おう、知ってるかもしれないけど、うちにはもう一人、小学生の女の子が下宿してんだ。まあこっちも、世間ズレしてる割に人当たりの良い奴だから、あんまり心配する必要も無いんだろうけど――気がついたら、ちゃんと学校でうまくやってるんだろうかって、詮もない心配をしてる」

 その女の子というのは、芦名野あげはと名乗ったあの少女の事だろうと、明日菜は思い返した。けれど、そんなことよりも、彼女の中で、目の前の青年――横島忠夫に対して、ある一つの言いたい事が、むくむくと首をもたげてきた。

「――父親、ですか?」
「おう。この歳であんなデカい娘を二人も持つ事になろうとは。永遠の煩悩少年を誓ったあの頃からは想像もつかん」
「あっちはそうは思っていないかも知れませんよ?」
「そりゃまあそうかも知れんがな。シロは早くに親父さんを亡くしてるし、あげはは――まあ、二人ともちょっと複雑な家庭環境を抱えてるんだが、その辺は勘弁な。ともかく、父親としては全然駄目なんだろうが、気がついたらいい親父になろうと思ってんのよ。馬鹿でスケベなガキだった俺がさ」

 もちろんそれを深く聞こうとは思わないし、彼女が聞きたいのはそういうところではない。いつか一緒に下着洗わないでとか言われたら、俺は発狂するかも知れんな――などと呟いている横島に対して、明日菜は瞳を薄く細めた。
 犬塚シロが、彼女の“保護者”に対して好意を抱いているというのは、もはや三年A組の大半が知るところであった。彼女の明け透けな性格故か、それとも、そのような匂いを漂わせた相手が、“麻帆良のパパラッチ”であったのがまずかったのか――もっとも、彼女でなくとも、そういう話には人一倍敏感な女子中学生である。遅かれ早かれ、その噂は広まっていただろうけれども――
 ともかく、シロと同じく年上の男性――それも、自分が通う学校の教師――に恋心を抱く明日菜としては、何かしらこの目の前の男に言ってやりたかった。

「横島さんは、もう少し女の子の気持ちを考えた方が良いと思います」
「ぐはっ!? な、何や、俺は明日菜ちゃんに、何や悪い事でもしてもうたか!?」

 突然何故か関西弁に――しかし、普通に離すより何故かしっくり来る調子で、横島は大げさに驚いて見せた。
 だが、明日菜はそんなことを気にしては居ない。
 彼女の中で、今まで、未だ“転校生”扱いであった犬塚シロという少女が、急激に身近な存在に感じられた。

「……犬塚さんも苦労してそうだなあ」
「ちょ――ちょっと、明日菜ちゃん? 俺、何か君に悪い事したか!?」
「いいえ? ――私に対しては、何も」
「何その含みのある言い方!?」




「……それじゃ、俺、ちょっと報告書書かなきゃいけないから――でもこの時間ならもうシロかあげはが帰ってきてると思うから、適当に時間潰しておいてよ。夜までには寮に送っていくから」

 何故だか少し疲れたような様子で、横島は車から降ろした車椅子に腰掛けた。慌ててそれを手伝った明日菜は、ばつが悪そうにその車椅子を押しながら、首を横に振る。

「いえ、そんな――すいません、つい、何だか調子に乗っちゃって」
「……ま、俺の精神力と引き替えに、前途有望な美少女が、少しでも元気になれたんなら、安いもんさ」

 確かに、あの場所から逃げ出してきたも同然の明日菜であり、今ネギと顔を合わせるのが気まずいと考えてはいたが――少しだけ軽くなった自分の気持ちにも気がついていた。
そうだ。最悪の事態は避けられた。茶々丸は無事であるし、ネギも自分の気持ちに気がついたのだろう。ならば――何のための魔法使いだとか、エヴァンジェリンの何たるかであるとか――色々と問題は残っているけれど、今一度腹を割って、彼と話してみよう。そう言う気持ちになっていた。
 我ながら、何と単純な性格なのだろうと明日菜は思う。
 けれど、今に限って言えば――それを嘆いても仕方ないと、彼女は考えた。

「ただいま」
「お、おじゃまします」

 横島と共に、古い日本家屋の玄関を潜る。初めて訪れる他人の家なので、さすがに少し緊張気味だ。
 ほどなく、廊下をやって来る足音が、ぱたぱたと。

「お帰りなさいませ、先生――仕事の方は無事に片付いたで御座るか――おや?」
「……犬塚さん?」

 明日菜は、奥から現れたクラスメイトの姿に、一瞬呆然とした。藍色に染め抜かれた、品の良い小袖――その上に古めかしいエプロンを付けたその格好に、笑顔で横島を出迎えるその仕草まで。何だか彼女が、とても自分と同い年とは思えない――とても大人びて見えたからだ。

「……神楽坂――いやさ、明日菜殿。何故に明日菜殿が、先生と?」
「あ、いや、それがな」

 クラスメイトの意外な姿に、しばし呆然とする明日菜に変わって、横島が応える。しかしそれより先に――

「はっ!? ま、まさか、先生は己の禁を破り、いたいけな女子中学生を毒牙に掛けたので御座るか!? 先生は子供には手を出さぬと、己の身を嘆きながらも安堵しておったと言うのに!」
「待てや、おい」
「くうっ! 明日菜殿! 明日菜殿は、まだ中学三年生で御座ろう! 何故にもっと自分の体を大切にせぬ! 何か起こってからでは、後悔しても遅いので御座るぞ!」
「……あの、犬塚さん?」
「もしや――もしや! 明日菜殿も同意の上だと言うので御座るか!? その邪気のない顔で、“横島さんの子供が――”などと、拙者に微笑むので御座るか!? 認めぬ!! 拙者、絶対に認めぬでござ――きゃんっ!」

 先ほどの様子が嘘のように――玄関先で頭を抱えて喚くクラスメイトを、明日菜は別の意味で呆然と見遣り――横島はそんな同居人にこめかみをひくつかせ――
 唐突に、珍妙な悲鳴と、小気味の良い音と共に、シロが前のめりにつんのめった。

「何を大声で恥ずかしい事を言ってるんですか、シロは」

 見れば、彼女の背後に――何故か巨大な、紙製の鈍器――つまりは“ハリセン”を持った小柄な少女が佇んでいた。後頭部を押さえて蹲っているシロを見ると、それは果たして、ただのパーティーグッズ以上の威力を持っているのか、あるいは――

「おや、あなたは、この間のお姉さん――こんにちは、です」
「こ、こんにちは――あげはちゃん、だったかしら?」

 顔を引きつらせながらもどうにか受け答えが出来た自分に、惜しみない称賛を送ってやりたいと、明日菜は思った。

「はい、そうです。よもや、ヨコシマ専用ハリセンを、シロに使う日が来ようとは――ともかく、お帰りなさいです、ヨコシマ。そしていらっしゃい、お姉さん」

 そう言って、幼い少女は、柔らかな笑みを浮かべた。
 先ほどシロが浮かべていたのと、よく似た微笑みを。











今更だけど、人に見せる為の文章とは難しいものだと痛感。
もっと、もっと勉強したい。
こういう場は間違いなくそれが出来る場所の一つで、
そういうものが存在する幸せ。

――やりたいことが多すぎて、時間が足りない。
どうして一日は四十八時間じゃないのか――いや、
その分仕事とかをさせられても困るが(笑)

シリアスとギャグは、別個に考えるべきではないのだろうか。
もちろん、本筋の流れは必要だし、
シリアスなドラマに、勢いに任せたギャグは要らない。
ギャグマンガにもまた、唐突にシリアスな場面は要らない。

一つの作品の中で、その緩急の付け方が見事だと思います。
ええ、「GS美神」も「ネギま」も。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・紡いだ絆
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/16 11:28
 思い返してみよう。大切な記憶に、始まり方なんて関係ない。




「明日菜殿、お茶を淹れたので、どうぞ――火傷に気をつけて召し上がれ」
「あ、ありがとう」

 着物を纏い、エプロンを掛け、お盆を持った――そんな姿のクラスメイトから、湯気の立つ湯飲みを受け取って、明日菜は素直に礼を言った。

「でも良かったの? 突然やって来た私が――晩ご飯まで貰っちゃって」
「はは、我が家は皆が皆、よく食べる故に。足りなければ困ることはあろうが、余って困る事はないと、いつも量だけは多めに作っているので御座る。故に、明日菜殿一人が増えたくらい、どういう事は御座らんよ」
「いや、そう言う事じゃなくて――でも、犬塚さんって、すごく料理が上手いのね。私らの歳であれだけの家事が出来るのって――尊敬しちゃうなあ」
「元々食べることが人一倍好きで御座る故に」

 明日菜の褒め言葉に、シロは照れくさそうに頭を掻きながら応えた。

「それと明日菜殿、堅苦しい言い方は抜きにして、どうか拙者の事は“シロ”と呼び捨てに」
「ん、それじゃあシロちゃんでいい? 朝倉がそう呼んでるみたいだし」
「結構。拙者この通りの男勝りである故に、可愛らしい渾名で呼ばれる事に、悪い気はせんで御座る」

 そう言われて明日菜は、そんなものだろうかと思った。この家に来た時に、玄関で意味不明の喚きを上げていたものの、それ以外では――和服を着こなし、家事に勤しむ彼女は、とても“男勝り”などと形容出来るようには見えなかった。

「何を言っちゃって。私ちょっと驚いちゃったよ。シロちゃん――何だか、一昔前のお嫁さんみたいなんだもん」
「……拙者が、で、御座るか? いやまあ、常々、いずれは先生の所に嫁ぎたいと、夢に見てはいるので御座るが――」
「ほんと――可愛いよね、シロちゃんって」

 その一言に、シロは顔を赤くして俯いてしまう。その様子はやはり、とても可愛らしいと明日菜は思う。

「そ、そう言う明日菜殿こそ――聞けば、高畑教諭の事が――」
「なあっ!? ちょ、だ、誰がそんなことを!?」
「誰と申されても――拙者にそれを教えてくださったのは、和美殿であるけれども。されど彼女によれば、クラスの大半が周知の事実であると」
「……あー……」

 シロの言葉に、思わず湯飲みを放り出しそうな勢いで立ち上がってしまった明日菜だったが、その様に言われてしまえば、それ以上食い下がる事は出来ない。彼女の年上好みと、その想いが向けられた先が既に知れ渡って居るのは、不本意ながら、明日菜自身も自覚している。

「高畑教諭は独身と聞くが――それでも明日菜殿のような年頃の子供が実らせるには、難しい恋で御座ろうな」
「……シロちゃんも、やっぱりそう思う?」
「正直に申せば。されど――これは、先生の師匠――美神殿の言い分で御座るが」

 少し声にかげりが見えた明日菜に対して、シロは、彼女の隣に腰を下ろしながら言う。二人が座るのは、横島家の縁側。既に春先の長くなり始めた日が暮れて、夜の帳が落ちたそこは、家の中から照らされる光に、全てが心地よい薄暗がりの中に沈んで見えた。
 郊外故に街の灯りは少なく、空がとても綺麗に見える。麻帆良を取り囲む山地の稜線――その向こう側には、淡く見える天の川に彩られた、満天の星空。
 都心部とは比べものにならないとはいえ、それなりの人口を誇る麻帆良で、こんなにも星が綺麗に見える場所があることを、明日菜は初めて知った。

「欲しいものがあるなら、それをただ欲しい欲しいと駄々を捏ねても仕方がない。本当に欲しい者は、何があろうとものにする――で、御座る」
「美神令子さんの言葉ねえ――重みが違うわ」
「……まあ、明日菜殿が純粋にそれに憧れるのは、拙者、正直どうかと思うので御座るがな」

 シロは何故か遠い目をしながら――小さく小声で呟いた後、自分も両手で持った湯飲みを傾ける。その仕草はやはり、洗練された女性のものだ、と、明日菜には感じられる。
 二人はしばし、宵闇と星空を肴に、喉を潤す――、楽しむ湯飲みの中身は、温かな緑茶。酒など楽しめない二人の時間は――しかし、とても心地良い。

「ねー……シロちゃん」
「何で御座るか?」
「シロちゃんは――エヴァンジェリンさんの事を、どれくらい知ってる?」
「……どれくらい、と言われたところで、拙者、彼女と知り合ってまだ数日。単純に彼女という人間を知っているという意味では、恐らく、明日菜殿とは比べものにならぬ」

 シロが首を横に振る。
 明日菜は、彼女の方を見ずに、湯飲みを縁側に置いた。

「でも、委員長が言ってたよ? シロちゃん、あの子と仲良くなろうとしてるって」
「――まあ、拙者の性分というか――自分の気に入らぬ事を、“そういうこともある”で放置が出来ぬ。それで危ない目に遭ったことも、先生にご迷惑をお掛けしたこともあるで御座るが――」
「うん……それって結構凄いことだと思う。少なくとも私には出来ない」
「そうで御座ろうか?」
「私は何だかんだ言っても、自分が可愛いもの」

 アスナは小さく息を吐いた。もはやその吐息が、虚空を白く彩る季節は過ぎている。彼女が吐いたその吐息は、ただ春の風に解けて消えた。

「シロちゃんがエヴァンジェリンさんの事に首を突っ込んだのは、ネギのあれが原因なんでしょ? ほら――あの子がエヴァンジェリンさんにいじめられて、学校に行きたくないなんて喚いてたあれ」
「ネギ先生は立派な志と、それに似合うだけの真っ直ぐな心を持っておられる。されど、まだ十歳の子供――それこそ、仕方のない事で御座ろう。とはいえ、今の状態が良くないと感じられたのは確か。それに――」
「それに?」
「拙者にはエヴァンジェリン殿が、何故か悲しそうに感じられた故。もっとも、彼女にはそれはただの自己満足だと――そう言われてしまったで御座るが」

 あの子って可愛い顔してきついからねえ、と、明日菜が言う。
 しばしの沈黙の後で――彼女は、シロに問うた。

「……シロちゃんは、ゴースト・スイーパーなんだよね?」
「ただの手伝いで御座る。免許も持っておらぬ――それに、それも既に過去のこと」
「魔法とか――吸血鬼とか――ねえ、この意味、わかる?」
「安心せられよ明日菜殿。事情は既に、エヴァンジェリン殿から聞き及んでおる故――ああ、されど拙者は魔法使いでなく、その関係者でもないで御座るよ? 魔法使いと吸血鬼の知り合いは居るで御座るが」

 苦笑しながら言うシロに、明日菜は何とも言えない表情を浮かべるしかない。彼女の言葉からすれば、その魔法使いとはネギではなく、吸血鬼とはエヴァンジェリンの事では無いのだろう。
 仮に魔法の世界にどっぷり身を置いたとて、その二つを同時に知り合いに出来る彼女を――明日菜は、顔が広いとでも褒めるべきなのだろうか?

「ともかく、彼女から大方の事情は聞いておる故に。明日菜殿の悩みも――想像することは出来るで御座る。明日菜殿は人が宜しい故に、ネギ先生の事を、己の事のように感じられるので御座ろう」
「……誰があんなガキなんか――って、シロちゃん、何か言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」
「いえ――これが、この間あげはが喚いておった“ツンデレ”と言う奴なのであろうかと」
「……イヌヅカサン?」
「い、いえ、何でも御座らん。ただの戯れ言故、忘れてくだされ」

 大きく一つ息を吐き、明日菜は言った。

「ネギの事は――ね、私も、あいつは難儀な奴だって思ってる。同情することも呆れる事も出来るけど、一つだけ言えるのは、あいつはここから逃げる事が出来ないんだろうな、って事だけ」
「それをして、ネギ先生を哀れむのは失礼なので御座ろうが……」
「うん。それと――私ね、今日、自分のことを怖いって思った」

 聞いても良かろうか、と、シロは言った。
 明日菜は頷いて、彼女にぽつりぽつりと語り始めた。
 自分は、ネギかエヴァンジェリンか――どちらの味方になるかと言えば、今の段階ではネギである。エヴァンジェリンの方にも、同情すべき事情があるとはいえ――その事情を解消すべき方法を、彼女は明らかに間違っている。それを許すことは出来ない。例えば世界の現状を憂う事があっても、それを解決する手段が暴力であってはならない――つまりは、テロリストを認めることが、誰にも不可能な事であるように。
 エヴァンジェリンのやりかたは、明らかに容認されるべき範囲を逸脱している。だから、明日菜は――浅からぬ縁を持つ羽目になった少年に、力を貸してやりたい。
 けれど――彼女はまた、エヴァンジェリンが本気で憎いわけでもない。
 少なくとも彼女とは、同じ学校の同じクラスに所属する仲間なのだ。どれだけ仲が悪かろうと、その事実は変わらない。
 普通は、どれだけクラスに嫌な奴がいようと、せいぜい喧嘩をするか無視を決め込むか――そんなところだろう。

「でもあの時――私、エヴァンジェリンさんと茶々丸さんを、“敵”だって思ってた――何なのよそれ。“敵”って――私たち、クラスメイトなのよ? なのに――私ってば、何なの? 敵を倒す方法は何なのかって――おかしいわよ、そんなの。魔法使いって何? 魔法って何? エヴァンジェリンさんは、ネギは、あのオコジョは――それに、私は、私は」
「明日菜殿」

 膝の上で拳を握りしめ、震えた声でそう言う明日菜に、シロは優しく声を掛け――首を横に振った。

「一つ、拙者の思い出話をするで御座るよ」
「……思い出話?」
「左様。拙者が――先生と出会った時の話で御座る。あれは数年前――当時の先生は、美神除霊事務所に入ったばかりの苦学生で、拙者はある目的の為に、山奥の里から東京にやってきた、何も知らぬ子供で御座った」

 シロの語る話が何を意味するのかわからずに、明日菜は困惑する。そんな彼女の事を真っ直ぐに見ながら――シロは、微笑みを浮かべ、そして言った。

「そんな拙者と先生の出会いは、如何様なものであったか――明日菜殿には、想像出来るで御座るか?」
「……そーねえ」

 あの人の良さそうな青年と、何処か世間ズレした少女――そして今のシロが抱く、彼への想い。明日菜の脳裏では、テレビドラマのワンシーンのような光景が展開されていた。

「初めての大都会に途方にくれてたシロちゃんに、横島さんが声を掛けてくれた――とか?」
「残念ながら」

 しかし果たして、シロはそれを否定すると――微笑みを崩さないままで、言った。

「死ぬほど腹が減っておった拙者が、先生の持っておった牛丼を奪うべく、先生に斬りかかった――それが、拙者と先生の出会いで御座る」
「……はあ?」

 明日菜のその声には、彼女の心の底からわき上がった困惑が、ありありと含まれていた。




「いや、すまんすまん。報告書だけだと思ってたところに、クロサキさんからどうしてもって雑用を頼まれて――すっかり遅くなっちまったな。寮の方には――」

 仕事を終えた横島が居間に戻ってきたとき、肌寒さを感じるようになってきたのか、縁側から引き上げたシロと明日菜は、卓袱台を前に楽しげに二人で談笑していた。彼は単純に、その光景を得難いものだと思い、自然と顔に笑みが浮かぶ。
 しかしすぐにシロが彼に気がついて立ち上がり、自然な動きで脇を支える。横島は全く歩けないと言うわけではないが、両脚はどうにか体を支えられる程度にしか動かない。だが、この古い日本家屋では、車椅子での移動は何かと不自由であり、彼は家の中では、あまり車椅子に頼っては居なかった。

「先生、明日菜殿は、今日はうちに泊まっていく事にした故に。ああ、寮の方には既に連絡済みで御座るので、心配は要らぬ」
「そうなのか? でも明日は――」
「先生のような仕事をしておれば、曜日の感覚が無くなっても致し方なかろうが――明日は土曜日で御座るよ」

 苦笑しながら、シロが言う。横島は基本的に在宅で仕事をしている上に、今回のような仕事では曜日など関係なく会社に出向く。いつの間にか曜日の感覚が薄れてしまっていても、シロの言うとおり致し方のない事かも知れない。
 シロの手助けを借りて、座椅子に腰掛けた横島は、明日菜の方に目線を向けた。

「まあ、ゆっくりしていってよ。何もない家だけどさ。そういや来客用の布団って――」
「先生はその様な事をお気になさるな。委細、心配は要らぬで御座る。この間おキヌ殿とタマモが遊びに来た折に、頃合いだと思って日干ししておいた故に」
「わかったわかった。けどなシロ、お前は何かって言うと俺を動かそうとしないが、俺だって簡単な家事くらいは出来るんだぞ?」
「簡単な家事というなら、拙者がこなすのが筋で御座ろう。一家の主とは、そこにあって家を支えるもの。果たして家事をこなすのは、妻のつとめで御座るよって」
「誰が妻だ! あー、明日菜ちゃん、俺の言いたいことわかったろ? こいつってこういう奴なんだ。まあ、間違っても悪い奴じゃないから――」
「心配しないでください。もう、私とシロちゃんは友達ですよ。ね? シロちゃん」

 苦笑しながら言う横島に、明日菜は笑顔で返した。彼女の言葉に、シロも大きく頷く。横島は、最初は苗字でシロの事を呼んでいた明日菜と、何時の間にうち解けたのだろうと思ったが――彼女相手にそれは愚問だろうと、すぐに満足そうに頷いた。

「そいつは何よりだ――ところであげはは何処に行った?」
「拙者が風呂掃除を任せたのをすっかり忘れておったらしく、慌ててやっておる最中で御座るよ」

 シロが、襖が開けっ放しになっている隣の部屋に視線を向ける。横島がつられてそちらを見てみれば、テレビゲームのポーズ画面が映し出されたままのテレビから、虚しく音楽が響いている。

「全くあいつは――リセットボタンでも押してやろうか」
「まあ、拙者も思うところが無くは無いが――それはやめておくで御座るよ」
「そうだな。俺も子供の頃に、何度オカンの強制リセットに泣かされた事か――負の連鎖というのは、こういう苦い思いをした奴が、勇気を持って断ち切らねばならんのだ」
「何を大げさな」

 シロは口元に手を当てて、上品に笑う。

「猫被ってんなよ。友達なんだろ?」
「失敬な。拙者確かに上品とは言い難いが、それでもいい女であろうと努力する事に決めた故に」
「そうですよ。言ったでしょ? 横島さんはもう少し、女の子の気持ちを考えた方がいい、って」
「……明日菜ちゃんまで。そういやいつか、そんなことをタマモにも言われたっけ――畜生、俺に味方は居ないのか?」

 悲しそうに言いつつ――当然本気ではないが――横島は、シロの援護射撃を行った明日菜の方に目を向ける。

「明日菜ちゃん」
「何ですか?」

 横島は彼女の名を呼び――一旦そこで言葉を切ってから、ややあって言い直した。

「明日菜ちゃん、言いにくいことではあるけど――悩んでた事は、少しは楽になったか?」
「……はい。悩みが――というか考え事が無くなったわけじゃありません。けど、シロちゃんの話を聞いてたら――」
「聞いてたら?」

 明日菜はシロの方に顔を向けて、意地の悪そうな笑みを浮かべる。

「何だか、悩んでた自分が馬鹿馬鹿しくなっちゃって」
「それはあるな」
「……何で御座るか、先生も明日菜殿も、拙者を単細胞か何かのように。拙者とて、悩み事の一つや二つくらいあるので御座る」
「そうだよねえ」

 明日菜の口元がつり上がるのを見て、横島はまるで、おとぎ話に出てくる猫のようだと、どうでも良いことを不意に思った。

「何たってシロちゃんは――」
「アスナドノ?」
「……いえ、何でもないです」

 明日菜は、ただならぬシロの眼光に、あっさりと白旗を揚げた。
 シロは小さく咳払いをして、横島に向き直る。

「というわけで、拙者は悩み多き乙女で御座る故。それなりの扱いを要求するで御座る」
「お前のその言葉には多大なる疑問が残るにせよ、だ」

 じっとりとした目線をシロに投げかけつつ、横島は明日菜に言う。

「最初に言ったろ? 明日菜ちゃんみたいな美少女に、悩んでる顔は似合わねえ。まあ、俺もシロも馬鹿な事を言うくらいしか能がねーけどさ。何かあったら遠慮無く言ってこいよ。それこそ、馬鹿話くらい、いくらだって聞かせてやるさ」
「……左様。先生はその様な話題には、事欠かぬ故」
「自分を棚に上げて何を言うか、お前は」

 最後の最後で仲間割れを起こし、微妙な視線を交わす二人を見ながら――明日菜は、小さく頷いた。
 丁度その時、横島の背後の襖が勢いよく開き、そのけたたましい音に、思わず彼は背中を跳ね上げてしまう。見れば、家着のトレーナーの腕を捲り、ジャージの裾を膝までたくし上げたあげはが立っている。

「お風呂の掃除が出来たですよ」
「そうか。もうちょっと心臓に優しい登場をしてくれたら百点をやろう」
「おや、ヨコシマ。お仕事は終わったのですか?」

 彼の抗議をさらりと無視して、あげはは目の前に座る青年に目をやる。

「あー、ついさっきな。クロサキさんっつうか、直接はあのクソ親父のせいで、随分長引いたけれども」
「終わったのなら結構な事です。今お湯を張っているところですから、張れたら早速入ると良いですよ。私が背中を流してあげますから、有り難く思うのです」
「では、拙者もそれに便乗して」

 何気なく手を挙げたシロに、さすがに明日菜もぎょっとした視線を向ける。見たところ、横島はそこまでの介護を必要とする程、障害が重いわけではない。だとすれば、彼女の言わんとするところは――

「ちょっと待てやお前ら。よもや、俺が白井総合病院で打ち立てた記録が、何のためにあったのか忘れたわけじゃあるなまいな?」
「ああ、あれで御座るか。全く先生は素直でない故に」
「ですよねえ」
「お前ら絶対わざと言ってるだろ! ちょ、あかんっ! 明日菜ちゃん、そんな目でワイを見んといてっ! 違うんや! ワイはロリやない、ロリやないんやっ!」

 ごろごろと床を転げ回る横島を見ながら、シロとあげはは楽しそうに笑う。
 明日菜はそれを見て、純粋に「いいなあ」と思ってしまう。彼女には、両親が居ない。物心ついた頃には、彼女の教師でもある高畑に育てられていた。その事を、不幸だと思ったことは一度もない。
 けれどこういう団欒が、彼女の目にまぶしく映るのも、また事実。だが、羨ましいというわけでもない。彼らは三人とも、血のつながりを持っていない。
 つまり彼らは、自分達の手でこの家族を築いたのだ。絆とは何も、与えられるだけのものではない。その気になれば、作ることだって出来るのだ。
 それはきっと――今の自分にも言えること。明日菜は、目の前の喧噪を眺めながら、自分の中ですうっと、何かが落ち着いたような錯覚を覚えた。

(……もう一度、ネギと話そう。出来ることなら、茶々丸さんや、エヴァンジェリンさんとも。ついでに、あのオコジョとだって)

 床を転げ回る横島と、おもしろがって彼にまとわりつくあげはを、いい加減宥めようとしていたシロと目線が合い――彼女は下手くそな、“保護者”のそれとはほど遠い不器用なウインクを、明日菜に向けた。
 それが何だかおかしくて、明日菜は声を上げて笑う。そう言えば暫く笑っていなかった――などと、詮もない事を考えながら。




「ところで、“白井総合病院で打ち立てた記録”って――何のこと?」
「ああ――それはですね」
「先生が――お体を悪くして、入院されていた折の話で御座るが。あの時の先生は本当に殆ど動けなかった故に、色々と世話をする必要があったので御座る」
「それでまあ、シロと私と――“他数名”が、看護師に代わってそれをしてやろうと申し出たわけですよ」
「そうしたら何と先生は、風呂からトイレまで、半日で出来るようになったで御座る。何でも、“そんなことをされたら、ワイの何かが壊れてまう”とか、喚いておったが」
「リハビリ担当の先生が、目を回していたですよ。“現代医学は!”だとか泣き叫びながら」

 折角だから、と言うので――木の匂いが、何処か懐かしさを感じさせるこの家の風呂に、少女三人で浸かりながら――ふと明日菜が零した疑問に、シロとあげはは応えてやった。
 それを聞いた明日菜が、もう一度大笑いしたことは、言うまでもない。




 翌朝、もう少しゆっくりしていけばいいと言うシロの誘いを丁重に断って、明日菜は学生寮まで、横島の車で送ってもらった。ならばと見送りに来たシロは、寮の入り口で明日菜に言う。横島は少し離れた駐車場で、シロの帰りを待つ。

「拙者とて、大層な事が出来るわけでは御座らぬが、現状を憂う意味では明日菜殿と同じ。困ったときは相談に乗るで御座る」
「そういう言い方は良くないよ、シロちゃん。私たちは友達でしょ? シロちゃんの方だって、困ったことがあったら私に相談してくれていいんだからね。まあ――私じゃあ、シロちゃん以上に何の役にも立たないだろうけど」
「何を申す。明日菜殿という友人が居るだけで、拙者は何より心強い」
「ありがと、シロちゃん」

 明日菜は小さく息を吸って、見慣れた学生寮を振り返る。一応事情は説明したとは言え――昨晩、木乃香には寂しい思いをさせてしまったはずだ。ネギだって、あの後いつも通りに木乃香と接することが出来たかと言えば、それは難しいだろうと、明日菜は思う。
 さすがのカモも、あの一件には思うところがあるだろうが――魔法を知らない木乃香の前で、彼は喋ることが出来ない。

「もっとも――拙者が美神殿のような、ちゃんとしたゴースト・スイーパーであったなら、大事にならぬうちに、事態を収束できたやも知れぬと考えると、歯がゆいが」
「そういえば――シロちゃんは、どうしてゴースト・スイーパーを辞めちゃったの? 六道女学院の霊能科って、そのための学校なんでしょう? ――ああ、応えられるなら、で、いいんだけど――」
「拙者一人がおらずとも、悪しき魍魎から人を守ろうとする者は多い。それこそ、美神殿のように。されど拙者には――拙者にしか出来ぬ事がある。魑魅魍魎と戦うよりも大事なことを、拙者は見つけた故に」
「――横島さんのこと?」

 薄く頬を染めて、シロは頷いた。
 横島が、既にゴースト・スイーパーを廃業しているという話は、既に聞いた。“吸血鬼エヴァンジェリン”の対策を、彼に聞かなくて良かったと、明日菜は内心胸をなで下ろしたのだ。
 さすがにそこまでを聞く気は起きなかったが――彼がその道を諦め、サラリーマンとして活躍している理由には、彼のあの容姿、特に足が不自由だというその原因にも、関わるところがあるかも知れない――彼女でなくても、そう思うだろう。
 ゴースト・スイーパーは、ハイリスク・ハイリターンの典型の様な職業である。高収入や、社会的な名声を得られる代わりに、最悪の場合、命すら残らない場合だってある。彼もまた、そうではないとは言い切れない。
 シロに聞けば、大した躊躇いも無しにその理由を教えてくれるかも知れない。けれど、明日菜は新しいこの“友人”相手に、そんなことは言いたくなかった。
 横島とシロが、本職のゴースト・スイーパーであったなら――と思う部分――“敵を倒して味方を守れ”と訴える己の本能に根ざした部分を、明日菜は今も感じている。けれどもはや、それを恐れる必要はない。だから、軽く笑ってシロに言う。

「んー、ちょっと残念だけど、それ以上に私はシロちゃんが羨ましいわ」
「おや、明日菜殿は、高畑教諭の事は、もう諦めたで御座るか?」
「まさか。確かに今の私はただの子供だし、高畑先生の教え子なのかも知れない。けど、私はすぐに、子供じゃなくなるし、学生でもなくなる」
「そう――一人の女になるので御座るな」
「……まあ、そう言うことになるのかな? そう言うことが堂々と言えるシロちゃんって、やっぱり凄いよね」

 単純なだけで御座るよ、と言って、シロは笑った。

「ではまた月曜に、学校で」
「うん、それじゃ、またね」

 言葉を交わし、優雅に去っていく背中を、明日菜は見送った。
 ふとそこで――後ろから声を掛けられる。

「明日菜」

 振り返れば、柔和な顔立ちの黒髪の少女――彼女のルームメイトである、近衛木乃香が立っていた。

「ただいま、木乃香。昨日はごめんね、いきなりお泊まりするから――なんて言い出しちゃって」
「ううん、ええよ。それより今の――シロちゃん?」
「ええ、そうよ」
「ふわぁ……なんちゅうか――えらい、化けたなあ……何や、時代劇に出てくるお姉さんみたいやったわ」
「あー、それ、わかるわ。――生まれた里がもの凄い田舎で、着物着てる方が落ち着くんだって。でもそれより何より――」
「あの雰囲気は、うちらには出せへんなあ。ちょっと悔しいわ」

 その雰囲気の理由に、明日菜は思い当たる事がある。女性ならば誰だって、たった一つの事を経験すれば、ああいう風になれるのだ。ただそれを目の前の少女に説こうとは思わないし、木乃香とて年頃の少女。何となく、その意味はわかっているのだろうけれど。

「ところで木乃香。こんな朝早くから何処かへ行くの?」
「せや、アスナ――ネギ君が、昨日の夜から帰って来えへんのよ。携帯に掛けてもつながらへんし――何かあったんやないかと、うち、心配で――」
「……何ですって?」

 どうやら明日菜の週末は、長いものになるらしかった。










今まででもっとも、妄想補完成分が強い回。
書いている分には楽しいけれど、
原作を否定する意図はないと明記。

そして、明日菜は初っぱなから宮崎のどかを「本屋ちゃん」と呼んでいた事に、
今更気づく――まあいいや(笑)
なんか妙にしおらしいというか、アレな感じのうちの明日菜。
このままの路線で突っ走るか、原作に立ち返るか。

難しいところだと思っております。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・己という海原へ
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/17 23:47
 日本最大の平野である関東平野と言えども、それなりの起伏は存在している。山地の多い地方から来た人間なら、それでも空が広いと感じられる麻帆良市ではあっても、その郊外には山林が広がっている。
 厳しい冬が過ぎ去り、これから新緑の季節を迎えるべく、森の中に命が満ちあふれていく季節。しかし、そんな場所を歩く一人の少年――ネギ・スプリングフィールドの表情は、冴えないものだった。
 いや、冴えないと言うよりももはや、生気が抜け落ちたようなそれと言い換えても良い。服は薄汚れてあちこちが裂け、頭髪は乱れ瞳は充血し、鼻に乗った小振りな眼鏡は、片方のレンズにひびが入っていた。

(木の種類は随分違うけど――何だろう、ここはウェールズの森によく似てる)

 ネギは、その半分がぼやけた視界で、周囲の木々を仰ぎ見る。彼の故郷、イギリスのウェールズ地方とは明らかに違う種類の木々が生い茂るそこは、しかし不思議に、懐かしさを感じる事も出来た。

(ウェールズかあ。まだ半年も経っていないのに、随分懐かしいなあ。お姉ちゃんや、アーニャは元気かなあ)

 彼の脳裏に、彼をイギリスで見送った少女達の姿が浮かぶ。
 何故自分は、こんなところととぼとぼと歩いているのだろうか――それを考えると、自分が酷く惨めに感じられる。
 気負っていたのだろう、という思いはある。
 甘えていたのだろう、という自覚もある。
 けれど――結局、“立派な魔法使い”を目指すために、異国の女学校で、年上相手に教師をやれと、その様な馬鹿げた「試練」を受け入れたのは、自分自身だ。
 自分は何処かで思っていたのだろう。父の背を追い、立派な魔法使いを目指す自分ならば、そのくらいのことは出来る、と。
 何の根拠があってそんな風に思っていたのだろうか。無茶な試練だというのがわかっていたのに、どうしてそんな風に甘い考えを抱いていたのだろうか?
 確かに――エヴァンジェリンと敵対した事は、単純な“教師の仕事”の範疇とは言えないかも知れない。
 けれどあの時――茶々丸に、“魔法の射手”を向けたとき、自分は果たして、一人の教師であったか? 自分がやり遂げてみせると誓った、“立派な教師”であったか?

(ウェールズに帰ろうかなあ。みんなには――迷惑かけちゃうだろうけど。でも――)

 “迷惑”程度で済むのなら、その方が良い。ネギは、そう思う。
 これはあくまで、自分に科せられた試練である。その試練を途中で投げ出すことは、自分にとって、目指した道を閉ざすことに等しい。けれども、彼女たちには――麻帆良学園本校中等部三年A組、彼の教え子達には、そんなことは関係ない。
 思えば、明日菜を筆頭として、彼女たちには既に随分と迷惑を掛けてきた。これが――“迷惑”で済んでいるうちに、自分は身を引くべきではないか。自分がどれだけ苦しい思いをしても、それは自分への試練なのだから構わない。“立派な魔法使い”になるためならば、どんな苦難を耐え抜く自信もある。
 けれどその為に――他人が傷つく事を見るのは、耐えられそうもない。
 それもまた試練だというのならば――自分は到底、そんな試練は耐え抜けない。

(お姉ちゃんやアーニャには――笑われちゃうかな。僕のことを、信じてくれたのに――)

 皮がすりむけて、鈍く痛む手のひらを、ネギはじっと見下ろす。
 茶々丸と戦ったあの後――自分は、明日菜の後を追うべきだった。無関係な誰かが巻き込まれたかも知れないのだ。軽率な行動を取った自分はせめて、その責任を取るべきだった。
 けれど、それが出来なかった。
 跪いてただ呆然と――自分の手を見つめていた。魔法をねじ曲げた疲労よりも、いつしか恐ろしい思考をごく自然に紡いでいた自分への恐怖で、体がすくみ上がっていた。
 直接の引き金は、カモの言葉と茶々丸の行動だったのかも知れない。
 けれど、あの二人が悪いとは思わない。

(あの時の僕は、確かにそう考えていた。全てのものを踏みつぶして先に進むことが――そうやって何よりも強くなることが、立派な魔法使いのすることだ、って)

 ただ強い事が、“立派な魔法使い”なのか? 否、当然、そんなはずはない。なのに、いつしか、自分はそう思っていた。
 茶々丸は、自分を悪の魔法使いの従者だと自覚している。
 カモは、自分の考えが最善でないと言うことも、身勝手な押しつけであることも理解して、ネギに助言をする。
 自身を悪党だとか小悪党だとか言う彼らに比べてさえ、自分はどうだというのだろうか? 英雄は、どんな悪人よりも多くの人間を殺す――そんな話を、ネギは思い出していた。
 それでも先に進むことが出来る人間は、確かに英雄と呼ばれるだろう。立派な魔法使いと呼ばれる英雄が、力を求めることには――確かにそう言う側面もある。けれど――ネギ・スプリングフィールドは、そういう“英雄”となることに、耐えられそうもない。
 傷ついた手のひらを、ネギは強く握りしめる。

「……痛いや」

 体は正直に、その痛みを彼に伝えてくれた。




 しかし、何をするにも、まずはこの森から抜け出さねばならない。鬱蒼とした密林――と言うわけではないので、大体の方向くらいはわかるし、傾斜に沿って歩いていけば、いずれは麓にたどり着くだろう。そもそも先に述べたとおり、ここは関東平野のど真ん中。それほど規模の大きな山ではない。
 しかし気づかないうちに、随分と遠くに来ていた事を、ネギは痛感した。茶々丸と戦った後、わけもわからずカモを置いて杖に跨り空を飛び――前も見ずにひたすら突き進んでいたところを、木に引っかかって墜落してしまった。
 杖はその時に何処かに飛ばされてしまい、気絶から覚めたネギは必死にそれを探したけれど、どうしても見つからなかった。
 父親の“形見”の、大事な杖である。いつもの彼ならば、見つかるまで必死にそこを探しただろうけれど、今の彼は、後で取りに来ればいい――くらいの気持ちで、森の中を歩いていた。単なる被害妄想というのはわかっているが、杖にまで見捨てられたような気がして、余計に気分が沈む。
 茶々丸と戦ったあの場所を飛び出して山に墜落し、目を覚ましたのは夜になってから。それから深夜まで杖を探したが見つからず、後は今までずっと歩き通し――さすがに、彼の体力も限界に近づきつつあった。携帯電話は電波の圏外――仮に通じたところで、自分が今何処にいるのかわからないのでは、どうしようもない。

(とはいえ――明日菜さんや木乃香さん、カモ君には、心配掛けてるだろうなあ)

 追いつめられると周りが見えなくなるのは、自分の悪い癖だとネギは思っている。その事に、幼いという言い訳を使いたくはない。けれど――ここまで馬鹿をやったのは久しぶりだ。父の面影に馬鹿な幻想を抱いて、ウェールズであれこれ馬鹿げた事をやっていた事があったけれども――今になってようやく、あの時の大人達の気持ちがわかった。

(……僕が馬鹿なのはわかったけど――本当に、もう、駄目かも、知れない――)

 自分にとっての最悪は、オコジョになることかウェールズに引きこもる事くらいだと思っていたが――ここでのたれ死ぬという更に最悪の可能性が存在する事に、ネギはようやく気がついた。
 だが、果たしてその時――

「おや?」

 唐突に響いた声に、ネギは力ない動きで振り返り――

「うわぁっ!!」

 直前までの動きが嘘のような俊敏さで、後ろに飛び退いた。

「何でござるか? 人の顔を見て突然悲鳴を上げるとは、失礼でござるよ?」
「い、いえ、長瀬さん――自分の今の状況に、何か疑問は無いんですか!?」

 そこにいたのは、彼の教え子の一人である少女――中学生離れした長身と、少しばかり奇妙な言動が目を引く――長瀬楓であった。何故こんな場所に彼女が――という疑問はさておき、彼女の言うとおり、姿を見て叫び声を上げるような相手ではない。
 ただし――その彼女が、上下逆さまでなければ。彼女は膝を使って枝にぶら下がり、逆さまの状態でネギに声を掛けたのだ。

「疑問と言われても――」
「……さ、さすがはJapanese Ninja……」
「さて、何のことでござるかな?」

 そのままの状態で、楓は脚を伸ばす。当然彼女の体は重力に従い落下を始め――しかしその僅かな時間に、彼女は全身のバネを使って半回転。音もなく着地した。その動きはあまりに滑らかで、思わずネギの喉から妙な声が漏れそうになったくらいである。

「さてと――それで、ネギ坊主が何故こんな山の中にいるんでござるか?」
「それは、その――ちょっと、道に迷って」

 ネギは言い淀む。楓は、傷だらけの彼の様子に何か思うところがあったようだが――細い指を顎に当てて、なにやら小さく頷く。彼女の中で、何をどう納得したのか、ネギには判断できないが――

「長瀬さんこそ、どうしてこんな山の中に?」
「どうしてと言われても――拙者はいつも、週末はこの辺りでしゅぎょ――んっ! んんっ! あー、キャンプをしているのでござるよ。ええと、その――ほら、あるでござろう、ボーイスカウトとか何とか――そんな感じの」
「は、はあ……」

 “そんな感じ”と言われても、ネギにはいまいちわからない。ボーイスカウトという代物は知らなくもない。が、どうにも、今の彼女からはかけ離れたもののように記憶しているが――恐らくそれを問うても、彼女は応えてくれまい。ネギは改めて口に出そうになったその疑問を、どうにか飲み込んだ。
 それと同時に、脚から力が抜けそうになる。知り合いに出会えた安堵からか、空腹と疲労が一気に彼を襲ったのだ。

「ネギ坊主!? だ、大丈夫でござるか?」
「は、はい――すいません。ここに迷い込んだのが昨日の夜で――それからずっと、歩き通しだったものですから」
「それからずっと、って」

 楓の細い目が、僅かに見開かれる。

「あ、でも、大丈夫ですから。長瀬さんは、この山道の出口、知ってるでしょ? 悪いんですけど、案内してくれませんか、そうしたらもう、大丈夫ですから」
「……しかし、その格好で街に出れば、ちょっとした騒ぎになるでござるよ。ネギ坊主は、ただでさえ目立ちやすいのでござるから」
「それはまあ……何というか、ちょっとその辺で転んだとでも」

 ネギの応えに、楓は腕を組み、小さく鼻を鳴らした。
 その仕草に威圧感があったわけではなかったが――気持ちが沈んでいる今のネギは、思わず首をすくめてしまう。

「とりあえず、何か食べないと駄目でござるな。こっちに来るでござるよ、ネギ坊主」
「え?」

 言うが早いか、楓はネギの腕をとり、勝手に歩き始める。ネギは慌てて抗議するが、楓はそれを聞き入れようとはしない。

「な、長瀬さん! 僕のことなら平気ですから!」
「ネギ坊主がすぐに無理をする性格だということは、もう十分わかったでござるよ。そんな状態のネギ坊主をただ見送った日には、拙者、明日菜や木乃香に怒られてしまうでござる」
「そんな――」

 今のネギは、あの二人やカモと、顔を合わせづらい。面と向かうのが恐ろしいと言っても良い。特に、あの時にすぐ側にいた明日菜には、どのような顔をして向き合えばいいのか。それが、今の彼にはわからない。
 けれどその様な彼の気持ちもまた、楓には説明できないし、理解して貰うことも出来ないだろう。ネギは俯いて、楓に従った。
 楓はそんな彼の様子に気づいていたのかどうなのか――ただ、目的の場所にたどり着くまで、一度も彼の方を振り返らず、ただ彼の手を引き続けた。

「――さて、着いたでござるよ。少し遅いが朝食の支度をするので、少し待っていてほしいでござる」

 たどり着いた先は、川縁にある少し開けた場所だった。そこにはテントが張られていて、ネギには用途のわからない道具が岩に立てかけられ、その脇にはこれまた、用途のわからないドラム缶が一つ置かれている。
 大昔のハリウッド映画で――もはやそのジャンルは聞くまでもないが――似たようなものを見たことがあるネギであったが、それはもちろん口には出さない。
 そこで初めて、楓はネギの手を離し、テントの中に入ると――出てきた時には、クーラーボックスと、黒い缶のようなものを携えていた。

「あの、それは何ですか?」
「おや、ネギ坊主は見たことがなかったか? “キャンプ”と言えば、野外炊飯と相場は決まっているでござるよ」

 愉快そうに笑って、楓は手早く、その黒い缶――いわゆる“飯ごう”を、薪の上にかざす。ついで、木を薄く削ったものを薪の下に押し込む。ポケットから取り出した紙片にマッチで火を付け、それを同じように薪の下に押し込み――頃合いを見計らって、息を吹きかける。
 鮮やかに火の粉が舞い上がり、それはすぐに、組み上げられた薪を飲み込んで大きなたき火となる。

「すごい」

 ネギは思わず呟いた。その気になれば、魔法で火を起こす事は簡単に出来る。しかし、ここまで鮮やかにたき火を作る技術を、ネギは知らない。

「ま――拙者、“キャンプ”が趣味でござるから。このような事は、昔から慣れているのでござる」

 “キャンプ”という言葉を強調し、それでも少し誇らしいのか、楓は腰に手を当てて胸を張る。
 ややあって彼女は、何事もなかったかのように、今度はクーラーボックスを開く。そこに収まっていたのは、鮮やかな体色をした何匹もの魚だった。ネギはその魚を、今まで見たことがない。

「岩魚、という魚でござる」
「イワナ――ですか?」
「さよう。塩焼きにして食べるととても美味でござって。拙者、ここで“キャンプ”をするときには、いつも楽しみにしているでござるよ」

 どうやらその魚は、既に内臓などが取り除かれて、いわゆる下ごしらえが終えられた状態になっているようであった。楓がいつも週末、この場所に来ているというのならば、きっと昨日のうちに採ってきて、下ごしらえまでを済ませておいたのだろう。
 彼女は鼻歌を歌いながら、魚に塩をすり込み、串を刺す。

「ではこれを、適当な位置に並べるでござる」
「あ、はい」

 ネギも手伝って、たき火の周りに岩魚の串を並べて刺す。程なく、飯ごうがくつくつと音を立て、火にあぶられた岩魚が、えもいわれぬ良い香りを放ち始める。ネギは、自分の腹が鳴り、唾が溢れそうになるのを堪えられず、恥ずかしそうに楓を見た。

「ははは……余程腹が減っていたのでござるな。さて、もうそろそろか――熱いので、火傷に気をつけて食べるでござるよ」
「は、はい!」

 ネギは思わず、お預けを喰らっていた犬のような勢いで串に手を伸ばし、その熱さも忘れて、岩魚にかぶりつく。程よく脂の乗った、仄かな甘みを持つそれに、まぶされた塩が何とも言えず良く合う。
 空腹という最高のスパイスを既に得ているネギにとって、ただの塩焼きの魚であるはずのそれは、何よりのご馳走に感じられた。

「そろそろご飯も炊ける頃でござるな。ネギ坊主、岩魚の塩焼きはご飯に良く合う――おろ」

 飯ごうの様子を見ていた楓は、ふと振り返り――ネギが涙を流している事に気がついた。知らず――彼女の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。

「これは失敬。どうやら――煙が目にしみてしまったようでござるな。さてはて」

 そう言いながら、楓は素焼きの茶碗に、飯ごうで炊いたご飯を盛りつけてやった。




「さてネギ坊主。日本や中国には、古くから兵農一体という言葉がござってな」
「はあ」
「その日々の糧を得ることは、そのまま己を鍛える事に繋がるのでござる。ただ畑を耕し、魚を捕り、キノコを集め、山菜を狩る。しかしそれも、己を鍛える訓練だと思えば、それなりの成果があるのでござるよ」
「いえ、それ自体は実に立派なことだと思うんですが――長瀬さん、キャンプをするのに、戦う訓練を意識する意味ってあるんですか?」
「あー……ほれ、それは――その。剣道や柔道も、元々は戦場で相手を倒すための技術であったけれど、今となっては己を高める為にある――だとか、そういうことでござる」

 細い目を虚空に彷徨わせながら、あまり信憑性の無いことを宣う楓であったが――単純に、彼女はここで“キャンプ”をしている間、米や調味料と言ったもの以外の食料は、全て自給でまかなっているらしかった。
 即ち崖に登ってはキノコを採り、熊に追いかけられそうになりながら蜂蜜や山菜を集め、果ては手裏剣や“くない”で岩魚を――

「ちょっと待ってください! 特に最後!」
「ネギ坊主、細かいことを気にしては、人生楽しくないでござるよ? これは即ち、ジャパニーズ・ナイフと言うのであって」
「僕、木乃香さんがそんなの使ってるところ、一度も見たこと無いですよ」
「廃れ行く日本の文化という奴でござるな。いや、もの悲しい」

 腕を組み、わざとらしくため息をつく楓に、もはや何を言っても同じだろう。ネギはそれ以上の追求をすることを諦める。そもそも“忍者”とは、忍ぶ者と書く。己を忍者だと吹聴する忍者が、この日本の何処にいると言うのだ。そう言う意味では、楓は実に正しい忍者のあり方を、その身で実践しているのかも知れない――

「だから僕が納得しようとしたところに、その“くない”って奴を目の前で研ぐのはやめてください!」
「はっはっは」

 ネギは小さくため息をつき――何気なく、空を仰いだ。木々の間から見える空は、昨日と変わらず、何処までも青い。違うのは、傷だらけになってこんな場所に立ちつくす、自分だけ。

「……どうしたでござるか、ネギ坊主」
「いえ……」

 それこそ、似非外人のような笑みを浮かべていた楓であったが、突然豹変したネギの雰囲気に、真面目な顔になって、くないを懐に――

「長瀬さんの、それ。Japanese Knife――って言ってた、それです」

 しまおうとしたところで、ネギが待ったを掛けた。楓は、懐に収めかけた“くない”を、何気なく掲げてみる。

「それは――敵と戦うための、武器ですよね?」
「ふむ」

 問われて彼女はくないを見つめ――起用に手の中で、一回転させてみせる。
 くないとは、そもそも忍者の使う道具の一つで――確かに武器とも言えるが、厳密にはもう少し汎用性の高い“道具”である。鋼鉄で出来た、身の厚いナイフのような形状をしていて、戦うときに剣の代わりに使えるのはもちろんのこと、穴を掘ったり、土壁を切ったり、木を削ったりと――様々な場面で、様々な用途に使える。

「……という、武器とも言えるしそうでもないような――いや、拙者は忍者ではないでござるから、よくわからんでござるが」

 ならば何故そんなものを持っているのか――と言うことすら問わずに、ネギは言った。

「では、長瀬さんは、その切っ先を、人に向ける覚悟がありますか?」
「……それは」
「武器というのは、人を傷つけるためにあるものです。けれど、人は時々それを忘れます。戦うという言葉の意味すら、時々忘れてしまいます。長瀬さんあなたはその技術を、人を“殺す”為に、使えますか?」
「いくら拙者でも、今の時代、殺人犯として檻に入れられるのはまっぴら御免でござるよ。ネギ坊主――今日のネギ“先生”は、やはり少しおかしいでござるな。馬鹿レンジャーの馬鹿ブルーたる拙者に、そのような難しいことを言っても、いやはや、何の事であるか」
「誤魔化さないでください!」

 ネギの叫び声に、楓は一瞬、身を固くする。上背ではネギより遥かに大きな楓がそうする様は、ある種の違和感すら感じさせる。それほどに、彼の叫びには、鬼気迫るものがあった。

「……さっき言った事でござるが」

 ややあって、楓は岩に腰を下ろしながら言った。

「剣道や柔道だって、元は戦場で敵を倒すための技術。けれど、今はそれをそういう風に見る人間は居ないでござろう。それは多分――拙者も同じなのでござる。単純に、自分が強くなると言うことが楽しいから、拙者はしゅぎょ――ん……ああ、この際言ってしまうが、“修行”をしているのでござる」

 おそらく、と、彼女は首を横に振る。

「ネギ先生が、何に悩んでおられるのかはわからないでござるが――拙者に対して、その質問は的はずれな気がするでござるよ。先生は相手を傷つける事があっても、何かと戦う事が正義なのかと問い、拙者はただ、強くなりたいがために修行をする――ほれ、何処が繋がるのでござろうか?」
「それは――」

 暫くネギは考えていたようだった。しばらくの沈黙の後に、彼は楓に問う。

「では、長瀬さんにとって――強くなるとはどういう事ですか? ただ楽しいだけだから、強くなろうと思ったのですか? 強くなって――その果てに、何を目指すのですか?」
「難しい質問でござるなあ。多くの武人が、その問いに対して思い悩んだでござろうに」

 顎に手を当てて、楓は虚空を睨む。
 彼女は知らない。ネギが今、自分の気持ちをそのまま、彼女にぶつけたことを。“立派な魔法使い”とは、一体何なのか――そして一体、自分にとって何が正しいのか。今まで一途に目指してきたものが、輪郭を失ってぼやけていく恐怖に、ネギは駆られていた。

「拙者の場合は――それはとても単純でござるけれど。ネギ坊主は拙者と違って出来が良いでござるから、こんな経験をしたことは無いかもしれないでござるが――例えば」

 楓は、懐から手裏剣――どう見てもその様に見える――を取り出し、手首のスナップをきかせて投擲する。独特の風切り音を発しながら虚空を駆け抜けた手裏剣は、あるところで急激に向きを変え、その先にあった木の幹に、深々と突き刺さった。

「今でこそ拙者は、このような事が出来る。けれど、当然最初からこんなことが出来たわけでは無いでござる。出来なかったことが出来るようになる喜びは、何物にも代え難い――拙者の場合はそれがたまたまこのような“技術”であったと言うだけで、それはきっと、何をやっていたとしても同じでござる」

 楓は言った。
 出来るようになることが増える度に、世界は加速度的に広がっていく。一つの世界が見えてくれば、また次の世界が見たくなる。そうやって、人間はそれぞれの世界で、冒険を続けていく。まだ見ぬ海原の先に、何があるのかそれが見たい。まるで、かつて世界を駆けめぐった、冒険者達のように。

「だから拙者は、この技術が本来どのようなものであろうと構わんでござるし、自分がやりたくないことはやらないでござる」
「僕は――そんなに簡単には、考えられません」

 ネギは、首を横に振った。

「長瀬さんの言い分を借りれば――僕の世界は、僕だけのものじゃない。僕がその先に進もうとすれば、必ず誰かを巻き込んでしまう。巻き込んだから、先に進めることもあれば、巻き込まなければ先に進めないことすらある」
「……拙者にはよくわからんでござる」
「僕は――長瀬さんがうらやましいです。自分の目標を持って、それを疑わない長瀬さんが」
「それはネギ坊主も同じではござらんか? 十歳で教師など、なかなか出来ることではござらんよ」
「それは――」

 言葉を紡ぎかけ、ネギは俯いてしまう。
 そんなネギを見て、楓はなにやら考えているようだったが――ふと、音を立てて手を打つと、彼を手招きした。

「ま、難しい話は後々考えるでござるよ。なにせ拙者は“馬鹿レンジャー”でござるから」
「……長瀬さん」
「そこのバケツを持ってついてきてほしいでござる。時にネギ坊主は、“五右衛門風呂”という日本の文化を知っているでござるか?」




 四月――まだ肌寒さの残る夜の闇に、赤々と燃えるたき火の明かりと、白い湯気が舞い踊る。楓が用意したのは、ドラム缶を流用して作った、即席の五右衛門風呂。すのこを丸く切ったものに重石をつけて沈めるという手間を加えているので、火傷の心配は無い。
 ただ、この風呂は楓が自分のために作ったものだから、ネギの体格ではお湯の量を減らし、すのこの位置を調節しても、何やら――喩えるなら、寸胴鍋でゆであげられているようにも見えてしまう。
 しかし、疲れ切った体に、温かなお湯の刺激はとても心地いい。ネギははっきり言えば、風呂があまり好きではないのだが――それでも、この快感はやみつきになりそうだ。もっとも、元々彼の風呂嫌いは、“頭を洗うのが苦手”という、至極簡単なところから来ているので、潜在的には、彼は別に風呂が嫌いというわけではないのだろうが。

「気持ちいいでござるか? ネギ坊主」

 たき火をかき回して、湯加減の調節をしていた楓が問う。

「はい。とっても気持ちが良いです」
「それは良かったでござる。あのように泥まみれでは、気分が滅入るでござるからな。傷にしみたりはしないでござるか?」
「あはは――むしろそれが何だか気持ちいいです」
「それは結構」

 楓は、火かき棒代わりの長い木の枝で、たき火をかき回す。ぱっと火の粉が舞い、暗くなりかけていたたき火の中心に、再び鮮やかな淡い輝きが戻ってくる。

「……少しは、気持ちが楽になったでござるか?」
「――はい」
「結構でござる。落ち込んでいるときは、一度気分を入れ替えねば、何をしても悪い風に悪い風に考えてしまうものでござるからな」

 それは――そうなのかも知れないと、ネギは感じた。自分の悩みに、簡単に答えが出ない事はわかっている。しかし――それを嘆いているだけでは仕方がない。もちろん、そうそう簡単に割り切れるものではないが――彼は、何だか、楓に半ば当たり散らしていた自分が、とても恥ずかしくなった。

「長瀬さん」
「なんでござるか?」
「長瀬さんは――すごいと思います」
「藪から棒になんでござるか」
「僕も長瀬さんも、世の中から見ればまだまだ子供なんだと思います。けれど、僕とそんなに変わらない長瀬さんは――こんなにもしっかりしてる。なのに、長瀬さんを導く立場にあるはずの、先生であるはずの僕は――」
「うーん……拙者まだまだ未熟者でござるよ。それにいくら同じ子供と言っても、拙者とネギ坊主は五つも歳が違うではござらんか。何でもネギ坊主は、その年にしてイギリスの有名な大学を飛び級で卒業しているとか――それこそ、拙者には出来ないことでござるよ」
「いえ、それは――」

 ネギは、イギリスの名門、オックスフォード大学を、この歳で卒業している――という事に、書類上はなっている。だからこそ、彼が麻帆良学園都市で教師をすることに、最後の最後で皆は納得する。日本人は、とりわけネームバリューに弱い民族であるが故に。
 しかしそれは、魔法使いの世界が用意した偽の過去。メルディアナ魔法学園とて、それなりの名門ではあるが――如何せん、一般の世界では、普通の学校と比較することそのものが出来ない。
 もちろん、そんなことを口に出すことは出来ないが。

「それは――単なる技術です。僕は幸運にも、人より少し器用にそれが出来ただけで――それだって偶然と運がもたらしたものかも知れないし――それが出来たと言うことは、僕自身という人間にとって、それほどの意味はありません」
「それは、馬鹿レンジャーの“馬鹿ブルー”たる拙者への当てつけでござるか」
「い、いえ、決してそういうわけじゃ」
「ふふっ……冗談でござるよ」

 楓はにっこりと微笑み、火かき棒を脇に置くと、すっと立ち上がった。

「さて――拙者も入らせてもらうでござるか」
「えっ?」
「ネギ坊主用に少し湯を減らしてあるから、拙者一人が入っても大丈夫でござるよ。ネギ坊主は、拙者が抱えておけばまあ良いでござろう」
「ちょ、ちょっと待ってください!」

 ネギは慌てて、ドラム缶から上半身を伸ばし――

「熱っ!」

 思わず体の何処かが、ドラム缶風呂の熱い部分に触れてしまい、悲鳴を上げる。

「ほれ、急に暴れるからでござる」
「長瀬さんが急に変なことを言うからでしょう!」
「気にするような事ではござらんよ。ネギ坊主はまだまだ子供でござるから。拙者も気にしないでござる」
「僕は気にします!」

 ネギの抗議を笑顔で聞き流し、楓は本当に、腰帯を解き始める。こうなっては、ネギにこれ以上の抵抗は出来ない。先日の、大浴場でのイベントと言い――実は彼女は、人に肌を見せる事が趣味の――ちょっと危険な人種ではないだろうかという詮もない考えが浮かんでしまい、ネギは先ほどまでとはベクトルの違う、くだらない自己嫌悪に陥ってしまう。
 そうこうしているうちに、楓は帯を解き、何の躊躇いもなく上着を脱いだ。その下から現れた、健康的な白い肌に、思わず後ろを向き――

「え」
「あ」

 そして、固まった。
 ――視線の先には――同様に、氷の彫像のように動かない、長身の青年の姿があったのだ。
 流れるのは、まさに氷のような時間。
 果たしてそれを解かすのは――

「き――きゃぁああぁあああああああっ!!」

 普段からは想像も出来ないような、楓の絶叫。己の胸を隠しながらも、器用に手裏剣――であろうもの――を投擲する。

「うわっ! うわわわわっ!!」

 青年は、自分に向かって飛来する手裏剣――のようなもの――に気がつき――慌てて、腕を振った。
 辺りに響き渡る、金属質の音。気がつけば、楓が放った手裏剣は、全てがあらぬ方向にはじき飛ばされていた。
 楓はその事に気がつき――普段は糸のように細められている目を見開いて、目の前の青年を睨む。

「く――なんと――」
「ちょ、ちょっと待って! 僕は怪しい者じゃない! この近くに僕の実家があって――とにかく、わざとじゃないんだ! じゃなくて! み、見てない、見てないから!」
「……ならば、“それ”は何でござるか?」

 腕で上半身を隠したままではあるが、楓の鋭い視線が、青年に突き刺さる。
 彼の右腕は、半ばまでが、淡い薄緑色の燐光を発する何かに覆われ――手のひらからは、同じように光を放つ、三本の鉤爪が伸びている。

「これは僕の霊能力で、“恐腕の魂――スピリット・オヴ・ディノケルス”――いや、そんなことはどうでもよくて! 僕は――」

 楓から視線を逸らしながら――しかし、先ほど手裏剣を投げつけられた手前、完全に逸らしきる事も出来ず。顔を赤くしながら、彼は叫んだ。

「僕は藪守ケイ! 美神除霊事務所のゴースト・スイーパー見習いで、今は休暇でこっちに来たの!」










楓初登場。シロとの差別化を図ったものの。
シロ「御座る」
楓「ござる」
……本当なら、こういう小技は使いたくなかったけれど――
まあ、今後の様子を見て考えるとしよう。
今の段階で、シロと楓が二人で会話したら、かなりのカオス。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・少年達の見た背中
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/26 21:11
 何かをするときは、そこに何かしらの迷いや後悔はつきものだ。
 けれど時には、そんなことを全て忘れて突っ走っても良いときがあると思う。
 ――それはとても、難しいことだと思うけれど。




「そういうわけで――大変失礼いたしました」

 そう言って、窮屈そうに長身を折り曲げ、ケイは地面に額を擦りつけた。つまりはそうやって土下座をする彼の前には、腕を組み、赤い顔をして、じっとりとした目線で彼を睨む長瀬楓の姿。
 ネギは何故だろうか――異様な光景であるはずなのに、いつか何処かでそれを見たことがあるような錯覚に捕らわれていた。それは、魔法使いとしての――普通の人間には無い感覚を持つ、彼の本能が見せた幻だったのだろうか?
 藪守ケイ――ネギは知るよしも無いが――妙なところで、“尊敬する男”によく似た青年であった。




 どれほどの時間が過ぎたのか、楓が小さく息を吐く。縮こまったままのケイの体が、びくりと震える。

「……いや、そんなに怯えないでほしいでござる。ほれ、頭を上げて――これでは拙者が鬼か何かのようでござるから」
「いやまあ――偶然とはいえ、あんなところを見ちゃったのは、確かだし」
「出来ればそれはきっぱり忘れるでござるよ」

 拳を握りしめて言う楓に、ケイは反射的に何度も頷いた。ここを彼の知人が見ていたとしたら――苦笑いをするやら、考え込むやらであろう。
 ケイは、膝に付いた土を払いながら立ち上がる。男性と比べても割と長身の部類に入る楓よりも、更に背が高い。ネギからすればまさに、見上げるような身の丈であるのに、不思議とこの青年は、それを感じさせなかった。

「それで――藪守殿は、こんなところに実家があるのでござるか?」
「うんまあ――正確には実家があった場所、かな? ここよりもう少し奥になるんだけど。今はもう、母さんと一緒に東京のマンションに移ってるし」

 聞けば彼の生家はこの近くの山中にあり、かつては開発業者とトラブルを起こした事もあるらしい。それから色々あって、彼は母親と共に東京に移り住んだが――唐突に休暇が出来てしまったために、何気なくこちらに脚を向けてみようと思ったという。
 何でも先日、仕事ついでに麻帆良を訪れる事があったが、その折は忙しすぎて、この地に住む知人を訪ねる事もなく、東京にとんぼ返りをしたとかで。

「それで暫くぶりに来てみたら、懐かしくなっちゃって、こんな時間まで」
「この森を夜中にうろつく物好きは、拙者くらいかと思っていたでござる」
「まあ、こう見えて夜目は利くしね。それにこの辺は、僕の庭みたいなもんだから」
「ほう、では、藪守殿の庭で“キャンプ”をしていた拙者にも、落ち度があったと言うことでござるかな」
「冗談。この森は僕のものじゃないし――軽々しく人の気配に近づいたのも、考えてみれば悪かったのかも知れない」

 とはいえ、まさかこんな森の中にドラム缶を持ち込み、風呂の代わりにしている少女がいるなどと、彼に想像できるはずがない。軽々しく近づいたのがいけないのなら、遠巻きにじっと見ていた方が良かったのかと言えば、当然そうでもない。
 この男。言葉の端々に墓穴を掘っているような気もするのだけれど、幸運にも竹を割ったような性格である楓は、それに気がつかなかった。

「あの」

 今まで黙っていたネギが、不意に口を挟む。

「藪守さんは――ゴースト・スイーパーなんですか?」
「と言っても見習いだけどね」
「しかし、美神除霊事務所と言えば」

 応えたケイに、楓が言う。

「イギリス生まれのネギ坊主は知らなくても仕方ないでござるが、日本でも最高のゴースト・スイーパーと名高いお方の事務所でござるよ?」
「そうなんですか?」
「何でも、拙者が子供の頃に起きた大きな事件で、大活躍なさったとか。そのころネギ坊主は、こちらで言えばまだ幼稚園児程度でござろうから……それこそ、知らなくても無理はないでござるが」
「まあ、美神さんはね。いろんな意味で有名な人だし――」

 何故か遠い目をしながら、ケイはそう応え――何かを振り切るように首を横に振ってから、小さくため息をついた。

「と言っても、僕はあんまり出来が良くない方で。今年と去年、GS試験に挑戦してみたんだけど、二度とも落ちちゃった。その時の美神さんと言ったら、もう」

 楓といくつも変わらない歳の筈なのに、妙に老成した雰囲気を漂わせる彼に――さすがの楓も、慌てて助け船を出す。

「しかし、GS試験と言えば、日本でもっとも難しいと言われる試験でござるよ。おまけに相当の危険が伴うとか。その歳で挑戦出来るだけでも、拙者は十分だと思うでござるが」
「そう――なんですか?」

 ネギの問いかけに、楓は頷く。

「知識や資質が問われるのはもちろんのこと、最終試験は受験生同士の模擬格闘戦。皆が皆、何かしらの一流の資質を持つ者同士の、真剣勝負でござると」
「詳しいね。GS試験って言えば、“難しい”って言葉だけが先行して――まあ、普通の人が受けてみようかって試験じゃないから当然だけど、最終試験の内容なんてあんまり知られてないって言うのに」

 ともすれば死人が出ると――仕方がない事とは言え、ゴースト・スイーパーという職業に与えるマイナスイメージを恐れて、その辺りには何者かが歯止めを掛けているのかも知れない。もちろん、ケイにも楓にも、その様なことは関係ないにせよ。

「拙者、ゴースト・スイーパーになる気はござらんが――それでも、強い者同士の戦いとなると、血が騒ぐでござるよ。前に一度、さる筋から、最終試験の様子を収めたビデオを見せて貰った事もあるでござる。何せ、自分自身が日々強くなろうと、鍛えておるでござるからな。」
「あー、それで」
「何でござるか?」
「何て言うか――そんな忍者みたいな格好なんだ」
「……何の事でござるかなあ?」

 唐突に肩をすくめて口笛を吹く楓を、ケイは訝しげな目線で見る。彼女の隣に立つネギが、何とも言えない表情でこちらを見ていた事が、彼には気になったが――深く質問することは、やめておいた。

「で、でも、さっきのは凄かったじゃないですか。長瀬さんの“シュリケン”を、簡単にはじき飛ばしちゃって」

 今度は、ネギが助け船を出した。その様子に、ケイは苦笑する。

「ああ、これ?」

 彼は腕を掲げ、少し目を細めてみせる。
 すると、彼の右腕に、淡い緑色の燐光がまとわりつく。それはすぐに一つの形を成した。即ち、三つの巨大な鉤爪を持つ、アームガードのような形を。

「“恐腕の魂――スピリット・オブ・ディノケルス”――名前を付けたのは美神さんだけど。霊波刀の一種で、僕のイメージが反映された形なんだけど」
「レイハトウ?」
「えっと、霊波刀ってのは――自分の霊力を収束して、武器の形にする――何て言ったらいいんだろう。美神さんやおキヌさんなら上手く説明できるんだろうけど、僕にはちょっと――」
「そもそも、“霊力”って言うのは何ですか? 東洋には“気”という神秘の技術があるって聞いたことがありますが――」
「いや、東洋の神秘というかこれは――」
「これこれ、藪守殿が困っているでござるよ、ネギ坊主」

 興味津々に質問を飛ばすネギを、楓が宥める。初対面の人間に対して礼を失していたことに気がついたのか、ネギは恥ずかしそうに俯いて、彼に詫びた。

「いや、気にしなくて良いよ。普通の人が霊能力に触れる機会なんて、まず無いだろうし――この子は、長瀬さんの弟か何か? あ、でも、見たところ外国人みたいだけど」
「ああ、こちらは、ネギ・スプリングフィールドと言って――拙者の、担任でござる」
「……え?」

 ケイの顎が、かくんと落ちた。
 彼はこれでも、生まれてこの方、割と濃い人生を生きてきたと自負している。しかしそれでも、彼は一瞬、目の前の彼女が言った言葉を、理解出来なかった。
 そんな彼に、ネギは慌てて自分の出自を説明する。イギリスの有名大学を飛び級で卒業し――さらなる勉学に励むため、日本の中学校で教師をすることになったという、“魔法使いの世界”が用意した、一般人向けの彼のバックグラウンドを。
 もちろんそんな裏事情を知るはずもないケイは、“そういうものもあるのか”と、驚きながらも納得する。何だかんだと言いつつ、彼もやはり、ネームバリューに弱い日本人の一人であった――

「――って、中学校? ってことは――長瀬さんって中学生!?」
「……まあ、そう見られぬ事の方が多のは、認めるでござるが」
「だってそんな……」
「何処を見てそう言っているのか、何を思い出してそのように顔が赤いのか、聞いても構わないでござるか?」

 くるりと、手の中で“ジャパニーズ・ナイフ”を回す楓に、ケイは慌てて首を横に振り、何でもないと応えた。ただ単に、“容姿”が大人びて見えただけであると。
 それ自体には、己自身も認めるところである楓は、肩をすくめて小さく頷いた。

「いや……ごめんごめん。僕の知り合いにも中学生の女の子が居るんだけど――中学三年生? ああそう――シロさんと同い年とは思えないや」

 唐突に彼の口から出てきた言葉に、楓とネギは顔を見合わせる。
 その様子に、ケイは首を傾げた。

「……どうしたの?」
「あの、藪守さん――“シロさん”というのはひょっとして、犬塚シロさんの事ですか?」
「え? シロさんの事知ってるの――って、まさか」
「その通り、拙者とネギ坊主は、犬塚殿のクラスメイトと、担任教師でござる」

 夜の山林に、彼の驚愕の声が響き渡った。




『では、第一問の答が出そろったようです――まずはマコトくんから――これはどういう意味でしょうか?』
「拙者は武器であると思うので御座るが――」
「いいや、あれは絶対楽器ですよ、楽器。ヨコシマはどう思いますか?」
「ん? ああ、すまん、よく見てなかった。問題出る前に映ってたねーちゃんが綺麗やったとくらいしか」
「人間終わってますね」
「そこまで言うか」
「大丈夫で御座るよ。先生が人間として終わっていても、拙者は見捨てたりせぬ故に」
「それは当然私もですが。私と初めて出会った時から、ヨコシマは人間捨ててるようなもんですし」
「お前らな」

 土曜日の夜。麻帆良の郊外にある横島家では、“家族”三人が、クイズ番組を見ながら好き勝手な事を言い、団欒の時を過ごしていた。

『――と言うわけで、正解は、フライパン――でした』
『――はい、答はフライパンだったんです――惜しい方もいらっしゃったんですが、全員没シュートということで』
「あんなもので料理が作れるので御座るか。拙者には信じがたい」
「あー、確かにハンマーって言われたら信じるかもな」
「くう――納得いかないです。あの問題の振り方では、絶対に意図的な勘違いを誘っているのです」
「でもあげはよ。楽器って応えた解答者、いなかったじゃねえか」
「ぅぐ」

 詮もないことを言い合いながら談笑していると――不意にシロが、顔をあさっての方向に向けた。当然、横島とあげはは怪訝そうにそれを見る。

「どうしたよ、シロ?」
「いえ――この音は――ケイ殿のオートバイで御座る」
「は? 何でケイが?」
「拙者存ぜぬが、先日仕事のついでにこちらに来ていたので――何かその関係かも知れぬ。拙者、少し出てみるよって」
「ああ、俺も出るよ」

 ややあって、玄関の呼び鈴が鳴る。
 横島は短く気合いを入れ、テーブルを手すり代わりに立ち上がる。慌ててシロとあげはが、その両脇を支える。

「先生! 無理をなさってはなりませぬ。万が一お怪我でもされれば事です故」
「ヨコシマはきっと平気だって言いたいんでしょうけど、見ている方の身にもなってください。画鋲をぶちまけた部屋で、よちよち歩きの赤ん坊を見ていて気持ちの良い人は、それほど多くないはずです」
「全くお前らは――つうかあげは、それは大げさだろ」
「ヨコシマには言い過ぎくらいが丁度良いんです」

 ならば日頃から、容赦なく彼の頭をハリセンで殴打するのは構わないのだろうか、などと、今更横島自身は聞くつもりはない。
 どうせ聞いたところで、詮もない答が返ってくるだけであるし、“突っ込み”を入れられない自分など、それこそ想像も付かない――非常に馬鹿馬鹿しい事を考えながら、横島は二人に支えられ、玄関に向かう。

「こんばんは、横島にーちゃん」

 果たして玄関に立っていたのは、シロの予想通りの、良く見知った長身の青年であった。
そして彼の姿を認めた横島はと言えば――

「ケイ」
「久しぶりだねにーちゃん。ついこの間麻帆良に来たんだけど、こっちが忙しくて――」
「……貴様、一丁前に女連れか!?」
「……」
「しかも何だ、それがかなりの美人と来ている! しかもそのけしからんスタイル! くっ……何という戦闘力だ! スカウターが壊れちまったのか!? おいケイ、お前はどういう経緯で、このお方を口説いた――いやそもそも、どういう神経で、女連れでこの家の敷居を跨いだと言うんだ?」

 危険なほど鋭い目つきでケイを睨み付け、血の涙を流さんばかりの気迫で、彼に問うた。

「――何となく予想はしてたけど――いや、横島にーちゃん、この人は」
「さてはお前は、また性懲りもなく癒し系の美青年を装って、可憐な乙女を毒牙に掛けやがったな!? 何と言うことだ――とある業界に於いては、子供の頃のお前は女の子と判断するのがもはや常識であるというのに! その期待を裏切って、そして俺を裏切って一丁前にイケメンに成長しやがって!」

 横島はケイの返答を全く無視して、骨が軋むほどに、強く拳を握りしめる。

「この女の敵め! いや――この世に存在する全ての、モテない男の敵め! 貴様なんぞにくぐらせる敷居はない! さっさと帰れこの西条弐号機!」
「いや、性懲りもなくと言うか、僕はそんな事をした覚えは――って言うか」

 ケイは、困ったような笑みを浮かべ――しかし、これだけは言わせて貰うけれど、と、横島を真っ直ぐに見据えながら、強い調子で言った。

「横島にーちゃんにだけは言われたくないよ、それ」
「……何がだよ」
「モテない男の敵って奴。僕だから良いようなものの、他の人の前でそれ言ったらにーちゃん、どうなっても知らないよ。その時はさすがに僕も、フォローできないから」
「はあ? お前一体、何意味のわかんねーこと言ってんだよ」
「……ねえ、にーちゃん――本当に、本当に本気で言ってる? あとさ、“青い鳥”って童話、聞いたこと無い?」

 首を傾げて言う横島に、ケイは魂の底からわき上がってきたようなため息をついた。かくいう横島の方を――両脇を、シロとあげはに支えられた彼の方を見ながら、もはや自分の魂が、脱力のあまり溶け落ちて無くなってしまうのでは無いかと心配になりそうな、深々としたそれを。

「……本当に苦労してるね、シロさん、あげはさん」
「いや……まあ、それは、その」
「――下手な同情なんて……要らないのです」

 両脇の少女が、計ったように同じタイミングでため息をつくのを見て、横島の混乱は更に加速する。そして更にもう一度、少女二人と青年のため息が重なり――

「くっ……くくくっ……いや、話に聞いていた以上におもしろいところでござるな、ここは」

 ケイの連れていた長身の“美女”が、堪えきれなくなったように吹き出した。
 横島はその様子を見て、怪訝そうな表情を浮かべる。確かに少し調子に乗りすぎた節はあったが、笑われるような事は“まだ”していないはずだ――
 しかし果たして、その解答は、彼の右脇を支えるシロが出した。

「して――こんな夜分に、しかもケイ殿を連れて、どうしたというので御座るか、長瀬殿?」
「あいあい――少々ゴタゴタがあって、一緒になったでござるよ」

 彼女の何気ない問いに、何気なしに応える“美女”。
 間違いなくそのやり取りは、彼女らが知人同士であると言うことを示していた。しかし、シロにこのような知り合いがいたのだろうか――と、横島は首を傾げる。

「シロ、お前、このおねーさんと知り合いなのか? 何かお前と似たようなしゃべり方ではあるが――」
「知り合いも何も」

 そこでシロは、わざとらしく鼻を鳴らし、横島にぐっと顔を近づける。
 鼻先が触れあいそうな程の彼女との距離に、思わず横島は顔を引くが――それより先に、シロの唇の端がつり上がった。
 まずい、と、横島の本能が彼に告げる。
 この先を聞いてしまったら、自分はきっと後悔する羽目になると。ゴースト・スイーパー時代に培った勘が、彼に告げる。
 それは、ある種の天啓であった。しかし残念なことに、得てしてそう言う不幸を避けることは難しい。シロとあげはに両脇を固められた今――シロが語る、破滅的な何かから逃れることは出来そうにない。

「麻帆良学園本校女子中等部三年A組――出席番号二十一番、長瀬楓殿――拙者の、クラスメイトで御座る」

 横島の絶叫が辺りに響き渡り――それは、あげはが、彼専用と銘打った“紙製鈍器”を、彼の後頭部めがけて打ち下ろすまでやまなかった。
 その間楓はと言えば、腹を抱えて大笑いしていたし、ケイは疲れた様子で、眉間をもみほぐしていた。そして――

「……あの、僕は一体どうすればいいんでしょう?」

 少年教師が、玄関を入ってすぐのところで、途方に暮れたように小さく呟いた。




「ごめんね。ここに来ると大概、収拾がつかなくなるとは言え――結果的に、放置するような事になっちゃって」
「い、いえ。僕も、突然にお邪魔させてもらってるわけですから」

 申し訳なさそうに、拝むような仕草で片手を上げながらやって来たケイに、縁側に腰掛けて星空を眺めていたネギは、慌てて首を横に振った。

「あの――長瀬さんは?」
「ん? ああ、向こうでシロさん達と一緒に、横島にーちゃん“で”遊んでる。まったくね、あれで日頃から女に縁が無いとか何とか喚いてるんだから――人生ナメてるよね。こちとら、この歳まで彼女の一人もいたことが無いのに」

 言葉の後半部分に、なにやら仄暗い感情を込めて、ケイは小さく呟いた。それを敏感に聞き取ってしまったネギはと言えば、愛想笑いを浮かべるしかない。それくらいしか、人生経験の薄い彼に出来る事は無かった。
 ややあって、はたと、自分の浮かべている表情に気がついたのか、ケイはばつが悪そうに、ネギの隣に腰を下ろした。

「この場合――それがどうでも良くなっちゃってるのが、この家の凄いところなんだけど――ネギ君は凄いね。その年で学校の先生なんて」
「いえ、そんな……僕は、皆さんに迷惑を掛けてばかりの、駄目な先生で――あの、横島さんも、何かの先生なんですか?」
「いや、ただの――ただの、でもないか。サラリーマンだけど、どうして?」

 ネギの問いに、ケイは首を横に振る。その理由は、単純なものであった。

「いえ、犬塚さんが、あの人の事を“先生”と呼んでいるものですから」
「ああ、あれね」

 彼は懐かしいものを思い出している――そんな表情を浮かべて、言った。

「横島にーちゃんが、まだ高校生で、美神さんのところでゴースト・スイーパーの見習いをやってた頃に、割と大きな事件が起きたんだ。その時――にーちゃんが助けたのが、小さい頃のシロさんで。シロさんはにーちゃんに、にーちゃんの“特技”を教えて欲しいって頼んだんだけど――だから“先生”ってわけ」

 もっとも――と、ケイは言った。

「既にシロさんの中じゃ、それは特別な意味を持つ言葉になってるんだろうけどね」
「横島さんも、ゴースト・スイーパーなんですか?」
「うん、だから――元、だけどね」

 ネギの脳裏に、先ほど喚き散らしていた白髪の青年の姿が蘇る。こういう言い方をして良いのかどうかわからないが――確かに、事前にケイから聞いていた通りに、“面白い人”ではあった。
 ただやはり、彼の人生経験の浅さがネックになって、横島のような人種を前にして、ネギの取れる行動はいくつもない。
 果たして、“ガキの分際で女子校の教師とは――”などと喚き出し、自分と同い年くらいの少女の一撃を食らって沈黙する彼の姿を、ネギは呆然と見つめるしかなかった。

「あの――失礼な事をお聞きするかと思いますが」
「ん? ああ、にーちゃんの脚の事? 構わないよ。気になるのも仕方ないと思う。ちょっと――ある事件があって――それ以来ね」
「それで、ゴースト・スイーパーを辞めてしまったんですか?」
「本人は全然気にしちゃいないけどね。前途有望な美少女を助けられるのなら、物理的に脚をもぎ取ったって全然惜しくない、とかなんとか。ああいう人なんだよ。あの人は、自分の全てをさらけ出して、他人の心の中に入ってくる。だからみんな、あの人が好きになる。それがどれだけ難しいことか――あの人は気づいてすらいないけど」

 寂しそうに語るケイの様子に、ネギは何も言い返せない。
 ただ――彼の言葉が真実ならば、横島と同じには無理にしても――彼のように生きることは、ネギにとって一つの理想と言えるような、そんな気にさえなった。

「ま、こんな事は本人の目の前では言わないけどさ。僕だってね、思うところはあるんだよ。だから、絶対に言ってやらない。ネギ君も黙っててね」
「はあ……」

 そして――今の自分が、喩えようもなく惨めで小さなものに感じられてしまう。
 不意に、自らの教え子――楓の事を思い出す。
 彼女の中では、戦うことと争うことは、イコールでは結びつかない。それは、現実逃避だとか、耳に優しいお題目を信じているとか、そう言うことではない。
 きっと、彼女は自分とは違い、強くなることに、そして戦うことに躊躇いを持たないだろう。
 自分が強くなりたいから、強くなる。そこに、他者と争う事というのは、本来介在していない。
 さりとて――いざとなれば、楓は誰かと戦う事を厭わないだろう。彼女に聞いたわけではないが、ネギにはそんな直感がある。自分の力は“何のためのもの”なのか、彼女はそれを理解している――そんな気がするのだ。
 そして、あの横島という青年も、また――

「えっと――何か悩みでもあるのかな、ネギ君は」
「えっ?」

 唐突にケイに言われて、ネギははっと顔を上げた。いつの間にか俯いて、思考の海に浸りかけていた自分に、彼はようやく気がつく。

「いえ――僕は――その、何て言うか――教師を続けていていいのかな、って、思ってまして」
「まー、その年だしねえ。悩んでも仕方ないと思うよ」
「いいえ、そう言う事じゃなくて」

 ネギは、少しだけ悩んだが――目の前で、少年のように首を傾げるこの男に、自らの心中を打ち明けた。

「僕は――色々と事情はあるんですが、それでも、一人前の先生になろうと頑張ってきたんです」

 立派なことだよ、と、ケイは言った。

「でもその実――僕にとってそれは、ただの手段だったのかも知れないって、そう思うんです。僕が目指す場所に至るための手段――それが、麻帆良で先生をやること。でも、でも――三年A組のみんなにとって、そんなことは関係ありません。僕は先生として、彼女たちを導かなきゃいけないのに」
「ネギ君みたいな先生ばっかりだったら、きっと今の日本も、“キョーイクモンダイ”とやらとは無縁なんだろうけどね」

 そう言って、ケイは肩をすくめてみせる。

「そう思ってる時点で、ネギ君はよくやってるよ。教師をやることが手段だって? そんなことは当然じゃないか。僕だって、日々を生きるためにゴースト・スイーパーをやってる。極論だけどね、他人のトラブルが飯の種ってわけ」
「でも、それは」
「僕の知ってる人に、日本のゴースト・スイーパー黎明期にその人有り、と言われた神父さんがいる。その人にとってはまさに、悪霊を退治して、人を助けることそのものが目的で――いつもタダで人助けをしては、貧乏に喘いでる」

 けれど、と言って、彼は首を横に振った。

「彼にとっても、ゴースト・スイーパーはただの手段でしかない。僕よりもずっと崇高な目的のための手段だけど――それでも、単なる手段なんだ。ネギ君にとって、教師はどんなものか、僕は知らない。けど、間違いなく言えることは――ネギ君にとって、教師はただの“手段”だって事だ」

 そう――と、ケイはネギの顔を真っ直ぐに見る。柔らかな東洋人の、それも女性的な印象すら受ける彼の顔。意志の強さを秘めた、男性的な美しさの片鱗を持つネギとは、対照的なもの。
 内面と外見は関係ない――とは言え、ケイという人間の本質は、自分とは対極にあるのではないだろうか、と、ネギは心の何処かでそう思った。

「君が、教え子のみんなと共にありたいなら、教師はただの“手段”だ。ネギ君が楓さん達と共に歩くのに、教師じゃなきゃいけないという理由はない。彼女たちと共にあることが出来るのなら――何だって良いんだ。時には別のものになったっていいじゃないか。例えば――誰かを庇って戦う戦士、とかね?」
「っ!!」

 ネギは弾かれたように顔を上げる。そこには相変わらず、柔和な笑みがある。

「僕のことを――知ってたんですか?」
「そんなボロボロの格好でいたんじゃ、気にもなる。悪いとは思ったけど、長瀬さんに――ああ、彼女を責めないでくれるかな。僕が無理を言って聞いたんだ。君が、“戦う”事について、何かを悩んでるって。あとは――まあ、僕の予想だったけれど。今の会話で何となくわかった」

 ケイは小さく息を吐き――目を細めて、星空を見上げる。

「これは、僕がゴースト・スイーパーだから――何かと戦う仕事だからそう思うのかも知れないけど、時々自分がやっていることが正しいのか――そう思うときがある」
「ゴースト・スイーパーは、立派なお仕事だと思います」

 ネギはそう言った。そう、それは“立派な魔法使い”と同じく――理不尽な脅威から、人々を守るための仕事。もちろん、その部分は口には出さないが。

「これは又聞きだけどね、僕の上司のお母さんは、昔、ただ一途にそれに憧れてゴースト・スイーパーになったらしいよ。ほら、テレビでやってる正義のヒーローってあるじゃない? “自分はそれに憧れてゴースト・スイーパーになったんだ”って、そう言った事があるらしいんだ」

 正義のヒーロー。ネギの中での、“立派な魔法使い”のあるべき姿。ずっとその背中を追ってきた、自らの父親の姿。
 だが――ケイは言った。

「その人は、ずっとそれを目指してきた。世の中には、正義のヒーローを気取ってもどうにもならないことがあるって、そう言われた事もある。けれど、それでも――」
「……」
「その人のその考えは、今でも変わってない。でも、彼女は時々苦しんでる。何か、もっといいやり方があったんじゃないか。もっと――優しい誰かが傷つかずに済む方法があったんじゃないか、って」
「優しい、誰か?」

 ネギの問いかけに、ケイは応えなかった。ただ小さく首を横に振り――ややあって、明るい調子で振り向いた。

「ちょっと昔話をしようか。昔――僕が今のネギ君位の頃、僕は何も知らない子供だった。周りの自然と、母さんだけが、僕の世界の全てだったんだ。そして、僕はその世界が、案外脆いものだって事に、全然気がついてなかった」
「……」
「そんな時に、あの人は僕の前に現れたんだ」




「馬鹿話は終わったかよ。全く、聞いてて鳥肌が立つぜ。俺はそんなキャラじゃねーっつーの」
「何だ、いたの、横島にーちゃん」

 ネギはいつしか、縁側に座ったまま、ゆっくりと船を漕いでいた。そんな彼を優しく見つめていたケイに、白髪の青年が声を掛ける。振り返れば、彼は柱にもたれ掛かるようにして立っていた。

「いいじゃん、素直に喜びなよ。僕の中では今でも、あの時のにーちゃんは、僕のヒーローなんだから」
「あの時限定っつうのが、何か引っかかるが、まーいい」
「シロさん達は?」
「“乙女の会話”とかで、菓子とお茶持ってあげはの部屋に籠もってるよ」

 苦笑しながら、横島はその場に腰を下ろそうとする。ケイはそれに手を貸そうとしたが――

「ヤローの手は借りん」
「はいはい」

 何とも彼らしい遠慮に、ケイは肩をすくめて苦笑した。

「楓ちゃんのせいで有耶無耶になってたが――何でお前が麻帆良にいるんだ?」
「居ちゃ悪い? 単純に暇が出来ちゃっただけだよ。美神さんがね、おキヌさんとタマモさん連れて、精霊石のオークション――ついでの観光に、ヨーロッパに行っちゃったもんだから」
「お前は寂しく居残りか」
「まあ、僕が着いていっても仕方ないことだってのは、むこうもわかってる事じゃないかな――まあ、ちょっとは思うところあるけど」

 ケイの拗ねたような言い方に、横島は愉快そうに笑った。

「そういやお前バイクだろ? あの二人をどうやって連れてきた?」
「……どうしてもって言うから――タンデムシートに長瀬さんを乗せて、僕との間にネギ君を挟んで、三人乗りで」
「……お前なあ、美神さんのコブラと、おキヌちゃんのフィアット、タマモのガヤルドに、とどめにお前のニンジャ――警視庁から名指しでマークされてるって、よもや知らないわけじゃないだろう?」
「……ま、まあ、ここって東京じゃないし――麻帆良はそう言うの甘そうだったし」

 引きつった顔で言うケイに、横島はため息を零す。

「まー、お前があの中学生らしからぬ戦闘力に悩殺されたってのはわかるが、大概にしとけよ。違反以前の問題に、事故ってあの子に傷でも残したら、俺はお前を絶対許さんからな」
「ちょ! 後半は凄く良いこと言ってんだけど、前半部は全力で否定させてもらうよ!」
「……なあ、お前、何か顔赤いぞ? マジで何かあったんじゃないだろうな?」

 ねじ切れそうな勢いで、ケイは首を横に振った。暫く横島は、そんな彼を怪訝そうに見ていたが――ややあって、小さく息を吐く。

「しかしなんつうか――ゴースト・スイーパーを辞めてこっち、いい加減俺の周りも静かになるかと思ってたんだが」
「それは無理なんじゃない? トラブルに巻き込まれないにーちゃんってのも、ちょっと想像できないし」
「お前も言うようになったなケイよ。否定出来んのがかなり辛いところだが――やっぱり、このネギってガキか?」
「そもそも何が原因かまでは聞いてないけどね」

 ケイの言葉に、横島は小さく頷く。その視線の先には、座ったまま眠りこけているネギの姿。

「昨日、シロの友達だっていう明日菜ちゃんって娘がうちに泊まりに来た。それがな――あのガキと同じ様な顔してんだわ。まったく、美少女にあんな顔は似合わねえよ」
「ネギ君はどうなのさ?」
「俺はこう見えてもガキには甘い方だぜ。シロだとか天龍の時だってそうだし――お前だって――いや、別に、わざと立派なことを言うつもりもねえけどさ」

 似合わない事を言ったとばかりに、横島は鼻の頭を掻いてみせる。

「まあ、このガキ、イケメンオーラがにじみ出てる上に、この歳で女子校の教師だと!? まったく、実にけしからん。俺が小学校の帰りの会で、スカートめくりの罪で女子からつるし上げを食っていた年の頃に、こいつは全く――」
「途中から話が飛んでるよ、にーちゃん」
「おお、そうだ。まあ、こいつの邪気のなさを考慮して、今回は一度だけ見逃してやるが」

 彼は大仰に腕を組んで頷いてみせる。その様子がおかしくて、ケイは苦笑する。やはり彼は、あの頃から何も変わっていない。
 それが――たまらなく嬉しいと、ケイは思うのだ。

「俺は、こいつとは正反対のタイプの人間だからな。“ああ、人生とはなんたるか”――そんなことについて悩むような趣味はない」
「そうかな。僕は、結構似てると思うんだけどね。ネギ君とにーちゃんは」
「顔を見てそう言ってるなら、俺はお前を全力で殴らずにはいられない」
「それは出来れば勘弁だけど」

 ケイは肩をすくめ――目を細めて、ネギの方を見た。月の光に似た優しい輝きが、その瞳には宿っている。

「――考えようによっちゃね、ネギ君の悩みって、単純で取るに足りないものじゃないかって思うんだ。あの頃のにーちゃんが、美神さんに向かって啖呵を切ったあの時みたいにね」
「お前――俺があの時どれだけの勇気を振り絞ったのか。今まさに美神事務所にいるお前が、それを理解してないのか?」
「そうじゃないよ」

 青ざめた顔でそう言う横島に、ケイは首を横に振る。

「あの時――横島にーちゃんには、ああしない選択肢って、無かったでしょ?」
「……」
「だから、似てるんだよ。僕らみたいな凡人から見れば、当たり前に気がつくことに、にーちゃんやネギ君はなかなか気がつけない。ただひたすらに前を見続けるからこそ、足下にあるものに気がつかない」
「悪いけど、俺にはそんな小難しい事はわかんねーよ」

 横島はそっぽを向くように、ケイから目線を外し――手持ちぶさたに、ネギの頭を“わしゃわしゃ”とかき回す。余程疲れていたのか、ネギは小さくうめき声を上げただけで、目を覚ます事は無かった。

「んで? このガキは大丈夫そうか?」
「僕の言葉だけで何かが吹っ切れるなら、最初から悩んだりしないだろうけど――」
「それでも何も言わずにはいられないってか? このお節介め」
「にーちゃんには言われたくないよ」

 そうして白髪の青年と、長身の青年は笑いあう。その二人の顔に宿る笑みは、全く違うはずなのに、何処か似通っていた。

「先生、ケイ殿――おや、ネギ先生はもう眠ってしまったので御座るか?」

 ひょいと、シロが奥の部屋から顔を出す。そちらに向けて、横島はひらひらと手を振って見せた。

「疲れてんだろ。とはいえこのままじゃ風邪引いちまうだろうし、頃合いを見てたたき起こして、布団にでも放り込むさ」
「左様で御座るか。それとケイ殿、長瀬殿が呼んでいるで御座るよ。もっとケイ殿の事を知りたいと――」

 シロの放った一言に、横島とケイ――二人の間に流れていた空気が、一瞬で凍り付く。

「……ケイ?」

 錆び付いた人形のような動きで、横島がケイの方を向けば、彼は必死に首を左右に振って、彼の言わんとするところを否定する。
 そんな二人の様子を、おかしそうに笑いながら、シロが助け船を出した。

「先生、長瀬殿は、ケイ殿の霊能力に興味がおありのご様子。彼女は何というか――貪欲に強さを求める“求道者”であるが故に」
「……あー、そう言うことか。要するにあの娘は、雪之丞弐号機なわけだ。そこの西条弐号機と言い――人間、何処にでも似た奴は居るもんだな」
「やめてよその言い方」

 ケイがうんざりしたように眉をひそめ、シロはまた声を上げて――しかし口元を押さえて、上品に笑う。着物の袖に染め抜かれた桜の花が、小さく揺れた。
 麻帆良学園都市の片隅で、彼らの夜は、静かに――しかし暖かい時間と共に、ふけていく。










改変具合がかなり妙な事になってきた。

テンプレ化を避けるために原作を読むことを自分に禁じていたのだが、
どうしても確認したいことがあって原作を読み返してみる。
そして気づく。
あれ? エヴァンジェリン編って、こんなにあっさりしてたかなあ?

自分の中では、割と大きな位置を占めているだけに、
この話はエヴァンジェリン編半ばでこの有様なわけですが。
まあ、このまま突っ走りたいと思います。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・己の有り様
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/29 16:06
 あなたが焦る理由が、わからないわけじゃない。けれどそれは杞憂と言うものだ。何故って、誰しも、それを望もうが望むまいが――明日はやって来るのだから。それが嫌だったとしても、逆にどれほど焦っていたとしても――未来は、やって来るのだから。




「うん……うん、わかった――ううん、こっちこそごめん。何か迷惑掛けたみたいで――そんなんじゃないってば! わかった――それじゃ、とりあえず明日ね」

 一通りの話を終え――携帯電話の通話ボタンを押した明日菜は、大きく息を吐き出した。

「何やて?」
「……ネギの奴、長瀬さんと一緒に、シロちゃんの――横島さんのところに居るって。何だか随分疲れているみたいだから、今日はもうこっちに泊まらせる、って」
「……せやったんか――良かったなあ」

 彼女の方を心配そうに見つめていたルームメイトの少女――近衛木乃香は、心の底から安堵したような吐息を漏らした。
 ネギ・スプリングフィールドが、女子寮の一室――当の明日菜と木乃香の部屋に間借りしているのは、彼女らのクラスの人間ならば、周知の事実である。一部、その事実に歯噛みしている者もいるくらいで――つまり我らが犬塚シロも、その事は知っていた。
 だから、自分の家にネギが転がり込んできて――それを一応明日菜達に知らせておこうと電話をして、そこで初めて彼女は、ネギが家出をしていた事を知ったようだった。

「せやけど――ネギ君、うちらの事が嫌いなんやろか……」

 木乃香は小さく呟いた。それも当然だろう。自分達に何の断りもなく部屋を出て、こちらがさんざん心配をした挙げ句に、友人のところに転がり込んでいるという。
 随分と疲れているだとか、何故か楓が一緒に居るだとか――考えてみれば事はそう単純でなかろう、というのは木乃香にもわかるだろうが、それでもそう思ってしまう事は仕方がない。
 かくいう明日菜は、その理由を知っている。彼は、自分や、今、ペットの振りをして自分の肩に乗っているカモと、顔を合わせづらいのだ。話を聞けば、シロのところに彼を連れてきたのは楓だと言い――何故に楓がそうしようと思ったのかはわからないが、恐らく今のネギには、そちらの方が良いだろう。
 しかし、魔法の事を知らない木乃香には、真実を告げることは出来ない。
 自分は魔法使いではないというのに、何て勝手な――と、明日菜は思わなくもない。けれど、そのもどかしさをぐっと堪えて、彼女は木乃香に言う。

「この間から、ほら――あいつ、エヴァンジェリンさんとのゴタゴタとかで、随分悩んでたじゃん。ネギも変なところで頑固だから――そう言うときに、私たちに顔を見せたくなかったんじゃないかな」

 寮に居れば、嫌でも顔を付きあわせる事になる――、と、明日菜は苦笑しながら言って見せたが、木乃香の表情は張れない。

「――せやけど、うち――悔しいわ」
「……木乃香」
「うちは、ネギ君の事大好きや。いつも一生懸命で、でもちょっと間抜けで――うちらのことも、自分がまだ子供やのに、よう考えてくれとる。うちは、そんなネギ君が大好きや――せやけど、うちは――ネギ君の力には、なれへんのやろか?」

 明日菜は、その言葉に、ぎゅっと拳を握りしめた。
 今の木乃香に、自分は何と言葉を掛けてやればいいのか。自分は一体、この親友のために何が出来るのか。
 今はまだ、それはわからない。だから、亜麻色の髪の少女は一人、拳に力を込める。
 自分の中に鬱屈した、淀んでいる何か――それを一気に解放するのは、今ではない。

「――あかんなあ、こんな事考えてまう自分が、ちょっと嫌になるわ。ネギ君かて、ネギ君の事情があって、それはうちらでどうにか出来るもんとは限らへん。せやのに――ネギ君は、うちらの所有物か何かやないて、わかってはおるんやけど」
「わかってるわよ」

 明日菜は、精一杯の笑みを浮かべて、親友の肩を叩いた。

「本当に嫌だったら、学園長に無理に放り込まれてからこっち、私たちの部屋に居着いたりしないわよ。あの時と違って、今まで他に部屋なり何なりを探す時間は、十分にあったんだもの」
「明日菜」

 彼女の言葉に、ややあって木乃香は、ぎこちない笑みを浮かべた。普段の柔らかな彼女の笑みからは、ほど遠いものであったけれども――

「……せやな。せやったら――うちらが出来る事言うたら、ネギ君が帰ってきたときに、お帰りて、笑顔で迎えてやる事くらいやろか」
「まあ、私としちゃ一発ぶん殴ってやりたいけどね」
「乱暴はあかんえ、明日菜。それに、明日菜かて、昨日の夜はうちに寂しい思いさせたやん。カモくんがおらへんかったら、うち、寂しくて死んでまいそうやったわ」
「う……それはごめん」

 木乃香に詫びながらも、明日菜はカモに、余計な事をしていないだろうかと言う疑念の視線を向ける。何せ、“魔法”の“ま”の字も知らない普通の人間を、ネギの“従者”として引っ張り込もうとする男だ。信用は出来ない。
 それに――オコジョの癖に何故か、人間の女性にも興味があるようであるし。

「そうだ――何だったら、明日ネギを迎えに、シロちゃんの家に遊びに行く? ちょっと遠いけど、市電使ったらすぐだし」
「ええんかな? そんな、突然決めてもうて」
「ネギがいきなり転がり込んでるんだから、今更でしょ。それに横島さん、美少女ならいつでも歓迎とか言ってたし、木乃香なら全然オッケイでしょ?」
「何やの、それ?」

 明日菜の言葉に、木乃香は小さく吹き出した。明日菜は、その様子を見て、ほっと胸をなで下ろす。内心で、事後承諾となったことを横島とシロに詫びながら。
 とはいえ――きっと彼女が言ったとおりに、横島家の面々は、彼女たちならずとも、いつでも歓迎してくれるのだろうけれど。そんな暖かな確信が、明日菜にはあった。




 一人の自分が言った。危険な悪を排除することは、立派な魔法使いとして間違った道ではないと。
 もう一人の自分が言った。闇雲に力を振りかざすのではなく、人を導き育て、そして守事こそが、立派な魔法使いの道であると。
 さらにもう一人の自分が言った。力のありようなど良くはわからないが、強くなることが間違っているわけではない、と。
 果たして最後に、それを見ていた自分が――ごちゃごちゃうるさいと怒鳴り、三人の自分を、強烈な魔法で吹き飛ばした。

「……」

 そこで、目が覚めた。
 彼――ネギ・スプリングフィールドは、霞が掛かったように眠気の残る頭で、周囲を見渡す。彼が横たわっていたのは、見慣れた麻帆良女子寮の一室――明日菜達の部屋のロフトではなく、見慣れない和室の一角に敷かれた布団の上だった。
 天井には古い木が渡され、部屋そのものは障子で仕切られ、床の間には不思議な印象を受ける絵が飾られ――床は、新鮮ない草の香りが漂う畳。そこはまさに、イギリス育ちのネギからすれば、教科書にしても悪くない程の“日本の家”だった。

(そうだ――ここは、犬塚さんの家だ)

 思い出すは、昨日のこと。森の中で出会った楓と、突然現れた青年、ケイ。二人に連れられてやって来たのは、ネギの教え子でもある少女――犬塚シロが暮らす家。
 今年度が始まってすぐに転校してきて、まだ一週間ほど――申請をして女子寮にも入っていない彼女とネギの接点は、未だに薄い。そんなところに急に押しかけて、あまつさえ泊まり込んで良かったのだろうか――と、思わなくもない。
 もっとも、この家の主辺りが、この少年の日常生活を知ったら、こめかみに青筋を浮かべながら言うだろう。何を今更――と。
 唐突に、障子が開いた。ネギがそちらに目をやると、そこに立っていたのは、彼とそう変わらない歳の、緑色の不思議な光沢を持った頭髪が目を引く、一人の少女。

「おや、起きていたんですか」
「あ、はい、おはようございます……」
「早く支度をして朝ご飯にするですよ、お寝坊さん」

 そう言って手を振る彼女からは、言葉にしがたい不思議な魅力が感じられて、起き抜けのネギは、意味もなく顔を赤くしてしまう。これは明日菜や木乃香とは違う、“同年代”の少女――思いの外、ネギにはその類の友人は少ない――だから感じられる事だろうか?
 彼女が去ってから――何時の間に着替えたのか良く覚えていないが、ともかくパジャマ代わりに着ていた、だぶだぶのジャージから、枕元に置かれていた自分の服に着替える。袖を通して気がついたが、昨日はかぎ裂きになっていたはずの右の袖が、綺麗に繕われている。
 これをやってくれたのは誰だろう? わかればちゃんとお礼をしなければ――などと考えながら、ネギは障子を開け、廊下に出る。ひんやりとした板張りの廊下が、起き抜けの体には妙に心地よかった。

「おや――おはよう御座います、ネギ先生」

 おぼろげな記憶を頼りに居間に着いてみれば、そこには、着物の上からエプロンを付けたシロが、朝食の支度をしていた。ネギに気づくと彼女は、にこやかに笑みを浮かべる。

「お、おはよう御座います、犬塚さん」
「昨日は良く眠れたで御座るか? 座ったままうたた寝をしていたくらいで御座るから、眠ること自体は問題無かったであろうが、寝心地が悪いと夢見も悪い故に」
「いえ、そんなことは」

 目が覚めるときに、おかしな夢を見てしまったような気もするが――もちろん、ネギはその様なことは言わない。明日菜達の部屋の寝具が、寝心地が悪い――と言うわけでもないが、彼が寝かされていた布団からは、お日様の良い匂いがして、とても気持ちが良かった。
 ふと、居間の壁に掛けられた時計に目をやれば、時刻は午前七時過ぎ。あげはは「お寝坊」と言っていたが、休日の朝としては十分早い時間だろう。早朝の代名詞と言える新聞配達のアルバイトをしている明日菜でも、いやさ、その反動だろうか、休日の朝は昼頃までベッドから出てこない事もある。

「さて、ネギ先生は適当な席に着いてくだされ。朝食をとるのは、皆が揃ってからと決まっておる故に――どうせじきに――」

「――ええかげんにせぇよ、あげはぁ――!!」
「――ちょ!? 長瀬さん!? 何やってんのぉ!?」

 奥の方から、二人の青年の絶叫が聞こえる。ネギは呆然と、その声が響いた方に顔を向けていたが――ややあって、おかしそうなシロの苦笑に気がつく。

「……あの」
「毎朝の事で御座るから、気にする必要は御座らぬよ――しかし長瀬殿は、本当にケイ殿が気に入ったようで御座るな? 横島家の“モーニングコール”を教授すれば、いかにも楽しそうに笑みを浮かべておったが――」
「……「横島家のモーニングコール」が一体何なのか――聞いても構いませんか?」
「――さすがにネギ先生に話すことは憚られるで御座るな。その様なことをすれば拙者、明日菜殿と木乃香殿に怒られてしまうやも知れぬ故」

 ややあって、赤い顔をして楓に手を引かれたパジャマ姿のケイと――あげはに腰の辺りを支えて貰いながらの横島が現れた。こちらも顔が少し赤いが、何故だろうか、彼は切腹して果てる寸前の武士もかくやと言う――いつぞや朝倉和美の前で見せたような表情を浮かべている。
 そんな横島が、淀んだ、しかし鋭い瞳でケイを睨み付けた。

「よー、朝から随分楽しそうじゃねえか、この西条弐号機」
「その呼び方やめてよ。横島にーちゃんこそ、どうしてそんなに“楽しそう”なのさ」
「俺は“ただ”、あげはに起こされた“だけ”だ」
「僕だってそうさ」
「ふん、誰が信じるか」
「こっちだって」

 二人してそっぽを向きながら、しかし示し合わせたようなタイミングで、食卓の隣同士の場所に腰を下ろす。むろん――やけに楽しそうな顔をしながら、ケイの隣に楓が、横島の隣にあげはが腰を下ろす。
 その様子を見て、シロは人数分の茶碗を重ねて、お盆の上に置かれた電気釜を引き寄せながら、小さく笑った。

「いつも通りの、愉快な朝で御座るよ」




『何だって? 糸目の姉ちゃんはジャパニーズ・ニンジャで、銀髪の姉ちゃんはゴースト・スイーパーだって? こいつは剛気だぜ兄貴。上手く味方に引き込めりゃあ――きゅっ!』

 いつもより幾分賑やかな朝食が終わって暫く――更に二人の来客が、横島家を訪れた。いや、正確には、二人と一匹と言うべきだろうか? 言わずもがな、明日菜、木乃香、そしてカモである。
 木乃香の目を盗み、ネギからの話を聞いたカモが嬉しそうに言い、しかし果たして、その途中で明日菜に胴体を締め上げられて、不可思議な悲鳴を漏らす。

「あんたは! 誰のせいで私とネギが、こうも苦労する羽目になったと思ってんのよ!」
『あ、姐さん! ギブ! ギブっ!』
「あ、明日菜さん、カモ君は妖精とは言っても、体は普通のオコジョと変わらないんです! 小さな動物は結構デリケートで――それに、茶々丸さんとの事は、僕らにも責任があると思いますし!」

 明日菜の手の中で咳き込みながら、カモは首を横に振った。

『……姐さんの言うとおり、俺っちのやり方とか言い分が、姐さんらから見れば、馬鹿げてて後ろ暗いものだって事は、理解してまさあ』
「どうかしらね」
『確かに――兄貴を取り囲む関係は複雑で、茶々丸って奴は良い奴だったのかも知れねえ。けど、あの場ではああするのが、ベストとは言わないまでもベターなやり方だったと、俺っちは疑ってねえ』
「開き直ったって、感心なんてしてやらないわよ」

 明日菜は冷たい目線でカモを睨む。しかしカモも、意外にも、彼女の視線を真っ直ぐに受け止めた。

『ああ、こいつは開き直りでさあ。俺っちはすぐに金に目がくらむし、その為に兄貴を利用しようとさえ思った事もある。“魔法使いの従者”の仮契約だって、結局は兄貴の名を上げて、ついでに俺っちの懐も潤そうって、そういう魂胆だと言えば否定は出来ねえさ』
「……あんたね」
『だが! 姐さんが信じてくれなくても別に構わねえが――俺っちは、確かに姐さんや兄貴に比べりゃ小悪党だ。自分を悪のナンタラと名乗ってるエヴァンジェリンの事を考えれば、結局最低のタイプだ。だがそんな俺っちだって、最後には結局兄貴を助けたいんだ。この気持ちだけは本物のつもりだぜ』
「その言葉を、信じろって?」
『口先だけの奴だと思うなら、別に構わねえさ。それならそれで、姐さんに嫌われたまま、俺っちは俺っちのやりたいようにやるだけさ』

 ネギが小さく、明日菜の名前を呼んだ。そちらに目を向けると、ネギは真剣な様子で、彼女の方を見上げていた。

「カモ君の言ってること――僕は信じたいと思います」
「ネギ、あんたね」

 お人好しにも程がある――と言いかけた明日菜を、ネギは制した。

「確かにカモ君は、欲に目がくらんでろくでもない事をしたり、自分の思うとおりに物事を動かしたりしようとすることはあります――僕もその辺はどうにかして欲しいけど」
『あ、兄貴……』
「でも、カモ君が本当に馬鹿で考えなしでしかも下衆かと言えば、僕はそうは思いません。カモ君は、さっき言いました。僕を取り囲む状況は複雑だって――僕の他にも、カモ君の利益になるだろう魔法使いはたくさんいる。カモ君が本当に、僕らのことを良いように利用しようとしているだけなら――僕らの側に居ずに、もっと良い“カモ”を探す。それが実は、一番利口なやり方だと思うんです」

 確かに、ネギ・スプリングフィールドは、魔法使いの間では知らぬ者の無い英雄、“ナギ・スプリングフィールド”の実の息子であり、魔法世界の期待のホープである。その側に居れば、確かに得られる旨味もあるだろう。
 しかしそれ以上に、彼の側にいることは危険でもある。現在、“魔法使いの世界”は、混乱期を迎えている。そんなところへ、過去の英雄の息子――今回のエヴァンジェリンなどは特殊な例かも知れないが――彼女以上の悪意が、彼女以上の理不尽さを持って、いつネギに襲いかかるとも知れないのだ。
 高名な魔法使いは彼だけでなく、上手く立ち回れば利益が得られる場所もまた、彼の側だけではない。単におこぼれにあずかろうと言うのなら――実際、ネギ・スプリングフィールドという人間を選ぶことは、あまり賢い選択とは言えないのである。

「それは――でも、それにしたって、あんたお得意の“お人好し”じゃないの」
「……けれど、明日菜さん。僕らは結局あの時、カモ君の言葉に従った。だから後悔した――それは僕らには何も考えが無かったからです。カモ君の言葉が間違っていたとして――その間違いを正すだけの、自分の考えが。カモ君が信用できない小悪党というなら、僕らは何なんですか? 言われるがままに、茶々丸さんを傷つけようとした僕らは」
「……」

 ネギの言葉に、明日菜は言い返せなかった。それは、吐き気がするほどに嫌悪感を覚えた、自分達の本質だったから。

「その結果、僕らは逃げた」

 彼女の心中を代弁するように、ネギは続けた。

「そしてこの二日間を過ごして――長瀬さんや藪守さんの話を聞いて――もう一度、明日菜さんとこうやって話をして」
「ネギ、私には、正直まだ答が見えない。争うことや、戦うことの意味もわからない。私は普通の女子中学生だもの。あんたはどうなの?」
「僕の中にも、まだ迷いはある。けれど、一つだけわかったことがあるんです」
『……兄貴』
「きっと最善のやり方なんて無い。ベストさえ、目指した結果に最悪の事態を招くかも知れない。けれど――強くなろうと決めた人間は、逃げることだけはしちゃいけない」

 拳を握りしめて言うネギに、明日菜はふっと、肩の力が抜けるのを感じた。
 つまり――ああ、こいつは――“何も成長していない”のだと。しかしそれを、何故だか安心している自分が居る。
 こいつは、二日も家出をして、さまよい歩いて、方々に迷惑をかけて――その一部からは、助言までもらって、それでも何も変わらなかった。もちろん、少々物思いに耽ったり、多少重みのある言葉を投げかけられたところで、人間という生き物は、そうそう簡単に変わるものではない。

「どうしたらいいのかわからないし、もの凄く怖い。だけど――僕はもう一度、エヴァンジェリンさんと向き合ってみたいと思います」
「結局ネギはネギ、って事ね」

 だから明日菜は――彼の額を、軽く指で弾いた。
 彼が成長していないことに、不思議な安堵感を感じたのは――きっと自分もまた、気分が少し変わっただけで、何も成長していないだろうと言うことに、気がついたから。

「とりあえず茶々丸さんには謝って――あとは、なるようになれ、か」
『甘いッスねえ、二人とも――』
「いいのよ、私とネギは、こういう人間なんだから。それでオコジョ。あんたの言いたかった事は――やっぱり、仮契約?」
『おお、そうだ』

 するりと、明日菜の手の中から這いだして、カモは言った。

『ニンジャの戦闘力は未知数だが、兄貴の話からすれば相当の手練れだ。おそらくはそいつと互角にやり合えるあろう、“新時代の魔法使い”――ゴースト・スイーパーの方もな。エヴァンジェリンと正面から向き合おうって言うのなら、こっちだってカードを揃えておく必要はあるだろう?』
「あんたの実益を兼ねて、ね」
『まあ……その、それは今は関係ねえことでさ』
「……まあ、いいんじゃない」

 楓はともかくとして、シロはある程度の事情を知っている。彼女自身が、エヴァンジェリンと接触していることは、明日菜も知っていた。

「仮契約はともかくとして――エヴァンジェリンさんの事について悩んでるのは、シロちゃんも同じらしいから。話をもちかけるくらいは、あってもいいかもね」

 剣をちらつかせて話し合いをすることは不可能だろう。しかし、楯の影から話を投げかけることは、出来なくもない。
 明日菜は小さく息を吐き――台所の方を見遣った。
 鮮やかな赤に染め上げられた帯が、あちらにこちらに――まるで蝶が舞うような動きで、揺れていた。
 もちろん明日菜は、その話を持ちかけた結果を半ば、予想していたが。




「拙者を、魔法使いの従者に――で、御座るか?」
『ええ――つまりは、早い話が、詠唱中の魔法使いを護る戦士であり、魔法使いと組んで一つの無敵の“戦士”を作り上げる役割でさ。もちろん、本式のものでなくて構わねえ。あくまで“仮”の契約ってのがあってだな――』
「それは先の話で理解したで御座るが――正面切って刃を交えねばならぬほどに、ネギ先生とエヴァンジェリン殿の関係は、深刻化しておったので御座るか?」

 座布団に上品に座り、心配そうにそう言ったシロの言葉に、思わずネギと明日菜は言葉に詰まる。
 長瀬楓は、強いかも知れない――しかし、彼女は己を研鑽することに喜びを見いだしているだけで、何かの組織や何かの理想のために力を振るうことはしないだろう。当然、“魔法使い”という存在も知らないかもしれない。
 そう言う理由で、ネギと明日菜は、この際真正面からとシロに相談を持ちかけ――開き直ったカモが、ネギとシロの“魔法使いの従者”の仮契約を提案したのだが、帰ってきた言葉がそれだった。

「それは――僕の未熟が生んだ結果です。重々、受け止めています」
「いえ、別に、ネギ先生を責めているわけでは御座らん。聞けば、先生の取った行動は確かに不味かったやも知れぬ。されど、その時絡繰殿は、自分は自分の意志では止まれないと、そう申したので御座ろう?」

 ならば、ネギがどういう対応を取っていたとしても、結局戦いを避ける事は難しかっただろうし、これからも危険はあるかもしれない。それが、シロの出した結論だった。

「まあ、現状を整理しただけで、何も解決には至っておらんが」
『そういうことでさ。犬塚の姉さんには、ご迷惑をお掛けするかと思いやすが――こっちも、なりふり構って居られる状況じゃねえんでさ』
「ま――エヴァンジェリン殿も、難儀なお方で御座る故に。直接的な衝突は、もはや避けられぬのかも知れぬ――ほれ、昔からよく言うで御座ろう。何百と言葉を交わすよりも、男ならば拳で語り合うと」
「――いや、エヴァンジェリンさんは女よ?」

 腕を組んで勝手に頷くシロに、思わず明日菜が言葉を挟む。

「言葉の綾で御座るよ――つまりネギ先生とカモ――と申したか。そちらは、拙者に、エヴァンジェリンと対立する上で味方にはなってくれぬかと、そう頼みたいので御座るな?」
「勝手な言い分だと言うのはわかっています」
『一度でも良いんだ。エヴァンジェリンとどうにか話し合いに持ち込めるまでに粘れりゃいい。ただ今の兄貴だけじゃあ、それでもちと荷が重い』

 なるほど、と、シロは言った。

「それでネギ先生は悩んでいたので御座るな――自分の生徒を、自らの都合で危険に晒すなど言語道断。されど、協力を仰げそうな人材を捜すのも、先生の立場ではまた難しい。更にエヴァンジェリン殿自身がネギ先生の生徒で、果ては、“魔法使い”の事は口外してはならぬという枷まである。人外との戦いを生業とし、ある程度の裏の事情にも通じるゴースト・スイーパー――その経験がある拙者は、仲間として非常に都合が良いと」
「も、もちろん、損得だけで考えてるわけじゃありません」
「結局、言葉を取り繕うとさ」

 明日菜は、小さくため息を吐き、首を横に振った。

「取り繕った言葉の、その聞こえは良いけど、その実は――このエロオコジョが考えてるような事に行き着いちゃうのよね……今自分が巻き込まれている揉め事に、シロちゃんがもの凄く都合が良いから、ちょっと手伝ってくれないか――って」
「明日菜殿。それは極論と言うもので御座る。明日菜殿もネギ先生も、そのような都合だけで動いているわけではあるまいに。先生も仰ったで御座ろう? 明日菜殿に、その様な顔は似合わぬと」

 シロの笑顔に、明日菜は苦笑を浮かべる。
 そんな彼女の顔を見て、シロは満足そうに頷いた。

「まだちと、明日菜殿本来の元気が足りぬが、及第点で御座ろう」
「私だっていつでも元気いっぱいとは行かないのよ。悩み多き年頃の乙女だもの」
「拙者と同じ、で御座るな」
「そ、シロちゃんと同じ」

 ネギとカモは、何となく顔を見合わせる。明日菜が自分と入れ違いになるように、この家に宿泊していた事は知っていたが――いかにしてこの二人は、ここまでの絆を紡いだのだろうか? それは男である自分達には、計り知れないものなのだろうか?

「さて、ネギ先生。お話にあった“魔法使いの従者”の事で御座るが――」
「あ、は、はいっ!」
「拙者も、エヴァンジェリン殿の事はどうにかしたいと考えている。彼女がネギ先生に対して、理不尽な力を振るうと言うのならば、全力でそれに抗う――されども、拙者、ネギ先生の“魔法使いの従者”となることに関しては、申し訳御座りませぬが、お断り致します」

 ネギの肩が小さく震えたのを、明日菜は見た。
 彼の肩に乗っていたカモが、すっと顔を上げる。

『さっきも言ったように、この頼みはこっちの勝手だ。だからこれもこっちの――いいや、“俺っちの”勝手だと思ってくれれば良いが――理由を聞いても構いやせんかね』
「理由などと――拙者とて、この一件に出来る限りの力添えは致しましょうが――“仮契約”とやらは、結べぬで御座る」
『なあ犬塚の姉さん、“仮”契約なんてのは、言葉通りの意味だ。そんなに深く考える必要はねえ。あんたが俺っち同様、誰かに忠義立てしてるってなぁ、何となくわかりやすがね。言ってみれば、今回のそれはエヴァンジェリンと戦うための保険だ。それ以上の意味は何もありゃしねえ』
「よしなさいよ」

 カモが食い下がろうとするのを、明日菜が止めた。彼女には、何となくわかる。シロが、ネギとの仮契約を断る、その理由が。
 確かに、魔法使いと従者――結ばれた絆は、非常に強い。だからこそ、“魔法使いの従者”を探すことが、恋人探しの口実になってしまった現状もある。
ただ、カモの言うとおり、“仮契約”は、そこまでのものではない。どちらかと言えば、相手への想い等というものが薄い分、今となればこちらの方が、本来の“魔法使いの楯”としての意味合いが大きいくらいなのだ。
 それは単なる“戦い方”の一つ。例えば戦車に砲手と操縦士が必要であるように、例えばある種の戦闘機には、後部にナビゲーターが座る席があるように。それと同じ事――単に魔法使いを守る必要があるから、他人の手を借りるだけの事。
 けれど――それ自体に深い意味が無かったとしても、シロにはそれは無理だろう、と、明日菜は思う。
 何故なら、彼女は――

「カモ――殿。拙者は既に、ゴースト・スイーパーではない。明日菜殿には話したことがあるが、魑魅魍魎と戦うよりも大事なことを、拙者は見つけた故に。むろん、拙者は今の日常を大切にしたい。明日菜殿もネギ先生も、そしてエヴァンジェリン殿も、無くしたくない拙者の絆。それを失いたく無いが為に、今一度剣を握ることも、吝かでは御座らぬ。されど――」
「……シロちゃん」
「ネギ先生の従者には、拙者はなれぬ。拙者はこの体の、魂の一欠片まで、拙者が恋い焦がれるお方――横島先生に捧げる覚悟で御座る故に――そして、拙者には体も魂も、ただの一つしか御座らん。誠に申し訳御座らぬが――無い袖は振れぬ。そこまで、手は回らぬで御座るよ」

 強い意志を込めた瞳でそう言ったシロに、明日菜は小さく頷き――ネギの肩に乗るカモの、その小さな額を、人差し指で弾いた。

『痛っ!? い、いきなり何するんでさ、姐さん!?』
「ま、そーゆーわけだから。残念だけどシロちゃんを従者にするのは諦めなさい。単に手伝ってくれるって言ってるだけでも、シロちゃにしてみたら相当な“譲歩”だと思うわよ? ――あと、ネギ。私だってね、もう十五年も日本人やってんだから、あんたよりは日本語が出来るのよ。偶に難しい言葉使ったからって、そんな目で見るな」

 じっとりとした目線を、少年に向ける。彼の反応から、普段彼が自分をどのような目で見ているかなど、知れたものだ。
 もっとも、明日菜とて、自分の成績がどのようなものであるかくらいは、わかっているけれども。

「――大体、“魔法使いの従者”のあり方もアレだけど、“仮契約”の方法がねえ。魔法陣描いた上で、相手とキス――って、シロちゃんにはちょっとねえ」
「……さすがにその方法は、少しばかり承伏しかねるで御座るな。拙者が唇を許すのは、世界でお一人のみ――明日菜殿、拙者、先ほどから非常に恥ずかしいことを、自分だけ喋らされているような気がするのは、気のせいで御座ろうか?」
「別にぃ。まあ、シロちゃんとーっても幸せそうだから、多少思うところが無いわけじゃ、ないけど?」

 にやにやと笑いながら言う明日菜に、これ以上何を言っても無駄だろうと、シロはため息をつき、首を横に振る。

「ともかく、拙者はネギ先生の従者にはなれぬ。ゴースト・スイーパーと言っても見習いで、それも既に足を洗った身。せいぜいが、吸血鬼を相手にするならば、ガーリック・パウダーを手放すなと助言が出来るくらいで御座るが――」
「ちょ、そんな漫画みたいなっ!?」

 思わずネギは驚きの声を上げてしまう。彼女の言葉は大まじめだったから。
 確かに、吸血鬼はニンニクに弱いと言う。しかし、よりにもよってガーリック・パウダー――

「侮ってはならぬよ。横島先生のご友人であるダンピール――ハーフの吸血鬼であるお方は、それによって生死の境をさまよった挙げ句に――未だ独り身で御座る故。まあ、顔は悪くないのでその気になれば――」
「い、犬塚さん、言ってる意味が全然わかんないんですが――どこからが冗談なんですか?」
「……ネギ先生の様なお方には受け入れがたかろうが、全て真実で御座るよ。拙者らの間では、真面目に生きた人間が馬鹿を見るというのは、もはや自明であるが故に」
『ご、ゴースト・スイーパーって、一体――』

 シロは一つ咳払いをして、強引に会話の流れを元に戻す。ネギの瞳を真っ直ぐに見つめて、言葉を紡いだ。

「拙者とて未熟者故、どうすることが正しいのかはわからぬ。されど、拙者は少なくとも、拙者の義において行動する。今はきっと、それが良いのだろうと思っている――正しい、間違っているとは別のところに於いて。そんな拙者が、偉そうにネギ先生に言うのもどうかと思わなくもないで御座るが――」

 彼女は小さく、しかし強い調子で言った。

「今はきっと、それがいいと――そう思うので御座る」










アルベール・カモミール、通称カモさんよ。
あんたどんだけ俺の鬼門だ(笑)

本当に書きにくいです、この男。
いつか必ずねじ伏せてやる(違)



[7033] 麻帆良学園都市の日々・開幕前夜
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/29 16:06
――クールに行こう。そして問題の解決に取り組もう――
アポロ13号ヒューストン管制司令 ジーン・クランツ

 皆が皆、なかなかそれには気づかない。




「はっ!!」

 短い気合いと共に、下から上に振り抜かれた“くない”が、相手の喉元を狙う。しかしその寸前で、相手は上体を右に軽く逸らし、その一撃を難なく避ける。
 しかし、その一撃はあくまで“誘い”。くないを振り抜いた勢いをそのままに、慣性エネルギーと意識を、全て左足に集中する。この年頃の少女にはあり得ないほどの長い脚が、まるで鞭のように相手――長身の青年を捕らえ――

「くっ!」

 しかしその蹴りは、虚空に現れた、六角形の透明な板に受け止められる。ぼやけたようにはっきりとした輪郭を持たず、実際に触れる事すら難しい板は――しかししっかりと、少女――楓の蹴りを受け止めた。
 反動で、彼女の動きが一瞬止まる――まずい、カウンターが来る! 本能的に彼女は、左足を支点に、上半身を無理矢理捻った。刹那、先ほどまで彼女の胴体があったところを、薄緑色の燐光が、凄まじい勢いで通り過ぎる。
 その燐光に、首の後ろで纏めた長い髪が、数本巻き込まれるのを視界の端で捕らえながら――更に体を捻り込み、地面に対して水平に浮き上がってしまった体を、地面に叩きつけるようにして着地する。

「厄介でござるなあ――霊能力という代物は」
「君がそれを言う!?」

 呆れたように良いながら――唐突に、長身の青年は跳躍した。果たしてその場所には、くないを振り抜いた姿勢のままの、もう一人の長瀬楓が立っている。ネギの言うところの、東洋の神秘――“忍法・朧陽炎”――根っこの部分では、“魔法”や“霊能力”と同じ――己の身や、外界に満ちるエネルギーを編み上げて、自分の“分身”を作り出す技。
 それは半ば、ただの幻。非常に希薄な存在ではあるが――それでも相手を攪乱し、いくらかのダメージを与えるには十分過ぎる程である。青年――ケイが跳躍して、楓の“分身”の攻撃をかわした先には、更にもう二人の“楓”の姿が――

「冗談じゃないよっ!」
「何と!?」

 彼は、緑色の燐光に包まれた腕を地面に叩きつけ――それを支点に半回転すると、思い切り地面を蹴った。
 その瞬間、大地が割れたのを、楓は見た。どう考えても、人間の蹴りとは思えない衝撃が、地面に掛けられたのは間違いない。これも、霊能力のなせる技――舞い散る砂塵から目を守るために、くないを構えた腕を、軽く持ち上げ――楓は、操っていた己の分身が破壊された事に気がつく。
 忍法・朧陽炎で生み出す事の出来る分身は、自由に動かせる人形のようなものではあるが――当然ながら、自分がいくつにも分裂するわけではなく、楓がそれを操っているだけに過ぎない。
 視界を塞がれれば、分身を動かすことが出来なくなる――ケイは、それを的確に突いた。そしてすぐに、砂煙が晴れる――

「……“それ”も、霊能力でござるか?」
「こんなところで無駄に披露してるのがバレたら、美神さんに何て言われるかわからないけど――ね」

 黒いショートブーツを履いた彼の足に、腕に現れたのと同じ、薄緑色の燐光がまとわりついている。やはり腕のそれ――“恐腕の魂”スピリット・オブ・ディノケルスと同じように、大きな鉤爪が付属し――その爪は、地面にがっちり食い込んでいる。
 恐らくこれが、人間離れした蹴りの威力と、信じがたいほどの機動力を実現している原動力だろう。

「“恐爪の魂”スピリット・オブ・ディノニクス――発想力とか独創性に乏しい僕の、精一杯の“足掻き”さ」
「ははっ……なんと、なんと面白いのでござるか、“霊能力者”とは! 拙者、もうワクワクが止まらないでござるよ!」
「いや……なんつーか……長瀬さん、それでいいの? 知り合いにも似たような人がいるからアレなんだけど――年頃の女の子として」
「? 何が――で、ござるか?」
「いや――いいや。僕が言うのも何だし」

 日曜日、朝――横島家での朝食を終えてから、ケイと楓は、昨晩二人が初めて出会った森に来ていた。そんな二人の目的――主に楓の目的はと言えば、横島は何か言いたげであったが、知れたものだろう。
まだ見ぬ強者と戦い、己を研鑽する。それ自体は何ら悪いことではない。例えばスポーツ選手のように、その道を究めようとする人間には当然のことだ――ただ、楓の場合、その方向性が少々特殊であるというだけであって。
果たして二時間ほどの特訓――“修行”と言い換えても良いかも知れないそれを終えて、ケイと楓は、彼女のキャンプがある小川のほとりに、並んで腰を下ろしていた。

「――だから何というか、こんな事言うとまた横島にーちゃんが騒ぎそうだけど――もうちょっと、普通の趣味みたいなの無いの?」
「そういうケイ殿が拙者時分の時は、何か趣味に没頭したのでござるか?」
「こんな田舎から都会に出たばっかりの頃だったからね。まあ色々と――今思えば恥ずかしいんだけど」
「成る程、勘違いした田舎者だったわけでござるな」

 楓のあっさりとした物言いに、ケイは思わず苦笑を零す。
 彼は何気なく、辺りを見回す。河原に張られたテントに、夕べ一悶着を起こしたドラム缶の風呂。そして、時分も見慣れた山林の木々。

「ケイ殿は、何か考え事があるのでござるか?」
「いいや、別に――ただまあ、昨日の夜、ネギ君に偉そうな事を言った手前ね」
「ネギ坊主――で、ござるか」
「言ったでしょ。僕は横島にーちゃんやネギ君に比べたら、単なる凡人だから」
「そんな事――ケイ殿は十分に魅力的なお方でござるよ」

 それはどうも、と、ケイは言う。

「でも、長瀬さんは、GS試験のビデオを見たことあるんでしょ? 正直な話、自分があそこに飛び込んでいって、合格できると思う?」
「いやあ……さすがにそこまでの自信は」
「だろうね。今まで中学生でGS試験に合格したって人はいない。美神さんやにーちゃんだって、試験が出来てから屈指の若さで合格はしてるけど、それでも高校生の頃だった。にーちゃんの場合はどう考えても運だって、本人は言ってるけど――その後の事を考えても、やっぱり才能があったんだと思う」

 ケイは小さく、首を横に振る。

「ともかく、僕も正直、今の長瀬さんじゃGS試験に合格するのは難しいと思う。けど、真っ正面からの僕の強さって、正直今の長瀬さんでもどうにかなっちゃうレベルなんだよね。さっきみたいに。だからって、にーちゃんや美神さんみたいに、力量差を“何それ食べられるの?”とばかりにひっくり返す事も出来ない。だから僕は凡人だって」
「それは――」

 結局、先ほどの勝負は付かなかった。間違っても相手を傷つけるつもりのない模擬戦だったとはいえ――ケイも楓も、お互いに有効打と思える一撃を、相手に入れる事は出来なかったのだ。

「ま……凡人の僕だから見える事がある、って言った事に、嘘は無い。別に、虚勢を張ったわけでもないんだけどね。そんな僕から見たら――」

 横島もネギも――そして楓も、生きることに駆け足でありすぎるように思う。もっとゆっくりと、周囲の色々な風景を見ながら歩くことも、時にはあっても良いのでは無いだろうか? あるいは周囲が、それを許してくれないというのだろうか? まるで――

「拙者に限って言えば、楽しいからやっているだけのこと。特に自分を追いつめようとは思っていないでござるよ――ネギ坊主のように、戦うことに何かを求めてはござらん」

 ネギ坊主はまったくしっかりしている、と、楓は大きく伸びをして、後ろに寝転がった。

「拙者でも、ああいう風には生きられんでござるよ。ネギ“先生”のようには。そう言う意味で言えば拙者もまた凡人で――そんな拙者が、少しでもネギ坊主の助けになればと、せめてそれを願うのでござるが」
「ネギ君の事が好きなんだね」
「それはもう。拙者のクラスは、皆そうでござるよ。何というかまあ、ネギ坊主は無茶苦茶でござる。けれど何故か――憎めないというか、応援したくなってしまうんでござるなあ」
「――そっか。でも正直あれはどうかと思うよ――彼だって男の子なんだから」

 ケイの視線が、ドラム缶風呂に向けられているのに気づき、楓は――

「痛い!? 刺さった、刺さったぁ!?」

 こちらに向けられた彼の後頭部に向けて、ごく軽く“手裏剣”を投擲した。後頭部を押さえて転げ回る彼を見ながら、楓は一つ咳払いをする。

「そういうのを一言多いと言うのでござる。しかし――拙者はケイ殿を、魅力的なお方と思うでござる。それは何も、才能のあるなしに関係があるわけではござらん。ネギ坊主は確かに多才でござるが、皆がそれに惹かれているわけではないように」
「……長瀬、さん」
「何というか――“横島家”の方々に共通して言えることは、皆が皆、するりと心の内側に入ってくること――気がつけば、心の片隅に、あなた方が居ると言うこと。拙者、つい昨日ケイ殿と出会ったばかりだと言うのに、もうずっと前から、ケイ殿を知っていたような気がするでござる――こんな風に思ったのは、初めてでござるよ」
「僕は――あの人達みたいには振る舞えないな」
「それでも何か気に掛かるんでござるよ、ケイ殿は。拙者とて年頃の女の子、まあ、多少変わり者だとは自負していても、一緒に出歩く相手くらいは選ぶでござるよ」

 その言葉に、ケイは苦笑しながら、光栄だね、と、言った。

「おろ――とすると、これはひょっとして“デート”でござろうか?」
「……多分、違うと思う。少なくとも、普通の人はそうは言わないと思う」

 しかし頬を染めて――年相応の少女の表情を浮かべて、だが照れくさいのか、冗談めかして言う彼女に――ケイは、疲れたような顔で首を横に振ったけれども。

「むう……乙女心のわからんお方でござるな、ケイ殿は」
「にーちゃんよりはマシだと思うけどね。でも――何にしろ、何か安心したよ。ネギ君にしてもそう、あの明日菜って女の子にしてもそう――そして君にしても」
「何でござるか?」
「僕がどうしようもない馬鹿な子供だったのと同じで、普通に生きてるんだな、って事」

 ケイもまた、大きく伸びをして、そのまま後ろ向きに寝転がる。春の冷たさが残る風が、動き回って熱を帯びた体に心地よかった。

「何か、年寄りじみているでござるよ、ケイ殿」

 ごろりと寝転がって、こちらを向いた楓がそう言う。ケイは苦笑してそれに応えた。

「あー、よく言われる」
「そこで少しは否定してくれんでござるか――って、おろ?」

 ふと、楓が何かに気づき――腹に力を入れて、跳ね起きるように立ち上がった。つられてケイも、彼女の視線を追ってみる。
 楓の視線の先――藪の中に、何かが突き刺さっていた。それはどうやら、木を削って作った、不思議な形の杖のようである。

「……なんだろ、これ?」

 ケイは不思議そうにそれを見つめたが――楓には、その杖に見覚えがあった。

「それは、ネギ坊主の?」
「ネギ君の?」
「そう、ネギ坊主がいつも持っている――」

 彼は立ち上がって、何気なく、藪の中から杖を引き抜き――

「うわあっ!?」

 突然、彼の手から杖が抜けた。滑り落ちたわけでも、ましてや彼が放り投げたわけでもない。杖が勝手に彼の手から飛び出して、もの凄い勢いで空に向かって飛んでいってしまったのだ。
 当然、二人は呆然と――杖が消えた方向の空を見上げる。

「……世の中――不思議な事が色々と起こるものでござるなあ」
「そ、そうだね――まったくだね――君が言うと説得力あるよ」

 もっとも、長身の青年の顔がかなり引きつっていたことは――言うまでもないが。




 かなり遠くにあったはずの“それ”の感触が、手の中にある。ネギが振り上げた手のひらの中に、山に墜落した時に無くしてしまった杖が、ふわりと収まった。
 何一つとして、事態が好転しているわけではない。ならば、ひとつひとつ、出来ることから片付けていこう――そのシンプルな発想の元、ネギは無くしてしまった杖に呼びかけた。
 果たして、杖は応えてくれた。自分の主が、自分を忘れていなかった事を、喜ぶかのように。
 ネギは目を閉じ、そっと杖に額を当てる。

「ありがとう、僕の杖」

 そして、小さく呟いた。




「あれ、あんなところにフライング・ヒューマノイドが」
「横島さん突然何言うてはるん。フライング・ヒューマノイドが出るのはメキシコや。こんな日本の田舎に、現れるわけあらへん」
「……ちょっと、木乃香」

 唐突にあさっての方向を見てわけのわからない事を言った横島に、同じくわけのわからない訂正を入れる近衛木乃香。彼女がオカルト全般に興味を持っている事を知っている明日菜でさえも、一瞬口元が引きつってしまう。

「いいやわからんぞ? 何せいつぞや、イタリアで馬が飛んだと騒ぎになった事がある」
「あれはどう考えてもフィクションやと思いますえ? 横島さんかて、元ゴースト・スイーパーやろ? その辺の事は詳しいんとちゃいます?」
「いや、同じオカルト系でも畑違いっつーか――まあ、未確認動物とかの正体が、実際に妖怪だったとかそう言う話はあるけど。ゴースト・スイーパーはあくまで“対心霊現象特殊作業従事者”であって、“超常現象研究家”とは違うんだよ」

 頬を掻きながら、横島は言う。そんな彼を尊敬の眼差しで見る親友に、明日菜は何と声を掛けてやるべきだろう。
 もちろん今のやり取りは、横島家の庭で、周囲の視線も気にせずに杖を呼んだネギから、木乃香の視線を逸らすために咄嗟に効かせた横島の機転である。とはいえ、もう少しマシな嘘はつけなかったものか。そしてそれに真剣に食いつく木乃香は、自分と同い年の少女としてはいかがな者か――

「明日菜殿」

 自分の隣に座るシロに、肩をたたかれ、明日菜は我に返る。彼女は、とても暖かな視線を、彼女に向けていた。なぜだろうか、何か引っかかるものはあるが――

「あ、うん。わかってる」

 彼女はそこで、自らの疑問を、記憶の海へと投げ捨てた。
 ネギと明日菜、カモによる、シロへの相談が一段落し、木乃香のネギへのお説教も終わり、横島に睨まれつつ、楓がケイを引っ張って何処かへ出掛け――果たして今、手持ちぶさたになった面々は、思い思いに横島家で穏やかな時間を過ごしていた。
 この家は、とにかく落ち着くのだ。それほど長い時間を生きているわけではない明日菜や木乃香でさえ、存在するのかどうかわからない郷愁を感じさせられてしまう。日本生まれでない筈のカモも、居間の畳の隅に丸くなって、小さな寝息を立てている。
 見た目“だけ”なら可愛らしいその姿に感化されたのか、食欲が満たされて眠くなったあげはが、横島の体を枕に眠りの世界へと旅立つ。動けなくなってしまった彼に苦笑しつつも、シロがその隣に座る。
 その光景に何とも知れない安らぎを感じつつも、彼が元ゴースト・スイーパーだという話を聞いたオカルト好きの木乃香が、彼の話を聞きたいとせがみ、明日菜がそれに便乗し――
 そして、何かを吹っ切ったはいいが、その反動から周りが見えなくなったのだろうネギに、さりげなく横島が気を遣ったところで、現在に至る。

「未確認動物のいくらかが妖怪て――」
「あー、妖怪そのものが未確認動物みたいなところはあるからな。何だか良くわからん状況になってるのは確かだよ。大体にして、悪霊なんてのはオカルトの範疇だ。オカルトってのはもともとよくわからないもんだ。けれど、ゴースト・スイーパーはれっきとした国家資格だし、悪霊が原因の災害は現実に発生してる。そういうもんなんだよ。その辺の線引きは、曖昧だ」
「はぁ、本物の言葉は違うなあ。何や、ようわからんのに納得してまうわ」
「よせよ木乃香ちゃん。君みたいな美少女にそんなことを言われたら、俺はどうにかなってしまいそうだ」
「もう、お上手やわあ、横島さん。うち、冗談でも嬉しいですわ」

 照れくさそうに手を振ってみせる木乃香に、シロが小さく告げる。

「木乃香殿。あまり先生をおだてると、本気になります故に。己の身が可愛いなら、あまり先生をその気にさせるような仕草をなさいますな」
「……シロ、お前は俺を何だと思ってる」
「事実で御座りましょう。拙者、先生を心の底からお慕いしておりまするが、女性関係に関してだけは別で御座るよって――何せ、和美殿や長瀬殿を――」
「い、いやっ! 違う、ワイは! ワイは――!!」
「あ、あかんて、横島さん!」

 頭を抱えて転がりそうになった横島を――木乃香が慌てて止める。彼は今座椅子に腰掛けて、あげはを抱きかかえるような体勢にある。いつもの調子で転げ回っては、彼女が放り出されてしまう。
 木乃香は、口元に人差し指を当てて、小声で言う。

「あんまり騒いだら、あげはちゃんが起きてまいます。“しー”や、“しー”」

 シロが小さく咳払いをして、そんな様子を見ていた明日菜が、声を出さずに笑う。内心、この流れを作った横島を褒めるべきか、いつまで経っても成長の欠片も見られないネギを嘆くべきかを悩む。先ほどはネギの成長のなさに安堵した明日菜ではあるが、いい加減、本来このようなことと無関係の自分が、彼のために、こういう類の気を揉むというのは勘弁願いたい。

「シロちゃん、心配せえへんでも、うち、シロちゃんの“横島先生”を横取りしようなんて、これっぽっちも思ってへんで?」
「い、いえ、そう言うわけでは――」
「――それにしても、あげはちゃんは可愛いなあ」

 正座したまま、あたふたと上半身を振るシロに苦笑しながら、木乃香は横島に抱かれる少女に目を向けた。そっと、その頬に指を当ててみる。

「ふふ――ほっぺたぷにぷにや」
「ちょと、木乃香」
「あ……あかんあかん。つい――堪忍や、あげはちゃん」

 ほんの少しだけ眉を動かしたあげはに、木乃香は詫びる。そしてそのまま、横島、ついでシロに視線を移動させ――

「こうしてるとほんまに、家族やなあ。横島さんがお父さんで、シロちゃんがお母さん。可愛い一人娘もおって、幸せ一杯や」
「ちょっ……木乃香ちゃん、何を」
「あげはが起きておれば文句の一つも言おうが――いいでござるなあ。拙者、その幸せな想像だけで、暫く生きていけるで御座るよ」
「お前も何を言うか、シロ」
「だけど――」

 何気なく、明日菜が言った。

「シロちゃんと横島さんって、もともとどういう関係なの? いや、この場合“どういう関係になりたいか”じゃなくてさ」

 それは本当に、何気ない疑問だった。
 皆はこの三人の事を便宜上“横島家”と呼んでいるが、その実三人の苗字はバラバラで、血のつながりがあるわけでもない。麻帆良学園本校初等部に通うあげはが、知り合いの彼のところに下宿しているのはわかるとしても――シロは、どうなのだろう? 麻帆良学園本校女子中等部――シロや明日菜が通うこの学校は本来全寮制。聞けばシロは、学園側に申請を提出してまで、彼のところに居るのだという。
 彼に多少の介護が必要なのは致し方ないとしても、それは普通、彼女の役目ではあるまい。

「……」

 一瞬だけ、シロの表情が固まったように、明日菜には感じられた。
 それを見た彼女は、自分はひょっとして、地雷を踏んでしまったのだろうかと思う。本当に何気ない疑問で、特に何か考えがあったわけではない――しかし、他人の家庭事情など、本来聞いて良いのかどうかは微妙なところである。
 明日菜は慌てて何かを言おうとして――

「どういう関係って言われると、何なんだろうな。変な関係だよ」

 苦笑しながらそう言った横島に、遮られた。

「初めて会った時のこいつは、俺の牛丼狙って辻斬りまがいの事をしてくるし。今でこそこいつ、こんなスカした顔してるけどな――昔は肉と散歩が半々くらいの割合で、しかもその二つしか頭の中に無いような奴だったんだぜ?」
「――牛丼?」
「……先生、そう言う言い方は無いで御座ろう。木乃香殿――まあ、拙者にも、俗に言う“黒い歴史”というものが御座る故」

 木乃香が不思議そうに首を傾げ、シロは顔を赤くして、不満げに横島を見る。明日菜には自分からその時のことを話した事があるけれど、やはり思いを寄せる人間に、人前でそれを蒸し返されるとなれば、話は別なのだろう。
 そんなシロの事を知ってか知らずか、彼はあげはの頭を優しく撫でながら言う。

「そんなこいつが、色々あって今は“こんな”だ。ああ、全然説明になってねーけど、結局。とかく世の中は謎だらけで、人生何がどう転ぶかわからねーって事だな」

 あげはにしたってそうだ、と、彼は言った。
 彼が言うには、あげはは“知人”の娘で――しかし色々と事情があり、学校に通うに当たって、頼れる身内が周囲には居なかったという。

「そこで麻帆良に移り住む事になった先生に、白羽の矢が立ったので御座る。と言うよりも、最初からあげはを側に置けるのは、先生を置いて他にはおらぬと。深くは“家庭の事情”という奴で話すことは出来ぬが――そもそもあげはと先生が、切っても切れぬ――そう、“絆”で結ばれているが故に」
「恥ずかしい言い方すんなよ、全く」

 シロが彼の言葉のあとをとり――照れくさそうに、横島は手をひらひらと振る。
 明日菜には、少し意外に感じられた。横島自身がどう思っているかは知らないが、既に犬塚シロと言う少女が、この青年に心の底から惚れ込んでいることは周知の事実だ。ひとたび彼のこととなれば、普段は歳に不相応な程に落ち着き払った彼女が、この上なく“可愛らしく”なるくらいに。
 しかしそんな彼女の言葉に、嫉妬やその他の感情は感じられない。ただ優しく――本当に、母親のような表情で、彼女はそう言った。

「ごめん、変なこと聞いちゃったね」

 明日菜は、素直に頭を下げた。これでは朝倉の事を馬鹿に出来ない――と言って、彼女は苦笑する。

「まー、明日菜ちゃんが謝るような事じゃねえよ。気になっても仕方ない事だとは思うしな。ほら、麻帆良女子中って全寮制だろ? 俺は最初、あげはも手伝ってくれるから、別に寮に入ったって構わないって言ったんだが――」
「放っておけば食事が三度の三度、カップラーメンかホットケーキか――そんな二人を放っておける筈が無いで御座ろう? あげはひとりに、この家の家事が切り盛り出来るとも思えぬし」
「だったら家政婦さんの一人でも雇うさ。出来ればメイド服が似合うお姉さんで、帰ってきたら“お帰りなさいませご主人様”とか言ってくれる感じの」
「馬鹿な妄想も大概になされよ、先生」

 腕を組んで、一人頷く横島を、シロはばっさりと切り捨てる。その様子が何だかおかしくて、明日菜と木乃香は声を立てて笑う。
 木乃香が話を振って、横島が盛り上げ、シロが切り捨て、皆で笑う。そんな楽しい時間を過ごしながら、明日菜はふと思う。物心ついてからこちら、楽しいことはたくさんあった。なのに、殊更それを“楽しい”と思った事はあまりない。
 楽しい時間は早く過ぎる、などと言う話を良く聞くが、実際に楽しい時間を、“楽しい”と思って過ごすことなどそうそう無い。それは大概、後から振り返って“楽しかった”と気がつくものである。
 けれど今、自分はこの時間を楽しいと感じている。
 この変化を自分にもたらしたのは、日本に暮らす女子中学生――その範疇を超えた体験だろうか?
 だとすれば、それは喜ぶべき事なのだろうか?
 この経験を、果たして貴重なものだと言っても良いのだろうか?
 もちろん、そんなことを考えても答は出ないし、考えること自体に意味が薄い。それは、この数日でわかりきった事だった。何かを吹っ切る覚悟は出来たと思っていた。
しかし――それでも茫漠と浮かんでくる、とりとめのない思考を、表面上は笑みを浮かべながらやり過ごしているうちに、彼女の中でふと、一つの思いが浮かび上がった。




「ネギ、あんた、明日どうするの?」

 横島の車で寮まで送ってもらい、今夜はネギのために腕を振るうと、木乃香がキッチンに引っ込んだところで――もちろん、寮の備え付けのキッチンなど簡素なものであるから、小声ではあるが――明日菜は、ネギに問うた。
 ネギは、自分の側に立てかけてあった杖に手を伸ばしながら、その問いに応える。

「一度エヴァンジェリンさんと、正面から話をしてみたいと思います」
「それは結構な事だろうけど、あの子、それを聞いてくれると思う?」
「聞いてくれるかどうかはわかりません。聞いてくれないかもしれない。むしろ、聞いてくれない可能性の方が高いと思います。けど、考えてみたら、僕は一度も、あの人と真正面から向かい合ってはいないんです。恐怖に飲み込まれて、逃げ出して――だから、せめて一度くらいは」

 兄貴よく言った、などと、ネギの肩の上で話しているカモを無視して、明日菜は言った。

「エヴァンジェリンさん――一体、何を考えてるんだろうね」
『姐さん、奴は“元”とはいえ、六百万ドルの賞金首ですぜ? 魔法使いの間じゃあ、その名を聞いただけで震え上がると――そんな人間の気持ちなんて、俺っち達に理解できると思うかい?』
「そんなこと、わからないじゃない」
『姐さんの考え方は、人間として立派だ。それは俺っちにもわかる。だが、世の中は皆が皆、姐さんみたいな立派な人間ばっかりじゃ無いんでさ。俺っちは小悪党を自負してるがね、そんな俺っちですら、目をそらしたい部分が世の中には山ほどある』
「そう言う話をしてるんじゃないのよ。ただね、今日、木乃香と一緒に横島さんの家にネギを迎えに行って――何か、唐突に思っちゃったのよね」

 彼女は小さく息を吐き――そして、言った。

「私は、賞金を掛けられるような事――悪いこと――人を傷つけたり殺したり、そう言うことをしたことがない」
「あ、当たり前ですよ。普通の人は、みんなそうです」

 あっさりと明日菜の口からこぼれ落ちた“殺す”などという言葉に、ネギは慌てて言い返す。

「もちろん私は、ネギ、あんたみたいな理想の塊じゃないからね。正直、死んだ方がマシだって人間も、世の中には大勢いると思う。新聞配達が終わって、無代紙なんかを何となく眺めてるだけで、ああもう、世の中っておかしいなって、そう思うもの。私には悪者の気持ちなんてわからない――でもね、きっとそれは、私が悪者になれないからじゃないかな」
「当たり前じゃないですか。明日菜さんは、いい人です」
「だからあんたはもう――」

 苦笑して、明日菜はネギの頭を撫でる。横島がそうしていたように、乱暴に。

「私はきっとね、悪者であることに耐えられない人間なのよ。難しい事考えるのは苦手だけど、何となく思うの。エヴァンジェリンさんやまあ――程度は低いけどカモ、あんたは、一応悪者であることに耐えられる。だから、悪者って呼ばれてる」
「明日菜さんの言いたいことが、僕にはよくわかりません」
「いいのよ、私にだって、自分の気持ちがよくわかってないんだから。ただね、私がもしも何かの事情で、悪者なんて呼ばれる事になったら――」

 ネギの頭に置かれた手に、力が込められたように、彼には感じられた。

「……ちょっとネギ、あんた髪の毛汚いわねえ――手触りだけで何となくわかるんだけど。将来ハゲても知らないわよ?」
「……その、僕――頭を洗うのが苦手なんです」
『まあ、兄貴はまだ子供だから仕方ねえよ。良かったら姐さん、兄貴に頭の洗い方を教えてやっちゃくれねえか?』
「どーやって。私嫌よ。こいつと一緒にお風呂なんて入るの」
『言ったじゃねえか。兄貴はまだ子供だって。気にするような事じゃねえよ』
「嫌なものは嫌なの。藪守さんとか――それこそ、うちのクラスの連中にでも頼みなさいよ。喜んでやってくれるでしょうから」

 全くあの連中は、羞恥心という言葉の意味を知っているのだろうか――果たしてそれこそ、羞恥心という言葉が読めるのかどうかすらも怪しい、と、明日菜は思う。もっともそのクラスの連中が、彼女にそんなことを思われていると知った日には、必死になって反論するだろうが。
 明日菜は、手触りの悪い彼の頭髪をなで回しながら、ぽつりと言った。

「エヴァンジェリンさんは、楽しいっていう感情を覚えてるのかしら。笑顔の浮かべ方を、覚えてるのかしら」

 クラスの隅で、いつも不機嫌そうに空を眺めている金髪の少女が、明日菜の脳裏に浮かぶ。
 彼女は悪者かも知れない。悪者になることが出来たのかも知れない。けれどそうなる前はきっと――自分と同じように笑っていたに違いない。
 これからきっと、何かが起こるだろう。
 ネギも自分もエヴァンジェリンも――そしてシロや横島も、必死になって戦うに違いない。あるいは言葉通りに、あるいは比喩的な意味で。
 その後に皆で、今日のように笑うことが出来るのだろうか?
 それを持ってして、全てが片付いたと言っても良いのだろうか?
 明日菜の疑問に、暫く答えは出そうにない。そして間もなく――麻帆良学園都市に、新しい一週間が――学びの時間が、やって来る。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・そして賽は投げられる
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/03/30 17:17
 その朝、ネギの中に、不安や恐怖が無かったと言えば、嘘になる。全く虚勢を張っていなかったと言えば、それも多分嘘になるだろう。
 だが、それ以上にネギは、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル――自らの命を狙う少女に、会いたいと思っていた。きちんと真正面から向かい合って、話をして――それで無理だと言うのなら、戦うことも吝かではない。しかし、まずは彼女と向き合いたい。同じ舞台に立って、教師として、魔法使いとして――彼女と相対しなければならない。そんな思いが、彼を突き動かしていた。
 その姿は、間違っても堂々としたものとは言えなかった。彼と朝から行動を共にする事となる近衛木乃香は、彼のぎくしゃくとした様子に首を傾げる。事情を知る神楽坂明日菜は、苦笑混じりにそれを見守る。
 そして彼の緊張は、職員室に向かう道すがら、薄い緑色という、嫌でも目を惹く長髪を持った少女――彼自身が、一度は“排除する”事を心に決めた相手、絡繰茶々丸の姿を認めたときに、最高潮に達し――

「おはよう御座います、ネギ先生」
「……おはよう御座います、絡繰さん」
「伝えておくことがあります。本日マスター――出席番号二十七番、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、風邪をこじらせてしまったため、学校をお休みします」
「――はっ!?」

 見事なと言うべきか、あるいは滑稽と形容するべきか――これ以上ないほどの肩すかしを食らって、ネギは思わず、間の抜けた声を上げてしまった。




「鬼の霍乱――と言う奴で御座ろうかな」
「犬塚さん、いくらなんでも、それは酷いのではありませんこと?」

 その日の放課後、今日一日空席だったエヴァンジェリンの席を見つめながら、ぽつりとシロが呟き、隣の席のあやかが、苦笑しながら彼女に言う。自分の内心が口から漏れていた事に気がついたシロは、恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。

「別に、彼女を馬鹿にしてそう言ったわけでは御座らん。ただ――ああ見えて、“体は頑丈”だと聞き及んでおった故に、意外に感じただけで御座る」
「あら、そうなのですか?」

 何せ、彼女は肉体を持ちながらも、その有り様は神や悪魔に近いとさえ言われる吸血鬼。いつぞや彼女の同僚――氷室キヌの実家で蘇った妖怪に、己の師匠が呪いを込めた細菌兵器を使用した事があったと言うが――その様なものならばともかく、たかだか風邪程度のウイルスだか細菌だかに、あの少女は屈してしまったというのだろうか?
 現状から見れば、茶々丸が嘘をついているとは思えない。何せエヴァンジェリンは“登校地獄”の呪いによって、学校に来なければ苦痛に苛まれるのだ。登校した後に授業をさぼっている姿はよく見られるが、学校自体にはきちんと出てくる。
 わざわざ茶々丸がそれをネギに知らせたと言うことは、そうする必要があったということだろう。学校に登校さえしていれば、授業に出なくても関係ないというアバウトな呪いである。きちんとした理由さえあれば、学校を休んでも問題は無いのだろう。でなければ、仮にも敵対しているネギに対して、茶々丸が“自分の主が弱っている”事を知らせる意味がない。
 確証は何もないが――当たらずとも遠からずであろうと、シロは“あたり”を付けた。

「その様なことを知っていると言うことは――少しは、彼女との距離が縮まったのですか?」
「いや――残念ながら。ネギ先生も――“気を揉んで”おられるようで御座るが」
「まあ、そんな――」

 あやかは、何かを言おうとして、必死でそれを堪えたようだった。もっとも、一週間程度の付き合いだろうと、シロには彼女が何故そうしたのかが良くわかる。

「ネギ先生に心配されるなんて、羨ましいですわ――ってか?」

 背中を軽く叩かれ、振り返れば、あやかとは逆隣に座る少女の姿。

「和美殿」
「し、失敬な。マクダウェルさんには、彼女なりの事情というものがおありなのでしょう? ワタクシ、その程度の事でいちいち目くじらを立てるほどに、度量の小さな女では御座いません事よ」
「無理すんなって委員長。声震えてるよ」
「あなたは!」
「別に委員長の事は今はどうでもいいって。そっちが勝手に噛みついて来たんでしょうが」

 手をひらひらと振りながら、和美は笑う。その姿に、あやかは何も言う気を無くしてしまったようだ。この二人、こう見えて仲は悪くないのだが――幾分かは、朝倉和美が、雪広あやかという少女の扱いを心得ているのだろうと、シロは思った。

「何でしょう犬塚さん、私、何か引っかかる物を感じるのですが」
「気のせいで御座るよ。それよりも――」
「ああ、エヴァンジェリンさんが風邪がどうだかって話ね。確かにシロちゃんの言うとおり、あの娘、見た目よりも頑丈みたいだけどさ、この時期は毎年参ってたよ。何でも、あの娘、酷い花粉症持ちなんだよね」
「……花粉症、で、御座るか?」
「まあ、何て言うかお嬢様育ちみたいだし、不思議はないんだけど――って、どったの、シロちゃん? そんな変な顔して」
「……いえ、何でも」

 吸血鬼という物の有り様を、自分は真剣に考え直すべきなのかも知れないと、シロは思った。そう言えば彼女の知る吸血鬼と言えば、横島の友人である、二枚目ながら何処か間の抜けたダンピール――ハーフの吸血鬼――である。聞くところに寄れば、その父親は、普段の言動に認知症の疑いすら感じさせる程であるとか――
 犬塚シロ、元ゴースト・スイーパー助手――なにやら彼女の中に、明らかに否定されるべき常識ができあがりつつあった。

「しかし残念と言えば残念で御座るな。今週もまた、彼女とはしっかり話をしようと心に決めて参ったと言うのに」
「ん――それじゃさ」

 シロの言葉に、和美は少し何かを考えたようだったが――ややあって、何かを決めたように小さく頷くと、シロに言った。

「これからみんなで行ってみる? エヴァンジェリンさんの、お見舞い」




 ネギの意識は、暗い闇の中を漂っていた。そこはとても暗くて冷たい部屋の中のようで――しかし実際には、その場所には自分を守る壁などは無い。喩えるなら、獲物を狙う肉食獣が徘徊する、闇夜の草原に、裸で一人放り出されたような――言いしれない恐怖と、底冷えがするような孤独感を、ネギは感じていた。
 これが――魔法使いの世界で、“闇の福音”の異名と共に恐れられていた少女の世界。
 それはまさに、“闇”の名に相応しいものだった。
 しかし――その闇が、恐れられている彼女の本質とは、また違うものであることに、ネギは気がついていた。彼女は世界に闇をまき散らす、悪の魔法使い。けれど、そんな彼女の心の中はまるで――自分こそが、そのような“闇”に怯えているようにさえ感じられる。
 言うなれば――嵐の夜に、がたがたと音を立てる窓の音、そして時折閃く稲光の閃光が、窓の外の宵闇を一瞬照らしだし、見慣れた世界とはあまりにかけ離れた、暗い世界を見せつける。それが恐ろしくて、ベッドの中でただ目を瞑り、眠りが訪れることをひたすら待つ――誰もが幼子の頃に体験した、得体の知れない恐怖の“闇”。
 それこそが、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの心を、形作るもの。
 ネギは、傍観者である筈の自分さえも押しつぶしてしまいそうなその闇に、己をかき抱いて必死に耐える。
 テレビの中に映し出されるブリザードに、寒さを感じる人間は居ない。今の自分は、詰まるところそう言うものである。けれど、まるで“知る”という行為を通して、自分の心に流れ込んでくるような冷たい闇に、ネギは凍える。

(あれは――?)

 しかしふと、ネギは、闇に塗りつぶされた空間の一角に、淡く光る小さな何かを見つけた。近寄ってみれば、それは一つのたき火だった。小さな枯れ枝を寄せ集めた、今にも消えそうな一つのたき火。周囲の果てしない闇に対抗するには、あまりにもちっぽけで、風でも吹けばすぐに吹き飛ばされてしまうだろう、小さな灯り。
 けれどその灯りは、周りの闇に精一杯に抵抗をするように、淡い光となって、その周囲の僅かな地面を、そしてネギを照らし出した。

(これは――一体)

 ネギは、そのたき火をのぞき込んだ。暗闇に慣れた瞳に、明るく輝く炎がまぶしく感じられ――その瞬間、彼の見ていた世界が、はじけ飛んだ。




「ほう、エヴァンジェリン殿は、このような場所に住んでおられるのか。なかなかに――気持ちの良い場所で御座るな」
「そう言えば、マクダウェルさんも犬塚さんと同様に、寮には入っていないのでしたね。犬塚さんは確か――」
「左様、家の事情で、どうしても手伝いをせねばならぬ故に。通える距離にあると言うのに、わざわざ寮に入って手間を増やす事はありますまい」
「とか何とか言っちゃって。横島さんのところから離れたくなかっただけじゃないの?」
「それが何か悪い事で御座ろうか?」
「うあ! 開き直りやがったよこいつは! シロちゃんよぅ、あんたには、歳イコール彼氏居ない歴の友達を、気遣おうって気持ちは無いのかい?」
「心配せずとも、和美殿は魅力的な女性である故に。そのうち相応しい殿方も見つかるで御座ろう」
「――これを本気で言ってるんですからね、この娘は」
「シロちゃんパネェっす」

 三人の少女が、春を迎えた麻帆良の郊外を歩く。和美が調べたところに寄れば、エヴァンジェリンはこの近くに建つ家で、絡繰茶々丸と共に“ハウスシェア”をして暮らしているらしい。女子中学生がハウスシェア――というのもあまり聞かない話であろうが、十歳の担任教師が、教え子の部屋に転がり込んでいる現状を考えれば、今更であろう。
 放課後、何気なく、席が近い故にもっとも早く友人となった三人の少女達は、なし崩し的にクラスメイト――シロにとってはそれ以上の意味合いを持つ少女、エヴァンジェリンの家を訪ねる事になった。もちろんお見舞いの名目であるので、シロの片手には、麻帆良でも美味しいと評判のケーキ店の箱が提げられている。
 現在、シロとエヴァンジェリンは、直接的に敵対しているわけではない。しかし、エヴァンジェリンにしてみれば、自分の立ち位置とシロの立ち位置――そして、ネギの立場を考えれば、この先シロがどちらに近い場所に立つかなどと言うことは、すぐに結論づけられるだろう。
 戦国時代に、武田信玄に塩を送った上杉謙信ではあるまいし、今の行動は愚かと言えば愚かな物だろう――と、シロは思う。
 だが同時に、間違っても最悪の事態は起こらないだろうという、不思議な確信もある。
 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、誇り高き悪の魔法使い。そして彼女の誇りの高さは、他人に対しても求められる。表面的な力や性格ではなく、内に秘めたる“自分”こそ、彼女の求めるもの。自分に自信のない人間を彼女は嫌い、逆に、自分を誇る人間を、立ち位置に関係なく好む。
 そんな彼女が、自らの舞台を観に訪れた“観客”に対して、不条理な怒りや暴力をぶちまけたりするだろうか? 解答は、否。それは単なるシロの想像でしかないけれど、それを否定する要件というのもまた、見つからない。

「彼女もまた――先生と同じ、自然と人の心の中に入ってくる人間なので御座ろうな。ただ、周囲の環境がそれを許さず、自分もまた、他人に手を伸ばそうとする自分自身を必死で押さえ――何と、酷な」

 面と向かって彼女と話し――彼女の言葉に心を動かされたその時に、シロはそう思った。例えばもし、エヴァンジェリンが――己が知る歪な吸血鬼、ピエトロ・ド・ブラドーのような人生を送っていたら――どのような女性になっていただろうか?
 このようなもしもを考えることに、意味はないかも知れないけれど――そして、エヴァンジェリン自身が、そんな考えを抱くシロに、怒りの感情を抱くかも知れないけれど。

「ん? シロちゃん、何か言った?」
「いえ、何でも御座らん。ただ――思ったので御座るよ。エヴァンジェリン殿はきっと、他人との付き合い方がわからぬのであろうと。いや――他人との付き合い方を、間違えて覚えさせられてしまったのであろうと」
「――難しいですわね。確かに彼女は、私たちが歩み寄る事を酷く嫌っておりますが――時折寂しそうな表情を浮かべているのを、見たことがあるような気もします」

 彼女自身がそれを拒否していることを言い訳に、あやかはエヴァンジェリンに歩み寄ろうとはしなかった――と、自嘲する。

「これでは、クラス委員長として失格ですわね」
「何を申す。我がクラスのクラス委員長は、雪広あやかをのぞいて他に適任はおりますまい」
「あ、それ確かにわかるわ。あのクラスの委員長が出来るのって、こう言ったら何だけど、委員長以外に思いつかないもん」

 しかしその言葉に、シロが何でもない事のように言い返し、和美がそれに便乗する。その言葉に、あやかは苦笑を浮かべる以外に出来ない。しかしその表情に、先ほどの自嘲的なものは含まれていなかった。
 ふと、シロが小さく鼻を鳴らす。

「――杉木立の匂いがするで御座るな。環境としては悪くないが、花粉症の人間がこのような場所に暮らすというのは、いかがな物か」
「そう? シロちゃん鼻いいねえ」
「私はそれほど花粉症に悩まされては居ませんが――確かにこの辺りに来てから、目がむず痒いような気がしますわね。せめて家にお邪魔する時には、服をよく叩いてからに致しましょう」
「そーね」

 暫く歩くと、道の先に、丸太を組んで作った、ログハウス風の建物が見えてくる。これまた、周りの景色にとけ込んだ、心地の良い建造物である。吸血鬼という存在が住むにはあまりに不似合いと言えば不似合いだが――それこそ教会に間借りしている吸血鬼の事を思えば、些細な事である。
 少女達はその玄関先にまで歩み寄り、とりあえず制服に付いた花粉を払い落とすべく、全身を叩き、お互いに背中や腰を叩き合う。
 その後呼び鈴を鳴らし、家人が――恐らく茶々丸であろうが――出てくるのを待つ。

「このような家も良い物で御座るなあ。拙者、家と聞けば日本家屋しか思い浮かばぬで御座るが」
「そうね。山の中の別荘って感じで――あたしもこんな家に、一回住んでみたいもんだわ」
「この手の家は手入れが大変ですし、人が住まなくなるとすぐに荒れてしまいますが――おかしいですわね。誰もいないのでしょうか?」

 しばらくの時間が過ぎたが、家の中からは誰も出てこない。家の中で誰かが動いているような気配もない。エヴァンジェリンだけならば、あるいは床に伏せたまま動けないのかも知れないが、“ルームシェア”相手の茶々丸はその限りではない。彼女がエヴァンジェリンを放っておいて、何処かへ出掛けるというのは考えにくい。

「ん?」

 再び鼻を鳴らしたシロに、和美が言う。

「お? またしてもシロちゃんの嗅覚センサーに反応か? ってか、シロちゃん犬じゃないんだから、わかるわけないでしょうが」
「私たちよりもかなり鼻は良いようですが――あまり行儀もよろしくありません事よ?」

 苦笑しながら言う友人に、シロは曖昧に笑う。彼女たちにしてみれば、シロが、普通の人間など及びもつかない――常人の数百万倍の嗅覚を持っていると言ったところで、信じはすまい。単なる冗談と受け止められるか――それを良いことに、シロは正直に言う。

「拙者の鼻は、十キロ先からでも先生の匂いを嗅ぎ分けられると自負しておるが」
「あー、何かそれに関しちゃ出来そうな気がするわ」
「ふふっ……では、その素晴らしい嗅覚で、何がわかったのですか?」
「それが――これはネギ先生の匂いで御座るな。そう言えば、今日の終礼では用事があるとかで、早々に姿を消しておられたが」
「……なんですって?」

 ぴくりと、あやかの眉が動いた。

「仮にその話が本当ならば――何故エヴァンジェリンさんのところに、ネギ先生がおられるのですか?」
「い、いや――拙者に聞かれても」

 言いしれぬ迫力を漂わせ始めたあやかに、シロはもう少し言葉を選ぶべきだっただろうかと考えるが――

「落ち着け、委員長。そんなことシロちゃんに言ったって仕方ないでしょうが」
「あたっ!?」

 和美が、シロに詰め寄ったあやかの後頭部に、軽く拳を叩き込む。思わずたたらを踏んだ彼女は、しかしそれで少しは冷静になったのか、それもそうだとばかりに、一つ咳払いをする。

「ま、まあそうですわね。取り乱してしまって申し訳ない――あと犬塚さん、よろしければ、あとで“ネギ先生の匂い”とはどのようなものか伺っても宜しいでしょうか?」
「はあ……まあ、感覚的なものであるので、あやか殿に伝わるとは思えぬが、それでも良ければ」

 言葉通りの“匂い”に加えて、人間には霊能力者ですら感知出来ない、人間の魂が放つ“霊的な匂い”――それは彼女が人狼であるが故に持つ、特別な感覚。言葉で言い表せるような物ではないのだが――何故だろう。ネギ限定ならば、目の前の少女には理解できてしまいそうな、この妙な感覚は。
 シロは努めてそれを気にしないようにして、何気なくドアノブに手を掛ける。

「おや? 鍵が開いておるで御座るな。いくら郊外の家とは言え、年頃の娘が不用心な」
「あ、ホントだ。全く駄目だよね、今はエヴァンジェリンさんみたいな娘は、特定の人種からもの凄い人気があるんだから」

 和美が軽口を叩きながら、何気なくドアを開こうとして――

「うわぁあああああぁあああぁあぁっ!?」
「きゃあっ!?」
「ひっ!?」

 もの凄い絶叫と共に、ドアの内側から何かが飛びだしてきた。
 和美は悲鳴を上げながらその場にしりもちをつき、あやかは思わず隣に立っていたシロに抱きついてしまう。
 だが、シロだけはその正体をはっきりと捉えていた。彼女の持つ人外の動体視力は、その物体――三人の前を飛ばされ、遊歩道の先まで転がっていったその“物体”が――

「ネギ先生!? 何事で御座るか!?」

 つい先ほど話題に上ったばかりの、己らの担任教師であったことを。

「え!? 嘘!?」
「何故ネギ先生が――」
「ネギ・スプリングフィールド」

 家の奥から、怒気を多分に孕んだ声がする。ネギの方に駆け寄りかけた和美とあやかは、思わず動きを止めた。しかし、それは明らかな鼻声で、聞いているだけでも頭の奥が重くなりそうな、辛そうなものであったけれども。

「貴様、他人の家に土足で上がり込むなと、誰かに教わった事はないのか? ああ――貴様はイギリス出身だったな。不幸にも、これだけの間日本で暮らしておいて、まだその習慣が身に付かんと言うことか――ならば私が、身を以て貴様に礼儀というものを――ん?」

 果たして家の奥から、怒りとは別の理由で顔を上気させ、ふらつきながら現れた金髪の少女は、そこでようやく、玄関先に呆然と佇む、三人のクラスメイトに気がつく。

「犬塚シロ――それに、朝倉和美に、雪広あやか? 貴様ら――何でこんなところに居る?」




「では、ネギ先生も私たちと同様に、マクダウェルさんのお見舞いに来ていたのですか?」
「ふん――のぞきの間違いだろうが」
「ほほう。少年教師のスキャンダルですかな?」
「ネギ先生――」
「違います! 違いますから! 僕は茶々丸さんに、留守の間のエヴァンジェリンさんの看病を任されただけで――」

 それから暫く――病人とは思えない力でネギに食らいつこうとするエヴァンジェリンを、三人がかりでどうにか引きはがしたシロ達は――帰宅した茶々丸が淹れてくれたお茶で、見舞いに持ってきたケーキを突いていた。
 ともかく、不機嫌そうに、ネギの来訪を覗きだと言い切ったエヴァンジェリンの言葉に、和美は目を光らせ、シロは何か哀れな物を見るような目線をネギに向け――当然彼は、慌ててそれを否定した。

「お前の言う看病とは、寝ている女のプライバシーをのぞき見る事を言うのか? だとしたら――ん、んんっ――だとしたら、英国紳士の名が聞いて呆れる――ん――ごほっ!」
「まあ、何があったかは知らぬが、ネギ先生も悪気があっての事では無かろうて。エヴァンジェリン殿、無理はなさらず、もう横になっておられた方が良いで御座るよ」
「ん、ごほっ……こほっ! 余計なお世話だ、犬塚シロ」
「まあまあ、拙者、着替えを手伝うで御座るよ。随分汗をかいておられる様子――体が冷えてしまう前に服を取り替えた方が宜しかろう。絡繰殿は、後片付けの用も御座ろうて」
「余計なお世話だと――こら、何をする!」

 シロはひょいと、エヴァンジェリンの体を抱え上げた。当然彼女は抵抗しようとするが、先にネギを吹き飛ばした一件で体力を使い果たしたのか、もはや手足がまともに動いていない。
 それを見た茶々丸が席を立ち、小さく一礼する。

「マスターをよろしくお願いいたします、犬塚様」
「その様な他人行儀は結構。拙者ら、同じクラスメイトでは御座らぬか――ほれ、暴れると落ちてしまうで御座るよ、エヴァンジェリン殿。では絡繰殿、和美殿、あやか殿――ネギ先生を、よろしく頼むで御座る」
「茶々丸! 貴様は今の状況をわかっているのか!? 朝倉和美、雪広あやか! 貴様らもそんな顔をして手を振るな! くそっ! 覚えているがいい、ネギ・スプリング――げほっ!」

 和美もあやかも、何とも形容しがたい笑みを浮かべて二人を見送ったが――その表情に込められた意味は、今更問うまでも無いだろう。果たして――“来て良かった”と、その顔は心の底から語っていた。




「体調を崩しておるのが、嘘でないというのは何となくわかっていたで御座るが――その様に大声を出しては、当然の結果で御座る」
「五月蠅い」

 ばったりとベッドに倒れ伏したまま動かないエヴァンジェリンに、腕を組んだシロが言う。

「さて、代えの寝間着は何処で御座るかな?」
「妙な情けを見せるんじゃない。貴様には関係ない事だろう」
「……拙者、何せ人狼で御座るからなあ。あやか殿や和美殿にも申したが、匂いを感じる事に関しては、人間とは程度が違う故に。まあ、意識してそれを取捨選択することは出来なくも無いが――それをさっ引いてもエヴァンジェリン殿、お主の汗の臭いは、ちと我慢の限界を超えておる故」
「貴様……言うに事欠いてそれか?」

 こめかみをひくつかせながら、エヴァンジェリンは言うが、シロは涼しい顔でそれを聞き流した。

「だから早く、替えの服の在処を教えてはくれぬかと申しておる。きちんと体も拭いてやるで御座るよ」
「……貴様は一応、私の“敵”だろう?」
「明確な敵では御座らぬよ。それに――エヴァンジェリン殿に、拙者の生ぬるい友情論をわかってくれとは言わぬ。されど、なればこそ、今ここで弱り果てたエヴァンジェリン殿の寝首を掻いて、拙者に何か得があると、本気で思われるか?」
「……そこの洋服ダンスの、下から二番目の引き出しだ。確かタオルもそこにある」
「委細承知」

 シロは鼻歌を歌いながら――臭いがどうと言っていた割に――エヴァンジェリンに言われた通りの引き出しを開け、適当なパジャマと下着、タオルを見繕うと、彼女の元に戻ってくる。
 そのまま手慣れた様子で、彼女の服を脱がし、体を拭き始める。
 小学生程度の体格しか持っていないとはいえ、完全に脱力している人間の世話をするのは、知らない人間が思う以上に大変な事だ。人狼であるシロの腕力は、普通の人間よりも上なのかも知れないが――

「……貴様随分と手慣れているな」
「まあ、先生やあげはの世話をよくしたもので御座るからな。この程度の事は、どういう事は御座らぬよ」
「先生――それは、ゴースト・スイーパーの、横島忠夫の事か?」
「……知っておったので御座るか?」
「私を甘く見るなよ、犬塚シロ」

 実際には、偶然出会って話をしたのがきっかけであったが――人狼の少女を己の手元に置くあの青年の事が気になって、エヴァンジェリンは一度、彼について調べてみた。もちろんその経緯などを、シロに話す気はない。
 ともかく、結果はあっさりと知ることが出来た。かの魔神アシュタロスが起こした事件の際に、スパイとして活躍したという青年、横島忠夫。
本来なら、国際警察オカルトGメンの若きホープとして活躍するピエトロ・ド・ブラドー、“霊的格闘術”の第一人者としてその筋では有名であるという伊達雪之丞と並び称されるべき、新世代のゴースト・スイーパーの一人。
しかし実際の彼は、数年前にゴースト・スイーパーを引退。一般企業に就職したという。

「何か事情があるとは思っていたが――事故か何かで、ゴースト・スイーパーとしての道を断たれたか?」
「それを知って何とする? 先生は――もはや、戦うことは出来ぬ」
「……それが本当ならば――な。おかしい話じゃないか。アシュタロス事件の英雄と称されるべき男が、この世界から姿を消したというのに――周囲はまるで、その様なことは無かったように振る舞う」
「……誰にでも、あまり言いたくないことはあるで御座ろう」
「……そうだな、まあ――傷ついた振りをして敵の寝首を掻くという様子でも無かった事だ。今の私には関係がない。これ以上の詮索は――“悪の魔法使い”の美学にも反するな」

 ライオンはウサギを狩るにも全力を尽くす、などとよく言うが、それは所詮畜生の話である。エヴァンジェリンは動物とは違う。誇り高き悪の魔法使いは、無駄なことはしない。常に余裕を持ち、相手を見下ろして話をする。たとえ詰めの甘さ故に自らの危機を招いたところで、それを全て高笑いと共に受け入れる。それが彼女なりの、美学であった。
 何時しか止まっていたシロの手が、再びエヴァンジェリンの肌に、タオルを滑らせ始める。その肌は白く、しみ一つ無く、絹のように滑らかで――とても数百年を生きた存在とは思えない。しっとりと汗に濡れた彼女からは、赤ん坊のような甘い匂いがした。

「ネギ先生は、如何致した?」
「あの馬鹿か――ふん、口にするのも馬鹿馬鹿しいがな、私から逃げるのはやめたのだと、真っ正面から乗り込んで来た」
「……そういうお方で御座るからなあ」

 シロは苦笑して、エヴァンジェリンの体を拭く。

「奴の頭の中には、一か零しか無いのか」
「それもまた、ネギ先生の魅力で御座ろう。拙者らは、大人になるにつれて、一と零の間――灰色の領域を歩くことを知る。そのような場所を歩く人間には、時として彼のような人間がまぶしく映る。大人と子供の中間に立つ拙者らなら、尚更で御座る」
「ふん、戯れ言を。忘れたか? 私は子供だとか大人だとか、そういうものを超越しているんだぞ」
「とはいえ、拙者の知り合いには、数千年を生きても未だ子供である者もおる故になあ」
「……何?」

 シロのぽつりと零した言葉に、エヴァンジェリンは一瞬目を丸くするが――シロは気にした様子もなく、首を横に振る。

「拙者のことは、今はどうでも良いで御座ろう。それで、真っ正面から乗り込んできたネギ殿が、何故に力の限り吹き飛ばされてきたのか――拙者以上に、弱ったエヴァンジェリン殿の寝首を掻こうというお方ではあるまいて」
「どうもこうも――待て、下着くらい自分で替える。肌を見られて恥ずかしがるような歳はとうに終えたが、人間としての尊厳くらいは守らせてもらおう」
「左様で」

 力の入らない体で、エヴァンジェリンが四苦八苦しながら下着を着け終わると、シロはすぐに新しいパジャマを彼女に着せていく。脱がせたときと同じく、慣れた手つきで。

「茶々丸の奴がな。あいつは私の従者で、基本的に命令には忠実だが――どうも、時々“ずれた”行動を取る。事もあろうに、押しかけてきたネギ・スプリングフィールドに私の看病を任せて、買い物に行ってしまった」
「彼女らしいで御座るな」
「私も奴が、今の私の寝首を掻くような“悪者”だとは思わなかったがな――しかし奴は、覗いたのだよ。無様にうなされる、私の夢を。この麻帆良に括り付けられて無様に足掻く、私の心の奥底を」
「……魔法、で、御座るか?」
「そう言うことだ」

 シロはエヴァンジェリンのパジャマのボタンを留め終え、彼女をベッドに横たえてやると、小さく息を吐いて、彼女を見下ろす。

「それで、どうするので御座るか?」
「だから吹き飛ばしてやったんだ。本当なら、八つ裂きにしても足りんところを」
「そう言うことではなく――拙者、エヴァンジェリン殿の内心をのぞき見よう等とは思わぬ。それが現実にどういうものなのかも、想像がつかぬ。されど、エヴァンジェリン殿のお心は、ネギ先生の理解の範疇を超えておろう」
「……わかったような事を――こほっ」

 エヴァンジェリンは苦笑し、一つ咳をした。

「そう言う貴様はどうするのだ、犬塚シロ」
「……」
「私の過去や、記憶の片鱗を知ったとて――ネギ・スプリングフィールドは、もはや止まれんぞ。いや、止まれんように、この私が仕向けてやる」
「茶番で御座るよ」
「そうだな、だが、茶番とはいえ予定外の事故が起こるかも知れんぞ?」
「エヴァンジェリン殿は、そうやって拙者を“敵”に仕立てたいので御座るか?」

 困ったように笑うシロに、エヴァンジェリンは違うと応える。

「貴様がどういう行動を取ろうが、私には関係の無いことだ」
「……」
「話は終わりだ、犬塚シロ――着替えの礼だ。私が行動を起こした折に、問答無用でなぶり殺しにすることだけは自重してやろう」
「エヴァンジェリン殿」
「話は終わりだと言っただろう。私はもう寝る。貴様がそうしろと言ったんだろう? ――五月蠅くして起こしでもしたら、ただでは済まんぞ」

 そう言ってエヴァンジェリンは、頭からシーツをかぶり、シロに背を向けた。彼女は静かに立ち上がり、小さく一つ息を吐くと――リビングへと戻る。
 そこには既にネギの姿は無く、和美とあやかが、複雑そうな顔をして座っていた。

「……? 何かあったので御座るか?」
「それがさ、ネギ君、聞いても何も応えてくんないのよね」
「ただ一言――これを、エヴァンジェリンさんに渡してくれと」

 そう言ってあやかは、テーブルの上に一枚の封筒を置いた。

「……これはどういう意味で御座ろうか?」
「わかんないから、私も悩んでんじゃん」

 和美はそう言って、肩をすくめる。封筒の表には、ミミズがのたくったような字でこう書いてあった。――果たし状――と。




 豪奢な机の上に、一枚の用紙が載せられていた。それはどうやら、ある個人の事について記されたデータであるらしい。
 麻帆良学園本校女子中等部――物語の中心であるその場所にほど近いところに、麻帆良学園本校総合管理棟――麻帆良学園の中枢は存在している。そしてその一角、理事長室と銘打たれたその部屋の中で、一人の老人が、机の上に置かれた用紙を、じっと見つめていた。
 ややあって、その口元から、ため息と共に小さな言葉が漏れる。

「かつて儂らが背を向けたものに――今再び向かい合う時が、やって来たのかも知れんの」

 老人――この町を統べる麻帆良学園理事長、近衛近衛門は、首を横に振り、古めかしい電話機に手を伸ばした。

「――ああ、儂じゃ。忙しいところすまんの――そうじゃ。少し相談があるんじゃが――」

 机の上に置かれたままの書類。そこに貼り付けられた写真の中には、前髪の赤い、白銀の長髪を持った少女が、神妙な顔で佇んでいた。










追記:シロは、あやか・和美と席が隣同士。
こればっかりは、書いてないとわからない気がするので書いておきます。
原作の座席表を持ってきて、最前列左から三列目、和美の隣に、
シロを割り込ませました。
結果として、あやかから鳴滝風香までが、右に一つずつズレて、
佐々木まき絵から葉加瀬聡美までが、後ろに一つずつズレています。
で、最後にはじき出される茶々丸を、エヴァンジェリンの隣、
明石裕奈の後ろに配置して終了。

適当に考えた割には、割と自然な感じになったかと。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・今を生きる子供達
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/04/05 10:57
 何度も同じところで蹴躓く。
 なかなか先へ進めない。
 そんな自分に嫌気がさした――それがどうしたというのだろうか? 
 長い人生、そんなことだってあるに違いない。しかし思い出してみればいい。今のあなたは、いつかあなたが、必死で過ぎ去って欲しいと願った出来事の、その向こう側に立っている。




 それは確かに、怒られても仕方のない行為だと思っていた。
 ネギ・スプリングフィールドが、魔法を使い、“悪の魔法使い”エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの記憶を、のぞき見た事は。
 けれど、うなされる彼女の口から、己の父親の名前が出たときに、彼はその衝動を抑えることが出来なかった。彼女が自分の父親の何を見て――一体、どのような時間を過ごしてきたのか、それを知りたいという衝動は。
 だから、彼女が見ている夢を通して、彼女の記憶を――心の内側を、魔法を使って覗き見た。もはや、それについて彼女の怒りを買うことは覚悟の上で。問答無用で殺されない限りは、とにかく謝り倒して納得して貰おう。どれだけ謝っても、彼女が納得する保証はないのだけれど、その時、ネギは、半ば努めてその可能性を考えようとしなかった。
 しかし果たして、彼は謝ることが出来なかった。かいま見た少女の心の中、自分の理解を超えた深い闇と、過酷な運命、そして僅かに抱いた希望――そのどれもが、今のネギには全く届かないものだった。
 そして気がつけばネギは、怒り狂ったエヴァンジェリンに吹き飛ばされていた。
 それから後、自分の教え子達が取りなしてくれてからも、自分の口から出てくるのは、その場を取り繕うための言い訳ばかりで――そうこうしている間に、彼女は、犬塚シロの手によって、部屋の方へ引っ込んでしまった。いくら何でもあの中に飛び込んでいくことは出来まい。
 ネギはぐっと、拳を握りしめる。

「ネギ先生――マクダウェルさんと、何があったのですか?」
「……」

 クラス委員長の雪広あやかが、心配そうに彼に問う。しかし、ネギはその問いに応える事は出来ない。悪いのは全て自分だ。そのことを――
 そこで、はたと気づく。自分が悪いから、何だというのだ。それこそ、ただの言い訳ではないか。つまりは自分は、知られたくないのだ。目の前の、自分を好いてくれている、雪広あやかと言う少女に、自分が犯した、酷くみっともない罪を。
 これが――“立派な魔法使い”に通じる道か。ネギは、あやかの顔をまともに見ることが出来ない。

「ネギ先生が、エヴァンジェリンさんを怒らせちゃったってのは、何となくわかるけどね。でも、覗きってのは考えにくいんだわ。ネギ先生、確かにお色気事件には事欠かないし、あたしも気楽に楽しい記事が書けていいんだけどさ」
「朝倉さん、あなたね」

 ソファに腰掛け、足を組んだ和美は、何かを言おうとしたあやかを、手を軽く挙げる事で遮った。

「ただね、ネギ先生が自発的に“覗き”なんてするかどうか。委員長だって、そんなこと考えなくたってわかるでしょ? いつもの事にしたって、どっちかって言ったら、下手すりゃ、あたしらの方が逆セクハラで捕まるよ?」
「それは――そうかも知れませんが」
「ねえ、ネギ先生。何があったのさ? エヴァンジェリンさんは確かに付き合い難い娘だけどさ、何て言うか、周りのことには興味ない、ってな感じで――その娘が、あんなに怒るなんてさ」

 ネギは、応えられない。下を向いたまま、強く拳を握り、唇を噛みしめる。その様子に、和美は小さくため息をつき、あやかは心配そうに瞳を細めた。
 ややあって、ネギは俯いたまま、内ポケットから、一枚の封筒を取り出す。

「朝倉さん、委員長さん――すいませんが、この封筒を、エヴァンジェリンさんに渡してください」
「渡してくれったって」
「すいません。僕はこれで失礼します」
「あ、ちょっと、ネギ先生!」

 背後から掛けられる、和美とあやかの声を無視して、ネギは立ち上がり、エヴァンジェリンのログハウスを後にする。情けない、自分はここに来るまで、一つのことを誓っていた筈ではなかったのか。即ち――エヴァンジェリンと、真っ向から話し合うと。
 果たして自分がしたことと言えば、こっそり彼女の夢を覗き見て、その事を後悔する羽目になり、いたたまれなくなって――また、逃げ出した。
 まったく、自分という人間に嫌気が差す。ネギは、ワイシャツの胸元を握りしめ、吐き気がこみ上げてきそうなほどの嫌悪感を、無理矢理に飲み込んだ。
 不意に、幼なじみの少女の顔が頭に浮かぶ。いつも自分の事を、子供だ子供だと馬鹿にしていた、無邪気な顔が。そう――エヴァンジェリンはもとより、明日菜やシロ、和美やあやかからしても、自分は子供でしかない。
 しかし――それを言い訳に出来ない道を選んだのは、自分自身だ。それを――

「……Shit……」

 口汚い英語が、思わずこぼれた。英国紳士ならば、“立派な魔法使い”ならば、決して口にしてはならないような言葉が。
 一つの声が、ずっと頭の中で繰り返されている。
 エヴァンジェリンの夢の中でかいま見た、彼女の声――弱々しい、とても彼女とは思えないような、何かに縋るような声。

――好きだったのに――

 “立派な魔法使い”ナギ・スプリングフィールド――彼がエヴァンジェリンに対してしたことは、裏切りでしかない。けれど、彼は何故彼女を裏切ったのだろうか? 裏切りという行為以上に、そこに込められた意図も、ネギには理解できない。
 父は――確かに、自分達を置いて行ってしまった。けれど――ネギの脳裏に、己の原初の風景が蘇る。燃えさかる村、徘徊する悪魔、そして――この世に再現された“地獄”から、彼を救い出してくれたのもまた、父だった。
 ネギはぐっと、杖を握りしめる。
 父は、“立派な魔法使い”であり、戦士だった。だから、エヴァンジェリンの前に再び現れる事が出来なくなる可能性だって、最初からあった。けれど、これは――ネギの心を形作る彼の姿と、エヴァンジェリンを裏切った彼の姿。それが、重ならない。
 エヴァンジェリンの弱々しい声が、頭の中に何度も蘇って――それは、どんな強烈な魔法よりも強く、彼の心を締め上げる。
 例えばカモや明日菜は、その結果、あの場所に留まることが出来なかった彼を、責めるだろうか? いやきっと、あの二人は――そして自分の周りの人間は、責めはしないだろう。
 子供だから仕方がないと、急に成長できないのもまたネギという少年であると――それが許されない道を選んだのは、ネギ自身なのに――
 思考が、同じ場所を何度も回る。考えを紡ごうとしても、散り散りになる。
今、自分が立っている場所は、一体何なのだろうか? ネギは拳を握りしめて、エヴァンジェリンのログハウスを振り返った。

「父さん――エヴァンジェリン――さん」

 小さく呟いた言葉は、誰も聞く者がいないまま、麻帆良の空に消えていく。




「ありゃ――これ、中身英語だよ」
「こ、困ったで御座るなあ、拙者、英語はあまり得意では御座らぬ故」
「うん、見るからにそうだよね、シロちゃんは。というわけで、ここは人間翻訳機こと、委員長の出番――」
「ちょっとお二人とも! 何をネギ先生の手紙を、勝手に盗み読みする気満々ですの!?」

 たどたどしい筆跡で記された“果たし状”の封筒を、何の躊躇いもなく開き、中身を見つめて唸りだしたクラスメイトに、思わずあやかは大声を出し――慌てて口を塞いだ。扉一枚を隔てているとはいえ、すぐ近くにエヴァンジェリンが寝ているのだ。既に寝付いているかどうかはさておき、大声を出すのはまずかろう。

「そうは言ってもさ、委員長。ネギ先生の様子、ちょっと普通じゃなかったよ?」
「それは、私とて、そう思いますが」
「そこに来てこの“果たし状”で御座る。正直拙者には、何がなにやらわけがわからぬ。最初からこれを用意してきたということは、ネギ先生にはネギ先生なりの考えがおありなのであろうが――どうにも」
「だからと言って――その手紙を見ればそれがわかるとは限りませんでしょう」
「そりゃまあそうだけどさ。大体、あのネギ先生が“果たし状”だよ? 一体これってどういう意味なのさ? 普通の手紙なら、まああたしらも、他人の手紙を勝手に盗み読みしようとは思わないけどさ」

 あやかは、目の前の少女が“麻帆良のパパラッチ”と呼ばれている事をどう考えているのか、少々問いつめてみたい気分に駆られたが――その様な事をしたところであまり意味はない。小さくため息をついて、広げられた便せんに目を落とす。
 心の中でネギに詫び、しかしほんの少し、自分の中に好奇心があることを否定できず――あまりにも不味い内容だった場合には、この二人をどうやって誤魔化すか、そこまでを考えて――封筒の文字とはあまりに違う、流麗な筆記体に目をやってみれば――

「“三年A組、出席番号二十七番、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル殿――僕はあなたの置かれた状況に、深く同情しています。けれど僕は、あなたのやり方を認めるわけにはいきません。あなたが、あくまで僕と対立をするというのならば――この杖にかけて、僕はあなたを止めて見せます――ネギ・スプリングフィールド”――これは」
「ふむ――果たし状というよりは、ネギ先生の決意表明のようなもので御座るな」
「何だかんだ言ってもネギ先生ってイギリス人だし――“果たし状”の意味、わかってなかったんじゃないの?」

 直接的に戦いを申し込む――本来の意味の“果たし状”ではなく、それは――ネギの、エヴァンジェリンに対する決意を、形にしたようなものであった。全く彼らしい生真面目さに、一同の顔に、柔らかいものが浮かぶ。

「ま、この手紙は見なかった事にするとして」
「……シロちゃん、何て言うか、結構したたかだよね」
「何を申す。ある程度のしたたかさを持たねば、女性は生きては行けぬ故に」
「いや、それはどうだろうなあ」

 便せんを綺麗に折り畳み、封筒に入れ直すシロを見て、和美が引きつった顔を浮かべるが――あやかにしてみれば、彼女とて五十歩百歩である。
 ともかく――手紙そのものは実にネギらしいとでも言おうか、微笑ましさすら感じさせるものであった。だが――

「何故マクダウェルさんがああも怒っていたのか、わかりませんわね」
「まさか本当に、覗きをしてたってわけじゃないだろうけどさ。エヴァンジェリンさん、鳴滝姉妹みたいなナリしてるけど、考えてみたらネギ先生と同程度の見た目――とも、言えるわけだし」
「それは鳴滝殿らとエヴァンジェリン殿、双方に失礼で御座るよ?」

 “果たし状”の内容がわかったことで――シロは、このように素直な手紙を書いて置きながら、黙ってこの場から姿を消したネギの行動の理由を、何となく察する事が出来る。エヴァンジェリン自身にも言った事だ。どれだけ頑張っていようと、所詮十歳の子供に過ぎない彼に、“闇の福音”とまで言われ、恐れられた彼女の心は重すぎる。
 さりとて――魔法を使って覗き見た、彼女の心にショックを受けました、などと、馬鹿正直に言える筈もない。言ったところで、それを二人が信じるかどうかは、この際別問題であるとしても。

「ネギ先生は、エヴァンジェリン殿が授業をサボることを以前から気にしておられたご様子――ネギ先生が“同情”するほどの“事情”というのは――はてさて、拙者には“見当が付かぬ”が、ネギ先生はあれで、立派な教師であることに拘りを持っておられる」

 だから、適当に言葉を濁してみる。元来、こういうやり方は、彼女の得意とするところではないが――

「なる程、エヴァンジェリンさんに、がつんと一言言ってやりたくなったってわけ? それで――まあ、“果たし状”の意味をはき違えたのは、微笑ましいミスだとしてさ」
「おおかた、茶々丸さんに頼まれたと言うことで、床に伏しているマクダウェルさんのお部屋に、勝手に入ってしまったのでしょう。言っては何ですが、それこそ彼女は、ネギ先生とはあまり馬が合わないご様子ですから――」

 事情を全く知らない二人の少女が、推測だけで、この正解にたどり着く事は、不可能と言って良い。シロは内心で二人に詫びながら、話が上手い具合にまとまったことに、胸をなで下ろす。
 “魔法使い”の事を知る人間としてではなく、ネギ・スプリングフィールドと、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル――双方の事情を知る者として、彼女は胸をなで下ろす。元がゴースト・スイーパーである彼女にしてみれば、魔法の隠匿などという意識はあまり高くない。単純に、運命と因縁に翻弄される二人の“友人”の事は――そう簡単に、他人に話せるものではなかったからだ。

「何にしろ、エヴァンジェリン殿の具合は、あまり宜しくないご様子。折角寝付いたところを起こしてしまっても仕方がない故に、拙者らはそろそろお暇するで御座るか?」
「そーね。まあ、シロちゃんはそれなりにあの子と話してたみたいだし――」
「彼女の病気が治ったら、改めてお伺いすることに致しましょうか」

 三人の少女が席を立ったのを見て――台所から出てきた茶々丸が言う。

「もうお帰りですか? 何でしたら、お茶のおかわりをと考えて居たのですが」
「お心遣いは嬉しいが、絡繰殿。拙者らが長居をして、エヴァンジェリン殿のお体に触ってもつまらぬ故に」
「お茶会はまた後日――その時には、また、あなたの紅茶を楽しみにしておりますわ」
「またね、絡繰さん」

 玄関を出て、遊歩道を去っていく少女達の後ろ姿を、茶々丸は見えなくなるまで見送った。その硬質な瞳に――言葉では言い表しきれない、複雑な感情を込めて。




「先生」
「あー?」

 風呂上がりに、宅配の牛乳瓶を傾けていた横島は、不意にシロに声を掛けられて振り返る。見れば、自分同様に湯上がりなのだろう、パジャマ姿で、タオルを頭に巻いた彼女が立っていた。うっすらと上気した肌と、普段は長い髪に隠された、露わな首筋が何とも年齢に似合わない色気のようなものを――

「……あー、いや、何だ。うん、何でもねえ」
「ふふん、うなじの後れ毛に気を遣ってみたで御座るよ」
「お前は風呂上がりに何をやっとるか。ってか、今更俺をからかっても良いことなんてねーぞ」

 平静を装ってはみたものの、その内心をシロに見透かされていたようで、横島は憮然とした顔で――しかしその顔は少し赤い――腕を組み、再び牛乳瓶を持ち上げる。シロはそんな彼を楽しそうに見つめながら、彼の隣に腰を下ろした。

「先生は、永遠の煩悩少年などと名乗っておきながら、意外と奥手な方で御座る故に。時にはこうして、女の方から歩み寄りをかけねばならんかと」
「なら永遠の煩悩少年として言ってやる。そういうのはな、それこそお前の煩悩をくすぐる相手が現れた時の為にとっとけ。命短し、恋せよ乙女――ってな。こんなところで無駄弾撃ってる暇はねえぞ」
「なれば一安心。拙者、今までもこれからも――先生以外の男など、眼中に御座らぬ」
「……物好きな。まあ、悪い気はしねえけど、その言葉がいつまで続くやら」
「そう問われれば、永遠にと」

 シロはそっと――彼に体をすり寄せる。さすがの横島も、彼女の様子がいつもと違うことに気がつき――しかし、自分はどうしてやるべきなのかが咄嗟にはわからず、とりあえず残っていた牛乳を――

「先生――今宵、拙者を抱いては下さらぬか?」
「ぶはっ!?」

 思い切り吹き出してしまう。しかし咄嗟に首を捻って、シロとは逆方向を向いた事については、褒められるべきだろうと彼は思った。口元を拭い、咳き込みながら涙目で振り返る。

「お前はいきなり何を言うか!? そんな冗談、美神さんの耳にでも入ったら殺されてしまうわっ!!」
「美神殿は関係なかろう。これは拙者と先生の問題で御座る」
「お前と言いあげはといい――俺が言えた義理じゃねえけどな、年頃の女の子はもうちょっと慎み深く――」
「ああ、避妊はきちんとこちらでする故に」
「慎み深くと言うとろうが!! ――全くお前は――」

 横島は一つ咳をして、しかめ面をしながら、卓袱台の上に飛び散った牛乳を、ティッシュぺーパーで拭き取る。ややあって、彼は一つため息をついて、首を横に振った。

「何があった」
「……何の事で御座るか? 何、拙者と先生の付き合いももう長い。そろそろ、師匠と弟子という関係から、もう一歩踏み出してみても――」
「話をぼやかすのに、“これはもう愛の告白としか!?”なんつって馬鹿なことを言うのは、俺の専売特許だ。今のお前には十年早い」

 いやさ、十年経てばそれはそれで問題があるが――などと言いながら、横島は唸る。その様子を――いつもと変わらぬ彼の様子を見ていると、シロは何だか暖かい気分になってくる。だから、言葉を続けてみる。

「“こーなったらもー”から始まる恋もある」
「……おキヌちゃん、相当根に持ってんだな、あんな昔のことを。つうか何でお前がそれを知ってる?」

 シロはそれには応えず――横島の胸元に、鼻先をすり寄せた。

「お、おい……」
「拙者は、幸せ者で御座ると思って」
「何がだよ、藪から棒に」
「暖かな寝床がある。食べるものに困る事も無い。何より――心より慕うお方が、側にいる」
「ここのところ、お前の周りがバタバタしてるのは何となくわかってるが――それの話か?」

 シロはやはり、それには応えない。代わりに彼女は、小さく言った。

「……先生は、拙者を置いて何処かに行ってしまったりはしませぬか?」
「変なドラマでも見たのか?」
「応えてくだされ」
「なあ、シロ。俺は確かに、お前の親父さんや――美神さんと違って、お前にとって立派な保護者とはいかないだろうさ。出来ることだってたかが知れてる。けどな、お前が何か、柄にもなく考え事をしてるって言うなら、相談に乗ってやる事くらい、出来なくは無いんだぜ?」
「正直に申す。それはそれ――これは、これで御座る」

 どういう意味だと、横島はシロに問うた。彼女は首を横に振る。シャンプーか何かの匂いだろうか、柑橘系の甘い香りが、横島の鼻をくすぐった。

「拙者確かに――柄にもなく考え事をしているで御座る。されど拙者は単に、他人の諍いに首を突っ込んだだけのこと。当事者である方々の悩みは、拙者以上にとても深い」
「……それが誰のことで、何があったのか、なんてこと――俺は聞かねえけどさ」

 タオル越しに、シロの頭を撫でながら、横島は言った。

「されど――拙者まだまだ子供で御座る故に――その様なことをしていると、時々わけもなく不安になるので御座る。そう――クラスの学友は、拙者をして大人びているなどと言う。されど、拙者、まだ、子供なので御座る。強がってばかりは居られぬし――甘えたくも、なるので御座る。考え事などとは関係御座らぬ。わけもなく――で、御座るよ」

 横島の手が、シロの頭を軽く叩く。彼は一つ、小さく息を吐いた。

「当たり前だろ、そんなことは」
「先生」
「俺も偉そうな事を言えた、立派な大人じゃねーけどさ。それでも何時までも煩悩少年を名乗っては居られない、その程度の成長はしてるわけよ」
「……左様で御座ろうか?」
「そこは流してくれよ、頼むから」

 彼は苦笑する。シロも、つられて笑う。

「深くは聞かねえけどさ、明日菜ちゃんやあのネギってガキが抱えてるのと、同じ悩みか、それは――ああ、応えなくていい。応えなくていいんだけどな――」

 横島は続けた。

「俺には気の利いた事なんて言えないが、それでも一つだけ言うなら――いつか明日菜ちゃんに言ったのと同じだ。ああいう顔は、お前らには似合わねーんだよ。何なんだよお前らは? お前、今自分で言ったろ? 自分達は子供だ――って、なら、何でそういう風に割り切らない?」
「――」
「自慢じゃないが、俺があのガキ時分の頃は、女子のスカートの中身とミニ四駆くらいにしか興味が無かったぞ?」
「本当に自慢では御座らんな」
「だろう」

 楽しそうに言うシロに、何故か横島は大仰に頷いて見せた。

「つまり――ああもう、何が言いたいのか俺にもよくわからんことになって来たが――要するに、ゆっくり大人になれって、そう言う話だよ。明日菜ちゃんみたいな美少女が、浮かない顔をしてるのは人類の損失だと俺は思うが――ま、時にはそう言うこともあるだろうよ。あのガキも、な」
「イケメンなのは気に食わぬが――で、御座るか? ネギ先生は子供ながらに、なかなかの美形で御座るからな」
「その通り。何だシロ、お前もああいうのが好みか?」
「何度も言わせますな。拙者、先生以外の男になど、微塵の興味も御座らん」
「物好きめ」
「褒め言葉で御座る」

 彼は肩をすくめ、もう一度、シロの頭に手を乗せる。

「悩め、間違え、んでもって無茶苦茶をして、全部笑い飛ばせ。あの頃の俺たちがそうだったみたいに、全部笑い話にしてしまえ」
「だから拙者は――悩み事では、無く――ただ純粋に、先生に甘えたかっただけ、なんで御座る」
「なら尚更だ。何を遠慮する?」
「先生――」

 シロは、横島の首に手を回す。驚いたような彼の瞳と、僅かに潤んだシロの瞳が交錯する。そして、その距離は程なく――

「とうっ」
「のあっ!?」
「はうっ!?」

 何の前触れもなく、妙なかけ声と共に突っ込んできたあげはによって、滅茶苦茶になる。彼女がどの程度の助走を付けてきたのか、直前まで見つめ合っていた二人にはわからない。しかし、二人分の体重で、小さな体が生み出す慣性エネルギーを殺しきれず、部屋の隅まで三人でもつれ合いながら転がったところを見ると――その解答を、今更考えてみる必要は無さそうであるが。

「あー、死ぬかと思った……」
「つう……これ、あげは! いきなり何をするで御座るか!」
「それはこっちの台詞ですよ。人が来たのにも気づかずに、気持ちの悪い二人の世界を作っている方が悪いのです」
「気持ちが悪いとは失敬な。先生と拙者の、愛の世界で御座る」
「ほう」

 あげははすうっと瞳を細め――シロの顔をのぞき込んだ。

「な、何で御座るか?」
「……寝言は寝て言え」

 子供らしからぬ迫力の籠もった声に、思わずシロの肩が跳ねる。
 そんな彼女を尻目に、あげはは一つ咳払いをする。

「とにかく。シロがそう言うつもりなら、私もヨコシマに甘える権利を主張するのです」
「そうか、そいつは結構だ。だがもう少し大人しく主張してくれりゃ百点だ」
「というわけで、まずは私も頭を撫でてください」
「人の話を聞けやお前は」

 そんな彼女の様子に――暫く煮え切らないような表情を浮かべていたシロであったが、やがて小さく息を吐き、苦笑する。

「先生」
「何だ?」
「今日は久しぶりに――三人一緒に寝るで御座るよ」
「……好きにしろ」
「それがいいです。私の目が黒いうちは、シロに好き勝手はさせませんから」
「単純に一緒に寝るだけで御座るよって――まあ拙者、今日は“安全日”なのでござっ!?」

 シロの言葉は、あげはが何処からともなく振り抜いた“紙製鈍器”により――仰け反るほどに頭部が揺さぶられた事によって遮られる。

「は、鼻が、鼻がっ!」

 顔を押さえてのたうち回るシロを見下ろしながら、あげはは小さく呟いた。

「ふむ――やはり加減は難しいですね。シロの頭蓋骨を潰してしまう前に、シロ専用ハリセンを作った方が良いかも知れません」
「待てや、おい」




『一つ聞きたい』

 電話の向こうで、少女が言った。

『貴様らの目的は何なんだ? 言っておくが、“魔法界”の意向を聞いて居るんじゃない。貴様らは魔法界の手先かも知れんが、傀儡と言うには出来が悪い。そう――こうやって、魔法世界の恥部とも言える私を飼い殺しにしているくらいにはな』
「ほっほっ」
『何がおかしい』
「花粉症は大変そうじゃのう。ま、鼻声のお主というのも、また可愛らしいものじゃ」
『縊り殺すぞ貴様』

 暗く淀んだ――しかし相変わらずの鼻声を聞いて、老人は愉快そうに笑う。麻帆良学園学園長――近衛近衛門は。

「しかしお主の言うことは、酷い誤解と言うものじゃ。考えても見るがよい。今のお主は、ナギ・スプリングフィールドの呪いによって、力の殆どを制限された状態にある。でなければ、儂のような平凡な魔法使いなど、お主が“縊り殺す”などと物騒な事を言った時には、既に屍を晒しているじゃろうて。つまり、今のお主には危険など微塵もない。今更、魔女狩りの真似事をして何になる?」
『建前を聞きたい訳じゃない――もっとも、貴様らが本当の事を喋るわけがないと、こちらも承知の上で聞いてはいるが』
「ならば、そう言うことにしておいてくれんかの」

 電話の向こうの少女――魔法使いの間でかつて恐れられた“闇の福音”エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの声が途切れる。これは少々、からかいが過ぎたか――と、近衛門は肩をすくめる。

『――ゴースト・スイーパーの横島忠夫という男に接触したな?』

 ややあって、電話の向こうから響いた声に、近衛門は僅かだけ、逡巡する。すぐにとぼけた様子で、何のことかと返すが――エヴァンジェリンにとっては、それだけで十分だった。

『僅かだが躊躇ったな。腹芸が得意な貴様らしくもない』
「買いかぶりじゃよ、エヴァンジェリン。儂はただの馬鹿な爺じゃ。しかし儂とて、アシュタロスの人間界侵攻については、思うところがあったものでの、彼の名は聞き及んでおった。それだけの話じゃ」
『ふん――奴等は、魔法使いとは違う。全てが貴様らの台本通りに進むとは限らんぞ』
「数百年を生きた伝説の魔法使いとは思えん台詞じゃの。全てのことに台本が用意できるのならば、誰が苦労をすることがあろうか――それで、何の話じゃったかの? どうも最近、物忘れが激しゅうてかなわんわ」

 わざととぼけたように言ってみる近衛門だったが――当然と言うべきか、相手もさるもので、この程度の挑発には乗ってこない。

『ならば私が直々に吸血鬼にしてやろうか? 肉体が劣化しなければ、ボケも進むまい』
「残念じゃがそれは断るよ。儂は自分より先に、木乃香が死ぬところを見たくは無いのでの――まあ、何じゃ――儂らには儂らの考えがある。それは認めるが、それは誰だって同じじゃろう? 儂らは、次世代の魔法使いを背負って立つべきネギ君を、“立派な魔法使い”に育て上げたい――何かおかしなところがあるかね?」
『横島忠夫という男は――』
「世界を相手に蜂起した魔神に、単身挑み、そして生還した男――そして彼は、新時代の魔法使いとも言うべきゴースト・スイーパーじゃ。そんな男が麻帆良に来たとなれば、多少の期待をしてしまうのは仕方あるまい。ま、あっさりと振られてしもうたがの」
『……狸め』

 近衛門は小さく笑う。
 真実の中に込められた嘘と、嘘の中にちりばめられた真実。果たしてそれの意味するところは――

『どうやら貴様と腹の探り合いをしたところで、時間の無駄のようだな』
「ほっほっほ、いくら儂の腹をさぐってみたところで、出てくるのはせいぜい、木乃香に隠し通した嘘くらいじゃよ」
『――試みに問う』
「何じゃな?」
『貴様らにとって――ネギ・スプリングフィールドとは、一体何だ?』

 エヴァンジェリンの問いに、近衛門は淀みなく応えてみせる。

「前途有望な若者じゃよ。この学園の誰しもと、同じようにの」

 その問いが、彼女の――エヴァンジェリンの気に入るものであったのかどうかは、定かではない。しかしそこで、小さな――苦笑とも嘲笑ともつかないような笑いと共に、電話は切られた。
 近衛門は暫く、受話器を置いた電話をじっと見つめていたが、ややあって、大きく息を吐く。

「お主に言われるまでもない。狐と狸の化かし合いなぞ、儂の柄ではない――ただの――彼らを見ていると思うんじゃ。儂らが今まで、必死になって考えてきたもの――それが一体何だったのかをな」











被告スパイク、前へ。
――はい。
何故被告は、このようなことをしたのですか?
――シロへの情熱が止まらなくなってやりました。今は反省しています。

よろしい、では、陪審員(読者)の評決を待ちましょう。
有罪にせよ無罪にせよ、あなたはそれをしっかりと受け止めなさい。
――はい。

物語の整合性を取る役割を兼ねた今回ですが、
何だかかなりの暴走。
シロ好きの皆様の反感を買わないかどうか、割と真剣に心配しております。

そう、整合性。
思いの外ネギ君が動かし難いせいで、
物語の全体としての纏まりを、うまく保てない。
これは本当に難しいぞ。
もちろん、ベストを尽くして乗り切るつもりですが。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・宣戦布告
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/04/05 10:57
「何を驚いている? 私がここにいてはおかしいか?」
「い、いえ、そう言うわけじゃ――」
「人が授業をサボれば文句を言い、出てくれば鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして――難儀な奴だ。こんな奴が担任教師とは、ため息の一つも付きたくなる」
「ちょっとエヴァンジェリンさん。言い過ぎですわよ。授業をサボるのはどう考えてもあなたの責任でしょう」

 ネギがエヴァンジェリンの家に向かってから二日後――彼女の姿は、麻帆良学園本校女子中等部、三年A組の教室の中にあった。いつもならば、“餓鬼の授業など聞いていられるか”と、幾分かの皮肉も込めて姿をくらませる彼女が、である。
 それに気づいた彼が、呆気にとられたような顔をしていると、エヴァンジェリンは小さく笑ってそう言った。ついで放たれた一言にあやかが噛みつき、それにクラスメイトが便乗して、教室の中はちょっとした騒ぎになる。

「あ、あの、皆さん! 静かにしてください!」

 当然ネギは、一応教師として、少女達の喧噪を沈めようと努力をするのだが――彼が目下学習中である日本の諺では、それをして“焼け石に水”という。
 果たして――誰かが、手を打ち鳴らし、少女達は、喧噪の中に妙に響いたその異質な音の方に顔を向ける。見れば――白銀の長い髪を三つ編みにした少女が、笑顔で手を叩いていた。

「皆、静かにするで御座るよ。授業中はただ勉学に励めとは申さぬ。さるお方が言うには、授業中の無為な行動もまた“青春”であると――ただ、あまりネギ先生を困らせるのもどうかと。果たしてまた新田先生が怒鳴り込んでくるというのも、拙者としては勘弁願いたいで御座るからな」

 まさに鶴の一声で、教室は静まりかえる。“鬼の新田”の異名を取る新田教諭の来訪は、確かに歓迎されるべきものではない。それは三年A組の共通見解であったが――それと同時に、“それ”を言ったのが彼女――犬塚シロであったというのも、また大きな理由である。
 彼女は確かに、物静かな性格ではない。転校してきてからこちら日が浅いとは言え、その明るい性格で、既に色物揃いと評判のこのクラスで、独特の存在感を振りまく存在となりつつある。
 けれど、それとは別に、この二日ばかりの彼女は、何かおかしいと、誰もがそう思っていた。

「エヴァンジェリン殿――確かに、お主が教室に居ることを驚くネギ先生はどうかと思うが、それはお主の不徳が招いた結果で御座ろう。人の揚げ足を取るような真似は、お主らしく無いよって」
「あ……ああ……ま、まあそうかも知れんな。悪かったな――ネギ・スプリングフィールド」
「あ、い、いえ――僕の方こそ」
「左様。ネギ先生も、エヴァンジェリン殿が真面目に授業に出てきて舞い上がるのはわかるが、クラスの中で一人を名指しにするような真似はよすで御座るよ。その様なことをすれば、逆に居心地の悪さを感じる事もあり得る故に」
「は、はい! これからは、気をつけます――」
「結構。では授業を続けてくだされ。今日は確か、関係代名詞のおさらいからで御座ったな――いやあ、出来の悪い拙者には、これがいささかの難物で御座って――」

 誰に言われるでもなく、勝手に恥ずかしそうに頭を掻きながら、彼女は教科書を広げる。確かに、クラスの喧噪は静かになっていた。けれど、クラスの大半の目線が、その後暫く彼女に集中していた事も、また事実である。

「なぁなぁ、明日菜――」
「あ、うん――わかってる。何て言うか、緩みっぱなしだよね、シロちゃん。何か触ったらチョコみたいに溶けていきそう」
「何かええ事でもあったんかなあ」

 木乃香に小声で話しかけられて、明日菜は曖昧な返事を返す。彼女の席からでは、前に座る人間の頭越しに、シロの後頭部が伺える程度であるが――それで尚、彼女がどのような状態なのかは、自然とわかる。

「――横島さん絡みやろか? もしかしてシロちゃん、一足先に大人の階段を昇ってもうたんやろか?」
「横島さんの事を考えたら、それはないと思うけど――あの様子じゃねえ」

 そう思うのも無理はないか――と、明日菜は思う。全く、ここ二日ばかり、またしても元気を失いかけているネギの、その側にいるこちらの身にもなって欲しいものだ。そこまで考えて、明日菜はため息混じりに首を横に振った。




「ねえ、シロちゃん――正直、割と聞きにくいんだけどさ」
「何で御座ろう? “麻帆良のパパラッチ”と名高い和美殿らしくもない」
「犬塚さん、それって一応、蔑称ですわよ。パパラッチとはそもそも――」
「まあ、委員長。あたしも別にそれは気にしてないからいいわよ。でもね、確かに昨日は、あたしも圧倒されちゃって、結局声を掛けらんなかったし」
「おや――拙者に、何か粗相があったので御座ろうか?」
「自分で言っててわかんない?」

 和美は呆れた様子で――幸せそうに弁当を頬張るシロの頬を突いてみる。彼女はどうにも、化粧品などに気を遣っているようには見えないが、しっとりと触り心地の良い柔らかな肌が、適度な弾力を持って彼女の指を押し返した。

「……お肌つやつやだね」
「質の良い睡眠を取っている故に」
「ちなみにそれがどんなものか――聞いても良い? 他意は無いわよ? 私だって年頃の乙女だもの。綺麗なお肌には興味がね」
「……朝倉さん、墓穴を掘ってますわ」

 疲れた様子で、あやかは箸を置く。何となく食事のペースが落ちてしまう。食欲が失せたわけではない。今自分にとって第一に必要なのは、食事を続ける事ではない――何だかんだと言いつつ、あやかもまた、“年頃の乙女”なのである。

「ふむ――和美殿には申し訳ないが、こればかりは――その、拙者一人ではどうにもならぬ事故に」

 和美の動きが止まり――あやかの顔が、真っ赤に染まる。

「ほ、ほほー……それじゃシロちゃん、やっぱり横島さんと? あ、あのさー、後学のために、感想とか聞いても良い? ええもう、気になるんですよ、コンチクショウが。やっぱり、死ぬほど痛いの? ちゃんとアレつけた? それから――」
「朝倉さん!」
「何よ、委員長だって気になるんでしょ? 顔真っ赤だよ」
「そ、それはその――」

 所在なさげに視線を宙に漂わせるあやかであったが――そんな二人の様子に気がついたシロは、うっすらと頬を染め、苦笑しながら、首を左右に振って見せた。

「ああ――期待をさせておいて申し訳ないが、拙者まだ、お二人が想像しているような事には至っておらぬ」
「え」
「う」

 彼女の一言に、臨界点に達しつつあった和美とあやかの動きが止まる。シロは恥ずかしそうに――しかし嬉しそうな苦笑を浮かべたまま、続けた。

「ただ――言質は取った故に、全力で甘えておるので御座るよ。あげは共々。昨日と一昨日は、三人で“小”の字になって床に就いたで御座る」
「“小”? それって普通“川”じゃないの?」
「あげはが素直に、拙者と先生の娘となってくれれば問題は無いので御座るが――彼女もなかなかに強敵で御座る故に。先生を真ん中にして、拙者とあげはが左右に」
「ああ、それで“小”なのですね」
「あげはって――シロちゃんところに下宿してるって言う、小学生の?」
「左様」

 和美とあやかは、直接にあげはとの面識はない。だがこの時、二人の脳裏には、小学一年生程度に幼くなったシロの容姿が、まるで写真を見ているような正確さで浮かび上がった。

「……お二人が何を考えているかは、何となく想像が付くで御座るが――あげはは拙者の身内では御座らん故に、別に似ていないで御座るよ」
「つうか、横島さんってモテるのねえ。確かに面白そうな人だったけど――って、シロちゃん!? 別にあたし、たったあれだけ会っただけで横島さんに惚れたりしないってば! だからそんな、血に飢えた肉食獣みたいな目で見るのはやめて!」
「結構」

 和美の顔色が、面白いくらいに変化したことを、誰も笑うことは出来ないだろう。現に側にいたあやかには、一瞬幻覚だろうか――シロの姿が、巨大な狼のように見えてしまった。
 果たしてシロはと言えば、その様な自分を恥じたのか、小さく咳払いをして、ため息をつく。

「まあ――あのお方が、ところ構わず女性を引っかけるのは、今に始まった事では。拙者が知る限りでも、先生に好意を寄せる女性は――まあ、程度の差はあれど、両手の指で足りるかどうか」
「うあー……横島さん凄え。半端ねえっす。でもいーなあ。あたしもそんな相手が欲しいなあ」
「犬塚さんの場合は少々事情がおありなのでしょうが――確かに素直に、羨ましいと思いますわね。しかし犬塚さんも、いくら二人きりで無いとは言え、年頃の男女が――」
「固いこと言ってんなよ委員長。自分だって興味あるくせに」
「ふむ――拙者としては、先生さえその気ならと」

 シロはおもむろに制服のポケットから、小さなポーチを取り出して振って見せた。女性ならば、“もしもの備え”の為に持っておく必要があるもの――しかし、この場でそれを取り出す意味がわからない。和美は首を傾げながらも、そのポーチを受け取り、何気なく中を開いて――

「……し、シロちゃん――マジ、半端ねえッス」
「こ、これはその――いえ、確かに、正しい備えと言えるかも知れませんが!?」
「とはいえ、今は“まだ”、単なるお守りと言うか――“願掛け”のようなもので御座るよ。先生は自らを煩悩の塊などと言っている割には――まあ、あげは共々、今は地道にその牙城を崩す事に邁進するで御座る」

 一つ咳払いをして、シロはポーチをポケットに戻す。そんな彼女を見て、赤い顔の二人は、その顔を見合わせ――

「どうでも良いが、貴様ら」

 唐突に、“彼女”がそこに割り込んだ。

「貴様らは何故ここにいる? そして何を当たり前のように、人の前で聞いているこっちが恥ずかしくなるような話を延々と続けているのだ?」

 こめかみに青筋を浮かべ――なかなか本当に浮いているのを見る代物ではない――彼女らの前に座っていた、小柄な金髪の少女、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、低い声で言った。

「おや、エヴァンジェリン殿は、このような話題はお嫌いで御座ったか」
「好きだという奴が居るわけがなかろうが」
「えー、あたしは結構好きだけどなー。パルなんて“大”が付くくらい好きだろうし」
「知らん人間の前で話す類の事か! 貴様らには羞恥心というものは無いのか、この変態共め!」
「その様な事は御座らん」

 腕を振り回さんばかりのエヴァンジェリンに、シロは腕を組み――大仰に言った。

「エヴァンジェリン殿は、もはや知らぬ人間ではない。拙者らの、大事な友人では御座らぬか」
「ありゃ、ひょっとしてエヴァンジェリンさん、会話に入るタイミングを逸して寂しかったの?」
「それは――申し訳ありません。つい、私たちだけで盛り上がってしまいまして」
「……縊り殺すぞ貴様ら」

 俯いて小さく呟くエヴァンジェリンを、シロと和美が苦笑しながら宥め――それについて効果があったのかどうかはさておき、エヴァンジェリンは、魂も抜けよとばかりの大きな息を吐いて、言った。

「……それで――まあ、百歩譲って、何処で食事をしようが貴様らの勝手だ。私のプライベートを邪魔した罪は万死に値するとは言え――しかし、わざわざランチタイムに私の前を選ぶには、それなりの理由があるのだろう?」
「友人と食事を取るのに、理由が必要で御座ろうか?」
「……犬塚シロ」
「ま――今はまだ仕方ないで御座るな。和美殿、あやか殿」

 和美が小さく頷き、あやかが腕時計に目をやる。エヴァンジェリンはそれを怪訝そうに見つめていたが――

「マスター」

 背後から、彼女にとって聞き慣れた声がする。振り返れば、緑色の長髪を持った少女が、困ったような顔で立っている。彼女の“従者”――絡繰茶々丸が。

「……貴様」
「ジャストタイムですわ。さすがは絡繰さん」
「時間に正確な人って、好感度高いよね」

 エヴァンジェリンの瞳が、すうっと細められる。
 茶々丸の後ろに立っていた少年――ネギ・スプリングフィールドは、うつむき加減のまま――小さく、頭を下げた。




 時間を少し遡り、午前中の授業が終了した時のこと。ネギ・スプリングフィールドは、人通りの少ない階段の踊り場に腰掛けて、小さくため息をついていた。周囲に人間が居ないことを確認したカモが、彼の肩の上から声を掛ける。

『どうしたんでさ、兄貴』
「カモ君――どう思う? エヴァンジェリンさんの事」
『奴が余程の馬鹿じゃなけりゃ、風邪を引いたってのは嘘じゃ無さそうだが。吸血鬼が風邪を引くってのもおかしな話だが、それほどまでに麻帆良が奴に対して“縛り”をかけてるってのなら――やり方次第じゃ、希望は見える』
「そう言う事じゃないよ――最終的に、僕とエヴァンジェリンさんがぶつかる羽目になったとしても」

 結局いつもと変わらないような事を言うカモに、ネギは苦笑する。同時に、ふと思う。彼の言うことは確かにいつも極端で、自分にはなかなかうけいれられない事が多いが――程度の差はあれ、彼のあり方というのは、以前ネギが単純に考えていた“立派な魔法使い”のそれに近いのではないだろうか?
 もちろん、“立派な魔法使い”は、裏で腹黒いことを考えたりはしないだろうけれども。
 それが証拠に――“真祖の吸血鬼”“闇の福音”などと聞いて、自分は何を考えただろうか?“倒すべき悪の魔法使い”と、そう考えたのでは無かっただろうか?
 もちろん、英国紳士として、立派な魔法使いを目指す者として、“悪”の存在を許すことは出来ない。しかし――ネギは思う。“悪”とは一体何だろうか? エヴァンジェリンは、本当に“悪”であるのだろうか?

(エヴァンジェリンさんは、自分を悪の魔法使いだって、そう言ってる。悪いこともしているみたいだ。けど――)

 いけない事と知りつつかいま見てしまった彼女の心が、ネギを悩ませる。エヴァンジェリンは悪かも知れない。しかし、自分が思うような単純な“悪”とは、何かが違うのでは無いだろうか?
 こんな事を、肩の上で不思議そうな顔をしている小さな友人に言えば、またきっといい顔はしないだろう。自分でも、自分の考えを馬鹿で浅はかなものであると思う。その様なことを考えたとて、きっと答は出ない。最初から、答など無いのかも知れない。
 今の自分にしても――では、例えばこの世の全てを知る、超越的な何かが現れて、“エヴァンジェリンは悪の魔法使いではないのだ”と高らかに宣言したとすれば、果たして自分はそれを納得できるか? その回答は多分、否。

「何でエヴァンジェリンさんは、急に僕の授業に出る気になったんだろう。今までずっと、“餓鬼の話なんて聞いていられない”とか言って、姿をくらましてたのに」
『奴の考えは、俺っち達にゃわからねえ。だが、奴が普段とは違う行動を取ってるって事だけは、事実だ。それが単なる気まぐれって可能性が低い以上、警戒はするべきだろうぜ』
「気が変わって、少しは僕の授業を聞いてくれる気になった――って、そういう可能性は無いのかな」
『……俺っちだって、兄貴は十歳の癖によく頑張ってると思うがね。だけどあのエヴァンジェリンが、そんな殊勝な事を考えるとは、現段階ではとても思えねえ。第一兄貴、俺っちは何があったのか詳しくは知らねえが、一昨日、奴のところに乗り込んでいって、手痛い反撃を喰らったんだろう?』
「あれは――」

 ネギの手に、知らず力が籠もる。
 あれは、反撃などではない。怒られて、なじられて当然のことを、彼はしてしまったのだから。

「カモ君は、立派な魔法使いって何だと思う? 悪の魔法使いって、何だと思う?」
『――一言で言っちまえば、そいつが何のために魔法使いやってんのか――って、事だろうなあ。己の私利私欲のための道具として魔法を使うのが悪魔法使い。そう言う連中から人々を守るために魔法を使うのが、立派な魔法使い――って、とこかね』
「だとしたら僕は――悪の魔法使いだね。僕が魔法を使うときは、大抵、僕自身のためだ。僕自身のために魔法を使って――いろんな人に迷惑を掛けてる」
『俺っちの言葉を忘れたのかい? 兄貴は十歳の癖によく頑張ってる。俺っち自身、自分を正義だなんて事あさらさら言えねえが、それでもそう思うよ。兄貴は責任感が強いから、色々と考えちまうこともあるんだろうが――』
「他人のために魔法を使うのが、立派な魔法使い。それはわかるんだ。でも、それはきっと単純な話じゃない。誰かのためだと思って魔法を使っても、それが良い結果をもたらすとは限らない――助けた誰かの影で、別の誰かが泣いているかもしれない。魔法使いは神様じゃないから、何でもかんでも出来るわけじゃないのはわかってる。けど――」
『……百人を助けるために、一人を犠牲にする――確かにそんな戦いもあるわな。出来ればそんな場面にはお目に掛かりたくねえが。しかし兄貴。兄貴がたとえ、兄貴の親父さん――“英雄”ナギ・スプリングフィールドを超える魔法使いになれたところで、それは変わりゃしねえよ。人間は神様にはなれねえ。兄貴には腕が二本しかねえし――そもそも、兄貴は一人しかいねえんだしな』

 カモが目を細めて、何処か遠くを見つめる。
 ネギは思う。自分の父親は、確かに英雄だろう。色々考えてみたが、その思い自体が変わるわけではない。エヴァンジェリンの事だって――何かの事情があるのだろうとは思う。

(――あの記憶の中の――あの日のエヴァンジェリンさん。あれは――もう一人の、僕だ)

 この二日で、ネギはそう思うようになっていた。
 エヴァンジェリンの発した言葉、ナギ・スプリングフィールドが好きであった――その“好き”の意味合いは、まだ幼い彼には理解しがたい。親愛であるかも知れないし、恋心であるかも知れない。
 自分は父親によって助けられ、エヴァンジェリンは突き放された。けれどその瞬間――自分と彼女は、同じ人間を、同じ思いのこもった目線で見ていた――そんな気がするのだ。心を覗く魔法は、相手の心と自分の心の境界線を曖昧にする。だから、そう感じられただけ――そう言ってしまえば、それまでなのだけれど。

(絶望の中で、たった一つの希望を見つけて、それに憧れた――もう一人の、僕)

 それをして、自分は彼女が理解できるとは思わない。けれど、ただその一点のみにおいて、ネギ・スプリングフィールドと、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、理解しあえる。あくまで、ただその一点のみにおいて――それは良いことなのだろうか、悪いことなのだろうか。
 ネギの思考に、答えは出ない。

『Take it easy』
「……Thanks」

 ごくシンプルに――そう言う意味では英語の方が良いと判断したのだろうか。小さく呟いたカモの言葉に、ネギも小さく返した。もちろん今のネギが、「気楽に行け」などと言われて、「はい」と応えられる筈がないのは、カモも理解しているだろうが――

「おーい、ネギくーん」

 遠くからの自分を呼ぶ声に顔を上げてみれば、日本人形のような長い黒髪を持つ少女――近衛木乃香が、自分に向けて手を振っていた。が――

『……兄貴』
「わかってる」

 彼女の隣には、既に自分の保護者となりつつある少女、神楽坂明日菜と――緑色の長髪を風にたなびかせる、無機質な瞳の少女――絡繰茶々丸が立っていた。




「まずは――先日の非礼をお詫びします、エヴァンジェリンさん」
「えらく遅い謝罪だが――この場で縊り殺してやることだけは勘弁してやろう。決して許してやろうというつもりもないがな」

 ネギはエヴァンジェリンに向かって頭を下げ――エヴァンジェリンは小さく鼻を鳴らして、それに応える。その言いように、明日菜は思うところがあったようだったが、彼女の視線に気がついたシロが、それを制した。

「こう見えて、エヴァンジェリン殿は素直では御座らん故に」
「世間で言うツンデレって奴よ」
「……犬塚シロ、朝倉和美――貴様らから殺してやろうか?」

 あまりと言えばあまりな言葉に、エヴァンジェリンの口元が引きつる。そんな様子を、あやかと木乃香は微笑ましく見守った。事情を知らない彼女らでは、無理もない。

「エヴァンジェリンさん――もう授業をサボったりするのは、やめてもらえませんか?」

 ネギが言った。その言葉には、言葉以外の意味が含まれている――それを感じ取ったエヴァンジェリンは当然、小さく笑って応える。

「教師としては、とても及第点はやれんな。もし私の担任が新田先生なら、“もう授業をサボるな”どころではない。私の首根っこを引っつかんで、教室に連れて行くだろう」
「まーまー、エヴァンジェリンさんも。近頃のキョーイクは厳しいんだよ? うちの学校は何かと甘いから、新田先生みたいなのが元気にやってられるけど、あれが一発でクビになっちゃう学校だって、世の中にはあるんだから」
「それを理由に尻込みをする人間など、私は教師とは認めん」
「厳しいねえ」

 腕を組んで言うエヴァンジェリンに、和美は肩をすくめた。
 今のところ、エヴァンジェリンの言っている事は正論だ。近頃、教師と生徒の接し方は、周りの環境もあってなにかと難しいと聞く。“鬼の新田”の異名を取る、新田教師のようなやり方も、“教育熱心”とすら受け止められない事もあるだろう。
しかし単純に、平気で褒められない事をする生徒を叱れない教師は、本来教師としてはやっていけない。

「……はい、確かに僕は、教師としては未熟です。ですから、これから成長していこうと思います」
「それは――」
「マクダウェルさん、それ以上の事をネギ先生に求めるのは酷ですわよ。ネギ先生は頑張っておられます。考えてもご覧なさい。いくらオックスフォードを飛び級で卒業した天才児とはいえ、ネギ先生はただの十歳。つまりそれは、私たちよりも三分の一近く、生きる経験が少ないと言うことでもあるのです。私たちの年頃にあっての人生の三分の一――軽いものだと思いますか?」
「いえ――委員長さん、僕はそれを理由にしたくはありません。僕が天才かどうかはさておき――教師をすることを決めたのは、結局僕自身なんです」

 結果的に、クラスの人間には助けられてばかりだけれど、と、ネギは言った。和美やあやかの脳裏に、三年生進級直前のテストの事が思い返される。あの時は、馬鹿レンジャーを巻き込んでネギが行方不明になったと大騒ぎだったが――結果として、二年A組は試験トップとなり、ネギは教師を続けられる事となった。

「でも、それはやっぱり、ネギ君が頑張っとるからやと思うえ? うち、ネギ君が来てから、ちょっとやけど英語の成績、良うなったもんなあ」

 柔らかな微笑みを浮かべながら木乃香が言えば、その隣で明日菜が憮然と腕を組んでいるのが見える。かくいう彼女も、ネギがやって来てから、エクノプラン――地面効果機並の低空飛行を続けていた成績が、僅かではあるが上昇の兆しを見せている。これから失速しなければ、の、話ではあっても。
 エヴァンジェリンは鼻を――鳴らそうとしたが、鼻が詰まって上手く行かず、不機嫌そうな顔をして鼻をかむ。
 彼女は、決して愉快な気分とは言えなかった。聞けば――茶々丸がいつも、“機械のような”正確さでお茶を買いに行くところを、明日菜と木乃香に待ち伏せされたらしい。ネギ・スプリングフィールドを、自分達の“昼食会”に引っ張り込むために。
 おおかたそれを考えたのはシロか和美あたりで、明日菜はともかく木乃香は、二つ返事でそれに賛同したのだろう。魔法使いのエリート一家に生を受けながら、魔法の事を全く知らずに育った少女――思わず、暗い笑みがこぼれそうになる。彼女が“闇の福音”の事を知っていて尚、同じ事が出来ただろうか?
 つまり、シロ、和美、あやかの三人が、自分の前で延々馬鹿話を続けていたのは、このための布石だったのっか――いや、この連中の事だから、きっとそれほど深い考えは無いのだろうと、エヴァンジェリンは結論づける。

「――今日は気まぐれを起こしてみたものの、私一人が貴様の授業に出ようが出まいが、貴様の評価が変わるわけでもないだろう。むしろ問題児など、クラスには居ない方が良いのではないか? 腐ったミカンがどうこう言うドラマもあったな、そう言えば」
「エヴァンジェリンさん、あんた一体何歳よ? いやまあ、リメイクとかもあったし、私も知ってはいるけどさ、あのドラマ」
「ふん――実は私は“数百年を生きた吸血鬼だ”――とでも言えば、貴様は納得するか?」

 ネギと明日菜――そしてシロの表情が微妙に変化したのを、エヴァンジェリンは見逃さない。しかし、果たして――

「うーん……微妙――」
「そう言えばマクダウェルさんのような、可愛らしい女の子の吸血鬼が出てくる映画もありましたが――」
「せやなあ、エヴァンジェリンさんは、吸血鬼、言うより――せや、妖精やなあ」

 事情を知らない三人の意見と言えば、その様なものである。それは果たして、良いことなのか、悪いことなのか。

「エヴァンジェリン殿が吸血鬼かどうかはさておき」
「おっと、そこの犬塚シロは、実は狼人間だぞ? 迂闊に背中を見せれば、どうなるかわかったものではない」

 意地の悪い笑みを浮かべながら言うエヴァンジェリンに――あやかが苦笑する。

「マクダウェルさん、今日はハロウィンでは無いですよ。吸血鬼に狼人間――では、明日菜さんあたりは――ターボ婆ですかね?」
「何で私だけ都市伝説なのよ!? あやかこそアレじゃないの? 男の人にエッチな事をする怪物」
「私はそれほど軽い女では御座いません事よ」
「シロちゃんは、狼って言うより、可愛いワンちゃんやなあ」
「……い、いや拙者は――その、出来れば狼の方が。では木乃香殿は、座敷童で御座ろうかな。何というか、その様な雰囲気が」
「あー、木乃香はそんな感じがするよね。あたしは何だろうな?」
「――んー、あれや――“天井なめ”?」
「その発想はどっから湧いて出たのよ木乃香!?」

 途端にくだらないことで喚き始めた少女達を尻目に、エヴァンジェリンはネギに問う。

「ともかく――貴様は、私に真面目な生徒であってほしい。だが、私はそれをよしとしない。貴様と私の間には、意見の相違があり――そして、どれだけ話したところで、それは平行線だ。それでも貴様は、私に歩み寄ろうとするのか?」
「……それが正しいのかはわかりません。ですが――僕は立派な――立派な、教師を目指したいんです」
「情けない男だな。どうせならそれくらいのことは、胸を張ったらどうだ? 自分は立派な教師だと――それが、立派な教師を“目指す”ですらない。“目指したい”――その程度の気持ちで叶えられるほど、教師というのは安い仕事か?」

 彼女はネギの目を見据える。彼の瞳には――あきらかに、迷いがある。それは仕方のない事であろうとは思うが――自分の相手をするには、役者として足りない。

「では、具体的にはどうするのだ?」
「あなたが悪いことをしようとするなら、止めて見せます。教師として」
「貴様に止められた程度で、私が反省するとでも思うのか? 言ったはずだ。私は貴様の説く理想などをよしとはしない。貴様が何度私を止め、何度私に説教をしようが――日本にはいい諺がある。糠に釘、暖簾に腕押し、豆腐に鎹――」
「……It’s like water off a duck’s back」
「そう、意味のない事の喩えだ。ましてや糠に打ち込むその釘を、“どのようなものにするか”と迷っているようではな」

 ぴくりと、ネギの肩が震えた。彼の肩に乗る白いオコジョは、何か言いたげにエヴァンジェリンを睨むが――当然、一般人の居るこの場所で、彼は喋る事が出来ない。

「……僕は、僕が出来るだけの事をします」
「それしか出来ない、の、間違いだろうが。おまけに、その“出来るだけの事”と言うことに、具体的なプランはあるのか?」
「――考えます。そして、何度でも向かい合います。エヴァンジェリンさん。あなたと」
「……」
「聞かせてください。あなたは一体、何を求めているのですか? あなたは一体、何を思っているのですか?」

 ネギは迷った。今も迷っている。答えの出ない疑問が、彼の中にある――ならば、と、彼は問う。自分一人で考えても答の出ない問い、その回答を、相手に求める為に。それは――きっと、少し前のネギならば、出来なかった事だろう。
 それは成長と呼べる程度のものなのか、あるいは――エヴァンジェリンは、小さく笑う。

「貴様にそれを受け止める度量があるのか?」
「わからない。けれど、受け止めようとすることは出来る筈です」
「――ならば、“受け止めてみろ”ネギ・スプリングフィールド。ただし、私は無駄が嫌いだ。受け止めきれなかったときは――相応の代償を覚悟しろ。貴様が二度と、私の前に立とうなどと思えないようになる、その程度の代償はな」
「……はい」

 迷いを含んだ瞳で、ネギは頷いた。

「その程度の事を言うのに、えらく時間が掛かったものだな――ネギ“先生”」
「すいませんでした――エヴァンジェリンさん」

 茶々丸から受け取ったお茶で喉を潤し――知らず立ち上がっていたエヴァンジェリンは、その場に腰を下ろした。

「あんたはいつも、私に喧嘩を売ってるわけ? あやか」
「あら。私はそれほど暇をもてあましてはいませんわ」
「――とてもそうは見えないわねえ」
「さすがは馬鹿レンジャーの馬鹿レッド。人を見る目もありませんのね」
「おー! ターボ婆とサキュバスの対決だ!」
「黙ってろ“天井なめ”!」
「何でやろなあ、ジャンルが違いすぎて勝負にならへん気がするのに――リアルに想像できてまうのは」
「それはきっと、あのお二人だからであろう――それ以外の理由が無い故に」

 少女達の喧噪を背景に、“立派な魔法使い”を目指す少年と、“悪の魔法使い”の戦いの火ぶたが、ここに切って落とされた。










「川の字」「小の字」のくだりは、
気づいているお方も多いとは思いますが、「らき☆すた」からいただきました。

上手いとは思うんだけど――あのアニメ、笑いどころがわからないから、
僕としてはあまり楽しめない。
あの作品の楽しみ方って何なんだろう?
「あずまんが大王」は楽しめたのに、不思議だ。

まあ……「あずまんが大王」アニメ版と共通して言える事ですが、
あのキンキンのアニメ声だけはどうにかならんか。
あれで見る気がかなりそがれると言うのは、僕だけでは無いはず。

そして――

被告人スパイク。あなたは今が審判中だとわかっていますか?
――はい。しかし、シロへの情熱は捨てられません。

――被告人を拘束しなさい。
くっ! しかし、しかしシロへの情熱はっ!!



[7033] 麻帆良学園都市の日々・少女の出陣
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/04/06 18:28
 何故、そんなことをする?
 ――ははっ、あぶないからさ。

 このごろ何かをするのに、いちいち理由を探している自分が好きではない。




「えーと――ハンカチは持った。適当だけど、髪の毛もセットした――唯一服装が、いつものライダースだってのがアレだけど、仕方ないよね。もともと美神さんの休暇中、ずっとこっちにいるつもりでもなかったし」

 横島家の洗面台の前で、レザージャケットの襟元を整えながら、藪守ケイは一人呟く。一つ咳払いをしてから、鏡に向かって軽くポーズを――

「よう、えらく楽しそうだな、色男」
「わあっ!?」

 突然声を掛けられて、ケイは文字通りに飛び上がった。心臓の辺りを押さえながら振り返ってみると、洗面所の入り口に、形容しがたい表情を浮かべたこの家の主――横島忠夫が立っている。

「な、何だ。横島にーちゃん……驚かさないでよ」
「おーおー、気合いを入れてめかし込んじまってまあ。お前とは妙な縁で長い付き合いになるが、お前がヘアワックスなんて使ってるところは初めて見たぞ。これこれそこの藪守さんよ。そんなに気取って何処へ行く?」
「べ、別にいいじゃないか――横島にーちゃんには関係ないよ」
「楓ちゃんのところか?」

 腕を組んで言う横島の言葉に――ケイの肩が跳ねた。それを見た横島は仏頂面のまま、盛大にため息をつく。

「大概にしとけよ」
「な、何がだよ。僕が何処に行って誰と会おうが、にーちゃんには――」
「そう言うこと言ってんじゃねーよ。確かにお前が誰と会おうが――本音を言えば、脳みその血管が吹っ飛ぶくらいにムカつくが――まあ、俺には関係ねえ。シロやあげはと違って、お前の保護者は俺じゃねえしな」
「やめてよ。僕だってもう子供じゃないんだ。保護者なんて――」
「美衣さんの前ではそう言うこと言うなよ。あの人、あれで今でもお前のこと心配してんだから」

 とにかく、と、横島は言い、軽く気合いを入れて、ケイに背を向ける。

「俺は、お前が何でそうコソコソしてんのかが気になっただけだ。いいじゃねえか。別にやましいことはねーんだろ? それこそ中学生じゃあるまいし、何で堂々と出て行かねえんだよ」
「……にーちゃんに絡まれると思ったからだよ」
「ふん、美形は俺の敵だからな。モテる男に優しくしてやるような趣味はねえ」

 その横島にこそ、ケイは言いたいことが色々とあるが――さりとて、ここでわざわざ墓穴を掘るような趣味はない。その程度のは成長は、彼もしているつもりであった。あくまで、“つもり”ではあったとしても。

「――楓さんとは、本当に何でもないよ。ただ、彼女――強くなりたいって思いが強すぎて、何かの壁にブチ当たってるみたいでさ」
「そういや忘れてたな。あの娘が女・雪之丞って事を」
「……それ聞いたら、伊達さんも弓さんも怒るんじゃない? ああ、今はどっちも、伊達――」
「その先を言うな。俺はあの衝撃的事実を、記憶から消したくて仕方がないんだ」

 ぐっと拳を握りしめ、横島は天井を仰ぐ。全くこの人は――と、ケイの顔に苦笑が浮かぶ。

「とにかく。人と会うのにコソコソ出て行くような奴は信用ならん。それがお前のような西条弐号機なら尚更だ。本物の西条なら既に殴りかかってるぞ」
「ごめん。それじゃあ、横島にーちゃん。僕、楓さんの“相談”に乗ってくるよ」
「よし――あと、一つだけ聞いておく」
「何?」
「……貴様いつから、あの娘の事を“楓さん”なんて呼ぶようになりやがった!?」
「うっ……に、にーちゃんだって、彼女の事を“ちゃん”づけで――僕だってそんなに馴れ馴れしくしてないのに!」
「馬鹿を言うな。あの娘はシロのクラスメイトだぞ。別に他意は――」

 あまりと言えばあまりに馬鹿馬鹿しい、男同士の戦いが幕を開けようとした瞬間に――廊下に据えられた電話が鳴った。少女二人が学校からまだ帰ってきていない今、この家には横島とケイしかいない。
 果たしてケイは、この泥沼から抜け出すために、素早く横島の脇を通り過ぎた。

「あ、僕が出るよ」

 横島は足が悪い。だから、自分が代わりに電話に出てやる事くらい、お節介とは言わないだろう。そう、これは純粋な善意だ。喩え背後から、逃げられたか、などと呟く声が聞こえたとしても――

「はい、横島です」

 その声を振り切るように、ケイは受話器を耳に当てる。

「――あ、おばさん?」

 その言葉に、今度は横島の背中が跳ね上がった。それを視界の端に捕らえて――ケイの唇の端が、微妙につり上がる。今のところ、ケイがそう呼ぶ人間は、一人しかいない。

「ああ、僕です。ケイです――――はい、美神さんが、精霊石の買い付けついでに、休暇でヨーロッパに行っちゃったんで――――はい、元気ですよ。みんなも元気です――――ええ、にーちゃんならここに――今、代わりますね」

 にんまりとした顔のまま、ケイは振り返り――受話器を振って見せた。何とも言えない――しかし先ほどとは全く違うベクトルで“何とも言えない”表情を浮かべている、横島に向けて。

「にーちゃん、電話だよ――百合子おばさんから」




 麻帆良学園都市は、学校と、それを構成する人々から構成される、いわば“学園国家”である――この麻帆良市に目を向けてみれば、あるいは時に、そういう謳い文句を聞くことがあるかも知れない。
 既に、一般の“学校”からはかけ離れた学生達の自治に始まり、日本とは思えない独特の町並みから、数々の名物まで、この町は、日本の一都市としてはあまりに特異な顔を、いくつも持っている。
 その一端に、この町独自のインフラがある。
 麻帆良市に電力を供給しているのは、主に関東の大手電力会社であるが、麻帆良市の郊外とはそれとは別に、研究用の発電プラントが多く存在している。もとは、発電効率や発電方法の研究施設として作られたものであるが、現在はそれを基盤とするインフラ――これも例によって、学生を主体に作られたものである――が整備されている。
 果たしてこの麻帆良市の電力事情――消費電力や各世帯の電気代、電気に端を発する通信など――は、関東の他の都市と比べても、かなり優れたものとなっている。
 しかし一つの街だけで、独自のシステムを維持するというのは存外に大変な事であり――当然、普通の街ではあり得ないような不便も、麻帆良市には存在する。
 そう言ったものの一つが、通称“麻帆良大停電”。
 電力インフラのメンテナンスのために、年に二回、数時間に渡り、病院や警察、消防などの特別な施設を除く――学校から一般家庭に至るまで、街全体の電力供給がストップする。その一度目が丁度、この週末なのだ。
 それは確かに不便なことなのだが――果たして、それはそれで、その時期の麻帆良市はにぎわっている。
 停電に備えて非常用品を買い求める一般人や、大あわてで研究データのバックアップや、非常電源の確保に勤しむ学生。信号の機能停止による事故を防ぐために、町中を駆け回る警察官に、万が一の時に備えてじっと待機する消防関係者。
 そして――

「今日、近所のスーパーでこんなのを売っていたから、買ってきたのですよ。何でも、炎の色が、燃えるに従って七色に変化する、その名も“レインボー非常蝋燭”と」
「――いや、果たしてそれは、停電時の照明として適当なので御座るか?」
「あとは停電と言えばやはりこれです。こっちがご飯の缶で、こっちはおでんの缶――何でも自衛隊が使っているのと同じものらしいですよ。ああもう、いざというときに食べる缶詰って、何であんなに美味しいんでしょうか」
「――停止するのは電気だけであって、ガスは普通に使えるので御座るが」
「真っ暗になってしまったら、お風呂とかも不便ですよね。明るいうちに入っちゃいましょう。と言うわけで、ヨコシマ、時間節約のために一緒に――」
「寝言は寝て言うで御座るよ、あげは。まずは少し落ち着け。して、一度深呼吸を」

 突然の停電というならばまだしも、前もってこの町が、夜の暗闇に包まれる事がわかっているとなれば――それを一種のお祭りと勘違いする学生も、また大勢いる。何でも昨年は、文字通り“停電祭り”と称して、麻帆良学園都市のあちらこちらで騒ぎを起こした学生達が、大勢補導されたとか。
 つまりは横島家にも、そう言ったお祭り好きの学生――その予備軍が存在していた。

「先生からも、何かあげはに言ってやって下され」
「うーん……まあ、シロの気持ちもわかるんだけどな。俺もあげはくらいの時は、台風や何やで停電する度に、何が楽しいのかはしゃぎ回って、親父とお袋に強制的に黙らされてたクチだからなあ」
「……なれば、その経験を持つ先生こそが、敢えて厳しく言ってやらねば」
「あー、あげは」

 腕を組んで言うシロに、横島は言いにくそうに、あげはに視線を移し――

「……」
「……」

 期待に満ちた瞳で彼を見上げる彼女と、真っ直ぐに視線が交錯する。

「すまん、シロ――俺には言えん」
「使えんで御座るな、全く」
「面目ない――ま、まああれだ。たまにはみんなで缶詰でも突こうぜ。キャンプみたいで楽しいだろ?」

 目線を彷徨わせながら、取り繕うように言う横島に、シロは小さくため息をつく。

「全く――娘に甘い父親で御座るなあ。ま、その様な夫に代わり、敢えて娘に嫌われるのもまた、妻の役目」
「勝手に人の人生設計を狂わせるんじゃねえ」
「どうせ先生一人に任せたところで、その“人生設計”とやらは、ろくな者では御座らぬ故に」
「……お前も言うようになったな」
「ま――あげはの言うとおり、停電前に風呂を済ませてしまうのが宜しかろう。拙者としては、暗闇の中に蝋燭でも灯して、家族皆で仲良く湯に浸かると言うのも――お背中を流しますよって」
「いらん! つうかしつこいぞお前!」

 苦悶の表情でそっぽを向く横島に、シロは口元に手を当て、小さく笑ってみせる。そんな二人を前に、あげはは何だか置いてけぼりを食ったような気がして気に入らず、頬を膨らませて、横島の腰の辺りにしがみつく。
 当然そのような様子を見せられて、シロが黙っている筈もなく――

「だからやめろっての! シロも張り合うな! お前らは子供か!」
「子供です」
「子供で御座るよ」
「いつもは子供扱いするなとか言っておきながら、都合の良いときだけ子供を強調するよな、お前ら――そう言えば、ケイはどうした?」

 横島が仕事を終えて居間に戻り、シロとあげはが帰宅した時には既に居なかった青年の事を、彼は今更ながらに思い出した。単に話題の矛先を逸らしただけとも言う。横島忠夫という男は、言葉とは裏腹に、決して男性の知り合いに冷たいと言うわけではないが――それでも何もなければ、身内の男の扱いなど、この程度であった。

「これから起こるであろうことに、付き合っていられないと――一人出掛けたで御座るよ」
「賢明な判断ですね」
「待てやお前ら。停電に乗じて一体何をする気だ?」
「知れたことです。暗闇に包まれる街、何かの拍子に起こる、不意のハプニング」
「その様な状況下で、暗闇に閉ざされた男と女――」
「前もって起こることがわかっている事はな、ハプニングとは言わん――頼む、頼むからもう勘弁してくれ。俺に慣れない突っ込みキャラクターなんてやらせるんじゃねえよ」

 いつの間にか、げんなりした横島を見てハイタッチを交わしているシロとあげはを見遣り――彼は更に一つ、大きくため息をついた。

「んで――いつからだっけ? 停電。冗談はさておき、さっさとメシ食って風呂に入って置こうぜ」
「午後七時から、日付を跨いで翌日の午前三時までと聞いておる故――今から支度をすれば問題は無いで御座ろう」

 シロは小さく笑って、着物の袖をまくり上げた。




 月の光のみが照らす、薄暗い部屋。しかしそれだけの光があれば、彼女にとってこの部屋は真昼も代わらない。人間でありながら、野生の獣である――その二つの力を併せ持つ彼女の瞳は、人間のように豊かな色彩を捕らえつつも、夜の闇を深く見通す事も出来る。
 淀みのない仕草で、箪笥の引き出しを開ける。中から出てきたのは、白地に、淡い色で桜の花びらが染め抜かれた着物。下着のみを身につけた格好で、それにまず袖を通す。前を会わせて下帯で固定し、形を整える。
 続いて、かなりの丈の袴――いわゆる“大正袴”とでも言うべきそれを身につける。久しく身につけていない代物ではあったが、基本は和装のそれと代わらない。ある程度の技術が必要な飾り帯を必要としないだけ、普段からそう言った帯も結び慣れた彼女にとっては、楽なものである。
 舞い散る桜の花びらを思わせる、長めの袖を、襷で止める。一息で肩に回し、左の肩で、小気味の良い音と共に、綺麗な結び目を作る。
 いつもは流れのままに、緩く三つ編みにしている白銀の長髪を、後頭部の高い位置でひとまとめにして――彼女、犬塚シロは、小さく息を吐いた。
 午後十一時――麻帆良大停電が始まって、既に四時間。この家の中に、彼女以外に動くものはいない。あげはは既にはしゃぎ疲れて眠ってしまい、横島も既に、彼女と共に眠りの中だ。それを確認してから――シロは、形容しがたい未練を覚えつつも、横島の隣からそっと抜け出して、自分の部屋に戻ってくると、着替えを始めたのだった。
 ここのところ――全くと言っていいほど袖を通さなかった、その服装に。
 それは、彼女にとって一つの記号。かつて彼女がいた場所で、黒髪の少女がいつも、“そう言うとき”には巫女の装束に身を包んでいたように。
 シロは吐き出した息が、部屋の空気に溶けていくのを感じながら、今度は居間に向かう。
 横島家の今は、悪く言えば混沌とした空間である。床は畳で卓袱台が置かれているところは、何とも古めかしい日本の空間であるが――その片隅に置かれた、新型の液晶テレビが載る台は、金属を削りだした無骨なもので、何故かそのあちらこちらに縫いぐるみが飾られている。
 落ち着く色合いの壁に目を向けてみれば、洋風絵画と掛け軸が肩を並べ、部屋の隅には、造花の入ったプランター。違い棚には飛行機のプラモデル、その上には何故か梟の縫いぐるみ。
 果たして、家人が思い思いに、自分の趣味を持ち寄った結果である。日本家屋に拘りを持つ人間や、日本にかぶれた外国人が目を回しそうな光景ではあるが――ここは自分達の家なのだ。何を遠慮することがあろうだろうか? シロは、この混沌とした空間が、とても好きだった。
 宵闇のその見慣れた空間を、シロは進む。そして、床の間の前で立ち止まる。
 床の間には、不思議な掛け軸が飾られている。淡い色調で描かれた、柳の木の下に立つ、儚げな人物。江戸時代の幽霊画を思わせるが、何処か暖かみのある不思議な絵が描かれた掛け軸である。
 そしてその掛け軸の下には、簡素な木の台に載せられた――一振りの、日本刀。反りはそれほど深くないが、身幅が厚く重厚で、かなりの長さがある。床の間にアンティークとして飾るには、少々不似合いな、無骨な古刀であった。
 シロはすうっと、深呼吸をして、その日本刀に手を伸ばし――

「どーする気だよ、そんなもん」

 突然掛けられた声に、シロの背中が跳ね上がった。弾かれるように振り返ってみれば、闇夜の中に浮かび上がる――彼女とは質の違う、真白い髪。
 この家の主にして、シロの思い人――横島忠夫が、柱にもたれ掛かって立っていた。

「……まあ、そいつは元々お前の里のもんだけどさ。俺にはよくわからんが、結構な値打ちモノなんだろ? こっちに持ち出して来たときに、美神さんが歯ぎしりしてたぞ」
「――一説には、備前長船兼光の作で――世に出なかったものと言われておるで御座るよ。“八房”とは比べようもないとは言え――あれはいわば妖気の塊。純粋な日本刀としての出来では、恐らく里一番の逸品で御座る」
「まったく――元服の祝いだか何だか知らないが、このご時世に、そんな大層なもんを渡されてもどうしろと――大体、元服って男に対して使う言葉じゃねえのか?」
「江戸時代以降は、女性にも使うと聞いたことが――そもそも拙者らの里は、男とか女とか言う以前に、まず強い侍であれと、そういう場所で御座るからなあ」
「悪い連中じゃ無いんだがな。やっぱり――出来ればあんまり行きたい場所じゃねえわ」
「そう申されるな。拙者、今は亡き両親に誓ったので御座る。先生と並んで白無垢に身を包み――両親の墓前に、嫁入りを報告すると」
「言ってろ」

 横島は苦笑して――シロに向き直る。

「で、だ。俺は、これはお前や明日菜ちゃんや、ネギ“先生”の問題だと思って口出しをしなかったが――お前が首を突っ込んでる厄介事ってのは、そんな赤穂浪士の討ち入りみたいな真似が必要な程に、物騒な代物だったのか?」
「先生、赤穂浪士は無いで御座ろう? 確かに拙者、侍としてあの方々には一種の憧れを持つとは言え――この“ぷりちー”な格好を指して」
「うむ。やっぱり大正袴が絵になるのは高校生からだな」
「酷いで御座る」

 シロは頬を膨らませて、横島を見つめる。

「……なんだ? 何か言いたいことがあるのか?」
「……先生こそ、それ以上何も聞かんので御座るか?」
「今更と言えば――今更だしな」

 もう苦笑いしか浮かばない――と言って、横島は肩をすくめる。彼が生きてきたこれまでの人生を考えれば、刀を持って揉め事に首を突っ込みに行くことくらい、どうと言うことはない。

「くそう……そんな風に考えてしまう自分が嫌になる。日本刀持ってカチ込みだって? そいつは一体、何処のヤクザ屋さんの話だよ。俺は何処かの誰かと違って、基本的に平和主義なんだよ。美人の嫁さん貰って、ゆるーい生活が送りたいわけだよ。わかるか?」

 シロは無言で自分を指さした。何かをねだるような視線が、横島のそれと交錯する。

「……お前を嫁にしたら、今以上にトラブルが舞い込んできそうな気がする」
「気のせいで御座るよ」
「お前、今の自分の格好わかってるか?」

 再び苦笑いを浮かべ――横島は言った。

「大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫で御座るよ」
「日本刀持って?」
「日本刀持って」
「魔法が乱れ飛ぶファンタジーの世界に?」
「ファンタジーの世界に――先生、ご存じで御座ったか?」
「何度も言うが、お前らが直面してることまでは知らねーよ。聞くつもりも無いって言ったろ? ただまあ、あのカモだかネギだか言う奴は“魔法使い”だ。麻帆良に来るって時に、魔鈴さんからも忠告されてるし、それに――」

 そこで、彼は不自然に言葉を切る。明らかに、口を滑らせた、と言う風な様子だった。
 シロは、彼が何を言おうとしたのか、気にならないわけではない。しかし自分の方も、今回の諍いに、横島を巻き込む意志がない以上、自分だけ深く突っ込んだことは聞けない。

「本当に、大丈夫なんだろうな?」

 何が、とは言わない。けれど、その言葉に込められた多くの意味を、シロはきちんと受け取った。

「絶対に、大丈夫で御座る」
「よし」

 彼はその言葉を聞いて、小さく頷く。

「……なんかありそうだったら、俺が突っ込んでいくからそのつもりでな」
「な――!?」

 その言葉を聞いて、シロの顔が驚愕に彩られる。
 彼が自分を心配するのはわかる。
 ネギとエヴァンジェリンはきっと大丈夫だと――根拠のない、しかし強い確信も、自分の中にある。けれどその言葉は、シロの心を大きく揺さぶった。

「お、おやめ下され! 先生は――」
「“大丈夫”なんだろ? なら、そんな心配する必要もねーだろ」

 横島はそう言って、意地の悪そうな笑みを浮かべる。シロは何時しか――自分が、彼の袖を掴んでいた事に気がついた。細い指に、強い力が込められる。

「……先生は、厄介事が嫌いな平和主義者で、痛いのも怖いのも嫌なのでは御座らぬか?」
「その通りだよ。自分が生き延びるためだったら、ウンコだって食ってやんよ」
「ならば、その様な先生が、このような――」
「だって、“大丈夫”なんだろう? だったら最初から、俺が出る幕はねーだろ。ただまあ、俺はお前の保護者なわけだよ。わかる? 中学生の娘さんが頑張ってるってのに、家で寝っ転がってる親父ってのには、俺はなりたくないんでね」
「拙者は先生の娘では御座らん。未来の妻で御座る」
「ああそうかい。だったら余計に、フィアンセの危機には駆けつけなきゃな?」

 横島はそう言ってウインクをし――そのまま――

「……だあああっ! 痒い! むず痒い!! もう我慢出来ねえ! 俺は一体誰だっての!? こんな気持ちの悪いキャラクターは、西条の初号機と弐号機に任せるべきだろうがっ!? シロなんかに向かって何言ってんだよ俺ぇえええっ!?」

 もの凄い勢いで床に倒れ込み、そのままごろごろと、廊下を転げ回る。本当に痒いわけでもなかろうが、血が出るほどに全身をかきむしりながら。

「拙者としてはもう少し続けて欲しかったで御座るが」
「貴様の都合なんざ知るかっ! ああもう死ね! 死んでしまえ五秒前の俺! 何が“フィアンセ”だ、吐き気がする!」
「そうで御座るか、拙者は先生の婚約者で御座るか――先生――幸せとはかくも軽いものか。たった一言で、今の拙者は世界一幸せであると確信できる。拙者は何と単純で、幸せとはかように近くにあり――されど――ああ、先生! 愛しているで御座るよ!」
「やかましい! 忘れろ! 速やかに忘れろ――こ、こらっ! 何をする! 離せ! 顔を、顔を舐めるなっ!! やめてっ! 久しぶりのこの感触がっ――癖になる!――アッ――!!」




「では先生――行ってくるで御座る。拙者のことなら心配は要らぬ故、くれぐれも早まりますな」

 大正袴に合わせるようなそれとは微妙に違う、無骨で重厚なブーツを履き、刀を帯に差し、下げ緒で固定しながら、シロは玄関先で横島に言った――その肌は心なしか微妙に上気し、艶を増しているように見える。

「……」

 当の横島はと言えば――何故か微妙に着衣が乱れており、ボタンの引きちぎられた胸元を押さえながら、柱の影から鋭い目線でシロを睨む。

「申し訳御座らん、あまりの嬉しさに、拙者思わず我を忘れて――今は反省している」
「嘘だろ」
「半分くらいは。正直、ネギ先生は放っておいてもどうにかなる気がするので、このまま先生とゴールインしてしまおうかと思ったで御座るが――まあ、無理矢理というのは良くないよって」
「出来れば飛びかかる前にそれに気がついて欲しかったんだが」
「ふふっ――先生にだけは言われたくないで御座るよ――“永遠の煩悩少年”殿」
「一緒にすんなっ! さっさと行っちまえ、“春先の発情少女”め!」

 歯を剥き出しにして、横島はシロを追い払うような仕草をする。それに応えて彼女は、「きゃー」などとわざとらしい悲鳴を上げながら、玄関から出て行った。
 たたらを踏むような足音が、軽快な駆け足に変わり――だんだんと遠ざかっていくのを聞きながら、横島は小さく息を吐く。

「……まあ――まるっきり放置ってわけにも、いかねーか――ふんっ!」

 まるで自分のものでは無いようにすら感じられる脚に力を込め、横島は立ち上がる。
 かつて――美神令子に、世界最高とも言われるゴースト・スイーパーと互角に渡り合った事さえある彼の“霊感”は、しっかりとそれを捕らえていた。
 氷が肌に触れたような、ぞっとするような冷たさと、わけもなく逃げ出してしまいたくなるような、圧倒的な迄のプレッシャー――いつか親友の故郷で感じたのと同じ――しかし、あの時とは比べものにならない程の存在感を持った気配が、麻帆良学園都市の中心部で、一気に膨れあがった事を。











冒頭の台詞は、僕の大好きなバイク漫画「キリン」(東本昌平著)から。
一部改編。
なにかをしてやるぞ! って気持ちにね、きっと理由なんていらないんです。
そうじゃなかったらネギ君は、きっと立ち上がれなかった。

今回は、シロの出撃。
んー……色々と課題を残す結果にはなりましたね。
以前の話同様、改訂候補に入れておこうかと。
次回、ネギ君も出撃予定です。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・少年の出陣
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/04/13 02:38
 偉そうな事を言うつもりなんてない。自分が絶対に正しいとも思わない。
 けれど自分が正しいと思わない事を、他人に語れる筈もない。

 だったら口をつぐんでいろと、誰かが言った。
 それではあなたと話せない、と、誰かが応えた。




「藪守殿は――本当に魚が好きなのでござるな」
「え? あ、いや……うん、まあね」

 何か微笑ましいものを見ているような――そんな声を掛けられて、岩魚の串にかぶりついていた藪守ケイは、顔を上げた。見れば、たき火を挟んで自分に向かい合う少女――長瀬楓が、柔らかな笑みを浮かべてこちらを見つめている。

「何でそう思ったの?」
「何故と言われても――まさに至福という表情を浮かべていたので」
「はは――顔に出やすいんだよね、僕」
「悪いことではござらんよ。少なくとも拙者はそう思う」

 自分よりいくつか年下のこの少女の目線が、妙に気恥ずかしくて、ケイは思わず頭を掻く。自分はどんな表情で、魚の塩焼きにがっついていたのだろうか? 確かに自分の“さが”故か、自分は魚が大の好物ではあるけれども――これでは、年上の立場も何もあったものではない。

「……拙者が育った里は、本当に山奥の――小さな村でござった」
「その辺、僕と似てるね。僕なんて物心ついて暫くまでは、母さん以外に他人が居ない状況でさ」
「こう言っては何でござるが、幸いにも、拙者は割と器用な方で。同じ世代の子供と比べれば、体格や身体的な資質にも恵まれておるので――里に伝わる……その、“伝統の武術”を覚えては、それが楽しくて仕方なかった」

 ケイは何となく、たき火に照らされる楓の姿を眺める。同年代の少女よりも、頭一つ抜け出た長身と、それに似合うすらりと長い手足。あどけなさを残す顔立ちは、彼女の幼さを感じさせるものではあるが、滑らかな曲線を描く腰回りや、“独特の装束”の胸元を押し上げる膨らみは、それに見合わぬもので――

「……拙者の言い方も悪かったかも知れないでござるが――ケイ殿も、男なのでござるなあ」
「い、いや!? 別にそう言う変な意味で見てたわけじゃ――違う、違うんだよ! 僕は、僕はっ!?」
「ふふっ……ケイ殿、そういう事をしていると、あのお方――横島殿と兄弟か何かのようでござるな」

 そう言われて、頭を抱えて上半身を左右に振っていたケイは、はたと動きを止める。その顔には、引きつった様な何とも知れない表情と――かすかな笑みが浮かんでいた。

「――あの人の側に居るとね、何かこう――“汚染”されるんだよね。横島にーちゃんと似てると言われて、正直悪い気はしないんだけど――馬鹿なところまで似ていると言われると――何と言っていいやら」
「拙者には兄弟がおらぬので――素直に楽しそうで良いと思うでござるが」
「いや、僕とにーちゃんだって血が繋がってるわけじゃないんだけど」
「似たもの兄弟でござるよ。ええと――横島殿はハッキリスケベで、ケイ殿はムッツリスケベ?」
「何その最悪な似たもの兄弟!?」

 立ち上がる勢いで反論するケイに、楓は堪えきれないといった風に笑い出す。
 ややあって、彼女は笑いすぎて上がってしまった息を沈めながら、首を横に振った。

「拙者が強くなろうと思ったのは、楽しかったから――それ以上の理由はござらん。と言うよりも、それも後付けの理由でござろうか。ネギ坊主に問われて、初めてその様なことを考えた。戦うことにおいて強くなる――その意味など」
「ゴースト・スイーパーの僕が言うのも何だけどさ、今の日本に生きてて、そんなことを考える事なんてほとんど無いわけだし、それが普通じゃないの?」
「もちろんそれはその通りでござろう。拙者自身が言ったとおりに、拙者自身には深い意味などがあって、強くなろうとしているわけではござらん。しかし――横島殿やケイ殿、それに犬塚殿を見ていると思うのでござるよ」
「何を?」

 ケイの問いに、楓は、いつもは糸のように細められている瞳を開き、彼の顔を真っ直ぐに見つめる。たき火が映り込んだその瞳は、磨き抜かれた黒曜石のように、汚れを知らない。

「ケイ殿――あなた方がお強いのは、何よりもしっかりとした心を持っているからではないかと――そう思うのでござる」
「……買いかぶりだよ。にーちゃんやシロさんはともかく、僕はね」
「拙者はそうは思わぬ。ケイ殿は自身に才能が無いと仰るが――ケイ殿は、拙者と手合わせをする際には、まるで本気を出しておられぬな? 事情はわからぬが、恐らく――GS試験に於いても、同じでござろう?」

 楓の言葉を受けて――ほんの一瞬、岩魚の串を取り上げる彼の動きが止まった。
 しかし果たして、彼は傍らに置かれた水筒を傾け、その中身をあおる。その一瞬に彼が持っていた言葉は、水筒の中身――シロの里のお茶と共に、飲み込まれてしまった。楓には、そんな風に思えた。

「……冗談、僕はいつも、本気でやってる。僕にはにーちゃんみたいな、本気だろうが手抜きだろうが、そこにいるだけで状況をひっくり返すような真似は出来ないから」
「――」
「僕の方こそ、楓さんは頑張ってると思う。強くなることが楽しい――それが悪いって言うなら、格闘家の人たちなんかはどうやって生きていけばいいのさ? 自分が強くなるって事は、必ずしも他人と戦うって事じゃない。それは楓さんだってわかってるでしょ? 戦うことには理由が必要かも知れない。要らないって人もいるだろうけど――僕はまあ、他人と争うにはそれなりの理由が必要だと思う」

 けれど、と、ケイは首を横に振る。

「でも、強くなることに関して言えば、その限りじゃない。いいんじゃないかな、ただ強くなりたいって、それだけの理由で」
「拙者――情けないのでござるよ。ネギ坊主に偉そうな事を言っておきながら、強くなるという事がわからなくなりかけている自分が」
「あのねえ」

 小さくため息をついた楓に、ケイは苦笑しながら肩をすくめてみせる。

「ネギ君は、あんな歳で有名な大学を卒業して、年上の君たちを相手に教師をしてる。それは凄い事だと思うよ。けどね、まだ十歳――それなりに悩むことはある。この間みたいにね。でもそれは、君だって同じじゃないか。悩んでいる人間は、他人に助言が出来ないのかい? そうじゃないだろ」
「しかし拙者は」
「同じなんだよ。君も――かくいう僕だって、偉そうな事が言えた立場じゃない。何故なら僕にだって、色々と悩みはあるからね。でもそんなのは当たり前だろう? ネギ君は、君のことを、まだ十四歳なのに、自分とは比べものにならないほどしっかりしてるって、そう言ったよね。こういう言い方をしたらアレだけど、君は自分で、ネギ君が言うほど、自分の事を凄い人間だって思うのかい?」
「……間違ってもそんなことは言えないでござるな。拙者とて、悩み多き十四歳の小娘でござる」
「だったらそれでいいじゃないか。重ね重ね、僕自身、偉そうな事を言える立派な大人じゃないけどさ。そんな僕だから敢えて言うよ。楓さんはよくやってる。悩んでるのは、頑張ってる証拠だよ。しっかり悩みなよ。大人になったら、悩む暇なんてなくなっちゃう。だから、子供で居られる今のうちにさ」

 楓はその言葉に顔を上げ――小さく微笑んだ。

「ケイ殿――拙者、ケイ殿と出会えて良かったでござるよ」
「……出会い方は最悪だったけどね」

 照れ隠しだろうか――ケイは、自ら墓穴を掘りつつ苦笑してみせる。楓は、自分よりも年上のそんな彼が――失礼ではあろうが、とても可愛らしいと思った。

「ケイ殿」
「ん?」
「拙者、このような性格であるから、上手く言えないでござるが――その、“お友達から始めてみませんか?”」
「ん? 何言ってんの。僕と楓さんは、もう友達でしょ?」

 自分でも、良い言い方ではないと楓は思った。その言葉は普通――相手の好意を“やんわりと”断る為に使う方便である。それを自分から、敢えて先に言うとは、何ともおかしな言い方であると――
 そしてケイは、大方の予想通り、彼の敬愛する青年と――くだらないところで非常によく似た男であった。だから彼は、友達“から”と、友達“である”――この差に、まるで気づかない。

「……そうでござるな、かたじけない」

 だから楓は、小さく微笑む。自分と彼の間にある認識の違いに、努めて気がつかないふりをしつつ――安堵と残念さの入り交じった、自分でも良くわからないこの感覚を、心の底の方に押し沈めながら。
 長瀬楓、十四歳――どうやら、彼女にはまた、新たな悩みが出来そうであった。

「それで――そんな話をした早々で悪いんだけど」

 ケイは腰を払いながら、腰掛けていた岩から立ち上がる。

「何でござろうか? いや――言いたいことはわかるのでござるが」
「うん――ああ、でも敢えて言うよ」
「どうぞ」
「――麻帆良市――いやさ、麻帆良学園都市ってのはさ――季節外れのお化け屋敷でもやるつもりなの?」
「……拙者に限って言えば、その様な話は聞いていないでござるが」

 楓も、小さく気合いを入れて立ち上がる。
 たき火に照らされた、宵闇に包まれる茂みの向こう――そこに、明らかに立木や普通の動物ではない、“何か”が立っている。
 それと同時に、二人は感じ取っていた。麻帆良市郊外であるこの場で尚わかる、異様な気配が――麻帆良市の中心部、麻帆良学園本校の辺りで膨れあがった事を。




 時を遡り、ネギ・スプリングフィールドは、暗闇のただ中に、杖を携えて立っていた。彼が見据えるその先には、光の当たり方次第では薄桃色に見える淡い栗色の頭髪と、平和そうな顔つきが特徴の、彼の教え子の一人――佐々木まき絵の姿がある。
 しかし今現在、彼女の瞳に光はなく、その表情はうつろで――何よりも、彼女のその格好が普通ではない。女子中学生ならまず袖を通さないような、紺色のワンピースにエプロンドレス――つまりは“メイド”の格好をして、彼女はネギの前に立っていた。

「悪くない月夜だ――そう思わないか、ネギ・スプリングフィールド」

 彼女とは違う少女の声で、彼女は言った。その、嫌でも聞き覚えてしまった声に、ネギは眉をひそめる。

「……見損ないましたよ、エヴァンジェリンさん。誇り高き悪の魔法使いを自称するあなたが――何の関係もないクラスメイトを巻き込むなんて」

 苦々しげなその言葉に、佐々木まき絵は、唇の端をつり上げる。その表情は、ネギが彼女を通して睨み付ける少女――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルのそれと同じだった。

「悪の魔法使いとしては、その様に卑劣な手段を使うことも悪くはない。だが――勘違いするな。今度に限って、その様な無粋な真似はせん。こいつはただのメッセンジャーだ。装いは単に雰囲気を出すためだと思ってくれればいい。用が済めば、寮の部屋にでも放り込んでおくさ」
「――」

 疑ったところで、今のネギに出来ることはない。エヴァンジェリンの言葉を信じて、ネギは小さく頷いた。

「では――」
「そうだ、ネギ・スプリングフィールド。人間が作り出した無粋な灯火など今宵はなく、ただ、月と星と――眠りに就いた麻帆良の街のみが、我々の観客だ。私は大勢で騒がしくするのがあまり好きではない。良い夜だとは思わないか」
「エヴァンジェリンさん」
「今宵――趣向を変えたダンスパーティーと洒落込もうではないか。――Shall we dance?――一曲お相手お願い出来ますか? ネギ先生――よもや、英国紳士は、女性の誘いを断りはしないでしょう?」

 口元に手を当て――小さく笑いながら、芝居がかった様子で言うまき絵――エヴァンジェリンに、ネギは杖を握りしめ、しっかりとした口調で言った。

「もちろんです。お相手いたしましょう、エヴァンジェリンさん」




 更に時間を遡り、ネギがエヴァンジェリンに対して“宣戦布告”をした日の夜のこと――例によって、木乃香が夕食の支度に回っている最中が、ネギ達の密やかな作戦会議の舞台となる。明日菜としては心苦しい面もあるが、そもそも家事一般において、木乃香とは比べようもない彼女は、結局は木乃香の厚意に甘えるしかないわけだが。
 ネギが認識阻害の魔法――魔法というのは大概何でもありだと、明日菜は思った――がかけられた中で、三人は顔を突き合わせる。

『こいつは俺っちの予想だが――エヴァンジェリンが動くのは、恐らく金曜の夜――停電に乗じてだろう。さすがの闇の福音も、普通の日に派手な事は出来やしねえだろうし、こいつは未確認の情報ながら、麻帆良はその電力の一部を、巨大な魔力に変換して、エヴァンジェリンの力を封じてるって話もある』
「電気を魔力にって――出来るの? そんなこと」
『出来る。アシュタロスの核ジャック事件の時は、国際警察の超常現象専門の連中が、空母の電力を力に変えて、人間じゃ太刀打ち出来ない魔物と渡り合ったって話だ』
「……本当に何でもありね」
『高度に発達した科学は魔法と変わらないとは、よく言ったモンだがね』

 引きつった笑いを浮かべながら言う明日菜に、カモが何故か腕を組んで頷いてみせる。お前がやったわけではないだろうと――明日菜は言うべきだろうかと迷ったが、結局その小さな額を、人差し指で軽く小突く程度にとどめておく。

「それであんたはどうしようって言うの? まさかとは思うけど、また金曜日を前に奇襲を――なんて言うんじゃないでしょうね?」
『本心を言ってしまえばそれが一番だとは思うがね。俺っち達は、エヴァンジェリンを滅ぼしたいわけじゃない。魔法使いの間で恐れられる闇の福音を相手にまあ、えらく余裕をぶっこいた事だとは思うが――兄貴のその考えそのものは、褒められて然るべきだ。だとすりゃあ、俺っちも非合理だとわかっちゃいるが、兄貴の戦いに花を添えるのが、下僕の努めってもんでしょうが』
「格好付けても駄目よ。ようは、いかにしてエヴァンジェリンさんを倒すかって話がしたいんでしょう? ネギも――話し合いでどうにかならないの?」
「ハッキリ言えば」

 明日菜に話を向けられて――ネギは、眼鏡の奥で、その大きな瞳を細めてみせた。

「話し合いで解決――そう言う道は、あると思います」
「……あんたね」
「けれど」

 明日菜のじっとりとした目線を受け――しかし、ネギは首を横に振る。

「けれど、それじゃ納得しません。エヴァンジェリンさんも、そして僕も」
「殴り合いをしなけりゃ話も出来ないって言うのなら、私はあんたを軽蔑するわよ」
「結局はそういうことになるから――はい、構いません。明日菜さんに軽蔑されるのは辛いことだけれど、僕はもう、逃げたくありませんから」
「だから、あんたは――」
『まあ、落ち着きなせえ、姐さん』
「戦うことで――自分の考えを、力でもって敗者に押しつける。そういうことじゃ、ないんです」

 ネギは小さく言った。
 戦うというのは――争うと言うのは、つまりはそう言うことだ。自分の考えが、相手にとって受け入れられるものでない。相手の考えもまた、自分にとって受け入れられるものではない――そうなったときに、相手を力でねじ伏せて、自分の考えを受け入れさせる――それが、“争い”だ。戦争に代表される、争いの本質である。
 人間は争わなければ生きていられないと言う者もいるが、ある意味でそれは正しい。何故ならば、人間は皆自我を持ち、自分の考えを持っているからだ。その考えが完全に一致する事は、同じ自我を持つ人間が存在しない限りはあり得ない。つまり、他人が――自分と違う人間が存在している限り、“争い”の種は無くならない。
 それが小さなものであれ、大きなものであれ。
 しかし、と、ネギは言う。

「……見せたいんです。僕は、僕の思いの強さがどの程度のものであるのかを。エヴァンジェリンさんもきっと、見て貰いたいんです。自分がどれほど、今まで苦しんできたのかを。相手の体に刻みつけるほどに、見せ合いたいんです」
「それはあくまで喩えの話でしょうが。自分はこれだけ真剣なんだって――本気で殴り合ってどうすんのよ。真剣に喋り合うとかって、そういう番組だってあるじゃない」

 呆れたように明日菜は言うが――ネギの表情は変わらない。
 これは自分がどう言おうが、もはや聞かないだろうと、彼女はため息をつく。以前の彼女なら――ここでネギに殴りかかってでも、その考えのばからしさを説いたかも知れない。
 そうしないのは、自分が変わったからなのか、ネギが変わったからなのか。今の彼女には、それがわからない。

「……勝算はあるわけ? 私も実のところ、エヴァンジェリンさんが“ツンデレ”だって――まあ、馬鹿馬鹿しい言い方だけど、その意見には賛成なのよね。だから、あんたが本気で再起不能になったりすることは無いと思う。けどだからって、あの娘が真剣じゃないわけじゃない」

 私にはよくわからないけれど、と、明日菜は言った。

「魔法使いの間じゃ“なまはげ”扱いなんでしょ? そんな相手に、見習い魔法使いのあんたが、勝てるの?」
『そうだなあ。それを考える必要はあらーな。一番手っ取り早いのは、こっちも戦力を揃える事なんだが――』
「あんたの言ってた“仮契約”? 馬鹿じゃないの? ゴースト・スイーパーだったシロちゃんはともかくとして、私ら全員、普通の中学三年生なのよ? よくてあやかみたいに、護身術を習ってる程度――そんな連中に、魔法使いの相手が務まるとでも思うの?」
『その辺の事は安心して下せえ姐さん。魔法使いとの契約を結べば、魔力によって身体能力が底上げされる。あっという間に歴戦の戦士の誕生でさ。それに、仮契約には大きな特典がもう一つあって、従者にはその専用の武器がだな――』
「そういう事言ってんじゃないわよ! あんた、私は嫌よ! 戦車一台貸してやるから、ちょっと戦争行ってきて――って、そういう事じゃないの!」

 痛いのも怖いのも嫌だと、横島なら言うかも知れない。ただ、それは当然のことだ。誰もが“その様な”場面に至っては、くだらない意地が邪魔をして、それをハッキリと言えないだけであって。
 ことが「意地の張り合い」程度の戦いで、自分がネギの矢面に立とうとは――どちらかと言えばお人好しと言われる明日菜であっても、出来れば勘弁願いたかった。

『し、しかし相手は従者を従えてる。兄貴一人じゃ――』
「ネギの言い分はわからなくもないけどね。私だって、出来る限りの事はするわよ。けどね、ネギ自身が言った事じゃない。これは意地のぶつかり合いだって――何で私がその程度の事で、命張らなきゃならないのよ」
「明日菜さん、カモくん」

 憮然として言う明日菜と、必死に食い下がろうとするカモ――その二人のやり取りの間に、ネギが唐突に割り込んだ。

「これは、僕とエヴァンジェリンさんの問題だから――明日菜さんを巻き込もうとは思いません」
「だからさ」

 この石頭め――と思いながら、明日菜は首を横に振る。

「私だってね、あんたみたいなガキが一人で空回りしてるのを見捨てると、寝覚め悪いのよ。木乃香だって、あんたの事は凄く気に入ってる。あんたは、真面目で、良い子よ。いろんな意味でね。だから私はあんたに力を貸してやりたいと思う――ああもう、そんなのは私らしくないけど、それは本心よ」
「そうですね、明日菜さんは、大人の男の人が好きですもんね」
「そう言うこと言ってるんじゃないでしょうが!」
「あたっ!?」

 なにやら生暖かい眼差しと共にそんなことを言った“自称英国紳士”の額を、明日菜は全力で小突いた。思わず仰け反るネギを視界の端に収めながら、一つため息をつく。

「あんたは――ひょっとしてわざとやってるの?」
「な、何がですか?」
『まあ、兄貴の天然は、今に始まった事じゃねえがな』
「お前が言うな」
「のぅっ!?」

 ネギの肩で、小動物の癖をして妙な笑みを浮かべたカモを、指ではじき落としてやってから、明日菜は言った。

「けどね、これがギリギリの妥協点よ。私は、あんたらが戦う意味がわからない。自分が可愛いってのもあるけど、それ以上に、あんたらが――どうせ“魔法使い”の戦いなんでしょう? そんな大げんかをやることが理解できない。私はあんたの味方でいたいけれど、意味のない殴り合いをする手伝いなんて、やりたくないわ」
『……姐さん。その気持ちはわかりますがね。だが、姐さんにだってあるだろう? 他人から見れば馬鹿馬鹿しかろうと、自分には譲れない一線って奴が』
「意地の張り合いに他人を引っ張り込む事が、“立派な魔法使い”のすることなの?」
『しかし、兄貴が引いてみたところで、相手が引っ込むとは思えねえぜ?』

 どうにかネギの肩に再びはい上がったカモが言う。それは確かに、そうかも知れない。理由はともかく、本気でクラスメイトの血を吸おうとするような相手だ。事此処に至って、引き下がる可能性は薄いだろう。
 それを理由に、どうにか明日菜を説得しようとするカモだったが――しかし果たして、それはネギ本人の言葉によって遮られる。

「いいんです。明日菜さんは――いえ、僕からお願いします。今回のことに、明日菜さんは手を出さないでください」
『兄貴』
「いいんだ。僕は――色々考えてみたんだけれど、やっぱり教師としても魔法使いとしても、まだまだ未熟者なんだ」

 そう言って、ネギは首を横に振る。

「最初は、エヴァンジェリンさんから逃げようとする自分が、たまらなく嫌だった。勇気を出して向かい合ってみようって、そう心に決めたのに、また逃げだそうとする自分に気づいて、僕はもっと嫌になった」
『……相手が相手だし、兄貴はまだ子供なんだ。誰も兄貴を責めたりはしねえ』
「でも、相手がどうだとか、僕が子供だからとか、そう言うことが理由に出来ない道を選んだのは、僕自身だ。相手が強いからと言って、手加減してくれないし、僕が子供だからって、大人になるまで待ってくれる奴も居ない。ネカネお姉ちゃんにも言われた事だ。でも、僕は“立派な魔法使い”になるって、そう決めたんだから」

 だから、と、彼は続けた。

「だから、エヴァンジェリンさんが――あくまで僕と戦うというのなら、それを受け止めてみようと思うんです。僕自身が、彼女と戦うだけの思いがあるという、意思表示として」
「だからそれを、くだらない意地だって、私は言ってんのよ」

 この分からず屋め――と、明日菜は言う。結局それは、二度もエヴァンジェリンから逃げ出した自分に嫌気が差して、半ば自棄になっているだけではないのか。彼女からすれば、そういう風にも見えてしまう。

「だったらそのくだらない意地を貫き通します。今の僕は――“そうしてみたい”んです」

 明日菜の目を見て、ネギは言った。
 そこに、いつもの彼の弱々しさはない。しかし――それもまた、単純に彼が成長したと言うことでもないと、明日菜は思う。強いて言えば――頑固な部分が助長されただけかも知れないと。
 だから、明日菜は言った。

「あんた、馬鹿?」
「はい、馬鹿です」

 果たしてネギは、その言葉に、しっかりとした言葉で応えてきた。




 そして現在――ネギは、ただ一人、麻帆良学園本校女子中等部の寮からほど近い、緑地帯の中を歩いていた。
 ややあって、彼の前を歩く佐々木まき絵――その肩越しに、小さな空き地のような場所が見えてくる。そこは半ば瓦解した小屋のような場所で、ネギはそこに、がれきの上に腰掛ける、一人の女性の姿を見つける。
 思わず、彼は言葉を失った。
 淡い月の光を浴びて、柔らかな輝きを放つ見事な金髪。憂いを帯びた、凍てつく氷を思わせる輝きを放つ、アイスブルーの瞳。芸術的なまでに整った顔立ちと、蠱惑的な黒いドレスに包まれた艶めかしい体に、すらりと長く、細い手足。
 月の光も、星の瞬きも――すべてが彼女のための舞台照明であるかのような、そのような錯覚さえ、ネギは覚える。
 星空をじっと見つめていたその女性は――ネギの姿を認めると、赤く口紅の引かれた口元に弧を描き――優雅に笑った。

「来たか、ネギ・スプリングフィールド」
「あなたは――エヴァンジェリンさんですか?」
「このようななりをしていては、わからなくても無理はないがな」

 その女性は、さながら舞台役者のように、ドレスの上から羽織っていた、漆黒のマントを翻す。そのマントが一瞬彼女の姿を覆い隠し――果たして振り抜かれたマントの向こうに立っていたのは、ネギとそう変わらない、小柄な金髪の少女だった。

「どうせならば、気分を出したいではないか。この体は、壮大なダンスパーティーには不似合いだ」
「そんなことはありません。エヴァンジェリンさんは、魅力的な人だと思います」
「ふん――その世辞は、どこから沸いて出た? 私を油断させるための罠か、それとも、英国紳士としての血がそうさせたのか。まったく、ナギの奴とは大違いだ」
「……」

 ネギは黙って、エヴァンジェリンを見据えた。そこで、二人の会話が途切れる。彼女はややあって、小さく鼻を鳴らし、肩をすくめて見せた。

「ウェールズ出身なら、少しは気の利いたジョークの一つも飛ばしてみろ。その身一つで“闇の福音”の前に現れようという気になったのなら、それくらいの余裕は持ってほしいものだな」

 そうだ――と、彼女は続ける。

「正直なところ、貴様が一人で来るとは思っていなかった。なるほど、その覚悟は、偽りというわけではなさそうだ。誇り高き悪の魔法使いとして、素直にその覚悟は認めてやろう。だが――愚かだな」
「……僕は教師として、“立派な魔法使い”として――あなたから逃げ出さないためにここに来た。ここに来なければいけなかった」
「ま――私の気持ちを受け止めてみろと言ったのは、私自身だ。約束を違えなかった事そのものは――中々の色男ぶりだと、褒めてやろう」

 エヴァンジェリンは、赤い唇の端で、蠱惑的に舌を動かした。その様子は、先ほどとは違い、小さな少女の姿を取る彼女にはひどく不似合いで――しかし、ネギは自分の背筋に、冷たいものが走るのを感じていた。
 彼は気づいていた。少女の纏う空気が、いつもとは一変している。その場にいるだけで息が苦しくなり、わけもなく叫びながら逃げ出してしまいたくなる圧迫感を、目の前の少女から確かに感じる。
 これが――カモの言っていた、普段は抑制されているという、彼女の力なのだろうか?
 震えそうになる足に活を入れ、ネギは必死に、目の前の少女を睨み付ける。

「エヴァンジェリンさん」
「何だ?」
「僕は教師として――あなたの気持ちを受け止めるためにここに来た。約束してください。僕があなたの教師であることを認めてくれるのならば――もう、こんな騒ぎは起こさないって。まじめに授業に出て――ちゃんと、卒業するって」
「……本気でそれを言っているのか? いいや――貴様は腹芸ができるほど器用な男ではなかったな、ネギ・スプリングフィールド。全く、貴様という奴は――」

 腰に手を当て、憮然とした様子で、エヴァンジェリンは言う。
 そんな彼女は、どこか楽しそうに見えた。そして、どこか寂しそうにも見えた。

「私を麻帆良に縛り付けているのは、他ならぬ“立派な魔法使い”の所行だぞ? 貴様は人の頭に銃を突きつけて道理を説くタイプか? ならば、お笑いだな」
「……僕はまだ子供で、馬鹿だから、何が正しいのかなんてわからない」

 ネギは小さく首を横に振り――けれど、と、言った。

「――今のエヴァンジェリンさんは、間違ってると思う。だから、僕はここに来た」
「ふふっ……はははははっ! この状況で、そのようなことがよく言えたものだ! 良いだろう。色々と不満はあるが、及第点だ。今宵、私を相手に一曲踊ることを、特別に許してやろう! ただし――“闇の福音”を相手にする代償は、安くはないぞ?」

 マントを翻して高らかに笑う彼女に向けて――ネギは、携えていた杖を、一息に振り抜いた。




「……明日菜?」

 眠そうな声が、闇の中から自分を呼び、明日菜は思わず動きを止めた。
 照明のない部屋の中――暗闇になれた瞳でそちらを見てみれば、布団から顔を出した親友が、寝ぼけ眼でこちらを見ている。

「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん……せやけど、どないしたん? こんな夜中に――どっか行くん?」
「――ちょっと目が冴えちゃってね。外の空気を吸ってこようと思っただけ。すぐに戻ってくるわよ」
「わかった――気をつけてな」
「大げさね――お休み、木乃香」
「……おやすみ――あす……な」

 それが限界だったのだろう、再び眠りの世界へと戻っていく木乃香を見ながら、明日菜は小さく息を吐く。
 窓から差し込む青白い月の光が、自分の姿を照らし出す。今夜、麻帆良に人の作り出した明かりはない。それだけで、彼女は自分が、別世界に迷い込んだような錯覚を覚えた。そう、自分が知る日常とは、まるで別の世界に――

「……何だって言うのよ」

 奇妙な同居人の少年の姿が、頭に浮かぶ。クラスの片隅でいつも空を見上げている小さな少女の顔が、記憶の底から浮かび上がる。

「何なの私は? 何で――馬鹿なの? あんな連中の事なんて、私には理解できないのに――何で私は、こんな事を」

 小さく息を吸い込み、パジャマの裾に手をかけた明日菜は、一息でそれを脱ぎ捨てた。ついで、壁に掛けてある制服を手に取る。すっかり馴染んだ手触りを感じながら、明日菜は一つ、小さくつぶやいた。

「……ほっとくわけにはいかない――なんて、何でそう思うのかしら」

 同じ頃、麻帆良の外れで、白髪の青年が同じような事をつぶやいたことを、彼女は知るよしもない。










相変わらずこちらのパートは書くのが難しい。
対エヴァンジェリン戦を通じて、
書くのが難しいこの二人――ネギとエヴァンジェリンという人間を描き出していこうと思います。

さあ、彼らとともに、闇夜の舞踏会へ。
などと、格好をつけてみる。

でもいいんです。アクションシーンなんて、八割方格好をつけることが大事なんです。
リアリティを追求するのも芝居がかるのも間違ってはいませんが、
「格好悪い戦い」なんて――許されるのは、それこそ横島君くらいだと。

やっぱり彼ってすごいなと、そう思います。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・魔法使いの夕べ
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/04/24 00:04
 夜のとばりが降り、町の灯りも消え――ただ月と星だけが見守る、原初の暗闇に包まれた麻帆良学園都市。
 そのほぼ中央部に位置する、麻帆良学園本校理事棟――その一室、“学園長室”と銘打たれた、この街を統べる玉座がある一室にて。まるで仙人のような容貌の老人が、窓の前に佇み、宵闇の世界を見つめていた。
 宵闇とは言っても、今夜の麻帆良市は晴れ渡り、紺碧の空には、満月でこそないものの、明るく輝く月がかかっている。淡く優しい月明かりに照らされたその部屋は、ただそこにいるだけならば、照明など何も必要としないほどに明るかった。
 その光の中で、老人――麻帆良学園学園長、近衛近衛門は、一人呟く。

「最初はな――全てを自分の手で切り開いていけると思っておったんじゃ。教師として、魔法使いとして――そして今は、それが不可能じゃと気づいている」

 誰にともなく囁かれる老人の独白。誰にともなく――当然、それを聞く者はいない。しかしだからこそだろうか。その言葉は、教会で囁かれる懺悔のように続く。

「あの頃の儂らと、今のネギ君は似ておる。しかし、決定的に違う。だからネギ君は英雄となり、儂らは愚かな衆愚であらねばならん。愚か者であり、小悪党であり、そして身勝手であり続けること――それが儂らに課せられた責務なのじゃ」

 近衛門は、小さく首を横に振る。

「そう、それが――“魔法先生”であることを続けられなかった、儂の責務。そのこと自体が身勝手な言い分であることもまた、理解しておるよ。それを理解してもらおうとも思っておらん。全ては、身勝手な言い訳じゃ。じゃから――」

 月明かりに照らされながら、独白を続ける彼の姿は――ここにはいない誰かに、何かを語りかけようとしている――そのような風にも見える。

「年端もいかぬ子供を担ぎ上げようとする、愚かな老人の悪巧みは――今しばらく続くのじゃよ。何故と問われれば――それはおそらく――あの頃の儂が、ネギ君と同じ“魔法先生”だったからじゃよ」

 彼の口元が、言葉にならない何かを呟く。もとより彼の言葉を聞く人間は、この部屋にはいない。
 窓の外――月明かりに照らされる学園都市の一角が、柔らかな宵闇にはあり得ない、鋭い閃光を放つのが見えた。

「ほっほ……始めおったか。まあ、今しばらく我慢してくれんかの、エヴァンジェリン。お主とネギ君が戦う事、それ自体が必要なんじゃ。じゃから今暫く――茶番を演じてくれはせんかの」




「呪文始動――光の精霊十一柱、集い来たりて敵を射て――魔法の射手・連弾・光の十一矢――ラス・テル・マ・スキル・マギステル――ウンデキム・スピリトゥス・ルーキス・コエウンテース・サギテント・イニミクム・サギタ・マギカ・セリエス・ルーキス!!」

 強靱な意志を込めた祝詞を紡ぐ。振りかざした杖の先に、まるで蛍火のような燐光がどこからともなく現れ――呪文の詠唱が終わると同時に、見る者の目に、長い光の帯を残像として残しながら、凄まじい速度で撃ち出される。
 その数、十一――あるものはまっすぐに、あるものは不規則な軌道を描きながら、しかし光の矢は、己の獲物に向けて殺到する。すなわち――金髪を宵闇にたなびかせる少女、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに。

「氷盾――レフレクシオー――」

 しかしその光の矢は、彼女の目の前に突然現れた、薄い氷の盾によって、あらぬ方向にはじき飛ばされる。
 エヴァンジェリンは小さく鼻を鳴らし――マントを翻す。用を失った氷の盾が、きらめく光の粒子となって、虚空に消えていく。

「中々の威力だ。下手な魔法使いならば、防御の上からでも相手を吹き飛ばせるだろう。だが――まだまだ。私に牙を突き立てるには、力が足らんな」
「く――呪文始動――ラス・テル・マ・スキル・マギステル――」
「力が足らんと言っただろう? そもそも、それくらいのことは承知ではなかったのか? 私をあまり失望させてくれるなよ。ただ愚直に力のごり押しで喜ぶ女など、男の妄想の中にしか存在せん。覚えておくと良い――英国紳士」

 エヴァンジェリンは、冗談めかした言葉の後に、一言だけ言葉を付け足した。その言葉とはすなわち、魔法を発動するための祝詞――呪文である。ネギが、一息で紡げる限界近くの言葉を絶叫したのに対して、こちらは本当に――ただの一言。

「氷爆――ニウィス・カースス」
「うわっ!?」

 暴力的な圧力を伴った極寒の暴風が、ネギの小さな体を軽々と吹き飛ばした。ネギは地面の感覚が唐突に消え失せたのを感じ、更には上下さえもわからなくなり――気がついたときには、背中から地面にたたきつけられていた。ろくに受け身も取れない状態で、体の中を貫いた衝撃に、一瞬呼吸が止まる。
 以前、彼女が、クラスメイトの宮崎のどかを襲おうとして、ネギの前に現れた事がある。その時に、魔法薬を媒介にして発動されたのと同じ呪文ではあったが――威力はまさに桁違いであった。込められていた力の質と量に、天と地ほどの差があると言っても良い。

「う――くはっ……!」
「もう一つおまけだ」

 小気味の良い音を立てて、エヴァンジェリンは指を鳴らす。瞬間、再び巻き起こった爆風が、杖を支えに立ち上がろうとしていたネギの体を吹き飛ばす。彼は子供が放り投げた、おもちゃの人形のように宙を舞い、立木に叩きつけられる。

「私相手に真正面から魔法の撃ち合いなど、愚の骨頂だ。“機関車対石ころ”という奴だよ、ネギ・スプリングフィールド。しかし――その程度は、貴様もわかっていた事ではないのか? 私が魔法使いの世界で恐れられたのには、単純にそれだけの力があったからだ。魔法使いであり、そして――人外の力を持つ、真祖の吸血鬼――という私だから持てた、力がな」
「げほっ! ――それは、もちろん――わかって、いました」
「ならば何を思って、真正面からやってくる機関車に、全力で石ころを投げつけた? その結果がこれだ。そのような奴に、私のダンスの相手は務まらん」

 腕を組み――つまらなそうに、エヴァンジェリンはネギを見つめる。ネギは、衝撃で口の中を切ったのだろうか、血を吐き飛ばし――しかし律儀に、失礼、と言いながら、口元を袖でぬぐってから、首を横に振る。

「確かに、僕があなたとダンスを踊るには、“背丈”も“経験”も足りません」
「その通りだ。私はステップも踏めない子供に、手取り足取り踊りを教えてやるほど、暇ではない」
「だから、僕があなたと踊るには――それなりの考えや用意が必要になる。それくらいのことは、僕だって考えました。けれど」
「けれど、何だ?」

 エヴァンジェリンは、整った眉を片方上げ――ネギの言葉の先を促す。
 ネギは、底冷えがするような“吸血鬼”の視線を受け止めて、喉に絡みつく血を無視し、はっきりと言った。

「僕は、教師として、エヴァンジェリンさんの気持ちを受け止めると言ったんです。こんなのは――ただの“魔法”なんて、どういう事はない」
「……貴様、今の自分の状態を理解して言っているのか? おまけに、今、貴様が受け止めたのは、牽制用と言い換えても良い、無詠唱の初歩の魔法だ。私が最初から本気を出していれば、貴様は跡形もなく消し飛んでいたぞ?」
「……エヴァンジェリンさんは、そういうことをする気は無かったでしょう? 理由は――問うまでもありませんよね」

 ネギは、震える腕に力を込め――しっかりと、杖を握り直す。
 エヴァンジェリンの眉が、再び動く。その表情には――先ほどとは違う感情が浮かんでいた。

「僕も同じです」

 ネギが言った。

「だから――最初の一発だけは、真正面から行きたかった。あなたと、同じですよ」
「……長生きできんぞ、貴様は」

 心底あきれたように、エヴァンジェリンは言う。しかし――その顔には、やけに楽しそうな表情が浮かんでいた。

「ならば――先ほどのあれは、単に格好をつけていたというだけか? 残念だが――私は無理をして格好を付けるような男は好かん」
「そうですか。それは――んっ! それは、残念です」

 口元をぬぐい、小さく咳払いをしてから、ネギは言う。その顔にもやはり――不敵な笑みが浮かんでいる。
 正直なところ――自分を相手にするには、まだまだ役者が足りないと、エヴァンジェリンは思う。ネギはまだ幼く、未完成だ。おまけに臆病で、考え方だって、単純な子供のそれと大差ない。自分が本気で相手をしてやるには、あまりに足りない。
 だが――悪くは、ない。
 エヴァンジェリンは唇を舌で潤すと、彼に言った。

「そう思うのなら、せめて私を楽しませてくれよ? ネギ・スプリングフィールド」
「はい。僕はまだ――あなたの気持ちを、聞いていませんから」
「抜かせ」

 空に瞬く星々と、闇夜を照らす月だけが見守る中――二人の戦いは、まだ幕を開けたばかりだった。




 それはまるで、特撮映画かゲーム画面でも見ているように、現実感を感じさせない光景だった。淡い月の光のみが照らし出す緑地帯の一角が、突然強い光を放ち、光の帯が空へ向かって飛んでいく。かと思えば、青白い閃光と共に衝撃が空気を揺らし、後には粉雪のような何かが、きらきらと月の光を跳ね返して煌めく。
 果たしてそのような現象を目の当たりにした人間が、どれほどいるだろう? そして仮に目の当たりにすれば、その人物はどのような気持ちで、目の前の光景を眺めるだろう?
 少なくとも彼女――神楽坂明日菜は、しばし呆然と、目の前の非現実的な光景に見入っていた。いったいどれほどの力が、あの非常識な光景に込められているのか――かなり離れたこの位置にまで届いた衝撃が、彼女の長い髪を揺らす。

「これが……魔法使いの戦い」

 彼女は、自分でも気がつかないうちに、小さく呟いた。
 彼女が立つのは、緑地帯の入り口あたりに立つ、物見台のような建物である。石造りで、その中には、今現在彼女が立つテラスに通じる螺旋階段しかない。テラスにはベンチが置かれ、普段は散歩がてらに、ここを訪れた人間が、緑地を眺めながら足を休める程度の場所であるが――偶然にも今のその場所は、“魔法使い同士の戦い”という、おおよそ常識からかけ離れた出来事の一部を眺められる、観客席と化していた。
 むろん、その観客席に佇むのは、神楽坂明日菜、ただ一人。
 ネギ・スプリングフィールドは、意地でも己の意志を曲げなかった。
 だから明日菜は、引き下がるしかなかった。自分の言葉は、彼に届かなかったのだから。いや――届いた上で、彼は判断したのかもしれない。どちらにせよ――今の彼女には、目の前の光景は、とても遠い。まるで本当に、冗談のような、夢を見ているような――そんな風にさえ思えるほどだ。
 この期に及んで、あの中に飛び込んでいけるとは、とても思えない。自分があそこに首を突っ込む意味もないだろう。
 しかしならばなぜ――自分はこの“観客席”に立っているのだろうかと、明日菜は自問する。
 ネギとエヴァンジェリンは、ぶつかってしまった。それはもはや、自分には止められない。
 彼にも彼女にも、何かしらの事情があるという。それ自体は、自分には口出しができることではない。
 けれど明日菜には、ただ黙って、この夜が過ぎ去るのを待つ、ということができなかった。自分にいったい何がしたいのかもわからないまま、飛び出してきてしまった。
 そうして――今はただ、目の前の戦いを眺めている。

「……なんだって言うのよ」

 明日菜は歯を食いしばる。とても嫌な音が、頭の芯にまで響く。
 自分は、あそこに飛び込んでいくことは出来そうにない。しかし、おそらく目の前の戦いで幕を閉じることになるだろう、一連の事件に自分が無関係かと言えば――絶対に、そうではないといえる。
 決して長いとは言えない人生の中ではあるが、あれほどまでに自分という人間に疑問を抱いたのは、初めてだった。
 “魔法使い”という常識外の存在。目の前の、常識外の光景。
 そんなものは、この際どうでもいい。自分の目が信じられないような出来事など、この世にはいくつもあるに違いない。どれだけ驚かされたとしても、そういうものが存在すること自体は、取り立ててどうと言うことではない。
 本当に信じられなかったのは、クラスの仲間であるはずの人物を――ごく自然に“敵”と――今の自分にとっては、あり得ない概念で捉えていた、自分自身。
 そのことに、明日菜は一時、酷く悩まされた。
 結局その悩みの大半は、新しく彼女の友人となったクラスメイトと、その家族によって解消されている。明日菜自身は決してそうは思わないけれど、悩みを乗り越えて一つ成長した、という言い方も出来るかもしれない。
 ならば、目の前の連中は何なのだろうか?
 ネギは言った。自分は、争いたいわけではないと。戦ってエヴァンジェリンを負かし、彼女に自分の正義を押しつけたいわけではないと、そう言った。
 多分それは正しい。彼は、良くも悪くも純粋すぎる。自らの所行を、綺麗事でごまかすような真似をすることはないだろう。いや、出来ない――と、言い換えた方がいいだろうか。
 エヴァンジェリンにしてもそうだ。彼女は“悪の魔法使い”を自負しているが、私利私欲のために戦うようなタイプの人間ではない。ネギと戦って、彼を倒すことで、何らかの旨味を得ようとしているわけではない。
 だから多分――ネギは彼の言うとおり、自分の思いを彼女に伝えるために戦い、エヴァンジェリンは、その気持ちを確かめるために戦っているのだろう。
 そんな二人を明日菜は――

「巫山戯てるのかしら」

 心底、馬鹿馬鹿しいと思う。
 戦うことなど野蛮だ――などと言うつもりはない。ある時には、それこそネギやエヴァンジェリンの背負うような理由で、自分のすべてを賭けて相手にぶつかる――そういうことだってあるかも知れない。第一、たかだか十四歳の小娘である自分に、“戦うこと”などということが論じられる筈はない。
 けれど――“これ”は違うと思う。
 ネギの言うことは理解できる。けれど、“納得”は出来ない。
 そのもやもやした感覚を振り払うことが出来ずに――自分は木乃香に嘘をついてまで、こうしてこの場にやって来た。もっとも、彼女をだましていると言う点では、今更かも知れないが。
 唐突に、この場にあの白いオコジョがいないことを、明日菜は残念に思った。
 彼ならきっと、何かうまい言葉で、この煮え切らない思いを纏めてくれるだろう。たとえ彼のそういう言葉は大概、自分のねらい通りに事を進めようと言う、彼の思惑に従ったものであるとしても。
 ともかく。
 過去の事など忘れて、ネギとエヴァンジェリンは、仲良く手を取り合うべきだ――などという、幼稚園児でもそっぽを向くような綺麗事を言うつもりは、更々ない。
 いついかなる場合においても、相手と争うことなどしてはいけない――などと、聖人のような台詞を吐くつもりも、もちろんない。
 そもそもが、自分自身がどうしたいのか、自分は二人に――ネギに、何を求めているのか。その答えすら出ていない。
 けれど、今の目の前の光景だけは――

「……気に入らないのよ」

 小さく呟いた彼女の声に、応える者は――

「同感で御座るな」
「ふえっ!?」

 誰もいない、筈だった。




「し、シロ……ちゃん?」
「はい、犬塚シロで御座る」

 いつしか明日菜の背後に立っていたシロは、心臓の辺りを押さえながら振り返った明日菜に、笑顔で応えて見せた。それこそ心臓が潰れるかと思った彼女としては、言いたいことが無いわけでもないが――視界に入った彼女の格好に、思わずはき出しかけた言葉を飲み込んでしまう。

「……シロちゃん、その格好、何?」

 桜模様の着物に、藍色の大正袴。足下はブーツ。いつもは三つ編みにしている髪の毛を、ポニーテールのように一つに束ね――そして何より、腰には一振りの――

「ちょ、シロちゃん――その刀、もしかして本物!?」
「え、あ、ああ――拙者がゴースト・スイーパー見習いをやっておった頃に、これとは違うが、己の使用する道具として、日本刀の申請をしておるが故に――銃刀法云々は問題ないで御座るよ? ……美神殿がちゃんと手続きをしていて、なおかつそれが今も有効であれば、で、御座るが――」
「そっか、なら安心――じゃなくって!」

 最後になにやら小さく付け足したものの、明日菜は彼女の言った言葉に納得しようとして――事の本質と、全く関係が無いことに気がついて、あわてて頭を振った。

「どうしてシロちゃんがこんなところに居るのよ! それも、そんな格好で!」
「何故かと問われれば、拙者の方こそ問い返す。明日菜殿は、なぜこのような時間に、このような場所に?」
「それは――」

 その刹那、空が光り――空気が震えた。ネギとエヴァンジェリンの“魔法”の生み出す余波が、対照的な色合いの、明日菜とシロの長髪を巻き上げる。

「まあ――それは、問うまでも無かろうが」
「……私は」

 明日菜はその言葉に応えようとしたが――言葉が見つからずに、唇を噛む。
 自分は確かに、この目の前の争いに無関係ではない。巻き込まれただけであるとはいえ――それでも“巻き込まれた”事は確かなのだ。
 だが、ネギが――あの呆れるほど頭の固い少年が、この戦いに明日菜の出る幕が無いと言った以上、そして彼女自身が目の前の戦いを見てそう思っている、それを理解している以上――何故自分がこの場所にいるのかは、明日菜本人にすらわからないのだ。
 意地と言われれば、そうかも知れない。
 ネギが心配だからと聞かれれば、確かにそうだ。シロの言いたいことは、よくわかる。
 だが、そのような“言い訳”ではなく――自分を突き動かしているものの本質を、自分自身が知りたいと――明日菜は、そう思っていた。

「明日菜、殿?」
「ううん――私は、私はね」
「……申し訳ない。拙者、明日菜殿を問いつめるつもりも、困らせるつもりも無かったので御座るが。半ば明日菜殿がこの場に現れる事を、予想しておったと言い換えても良い故に」

 シロは、うつむき加減に何かを言おうとする彼女に気がつき、慌てたように両手を振ってみせる。
 明日菜はそれを見て小さく息を吐き――彼女に問うた。

「シロちゃんは? やっぱりあの時、ネギが言っていたことが気になったの? ほら――エヴァンジェリンさんがどうだとか、“魔法使いの従者”がどうだとか。シロちゃん、ネギの従者になるつもりはないけれど、出来る限りの手は貸したい――とかなんとか、言ってたじゃない?」
「簡単に言えば、そういうことになるので御座ろうか」

 細いあごに指を当て――シロは言った。

「まあ――言葉で取り繕おうとすれば、何とでも言うことは出来る。けれど、拙者を動かしているのはもっと別の――単純な一つの思いで御座る」

 明日菜は、自分の喉の奥が、何かに締め付けられたような錯覚を覚えた。それは、目の前の少女の言葉が、自分の内心を見透かしているように感じられたから。
 もちろんシロには、そのような意図は無いだろう。関わる必要のないと言われた諍いに、進んで首を突っ込もうとする理由など――それこそ彼女の言う“単純な一つの思い”に集約されるのかも知れない。
 けれど何故だろうか――明日菜はその時、一瞬ではあるが――その言葉を聞きたくないと感じた。言葉にしてほしくないと、そう思った。
 だから、シロに先んじて、小さく呟いた。

「……ほっとけないのよ」
「……左様。つまりはそういうことで御座る」

 それを聞いたシロは、きっかり一呼吸だけ間をおいてから、深く頷いた。
 二人の間に沈黙が流れる。時折緑地帯をまばゆく照らす“魔法”の閃光が、まるで夢の中に居るように、現実感を希薄にしていく。

「何も言わないの?」

 明日菜は言った。

「何がで御座るか」

 シロは応えた。その顔に、明日菜に対する負の感情はない。単純な疑問――それだけである。

「シロちゃんなら、何だかもう、こっちの事情はお見通しって気もするけど」
「明日菜殿。拙者を何だと思っておるので御座ろうか? 拙者確かに、“普通”とは言い難い人生を送ってきたと言う妙な自負はあれど、数えで十五の、明日菜殿と大差ない、ただの女子中学生で御座るよ?」
「……あのさー、シロちゃんみたいなのが“ただの女子中学生”なら、私らは一体何だって言うのよ」
「褒められているのか馬鹿にされているのか、どちらで御座るか?」
「“尊敬してる”のよ」

 陰のある笑顔で、しかしはっきりとそう言った明日菜に、シロは思わず頬を染めてしまう。友人から“尊敬している”などとはっきり面と向かって言われれば、照れくさいのが当然だろう。
 そういうところは、自分たちと同じなのだが――と、明日菜は思う。

「……なんか違うと思うのよ」

 彼女は小さく呟いた。まばゆい閃光が、彼女の横顔を宵闇に浮かび上がらせる。

「ネギの言うことはね、理屈としては間違ってないと思う。ただ――納得できるってわけでもない」
「聞いても宜しいか?」
「うまく言葉には出来ないけれど――私ね、最終的に殴り合って解り合う――そんな青春ドラマみたいなやりかたも、それはそれでアリだと思うのよ。目の前のアレは、いくら何でも度が過ぎてる気はするけど、それでも“度が過ぎてる”のであって、根っこの部分は変わらない」
「その意見は賛成出来るで御座るな。先生とあげはもまた、かつてはそういうことがあったと聞き及んでおる故」
「……横島さんと、あげはちゃんが?」

 あの二人が、ネギとエヴァンジェリンよろしく、“度の過ぎた”喧嘩を繰り広げたと言うのだろうか? 明日菜には、どうやってもその場面が想像出来そうにない。魔神ゴリアテを倒した神童ダビデのごとく、倒れ伏した横島の上で、ハリセンを抱えて高笑いするあげは――という、コントのような一場面ならばともかく。

「まあ、それは機会があったら聞かせてもらうわ」
「あげはは話したがらないで御座ろうから――まあ、機会があればと言うことに」
「ともかくね、そういうわけで――エヴァンジェリンさんは、言わずもがな、あの娘はあんなナリで、信じられないくらい長い時間を生きてるわけだから当然として。ネギはネギで、馬鹿だけど――本当の意味で、馬鹿なわけじゃない」
「つまり?」
「自棄を起こして、エヴァンジェリンさんに特攻したわけじゃない、って事よ。私から見れば馬鹿げた行為ではあるけれど、あいつはあいつなりに――納得できる何かを見つけたんでしょ」

 小さくため息をつき、明日菜は首を横に振った。

「そうしたら――私は一体、何がしたいんだろうって。何で、こんな場所に立ってるんだろう、って。単に、二人の戦いを見に来ただけ――それもありかも知れないけど、なんて言うか、こう――ああもう、何だかどれだけ考えたって、同じところをぐるぐる回ってるような気がするわ」
「己の中に渦巻く感情を、言葉にするのは存外に難しい事で御座る。ましてや、それを完全に相手に伝える事など、悲しいけれど不可能で御座るよ。もしもそれが出来るのなら――」
「なら?」
「……拙者の理想の人生計画では既に、横島先生との間に三人ほど子供が。一番上が女の子で次が――しかし流石に、中学三年生で子持ちと言うのは、拙者にも先生にも、そしてまだ見ぬ我が子にも辛いものがあるので御座ろうか。いくら愛は全ての障害を乗り越えるとはいえ――ううむ、子供のまっとうな幸せを願うのもまた、親の努め。これは難しい」
「シロちゃん。私一応、真面目な話してるんだけど?」
「何を申す。拙者とて、この上ないほどの真剣で御座る――はうっ!?」

 明日菜は無言で、シロの赤い前髪に、切れのある手刀をたたき込んだ。派手に頭を押さえて彼女は仰け反り――バネのような動きで姿勢を戻すと、大仰に手を振ってみせる。

「明日菜殿はつまり、今の二人が理解出来ぬ訳でもないが、納得できるとは到底言えぬと」
「……うん」
「ならば、十分では御座らぬか?」

 シロは小さく微笑む。
 明日菜にはその言葉の意味がわからず――不思議そうに首をかしげる、

「明日菜殿は、先に言ったでは御座らぬか。ネギ先生と、エヴァンジェリン殿――お二人の事が理解できぬわけでも、むろんお二人を心底嫌っていると言う訳でも無く。されど、どうしてか放っておけず――納得も出来ぬと」
「でも、だから――私は」
「既に解答は得られて居る。拙者もまた――明日菜殿と同じような気持ちを胸に、この場に馳せ参じたので御座るよ」
「……それって、どういう事?」

 明日菜の問いに、シロは、見惚れてしまうくらいの気持ちのいい笑みを浮かべる事によって、応えて見せた。




「呪文始動――氷の精霊十七頭、集い来たりて敵を切り裂け――魔法の射手・連弾・氷の十七矢――リク・ラク・ラ・ラック・ライラック――セプテンデキム・スピリトゥス・グラキアーレス・コエウンテース・イニミクム・コンキダント――サギタ・マギカ・セリエス・グラキアーリス!!」

 虚空から染み出るように現れた、光り輝く氷の刃が、大気を切り裂いてネギに迫る。杖に乗り、地を這うような超低空で緑地帯の中を移動していたネギは、己ののど笛を噛み千切らんとする冷たい殺気に気づき――

「くぅうっ!!」

 進行方向に対して、無理矢理に杖を“立て”ると、慣性に従って前方に放り出されそうになるのを堪え、地面を蹴る。ほぼ九十度、真上に向かって進行方向を変化させたネギの直下を、氷の刃が行き過ぎ、地面を深くえぐる。
 そのままの勢いで高く飛翔したネギは、つかず離れず、上空から自分を追跡してきていたエヴァンジェリンの頭上から、彼女目がけて、己の“魔力”を紡ぐ。

「魔法の射手・光の一矢――サギタ・マギカ・ウナ・ルークス!!」

 ほとんど体当たりをする勢いを乗せ、小さな吸血鬼目がけて放たれたその光の矢は――

「氷盾――レフレクシオー」

 突然に彼女の前に現れた、冷たい輝きを放つ氷の花弁によって、難なく受け流される。エヴァンジェリンはマントを翻し、自分の側を落ちていくネギに向けて――

「氷爆――ニウィス・カースス!」
「ぅぐ!!」

 冷たい暴風は、ネギの小さな体に細かな傷を作りながら、彼を吹き飛ばし、バランスを大きく崩す。そこへ――

「吹け、一陣の風――風花・風塵乱舞――フレット・ウヌス・ウェンテ・フランス・サルタティオ・プルウェレア――ッ!!」

 ネギはエヴァンジェリンが魔法を放つより早く、体に不釣り合いな大きな杖を振り、呪文を唱える。杖を振った反動により、体の流れるベクトルを固定し――完成した呪文によって吹き荒れた風が、彼の体を押し流し、エヴァンジェリンから距離をとる。
 宙返りの要領で再び杖にまたがり、低空へと逃げ込んだネギに――エヴァンジェリンの口元がつり上がった。

「茶番ではあるが――中々どうして、楽しめる」

 彼女は、闇夜にとけ込むような漆黒のマントを翻し、まるでそこに巨大な舞台があるかのように、何もない空中を移動し、ネギを追う。

「そう――これは茶番だ。最初からそのような事はわかってる。だが――この瞬間に、余計なものは何も要らない。真も嘘も、全てが消え失せた今この瞬間に於いて――こうして戦う事のみが、私たちの存在を実感させる――私は今、ここに生きていると」

 とはいえ――エヴァンジェリンは、戦うことそれのみに快感を求めるような戦闘狂ではないし、強力な魔法を放つことに愉悦を感じるようなトリガー・ハッピーでもない。
 けれど、今は――ネギ・スプリングフィールドと戦っている間だけは、余計なことを考えずにすむ。自分の事、ナギ・スプリングフィールドの事、そして、自分の心に無遠慮に上がり込もうとする、あの“座敷犬”の事。
 つまりはこれは一種の現実逃避であり――“悪の魔法使い”としては、あまりに格好の付かない行為である。それ自体は、彼女自身理解している。
 だからせめて、それらしく振る舞ってみるのだ。今宵は、悪の魔法使いが暴悪に荒れ狂い、無謀にも立ち上がった小さな勇者をいたぶる、そのような趣味の悪い宴。今はそれでいい。

「さて、ネギ・スプリングフィールド。聞こえているか? 逃げ回るだけでは私は倒せん。ましてや、貴様の言う“思い”とやらも、私には届きもせん。 ははっ――とはいえ、真正面からぶつかってきたところで、今の貴様では、私には指一本触れられはすまいがな」
「そんなことは――そんなことは、わかっています」

 不意にネギは、杖から飛び降り――地面に降り立った。そこは緑地帯の末端、川の上に石造りの橋が架けられた、遊歩道の一角だった。地面に降り立った彼に対して、エヴァンジェリンもまた、ふわりと空から舞い降り――マントをはためかせて着地する。
 二人は自然、橋を挟んで向かい合う形となった。

「どうした? もう、観念したのか?」

 ネギは、不敵に笑うエヴァンジェリンの言葉には応えず――黙って、彼女を見据えた。

「何故動かん? それも何かの作戦か? まあ、こちらとしては、貴様が何を考えていようが関係は無いが、な」

 くくっ、と、喉の奥で、エヴァンジェリンは笑いを噛み殺した。

「掛かってこないのか? それとも、時間稼ぎのつもりか? 確かに戦い方としては有効かも知れんが、だとすればがっかりさせてくれるなよ、ネギ・スプリングフィールド。貴様が私に、自分の気持ちを伝えるためならば、魔法の一つや二つくらい、どうと言うことはないのだろう? ならば、決着を付けようではないか。何――安心しろ。命だけは助けて――」

 彼女が一歩足を踏み出した瞬間、その場所を起点に、まばゆい光が、目にもとまらぬ早さで地面を走った。彼女がそれを認識するよりも早く――光は複雑な軌跡を、地面に縫いつけていく。
 それが、一つの図形を描いていると悟った瞬間――彼女は、呼吸すら苦しくなるほどの重圧を感じた。

「これは――捕縛結界か?」

 複雑な図形――いわゆる“魔法陣”と呼ばれる幾何学模様の中心で、エヴァンジェリンは重圧に耐えかねて片膝をつく。気がつけば、いつしかその模様の一歩だけ外側に、ネギが立っている。

「……僕の勝ちですね、エヴァンジェリンさん」
「なるほど――私の隙をつく戦いをしているように見せかけて、その実、この場所に私を誘い込んだと言うことか」
「その結界は、カモ君が解析した学園の結界を元に作ったものです。学園のそれと同様に、もちろん効果範囲はせいぜい数メートルですが――あなたの力を封印する効果がありますから。その中に居る限り、エヴァンジェリンさんは普通の中学生と変わらない」
「ふん――そして、普通の中学生には、“魔法使い”の使う“魔法”を破ることなど不可能だと、そういうことか?」
「……あなたの事を知っていたからこそ出来た、卑怯な作戦ですけれど――」
「ふふ……わかっているじゃないか、“立派な魔法使い”殿」

 皮肉を交えて、エヴァンジェリンは言う。ネギの眉が、小さく動いた。
 しかし、彼は何かを言いかけて首を横に振り――努めて冷静な風に、言葉を紡ぐ。

「戦う前に、僕が言ったことを覚えていますか?」
「貴様が勝ったら、真面目に授業に出て卒業しろとか言う戯言か? 貴様はその年で、既に耄碌しているのか? 貴様の父が――“立派な魔法使い”ナギ・スプリングフィールドが、私にかけた呪いを、よもや忘れたわけではないだろう?」
「けれどそれは、あなたの背負う事情の一面でしかない。問題があるなら考えればいい。違いますか?」
「ネギ・スプリングフィールド――それは、私を単なる雌ガキとして、この学園に縛り付けているこの呪い――“立派な魔法使い”の手によってなされたそれが間違っていると、そう言いたい訳か? そうならば、中々愉快だがな」

 エヴァンジェリンの言葉に、ネギは歯を食いしばり――首を横に振った。

「違います。エヴァンジェリンさんが“悪の魔法使い”ならば――父さんのやり方が間違っているとは、僕には言えない」
「貴様、私を馬鹿にしているのか?」
「けど!」

 ともすれば泣き出しそうな表情で、彼はエヴァンジェリンに言った。

「けど、今のエヴァンジェリンさんのやり方だけは、絶対に間違ってる!」
「……何を馬鹿な」

 彼女の笑みは、崩れない。

「私は“悪の魔法使い”だぞ? 貴様が、私を間違っているというのならば――すなわち、それが私のあり方としては正しいと言うことだ」
「それでも僕は、あなたに間違ってほしくない。その決意を込めた、この戦いだった筈です」
「そうだったな。久方ぶりに全力で戦えるのが嬉しくて、ついつい忘れてしまっていた」

 ネギは拳を握りしめ、彼女に言った。

「――卑怯なやり方だったかも知れない。けれど、僕は勝ちました。僕が本気だって事――ほんの少しでいい、あなたに伝わりませんでしたか?」
「……なあ、ネギ・スプリングフィールド」

 すっと、結界の中で――エヴァンジェリンは立ち上がった。閉じこめている対象に強烈な負荷が掛かる筈の魔法陣の中で、である。ネギは思わず、半歩ほど後ずさってしまう。
 だが、立ち上がったエヴァンジェリンは、何をするでもなく――ただじっと、彼の方を見つめている。

「私は一度卒業したところで、また中学生をやり直すだろう。この学園都市が存在する限り、永遠に。それはまあ――貴様の気にするような事ではない。私は悪の魔法使いだ。それも、“立派な魔法使い”――ナギ・スプリングフィールドに無様に破れた、な」
「……父さんが」
「そうだ。だから今の私は、囚人のようなものだ。日々の労働に服する囚人のように、終わりのない日々を過ごす。それが私の罪に対して与えられた罰だというのなら、貴様は何も気にする必要はない。私が貴様の授業をサボるのが気に食わんと言うのなら、戯れに授業に出てやってもいい。私にとっては些細な違いに過ぎんさ。だが――」

 彼女のアイスブルーの瞳が、鋭く細められる。

「そのようなことに、何の意味がある。必死の思いを込めて、私の間違いを指摘したところで、それが何だと言うのだ?」
「わかりませんか? 単純な話です。僕はあなたに間違ってほしくない。だから、僕はこうして――」
「立派なお題目を唱えて逃げだそうとするんじゃない、ネギ・スプリングフィールド。いや――まあ、そういうやり方は“立派な魔法使い”の常套か?」

 心底くだらない――と、彼女は言い、ネギを小馬鹿にしたように、小さく笑う。

「何を言おうが、貴様の勝手だ。そこに強い思いや覚悟が込められているのも、実に結構な事だが――貴様は、世の中が自分を中心に回っているとでも思っているのか? 自分が正しいと思うことを、必死に説けば、必ず誰しもがわかってくれるはずだと――ふん、貴様はどこのテロリスト様だ。大笑いもいいところだな」
「……わかってます。全てが全て――そんなに、簡単な事じゃないって事は」
「いいや、わかっていないな」
「わかっている――ええ、わかっています。わかりたく――わかりたくないけれど!」

 ネギは首を横に振りながら叫ぶ。
 戦って、自分の正しさを相手に押しつる事を、間違っても正しいとは思わない。それは、ネギ自身も言っていたことだ。だから、彼は単純に、自分の気持ちの強さを、エヴァンジェリンに説いた。
 ただし――相手がそれを聞き入れずに、身動きがとれなくなる。
 その結果、自分の思う理想を、相手にぶちまけたのでは――自分が否定したそのやりかたと、一体何が違うというのか。

「ふん。全く子供だな――ま……子供らしく喚くのもまた、いいのではないか? “ネギ先生”は、まだまだ幼いのだからな」
「……」
「それに――今宵のパーティの誘いを受けたのは、私自身だ。貴様の思いの強さもまた、見せてもらった。押しつけられると言うのではなく――私たちの意志をぶつけ合った結果に、私が負けたというのならば――貴様の言うことにも考える価値はあろう」

 エヴァンジェリンのその言葉に、ネギは顔を上げた。彼女は、自分の話を聞いてくれると、そう言ったのか? だが――そんな彼の顔を見て、エヴァンジェリンは、冷たい笑みを浮かべる。

「“私が負けたというのであれば”――な。なあ、“ネギ先生”――不思議には思わなかったか? 何故私が一人で、この場に居るのか――貴様は、“あの夜”の事を、忘れてしまったのか?」
「――ッ!?」
「よもや“闇の福音”を、この程度の罠で押さえ込んだつもりになってくれるとは――なあ、ネギ・スプリングフィールドよ。あまり私を――舐めるんじゃないぞ?」

 小さな彼女の影から、細い腕が、ゆっくりと現れた。その持ち主は、ネギの結界を意に介する様子もなく、淡い光の中でゆっくりと立ち上がる。薄緑色の長髪を持った、不思議な少女。エヴァンジェリンの従者、絡繰茶々丸。
 彼女の顔の横――耳の位置に取り付けられた、アンテナのような機械が、小さな音を立てて開いた。その内部は、赤く明滅を繰り返す、ネギには理解できそうもない機械の集合体。
 ややあって――彼女は、ゆっくりと、その閉じられていた瞳を開いた。

「申し訳ありません、ネギ先生――結界解除プログラム、作動します」

 言葉と共に、彼女の足下の燐光――“魔法陣”を構成する記号の一部が、削り取られたようにかき消えた。魔法陣とは、その図形それ自体に意味を持たせたものである。彼女の行った行為は、集積回路の一部を削り取ったに等しい。

「そんなっ!」

 当然、ネギの仕掛けた魔法陣は、その効果を持続させることが出来なくなり、光を失って消え失せる。しかし、彼は聞いたこともない。魔力によって描かれたラインを、まるで地面をひっかいて引いた線であるかのように、簡単にかき消してしまう方法など。

「さて、夜はまだ長い。ダンスを続けようか、ネギ・スプリングフィールド?」
「く――……」
「ふん、“立派な魔法使い”とやらに、悪の魔法使いの美学を押しつけても詮ない事かも知れんがな。勝ち戦でなければ言いたいことも言えんような奴は、私は好かん」
「そんな――僕は、あなたと戦いに来た訳じゃない」
「この期に及んで詭弁だな。確かに今宵の茶番、その本質は、戦いとは別のところにあるのかも知れん。しかし、貴様はそれを受け入れた」
「……」

 エヴァンジェリンが、一歩足を踏み出す。ネギは杖を構えたまま、一歩後退る。エヴァンジェリンの口元が、愉快そうに弧を描き――

「――さて、“貴様ら”の大好きなネギ先生は、今現在危機的状況にあるぞ? 出てくるなら今じゃないのか? この機を逃せば、貴様らは無粋な覗き魔で終わってしまうぞ?」
「えっ!?」

 ネギは弾かれたように、唐突にエヴァンジェリンが目線を向けた方を振り向いた。

「別にのぞいていた訳では御座らんが――確かに今を逃せば、格好は付かぬで御座ろうなあ、明日菜殿」
「……私に振らないでよ」

 白銀の髪をたなびかせる、ネギには見慣れない装束の少女と、彼にとって見慣れた制服を身に纏う、亜麻色の髪の少女――犬塚シロと、神楽坂明日菜が、そこに立っていた。










エヴァンジェリンの台詞の一部、およびアクションシーンの一部は、
漫画「ランポ」(上山徹郎著)を参考にしています。

ここで「おお! あれか!」となる方もまた、
きっと作者といい友達になれるに違いない(笑)
「佳句爆弾(トゥルーライズ)」どっかで使ってみてーなあ(爆)
決戦の場所が原作とは多少違いますが、
まあ、その辺りには目をつぶるとして。

タイトルを含めて、参考というか借り物が多い今回です。
自分の底の浅さに多少のため息をつきながらも、次回へ続く。

それと管理人様、掲示板復旧作業お疲れ様です。
この場を提供してくださっている管理人様に、精一杯の感謝を。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・身勝手な思い
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/04/26 16:46
どうやら僕らに必要なのは、一と零の間らしい。
けれど、一と零の間と言ったって、無限にあるじゃないか。




「明日菜さん――それに、犬塚さんも」

 ネギの喉から、突然現れた二人の少女の名前がこぼれた。
 彼女たち――特に明日菜の姿を見て、ネギには言いたいことが色々あった。何故この場に彼女が居るのか。この一件には手を出さないで欲しいと言った筈ではないか。いや、それより何より、この場は“危険”だ。だからすぐにこの場から立ち去ってもらわなければ――
 しかし、彼が言葉を探しているうちに、彼と対峙するエヴァンジェリンが、二人に向かって言った。

「まあ――この状況で覗くも何も無いか。こちとら、久方ぶりに首輪が外れたものでな。ついつい楽しくて、羽目を外してしまった」
「なるほど。それは結構な事で御座る」

 シロが小さく微笑み、エヴァンジェリンに言う。
 彼女の言葉を挑発ととったのか――エヴァンジェリンはシロに向き直り、その澄んだアイスブルーの瞳を、薄く細めて見せる。

「では、貴様らに、他人をのぞき見るような悪い趣味が無かったとして――悪いが今宵は、私とネギ・スプリングフィールドのダンスパーティだ。いささか相手に不満はあるが――それでも、無粋な横槍はご遠慮頂こうか?」
「そう睨むものではないよ、エヴァンジェリン殿。それにしても――世の中には、物騒な舞踏会もあったもので御座るな、明日菜殿」
「いや、シロちゃんがそれを言う?」

 一風変わった和装――少なくともネギの目にはそう見えた――に、日本刀を腰に掃く少女の言葉では、確かに説得力は薄かろう。

「拙者としても、そのような事に横槍を入れるような無粋な趣味は御座らぬ。されど、今ひとつ興が乗らぬようでは御座らぬか、エヴァンジェリン殿?」

 エヴァンジェリンの眉が小さく動き――ネギの表情にも変化が現れる。もっとも彼の方は、シロが何を言っているのかわからないと、そういう変化であったけれども。

「拙者、何分心底日本人で、それも度を超した田舎者で御座る故。ネギ先生やエヴァンジェリン殿のような、洒落た西欧人の嗜みなどはわからぬ。されど、何と言おうか、こう――今ひとつ、締まらぬのではないか? 左様――終わりのない舞踏を踊る事が出来ぬ人間などおらぬ。最後には疲弊して、へたり込んでしまうのが関の山」
「犬塚シロ。貴様はどうやら、“ものの喩え”というのが今ひとつ苦手なようだ。まあ、貴様に諧謔の聞いた洒落など期待してはおらんが――ふん、まあ、何が言いたいのかはわからなくもないが、単刀直入に言ってみろ」

 エヴァンジェリンはつまらなそうに鼻を鳴らし、シロに問う。問われたシロは、困ったように無造作に頭を掻きながら、首を横に振った。

「この戦いに意味などなかろうと、そう申しておる」
「犬塚さん」

 その単純な返答に、口を挟んだのはネギだった。

「それは――それは、わかっています。わかっているつもりです」
「――言葉が足りなんだ。いやさ、ネギ先生を馬鹿にしているつもりはないので御座る。そのように傷だらけで、されど泣き言一つ言わずに立っているネギ先生を見れば、言いたいことはわかる故」
「その通り、この戦いなど、それ自体は茶番だ」

 エヴァンジェリンは長く息を吐き、腕を組んで言う。

「だが私は悪の魔法使いだ。道理では動かん。そんな悪の魔法使いに、そこの子供先生は自分の気持ちを見せつけたいのだと言った。まったくの茶番ではあるが、戦う理由には十分だ。つまりは、それを理由に私は戦いたい。それだけで、な」
「ふむ、理屈はわからなくもないが――女性はもう少し淑やかな方が宜しいかと」
「貴様が言うな」

 じっとりとした目線で、シロの腰に提げられた日本刀をにらみつけ、エヴァンジェリンは言った。

「だいたい貴様のその格好は何なんだ?」
「“ぷりちー”で御座ろう?」

 冷たい静寂が、辺りによぎる。己の背後に立つ明日菜までもが、何だか形容しがたい視線を自分に送っている事に気がつき――シロは、小さく咳払いをする。

「……嗚呼、拙者の魅力を理解してくれるお方はおらぬのか」
「って、そっちかい!」
「あたっ! 明日菜殿、いきなり何をいたす」
「こっちの台詞よ。大体シロちゃんなら、横島さん以外の人に、その魅力とやらを理解されても困るんじゃないの?」
「はっ……それは――盲点で御座った。明日菜殿やエヴァンジェリン殿は、同じ女性故良いとしても――申し訳御座らんがネギ先生、拙者には既に心に決めたお方が――」
「漫才はそのくらいにしておけ。いい加減私も我慢の限界だ」

 こめかみに青筋を浮かべて言うエヴァンジェリンに、明日菜は慌てて目線をそらし、シロは先ほどよりも大きな咳払いをして、言葉を打ち切った。

「ネギ先生とエヴァンジェリン殿が対立する事になった、その理由は聞き及んでおる。されど、今一度問い直す。お二人は、何故戦うので御座るか?」
「愚問だな」

 エヴァンジェリンが言った。

「私にもこのガキにも、譲れぬものがある。それだけで戦う理由には十分だ」
「は――まるで子供で御座るな」
「……なんだと?」
「ちょっと、シロちゃん?」

 心底呆れた、と言う風に、シロは肩をすくめる。
 彼女が他人を馬鹿にする事などほとんど無い。明日菜から見れば馬鹿馬鹿しさを押し固めて作ったようなネギでさえ、彼女は理解しようとする。それが出来るかどうかは別にしても――そのシロが見せた仕草に、明日菜は違和感を覚えた。
 だが、果たしてシロは、続けて深く息を吐く。

「ネギ先生はともかく――エヴァンジェリン殿、お主にその様なやり方は似合わぬよ」
「……随分とこの私を見下してくれるではないか、犬塚シロ。断っておくが、今宵の私はひと味違うぞ? 今の私を、いつもの小うるさいだけの雌ガキだと思っているのなら――それなりの代償を覚悟してもらおうか?」
「拙者はエヴァンジェリン殿を信頼して申しておる。されど、頭に血が上って、拙者の話を聞き入れられぬというのならば――多少、その血圧を下げることに助力致そうか?」

 小さく、金属質の澄み渡った音が響く。見ればそれは、シロの左手から発せられていた。彼女が、刀の鍔を親指で押し上げ、鞘から僅かに押し出す――所謂“鯉口を切る”動作の出した音であった。
 それはあまりに自然な動きであって、エヴァンジェリンですら、その音が耳に届くまで、彼女の動作に気づくことが出来なかった。

「ちょっ――シロちゃんっ!!」
「……安心なされよ」

 明日菜が叫ぶ。シロは一呼吸置いてから――再び、刀を鞘に押し戻す。先ほどより小さな音が響き、彼女から感じられていた異様な空気もかき消える。

「つまりは、こういう事で御座る」
「何がだ。貴様の言うことは全く理解出来んぞ」
「はっきり言えば今のは、安い陳腐な挑発で御座る。ネギ先生の思いや、エヴァンジェリン殿の考えというものは、拙者が言葉で語り尽くせるほど安いものでは御座らぬ。それはわかっておるが――果たして今、何が起こっているかと言うことに於いて、今の拙者と大した違いは無い」
「……ふん――なるほど」

 エヴァンジェリンは、不愉快そうにあごに手を当て――疲れたように首を横に振る。

「ならば、その言葉の意味するところを、貴様の後ろで煙を吐きそうな奴に、かみ砕いて教えてやれ」
「はっ……あ、明日菜殿!?」

 見れば明日菜は、シロとエヴァンジェリンに視線を行き来させていた――夢遊病者のような目つきで。彼女は学校の成績こそ底辺級であるが、“頭が悪い”というわけではない。ただ、目の前で行われる、数百年を生きた吸血鬼と、幾たびもの戦いをくぐり抜けた若き侍のやりとりを理解できるほど、人生の経験値が蓄積されていなかったようではある。

「ええと――た、たとえば明日菜殿は」

 赤子をなだめるような優しい目つきで、シロは明日菜に向き直る。

「そうで御座るなあ――あやか殿が、辛抱堪らぬとばかりに飛びつきそうな美少年が目の前に居たとして」
「……あんたらの友情って何なのよ、シロちゃん」
「拙者、あやか殿には紛れもない親愛の情を抱いているで御座るよ? ただ――横島先生と同様、その嗜好に限って言えば、拙者の理解の範疇を超えているというだけで――ともかくその美少年が、ちょうどネギ先生くらいのその男の子が、明日菜さん大好きとばかりに告白してきたら、どうするで御座るか?」
「どうって、何よそのたとえ話」
「だから単なるたとえ話で御座るよ。まあ、明日菜殿が高畑教諭の――」
「わーっ!?」

 ここにいる全員が、明日菜が高畑教諭に思いを寄せていると言うことを知っていたとしても、やはり他人にはっきりと言われたくはないのだろう。明日菜は手を振り回しながら、シロの言葉を遮る。

「そ、そんなガキの言うことなんて気にするわけないでしょうが! 私の前に立つには、二十五年ばかり年が足りないわよ!」
「……四半世紀は長すぎる気もするで御座るが、まあそれはそれとして――」

 結局、純粋な想いを別にしても、明日菜の嗜好というのもまた、シロには理解しがたいものである。もしかすると、彼女とあやかの反りが合わない理由の幾分かは、“それ”なのではなかろうかと邪推しながらも――シロは続けた。

「確かに、いきなりその様なことを言われても困る。されど――それ以前に、明日菜殿は、その美少年が言った告白が、本気であると思えるで御座ろうか?」
「ど、どういうこと?」
「難しいところで御座るが――この際、その少年の告白が本気かどうかは、どうでもいい事で御座る。明日菜殿が、そのときにどう思うか――仮に、少年が本気であったとしても、明日菜殿は彼の言葉を、本気だとは思いますまい。たとえば幼子が父親に対して、“将来お父さんのお嫁さんになる”だとか、そういう類の言葉であろうと、そう考える筈」
「あー……まあ、確かにそうかも知れないけど。つまりそれって?」

 シロは小さく頷き――エヴァンジェリンに向き直る。

「さて――数百年を生きた“闇の福音”は、未だ幼き英雄の息子の叫びに――律儀に耳を傾けてやるもので御座ろうか?」
「――前口上が多少ならずくどいが――知性だの品性だのの割には、頭の出来は悪くないと言っておこう」
「いやあ、偉そうなことを言っても、拙者、数えで十五の小娘で御座るからなあ。それほど出来がいい方では御座らぬし、先生程では到底無いとはいえ、それなりの煩悩もある」

 目を細めて言ったエヴァンジェリンの言葉に、シロが頭を掻き――

「待ってください――僕は、僕は本気です!」

 ほとんど叫び声と言ってもいい大声で、ネギが言った。

「確かに、僕は子供だし、すぐに逃げだそうとするし――頭だって良くないのかも知れない。自分の正義を喚いてみたところで、何が正しいのかわからない。どうすればいいのかさえも、わかっていない――だけど! 僕は、子供だからとか、いい加減な気持ちでエヴァンジェリンさんと向き合っているわけじゃない!!」

 シロの言葉は、大ざっぱに言い換える事が出来る。自分は正しいんだと喚いている子供を、果たして大人は相手にするものだろうか、と。それはネギの行動が幼子のかんしゃくのようなものであり、エヴァンジェリンがそれを真面目に相手している現状はおかしくはないか――という疑問である。
 もちろん、自信の行動を、“幼子のかんしゃく”と言い換えられたネギにとって、シロの言葉は到底、受け入れられるものではなかった。

「だからたとえ話の時にも、拙者は申した。“相手の気持ちがどうかは、この際関係ない”と。つまりネギ先生の気持ちが、偽りのないものだったとしても――それはエヴァンジェリン殿には関係ないと、そういう事で御座る」
「そんな!」
「ネギ先生の気持ちはお察し申す。されど――それは誰にでも同じ事。そう、拙者の気持ちが、幼子の頃から変わらぬこの想いが、横島先生に未だ伝わらぬのと同じ事」

 シロは小さくため息をつく。

「エヴァンジェリン殿」
「何だ」
「エヴァンジェリン殿は、この戦いに負けたらどうするので御座るか?」
「万が一その様な事があればの話だが――まあ、このガキの気まぐれにつきあってやる事くらい、悪くは無かろう」
「では、勝利した時は」

 負けたらどうするのか――その言葉よりも、数段強い力を込めて言われた“勝ったときには”という言葉に――エヴァンジェリンの眉が動く。

「……知れた事だ。私は悪の魔法使いであり、欲望のままに生きる吸血鬼だからな。満月でないのがいささか残念ではあるが――月影を肴に、そこのガキの血を美味しく頂かせてもらおうか。何――命までは取らんよ。ただ、私に刃向かうことがどれだけ愚かなことか、二度と馬鹿な考えが起こらん程度のトラウマは、覚悟して貰うがな」
「――左様で御座るか? では、ネギ先生。“この戦いに負けたら”どうするので御座る?」

 同じ質問を、シロは繰り返す。
 ネギは、音がするほど強く、己の杖を握りしめたまま、彼女に応える。

「全てをエヴァンジェリンさんにゆだねる――とは言いませんが、自分の覚悟の弱さを、自分自身に刻みます。でも、意志を折るつもりはありません。何度だって、エヴァンジェリンさんと向き合います」
「ならば、“勝利した暁には”」
「――エヴァンジェリンさんに、自分の間違いを認めて貰います。きちんと授業に出て貰って――そして、卒業して貰います」
「……ふむ」

 二人の言葉を聞いたシロは、芝居がかった様子で、顎に手を当ててなにやら目を閉じ――

「それでは所詮、お二人は今のままと何も変わらぬ。鎖に繋がれた犬のごとく、同じ場所を何度も回るだけの時間を過ごすだけで御座ろうな」




「ほう――おもしろい事を言うな、犬塚シロ。貴様は魔法使いでは無いようだが――魔法の世界の事を少なからず知った上で、私にその様な言葉を投げかける奴が居るとは、思ってもみなかった」
「今更で御座ろう」

 冷たい殺気を纏わせながらこちらを睨むエヴァンジェリンに――一瞬、明日菜は腰を抜かしそうになったが、シロは平然とした様子で、それを受け流す。

「お二人の話を聞く限りでは、どちらが勝ったところで、現状に変化はない。それともお二人の言う勝利とは、敗者を仮初めの意志の元に従わせる事であると言うのか? 魔法使いの間では知らぬ者のない闇の福音、そして、御年十歳にして溢れんばかりの才能を持つ天才魔法使い――そのお二人とは思えぬ痴態では御座らんか」
「仮初めって――犬塚さん、僕は」
「仮初めで御座るよ」

 ネギの反論も、シロは小さく首を横に振ることで否定する。

「エヴァンジェリン殿のやっていることが間違っている――まあ、悪の魔法使いを自称する彼女の事で御座る。それは拙者も否定はせぬ。されど、ろくな展開図もなしに、彼女を自分の思う道に放り込もうとしても――それは無茶というもので御座るよ」
「……違います。僕は、エヴァンジェリンさんの呪いも――何とかしたいと思っています」

 ネギは何かを振り払うように、シロに言う。

「その呪いが――“闇の福音”である彼女を押さえるためのもので――それを否定することは、今の僕には出来ません。けれど、僕は――それよりも何か、別の方法がきっとある。そう思うんです。そして、思うだけでは何も出来ない――けれど、そう言ったって、今の僕はちっぽけで」

 うつむき加減に、拳を握りしめ――悔しそうに、ネギは言う。

「だからせめて――せめて、僕の決意が本物であることを、エヴァンジェリンさんに伝えたかった。決してかなわないほどに強いエヴァンジェリンさんに、真っ正面から向かい合う事で」
「ネギ先生――では、その“決意”とは何なので御座るか?」

 ネギは顔を上げ――シロの方を見る。

「エヴァンジェリン殿に向かい合う事もまた、決意と言えば決意で御座ろう。されど、ネギ先生は、“向かい合う決意”を見せたいが故に、エヴァンジェリン殿に立ち向かったわけではない。自分はこれほど真剣なのだと――その決意に込められた“意味”は、何で御座るか?」
「――」

 ネギは、言葉に詰まる。
 確かに、シロの言うとおりだ。逃げ出してばかりだった自分が嫌になり、ネギは、今度こそは逃げ出すまいと、エヴァンジェリンの前に立つ“決意”を固めた。それが自分の気持ちを、彼女に伝える手段になると信じて。
 では――伝えるべき気持ちとは、正しさとは――一体、何だったのだろうか?彼女と向かい合い――自分の全力を出して彼女と戦い――そして、勝利して――自分は、どうするべきなのだろうか?
 それはその時に考えればいい、と言うことも出来よう。しかし、今の自分には――
 自分の立っている場所が、突然消え失せたような衝撃を、ネギは感じ――

「とはいえ――“それ”は大した事ではない。拙者、偉そうな事が言えるほど立派な人間では御座らぬし、何より自分自身が、勢いに任せて突っ込んでいく事を、周囲から止められる類の――つまりはネギ先生の同類で御座る」
「えっ」

 あっさりと、自分の意見もまた、正しくはない――そう言って軽く笑うシロに、込めた力の行き先を失ってしまう。
 彼女は一体、何が言いたいのか――そう思っているうちに、シロは今度は、エヴァンジェリンに対して向き直る。エヴァンジェリンは、怪訝そうな顔でシロを見る。

「貴様一体、何が言いたい? 覗き魔扱いしたことが気に入らんなら、訂正してやるが」
「それは是非とも訂正してもらいたいものでござるが」
「ふん――ガキの時分に目が見えなくなる事など、多々あることだ。おまけにそいつは育った環境のせいか、呆れるほどに頭が固い。そんなことを気にしていては、こっちの神経が持たん」
「ならば何故、エヴァンジェリン殿は敢えて、ネギ先生と戦うことを選んだので御座るか?」

 シロは変わらぬ調子で、エヴァンジェリンに問う。

「エヴァンジェリン殿は、この戦いが無意味であることに気がついている。されど、自分は悪の魔法使いだから――敢えて戦うことを選ぶ」
「その通りだ。それが何かおかしいことか?」
「拙者は悪の魔法使いでは無い故に、エヴァンジェリン殿の想いを察する事は出来ぬ。されど――今の状況は、望まれるものではない。この戦いは無意味。戦いの果てにあるものなど、何もない。されど、人生は続く――同じ事を繰り返しながら」

 シロの言葉に、エヴァンジェリンは呆れたように笑った。

「おいおい――失望させてくれるなよ、犬塚シロ。貴様はもう少し面白い人間だと――私は思っていたんだぞ? なのに、今の貴様はどうだ。横槍から現れては、自分の意見をただひたすらに、身勝手に私たちに説く。ふん――それならいっそ、訳もわからず突っ込んできては、力をぶつけてくるそのガキの方が、よっぽど好感が持てる。邪気のない子供は好かんし、無理に他人を理解しようとする大人も好かん。だが――中途半端に他人に正しさを説く貴様のような奴が、私は一番嫌いだ」
「そうで御座るな。拙者もとより、このような理屈屋では御座らん。実は先ほどから、体中がむずむずして、もうどうにも」

 大仰な仕草で、肩の辺りを掻きむしるシロに、エヴァンジェリンは冷たく問う。

「……ならば、どうする」
「ふむ――その問いに対する回答は、拙者よりもむしろ明日菜殿の方が」
「ええっ!? わ、私!?」

 突然話を振られた明日菜は、素っ頓狂な声を上げてしまう。当然だろう。今まで蚊帳の外に居ると思っていた自分が、この戦いに対する答えを持っている――などと言われても、自分には全く意味がわからない。

「何で私なのよ!? 私、二人の事情だってわからないし――シロちゃんがさっきまで言ってた事が、半分も理解できてないわよ!?」
「何を申す。明日菜殿は、ここに来る前――拙者と鉢合わせしたときに言ったでは御座らんか」

 そう言われて明日菜は、先ほどのことを――半ば呆然と、“魔法使いの戦い”を眺めていた時の事を思い出す。あのときの自分は、果たしてなにやら――この二人を納得させる事が出来るほどに、たいそうな事を言っただろうか?
 考えるまでもなく、答えは否、だ。
 自分はただ――

「気に入らぬと――放ってはおけぬと、明日菜殿は言った」
「……それが?」
「そう。“それ”で御座る」

 シロは大きく頷く。
 明日菜には、当然わからない。彼女が一体、何を考えているのかが。

「つまりは、拙者や明日菜殿は、ネギ先生やエヴァンジェリン殿が、何をどう言おうが――この戦いが気に食わぬし、放っては置けないので御座る」

 彼女は、胸を張ってそう言った。
 そこにいた全員が――一瞬、返す言葉を無くして立ちつくす。
 最初に我に返ったのは――自分の言葉が回答であると、一方的に言われてしまった明日菜であった。

「ちょ、ちょっと待って、シロちゃん」
「はい。何で御座ろうか?」
「なんでござろうか――じゃないわよ! 何でそれが、ここでの答えになるの? 私はただ、単純に、ネギとエヴァンジェリンさんが戦うことが馬鹿らしいって――」
「左様。拙者もそう思ったので御座る。ネギ先生とエヴァンジェリン殿が戦うことは、拙者らから見れば、愉快な事では御座らん。はっきり言えば――間違っておる気もする。されど、お二人にはお二人の事情があることも、また理解している」

 それは、と、明日菜は言葉を詰まらせた。

「拙者は、お二人を放っておけぬと感じたから、ここに来た。お二人の導き出したこの結末を気に食わぬと感じたから、身の丈に似合わず、偉そうな説教をした。それだけで御座る」

 それは――酷くシンプルな、一つの答。
 単純すぎて、この場にいる誰もが行き当たらなかった回答。
 譲れない理由で戦う二人が居る。その間に他人が入っていくことは出来ないのかも知れない。

「ならば――拙者にも譲れない理由がある。お二人を放っておけず、お二人が戦うことをよしとも出来ないと言う、譲れない理由が」
「――身勝手な奴だな」

 エヴァンジェリンが言った。その表情に、先ほどまでの嫌悪感はない。

「実に身勝手な奴だ。私らの都合など考えもせず、ただただ自分の感情を押しつける。ふん、そこのガキよりもたちが悪い――だが、人の気持ちに勝手に上がり込む座敷犬としては――そちらの方が、貴様にはお似合いだ」
「失敬な。拙者は狼で御座るよ?」

 憮然として、シロは言う。明日菜はその言葉を、先日の悪ふざけの続きであると――そう受け取った。
 エヴァンジェリンはそんなシロを鼻で笑い――呆然と立ちつくすネギを視界の端に見ながら、彼女に言った。

「ではどうする。私もこのガキも、貴様の身勝手に感銘なぞ受けん。今宵の“ダンスパーティー”を、このようなところでやめる気は無いぞ」
「知れたこと。喧嘩両成敗と言う言葉が、この国には御座ってな?」

 冷たく乾いた金属質の音が――再び、周囲に響き渡った。

「シロちゃん!」

 それが先ほどと同じ、シロの刀から発せられたものであることに気がつき――明日菜は思わず、彼女の手を押さえていた。
 先ほどまで見ていたネギとエヴァンジェリンの戦いもまた――一つ間違えば、相手の命に関わるような危険なものであった。しかし、現実感が無かった分、明日菜はそれを“傍観”することが出来た。
 けれど、シロの持つ刀は違う。それは間違いなく、物理的な威力を持って、相手の命を奪う“武器”なのだ。
 刀で斬られれば、人間は死ぬかも知れない。しかし、魔法の直撃を受けても、人間は死ぬかも知れないのだ。けれどそれを理由に、“だったらこれも”と言うわけには、流石に行かない。
 押さえつけた級友の腕は、細くて柔らかく――自分と同じ、年頃の少女のものだった。
 明日菜は内心の葛藤を押さえつけ――シロの顔を見上げる。そこに浮かぶ表情は――

「明日菜殿」
「……駄目。抜かせない」
「拙者は」
「絶対に、駄目。シロちゃんが――放っておけないから、あいつらの戦いに首を突っ込むって言うなら――私も、放っておけない。だから、止める」

 そこに浮かんでいたのは、存外に柔らかい表情であった。それでいて、少し困ったような――ややあって、彼女は言った。

「明日菜殿は、本当に優しいお方で御座るな」
「そんなことはどうでもいい。私は一度は、ネギを止められなかった」
「明日菜殿には、その責務は御座らんよ」
「でも、それは――違うと思う。私も今、何が言いたいのか何がしたいのかわからない。でも、でもね――駄目だって思うんだ。これ以上は、絶対に、駄目」

 シロの手の甲に、熱い滴が落ちた。明日菜はきっと――今の自分が、涙を流していることに、気がついていないのだろう。

「……お二方。ここは――明日菜殿に免じて、刃をひいてはくださらぬか?」
「――明日菜さん、あの、僕は――!」
「愚問だな」

 ネギの言葉を遮り、エヴァンジェリンは笑う。

「そのような茶番で私の心を動かそうとは、お笑いだ」
「……“ツンデレ”もそこまで来ると、もはや芸術で御座るなあ、エヴァンジェリン殿?」
「言ってくれるな犬塚シロ。私が、その小娘のくだらない言動に感銘を? は――自分が実感を持てぬ魔法での戦いは見ていられても、直接に相手を殺傷する戦いは見ていられんか。それでは、ホラー映画のワンシーンに、思わず目を伏せているようなものだ」
「それでも悩んだ末の行動で御座ろう。以前にも言ったが――拙者は、人の持つそのような原初の優しさを、否定したくは無い故に」

 シロはそっと、腕をつかむ明日菜の手を引き離した。

「――ネギ・スプリングフィールド」
「は、はいっ!」

 呆然と――そのやりとりを見守っていたネギは、突然に掛けられたエヴァンジェリンからの声に、肩を跳ね上げる。傷の痛みなど、とうに気にならなくなっていた。

「どうやら、あの“自称”狼をどうにかせねば、私たちのダンスパーティーは、これ以上は続けられん」
「――まさか、犬塚さんを?」
「勘違いするな。悪の魔法使いにも道理はある。私は美しくない悪者は好かん。何、簡単なことだ。お前が、犬塚シロを排除しろ」
「そんな、何を――!」
「聞け」

 冷たい笑みを浮かべ――エヴァンジェリンは言った。

「奴の獲物は、あの日本刀だ。魔法使いが魔法なしに戦えぬように、口ではどう言おうが、あの刀無しに、奴が魔法使いの戦いを“止める”などと言うことは不可能だろう。だとすれば――貴様の得意技の出番ではないか? 誰も傷つく事無く、私たちはパーティーを続けられる」

 武装解除を使え――彼女はそう言っている。相手の武器や防具を丸ごと消し飛ばす事の出来る、ネギの“得意技”――確かに、相手を無力化することは出来ようが、

「……いや、でも――その、女の子に対してあれは」
「私には遠慮なしに使ったではないか。それとも、私は女では無いとでも言いたいのか? 犬塚シロの言うことには、奴なりの理屈は通っている。だが――私も貴様も、奴の言い分を承伏するわけにはいかん。反論は認めんぞ? もしそうだというのなら、貴様はこの場所には最初から立たずにいた筈だ」
「う……」
「ネギ――あんた」

 涙に濡れた顔のまま、明日菜がネギの方を向く。赤く充血し、潤んだ瞳。頬を濡らす涙。嗚咽が漏れ出ないように力が込められた口元――その表情は、まっすぐに彼の心を打つ。

「犬塚さん」

 その涙に、押しつぶされそうな罪悪感を覚えつつ――ネギは言った。

「犬塚さんの言いたいことは――よく、わかります。いえ、もう今の僕には、そんな偉そうな事は言えない。けれど、僕は――」
「構わんで御座るよ、ネギ先生。言ったで御座ろう。拙者の言い分とて、また身勝手なもの。ネギ先生の想いも、エヴァンジェリン殿の気持ちも、全く考慮には入れておらぬ。ただ、お二人のやり方が気に食わぬだけで――邪魔をして欲しくないという気持ちは、少なくとも間違いでは御座らぬ――明日菜殿」

 シロは明日菜の方を向く。彼女は、涙の滴をまき散らしながら、力一杯首を左右に振った。

「駄目、駄目なの。お願い――お願いだから。わかってよ――シロちゃんまで――なんでわかってくれないのよ」
「いや、何というか――その、ネギ先生の“得意技”というのがなんなのかはわからぬが――なにやら拙者、このままでは明日菜殿ともども、非常に受け入れがたい結末を迎える気がするので御座るよ。危険な目に遭うとかそう言うのとは違う――乙女としてのアイデンティティを失うというか――何というか」

 顔を引きつらせながら、シロは言った。
 ネギの“得意技”がなんなのか。戦う彼を見たことのないシロには、想像もつかない――筈なのだけれど、己の霊感に、何者かが全力で警鐘を鳴らしている。このままでは、自分にとって受け入れがたい事態を招く、と。
 エヴァンジェリンはそんなシロを一瞥し――つまらなそうに言った。

「ふん――貴様が躊躇うと言うのなら、私がやってやる。ただ貴様のそれと違って、氷を操る私のそれは、多少、“乙女”の肌に傷を付けるやも知れんがな」
「くっ……犬塚さん!」

 エヴァンジェリンの使う“氷結武装解除”は、ネギの“風花武装解除”と同系統の魔法であるが――相手の武装を、液体窒素につけ込んだ花びらのごとく、氷付けにして粉砕する、というものであるが故に、相手の体そのものにダメージを与える危険性は、確かにある。
 それを避けるには――エヴァンジェリンが痺れを切らす前に、自分がやるしかないだろう。

「……仕方あるまい」

 シロは、小さくため息をついた。エヴァンジェリンの口が、小さく動き、祝詞を――

「くっ……風花・武装解除――フランス・エクサルマティオー!!」

 “魔力”の込められた風が、シロと――彼女の側にいる明日菜に向けて吹き荒れる。明日菜は思い出したくもない記憶を喚起され、ネギをにらみつけながらも、咄嗟に服の上から胸を押さえ、前屈みになる。
シロはそんな彼女の仕草を怪訝に思いながらも、大きく音を立てて息を吸い込み――

「ァアォオオォオオオォォォォオオォオオオオ――――ァアアァッ!!」

「くっ!?」
「ぅあっ!!」
「きゃうっ!?」

 耳と言わず、体全体が震える程の強烈な大音量――華奢な少女の喉から絞り出されたとはとても思えない程の咆吼が、シロから発せられた。その場にいた全員が、本能的に耳を押さえる。彼女の側に立っていた明日菜などは、彼女の後ろ側に立っていたにもかかわらず、視界がゆがみ、平衡を保っていられない。芯が鈍く痛む耳と頭を押さえながら、歪んだ視界の中に、シロの銀髪を捉える。

「……ば、バインドボイス?」

 近頃木乃香と嗜んでいるゲームの用語が、自然と口からこぼれたが、今はそんな自分の声にすら、耳が痛む。そこで――ふと、気がつく。
 自分はまだ――ちゃんと、服を着ている? 傍らに立つシロもまた、左手を刀に添えたまま、エヴァンジェリンとネギを見据えている――
 その解答は、エヴァンジェリンがはじき出した。

「く――まさに、魔狼フェンリルの咆吼だな」
「申し訳ありませんマスター――先ほどの咆吼で、聴覚センサーと、姿勢制御装置の一部が機能不全を起こしており――戦闘の続行は不可能です」
「仕方がない。貴様はもう下がっていろ――呆れた奴だ。ただの音の壁だけで、魔力のこもった風を防ぎきるとは――くそ、奴はあのガキ以上の出鱈目だ」

 シロは呻きながらこちらを睨んでいるエヴァンジェリンと、耳を押さえて悶絶しているネギを一瞥し――明日菜に、そっと手を伸ばした。

「突然申し訳御座らぬ。されど――ああしなければ、なにやら取り返しのつかぬ事なっていた気が――ネギ先生に限って、拙者らを傷つける事はせぬ筈で御座るが、何故で御座ろう?」
「い、いいのよ――むしろ、シロちゃん、グッジョブ――けど、けど――あの、ネギの奴――!!」

 怒りの込められた視線で、明日菜はネギを睨む。
 シロは小さく息を吐き――右腕をそっと、刀の柄に添えた。

「――シロちゃ――」
「すまぬ、明日菜殿。悪いようにはせぬ故に」

 すらり――と、衣擦れにも似た音と共に、シロの左腰から、鈍色の輝きが伸びていく。底冷えのするような、独特の美しさを持った日本刀の刀身――それが、月の淡い光を浴びて、ぼんやりと輝く。
 シロは、雨滴にも似た輝きを放つ切っ先までを、その鞘から抜ききると――軽い音を立てて、手の中で柄を半回転させ、峰を返す。

「こうなってしまった事は、拙者としても遺憾の極み――されど、お二人の現状は、もはや敢えて見過ごせぬ。よって――今宵の舞踏会は、拙者が幕を下ろさせて頂く。では」

 すっと彼女は、一歩足を踏み出した。

「語られぬ勇者――横島忠夫先生が一番弟子、人狼族の娘、犬塚シロ――推して参る」










この戦いがここまで長引いているのは、ネギまSSの中でも異例ではないか(笑)

作者が書きたいことを全て書いたからって、
それに何の意味もない――それはわかっているつもりなんですが。
いやあ、二次創作SSって楽しいですねえ……



[7033] 麻帆良学園都市の日々・淡く儚い光
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/04/27 20:59
昔の思想家が言った。
危機に陥っている人間を、自然に助けようとしてしまう。それは本当に自然な事だ。だから自分は悪者であるなどと、強がってはならない。
もう一人の思想家が言った。
人は良くなる事が出来る。良くなることが出来ると言うことは、最初は悪かったと言うことだ。だから自分は善人であるなどと、吹聴してはならない。

結局どちらが正しいのか、わからなかった。
だからドアを開けて、外に出かけてみる事にした。




 鬼――それは、極東の島国、この日本という国に伝わる、伝説の化け物である。人間を遙かに超える身の丈と、筋骨隆々たる強靱な体を持ち、持ち上げる事すら難しそうな金棒を軽々と振り回す。果たしてその顔は恐ろしく、耳まで裂けた口には牙が並び、眼光は鋭く恐ろしく、そして額には、鋭い角が生えている――
 少なくともこの国に育った人間ならば、一度は聞いたことがある、もっとも有名な化け物。一説には、地獄の門番とも、神の一族であるとも言われるが――まさに今、二人の若者――藪守ケイと、長瀬楓の前に立つその異形の影は――当然二人の知識の中にもある“鬼”そのものだった。
 長身の二人をして尚、見上げるような体躯。襤褸切れのような布を纏うその体は、はち切れんばかりの筋肉で固められている。そしてその様な、隆々たる体躯の上に乗る頭には――牙の並ぶ口があり――不気味に輝く、ただ一つだけの目が、二人を見下ろしている。

「麻帆良ってさ――何かこう、あるの? 鬼退治の伝説とか、そう言う奴」
「いや――少なくとも拙者は聞いてないでござる。それが何か?」
「いやね、そう言う伝説が残ってる地方には、大概その伝説の“もと”になった何かがあるもんなんだよ。火のないところに煙は立たぬ――なんて言うでしょ? その中には、本当に、大昔に誰かが化け物と戦った歴史を持つ場所もあって――かつてその地に封じられた“そういうもの”が、ひっそりと現代に残ってる、なんてこともあるわけで」
「……現実感がないでござるなあ」
「わかるよ、それ。僕だってゴースト・スイーパーやってなかったら、そんな夏場の怪奇特番みたいなこと、本気に出来ないよ」

 ケイはこう見えて、世界最高とも名高いゴースト・スイーパー、美神令子の事務所に籍を置く、第一線で活躍するゴースト・スイーパーである。彼が語るその話は、自身の“趣味”を棚に上げても、それほど道を外れない人生を歩んできた楓には、程度の低いオカルト番組かタブロイド紙の類にしか聞くことが出来ない。
 しかしそれは、紛れもない事実なのだろう。何よりも――目の前に立つこの恐ろしげな“鬼”は、いくら自分が現実逃避をしたところで、消え失せたりはしない。
 鬼がまた一つ、耳をふさぎたくなるような咆吼を上げる。だが、耳をふさいですくみ上がる程の余裕など、二人には与えられていない。あらゆるものを根こそぎになぎ払う“金棒”の一撃が、横薙ぎに二人が居た場所を通り過ぎる。
 当然、その様な攻撃をただ食らってやれる筈もなく、すんでの所で二人は背後に跳び、それをかわす。
 唐突にこの“鬼”が現れてからしばらく――襲いかかる攻撃を、二人は必死にかわし続けていた。既に楓の肌には汗が浮かび、呼吸も浅く、早いものになっている。

「……楓さん、大丈夫?」
「まだまだ平気――と、言いたいところでござるが、修行が足りんでござるなあ。それこそ“修行”でなら、これくらい動いた程度、どうと言うことはないのに――」
「ずっと緊張感保って“戦う”のってね、思ってる以上に消耗するんだよ。もう少し下がってて」
「ケイ殿は、平気なので御座るか?」
「これでも現役のゴースト・スイーパーだよ? ……見習いだけど」

 ケイは自分の胸を叩き、苦笑してみせる。視線は“鬼”から外す事無く――彼は小さく呟く。

「でも、変だな――この“鬼”――“鬼って感じがしない”」
「それは――どういう事でござる?」

 振り下ろされた金棒が、地面を砕き――細かな破片を巻き上げる。それに視界を塞がれないように、必死に視界の中央に、攻撃を繰り出し続ける“鬼”を捉える。会話を続けるのも、どちらかと言えば厳しい状態ではあるが――それでも楓は、彼との会話をやめようとは思わなかった。
 それはきっと、自身でも気づかない、単純な恐怖故に。

「うん――鬼ってのはね、かなり高位の妖怪なんだ。もともとは地獄の治安を守る神の眷属だって説も――まあ、美神さんの受け売りだけど。あの人は、本物の“鬼”を知ってるからね」
「ほほう。では、“美神さん”や、横島殿は、鬼と戦った事もあるので御座るか?」
「……ミニ四駆だとかゴルフでだけどね……」
「はあっ!?」
「いやまあそれはともかく。高位の妖怪だって事は、どういうことだかわかる? “そう言う戦い方が出来るもの”って事が、何を意味するか? ――僕らと同じで、“話の通じる相手”なんだよ。少なくとも、こういう――見境もなく襲いかかってくるような、ただの化け物じゃない」
「いやしかし――では、これは?」
「わからない」

 ケイは、首を横に振る。

「だから、楓さんに聞いたんだ。麻帆良には変な伝説とかは無いのかって――」
「いえ――拙者、もともとここの育ちでは無いでござるから」
「他にも気になる事はある。さっきからピリピリ霊感に障る――このプレッシャーとかね」

 そう言って彼は一瞬、暗闇に包まれたままの麻帆良学園都市に目を向ける。楓には、彼の言う“霊感”という言葉はいまいちわからないが――何か形容しがたい威圧感のようなものは、確かに感じ取る事が出来る。不安を覚えたときに、何か見えない手に心臓を圧迫されたような錯覚を覚える、そう言う物にも似た――

「きゃっ!?」
「楓さん!?」

 意識を逸らしたのがまずかったのか、楓は足下の浮き石を踏みつけて、大きくバランスを崩してしまう。
 次の刹那、目の前に迫るのは、まともに当たれば、原型が残るかどうかも怪しい、巨大な棘付きの金棒――

「く――くうぅぅっ!!」

 楓は無理な体勢から、体を無理矢理にひねってそれをかわす。しかし、体の柔らかさには自信のある彼女でも、それはかなり厳しい動作だった。足首や腰など、いくつかの関節を痛めてしまったのが、経験的にわかる。
 しかしそれを痛みとして感じるよりも早く、“鬼の金棒”は、彼女を物言わぬ肉塊へと変えるだろう。楓は眼前に迫る“死”の影に、思わず目をつぶり――

「おぉぉおぉおお――あっ!!」

 喉も裂けよとばかりの絶叫と共に――薄い緑色の光に包まれたブーツの蹴りが、巨大な“鬼”の体を吹き飛ばした。
 蹴り飛ばされた“鬼”は、空中で半回転し――地面を削りながら滑走し、直線上にあった大きな木に激突。それを半ばへし折るような格好で停止した。

「……ケイ、殿?」
「楓さん、大丈夫!? 怪我はっ!?」
「い、いえ、拙者は――しかし、ケイ殿」

 その“鬼”を蹴り飛ばしたケイは、それがなんでもないことのように、あっさりと“鬼”から視線を外し、楓を抱き起こす。
 包み込まれる暖かさに、僅かに頬を染めながらも――彼女はとまどいを隠せない。
 ケイの霊能力の一つ、足にまとわりつかせるようにして発動する“恐爪の魂――スピリット・オブ・ディノニクス”は、脚力を底上げする技のようである。それは、彼との模擬戦を通じて理解している。
 しかし――それはどちらかと言えば、もっぱら機動力を上げるために使われていて、純粋に攻撃に転用しても、ここまでの威力は無かった筈だ。現に楓は、何度か彼の蹴りを、真正面から受け止めている。
 それは確かに強力な一撃ではあったが――あの鬼は、どれだけ軽く見積もっても、楓の数倍の体重を有しているだろう。それを軽く吹き飛ばすほどの威力が、あの技にはあったのだろうか?
 あるいは単に、彼が手を抜いていただけだったのか?
 いや――確かに彼は本気ではなかった。それは楓にもわかっていた。この藪守ケイという青年は、単純に優しい。だから、女性相手に、“訓練”であると言っても本気で攻撃は出来ないのかあるいは――そういう予測も立てる事が出来た。
 だが――今の一撃は、何かが違う気がした。

「……あとは、任せて」
「し、しかし、ケイ殿!」
「大丈夫。今のでわかったんだ。きっとあれは――」

 果たして、楓には理解できない何かが“わかった”らしいケイは、立ち上がろうともがいている鬼に目をやり――
 ふと、鬼を睨む彼と、呆然と彼を見つめる楓――その視界を、薄い緑色の燐光が横切った。
 それは丁度、ケイの“霊能力”とよく似た淡い色であり――それに加えて、まるで蛍火のような儚さを持った、美しい色彩。
 楓は自然と、その光を追う。この時期に、まさか蛍というわけでもあるまいが――

「……蝶?」

 それは、一匹の蝶だった。
 もちろん、夜に光りながら飛ぶ蝶など、楓は知らない。単に自分の知識の底が浅すぎるせいで、世の中にはそう言う物も居るのかも知れないが――少なくとも、楓はそんな物は、見たことがない。
 視界に薄い残像を残しながら、薄緑の燐光を纏わせた蝶は、二人の周りをゆっくりと回り――そして、現れたときと同様に、何処へともなく飛び去って行った。

「今のは一体、何でござろうか――? ……? ケイ、殿?」

 そこで楓は気がついた。ケイが――呆然と、蝶が飛び去った方向を見つめているのを。

「ケイ殿、どうしたのでござる? あの蝶が、どうかしたので――」
「……まさか――にーちゃん?」

 楓の言葉に気がついた様子もなく……ケイはただ一言、ぽつりと呟いた。




「さて――喧嘩を終わらせる目的でやって来た拙者が、騒ぎを大きくしているようでは話にならぬ故――手短に行かせて貰うで御座るよ?」
「は――無知と蛮勇も、ここまで来るといっそ小気味良いな。犬塚シロ――ゴースト・スイーパーとしての貴様の腕がどの程度の物か知らんが、その得意げな顔が地べたに這い蹲るのが、今から楽しみだ」
「それは結構。では」

 シロは、明日菜から一歩離れる。峰を返し、だらりと脱力したように刀身を下げたその姿は、とても“構え”などと呼べる物ではない。ここから彼女がどう動くのか、あるいは自身の使う“魔法”と同じような飛び道具でも持っているのか――エヴァンジェリンは、シロの咆吼で戦線離脱した茶々丸を下がらせると、油断無く相手を睨む。
 果たしてシロは、エヴァンジェリンに視線を向けたまま、無造作に歩みを進め――未だに耳を押さえて膝をついているネギの側に立つ。

「失礼」

 そう言って、彼女はネギの頭に手を乗せる。

「い、犬塚さん?」
「重ね重ね、拙者、お二人の争いを止めるためにここに来た。別に、お二人に危害を加えようという気は御座らんが――ネギ先生、首に力を入れなされ。でなくば――むち打ちくらいは覚悟なされよ」
「あ、あの――うわぁっ!?」

 唐突に、ネギの視界が回転した。いや、自分がどのような体勢になったのかも、ネギにはまるで理解できない。気がつけば、麻帆良の夜空が一瞬視界をかすめ――

「ぶはっ!?」

 次の瞬間、彼は川の中に、頭から突っ込んだ。

「くっ――!」

 それとほぼ同時に、エヴァンジェリンは己の外套に“魔力”を込めて、横合いから繰り出されたシロの蹴りを受け止める。吸血鬼の膂力からすれば、大して重い一撃ではないが――エヴァンジェリンは、外套越しに、シロを睨み付けた。

「出鱈目な!」
「前に言ったような気もするが――拙者らの世界では、真面目に生きた人間が馬鹿を見る故。戦いとは即ち、相手の虚をつく事から始まる」

 シロは、ネギの頭を“踏み台”にして、一息にエヴァンジェリンのところまで跳んだのだ。反動でネギは川に転落。一時的に、戦闘から離脱せざるを得ない。浅い川なのでおぼれる事はなかろうし、あれだけの戦闘が出来るネギが、“うっかり”で大けがを負ってしまうというのも考えにくい。
 そして、その予測が不能に近い初動からの攻撃。あわよくばそれでエヴァンジェリンの意識をも刈り取り、戦いを終わらせる――それが、シロの目論見だったのだろう。

「ふん――貴様は侍ではないのか? 侍とは世界一誇り高き剣士である、と、私は昔聞いた覚えがあるのだがな」
「むろんその通り。ただ、相手の隙をつく事は、己の誇りとは関係御座らん。かの剣豪宮本武蔵も、真剣勝負を前に隙を見せる方が悪いと、試合前の相手を斬り伏せた事もあるとか――ま、以前の拙者ならば、とても我慢の出来る戦い方では御座らんが」
「だが、何だ?」
「今の拙者は、侍である前に一介の女学生、そして――」

 シロは小さく舌を出し――唇の端を湿らせる。背筋が粟立つような、外見に似合わぬ妖艶さに、少し離れて見ていた明日菜は、思わず身震いをした。

「あらゆる手段を使って、己の思いを遂げる――一人の女で御座る故」
「ははっ――厄介な相手だな!」

 エヴァンジェリンが身を翻す。勢いで舞い上がったマントが、シロの視界を一瞬遮り――刹那、躊躇無くシロは、後ろに向かって跳んだ。ついさっきまで彼女が立っていたところを、銀色の閃光が通り過ぎる。よく似た輝きを持つ、銀糸のようなシロの髪の毛が、何本か宙に舞った。

「……拙者とて、その様なものを食らってやる気は御座らんが――“それ”はいただけぬで御座るよ、エヴァンジェリン殿」
「貴様が言うな、貴様が」

 振り抜かれたエヴァンジェリンの手には、小振りのナイフが握られていた。その刀身が月の光を浴びて、冷たい光を放つ。シロの持つ日本刀とはまた別の――引き込まれそうな、鋭い光。

「安心しろ。私とて、同級生を斬りつけたなどと言って新聞に載りたくはない。ただ――至近距離戦では、私はいささか、侍相手には分が悪い。距離をとらせて貰っただけだ」

 そう言って、エヴァンジェリンはナイフを投げ捨てる。シロは小さく肩をすくめ――

「ゲホッ! ――い、犬塚、さんっ!!」
「ネギ先生――加減は上手く行ったとは思うが、何処にもお怪我など御座らんか?」
「は、はい。いきなり水に突っ込んだから、鼻に水が入って苦しかったくらいで――じゃ、なくて!!」

 濡れ鼠になりながら、川面から体を起こしたネギが、よろめきながらもシロに向かって杖を構える。

「……今ので終幕といきたかったので御座るが――お二人とも、中々しぶといで御座るなあ」
「馬鹿を言うな。これからが楽しいところじゃないか」
「おや――舞踏会に横槍を入れられるのは御免では?」
「形通りの、“パーティーのためのパーティー”など、つまらんものよ。横槍? ハプニング? ははっ、楽しめるなら大歓迎だ。このつまらん茶番を、盛大にぶちこわしてくれよ、犬塚シロ!」
「……だから拙者は、その舞踏会を止めるために来たのだと言うに」

 苦笑混じりにため息をつき――シロは、長大な刀を手の中で“くるり”と回し――地面に突き立てた。
 地面、と言っても、そこは小川に掛けられた石橋の上。つまりは、石造りの舗装である。しかし彼女の刀は、石の隙間に填り込んだと言うわけでもなく――まるでそこが柔らかい地面であるように、舗装の上に突き立った。

「……ネギ先生、そこ、危ないで御座るよ?」
「へっ?」
「ふん――呪文始動――来たれ虚空の雷、薙ぎ払え――雷の斧――リク・ラク・ラ・ラック・ライラック――ケノテートス・アストラプサトー・デ・テメトー――デュオス・テュコス!!」

 エヴァンジェリンが、杖を振り抜く。途端に辺りに閃光が走り、耳をつんざく轟音が響き渡る。彼女の“魔力”が、雷に姿を変えて、周囲の大気の中を迸り、その急激な力に耐えかねた空気が爆発的に膨張――衝撃波へと姿を変え、地上に雷鳴を轟かせる。
 目を閉じていても、瞼の裏に光が届く程の、猛烈な雷の嵐――突然地上に現れた巨大な稲光の中から、いくつもの雷が、その中央に立つシロを襲う。

「う、うわぁぁぁああっ!?」
「しっ――シロちゃんっ!!」

 その余波が、ネギと明日菜にも襲いかかり――二人は思わず、手で顔をかばう。あんな物を食らってしまっては――明日菜は駆け出したかったけれど、足が動かない。閃光を直視する事さえ出来ない。目の前に雷が落ちたのと同じ――生物としての本能が、彼女に動くことを許さなかった。
 余韻が収まり――巻き上がった砂塵が晴れてみれば、石橋の橋桁の上は惨憺たる有様だった。舗装の化粧石がはがれ、吹き飛び、橋桁自体が半ば瓦解し――まるで、爆弾でも落ちたかのような有様。

「シロちゃんっ!!――エヴァンジェリンさ――エヴァンジェリン――あんたっ!!」
「喚くな、神楽坂明日菜」

 血を吐くような表情で、彼女はエヴァンジェリンに叫ぶ。しかし、エヴァンジェリンは冷たく言い捨てた。

「わ――喚くな、ですって!? あんた、今自分が何をしたか――」
「少し黙れ――出てこい、犬塚シロ。今のは挨拶代わりだ。貴様の不意打ちに比べれば、かわいい物だろう?」

 その言葉と共に、瓦礫が爆ぜた。その中から――一明日菜の身長ほどもありそうな巨大な瓦礫の固まりが、エヴァンジェリンに向かって撃ち出される。

「きゃっ!?」
「品のない攻撃だ。私をあまり――なっ!?」

 流れるような動きで、飛来する巨大な岩塊を難なくかわし――しかし果たして、エヴァンジェリンは驚愕する。瓦礫が撃ち出された地点に、シロの気配が無い。はっとして振り向こうと――

「がっ!!」

 首筋に強烈な衝撃を感じて、エヴァンジェリンはよろめいた。

「確かに、拙者はいささか、かわいげのない力攻めになりがちで御座るな。年頃の乙女として思うところはあるが――まあ横島先生は、その辺りも含めて拙者を受け止めてくれるお方であると、確信しておる故に」
「……貴様」

 エヴァンジェリンの首筋辺りに、強烈な蹴りをたたき込んだシロは――その反動で、彼女から少し離れた場所に着地する。
 ――自ら投擲した瓦礫に突き刺した刀を足場に、瓦礫と共にエヴァンジェリンとの距離を詰め――そして、隠れ蓑にもなっていたその瓦礫の影から、強烈な不意打ちを放つ。エヴァンジェリンはようやく、彼女の攻撃の全貌を理解した。

「しかし、あれを受け止めるで御座るか。さすが吸血鬼――前もって拙者が何をするかわかっておらねば、人間の対応できる限界を超えておる筈なので御座るが」
「――余裕は見せていられん、か」

 “軽くしびれる腕”を、エヴァンジェリンは振ってみせる。シロの一撃は、彼女の意識を刈り取るべく首筋に放たれた――的確に脳を揺らせば、人間だろうが吸血鬼だろうが、肉体を持った相手ならば、たとえ意識が保てても、体の方が動かない。
 しかし、本来なら今宵の戦いに幕を引いただろうその一撃を、エヴァンジェリンはかろうじて受け止めていた。腕を一本割り込ませるのが精一杯だったが――それでも、直撃を避けた彼女に、大したダメージは無い。

「くくっ――愉快だ。実に愉快だ。犬塚シロ、貴様は強い」
「んー……拙者としては、強さよりも可憐さを褒めて貰いたいところで御座るが」
「何、胸を張ればいい。大概、強い者は美しいのだ。人は昔から、武器を人殺しの道具だと忌み嫌いながらも、その美しさに惹かれてきただろう? 貴様の持つ、その日本刀のように」
「……拙者、日本刀と比べられてもあまり嬉しくは無いで御座る」
「せっかく私が褒めてやったんだぞ。光栄に思うが良い。さて――いや、まだ足りん。もっと私を楽しませてくれよ、犬塚シロ」
「だから拙者は、お二方を止めるためにここに来たのであって――」
「エヴァンジェリンさん!!」

 “ざぶざぶ”と、音を立てて水を蹴散らしながら、ネギが橋の上の二人に言う。

「エヴァンジェリンさんの相手は、僕です! 犬塚さんは関係ない!」
「なんだ、ネギ・スプリングフィールド。仲間はずれにされたのが寂しいのか? ならば、貴様もこの舞台に上がってこい。まあ――私たちの間に入ってこれたらの、話だがな?」
「く――呪文始動――ラス・テル・マ・スキル・マギステル――」

 腕を組んで彼を見下ろすエヴァンジェリンに、ネギは杖を掲げ、呪文を――

「明日菜殿っ!!」

 その刹那、シロは大きく息を吸い込み――先ほどの咆吼に届かんばかりの勢いで、明日菜の名前を呼んだ。

「――っ!!」

 名前を呼ばれただけ――ただそれだけだった。具体的に何をしろと言われたわけでも、当然事前の打ち合わせがあったわけでもない。けれど、明日菜は自然に動いていた。
 普段からクラスでも一、二を争うその健脚――女子中学生離れした俊足に鞭を入れて、走り出す。シロの咆吼で鈍く痛む頭も、雷の余韻に力を失いかけていた腰も――もはや、気にならない。
 彼女は、自分でも驚くほどの速度で、“その”距離を駆け抜け――

「このっ――大馬鹿野郎――ッ!!」
「はうっ!?」

 川岸から渾身の力で、ネギに向かって跳躍。盛大な水柱を上げながら、彼と共に川の中に倒れ込む。

「ごぼっ!? うばっ!?」

 当然、呪文を詠唱するために口を開けていたネギは、突然川の中に引き倒される格好になり、口と鼻に流れ込んだ水に慌てふためく。
 その隙に明日菜は、暴れる彼の手から、杖を奪い取り――

「その石頭――私がちったあ柔らかくしてあげるわよ――ッ!!」

 砕けよとばかりに握りしめた右の拳を、全力でネギの脳天にたたき込んだ。

「……きゅう」

 気の抜けた声を上げて、腕の中で力を失ったネギを抱きかかえ――明日菜は、橋の上を見上げ、こちらも負けじと――大声で叫んだ。

「馬鹿一号、確保!!」
「お見事で御座る、明日菜殿!!」

 シロは、全身ずぶ濡れとなった明日菜に、親指を立ててみせる。
 明日菜はそれに、同じように親指を立てて返しながらも――わざとらしく歯をむき出しに、シロに怒鳴った。

「けどね――シロちゃんが刀を抜いたこと、私、怒ってんだからね! そこの馬鹿二号を確保したら、朝まで私の説教を聞かせてやるんだから――逃げんなよ!!」




「さて――どうしてくれる、エヴァンジェリン殿。お主とネギ先生のおかげで、拙者、明日菜殿に怒られてしまうで御座るよ」
「ふん、知るか。私には関係ない」
「強がりを言って居られるのも今のうち。首根っこを押さえて正座をさせてやる故、覚悟なされよ。おそらく明日菜殿のお説教は、拙者の先の一撃より、よほど厳しいものになる」
「せいぜい楽しみにしておこう」

 エヴァンジェリンは、軽く右腕を振り――小さく言葉を紡ぐ。

「――処刑人の剣――エンシス・エクセクエンス――」

 彼女の肩口から手の先にかけて、淡い燐光が滲み出る。それは次第に手の先に集まり、その輝きを増していき――最終的には、彼女の手の先から、彼女自身の身の丈程もある“光の剣”の形を形成した。
 “光”というものは本来、熱を伴うもの――しかし、彼女の作り出したその剣を形作るのは――凍り付くような、“冷たい光”。少なくともシロには、そう感じられた。

「ただの霊波刀――では、御座らんな」
「ほう? ゴースト・スイーパーにも似たような技があるのか? さすがに、新世代の魔法使いは伊達では無いか――確かにこれは、ただの剣ではない」
「その本質を問うても、まさかここでは教えてはくれまいが――意外で御座るな? その剣を生み出したのもまた、“魔法”であるとはいえ――“魔法使い”であるエヴァンジェリン殿が、剣を片手に拙者と戦うと?」
「さて――その辺りの事は、自分で確かめてみるといい」

 話は終わりだと、エヴァンジェリンは“魔法の剣”を構える。その構えは、シロと同じ自然体――と言えば聞こえは良いが、構えと呼べるようなものではない。シロはそのことを訝しみつつも、ゆっくりと刀を構える。
 ややあって、エヴァンジェリンが動いた。最初の一歩を踏み出し――明日菜の目には、その瞬間、彼女の姿がかき消えたように映った。人間にはあり得ない移動速度――吸血鬼の力を存分に生かした、高速の突進。
 しかし逆に言えば、それは吸血鬼であるという、人間以上の力――それのみに頼った一撃。真上から唐竹に打ち下ろされるその軌跡を読むことは、“侍”である事を信条としてきたシロにとっては、実にたやすい。
 彼女の振り下ろす剣に、真横から一撃を打ち込んで剣を払う――
 しかしその瞬間、シロは嫌な予感を覚え、真横に跳んだ。エヴァンジェリンは委細構わず、そのまま剣を振り下ろす。

「……何と」

 舗装の石畳に、エヴァンジェリンの剣は深々と突き刺さった。
 シロが先ほど見せたそれのような、妙な“技術”ではない。エヴァンジェリンの剣が触れた端から――石畳が、まるでドライアイスか何かのように蒸発したのである。

「処刑人の剣――触れるもの全てを問答無用で蒸発させる、魔力の剣だ。高熱でもって溶かすわけでも、膨大なエネルギーでもって焼き切るわけでもない。魔法の力で、そこに触れるあらゆる物を、強制的に“気体”へと変化させる――いわば、物の有り様に直接訴えかける魔法だ」
「――厄介で御座るな――普通に剣や盾で受けよう物なら、その防御ごと切り裂かれてしまうと」
「流石生粋の侍だ。察しが良いな――どうだ? 悔しかろう。私は剣術に於いては、どうあがいても貴様には勝てまい。だが、吸血鬼としての身体能力があれば、貴様の攻撃を認識するくらいのことは出来る。それさえ出来れば、剣士相手とて、私に敵はない」

 そう言って、エヴァンジェリンは小さく笑う。
 エヴァンジェリンは魔法使いであり、武器を使った接近戦は、得意とするところではない。しかし、吸血鬼としての身体能力と、“反則”も甚だしいこの魔法の剣があれば、接近戦であろうが、負けなどはほとんどあり得ないだろう。
 剣で戦うとなれば、相手の攻撃を剣か――あるならば盾のようなもので防御し、相手の隙をついて、こちらの一撃をたたき込まねばならない。
 けれど、この魔法を操る人間には、そんなものは一切必要ない。
 相手の攻撃など、一度でもそれに“合わせる”事さえ出来れば、相手の剣が勝手に蒸発してしまう。“防御する”必要すらない。攻撃に至っては、言うまでもないだろう。
 それでも、ただの人間がこれを使ったところで、よく鍛えられた侍を相手にするには荷が重かろう。こちらは相手の一撃を受けるか、あるいは適当な攻撃を繰り出せば良いだけ――とは言っても、手練れの剣士は、この剣を“避けた”一撃を叩き込んでくるだろうし、生半可なこちらの攻撃など、相手には届かないだろう。
 だが、エヴァンジェリンは吸血鬼である。
 剣術に関しては素人に近いとはいえ――人間を遙かに凌ぐ身体能力を、その小さな体に秘めている。先ほどのシロの一撃を防ぎきったように、“どうにか防ぐ”だけならばなんとでもなるし、何気ない攻撃が、普通の人間にとってはまさしく“必殺技”の威力を持つ。
 ましてや剣の攻撃が届かなかったとしても――彼女にはまだ、本領である魔法の攻撃だってある。

「……鬼に金棒、と言う奴で御座るなあ」
「くく――世の中とは不条理なものだ。いかに人狼とて――貴様が“剣の使い手”である以上、このアドバンテージは覆らんぞ」

 エヴァンジェリンは、光の剣を軽く振る。重さなど存在しないのか、かなりの長さを持ったその剣は、シロの目に残像を残しながら、弧を描く。

「さて、今度はそちらから打ち込んでくるか? まあ――自慢の愛刀がどうなっても良いというのならば、の話だが」
「あー……それは出来れば勘弁願いたいで御座るなあ。この刀を潰してしまったとなれば――拙者は長老に申し訳が立たぬし――多分、美神殿にも――」

 何を想像したのか、シロは自分の体を抱きしめ、身震いをする。その行動の意味は、いまいちエヴァンジェリンにはわからない。
 だが――ややあって、シロは小さく息を吐き、首を横に振った。

「……無駄に自分を苦しめる想像はその程度にして――これでお開きにするで御座るか。下手に絡め手から攻めて、これ以上の魔法が飛び出してきても、拙者としては勘弁願いたいところで御座る故」
「ほう? この剣を相手に、真正面からやり合う自信があるというのか?」
「自信というか――まあ、確かめて見れば宜しかろう?」
「後悔するなよ? 安心しろ。貴様が愛刀ごと真っ二つになる程のへまをせん限りは、適当な力加減はしてやるさ」

 エヴァンジェリンは光の剣を振りかぶり――シロに向かって打ち下ろす。常人の目には、先ほどの雷も同じ、一瞬の閃光にしか見えないその剣を、シロは――

「――シッ!!」
「なっ――!?」

 先ほどと全く同じ――しかし、今度は途中で剣筋を変えたりはせずに、振り抜いた刀を、振り下ろされるエヴァンジェリンの“処刑人の剣”の横腹に叩き込み――そのままの勢いで、地面に振り下ろした。
 “処刑人の剣”は、物質の有り様そのものに干渉する魔法。どれだけ日本刀が優れた刀であると言っても、魔法を相手に対抗する術など――そこまで考えて、エヴァンジェリンは気づく。シロの刀が、淡い銀色の――彼女の髪を思わせる色の燐光に覆われている事に。

(こいつ――刀を魔力――いや、霊力で包み込んで――!!)
「物の有り様を強引にねじ曲げる――その様な反則技を使うお方は、何もエヴァンジェリン殿だけでは御座らぬ故に」

 “処刑人の剣”は、エヴァンジェリンの力で作り出した魔法の剣。彼女の手から払い落とされるような事はないが――シロの刀に完全に押さえつけられ、動かすことが出来ない。

「幕で御座るな?」

 そんなエヴァンジェリンに対して、シロは、柄から離した左の拳を、首筋に――

「くそっ!」
「ぅぐっ!?」

 しかしそれよりも早く、エヴァンジェリンが、シロの顔面を掴む。相手の意識を刈り取るために、首筋だけに狙いを定めたのがまずかったのか――エヴァンジェリンは、小さな腕からは信じられない力で、そのままシロの体勢を崩し――

「私を相手にえらい余裕だな! ――前歯が無くなる事くらいは覚悟しろよ、犬塚シロ――!!」
「んうっ!!」

 このまま密着状態で、顔面に彼女の魔法を受ければ、果たして前歯程度で済むか――シロは咄嗟に、エヴァンジェリンの手首を掴み、思い切り力を込めるが――彼女は意地で、手のひらに込められた力を緩めない。

「シロちゃん!!」
「んん――っ!!」

 シロはどうにか、エヴァンジェリンの手をふりほどこうと頭を揺らし――その瞬間、彼女とエヴァンジェリンの間に、淡い光が割り込んだ。
 緑色の、まるで蛍のような燐光を放つ――あまりにも美しい、一匹の――揚羽蝶。

(これは――っ!!)

 それが何であるのかをシロが認識すると同時に――瓦解した石橋の上が、目も開けていられないほどの閃光に包まれた。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・彼の背負う物
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/05/07 21:29
無い袖は振れないだって? だったら腕を振れ。そう言う意味じゃないって事は、もちろん承知の上で言ってるよ。




(くそっ――なんだこの光は――こいつの布石か?)

 突然に周囲を包んだ強烈な光に、宵闇に慣れた――いや、宵闇こそを住処とする目を灼かれ、エヴァンジェリンは思わず、シロを掴んでいたその手で、顔をかばってしまう。しかもこれは――ただの光ではない。自分の体を駆けめぐる魔力が、酷く乱されるのを感じる。つまりは、そう言う力を秘めている。
 咄嗟に、押さえつけていたシロから飛び退く。優位性を失ってしまった以上、この密着状態では、こちらの方が不利だ。エヴァンジェリンは、閃光にちらつく視界に舌打ちをし――敢えて目を閉じ、シロの気配を頼りに、彼女の次の攻撃を迎え撃つべく全身を緊張させる。
 この光が彼女の打っていた布石なのか、それとも――たとえばあのオコジョ辺りが投げ込んだ無粋な一手なのかはわからない。しかし、シロはこの好機を逃すまい――

「……?」

 しかし、研ぎ澄ませた神経が彼女に見せる世界の中で――シロは、動かない。
 この閃光が彼女の意図するものでなかったにしても、エヴァンジェリンが絶対的な優位を失った事は、彼女にだって理解できている筈だ。ならば、それが何であるにせよ、何らかのアクションを起こすべきであろう。
 しかし、彼女は動かない。先ほどまでこちらに向けられていた意識も、今は感じない。
 はて――この人狼の少女は、闇の眷属たる自分以上に光に弱く、今ので意識が飛んでしまったとでも言うのだろうか?そんな馬鹿な――とは思いつつも、鈍い痛みすら覚えるのを堪え、薄く瞼を開く。

「――」

 シロは、エヴァンジェリンを見ては居なかった。石畳の上に、“ぺたり”と腰を下ろしてしゃがみ込んだまま――じっと、何処かの一点を見つめている。
 エヴァンジェリンは、怪訝に思いつつ――彼女から注意を逸らさぬままに、その視線を追う。少し離れた場所、小川の川岸に、ネギを抱えたまま目を押さえて悶絶している明日菜の姿があり、さらにその向こうに――

「……ふん、真打ち登場と言ったところか?」

 数匹の蝶が、踊るように舞っていた。淡い薄緑色の――蛍のような儚い燐光を放つ、見たこともない、この世の物とは思えないほどに美しい蝶が。そして、宵闇に舞い踊るその蝶の燐光に照らされ――その踊りの輪の中心に、一人の男が立っている。
 腕に固定するタイプの杖を突き、月明かりと、蝶の光を受けて、不思議な色合いを見せる白髪を持った――何処か柔和な顔立ちをした、一人の青年。見覚えのあるその姿に、エヴァンジェリンはすっと、青い瞳を細めてみせる。

「……奇跡の霊能力者――アシュタロス事件の語られぬ英雄――横島忠夫か」
「そんな漫画みたいな渾名を勝手に付けるのはやめてくれ。こちとら良い大人になっちまったんだ。むず痒くて仕方ねえ――とまあ、久しぶりだな、エヴァちゃんよ。その分だと、花粉症は大分良くなったか?」
「ふん、貴様に心配される筋合いはない。気安く話しかけるな」
「おお、こわ」

 青年――横島忠夫は、そう言って軽く肩をすくめてみせる。エヴァンジェリンは、一見隙だらけ――というのも馬鹿馬鹿しい程の彼の立ち振る舞いに、不機嫌そうに整った眉を歪めた。

「それで――貴様は、そこの犬塚シロの危機にしゃしゃり出て来たのか? おおかた何処かでのぞき見ていたのだろうが――ふん、貴様もその、“自称”貴様の弟子と同じで、師弟そろって覗き見の好きなことだ」
「……なんかエヴァちゃんみたいな子にまでそう言うこと言われると、流石に死にたくなるな。女の子から変態呼ばわりされるのは慣れてるとはいえ」

 常人ならすくみ上がるほどの殺気を視線に込め、彼に向けて見るも――彼の態度は揺るがない。暖簾に腕押しとでも言うのか――抵抗するでもなく、受け止めるでもなく、その行為自体が全くの無駄とでも思えるほどの自然体。

「まー流石に、シロもその歳で差し歯は御免だろうしな。全くこういうのは俺のキャラじゃねーんだけど、出て行かんわけにもいくまいよ」
「そう言うな。今宵はなかなかの楽しい夜ではないか。せっかくのダンスパーティに、女子供だけではつまらんと思っていたところだ。今なら特別に、この私の相手を務める事を許してやる」
「……魅力的なお誘いだけどな。どうせならそれは、その言葉を額面通りに受け止める場面に取っといてくれないか? こんな時に無理しなくても、エヴァちゃんが大人になって、ちょいと甘い言葉でもささやいてくれたら――ああもう、たまらんなあ」
「そう言うな。私はこれでも見かけより長く生きている。貴様は女性の見かけでその誘いを断るほど、度量の低い男ではあるまい?」
「――美人のねーちゃんは大好きだけどな」

 変わらずの軽い言葉に、エヴァンジェリンは薄い笑みを浮かべる。先ほどまでのシロとの遣り取りは、それなりに楽しめた。そこに突然横槍を入れるようなやり方は、“悪の魔法使い”として面白いわけではないが――

「これはこれで、中々楽しめそうじゃないか――なあ、犬塚シロ?」

 正直に愉快だ――という風に、傍らに座り込んだままの彼女に言葉を投げかける。シロは、突然の彼の出現に驚きを隠せないのか、黙り込んだまま――

「……犬塚シロ?」

 いや、何か様子が違うと、エヴァンジェリンは気がついた。彼女の表情は、確かに驚愕に彩られている。しかしそれは、敬愛する男が、自分の危機を救ってくれたと――そう言うときに浮かべるような表情とは、全く違う物だ。どちらかと言えば、表情のわかりやすいシロのこと。その見立ては間違っては居ないだろう。
彼女の顔に浮かぶは、心の底からの驚愕、そして――

「……せん、せい?」
「……よー、怪我は無さそうだな? 女の子がよ、あんまり無茶するもんじゃねーぞ」
「……」
「……まー、その――えーと、何だ」

 何故か気まずそうに、顎の辺りを人差し指で掻く横島に、シロは震える声で言った。

「何という――何という、無茶なことを――!」

 その声に、明日菜は驚きを隠せない。犬塚シロという少女は、いつも飄々としていて、己のペースを崩さない。彼女が“強い”というのは、何となく明日菜もわかっていたことであるが、それでも魔法使いの間で、知らぬ者無しと言われるエヴァンジェリンを相手にするのは骨が折れるだろう。それで尚、彼女の笑みは変わらなかった。
 そんな彼女が見せた、大きな心の揺らぎ――それは一体、何を意味するのだろうか? ネギを川から引き上げながら、明日菜は思った。
 横島が、この“くだらない喧嘩”の事を知っていれば、割り込んで切る可能性は考えられた。つきあいの浅い明日菜でさえ、彼の性格は何となく理解できる。
 そして彼は、そうなれば自分の体のことをあまり顧みないのだろう。確かに彼は、エヴァンジェリンの言うとおり、かつての魔神との戦いに於いて活躍したのかも知れない。けれど、今は不自由な体を抱える身である。それを忘れて――となれば、シロの動揺も――

(……でも、何だろう、それだけじゃない気がする)

 濡れて肌に張り付く制服の冷たさと、気持ち悪さも忘れて、明日菜は、橋の上に目をやる。

「……で、どうなんだ、横島忠夫? 貴様は淑女の誘いを、無碍に断る程に度量の無い男か?」
「度量っつーか……ま、昔の俺なら一も二もなく、女の誘いは断らんかったんだがな。今は悲しいかな、そう言うわけにもいかんわけで――とはいえ、エヴァちゃん。それ以上は悪戯が過ぎるぜ? 差し歯の狼なんて、笑い話にもならねー」
「“闇の福音”に向かって、悪戯が云々とは剛気な事だ。そこの座敷犬は、貴様に飼い慣らされている割には、中々に鋭い牙を持っていたのでな――だが、私を相手にするには、いささか心づもりが足りん」
「ドブにでも捨てちまえ、そんな心づもりは。エヴァちゃんみたいな可愛い子にな、そーゆーのは似合わんよ」
「ふん――そうまで言うならば――一曲お相手願おうか、横島忠夫!」

 エヴァンジェリンは軽く手を振り上げ――勢いよく振り下ろす。刹那、彼女の右腕が描いた軌跡が、虚空に光の弧を残し――それが実体を持ったように、氷の刃となり、横島に向けて撃ち出される。
 強固なイメージと、己の力への絶対の制御――その二つを高いバランスで兼ね備える、優れた魔法使いにのみ許される反則技、“無詠唱”の魔法。自身の有り様すらその制御下に置く強烈な意志の力は、ある一定量までは、呪文という“銃身”すら必要とせずに、膨大な魔力を自在に操る。
 果たしてその氷の刃は、横島を蹂躙せんと、恐ろしい勢いで彼に襲いかかり――

「せ、先生――!!」
「勘弁してくれよ、全く」

 シロの絶叫と、横島自身のため息混じりの台詞と共に――虚空に砕け散った。

「……面白い」

 エヴァンジェリンが、小さく呟く。
 今の一撃は、牽制用と言い換えても良い程度のものであったが、それでも程度の低い魔法使いなら十分に撃退できる――その程度の威力は込められていた筈だ。それを、彼は何でもないように受け止めて見せた。
 氷の刃が彼を貫く寸前、彼の周りを舞い踊っていた蝶の一匹が、その射線上に割り込んだのだ。淡く光る蝶に触れた氷の刃は――その儚ささえ感じる、軽やかに飛び回る蝶を貫くことが出来ずに、その場で砕け散った。
 あの“蝶”は、彼の力――“霊能力者”である、彼の能力であるのだろうか?
 横島忠夫と言えば、その業界の人間には、非常にレアリティの高い能力――“文珠”を発現した霊能力者として知られているという。しかし、エヴァンジェリンが調べた限りでは、あの不思議な蝶に関する記述は、彼の記録の中にはない。
 あれは新しく彼が編み出した霊能力なのだろうか? それとも――何にせよ、楽しめそうな事は間違いない。

(そうとも、どのみち――)

 彼女は、この戦いが茶番だと言うことを――シロに言われるまでもなく、理解している。しかしだからこそ、楽しめる。楽しまなくて、どうするというのだ。

「そいつは、貴様の“霊能力”という奴か? 目くらましになり、盾にもなり――なるほど、汎用性の具現、“文珠使い”の横島忠夫の名は、伊達ではないか」
「……一応、それってあんまりおおっぴらにするなとか言われてんだけどなあ。どっから調べたんだよ、そんなこと。俺は美女と美少女になら何をされても構わんが、ストーキングは勘弁な――いや、俺が妙な趣味に目覚めそうってのもあるけど、美少女はそう言うことをするもんじゃねーよ、うん」
「戯れ言を」

 苦笑を浮かべ――そのまま、腕を組んでなにやら頷いている横島に、エヴァンジェリンは短く切って捨てた。だが、その顔には、冷たい笑みが浮かんでいる。彼女の容姿は、ある意味で横島の言うとおりに、とても可憐ではあるけれど――その表情は“闇の福音”と呼ばれるに相応しいものだった。

「こいつは――“フィールド・オブ・バタフライ”って言ってな」
「真面目に答えろ」
「お、エヴァちゃんも去年の大晦日はアレ見てたのか。いやー、あれはツボにはまって、もう引きつけ起こしそうだったぜ。でもなー、最近もう一回見ようかと思ったんだが、うっかりハードディスクのデータ消しちまって。高校時代からビデオデッキ一筋だった俺には、どうも近頃の機械は扱いにくくてならん」
「……それには同意するが、戯言もその程度にしておけ」

 横島は愉快そうに笑い――小さく首を横に振った。

「霊能力、っつーのとは――ちょっと違うかな。まあ、そうと言えばそうなのかも知れんが――うん、俺にもよくわかんねえ。専門家あたりに聞いてくれ」
「ふん――まあいい。その本質がどうあれ、私の相手をするには悪くない――行くぞ横島忠夫。今度は先ほどのような小手調べとは違う――呪文始動――来たれ氷精、闇の精――リク・ラク・ラ・ラック・ライラック――ウェニアント・スピリートゥス・グラキアーレス・オブスクランテース――ッ!?」

 彼の変わらぬ態度に、満足さと不愉快さのない交ぜになった――しかし“悪くはない”と感じさせられたエヴァンジェリンは、そのまま呪文を紡ぐ。先ほどのような、むき出しの力をただぶつけただけではない――まっすぐに横島にその“銃身”を向け――
 その瞬間、視界が回転した。

「……そこまでで御座る、エヴァンジェリン殿」
「犬塚――シロ――っ!?」

 人外の身体能力を持つ彼女でさえ――何が起こったのか、全くわからなかった。全くわからないうちに、彼女は石畳に引き倒され――背中から押さえつけられていた。身をよじろうとするも、右腕を背中に回されて体重を掛けられているために、下手に動くことが出来ない。肩を外す覚悟で動けば、華奢なシロの体重くらいははねのけられるかも知れないが――
 気がつけば、己の首筋に冷たいものが当てられている事に、エヴァンジェリンは気づく。それは――シロが持つ日本刀の、研ぎ澄まされた刃。峰を返していた筈の彼女であったが――今やエヴァンジェリンの首筋には、抜き身の刀身が押し当てられている。

「……はっ――自分の男に手を出されそうになって、ようやく本気になったか? 嫉妬深い女は見苦しいぞ、犬塚シロ」
「嫉妬深かろうが何だろうが、委細構わぬ。もはやこの期に及んで、体面を取り繕う必要など、拙者には御座らぬ」
「くくっ――中々愉快だが――余裕がなさ過ぎるのは頂けんな? さて――」
「黙れ」

 底冷えがする――そんな言葉すら生やさしい――人間の持つ、原初の恐怖。己を獲物と狙う、肉食獣の剥き出しの殺気――その様なものすら感じさせる声で、シロは言った。

「……なんだと?」

 それは、エヴァンジェリンの心の奥底にすら、一瞬恐怖を芽生えさえ――彼女は、それに努めて気がつかないふりをしながら、シロに言った。彼女の体勢からでは、シロの顔は見ることが出来ない。だが――いつもとは別人のような彼女の声は、変わらず続く。

「今宵の戦いなどに、最初から意味はない。とはいえ、拙者も敢えてそれに乗った。だが――これ以上はまかり通らない。エヴァンジェリン殿。拙者はお主を傷つけたくはない。傷つけるつもりもないが――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル――お主が、横島先生にこれ以上手を出すつもりならば――」
「……どうするつもりだ?」
「その首、斬り落とす」
「――」

 一瞬、呼吸が止まる。
 首を斬り落とすと言っても――霧やコウモリにその身を変じる事の出来る吸血鬼相手に、それは難しいことだ。
 だがそれは、理屈の上での話であって――しかし、エヴァンジェリンの頭からは一瞬、そのことさえも抜け落ちた。

「言っておくが、これは脅しではない、わかったら――」

 エヴァンジェリンの頭を押さえつけるシロの腕に、さらなる力が加えられ――

「この――馬鹿犬がっ!!」
「きゃうんっ!?」

 突然響き渡った小気味の良い音と共に、彼女はエヴァンジェリンの上からはじき飛ばされ――ごろごろと、石橋の上を転がった。

「は、鼻が、また、鼻がっ!! よ、横島先生! 突然何をするで御座るか!」

 両手で鼻を押さえながら、シロは涙目で横島を睨む。
 一体どこから取り出したのやら――巨大な紙製鈍器――ハリセンを小脇に挟んだ横島はと言えば――

「悪いな、何処にも怪我したり、してないか?」

 心配そうに、エヴァンジェリンを助け起こすべく、手を伸ばす。当然、差し伸べられたその手を見て、彼女は目を細めた。

「……何のつもりだ?」
「だから、怪我とかしなかったか、って。あー……エヴァちゃんは、そう言うの嫌いか」

 横島は、伸ばした手を引っ込め、その手をひらひらと振ってみせる。ややあって、彼はエヴァンジェリンの視線に耐えかねたのか――小さくため息をつき、シロの方を向いた。

「シロ。突然何をする、じゃねえよ。どう考えても今のはやり過ぎだろ。クラスメイトの首筋に刀突きつけて脅す馬鹿が、何処に居るんだよ」
「う……それは、その――エヴァンジェリン殿が先生に手を出すもので御座るから――つい、目の前が真っ白に――って、先生!!」

 ばつが悪そうに、尻餅をついたまま視線をさまよわせていたシロだったが――突然弾かれたように立ち上がると、横島に駆け寄った。

「何故先生が、ここに居るので御座るか!? 拙者は出がけに、大丈夫だと申したでは御座らんか!!」
「大丈夫じゃ無かっただろ。お前は前歯が全部差し歯になっても良かったのか?」
「先生のお体のためならば、差し歯だろうが入れ歯だろうか些細な事で御座るよ!!」
「馬鹿言うなよ。大体――お前、出がけに大丈夫だ、っつったじゃねえか」

 横島は、杖を持っていない左手で、シロの顔を軽く掴んだ。

「むにゅ!?」
「大丈夫だって言うならな、俺も出てきやしねえよ。ただ、これ見て何処の誰が“大丈夫”なんて言うんだ?」

 そのまま“むにむに”と、横島は彼女の顔をもみしだく。彼女は最初、何も言い返すことが出来なかったのか、黙ってされるがままになっていたが――ややあって、彼の拘束から抜け出し、彼の顔を見上げた。

「先生」
「何だ?」
「……拙者は、未熟者で御座ろうか」
「当たり前だ。完璧なお前なんてのは、想像が付かん」

 何でもない事のように、彼は言う。その言葉に、シロを戒めようとする響きは感じられない。彼女は小さく、息を吐いた。

「そうで御座るな――拙者が完璧であるなら、拙者は既に先生と――先生、拙者、最初は女の子が良いで御座るよ」
「何の話だ発情少女。冗談はさておいて、いつまでも――悪い」
「……先生?」

 力のない笑みを浮かべながら、それでもどうにかいつも通りの自分に戻ろうと――シロはその時、ふと気がついた。愛する目の前の青年から感じられる“匂い”が、いつもと違っている事に。
 はっとして、思わず彼の首筋に手を伸ばす。いつも心地の良い暖かさをシロに与えてくれる彼の肌は――今はまるで、肌寒さの残る今宵の空気のように冷たく、しかしそこには、うっすらと汗が滲んでいる。

「ッ!? 先生!!」
「すまん――ええと、無理してしゃしゃり出てきた以上、色々やっときたいことはあるんだが――やばい、俺、もう限界みたいだ」

 そのまま横島は――シロの方に倒れ込んだ。
 咄嗟にシロは、刀を投げ捨てて彼を抱き留める。地面を転がった刀が、冷たく乾いた音を立てる。

「先生――先生っ!! しっかりしてくだされ!!」
「ちょっと、シロちゃん――横島さん!?」

 川縁にネギを横たえた明日菜は、そのまま橋の上に駆け上がる。傍目にも、尋常な様子ではない。横島を抱きしめたシロには――いつもの余裕が、一切感じられない。明日菜は咄嗟にポケットから携帯電話を――

「あ、やばっ!!」

 当然、制服姿のまま川に飛び込んだ結果、彼女の携帯電話は、その機能を停止していた。修理は出来るかも知れないが――少なくとも、今ここでは使えない。

「ど、どうしよう!? 救急車、救急車――!」
「貴様がうろたえてどうする、神楽坂明日菜」

 そう言ったのは、膝を払いながらゆっくりと立ち上がったエヴァンジェリンだった。彼女はつまらなそうに、シロと、彼女に抱きかかえられた横島に目をやる。しかし果たして、不満げに自分たちを見下ろすその視線にも、シロは気づいていないようだ。

「……単に救急車を呼ぶだけなら茶々丸が居ればどうにでもなるが――普通の医者を呼んでどうにかなるような状態なのか、“それ”は?」
「――少なくとも、普通の医者にはどうにも出来ぬ」

 突然投げかけられたその声で、シロはようやくエヴァンジェリンの存在を思い出したようであった。驚いたように彼女を見上げつつも――シロは、震える声で首を横に振る。

「電話があるならば、拙者の――先生の家に電話を入れて、あげはを――いいや、あげはは寝付いてしまっては電話くらいでは目を覚まさぬ――しかし、今から白井総合病院の心霊内科を呼び出している時間は――」
「……貴様の家、だな。ここに越してきて間がない貴様には、少々難しいかも知れんが――その位置を思い浮かべろ。できるだけはっきりと、だ」
「……エヴァンジェリン――殿?」
「魔法とは、意志の力によって奇跡を起こす学問だ。とはいえ、そのプロセスを全て説明できるわけではない。人間が、自身の神経に流れる稲妻を感じることが出来んように、な――つまりは、得体の知れない空間に生き埋めになりたく無かったら――私に触れたまま、言われたとおり、自分の家の位置を思い浮かべろ」

 シロは言われたとおりに、エヴァンジェリンの腕を掴み――自分の家である“横島家”の場所を思い浮かべる。麻帆良市の郊外にひっそりと建つ、古めかしい和風の一軒家。今はただ一人――小さな少女が、そこで寝息を立てているだろう、彼女の帰る場所を。
 果たして次の瞬間――エヴァンジェリンの足下から広がった、宵闇よりもずっと暗い影が、その場にいた人間を全て飲み込んだ。




「あ、シロちゃん――横島さんの様子は?」
「どうにか落ち着いたところで御座る――朝までには、気がつかれよう。その時に改めて――」

 横島家の居間で、濡れた髪をタオルで拭いていた明日菜は、シロが戻ってきたのに気がついて問うた。シロは小さく息を吐きながらそれに応え――縁側で一人、月を眺めている少女に気がついて、彼女の元に向かう。

「エヴァンジェリン殿」
「……」

 少女――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、彼女の声には応えない。ただ黙って、紺碧の空に掛かる月を眺め続ける。柔らかな光が、彼女の流れる金髪に、天使のような光の帯を作り出していた。
 シロは、振り向かないままの彼女の側まで歩み寄り――その場に膝を突き、畳にこすりつけるほどに深く、頭を下げた。

「かたじけない――心より、お礼を申す」
「……ただの気まぐれだ」
「されど――エヴァンジェリン殿がああしてくれなければ、先生はどうなっていたやも知れぬ。重ね重ね、心よりの礼を」
「お前は馬鹿か?」

 呆れたような顔で、エヴァンジェリンは振り返る。

「そもそも、あの男が――横島忠夫が、無理を押して出てきた理由は、貴様と私の戦いにある。つまり私が“悪の魔法使い”としてネギ・スプリングフィールドや貴様の前に立たねば、このようなことは最初から起こらなかった」
「それを差し引いても――あの時、拙者がエヴァンジェリン殿に対して取った行動は、許されぬものであった。怒りに我を忘れ、友人の首筋に刃を突きつけるなど――許される筈もない」
「ならば頭を上げろ。その様な偽善は、私は好かん。貴様は私にどうして欲しいのだ? 許すと言っても許さんと言っても、根っこの部分で貴様は納得すまい。ならば、私は一体どうすればいい? 考えるのも馬鹿馬鹿しい」

 そう言って小さく、彼女はため息をつく。

「まったく素直じゃないわねー、エヴァンジェリンさんは」
「……神楽坂明日菜。私が再び呪いに力を奪われるまで、僅かだが時間が残されていると言うことを、よもや忘れたわけではあるまいな?」
「ええもちろん。事が落ち着いてネギが起きたら、ネギ共々朝まで説教してやるって事も、お忘れ無く」
「付き合いきれるか」

 意地の悪そうな笑みを浮かべる明日菜に、エヴァンジェリンは疲れたように言い捨て、小さく鼻を鳴らす。どうやらこの二人は、見かけよりも相性が悪くはないようであった。

「ともかく、だ。私は貴様が本気で戦うように仕向けたのだ。問答無用で横島忠夫に攻撃を仕掛けたことがそもそも、貴様ら偽善者から言えば間違っているだろう。そうすれば、私はもっと戦いを楽しめる――とな。だから今更何を言わんや、だ。なあ、犬塚シロ。私の首を斬り落とすと言った時の貴様こそが、私は好きだ」
「……シロちゃん、そんなこと言ったの?」
「う――その、頭の中が真っ白になってしまって――い、今はもちろん、反省しているで御座るよ、明日菜殿」

 ばつが悪そうに、頭を上げながらそう言ったシロに、明日菜はゆっくり、首を横に振る。

「シロちゃん」
「はい」
「私がね、まっとうな女子中学生の何たるかを教えてあげるから――逃げるんじゃないわよ」
「……お手柔らかに」
「貴様らの漫才はともかくとしてだ」

 顔を引きつらせながら、明日菜の言葉に応えたシロ――エヴァンジェリンは、そこに割り込んだ。

「横島忠夫のあの状態は、何だ? 私は魔法使いだが、修めているのはもっぱら西洋魔法の体系のみだ。そんな私には、あの状態は説明が出来ない。あのあげはと言う雌ガキの事も気になる。何故、治癒魔法が使える私や、霊能力でのヒーリングを扱える貴様でなく、あの雌ガキなのだ?」
「そうね……私には当然、エヴァンジェリンさん以上に、わけがわからないんだけど――横島さんって、何かの病気なの?」

 少女たちの疑問は、自然なものだった。
 力を使いすぎた故に、疲れ果てて倒れる――ということは、ままあることだ。別に魔法使いでなくとも、日常生活に於いてもあり得るだろう。しかし、横島のあの状態は、そう言うものとは何かが違う――魔法も霊能力も知らない、オカルトになど縁のない明日菜でさえも、そう思った。
 確かにエヴァンジェリンの放った魔法は強力であり、それを――あの不思議な“蝶”で受け止めた事が、横島が倒れた直接の原因である事は間違いない。けれど果たして、エヴァンジェリンの攻撃は彼には届いていないし、ただそれだけで力尽きてしまうと言うのも――どうにも、考えにくいことである。
 しかし結局、横島は倒れた。
 そして、シロの言葉に従い、エヴァンジェリンの“気まぐれ”によって横島邸にやって来てみれば、彼を救うことが出来るのは、シロでもエヴァンジェリンでも――ましてや医者の類でもなく、彼と同居しているもう一人の少女――芦名野あげはという、幼い少女であるという。
 その言葉通り、横島の状態を見て、叩き起こされた眠気も不満も吹き飛んだらしい彼女は、横島をシロからひったくるようにして、彼と額を合わせ――
 淡い燐光が、一瞬二人を包んだかと思えば、それが消えた時、二人は折り重なるようにして、柔らかな寝息を立てていた。横島の顔からは、苦しそうな表情は消え、荒かった呼吸も穏やかなものとなっていた。
 明らかに、彼女が何かをしたから、横島は回復した。それは明白だった。

「……全てをお話する事は出来ぬ。お二人の疑問も当然と理解するが――事は、軽々しく他人に話せるような事では御座らぬ故に」

 シロは小さく俯き――申し訳なさそうに、首を横に振る。

「されど、お二人のご覧になった通り。先生は――本来ならば、あのような事が出来るお体では、もはや御座らん」
「……あの光の蝶の事か。あれが何なのかくらいは――聞いても良いか? 私は奴の事を調べた折に、奴は霊能力者の中でもレアリティの高い“文珠”を使えると聞き及んではいたが――そこにあんなものは無かったはずだ」
「つーか、エヴァンジェリンさんは、横島さんの事を知ってたの?」
「……偶然出くわした事があっただけだ。それがたまたま、犬塚シロ、貴様の保護者だというので、気になってな――それだけだから、そんな目で見るな、犬塚シロ。貴様はまた、私の首を斬り落としたくなったのか?」

 ため息混じりに言ったエヴァンジェリンに、シロは一つ、小さく咳払いをする。

「何でエヴァンジェリンさんが、犬塚さんの保護者に興味があんのよ?」
「話をややこしくしようとするな、神楽坂明日菜――こいつは人狼の娘だぞ。そんな規格外の化け物の“保護者”を名乗れるあの男が、多少気になっただけだ」
「“じんろう”? そう言えばシロちゃんも、そんな風に名乗ってたような――“じんろう”って何?」
「それはその」

 少しばかり言いにくそうに、シロは眉根を寄せてみせる。

「“狼人間”の事で御座るよ、明日菜殿」
「――マジ?」
「何となれば、この場で狼になってみる事も出来るが――その」
「――じゃあ、エヴァンジェリンさんと言い合ってた時のあれって――そう言えばエヴァンジェリンさんも、本物の吸血鬼なわけだし――ああ――世の中って不思議で溢れてるわねえ」
「……」
「……ま、それはそれとして」

 顔を手で覆って、天井を仰いだかと思えば――あっさりと首を横に振ってみせた明日菜に、エヴァンジェリンもシロも、軽い驚きを覚える。確かに二人は純粋な人間ではない――そのことを、取り立てて特別視して欲しいとは、間違っても思わない。
 だが、「そういうものもあるのか」とばかりに流してもいい問題でも無いだろう。二人の視線に気がついた明日菜は、苦笑しながら手を振ってみせる。

「魔法使いに吸血鬼に――何かゴーレムだとか何だとか、そう言うもんまで見ちゃったし。今更シロちゃんが狼人間だった、ってくらいじゃ驚けないのよ。驚くとか何とか言うなら、この世に魔法使いが居て、エヴァンジェリンさんが吸血鬼で――そんな事実を、ナチュラルに受け入れてた自分が一番驚きだわ。それとも――驚いて欲しいの? だったらその前に、私に平穏な日常を返してくれない? だとしたら飛び上がって驚いて見せるから。“な、なんだってーっ!?”ってさ」
「それは――申し訳御座らん、明日菜殿」
「いい。そう言う部分はネギに説教したときに、頭引っ掴んででも謝って貰うし――別に、シロちゃんが狼人間だからって、それが悪い訳じゃないしね。何かもう、ロボットとか幽霊とか――宇宙人だとか未来人だとか超能力者だとか異世界人だとか、色々出てきそうな予感が」
「……否定出来ん辺りが笑えんで御座るなあ。何せあのクラスは――」
「そこは否定してよ」
「まあ、貴様が気にせんというのなら話はそこまでだ。簡潔で都合が良い。どうせ貴様も、本質的にはターボ婆と言っても間違いではない」
「お願い、それは勘弁して」

 エヴァンジェリンは、彼女の従者――クラスメイトでもある絡繰茶々丸が、実はロボットであることを明日菜に告げれば、彼女は何と言うだろうか――などと考えながらも、どうせ詮のない事であると、その考えを放棄した。

「横島忠夫の光の蝶――その話だ。それくらいは聞かせて貰おうか? どうせ私も神楽坂明日菜も、アレを見ている。意固地に隠し続けるのも、賢い選択では無かろう」
「あれは、“フィールド・オブ・バタフライ”と――」
「同じボケを二度も聞く気はないぞ、犬塚シロ」

 先手を打たれたシロは、一つ咳払いをしてから、簡潔に応えた。

「あれは、先生の“眷属”で御座る」
「眷属?」
「えーと、犬塚先生。“けんぞく”って、何の事ですか?」

 エヴァンジェリンは不思議そうに首を傾げ――明日菜は、その言葉の意味自体がわからなかったようで、遠慮気味に手を挙げる。
 眷属とは、親族や家来を指すこともあるが――こと、オカルト関係においては、格の高い神や魔物に付き従う、それよりも格の低い存在――そのようなものを指すことが多い言葉である。仏教における、仏や菩薩に付き従う多くの神仏や、古代エジプトで崇められた太陽神に従う多くの神、あるいはギリシア神話の――と、多くの物が挙げられる。
 面倒臭そうなエヴァンジェリンから、ごく軽い説明を受けた明日菜は、なるほどと納得し――

「あれ? でも、何で横島さんにそんなものが? 横島さんは、シロちゃんやエヴァンジェリンさんと違って、普通の人間なんでしょ?」
「先生を“普通”と形容できるかはさておき――まあ、先生は人間で御座る」
「確かに、ただの人間が“眷属”と呼ばれるものを従えるなど、聞いた事のない話だな。それに――それを使ったからと言って、何故に奴は倒れたのだ? そしてそれを――何故にあの雌ガキが癒せるのだ?」
「……申し訳御座らんが、その辺りはお答え出来ませぬ」

 シロは静かに、首を横に振る。
 エヴァンジェリンと明日菜は、思わず――お互いに顔を見合わせてしまう。当然次の瞬間にはそれに気づいて、エヴァンジェリンは軽く、明日菜はわざとらしくそっぽを向いたけれども。

「マスター」

 唐突に、部屋の隅にじっと座っていた茶々丸が、エヴァンジェリンに声を掛けた。あまりに突然の事だったので、彼女の存在を忘れかけていた明日菜は、小さく悲鳴を上げてしまう。

「何だ」
「どうやら――ネギ先生が目を覚ましたようです」

 エヴァンジェリンは小さく息を吐く。シロは困ったように苦笑いを浮かべ――明日菜は立ち上がって、音を立てて首を回した。

「ま、それじゃ――難しい話は後にして、有言実行と行きますか。というわけであんたら、ネギを引っ張ってくるから――そこで正座して待ってなさい」










暗中模索とはこのことか。
あらかじめ決めたところから逸脱しないのはつまらない。
けれど逸脱しすぎると話にならない。

最初からレールなんて無かったのかも知れない。
などと、話を書くときにはそんな風に思います。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・宴の後の虚脱感
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/05/11 21:25
気に入らない事が山ほどある。それはわかるがね。
ならばいっそ、最初から全てやり直すかい?
何とたちの悪い脅し文句だろうね。




「ケイ殿――だから大丈夫、自分で歩けるでござるから」
「文句言わない。怪我人は黙ってじっとしてればいいの」

 月明かりという物は、存外に明るい物だと、楓は改めて思った。でなければ、こんな恥ずかしい思いをする必要は何処にもない。月の光が淡く照らす今宵の麻帆良学園都市は、人間の作り出した灯火が全く無いにもかかわらず、心地の良い薄明かりの中にある。
 果たして、ケイに背負われ、横島邸への道を急ぐ今の自分の姿を、あの天然の優しい照明は、はっきりと映し出してくれる。ケイのオートバイを駐車した場所から、百メートル足らずの距離であるとはいえ――

「そ、そんな事を言って――実は、背中に当たる拙者の柔らかさを堪能しているのでは?」
「“ムッツリスケベ”の僕だから? まー、楓さんが元気ならね。背負われるのが嫌なら、抱っこでも良いよ? 腕力には自信がある方だから」
「……このままで結構」

 悔し紛れに軽口を叩いてみたりはしたのだが――ケイは、涼しい顔でそれを聞き流す。映画館に中学生料金で入れない自分である。冗談半分とはいえ、女性を意識させる体つきは、十分に備えている筈なのだが――何だか彼の様子を見ていると、いつもその手の話で慌てふためく彼は、実は自分に対して、意図してそういう風に振る舞っているだけではないかと思ってしまう。
 果たしてそれは、自分は女ではなく、子供として扱われているということであって――ケイというこの青年に、その様な腹芸が出来るとはとても思えないのだが、何だかもやもやとしたものが、楓の胸の内にわき上がってくる。
 実際、冗談を言っている余裕がないほどに、彼が自分を心配してくれている、と言うのは、頭では理解している。この状態で真っ赤になって慌てふためかれても、それはそれで困るというのも。
 ただしかし――

「ごめんね、楓さん」
「……何がでござるか?」
「本来なら寮まで送っていくのが良いんだろうけど、こんな夜中に、僕みたいな男が女子寮の近くをうろつけないし――ましてやその怪我じゃ」
「ただの筋違いでござるよ。骨も腱も、神経にもダメージはござらん。湿布でも貼っていれば」
「何言ってんの。怪我は怪我だよ。女の子はそんな時に、我慢なんてしなくていいの」
「それは横島殿の受け売りでござるか?」
「……うん」

 後頭部を見ているだけでも、ケイが不満そうな表情を浮かべたのがわかる。やはりこの青年は“かわいい”と、楓は思った。

「どーせ僕は、にーちゃんと違って、ナチュラルにそういう事を言って、ナチュラルに女の子に好かれるような男じゃありませんからね」
「妙なひがみはよすでござるよ。確かに横島殿は面白いお人でござるが――ケイ殿だって、十分に魅力的なお人でござるから」

 耳元でそうささやいて見せると、ケイは何も言わなかったが――薄く頬を染めて見せた。うん、やはり自分たちの今の立ち位置は、こうあるべきだ――楓は一人納得する。たとえ普段の彼が取り繕われたものであるとしても、不思議と彼の本質は、自分の思っているところと違わない――そんな確信が、楓の中にはあった。

「ともかく――その横島にーちゃんの事も気になるし」
「あの、光の蝶でござるか?」

 ケイは押し黙った。楓があの“蝶”を見ている以上、そして自分がうかつにも、あのとき横島の名前を出してしまった以上――このまま黙っていられるとは思わない。けれど、それはそうそう簡単に、他人に話せる事でもなくて――
 その沈黙が、彼の内心を如実に物語っているように、楓には感じられた。だから、彼女は言った。

「言いにくいことなら、深くは聞かないでござる。拙者その程度の判断が出来る程度には、成長しているのでござるよ」
「……そう」

 ケイは小さくそう言うと、また歩みを進める。
 それは偽らざる気持ちである。目の前の、この不思議な魅力を持つ青年と、何かの秘密を共有できる――その響きには、確かに胸躍るものがあるし、単純にその“秘密”が何なのかという事も気になる。
 しかし、自分や彼の事ならともかく、第三者の隠すべき事を、自分の興味本位という理由だけで知りたいとは、流石に思わない。果たしてその結果自分を待っているのは、後味の悪い後悔だけだろうと、彼女は思う。
 ふとこんな時――自分のクラスメイトなら、どうするだろうかと思った。
 良い意味でも悪い意味でも、何事にも真剣で一生懸命な担任は? 底抜けに明るく、悩み事などとは無縁そうな双子の親友は? 成績の悪さで共感を覚える関係になった少女たちは?
 そこまで考えて――楓は考える事をやめた。
 軽く、ケイの肩に顎を乗せる。

「あれ、抵抗するのはやめたわけ?」
「そうでござるなあ」

 そのまま彼の首筋に唇を寄せ――ふうっと、生ぬるい吐息を吹きかけてみる。

「ひぃっ!? 鳥肌、鳥肌がっ!?」
「幸いにも拙者、他人の秘密を暴く事が何を意味するか、それがわかる程度には分別がつくのでござる。だから――今度ケイ殿のおごりで何処かに遊びに行くでござるよ。それで今度のことは、後腐れ無く終わりで」
「……あー、うん、ありがと」
「ちなみに拙者、たいていの施設に中学生料金では入れないでござるから、覚悟されよ」
「だろうね。まー、僕って結局、肩書きはフリーターだから、あんまりお金は持ってないけど――せいぜい、頑張るよ――あれ?」

 話しているうちに、二人は横島邸の前までやって来た。
 そこで気がつく。横島邸は、古い日本家屋であるから、当然車庫など付いていない。横島の車は普段、家の隣に建てられた、簡素な車庫に収まっている。そのシャッターが開いていて、車がない。
 ならば彼は出かけているのかと言えば――家には明かりがついている。確かバイクの備え付けの時計は、午前三時半を過ぎ指していた筈。彼が出かけていると言うには遅すぎる時間であるし、こんな時間に家の誰かが起きているというのも考えにくい。

「どうしたんだろ、こんな夜中に――昨日からの停電で、あげはさんが禁断症状起こしてオンラインゲームを廃人プレイ中――無くはないけど、違うか」
「まさか」
「わかんないよ。昔のシロさんが、肉と散歩と横島にーちゃんで出来てたみたいに、ちょっと前までの彼女は、蜂蜜とゲームとにーちゃんで――ごめん、胸ポケットに鍵が入ってるから、ちょっと」

 楓は言われたとおりに、ケイのポケットから鍵を取り出し、玄関の引き戸に――

「おろ? 開いているでござるが」
「え? 何で?」

 鍵穴に鍵を入れるまでもなく、引き戸が僅かに開いていたのに、楓は気がついた。果たして彼女が、ケイの背中から手を伸ばし、引き戸を引いてみれば――軽い音を立てて、扉はあっさりと開く。

「あ――この靴って、ひょっとして?」
「拙者らの学校のローファーでござるな。こちらの小さいのは、ネギ坊主の?」

 玄関を入ってすぐ――綺麗に揃えられた見慣れない靴に、二人はすぐに気がつく。
ケイにとっては、見慣れないが見た覚えがある。楓にとっては、自身もそれを持っている――麻帆良学園女子中等部指定の靴が二揃え。その隣には、それよりも一回り以上小さな、明らかに子供用の靴が二揃え。

「しかもこっちはずぶ濡れでござるな」
「あーあー。新聞紙か何か詰めて乾かさないと、カビが生えちゃうよ」
「いや、そう言う問題でなく」

 何処かずれたことを言うケイに、楓は苦笑を漏らし――家人の物では無いように見えるその靴を横目に、自分たちも家に上がる。こんな夜中に、一体何が――そう思いながら、明かりがついていた居間のふすまを、そっと開けてみる。
 まず見えたのは、亜麻色の長髪をした少女が、腰に手を当てて立ってる――その後ろ姿。その向こう側には、一列に並んで正座をする、奇妙な顔ぶれ。
 つまり仁王立ちの明日菜の前に、シロ、茶々丸、ネギ、エヴァンジェリンの四人が並んでいる。

「……何やってんの?」

「あ、お帰りなさい藪守さん――長瀬さんも? ちょっと、こんな夜更けに何やってるんですか?」

 おそるおそる声を掛けたケイに、振り向いた明日菜は――逆に問い返してきた。確かに、今の自分たちの格好は、普通とは言い難いだろうが――それでも、目の前の連中にだけは言われたくない。
 けれど、何だか得体の知れない圧力に屈して、結局彼は、微妙に明日菜から目線を逸らしながら言った。

「いや――ちょっと、麻帆良の郊外でトラブルがあって。楓さんが怪我をしちゃったから――」
「と言っても、大した怪我ではござらん。湿布でも貼っておけば平気でござるから――明日菜殿、こちらからも一つ。明日菜殿らは――一体何をやっているので御座るか?」

 楓の問いに、シロのものだろうか、品の良い和服に身を包んだ彼女は、胸を張って言った。

「見てわかるでしょ? ――お説教よ」

 ケイは思わず首をよじって、楓と顔を見合わせる。彼女もまた、彼と同じような、何とも言えない表情を浮かべていた。
 そしてその様子を、シロは苦笑いしながら、茶々丸は無表情で見遣り――ネギとエヴァンジェリンは、苦行に耐える修行僧のような顔つきで、じっと畳を見つめていた。つまり西欧人である二人には、座布団も無しでの正座は、拷問以外の何者でもないのであろうが。




 はっきり言えば――この“正座”というものは、ものすごく辛かった。
 西欧人であるネギには、そもそも靴を脱いで部屋にあがるという習慣がない。靴を脱がなければ正座など出来る筈もなく、したがってそう言う文化の人間は、座ると言えば椅子に座るという事になる。
 もちろんダウンタウンのどこそこで、その辺りに置かれているものだとか、あるいは直接地べたに腰を下ろす連中もいるだろうが、英国紳士としてその様な行為は認められない。
 ともかく、“正座”を――それも、座布団やクッションも無しに、“微妙な柔らかさ”を持つとは言え、直に畳の上でやる――日本人でも苦痛であろうその行為は、単純にネギに、肉体的な苦痛を与えた。おそらくこれが終わった後数分は、さらに痺れにもだえ転がる事だろう。
 けれどネギは、苦痛を訴える自分の体を――いや、苦痛にもだえる自分自身を、何処か別のところから眺めているような――そんな錯覚に陥っていた。
 ネギには、わからなくなっていた。
 何が正しくて、何が間違っているのか。
 そう考えている自分は、そもそも本当に正しさを求めているのか。この思考そのものが、誤りではないだろうか――いや、そう考えている限り、自分は正しくあろうとはしているのだろう。けれど、その自分の正しさとは、果たして――
 苦痛に喘ぐ自分たちに、明日菜は言う。
 争いの無意味さを。他人を傷つける事の恐ろしさを。
 言うなれば――“通り一遍の常識”を。
 そんなことは、自分にもわかっている。争うのは良くないことだし、他人を傷つけるために力を振るう事だって、良くないことだ。
 けれど、自分は心の奥底に“そんなに単純な事じゃない”と喚いている、もう一人の自分を感じる。いや、それは単なる言い訳だろう。もう一人の自分――明日菜の説教を「気に入らない」と感じているのは、紛れもない自分自身だ。
 結局のところ、“話し合いで解決できないから殴り合った”――それも、相手が死ぬかも知れないようなやり方で――それが、自分たちがやったことの全てである。そう言ってしまえば、誰もが一様に、それを良くないことだと否定するだろう。
 けれど、そんなに単純な事ではないのだ。
 ネギは確かに、エヴァンジェリンと戦った。しかし、戦いたかったわけではない。
 相手が傷つくかも知れなかった。けれど、傷つけるつもりなんてなかった。
 事はもっと複雑で――当人同士にしかわからないものもある。ネギ自身、自分の気持ちを、完全に言葉に表すことなど出来やしない。

「そう言うのをね、言い訳って言うのよ」

 だが明日菜は、それをばっさりと切り捨てた。

「どう取り繕っても、あんたらのやったことは、許される事じゃないのよ。あれこれ理由を付けてみたって、それは単なる言い訳。わかるかしら?」
「言いたい放題言ってくれるな、神楽坂明日菜」

 脚の苦痛に顔を歪めながら、エヴァンジェリンは彼女を睨んだ。

「世の中は貴様が理解できるほど浅くはない。たとえば戦争がそうだ。正義のため、自由のため、抑圧への抵抗、圧政からの解放――掲げた理想はどれも高潔なものだが、実際にやることと言えば、血にまみれた殺し合いだ。だから戦争は良くないと、誰もが思っている」
「そうよ。それが何か悪いことなの?」
「ならば貴様は、座して死を待つ事こそが理想と言うのか? 貴様の言う理屈は、みんなで一緒に仲良くしましょう――とは、確かに耳に優しい言葉だ。ならば貴様は、今から戦地にでも行ってこい。むろん、丸腰でな。襲われようが奪われようが犯されようが、笑顔で“みんな一緒に仲良くしましょう”と喚いてこい。それが出来るのなら、私は貴様のことを、少しは見直してやる」
「ごまかされないわよ」

 エヴァンジェリンの視線を、明日菜は真っ向から受け止めた。

「世の中は私が全部理解できるほど浅くない――そうでしょうよ。そんなナリで長く生きてるエヴァンジェリンさんは、私より世の中の事を色々知ってる――もちろん、そうかも知れないわ。でも、今ここで、そんなことが何の関係があるって言うの? そっちこそ、“重そうな”言葉で誤魔化すんじゃないわよ」
「貴様」
「考えてみたらね、単純な事じゃない。“馬鹿レンジャー”にだって、十分わかるわよ。戦いだとかなんだとかね――ガキの喧嘩と戦争を、同じテーブルの上で比べるんじゃないって、私はそう言いたい訳よ」
「……貴様は本当に、躾のなっていないガキだな。貴様にとって、これは意味のない争いかも知れないが、だからといって、当人同士にはそれなりに因縁のある戦いを――言うに事欠いて、“ガキの喧嘩”だと?」

 エヴァンジェリンは、歯を食いしばって立ち上がりかける。しかしその膝の辺りを、彼女を見下ろしていた明日菜が、軽く蹴飛ばした。全身を貫いた得も言われぬ刺激と不快感に、エヴァンジェリンは思わず奇妙な悲鳴を上げて、そのままうずくまるように悶え始める。

「ネギ」
「……はい」
「あんたはどう思ってんの? ――最初に言っておくけれど、誰に遠慮する必要も無いわよ。私は自分の意見を言ってるだけ。あんたも言いたいことがあるなら、自分の意見を言いなさい」

 ならばこの正座は何なのか――とは、ネギは言わない。今はそんなことは、どうだっていい。

「あんたの“本気”――私はわからなくもなかったし――私って単純だから、正直ちょっと感化されてた。だから――一度は、あんたを止められなかった。でも実際にあんたらの殴り合いを見て――気が変わった。あんたの言う“本気”ってのは、結局自分の気に入らない事には駄々をこねる――そういう“本気”なんだったんだ、って」
「……それは」
「違うって言うの?」
「違います。そうじゃない――筈です」
「何で弱気なのよ。違うんでしょ? だったら胸を張りなさいよ。しびれて動けないなら、手を貸してあげるわよ? どうなの? 違うんでしょ?」
「……」
「あー、明日菜殿」
「何よ、馬鹿三号」

 口を挟んだシロを、明日菜は睨み付ける。シロはばつが悪そうに頬を掻きながら、彼女に言った。

「えーと――明日菜殿は、F1を観たことは? 自動車レースの、F1で御座るが」
「あんまり興味は無いけどね。テレビで観たことくらいはあるわ。それが何?」
「あれは、ただ座っていれば良いという物ではない。実は横島先生もF1に乗ったことがあるので御座るが――あれは“自動車”などと言う生やさしい代物ではないと、そう仰っていた」
「……ねえ、横島さんって――“ゴースト・スイーパー”だったのよね?」

 明日菜の疑問は正しい物であるのだろうが、今は関係の無いことだ。シロは一つ咳払いをして、言葉を続ける。

「それは単純な競技に違いない。しかし、人間の知覚領域の限界で、精密機械のごとき集中力を保たねば、あの車は即座に、“走る棺桶”と化す。いや、それよりもたちが悪い。長い自動車レースの歴史の中には、体が原型をとどめない程の、凄惨な事故死を遂げたお方も大勢いるとのこと」
「……それで?」
「されど、もはや現在、そのレーサーに向かって、何故そんな危ないことをする、などと、馬鹿な事を問う人間はおらぬ。見方を変えれば、拙者らの戦いとて、そう言うこと。争うことと戦うことは、等号では結べぬので御座るよ」
「ふうん……ネギ」
「え、は、はい」

 唐突に話を振られて、ネギは顔を上げた。

「あんたはエヴァンジェリンさんを傷つけまいとしてた――まあ、そこまでは認めてあげる。けど、あんたの撃った魔法が、エヴァンジェリンさんに直撃していたら――とは、考えなかったの?」
「それは――ですが、」
「ふん、こんな坊やの撃った魔法など、力を取り戻した私には傷一つ付けられん。余計な心配など、かえって腹が立つだけだ、神楽坂明日菜」

 脚を押さえて涙目になりながらも――気丈にエヴァンジェリンは言う。シロから見れば、そんな彼女は抱きしめたくなるほどに可愛らしかったのだが――彼女の内心は、穏やかなものではないだろう。

「あ、そう。それじゃエヴァちゃん、エヴァちゃんは、自分の魔法でネギが死んじゃったら――とか、考えなかった?」
「その時はその時だ。戦いの最中に相手を気遣うなど、相手に対する侮辱でしかない。犬塚シロの言った自動車レースの喩えではないが――あの程度で死ぬような奴ならば、最初から私の前に立つ資格など無い。その程度の見極めが出来ん程、私の目は曇っていないつもりだが」
「へーえ、そぉ」
「……言いたいことがあるならはっきり言え、神楽坂明日菜。そんな目で私を見るなどと、貴様から殺してやっても良いんだぞ」
「許可も出たし、はっきり言うわ。だったらそれこそ、ガキの喧嘩以外の何物でもないじゃない。喧嘩をする意味なんて、大人から見ればよくわからない。でも泣きながら殴り合う。そういうみっともない、子供の喧嘩――シロちゃんも含めて、F1レーサーに謝ってきなさい。今すぐ、全力で」

 エヴァンジェリンは、そんな明日菜の言葉を聞き、つまらなさそうに顔をしかめる。
 ネギは思った。明日菜は、自分のようにエヴァンジェリンと敵対することは無いだろうと。しかし、明日菜の言葉をエヴァンジェリンが受け入れる事もまた、絶対に無いだろうとも思った。
 エヴァンジェリンは、明日菜が自分とは違う世界に住む人間だと言うことを理解している。だから、彼女の言葉を、戦いを知らない人間の、甘ったるい戯れ言だ――などと思っていても、それを聞き流す事が出来る。
 しかし――自分はどうだろう?
 父の背中を追い、魔法世界の動乱の中に身を投じていくと言うことは、即ち、魔法を武器として戦う事もあるかも知れないと言うことだ。
 そして――ネギは、明日菜の言う“綺麗事”こそを、正しいこととして生きていかなければならない。なぜなら彼の目指すあり方は、正義の――“立派な”魔法使いだからだ。
 エヴァンジェリンと戦うことを決めたとき、自分は何を思ったか――と、ネギは自問する。
 そうして、気がつくのだ。
 ただただ悩み――足の痺れに悶えている自分を見下ろす、もう一人の自分に。

「くだらんな、そんなことをして何になる」
「少なくとも平穏な生活は送れるわ」
「貴様の言う平穏な生活とは何だ? 腐ったお偉方の手のひらの上で踊らされ、ただただ繰り返される毎日を消化するだけの生活の事か?」
「ふん――それが嫌になったら冒険にでも出ればいいじゃない。どっかに当てもなく旅に出かけて、辛くなったらまた戻ってきて――素敵な恋だってしてみたいわ。自分の夢だって叶えたい――もちろん多少なりともお金も欲しいし、それに――ほらご覧なさい。魔法ぶつけ合って殴り合いしてる暇なんて、私たちには無いのよ」
「結局は暇の問題か? お笑いだな、神楽坂明日菜」
「じゃあ、“ヤミノフクイン”エヴァンジェリンさんは、明けても暮れても戦いばっかりの毎日を送って、人を憎んで、人から憎まれて――そうやって、最後にはたった一人で死んでいく。それが理想の人生ってわけ? それが、正しい生き方だってわけ?」
「貴様はどれだけ子供だ、神楽坂明日菜。言ったはずだぞ。貴様程度の人間には世界は推し測れん。一人一人の人生に、何が正しいかなどと、答えが出せる筈もない。もしそれを望んでいるのなら、貴様の生きていく先、待っているのはただ一つ――絶望だけだ。世界は――」

 そこまで言って、エヴァンジェリンは一瞬だけ、言葉を切った。
 そして再び口を開いたとき――その声には、僅かだが、かげりがあった。

「世界は、貴様が思っているほど、優しくもないし綺麗でもない。何も知らん中学生に説教をされたところでな――中身の入っていない宝箱の素晴らしさをどれだけ説かれたところで、そこに何の意味がある?」
「そーね。シロちゃんなんかは、自分がやってることは単なる身勝手な押しつけだって言ってたけど――私だって所詮、立派な事が言えるほど、偉くもかしこくも無いわけで」

 “立派な”という言葉に、ネギの肩が僅かに揺れる。
 明日菜はそれに気がつかずに腕を組み、エヴァンジェリンを見下ろす。

「……なんだ」
「まあ、エヴァンジェリンさんの言ってることは間違ってるわけでもない。でも――“絶対に間違ってる”。私はそれが気に入らない。だから――」
「……だから、なん――きょわあっ!?」

 明日菜は無言でエヴァンジェリンの背後に回り込むと――いきなりしゃがみ込んで、彼女の足の裏を、思い切り掴んだ。血流が滞って、感覚を失っていた彼女の足は――微妙なタイムラグを伴って、形容しがたい感覚を、神経へ訴えかける。
 果たしてその主であるエヴァンジェリンは、奇声をあげてぱったりと倒れ――そのまま“ひくひく”と、痙攣したように震えながらうずくまる。

「とりあえず、反省させるだけにしておくわ。いーでしょ別にそれくらい。警察に突き出されたところで、あんたら文句言えないんだからね」
「……エヴァンジェリン殿――迷わず成仏されよ」
「んで、他人事みたいに言ってるシロちゃん――は、さすがに正座慣れしてんのねー。これじゃ全然意味ないわ」
「……とはいえ、流石に座布団も無しに畳の上は、拙者にも辛い物が」

 シロの抗議を軽く無視して、明日菜は部屋の中を見渡し――ふと、部屋の隅に飾られていた、不思議な壺に目をとめる。

「ん――そこの壺なんて丁度良いかも。シロちゃん、朝までそれ抱えて座ってなさい」
「ちょっ!? 明日菜殿!? それは何の拷問で御座るかっ!?」

 大騒ぎをする二人の横で、ただ静かに、しかし心なしか楽しそうな表情で、緑色の長髪を持った少女――絡繰茶々丸はその喧噪を眺め――そしてネギの答えは、未だに見つからない。




「ネギ坊主やら神楽坂殿やらが、何か悩みを抱えていたのは知っていたけれど――拙者の知らないところで、騒動があったようでござるな」
「――そうだね。僕も詳しくは知らないけど――よし、これで、どうかな?」

 居間で展開される喧噪を、その片隅で眺めながら――ケイは、楓の足にテーピングを施してやっていた。

「本当はスポーツ選手が使うような奴がいいんだけど、普通の家にそう言うの無いからさ」
「大丈夫でござるよ。何だか痺れや――痛みも無くなったような」

 包帯を裂いて作った即席のテーピングではあったが、ケイの処置が良かったのか、楓の怪我がそれほどのものでなかったのか――少なくとも楓自身には、それで十分だと感じられた。
これは彼の職業柄だろうか。捻挫や何かをした時の、足首の固定のやり方――そんな物を心得ている人間は、そうそう居ないだろう。それなのに申し訳なさそうに言うケイに、楓の心に温かなものが――

(……拙者も意外と、単純で――それなりに女の子だったのでござるなあ)
「どうかした? まだ――痛むかな?」
「あ、いやいや、拙者は大丈夫でござる。ケイ殿の方こそ、大丈夫でござるか?」
「僕? 僕は何処にも怪我なんてしてないけど」
「そうでござるか? ……あの“鬼”と、あれだけ激しい戦いを繰り広げておきながら?」
「ああ――言いそびれたけど、あの“鬼”ねえ――」

「心配しなくても、こいつそれなりに頑丈だからさ、心配する必要なんてねーよ」

 唐突に背後から掛けられた声に、楓とケイは驚いて振り返り――

「横島先生ッ!!」
「わっ!」

 それよりも早く――今まさに、膝の上に壺をのせられようとしていたシロが、弾かれたように飛び出した。




「先生――お体は平気で御座るか!? ご気分は――ああ、ああ! 駄目で御座るよ! 無理をして起きてきては――まだ横になっておらねば!」
「大丈夫だって。落ち着けシロ。一度深呼吸して。な?」
「深呼吸――ひっひふー、ひっひふー……」
「心配してんなら無用なボケはよさんかい。本当に心配してんのか?」

 苦笑しながら、白髪の青年、横島忠夫は、飛びついてきたシロの頭を撫でる。そして居間に集った少年少女達を見遣る。

「夜も遅いって言うのに千客万来だな――ってエヴァちゃん? そんなところに突っ伏して、腹でも痛いのか?」
「そこの――馬鹿レッドに聞け――くぁ――よせ茶々丸、今は助けなどいらん――アッ――!!」
「……? まあ、いいや。ケイ、楓ちゃんは大丈夫か?」
「あ、うん――少し膝と足首を痛めたみたいだけど、たいしたことはなさそうだよ」
「そっか。とりあえず今夜は泊まってってもらって、明日病院に連れて行け。あー、そういや誰がここまで連れてきてくれたのか知らんが、俺の車、麻帆良女子中の来客駐車場に置きっぱだなあ。悪いけど、ケイ、朝イチで取りに行ってくれねーか?」
「それは別に構わないけど――いや、大丈夫なの? にーちゃんの方こそ」
「……悪い――シロも、迷惑掛けたな。まあ、本調子とは行かないが――とにかく、大丈夫だ」

 ひとしきり騒いでいたシロであったが、気がつけば静かになっていた。見れば彼女は、横島の胸に顔を埋めて、じっと動かない。
 その肩が、小さく震えているのに気がついて、横島は優しく、彼女の長い髪を梳かすようにして、その頭を撫でてやる。その光景は純粋に美しいものと言えたかも知れないけれど、それより前に、見ていて暖かい気持ちになってくるのは、この二人の人徳故か。明日菜は、シロの膝の上に置こうとしていた壺を持ったまま、視線のやり場に困ってしまう。
 ややあって、ようやく顔を上げたエヴァンジェリンと目が合い――

「待て、神楽坂明日菜。貴様は鬼か」
「えー、でも、そもそもこうなった原因の大半はエヴァンジェリンさんだって、さっき自分で言ったし」
「だからと言って、私はそれを反省しているわけでもない」

 明日菜は小さく息を吐き、持っていた壺を元の位置に戻す。

「とりあえず明日菜ちゃんもネギも、大丈夫そうだな?」
「あっ……はい、すいません、こんな時間に――お風呂も借りちゃって」
「あー、あのままだと確実に風邪引いただろうし、それは別に構わねーって」
「いえ――それで横島さんは、本当に大丈夫なんですか?」
「うん、まあ……知らない君らには心配掛けちまったな。これはまあ――なんて言うか、俺の持病みたいなもんで。ああ、でも持病って言っても、本当の病気って訳じゃなくて――大丈夫ではあるんだけど」

 シロの頭を抱いたまま、明日菜の問いに、横島は煮え切らない様子で答える。

「大丈夫だけれど、大丈夫じゃないんですよ。ヨコシマの場合」

 そんな彼の影から、独特の深緑の光沢を持つ頭が、ひょいと現れた。芦名野あげは――シロと同じで横島邸に下宿をする、もう一人の少女である。その不思議な色の頭髪と、シロ程では無いにせよ独特のしゃべり方が目を引く、快活な可愛らしい少女である。
 しかし今の彼女を見て、明日菜は少し驚いた。彼女はどうやら、努めていつも通りの振る舞いをしようとしているらしく、いつまでも泣くななどと言いつつ、横島からシロを引きはがそうとしている。
 しかしその肌は、いつもと比べて明らかに血色が悪く――そして、その大きな瞳の下には、うっすらと隈が浮かんでいる。

「……横島忠夫を癒した雌ガキか――貴様、何者だ?」
「だからさエヴァンジェリンさん。あんた、誰に向かってもとりあえずけんか腰になるのやめなよ。悪い癖だよ」
「ふん」

 アイスブルーの瞳を細めて、あげはを睨むエヴァンジェリンであったが――あげはの方は、眉一つ動かさずに、その視線を受け流す。見た目の年頃がほぼ同じくらいなので、傍目には子供のにらみ合いのようにも見えるが――そこに込められたエヴァンジェリンの殺気は、幾分本気のそれだ。
 幾百年の戦いをくぐり抜けてきた吸血鬼の殺気を――この少女は、まるで何事もないように――只の子供のにらみ合いだとばかりに、受け流している。エヴァンジェリンや、怒りに我を忘れた時のシロの持つ殺気は、只の雰囲気でなく、もちろん単なる心境の変化にとどまらず――向けられた相手の、本能的な恐怖を呼び起こす。
 望まずこの戦いに巻き込まれ、そう言った物の片鱗を経験してしまった明日菜には、あげはの様子が信じられなかった。

「……初対面の人間を“雌ガキ”なんて言い捨てる品のない人に、名乗る名前はありません。それに――ガキにガキだなんて言われても、お笑いですね」
「……なんだと? 言って置くがこれでも私は――」
「百年生きようが千年生きようが、子供は子供です。人の心は――生きた時間とは関係なく存在する物です。自分が子供だと――そんな自覚もないのなら、本当に子供ですね、あなたは」
「貴様――言わせておけば」
「自分から喧嘩をふっかけて置きながら、口で言い返せなくなったら実力行使ですか。冗談も大概にしてください。私――これでも、怒ってるんですよ」

 エヴァンジェリンと同じように、あげははその瞳をすうっと細め――

「よせよあげは。悪いなエヴァちゃん。こいつ、寝てるところをたたき起こされたもんだから、機嫌が悪いんだよ」
「――どの口でそう言うことを言うんですか、ヨコシマは。大体こいつが――」
「文句なら後で聞いてやるから。な?」

 横島になだめられ、あげはは不承不承――エヴァンジェリンから視線を逸らす。それを見て明日菜はほっと胸をなで下ろし、エヴァンジェリンの頭に手を置く。

「……何をする」
「まだお説教が足りないのかしらね、馬鹿二号」
「……馬鹿に馬鹿と言われると、無性に腹が立つのだが?」
「知らないわよ。ねえ、あげはちゃん――うちのクラスの馬鹿二号が迷惑を掛けたのは謝るんだけど――その、大丈夫なの? あげはちゃんも、横島さんも――」
「そうだ。俺はもう平気だけど――お前はもうちょっと寝てた方が良いんじゃないか?」
「今の状況で、ヨコシマを放っておけるわけがありません。文句の一つでもあるというのなら――もう二度と、私にこんな思いをさせないでください」

 横島の言葉に、あげはは小さく首を横に振り――シロと同じように、彼の腰の辺りにしがみついた。その様子に、この少女達がどれだけ、この青年の事を想っているのかが見えた気がして、明日菜は口元をほころばせた。笑みを浮かべて良いような状況だったのかどうかはわからないけれど――横島の表情と、彼にすがりつく二人を見ていると、自然と顔が柔らかくなってしまう。
エヴァンジェリンもその様子に毒気を抜かれてしまったらしく、小さく鼻を鳴らして座り込んだ。ただし、今度はあぐらで。その様子に、明日菜は何か一言言ってやろうと――

「……すいませんでした」

 その刹那響いた、幼い少年の小さな声が、彼女の動きを止めた。
 見れば、その少年――ネギは、正座をしたまま俯いていた。

「犬塚さんに、横島さん――それに、芦名野さん――でしたか? この家の人には、本当にご迷惑をお掛けしました」
「……ネギ、あんた」

 彼の表情は、頭髪に隠されて伺うことが出来ない。しかし、膝の上に置かれた彼の拳は、白くなるほど強く握りしめられ、そして震えていた。

「僕の気持ちそのものが間違っていたとは、思いたくない。けど、結果的に、僕はみんなに迷惑を――今更こんなことを言って、皆さんは怒るかも知れません。でも――今は謝らせてください」
「……」

 横島は、そんなネギを困ったような目で見つめた後――頭を掻きながら、小さく息を吐いた。

「ま……馬鹿をやるのは子供の特権だとはいえ、な。とりあえず、話を聞かせてくれないか? いや、実は俺もシロと同じで、勢いに任せて飛び出していったは良いが――実のところ何が起こっていたのか、ほとんど知らないんだわ」










エヴァンジェリン編、後始末編に突入。
というか「後始末編」で未だに続く自分の話に、ちょっとびっくり。

しかしある意味、ここからが本番だと思ってみたりも。

今回自分の頭の悪さに少々辟易。勉強しないといけませんね、本当に。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・宴の夜は明けて
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/05/18 12:45
――どこまで行く気だい?
――お前と違うところ!

交わることのない道がある。けれど、それの何が問題なんだ?




「なるほどねー……いくら何でも、エヴァちゃんのそのナリで中学三年生は厳しいだろって、そう思ってたけど――なるほどなるほど。ピートの奴もああ見えて七百歳とか何とか言ってたしな」
「まて、貴様。これだけの話を聞いておいて、言いたいことはそれか?」

 押し黙ってしまったネギに代わり、明日菜と茶々丸、それに時々口を挟む形でエヴァンジェリンから事の次第を聞いた横島が言ったことと言えば――まずは“それ”だった。
 当然、変な物を飲み込んだような顔をして反論したエヴァンジェリンに、横島は苦笑しながら言う。

「だから言ったろ? 俺はシロやネギが何かしらの悩み事を抱えてるってことはわかってた。けど、それが何かは知らなかったし、聞くつもりもなかった。悩み事ってのはな、結局本人が言い出そうとしなけりゃ、誰かが聞いても意味がねーんだよ。無理に聞き出そうとすりゃ、必ずねじ曲がって相手に伝わる」
「それは貴様の経験論か?」
「経験論っつーか……まあ、これでも一応、いい大人だからな。サラリーマンは色々と大変なわけだよ」
「その格好で苦労を説かれてもな」
「……だとよ、ほれ、シロ、あげは。いい加減に離れろ。俺が悪かったから、な?」

 じっとりとした目線でエヴァンジェリンに言われて、横島は困ったように、両脇にしがみつく頭に、優しく手をやった。シロとあげはは、横島の胸に頭を埋めるような形で、先ほどから動かない。あげははともかくシロまでが、人目のあるこの場所でここまで甘えてくるのは珍しい。
 結局自分がそれだけ心配を掛けたと言うことなのだと、そう思うと――強く拒否も出来ず、横島は結局されるがままとなる。

「いや、別にそれが理想ってわけじゃないけどさ、楓さん――あれだよ、あれ」
「ああ……なるほど。何故にケイ殿がそう拘っているのか疑問でござったが――」
「そこ、外野、黙ってろ」

 部屋の片隅で、無遠慮に彼“のみ”を指さしてそう言う長身の青年に、一言釘を刺しておいてから、横島は言った。

「――俺自身、今の知り合いの何人かとは、下手すりゃ死ぬレベルの喧嘩やってるから、偉そうなことは言えないんだけどな――何人か? ……ほとんど全員――か?」
「私が言うのも何だが、貴様は一体どういう人生を送ってきたんだ? それとも、ゴースト・スイーパーという連中は、皆が皆そうなのか?」
「とはいえ、多分それを面と向かっていったら、大概の奴は否定したがるだろうが。まあ、俺なんて美神さんに比べたら、まだまだだよ」

 首を横に振り、彼は続けた。

「だから俺は、エヴァちゃんらの“喧嘩”について、あれこれ言う資格はねーんだけど。大人として言わせて貰えば、中学生とその担任が、魔法ぶっ放して刀振り回して大げんか、ってのは、まあやり過ぎだわな」
「……ふん」

 エヴァンジェリンが小さく鼻を鳴らし――ネギの肩が、僅かに揺れた。

「明日菜ちゃん」
「あ、はい」
「君の言ってることは間違っちゃ居ないよ。人生平和でのんびりと、それが一番だ」
「ですよね?」
「ふん」

 つまらなそうに、エヴァンジェリンが横合いから言う。

「貴様の言う平和の影で、世界では何万ガロンの血が流れていることを忘れるな?」
「エヴァちゃんよー、言いたいことはわからなくもないが、それは終戦記念日か何かに言ってくれ。常日頃からそんなこと考えてたんじゃ、飯が不味くなる」
「……いい大人を自称する割には、適当だな」
「“立派な大人”を名乗った覚えもねーし、平和だろうが平和でなかろうが、俺たちは生きることに必死だからな。結局テレビの向こう側のことを、自分の周りと同列には語れねー」

 横島は言った。彼の言葉は、聞きようによっては無責任なものに聞こえたかも知れない。けれど、実際には彼の言うことは正しい。無遠慮な事実の指摘は、概して耳に痛いものである。

「ならば貴様にとって――神楽坂明日菜にとっても、私やネギ・スプリングフィールドの争いは、対岸の火事か? ならばそれはそれで、勝手にしゃしゃり出て来るんじゃない」
「単純なことだろう、エヴァちゃんよ。俺にとってシロのことは対岸の火事じゃねえし、明日菜ちゃんにとってのネギも同じことだ」

 横島は、自分にしがみついたまま動かない銀色の頭を、ゆっくりと撫でる。エヴァンジェリンはため息をつき――首を横に振った。

「だから貴様らは身勝手だと言うんだ。他人の背負うものを対岸の火事と言い捨て、さりとて、いざ自分の身近で火消しをする連中を野次馬しつつ、身勝手な持論を振り回す。神楽坂明日菜、貴様と私の考えは、何処まで行っても交わることはない。いやさ――貴様の身近に居る人間が、命の危機にさらされ、あるいは殺されて尚、同じ物見根性で居られるか、そいつが見物だな」
「あのなー、エヴァちゃん。それこそ君の中での極論って奴だろ。エヴァちゃんはあれか? 常日頃から自分の大事な誰かが危険な目に遭ったら――とか、考えて生きてんのか? まあ、エヴァちゃんはつっぱってる割に優しいから、そうかも知れないけど」
「……何を戯言を。私は“悪の魔法使い”だぞ? 貴様はどうなんだ? 神楽坂明日菜の考えに共感を持つという貴様は、そこの雌ガキ二人が殺されでもしたら、どうする?」
「そんなことには俺がさせねえ」

 きっぱりと、横島は言った。シロとあげはの頭に乗せられた手に、僅かに力がこもる。

「理想論を説くんじゃない。私はもしも――の仮定で聞いて居るんだ。仮定を覆して話をしようとするな」
「それでもだ。俺は絶対に、この二人を死なせたりしねえ。もちろん俺も死なねえ。だから、明日菜ちゃんの言う“安っぽい理想”とやらには諸手を挙げて賛成だ」
「……話にならんな」

 首を横に振って言ったエヴァンジェリンに、横島は肩をすくめる。全くこの男は苦手だ、と、エヴァンジェリンは思う。相手の意見に反論するでもなく、全てを受け止め――しかし決して“受け入れる”わけではない。そしてそれは、立場を変えてみたところで同じ。一方的に相手に自分の持論を展開し――しかし果たして、それを“押しつけ”ようともしない。
 いっそのことネギのような“己こそ正義”という勘違いを犯した連中の方が、どれだけ相手にしやすいことだろうか。もっともネギのそれは、多分に幼さ故のそれも混じっているのだろうけれども――

「しかしまあ何にせよ――話を元に戻すと、エヴァちゃんの“呪い”とやらをどうにかせん限りは、話は平行線だな」
「意外だな。そこに帰結するのか?」
「だって、ネギの目的は“立派な魔法使い”になることなんだろ? エヴァちゃんは確かにネギと因縁があるのかも知れないが、そりゃこいつの親父に関してのことだ。言ってみるなら――あー……」
「構わん。遠慮するな。どうせ、私もその考えには行き着いている」

 言いにくそうに言葉を切った横島に、ため息混じりにエヴァンジェリンは言う。
 彼は苦笑し、顎の辺りを掻きながら――それでもやはり言いにくそうに言った。

「今度の事件は、ネギにとっては単なる通過点だ。だから無視して進んでも差し支えは無い。ネギはそこで“見過ごせない”って言う単純な思いこみで、足を止めてるだけだ」
「……!」

 その言葉に、俯いていたネギは、弾かれたように顔を上げた。その瞳には、押さえきれない感情の炎が渦巻いている。

「だがな」

 それを一瞥して、横島は言った。

「“村人A”は、通りがかった勇者に“武器と防具はちゃんと装備しないと――”とか言うために生きてきたわけじゃないだろう」
「……どういう意味です?」

 横島の喩えがわからずに、ネギはじっと、彼の瞳を見据える。頭髪とコントラストを成すような、彼の黒い瞳は底が知れず――けれど、困ったような表情を浮かべた今の様子こそが、本当に彼の内心を表しているようにも感じられる。
 少年時代の半ばにあって、未だ周りの景色を眺める余裕もなく、駆け足を続ける――そんな少年にとって、彼は未だに出会ったことの無いタイプの人間だった。一番近いと言えば、学園長か――しかし、横島と彼は、何かが違う。そんな気がする。もちろん、それは当然のことではあるのだが――

「勇者が魔王を倒しても、“村人A”の人生は続く。同じ様に、お前が“立派な魔法使い”になろうがなるまいが、エヴァちゃんの人生は続くって事だ」
「それは――当たり前です」
「ああ、んで、当たり前と言えば、エヴァちゃんはお前と戦うために、十五年もここで過ごしてきたわけじゃない。お前がエヴァちゃんに勝とうが、エヴァちゃんから逃げようが――エヴァちゃんはこの先も、この娘自身の人生を生きていくんだ」
「呪いを解かないと、エヴァンジェリンさんは救われないって事ですか?」
「どうしてお前はそう――そう言うこと言ってるんじゃねーっつの。俺は魔法の“ま”の字も知らない一般人なんだぞ? こう見えてこの娘、魔法の世界じゃ有名な悪党らしいじゃねーか。まあ、ひょっとするとツンデレで有名なのかも知れんが」
「……やはり貴様から殺しておくべきか?」

 何と無しに手を伸ばし、頭に置かれた横島の腕を、エヴァンジェリンは振り払った。横島は大げさに怖がってみたりもしながら、話を続ける。

「呪い云々に関して言えば、俺は口出しなんて出来ねえよ。それに、呪われたから人生終わった――ってわけでもねえ。病気に掛かろうが怪我をしようが、人生は続く。生きてる限り、な」

 ネギとエヴァンジェリン――そして、明日菜の視線が、横島の脚に集中した。彼はそれに気がついて――

「あ、あんまり見ないでねっ!? 変な快感に目覚めそう!!」
「――いい加減話は真面目にしろ。この壺で貴様の頭に“ジャパニーズ・ツッコミ”でも決めて欲しいのか?」
「う、それは勘弁。それとその壺な、うっかり割ると呪われる可能性が高いんで、気をつけて扱うように」
「ひいっ!?」

 つい先ほどまで、それを拷問具のごとく扱おうとしていた明日菜は、思わず床に置かれた壺から距離を取る。ゴースト・スイーパーであった彼が言うと、この手の冗談は冗談にならない。

「って、明日菜ちゃん。冗談だよ、冗談。何が悲しくてそんなもん、家の中に置くもんか。そのうち花でも生けようかってんで、知り合いの古道具屋から――……あー、やっぱり倉庫に放り込んでおこうかな?」
「否定してください、そこは!」

 壺の話はともかく――と、横島は首を横に振る。

「根本から話がずれてんだよ、ネギ。お前の言ってることはな。最初に断っておくが、お前が間違ってる、ってわけでもねーからな」

 彼とネギの面識は、深いものではない。せいぜい成り行きで顔を合わせ、この家に一泊した程度である。横島よりも、思い出話を聞かせて貰ったケイの方が、ネギにとってはなじみ深い人間だろう。
 しかし、その程度の面識だろうが、ネギ・スプリングフィールドという少年は、実にわかりやすい。よく言えば純粋無垢であり、混じりけのない輝きを持った、宝石の原石のような少年ではあるのだが――その分、自分の世界に於いてかみ砕けない事には、極端に弱い。
 ダイヤモンドが、あらゆる物を貫くと言われつつ、その実、不意の衝撃にはあっけないほどに脆いように。

「誰が正しいとか間違ってるとかそう言うのは、門外漢の俺にはわからん。俺も偉そうな事が言える大人じゃねーからな。けど、これだけは少し考えたらわかることだぜ。ネギ、お前、俺より頭いいんだろ?」
「そんな――そんなこと、わかりません」

 ネギは唇をかみしめ、首を横に振った。横島はそんな彼の顔を眺め――

「こいつ誰かに似てると思ったら、出会った頃のシロやあげはにちょっと似てんだよな。そう思わないか?」

 己にしがみつく少女達に問うてみるが――彼女たちは無言だった。ただ、無言のまま首を横に振ったけれども。

「少なくとも、ネギがいろんな事に真剣だってのは、よくわかる。だがまあ人間には出来ることの限界ってもんがあるし、出来ないから真剣じゃない――なんて事は言えない。だから、とにかく真剣なんだ、って、エヴァちゃんに吶喊したネギもまあ、全部が全部間違ってる訳じゃない」
「それは――でも、そのやり方が」
「うん、明日菜ちゃんの言いたいことはわかる――なんて言えば良いのかな」

 横島は、そこで頭をがしがしとかきむしる。

「すまん、本来俺って、こんな風にわかったような事を――他人に“諭す”なんてキャラじゃねーしさ。前にあげはに、一度似たような事をやろうとして――結局ボロボロだったな、あん時は」
「……それはそれで、良かったですよ、あの時のヨコシマは」

 彼の胸で、小さくあげはが言った。その言葉に彼はまた苦笑する。

「じゃあ、ネギはそれで良いにしても、エヴァちゃんの立場はどうなる? ネギが勝っても負けても、呪いが解けるわけじゃない。真面目に授業に出たところで、今年が終わればまた、エヴァちゃんは一年生からやり直し。どうにか呪いを解くやり方が見つかっても、そもそもこの呪いは、エヴァちゃんの立場故に掛けられたようなもんだから、下手に呪いを解こう物なら――」
「私は賞金首に逆戻り、か? ま……仕方なかろう。前にも言ったように、今の私は、日々の刑に服する囚人のようなものだ。囚人を勝手に解放することは出来ん。それを即ち、人は脱獄という」
「……そうです。僕は、どうすればいいのかがわからない。でも――でも、どうにかしたいんです。“立派な魔法使い”なんて目的は関係ない。僕自身がそうしたいから――」

 聞く人が聞けば、それは嫌悪感を覚えさせる言葉だったのかも知れない。果たしてそれは、単なる気まぐれであり、身勝手であるからだ。エヴァンジェリンは、ネギの所有物などではない。あるいは彼の行為は、無遠慮にエヴァンジェリンの傷口を、べたべたと触っているだけかも知れない。
 けれど、不思議とこの時だけは、その類の嫌悪感は誰も覚えなかった。明日菜でさえも。
 場の雰囲気がそうさせたと言えば、そうなのかも知れない。彼が子供だから、ついつい甘く見てしまったのかも――けれど、もしかしたら――

「それでさっきの話になるんだよ。ネギの気持ちはよくわかったが、それはエヴァちゃんとは関係ないだろう? もしも“呪いが解けません”“代替案もありません”って事になったら、どうするよ? お前一生、エヴァちゃんの面倒見ていくのか?」
「ふん――私の下僕になるには、少々足りんな」
「その筋のお方からは、たまらん誘惑だろうが――痛っ!? つ、爪が! お前ら爪立ってるって! 俺には別にそんな趣味はねーっつうの!!」

 突如騒ぎ出した“横島一家”を見て、明日菜は呆れたように息を吐き、エヴァンジェリンは小さく笑う。ネギはと言えば――まるで凍り付いたように動かない。いつもは面白いくらいにころころと変わる表情も、小揺るぎもしない。
 それを見て、横島は肩をすくめた。

「いててて……本気で爪立てやがったなお前ら――ネギ、俺は別に、お前のことを責めてるわけじゃないんだぜ?」
「……でも」
「考えても見ろ。俺がお前の事を責められる立場にあると思うか? 今回の事では、シロの保護者で、エヴァちゃんの顔見知りだって、それ以上に関わりのない俺が? それに、俺がゴースト・スイーパーをやってたのは、お前の倍の年の頃だったが、それでもお前よりも、ずっと馬鹿をやってたもんだ。シロだのあげはだのケイだのは、そのことをよく知ってるさ。なあ、ケイ?」
「……まー、そうだね」

 話を向けられたケイは、楓の方を一瞬だけ見てから、小さく頷いた。その視線が何を意味したのか、楓にはわからなかったが。

「……あー、呪いだとか立場だとか何が正しいだとか――そう言うことまで話を広げたからややこしくなっちまったが――ネギ、お前は本気だったんだろ? お前はさっき、問題が解決しなかったらどうするんだって言われて、言葉に詰まったよな?」
「……はい」
「それはお前が本気だって証拠だ。お前は、“駄目だったらどうしよう”なんて事は一切考えてない。だから無茶をして突っ走ったし、エヴァちゃんの事も、根っこの部分では考えられなかったんだよ」
「でも、それはっ!」
「もう一回言う。お前は、本気だったんだろ?」

 横島の強い調子での言葉に――ネギは、小さく、しかしはっきりと頷いた。

「……明日菜ちゃんもエヴァちゃんも、そろそろ勘弁してやれよ。こいつはこいつなりに必死だったんだ」
「僕らには目が二つしかないし、手足も二つずつしかない。全力疾走しながら脇見をする余裕なんて、僕らにはない。前ばっかり見つめて、それで本当にそこにたどり着けちゃう――にーちゃんやネギ君みたいな人間には、なかなかわからないことだけどさ」

 ケイがそこで、会話に割り込んだ。ネギはそちらを見る。長身の青年は、軟らかな表情を浮かべていた。それは以前に、この家の縁側で見た時のそれと、同じ物だった。

「神楽坂さんの言うことは、もっともだと思う。事は、子供の喧嘩で済ませられる限度を超えてるからね。シロさんも――にーちゃんの事が絡むとすぐにおかしくなるけど、マクダウェルさんに刀を突きつけたのは――いや、彼女と戦おうとしたのは、やり過ぎだ」
「“ついかっとなってやった、今は反省している”ってところだろ。いじめてやんなよ、あんまりな」
「別にいじめてなんかないよ。そう思うなら、日頃からもう少し、シロさんの気持ちに応えてやりなよ」
「馬鹿言え。だからこうやって後先考えずに飛び出したんじゃねーか。まあ、結果的には間違ってたかも知れんが」

 横島の言葉に、ケイは深々とため息をつき、首を横に振る。

「この人が馬鹿なのは、今に始まった事じゃないからまあいいとして」
「……竹とんぼ一つではしゃぎ回ってたガキが、言うようになりやがったな?」
「今度のことは、間違ってたかも知れない。けど、僕らが今できることは何だろう? それを真剣に、おかしくなるくらいに考えて――出した結論が“それ”だった。ネギ君はたまたま“魔法使い”だったんだ。そしてマクダウェルさんもまた、“魔法使い”だった」
「……藪守ケイと言ったか? この戦いが茶番だとは私も認めるところだが、それでも、これだけの結末が、全て最初から予想されていた事だったと?」
「まさか」

 彼はもう一度、首を横に振る。彼にもまた、エヴァンジェリンの視線に込められた力などは、通用しない。
 全くこの連中は、どれだけ底が知れないのか――彼女は場違いな高揚感を覚える気持ちを、どうにか抑え込んだ。

「今回の事が終わって、ネギ君は反省してる。マクダウェルさんも、反省してる」
「ちょっと待て。私が反省だと?」
「ああ、そう言うことか。んで、明日菜ちゃんは、とりあえず伝えたいことを形にして、ネギとエヴァちゃんにぶつけた、と」

 横島が一人、得心がいったと言うように――ケイの方に視線を向けてみせる。彼は、小さく頷いた。

「つまりは、どういう事でござるか?」

 話しについて行けず――しかし、何処まで首を突っ込んで良いのやらもわからない。そんな微妙な立ち位置に立つ楓が、二人に問うた。

「ネギ、エヴァちゃん、そして明日菜ちゃん――うちの馬鹿は除くとしても、三人共に、譲れないものがある。だからどれだけ話し合っても、あるいは殴り合っても――この話は平行線だ」
「……」

 横島の言葉に、ネギは唇を噛み――明日菜は、小さくため息をついた。エヴァンジェリンはそんな二人を見て、つまらなそうな寂しそうな――不思議な表情を浮かべる。

「でも、だ。とりあえず全員の言いたいことは出きった。もやもやしてた心の内を、全員がぶつけ合った。なら、話し合いの段階はこれで終わりだ」
「そして――“殴り合い”の段階もね」
「だったらこの後はどうする? “どうにかして解決する”それだけだろ」




「ふむ――そんな事があったのか。それは大変じゃったのう、皆」
「どの口でそう言うことを言って居るんだ、この糞爺が」

 夜が明け、麻帆良学園理事棟学園長室――唐突な来客にもかかわらず、また今日は休日であるはずだが――まるでその場にいるのが当然であるかのように、麻帆良学園学園長、近衛近衛門は彼らを出迎えた。
 ひとしきり話を聞いた後の彼の言葉に、流石のエヴァンジェリンも、こめかみをひくつかせながら、震える声で言う。“お茶目が好き”を自負する学園長ではあるが――流石にその言葉は、彼女の許容限界を超えたのだろう。

「それでどうするんですか、学園長先生。“うちの娘”が巻き込まれた手前言わせて貰いますが、事は教師と生徒のトラブルを超えてますよ?」

 シロとあげはに挟まれるような形で、一人車いすに腰掛ける横島は、エヴァンジェリンを宥めながら、学園長に問う。
 曰く、エヴァンジェリンは確かに賞金首ではあるが、聞くところによれば彼女の起こした事件は、ほとんどが正当防衛であり、彼女を囚人のごとく扱う事には疑問がある。当然、自分は魔法使いではないので、裏の事情などは知らない。しかし、彼女に対する考え方に、何らかの変化が無い限り――この禍根は強まりこそすれ、消えることはない。
 ネギ・スプリングフィールドが、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの前に、“魔法先生”として立ち続ける限りは。
 今回のことで、ネギが取った行動は、その気持ちの有り様は別にして、正しいと言える物ではなかったかも知れない。しかし、今の二人の状況を考えれば、“正しい”と呼べる行動など、ありはしないのだ。
 “あがり”の無いスゴロクの、どれだけ無意味な事か。ジョーカーの失われたババ抜きもまた、むなしい物だ。
 それを打開できるのは、スゴロクにあがりを書き足せる者。ジョーカーをカードの束に混ぜ込める者――前提を変えられる、ゲームマスターのみ。そしてネギとエヴァンジェリン、双方の立ち位置の“前提”を変えられるのは――この、麻帆良学園である。
 麻帆良学園は、単なる施設だ。
 多くの人によって運営され、明確な主体など持っていない。けれど、麻帆良学園は人間のように振る舞うことが出来る。ネギ達教師に指示を出し、学生を統率し、町を成り立たせる。
 近衛近衛門は、そんな麻帆良学園都市を統括する立場にはあるが――麻帆良学園都市“そのもの”ではない。けれど、今回の事件のゲームマスターを捜すとなれば――さほど考える必要もなく、彼に行き当たるのではないか。

「ふむ――身内の恥を、そして己の恥を晒すようで情けないがの、魔法使いの大半は、非常に近視眼的で独善的じゃ。自身を“魔法使い”などと言うくくりで特別視するような人間じゃから当然であるし、それを当然として育ってきた人間も、また悪意を抜きにして、似たような人間となってしまう」
「……」
「むろん、ネギ君もそうであるとは言わん。魔法使いの中にも、そのような考え方をよしとしない人間もまた、大勢おる。じゃが――儂は臆病者じゃ。この麻帆良学園都市を本拠地とする、“関東魔法協会”の人間の大部分もまた、な」

 彼はわざとらしく――小さく息を吐く。

「じゃから、儂らはエヴァンジェリンの事については、今まで手を触れなんだ。英雄ナギ・スプリングフィールドが行った事に、間違いなど無い。エヴァンジェリンは“闇の福音”とまで謳われた恐ろしい魔法使い。ここでおとなしく飼い殺しに出来るのならば、それに越したことはない――つまり今まで、ネギ君のように、真っ向から彼女と向き合う人間は現れなんだと、そう言う事じゃ」
「言い訳はその程度にしておけ。私は貴様のことをそれなりに買っている。その相手の口から出てくるのが言い訳ばかりでは、気分が悪い」

 エヴァンジェリンは舌打ちをしてから、近衛門の話を強引に打ち切った。彼はしばらくの沈黙の後に――小さく言葉を続ける。

「じゃが、いつまでも見て見ぬふりはどうやら出来ん。そう言うことになってしまったようじゃのう――エヴァンジェリン」
「何だ」
「お主は此度、ネギ君と戦いながらも――彼を殺めもせず、大きな怪我すら負わせなかった」
「……貴様、何を――何処まで私を馬鹿にすれば気が済むのだ? 貴様らがそういう風に仕向けた――」
「それが事実じゃ。それは確かじゃな、皆」

 拳を握りしめ、激昂しかけたエヴァンジェリンだったが――近衛門は、非常に強い調子でその言葉を遮った。

「つまり――首輪の外れたエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、無差別に死をばらまくような“闇の福音”などという死神ではなく――きちんと分別のつく、一人の人間じゃったと言うことじゃ。“図らずも”今回の事で、それが証明された。ネギ君とエヴァンジェリンの考え方が、双方にとって受け入れがたいのは悲しい事じゃが――不慮の事故とも言える此度の戦いが全くの無駄だったかと言えば、そう言うことではない」
「糞爺――貴様、どれだけ私を――“私たち”をコケにすれば、気が済むんだ?」
「……今はこの言葉を、額面通りに受け取ってはくれんか、エヴァンジェリン」

 近衛門は、目を伏せ――彼女に向かって、深く頭を下げた。

「……それで私に、何のメリットがある。『馬鹿にしてごめんなさい』と謝られた程度では、私は許さんぞ」
「麻帆良学園都市は、その電力の一部を魔力に変換し、お主に掛けられた呪いに接続することで、お主の力を抑えておる。ここまでは良いな?」

 エヴァンジェリンの眉が、小さく動く。

「それが何を意味するか――学園側はの、既にナギの呪いの仕組みを理解しておるんじゃよ。雁字搦めに絡まった出鱈目な呪いじゃ。それも、無茶な力で結ばれた――じゃが、人間が結んだ結び目を、同じ人間に解けん道理が何処にある? ただ普通の人間は、絡まった結び目を解くのに何年もの時間を費やすまい。逆に言えば、費やすことが出来れば、その呪いを解くことは難しくない」
「……私の呪いを解くというのか? ふん――それが貴様らにとっての得策とは思えんし、ましてや“関東魔法協会”が首を縦に振るとは思えんな」
「じゃから“図らずも”、今回の戦いが、お主が不条理な暴悪ではないと、証明することになったと言ったのじゃよ――エヴァンジェリン。麻帆良学園本校女子中等部、三年A組所属――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。卒業までの一年間を、平穏に過ごす事が出来るのなら――その暁に、麻帆良学園都市は、お主の呪いを解こう」
「――!」

 思わず彼女は、言葉を失う。言葉の遣り取りが苦手でない彼女ではあるが、その言葉に言い返すべき何かを、彼女は持っていなかった。
 戯言を抜かすなと一蹴するも、そんなことが出来るのかと笑い飛ばすも――ましてや、素直に礼を言うなどという言葉が、彼女の中に存在するはずはない。
 しかし、少なからぬ驚きを全員が持つ中で――横島だけは、冷静だった。

「……漠然としすぎてませんか、それ。“平穏に”って言ったって、今回の一件は“平穏”とは言えないでしょう。後から色々言い訳をつけて“やっぱり無理”とかいうのは、さすがのエヴァちゃんも御免でしょうしね」
「出来れば今だけは、素直に喜んで欲しかったんじゃがな」
「これでも言葉を刃に取引をするのが仕事の商社マンですからね。全く近頃のサラリーマンは、昔の歌みたいに気楽な稼業じゃいられません」
「年寄りには耳の痛い言葉じゃのう」

 愉快そうに近衛門は笑う。

「漠然とは言うが、何、簡単な事じゃ。魔法の力でもって、みだりに人を傷つけぬ事――この一点のみで良い。“闇の福音”のネームバリューからすれば、妥当なところじゃと判断するが?」
「……って事だが、構わんか? エヴァちゃんよ」

 しばしの沈黙の後、エヴァンジェリンは小さく“ああ”とだけ応え――応接用のソファに、乱暴に腰を下ろした。

「ネギ“先生”の処分に関しては、追って指示を出そう。何、いきなり教師をクビにするほどに、この学園は狭量ではない。安心しておれば良かろう――さて、ここから先は、ネギ“君”と、エヴァンジェリンが二人で解決するべき事じゃな。儂“ら”大人の出番はもう無い――せめて、皆が納得できる結末を願っておるよ」

 そう言って、自身のカップに注がれた紅茶を飲み干した近衛門は、愉快そうに笑うのだった。




「どう思うの? シロちゃんは」

 理事棟からの帰り道、明日菜はシロに問うた。ここは女子寮からも近く、明日菜はそのまま歩いて、自室に帰る事となる。ネギはエヴァンジェリンと、付き添い代わりのケイと楓、おまけのあげはと共に“話し合い”に出向き、横島は学園長と話があるとの事で、ここには彼女らしか居ない。

「――拙者は、己の気持ちに嘘は付けぬ。されど、級友を傷つけようとしたことは――一生恥ずべきで御座ろうな」
「一生、ね――エヴァンジェリンさんが聞いたら、笑い飛ばしそうだわ」
「左様で御座ろうな。彼女は強い者と戦う事を、楽しみの一つとしておられるご様子。とはいえ――命を賭けてまでやることでは御座らんが」
「当たり前よ」

 明日菜は空を仰いだ。桜が散った後の春の空は、未だ高く澄み渡り、とても気持ちが良い。

「――私――戦うのは怖いわ。横島さんじゃないけど、痛いのも怖いのも嫌だもの」
「そう思うことは当然で御座るよ」
「シロちゃんもそう?」
「拙者には、その様なことを快感と受け取るような、奇特な趣味は御座らん故に。もっとも――己の痛みと引き替えに、大切な者を守る。それが、“侍”という生き方」
「侍ねえ――」
「拙者の里ならいざ知らず、確かにその生き方は、平和な現代にはそぐわぬもの。されど、人の根底に流れる他者への想いは――そう簡単に変わるものではない。拙者はそう信じているから、“侍”である事を誇れるので御座る」
「だったら私は間違ってるのかしら?」

 明日菜は青空を見上げて呟く。一筋の飛行機雲が、麻帆良の空を綺麗に割っていく。あの飛行機は何処まで行って、あれに乗っている人たちは何をしに行くのだろう。唐突にそんなことを、彼女は考えた。

「生きることに正解は御座らん。間違いもまた然り――かくいう拙者もまた、今の自分を――エヴァンジェリン殿に刃を突きつけた自身を、誰かが叱責してくれれば、どれだけ気が楽になるか」
「何だったら、私が膝に壺でも乗っけて、また朝まで正座させてあげるけど? 私も朝まで付き合うわよ」
「されど明日菜殿は、拙者が真に間違っていると――言い切れる訳では御座るまい?」

 そう言われて、明日菜は言葉に詰まる。
 戦うことは良くないことだと思う。しかし――エヴァンジェリンの言うことが完全に間違っているかと言えば、そう言うわけではない。学生という身分で、この麻帆良学園都市で、ともすれば相手を殺してしまったかも知れない戦いを繰り広げたことだけは、絶対に否定されるべきだ。明日菜はそう思うが――
 極論を言えば、エヴァンジェリンの言うことが“完全に間違っている”というわけではない。シロの言うとおり、人生には真の正解など存在しないのだ。だから自分の心は――こんなにも気持ちの良い日よりなのに、何処かすっきりとしない。

「それに明日菜殿は、自身の恐怖を押し殺してまで、あの場に向かった」
「……言ったでしょ、私はただ――ネギやエヴァンジェリンさんのやってることが、気にくわなかっただけだ、って」
「このような場で謙遜することに意味は御座らんよ。ここには拙者と明日菜殿しかおらぬ」
「……謙遜って言うか――ね。私はなんて言うか――何だろう。よくわかんない。でも」
「あそこで出て行かないという選択肢は、明日菜殿には無かった」
「……」

 シロは、明日菜と同じように、空を仰いで伸びをする。明日菜の制服が未だに乾かないので、今の彼女は慣れない和装である。和服に身を包んだ二人の少女が、洋風の麻帆良市を並んで歩く様子は、不思議と絵になるものであったが。

「小さな親切大きなお世話と、皮肉で言うことがあるが――拙者らはまだまだ未熟者で御座るなあ。自分が正しいと思うことが、必ずしも正解ではない。それは重々、承知しているつもりではあれど」
「人生って難しいわね。エヴァンジェリンさんなんか、何百年も生きてて、未だにその辺のことがよくわからないみたいだったし――シロちゃん」
「何で御座ろう?」

 シロの瞳を見つめ――明日菜は、小さく言った。

「……ごめんね」
「……拙者こそ――申し訳ない」

 シロも小さく、それに応える。底には主語も何もない。ただの一言――しかし、少女達にとっては、それで十分だった。
 ややあって、明日菜はがらりと声の調子を変えて言う。

「そう言えば、良かったの? 横島さん、学園長と話があるって――木乃香のお爺ちゃんだから、心底悪い人では無いと思うけど――私、未だにあの人の事、あんまり信用できないわ」
「色々と因縁があるようで御座るな」
「……まあ、色々とね」

 ネギが現れてからこちら、自分の身の回りで起こった様々な事件を思い返し、明日菜は小さくため息をつく。正直、ため息程度で済んでいる自分を褒めてやりたいくらいだ。もちろん――シロには、彼女のため息の意味するところがわからず、首を傾げるしかない。

「何でも、先生がかつて腕利きのゴースト・スイーパーであることを知って、以前引き抜きの話を持ちかけられたそうで御座るが。その、学園長先生から」
「そうなの? ああ――魔法使いの裏の事情って奴かしら」
「むろん先生はお断りに。されどその時に――女の子の居るお店で飲む約束をされたとか。それで今日はその話だとか――」
「……あのさ、シロちゃん。それ、黙ってて良いの?」

 横島という人間が、女好きだとかスケベだとかを公言していても、実のところ、本当に“女性の敵”と形容できる男かと言えば、そうではない。明日菜にもそれはわかっているが――彼を純粋に慕う少女の前で、何という話をするのかと、眉をひそめてしまう。
 しかし何故か、シロの顔に浮かぶのは、柔らかな苦笑。

「いやあ――先生としても、そう言う場所は嫌いでは無かろうが。どうにもあれは――なにやら良からぬ事を考えていた顔で御座るよ? それ故に拙者もあげはも、敢えて止めはせなんだが」




 同じ頃、麻帆良学園理事棟の廊下で車いすを漕いでいた横島は、一つ大きくくしゃみをした。鼻をすすりながら、彼は一人呟く。

「……これは何処かで、美女が俺の噂でもしているか? ……ま、そんなわけねーか……言ってて悲しくなってくるが。さて、と――それじゃ、こっちは後始末を付けさせてもらいましょうか、と」

 彼はポケットから携帯電話を取り出し、電話帳から目的の番号を拾う。
 もののコール三回ほどで、相手は電話に出た。

『はい、六道文化大学、文化人類学部です』
「もしもし、私、村枝商事の横島と申します。お忙しいところ申し訳ありませんが、考古学教室の習志野助教授をお願いできますか」
『横島様、ですね、少々お待ちください』

 電話口の相手は、慣れた様子でそう言う。すぐに待ち受けのメロディが流れ始め――しかし果たして、ほとんど間を置かずして、横島にとって聞き慣れた女性の声が、電話から響いた。

『もしもし? 横島君?』
「あー、もしもし? 愛子か? ――いや、用事というか、ちょっと頼みが――――あからさまに嫌そうに言わないでくれよ。今回は別に、女子大生集めて合コンしようってわけじゃ――――いや、すまん、だからあれは何度も謝ってるじゃねえか――――用件? あー、お前のところのきれいどころを――――待て! 切るな! 今回は別に、やましい目的じゃねえから!!」










GS美神の中では、わりと好きです、愛子さん。
口癖以上に、そのあり方が何とも気持ちの良い青春娘。

よく考えれば、彼女って何処か、
エヴァンジェリンさんと似たような感じを受けます。
学校というものに対するありかた。
熱意とかそういうものは、彼女とエヴァさんは真逆ではありますが、
その根っこは何処か似ている気がする。

愛子さんの登場はともかく、後始末編、今しばらくのおつきあいを。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・宴の後始末
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/05/24 03:15
『納得いかねえ』

 その“狭い空間”の中で、白い毛皮を持つオコジョ妖精――アルベール・カモミールは、一人呟いた。
 自身が間違っても、“立派な魔法使い”を目指す少年に相応しい者では無いことは、理解している。自分が突っ走って、ろくな結果を招いた試しが無いことも。欲に目がくらみ、一寸先すら見えなくなる事がある小物である事さえも、この際自覚する。
 しかしそれを差し引いても、ネギを一人前の魔法使いにしてやりたいと、彼に襲いかかる不条理から、及ばずながら彼を守ってやりたいと考えている事も、偽りではない。だからと言うわけではないが――

『兄貴よ、これはあんまりじゃねえか?』

 ――カモ君はきっと、僕がこんな事をしていたら、じっとしていられないだろうから――と、彼の敬愛する兄貴分、ネギ・スプリングフィールドは、己をここに押し込んだ。つまり、麻帆良女子寮にほど近い緑地帯、その一角に建つあずま屋――そこに据えられた、簡素なテーブルの上に鎮座する、鳥かごの中に。
 確かに彼の言っていることは、不本意だが納得できてしまう。自分の性格は、自分が一番よくわかっている。おそらく明日菜か木乃香か――彼に近しい女子生徒をだまくらかしてでも、どうにかネギの“戦力”としようとしたことだろう。

『だからっつってなー、俺っちだって、兄貴の関係者なんだぜ。おまけに昼も近いのに、まだ迎えにも来ねーし……兄貴の事だから、まさか本当に殺されたりはしてねーだろうけど、それにしたって……』

 彼の情けとばかりに、鳥かごの中に入れられた栄養補助食品を、カモはもそもそと囓る。人間用のそれなので、彼の体のサイズからすれば、二、三日分はあるだろうが――どう考えても、そんな時間、ここに閉じこめられていたいとは思わない。
 付け加えるなら、食べる方はそれで良いとしても、彼も生き物である以上、出す方が問題になってくる。ネギもそれを考えてか、鳥かごの隅に、猫砂の入ったケースが置いてあるが――カモとしても、流石にそれの使用は勘弁願いたい。彼は高等知的生物としてのプライドを捨てたくはないのだ。
 願わくば、自身がそれと、生理的機能の板挟みになる前に、ネギには迎えに来て欲しいところなのだが――

『それに――何なんだよこの場所は。この鳥かご結構頑丈だから大丈夫だとは思うが――ライオンの群れの中に置き去りにされた気分だぜ』

 何故だろうか、そのあずま屋の中には、十匹ほどもの猫が居た。
 と言っても、カモを狙って襲ってくる様子は今のところ無い。不思議なことに、ベンチに寝そべったり、何気なく周囲をうろついたりしながらも――時折ちらりと、カモが閉じこめられた鳥かごの方を一瞥する。
 それは獲物に向ける視線とは、明らかに異なるものだった。
 とはいえ――カモが人間ならば、それこそ檻に入って、ライオンの群れのど真ん中に鎮座している気分である。空腹に耐えかねて“餌”を囓ってはいるものの――正直なところ、味すらわからない。

『あーもう、兄貴よ、早く迎えに来てくれよぅ。小動物ってなあ、ストレスだけでぽっくり逝っちまう事もあるんだぜ?』




「ケイ殿、どちらへ行っていたのでござるか?」
「ん? えーと、ちょっとね。昔の知り合いに」

 立ち話も何だからと、麻帆良女子中の学生が行きつけのカフェテラスへと向かう途中――いつの間にか居なくなっていたケイに気がついた楓は、少し離れたところを駆けてくるケイに気がついた。

「知り合い?」
「知り合いって言うか」

 見れば、路地の向こう側に去っていく、小さな影。それは一匹の、三毛柄の猫だった。楓はそれを、彼が以前ここに住んでいたときに見かけた猫なのだろうと解釈する。

「なるほど、知り合いでござるか」
「そ、知り合い――……ま、これ以上話がややこしくならないように、ちょっと頼み事をね」
「? 何か言ったでござるか?」
「え? いやいや、何も」

 小声で何かを言ったケイに、楓は問い直すが――彼は少し慌てたように、首を横に振った。

「それよりも、楓さん、脚の方は本当に大丈夫なの? やっぱり病院に行った方が」
「朝方には腫れも引いていたでござろう? この程度で病院に行っていたら、医者に笑われるでござるよ。あとは湿布でも貼っていれば十分」
「そう? 絶対に無理しちゃ駄目だからね。もし楓さんに何かあったら、今度は僕が、にーちゃんに説教されちゃうよ」
「……横島殿に、でござるか?」
「それ以前に、僕自身がきっと、そんなのには耐えられないだろうしね。だから楓さんも、何かあったら正直に言うこと」
「……わかったでござる」

 頬を染めて嬉しそうに言う楓に、ケイは首を傾げつつも、小さく頷いてみせる。気がつけば、微妙な空気を漂わせながら並んで歩くエヴァンジェリンとあげは、それにうつむき加減でついて行くネギと、彼に付き添う茶々丸――そんな奇妙な一行から、随分距離が離れてしまっている事に気がついた。

「おっといけない。行こうか楓さん。脚が痛いなら、また負ぶってあげるけど」
「……それは遠慮するでござる」

 幾分早足に、一行の後を追う二人。ケイは小さく振り返り――去っていく猫の背中に向けて、小声で言った。

「悪いね、もうしばらく“監視”のほうを頼むよ。今夜にでも、ちゃんと猫缶持ってくからさ」

 三毛猫が一つ――彼の言葉に応えるように、小さく鳴いた。




「さて――ネギ・スプリングフィールドの言い訳を聞くのはともかくとして――芦名野あげは、何故貴様までついてくる必要があった?」
「単純なことです。私も、あなたからは言い訳の一つくらいは、聞いておきたいもので」
「――何を戯言を抜かす。私が貴様の男に手を出したのが、そんなに気に食わんか?」
「ええ、とても。もしもヨコシマに何かがあれば、私はあなたを許さなかったでしょうから」
「ふん、どう許さないのか知りたいものだな」
「この世に生まれてきた事を、後悔させてあげましょう。あなたの存在の全てを否定してあげましょう。自身の悲鳴すら聞こえない程の苦しみの中で、あなたを地獄に送ります」
「……身の程知らずもここまで来るとお笑いだな。貴様――」
「はいはいはいはい」

 エヴァンジェリンとあげはのにらみ合いを、ケイは手を打ち鳴らしながら強引に打ち切った。

「気持ちいい日和に、君らみたいな可愛い子が、何物騒なこと言ってんの。そろそろ注文来るから、喧嘩はそれくらいにしときなよ」
「私に言わないでください。この馬鹿が、喧嘩をふっかけてきただけですから」
「知ったことか」

 二人の小さな少女から返ってきた、冷たい視線に――彼はただ、肩をすくめるしかない。隣に座っていた茶々丸に、小さく声を掛ける。

「茶々丸さん――だっけ? 苦労するね、君も」
「いえ――私はマスターの命令に従うロボットですし、それほどでも」
「いや、それとこれとは関係ないと思うんだけど。でも同じロボットでも、マリアさんとは大分違うんだね。まあ、あの人達を基準にものを考えるのも――って、楓さん? どうかしたの?」
「いえ、何も」

 楓からの不思議な圧力を感じ、ケイは振り返るも――彼女は何も変わらない様子で、ただそこに佇んでいた。単なる気のせいかと、彼は首を横に振る。
 ややあって、各々が注文したものが配膳され、とりあえず彼は、自分の頼んだホットドッグに齧り付いてみる。悪くない。そこらの喫茶店で出てくるものにしては、パンもソーセージも、拘ったものを使っているのだろう。
 もっとも――この空気の中では、ろくにその拘りを楽しめたものではないだろう。店の主人には悪いことをしている、などと、彼は詮ない事を考える。
 彼らは、二つのテーブルを占領していた。一つには、ケイと楓、それに茶々丸が座り、もう一つには――ネギ、エヴァンジェリン、そしてあげはが、所謂“鼎談”の形で腰を下ろしている。
 これでネギの様子が様子なら、まるで“三すくみ”の状態であるのだが――にらみ合うエヴァンジェリンとあげはをよそに、彼は運ばれてきた紅茶をじっと見つめるように、下を向いたままだった。
 さてもう一度、自分が何か助け船を出した方が良いのだろうかと、ケイは思う。このままこの状態がいつまでも続くというのは、好ましいものではない。だが、彼がホットドッグを飲み込んだのとほぼ同じに、エヴァンジェリンが言った。
 心底――気分が悪いと言った風に。

「ネギ・スプリングフィールド」

 唐突に名前を呼ばれ、ネギの体が跳ねる。

「何の因果で、こんな気分の悪いティータイムを過ごさねばならん。そこの雌ガキもそうだが、今の貴様はどぶ川以下の存在だ。そこにいるだけで気が滅入る。話すことが無いなら、さっさと帰れ」
「……この人がどぶ川なら、私もそうだと? 本当に品がないですね、あなたは」

 小さく、あげはがため息をつき――テーブルに置かれていた砂糖壺から、角砂糖を五つほど取り出すと、それを纏めて紅茶の中に落とし、ティースプーンでかき混ぜた。エヴァンジェリンはそれに、気味の悪いものでも見たような視線を向ける。

「何ですか」
「貴様は紅茶を何だと思っている」
「甘いものが好きなのは生まれつきです。それに、不本意ながらシロのおかげで、今はそれほど酷い食生活は送っていません。少なくとも、吸血鬼なんて言う“悪食”な連中に言われたくはありませんね」
「ふん、太るぞ」
「成長期ですから、食べただけ成長しますよ――何処かの誰かとは違ってね」

 あげはは、見た目に似合わぬ綺麗な動きでティーカップを傾ける。自分の挑発に“微妙に”乗ってくる辺り、横島一家の中では、彼女はいくらか、自分の常識で判断できるタイプの人間だろうと、エヴァンジェリンは思う。
 さりとて――仲良くしたい類の人種では、間違ってもない。彼女は小さく鼻を鳴らし、自身も紅茶のカップを傾ける。香りも風味も悪くはないが――美味くない。

「どうなんだ、ネギ・スプリングフィールド」
「僕のやって来たことは――結局ただの自己満足だったんでしょうか」
「第一声がそれか、反吐が出る」
「その反吐は、どうかどぶ川にでも吐き捨てに行ってください――“ネギ先生”」

 ようやく口を開いたネギに、エヴァンジェリンは冷たく言い――そこに、あげはが口を挟んだ。

「あなたがしたかったこととは何ですか? そして何故、あなたはそうも気落ちしているのですか? 私には、それが理解できません」
「……芦名野さん」
「今回起こったことに、私はほとんど関わっていません。ヨコシマもシロも、あれで妙に私を甘やかそうとしますから。ねえ、ケイ?」
「いやまあ、それは仕方ないんじゃないかな」

 隣のテーブルの青年は、あげはの言葉に苦笑で返して見せた。その中途半端な反応に、彼女は小さくため息をつき――視線をネギに戻す。

「しかし、その間に何が起きたのかは、昨日の夜に知ることが出来ました。そして今、この出来事を通して、あなたは酷く落ち込んでいる。それは何故ですか?」
「僕は――最初は、僕が必死に頑張れば、エヴァンジェリンさんはわかってくれると思っていたんです。でも、そんなに簡単にはいかなかった。僕が思っている以上に、エヴァンジェリンさんは――」
「私が、何だ?」
「……酷く、苦しんでいた」

 エヴァンジェリンの眉が、小さく動く。しかし、反論はしなかった。ネギの言葉を否定しようとしなかったわけではなかろうが――彼女は軽く手を組み、テーブルの上に載せる。その口元は小さく結ばれ――動かない。

「僕はどうすれば、エヴァンジェリンさんをその苦しみから救えるだろうと考えました。あなたはきっと、余計なことをするなと怒るでしょうが――」
「だったら何故、そんなにも落ち込んで居るんですか?」
「けれど、僕がやったこと――出来たことと言えば、何だったんでしょう。最初は、エヴァンジェリンさんから逃げる自分が嫌だった。けれど向き合って尚、僕には何も出来なかった。挙げ句、シロさんや、横島さんを巻き込んで――」

 今度はあげはが、無言でカップを置いた。ティーソーサーとカップが触れあう硬質な音に、再びネギは身を固くする。

「……つまらん」

 次に口を開いたのは、エヴァンジェリンだった。彼女はネギの方を見ず――青く晴れ渡った空を見つめる。

「本当につまらん。貴様という奴は。貴様がナギの息子で、その年で教師をやろうという馬鹿を聞いたときには、多少なりとも面白くなりそうだと思ったものだ。喩えそれが、私の今の立っている場所を危うくしようが、ここで飼い殺しにされるよりはよほどマシだとな。だが――期待はずれも良いところだ。いや、期待した私が馬鹿だったのか」
「――」

 ネギは口をつぐむ。エヴァンジェリンの青い瞳は、もはや彼を映さない。

「今となっては、もはや貴様の血にすら興味はない。さっさと失せろ」
「……エヴァンジェリン、さん」
「犬塚シロは、私に言ったぞ。自分のやっている事は身勝手だろうが、エゴで誰かが助けられるならその方が良いと。何とも本当に、自分勝手な言い分だ。だが、貴様の言い分よりも千倍はマシだ」
「あー、ウェイトレスさん、この“季節の白玉パフェ”っての、追加で」
「……貴様は空気を読め、藪守ケイ」

 もはや話は無いと、彼女が言葉を切りかけたところで――ネギの肩越しに、ケイがウェイトレスを呼ぶ。その気の抜けた声に、こめかみを揉みほぐしながら、エヴァンジェリンが言った。

「ん? いや、あげはさん程じゃ無いけど、僕も甘いものは好きな方で――男のくせに、変かな?」
「それほど変では無いでしょう。ヨコシマはチョコレートだけは何故か食べようとしませんが、シロと一緒に鯛焼き屋の前で大食い大会まがいの事をしていた事もありましたし」
「いや、にーちゃんを基準に男の人を語らないでよ――って、にーちゃん、チョコレート嫌いなの? 意外だな、食べ物に好き嫌いなんて無さそうな人なのに。あ、タマネギは嫌いとか言ってたっけ?」
「チョコケーキやチョコクッキーは平気そうなんですが、チョコレート“そのもの”は何故か――おかげでバレンタインには四苦八苦してるんです。何でも、バレンタインのチョコレートには、酷いトラウマがあるとか」
「あー、そう言えば……何かおキヌさんから聞いた覚えが。でも、あの人がバレンタインに酷い目に遭うのは、毎年の事じゃないか。どうせまた今年だって一悶着あったんでしょ? ……人生ナメてるよね」
「……ちょっと黙れ貴様ら。用がないなら、本当に帰れ」

 頭を抑えながら言うエヴァンジェリンを無視して、あげははネギに問う。

「ともかく」

 彼女の緑色の瞳は、エヴァンジェリンとはまた別の深さを宿している。見る者を不思議に惑わせる――光の具合に色を変える、蝶の羽の模様のように。底知れない氷壁の迷宮を思わせるエヴァンジェリンの瞳とは、別種の“深さ”。そんな瞳を、彼女はまっすぐにネギに向ける。

「物事が思い通りに行かないのは、よくあることです。そのために他人に迷惑を掛けることも――けれど、それは悪いことでは無いでしょう? ネギ先生は幸いにも、同じ失敗を何度も繰り返す程の愚か者には見えません」
「いえ、僕は――同じ“ような”事を、何度も繰り返してる。シロさんに言われたとおり――鎖に繋がれた犬みたいに、同じところをぐるぐる回ってる気がするんです。それに――横島さんに何かあれば、芦名野さんだって」
「ええ」

 あげはは小さく目を伏せ――小さく言う。

「仮にあなたの“せい”でヨコシマに何かがあれば――私はあなたを許しません」
「だったら」
「ですが――ヨコシマが妙な使命感に燃えているように、私だって、ただでその様な事態は起こさせません。今回は少しばかり不覚でしたが――次はありません。シロにだって、手伝って貰います」
「……どうして、あなたは。あなたたちは――そんなにも強いんですか?」

 ネギの喉から、純粋な疑問が滑り落ちた。そしてそれは、この少年が口にするには、初めての類の“疑問”だった。
 彼は純粋で素直な少年である。他人の優れているところを素直に褒める。
 しかし――“ただただ”相手の強さに感嘆する。それは、今までのネギには見られなかった行動だった。それが何を意味するかと言えば、彼は、感嘆を覚えたその高みに、自身は“至れない”と――そう判断してしまっていると言うことだ。
それはとても小さなものだったけれど、ひたすらに父の背を追い、立派に、そして強く――そうあろうとしてきた少年が初めて見せた“諦念”だった。

「私たちは、自分が強いとは思いません。ただ、必死なだけです」
「ただ、必死――?」
「生きることに」

 頬杖をついて、つまらなそうに空を眺めていたエヴァンジェリンが、その一言に軽く反応する。吸血鬼となり、“悪の魔法使い”として数百年を、命を狙われつつ生き延びてきた――そんな彼女に、その言葉は大きな意味を持つものだったのかも知れない。
 もっともはっきりとそう言われたところで、彼女は否定するだろう。それが正しくても間違っていても、そのどちらであっても。

「……面白いことを言うな、芦名野あげは。小便臭い雌ガキの口からその様な言葉が出るとは、思っても見なかった」
「あなたはまずその品のなさを何とかしてください。女性として終わっていますよ」

 あげはは嫌そうに顔をしかめ――その感情を纏めて飲み込むように、残っていたお茶を一息に飲み干した。

「先ほどは、何が何でもヨコシマを守ると言いました。その気持ちは変わりません。私もヨコシマも――そしてシロも多分、同じ気持ちです。けれど――そこの品のないあなた、死を忘れるな――そんな言葉を知っていますか?」
「メメント・モリ――死を忘れるな、か。古代ギリシャの滅びた町に残る言葉だ」
「命は、あっけないほど簡単に終わります。どれだけ死んではいけない命でさえも、死神は無慈悲にその魂を刈り取っていく」
「それはゴースト・スイーパーの考え方か? それとも、貴様自身が、見た目に反して修羅場をくぐったのか――」
「見た目のことを、あなたにだけは言われたくはありません。それに、私のカラダには未来があります」

 何故か胸の辺りを軽く押さえ――あげはは首を横に振る。

「だから私は、必死に生きなければなりません。必死に生きて、そして幸せを掴むんです。シロは、最初は女の子が良いと言っていますが、私は男の子が良いですね。スケベなところは別にして、ヨコシマに似た元気な男の子が――」
「貴様の妄想はこの際どうでもいい」

 エヴァンジェリンがそう言うと、あげはは小さく咳払いをした。心なしか、少しだけ顔が赤い。事の成り行きを見守っていた楓は、この少女も多分、シロの“同類”なのだろうとは思ったが――当然、その様なことは口に出さない。

「ネギ先生」

 あげははもう一度、ネギの名前を呼んだ。

「あなたはまだ、何も失っていない。何度だってやり直せる。何せ、何も失っていないのですから。それに何より――エヴァンジェリンさんと何度でも向き合うと言ったのは、あなた自身でしょう?」
「ッ!!」

 ネギの小さな体の中を、稲妻のようなものが貫いた。少なくとも彼自身は、その様に感じた。
 あげはの言うことの意味――彼女の持つ、生きることに対する考え方のようなものは、いまいちわからない。彼女はエヴァンジェリン同様に、何か今の自分には理解できないようなものを、その内側に抱えている。その事だけはわかった。しかし、それが何なのかはわからない。
 けれど、最後の最後で彼女の口から放たれたのは、ネギ自身が口にした言葉だ。
 その言葉に、偽りはない。
 少なくとも、ネギは本気だった。エヴァンジェリンと対峙すると決めた、その時から。

「でも――僕は、明日菜さんや犬塚さん、横島さんにも、迷惑を――」
「それが嫌なら、神楽坂のお姉さんも、シロも、ヨコシマも、あそこに出向いていったりはしません。皆が皆、あなた達の戦いには一言言いたかった。だからあの場で対峙した――ただそれだけのことでしょう? 言うなれば」

 あげはの瞳が、エヴァンジェリンに向けられる。

「茶番と言いつつネギ先生と戦う事を選んだ、あなたが悪い。だから私は怒ってるんです。みっともなくあがいたネギ先生ではなく、悟りきったようなことを言って、その実、泣き喚いているだだっ子のあなたに」
「……何とでも言え、私は“悪の魔法使い”だ」
「は――“悪ガキの魔法使い”の間違いでは?」
「……躾のなっていないガキには、お説教が必要だな?」
「あなたに説教をされたところで、得るものは何もありません」
「はいはい、二人とも、喧嘩はよそうね、喧嘩は」

 そこで再度ケイが割って入り――不機嫌そうに、二人はそっぽを向く。
 そんな中でネギは一人――冷めた紅茶の揺れるティーカップを見つめていた。その瞳に、先ほどまでの暗くよどんだ光はない。しかし――自分の中にもたらされた感情に、頭が着いていかない。それは端から見ていても明らかだった。
 エヴァンジェリンが長くため息をつき――何かを言おうとしたとき、不意に、茶々丸が耳に――耳の部分に備え付けられたアンテナのような機械に手を当てる。

「マスター」
「何だ?」
「横島様より、お電話です」
「……何であいつが私の――茶々丸の番号を知っている? 糞爺にでも聞いたか――いや、それはどうでもいい。奴が私に何の用だと言うんだ?」

 怪訝そうな顔でエヴァンジェリンは立ち上がり――何か悪戯を思いついたように、唇の端が持ち上がる。

「ひょっとすると、デートのお誘いか? 奴は見た目で相手を判断する程、底の浅い男では無さそうだったしな」
「……ネギ先生、今度、ミカミのところから、吸血鬼の滅ぼし方を記した本を持ってきましょう」
「ふふ――嫉妬は見苦しいぞ、芦名野あげは」
「……何だったら今ここで、“闇の福音”の歴史に終止符を打って――こら、ケイ、何をするんですか、離しなさい」

 これで多少の溜飲は下げられたものだと――しかし、本当に彼が、自分に何の用だろうかと、不思議に思いながら、茶々丸に差し出された端末を耳に当てる。

「私だ。何か用か? 今の私は機嫌が良い。今ならデートのお誘いでもディナーの予約でも受け付けてやるぞ?」




「しかし意外じゃのう」
「何がですか?」
「君は口ではどうこう言いつつも、それほど女性にがっついておる様には見えなんだからの」
「何を仰る。これでも高校の頃からこっち、“永遠の煩悩少年”で通ってますから」
「それは誇るような事かの?」
「それに――こんなのは単なる遊びでしょ? そりゃ世の中にはそれで身を持ち崩す馬鹿も大勢いるらしいですけど、俺はそうとしか思ってません。美味いもん食って、美味い酒が飲めて、美人のねーちゃんと話が出来りゃ、単純に楽しいでしょ。それだけですよ」
「ほっほ――確かにのう。しかし君のところの小さな淑女は、この手の“遊び”にいい顔はせんじゃろうて?」
「あー……まあ、その辺の話は、今は無しで」

 数日後、麻帆良学園学園長、近衛近衛門の姿は、横島の運転する車の助手席にあった。彼の車は現在、麻帆良市を後にして、東京の郊外へと向かっている。横島の言うところの、“美人のねーちゃんの居るお店”で一杯やろう――という、いつかの学園長との約束を果たすために。

「しかし、君が日頃から、あの娘らに懐かれてある意味で苦労しておるのはわかるが――よくもまあ、儂と顔を突き合わせようという気になったものじゃの?」
「いろんな意味で、学園長とは一度話をしておかなきゃならんでしょう。先日はうちの母上から電話がありまして。どうにも何者かが、俺の身辺を探った形跡がある、と」
「……」
「いや、別に構わないっすよ。美神さんと違って、こっちは懐を探られたところで痛くもないし。麻帆良の土地柄を考えたら――この間ケイが、山の中で“化け物”と一戦交えたとかで。そんなところに、元ゴースト・スイーパーの俺が――どうせその調子だと、シロが人間じゃないことくらい、知ってんでしょ?」
「横島君の母親とは、一体何者じゃ?」
「今のところはただの専業主婦っす……多分」

 あくまで“多分”だけれど、と言って、ハンドルを握る横島は、軽く身震いをした。近衛門は小さく唸るが――今、それを考えても仕方のないことである。横島の身辺を調査させたのは間違いのない事実であるが、それは別に、大手の探偵事務所を通しての正式な調査依頼だ。別に法律を破るような事はしていない。

「それでもシロも――まああげはも、年頃の娘ですから。あんまり身の回りを探られるのは気分は良くないでしょうが」
「プライバシーに立ち入るような事には、手を出しておらんよ。ただの――正直に言えば、君の経歴が気にならんと言えば、大嘘も良いところじゃ」
「経歴がどうあれ、今の俺はただのサラリーマンですよ。その辺りの事も、一度きちんと話しておきたくて――そうなると学園長先生には、面白くもない話かも知れませんが、シロと――その“友達”が、世話になってるのは確かですしね」
「馬鹿を言っちゃいかん。君の話はとても面白い。しかし――良いのかの? その様な話をするのに、女の子の居るお店などを使って」
「だからこうやって、わざわざ麻帆良を離れて知り合いの店まで行ってるんでしょうが」
「信頼できる相手――と言うことか。儂はてっきり、犬塚君に嗅ぎつけられるのをおそれての事かと思ったが」
「……それもなくはないです」

 横島は引きつった笑みを浮かべ、スロットルレバーをゆっくりと戻す。車は緩やかに減速し、仕事を終えた人々と、客待ちのタクシーでごった返す繁華街の中へと入っていく。
横島は慣れた様子で、雑然とした細い路地に車を走らせる。東京都とはいえ、ここまで郊外となれば、繁華街の規模もたかが知れている。しかしそれでも人通りが少ないとは言えず、道はそれなりに混雑している。
それなりに彼は、この辺りに足繁く通っているのだろうか――などと近衛門が思っていると、横島は繁華街の外れのチケットパーキングに車を駐めた。

「ここです」

 横島が指さしたのは、チケットパーキングの目の前にある雑居ビルだった。まだ新しいらしく、どことなく洗練されたデザインであり、外壁などにも目立った汚れはない。入り口も、薄汚れた非常階段を上っていく――などというようなものでもなく、大理石調のエントランスに、大型のエレベーターが二基据えられていた。
 近衛門が何気なく目をやれば、テナント名が修められたパネルには、それなりの高級飲食店が名を連ねている。横島が言う“店”はその一角に、スナックやキャバレーの類としては大人しい字体で刻印されていた。
 なるほど――確かにここは、純粋の酒と料理、それに店員との会話を楽しむ――そう言った“大人の店”であるらしい。
 近衛門も、仕事柄そう言う店に行ったことが無いわけではないが――やはり初めての場所というのは、何となく落ち着かない。期待と不安の入り交じったような――というのだろうか。とうに春の過ぎた老体になってまで、何を――と、彼は自嘲する。
 横島の車いすを押してエレベーターに乗り、目的のフロアで降りて、華美と言うよりも上品なエントランスをくぐってみれば、すぐに一人の女性がやってきた。品の良いスーツに身を包んだ、長い黒髪を持った女性である。

「いらっしゃい“忠夫さん”――待ってたわっ!」
「……さんざん文句垂れてた割には、ノリノリじゃねーか……んんっ! いや、何でも。こっちの話です、学園長。えーと、彼女――」

 横島は何故か視線をさまよわせ、小声で小さく何事かを呟き――再びその女性に向き直る。

「初めまして、私、「アイコ」って言います。このお店は初めてですよね?」
「そ、そうじゃが……」
「ご新規一名様ご来店! ――マイちゃん、ハナちゃん、ご案内してちょうだい」

 彼女が奥に向かって呼びかければ、黄色い声と共に、若い女性が二人やって来て、近衛門の手を引く。その様子を――彼からはわからないように、横島は疲れたような瞳で眺めていた。

「なあ、あの娘ら――」
「何も言わないでちょうだい。横島君――じゃない、“忠夫さん”の言い出した事でしょ?」
「つうか、お前も――」
「はいはい、お客様は黙って席に着きましょうね。今夜は目一杯サービスしてあげるから」

 近衛門と横島が通されたのは、店の奥にあるボックス席だった。柔らかなソファと、中央には重厚なガラスのテーブル。四方を取り囲む衝立には、それなりに高級そうな絵が飾られている。しかし嫌みさを感じる程の華美な装飾はなく――ひとたびソファに腰を下ろしてみれば、落ち着きさえ感じることが出来る。そこは、そんな空間だった。

「良い店でしょ」
「そうじゃのう」

 近衛門は、小さく息を吐く。彼をここに案内した女性達は、笑顔で手を振ると、一旦その席から離れていった。

「まあ、どうせならと言うことで、今夜は一番人気の娘を指名させてもらいました」
「……そのツケを全部儂に回すつもりではあるまいな? 儂が言い出した事とはいえ、少々ぞっとせんわい」

 苦笑しながら近衛門が言うと、横島は首を横に振る。

「ま、ここは素直に割り勘で」
「ふむ」
「とりあえず――“彼女”が来るまでに、一つだけ」

 横島は、テーブルの真ん中に置かれていた果物の中から、リンゴを一つ手に取ると、それを手の中で弄びながら、学園長に視線を向ける。

「これは俺の予想ですが――学園長、あの時エヴァちゃんに黙っていた事がありますね?」
「……何を根拠にそう思う?」
「どうもね――引っかかるんですよ。十五年って言う時間の長さがね」

 彼は、エヴァンジェリンの呪いの事を言っているのだろう。近衛門は、すぐに気がつく。

「儂は言ったはずじゃ。ナギ・スプリングフィールド――ネギ君の父親にして、魔法界では知らぬ者の無い英雄。その魔力は膨大にして、その魔法は異質。“登校地獄”にしてみても、奴が戯れで作り上げたようなものじゃ」
「魔法ってのは、即興で作れるようなものなんですか?」
「そんなわけがなかろう。横島君――君自身にはわからんかも知れんが――彼は常人の想像すら出来ん場所におった――“天才”なのじゃよ。君と同じく、な」
「文珠の事を言ってるなら、買いかぶりですよ。おまけに今となっちゃ、文珠を一つ使うにも、ものすごく骨が折れるんです」

 近衛門は、横島の方を見る。色の抜け落ちた白い髪、そして、力の通わない脚――近衛門は彼の事情を知らないが、見た目からして“こう”だ。彼の失ったものは大きいのだろうと、一人考える。

「まあ――真の天才というものは、己の真価には中々気づかんものじゃ。ナギの奴も、自身を天才などとうそぶいては置きながら、その実、その様なことは思っておらんかったようじゃしの」
「またまた」
「ともかく――そんな奴が、膨大な魔力を練り上げて作った呪いじゃ。それを解くには一朝一夕とはいかんし、何せ開いては、魔法使いの間では、ナギとは正反対の意味で知らぬ者のおらん賞金首――“闇の福音”じゃ」
「ですが――“登校地獄”の呪いと、エヴァちゃんの力を抑える呪いは、別種のものなんでしょ? そして学園長は言いましたよね。登校地獄の術式に、魔力を“接続”してるって――話を聞く限り、エヴァちゃんがここに来てからしばらく、“悪の魔法使い”として暴れ回ったとか言う様子はない――だとすると、その“接続”は、あの子に呪いが掛けられてから、すぐに行われた事になる」

 横島の瞳が、薄く細められた。

「……魔法使いの事には、門外漢では無かったのかの?」
「知り合いに――それこそ天才と謳われる“魔女”と“呪術師”も居ますしね」
「……君の人脈を――そして、君自身の“力”を、侮っておったか」

 近衛門が、小さく息を吐く。横島は一呼吸置いてから、彼に言った。

「……エヴァちゃんに掛けられた“登校地獄”の呪い――その術式を、学園は改竄したんですね?」
「……そうじゃ」

 近衛門は、諦めたように――小さく、首を縦に振る。

「ナギが掛けたそれは、元々三年間を経れば――中学校の卒業と同時に解けるものじゃった。じゃが、儂らは、奴のような“英雄”ではない。言ったとおりに、独善的で、近視眼的で――そして臆病な、凡庸な“魔法使い”でしかない。そして儂らは――信じる事が出来なんだ。ナギを、そして、エヴァンジェリンを」
「このまま学園で彼女を飼い殺しに出来れば、それに越したことはない、と?」
「そうじゃ。そして儂らは――その事実から逃げ出した。十五年が経ち、ナギの息子が――ネギ君がやって来て、否応なしにその事実と向き合わされる、今の今まで、な」
「……」
「――横島君、儂らを軽蔑するかの? しかしこの世は、君らのような人間でばかり出来ているわけではない――単なる言い訳じゃがの」

 横島は小さく「いえ」と言って、手元のリンゴに齧り付いた。

「聞きたかったのは、それだけかの?」
「まあ――他にも無くは無いんですが。今必要なのは――とりあえずその辺りですかね」
「――」
「まあ、俺に関しては、それについてあなたや学園を責める気はありませんし、そう言う立場にもありません。それこそ何もないところを突きすぎても、酒が不味くなるだけですからね」
「……横島君」
「おっと、そろそろ用意が出来たようですよ?」

 ボックス席の仕切りがノックされ――先ほど“アイコ”を名乗った長髪の女性が顔を出す。その手には、それなりに高級そうなウィスキーの瓶と、氷が入れられたグラスが載せられた盆。
 彼女はグラスにウイスキーを注ぐと、それを横島と近衛門に手渡した。

「とりあえず乾杯と行きますか?」
「何に対してじゃ?」
「現状を打破した、小さな魔法使いに」
「……本人は酷く落ち込んでおるようじゃったが?」
「ガキの時分はね、色々悩んでるくらいがいいんです。俺が言うのも何ですが――大人になったら、悩む暇なんて無いでしょう? 無責任な言い分ですが――あいつはきっとなれますよ。あいつが目指す“魔法使い”に」
「……違いないの」

 近衛門は、横島とグラスを合わせ、それを口元に運ぶ。彼はそれほど洋酒に詳しい方ではないが、それでも悪くない一品だと言うことはすぐにわかる。口に含んだ瞬間に、鼻腔に溢れるような――しかし不快ではない芳醇な香りと、舌を灼くアルコールの刺激の中に感じられる複雑な味わい。
 ついつい、そのままグラスを傾けてしまう。
 そんな彼を、女性は一瞥し――

「それではお待ちかねの――当店の一番人気の女の子、その名も“エヴァ”ちゃんです!」
「いらっしゃいませ――今宵は良い夜ですね? ご機嫌麗しゅう――“学園長先生”」
「ぶふうっ!?」

 彼女の背後から現れた、金髪碧眼の“美女”に、思わず近衛門は吹き出してしまう。艶めかしい肢体を、上品なスーツに包み、絹のような金髪をたなびかせ――しかし恐ろしいほどに美しいその顔に、近衛門は見覚えがある。
 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル――つい今し方話しに上った、吸血鬼の“少女”――彼女が戦いに於いて好んで使う、“大人の姿”である。

「よっ――横島君!? これは一体どういうこと――」
「ま、そう言うことなんで――後はごゆっくり、学園長先生」

 慌てて横島に目線をやれば、彼は“アイコ”に車いすを押されて、ブースを出て行くところだった。

「ちょっ、横島君、横島くん――!!」
「ふふ――どれだけ美味い酒だろうが、一人で手酌は寂しいものだ。夜はまだ長い――私がたっぷりと相手をしてやろう。光栄に思うが良い、近衛近衛門」
「なっ、何故にお主がここに――横島君、計ったのか!?」
「人聞きが悪いですね、俺は一言も嘘は言ってませんよ? “女の子の居るお店で飲もう”って――とびきりの美人が、お酒の相手をしてくれるんですよ? 何が不満なんです?」
「いくら何でも悪趣味すぎんかの!? 君、自分は気にしないような事を言っておいて、本当はものすごく怒ってるんじゃ!? それに、エヴァンジェリン、どうしてお主が麻帆良の外に――」
「おやおや学園長、私が相手では不満というのか? こんな美女を相手につれないことだ――まあ、色々と“サービス”をしてやろう。涙して喜べ」
「ま、待つんじゃエヴァンジェリン、サービスって一体何、アッ――――!!」




「あの人の事よく知らないけど――これだけは同意ね。趣味が悪いわよ、横島君」

 カウンター席に並んで腰掛ける黒髪の女性――愛子は、苦笑しながら、隣でグラスを傾ける横島に言った。

「ま、多少洒落が効いてる方が、俺らしくていいだろ? あのじいさん、自分から誘っておきながら、いつまでも連絡してこねえもんだからさ、それで思いついたわけだけど」
「……社交辞令を真に受ける歳じゃないでしょ、もう」

 呆れたように、彼女は肩をすくめる。

「タダで飲ませてあげるって言ったら、うちのゼミの娘ら、すぐに食いついてきたけど、大学生にやらせるような芝居じゃないわよ。大学はあくまで教育機関なんですからね」
「すまん。店の従業員まで含めて貸し切りにしてたら、俺は破産しちまうから」

 彼女はそう付け加えて、オープン席の方に目をやる。そこでは十人ばかりの若い女性達が、テーブルの上に並べた酒瓶を前に、目を輝かせている。少なくとも、大学生程度には中々お目にかかれない高価な酒だ。アルコールが平気だというのならば、宝の山にも映るだろう。
 その中には、先に近衛門を案内した“店員”の姿もある。
 彼女らは、横島の前に座る彼女――“習志野愛子”の所属する大学の学生であり、彼女の要請で、“高級クラブの酒を飲み放題”を餌に、今宵の“芝居”に参加した、彼女の受け持つゼミの女学生であった。

「あーあー……もう、目の色変えちゃって……飲み過ぎないように言っておかないと」
「何だったらボトルごと持って帰れよ。オーナーには俺から代金払っておくから」
「あの調子だと、この店のボトル全部持ってく勢いよ」
「……先生、歯止め掛けてくれると、非常に助かります」
「全くもう――」
「でもよ、お前ホントにノリノリだったじゃねえか。こういうのもまた“青春”ってか?」
「出来れば忘れてくれると非常に助かるわ」

 愛子は眉をひそめ――グラスの中身を喉に流し込んだ。

「ぶっ倒れるぞお前」
「ご心配なく。私の体内は異空間ですから」
「……酒飲む意味があんのかよ」
「ちゃんと味はわかるわよ? 高校の時とか、よく休み時間におやつつまんでたでしょ?」
「……懐かしいなあ」
「――ちょっと、横島君の方こそ酔ってるんじゃないの?」

 遠い目をして呟いた横島に、愛子は目を丸くする。少なくとも自分の知る彼は、過去を懐かしんで静かに酒を飲むような、そんな行為の似合う男ではない。

「ん……かも、知れねえ」
「――変な事件に巻き込まれてるのは相変わらずみたいだけど。いい加減、落ち着いたらどうなの? あなたがここまでしなくたって――」

 奥のブースに目をやり、愛子は小さく呟く。

「いくらかはあのおじいさんに請求すれば良いとしても、このお店を貸し切るのだって、安くはないでしょ? あの娘らの胃袋に消えるお酒にしても」
「美女と美少女への投資は、いくらつぎ込んだって惜しくはねえ――まあ、ここのオーナーが、ゴースト・スイーパーやってた時のお客じゃなきゃ、とてもこんな馬鹿な事は出来ねーよ。それに――俺としては、落ち着きたいんだよ。美人の嫁さん貰って退廃的な生活を送る夢は、いつになったら叶う事やら」
「……あなたが望むなら、いつでも叶うんじゃないの?」

 彼女の言葉に、横島はわざとらしく眉根を寄せてみせる。目を細め――睨むような目つきで、愛子を見る。

「一応“美人”のカテゴリに入るお前のような奴にはわからんだろうが、俺みたいなモテない男が、そう簡単に理想の嫁さんなんて見つけられると思うかよ?」
「横島君、気をつけないと近いうちに刺し殺されるわよ、きっと」
「どういう意味だ――? ああ、いけね――ここんところバタバタしっぱなしだったから、何だか眠くなって来やがった」
「……もう」

 愛子は小さくため息をつき――羽織っていたストールを、彼の肩に掛けてやる。

「あっちが一段落したら起こしてあげるから、それまで寝てなさい」
「ん? そうか? ――すまん、そうさせてもらうわ」
「やっぱりあれね。横島君は高校生の頃から何も変わってない。そんなんじゃ確かに、あなたの夢は永遠に叶わないわね」
「――諦めなければ、夢は必ず叶う――」
「戯言言ってないで、さっさと寝ろ」

 程なく横島は、カウンターに突っ伏して寝息を立て始める。そんな彼の顔を見下ろして――黒髪の美女は、小さくため息をついた。

「全く人を何だと思ってるのかしら――もっともこの調子じゃ、頭が痛いのは私だけじゃ無さそうだけれど――ね、“忠夫さん”?」

 その表情には、知らず、柔らかな笑みが浮かぶ。
 そんな様子を、学生達に写真に納められ、一波乱が起こり――奥の席からかすかに聞こえる悲鳴をBGMに、かつてのクラスメイト二人の夜は、静かに更けていく。










長っ(笑)

技量不足故か、区切りが悪かったのか。
纏めきれませんでした。反省。

長いと言うことが悪いのではなく「纏め切れてない」のが本当に問題です。
「見せ方」というものにも、勉強が必要ですね。

次回、(多分)エヴァンジェリン編最終回です。



[7033] 麻帆良学園都市の日々・新たなる麻帆良学園都市の日々
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/06/08 11:25
一つだけわかったことがある。自分は何処まで行っても――どうしようもなく“自分自身”なのだろうと言うことだ。




 頬を撫でる風が心地よかった。桜の季節を過ぎたばかりの春の風は、まだ少し肌寒いものではあるが――新緑の匂いを含んだその風は、これから訪れる激しい季節を前に、ひとときの安らぎをもたらしてくれる。

「だから無遠慮に風上に立つな。私は今少々疲れている。そんな私のささやかな時間を邪魔するのか?」
「これは失敬」

 麻帆良学園都市の外れ――市内を流れる川の土手に寝ころんでいたエヴァンジェリンは、近づいてきた足音に気づいて、目線だけをそちらに向ける。春の日差しを反射する銀色の長髪。今のところ彼女の知り合いに、その様な特徴を持つ人間は一人しかいない。
 果たして、スカートの裾を抑えながら、犬塚シロは彼女の隣に腰を下ろした。

「ネギ先生が探しておったで御座るよ」
「今はあの“坊や”に構っているような気分ではない。この数日間毎日ではないか。奴は英国紳士を自称しながら、ストーカーの素質でもあるのではないか? それよりも」

 エヴァンジェリンは、腕を枕に草の上に寝ころんだまま、シロに言った。

「貴様はよく私の居場所がわかったな。茶々丸にはしばらく一人にしろと言って置いた上に、軽い認識阻害の魔法を掛けておいたのだが」
「はは、姿を探しても中々埒が開かなんだので、少々はしたないが、匂いを頼りに探させて頂いた」
「……貴様が男なら、問答無用で括り殺していたところだ」

 彼女は疲れたように息を吐き、目を閉じる。普段の彼女ならば、ここでもう少しばかりかみついてきてもおかしくはないが――シロは、川面に視線を向けたまま、エヴァンジェリンに言った。

「本当にお疲れのご様子で御座るな」
「ああ――何というか、どっと疲れが出た気分だ。実際に気分の問題なのだろうがな」
「それはまたどうしてで御座るか? 無為と嘆き続けたこの十五年の時間の果てに――エヴァンジェリン殿はようやく、次の時間へと進むことが出来るので御座ろう? それとも、今更やりたいことが見つからぬなどと、怠けた若者のような事を言うほど、エヴァンジェリン殿は浅いお方ではあるまい」
「やりたいことなら、いろいろある」

 気まぐれに応えてやるが、と言って、彼女は言った。世界を旅するのも悪くない。いっそのこと皮肉を込めて、大学まで麻帆良学園に通ってやるのも良いかもしれない。あるいは何処か知らない町で、静かに暮らすのも――と。

「……“悪の魔法使い”として再起しようとは考えておらぬので御座るな。それは結構」
「――それだ」
「それ、とは?」
「ここまでコケにされ続けて――まあ、お前の男のお陰で、多少の意趣返しが出来たとはいえ、ここまで、他人の手のひらの上で踊らされて、もはや私は自分を、大層に“闇の福音”などとは名乗る気が失せた。怒りは多分にある。よくもこうまで――しかしな、それ以上に、何だかもう、どうでもよくなった」

 大体――と、エヴァンジェリンは続ける。

「そうやって今までの怒りを爆発させる――というのも、“悪の魔法使い”としては美しくない。誇り高き悪とは、常に余裕を持たねばならん。コケにされたからと言って、いちいちそれに腹を立てるのは、三流のやることだ」
「ふむ、中々どうして、奥が深いで御座るな」
「何をするにしても、私はもう、魔法使いでいたくはない。そんな風にすら思える。時間が経てば、今のこのだらけきった自分が嫌になるだろう、そう言う確信はあるが――今だけは、こうしていたい」
「それが悪いことではなかろう。長い間――本当に長い間、エヴァンジェリン殿はよく頑張った。しばらくはゆっくりと休むのが良かろう」

 彼女は、頭の下から右腕を引き抜き、それを顔の上に載せた。目を閉じて尚、今日の日差しはまぶしすぎる――小さく呟いた彼女に、シロは何も言わない。

「犬塚シロ」
「何で御座るか?」
「……自分は世界の中で、一体どういう存在なのか――何のために生まれてきたのか、そんなことを考えたことは、あるか?」
「そういう風な頭の作りをしているように、見えるで御座るか?」
「……正直見えんが」

 口の端を歪めて言ったエヴァンジェリンに、シロは小さく笑う。

「今日のエヴァンジェリン殿は、随分と気まぐれが多いことで」
「……五月蠅い。用がないなら今すぐ帰れ。私はしばらく休みたいんだ。学園との約束で――とりあえずは真面目に、授業にも出んといかんしな」
「拙者も友人と顔を合わせる機会が増えて、嬉しい限り」
「抜かせ」

 悔しそうに言う彼女に、シロはまた、噛み殺したように笑った。ややあって、彼女はエヴァンジェリンと同じように、草地に手足を投げ出し、横になる。

「――拙者はその様な事を考える程に、暇では御座らんが――」
「おい待て。それはもしかしなくても、私を馬鹿にしているのか?」
「何のために生まれてきたのかと問われれば、自信を持ってお答え致す。拙者――横島先生と出会うため、そしてかのお方を愛するために生まれてきたので御座る。そして先生を支え、先生の助けとなり――先生との間に子をなし、命の鎖を未来へとつなげる。拙者はその為に生まれてきたので御座る」
「……お前もあれだな、犬塚シロ。大概、ストーカーまがいの思考回路の持ち主だ」
「む、失敬な。考えてもご覧なされ、呆れるほどに馬鹿馬鹿しい偶然にて、拙者と先生は出会った。先生は拙者を守ってくださり、また、拙者も先生を守りたいと思う。そして奇しくも、先生は男で、拙者は女で御座る。これだけの条件が揃って、それが真理でない道理が何処にあろうか?」
「……一つ忠告して置くが犬塚シロ。そういうのは思っていても口には出さん方が良いぞ。私が言うのも何だが――大手を振って外を歩けなくなるのが嫌なら、な」

 くつくつと、おかしそうにエヴァンジェリンは笑う。
 その言葉が何処まで本気だったのか――シロはしばらく憮然とした顔をしていたが、ややあって、小さくため息をついた。

「ふん、拙者の崇高なる気持ちが、慕う男の一人もおらぬエヴァンジェリン殿にわかってもらえるとは、最初から思っておらぬ」
「……ほう、どうにも良い具合に馬鹿にされているような気がするのは、気のせいか?」
「しかしエヴァンジェリン殿は、もはや“彼氏居ない歴”数百年で御座ろう? もう拙者――哀れすぎて声も出ぬ」
「……言わせておけば――貴様はっ!」

 エヴァンジェリンは、全身のバネを最大限に使い、シロに飛びかかる。シロはシロで、“きゃー”などと力の無い悲鳴を上げながら、二人して土手の上をごろごろと転げ回る。そしてしばらくの後、二人は草まみれになりながら、荒い呼吸を必死で落ち着けていた。

「エヴァンジェリン殿――」
「何だ」
「……今一度、謝らせてくだされ……申し訳御座らぬ」
「……ふん」

 何についての謝罪なのか、シロは言わなかった。エヴァンジェリンはいつもの彼女がそうするように、小さく鼻を鳴らす。

「私は強い者が好きだ。正義だの悪だのを抜きにしても――強い者と戦い、己を高めていく事が好きだ。貴様の“強さ”は、私が今まで出会ってきた敵とは異質なもの――しばらくは私も暇だ。時々は相手になれ、犬塚シロ」
「承知――次からは、“単なる戦い”として。命を遣り取りすること無く」
「ぬるい戦いだがな、暇つぶしにはもってこいだ」
「さて――そろそろ、頃合いで御座るかな?」
「……? 何のことだ? ……ッ!」

 唐突に呟いたシロの言葉が理解できず――しかし、考えたのはごく一瞬。つい最近に、似たような事があったのを、エヴァンジェリンは思い出す。しかし果たして、彼女が行動に出る前に、その体はシロによって押さえつけられていた。

「くそっ! 離せ! 犬塚シロ!」
「申し訳御座らぬが、これ以上逃げ回られるのも勘弁願いたい故に」

 普段のエヴァンジェリンは、吸血鬼としての身体能力そのものも封印されている。体格で遙かに劣る彼女に、少なくとも年相応の体格と、それ以上に強力な膂力を持つシロを、はねのけるだけの力など、あるわけがない。
 やがて諦めて、ぐったりと力を抜いたエヴァンジェリンの耳に、いくつかの足音と――耳障りな声が響く。

「おーい! シロちゃーん!! エヴァンジェリンさーんっ!!」
「ま、待ってくださいよ、明日菜さん! 僕はまだ心の準備が――」
「あんたいつまで同じ事を繰り返すのよ! いい加減温厚な私でも怒るわよ!?」
「……もう怒ってるんじゃ……と、とにかく待ってくださいってば!」

 その声を聞き、エヴァンジェリンは不服そうにそっぽを向き――シロは笑いながら、明日菜に向かって――

「ちょ!? シロちゃんっ!? あ、あんた横島さん一筋じゃ無かったの!? 女の子同士でそんな――」

「ちょ、ちょっと待つで御座るよ明日菜殿!?」
「この馬鹿レッドが! 貴様の脳みそはいつからそこまで腐れ落ちた!? ええい、いい加減にどかんか、犬塚シロ!!」




――僕は、今度のことで、たくさんの人に迷惑を掛けました。
――多分これからも、迷惑を掛けると思います。
――でも、僕が何をしたいのか、ようやく見えてきた気がしたんです。
――明日菜さん、犬塚さん、エヴァンジェリンさん。そして、僕を支えてくれている皆さんに。
――僕を、成長させてください。僕も、教師として、そして“友人”として、あなた達の成長を手助けします。
――みんなで一緒に、成長しましょう。
――みんなで一緒に、大人になりましょう。
――だから、だから――
――もう少し僕を、“魔法先生”でいさせてください。

 刻まれたばかりの新しい記憶に、エヴァンジェリンは小さく鼻を鳴らす。逃げ回り、立ち向かい、そして落ち込んで――その結果にネギが出した結論が、それだった。全く曖昧で、中身のない、くだらないものだと思う。未だに自分に対して腰が引けていたのも、どうにも気に入らない。
 ナギと同じように振る舞えとは、流石の自分も言うつもりはないが――それでもあの少年の頭の固さと意気地のなさ、成長の遅さには、正直なところ苛立ちが募るばかりである。

(ま……今の私はただの暇人だ。これ以上奴が鬱陶しくならないのなら――まあ、多くは望むまい)

 どうせ、自分とあの少年は、何処まで行っても相容れない存在である。ならば、深くは考えない。それがいいと、彼女は思う。そしてそんなことを考える自分が、全く腑抜けていると、彼女は思うのだ。

「マスター――今日のマスターは、何だか楽しそうですね」
「ついに頭が狂ったか? このボケロボは――超と葉加瀬のところに出して、メンテナンスをして貰わねばな」
「メインCPUのセルフチェックを随時行っていますが、今のところ致命的なエラーは検出されていません」
「知るか。私はハードディスク・レコーダーすら満足に使えんのだ。貴様の頭の中身など、宇宙の彼方か異世界の存在だ」

 いつもと変わらぬ調子の己の従者をあしらいながら、エヴァンジェリンは家路を急ぐ。冬場よりもかなり長くなったとは言え、既に夕方といえる時間となれば、辺りは全てが、淡いオレンジ色の中に沈んでいく。
 人々の祈りさえも吸い込まれてしまいそうなその光に、彼女は僅かに瞳を細め――そして気がつく。自分のログハウスの前に、誰かが立っている事に。

「茶々丸」
「データベースに該当がありません。来客でしょうか」
「ふん、今更私の家に、誰が何の用があるというのだ?」

 幾分の警戒感を抱きつつも、その誰かに、彼女は近づく。
 夕暮れの光に目が慣れて、近くで見てみれば――それはどうやら、一人の女性であるようだった。年の頃は二十代後半か、もう少し上か――落ち着いたフォーマル・スーツに身を包んだ、品の良い女性である。
 しかし、エヴァンジェリンは彼女に見覚えがない。この道の先には、もはやエヴァンジェリンのログハウスしか家はなく、迷ってここにたどり着いてしまったというわけでもなさそうである。
 小さくため息をつき――彼女は、その女性に声を掛ける。

「私の家に、何か用か?」

 声を掛けられた女性は、エヴァンジェリンの方に振り返り――そのまま、動きを止める。驚いたように、彼女を見る瞳が見開かれ――しかしその反応は、エヴァンジェリン自身には理解の出来ないもの。
 一歩前に出ようとする茶々丸を手で制し、彼女はもう一度問う。

「もう一度言う。ここに何か用か? ここには何もありはしないぞ。用がないなら、人の家の庭でいつまでも案山子のように立ちつくさずに、さっさと――」
「ああ……エヴァちゃん」

 不意に、女性は小さく呟く。エヴァンジェリンの眉が、かすかに動く。

「……貴様、何故私の事を?」

 自分を“エヴァちゃん”などと軽々しく呼ぶ人間は、今のところ横島忠夫ただ一人。何故に見覚えのないこの女性が、自分の事をその様な名前で呼ぶのか、エヴァンジェリンには理解できない。
 この女性が何かの勘違いをしているわけでも、ましてやエヴァンジェリンに敵意を抱いていると言うわけでも無さそうではあるが――それ故に、エヴァンジェリンは混乱する。この女は一体、何者だと――

「貴様一体――? おい、どうした? 大丈夫か? と言うか、気でも違ったか?」

 唐突に――女性の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは夕日を浴びて真珠のように煌めきながら、彼女の頬を伝う。自分の前で突然泣き出した彼女を見て――もはやエヴァンジェリンは、混乱の極みにあった。
 ややあってその女性は、ふらふらとエヴァンジェリンの方に歩み寄り――いきなり、彼女に抱きついた。

「マスター!?」
「よせ、茶々丸――おい、どうした。本当に貴様の頭は大丈夫か? 今なら気まぐれで、救急車くらいは呼んでやるぞ?」

 茶々丸に目配せをして、本当に救急車を呼ぶべきか――エヴァンジェリンは真剣に悩む。女性は、スーツの膝が汚れるのも構わず、地面に膝を突き――エヴァンジェリンの小さな体を、強く強く抱きしめた。

「エヴァちゃんだ――エヴァ……ちゃん……だっ――!!」
「だから何だと言うんだ。いい加減にしろ。おい茶々丸、もう良いから、そこの通りにまで救急車を――……!?」

 唐突に、本当に唐突に――色あせた記憶が、エヴァンジェリンの脳裏によみがえる。色が剥げ落ち、何が写っていたのかもわからない写真のように、彼女の中に茫漠と漂っていた記憶が――一瞬にして、本来の色を取り戻し始める。
 遠い遠い過去へと過ぎ去った日々が――まるで昨日のことのように、鮮やかに彼女の中に蘇る。それこそ、今日の昼間に、いつも通りの自分勝手を押しつけてくれた少年少女の記憶と、同じように。頭の中に響くのは――懐かしい、声。楽しげな、声。

――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル――長い。エヴァちゃんで良いよね?
――エヴァちゃん、いつもそんな不機嫌そうな顔してて、疲れないの?
――え――エヴァちゃん、夏休みに何処も行ってないの? 事情が――ごめん、あたし、何も考えずに酷いこと言っちゃったかな――
――あたしは、卒業したら東京の高校に行くの。エヴァちゃんはどうするの?
――エヴァちゃん――
――……ねえ――エヴァちゃん――卒業、おめでとう――

 そして――最後に小さく響く、同じ声――いつもと同じに聞こえた、いつもと違う、あの日の声。

――うわ、可愛い! 外人の子供じゃん! ねえ、日本語はわかる? お名前はなんて言うのかな?――

「あ……あ、ああ……」

 エヴァンジェリンの喉から、小さく――意味を持たない言葉が、こぼれ落ちる。

「まさか――貴様――」

 返事の代わりに、女性は更に強く――エヴァンジェリンの小さな体を抱きしめた。今の彼女にとってはもはや、息苦しい程に。けれど、彼女はそれを振り払おうとは思わない。振り払える筈もない。

「しかし――しかし、何故――どうして」
「ごめん――ごめんね、ごめんね、エヴァちゃん――」

 自分の胸に、エヴァンジェリンの頭を掻き抱くようにして、女性は謝罪する。エヴァンジェリンの問いに答える事無く――ただ、ひたすらに。

「だから、貴様は――」
「エヴァちゃんのこと、忘れちゃったりして、ごめん――」
「だ――だから――」
「呪い“なんか”に負けちゃって、ごめん――」
「――……」
「どれだけ謝ったって仕方ないと思う。でも――今はお願い、謝らせて――私の大事な大事な――親友――エヴァちゃんに」

 涙が一筋――エヴァンジェリンの頬を伝った。
 彼女は最初、それを信じることが出来なかった。いくら腑抜けたとはいえ、自分の中にそんなくだらない感情が残っていることが、彼女には信じられなかった。だからきっと、それは自分の顔の上に落ちた、相手の涙だろうと、そう思った。全く、“闇の福音”の顔を涙で汚すとは、剛気な事だと――
 しかし、そこまでだった。
 自分にも気がつかないうちに、一度堰を切った感情は――もはや、自分の力では止められない。

「う……あ……ああ……うぁああぁあああぁああああ――――ッ!」

 気がつけばエヴァンジェリンは、女性の胸元に頭を埋め――大声で泣いていた。そんな彼女の様子に、女性もまた、全力で彼女を抱きしめ――そうやって、二人は泣いた。自分たちが親友であった事を思い出すことが出来た“少女達”は――いつまでもそうやって、泣き続けた。




 日が暮れて、町に灯りが灯り始める頃――麻帆良市の外れに立つエヴァンジェリンのログハウスにもまた、淡い灯りが灯る。暖かな光がこもれ出るその場所からは、一人の少女と、かつて少女であった女性の声が、小さく響いていた。

「マスター、では、そのお方は」
「ああ……茶々丸、こいつはな」
「エヴァちゃんの新しいお友達? 初めまして――私は、エヴァちゃんの親友よ!」

 二人の時間はまだ、終わらない。




「うう……いかん、いかんで御座る――先生、拙者、涙が止まらんで御座るよぅ」
「そうか。だったらとりあえず、涙を拭くにはハンカチを使え。そして俺の服の裾で鼻をかむな」
「良かったで御座る――ああ――良かったで御座る、エヴァンジェリン殿――」

 エヴァンジェリンの家に続く遊歩道の入り口に、一台の車が駐められている。その脇では、銀髪の少女が白髪の青年に縋り付いて泣き喚き、その反対側には、小さな少女が腕を組んで立っている。
 言わずもがな――我らが、“横島一家”の姿であった。
 横島は、自身に縋り付くシロの頭を撫でながら、傍らに立つあげはに言う。

「まー、あれだ。これで多少は、エヴァちゃんに対する見方も変わるってもんだろ」
「結局は、やっぱりあっちの方がガキだって事を証明しただけですけどね。ま、私は鬼じゃありませんから。他人の幸せは、素直に祝福しましょう。喩えその相手が、死ぬほど性格が悪い馬鹿だったとしても」
「全く素直じゃないね、お前も」
「ま――あの腐れ吸血鬼も、完璧に下衆だったと言うわけではない――と言うことだけは、認めてあげましょう。と言うより、そうでないと、苦労をして文珠まで使ったヨコシマと私の苦労が報われません」
「そう言うなって」

 苦笑しながら、横島はあげはの頭を抱き寄せる。多少不服そうな顔をしながらも、当然あげはは素直に、彼の胸元に収まった。
 果たしてシロから、エヴァンジェリンの独白を伝え聞き――エヴァンジェリンの“親友”であったその女性を捜し出し、ここまで連れてきたのは彼らの仕業である。女性は最初、何故自分が麻帆良に連れてこられたのかわからない様子であったが――彼らの“切り札”によって、呪いにかき消されていたエヴァンジェリンの記憶――それが戻るやいなや泣き出してしまい――それをなだめすかして、どうにかエヴァンジェリンのログハウスまで連れて行ったのだ。
 彼女自身、おかしいと感じることはあったという。
 中学校を卒業した時から、彼女は自分の中に、奇妙な違和感があることに気がついていた。自分の中学生時代が、うまく思い出せなかったのである。たとえば休み時間、たとえば休日――特に、自分の自由な時間が顕著だった。その時間に、自分が何をしていたのか――どうしても、思い出せないのだ。
 ひとりぼっちで過ごしていたような、寂しい記憶はない。けれど、自分の記憶の中には、自分以外の人間が居ない場面が、あまりにも多すぎる。そして自分は一人きりで、一体何をしていたのか――それが、どうしても思い出せない。
 最初は何かの病気では無いかと思い、病院にも通った。しかし、当然、彼女には何の異常も見つからなかった。
 いい知れない不安と恐怖を感じはしたものの――すぐにそれは、日々の忙しさの中に埋没し――いつしか彼女は、その奇妙な違和感を忘れていった。突然自分の家に――見知らぬ二人の少女と、一人の青年が訪ねてくる、その時まで。
 しかしまさか、“呪い”とは――恐ろしさと怒り、そして、そんなものに屈して親友を忘れてしまった自分自身に、彼女は涙した。

「……これもまた――魔法使いのやったこと、か」
『……仕方のねえ事――と言えば、それまででしょうや。俺っち達には、何が正しいのかなんてわからねえ』
「あんたにだけは言われたくないけどね」

 横島一家のすぐ側で――未だ腫れぼったい目をこすりながら、明日菜が言う。それに応えたのは、隣に立つネギの肩に乗る、白いオコジョ。

「これで今回の一件が――落ち着くところに落ち着いた。本当にそう言えるのかしら? ネギ――あんたはどう思うの? 先生として、魔法使いとして――あんた自身として」
「……わかりません」

 小さく拳を握りしめ、ネギは言った。ここ最近、何度繰り返したかわからない言葉。

「誰が正しいわけでも、誰が間違っていたわけでもない。僕らが衝突したのだって、結局考え方の違い――解り合うことが出来なかったからです。だから僕は――今すぐでなくていい。今すぐ何もかもをやろうとするから無理なんだ――みんなで一緒に仲良くするのが無理なら、みんなで一緒に仲良く“なれば”いい。今は――そう思います」
「どうやって?」
「それも――わかりません。でも、同じ日々を過ごせば何かが見えるかもしれない。僕が教師として――三年A組の皆さんと、向き合い続ける限りは」
「……その意気が、出来るだけ長く続くと良いわね? あんたいっつもやる気が空回りして、どん底に落ち込んで――アップダウン激しすぎるんだもの」
「う……意地悪言わないでくださいよ、明日菜さん!」
「――うし!」

 唐突に、横島が背後から手を伸ばし――ネギの頭をなで回す。

「うわっ……い、いきなり何をするんですか、横島さん!」
「明日菜ちゃん、電話で木乃香ちゃん呼べ! 今からみんなで、飯食いに行くぞ!」
「え――でも――それに、横島さんの車じゃ、どれだけ詰めてももう人が乗れないんじゃ」
「お、それもそうか――まあいいや、ケイの奴に、どっかから車の一台くらい」
「流石にそれは、藪守さんに迷惑じゃ――」
「別に構やしねーよ。どうせ今頃、家でテレビでも見ながら転がってる――ああ、そうだ。明日菜ちゃん、楓ちゃんの番号知ってる? あの娘が来るって言うなら、出てこざるを得んだろ、あのムッツリスケベは」
『……何気にあの兄さんには容赦ねえなあ、横島の兄さんは――』




 そしてまた新たな、麻帆良学園都市の日々が訪れる。
 何も変わらない一日が、今日からまた、やって来る。
 多くの喜びと、多くの悩みと、多くの笑顔と、多くの悲しみと――数え切れない学生達と、それを取り巻く大人達の物語と、共に。




「三年!」
「A組!」
『ネギ先生――ッ!!』
「はい、皆さん――おはよう御座います!!」










今回のコンセプトは「勢い」で。
感想掲示板の方でも書いていますが、
今回、勢い無しにして書けたものではありませんでした。

これでひとまず、エヴァンジェリン編終了。
次回より閑話に入り、メインタイトルが微妙に変化します。

とはいえ、しばらくは一連の話を引きずる可能性もありますので、
結果として閑話も含めてエヴァンジェリン編になるのだろうか。

ともかく、これからもまた、改めて応援、よろしくお願いします。



[7033] 穏やかな時間――蝶の少女が見た夢
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/05/24 03:16
過去があるから、今がある。
だったら、今は何のために生きるべきだろうか?
そんなことを、ふと考えた。目を閉じて――今日という今が、昨日という過去になる頃に。




 気がついたとき、周囲は喧噪に満ちあふれていた。
 そこは何処かの大きな広場のような場所で、多くの人でごった返している。その人々の多くが若者や家族連れで、手には土産物の入った手提げや、風船。あるいはジュースやアイスクリームなどの軽食を持っている人々の姿も多い。
 振り返ってみれば、そこには現実感を失わせるほどの、巨大で流麗な城が建っている。それは主を持たない、夢の国の城。ただ人々に夢を見させる為だけに存在する、中身のない作り物。
 しかしこの広場から見上げたそれは、やはりとても美しくて――行き交う人々は、本当に夢の国に紛れ込んでしまったような錯覚を覚えるのでは無いだろうか。そんな風に、“彼女”は思った。
 「東京デジャヴーランド」――関東の一角に居を構える、日本有数の遊園地である。そのものずばり“夢の国”を謳い文句とし、隣接する「デジャヴー・シー」を含む一大リゾート・アミューズメントゾーンを形成。その来客数は、年間二千万人を超えるという。
 彼女自身、かつて一度はここを訪れたことがある。
 その青年は、ゴースト・スイーパーとして、この施設に存在するオカルト系アトラクションのメンテナンスを行ったことがあった。その時のよしみで、施設側から特別優待券を貰っている。
 当然、“日本でも有数の過疎地”から、街に降りてきたばかりの少女には、それは黙って見過ごせる事実ではなく――駄々っ子の如く、あるいは幼児退行を起こして必死にねだり――自身を“遊びの天才”と自称するかの青年を完全に疲弊させるほどに、はしゃぎ回った。今となっては、少し恥ずかしい、しかし純粋に良い思い出である。
 そして彼女は今また、この場所に立っていた。
 いつ自分がここに来たのかがわからない。どういう経緯でここに来ることになったのかもわからない。
 しかし何故だろうか、その事にあまり不安を感じることなく――小柄な少女は、ただ黙って、巨大な城を見上げていた。

「おい、“パピリオ”」

 唐突に“名前”を呼ばれ――彼女は振り返る。

「あんまり離れてウロウロするなって言ったろ? こんなところで迷子になったらお前、目も当てられんぞ」
「そうなったら園内放送で呼び出して貰うしかないわね。あれは恥ずかしいわよ?」

 その先に――一組の男女が立っていた。
ラフなジャケットとジーパンと言う出で立ちに、赤いバンダナを頭に巻いた青年。ともすれば野暮ったいを通り越した服装であろうが、なぜだか彼にはしっくりと似合って見える。かつてのトレードマークだったデニムの上下から最近脱却しつつあるのは、流石に年齢を考えての事だろうか。
適度に小洒落た――しかし動きやすそうなパンツルックに身を包む、若い女性。肩口の辺りで切りそろえられた黒髪が、小さく風に揺れている。そんな彼女の手に握られているのは、この遊園地のマスコットが描かれた風船――人のことを子供扱いしておきながら、彼女だって十分童心に返っているようだ。
 いや――自分や彼女に対して、童心と言うのも何かおかしいのかも知れない。何故なら――

「ヨコシマ――ルシオラちゃん」

 一瞬頭を過ぎりかけた思考を、彼女はすぐに忘れた。その二人――彼女の姉と、義理の兄になるのであろう青年の姿を見ていると、そんなことは考えられなくなった。

「……どうしたの? ぼーっとしちゃって……気分でも悪いの?」
「朝から全開も良いところだからな。いくらお前でも体力の限界ってモンが――ちょっとそこのレストランで休んでいくか?」

 立ちつくしていた自分を見て、二人は少し心配そうにそう言う。
 だから――彼女は慌てて、首を横に振って見せた。

「だ――大丈夫“でちゅ”」
「そうか? でも無理はすんなよ。遊園地に来てぶっ倒れてるようじゃ、何しに来たのかわかんねーからな――それなりに出費もかさんでる事だし、楽しまずに帰れるか」
「ちょっとヨコシマ。ここでそういう冷めたこと言わないの。いいでしょ別に。昔とは違って、こうやって遊びに来れるくらいのお金は持ってるんだから」
「俺は時々、自分が夢を見てるんじゃないかと思うことがある。確かに高校時代の俺は未熟者だった――それは認めるさ。だがな、いくらバイトから正規雇用になったとはいえ――あの美神さんが、俺に対してまともな額の給料を払うなんて――なあ、ルシオラ? 俺、ちゃんと起きてるよな? 悪い夢でも見てる訳じゃないよな?」
「……それ以上言わないでヨコシマ。あなたは確かに成長したのよ――そう思わないと――悲しくなるわ」

 わざとらしく目頭を押さえて、くだらない掛け合いをする二人を見て――彼女――“パピリオ”の顔に、小さく笑みが浮かぶ。

「夫婦漫才はそれくらいにして行くでちゅよ! 前回は時間が無くて不完全燃焼に終わったんでちゅ――今度こそ、目一杯遊ばなくて帰れまちゅか」
「あれで不完全燃焼とか――勘弁してくれ」
「ふふ――頑張ってね、ヨコシマ」
「お前は良いよな。朝から絶叫マシンのエンデューロ・レースしてるわけじゃないんだし」
「当たり前よ。あなたが本当に倒れた後、誰があなた達をホテルまで連れて帰るの?」
「……倒れることを前提に話を進めんでくれ。意地でも耐え抜いて見せるわい」

 ごく自然に、黒髪の女性が、“パピリオ”の左手を取る。つられるようにして――バンダナの青年、横島は、同じように彼女の右手を取った。そうして三人は、連れだって歩いていく。この紛い物の――しかし紛れもない“夢の国”の奥深くへと。




「今更でちゅが」

 横島がトイレに立ち――アトラクションの脇にあるベンチに腰掛けたパピリオは、隣に座る姉――ルシオラに問うた。

「何でルシオラちゃんは、ヨコシマに惚れたんでちゅか?」

 あまりに唐突に問われた為だろうか――彼女は飲みかけのジュースを吹き出し、軽く咳き込む。そんな姉の反応を見て、パピリオは目を細めた。

「……そういうリアクションを取る事自体、今更だと思うでちゅけどね……」
「だ、だからって……何をいきなり」
「別に、純粋な疑問でちゅよ。ヨコシマは――本人が認めていないだけで、“いい男”だと思いまちゅ。まあ……自覚されても困るんでちゅがね――って、そんなことは多分一生無いでちゅが」
「……どうしたのあなた? 熱でもあるんじゃないの?」

 そう言ってルシオラは、パピリオの額に手を当てる。柔らかくて暖かい手のひらの感触は――彼女の記憶の中のそれと、同じものだった。
 彼女は一度目を伏せ――そして改めて、まっすぐに姉の顔を見据える。もう一人の姉とは違い、柔らかさと、微妙な幼さを感じさせるその顔を。ややあって、その視線に耐えかねたのか――頬を薄く染めて、ルシオラは言う。

「最初はね、変わった奴だって思ってた」
「それはパピも思ったでちゅよ?」
「そうね――何せあいつは、あなたの“ペット”だったものね」
「……今更それを蒸し返すんじゃないでちゅ」

 頬をふくらませてそっぽを向く妹を見て、彼女はおかしそうにくすくすと笑う。

「空母でミチエと戦った時に――ベスパや私を助けてくれて。あの時私は、ヨコシマに“下っ端魔族は惚れっぽい”なんて言ったけど」
「どーゆー照れ隠しでちゅか、それは」
「仕方ないでしょ? 私だって馬鹿じゃない。あの時のヨコシマには、ヨコシマなりの考えとか立場とか――そう言うものがあった筈だし。まあ……“プロポーズ”の言葉が、自分の煩悩を信じろってのはどうかと思うけど――」
「生き急ぐでないでちゅよ、ルシオラちゃん。それは多分、世間一般には“プロポーズ”とは言わんでちゅ」
「そうね。それは改めて言って貰う事にするわ」

 ルシオラはそう言って、ベンチの背もたれに体を預ける。パピリオも、何となくそれに倣う。そのまま仰いで見上げた空は――夢の国で見るそれに相応しく、自分がそこに向かって落ちていきそうな程に、青く、そして澄み渡っている。

「……結局、理由は秘密のままでちゅか?」
「と言うよりね、理由なんて無いのよ、きっと。私とヨコシマは運命の出会いをして、惹かれ合う運命だった――なんてのは、どう?」
「方々からタコ殴りにされたいのなら、まあそう言うのも悪くは無いでちゅが」
「……」

 ルシオラの整った顔が、僅かに引きつる。彼女自身――自覚はあるのだろう。最後発の自分が、結局は彼の心を射止める事になった――しかし果たして、“彼女たち”の気持ちが、それを理由に「足りなかった」と言えるようなものではない、そう言う自覚は。
 けれど、そんな風にして“彼女たち”を哀れむことは、それこそ酷い侮辱である。だから、自分はただひたすらに、彼を想う――そんなところだろうか。

「……理由がないって言ったのは、満更冗談でもないわ」

 彼女は小さく息を吐き、パピリオの方を向いた。

「あのおかしな出会いに――そして、私の心に灯ったこの気持ちに――“理由”なんてものがあるなんて、考えたくないじゃない」
「そうでちゅね――そうかも、知れないでちゅ」
「……パピリオ、どうかしたの?」

 少し心配そうに彼女をのぞき込む姉に向かって――彼女は言った。

「ねえ、ルシオラちゃん。運命は――いつもいつも、優しいものじゃないと思うでちゅ」
「……」
「もしも――もしも、でちゅよ? ヨコシマが、ルシオラちゃんを助けるために、自分を犠牲にするような事があったら――ルシオラちゃんは、どうしまちゅか?」

 それは単純に聞けば、脈絡の無い――本当に唐突な問いかけだった。
 しかし、彼女のその唐突な問いかけに――ルシオラは、まっすぐにパピリオの瞳を見据えたままで、言った。

「そんなことには、私がさせない」

 磨き抜かれた黒曜石のような黒い瞳――そこに映り込む自分の姿を捉えながら、パピリオは口を開く。

「でも、それは」
「私はヨコシマを助ける。あいつはきっと、私に何かあれば、自分の命を捨てても助けてくれるでしょう。でも――そんなことは、絶対に許さない。私は、どんなことをしてもあいつを助けてみせる。喩えそのために、自分が犠牲になったとしても」

 しかし果たして、彼女の言葉は、ルシオラの強い調子で放たれたその言葉にかき消される。
 ややあって――パピリオは小さく言った。

「……それはルシオラちゃんの自分勝手でちゅ」
「そうね――きっとヨコシマに同じ事を問えば、同じ事を言うに決まってるもの。そしてそんなことになれば――きっと、あいつは酷く悲しむわ」
「……」
「だからこれは、自分勝手な私の願い。出来れば、私たちを翻弄した過酷な運命が――これからはもう少しだけ、私たちに優しくあって欲しい――そう、思う」
「――そうでちゅね」

 彼女はルシオラから視線を外し――小さく気合いを入れて、ベンチから立ち上がった。

「さてそれじゃ――遊びの時間の再開と行くでちゅか?」
「ほどほどにしてあげてね」
「それは保証出来んでちゅね」

 彼女らの視線の向こう側で、赤いバンダナの青年が、間の抜けた表情でこちらに手を振っていた。




 楽しい時間はすぐに過ぎるもの。果たしてアトラクションの大方を制覇し、催し物の一つである夜のパレードを見物し――昼間からそうであったように、パピリオは両側から、その手を“義兄”と姉に引かれ、デジャヴーランド最寄りの駅のプラットフォームに立っていた。

『間もなく一番乗り場、東京行き普通列車が参ります――危険ですから、白線の内側までお下がりください。尚、この電車――』

 無機質なアナウンスと共に、列車がゆっくりとホームに滑り込んでくる。ドアが開き、はき出される人々と引き替えに列車に乗るのは、今の自分たちと同じような出で立ちの人々。僅かばかりの“夢の時間”を楽しんだ彼らは、この電車に乗り、またいつもの日常へと帰って行く。

「平日でも意外と混んでるもんだな。まあ、座れないって程じゃねーとは思うが」
「そうね。でもあれだけ楽しいところだもの――娯楽にかける人間の力って凄いわね」
「いつぞやタマモの奴が、口ではそんなことを言いながらはしゃいでたな」
「純粋な興味よ」

 とりとめのない会話を交わしつつ、横島とルシオラは、電車のドアをくぐろうとする。二人に手を引かれ――自然、パピリオも――

「ん?」
「パピリオ? どうかしたの?」

 二人の足が、電車の内側に入り――そこでパピリオは、足を止めた。今まで自分から掴んでいた二人の手からも、力が抜けたように手を離してしまう。当然二人は振り返り――怪訝な顔で、彼女を見た。

「どうしたんだよ、そんなところで立ち止まっちまって――トイレか?」
「だったら遠慮しなくて良いわよ。どうせ次の電車もあるし――ここで待っててあげるから」

 優しげに言う二人に、パピリオは顔を伏せた。
 ……本当は、わかっていた。過ぎ去った過去――自分を引きつけてやまない、戻らない時間。それはあり得た可能性――しかし、可能性でしかなかった未来。そして――そしてきっと、この優しい時間を自分に見せたのは――

「ルシオラちゃん――私はもう、大丈夫“ですよ”」
「……パピリオ」
「今の私は“あげは”です――今の私があるのは、ひとえに私が弱かったから――だから、ルシオラちゃんは心配してくれたんですね? でももう、大丈夫です。私は今を生きていく事に、もう、何の不安もありません」

 気がつけば、パピリオの姿は、先ほどの子供服に身を包み、かつてのトレードマークであった大きな帽子をかぶったその格好では無くなっていた。背丈は少し伸び、その体を麻帆良学園初等部の制服に包み――彼女が人間では無かったその証――頭から伸びていた触角や、頬にあった模様も消えている。

「……そう」

 それを聞いたルシオラは――寂しそうな、けれど何処か安堵したような微笑みを浮かべて、電車の中から、彼女に向き直る。
 発車のベルが鳴る。けれど、それ以外の音は聞こえない。周囲に満ちあふれていたはずの人の波は、いつしか三人を残し、誰もいなくなっていた。

「あなたは強いのね」
「いいえ、違います。私は強くなんて無い。だから、間違いを犯しました。けれど――私は“愚か者”になるつもりはない。だから、同じ過ちは犯さない。そのために、前を向いて生きていくんです」
「だから――私はもう、必要ない?」
「……でも」

 小さく笑みを浮かべたまま言うルシオラに、パピリオ――“あげは”は、彼女とよく似た、寂しさを内に秘めた微笑みで返す。

「時々――素敵な思い出を、そっと暖める――それは、悪い事じゃないと思います」
「――ありがとう。私の可愛い妹――“あげは”――ヨコシマの事を、よろしくね?」

 気がつけば、ルシオラの隣に、赤いバンダナを巻いた黒髪の青年は立っていなかった。その代わりに――あげはの隣に、車いすに座った白髪の青年が、いつの間にか佇んでいる。

「身内の事となると、後先考えない馬鹿だから――しっかり見張っててよ?」
「……心配を掛けて、ごめんなさい。でも――言われずとも、です。もう二度と、ルシオラちゃんを心配させたりしません」
「うん――さて、もう行かなくちゃ」
「ルシオラちゃん」

 彼女は――寂しそうな笑みを浮かべたままの姉に向かって、言った。

「また、会えますよ。絶対に」
「うん――だから、さよならは言わずに行くわ」
「はい――“またね”です、ルシオラちゃん」
「うん、また――でも、今度逢ったときは――」

 発車のベルが鳴りやむ。軽い音と共に、列車のドアが閉まり、ルシオラの姿は、ドアの向こう――ガラスを隔てたものとなる。
 もはや、あげはの声は彼女に届かず、彼女の声もまた――あげはには届かない。
 けれど、その刹那、あげはは姉の声を、確かに聞いた。

――ひょっとして今度逢ったときは、あなたの事を“お母さん”って呼ばなきゃいけないのかもね――

 電車がゆっくりと動き出し、次第に彼女の姿が小さくなる。あげはは、それを追わない。ただ、風に巻き上げられた髪を、ゆっくりとした仕草で直し、遠ざかる電車のテールランプを、ただ目で追う。
 そして――小さく呟く。

「“ひょっとして”ではありません。今度逢うときは――私が、あなたのお母さんです」




 目が覚めた。
 先ほどまでそこに居たはずなのに――目が覚めてすぐに、夢の世界というものは、淡い霞の向こうに消え去っていく。
 今はもう、自分がどんな夢を見ていたか思い出せないけれど――何だか今日は、良い夢を見ていたような気がする。楽しくて、暖かくて――そして、懐かしい夢を。
 何気なく、あげはは枕元の時計に目をやる。午前五時――休日の朝には、少々早すぎる時間である。現に、この家で一番早くに起き出し、皆の朝食の用意をする事が日課となっているシロでさえ、未だに夢の中である。
 隣で眠る横島を隔てて――彼に縋り付くようにして、小さな寝息を立てる銀色の頭が、彼女からも伺えた。ほほえましいと言えば、ほほえましい光景なのだが――

(さて――ここは今という時間の大切さをかみしめるべきなのか、あるいは“煩悩魔神”を名乗るヨコシマの煩悩に、何をやって居るんだと怒鳴りつけるべきか――悩みどころですね)

 非常にくだらない事を、しかし彼女にとっては真剣に考えつつ、白髪の青年の寝顔をのぞき込む。小さく口を開けて、平和そうに眠る、横島の顔を――

「ん……先生……」
「シロ? 起きたんですか?」
「ぁ……んっ……先生、駄目で御座るよぉ……拙者、確かに狼で御座るが、こんな格好で、恥ずかし……あっ……」
「……何の夢を見てるんですか、この馬鹿犬は」

 同居人の言った、あまりにも生々しい寝言に、こめかみの辺りが鈍く痛むのを感じつつ、あげはは一つ、ため息をつく。全く彼女は、日頃“侍”を自称しているくせに、それが聞いて呆れる――

「……」

 何となく、もう一度横島の顔を眺める。パジャマの袖で、そっと口元の涎を拭ってやり――

「そうですね――ええ……私もまだ、寝ぼけてるんです。いえ――まだ、目覚めていないんです」

 だから、こんな事も出来てしまう。あげはは目を閉じて――そっと、彼の唇に、自分のそれを重ねた。零になる距離、暖かな感触――夢の中とは違う、夢心地とはこのことか――もっとこの幸せな感触を感じていたくて、あげははおずおずと――舌を伸ばす。




(……何だ? 何だか――やわらかくて……あったかい……)

 口の中を、柔らかくて熱いなにかで、ゆっくりとなで回されているような不思議な感触に、夢の中に沈んでいた横島の意識が覚醒していく。口の中をかき回されるとなれば、どう考えても不愉快であろう筈なのに――本当に“撫でられている”と言った感じのそれは、不思議と心地が良い。
 しかし――これは一体なんだろうか? 覚醒しないぼんやりとした頭で、彼は考える。それとも自分はまだ夢の中にあるのだろうか?
 薄く、目を開ける。
 まず見えたのは――深い緑色の艶を持つ、不思議な色の髪の毛。間違えるはずもない。これは自身の妹分の――しかし何故、仰向けに寝ている自分の視界に、彼女の髪の毛が――?
 そこまで考えて、ようやく、自分と彼女の顔が重なっている事に気がつく。距離が近すぎて、右目が髪の毛を捉えるのが精一杯だったのだ。左目は彼女の顔に焦点を結ぶには近すぎて、よく見えない。

(……? あげはの奴、俺にくっついて何やってんだ? それにこの……)

 至近距離――と言うよりもほぼ密着した、顔と顔。そして、唇に触れる暖かな感触と、口の中をなで回されるような――

(ああ……俺って奴は、なんて夢見てやがんだ――さっさと夢から覚めろって、な? 俺は確かに煩悩の固まりだが――外道じゃないだろ?)

 ここで、自分が「起きている」事を自覚してしまえば――自分はきっと、取り返しの付かないところにまで行ってしまう。その恐ろしさに耐えかねて――彼は、現実からの逃避を計る事にした。
 意識の片隅に響く、水っぽいような音を、なるべく聞かないように――




「あ……あぁああぁぁああぁ――ッ!?」

 早朝から響き渡った絶叫に、今現在横島家に滞在中の青年――藪守ケイは目を覚ます。今のは、シロの叫び声だろうか? 一体何があったというのか――彼は眠い目をこすりながらも起きあがり、あくびをしながら、廊下を兄と慕う青年の部屋へと向かう。

(そう言えば、近頃あの三人一緒に寝てるんだっけ。何というかもう――暇だからって思ってたけど、いい加減東京に帰ろうかなあ)

 これが格差社会という奴なのか――などと詮ない事を考えつつ、ケイは障子を開ける。

「おはよ――朝っぱらから何大声出してんの、シロさん。近所迷惑だよ?」
「ケイ殿っ……! だって、だって先生と、先生とあげはが!」
「……?」
「先生とあげはが、拙者を差し置いてキスしてたんで御座るよぉっ!! それも――それも、“でぃーぷ”な奴をっ!!」
「……」

 見れば、横島はまだ寝息を立てており――この喧噪で目を覚まさないというのも大したものだと思うが――あげははシロにたたき起こされたのか、目をこすりながら、焦点の合わない目でこちらを見ていた。

「あげはっ! お主は何のつもりであんな――それは拙者に対する宣戦布告で御座るか!?」
「……朝っぱらから何を騒いでるんですか、シロは――もう少し寝させてください」
「……わかった、委細承知した。とぼけるつもりなので御座るな? 良かろう、それほどまでに眠りにつきたいならば、拙者がこの手で永遠の眠りに――」
「ふぁ……ん、んん……何を喚いてるんだよシロ――まだこんな時間じゃねえか、もう少し――」
「先生っ! 拙者は、拙者は――拙者にもぉおおおっ!!」
「うわ!? や、やめろ、こんな朝っぱらから顔を――ここじゃ嫌――ッ!!」

 その喧噪をしばらく眺め――ケイは、小さくため息をつき、きびすを返す。

「お幸せに」
「ってちょっと待てや貴様! 何事も無かったかのように部屋を出て行こうとするな!」
「知らないよ。僕は眠いの。だから、もうちょっと寝るの。わかった? ――起こそうとしたら――今の僕、何するかわかんないから」

 細めた瞳に、獣のような鋭い光を宿らせて――ケイは、廊下を去っていく。
 もちろん、“あれ”がうらやましいとは思わない。間違っても代わりたいとも思わないのだが――彼とて、若い男である。思うところはあるのだ。色々と。
 麻帆良学園都市の一角、横島家の朝は――今朝もまた、いつもと“さほど”変わらぬものだった。




――だから――心配しなくても大丈夫ですよ、ルシオラちゃん――












エヴァンジェリン編では、伏線を敷いただけで、
さしたる活躍の無かったうちのパピさん。

また新たな伏線を作ってしまっただけのようにも取れるかもしれませんが。
今後にご期待ください。


しかし出来はともかくとして、一つだけ気に入らないこと。
これ、「GS美神」の原作を読んでないと、
少なくともアシュタロス編読んでないと、理解出来ないんですよね。
「お母さんって呼ぶことに」のくだりとか。

いえ、今までにもそう言うことは大なり小なりありましたけど、
メインの部分に、原作を読んでいることがはっきり前提のものを据えたのは初めてかも。
書き終わったあとで気がついたんですが――

一応、原作を読んでなくても楽しめるものを書こうと思ったので、
少しだけ思うところが。
まあ、その辺りは今後の話の中で上手く消化していきたいと思いますが。

そう言うわけで今回は、伏線を兼ねた閑話でしたが、いかがでしたでしょうか?
ご感想を頂けると狂喜いたします。

では、また次の話でお会いしましょう。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・不思議な机
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/05/24 21:24
待つことに疲れたと言っている間は、未だ待つという事に慣れていないだけだ。
本当に待つことに疲れた者は、もはや待つと言う行為がどういうものか、忘れている。




 関東平野の中央部に存在する埼玉県麻帆良市ではあるが、その周囲は穏やかな丘陵地帯によって囲まれている。もちろんそこには道路が敷かれ、トンネルが穿たれ、電車が通り――大昔のように峠を越える難所を――などという感慨は、この町を訪れる人間には不要である。
 とはいえ、電車ならばトンネルを抜け、車ならばそれなりの峠道を通ってこの街を訪れる人間は思うはずだ。埼玉の片田舎から、突如としてヨーロッパに迷い込んだかのように一変する町並みも手伝って、まるで、そこには小さな一つの国が広がっていたようだ、と。
 それは、麻帆良学園都市の性格を良く表しているのかも知れない。
 学校施設と、それに関連した人々によって構成され、一部のインフラまでもが、外部の手を離れた独立世界――“学園国家”麻帆良学園都市。
 つまり早朝や夜間などになれば、この丘陵地帯――麻帆良市と外界を隔てる“国境”を超える人間は、それほど多くない。ここを超えて麻帆良市へと通勤、あるいは通学する人間も、少数ながら存在するとはいえ――そう言ったラッシュの時間を除いては、この“国境”を貫く峠道は、鳥の声や木々のざわめきだけが支配する、静かな時間を迎えるのだ。
 しかしこの朝――そんな静寂を切り裂いて、獣の咆吼にも似た自動車の排気音が、麻帆良の郊外に響き渡っていた。

「……ちっ!」

 冷たい朝の空気を切り裂いて、かなりのスピードで峠道を走る、一台のスポーツカー。まるで地を這うようなそのスタイリングは、赤一色に染め抜かれ――その姿は、見る者に大地を疾走する炎を彷彿とさせるだろう。
 ランボルギーニ・ガヤルド。
 スーパーカーの一つの到達点として名高いランボルギーニ社が、そのエントリーモデルとして売り出したスポーツカーである。それ以前に存在したモデルよりも、より合理的なデザインと、それに伴って追求された操作性の良さ――ある専門家は、それを“少し背の低いセダン”と表現したという。
 しかし、実際にこの車を前にして、その様な生ぬるい感想を抱く人間は少ないだろう。攻撃的を通り越し、もはや凶暴とも言えるスタイリングに、これでもかとばかりにちりばめられた走るための装備。もはやそれは、地上を走る戦闘機と言っても良いだろう。
 そしてそのコックピットに収まる女性は――不機嫌そうに、小さく舌打ちをした。
 町中で見れば、誰もが振り返らずには居られない――それほどの美貌を持った女性だった。太陽のような輝きを持つ金色の髪を、後頭部でいくつもの房にした、不思議な髪型。しかしそれは、それこそ不思議なほどに彼女に似合っている。大人しいスーツにその体を包んではいるものの、彼女の持つ妖艶さを前にしては、その“おとなしさ”はあまり意味を成さない。
 だが、果たしてハンドルを握る彼女の表情は、不機嫌に歪められていた。
 幸か不幸か、助手席には誰もいない。そんな彼女の表情を見られる人間は、誰一人として存在していなかった。

「……ナメてるのかしら?」

 初めて走る峠道――綺麗に整備された幹線道路とはいえ、それなりのコーナーを持つワインディングロード――曲率を見誤り、僅かにオーバースピードでコーナーに侵入。その原因が、自身の集中力が、苛立ちによって削られているせいだとわかる彼女は、余計に不機嫌になる。
 もはやそうでもしなければ、エンジンの膨大な力を受け止めきれないが故に採用された四輪駆動――地面を捉える四つのタイヤを酷使して、彼女は巧みなブレーキングとハンドルワークで、微妙にリアを流す。一つ間違えば、ガードレールを突き破って崖下に転落――しかし、そんなことは彼女の頭には毛頭無い。自分がそんなへまをするはずはない。それは過信ではなく――確かな技術に裏打ちされた、自信。
 絶妙にカウンターを当て――深紅のスポーツカーは、最小限のスピードロスで、その難しいコーナーを駆け抜ける。

「……やっぱり、おかしいわ」

 女性は、鋭い目線でルームミラーを睨む。非常に低いガヤルドのリアウインドウ越しには、全く大きさの変わらない、一台の白い車。
 新型の、フィアット500。
 世界的なネームバリューを誇るモデルの名前を受け継ぎ、フィアットが最近になって発表したニューモデルである。日本では漫画の影響などもあり、広い世代に知られる事となった人気車である。
 しかしそれは、あくまでもスタイリングを楽しむコンパクトカーであって、間違っても生粋の“スーパーカー”の血統を継ぐスポーツカーに追従できるような、そんな車ではない。
 しかし、彼女は、そんなことにいらだっているわけではない。
 何故なら――背後に迫るその車のハンドルを握るのは、彼女がよく知る人物だからだ。おまけに、その人物ならば――女性は、ハンドルに後付けされたスイッチを押し込む。それは、ハンズフリーの自動車無線であった。

「……どうしたの? いつもなら、こういう道は大得意の筈でしょ?」

 彼女はハンドルを切り、次なるコーナーをクリアする。確かに、イタリアの何処までも続く道を駆け抜ける為に作られたこの車には、ここまで狭い日本の峠道は、ハイパワー、ハイパフォーマンスであるが故に、その性能を発揮しきれない。排気量では半分以下の日本製スポーツカーにも、こういった道ではかなわないだろう。
 もちろん、背後に迫る車は、厳密にはスポーツカーですらない。そう言う問題以前の話――の、筈なのだが。

「もうすぐ市街地のバイパスに合流するわ――そうなったら、いくらその変態車でも、加速性能と最高速じゃあ、この車にはかなわない」
『ふふ……そうね、そうかもしれないわ』

 無線から聞こえてくるのは、楽しげな声。それがなおさら、彼女の苛立ちを加速させる。視界の端を、「ようこそ麻帆良市へ」の看板がかすめる――相手の三倍強もの排気量を持つ、エンジンパワーにものを言わせて相手を突き放す。そんな力業は、彼女の好むところではないが――今はそんなことは言っていられない。

「どうしたのよ? 今日はエンジントラブルかしら? 魔改造が過ぎて、ついにそのエンジンも根を上げたのかしら?」
『……“この子”はそんなに弱くはないわ――ただね、少し試してみたいことがあって』
「……何ですって?」
『ねえ……タマモちゃん、“KERS”って……知ってる?』

 タマモ――そう呼ばれた女性は、その声に思わず、返す言葉を失ってしまう。
 KERS――Kinetic Energy-Recovery Systemの略――近年より、自動車レースの最高峰、F1に搭載されるようになった、所謂運動エネルギー回生システムの事である。
 電車などにも搭載される電力回生ブレーキ――あるいは、技術進歩により小型化が格段に進んだ未来の充電装置、フライホイール・バッテリーに、走行中の余剰エネルギーを蓄え――そして、必要な場面で解放する。
 F1では、レギュレーションにより、おおよそ八十馬力のエネルギーを、一周につき六秒程度上乗せできる計算となるが――

『ふふ……もちろん、この場にはレギュレーションなんて存在しない――タマモちゃんのその車が良い例だものね?』
「ちょ、おキヌちゃん!? あんたまさか!?」
『少し長い直線が続くだけで、いつもあなたのテールランプを見せてばかりじゃ、“この子”もかわいそうだもの――この間、トラブルでもないのに私が車屋さんに入り浸ってた理由――知りたくない?』
「冗談でしょ!? 知りたくないわよ、そんな事情――」
『……それじゃあ、後でね――タマモちゃん?』

 その刹那、
 純白の弾丸が、窓の外を駆け抜けた。

「ちょっと、おキヌちゃん――あんた最近、美神の奴にやること似てきたわよ――!?」

 麻帆良市の郊外に、麗しい女性の絶叫が響き渡った。




「はぁ……癒されるわあ――うちの寮じゃ、さすがにこうはいかないもんね」
「うー、右に同じ。畳最高。日本人で良かったあ……」
「――だらけすぎですわよ、朝倉さん、明日菜さんも――けれど良いのですか? いくら居心地が良いとは言っても、急に押しかけてしまって」
「しっかりとした話し合いをするのに、駅前のファーストフード――というのも、色気のない話であろう? 先生はこの時間、自室で仕事に勤しんでおられるし、あげはは先週から小学校の飼育委員会になったとかで、この曜日は夕方まで帰って来ぬ。別にお二人が邪魔だというわけでは御座らんが、今だけはうちも静かな空間で御座る故に」

 その日、横島邸には、この家に住む少女――犬塚シロの他に、彼女のクラスメイトである三人の少女が来訪していた。つまりは席の近さもあって、真っ先に彼女と友達になった朝倉和美と、雪広あやかの二人に、妙な縁を通じて親しくなった神楽坂明日菜を加えた三人である。
 純和風――少しばかり家人によるアレンジはあるものの――のたたずまいを見せる横島邸は、実はこの季節、非常に居心地の良い空間となる。これは家人ら自身、ここに越してきてから知った事であったが、古くからこの地に建つこの家は、風通しが良く、しかし今の時期、適度に寒くも暑くもなく。果たしてほのかな香りを放つ畳に寝ころんでみれば、この少女達ならずとも、その魔力の虜になってしまうだろう。
 もちろん、彼女たちとて、その魔力のみに惹かれてこの家に集っているわけではない。呆れたような表情で、畳に寝転がる二人の少女を眺めるあやかの手には、筆記用具と何かのファイル、それに、ルーズリーフのノートがある。
 彼女たちは、来るべき修学旅行に備えて、所謂その“しおり”を作るために、ここに集ったのだ。

「でもさー」

 畳に大の字に寝転がり――しかしかろうじて、年頃の乙女としての恥じらいは捨てていなかったのか、スカートの裾を抑えて体を起こしながら、和美が言う。

「何で今更、中学生が遊ぶところもそう無さそうな京都なのかしらね? あたしはハワイの方が良かったわよ」
「いいじゃないの。どうせハワイに行ったところで、観光名所巡って、海で泳いでるかビーチで日光にあぶられてるか、どっちかでしょ? まあ、ハワイって響きには、私も結構惹かれるものがあるけど――」
「同じ事は近所の海辺でも出来る、ですか? 明日菜さんにしては殊勝な事ですね」
「ふん――どうせ金持ちにはこの気持ちはわかりゃしないわよ。それに――ま、うちのクラス、妙に留学生とか多いしさ」
「えー、明日菜の言ってることは立派だけどさ、あの連中が、京都のお寺で静かに感動に浸ってるところなんて想像出来ないわよ。主にあの中華娘が――ああ、青い空、青い海、白い砂浜――」
「まあまあ、遊びほうけるだけが修学旅行では御座らぬ。いや、修学旅行は授業の一環、などと、堅いことを言うつもりは毛頭御座らんが――学友達と旅をすることそのものに意義がある」

 一人いつもの家着――落ち着いた小袖に着替えたシロが、お茶の乗った盆を片手に、とりとめのない会話を続ける彼女たちに割って入る。和美は多少不満そうに、明日菜は苦笑いを浮かべながら、そしてあやかは小さく頭を下げて、それぞれグラスを受け取った。

「して――“修学旅行のしおり”とは、どのような形に?」
「普通は、旅行先の名所や、そこにまつわる話などを――レイアウトは朝倉さんにお任せして宜しいですか?」
「うーん、新聞のそれとは大分勝手が違いそうだけどなー、まあ、あたしが一番そういうのには慣れてんだろうし、うん、いいよ。明日菜は?」
「これでも美術部よ? イラストの方は任せなさい」
「う……弱ったで御座るな。文章や調べ物はあやか殿が適任で御座ろうし――拙者には、何か手伝える事は」
「適任と言っても、私一人では。犬塚さんには、私のお手伝いをして貰うと言うことで」
「おっけー、それじゃあたし、パーツが出来上がってくるまではやることないし、おやすみー……」
「ちょっと待ちなさい朝倉さん!」

 最初に、この“しおり”を作る役割は、立候補制として提示された。しかし果たして、いくらお祭り好きの我らが三年A組とはいえ、このような仕事に、そうそう簡単に名乗りが上がるわけではない。
 このとき――何故か修学旅行が京都に決まってからこちら、妙に機嫌の良いネギと、小さな話し声だけが響くクラスの落差と言えば、形容しがたいものだった――と、明日菜は述懐する。
 果たしてそのようなネギに、彼に色々な意味で好意を寄せる雪広あやかが食いつかない筈もなく。彼女がやるならば、折角の機会だと、シロがそれに追従。しかし“しおり”の何たるかを知らない彼女を見かねて和美が名乗りを上げ――ややあって、最後に上がった手の主は、明日菜だった。
 彼女は確かに美術部員であり、今時珍しい、正真正銘の苦学生という身の上も手伝って、忙しさから幽霊部員となりはてているとは言え――こういう場面でのイラストは得意とするところである。だが、明日菜とて、単なるボランティア精神でその役割を買って出たわけではない。

『なんて言うかさ、この間の事があって――ただぼーっと、退屈な学校生活を送るってのが、何だかもったいなく感じちゃって。“エヴァちゃん”に偉そうなこと言った手前もあるし――まあ、それが全部じゃ無いんだけどさ』

 そう言って、明日菜は頭を掻いた。もちろん、それは事情を知るシロにのみ語られた言葉であるが。それは喜ばしいことなのかも知れないが――その言葉にほんの僅かの悲しみを覚えてしまうのも――それもまた、身勝手な感情なのだろうと、シロは思った。
 そして、いざ“しおり”を作ってみようという段になって、遠慮無く作業が出来る場所と言うことで、シロが自宅である横島邸を提供しようという話になったのだ。

「んで、さっきの話だけどさ。それじゃ具体的に、京都の何処にハワイに勝るものがあるって言うの?」
「あなたも大概しつこいですね。そんなに京都に行くのは嫌ですか?」
「いーや、そういうわけじゃないけどさ。ほら、あれよ。そうまで言うなら、あたしらを京都に誘う理由になったって言う“留学生諸君”と“英国紳士の卵”にさ、京都の良さって奴をアピールしてやろうじゃないの。どうなのよ、明日菜、委員長」
「どうって言われても――私はその、京都って言ったら、法隆寺とか」
「法隆寺は奈良ですわよ、馬鹿レッド」
「う――それくらい知ってるわよ! わざとよ! つい、よ!」
「どっちですか」

 いつも通りの遣り取りを、シロは苦笑しながら見守る。やはり明日菜には、涙を流した顔など似合わない。

「……何よ、シロちゃんまで。どうせ私は馬鹿レッドよ。悪い?」
「いや、そこで開き直られても」
「あ、でも留学生って言ったらさ」

 ふと、和美がペンを回しながら言う。気がつけば、彼女の手元には既に、ノートと筆記用具が用意されている。口では何だかんだと言いつつも、仕事は早い。

「ほら、エヴァンジェリンさん。シロちゃんは知らないだろうけど、あの子、校外学習はいつも欠席だったのよ。何の理由があるか知らないんだけど――あ、でも確かシロちゃん達、あの子と仲良くなったんだよね?」
「そうでしたわね。いつも理由を聞いてもはぐらかされるばかりで――」

 彼女とあやかの言葉に、思わずシロと明日菜は顔を合わせ――揃って、柔らかな笑みを浮かべる。それを見て自然と怪訝な顔になる二人に、シロは言った。

「ご安心なされよ。此度、エヴァンジェリン殿はちゃんと修学旅行に参る故に」
「あ、そうなの?」
「彼女は日本の文化が好きなようですから――きっと喜びますわね。ほら和美さん。それだけでも、京都を選んだ意味はあろうかと言うものです」
「へいへい、ごめんなさいね。でもシロちゃん流石だねえ、よくもまあ、あの鉄面皮を――」

 近頃のエヴァンジェリンは、以前と比べて柔らかくなった。これが、現在の三年A組共通の見解だった。進んで話の話の中に入ってきたりはしないけれども、以前のような他人を寄せ付けない、張りつめた空気のようなものは、今の彼女からは感じられない。
 新学期からこちら、転校生である犬塚シロが、クラスの中で孤立していた彼女に接触していたのは、クラスの皆が知るところである。だからきっと、自分たちにはわからなかったエヴァンジェリンの悩みを、シロがいつの間にか解決したのだろう――という、無難な結論に、現在の三年A組は落ち着いている。
 二年間を共に過ごし、それを成し遂げられなかった自分達に、悔しい思いが無いわけではない。けれど、今は正直に、以前よりもほんの少しだけ幸せそうに見える彼女を受け止めてやろう――果たして少女達は、そんな風に考えるようになっていた。

(多分そんなことをエヴァンジェリン殿に言えば――また意地を張って否定するので御座ろうが)

 とはいえ、今までずっと意地を張って生きるしかなかった少女が、自分の素顔を思い出すには、もうしばらくの時間が必要なのであろう。もっともシロもまた、その時をゆっくりと待とうと、そういう風に考えてはいる。
 彼女はいずれ、自分たちと共にこの学舎を巣立ち、そして新しい時間の中へと旅立っていく。今までのように、同じところを何度も堂々巡りすることはない――時間はいくらでもある。

「鉄面皮、ねえ。まああれでも、結構可愛いところがあるのよ? エヴァちゃんて。ね、シロちゃん?」
「左様。彼女は実に可愛らしいお方で御座るよ」
「ちぇー、何だか妬けちゃうな」
「本当ですわね。まあ――犬塚さんに出来て、私たちに出来ない事というわけでも無いでしょう。私は委員長として、地道に彼女と接していこうと思います」
「堅いねえ、どうも。あくまで“委員長”として、ってか?」
「人の揚げ足を取るものではありませんことよ、朝倉さん」

 胸元に手を当てて言うあやかに、和美は苦笑する。

「しかしそれを聞いて一安心。今までにどんな事情があったにせよ――修学旅行は中学校生活でただの一度――全員が揃って出発できるなら、それに越した事はありませんわ」
「ふむ、しかし」

 さて、いい加減に作業を始めようと――そう言いかけたあやかの言葉尻を、シロが捉えた。

「クラス全員と言えば――窓際のあのお方もそう言うことになるので御座ろうか?」
「え?」
「はい?」
「ちょっと?」

 三人の視線が、一斉にシロに集中する。
 その一言が、発端だった。

「ええと――その、うちのクラスの窓際――ちょうど和美殿の席の隣に、一つ空席があるで御座ろう? 拙者も今まで慌ただしかった故に、敢えて指摘はせなんだが――何というか、居るので御座るよ、そこに」
「居るって――あたしの席の隣に? な……何が?」
「ええとその――申し上げにくいので御座るが」

 ごくりと、誰かの喉が鳴った。

「拙者らと同じ年の頃に見える――少女の、幽霊が。だから考えてみれば、あの娘もまた、拙者らのクラスメイトになるのかと、ふと」

 まるで、周囲が凍り付いたような時間が流れ――果たして一斉に、少女達の声が爆発した。




「何――教室に幽霊が居る?」
「ええ――犬塚さんが言うには」

 少女達の絶叫に、何事かと奥から姿を現した横島に、あやかは言った。彼が現れたことによって、一応騒ぎは沈静化している。何せ、彼は元とはいえ、ゴースト・スイーパー。文字通りの、幽霊に対する専門家である。
 遠慮がちに言う彼女に、横島は軽く苦笑する。
 何処か外国の血が混ざっているのか、日本人にはあり得ない金髪を揺らす美しい少女である、雪広あやか。シロは内心、いつぞや和美相手に見せたいつもの病気が再発するのではないか――などと思っていたのだが、不思議と彼は、あやか相手には落ち着いていた。

(……なるほど、先生も無意識のうちに、あやか殿が己の同類であることをかぎ取ったか――考えてみれば、“妹分”には決して手を出さぬお方であるから――)

「シロ、何だ人の方をじろじろと。何か文句でもあんのか?」
「い、いえ、別にその様なことは」
「……? まあ、いい。こいつが言うなら――まあ、間違いないだろ。こと“霊感”に関しちゃ、そんじょそこらの霊能力者やゴースト・スイーパーなんざ、ものの数じゃねえからな、こいつ」

 横島は腕を組み、小さく呟く。“専門家”のこぼした言葉に――和美とあやかは、小さくその身をすくめる。その様子を横目で見て――明日菜は驚くほど平然としている自分に気がついた。
 もちろん、幽霊は怖い。
 それは魔法や吸血鬼と言った非日常の驚異とは、また異質の恐怖だ。本質の知れない――得体の知れない恐怖。体がすくみ上がり、足がこわばる――そんな、自身に降りかかる危険に対する恐怖、それとは、また違うベクトルの恐怖である。
 けれど――先ほどはあまりの事実に大騒ぎしてしまったものの、気がついてみれば、自分は彼女たちほど、動揺を引きずっていない。
 そう言えば以前、自分自身で言ったことだ。ここまで来ればもう、幽霊だろうがロボットだろうが、超能力者だろうが異世界の人間だろうが云々――

(そう言えば、茶々丸さんってばロボットだったわよね――んで、エヴァちゃんが吸血鬼で、シロちゃんは狼人間、ネギは魔法使いで――ああもう、何だかなあ……)
「どうしたの明日菜? 急に頭なんか抱えて」
「何でも。次に出てくるのは、宇宙人と超能力者と、どっちが先だろうって」
「……はあ?」

 和美が怪訝そうな顔をするのはわかるが――今は、深くは考えたくない。明日菜は小さくため息をついた。

「しかし教室に幽霊ねえ――さらりと言ったが、どうなってるんだよ、お前のクラスは」
「先生にだけは言われたくないで御座るが」
「――すまん、返す言葉がねえわ。んで――どうするんだ? ケイにでも頼んで、手っ取り早く除霊してもらうか?」
「そんな」

 横島の言葉に、あやかが首を横に振る。和美も明日菜も、何となくその気持ちはわかる。幽霊が現れて、問答無用で除霊した――普通ならばそれで全てが解決だろうが、今の自分たちは、それでは納得できそうにない。
 何故そんな場所に幽霊がいたのか、その幽霊は一体何者だったのか――それすらわからずに、ただ「解決した」と言われても、困るのだ。“幽霊の机”の隣に席を持つ和美などは、特にそうだろう。

「まあ、気持ちはわかるけどなあ……正規の手順踏んでたんじゃ、美神さんに嗅ぎつけられるぞ。ケイの奴は一応、あれで美神事務所のメンバーだから、こっちも手伝い以上のただ働きはあんまりさせらんねーし――大体シロ、どうして今まで黙ってた?」
「申し訳御座らん。何せその“幽霊”、悪霊という雰囲気では御座らなんだ上に――エヴァンジェリン殿の一件で、そちらまで手を回す余裕が。そもそも存在感が非常に希薄で――正直、ここのところのゴタゴタで、今日の今日まで存在を忘れておった」
「となると――大方、程度の低い自縛霊ってとこか」

 小さく頷いた横島に、和美が問う。

「あの――大丈夫、なんですか?」
「ん? まあ、危険は無いと思うよ? 危険なものなら、それこそ――隣の席に座ってる君あたりが、真っ先に危ない」
「ひっ……」
「つまり、結構長いこと、君に実害が及んでないって事は、そう危険なものでもないって事だよ。言ったとおりに程度の低い自縛霊か――そうでなきゃ、誰かの残留思念の類じゃないかと思う。せいぜいが、教室で写真を撮ったら、知らない誰かの手が写ってるとか、その程度だよ」
「……その程度って言われましても」

 気味が悪いものは、気味が悪い。たとえるなら――その“幽霊”には失礼だが、寝る前に見つけてしまったゴキブリのようなものだ。ゴキブリ自体はほとんど無害だが、それを放置して、同じ部屋で眠りにつける剛の者は、そうそう居ないだろう。それが彼女らのような普通の女子中学生なら、尚更である。

「仕方ねえ、俺がやるか」
「……先生が?」

 小さく息を吐いて首を鳴らした横島に、シロの細い眉が小さく動く。

「……何だよ、何か文句でもあんのか? 今度は別に危ないことしようってわけじゃねえぞ?」
「それはそうなので御座るが――先生が女子校に向かおうかと言うのに、“仕方ない”などと言う言葉が出るとは」
「安楽死させるぞお前。俺は確かに馬鹿でスケベな男かも知れんが、外道にだけは落ちたくねえ。お前の同級生に手を出したとなりゃあ、俺は完全に悪者じゃねえか――なんだよ、その目は」
「いえ、別に何も」

 目をそらして言うシロに、横島は首を横に振る。和美とあやかは顔を見合わせ――明日菜は、笑いたいのを堪えているような表情を、彼女らの背後で浮かべていた。

「……けど、何か引っかかるな」

 シロの反応を、どうにか意識の隅に追いやったらしい横島が、顎に手を当てながら言う。

「話を聞く限りじゃ、和美ちゃんの隣のその席――最初から空席だったんだろ?」
「あ、はい」

 聞かれて和美は、小さく頷いた。それがどうかしたのだろうか、と――考えて、和美は一つの不自然な事に思い当たる。その表情を見て、彼女が解答に行き当たったと気がついたのだろう。横島も彼女に頷き返した。

「そう、シロだよ」
「……拙者がどうかしたので御座るか?」
「わかんねーか? 新学期に入って、和美ちゃんの隣の席は空席だった。なのに、シロは、その席に割り振られなかった――普通だったら、クラスの中に遊ばせておく空席なんて、二つも三つもあるわけがねえ。何かの理由で席が空いてるなら、まずその席を埋めるのが普通だろ?」
「あ」

 そこまで言われて、ようやくシロの中で、疑問が一つの“形”を成す。そして、自分が緊張の面持ちで、三年A組のドアをくぐった――その時のことを思い出す。自分のために用意された席とは別に、一つの空席がクラスには存在していて――彼女はそこで初めて、その“幽霊”を目撃した。

「そう言えば――いえ、私はてっきりあの席は、犬塚さんのような転校生か――あるいは何かの用の為に空けておく座席だとばかり思っていたのですが――不思議ですね。予備の座席だったというのならば、確かに何故犬塚さんは、そこに座らなかったのでしょうか」

 あやかの話では、自分の記憶が確かならば、自分たちが麻帆良女子中に入学し、今のクラスが形成されたその時には、既にその空席は存在したという。明日菜や和美もまた、あやかと同じく、その空席にさしたる意味は感じていなかったが――

「……やだ、なんだか気味が悪くなってきた」
「うひー……私、こういうの苦手なのよ」

 二人は軽く身震いをし、いかにも気味が悪いと言ったように呟く。人間、はっきりとした驚異よりも、得体の知れないものに対しての方が、時として恐怖を感じたりするものなのだ。横島にはその気持ちが、痛いほどよくわかる。

「安心しろ、俺もだ」
「ちょ、横島さん!?」
「和美ちゃんの言いたいことはよくわかる。だが――俺だって怖いもんは怖いんだ」
「そんなことで胸を張られても」
「大丈夫だ。どれだけ怖かろうと、俺は美少女のためなら何とだって戦える」
「そこで胸を張るのもどうかと思うので御座るがな」

 少女達は彼の言葉に、苦笑いを浮かべながら顔を見合わせる。
 彼女らは気づかない。胸の奥からこみ上げてくるような、不快な不安感――大仰に胸を叩く横島の様子を見ると、わき上がりかけたそれが、喉奥に落ちるようにすうっと引っ込んだ、そのことに。
きっとそれが、霊能力や他の何よりも一番、ゴースト・スイーパーにとって大事な事なのかも知れない。そう、シロは思う。
 けれど、その様なことは間違っても口に出さない。彼はもう、ゴースト・スイーパーでは無いのだから。その様なことを今更言う必要は、何処にもない。
 早朝の麻帆良市郊外で、横島とシロにとっては縁の深い二人の女性が、場違いな公道レースを繰り広げる事となる――その前日の出来事である。










タマモ登場――あれ? こんな筈では(笑)

何だか作中の年代設定がむちゃくちゃになりつつありますが(KERSは今年から採用された新装備ですし、おキヌちゃんのフィアットは2007年発売)
まあ、その辺りは暖かい目でスルーしてください。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・彼女達の来訪
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/05/28 21:06
 夜の校舎という舞台には、怪談がつきものである。
 しかし、夜になれば無人になる施設というのは、何も学校だけではない。そう言う場所は大概、灯りの落ちた真夜中には大概気味の悪いものではあるが――何故に、学校に限って、学校の怪談だとか学校の七不思議だとか、必ずそう言うものが存在しているのだろうか?
 それは思うに、昼と夜とで、見せる姿が全く違うから。学生の喧噪に満ちあふれた昼間と、物音一つしない夜。何処に行っても誰かと出会う昼間に、がらんどうの夜。その“落差”が、夜の校舎をいっそう異質な空間へと変えるのだろう。
 多分に漏れず、ここ――麻帆良学園本校女子中等部の校舎もまた、夜間は静寂に包まれている。
 そんな三年A組の教室から――小さく、誰かの声が聞こえたような気がした。
 とても弱々しくて――寂しそうな声が。




「とかいう話なら、聞いたことがあったけど」
「ありがちな話と言えば、ありがちな話ですが――その話の出所は?」
「……木乃香」
「微妙ねえ……」

 思い出したように語った明日菜に、あやかは苦笑し、和美は腕を組んで首を傾げた。彼女の脳裏には、おっとりとした性格のくせに、オカルトや超常現象には目がない変わった少女の姿が浮かんでいる。
 聞くところによれば彼女の実家は、大きな寺だとか何だとか、そう言う関係であるらしい。しかし彼女自身は単なる女子中学生。横島やシロのようなプロフェッショナルではない。つまりは、単純な“趣味”である。
 そして、“趣味”として語られるオカルトほど、信憑性の低い話もあったものではない。

「全部が全部、そんなに馬鹿には出来んけどな。うちの高校には、毎晩ピアノを弾きまくるはた迷惑な妖怪と、魔法の絵の具から湧いて出たドッペルゲンガーの教師と――ついでに“青春”が口癖の机の妖怪がいたぞ」
「……横島さん、それ、何処までが本当?」
「認めたくはねーけど、全部」
「学校の怪談って――ねえ、ひょっとしたら、うちの学校にも――ほら、トイレの花子さんとか?」
「やめてよもう! 明日からトイレ使えなくなっちゃうじゃない!」

 ただの怪談話ならば、笑って過ごせたところだ。しかし自分たちが今、実際に奇怪な事件に遭遇していて、おまけに怪談を語るのが、その道のプロとなれば――いくら馬鹿馬鹿しい話だとて、笑って聞き流すのは難しい。冗談めかして言った和美に、明日菜が反論するが――和美の方もまた、多少なりとも顔色が悪い。

「あ、いや、別に脅かしたわけじゃなくて。どうせその連中だって、多少はた迷惑なだけでそんな恐ろしげなモンじゃねーしな。机の妖怪とは、この間一緒に飲んできたばっかりだ」
「はあっ!?」

 流石にその一言には、あやかですらも整った顔を埴輪のように変えて――ものすごい勢いで、横島の方へと向き直る。

「よ、妖怪と一緒に、飲みにですか!?」
「口を開けば青春青春と、まあ暑苦しい奴ではあるんだがな。まあ、見た目だけなら結構な美人だし、何かと世話も焼いてくれるし――はっ!?」
「先生――その話、拙者は聞いてないで御座るよ? 先日の朝方帰ってこられたのは――ひょっとして、愛子殿のところに?」
「ば、馬鹿言え! あれは学園長との“話し合い”の一環で――俺も愛子もアルコール入っちまったから、車の運転も出来ねーし、学園長と“あの娘”の“話し合い”のほうは時間かかりそうだったし――学園長ほっといて代行運転で麻帆良までってわけに、ほら、いかねーだろ?」
「……愛子殿のところに、いたのでござるな?」
「……はい」

 口を滑らせたとばかりに、口元を抑えたときには遅かった。口元に柔らかな笑みを浮かべ――しかし、目元だけは全く笑っていないシロが、横島の顔をのぞき込むようにして問いかける。
 自分よりずっと年下の彼女が放つ威圧感。それに耐えきれず、横島は視線を逸らしながら小さく頷いた。

「試みに問うが――朝まで、何をしておられたのか?」
「は――不肖横島忠夫。神に誓ってやましいことは」
「その様な抽象的な返答が聞きたいわけでは御座らん。何をしていたのか――単純に、それのみに応えてくだされば良い」
「え、えーと……酔い覚ましにジュースを飲んで、あとは夜中まで思い出話に花を咲かせておりました。その後はいい加減時間が時間なので、シャワーを借りて、ソファで朝まで寝ておりました」
「……」
「……本当です」
「……ま、良かろう」

 小さく鼻から息を吐いて、体の力を抜いたシロに、横島はほっと安堵のため息を漏らす。

「ただし」
「ひっ!?」
「次からその様なことがあるならば、ちゃんと連絡を入れてくだされ。拙者もあげはも――少しは心配しておったので御座るから」
「……気をつけます」

 いつしか畳に正座し――深く頭を下げる横島を見下ろしながら、シロはまだ少し不満そうにしながらも、小さく頷いた。

「えーと、もういいかな」

 おずおずと、和美が彼女に声を掛ける。そこでシロははたと我に返り――何かを誤魔化すように、一つ咳払いをした。

「何か途中から、話が全然違うところに行ってたような気がするけど」
「も、申し訳御座らぬ。つい」
「何か新婚さんみたいよね。あなた、このワイシャツに口紅が――とかって」
「あう――拙者、その、あのっ」
「ま、まあ学校の妖怪の話は、だ」

 シロと同じように咳払いをしつつ――この話題から一刻も早く遠ざかりたいのだろう横島が、彼女と和美の間に割ってはいる。

「火のないところに煙は立たぬ――なんて言うけどな、学校の怪談に関して言えば、その限りじゃない。ピアノ妖怪やトイレの花子さんは、うわさ話に込められた祈りのようなものが――偶然、一種の術式を成してしまう事がある。つまり、単なる馬鹿馬鹿しいうわさ話が、本当に妖怪を生み出してしまうんだ」
「そんなことが、あり得るのですか?」
「珍しい話じゃない。大事に使った人形だとかには、魂が宿るっていう話、聞いたこと無いか? 九十九神とかって――それとは微妙に違うんだけれど、まあ、似たようなもんだよ」

 あやかの疑問に、横島は肩をすくめてみせる。とまあ、美神さんの受け売りだけれど、と、言わなくても良いことをいちいち付け足して。

「身近なところで言えば、あやか殿や和美どのは、幼少のころに“こっくりさん”だとかをやったことは御座らぬか?」
「……私はそのような怪しげな遊びは」
「あ、あたしやったことあるよ。何かね、本当にすーって、指が動くの」
「それはたいてい、単なる不覚筋動――腕の筋肉の無意識な動きで御座る。それに、あれは大概複数の人間が硬貨に指を置くので、自分一人の意識とは違う動きをしても当然で御座ろう」
「えー、何か夢がない」
「んな怪しげな事に夢を求めんじゃないわよ」

 気味の悪いものを見るような顔をしながら、明日菜は和美に言う。シロはそれを見て小さく微笑むと、話を続けた。

「されど、あの遊びは時として、本当に何かに取り憑かれたようにおかしくなってしまうことがある。ま……それも大概は、硬貨の動きに、自分で自分を催眠術に掛けてしまっただけというオチで御座るが――ごくまれに、本当に何かを呼び込んでしまう時がある。遊びとはいえ、儀式の体面を取り、そしてただの遊びに、本当に強い念を込めた人間がいたとしたら――」

 気味の悪い震えが、腰から背中をはい上がるような錯覚を、少女達は覚えた。シロの言うことは、テレビの特番などでも時々言われていることだが――やはり、その道の“プロ”が言うと、重みが違う。ましてやゴースト・スイーパーは単なる拝み屋ではなく、国に認定されたれっきとした資格なのだ。

「そ、それでは――私たちのおもしろ半分の会話が、不思議な存在を生み出してしまった、と?」
「だとしたら話は簡単なんだけどな」

 おそるおそる言ったあやかに――しかし横島は、小さく息を吐く。

「実のところ“学校の怪談系”の霊障と言えば、まずその線を疑ってみるのが業界の鉄則だ。だが――今回の場合は、ちょっとな」
「あ、例の机」
「その通りで御座る。単純に、机は単なる物体。まあ、愛子殿のような例外もあれど――」

 シロは鋭い目線を一瞬、横島に向ける。横島は咄嗟に彼女から視線を外し――しかし、その視線は、あてどもなく宙をさまよう。果たして――

「そこで和美殿の胸にでも目を向けようものなら、拙者とてもはや我慢出来ぬ」
「え?」
「向けねえよっ! ――つまりあれだ。幽霊だか妖怪だか知らないが、そう言うものが実際にいたとしても――教室に机を置いたのは、ただの人間だろう? そう言う話だよ」

 考えてみれば、その通りである。
 その謎の存在が、幽霊なのか妖怪の類なのか――厳密にはその二つは全く違うものなので、同列に語ることは難しいが、ここで気になるのはそれ自体ではない。幽霊ならば、何らかの原因で人の魂がその場に留まっているのだろう。妖怪ならば、発生の経緯はともかくとして、そこがその妖怪の住処と言うだけの話だ。
 しかし――机は違う。
 それは単なる、学校の備品だ。少女達は知っている。“謎の机”は、教室で自分たちが使う机と全く同じものである。確か天板の下あたりに、メーカーの刻印も刻まれている。
 この机ばかりは、どこからか湧いて出た、というものではない。人為的に、そこに置かれたものなのだ。

「つまり――どういう事?」
「とりあえず、“学校側の人間”に聞いてみるのが手っ取り早いだろ。とはいえこの学園、一筋縄じゃいかねーからな。とりあえずわかりやすそうな――」

 横島家の玄関で、呼び鈴が鳴った。

「こんにちは――ネギですけど」

 彼女らのよく知る、少年の声と共に。




「あ――しゅ、出席簿に載ってますよ! 出席番号一番、相坂さよさん――ねえ、明日菜さ――へぶっ!?」
「あんたは!! “載ってますよ”じゃないでしょうが! こっちに来てからずっと、あんたその怪しげな空席のことスルーしてたわけ!?」
「だ、だって色々と忙しくて――誰も気にしてないみたいだったから、記載ミスかと思って」

 持参した顔写真入りのクラス名簿を開いたネギが、素っ頓狂な声を上げ――明日菜はその頭に、軽く拳を落とした。
 確かに、ネギの言うことももっともだ。その机は、ネギが教師を始める前からそこに存在していたわけで、その事について誰も何も触れないならば、問う機会を逸してしまえば、むしろその存在すら忘れてしまうだろう。授業計画の組み立てや、テストの作成と採点、生徒の進路相談など――教師としての通常業務に加えて、“魔法使い”のゴタゴタを一身にかぶるネギが多忙であるというのは、本当のことである。今の今まで頭から抜け落ちていたからと言って、彼を責めるのは酷だろう。
 実際にあやかが歯を剥き出しにして、明日菜からネギを奪い取り、その頭を撫でてやる。そうなると、自分が一人悪者になったような気がして明日菜としては面白くない。ネギを挟んで、あやかとのにらみ合いが始まる。

「……どうだ、シロ?」
「ふむ――少々古い写真であるが、このお方に間違い御座らんな」

 シロは、指の腹で、出席簿の写真を軽くこすりながら言う。他のクラスメイトの写真が、少なくともここ数ヶ月以内に撮影されたであろう新しいものであるのに対して、その写真だけは、古ぼけた白黒の写真だった。

「これは写真の色が狂っちまってんのかな?」
「どうで御座ろうかな。拙者が見た彼女は、先生に近い白い髪の持ち主であったが――ひょっとすると拙者やあやか殿のような、日本人には珍しい特徴の持ち主かも知れぬ」

 写真の中には、一人の少女が神妙な面持ちでこちらを見ている。今の麻帆良女子中の制服とは違うセーラー服を着込み、真っ白な長い髪の毛を持った、穏やかな顔つきの少女だった。

「で、どうなんだネギ? お前は学校側から、何か聞いてないのか? これ、お前が作ったんじゃないんだろ?」
「はい、それはタカミチ――僕の前任の先生から渡されたものです。あ、そう言えば――クラスの中に一つ、誰も座らない空席があるけど、それを片付けたりしちゃいけないって、タカミチが――」
「あんたはっ! しっかり高畑先生から情報受け取ってんじゃないのよ!! なんでそういつも、あんたは大事なことをうっかり忘れるの!? その年で脳みその老化でも始まってるわけ!?」
「ご、ごめんなさい――っ!!」
「まあまあ」

 放っておけば、明日菜、ネギ、あやかの間で始まりそうな大げんかを、半ば疲れたような顔で横島が制止する。

「明日菜ちゃんも。ネギだって、悪気があって忘れてたわけじゃないんだから」
「悪気があったら許せるわけないでしょう! 全く――あやかだけじゃなく、横島さんもシロちゃんも、ネギには甘いんだから」
「そう言うなって。この年で曲がりなりにも先生が出来る子供なんて、そうそういねーよ。俺や明日菜ちゃんがこいつくらいの時に先生やれって言われたら――知識のあるなしは別にして、出来たと思うか?」
「う……それは、その」

 ばつが悪そうに指を突き合わせる明日菜を見て、横島は小さく笑う。

「んじゃ、話は早い。その“タカミチ”って先生に事の次第を問えば、万事解決だ」
「あ、でも――高畑先生は今、海外に出張中で――連絡が取れないんです」
「……何でまた」

 困ったよう――そして何処か寂しそうに言う明日菜に、横島は肩をすくめる。ネギに怪しげな情報を渡した事と言い――どうせまたぞろ“魔法関係”か。脳裏に、とんがり帽子をかぶったレストランの経営者の姿が浮かぶ。今の自分たちにとって、確かに麻帆良はベストな土地であるが、気をつけなければならない事もあると――

「したって、これはほっとけないでしょう、魔鈴さん」
「え?」
「いやいや、こっちの話。でも弱ったなあ、その先生に連絡が取れないとなると――あ」

 ふと、彼が何かを思い出したように声を上げる。

「そうだよ、幽霊と言えば、その道のプロがいるじゃねえか。確かケイの奴が、もうそろそろ休暇が終わるとか言ってたから、もうこっちに帰ってきてるんじゃねえか?」
「先生――では」

 彼の言葉に、シロが顔を上げる。どうやらこの二人の間では、それだけで通じ合う事が出来る話らしいが――当然子供先生と少女達には、彼らの話が何を意味するのかがわからない。
 仕方なく、明日菜が問う。その質問に、彼は何故か、自分の事を誇るような表情で応えてくれた。

「世界でも指折りの“ネクロマンサー”――魂の声がわかる人間さ」




 明けて翌日の土曜日。結局夕べは諸々の理由から、明日菜達三人とネギ、それに事情を話した折に、逆に話に食いついてきた木乃香と、おまけのカモは、横島邸で一夜を過ごし、玄関先に集まっていた。急遽五人分の食事を追加で作る事となったシロは、目も回るような忙しさではあったが――それでも、何処か嬉しそうであったことは、言うまでもない。
 果たして、まだ眠そうに目をこする者も居る中で――一台の白い車が、横島邸の前に駐められる。

「や――久しぶり、おキヌちゃん」
「横島さんも――お久しぶりです。元気でしたか? ちゃんとご飯は食べてますか? また無茶なことを――」

 運転席の窓が開き、そのドライバーに向かって軽く手を挙げた横島に対して――ハンドルを握っていた女性は、まくし立てるように問いつめてきた。
 腰まで届きそうなつややかな黒髪を持った、美しい女性だった。彫りの浅い、いかにも日本人と言った感じの美しく――そして可愛らしい顔立ちが、おそらくではあるが――彼女を実際の年齢よりも、少し幼く見せている。
 やがて焦れたようにシートベルトを外し、ドアを開けて外に出てきた彼女は、車いすに座る横島の手を、両手で握る。

「ちょっと、おキヌちゃん。俺なら大丈夫だから」
「そんなこと言って――また、ちょっと痩せましたね?」
「……いや、何というか――この前ちょっとした事件がありまして」
「……もう。いいですか横島さん――あなたには、言っても仕方ないことかも知れません。無茶をするなとも――言えません。あなたが無茶をするのは、いつも誰か他の人のためですから。私だって――でも――それでも辛いんですよ、こっちは、それなりに」
「シロにもあげはにも言われたからさ、大丈夫。もう、変なことはしません」

 その言葉に、おキヌと呼ばれた女性は、小さく眉を動かす。ややあって、彼女は小さくため息をついた。

「もう……これだから横島さんは」
「え? どったの?」
「何でもありません! って、あれ? ――この人達は?」

 そこでようやく気がついた、と言う風に、彼女は横島の周りに立つ少年少女に目をやった。もっとも三年A組の面々にしてみれば、この女性の勢いに飲まれてしまい、ただ驚いたような目で彼女を見ているしか出来なかったのだが。
 ――そこでようやく、己がここに来てからこちら、白髪の青年しか見ていなかった事に気がついたのだろう、彼女は小さく頬を染め――一つ、咳払いをした。

「えーと……初めまして、私、氷室キヌって言います。親しい人には、“おキヌ”って呼んでもらってます」

 小さく頭を下げた彼女――おキヌに、慌てて麻帆良の面々が返事をする。

「あ、あの、ネギ・スプリングフィールドです。ええと、犬塚さんの担任をさせてもらってます」

 その中でも、流石に、スーツ姿の少年が放った一言には、彼女も驚きを隠せなかったのだろう。小さく口に手を当て――目を丸くする。

「えっと――あなたが、シロちゃんの先生なんですか?」
「は、はい」
「ええと横島さん――確か、日本には労働基準法って法律が――」
「ストップ。その先は言うなおキヌちゃん。美神事務所に勤めてる君が、その言葉を口に出しちゃいけない」
「……あ、あはは……」
「あの――美神事務所って、その」
「あ、うん――正規の所員には、ちゃんとした給料出るんだけどさ――なんて言うか、その、ねえ?」

 流石に、これから先、自分たちが社会に羽ばたいていく時のことを、まだ遠い未来の事として捉えるしか出来ない少女達に、うかつな事は言えまい。具体的には――時給二百五十五円とか、日給三十円だとか。
 果たして、かつて苦楽を共にした二人は、未来ある少年少女達達が怪訝な顔をする前で、乾いた笑いを浮かべるしか出来なかったわけであるが。

「和やかに談笑してるところ悪いんだけど――おキヌちゃんって、ひょっとして私の事嫌いでしょ?」

 唐突に響いた声に、一同の視線が、声のした方に向かう。
 果たしてその先には、一見して人目を引くスポーツカーにもたれかかり――それ以上に人目を引く美女が、不機嫌そうな顔をして立っていた。




「美神さんと魔理ちゃんは?」
「美神はこれを機会にたまには家族で顔を揃えようって、美智恵から言われたとかで。ひのめと美智恵の旦那と一緒に、デジャヴーランドに行ってるわよ」
「えーと……それで、魔理さんは、休暇がそろそろ終わるからって、タイガーさんと――」
「……あのクソ虎は、いつか決着を付けねばならんようだな」

 何かに対して暗い感情を燃やす横島は――当然、その時におキヌが浮かべていた表情に気がつかない。それを何となく聞いていた和美は、以前シロから聞いた話――この白髪の青年を慕う女性は、程度の差はあれ両手の指で足りるかどうか――そんな話を思い出した。
 彼と近しいとは言えない自分には、彼の魅力はわからないけれど、それこそ彼が“半端でない”男であるのだろうと、そう思った。

「それでこっちにはケイが来てる筈だけど? 姿が見えないわね」
「……知るかよ、あんな西条弐号機の事なんざ」
「ケイ君、どうかしたんですか? 横島さん、ケイ君と喧嘩でも?」
「別に、何でもねーよ」

 不満そうに言う横島を尻目に――苦笑を浮かべながら、シロが言う。

「ケイ殿は近頃、拙者のクラスメイトと仲が良いので御座るよ。今日は確か、先日の“詫び”だとか何だとか理由を付けて――センター街の方に、二人でデートに」
「え!? 嘘! あのケイが!? 横島と並び称されるあの朴念仁が!? ってか、相手があんたのクラスメイト!? 大丈夫なの、それ?」
「タマモちゃん、それはちょっと言い過ぎじゃ――でも、本当に意外」

 その冷酷な雰囲気さえ感じる程の美貌に似合わず、あまりにもと言えばあまりにもな大声を上げたタマモに、おキヌが軽く釘を刺すが――彼女自身、少なからぬ驚きを感じているようだ。

「ちょっと待って、あたしそれ初耳。ケイって――あのバイクに乗ってた人でしょ? しかも割とイケメンの! それがうちのクラスの奴と!? 誰、誰なの!?」
「あ、あう、和美、殿、少々、落ち着かれよ」

 そしてその情報は、“麻帆良のパパラッチ”の燃料タンクに火を付けてしまったらしく――和美はものすごい勢いで、横に立っていたシロの襟首を掴んで前後に揺さぶる。ため息混じりにあやかがそれに割って入り――どうにか、シロは再び、肺に酸素を取り入れる事に成功した。

「ごめん、つい興奮して――」
「けほっ……まあ、あの二人の事で御座るから、あまり色気のある話でも無いような――しかし今はそっとしておいた方が良いと、拙者としては思うが」

 そう言われてしまうと、和美としてもそれ以上、この場で食い下がる事は難しくなる。とはいえ――冷静に考えてみれば、目星はつくのだ。近頃このクラスで、様子が変わった人間あたりが怪しいところである。一人は、不思議に態度が柔らかくなったエヴァンジェリン。だが、彼女には悪いが、彼女が男と連れだって歩いている様子というのが、どうも和美には想像できない。
 となると、あとは――

「だから詮索はよしなさいって、顔に出てるわよ」
「あたっ」

 明日菜が和美の後頭部を軽くはたき、そこで思考を中断させる。彼女は不満そうに頭をさすりながらも――“今は”大人しく、彼女の言うことに従った。
 確かに今は、他人の色恋に食いつくよりも先に、解決しておきたい事がある。何せ――何かあったときに、真っ先に被害を被りそうなのは、他ならぬ自分自身なのだから。

「それで」

 金髪の美女――“タマモ”を名乗る彼女が、一同を見回し、腕を組む。その際に、スーツの胸元を押し上げる豊かなふくらみが更に強調され――何故かシロは、そこから悔しそうに視線を外す。
 あれで体型の事でも気にしていたのだろうかと、それを見ていた明日菜は少し意外に思うが――まあ、彼女も、一途に一人の男性を想う恋する乙女なのだ。確かにあの美貌とスタイルは反則だろうと、明日菜も思う。
 ただ――「アレは所詮紛い物」と、念仏のように呟く意味は、彼女にはいまいち理解できないものだったが。

「それで――朝っぱらからこんだけ人が集まって、何かあるわけ? 横島がシロの友達を集めてハーレム作ろうってわけでもないんでしょ?」
「待てや貴様。お前は一体俺の事を何だと思ってるんだ?」
「何って、永遠の煩悩少年でしょ?」
「俺は確かに元煩悩少年で、今は煩悩青年だが、外道やない!」
「どうかしらね」

 目を細めて笑うタマモに、横島は腕を振り回す勢いでかみつき――シロが首を振りながら、一歩前に進み出た。

「先生、落ち着くで御座る。女狐の戯れ言はいつものこと――タマモ、お主も、下らぬ事を言って先生を挑発するのはよさぬか。全くはしたない」
「ちょっ……シロちゃん?」

 明らかに年上であろうタマモに、半ば挑発するような口ぶりで言うシロに、明日菜は動揺してしまう。
 しかし果たして――金髪の美女の顔に浮かんでいたのは、楽しそうな笑みだけだった。
 ややあって、横島が疲れたように言う。

「あー、実はな。ちょっと相談したい事があるんだよ――おキヌちゃんに」
「私に?」

 少年少女の視線が、自分にむけられている事に気がつき――黒髪の美女は、怪訝な顔で自分を指さした。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・午前、彼女の足跡
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/05/31 10:04
 それは単純な問題だった。兎にも角にも、まずは件の“幽霊”が居るという、麻帆良女子中は三年A組の教室に行かなければならない。だが、人数が多いため、自然、車で移動をするには分乗する必要がある。
 やはりと言うべきか、彼らの車の中では特に異彩を放つタマモのガヤルドには、進んで乗りたがる者は居なかった――ただ一人を除いては。

「かっこええ車やなあ……タマモさん、やったっけ? うち、助手席に乗させてもろてもええかな?」
「構わないわよ」
「おおきに――靴とか脱いだ方がええですか?」
「別にそんなこと気にしないわよ」

 当然、わくわくとした様子で助手席に乗り込む木乃香に、残りの少女達からの何とも言えない――尊敬とも畏怖とも付かないような目線が集中する。
 しかし果たして、当のその車内では、タマモがサングラスを掛けながら、こちらの様子をうかがう少女達を見遣り――小さく呟いた。

「……羊の皮をかぶった狼なんて言葉――今のあの子らには言わない方が良いんでしょうね」
「ほえ? 何か言いましたか?」
「いいえ、何でもないわ――一応ナビは付いてるけど、“私は”横島の車について行こうかしら」

 言いながら、彼女はエンジンに火を入れる。五リットルもの排気量を持つエンジンが、彼女らの背中で目を覚まし、盛大な咆吼を上げる。木乃香がちいさく“ひゃあ”と、間の抜けた声を出した。
 ふと気がつけば、車庫から出てきた横島の車が、隣に止まっている。助手席にはあげは。後部座席――車いすにスペースを取られて二人しか乗れない――には、シロと明日菜の姿がある。タマモは運転席の窓を開け、横島に言う――遠い目をして、前に駐められたおキヌの車のウインカーが、瞬きするのを眺めつつ。

「……生け贄は決まったようね」
「……ああ」
「……それじゃ、あとは宜しく」
「わかった。途中――道が狭いから気をつけろ。お前の車、横幅広いから」
「ええ……」

 木乃香はタマモの様子が意味するところがわからず、首を傾げる。見れば隣の車の明日菜も、不思議そうに横島の顔を眺めていた。
 もっともその意味するところは、すぐにわかることになるのだが。

「……ほえ――飛んどる――……」




「僕は――僕は、光を見た。あれは一体、何だったんだろう……」
「……トイレを済ませておいて良かったですわ――」
「……委員長、あたし、結構ヤバい。ね、何かビニール袋とか……持ってない?」
「ちょ、ちょっと朝倉さん! こんなところで――ああ、私だってまだ足がふらふらするんですよ!?」

 果たして横島とタマモの車が、麻帆良学園女子中学校の来客用駐車場に到着した時――ネギは駐車場の真ん中に立って空を見上げ、あやかはふらつく足取りで、和美の肩を支えて近くの茂みの中へと入っていく。
 付け加えるならば――ネギの足下には、“白い干物のようなもの”が落ちていて。それは小さく痙攣を繰り返していた。
 そして白い小さな車の脇で――おキヌがただ一人、困ったような顔をして立ちつくしていた。

「……おキヌちゃん、何があんたをそこまで変えたんだ?」
「え? あ、あはは……い、一応は抑え気味にしたつもりなんですが――」
「まったくおキヌちゃんも変わったわよね。美神事務所唯一の良心だとか言われてたあの頃が懐かしいわ」

 わざとらしく、意地の悪い笑みを浮かべながらタマモが言う。
 さてそんな彼女に、横島は、初めておキヌと出会った時のエピソードを、いい加減教えてやるべきだろうかとふと思った。流石に事情が事情だったとは言え――昔から、妙な方面には突き抜けた少女であったと、彼は思う。むろん、自分を棚に上げてではあるが。
 それを考えると――彼女は“変わった”と言うよりも“成長した”と言うべきだろうか?

(いやまあ、別に今のおキヌちゃんが駄目ってわけじゃないけどさ)

 空を見上げて小刻みに震えている少年と、茂みにうずくまって、足下のおぼつかない級友に背中をさすってもらっている少女を、なるべく視界に入れないようにしつつ――横島は言う。

「とりあえずあれだ、シロ、俺たちが何の許可も無しに女子中の教室に上がり込むのは、流石にまずいだろ。ネギの奴はあの調子だし、ひとっ走り職員室にでも行って、許可貰ってきてくれねーか?」
「……先生が女子校に入ると言うのに、まともなことを」
「いい加減俺だって世間体くらい気にするし、中学生に手を出すほど――」
「飢えて無いって? へー、そーお。ふーん……ま、そう言う言い方をすれば、そうかもね」
「何だよ、何か文句あんのかよタマモ。あとそのサングラス外せ。何か腹立つ」

 不機嫌そうに手を振る横島に、タマモはにんまりと笑いながら、サングラスを外して胸のポケットにしまう。どのみち、自分が口げんかで彼女に勝てる道理などない。小さく息を吐いて、すぐ側の麻帆良学園本校管理棟に入っていくシロと明日菜の背中を、目で追う。

「さて――シロと明日菜ちゃんが帰って来たら、早速ご対面と行きますか? 三年A組の奇妙な机――そこに居る“幽霊”とやらに」




 “彼女”は、もう随分長い間そこにいた。
 何故自分がそこにいるのか、彼女にはわからなかった。そして自分が何をすればいいのかも、わからなかった。
 だから彼女は、ただただ、そこに存在していた。
 気がついてもらえない事が、苦しいと思った。夜の静寂が、恐ろしいと思った。けれど不思議と――がらんどうの筈の自分に宿る心は、壊れることが無かった。
 自分の記憶を――自身がここにいることに気がついてからのそれであるが――辿ってみても、恐ろしく思う。いっそ壊れてしまった方がどれだけ楽になれるだろうかと、そんな風にさえ思う。
 誰も気がつかない鳥かごの中に閉じこめられた小鳥は――果たしてどれくらい“生きて”いられるのだろうか? そんなことを考えて――ようやく彼女は気がついた。
 自分は既に、死んでいるのだ。
 だから壊れない。だから終われない。ただただ流れる時間を、ひたすらに魂に刻み込んでいくだけの存在――それが、自分。昼間の喧噪も、夜の暗闇も、川面に映る景色のようなもの。手を伸ばしても触れることは出来ず、ただ自分の前を流れていく。その流れ着く先を自分は知らず、また川の流れも、自分とは無関係に存在する。
 もっと深くに――心を閉じこめてしまいたい。
 そうすれば、きっと自分は川面を眺める誰かではなく――川が流れる景色の一部となるだろう。そうなればきっと、何も考えずに済む。
 何故自分がここにいるのかも――自分が何処へ行くのかも考えることなく、ただいつまでも――

「お目に掛かるのはこれが初めてと言うわけではないが――改めて名乗ることとする。拙者、犬塚シロと申す者――不思議な机の主よ、お主は一体、何者で御座る?」

 だから“彼女”は、その声が自分に掛けられているものだと言うことに、しばらく気がつかなかった。




「五十年――かあ」

 湯気にかすむ天井を見上げて、和美は小さく呟いた。
 麻帆良学園本校女子寮大浴場――そこらのスパリゾートを軽く凌ぐ規模を持つ、麻帆良学園の名物の一つである。当然男子寮にも同じ規模の浴場があるわけで――きっと麻帆良学園の寮を設計した人間というのは、よほどの風呂好きだったに違いないのだろうと、彼女は思う。
 思考の片隅でそんなくだらない事を考えつつも、彼女は、彼女にしては珍しく、静かなバスタイムを過ごしていた。その気になれば、一度に百人が入浴してもかなりの余裕がある、まさに“大”浴場ではあるが、ピークの時間を過ぎているせいか、土曜の夜と言うことでそもそもピークが存在していないのか。今のこの時間、彼女以外に湯船に浸かっている寮生はまばらだった。
 もっとも、今はそれが都合が良い。
 友人と一緒に汗を流すのは楽しいことであるが――今は、あまり他人と会話がしたくない。
 だから彼女は、湯船の縁に頭を預け――じっと天井を見上げていた。

「のぼせるわよ」

 不意に声を掛けられて、そちらを見てみれば――いつしか、少し離れたところで、明日菜が湯船に身を沈めている。

「あー、うん。ほどほどにしとく」
「考え事するならお風呂場はよしなさいよ。湯あたりしたら後が面倒なんだから」
「あー、でもね、落ち着いて、余計なこと考えずにぼーっと出来るって言ったら、割と良い場所じゃない? 体はリラックスするし――自分の思考の海に、自分が落ちていく感じって言うか」
「それは単にのぼせてるだけだってば」

 和美の言葉に苦笑しながら、明日菜は湯で顔を洗った。

「明日菜――自分が覚えてる一番古い記憶って、何?」
「……何だろう。そう言われるとちょっと――高畑先生のところで――何だか何かが嬉しくて、それを必死に言おうとしてる――そんな記憶はあるんだけど。それが何かはわからない――曖昧だよね。それが?」
「それが、たかだか十年かそこら、前の話」

 和美は明日菜の方を見ずに、天井を見上げたまま――同じ調子で言葉を紡ぐ。

「小学生の頃の事を覚えてる? あたしにはもうそれが、遠い昔の事に感じられる」
「……“相坂さん”の事?」
「うん」

 特に躊躇う様子もなく――彼女は頷いた。その動きが起こした小さな波紋が、お湯の上をゆっくりと広がっていく。

「五十年も――あの娘は、どんな気持ちで過ごしてきたんだろうね」
「……それは――わからないわ。おキヌさんが言ってたじゃない。幽霊が感じる時間は、生きている人間とはまるで違う、って」
「でもおキヌさんは、相当事情が特殊だったんでしょう? でも――明日菜、あたし思うんだ。学生時代の特徴って何だと思う? 一年が、一つの季節が、一ヶ月が、一週間が、一日が、一時間が――とにかく、“時間を積み重ねる”事がすごくはっきりしてる」

 春になれば新学期を迎え、期間の中頃と終わりには決まってテストがある。それが終わればそれぞれの季節を肌で感じる休みへと入り――そもそも、一週間がはっきりと区切られ、更に一日が、時間割という細かい時間の積み重ねによって成り立っている。

「ただただ何処かに居るだけなら、気がつけば時間が流れている――あたしもね、そんな経験あるよ。それが証拠に――夏休みって、ものすごく時間が経つのが早く感じるじゃない?」
「……」
「けれどあの娘にとっては――ね。回り続ける時計の針を、ずっと眺め続けて――そんな時間が、五十年。あたしだったら――耐えられないな」
「朝倉――どうしたのよ。あんたらしくもない。きっと、横島さんやおキヌさんが何とかしてくれるって。私たちがここで悩んだって――私たちは、霊能力や魔法使いじゃない――」

 明日菜はうっかり口を滑らせる。しかし、和美からの反応は特にない。おそらく、“魔法使い”という言葉を、霊能力者という異質の存在に対する比喩であると判断したのだろう。彼女はほっと胸をなで下ろし――自分も思考の迷宮に填り込み、余裕が無くなっているのだろうかと、一人自嘲する。

「……魔法使いじゃ無いんだもの」
「わかってる。だから、これはあたしの自分勝手な気持ち」

 そう言った和美の言葉に――不意にシロの姿が重なった。そう言えば彼女はエヴァンジェリンと対峙したときに、そんなことを言っていた。
 だから、明日菜は、彼女に言う。

「それはきっと悪い事じゃないと思う」
「そう? ……ありがと。ああ……世界って、わからない。わからないことだらけ。納得できない事だらけ――あたし、そう言うのが嫌いで、この道に進むって決めたのに」
「それじゃあ朝倉は、世界の全てを解き明かしたいの? 全てを解き明かしたら、満足するの?」
「……いんや、もしそんなことになったら、なんてつまんない……って、思うんだろうね。痛いトコ突くじゃん、明日菜」

 和美にそう言われて、明日菜は小さく舌を出す。そこで初めて二人の視線が交錯し――二人は同時に、小さく笑った。

「どうするんだろうね、難しいんでしょ? おキヌさんが言うには」
「うん――相坂さんは、悪霊じゃない。だから、余計に難しいって、おキヌさん言ってた。でも――あの人達なら、ね。それに朝倉は、そんな風に相坂さんを悲劇のヒロインみたいに言うけど――あの娘、そんなに“イイ”性格してた? それとも長湯しすぎて、昼間のことはもう忘れちゃった?」

 明日菜の苦笑に、和美は同じような笑顔で返す。確かに自分は、こうやって一人で彼女の苦労を思って、柄にもなく考え込んだりしているけれども――昼間に出会った彼女は、まるで――

「何せ――私らの“クラスメイト”よ?」
「そうだよね。クラスメイトを“除霊”ってのは――後味が――……」

 和美はそこで言葉を切り――うつむき加減に、揺らめく浴槽の水面を見つめていた。
 二人とも、どちらからも言葉を発しない。形容しがたい居心地の空気が、周囲に流れ――

「……? ちょ、和美!? ほら、言わんこっちゃない!!」

 唐突に、湯船の中に沈み始めた友人の体を、明日菜は大あわてで引き上げる羽目となった。




 時間を遡り、彼女らに刻まれてまだ間もない記憶――その日の午前中、麻帆良学園本校女子中等部の廊下を、一同は歩いていた。

「――すげー立派な学校だな。俺の通ってた中学とは大違いだ」
「麻帆良学園は、歴史のある学校だって聞いてますから」

 廊下を歩きながら感心したように呟く横島に、ネギが嬉しそうに言う。やはり彼も“教師”を自負している以上、自分の学校が褒められるのは嬉しいのだろう。

「幽霊が現れるには場違いな雰囲気ね。それほど嫌な匂いもしないし」
「そうね――何か霊的な面でも考慮がされてるのかしら。六道女学院の雰囲気に、ちょっとだけ似てる」

 タマモが周囲を見回しながら言い、おキヌもそれに同意する。その遣り取りを見て、彼女たちは確かに“プロ”なのだろうと少女達は思ったが――そもそもが、自分たちには全くわからない感覚なので、果たして不思議そうな顔で彼女たちを見つめるしかない。
 そんな様子を察したのか、横島は言った。

「うちのシロも“霊視”――つうか、霊を関知する事に関しちゃ、そうそう右に出る者はいねーけどな。そう言う意味じゃ、この二人も、霊能者の中じゃ別格だよ。タマモはシロと同じで気持ち悪いくらいに鼻が効くし、おキヌちゃんはその気になれば――」

 横島はそこで言葉を切り――おキヌの方を向いて言う。

「えーと、覗きの神様の特訓を受けてた事があるから」
「誤解を招くような言い方をしないでください!」

 完全に間違っているわけでないのが嫌ですけど――と、おキヌは頬をふくらませながら言う。その仕草は、大人の女性がするには少々幼いものだったけれども、不思議に彼女がやると違和感は無い。さりとて、彼女が子供っぽいと言うのではなく――出会う人間を和やかな気分にさせる。そういう不思議な雰囲気が、彼女にはある。

「いや……ヒャクメの奴をして“神の目”ってのも……」
「それはヒャクメ様に失礼でしょ。役立たずの代名詞みたいな言われ方されてますけど、やる時は――……やる、の、かなあ?」
「……あんたも大概言うようになったわよね、おキヌちゃん」

 聞けば彼女は、覗きの神様――もとい、全てを見通す“神の目”を持つ“神様”の指導を受けたことがあるのだという。その時は、かの女神の力を借りてのものであったが、彼女自身の力が底上げされなかったわけでは、当然無い。
 果たしておキヌは、こと“霊視”にかけては、霊能力者の中でもかなりの力を持っているらしい。
 もっとも年頃の少女達は、それを自分の事のように誇らしげに語る横島と、照れくさそうに頬を染めるおキヌ――そして、喜んで良いのか悔しがるべきなのか、非常に微妙な視線で二人を見つめている二人の少女の事が、彼女らの持つという能力以上に気になって仕方がなかった。むろん、それを口に出すことが出来た勇者は居なかったけれども。

「ここです」

 そう言って、ネギは一つの教室の前で足を止め、職員室から借りてきた鍵を使って、ドアを開ける。
 当然と言えば当然だが――いつもはお祭り騒ぎで満ちあふれている三年A組の教室も、休日の朝である今は静寂の中にある。誰もいない空間に、整然と机と椅子だけが並ぶ光景は、何処か現実離れしてさえ感じられる。

「懐かしいね、この“教室の匂い”って奴は」
「あんたが言うと変態くさいけどね」
「人がしみじみと過去に浸ってるところに、何てことを言いやがるこのクソ狐」
「じゃあ、ここがどんな匂いなんか言ってご覧なさいよ。その答、的を射てるかどうか私が確かめてあげるわ」
「そりゃお前、年頃の少女のフローラルな香りが――はっ!?」
「人間として終わってるわね」

 杖を放り出して悶え始めた横島と、それを氷のような瞳で見下ろすタマモ――この二人は、ここに何をしに来たのかが理解できているのだろうかと――そんな風にさえ思わせるのもきっと、彼らなりの、緊張のほぐし方――自分たちに不安を抱かせまいとする気遣いなのだろう。無垢な少女達は、そう納得することにした。

「……あれは半分以上本気で御座ろうが」

 小さく聞こえたその声は、聞こえなかった事にして。

「さて――横島が人間終わってるのは前々からわかってたからいいとして。問題の机って言うのは、どれ?」
「左端の窓際で御座るよ」
「これ? ……普通の机ね。愛子の机みたいに、何か見た目からして違うのかと思ってたけど――」

 シロに言われて、タマモは恐れる様子もなく、件の席に近づくと、机の天板を撫でたり、椅子を引いてみたりする。ややあって彼女は、少し離れたところで様子をうかがっていた少女達に、苦笑混じりに肩をすくめて見せた。

「……かすかに霊気の匂いがする。でも――肝心の“幽霊”とやらは、いないわね?」
「左様――はて、彼女は自縛霊の類では無かったので御座ろうか――?」




 それからが一苦労だった。“相坂さよ”――ネギの持つ出席簿にはそう記されていた“幽霊”は、人間には感知できない程微弱な霊の気配を容易く嗅ぎ分けるシロにさえも、希薄に感じられる存在である。それでもかすかに残る霊気の匂いを頼りに、彼女を捜してみようと言う話になったのだが――

「というわけでシロ、あんたやりなさい」
「……もとは拙者の言い出した事で御座るから、文句は御座らぬが――何だか釈然とせぬものを感じる」
「仕方ないでしょ? この格好で地面に這い蹲る訳にもいかないし」
「それは拙者とて同じで御座るよ――まあ、何とか」

 シロは体勢を低くして、小さく鼻を鳴らす。いつだったか、通り魔事件の犯罪捜査にかり出された折には、実際に地べたに這い蹲って匂いを辿ったものであるが――今の彼女は和服であるし、そもそもあのやり方は、何も知らない人間の前でやるには恥ずかしすぎる。

「ふーん、シロにも一応、人並みに羞恥心って奴があったのね」
「喧嘩を売っているつもりならいつでも買うが」
「そう? 昔は人目なんて気にせずに、横島の顔面をベロベロ舐めてた奴が?」

 その一言に、女子中学生三人の視線が、一斉にシロに集中する。彼女は慌てて、両手も交えて首を横に振った。

「む、昔の事で御座るよ! その、あれで御座る。親愛の表現というか――ほれ、当時の拙者は、右も左もわからぬ幼子で御座った故に! タマモ! 拙者の級友の前で、お主は何という事を!」
「だって事実だし」
「ふん――カップうどんの油揚げ程度に、己のプライドをへし折ったお主に言われたくはない」
「……あの時は生きるか死ぬかだったのよ。別に恥ずかしいとは思ってないわ」
「まあまあ、二人とも落ち着いて、ね?」

 にらみ合いを始めた二人の間に、手を打ち鳴らしながらおキヌが割って入る。タマモは腕を組んで舌打ちをし――シロは彼女から視線を外して、小さく鼻を鳴らした。その顔は、まだ少し赤い。
 そんな様子を眺めていて、好奇心を刺激された――と言う程度でもないが、和美は何となく、隣に立っていた横島に問うた。

「あの、千道さんって」
「ん? ああ、タマモね。どーも慣れねーな、その名前は――いや、何でもない。タマモがどうしたって?」

 千道タマモ――そう名乗った金髪の美女を、和美は盗み見る。シロとけんか腰の掛け合いをしてはいるものの、どう見ても彼女は、とうのシロも含めて自分たちとは違う――大人の女性に見える。

「シロちゃんのお姉さん――とかじゃあ、無いですよね?」
「ああ――まあ、あれだけ見たら不思議に思うかも知れないけど――喧嘩友達みたいなもんかな?」
「喧嘩友達――ですか?」
「そう形容するのが一番しっくり来るかな。何、ああ見えて本気で仲が悪い訳じゃなくて――あの二人なりのコミュニケーションって奴だよ」
「お互いツンデレなんですよ、まあ、シロはタマモ相手限定で、ですけど」

 あまりにもと言えばあまりにもな言葉を、横島の隣に立っていた少女――あげはが呟く。自分が聞きたかったのはそう言うことではないのだけれど、その一言で、和美は言葉を継ぐ機会を逸してしまった。
 これでは“麻帆良のパパラッチ”の名が廃ると、いつもなら妙な使命感に燃え上がるところだが、今は不思議とそう言う気持ちにはならない。それこそ愚にも付かないような愚痴を言い合いながら、“幽霊の匂い”という摩訶不思議な存在を辿っていると言うシロに、目線を戻す。
 霊能力の事はよくわからないが、あれで本当に“幽霊”の居場所がわかるのだろうか? 警察犬ではあるまいし――そう言えばこの友人は、横島の匂いならば十キロ先からでもわかると、冗談めかして言っていたことがある。和美は漠然と、そんなことを思い出した。

「そういや和美ちゃん」
「はい?」
「気分はもう大丈夫か?」
「……思い出させないでください。まだ口の奥が酸っぱいんです」

 シロの辿った匂いは、校舎を離れて街の方に続いていた。一体何処まで行くのかわからないが、果たして少し身をかがめて歩く彼女の後ろを、全員がついて歩く、と言う事になる。
 最初横島は、いっそシロが自分の車いすを代わりに使ったらどうかと提案したが、それはシロ本人とあげは、それにネギと明日菜によって却下された。彼は杖を頼りにもどうにか歩くことは出来るが、それでも長い距離を不自由な足で歩かせるわけにはいかないだろう。
 ネギが“認識阻害”がどうのこうのと言いだし、明日菜に叩かれ、あやかがそれに噛みつき、和美が疲れたような顔でそれを引きはがし――という一幕はあったものの、結局何を取り繕うこともなく、シロの後ろを全員でついて歩く。休日の午前中――それも割と早い時間であり、学生の多い麻帆良市という土地柄もあってか、それほど人通りが多くなかったのは幸いではあったけれども。

「……なあ、その“幽霊”は、サマルトリアの血筋でも引いてんのか?」

 ぽつりと横島がそんなことを言ったのは、歩き始めてから一時間も経った頃の事だった。

「何ですかそれは? 何処か高貴な血筋のお方なんですか?」
「あ、すまん。流石にネギの世代にはわかんねーか……おまけにお前はイギリス人だもんな――時々忘れそうになるが」

 真顔で問うたネギに、苦笑しながら、昔のゲームに出てきたキャラクターだと、横島は言う。

「まあゲームだから仕方ないと言えば仕方ないんだが。これがまた驚くほど間の悪い男でな。俺達の世代じゃ、あまりの行き違いっぷりに、コントローラーを投げ出しそうになった奴もきっと居る」
「学のないたとえ話だけど――まあ、気持ちはわかるわね」

 ため息混じりに、タマモがそれに賛同する。
 何せ、一時間――匂いを辿り続けて、その“幽霊”は、未だに見つからない。まさか昔に追った事のある通り魔のように、自分たちを罠にはめようと言うわけでは、間違っても無いだろうが――ならば、このゴールの遠さはいかなることか。

「駅前でゲームセンターに入って、商店街でブティックに立ち寄って、古本屋をうろついて――暇をもてあましてる大学生じゃあるまいし、何で“幽霊”の追跡が、こんな事になってるのかしら?」
「……拙者にも皆目検討がつかぬ。何とも“幽霊”などと言う言葉とは縁遠い道筋では御座らぬか」
「あんたの鼻がおかしくなったんじゃなければね」
「文句があるならさっさと帰れば良かろう。拙者らが頼み事をしたいのは、あくまでおキヌ殿であって、お主などここにおっても何の役にも立たぬ」
「お前も煽るな、馬鹿野郎」
「……だって、先生」
「いいから。実際、お前の辿った道筋に間違いは無いんだろ?」

 シロは何処か不満そうに――しかし、はっきりと頷いた。

「だったらまあ、もうしばらく我慢するしかねーだろ。タマモはどーするよ? シロの言うとおり、面倒だったら帰っても良いぜ?」
「冗談。この私をここまで引っ張り回したその“幽霊”とやらに、一言言ってやらなきゃ気が済まないわ」




 麻帆良学園都市の一角にある、某大手コンビニエンスストアのチェーン店にて。レジに立つアルバイトの大学生は、遠くに正午を報せるサイレンが鳴っているのに気がついて、小さくあくびを噛み殺した。早朝からのシフトも、もうすぐ終了と言うことだ。とりあえず家に帰って一休みしてから――何処かに遊びに行こう。そんな風に考えながら、自動ドアが開く時のメロディと共に入店してきた客に対して、形通りの挨拶を――

「いらっしゃい……ま、せ……?」

 思わず、言葉が詰まる。
 異様な集団であった。何故か腰の辺りを押さえつつ、身をかがめるような奇妙な歩き方をしている和服の少女を先頭に、麻帆良女子中の制服に身を包んだ少女が四人。更にその後ろには、気だるげな表情の美女と、車いすに乗った白髪の青年、それに小学生くらいの少女が並び、長髪の女性が、青年の車いすを押している。
 一体この一団は何なのだろうか? 全員が先頭の少女を追うようにして行動しているから、たまたま入店のタイミングが重なっただけ――と言うことは無いだろう。
 それに――その一団に混じっている、赤毛の小さな少年。バイトの店員は、彼の姿に覚えがあった。確か彼は、数ヶ月前に、麻帆良女子中に赴任してきたと言う、噂の子供先生ではないだろうか? 何でもイギリスの有名な大学を飛び級で卒業したとか何とか――常識が通用しない事も多々ある麻帆良の学生達の間でも、その存在は一時期有名となっていた。
 ではこの一団は、彼の関係者だろうか?
 麻帆良女子中の制服を着た少女達は、あるいはそうかも知れない。だが、金髪と黒髪の女性と、幼い少女、そして白髪の青年もまた、彼の関係者なのだろうか?
 何気なく――と言っても、自然にそうしてしまうだろう、その一団を目で追ってみれば、和服の少女が、雑誌コーナーの辺りで足を止め――背筋を伸ばした。

「お目に掛かるのはこれが初めてと言うわけではないが――改めて名乗ることとする。拙者、犬塚シロと申す者――不思議な机の主よ、お主は一体、何者で御座る?」

 何もない空間に向かって、不意にそんなことを言った少女の姿に――アルバイト店員は、果たしてここに救急車を呼んでやるべきだろうかと、真剣に悩む羽目になる。










「飛んどる」の一説は、
アニメ版「あずまんが大王」からお借りいたしました。

原作に忠実なので面白いアニメではあるんですが、
いかんせん、あの声がなー……

この回辺りから、和美視点が多くなる予定。
さよさんといえば、やっぱり彼女だろうよ。

若干修正の余地あり。精進いたします。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・午後、彼女の存在
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/06/21 10:44
 一人の若い男性が、自分に向かって微笑みかけていた。何故だろうか、自分は彼を知らない筈なのに、その微笑みは、ずっと前から知っていたように、自分を穏やかな気持ちにさせてくれる。

――そうか、教師になりたいのか――

 彼はそんなことを言った。自分の夢はもちろん、教師ではない。かつて見た、光景――今の自分を形作る原因となった、わけもわからない恐怖。その恐怖がどこから来たものなのか、そしてその恐怖を自分に与えた世界とは、一体どのようなところであるのか――それを探求する事こそが、自分の夢。
 そのはずなのに――彼の言葉は、自然と自分のこととして受け止められた。

――難しいでしょうか? 私、あんまり頭も良くないし――

 自分自身の意志とは関係なく、そんな言葉が口から滑り出す。“自分”がその言葉を口にしたという実感があるのに、その音は、まるで映画でも見ているように遠く感じる。
 それこそスクリーンを見ているような違和感を感じる視界の中で、その若い男性は小さく笑う。そして、“自分”の肩に手を載せ――何処かの誰かとよく似た、人なつっこい笑みで言った。

――頭の良い悪いは関係ない。勉強だけが全てではない。もっともその夢が叶えられるかどうかは――

 そして彼は、“自分”の名前を呼ぶ。

――相坂君の頑張り次第じゃのう――

「――倉、朝倉!!」

 突如として響いた少女の声に、意識が覚醒する。そうだ――自分の名前は、朝倉和美。それ以外の何者でもない――などと、ぼんやりとした頭で考えながら、辺りを見回す。
 彼女――朝倉和美は、どうやらソファに寝かされているようだった。少し離れたところに置かれているのは、何台かの体重計と、ロッカーの列。そして自分のすぐ側には、体にバスタオルを巻いた明日菜が立っている事に、彼女は気づいた。

「……明日菜?」
「ようやく気がついた。明日菜? じゃないわよ全く。急に気を失って湯船に沈むもんだから、ちょっとした騒ぎになったのよ?」

 頭を抑えながら、上半身を起こす。体から何かがはがれ落ちる感触があって、肌寒さを感じた。見れば、自分は裸の上にバスタオルを掛けられていただけで、まだ下着すら着けていない。

「うー……服……」
「あんたって奴は、命の恩人にお礼も無し?」
「ごめん――ちょっと、長湯しすぎたみたい。あれ? あたしいつからお風呂に入ってたんだっけ?」
「……調子悪いなら、このまま医務室に連れてくけど?」
「大丈夫。いや、考え事始めたら、他のものがまるで見えなくなるって――あたしの悪い癖なのよね。ん、大丈夫。もう目が覚めたから」

 そう言って和美は、バスタオルを体に巻き付けながら起きあがる。どうやら明日菜と一緒に自分を助けてくれたらしい少女達に軽く礼を言えば、彼女らはほっとした様子であちらこちらに散っていく。

「考え事って――どうしたって言うのよ。麻帆良のパパラッチらしくもない。何だっけ、あんたいつか――」
「報道に感情は要らない。目の前で起こる全てのことを、何のフィルターも通さずに、ただ世界に伝え続ける。それがジャーナリズムだと、あたしは思ってる」
「そう、それ。そういう事言ってたじゃない」
「明日菜。今度の事は商売抜きだってば。何でだろうね――あたし、あの娘の事が、まるで自分の事みたいに感じられちゃうの。本当に、なぜだかわからないけど」

 さっきも、不思議な夢を見た気がする、と、和美は言った。知らない男性が、自分と話をしていた。知らない男性――確かに自分は彼のことを知らないのだけれど、夢の中の自分は、なぜだか彼が誰かを知っていた。そして彼は、自分の事を――

「……駄目だ、よく、思い出せない」
「今は無理するのはやめなさいよ。頭が良い具合に茹で上がってんだから――もう大丈夫なら、私、もう一回お風呂入ってくるわ。このままだと湯冷めしそうだし」
「うん、ごめん。それじゃまた明日――えっと」
「とりあえず、私と木乃香の部屋に集合ね。横島さん達の連絡待ちだけど――ああそうだ、ネギの奴を抑えておかなくちゃ、あいつまた一人思い詰めて暴走しそうだから」
「いいじゃん。結果としてエヴァンジェリンさん、元気になったみたいだし」
「……朝倉はあの時の裏事情を知らないからそう言うことが言えるのよ――あ、ううん、こっちの話。それじゃまたね」

 軽く手を振りながら去っていく明日菜の背中を見送り――和美は、濡れた頭髪を掻き上げた。

「……ドライヤーくらいはかけとこうかな……」

 いっそのこと、このまま部屋に戻って、布団に潜ってしまいたい。何故かわき上がるそんな気持ちに抗って、和美は自分の服を収めたロッカーの方へと向かった。




「お目に掛かるのはこれが初めてと言うわけではないが――改めて名乗ることとする。拙者、犬塚シロと申す者――不思議な机の主よ、お主は一体、何者で御座る?」

 シロがそう問うたとき――その目線の先には誰もいなかった。少なくとも、彼女の後ろに居た少女達には、そう見えた。
 彼女の正面から少し外れたところには、パチンコの雑誌をめくっていた若い男性が立っていたが、当然その言葉は彼に対して投げかけられたものではない。彼は何気なく目線だけをそちらに向けようとして――そこに存在していた異様な集団に気がつき、そそくさと本を閉じてその場所を後にする。

「ああ――驚かれるのも無理はない。普通の人間ならば、お主の姿を捉えることは、かなり難しいで御座ろうから」

 だから見ようによっては、銀色の髪を持ち、和服に身を包んだこの不思議な少女は――頭の中身まで“不思議”なのではないだろうかと、そう思ってしまうのも無理はない。一団の後ろの方に立っていた金髪の美女が、ポケットから何かを取り出し――そのコンビニの店員の方に向き直った。

「一応ね、私たち、怪しい者じゃないわ」

 底冷えがするほどのその美貌に、多少うろたえながらも――店員は、差し出された“それ”を受け取る。それは、カードケースに収まった、一枚のカードだった。

「……対心霊現象特殊作業従事者、千道タマモ――ゴースト・スイーパーですか? あ、あの……うちの店に悪霊が?」
「何て言うか――ふらふらと落ち着きのない幽霊を追っかけたら、偶然ここに出ただけだから。多分この店には何の影響もないわよ。と言うわけだから、しばらく黙っててくれるとありがたいんだけど」
「はあ……まあ、そう言うことなら」

 多少いぶかしそうな顔をしたものの、店員は素直にレジの向こう側に引っ込んだ。腐ってもゴースト・スイーパーは国家資格である。場所柄を考えれば、それを詐称する意味もあまりないであろうし、和服の少女の異様な行動も、オカルトがらみであると言うのならば、まあ、頷ける。何よりも、門外漢の自分にはそう言ったことは理解できない。
 ――そういう風に自分を納得させ、店員は業務に戻ることにした。それはある種の現実逃避であるのかも知れないが、誰も彼を責めることは出来ないだろう。

「して、一つ聞きたいので御座るが――お主は何故にこのような場所に?」

 “何もない空間”に向かって少女は問いかけ――ややあって、彼女と車いすの青年、彼の隣に立つ少女と、黒髪の女性――そして、ゴースト・スイーパーであるらしい美女が、何か変なものを飲み込んだような表情になる。
 車いすに乗った白髪の青年が、苦笑しながら言った。

「いや……幽霊の迷言っつったら、おキヌちゃんの“死んでも生きられます”の右に出るものはそうそう無いとばかり思ってたが――」
「いや、だって、あれはその――で、でも、私は何となく、あなたの気持ちがわかりますよ?」
「それはそうで御座ろうが。して、ええと、“相坂”殿で、間違い御座らぬか? ――結構。で、その話、何処までが本気で御座る?」

 青年に追従して、なにやら言葉を交わし始めた彼らであったが――やはりその光景は奇妙だとしか言いようがない。果たして、亜麻色の頭髪を、鈴のついたリボンで纏めた少女が、和服の少女の袖を、軽く引っ張った。

「あの……私らにもわかるように言ってもらえるとありがたいんだけど」
「あ、これは失敬。しかし――」
「ん……まあ、一時しのぎだけど、俺が何とかするよ。いいよな? シロ、あげは。エヴァちゃんの時の残りがまだあるし」
「――構わないでしょう。けれど――この場所は流石に不味いと思います」
「そうで御座るな。では――近くの公園にでも移動するで御座るよ。ああもちろん、相坂殿もご一緒に。と言うよりも、お主が来てくれねば話にならぬ故」
「……私たちにはわかりませんが――その、“幽霊さん”は――何か変なことを言ったのですか?」

 和服の少女は、困ったような笑みを浮かべながら振り返る。

「誰もいない教室は寂しいし怖いから――休日や夜間は、こういった場所で暇を潰しているそうで御座るよ」

 店員がその時手に持っていた商品リストを、思わず取り落としそうになってしまったことは――まあ、無理もない事であろう。




「さて、この辺で良いかな」

 先ほどのコンビニからほど近い場所に、その公園はあった。全体が緑地で囲まれていて、風に揺れる木の葉の音が耳に心地良い。中央には周囲より少し低くなった円形の広場があり、その中心には噴水が備え付けられている。この日は休日であり、日差しがめっきりと春めいてきたせいだろうか、水遊びに興じる子供と、それを見守る親の姿が目に優しい。
 一行はそんな公園の片隅、蔓草の絡まった格子が、屋根の代わりに日陰を落とす、石造りのベンチに腰掛けた。丁度円形になっているので都合が良い。

「とりあえず、その子が目に見えない事にはどうしようもならんわな」
「ま……今回は仕方がありません」

 横島がそう言って、横目にあげはを見ると――彼女は、肩から提げていた可愛らしいポーチの中に手を入れ、何かを抜き取って横島に手渡した。彼は小さく頷いてその手を開き――

「……これじゃねえ。意味がわからん。つうか、何でお前のポーチからこんなモンが出てくるんだ!?」
「おっと、これは失敬」

 手渡されたものが何であったのか――果たして、その場にいた他の面々にはわからなかった。ただ、横島の妙に焦ったような表情と、謝っている割にはちっとも反省した様子のないあげはの顔が不思議に印象的で――それを見て何かに気がついたらしいシロは、僅かに目を細め、おキヌは小さく咳払いをして、タマモは面白そうに唇の端をつり上げた。

「シロといいお前と言い、冗談は場所と内容を選んで言え」
「善処します。では、改めて」
「……全然そうは思ってねえだろ」
「何だか最近、私がないがしろにされているような気がしたもので」
「だったらはっきりとそう言え! お前の口は飾りかっつうの」

 横島は改めて、あげはからひったくるように何かを受け取り――それを受け取った握り拳を、虚空に掲げるようにして見せる。

「もうちょっとこっち寄ってくれるか? そう――そんな感じ。そのまま」

 彼は、拳を突き出したまま、何もない空間に向かって優しげに言い――次の瞬間、彼の握られた拳が、淡く薄い緑色の光を放つ。その光は、特殊な技術を何も持たない女子中学生達にも、はっきりと見える代物であった。
 果たしてその光が消えた後に――その何もなかった空間には――

「嘘」
「ほわあ……」
「すごい」
「これは――」
「信じられませんわ――」

 少年教師と少女達の口から、感嘆の声が思わずこぼれる。その“何もなかった”筈の空間には、一人の少女が立っていた。古めかしいセーラー服に身を包み、それと対を成すような白い髪をたなびかせた、儚げな雰囲気の少女。彼女は何かにおびえるように目を閉じたままだったが――やがてゆっくりと目を開くと、すぐに周囲の状況に気がつく。

『あの……どうか、したんですか?』

 自身の変化に未だ気がついていないのであろう彼女は、おそるおそる横島に問う。彼は小さく肩をすくめ、傍らに居たネギの頭に手を載せる。

「とりあえず任せるぜ。お前がこの娘の担任だろ?」
「あ……は、はい。あの……相坂さよ、さんですか?」
『はい――え、ええ? あの、私の事が見えるんですか!?』
「は、はい、横島さんが何かをした瞬間に、あなたの姿が――今は、はっきりと見えてます」

 ネギの言葉に引き続き、少女達も一様に頷く。現れた少女――“相坂さよ”は、動揺したように、視線をあちらこちらへと迷わせる。ネギはそんな彼女の様子に――いつも通り、とにかく“真正面からぶつかる”事を選んだのか、一つ咳払いをしてから、言った。

「あの――初めまして、と言うのも妙ですが――三年A組担任、ネギ・スプリングフィールドです。宜しくお願いします――相坂さよさん」

 その言葉に、宙を彷徨っていた少女の視線が、赤毛の少年に固定され――ややあって、その大きな瞳から、大粒の涙がこぼれ始めた。ネギが慌てる暇もなく、彼女はそのまま、両手で顔を覆って泣き出してしまう。

『ふぇぇぇ……うあああぁああぁあん!』
「ちょ、ちょっと! あの、相坂さん!?」
「ネギ、あんたこの子に一体何したのよ?」
「誤解ですよ! 僕、何もしてません!」
「おやめなさい明日菜さん! 私も、ネギ先生が何かしたようには見えませんでしたよ」
「どないしたん? うちら何にも怖い事なんかあらへんで? 顔上げてえや」

 明日菜はネギの襟首を掴んで前後に揺らし――あやかがそれを止め、木乃香はシロと一緒になって、泣き出した幽霊の少女を宥めようとする。
 そんな様子を、ベンチに腰掛けたまま眺めていたタマモは、小さく息を吐いて足を組む。その様子に気がついたのか、横島は彼女に問うた。

「どうした?」
「どうもしないわよ。何――私の脚線美に見とれたの?」
「ぐっ……確かに、思わず頬ずりしたくなる衝動に駆られるのは認めよう」
「認めるのね」
「だが、シロの言葉じゃないが、所詮そいつは紛い物だ――ああ、それはわかっているとも! ……じゃねえっつの!!」

 ああもう、と、頭を振る横島に、タマモは楽しそうに笑う。

「お前言ってたじゃねえかよ。人をここまで引っ張り回した“幽霊”には、一言言ってやらなきゃ気が済まねーって」
「私だって空気くらいは読むわよ。それに――そう言うこと諸々、全部あの子達がやってくれそうだしね?」
「まあ、最終的にはあの子らの問題であって、俺が出来るのはその手助け程度だしな。なんて――こんな台詞は、俺には似合わんか?」
「うん」
「即答かよ」
「まあまあ――あら?」

 微妙に険悪な空気が漂い始めた横島とタマモの間に、もはや恒例行事とばかりに、おキヌが割って入ろうとして――ふと気がつく。泣きじゃくる“さよ”を宥めようとする少女達の話の中に、一人の少女が入っていないことに。

「朝倉さん――だったかしら? どうかしたの? えっと――車酔いの事なら、改めてお詫びを――」
「え? い、いえ、そう言うんじゃ――」
「……あれを“車酔い”で済ませるおキヌちゃんもどうかと思うけど。いや、間違ってはないんだけど――ねえ」

 自分の胸の辺りを押さえて、ただ立ちつくす――そんな自分自身にさえ、和美は気がついていなかったようだ。おキヌやタマモは知るよしもないが、普段の彼女なら、まずは突然現れた不思議な少女を、一枚写真に収めておくくらいのことはやるだろう。
 しかし、彼女自身、今の自分が、何故このような状況なのかは、わかっていなかった。
 わけもわからず、自分の中に突然わき上がってきた形容しがたい感覚に――彼女は、ただ立ちつくしていた。




 とはいえ――“相坂さよ”の口からもたらされた情報は、多いとは言えないものであった。彼女はあの教室――厳密には、完全持ち上がり制である麻帆良女子中の“A組”というクラスの片隅で、もう五十年程も幽霊として過ごしてきたと言う。
 五十年“ほど”という曖昧な解答は、あまりの時間の長さと、彼女が命を落とした頃の事を思い出すことが出来ない、と言う理由からであった。彼女は何故あそこに幽霊として存在していたのか――その理由を、彼女は覚えていないのである。
 さりとて、何処かへ行くことも出来ず、“成仏”も出来ない。あの教室を中心として、数キロ圏内ならば自由に移動できるらしいのだが、それ以上遠くへ行くことは出来ない。行けない、と言うのではなく、酷く恐ろしい感覚に襲われて、離れられないのだという。たとえるならば、高層ビルの屋上で、ビルの縁へとゆっくりと歩いていく――そんな感覚に近いのだという。

「人を構成する魂――それはつまり、霊基構造を核とするエネルギーの塊です。人が死ぬと、魂は肉体から切り離され――例外もありますが、位相のずれた世界――“あの世”に向い、輪廻の鎖に入る――霊魂の研究者達の間では、一応、そう言う結果が出ています」

 それは、六道女学院と六道の大学で、ゴースト・スイーパーとして、“心霊”に対する学問を専攻したおキヌの言葉である。現代の科学技術やオカルト技術では“あの世”というものを観測することは出来ない。しかし人は死ぬことによって、一時的にその有り様を神や悪魔に近いものとし――その力によって、世界の壁を乗り越える。
 そして、また新たな誕生の時を待つ。己に適した“霊基”の器を持つ肉体が、この世に生を受けるその時まで。

「そして幽霊というのは――何らかの原因で、そのサイクルが阻害されている魂のこと。その原因は様々です。この世への強い執念や、魂自体の欠損――それに――」

 おキヌはそこで小さく言葉を切り、首を横に振る。

「ならば悪霊とは何なのか。人の魂はいかにして悪霊となってしまうのか。それは、人間の有り様が、基本的に神様や悪魔とは違うからです。人間は肉体に魂を収めてこそ、完成された存在となる。魂のみの人間は非常に脆弱で――言ってみれば、剥き出しになったコンピュータの基盤のようなもの。それをずっと、部屋の片隅に置いて使うことが出来るでしょうか? ――あの、横島さん、ついてきてます?」
「……すまんおキヌちゃん。俺、基本的に勉強と名の付くものは苦手で」
「でも――横島さん一度、美神さんと六道理事と、あと愛子さんの頼みを断り切れずに、六道大学で経済学の講師やったことあるじゃないですか」
「大阪人にとって、そろばん勘定は勉強とは言わへんのや」
「はあ、大阪の人は凄いんやなあ。うち、京都の生まれやけど、経済の事とか全然やわ」
「木乃香お姉さん。ヨコシマの言うことは、話半分くらいに聞いておいた方が良いですよ」

 横道にそれそうになる話を元に戻したのは――見ているこちらが疲れてくるくらいに真剣な表情で、おキヌの話を聞いていたネギだった。

「では――何故相坂さんは、五十年もの間、魂が壊れずにいられたのですか? おキヌさん、悪霊とは、剥き出しにされた脆弱な魂が、外部からの要因で破損してしまい――理性や人格や、その他諸々を全て失って、ただ暴悪に振る舞うだけの存在と化したもの――そういうことでしょう?」
「ここからは私の推測になります。“心霊学”というのは、実証できるサンプルが非常に少ないものですから――それで良ければ」
「構いません」

 では、と、おキヌは咳払いをする。“天才は何やらせても天才やな”だとか、彼の理解力に対して妙なやっかみを見せる青年だとか、その脇腹に少々強すぎる肘鉄を叩き込んで、彼を悶絶させている少女だとかを、極力見なかった事にしつつ――言葉を紡ぐ。

「それはおそらく、彼女の存在が非常に希薄だったからでしょう。誰も彼女の存在に気づくことが出来ず。触れられず――普通の生徒や教師はもちろんのこと、周囲に漂う雑霊ですら、彼女を認識できなかった。それが原因です」
「でも、それは逆なんじゃないですか? おキヌさんが言うには、幽霊にも人格を保てたままの存在はいる――僕も、日本で有名な“幽霊歌手”の話は聞いたことがありますよ?」
「……私は、あの人達を大切な友達だと思っています。けれど――あの人達もまた、魂が壊れている事に、代わりはないんです」

 とても悲しそうに――それでも言わなければならない、と言う風に、おキヌは口を開いた。

「この世に留まる無害な“幽霊”は――この世に留まる事が、当たり前だと“錯覚”を起こしている。もはやそれ以上、考えることが出来ないんです。街角で寄り合いを開き、線香を買い求め――生前の彼らがそれを聞いたらどう思うでしょう? 誰だって思うはずです。そんなことがあり得るなんて――って。そこにいるのが当然で、誰かのために考えることも出来る。けれど――自分はうち捨てられた何かのように、ただそこにあるだけ。その意味を考えることすら出来ない――彼らは、そんな悲しい存在なんです」
「で、でも――おキヌさんは、ゴースト・スイーパーなんでしょう? それがわかっているなら――」
「……彼らを成仏させると言うことは、彼らにとって唯一残ったその存在意義を否定する事――人としてはそれが正しいことだというのは理解しているし、転生した先が幸せである事を、私は願います。けれど――私に変わらぬ笑顔を向けてくれる彼らに、“壊れている”なんて――その笑顔が本当に嬉しくて、その笑顔に救われた私には、どうしても言えない。だから――」

 ごめんなさい、私はゴースト・スイーパーとしては失格です、と、おキヌは申し訳なさそうに言う。流石にその様子に、先程の説明では、頭から煙を吹き出しそうになっていた明日菜も含めて、あたふたと彼女に何か声を掛けてやろうとする。
 特にネギは、己の言葉を後悔しながら。

「あのね、おキヌちゃんはゴースト・スイーパーなのよ? そこら辺の幽霊を払ったって、一円のお金にもならないのに、そんな暇なんてあるわけないでしょ」

 そんなことを言ったのは、タマモだった。はっきりと口には出さないが、そのあまりにも合理的すぎる考え方に、非難の目線が集中する。
 それを感じ取り――彼女は、小さくため息をつく。

「日本人は平和ボケしてる、なんてよく言うわよね。私もまあ、自分を含めてそうじゃないかと思ってる。でもだからといって、私たちに何が出来るの? 自分がものを食べなかったら、水を飲まなかったら、武器を持たなかったら――その分、飢餓や戦争で苦しんでる人が救われるってわけじゃない。私たちは、普段通りの生活を送るしかない」

 その中で、と、彼女は言う。

「そう言う事実を忘れられない人の事をね――“いい人”って言うのよ。私はもちろん、そんな面倒な事は考えないわ。自分が楽しめれば、それで良いもの」

 その言葉は、少年教師の心を、少なからず打った。自分に出来る事には限界がある――それは、エヴァンジェリンの一件を経て、彼が学んだことの一つである。けれど、それが悪いことでないというのも、また――
 そこまで考えて、彼は首を横に振り、おキヌに視線を戻す。

「すみません。何だか嫌な方向に、話が脱線しちゃって」
「い、いえ、僕の方こそ――それで、相坂さんの事なんですが――彼女はそういう風に、魂が破損してしまったから、この世に留まっているわけじゃない、って?」
「何故かはわかりませんが――彼女の存在は、幽霊としても非常に希薄です。幽霊の存在感というのは、それぞれの魂のあり方というか――早い話が“思いの強さ”で決まるんですが、霊能力者ですら、意識を集中させないと見ることが出来ないなんて、ここまで希薄な魂は珍しいんです」

 だからこそ、外部からの刺激を受けることなく、魂は元のままの形を維持できた――おキヌは、そう言った。

「もっとも――彼女の場合」

 そこで彼女は――明日菜同様に、頭から煙を吐き出しそうになっているさよに視線をやり――その整った眉を、僅かに寄せて見せた。

「……それだけではない――何か違和感のようなものを感じますが――ね」




 時間は流れ、その日の夜。和美が湯船で茹で上がったのを筆頭に、誰もが皆、再び夜の闇に消えていった級友の事を考えていた頃。麻帆良の郊外に建つログハウス風の家の中では、エヴァンジェリンが不機嫌そうな顔で、ソファに腰掛けていた。

「貴様は私を馬鹿にしているのか」
「えー、何でよ。凄く似合ってるよ? エヴァちゃん外国のお姫様みたいだから、確かにゴスロリみたいな服装似合うけどさ――折角だから、いろんな服試してみたいじゃない? 近頃の子供服って、ホントに色々種類あるんだから」

 彼女は現在、近頃小学生の女の子の間で流行っているブランドの服に身を包んでいた。見た目が見た目故に、それは本当に可愛らしいものであったが――当の本人の趣味に合致するかと言えば、そう言うわけではない。
 彼女にこの服を着せたのは、自称・エヴァンジェリンの親友――彼女が麻帆良女子中に放り込まれた頃に出来た友人である。長らく呪いのせいで彼女の事を忘れてしまっていたが、最近起こった事件を経て記憶を取り戻す事が出来――今は休みを取って、エヴァンジェリンの元を訪れていた。
 今日は彼女もまた学校が休みであると言うことで、二人して街に繰り出していたわけであるが――

「悪いが私は、貴様の着せ替え人形ではない。というか、貴様は本気でそう思っていないか? この量は正気の沙汰ではないぞ?」

 エヴァンジェリンは、テーブルの方を一瞥する。そこには服の詰まった紙袋が、それこそ山と存在していた。最後の方には両手にすら持ちきれず、結局帰りはタクシーを使う事になった程である。

「そう言わないでよ。こういう歳になっちゃうとね、中々オシャレって言っても限られちゃうもんだから――その点エヴァちゃんは良いわよね。いつまでもそんな――お肌スベスベよね」
「ええい、頬をつまむな。何だったら私が吸血鬼にしてやろうか?」
「んー、もう五年早かったら、それも悪くなかったんだけど」

 友人は、わざとらしくため息をついてみせる。十五年前のエヴァンジェリンと友人であったと言うことは――既に彼女の年齢は二十代の後半。今の日本においでは、未だ十分に“若者”と呼べる年齢ではあるが――
 とはいえ、それはただの方便である。彼女は、そんなことは望んでいない。彼女が吸血鬼であるという驚愕の事実を知りながら――果たして態度を変える事がなかった彼女の事である。冗談半分であるとはいえ、彼女が吸血鬼となることを拒否したその事実が――エヴァンジェリンには、心地よかった。

「そうやってそのうち、私一人を残して年を取り、ボケてしまうわけか。友情とは儚いものだ」
「そういう寂しいこと言わないでよ。ちゃんとこうやって遊びに来てるでしょ? ただねー、流石の私も、旦那や子供が、自分より先に年を取って死んじゃうって言うのは、ちょっとね」
「……ふん、貴様はまだ、嫁に行けると儚い希望を持っているのか?」
「……今までは仕事に打ち込んでただけよ。これからは自分のために生きるの。大体――今の今まで男の一人もいなかったエヴァちゃんに言われたかないわよ」

 かつての友人達は、機械である筈の茶々丸が奇妙な感覚を覚えるほどに、冷たい目線でにらみ合い――ややあって、同時にため息をついた。

「エヴァちゃん」
「何だ」
「……寂しいわねえ」
「……うるさい。黙れ」

 ともすれば食器が砕け散りそうなため息を、二人はもう一度吐き――ややあって、どうにか現実から目を背けることに成功したらしい友人は、エヴァンジェリンに言った。

「そう言えば、良かったの?」
「何がだ」
「ほら、今日の変な――いや、そう言う言い方は失礼かも知れないけど、その」
「……ああ。あれか。構わん。あんな連中、“変な奴ら”で十分だ」

 彼女の脳裏に、昼間センター街でちらりと見かけた一団が思い起こされる。コンビニから不意に現れた、異様な集団――エヴァンジェリンはテーブルに頬杖をつき、物憂げな目線を宙に彷徨わせる。

「……えっぱりエヴァちゃんは可愛いわね――どんな仕草でも絵になるわ」
「当然だ」
「うわー、凄い自信。とにかくあの人達――エヴァちゃんの友達なんでしょ?」
「巫山戯るな。あんな連中、友達などと呼べるものではない」

 不覚にも、“何をやっているんだあいつらは”と呟いてしまったその言葉に気づき、一団に声を掛けようとした友人を、エヴァンジェリンはどうにか止めた。もはやネギに対してかつてのような憎しみは無いが――進んで顔を突き合わせようとも思わない。
 しかし――その一団の中に紛れていた、“ある意味で見知った顔”を思い出して、エヴァンジェリンは一人呟く。

「……相坂さよ、か――全く奴らは、今度は何に手を出した?」











原作で割りかしスルーされがちで、
基本的な情報があまりない。
けれど、修学旅行編に入る前に、片付けておきたいこのお話。

……自然、捏造設定がかなり増える訳ですが。
今考えている今後の展開、多分ネギまSSでも異例の事態ではないかと。
それが受け入れられるかどうか、かなりビクビクしております。

まあ、異例と言えばこの長さが既に異例か(笑)

それと今回のおキヌちゃんの解説。
本当はこういう、後書きで言い訳じみた事を言いたくはないんですが、
技量不足で表現し切れていない気がするので、一応念のため。

彼女が、浮遊霊の皆さんの存在を否定したいわけじゃありません。
世の中にはそういうものもあるし、彼らの気持ちの純粋さを、
おキヌちゃんはきっと一番よくわかっている。

それでも彼らは死んでしまった存在で、
自分はもはや彼らとは違う日常を生きている。
そんなおキヌちゃんだから、辛いけれどこんな言葉が出た――と、
一応、そう言うつもりでは書いたのですが――

読み返してみると、微妙。
しかし言い換えるにしても――

お見苦しいところをお見せして、申し訳ありません。

設定はどうあれ「面白い」話を書きたいとは常に思っています。
もちろんそれは、全ての人に受け入れられるわけではないでしょう。
しかし、一人でも多くの皆様に「面白い」と言っていただけるように頑張りたいと思いますので、
どうか広い心で、応援の程、宜しくお願いします。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・クラスメイト
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/06/01 21:53
――それではあんたは、死んで居るも同然だ。
――それは結局、どういう事なんだ?
――つまりあんたは、“生きている”って事さ。




「ただいま――おキヌさんとタマモさん、来てるんでしょ?」

 日が暮れてから横島邸の玄関をくぐったのは、長身の青年、藪守ケイ。今日一日を振り返って、心地の良い疲労に身をゆだねながら襖を開けてみれば――トレーナーにジャージ姿の少女と、長袖Tシャツにジーパンというラフな格好の美女が、うつぶせに寝転がって対戦ゲームに興じていた。

「その間合いなら飛び道具は当たらないわよ、今度こそ――って、ええっ!? そんなのアリ!?」
「この手のフェイントは基本ですよ――飛び込み中パンチから立ち中キック――キャンセルを掛けて翻龍拳――三段攻撃完成ですね。はい、これで私の十五連勝です」
「あーもう、やってらんないわよ――お? ようやく帰ってきたわね、色男」

 心底悔しそうに、金髪の美女はコントローラーを持ったまま仰向けに寝転がり――そこで初めて、襖を開けて立っているケイに気がついた。あげはも小さく気合いを入れて、体を起こす。見知った間柄とはいえ――やはり女同士でだらけている姿というのは、あまり見せたいものではないのだろう。
 もっとも金髪の美女――タマモの方は、そんなことを意に介する様子もなく、仰向けに寝転がったままであったが。

「タマモさん、あげはさんにそのゲームで勝てるのは、老師様くらいのもんだよ。僕も高校時代に、母さんに怒られるくらいには、その手のゲームやり込んでたから、自信はあったんだけど――僕があげはさんにいくらおごったと思ってんの」
「……ひのめとは五分にやり合えるようになったから、もしかしたらって思ったのよ」
「彼女は筋は悪くありませんが、良くも悪くも素直な攻め方ですからね――私に勝つにはあと十年は早いです」
「誇らしげに言うようなことじゃないでしょうが、そんなの――で、ケイ」

 よいしょ、と、わざとらしく声を出しながら、腹筋の要領でタマモは体を起こし――蠱惑的な笑みを、ケイに向けた。

「随分と遅いお帰りだったじゃない? そもそも、夕べはシロの友達がこっちに泊まってたわけだし、今日は私たちが来るのも知ってたわけだし――それよりも大事な用事ってのは、一体何だったのかな?」
「い、いや、それはその――今日は様子見程度だって、シロさんも言ってたし、それじゃ僕は行かなくても良いのかなって聞いたら――にーちゃん、貴様なんぞ何処へでも行ってしまえとか言うモンだから」
「ふうん、そう――」

 流れるような仕草で、タマモは立ち上がり――ケイの肩に手を置き、のぞき込むように彼の顔を見上げる。吐息が掛かるほどのその距離に――彼は、顔を赤くしながら目をそらすしかない。

「それで――どうだった?」
「な、何が?」
「その娘の事――ちゃんと美味しく頂けた?」
「な――なんて事言うんだよタマモさん! 大体僕と楓さんはそんなんじゃ――あ」

 口元を抑えたときには、もう遅かった。タマモは弾かれたように笑い出し――あげはは何処か疲れたように、テーブルに突っ伏して、何とも言い難い目線だけを、こちらに向けていた。
 その口元が――小さく、言葉を紡ぐ。

「ムッツリスケベ――いやさ――この、ロリコン」
「う――ち、違うんだ、僕は――僕はドキドキなんてしなかった! 確かに楓さんって鍛えてるのに柔らかいんだなーとか、良い匂いがするなーとか思ったりはしたけど! それでもドキドキなんてしなかったんだよっ!!」

 数分後――タマモは、目に涙を浮かべながら、脇腹の辺りを押さえてテーブルに突っ伏し、荒い息をついていた。あげはは変わらぬ表情で、しかし何処か楽しそうに、頬杖をつき――二人の向かいに座ったケイは、不機嫌そうに、テーブルの上のポットから自分で淹れたお茶を啜っていた。

「あー、もう。あんた何処まで横島の“弟”なのよ。というかあれかしら? ゴースト・スイーパー見習い藪守ケイさんは、九尾の狐である私を、笑い死にさせて封印でもしようっての?」
「その様なやり方ならばきっと、封印されてもあまり憎しみは残らないでしょうね。ゴースト・スイーパーの戦い方の歴史に、新たな一ページが刻まれる事でしょう」
「……あのね、二人とも、ちょっと性格悪すぎない? 全部知っててからかってたわけでしょ?」
「何言ってんの。あんたがえらく美人でスタイルも良いって言う、そのシロの友達に鼻の下伸ばしてた頃にはね、私たちは必死に人助けしてたんだから」
「タマモはほとんど黙って立っていたか、勝手に遊んでいただけですが」
「あんたはそこで裏切るなっての」

 隣に座るあげはの頭に、タマモは軽く拳を落とす。その言葉を聞き――ケイは、湯飲みを持っていた手を止め――その湯飲みを、テーブルの上へと戻した。

「人助けって――ただ幽霊が出ただけじゃなかったの?」
「幽霊が出たことに間違いはないんですが――その幽霊が随分特殊だったというか」
「それでおキヌさんが? そう言えば――とうのおキヌさんの姿が見えないけど」
「おキヌちゃんだったら、横島とシロと一緒に、奥の部屋にこもってるわよ。何だか――どうしても調べておきたい事があるとかって。まったく――大丈夫かしらね?」

 ごくりと、ケイの喉が鳴る。
 タマモは、美神除霊事務所の正規職員、ゴースト・スイーパー“千道タマモ”――そう言うことになっているが、その実、彼女の持つ力は、並の人間など遠く及ばないものである。単純な力だけを比べるなら、美神事務所でも突出した力を持ち――その力は、所長であり、日本最高のゴースト・スイーパーと言われる美神令子をも、軽く上回る。
 もっとも、では彼女とタマモが本気で戦ったらどうなるかと言えば――タマモに敗北する美神令子というビジョンを、ケイはどうしても頭に描けないのもまた事実であるが――しかしそれでも、当然その辺りの幽霊などに後れを取るような存在ではない。
 そんな彼女が心配するほどの、得体の知れない“幽霊”――ケイの不安は、もっともな事だった。
 しかし――

「そうですね、あまり派手に行動をすると――ミカミに感づかれます。おキヌさんをただで働かせたなどと言う事実が、彼女の耳に入ろうものなら」
「――って、大丈夫かってそう言うこと!?」

 小さな少女がため息混じりに言った一言に、思わずケイは立ち上がって叫んでしまう。いい加減、自分のこの連中に染められてきたと感じてはいたが――どうやら自分は、まだまだ青いところが残っているらしい。
 さりとて、そこで完全に染まりきってしまう自分を想像するのも――あまり愉快な事ではないのもまた、事実であるが。




「見つけました。これですね――ああ、やっぱりプロテクトは掛かってるみたい。だとしたらこっちから行きましょうか。専用のプログラムを使うか、サーバーをパンクさせて、手っ取り早く事を済ませるのも良いんですが――あまり事を荒立てたくはありませんしね」

 白く、細い指が、キーボードの上を踊るように走る。その様子はまるで、楽器を奏でる演奏家の如く。

「あらあら――あまり強力なファイアウォールがありませんね? 世界に名高い麻帆良学園都市らしくもない――メインバンクはこっちかしら。パスコードを要求――それくらいは当然ね? えいえい、と。さて、次に」
「――なあ、おキヌちゃん。何て言うかその――随分“コンピュータに詳しい”んだね?」

 引きつった表情で、なるべく柔らかな言葉を選んで言った横島に――おキヌは、キーボードを操る手を止めることなく、照れくさそうな笑みを返す。

「うちの電子データの処理は、美神さんから一任されてますから――それに、あの銀行。ほら、横島さんと一緒に銀行強盗の訓練やった事があったでしょ?」
「あー……俺たちが暴れ回ってる裏で、おキヌちゃんが口座のハッキングとマネーロンダリングしてたあれね――美神さん、おキヌちゃんに何教えてやがるんだか」
「それが、あの銀行さん、裏を掻かれたのが悔しかったらしくて――あれから半年に一回くらい、私を相手に電子戦の模擬訓練を依頼してくるんです。こっちとしてもお仕事だから――勉強しているうちに、すっかり詳しくなっちゃいまして」
「……それはもはや、“詳しく”という程度を通り越しているような気がするが」

 横島から、パソコンに向かうおキヌを挟んで反対側に立っていたシロが、何とも言えないような微妙な表情を浮かべる。
 三人は現在、横島が普段は仕事に使っているパソコンを用いて、麻帆良学園の情報を漁っている最中だった。横島のパソコンは、仕事柄最新スペックに近いものがいつも備えられていて、それを見たおキヌが、これなら――と呟き、席に着いてから、ものの数分。
 既に彼らは、普通のやり方では到底見ることの出来ない、ネットの深淵をかいま見ていた。
 これはカモから聞いた話であるが――魔法使いは、自分たちの使う魔法こそを、人類の至高の技術と称しながらも、急速に発達した科学文明にも目を向けている。むろん、向けざるを得なかったと言うのが正しいところだろうが――果たして、魔法使い達が使用する、専用のネットワークが存在するというのだ。
 当然、魔法使いや魔法の存在と同様に、そのようなものは秘匿され、表に出てくることはない――筈だったのであるが。なぜだか横島の家に鎮座する普通のパソコンは、普通には見る事の出来ないはずのそう言った情報を、何でもない事のように表示していた。
 ネットの海は広大で――回線に接続されたパソコンは、大海にそそぎ込む川のように、すべからくその海に繋がる。同じ海に繋がる川を、別の川から辿れない道理など、何処にあるはずもない――とは、おキヌの言。多少の堤防や関門など、果たして何の意味を成すのだろうか、と。

「いや、何かそれ間違ってないか? 理屈としては正しいんだけど、その――」
「アクセス承認。はい、いつでもどうぞ、横島さん?」

 にっこりと――ものすごく可憐な笑みを浮かべる黒髪の女性に言葉を遮られ、横島は沈黙する。その隣でシロが冷や汗を流しながら、小さく呟いた。

「父上、母上――東京というのは恐ろしいところで御座る。拙者の知っている一人の女性を――こうまで変えてしまう程に」

 彼らが閲覧しようとしているのは、麻帆良市で起こった事件――それも、表沙汰には出来ないような事件である。果たしてそれは、“魔法”に関係する事件。麻帆良学園都市の裏の顔――“関東魔法協会”の本拠地であるという、その絡みで起きた事件である。

「キーワードは――直球で行くか。“相坂さよ”だ」
「わかりました。全情報の中から、“相坂さよ”に該当――もしくは、関係性のありそうな事件のみを抽出します」

 再びおキヌの細い指が、キーボードの上を踊る。
 麻帆良学園は――“相坂さよ”の事を知っている。これは、少し考えればわかることだった。わざわざ教室に一人分机が置かれ、“担任”であるネギの持つ出席簿には、彼女の写真入りで名前が刻まれている。
 直接的にこれを作ったという高畑教諭はもちろん、“相坂さよ”の幽霊自身が、自分が死んだのは五十年ばかり前だという。彼女が命を落としてから、高畑教諭がネギのクラスの名簿を作るまでの間、学園側がこの事実を把握していなかったとは考えにくい。
 もちろん、彼女がああなった原因は、“魔法使い”の云々など全く関係のない、事故や病気である、と言う可能性もある。けれどもしもそうならば、わざわざこんなややこしい事を、後々に行うような必要は何処にもない。
 日本ゴースト・スイーパー協会や、オカルトGメン日本支部、その他の心霊現象を扱う組織の情報を攫ってみたところで、彼女に関する情報は見つからない。となれば、学園側は不可思議な行動を取りつつも、これと言った“対策”は何も取っていないと言うことになる。
 それもやはり妙な事だ。不特定多数の生徒が出入りする教室に、正体不明の幽霊を放置しておくメリットは何処にもない。幸いにして彼女は危険な霊魂ではないが――いつ何時、霊基構造が破壊され、“悪霊”と化さないという保証は無いのだ。
 ディスプレイに表示されたバーチャル・インジケータが明滅を繰り返し――ややあって、画面に小さな表示が一つ現れる。

『検索完了――該当一件』

「ビンゴ」

 横島は小さく、そう言った。
 おキヌがマウスをクリックすると――画面には、すぐさま短い文字列が並ぶ。

 相坂さよ――一九四×年生まれ。麻帆良学園女子中等学校在学中に、関東魔法協会と敵対する組織との抗争に巻き込まれ、意識不明の重体となる。至急関係者の手によって、最寄りの病院に運ばれるも、四時間後に死亡。父親は第二次大戦中に勤務先の工場が空爆され死亡。母親も戦後の動乱期に死亡し、他に身よりもなかったため、麻帆良市共同墓地に埋葬される運びとなる。

「……やはり、妙ですね。麻帆良共同墓地――今では、麻帆良霊園として、魔法使い関係者を含む公団が管理しているようですが――その墓地に、彼女が葬られた形跡もありません」
「両親を亡くしてたのは、まあ魔法使いの絡みじゃなさそうだが――昔から麻帆良ってのは、こんなヤクザの縄張り争いみたいなことやってたわけか?」
「それからしばらく――病気や事故を除いての、麻帆良学園在学中の学生の死者は出ていません。彼女が命を落とした事により、皮肉にも学園のセキュリティが強化されたんでしょう。ずっと後になってから、明らかに魔法関係者と思われる“事故死”の報告がありますが――これは多分、魔鈴さんの言っていた、“魔法使い同士の大きな争い”のせいでしょう」
「なんとも、やりきれない話で御座るな」

 三人の間に、重苦しい沈黙の時間が流れる。
 ややあって――最初に動いたのは、やはり横島だった。自分にはこういう事は似合わない――などと言いながらも、小さく息を吐いて、首を横に振る。

「まー、これで手がかりは掴めた。あのジイさんの腹に溜まってるモンは、エヴァちゃんの事だけってわけじゃなさそうだし――ああでも、ネギや明日菜ちゃんには話しにくいな。あのジイさんが腹黒いだけなら別にどうって事はないが――下手すりゃ、“魔法使い”さん達とにらみ合いだぞ」
「事は自分の通っている学校の事で御座るからなあ――ネギ先生に関しては、教師という仕事に拘りを持っている分、ショックが大きかろう」

 そう言ってシロは首を鳴らして椅子から立ち上がり――一つ大きく伸びをした。

「……全く、気持ちが滅入ってならぬ――先ほどケイ殿が帰ってきたようで御座るし、せめて今日は、夕餉に腕を振るうで御座るよ――ああ、おキヌ殿が手伝う必要は御座らん。客人はゆるりとしておくもの。心配せずとも、拙者、あの頃のように何をするにも肉ばかり、という馬鹿げた料理は作らぬ故」
「そう? ――それじゃ、お言葉に甘えさせてもらおうかしら――ではこの機会に、横島さん」
「ん? どったの、おキヌちゃん」
「――Dドライブの隠し領域にあった――“極秘エロ画像集”って何のことだか、聞いても構いませんか?」
「ぐはあっ!?」

 そうして始まるいつもの遣り取りを――シロは、自分に対する気遣いだと判断する。いくらか本気が混じっているにせよ――おキヌも横島も、真面目な話を突然に混ぜ返す程に、気遣いが出来ない人間ではない。
 一番苦しんでいるのは他でもない、“相坂さよ”本人――シロは、昼間の事を思い出しながら、踵を返す。今は自分が落ち込んでいる場合ではない。こういうときだからこそ、いつも通りに振る舞わなければ――その義務感がどこから湧いて出たものなのか、彼女自身にもわからないまま。

「ま――“極秘エロ画像”が何なのかは、後で拙者も確認しておく必要が御座ろうが」




――あの――申し訳ないんですけど、私、どうしてあそこにいたのか、わからないんです。

 白髪の少女は、謝るべき事でもなかろうに、自分を取り囲む面々に向かって、申し訳なさそうに頭を下げた。

――気がついたら、あそこにいて――でも、誰も私のことには気がついてくれなくて。いえっ……それは、その、私は幽霊だから仕方がないんですけど。

 既に、生き物としての体を持っていないはずなのに、何故か溢れる涙と、こみ上げてくる嗚咽を堪えながら、彼女は続けた。

――最初はぼんやりと、みんなを眺めていて――それで幸せでした。何となく自分も、そのクラスの一員みたいで――でも、でも――そこに私はいないって、気がついてしまって。それからはとても寂しくて、だから――

 涙を拭いながら、彼女は言った。全ての人間に忘れ去られてしまったような日常の中で、今日、皆と言葉を交わせた事が、どれだけ嬉しかったか。だからさっきは、つい感極まって、自分でも自分を抑えることが出来ずに泣き出してしまった。
 驚かせてしまって、と、更に頭を下げようとする彼女の手を、あやかが握った。その瞳は涙に濡れていて――何かを言いたいのに、それが口から出てこない。そのもどかしさを込めた強い力で、彼女は少女の手を握り――それを抱きしめるようにして、嗚咽を漏らし始める。
 彼女は、想像してしまったのだろう。
 自分がそんな環境で、何十年も過ごす事を。目の前にある本当にささやかな幸せにすら、手を伸ばせない絶望を。
 多かれ少なかれ、それは彼女以外の面々も同じだった。明日菜と木乃香の瞳は涙で潤み、ネギに至っては本当に泣きそうな表情をしていた。
 果たしてその後、“さよの為”と称して、一行は休日の街に遊びに繰り出した。
 カラオケに行っては、横島が無駄なまでの歌唱力を発揮し、ボウリング場ではあやかとタマモのハイスコア合戦となり、シロがボールを持ったままレーンに転倒するという意外な場面が発生。少女達のウィンドウショッピングにと入ったブティックでは、店員に気に入られたあやかがファッションショーまがいの事を披露し、ついでに入ったランジェリーショップの店外にて、車いすの青年が奇妙な踊りを踊っていたり。
 単純に形容すれば、とても楽しい一日だった、と言うことになる。
 しかし――夜が訪れ、本当に満ち足りた表情で――夜の闇にとけ込むように消えていった少女の姿を見ると、全員の心にはやりきれないものが感じられる。きっと彼女は今夜も、人の絶えない場所で一夜を明かすのだろう。周りに人がいるか居ないか――彼女にとっては、本質的にはそのどちらであっても、何も変わりはしないというのに。

「……明日は何処行こか、明日菜」

 ふと声を掛けられて、明日菜は顔を上げた。見れば――僅かながら笑顔にかげりが見える木乃香が、テーブルを挟んでこちらを見ている。

「例のファンタジー映画の新作がな、もう麻帆良に来とるんよ。ほら――おでこに傷のある魔法使いの男の子が、悪い魔法使いと戦うあれや」
「ああ――」

 明日菜は、木乃香が広げていたタウン情報誌のページをのぞき見る。世界的に有名になったファンタジー小説、映画化もされ、シリーズ通しての人気を博している作品ではあるが――

(ああもう、何の冗談だっての)

 もちろん映画の中の主人公とは似てもにつかないが、自分のところには実際にいるのだ。イギリス出身の、眼鏡を掛けた、魔法使いの少年が。明日菜はなるべくその事を考えないようにして――首を横に振った。

「ん……この映画はともかくとしてね、折角みんなで集まるんだから、もっと別のことが良いかもしれないわね」
「あ……せやな。映画館って、ただ黙って座ってるだけやもんな――」
「とは言ってもねえ……相坂さんって幽霊だから、ご飯は食べられないし、服だって着られない。横島さん達の“霊能力”で、ものに触れたりは出来るようになるから、今日みたいなボウリングやカラオケは出来るけど――二日続けてそれって言うのも」
「だったら――明日はもっとみんなに声かけて見いへん? 藪守さん――やったっけ、あの人呼んでもろたら、楓は来るやろ? 楓が来るんやったら、ふーちゃんとふみちゃんも――ネギ先生と仲直りしたんやったら、エヴァちゃん呼んでもええしなあ。あとは――」
「ちょっとちょっと」

 明日菜は慌てて、クラスメイトの名前を挙げだした木乃香を制止する。

「それはちょっとまずいんじゃないの?」
「え、せやかて――さよちゃんは、ウチのクラスの人間やろ? 何かまずい事でもあるん?」

 しかし果たして――心底不思議そうに木乃香にそんなことを言われて、彼女は頭を殴られたような衝撃を受けた。自分は今、何を考えていた? 孤独にうちふるえるさよを、救ってやりたいなどと言いながら――彼女の存在を、非常識のものとして、秘匿しようとしたのだ。
 ――言い訳をする事は出来る。あの少年魔法使いが、その内に秘めたる才能の割に、何かとドジをやらかすことが多いため――一番身近に居た彼女には、いつもその尻ぬぐいをする役割が回ってくる。つまりは、“魔法”という、非日常の秘匿のため。
 自分はそれが嫌で仕方がないはずなのに――習慣というのは恐ろしい。隠す必要のないさよの存在を、ネギのドジと同列に考えて、隠そうとしていたのだ。

「……明日菜? 顔色悪いで? 大丈夫やって――明日菜の気持ちもわかるけど、うちのクラスのみんなやったら、その程度で引き下がるようには思えへんし」
「え? あ、う、うん――そうね、そうかも知れない」

 明日菜は、ぎこちない笑みでそれに応え――内心、自嘲する。

(うわ……私、最低だ――)

 天気も良さそうであるし、緑地でピクニックというのも良いかもしれない――などと、情報誌を見ながら鼻歌を歌っている友人を見て、明日菜の気持ちはますます沈む。自分は知らない間に、どれだけ冷たい人間になっていたのだろうか。たとえば、茶々丸を倒すべき敵としてしか見ていなかったあの時――あの時は、自分の処理限界を超えた出来事が立て続けに起きたせいで、思考が麻痺した状態にあった。
 けれど――今は違う。
 そして、相坂さよは、自分たちと敵対する存在ではない。単なる――そう、目の前の少女と変わらない、自分のクラスメイト。

「う……」

 胸が苦しくなり、明日菜は思わず、口元に手をやった。

「……? ど、どないしたん? 明日菜――気分が悪いん?」
「あ、うん、大丈夫――実はね、今日、あの日なの」

 わざとらしく下腹部に手をやってみる。実際に数日内にはそれはやって来るだろうから――女性のみに許されたこの誤魔化しをここで使っても、後々困りはしないだろう。
 ただ――それは、ただ、相手を納得させる誤魔化しでしかない。
 誰かが、自分自身を誤魔化してくれないだろうか――明日菜は、そんなことをぼんやりと思った。

(……これじゃ私――ネギやエヴァちゃんに偉そうな事言えないわね――)
「せやけど――明日菜はものすご軽い方やん? 急に痛むようになったんやったら――お医者さんに行った方が」
「え? だ、大丈夫よ。大したことはないから――明日の予定でも考えてたら、忘れちゃうわよ」

 どうにかその場を取り繕い――ふと、明日菜の脳裏には、恋い焦がれる教師の姿が浮かぶ。そう――ネギは、あの名簿を高畑から受け取ったと言っていた。ならば、高畑はさよの存在を知っていたと言うことになる。
 もちろん、彼には彼の事情があるのだろう。ましてや彼が悪意を持って、さよを放置していたと言う可能性はほとんど無い。もしそんな人間であるのならば、明日菜を引き取ってくれたりはしなかっただろう。それは理解しているのだが、だとすると――

(……魔法使い、かあ……)

 超常の力を使いこなし――わざわざ自らを、人間とは違う人間だと主張すると言う人々。高畑や学園長は、思想こそ少しは違うのだろうが――その中に身を置く人間である。
 自分の知らない、よくわからない――そして、知りたくないと感じてしまう部分が、彼の中に存在する。そして、自分を責めさいなむこの感情――明日菜は、それが酷く苦しく感じられた。
 そんな時に、ふと頭を過ぎったのは、近頃知り合った“家族”の姿。
 白髪の青年を挟んで微笑む二人の少女と、彼女らに挟まれて困ったように笑う、その青年。

「ごめんなさい、遅くなって――ただいま戻りました」

 彼女の思考は、肩で息をしながら部屋に駆け込んできた少年によって、中断された。




「ねえねえ、どう思う?」
「どうって――何が?」

 どう見ても小学生くらいにしか見えないような二人の少女が、小声で話し合っていた。その姿は鏡で映したようにうり二つで、身につけている衣服と髪型の違いで、どうにか見分けを付けることが出来る――逆に言えば、今この場で服を取り替え、髪型を変えてしまえば、彼女らを見分けられる人間は、果たして存在するのか。
 つまりは、それくらいによく似た双子であるのだ。麻帆良女子中三年A組に在籍する、鳴滝風香と、鳴滝史伽は。

「かえで姉の事だよ! 何かソワソワしてて――昨日もそうだったけど、あんなかえで姉、見たことある?」
「ううん、無いけど――」

 少し離れたところに立つ長身の少女、長瀬楓のことを“姉”付けで呼んだりはしているが、果たして誰が見ても――事によっては、二人の見分けを付ける事より難しかろうが――この少女達は、れっきとした同学年である。
 楓は女子中学生にしては相当な長身の持ち主であり、この双子が揃って、平均を大きく下回る背丈である事に加え――彼女らは、顔立ちまでが非常に幼い。三年A組にはもう一人、実年齢を――色々な意味で実年齢を大きく下回るエヴァンジェリンという“少女”も居るには居るが、西欧人である彼女は、日本人の“同年代”の少女達に比べれば、少し大人びて見える。
 ともかく――外見上ではこの上なくアンバランスな少女達は、寮の部屋が同じと言うこともあって、実は仲が良い。
 そして見た目の通りと言うべきか、多分に幼さの残る行動を起こす双子の姉妹は楓を姉のように慕い、楓の方もまた、二人を妹のように可愛がっているのであるが――

「あっ――ケイ殿! こちらでござるよ――ッ!」

 何かに気がついたらしい楓は、飛び跳ねながら手を振ってみせる。女子中学生どころか、アスリートを向こうに回す身体能力の持ち主だ。長身も相まって、その行動は信じがたい程に目立つ。
 クラスの親睦会の名目で呼び出された少女達は、普段とかけ離れた彼女の様子に目を丸くするしかない。彼女と親しい鳴滝姉妹の反応は、当たり前と言えば当たり前だった。当然――居心地が悪そうにこちらに近づいてくる青年の顔を知る者は、また別だけれども。
 結局木乃香の提案により、事情があって来られないと言う数名を除いて、ほとんどクラスの全員が、集合場所である麻帆良緑地公園に集まっていた。
 しかし、その大半が、この奇妙な集まりを怪訝に思っていた。麻帆良学園本校女子中等部は、入学時に編成されたクラスが、そのまま三年まで持ち上がる。入学直後というのならともかく、今更“親睦会”を開く意味合いは薄い。
 もっともそうは思っていても、イベントがあると聞けば律儀に足を運んでしまうのが、我らが三年A組の三年A組たる所以だろうか。
 ともかくそう言う理由で、学生寮からもほど近い麻帆良緑地公園の一角には、思い思いの服を身に纏った少女達の、華やかな集団が出来ていた――当然、いつも通りのライダースに身を包む長身の青年には、いくら何名かの知り合いがその中に居るとは言っても、堂々と入って行くには居心地の悪い空間である。
 案の定――楓と言葉を交わす青年――ケイの元に、何人かの少女達がすぐさま集まる。
 曰く、そもそも何者なのだとか、楓との関係は何なのか、だとか。

「ケイ殿は――その、拙者と一夜を共にした仲でござるよ」
「変な言い方をしない! そう言うのはウチの身内だけで十分です! えーと」

 黄色い悲鳴をサラウンドで聞かされたケイは、表情を引きつらせながら、一つ咳払いをする。

「えーと……今日の君たちの引率を、横島にーちゃん――君らのクラスの、犬塚シロの保護者から丸投げされた、藪守です。近衛さん――事情の方は?」
「まだ全然何も言うてへん。こういうのは、“サプライズ”があったほうが面白いやろ?」
「……君ね、わけもわからず今日の仕切りを丸投げされたこっちの身にもなってよ――あー、静粛に、静粛に――注目、ちゅうもーく!!」

 突然見知らぬ男性が、自分たちの引率などと言って出てくれば、少女達が色めき立つのも無理はない。そして一度沸き立った彼女たちを鎮める事が出来るほど、藪守ケイという男は、人生の経験値が豊富でない。
 曲がりなりにもこのクラスを纏めているという少年に対して、彼は尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
 ケイはポケットに手を突っ込み――あげはから渡された“もの”を手のひらに握り込んで、その手を掲げて見せた。

「えー、では皆さんに、新しいお友達を紹介します」

 それこそ学校の先生になったような口調で言い――彼は、掲げた手に己の“意志”を込める。その刹那、淡い緑色の燐光が、彼の手から溢れ――

『え……ええぇえぇええぇぇえぇええ――ッ!?』

 麻帆良女子中三年A組の少女達の絶叫が、日曜日の公園に響き渡った。




「ほら、明日菜の気にしすぎやったろ?」
「……そうね」

 隣で笑いながら言った木乃香に、明日菜は力のない笑みを浮かべてみせる。そして――明日菜は何かを言いかけて、ふと気がついた。
 この場にいないのは、エヴァンジェリンをはじめとして、“用事がある”と誘いを断った何人か。それにシロを含む横島一家と、ネギである。彼らは今日、事の次第を確かめるために、学園の理事棟の方に出向いている筈だ。
 それを思い出して彼女は、何故か誇らしげに“白髪の少女”を皆に紹介しているあやかを見遣り――違和感の正体に気がつく。

「……朝倉は? あいつが来ないわけないんだけど」
「今朝方電話あったえ? 明日菜のケータイ繋がらへんから、こっちにかけた言うて……」
「あ。夕べからマナーモードにしたままだった……で、何て?」
「何や――調子悪いから今日は寝てる、言うてたわ――うん、ちょい、心配や」

 明日菜の脳裏に――夕べ、考え事のしすぎでのぼせてしまったと笑う彼女の姿が蘇った。










冒頭のゲームは、僕の好きな漫画の一つ「怪奇警察サイポリス」(上山道郎著)
からお借りしました。

実はこの作品を書くに当たって、GSとこれ、どっちのクロスにするか最後まで悩みました。
が、こちらはどうにも上手くすりあわせが出来そうになかったので、GSを選択。

いつかやってみたいですね、こちらも。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・急転
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/06/07 17:49
 戦争とは、こういうものなのだろうか。
 彼女はぼんやりと、そんなことを考えた。
 目の前を飛び交うのは、鮮烈な光の帯。彼女にはもはや、そうとしか捉えられなかった。そしてその一つ一つが、自分一人の命など、簡単に吹き飛ばしてしまうほどの力を持っている。
 それがわかっているのに――自分の足は、凍り付いたように動かない。ならば這ってでも、この場所から逃げ出さなければならない――そう思うのに、足どころか、体が動かない。まるで、自分が彫刻になってしまったように。
 水の中に居るように息が苦しく、全く力が入らない両足は、ただ棒のように自分の体重を支えるだけで、その場に尻餅をつくことすら出来やしない。そして、目の前には――
 誰かの叫ぶような声が聞こえた。
 それが引き金となったように、彼女は、自分の声が、声として認識できないほどの絶叫を上げ――

「……」

 その絶叫で、目が覚めた。布団をはねのけて、ベッドの上で体を起こす。
 全身が、気持ちの悪い汗に濡れている。今はまだ四月。寝汗に不快感を覚えるのには、まだ早い季節である。だと言うのに、この不快感はどういう事か。暑さや運動で流れた汗とは比べものにならない不快感に耐えかねて、彼女はパジャマのボタンを外そうとし――
 ふと、その動きが止まった。

(……あたし、何でここに居るんだっけ?)

 ――ほんの一瞬。そう考えたのは、本当にほんの一瞬だった。たった今、彼女は眠りから覚めたばかりなのだ。頭が覚醒していない時の人間の思考というものは、はっきりと目覚めているときには想像も付かない代物である。たとえば旅先で目が覚めたときに、そこが何処なのかすぐにはわからない――そんな経験をした覚えのある人間は、少なく無いだろう。
 だから、彼女はすぐに思い当たる。
 今朝は、何だか寝覚めが悪かった。頭が重く、酷く体がだるかった。ただ熱は無く、喉や関節の痛み、それに吐き気と言った風邪の症状はない。女性の忌み嫌うあの期間にもまだ遠い。彼女はその原因がわからず――しかし現実に、妙に体が重いのは確かであった。
 しばらくそのまま、ぼんやりと過ごし――そこに掛かってきた級友からの電話に、体調不良を理由に断りを入れる。見れば既に、時計の針は自分が思っていたのよりもずっと進んでいた。
 無理をすれば押し通せない具合の悪さではなかった。考えてみれば、前日の疲れを引きずった翌朝など、このようなものだと――そう言い切ってしまうことも出来た。前日は色々あって、さしもの彼女も疲れていた。それは事実だ。
それより何より、彼女は今日の集まりを、自分自身が心待ちにしていた筈ではなかったか?
 しかし、彼女はぼんやりとしたまま、携帯電話の電源を切り――再び枕に頭を沈めた。
 そして、それからどのくらいが過ぎたのか。彼女は自分の絶叫で目を覚ます羽目になった。

「……」

 ルームメイトの姿は、最初に目を覚ましたときに既に、部屋の中に無かった。悪戯好きの彼女とは中々に馬が合い、友人の中でももちろん親しい方であるが――果たして今頃、“件の集まり”に出向いている筈の彼女が、自分に声も掛けずに出て行ったのは、優しさ故かどうなのかは微妙なところである。
 しかし彼女が何を考えているにせよ、この部屋に一人残されたのは、ある意味で幸いだったかもしれない――そう思いながら、“彼女”は一人、頭を抑える。

「……気持ち悪……シャワー、浴びよ」

 少しぬるめか――この際冷水でも良いかもしれない。寝汗を流してさっぱりすれば、きっと頭もすっきりするだろう。軽く頭を振り、彼女はベッドから起きあがった。部屋に自分しか居ないのを良いことに、その場で着ているものを全て脱ぎ捨てる。
 脱ぎ散らかしたパジャマや下着をそのままに、タンスからバスタオルを取り出し、寮の部屋に備えられたシャワールームの扉に手を掛け――彼女は、小さく呟いた。

「あたしは――朝倉和美」

 目が覚めたとき――一瞬、自分が誰なのかわからなかった――寝ぼけていただけといえばそれまでだが、何故だか酷く気持ちの悪い――言いようのない不安を覚えた事を、振り払うように。彼女――朝倉和美は、見慣れたシャワールームの扉を開く。




「それじゃ、折角これだけ集まったんだから――何かして遊びましょう」

 誰かの言葉に、その場に集った少女達の明るいかけ声が重なる。木陰でその様子を、微笑ましげに眺めていたケイは、小さく苦笑をこぼす。
 何故か少女達の輪の中には入らず――彼の隣に立っていた長身の少女は、その苦笑の意図を、彼に問う。

「いや……中学生のパワーって凄いな、と、思ってさ」

 既に彼女らの輪に飲み込まれ、泣き笑いのような顔をしてもみくちゃにされている“幽霊”に優しい視線を送り――彼は呟いた。自分たちには到底出来ない、不思議な深みを持った表情――不覚にも、胸の高鳴りを覚えてしまった少女――楓は、その事に努めて気がつかなかった振りをする。

「僕が中学生の頃も、周りから見ればあんな感じだったんだろうけどね。学校の友達と馬鹿やって、時々にーちゃんたちとも馬鹿やって――それが凄く遠く感じるのは、僕も年を取ったって事なのかな」
「そんなことを言うのはやめてほしいでござる。ケイ殿は、まだまだお若いでござるよ?」
「んー? 中学生からしたら、十八歳なんてオジサン一歩手前じゃないの?」
「横島殿あたりが聞いたら、また怒られるでござるよ、そんなこと」
「……だね。“二十代半ばはオヤジなのか? 加齢臭が漂う年頃なのか!?”なんて喚きだすこと請け合いだ」

 つきあいの短い楓にすら、車いすに座ったまま、上半身だけで奇妙なダンスを踊る白髪の青年の姿が、ありありと脳裏に浮かんだ。知らず――彼女の顔にも、苦笑が浮かぶ。

「……何とも面白いお方でござるからなあ、あの人は」
「あー……やっぱり楓さんもそう思う? 何なんだろうね……持つ者と持たざる者の差ってのは」
「横島殿が女性にモテる事を言っているのでござるか? だとしたら心外でござるよ。拙者、確かにあのお方は面白いお方であると思うけれど、男性として好きかと言えば――ちょっと、好みではないで御座る」
「最初はみんなそう言うんだよ、みんな、ね」

 遠い目をして小さく呟いた青年に、楓は僅かばかり、頬をふくらませる。遠い目をした彼が何処を見ていたのか――しかしその視界に、楓のその表情が入らなかったのは、果たして幸運なのか不運なのか。

「……ケイ殿は、女性の気持ちがわかっていないでござるよ」
「う……その――やっぱそうなの? でも、それを言うなら横島にーちゃんの方がさ」
「拙者に言わせれば五十歩百歩――大方、ケイ殿が気づいていないだけで、ケイ殿に好意を寄せる女性は少なくなかろうと、拙者は思うが」

 楓の言葉に、魂が口から抜け出していきそうなため息をつき――ケイは応えた。

「だとしたらどれだけ幸せな事だろうね。楓さんにこういう事言っても仕方ないんだけどさ――にーちゃんだけじゃなくて、僕の友達にもいるんだよね、えらく女の子にモテる奴が。真友って言うんだけど――僕、バレンタインデーに紙袋が必要な奴って、漫画の中だけの存在じゃないんだって初めて知ったよ。何の因果かあの野郎、中学高校通してずっと一緒のクラスでさ。甘いものがあんまり好きじゃないから、義理の分は藪守が食ってくれないかってあの野郎――そのくせ、“ホントにモテるってのはお前みたいな事を言うんだよ”とか何とか意味不明の事を――思い出したらムカムカしてきた。今度逢ったら覚えて……」
「落ち着くでござるよ、ケイ殿」

 拳を握りしめ――何処かを睨みつつ、瞳の奥に暗い炎を燃やす青年を、楓はため息混じりに窘める。その様子を見て我に返ったのか、ケイはばつが悪そうに頬をかきながら、楓に言う。

「……ごめん、つい。でもね? 言い訳させてもらうとさ、ああいう連中の側にいる男の気持ちも少しは考えて欲しいんだよ。僕なんて、バレンタインになると母さんが妙に優しい顔でさ、ケイ、ちょっと――って――格差社会なんて大嫌いだ! 神は死んだ!」
「何を馬鹿なことをわめいているでござるか。そう言うところまで横島殿に似なくていいんでござるよ。まったく――ああ、」

 楓は一瞬何かを考えたようだったが――一つ咳払いをすると、改めてケイに向き直った。

「バレンタインが云々というのなら、拙者で良ければチョコの一つくらい……その――ケイ殿は――拙者の、その――ともだちで、ござるし――」
「おーい、藪守さーん! 楓ぇ――!! そんなトコに突っ立ってないで、こっちに来なさいよ!!」

 そこで唐突に投げかけられた呼び声に、ケイは苦笑しながら応え――

「……」

 楓は自分でも気がつかないうちに、強く強く拳を握りしめた。握りしめられた彼女の手のひらから――何かが軋むような音が聞こえた程に。もちろんそれは、隣に立っていた青年の耳に入る程の音ではなかったけれども。




「でも女の子の中に僕一人じゃ、君たちだって遠慮があるんじゃないの? 僕は横島にーちゃんに、相坂さんの様子を見るように言われただけだし――」
「お? そうですか? そんじゃ遠慮無しに行きましょう。まず手始めに――桜子と野球拳でもして貰おうかしら?」
「それ女子中学生の発想じゃないでしょ!? 桜子って誰かわかんないけど――何かとっても嫌な未来図しか想像出来ないのは何故に!?」




「ほっほ――横島君、儂、未だに君の顔を見ると、嫌な汗が流れてたまらんのじゃがな」
「それは俺じゃなくてエヴァちゃんに言ってくださいよ。立場上仕方なかったとはいえ――“仕方なかった”で彼女が受けた傷の代償としては――安いもんでしょ」

 責任者は、つまりは責任を取るために存在している。そのための麻帆良学園理事長というポストではないか――と、横島は言った。もちろん、彼の仕事は汚れ役だけではないのであるが、この面々を前にしては、何も言うことは出来ない。

「学園長先生」

 彼の側に立っていた銀髪の少女が、凛とした表情で、彼に問う。

「拙者のクラスの“相坂さよ”殿の事を――学園長先生は、どれほどご存じか」
「犬塚君」
「学園長先生の立場は、拙者もおぼろげながら理解しております。エヴァンジェリン殿の事とて、取るべき道はいくらもなかった事を。もしもその時に、無理にエヴァンジェリン殿を解放しておれば、むしろ彼女の命が危険であった事でしょう」
「……関東魔法協会に連なる魔法使い連中に、彼女と渡り合えるだけの力か――あるいは謀略を持った人間がおれば、じゃがな」
「それに、拙者、頭の出来はさほど良くは御座らぬが、それなりに鼻は利く。学園長先生は木乃香殿のお祖父様――心底の悪者というわけでは御座りませぬ。関東魔法協会、いやさ、麻帆良学園にしてみても、殊更に悪者を演じる必要は何処にもない――ならばこそ、拙者らには理解出来ぬのです。既に心を壊す寸前にまで追いつめられた相坂殿――何故、あのような事を」
「シロ」

 横島に手で制され――シロは小さく、首を横に振った。
 変わりに彼女の言葉を継いだのは――横島の車いすを押していた、黒髪の女性。

「初めまして、学園長先生。私――氷室キヌと申します。いつもシロちゃん達が、お世話になってます」
「これはご丁寧に――麻帆良学園本校理事長、近衛近右衛門と申す。失礼ながら――噂は聞き及んでおります。美神除霊事務所に籍を置く、日本では唯一の“死霊使い”――氷室キヌ」
「恐縮です――ですが、私は自分の特殊な経歴故に、偶然資質を得ることが出来ただけで――きっと私よりもずっと、霊と心を通じ合わせる事が出来る人は、たくさんいますよ」
「それこそご謙遜を――“霊と心を通じ合わせる”――などと、普通の人間は“死霊使い”と聞いてそのような風には思いますまい。その立派な志こそが、あなたの有能さを証明しておる――儂はそのように思いますぞ」

 学園長は、愉快そうに言う。それを見てシロと、横島を挟んで立っていたあげはは顔を見合わせ――間の横島は、小さくため息をつく。

「学園長。おキヌちゃんと腹の探り合いしようってんなら、無駄ですよ。何たって彼女は“美神事務所唯一の良心”ですから。どれだけ腹を探ろうとしたって、何も出て来やしません――多分」
「ちょ、ちょっと横島さん」
「いいのいいの。おキヌちゃん。このじいさんは――表面を取り繕ったつきあいよりも、こういう面倒臭い言葉を抜きにして、言葉で殴り合うみたいな――そう言う遣り取りが好きみたいだから。丁度俺たちみたいな、ね」
「完全に同意はしかねるが――まあ、妙に気持ちを隠すよりは、馬鹿で明け透けな話し合いの方が、儂は好きじゃのう」

 そう言って、髭を弄びながら、彼は笑う。横島はもう一度ため息をついて、首を横に振った。

「んで――答えだけを聞かせてください。余計な言葉は嫌いなんでしょう? 休日なのにあっさり俺らのアポに応じたって事は、最初からその答えを持ってるって事でしょう?」
「それはもちろん構わん。儂はそのためにここに来たわけじゃからな。しかし――」

 彼はそこで、一度言葉を切り、目線を移す。先ほどから落ち着かない様子でシロの隣に立っている、赤毛の少年――ネギ・スプリングフィールドに。

「ネギに聞かせると不味い事なんですか?」
「不味い、というわけではない。ただの――彼女、相坂――相坂君は、エヴァンジェリンと同様に、辛い過去を持っておる。じゃが、彼女はそれに対して、同情の目を向けられるのは好かんじゃろうからの。ネギ君の性格がいかんというわけではない。君は君であるだけで尊い――じゃが、君は優しすぎる」
「妙ですね。彼女は同情されたところで――同情するなら云々と、昔のテレビドラマのような事を言う性格には見えませんでしたが」

 あげはが首を傾げたのを見て、近右衛門は首を横に振る。

「芦名野君」
「……私の名前を?」
「君もまた、麻帆良学園の生徒の一人じゃ。学園を治める者として、名前を知らん訳にはいかんじゃろう?」
「うわ、俺今ちょっと、このジイさんがすげえとか思っちゃった。でもそれって単に、あげはが俺の関係者だからってだけじゃないんですか?」
「それはあんまりじゃよ横島君。儂とて、魔法使いとはいえ、教育に殉じようとした者であることに変わりは無いのじゃ」

 胡散臭そうに、横島は目を細めて彼を見る。
 ふと、あげはが小さく咳払いをした。

「麻帆良学園本校初等部、五年C組――出席番号二番の子の名前を知っていますか?」
「男子出席番号二番なら、足立竜太君。女子出席番号二番なら、石井歩美君。違うかね? 全体では確か、赤井君、芦名野君、足立君、石井君、岡部君の順じゃった筈じゃ」
「その通りです」
「……やべえ、このジイさん、普通に半端ねえわ」
「ほっほ……データを頭に入れるのに、多少の“反則”はしておるがの。何せいい加減、儂も年じゃからのう――横島君。犬塚君のクラスの出席番号、二十二番は?」
「那波千鶴ちゃんですね」
「……君も人の事が言えた義理ではないと思うがの」
「まー、俺の場合美女、美少女限定ですから。それに、シロのクラスメイトですから」
「先生――拙者、誇って良いのか悩めばいいのか、非常に微妙で御座るよ」
「ふははは、和美ちゃんを前に真理に目覚めた俺には、もう恐れる者は何もないのだよ、シロ」
「何の真理で御座るか。後生だから、拙者が胸を張って嫁に行けなくなるような行動は、謹んでくだされよ?」
「抜かせ。俺は美少女の味方だぜ? そこらの変態どもと一緒にするんじゃねえ」

 胸を張って、何か非常に聞き捨てならないような事を言う横島を、シロが軽く肘で小突き――そんないつもの、いつも通りの遣り取りを横目で見ながら、ネギは学園長に言った。

「僕は――僕は馬鹿で、子供です。だから、横島さんや犬塚さんみたいな気遣いは、出来ないかも知れない」

 けれど、と、彼は続ける。

「けれど――彼女が、相坂さんが一体何者なのか、何故あの場所に、あんな風にして存在しているのか――それを聞かなければ、何も出来ない。それは何となく、わかります。彼女が、孤独に苦しんでいる事も」
「……あんまり気負うなよ、ネギ」

 横島の言葉に、彼は小さく首を横に振る。

「そう言うんじゃ無いです。担任として、生徒の悩みを聞くのは当たり前じゃないですか。それに――僕自身、何とかしてあげたいんです。彼女を目の当たりにしてそう思うのは――偽善ですか? エヴァンジェリンさんなら、そう言うでしょうか?」
「エヴァちゃんは関係ねーけどな。まあ、それを偽善って言うなら、なあ。ウチの高校の先生なんかは、外道もいいところだ。何せ俺がゴースト・スイーパー免許を見せて、卒業後は美神さんとこに正式に就職するって言った時には――救急車呼ばれたからな」
「……全くヨコシマの高校の非常識さと来たら、麻帆良も形無しですね」
「されど――先生は、あの学校が嫌いでは無かったので御座ろう?」

 シロの、珍しく浮かべた意地の悪そうな表情と共にもたらされたその問いに、ヨコシマは照れくさそうに“まあな”とだけ答える。もちろん、ネギに彼らと同じような行動を取れと言うのは無理だろうし、そうさせる意味もない。

「ネギ君。愚か者かも知れんが、それでも教育者の端くれとして言わせて貰おうかの。教師とは、生徒の便利屋ではない。むろん、生徒に自分の理想を押しつけるだけのものでもない――職業でありながら、職業と言うだけではない。それが教師の本来のあり方ではないかと、儂は思っておる――非常に難しい事じゃがの」
「どういう事ですか?」

 幼い教師は問うた。
 老練の教師は、それに応える。

「教師とは、生徒を育てると共に、生徒に育てられる立場の人間じゃ。教師を仕事と割り切るならば、その様なことは許されん。生徒を立派に育て上げることのみが、教師に求められる仕事であり――生徒に教えられているようでは、本末転倒じゃからの」

 その言葉に、ネギの表情が一段曇る。しかし、近右衛門は優しげな瞳で、言葉を続けた。

「じゃが――そんな教師を、誰が慕うかの? 生徒の誰もが、何も及ばない神のような存在を。それでもその教師を慕う生徒がおるならば、それはもう信者と呼んだ方が良かろうな。むろん――慕われる事で、その教師の価値が決まるわけではない。中には敢えて、嫌われ役を演じて生徒の成長を助けてくれる先生もおる。新田先生など、いい加減あのような辛い仕事はやめにしても、誰も文句は言わんじゃろうに」
「新田ってのは、ネギの“同僚”か?」
「は、はい、学年主任の――凄く怖くて、“鬼の新田”なんて、生徒の間では呼ばれてます」
「正直拙者も、少し苦手で御座る。悪いお方で無いというのは、理解しておるので御座るが――」

 ネギは言いにくそうにそう言い――シロは、頭を掻きながら横島の方を見る。
 そんな様子を、近右衛門は見遣り――満足そうに頷いた。

「それで十分じゃよ。わかる人間には、わかるのじゃ。犬塚君もそのうち、彼の偉大さが理解できるようになるじゃろう。何せ――彼の奥さんは、かつての彼の教え子じゃからな」
「何だと!? くそ! 何てけしからん――学園長! 俺はシロの保護者として、そんな淫乱教師はすぐにでも解雇する事を強く訴えます!」
「お約束通りの反応をありがとう、横島君。何、彼女が新田先生を射止めたのは、高校を卒業してから後の事じゃ。何も問題はなかろう」
「うぐ……それは」
「横島君の葛藤はよ――くわかるが――おほん、ともかく、教師のあり方について、何が正解というものはない。ネギ君がそう言った悩みにぶつかるのもまた、仕方が無い事じゃ。儂が上げた理想の教師像にしてもまた――儂の個人的な意見に過ぎんからの」

 学園長は大きく息を吐き――まっすぐに、ネギの方を見つめて言った。

「ネギ君――いや、ネギ先生。君はまだ若い。悩みながら、時には間違えつつも、自分の理想に向かって突き進んで行けば良い。儂は――儂はそうすることが出来なんだ。じゃから、ネギ先生――君には、ついつい過度な期待を寄せてしまうのじゃが」
「そんな、学園長先生は――その、立派な先生だと思います」
「ここに至って儂を持ち上げる必要はないよ、ネギ先生。儂は――最低の教師じゃ。特殊な立場故に、この学園を治めているだけで、の――何となれば、儂は――君と同じ“魔法先生”であり続けることが、出来なんだのじゃからな」




「いやいや、面白かったッスね、今日は」
「やり過ぎよ美空――ケイさん、最後の方は魂抜けたみたいになってたじゃない」

 麻帆良学園女子寮の廊下を歩きながら、神楽坂明日菜は、隣を歩く春日美空の言葉に、苦笑混じりに言った。お祭り好き――そんな言葉すら生やさしい麻帆良女子中三年A組の少女達に揉まれた哀れな青年は――日が暮れる頃には、干物のようにやつれ果てていた。
 結局、メンバーの中では、一番彼との交流があり、彼の逗留先も知っていると言う楓が、肩を貸すようにして帰って行ったが――

「でも意外だったッスねえ、あの長瀬さんが――まあ、年頃の女の子みたいに」
「それは言い過ぎじゃない? まあ、意外だって言うのは私も思うけどさ――ちょっとあんた、ちょっかい出そうとか思ってるんじゃないでしょうね?」
「それも面白そうなんスけどねえ――あそこまで見せつけられると、その気も失せるって言うか。まー、放っておいたら長瀬さんは苦労しそうだし、それはそれで見てて面白いんじゃないッスか?」
「……あんたね、クラスメイトを何だと思ってるの」
「別に良いじゃないッスか。今日は“相坂さん”の歓迎会でしょ? 何にも問題ナッシング。藪守さんはまあ、長瀬さんがアレしたりコレしたりで復活させてくれるッスよ」
「……あんたね」
「今のはやっかみッス。いーじゃないッスか別に。あたしらの中でオトコが居る奴なんて、みんな裏切り者ッスよ」

 そう言って美空は、小さく伸びをした。
 明日菜に負けず劣らずの健脚の持ち主であり、それが縁で美空と親しくなった経緯を持つ彼女は、美空の悪癖の事もよく知っている。彼女はとにかく、何かトラブルが起きたときに、それを引っかき回そうとするのだ。その結果自身が火の粉をかぶっても涼しい顔をしている事自体は、ある意味で誇れる事かも知れないが。
 いつも通りの脳天気な彼女に、明日菜は呆れたような目線を送る。心中で、哀れな青年に声援を送りつつ。

「ま……そっちはそれでいいとして。大丈夫かしらね、和美は」
「単なる寝坊だと思って放っておいたんスけどね。木乃香から聞いてびっくり仰天ッスよ」
「……あんた、ルームメイトの事、少しは心配しなさいよ」
「……そうは言うけど、和美ッスよ?」
「……」

 そう言われてしまえば、明日菜とて返す言葉がない。日頃の行動を考えてみれば、体調を崩して寝込んでいる彼女――など、想像の範疇を超えている。
 そんな明日菜を苦笑混じりに見つつ――美空は、持っていた箱を振ってみせる。帰り際に買ってきた、近所の洋菓子店のシュークリームである。

「これで多少は元気になってもらうッスよ」
「そうね」

 程なく二人は、美空と和美の部屋の前に至り――何気なく、美空はドアノブに手を掛ける。

「あれ、鍵開いてる」
「場所が場所だけに、別に不用心では無いッスけど。おかしいッスね?」

 二人がドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。電気が点いていないのだ。部屋の入り口には和美の靴が置かれていたから、彼女が外出しているというわけではないのだろう。となると――彼女は、まだ寝ているのだろうか?

「これは本格的に体調崩してるのかしら」
「まずいッスね、明日月曜日なのに――和美? 起きてるッスか――ひっ!?」

 ひょいと、部屋の奥をのぞき込んだ美空が――小さく悲鳴を上げる。何事かと部屋をのぞき込んだ明日菜も――思わず、息を呑んだ。
 朝倉和美は、そこにいた。ただし――裸で、ベッドに突っ伏すように、うつぶせに倒れている。

「ちょ――ちょっと、和美……っ!」

 慌てて明日菜は、彼女の元に駆け寄る。そのまま彼女を抱き起こそうとして――

「う……うわ、凄い熱……!!」
「この時期に裸で布団も掛けずにいたら、当然ッスよ! ちょっと……」

 いつもの巫山戯たような表情を消し、美空も素早く彼女の側に座り込む。果たして額に手を当て――手のひらに感じたあまりの熱さに、思わず言葉を失う。

「こ、これはちょっと、洒落にならないかも……和美――和美!?」
「う……み、そ……ら?」
「気がついたッスか!? 何でこんな――」
「み……そ……う、きもち、わるい……」

 一瞬だけ、彼女は身じろぎし――しかし、それすらもかなわなかったのか、そのままの格好で――

「吐いた!?」
「明日菜! 横向きに寝かせるッス! 吐いたものが喉に詰まったら窒息する!」
「え? あ、う、うん!」
「それと大急ぎで、医務室の先生を呼んでくるッス! あたし、多少は応急処置が出来るッスから、その間に! 頼んだッス!」

 言葉を聞き終える前に、明日菜は駆け出していた。
 この夜、麻帆良女子中学生寮の一角が喧噪に包まれた事は、言うまでもない。










色々捏造設定が増えて参りました(笑)
物語に致命的な影響を及ぼさない限りは、
笑って許してくれると幸いです(おい

朝倉さんと春日さんがルームメイト。
これは僕の捏造ですが。

原作で公式に設定のある娘らを除いたクラスメイトから、
なるべく違和感のない部屋割りを自作してみました。

……いかん、どうしても某コスプレ娘が一人浮く(笑)

どうにか違和感のない部屋割りを作るのに三十分。
我ながら馬鹿なことに時間を費やしていると思う、今日この頃(笑)

割と酷い目に遭いつつある朝倉さん。
コレで彼女のスタンスも変わるのか。
乞うご期待。
原作の彼女は、多少ノリの良すぎるところが鼻につく。
そう思うのは僕だけではあるまいと。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・さあ、仕事を始めよう
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/06/08 11:25
「おはよう御座います」
「おはよう」
「おはよー」

 いつも通りの月曜日の朝。挨拶と共に教室に入ったシロに、先に登校していたクラスメイト達からの返答が帰ってくる。自分の席について鞄を開こうとすると、背後から声を掛けられた。

「おはよ、犬塚さん」
「和泉殿。おはよう御座います」
「犬塚さん、昨日は何で来えへんかったん? 相坂さんに最初に気づいたん、シロちゃんやったんやろ?」

 首を傾げながら言う、彼女の後ろの席の主――和泉亜子に、シロは複雑な表情を浮かべて見せた。

「昨日はその事で、少し所用が。昨日の“歓迎会”に出席したのならご存じの通り――相坂殿は、普通の人間の目には見えぬ。さりとて、毎日毎日、横島先生の“霊能力”を使って姿を現すと言う訳にも――第一、ずっとあのままというわけにはいかんで御座ろう?」
「え……それって、その――相坂さんを“除霊”してまうてこと?」
「拙者とて、クラスメイトを祓いたくは無い。彼女の気持ちも、痛いほどによくわかる。されど――そういう事もまた、考えておかねばならぬ故」
「……」

 当然ながら、亜子はゴースト・スイーパーの事はよくわからないし、オカルトがらみの事件に遭遇したこともない。ただ、さよの事を、“変わったクラスメイトが増えた”と位にしか考えていなかったわけだが――

「そんな顔をなされるな、和泉殿。そうならぬように――また、相坂殿にとって良いようになるように、彼女を見つけた拙者がどうにかしようと思っただけで御座る。そのための所用で、昨日はご一緒出来なんだ。それは残念で御座ったが――しっかり楽しめたようで御座るな?」
「ああ、うん、そらもう。せやけどおもろいなあ、あの藪守さんっちゅう人は」
「――あのお方は先生ほどの耐久力が無い故に、あまりいじめてはいかんで御座るよ?」
「何や、人聞きが悪いなあ。こんな可愛い女子中学生が、大勢で遊んでやったんやで? 普通なら涙流して喜ぶべきところや」

 とは言ったものの、彼女の口の端が引きつっているように見えるのは――シロの気のせいだろうか? じっと亜子を見つめていると――彼女は、観念したように俯いた。

「ごめんなさい、裸に剥きかけました。帰る頃には魂抜けかけてたみたいです」
「……――何というか――拙者、クラスメイトが逆セクハラで捕まるところなど見たくはないで御座るよ?」
「すいません、あんまりにもあの人が面白くて――今は反省している」
「結構」

 小さく息を吐き、シロは鞄の中身を机の中へと移した。彼女は律儀に、教科書や参考書の類を学校に放置する事はしない。宿題や予習もきちんと済ませる。自然、お祭り好きの体力馬鹿と思われがちだが――学校の成績は、存外に良い。
 本人曰く、今は学校に通うと言うことが楽しくて仕方ないと言い、それを聞いたとある黒髪の女性が、懐かしそうに笑っていた。
 閑話休題。

「ほんで――その相坂さんは、もう来てはるんかな?」

 そう言って、亜子は教室の中を見回す。シロも同じように、始業前の教室を一通り見回し――首を横に振った。

「今日はまだ来られて居ない様子」
「そか。んー、確かに不便やなあ。うちらには姿が見えへん、っちゅうのは。どうにかならへんの? 昨日みたいに」
「あれはそうそう多用出来るやり方では御座らん。やり方が無いわけでは御座らんが――拙者らが“ジェームズ式”と呼んでおる、幽霊が己の存在感を高めるやり方とか。されど、おキヌ殿が――ああ、幽霊に関しては右に出る者の無い“死霊使い”のお方で御座るが――」

 “死霊使い”などと聞いて、亜子の表情が僅かに動く。それも当然だろう。何も知らない人間からすれば、幽霊を使役する何者かなど――多分彼女の頭には、死神のような姿の人物が浮かんでいるのだろう。
 シロは苦笑しながら、本来の“死霊使い”とは、幽霊と気持ちを通わせる事の出来る希有な人間の事を指すのだ――と、やんわりと訂正してやる。

「彼女はどうやら、普通の幽霊とは何かが違うと。無理をすれば、彼女の有り様自体に悪い影響を及ぼしかねない故に――結論を出すには、この一週間程度掛かりそうで御座るよ」
「そうなんか――」
「心配せずとも、おキヌ殿はその道のプロであって、横島先生やケイ殿もまた、頼れるお方。きっと悪いようにはならぬで御座る」

 そうこうしているうちに予鈴が鳴り、少女達は各々、自分の席に着く。机と椅子が立てる騒がしい音が教室に満ち――それが収まったところで、赤毛の少年が教室に入ってくる。いつもの通り、礼儀正しく「おはよう御座います」と頭を下げる彼に向かって、少女達の挨拶が一つに重なる。

「それじゃあ出席を――ええと」

 ネギは出席簿を手に、クラスの端にある空席に視線を向ける。しかし彼には、その席が本当に“空席”であるのかどうかがわからない。シロがその席を一瞥し、ネギに言う。

「……まだ来られてないようで御座るな」
「あ、そ、そうですか――では、相坂さんは欠席、と――先に聞いている欠席は、朝倉さんと春日さんですね。では、改めて出席を取ります。明石裕奈さん――」
(和美殿が、欠席?)

 自分の席から、友人を通さずにさよの席が確認できた――つまり、自分の隣の和美が不在なのはわかっていたが、学校そのものを休んでいるとは思わなかった。自分が言うのも何であるが、彼女はちょっとやそっとで体調を崩すようには思えないし、土曜日に見た彼女は、いつもと変わらない様子であったからだ。

(……珍しい事もあったもので御座るな)
「四葉五月さん」
「はい」
「ザジ・レイニーデイさん」
「……はい」
「はい、それでは欠席は相坂さん、朝倉さん、春日さんですね。それじゃあ各自、一時間目の用意をしていてください。それでは」

 ネギが退室し、一時間目までの僅かな時間――しかし果たして、それなりの喧噪が教室の中に満ちる。シロが授業の用意をしていると、ふと彼女の横に、誰かが立った。淡い亜麻色の――かつての彼女の上司を思わせる長髪が、視界に映る。

「シロちゃん」
「明日菜殿――如何なされた?」
「あ、うん――和美の事なんだけどさ。あいつ――昨日、部屋で倒れたのよ。それ見つけたのが、私と美空でさ。美空は今日、あいつの看病で休んでるの」
「……何と。して、和美殿は?」
「うん……熱がちょっと高いけど、それ自体はただの風邪らしいから、大した事は無いって。でも――おかしいのよ」

 明日菜は一瞬、シロの後ろの席に目を遣る。その席に座る亜子は、一時間目の現代文――その教科書が中々見つからないらしく、机の中を引っかき回していた。彼女はどうやら、シロとは逆に、教科書の類をあまり持ち運ばない性格であるらしい。
 それを確認して――明日菜は、小声で言う。

「お医者さんが言うにはね、こんな春先に、布団も掛けずに裸でいたら、そりゃ風邪も引いて当然だって」
「……まあ、肌寒さの残る季節であるから――ん?」

 そこでシロは、違和感に気がつく。
 何故和美が――布団もかぶらずに裸で――などと、その様な行動を取るのだろうか? 休日の自宅では、裸かそれに近い格好で過ごす――そんな人間は存外に多いと聞く。しかし彼女が住んでいるのは学生寮、それもルームメイトが同じ部屋にいるのだ。今日、彼女の看病をしているという美空が。余程神経が図太いか変わっているか――そうでなければそんな行動は出来ないだろう。

「……私が部屋に入った時ね、あいつ、素っ裸で倒れてたのよ。そのせいで風邪を引いたって――じゃあ、何であいつ倒れたんだと思う? 美空が言うには、朝出かけるときは、まだ寝てたって言うのよね。木乃香の電話には、“調子が悪くて行けない”って返答したって言うけど――その時倒れて動けなくなってるなら、そう言うでしょ?」
「しかし――もともと体調が悪かったところを無理をして動いて――たとえば着替えだとか風呂だとかの為に服を脱いだところで気を失ってしまったのでは? その結果運悪く、高熱が出るほどに風邪をこじらせてしまったとか」

 そう考えるのが確かに、一番妥当であろう。明日菜は小さく頷いたが――しかしややあって、顎に手を当てて、考え込むような仕草を取る。

「……明日菜殿?」
「ん……確かに、シロちゃんの言うとおりなんだけどさ――気になるのよね。私」
「何か、あったので御座るか?」
「土曜の夜のことなんだけどさ。あいつ、大浴場でのぼせてぶっ倒れたのよ。その時――何か様子が変だったから――何か、気になっちゃって」




「おキヌちゃんは、どう思う?」
「……私には何とも――ただ、語られたことが全てではない――そんな気はしますね」

 横島邸の居間では、午前の仕事を終えた横島とおキヌ、それにタマモが、おキヌの作った昼食をとっていた。メニューは質素な和風のものであるが、みそ汁一つ取ってみても、シロとは違う。この言葉に出来ない味の違いを、横島は楽しんでいたのだが――ふと、彼は湯飲みを手にしながら言った。
 昨日の学園長から聞いた話は――ある意味で、予想を大きく外れるものではなかった。
 相坂さよは、かつての近右衛門――“魔法先生”として、この麻帆良の地で教鞭を執っていた彼の教え子であったが、果たして彼女は、魔法使いの抗争に巻き込まれて、短い命を散らせてしまう。
 近右衛門はその事に酷く落ち込み、一時は教師も魔法使いも辞めてしまう事を考えていたという。しかし――彼女が通っていた教室に、幽霊のうわさ話が広まった。近右衛門は魔法使いであるが、霊能力者ではない。その“幽霊”が何者なのかはわからなかったが――もしも彼女が相坂さよであるのなら、無碍に祓う事はしたくないと、その教室に空いた机を一つ置き、彼女の席とした。
 そして必死に教師を続けた。彼女にも自分の声が届いていることを、信じて。
 ならば自分たちの手を借りて、彼女に会うかと横島達は提案したが、彼は首を横に振った。今更自分は、彼女に合わせる顔はない、と。その代わりに、どうか悪いようにはしないでやってほしいと、深々と頭を下げたのだった。

「ただ――嘘をついてる様子でも無かったですね」
「まあな。ま……顔を合わせたくない気持ちもわかるし、合わせてもどうなるか。さよちゃんは昔のことを覚えてないみたいだし――かえって傷つけるだけかも知れんしな」
「人間って難しいものね」

 そう言ってタマモは、ポケットから煙草の箱を出し、慣れた様子で一本くわえて火を付ける。ややあって幸せそうな表情で煙を吐き出し――

「タマモちゃん」
「あ……ごめん」

 ここが他人の家だったことに気がついて、慌てて火の点いた煙草を、手の中に握り込んだ。果たして彼女が手を開いたとき、そこには吸い殻など残っていない。

「まったくもう……女の子が煙草なんて」
「や、煙草吸うのに性別は関係ないわよ。それに、私はこんなもんの毒物にやられたりなんてしないしね」
「喫煙が習慣になってる時点で、十分毒にやられてます! って横島さんも、物欲しそうな顔で見たりしない!」
「あー……もう、煙草やめて結構経つのになあ。未だにこう、口寂しいときがあるんだよ」
「口寂しい、ねえ。おキヌちゃんにキスでもしてもらえば?」
「なっ……タマモちゃん!」

 面白いほど赤くなった彼女を見て、タマモは小さく笑い――煙草の箱を、洋服のポケットに戻す。そして一つ咳払いをして――

「何を今更――あげはには、毎朝そうやって起こして貰ってるんでしょ? ディープなキスで、さ?」
「あのガキは何てことを言いやがる!? ああもう、デマだよ、デマ! タマモもな、そうやってあること無いこと――って、おキヌちゃん? 何笑ってんの? あの、おキヌさん。目元が笑っていない笑顔を浮かべるのはやめてください。根も葉もないただの――だから、その、どちらへ行かれるのですか? 横島さんを殺して私も――って、ちょっと待てぇええぇ!?」

 しばらく後、居間には腹を抱えて笑い転げる金髪の美女と、ふくれっ面でそっぽを向く黒髪の美女――そして、げっそりとやつれ果てた青年が転がっていた。

「あはは……ひー、ひーっ……も、もう駄目――やっぱりあれ? ケイと言いあんたといい、“兄弟”揃って私を笑い死にさせるつもりなのね?」
「爆弾を放り込んだのはお前だろうが! もうお前、東京に帰れ!」

 吐き捨てるような横島の言葉に、タマモはまた小さく肩を震わせたが――ややあって、おキヌが大きなため息をついたので、これ以上からかうのは良くないと判断したのか、こみ上げてきた笑いを飲み込むように、お茶を啜った。

「最悪、文珠で吐かせてもいいんだけどな」
「……それは本当に最後の手段にしてください。文珠の使用は、横島さんやあげはちゃんに、少なくない負担を――」
「使用っつうか、“作成”がな? 大丈夫だって、まだいくつかストックが――あ」
「ストックって――つまりそれだけ作ったって事なんじゃないですか! もう、あなたって人は――どれだけこっちが心配したって」
「だ、だからその辺りは、ちゃんとあげはとも相談して――あいつが大丈夫なら大丈夫だってば。それはおキヌちゃんだってわかってるだろ?」

 手を振りながら言う横島に、不承不承――と言った風に、おキヌは息を吐く。

「とにかく彼女――相坂さんは、霊体としては非常に奇妙な存在です。“ジェームズ式”で存在感を高める事は出来なくも無いとは思いますが――」
「あれは、この世に執着がある幽霊にしか使えねーしな。あの子が、この世に何かの執着があるにせよないにせよ――無理に存在感だけ高めようとしたって、最悪霊基構造の崩壊を起こして悪霊化する――だっけ?」
「はい――ですから、もういっそのこと、長い時間を掛けて神格化でもさせたほうが、ある意味で現実的なんですが――彼女の意志を考えれば、それもどうかと」

 考え込む二人に、タマモが口を挟んだ。

「だったら妙神山に放り込むってのも却下ね。あげはがこっちに来てからは、本当に暇そうだもん、あの人達」
「何となくわかるが。しかしヒャクメの馬鹿が暇をもてあますとロクな事にならんだろ」
「大丈夫よ、あのボケ神だったら、デタントの絡みで――中東のテロリストを悪魔が手引きしてる可能性があるとかって、ワルキューレとジークに連れられて――今頃はアフガンあたりで迷子になってるんじゃない?」
「気楽そうに言ってやるなよ――あいつも苦労してんだな。だったら尚更あそこは没だ」
「そうですね――霊体が安定するまでどれだけかかるか――その時間を、“学校”から引き離すのは」
「学校と言えば、愛子にでも頼んでみるか? あいつの腹ン中は、時間の流れ方がこっちとは違うし――駄目か。あんなところに一人で何十年も入れられたら、俺だって気が狂っちまう」

 横島は大きく伸びをして、肩を鳴らす。座りっぱなしの仕事であるので、肩や腰に負担が掛かるのは職業病だ。当たり前のようにおキヌが動き――彼の肩を揉んでやる。

「あ、ありがとう、おキヌちゃん」
「いえいえ――どういたしまして」

 そんな様子をタマモは、頬杖をついて眺め――そんなとき、廊下の方で電話が鳴った。珍しくタマモが腰を上げ、自分が出ると言って部屋から出て行く。ややあって――襖から顔を出して、彼女が呼ぶ。

「横島、電話よ――馬鹿犬から」
「あ? 何でシロから――あいつまだ、学校だろ?」




「あ、あの――朝倉さんは、大丈夫なんでしょうか?」

 ベッドで荒い息をつきながら眠る少女を見下ろし――少年教師は、不安そうに言った。白髪の青年は腕を組み――小さく頷く。

「ネギ、その前に一つ聞いて良いか?」
「何でしょう?」
「俺はシロの保護者っつーことでここに入って来れたが――何でお前が当たり前のように女子寮の中にいる?」
「は? そりゃ、僕は彼女たちの担任ですし――それに、僕は明日菜さんと木乃香さんの部屋に間借りしてますから」
「……何だと? 女子寮の一室に、それも女の子が二人もいる部屋に、間借りだと?」
「は、はい。だって教員寮に空いてる部屋が無いから、しばらくは、って学園長が――あの、横島さん? 何で僕の頭に手を――って、痛い?! 爪が食い込んで――頭が、頭が割れる!?」
「横島先生――今はそう言う馬鹿なことをやっている場合では御座らん」
「おお、すまん。ついな」

 シロの言葉に、横島はネギを放り出し、ベッドの和美に顔を近づけた。彼女の枕元では既に、おキヌが腰をかがめて彼女に手をかざし、霊的治療と霊的診断を平行して行っている。霊体を自在に操れる彼女は、実はこういった方面にも適性が高い。
 シロの電話によって呼び出された横島一行は、午後の授業が終わってそのまま寮に直行したネギ達と合流して、今は寮の和美と美空の部屋にいる。部屋には木乃香やあやか、美空も居るが、横島やおキヌは同じ超常現象の使い手とは言っても、ネギのようにその存在を秘匿する必要はない。
 もっとも、つられてボロを出しそうになるネギの監視は、明日菜が一身に引き受けているが。

「どうだ? おキヌちゃん」
「……非常に微弱ですが、霊体の乱れを感じます――神楽坂さんから聞いた事も含めて――症状から考えて間違いなく、軽度の精神感応症候群を発症してます」
「せいしん……あの……それって何ですか?」

 聞き慣れない単語に、明日菜はおずおずと質問する。

「心霊医学の発達が明らかにした病気――つまりは“霊障”の一つで――早い話が、自分が誰かと混ざり合ってしまう病気です。胡蝶の夢――って、聞いたことありません?」
「中国の古代思想家――荘子のエピソードの一つですね。自分が夢の中で蝶になり――目が覚めて、自分が蝶になる夢を見た人間なのか、人間になる夢を見ている蝶なのかがわからなくなった――と」

 言葉に詰まる明日菜を尻目に、よどみなく応えたあやかに――おキヌは、小さく頷いて見せる。

「それは単なるたとえ話ですけど――つまりはそう言うことです。時として人間の思いは、空間や――時には時間さえも超えて、他人に届く事がある。その辺りのメカニズムはまだ解明されていないんですが――しかし、その思いが、他人に影響を与える事だけは、心霊医学では立証されているんです。嫌な予感がしていたら、知り合いの訃報が届いたとか、遠い戦地に居るはずの恋人の声が聞こえたとか――そう言うお話、聞いたことありませんか?」
「えっと――それが何かまずいんですか?」
「……度が過ぎれば、それはまさに“胡蝶の夢”となる。思念が混ざり合ってしまって、最悪の場合、自分が何者なのかすらわからなくなる――そう言うことです。もっとも、霊的に閉鎖された部屋でゆっくりと療養すれば、必ず良くなる病気ですから、それ自体に危険はありませんが――」

 得体の知れない恐怖に、背筋を冷たいものが走るのを、明日菜は感じた。しかし、おキヌの話では、それほど危険な病気では無いのだという。ほっと胸をなで下ろしそうになって――そこで彼女は、難しそうな顔をして立っているシロと、同じような表情を浮かべている横島達に気がついた。

「……あの、どうかしたんですか?」
「横島」

 明日菜の問いには答えず、タマモはちらりと、隣に経つ横島に目を遣った。

「あんた、免許まだ失効してないわよね?」
「ああ。来年の誕生日までは有効だ。この際次でもう流しちまおうかと思ってたんだが」
「だったら急いでゴースト・スイーパー協会に連絡しなさい。私やおキヌちゃんだと、確実にミカミがしゃしゃり出てくるから」
「……美神さんはあれでこーゆーの甘いから、心配は要らないと思うけど――まあ、くだらないことに手を焼かせんなって、俺が殴られるくらいは覚悟せんといかんだろうしな。美空ちゃん――そこのパソコン使っても大丈夫かな?」

 テーブルの上にあるノートパソコンは、和美の私物だ。だが、別に横島が彼女のプライベートを覗き見しようというわけではないのだろう。美空は、小さく頷いた。横島がシロに支えて貰いながら床に座り、パソコンを立ち上げるのを横目で見つつ、彼女はタマモに問う。

「あの、何か問題でもあるんスか?」
「何年か前の、魔神の核ジャック事件――知ってる? まあ、あんたらはその頃小学生のガキだろうから、知らなくても仕方ないけど」
「……お主に言われたくないとは思うがな」

 シロの呟きを無視して、タマモは続ける。

「あれから一部の――精神の細い連中がね、オカルトに過剰反応するようになってるのよ。それで一昨年、対心霊現象特殊作業従事者に関する法律――所謂ゴースト・スイーパー法が改正されてね」
「病院が、事情がある場合を除いて急患の受け入れを拒否出来ないように――危険のある心霊現象を目の当たりにした場合、ゴースト・スイーパーはそれを放置出来ないんです。もしも自分が対処できない場合は、国選のゴースト・スイーパーが呼ばれる事になる」

 おキヌが小さく首を横に振りながら言い――果たしてもう一度、タマモがその言葉の跡を取った。

「でもね、国選ゴースト・スイーパーの報酬って、もの凄く安いのよね。だから、たいていそう言う事件には、駆け出しの新人が選ばれる羽目になる。弁護士とかと似てるわね? んで――そんな連中は、知識もないし、とにかく事件を数こなさなきゃ一人前になれないから、がむしゃらに霊を祓う。それこそ、その事件の背景なんてものには、目もくれない。そんな暇はない」
「それって」
「ええ――」

 おキヌは、目を伏せて苦しそうに、首を横に振った。

「この“霊障”は――状況から考えて、相坂さんが起こしたものに間違いありません。もちろん、彼女にはそんなつもりはないんでしょうが――席が隣だって言うこの娘と精神の波長がリンクして、一時的に霊体の力が上がったことで、影響が一気に出たんでしょうね」
「放っておけば、そういう考え無しの国選ゴースト・スイーパーが飛んできて――彼女は“悪霊”として処理される。オカルトGメンならまた話は変わってくるんでしょうけど――慢性的な人手不足のあそこが、こんな小さなヤマに出向くとは思えないしね」
「そんなっ!」

 明日菜と美空の声が重なり――あやかと木乃香の顔が、辛そうに歪む。あやかは側にいたシロの袖を掴み、懇願するように言った。

「何とか、何とかなりませんの!? あんなに苦しんでいた彼女が――“悪霊”だなんて! 酷すぎますわ!」
「落ち着かれよあやか殿――とりあえず、これが“霊障”と認定される前に、横島先生の名前で、この事件を引き受けた事にしておけば――国選ゴースト・スイーパーに、相坂殿が問答無用で処理されることはない故に」
「あ、ああ……それで、パソコンが必要だったんですね」

 やんわりと腕を押さえられ――あやかは、小さく安堵の息を吐く。
 しばらく、部屋の中には沈黙と――和美の荒い息づかいだけが響き――ややあって、次に口を開いたのは、少年教師――ネギ・スプリングフィールドだった。

「……何とか――何とかならないんですか? 僕は、彼女を見捨てたくない」

 それに応えたのは、我らが白髪の青年――横島忠夫。彼は、ネギの瞳をまっすぐに見据え――小さく笑みを浮かべて見せた。

「馬鹿言え――何とか“する”んだよ。お前、あの子の担任なんだろ?」











話の流れを自然にするためとはいえ――
うーん、法律とかを持ち出すのは技量不足の表れ。

「こういうものがあるんだから仕方ないだろ!」と。

ピンチになると必ず都合の良いカードが出てくる某カードバトル漫画とか。
僕あの漫画、最初のストイックさ加減が好きだったんですがね。
靴の中にサソリ入れるとかあの馬鹿っぽさが。

別にあの作者が技量不足って言うんじゃなく、
割り切ってしまえばあれはあれでもちろん、面白いと思いますが。

日々精進いたします。

今回のサブタイトルは、進行が遅いと評判の(笑)某料理漫画の一節から。
あのドラマ版は、正直、ねーよ(笑)



[7033] 麻帆良女子中三年A組・彼女の謝罪
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/06/10 00:53
諦められない事がある。
だとしたら、取る道は二つ。
諦めないことと、諦めずに“やり抜く”こと。あなたなら、どちらを選びますか?




「風が気持ちいいでござるなあ。拙者、乗り物と言えば電車かバスくらいにしか乗ったことが無いので、とても新鮮に感じるでござるよ」
「それは結構――でも、普通この手のバイクのタンデムシートに座るのって、ちょっとした拷問だって言われてるんだけどね。つかまるところがない、座り心地は悪い、振り落とされそうで怖い――うん、僕自身そう思う」

 精悍な漆黒のフルカウルを纏った一台のバイクが、麻帆良の町中を駆け抜けていく。カワサキZX-10R初期型――シティユースすら視野に入れていた、間口の広いスポーツモデルだった前身――ZX-9Rから一転、まさに“スーパースポーツ”の名にふさわしい運動性能を持つ、“じゃじゃ馬”である。
 当然ながらこの種類のバイクは、サーキットをはじめとしたスポーツ走行を一番の目的に作られている。ツーリングやシティユースにも使えなくはないが、極端に前傾した乗車姿勢に、足つき性の悪さ、燃費の悪さ、凶暴なエンジン特性、ライダーをさいなむエンジンの熱――と、あまり日常での使い勝手は宜しくない。
 中でも二人乗り用の後部座席――タンデムシートは、本当に“おまけ”のようなもので。実際にそこに誰かを乗せて走ったとすれば――その乗り心地は、“乗り心地の悪さ”などと言う表現を超越したものとなる。
 しかし、このバイクのリアシートに座る少女――長瀬楓は、そんなことはお構いなしと言ったふうに、ライダー――藪守ケイの腰に軽く手を添えて、流れていく景色を楽しんでいた。ヘルメットに収まらない彼女の長い髪が、風に吹かれて後ろに流れていく。

「それにやっぱり目立つなあ」
「そうでござろうか?」
「さっきから信号待ちのたびに、もの凄い視線感じるんだけど。僕にじゃなくて、楓さんの方に」
「あはは――ま、まあ、それは仕方ないと我慢するでござるよ。無理を言ってついてきたのは、拙者の方でござるから」
「でも、いいの? あんまり面白くもない仕事になると思うし――宿題とかだってあるんじゃないの?」
「……後のことは後で考えるでござるよ。手伝いに関して言えば、それこそ拙者の勝手。ケイ殿が気に病むような事ではござらん」

 バイクのリアシートに座る楓は、麻帆良女子中の制服姿のままであった。流石にスカートの下に、体育の授業で使ったハーフパンツをはいてはいるが――レザージャケットを着込んだケイとの対比で、彼女の格好は余計に目立つ。フルフェイスのヘルメットで顔こそ隠れてはいるが――
 昨日の馬鹿騒ぎの詫びだと言って、ケイを呼び出したのは楓だった。彼女が言うには、カフェで軽食の一つでもおごるという話であったが、ケイにしてみれば、彼女にそこまでして貰う理由は何もない。彼女は別に、あのクラスを代表する立場には無いからだ。どちらかと言えば、少女達の暴走を止めようとしてくれていた彼女には、礼を言いこそすれ、わびて貰おうなどとは思わない。
 などと、馬鹿正直に告げた彼に対して、楓が浮かべた表情と言えば――今更語るまでもないだろう。

(この毒のなさは――ある意味では魅力なのでござろうが)

 楓は思う。出会い方は最悪だった。面白い人間だというのはすぐにわかったが――どうして自分が彼に惹かれるのかは、実のところ未だにわからない。優しいからだと言えばもちろんだし、自分よりも強いからだと言えばそうかも知れない。ただ――そんな言葉で、自分の胸に渦巻くこの気持ちを説明できるとは思わない。説明したくもない。
 だから楓は、感情に任せるままに、そっと彼に身を寄せ――
 そこで、ケイの携帯電話が鳴った。
 はっと我に返り、慌てて彼から距離を取るも――彼の方は、まるでその様子に気づかなかったように、小さく断りを入れて電話に出る。
 そしてその時の楓の表情というのもまた――言わぬが華というものであろう。
 果たして、電話の内容はと言えば、彼が兄と慕う青年から、“相坂さよ”の件で少し困った事が起きており――ケイには至急、確かめて貰いたい事があるのだという。彼はそれを承諾し、楓には済まなそうに、用事が出来てしまったと言ったのだが――そこで彼女は、差し支えが無ければ自分もついて行く、と、言い出したのだ。
 果たしてしばらく後、楓はケイのバイクの後ろに乗り、麻帆良の街を走っていた。
 彼の運転技術はかなりのもので、楓には知るよしもないが、じゃじゃ馬と名高いZX-10Rが、まるでそんなバイクではないように、柔らかく、そして軽やかに道を駆け抜ける。まるで自分が、地上一メートルほどのところを飛んでいるような錯覚に陥るほどだ。

「これは元々横島にーちゃんのバイクなんだけどね」
「横島殿の?」
「うん――にーちゃん、足が不自由になっちゃってからは車に乗り換えて――ただ売り払うのも何だかもったいないから、僕にって。はは、正直僕の安月給じゃ、これの維持費払うの結構大変なんだけど」
「そう言えば、横島殿は――あ……い、いえ、何でもござらん」

 楓は何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。ケイには、その気遣いの意味がわかる。横島のような人間は気にしないかも知れないが、無遠慮に他人の障害について、根掘り葉掘り聞くと言うのは、どうにも趣味が良くない。

「色々あってね」

 ケイは小さく言った。

「でも、余計な気遣いは要らないよ。前にネギ君にも言ったんだけど――あの人は、ああなったことを、全然後悔なんてしてないと思う」
「……拙者――深く聞こうとは思わないでござるが――」
「ま、僕らの側にいたら、そのうち嫌でも知ることになるかもね。出来れば――そんな日が来ないことを願うけど。って、別にそんな大げさな話じゃないんだけどね。色々とややこしいんだ、“あの事件”は――と、ここだ」

 タンクの上に備え付けてある、バイク用のナビが、彼らが目的地に到達したことを教えてくれる。ケイはギアを一つ落とし――エンジンブレーキとリアブレーキを中心に、なるべく楓に負担が掛からないように、バイクを減速させ、路肩に止めた。
 そこは麻帆良の郊外に存在する緑地帯の一角だった。しかし、公園などとは違う目的で存在するその場所は――平日の午後であるこの時間、人通りは非常に少なく、ただ風にそよぐ木の葉の音だけが響き――不思議な別世界に迷い込んだようにも感じられる。
 少し離れたところに、白い大理石で作られたアーチが建っていた、果たして、そこが目的の場所の入り口だった。ケイと楓はヘルメットを脱ぎ、バイクを押してそのアーチに近づくと、それを見上げる。
 そこには、飾り気のない字体でこう刻まれていた。

 ――麻帆良市営・麻帆良霊園入口――




「――ああ、そっか――いや、いい。お前はそのまま帰ってくれれば――何? 楓ちゃん? 何で楓ちゃんが――ああそうか、いつか貴様とは決着を付けねばならんと思っていたが、よもやこうまで早くその機会が来るとは――あ、てめえ! 切るな! まだ話は終わって――くそっ」
「大体想像は付くで御座るが、ケイ殿は何と?」
「……楓ちゃんと一緒にいるから、とりあえずあの子を送って行くとよ」
「いや、そっちじゃないッスよ」

 思わず訂正を入れた美空に、横島は小さくため息をつき、首を横に振った。

「単に電子記録に残ってないだけかと思ったけど――アタリだった。“相坂さよ”なる女の子が、麻帆良霊園に埋葬された記録は無いそうだ。無縁仏の共同墓地にも、霊園の管理をしているところにも、そういう記録は残ってなかったってよ」
「つまり――それってどういう事?」

 首を傾げる明日菜に、彼は肩をすくめてみせる。

「今はまだわからん。けど――この一件は一筋縄じゃいかないだろうって事さ」




 時間があまりない――横島は、そう言った。
 自分の名前で今回の一件を、ゴースト・スイーパー教会に報告した事により、国選ゴースト・スイーパーにより、相坂さよが問答無用に除霊されるという危険は無くなった。しかしそれは同時に、今回の一件が正式に“霊障”として認知されてしまったということでもある。
 和美が倒れた事により、遅かれ早かれそうなるのは避けられなかっただろうから、彼の行動が間違っていた、というわけではないのだが――

「この辺り、国家資格であってお仕事である――ゴースト・スイーパーの厄介なところでね」

 火の点いていない煙草をくわえて、面倒臭そうにタマモが言う。

「今度の一件は、“埼玉県麻帆良市麻帆良学園女子中に於いて、幽霊が原因と見られる障害が発生”って事で、協会に登録された。担当ゴースト・スイーパーは横島忠夫。依頼者は雪広あやか。依頼金は二百五十万円。ま――これは名目上だから、本気で払う必要はないからね」
「友人のためとなれば――その程度のお金は惜しくありませんが」

 拳を握りしめて言うあやかに、タマモは苦笑する。

「それはあんたのお金じゃないでしょうが。そう言う台詞は、自分でお金を稼げるようになってから言いなさいな」
「う――そ、それは――しかし」
「料金を踏み倒されたってのならともかく、ゴースト・スイーパーの方から“料金は要らない”なんて言うことはあり得ない。深く突っ込んで調べられでもしない限り、この“契約”が単なる隠れ蓑だって事はばれないわ。欲しいのは、この中じゃ唯一お金を払える可能性がありそうなあんたの“名前”なのよ」

 言いたいことはわからなくもないが、大体にしてお金は別に必要でない――そう言って、彼女は煙草を手の中でくるりと回す。白い手のひらに一瞬隠された煙草は、次の瞬間には影も形も無くなっていた。

「そこまではまあいいんだけど――そうなった以上、ズルズル引っ張るわけにもいかなくてね。横島の名前って、この業界じゃ結構有名でねえ――“あの”横島忠夫が手こずる事件――なんて注目集めちゃったら、身動き取れなくなるのよね」
「ほわー……横島さんって、凄い人なんやなあ」
「ただの馬鹿よ」

 感嘆の声を上げた木乃香であったが、タマモはそれをばっさりと切り捨てる。おキヌは苦笑いを浮かべていたが、横島は特に、これと言った反応を見せることはなかった。

「せめてケイがもうちょっと使える奴だったらね。全くあいつは、いい加減本気出して免許取れって言ってるのに――その度に美神の折檻食らう羽目になるんだし――あいつひょっとして、マゾの気質でもあんのかしら?」
「うえ……想像させんなよ気持ち悪い。まー、無い物ねだりをしても始まんねーし……さて、何から始めたもんかね。とりあえずこれで、さよちゃんの死の真相っつうか……何かしらの裏があるのはわかったようなもんだが」
「もう一度、学園長先生に聞いてみますか?」

 不安そうにネギはそう言ったが、横島は首を横に振る。

「その辺は――まあ、あれだ。個人情報云々とかのアレもあるだろうし、これ以上はな」
「個人情報って――そんな事言ってる場合ですか!?」
「……馬鹿か、お前は」

 ネギだけに聞こえるくらいの小声で、横島は言う。学園長について話をすれば、さよが“魔法使い”の絡みで命を落とした事も、芋づる式に話さなければならなくなる。最終的に話の落としどころが何処に行くにせよ――木乃香やあやか、美空と言った、魔法とは関係のない人間の居るこの場所では、実はあまり突っ込んだ話が出来ないのだ。
 横島にすれば、魔法の秘匿などに、大した意味は感じない。自分自身を「魔女」と名乗る女性も、彼の知り合いには居る。もっとも彼女が言うには、自分こそが“魔法使い”としてみれば異端であり、少々事情が特殊なのだと言うが――

(……全く面倒だね、魔法使いって奴は)
(……申し訳ありません……)
(いや、別にネギを責めてる訳じゃないんだが――んん)

 横島はがりがりと頭を掻き――少し考えてから、手を叩く。

「職員室とかには、まだ見てない資料があるかもな。俺とネギはそっちに行ってみるわ」
「そう? それじゃ私は、おキヌちゃんと一緒にもうちょっと、当時の状況をこっちから調べてみるわね」
「明日菜ちゃん達には、和美ちゃんの看病を頼めるかな? さっきタマモがこの部屋に簡単な結界を張ったから、後は普通通りに風邪の看病してくれりゃ大丈夫。シロは――」
「拙者は、とりあえず相坂殿を探すで御座る。何故か今朝から姿が見えぬというのも、少々気になる故に」

 そうして“横島一家”は、てきぱきと動き出す。ともすれば、不自然だと思えるくらいに“てきぱき”と。




「そこの小動物よー、本来ならこういうフォローは、お前の方でやってほしいんだがな」

 廊下を歩く道すがら、横島はネギの肩に乗る白いオコジョ――カモにそう言った。カモは短い前足で、器用に後頭部を掻きながら、申し訳なさそうに言う。

『面目ねえ。けど俺っちはこの通り、正体自体が秘匿に触れる存在だ。黙ってりゃただのオコジョだしなあ』
「ご、ごめんなさい……相坂さんの事をなんとかしなくちゃって思ったら――頭の中がうわわーって」
「まあ、その辺りは仕方ねえよ。誰もガキのお前に腹芸が出来るとは思ってねーし……それにしてもお前は危なっかしいけどなあ。そのうち明日菜ちゃん、胃潰瘍か何かでぶっ倒れるぞ?」
『そう言う旦那は、隠し事が得意な方なんですかい? さっきのアレは見事でしたがね。旦那のところの姐さんがたは、ああいうことに慣れてるとか』
「まあ、順応性は高かろうがなあ、俺は……とある女性と飲みに行って、彼女の家に泊まったことがあっさりバレました」
『……旦那……』

 何故か感動したような目線で自分を見上げるカモと、横島は固い握手を交わす。と言っても、彼が伸ばした指先を、カモがしっかりと両の前足で捕まえただけであるが。自分の肩の上で交わされるそんなやりとりの意味がわからず、当然ネギは、頭の上に疑問符が浮かんだような顔をしていたけれども。
 横島の歩調に合わせて、移動は幾分ゆっくりしたものだった。麻帆良学園は歴史の古い建物が多く、車いすなどで移動をするにはあまり向いていない。もちろん、特殊学級や福祉施設の周辺はその限りではないが――いつのも倍程度の時間を掛けて、ネギと横島は“資料室”と銘打たれた部屋にたどり着く。

「他の先生方から聞いたところによれば――この部屋は、麻帆良学園本校女子中等部が設立されてから今までの、色々な記録が収めてあるそうです」

 そう言って、ネギは職員室から借りてきた鍵で、扉を開ける。あまり使われることが無いのだろう、ほこりっぽいその部屋は、通常の教室の二倍程度の広さを持ち、その中は多くの無骨な本棚で仕切られている。
 その本棚には、プラスチックのファイルから紐で綴じられた古めかしい帳簿まで、多くの資料が収められていた。壁に目を向ければ、据え付けられた棚の中には、トロフィーや賞状、楯などが、ぎっしりと詰まっている。

「この中から情報を探すんですか……? 今日中に終わりますかね」
「いんや、情報を探すってのはただの方便さ。第一、魔法使いがらみの資料が、こんなところに収めてあるわけねえだろ? ここの何処かに隠し部屋でもあって、とか言うのも、中々愉快な想像だが――俺は単純に、木乃香ちゃんやあやかちゃんの目を気にせずに、お前と相談がしたかっただけさ」

 そう言って横島は、奥に並ぶ、少々型の古いパソコンの前に行くと、そのスイッチを入れ――しかし、ディスプレイに目を向けることなく、背もたれに体重を預けて伸びをした。

「とりあえずそこ座れよ。あ、ちゃんと入口には鍵掛けてな」
「あ、はい」

 言われたとおりにネギは扉に鍵を掛け、横島の隣にあった椅子に座る。少しさび付いた古い椅子が、彼の軽い体重を受け止めて、軋んだ音を立てた。

「学園長は、五十年ばかり前に、魔法使いの諍いに巻き込まれてさよちゃんが死んだと言った」
「はい」

 “魔法使いの諍い”という辺りで、ネギの表情が微妙に曇る。全くわかりやすい少年だ――と、自分のことを棚に上げつつ、横島は続けた。

「三年A組の教室にあった怪しげな空席は、学園長の懺悔みたいなもんで、特にこれといった意味はないから、これは飛ばす。次、さよちゃん自身は、自分が死んだ頃の事を覚えていない」
「……はい」
「更にさよちゃんは、記録と違って、どうやら麻帆良の墓地には埋葬されていない。何故そんなややこしいことになっているのかはわからない。その上で、おキヌちゃんやシロの持つずば抜けた霊感は、彼女が普通の幽霊じゃないらしい事を感じ取った」
「相坂さんが、記録通りに埋葬されていないことが、彼女の幽霊としての特異性を生み出している――って事ですか?」
「その辺りの事はまだよくわからんが、その可能性は高かろうな。となると一つわからん事が出てくる。そもそもその偽装は――何故必要だったんだ?」

 魔法使いが己の秘匿を考えたのならば、さよが死んだ原因だけを隠せばいい。現に麻帆良市の記録では、彼女はその日、車にひき逃げされて死亡したことになっている。ならば――それで事は終わりの筈だ。何故に埋葬までを偽装する必要があるのか、それがわからない。横島は口元に手を当て、そう言った。

「何故さよちゃんは、幽霊として特殊なのか。何故さよちゃんの埋葬は偽装されたのか。最後に――何でその辺りの事を、学園長は俺たちに話さなかったのか。前者はともかく、埋葬の云々については、学園長だって知ってた筈だろうに」
「た、確かに――」
「あと、もう一つ気になることがある」

 ネギは顔を上げる。正直なところ、彼の精神力は、もはや許容限界を迎えつつあった。そんな彼の表情を見て――横島は小さく息を吐き、苦笑いを浮かべる。

「シロがさよちゃんに、本格的にアプローチを掛けてからまだ三日。大した行動も起こさずに、俺たちはこれだけの情報を入手できた。まあ……おキヌちゃんのアビリティが異常だって言えばそれまでだけど」

 最後の方は、何故か口ごもるように彼は言い――首を横に振って、最後にこう付け足した。

「たったそれだけで、俺たちは学園長の話が怪しいって気がつく事が出来た。逆に言えば――どうして学園長は、俺たちが調べればすぐ疑問を抱くような事を――敢えて言ったんだろうな?」




『あいつは狸だ』

 これ以上は考えても埒が開かない――と、あっさりと、本当にあっさりと白旗を揚げた横島が取った行動はと言えば、“他力本願”――他人に助けを求める事だった。そしてその他人というのが、つい先日までネギと敵対していた吸血鬼の少女、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。
 携帯電話を取り出して、何でもない事のように“あ、エヴァちゃん?”などと言い出した横島に、ネギもカモも、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしたが、そんなことはお構いなしに、彼は続ける。
 一通りの事情を説明し――帰ってきた答えが、それだった。

『くそ忌々しい話だが――私と“坊や”が演じさせられた茶番劇を顧みてみれば、奴が狸だというのはよくわかるだろう?』
「あー……すまん。俺、事の顛末を全部知ってる訳じゃないからな。お父さん、娘のプライベートには立ち入らん主義なんですよ」
『ここ一番で割り込んできた奴がよく言う。まあいい。戯れに応えてやる。あの時私は当て馬だったわけさ。“英雄の息子”のな。坊やが“闇の福音”と言われた私を下したとなれば、それなりに箔が付く。その上、奴自身の自信にも繋がる。あの手この手で坊やの命を堅守しつつ、坊やを“活躍”させる。全くの茶番だ』
「まーいいじゃねえか。結果としてエヴァちゃん、ちゃんと卒業できる事になったんだから。あーそうだ。友達のおねーさん元気? 今エヴァちゃん家に来てるんだろ? 今度一緒にお茶でも飲みませんかって……」
『一つ忠告して置くが横島忠夫――あいつにちょっかいを出そうものなら――ねじ切るぞ?』
「あー……ちょ、ちょっと、ねじ切られるのは、お兄さん勘弁して欲しいです」

 乾いた笑みを浮かべ――後に、横島はため息をつく。

「まー、あれだ。その狸じいさんが、狸らしからぬ行動を取ってるわけですよ。魔法使いのエヴァンジェリンさんとしては、どう思う?」
『ふん、狸が狸らしからぬ行動を取るだと? それ自体が狸寝入りの類だ。それがわからん貴様でもなかろう?』
「じゃあ、その狸寝入りの意味するところは?」
『それくらい自分で考えろと言いたいところだが――まあ、貴様には借りもあるからな。私の思うところで良ければ教えてやるが』

 横島が頼むと言ったので、エヴァンジェリンは一つ咳払いをする。彼女はひょっとして、ああ見えて教師にでも向いているのではなかろうかと横島は思ったが――ここで茶々を入れても得るものは何もない。ぐっと、言葉を飲み込んだ。

『結局は、遠回しに頼み事をしたいんだろう』
「あ。やっぱりそう思う?」
『――気がついていたんならわざわざ私に電話をするな』
「いや――自分一人じゃやっぱり自信もねえし」

 電話の向こうから、エヴァンジェリンのため息が聞こえる。

『……貴様の想像で、そう間違いはなかろう。わざと貴様らが、この一件に首を突っ込むように持って行き――あとは貴様らが勝手に動いて、勝手に事を解決するのを、特等席で高みの見物としゃれ込めばいい。まったく、正しく最低だ』
「悪くないやり方ではあるがな」
『ふん――貴様はそんなやり方に共感できるような小悪党だったのか?』
「何を仰る。これでも現役の商社マンだぜ? 最小の労力で最大の利益を。基本だろ。ただなあ……」
『なんだ』

 エヴァンジェリンの問いかけに、横島は彼の前に座るネギに一瞬目線をやってから――小さく言った。

「さよちゃんを頼むって言ったときの学園長――あの目だけは本気だって、そう思ったんだけどな」
『……くだらん、切るぞ』

 その一言と共に、電話は切れた。




「いかん……これは、一雨来そうで御座るな」

 軽く鼻を鳴らして、シロは小さく呟いた。空気の中の匂いの粒子がよどんでくるようなこの感覚――空にはどんよりとした雲が立ちこめ始め、彼女の予測が正しい事を示している。
 傘を持ってくるべきだったか――と、後悔するも既に遅し。軽い音と共に、頬に僅かな冷たさを感じ――それが合図だったかのように、大粒の雨滴が、次々と地面を叩き始める。麻帆良の大地を濡らしていくその春先の雨は、その中を必死に駆け抜ける銀髪の少女をも、たちまち濡れ鼠にしてしまう。

「うう……これはもう、下着までぐっしょりで御座るなあ……帰ってからしっかり風呂にでも入っておかねば、今度は拙者が倒れて――ん?」

 水を吸って重くなった制服と、濡れて肌に張り付くブラウスや下着の感触に辟易しながら、どうにかこうにかビルの軒先に避難することに成功したシロは、果たしてこれからどうするべきかと考え――その刹那、僅かに感じた、覚えがある匂いに、顔をそちらに向けた。
 そこは、雑居ビルの谷間だった。学園都市という土地柄からか、それほど薄汚れている訳ではないが――やはりどんよりと湿った空気が渦巻く、薄暗い場所である事に変わりはない。単なる通路としてすら使われていないのか、朽ちたような資材が少しばかり、纏めて置いてある。
 シロはそっと、その場所をのぞき込み――そこに、見覚えのある背中を見つけた。
 自分の慕う青年とよく似た、白い髪の毛。何処か古めかしい印象を受ける、濃紺のセーラー服に、長めの丈のスカート。その下に存在するはずの両足は、彼女にはない。

「相坂殿。このような場所に居たで御座るか」

 シロは、彼女の名前を呼んだ。
 彼女は、応えない。怪訝に思ったシロは、一歩足を踏み出す。

「また、何故にこのような場所に。今日は学校に来ておられなんだので、皆心配していたので御座るよ? さあさ、このような陰気な場所からは早々に――」
『……来ないでください』

 シロの動きが、思わず止まる。
 あれほどまでに他人を――心を通わせる事が出来る相手を渇望していた、そんな少女の口からこぼれたのは――拒絶の言葉。

「……相坂殿?」
『……みんな……みんな、私が悪いんです。私、幽霊なのに、友達が欲しいなんて、思ったから』
「……何を言っておられるので御座るか? 拙者、皆目見当が――」
『朝倉さんが――倒れたんですよね』

 ゆっくりと、さよが振り向く。雨に濡れない彼女の頬は――しかし、瞳から溢れた涙に濡れていた。

『私――わかるんです。朝倉さんが倒れたのは、私のせいだって』
「……何を――何を、馬鹿なことを仰る。和美殿は、湯冷めをした故に風邪を引いてしまっただけで御座るよ?」
『いいえ、わかるんです。何故って――和美さんの中に私の心が入り交じってしまったみたいに、私の中にも――和美さんの心が入ってきてるから』
「――ッ!」
『だから――私はもう、このまま何処かへ行ってしまおうと思います。犬塚さん――勝手なことを言うようだけれど――本当に申し訳ないと思うけれど――でも、楽しかった。クラスのみんなと話が出来て、一緒に遊べて――本当に』

 さよの体が、すうっと虚空にとけ込むように、消えていく。

「あ――相坂殿!」
『ごめんなさい――だけど――』

 私に気がついてくれて、ありがとう――心の芯に響くような言葉を残して、少女の魂は、完全にシロの前から姿を消した。
 麻帆良を濡らす雨は、降り止まない。シロはその雨に身を打たれるがままに――呆然と、少女が消え去った場所を、いつまでも見つめ続けていた。










一応、参考までに。
この手のバイクで、専用の無線機も付けずに、
走行中にライダーとパッセンジャーが会話するなんて、不可能に近いです(笑)

いや、もうこの際不可能と言い切りましょうか(笑)
ZX-10Rはどうだかわかりませんが、
同じカテゴリに分類される作者のバイクに関して言えば、
パッセンジャーシートに座って、ライダーの腰を掴むことすらかなり困難です(笑)
まあ、楓さん手が長そうだから出来なくは無いかも知れないけど。

何となく書きたいシーンだったので書いてみましたが、
現実はこんなに甘くないです(笑)スーパースポーツのリアシートは、
本当に拷問です(笑)

……ま、楓さんなら大丈夫!
と、無理矢理納得してみる。

では、また(笑)



[7033] 麻帆良女子中三年A組・雨
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/06/14 16:02
「いよいよまずいことになってきたわね」

 小さくため息をつき――金髪の美女、タマモは、居間からの光を受けて、雨が光の筋となって浮かび上がる宵闇を、縁側越しに見つめながら呟いた。
時刻は午後七時を回り、麻帆良女子寮は一応の門限となる。自室で和美の看病を続ける美空は当然のこと、明日菜達も自分の部屋へと帰り――果たして横島邸には、この家の主である横島と、彼の“家族”であるシロとあげは。それにおキヌ、タマモ、ケイの美神事務所の面々、そして――

「何か――何か、出来ることは無いんですか」

 浮かんだ焦りを隠そうともせず、握り拳を膝の上で固く握りしめて、気だるげな呟きを発したタマモに視線を向ける――うら若き少女達の、幼い担任。ネギ・スプリングフィールドの姿があった。

「そうは言ってもねえ」
「ちゃんと訓練を積んだ霊能力者でも、多分あの娘を捉えるのは難しいぜ? 人間にはとても捉えられないかすかな霊気さえも感じられるこいつらでさえ、全く手がかりが掴めないんだ」
「では、僕らはここで手をこまねいてじっとしている意外には、何も出来ないんですか?」
『兄貴――気持ちはわかるが、少し落ち着いた方が良い』

 肩をすくめて言った横島に、自信が皮肉めいた事を言っているという自覚すら、今のネギには無いだろう。もっとも横島という男は、その程度の事で目くじらを立てるような性格ではなく、それはネギに取って幸いというものであろうが。彼の方の上で、彼の下僕を自称する白いオコジョが、軽く彼を窘める。

「落ち着いてって――このままじゃ、相坂さんは除霊されちゃうんだよ!?」
「では、慌てふためいて何が出来るのですか? 霊視すらままならない今のあなたに」
「それは――でも、じっとしてなんかいられません!」
「……そうですか、ならば」

 カモの言葉を継ぎ、ネギを宥めようとしたあげはだったが、彼の直情的な言葉に、一つため息をつき――座っていた座布団から立ち上がった。

「紅茶を淹れてください」
「は?」
「だから、じっとしていられないなら紅茶を淹れてください。単にお茶を淹れるだけなら私たちでも出来ますが――本場のイギリス人が淹れる紅茶というのがどれほどのものか、一度味わっておくのも悪くはないでしょう」
「そんな――ふざけてるんですか!? 僕は」
「今、おキヌさんが、確かめたいことがあると言って、シロと一緒に“相坂さん”が消えた場所に出向いています。この時期の雨の中、外出は体に応えるでしょう。彼女ならばあるいは、何かに気がつく事が出来るかも知れない。あなたに何かが出来るというのなら、そんな彼女への労いです」

 ネギは、ぐっと歯を食いしばり――しかし、ややあって、彼女の後について立ち上がる。居間から二人の姿が消えるのを待って――黙って座っていたケイが、小さく口を開く。

「随分追いつめられてるね。まあ、無理もないけど」
「俺はそういう、“自分は達観してます”みたいな奴が一番好かん。楓ちゃんとのタンデムは楽しかったか?」
「あのバイクのタンデムが色気があるようなもんかどうかは、にーちゃんが一番よく知ってるでしょうに。おキヌさん振り落としかけて、美神さんにコンクリ詰めにされそうになったの、忘れたの?」
「……忘れた訳じゃない。忘れようとしてたんだ。思い出させるんじゃねえ! 本気で死ぬかと思ったんだぞあれは!」

 頭を抑えて横島は叫ぶが、ケイはそれに冷ややかな目線で応える。どうにもこの似たもの兄弟の女性関係に関するお互いの認識には、“お互いに”天と地ほどの差があるようで――横島はため息混じりに立ち上がると、“便所”と一言告げてその場を後にした。

「よく言うよ。あれでおキヌさんが怪我でもしてたら、それこそ死んででも詫びてただろうに――それはともかく、少なくとも、僕らとは違うタイプの人間だからね、ネギ君って」

 彼が立ち去った後、ややあって、ケイは言う。

「まあ……強いて言うなら小竜姫とか、美智恵とか? あの手の人間――私は正直言って少し苦手。何が起ころうと、それが自分に見える範囲で起きたなら、手を伸ばせない自分が嫌だって――疲れるわよ、そんな生き方」
「僕もそう思う。相坂さんに気がつけなかったのは、ネギ君のせいじゃない。話にあった出席簿とやらが少々気になるけど――普通はそんな場所に“幽霊”が居るなんて、笑い話だよ」
「麻帆良学園ねえ――大概普通じゃないわね。常識はずれって意味では、六道女学院とか、横島の学校に並ぶものはそうそう無いかと思ってたけど」

 吸い込まれそうな綺麗な笑みを浮かべるタマモに、ケイは大仰に肩をすくめ、両手を挙げて見せた。単なるゴースト・スイーパー見習いである自分には、ネギ以上に出来ることなど何もない。彼は多少自嘲気味に、しかし躊躇うことなくそう言った。

「単なる、ねえ」
「単なる、だよ。僕には美神さんみたいな知識や技術はないし、にーちゃんやおキヌさんみたいに人に出来ない何かを持ってる訳じゃないし、タマモさんやシロさんみたいに――」
「そう言うこと言ってんじゃないわよ。今時そんな風に自嘲するのも流行らない。“あなたには才能がある”とかって、慰めて欲しいの? そう言うこと言ってると、女の子にもモテないわよ? ……まあ、あんたの場合、横島と並び称されるその朴念仁っぷりをどうにかするところから始めるべきだけど」
「どーゆー意味だよ、それ。いいよもう、僕のことはどうだって――結局どうなの?」

 タマモやシロの超感覚を持ってしても、“相坂さよ”は捉えられないのか――ケイは、そう問うた。タマモは少し考えてから――小さく頷く。

「私は実際にその場にいたわけじゃないけどね。シロが言うんなら、間違いないでしょ。現代文明に毒された私よりも、野生は捨てても本能は捨ててないあいつの方が、ひょっとしたら鼻は利くかも知れないし」

 そう言ってタマモは、ポケットから取り出した煙草の箱を振ってみせる。ケイはそれを見て少し嫌そうに眉をひそめるが、彼女は涼しい顔でそれをポケットに戻すと、彼に言う。

「でも、ま――“その事実”を指して、おキヌちゃんが何か気になるって言うんだから――心配することも無いんじゃないの? 役立たずの私たちは、あの子が淹れてくれるって言う本場の紅茶のご相伴にでも、預からせてもらおうじゃない」




「あ……この紅茶美味しいですね」
「うちに上等なお茶っ葉なんてあったっけ?」
「いえ、いつも飲んでいるやつですよ? 流石本場イギリス人。軍隊の装備にティーセットがあるという国は違いますね」
「い、いえ……僕も別に、お店でやっているような本格的な淹れ方を知っている訳じゃありませんから――」

 しばらく後、帰宅したシロとおキヌを含めた全員は、居間でネギが淹れたお茶を楽しんでいた。流石と言うべきだろうか――単なる気分の問題ではなく、いつも自分達が適当に淹れる紅茶よりも、味が良く感じられるのは。

「何が違うんでしょうね。私も別に、変なことはしてないと思うんですが」
「んー……あれだ。お茶っ葉の量が少ないんじゃないか? ネギ、紅茶淹れる時って、お茶っ葉はどれくらい使うモンなんだ?」
「一人につきティースプーン一杯くらいで良いんじゃないでしょうか。あと、僕は細かい茶葉を使うときは、少し少なめにするようにしてますが――ごめんなさい、僕も正解を知ってる訳じゃ」
「つまりあれだな。イギリス人にとっての紅茶は、日本人にとってのみそ汁みたいなもんなわけだ。あれは適当に作って尚、それもまたお袋の味――って感じだからな」
「それは最初から最後まで、何かが微妙に間違っている気がしますよ、ヨコシマ」

 彼女にしては珍しく、人並みの量の砂糖しか入っていない紅茶を上品に啜り、あげはは呆れたように言った。言われた当の本人はと言えば、自分に上手い喩えなど求めるのが間違っていると開き直り、あまり品の良くない仕草でカップを傾ける。

「えっと――おキヌさん」
「あ、はい。ごめんなさいね、あんまりお茶が美味しくて」

 カップを両手で持ち、思わず表情を緩めそうになっていた黒髪の女性は、慌ててカップをテーブルに戻し、ネギに小さく頭を下げた。

「そもそもおキヌちゃんは、何に違和感を感じてたんだ?」

 そう問うた横島に、おキヌは表情を正して、向き直った。

「一言で言えば――そのあり方が」
「あり方?」

 彼女は小さく頷き、言葉を続ける。

「私は最初――シロちゃん達の話を聞いて、相坂さんに会ったとき、あれ? って思ったんです。その違和感の正体に、最初は気がつかなかったけれど――それは、彼女が麻帆良の自縛霊だって、そういう風に言った事だったんです」
「相坂さんが、麻帆良の自縛霊である――それが何か変な事なんですか?」

 ネギの問いに、おキヌは小さく頷く。

「前にも話したように、幽霊というのは、人間が肉体を失った時に残る魂が、何らかの理由で輪廻転生のサイクルに入れなかった存在を言います。その理由は様々ですが――“自縛”というあり方そのものが、時に人の魂を幽霊にしてしまう。つまり、何かしらの強い思いが霊基構造を変容させ、丁度肉体が存在していた時と同じように、寄り代――」

 これは心霊学の専門用語ですが、と、彼女は付け加える。

「幽霊にとっての仮初めの器に、まるで肉体のように定着することによって、“自縛霊”という存在が生まれてしまうんです。多少の例外はありますが、ひとところから離れることの出来ない幽霊は、大概この状態に陥っている事が多いんです」
「相坂さんも、そうなんですか?」
「……それが、おかしいんです。自縛霊が、自縛霊となるのに必要な最初のプロセスは、己のあり方そのものを変容させるほどの強い思いです。なのに彼女は、自分が幽霊になった原因を知らず、そればかりか、霊能力者ですら、意識を集中させないと捉えられない程に存在が希薄――横島さんは、“ジェームズ式”を覚えてますよね?」
「ん? ああ。ネギには言ったっけな? ジェームズ伝次郎っていう、幽霊演歌歌手がいるんだが――そいつもまた、さよちゃんに負けず劣らず存在感の薄い奴でな。どうにかこうにか一般人にも見えるように特訓したんだが――そのやり方を指してな」

 己の思いを、自分が存在する証明を、歌という形で発揮させる。あれはそのための特訓だったと、おキヌは言う。つまり、有り様は多少異なるとはいえ――彼は“歌”という行為に、己を縛り付けた“自縛霊”であると言い換える事も出来るのだという。その結果、彼は誰の目にも見えるほどの存在感を獲得した。
 なぜならば、彼は“歌”という仮初めの肉体を――“寄り代”を手にしたから。

「えっと……」
「一言で言えば――彼女は、自縛霊にはあり得ないほどに存在感が薄い。それが私の感じた違和感でした」

 おキヌはそう言って、一度言葉を切り――ネギの顔を見つめると、再び唇を開く。

「しかし心霊学は、まだ発展途上の学問です。例外は存在するし、相坂さんが、私たちの知らないタイプの幽霊である可能性もまた、否めない。けれど――さっきシロちゃんと一緒に、彼女が消えた現場に出かけて、やっぱり変だと思ったんです」
「……まるでそこに最初から何もなかったかのように、霊気の匂いが存在していなかったので御座る」

 冷えた体を一度シャワーで温め、パジャマ姿で頭にタオルを巻いたシロは、小さく言った。

「……本当なの? あんたの鼻に捉えられない幽霊だなんて――」

 タマモが普段通りの表情で言う。しかし、その声には、軽く驚きの色が混じっている。
 ネギは彼女の言うことを、実感として捉えることは難しい。しかし、最初にさよと出会ったとき、匂いを頼りに彼女を捜し出したのは、他ならぬシロであったことを思い出す。
 自分には、間近に居て尚見ることの出来ない存在を、遙か遠くから探し出す事すら出来る超感覚――もはやそれすら、彼女には通じない?

「……それだけ相坂さんの存在が希薄で――だから、おかしい?」
「ええ――それと」

 ネギの言葉におキヌは頷き、そして言う。

「それだけ存在が希薄だというのなら――果たしてそんなに力のない存在が、“意図することもなく”朝倉さんにああまで影響を与えることが――出来ると思いますか?」
「……それじゃ、おキヌちゃん」

 横島の言葉に、彼女は再び頷いた。

「……断言しても構いません。相坂さよさんは――単なる“幽霊”なんかじゃありません」




――え、えっと――私はこの音楽が好きです――あれ?
――こういう時はな、関係代名詞の後ろを先に訳すんじゃ。とはいえ、いちいちそんなことを考えていても面倒臭い。細切れに訳して、意味が繋がるように直すのも一つの手じゃの。
――わ、私はこの音楽が好きです――美しくて柔らかな――私はこの美しくて柔らかな音楽が好きです? ああ――やっぱり先生は凄いです。
――教師が担当教科を生徒に教えられんようでどうする? 全くお前は面白い奴じゃのう。

 長めの黒髪を、後頭部でひとまとめにした――男性としては変わった髪型を持ったその男は、困ったように笑う。そして彼は、“自分”の顔をじっと見つめた。

――え、えっと――何か?
――時代は変われば変わるもんじゃな、とな。ほんの少し前まで、英語など“敵性言語”と言われておったというのに。英語を学ぶとは即ち、敵を知り、敵と戦う事という意味合いしかなかった。それが今はどうじゃ。異国の言葉を学ぶことは、それだけ可能性を広げると言う事じゃ。世界は広い。英語に限らず、世の中のあらゆる事を学ぶ可能性――言語を学ぶことは、その可能性を広げてくれるのじゃ。
――私には、よくわかりません。
――何、三流英語教師の、くだらん妄想じゃよ。つまりじゃ、儂は――お主のような若い者に、豊かな可能性が与えられた事が嬉しくてならんと――そう思うのじゃ。
――大げさですよ。私は――勉強もあまり良くできませんし――
――そんな事は大した問題ではない。何処までも世界に羽ばたこうとする若者にとって、多少の要領の善し悪しなど、些細な事じゃ。出来ないならばそれだけ努力をすれば良いだけのこと――じゃからこうやって、お主は自分から補習を申し出てきたのじゃろう? 相坂――

 そう言って笑う彼の顔を見て、“自分”は思う。そしてその瞬間――世界が、凍り付いた。目の前の男と、机を挟んで椅子に座る“自分”――その光景が、まるで写真のように切り取られた世界と化し、その周り――当時の“彼女”が認識していなかったであろう世界は、深い闇の中に沈む。
 そこは何処までも続く暗闇の世界。その闇の中に――泡沫のように光る何かがある。それは、目の前に存在するこの光景――“記憶の記録”と同じ、“自分”が体験した、忘れることの出来ない記憶の中の、時間。
 それを眺めていたのは、この光景の中に存在していた少女。そして彼女は――小さく呟く。

「男って――馬鹿よね」
「一言で言い切ってしまうのはどうかと思いますけど――もう少し察しが良くても良いような気はします」

 振り返れば、もう一人、彼女と同じ年頃の少女が、彼女の側に立っていた。彼女はそれに驚かない。最初からそれを知っていたように。
 彼女の身に纏うセーラー服とは違う――幾分洗練されたデザインの制服に身を包む、活発そうな少女。しかしその顔に浮かぶ表情は、随分大人しそうな――気弱そうにすら感じられるものだった。
 力のない笑みを浮かべたまま。彼女は言う。

「でも――仕方ないって言うのはわかる気がします。私は、本当に何も知らないただの子供だったし」
「それが理由にはなんないでしょ。だったら――“これ”は何なのよ?」

 胸元に手を当て、絹のような白い髪を揺らしながら――セーラー服に身を包んだ少女は、体ごと彼女に向き直る。

「あなたの中にあるこの気持ちは? この気持ちに嘘を付くことに、何の意味が?」
「――私はあなたほど、強い人間じゃありませんから」
「何を言っちゃって――あたしには無理よ。何十年も――ただ一つのことを思い続けるなんて」
「……本当に、ごめんなさい」

 活発そうな少女は――スカートの膝に手を当て、深く頭を下げた。

「……何を謝るの? その“ごめんなさい”は、何のため?」
「私のせいで、あなたにはとても迷惑を――」
「迷惑? 友達が悩んでるって言うのに、それに関わることが迷惑? 馬鹿言わないで。あたしはそんなに薄情な奴じゃないわよ」
「でも――やっぱり駄目です。私は、もう終わってしまった人間ですから。あなたが私に関わり続けたって、良いことにはなりません。ええっと、あれですよ、“死んだ子の年を数えても始まらない”って、よく言うでしょ?」
「それは洒落を効かせたつもりかしら? 面白くないわよ?」

 腕を組み、少女は相手を睨み付けてみる。いつしか彼女の姿は――直前まで彼女の目の前に立っていた少女のそれ――短めの髪を跳ね上げた、勝ち気そうにつり上げられた目元が特徴の、快活な少女――朝倉和美のそれになっていた。
 対して、目の前に立っていた少女は、絹のような白い髪を背中に流し、穏やかな顔を寂しそうに歪める、セーラー服に身を包んだ少女――相坂さよに取って代わっている。

「ごめんなさい、私、そう言うの苦手で」
「じゃあストレートに言いなさい」
「ええと――これ以上、あなたに迷惑は」
「堂々巡りじゃないの! あんた、あたしに喧嘩売ってるわけ!?」

 思わず目の前の彼女を怒鳴りつけた和美だったが――不意に、自分の体が何かに引っ張られるような感覚を覚えた。途端に、泡沫のようにいくつもの景色が漂う暗闇が、その中に佇むさよの姿が、遠く小さくなっていく。

「これは――待ちなさい! さよちゃん!!」
「ごめんなさい。短い間でしたけど――私、楽しかったです。だから――ごめんなさい、ありがとう、朝倉さん」
「――ッ! 待てって言ってんでしょうが! あたしは許さないわよ! このまま黙ってこのあたしの前から居なくなるなんて――謝るぐらいなら、どうして――」

「どうしてあんたは、こんな光景をあたしに見せたのよ!!」
「ひうっ!?」

 声を張り上げると、感じたのは強烈な不快感だった。吐き出された空気が、まるで喉の奥を針で刺すような激痛となって走り――ついで、全身を打ちのめされたような鈍痛と倦怠感が、得も言われぬ感覚と変じて彼女を襲う。

「ぅあ……!」

 その感覚に、思わず彼女は目を閉じ、頭を抑えた。

「全くもう、あんたはどれだけ私をびっくりさせれば気が済むッスか、和美」
「……う……美空?」
「はいはい、あんたのルームメイトの、春日美空ッスよ。気分はどうッスか? 人間びっくり箱」
「……割と、最悪」
「そらそうでしょうよ。まだ結構熱もあるッスからね。で? 何だってまた、素っ裸で倒れてたりしたんスか。突然露出の快感に目覚めたってんなら、私は部屋割りの変更を強く要望するッスよ」
「うん……シャワー浴びようと思って――それから後のことは、良く覚えてない」
「……ちょっと熱は高いッスけどね、ただの風邪だって医務の先生言ってたッスから」

 腰に手を当て、疲れたようなため息を吐きながら、ルームメイトの少女、春日美空は言った。その言葉には、明らかに安堵の色が浮かんでいる。

「でも、ま、これで一安心ッスね。犬塚さんに感謝しておくッスよ?」
「……シロちゃんに?」
「あんた相坂さんに影響されすぎて、一種の霊障起こしてたみたいなんスよ。シロちゃんの保護者の横島さんって人と、その知り合いのゴースト・スイーパーの人が――和美がシロちゃんの友達って事で、仕事抜きに動いてくれたんスけど」

 本来なら何百万円もお金取られるらしいッスよ――と言って、美空は部屋の隅に目をやる。そこには、彼女には読めない不思議な文字が刻まれた札が、壁に貼り付けてあった。

「私にはよくわかんないッスけども。この部屋は今、そういう影響を断ち切れるようになってるらしいッスから。あとはとりあえず、あんたが風邪を治してくれれば――犬塚さんが言うには、業界でも名の知れた腕利きのゴースト・スイーパーらしいッスから。あとはあの人達に任せておけば大丈夫ッス」
「……そう」
「そんでとりあえず、ずっとここであんたの看病してた私には、労いの一つも無しッスか?」
「……ごめん、ありがと、美空」
「どういたしまして、ッス。まだ少し辛そうッスけど――何かして欲しいことはあるッスか? おなかが減ってるとか、汗をかいたとか」

 苦笑しながら、美空は和美の顔をのぞき込む。和美は、頭を抑えながら体を起こして、彼女に言った。

「……ちょっとおなか減ったかも」
「ん、了解ッス。私料理あんまり得意じゃないから味は保証しないッスけど、雑炊でも作るッスよ」
「あと、ごめん、トイレ行きたいから――手、貸して?」
「りょーかい。一人で大丈夫ッスか?」
「あたしは人間の尊厳を捨てたくないの」
「はいはい。んじゃ、終わったらまた呼ぶッスよ」

 そう言って美空は、和美の体を抱きかかえるようにして引っ張り上げた。

「んーッ! 重いッス! 和美、ちょっと太っ……」
「成長したのよ……あくまで、成長」
「……承知したッス」




『兄貴はどうして、その“相坂”って娘ッ子の事に拘るんで? いやもちろん、自分が担任を勤めるクラスの人間を、気遣うな、なんて馬鹿な事は言いやせんがね。』
「僕が相坂さんの事に拘るのは、そんなにおかしいことかな?」
『そうは言いやせん。 兄貴の性格を考えれば、別に不思議でも何でもねえ。ただね――俺っちはこれでも、それなりに長い間兄貴のことを見てきた。兄貴はいつだって、無理難題を押しつけられたとしても、必死でそれに立ち向かって見せてきた――けど、今回は何だか、違う気がするんでさ』
「……何が?」
『上手く言葉には出来やせん。敢えて言うなら――兄貴を突き動かす何か、とでも言うべきか』

 話の結果――やはり、もう一度学園長に正面から話を付けてみるべきだろうと、そう言う結論に至った横島は、現在彼に電話を掛けている。それが終われば麻帆良女子中の寮にまで送っていくというので、ネギは縁側に座り、時間を潰していた。麻帆良を濡らす雨が、暗闇の中に浮かび上がるのを、彼はただ見つめる。
 そんな彼に――何となく、カモは声を掛けた。

「僕を突き動かす何か?」
『兄貴はいつも、自分が“立派な魔法使い”になりたいが為に行動している。それ自体は何も悪い事じゃありやせんがね――ただひたすらに、自分の正義のために、他人の幸せのために』
「……うん――そのつもりではいるんだけどね。僕はまだ、周りに迷惑を掛けてばっかりだ」
『兄貴はそれでいいんですよ。俺っちから見れば色々と言いたいこともあるが――それでも、計算高くて打算的な兄貴なんざ、見たくもねえや』

 自分が汚れていると、ネギの高潔さがよくわかる。真っ白な雪の平原に、足跡を付けてしまうことが躊躇われるような、そんな感じなのだと、カモは言う。何故だか妙に芝居がかって言うカモに、何となく視線を向け――ネギは、言った。

「……僕は、立派な魔法使いを目指している。でも、今は“魔法先生”であることを全うしたいんだ。エヴァンジェリンさんの時に、そう思ったんだよ」
『魔法先生であること、ですかい? しかしそれは、兄貴の修行の課題でしょうや。課題を真面目に取り組むことは悪い事じゃありやせんが、やりようによっちゃ、目的と手段をはき違える事にもなりかねやせんぜ?』
「でも、明日菜さん達――三年A組の人たちには、そんなことは関係ない。僕が魔法使いだろうとそうでなかろうと、僕は彼女たちの先生なんだ。相手が誰であろうと何者であろうと――彼女たちには、授業を受けて、導いて貰って、そう言う権利がある」
『ならば、三年A組の担任は誰でも良いと? 無理に兄貴である必要はないと? 兄貴らしくもねえ。そんなのは、悲しすぎるじゃないですか。あの娘ッ子らには、兄貴が必要なんだ。それくらい、思い上がりでもうぬぼれでも無い筈ですぜ?』

 事がただの仕事であれば、ネギの言うことはあながち間違いでも無いかも知れない。しかし、教師という仕事が、全く普通の仕事と同じような視点で語れるかと言えば、そうではない。そう言う意味で、教師とは難しい仕事である。カモはそう言った。

『何せ、娘ッ子らの貴重な時間と、大事な未来を預かるんだ。何だかんだ言って、兄貴はよくやってる。大の大人だって、そうそう上手くできる事じゃねえ』
「……カモ君、学園長は、何を考えて居るんだと思う?」
『――そう言うことですかい』

 カモは小さく嘆息した。
 違和感の正体に、彼は気づく。ネギは、迷っているのだ。今まで妄信的に信じてきた“立派な魔法使い”とは何なのか、それがわからなくなりかけている。それは悪いことではないと、カモは思う。日本に来てから色々な事件を経て、彼も多角的にものを見ると言うことを学びつつあるのだ。自信の正義を貫くことと、教えられた事をただただ正しいと信じることは、当然イコールでは結べないのだから、それは間違いではない。
 カモの感じた違和感の正体。それは、今までは“立派な魔法使いになるため”の一言で片付いてきた事が、今の彼の中で消化出来なくなりかけていると言うこと。
 それは――しかし同時に、ネギ・スプリングフィールドが成長している証。

『――学園長はともかく。兄貴、今は考えなきゃならんでしょうね。兄貴にとっての“魔法先生”って奴を』
「……カモ君?」
『兄貴は、兄貴が目指した“魔法先生”になればいい。“魔法先生”も“立派な魔法使い”も、ただの言葉に過ぎねえ。大事なのは、その中身だ』
「……」
『俺っちのような馬鹿が、何を言っても説得力は無いでしょうがね、つまりは――』

 カモが何かを言いかけた瞬間、彼の背後で襖が開いた。驚いてそちらを振り返ってみれば、なにやら深刻な顔をした長身の青年――藪守ケイが立っている。

「あ……藪守さん。どうしたんですか? 学園長は何と――」
「ネギ君、今すぐ出かける支度をして――女子寮に行くよ」
「え?」
「朝倉さんが――行方不明になった。今、向こうじゃ大騒ぎになってるって、楓さんから電話があって――今、にーちゃんとシロさんが確認してるけど――」

 雨の降りしきる夜――少年の目の前で起こった事件は、未だ終わりが見えないままだった。










学園長(若)のしゃべり方がこの前と違うような気がするのは、


スルーしてください(笑)

ごめんなさい、前回が間違いです。
いくら何でも、若かろうと何だろうと、年を取ったからって、
しゃべり方がああいう風に変化する人間なんているわけがない。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・その力は誰がために
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/06/15 22:43
「あ――藪守さん、こっちです!」

 傘を差し、反対側の手に懐中電灯を持ったあやかが、ケイの姿を認めて、電灯を持ったままの手を振って見せた。それに気づいた彼は、彼女のところに小走りに駆け寄る。

「にーちゃんから大体のことは聞いてるけど――」
「はい。春日さんが言うには、トイレに立って――いつまで経っても返事がないから、心配になって様子を見に行ってみたら、もう居なくなっていたらしいんです。それで――」

 あやかは、視線を上に向ける。そこには、麻帆良女子中学生寮の入口を照らすように、一基の街灯が据え付けられている。そしてその街灯の中程には、小型の監視カメラが取り付けられていた。女子寮という場所柄、最近になって取り付けられた防犯用のカメラである。あやかの話によると、そのカメラの映像に、寮から出て行く和美の姿が捉えられていたらしい。

「まだ熱も下がっていないみたいで――おまけに、この雨でしょう? もう心配で――」

 それで――と、ケイは辺りを見回す。街灯の明かりの下に、幾人かの少女達の姿が見える。あやかの格好を見るに、おそらく既に、和美を捜して夜の街に出て行った級友も居るのだろう。

「心配しないで。和美ちゃんはじきに見つかるよ」
「どうしてわかるんですか?」
「おキヌさんとシロさんがね――あの人達の能力は、人捜しにはおあつらえ向きだから」

 かたや、神の目を譲り受けられた事のある女性。かたや、普通の人間とは比べようもない感覚器官の持ち主である人狼。まさかそれをそのままあやかに伝えるわけにはいかないだろうが――聡明な彼女は、それがゴースト・スイーパーとしての彼女らの能力であることを、ケイの言葉から読み取った。
 果たして僅かに、彼女の顔には安堵が浮かぶ。彼女は携帯電話を取り出して、メールを打つ。街に散っていったクラスメイトを呼び戻すためだろう。それが終わると、彼女は顔を上げて、ケイに問うた。

「でも――どうしてですか? 氷室さんは、朝倉さんの症状を、霊障の一種だと言いました。部屋を霊的に封鎖すれば――私にはよくわかりませんが、あとはただ風邪を治せばいいだけだと。なのに、あの娘はいなくなった」
「うん……その辺りは、僕には何とも言えない。けどね、どうやら相坂さんは、ただの幽霊じゃないみたいなんだ。今その事を確かめるために、にーちゃんとネギ君が、この学校の学園長のところに行ってる」
「横島さんと、ネギ先生が? あの――学園長先生が、何かを知っていると言うんですか?」
「状況から考えれば、ね。ただ何かを知っている“だけ”なのかも知れないけれど――こんな事が起きてしまった以上、僕らには少しでも多くの情報が必要なんだ。それが――」
「失礼」

 唐突に声を掛けられて、振り返る。そこには、浅黒い肌をした長身の女性が立っていた。長身――そう、女性にしてはかなり背が高いと、ケイはまず思った。自身が相当な長身であるケイと向かい合って、目線が同じ程度の場所にある女性はそうそう居ない。女子中学生にしては体格が良いだろうあやかでさえも、彼と並べば頭一つ分は背が低いのだ。

「龍宮さん」
「……知り合い?」

 彼女の名前だろう、ぽつりと言ったあやかに、ケイは問う。あやかは小さく頷き――

「ええ、うちのクラスの龍宮真名さん――この間の相坂さんの“歓迎会”には、折り悪く都合が付かないとかでいらっしゃいませんでしたから、藪守さんはご存じないでしょうが――」
「ああ、そう――初めまして、藪守ケイです――って、君ホントに中学生!?」
「……そう見てもらえない事の方が多いのは認めるけれどもね。一応これでも、十四歳のれっきとした中学三年生だよ――委員長、彼は例の?」

 “横島にーちゃんのスカウターが壊れるわけだよ”などと小声で呟いているケイを尻目に、龍宮真名――そう呼ばれた“少女”は、あやかの方に向き直って、そう問うた。あやかは小さく頷き、それを肯定する。

「はい、“相坂さん”の事で協力してくれている――ゴースト・スイーパーです。犬塚さんの知り合いで――彼女の保護者である横島さんとも親交があるとか」
「親交というか、ほとんど家族みたいなもんだけどね」

 苦笑するケイに、彼女は成る程、と、小さく呟いた。

「初めまして、藪守さん。私の名前は龍宮真名――以後、お見知り置きを。いや、何――女子寮の玄関前に、見慣れない男が居たものだから。委員長が何も言わないところをみると、まあそんなところじゃないかと思っていたんだけれど」
「そうですか――すいません、私も突然呼びつけてしまって。配慮が足りなかったかも知れませんわね」
「謝るほどの事じゃないよ」

 本当に申し訳なさそうに言うあやかに、ケイは軽く手を振って見せ――ほんの少し、長身の少女――“真名”の方に目を遣る。彼の視線に気がついた彼女は――あやかの見えないところで、小さくウインクをして見せた。

(……成る程、多分彼女も、“魔法使い”か――その関係者だってわけか。何で今更しゃしゃり出てきたのかわからないけど――ご苦労な事で)

 その想像は、当たらずとも遠からずだろう。彼女がネギの関係者なのか、それともエヴァンジェリンと同じように、学園の思惑を背負ってここにいるのか――それはわからない。けれど、自分が“相坂さよ”の事でこの場所に出向いてきた、その事実に対して目を付ける者が居る――あるいはそれは彼女自身の意思なのか――それはだけは、どうやら間違いが無さそうだ。
 漆黒の瞳は楽しそうに細められ――そこから、彼女の思惑を読み取ることは、今のケイには難しい。

「どうしたのかな藪守さん――人の顔をじっと見つめて。やはり私は、そんなに老けて見えるのかな。これでも、多少は気にして居るんだがね」
「大人っぽいってのと老けてるってのは、似て非なるものだから、別に気にしなくて良いと思うよ? 特に君らの年頃じゃね。そりゃまあ龍宮さんは背も高いし、随分大人びて見えるから少しは驚いたけど――普通に可愛い子だと思うし、気にする必要は無いんじゃない?」
「……“可愛い”なんて言われたのは、生まれてこの方初めてだ。藪守さん、あなたは随分な色男だね?」
「僕が? 冗談。僕はにーちゃんみたいな天然スケコマシとは違うからね。単純にそう思っただけだよ。普通の男なら思っちゃうって、龍宮さんは可愛いって。楓さんだって、ぱっと見中学生には見えやしないけどさ――」
「拙者がどうかしたのでござるか?」

 そこでケイの動きが、止まった。
 その声は、彼の背後から投げかけられた。果たして、その声を出した人物は、目の前に立つ長身の少女――真名と相対する格好で立っているらしい。真名の大人びた顔に、僅かに驚きが浮かぶ。その驚きは、一体何から生み出されたものなのか――

「おや、藪守さんは――楓の知り合いだったのかな?」
「ええ――拙者の“お友達”でござるよ? ケイ殿――真名の事は?」
「あ、う、うん――さっき委員長さんと、彼女自身から」
「では話は早い――して、ケイ殿? 何故にこちらを振り向かないので御座るか?」
「な、何でだろうね。囁くんだよ、僕のゴーストが」
「戯れ言は結構。もしやケイ殿は、拙者のことが嫌いになってしまったのでござるか? だとすれば――拙者、とても辛いでござるよ」
「そんなわけ、無いだろ――」

 ケイは振り返った。
 そして、後悔した。

「……あの、お二人とも。気分がほぐれたことには感謝いたしますが――もう少し、緊張感を持っていただけませんか?」
「ま、しばらくそのままにしておこうよ、委員長」

 とりあえず、彼が言うのなら、和美の事はシロとおキヌに任せておけば良いのだろうが――小さくため息をついて、疲れたように言ったあやかに、なにやら楽しげに、真名は言う。

「あなたもです。今は悪ふざけをしている時では無いでしょう?」
「これは失敬。そうだね――クラスメイトの一大事だものね」

 肩をすくめ、申し訳なさそうに言ってから――彼女は小さく呟いた。

「ゴースト・スイーパーね――少なくとも、単純に思っていたのとは、少し違う連中のようだ――ね」




「夜分遅くにすいません、学園長先生」

 麻帆良学園本校理事棟――“学園長室”と銘打たれた部屋で、そこに鎮座する重厚な机を挟み、豪奢なソファに腰掛ける老人――彼に向けて、赤毛の少年は、小さく頭を下げた。

「構わんよ。このところ仕事が立て込んでいてのう。どうせ今夜も、ここに泊まる事になると思っておったところじゃ。どのみち家に帰ったところで、一人寂しく晩酌をするのが関の山じゃしの」
「学園長先生は単身赴任ですか? そう言えば木乃香ちゃんも、京都の出身だとか」

 少年――ネギの隣で、車いすに腰掛けた横島は、軽く彼に問う。学園長、近衛近右衛門は、変わらぬ調子で首を横に振った。

「もう十年も前になるか。寄る年波には勝てんと珍しく愚痴をこぼしておったが――春先に風邪をこじらせての。このような愚か者を一途に想ってくれた、出来た連れ合いじゃったが――」
「……何だかまずい事を聞きましたかね?」
「構わんよ。大概そう言う場合、気まずいのは聞いてしまった方だけじゃ。じゃが、木乃香にはその話題は蒸し返さんでくれんかの。あれが逝った時、木乃香の落ち込みようと言ったら、それはとても見られたものでは無かったからのう」
「――だそうだ。だからネギ、いつまでもそんな顔してんなよ。大体お前、用があるのはこっちの方なんだぜ?」

 横島に軽く頭を叩かれて、ネギははっと我に返る。つまりそれだけの間、彼の意識は何処か別のところを彷徨っていたというわけで――ネギは顔を赤くして、軽く襟元を整えると、近右衛門に問うた。

「相坂さよさんの事を、もっと詳しく教えてください」
「……これはまた、難しい質問じゃのう」
「あー……フォローしておくとですね。今、彼女の事で――ちょっとまずい事が起きてるんですよ。危険はないと思いますが――放っておいたら」
「放っておいたら、どうなるんじゃ?」
「その――ですね。美神事務所から――あの、従業員を貸し出した請求書が送られてくるような自体になるやも」
「ほっ!?」

 近右衛門は魔法使いであるが、超常に身を置く人間として、オカルトやゴースト・スイーパーの事には詳しい。でなければ、かの業界で名を馳せたという目の前の青年に、声を掛けたりはしなかっただろう。当然――世界最高のゴースト・スイーパーとさえ噂される、美しい女性ゴースト・スイーパーの事は知っている。
 ――彼女に依頼を申し込む際に、必要とされる対価についても。

「ち、ちなみにそれは――いくらくらいか聞いても差し支えは無いかのう?」
「俺は事務仕事はあんまりやってなかったんで――でも、俺がいた頃とレートが変わってないなら――今回の仕事くらいだったらええと――ごく大ざっぱに、おキヌちゃんに一千五百万円」
「うえ!?」

 その言葉に目をむいたのは、むしろ隣に立っていたネギの方だった。それも当然と言えば当然だ。まだ子供であり、浮世離れした世の中を生きてきた彼には、金銭的な感覚がそれほど発達していない。しかし日本に来てからこちら、明日菜が新聞配達に汗を流していたり、木乃香が小遣いの中から自分の好きなものを買ったり――そう言った様子は目にしている。
 横島がさらりと言った金額は、今のネギには想像も付かない別世界の話も同じだった。

「タマモとケイはそれほど何をしたわけでもないですが――結界張ったり雑用こなしたりはしてますから――二人で三百か四百万――って言うところですかね」
「……どうにか負からんかのう、それは。おまけに、麻帆良学園としてどうにか工面出来なくもない金額――と言う辺りが、何とも言えんわ」
「こんな事言いたくは無いですけどね、美神さんはとーぜん、その辺りをずばり突いて来ますよ? それに、近頃は不景気ですし――美神さんにしてみりゃ、この程度“安い仕事”って言う感覚だと思いますが――おい、ネギ、いい加減帰ってこい。ま――そう言うこともあるんで、出来ればシャキシャキ話していただけると、こっちも助かります」

 ネギの頭をぽんぽんと叩きながら、横島は言う。近右衛門は、“それは参ったのう”などと言いながら――己の髭を弄ぶ。
 ネギに余裕があれば気づくことが出来ただろうが――参ったと言いながらも、彼の表情には焦りは見えない。金額の問題がどうこういうわけではないのだろう。ならば、彼の言わんとするところ、彼の欲するところは――

「さよちゃんの隠れ蓑の為に、俺自身も依頼を受けたって格好を取ってますからね。シロの友達からお金貰うわけにもいかないし――」
「乱暴な言い方をするならば、麻帆良学園か、あるいはネギ“先生”が、生徒のトラブルを解決した――そうやって済ませる事が、もっとも丸く収まると」
「そーゆー事ッス。それに――」

 ちらりと横島は、ネギに視線を遣り――口の動きだけで、学園長に告げる。曰く――それこそ、そっちの望んでいる事だろう? ――と。

「……関東魔法協会、麻帆良学園学園長、近衛近右衛門としては――の。じゃが」

 それに応えて、彼は言う。その表情に、先ほどまでの巫山戯た様子は感じられない。彼は執務机の引き出しを開くと、そこから何かを取り出した。よどみのない動きは、それがあらかじめ準備されていたものであることを物語っている。
 横島はそれに気がつき、小さく眉を動かす。身を乗り出したネギには――言う必要も無いことかも知れないが。

「これは――相坂さん?」

 それは、一葉の写真だった。
 かなり古いものらしく、白黒のそれである。ただ、写真の中央で、少し緊張したように、それでも必死に笑みを浮かべている少女は――相坂さよに、間違いなかった。彼女の背後には大きな桜の木が映っていて、それは春に映されたものなのか。モノクロ写真ではわかりにくいが、その枝には満開の桜の花。
 そしてその木の下には、一人の青年が立っていた。落ち着いたスーツに身を包み、少し長めの長髪を、後頭部でひとまとめにした、一言で言えば優男である。

「この男の人は?」
「ああ、それ、儂」

 思わずネギは、弾かれたように顔を上げた。そして――写真の青年と、目の前の老人を見比べる。主に――後頭部の辺りを。

「予想はしておったがの。流石にそれは傷つくぞ、ネギ君」
「え? あ、す、すいません、つい――でも」
「頭が長いのは生まれつきじゃからのう。じじいと呼ばれる年になってからはそう気にもならんが、若い頃はの。髪型を工夫して、不自然に見えんように努力をしていたもんじゃ」
「ん、んんっ――でも、どうして学園長がさよちゃんと一緒に?」

 一つ咳払いをして――横島は言った。むろん、こみ上げてきた何かを無理矢理飲み込んだような、そんな顔で。

「彼女は、戦争で両親を亡くしておったからの。たまたま路頭に迷っておった彼女を保護したのが、当時の麻帆良の学園長で――儂はその時、彼女の世話をするように言われたんじゃ」
「どうして学園長が?」

 ネギの脳裏に、亜麻色の髪を、鈴の付いたリボンで纏めた少女の姿が過ぎる。彼の疑問に、近右衛門は簡潔に応える。

「当時の学園長も“魔法使い”での。儂は当時、若き“魔法先生”じゃった。その繋がりで、儂は彼にいろいろとよくして貰っておったんじゃ。ま――儂自身、相坂君の身の上に同情を覚えたと言うのもあるし、二つ返事でな」
「んで――さよちゃんは、その魔法使いのいざこざに巻き込まれて死んだ、と」
「――ネギ君」

 横島の、僅かに目を細めての問いかけに、近右衛門は応えない。代わりに、彼の傍らに立つネギに視線を遣り、彼の名前を呼んだ。

「儂は君に“頼み事”をしたとき――こう言った。もういがみ合うのはやめて、仲良くしたい、とな」
「あ、はい――立派な事だと思います」

 ネギは素直に頷いた。横島にはその“頼み事”というものが何なのかはわからないが、彼は黙って話の続きを待つ。果たして近右衛門は、それが聞きたかったとばかりに一度言葉を切り、横島の方に改めて目を向ける。

「君は魔法使いの使う魔法を、どの程度知っておるかの?」
「どの程度と言われましても。俺は魔法使いじゃありませんし――魔鈴さんの魔法で死にかけたり、エヴァちゃんの魔法で死にかけたり。その程度ですかね」
「魔鈴――とは、もしや“現代の魔女”魔鈴めぐみの事かね?」
「そうですが。学園長は彼女と知り合いで?」

 直接の面識はないが、と、彼は言った。

「魔法使いの中で、彼女を知らん者はそうそうおらん。彼女はたった一人で、魔法世界のあり方に抗う人間なのじゃからな」
「そう言えば魔鈴さんって、“魔法使い”を名乗りながら、魔法の秘匿とか全然考えてませんよね。俺がこっちに来るに当たって、そう言う注意事項を色々教えてくれたって言うのに」

 横島は顎に手を当て――自分を送り出してくれた、とんがり帽子の不思議な女性の姿を頭に描く。彼女自身が、魔法使いの事情を知らないと言うわけではないだろう。横島に対して懇切にしてくれた“注意すべきこと”の説明もそうだ。少し前なら――具体的には、その時あげはが自分にしがみついていなければ、“ここまでしてくれるなんてそれはもう愛の告白としか”などと、おなじみの馬鹿をやってしまいたくなった程に。

「彼女は魔法使いと関連のある生まれと聞いておるが――一般人に対して魔法を秘匿するという魔法世界のあり方に反発して、独学で魔法を学んだ。魔法界からの恩恵を全く受けぬ代わりに、魔法界の定めるルールもおかまい無し。彼女の扱う魔法は、既に魔法世界ですら忘れられたものも多い。まさに天才――そして、深い優しさを秘めた人物じゃと、一部ではそう噂されておる」

 一部では、と言うことは、否定的な意見が大勢であるということだ。魔法を、広く人を豊かにする技術と考え、それを隠しもせずに、その力を振るう――麻帆良に来てから、ネギやエヴァンジェリン、近右衛門と言った“魔法使い”を目の当たりにして、尚更彼女の特異さは際だったと、横島は思う。
 もっともそのような事は、自分の隣で無邪気に目を輝かせる少年には、聞かせない方が良いのだろうけれど。

「彼女の志は、儂も素晴らしいものじゃと思う。“魔法使い”という道を選んで、このような事を言うのはどうかとも思うが――魔法の世界と言うのはな、腐っておるんじゃよ」
「腐って――」
「高尚な事を語り、己の道理を説き――しかし出来ることと言えば、強大な力を振り回すことのみ。腐っておる、と言うのはいささか言い過ぎかも知れん。じゃが――幾たびかの大きな争いを経て、儂は思う。何故にこうも、魔法使いは争わねばならんのか。いっそ、大きな力など捨ててしまったほうが良いのではなかろうか? いや――理想を語るには力が必要じゃ。あるいは――考え出すときりがない。されど何にせよ」

 近右衛門は、大きく息を吐き出した。

「人間世界にとて、争いはある。事は魔法使いの問題だけではない――じゃがの、人間世界は、徐々にじゃが、学びつつある。人は争い、戦って、そして死ぬ――その様なあり方を、当然として受けれてはならんと――そう言うことをな。魔法使いじゃろうがそうでなかろうが、争いの本質など変わったものではない。そのために人は争う。じゃがな、魔法使いは――その争いに“慣れすぎ”ておるのじゃ」

 彼は、机の上に置かれた写真をそっと手に取り――大切に、机の中に戻す。

「“魔法使いとしての信念が違うから”――それだけで容認される戦いなどあってはならぬ。戦いが起こって人が死に――それを“仕方のないこと”などと考えてはならぬ。戦いの果てに残るのは、憎しみと悲しみにまみれた慟哭、ただそれのみじゃ。後に何が残るかなどは関係ない。魔法使いが戦った――ならば、人が死ぬ。それは当然なのか? そんなわけがなかろう。エヴァンジェリンと戦ったネギ君や横島君ならば――わからんかのう?」
「けしかけたのはあんたでしょうが。まさか、そういう風に感じて欲しかった――とは、言わせませんよ? ま――状況から考えて、色々安全策を講じてはいたんでしょうが」
「茶番じゃよ。趣味の悪い茶番――エヴァンジェリンもそう言っておったろう? 儂も正直、あの夜の事はいい加減忘れたいくらいじゃ」

 横島は小さくため息をつき――傍らに立つネギの頭を、小気味の良い音と共に思い切り張った。

「あいたっ!? な、何で!? いきなり何をするんですか、横島さん!?」
「“僕は結局エヴァンジェリンさんと争う事を当然と考えていました”――そーゆー顔してるぜ? 話が進まねえから、悩むのは後にとっとけ」
「ですが!」
「お前あの時、うっかりエヴァちゃん殺しても仕方ないって思ってたのか? 明日菜ちゃんが巻き込まれても良いと思ってたのか? 茶々丸ちゃんを傷つけかけた事を、後悔しなかったのか? こっちが気疲れするくらいに落ち込んでたじゃねーか。言っとくがな、エヴァちゃんはハッキリ言ったぞ? “これは茶番だ”ってな」

 ネギは口を開き、言葉を放とうとする。そんなわけがない――と。だが、喉は彼の意思に反して、動いてくれなかった。

「その通り。争いが起こったからと言って、ネギ君もまた、腐った魔法使い連中と同じじゃとは、即ち言える事ではない。じゃが、少なくとも――」

 そんなネギをよそに、近右衛門は、小さく言った。

「あの頃の儂らは、腐っておった」




 半世紀前――戦後の焼け野原から、急速な復興を遂げつつあった、当時の日本。その当時において、麻帆良学園都市は、ある意味で今以上の活気に満ちあふれていた。戦況の悪化を理由に、大学生までもが戦地に赴かされる。そんな時代が終わり、人々は苦しいながらも、前を向いて歩き始めた。
 “急速な復興”などと一言で言い表したところで、その歩みは楽なものではなかった。しかし、人々には希望があった。戦争を理由に諦めていた様々なことが、また出来るようになったのだ。その喜びは、日本を蘇らせる原動力の一助になったに違いない。
 ここ麻帆良に於いても、それは同じ――“学ぶ”という事に躊躇う必要が無くなった学生達は、以前にも増して、熱烈に勉学に励む。どうにか焼け野原となることを免れ、巨大図書館を含む多くの施設が無事に残ったこの地には、関東一円どころか、全国から続々と学生達が押し寄せ――その頃の麻帆良学園都市は、毎日がお祭り騒ぎであったと、近右衛門は言った。
 そして若き日の彼は、麻帆良学園本校女子中等部――当時は麻帆良女子中学校と呼ばれていたその場所で、英語教師として教鞭を執る傍ら、“魔法使い”としての理想に邁進していた。

「……相坂君を引き取ったのも、その為じゃった。考えてみれば、それは彼女に対する優しさなどではない。“立派な魔法使い”ならば、そうして当然――儂はつまり、“それ”に酔っておったんじゃろうな」

 近右衛門は、第二次世界大戦を経験しては居ない。日本に拠点を置いていた“魔法使い”のほとんども、そうだった。魔法を使えない人間達が起こした、醜い欲望のための争い――彼らは第二次世界大戦を指して、そういう風に言った。資源だの領土だの権力だの――どうしてそういうくだらない事のために争うのか。何故そんなことの為に、多くの人が死ななければならないのか――やはり、魔法を使えない人間達は愚か者だ。
 そんな風に、変わらぬ日常が流れる魔法世界から、極限の時代をかいま見ては、そう言った。

「何を馬鹿な――と、思わんかね? 日々、誰かを傷つけるための力を研鑽し、それをして“立派な魔法使い”を名乗る儂らが――どの口でその様なことを、と」

 事実、この当時から既に、麻帆良学園都市は、日本における魔法使いの組織――“関東魔法協会”の本拠地であった。関東一円の地形的エネルギーが満ちる場所であるのと、戦火を免れた魔法関係の施設が多く残っていること。そこに、日本中から押し寄せた学生達の巻き起こす混沌とした日常が良い隠れ蓑となり――麻帆良は既に、“魔法使いの庭”となりつつあった。
 それが単なる錯覚であることに、誰一人として気がつくことのないまま。

「ネギ君には先日話した事じゃが――実は関東魔法協会には、敵対する組織も多い」
「えーと……魔鈴さんが言ってた、二十年くらい前にあった大きな戦いがどうこうって奴ですか?」
「それは魔法世界全てを巻き込んだ大きな戦いじゃ。むろん関東魔法協会も、その戦いに関わってはおるが――事はそういうものではない。身近にある脅威――じゃよ。横島君、君のところの――藪守君じゃったか。エヴァンジェリンとネギ君が戦った日に、麻帆良の山中で、彼が得体の知れない化け物に襲われたと、そう言う報告を受けておる」

 あれは、化け物の類ではない。誰が使役していたのかわからないが――明らかに人間の術式によって生み出された“式神”の類だと、彼は言っていた。

「――楓ちゃんの事が気になって、すっかり忘れてたわ」

 横島は困ったように頭を掻き――ネギは聞き慣れない言葉に、首を傾げる。

「かみ砕いて言えば――東洋の、西洋魔法とは異なる体系を持つ魔術によって使役される――そうじゃのう、一種の使い魔のようなものと考えてくれれば良いかのう。異界の存在を召喚したり、自分の力に指向性を与えて形を作ったり――種類が色々とあるので、一概に一括りには出来んが――おそらく藪守君が出会ったというそれも、麻帆良に敵対する勢力が送り込んだ、ある種の斥候のようなものじゃろう」
「斥候――ですか?」
「そうじゃ。こちらの力と、こちらの出方をうかがうための――な。少々特殊な技能を持っておるようじゃが一般人の長瀬君と、魔法使いとは違う非日常の体現者――ゴースト・スイーパーの藪守君が、偶然それに出くわしてしまったのは、何とも皮肉な話じゃが」
「なるほど――それで“錯覚”か」

 横島は小さく呟いた。学園長――近右衛門が事の顛末を知っていると言うことは、学園側はあの出来事を把握していたのだろう。ケイに任せておけば大丈夫だとは思っていたが――ともかく、では仮に、あの化け物に出くわしたのが、相手方の狙い通り――麻帆良に身を置く魔法使いだったら、どうだっただろうか?
 当然、戦うだろう。そして――運悪く力が及ばなければ、殺されてしまうかも知れない。

「……そしてそれは、事故として処理される。魔法使いは、己の存在を秘匿しておるのじゃから、当然じゃな」

 芝居がかった様子で、彼は両手を掲げてみせる。

「魔法使いには、力と理想がある。己の魔法をいかにして使い、いかにして、自分の理想を現実のものとするか――そう、言い換えようではないか。魔法使いとは、いかにして自分の理想の前に立ちはだかる敵を排するかに心血を注ぐ――その様な血塗られた集団じゃと!」
「学園長――ッ!」
「ネギ君、君がメルディアナで神童と呼ばれておったのは知っておる。その魔力は、英雄たる君の父親に匹敵し、十にも満たぬ年で、大の大人ですら御する事の難しい上級魔法を使いこなす――さあ、ネギ君、君のその力は何のために存在する?」
「大事な人を守るためです! 僕は――僕はもう、“あんな光景”は見たくないから!」
「敵を貫き、大地を焦がし、天空を割るその力を持ってして、かの? 君の言う誰かを守ることとは、即ち敵を打ち倒す事では無いのかね?」
「そんな――だって、だって僕は!」
「悪趣味な演出はその辺にしておいてくださいよ、学園長」

 拳を握りしめたネギの前で、手をひらひらと振りながら、横島は話に割り込んだ。

「あんた、前に言ったでしょ。ネギと自分は違う――って。そうとも、あんたとネギは違う。あんたの言いたいことなんて、ネギは本質的にわかってますよ。今更そんな趣味の悪いやり方を取らなくてもね」
「……すまぬ。つい――な。己が年を取り、やり直しのきかぬ物事があり――そんな自分がネギ君のような人間を前にすると、ついつい愚痴をこぼしたくなる。老いぼれの嫉妬という奴じゃな」

 いつしか立ち上がっていた近右衛門は、小さく息を吐き――再び、柔らかなソファにその身を預けた。

「……あの当時の儂も、今と同じ事を言われれば――ネギ君と同じように、怒り心頭となっておったじゃろう。それが自己満足と――現実逃避に覆い隠された、単なる言い訳であると、気づくことも無しにな」

 彼はソファに座ったまま、天井を仰ぐ。シャンデリアにも似た美しい照明の光に、彼は小さく、目を細めた。

「学園長先生――横島さん」
「気にすんな。学園長が言ってたのはあくまで極論だ。それに――」

 ネギが拳を握りしめ、俯いたまま言い――横島がため息混じりにネギに何かを言おうとしたところで、彼のポケットで携帯電話が鳴った。彼はさして驚いた様子もなく、小さく失礼、とだけ言って、電話に出る。

「もしもし――ああ、シロか。和美ちゃんは――そうか。場所は――何? ああ――――わかった。おキヌちゃんが居ればそっちは大丈夫だな? ――よし。それじゃ俺たちも、今からそっちに行くから。――うん、そっちはケイにどうにかしてもらえ。――ああ、そんじゃな」

 通話を切った横島は、手に持ったその携帯電話を、軽く振ってみせる。

「話の途中で申し訳ないですが――場所を変えましょう。シロが、和美ちゃんを見つけました」
「朝倉さんを!? あのっ――朝倉さんは、一体何処に!? 大丈夫なんですか?!」
「大丈夫だよ。ちょっと雨に濡れて衰弱してるらしいが――見つかったのが“そこ”だってんなら、手間も省ける」

 彼につかみかかる勢いで問うたネギに、横島は苦笑しながら応える。その視線を、ネギの肩の向こう――ソファから軽く腰を浮かせた、近右衛門に向けながら。

「和美ちゃんが見つかったのはな――病院だ。麻帆良市立市民総合病院。とりあえず医者がとっつかまえて、点滴打って病室に放り込んであるってよ」












ウチの学園長、絶好調(笑)
筆のノリはいいですが、勝手に動いて困るんだこのじじいは。

そして何か今回誤字が多いです。申し訳ない。
……疲れてんのかな?
他の方の投稿が来る前に、目に付いた奴だけでも直しておきます。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・あの日、泣き出した空
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/06/21 10:49
 体を濡らす雨の感覚は、もはやとうに消え失せていた。石のように動かない自分の体に苛立ちはあっても、疲労や苦痛はもはや感じない。けれど何故だろうか、息をするのだけは辛く感じる。まるで自分の周りの空気が水飴のようになってしまった――そんな錯覚を覚えながら、彼女は歩いた。
 けれど、それは当てのない行動ではなかった。彼女が目的地を見失う事はない。なぜならば――“今自分が何処にいるのか”がわからない人間など、そうそう居ないから。




「この雨の中をここまで歩いてきたようで――かなり衰弱はしていますが、大したことはないでしょう。念のため今日明日は入院して貰う事になりますが」

 無骨なベッドの上で小さく寝息を立てる少女を見ながら、医者はそう言った。
横島が学園長とネギを伴って、この市立麻帆良市民病院にたどり着いた時には、既に彼女――朝倉和美は、この病室に寝かされていて、その部屋に同伴していたシロ、あげは、おキヌ、タマモの“横島一家”は、既に医者から彼女の容態を聞いているらしかった。
 時計の針は午後九時を回り――既に、外来の診療時間は過ぎている。“匂い”を頼りにここに行き着いたシロ達は、果たして緊急外来に回り、こちらに突然やって来た女子中学生は居ないだろうか――と問えば、当直の看護師は、怪訝な顔をしながらもすぐに応えてくれたという。曰く、雨の中、おぼつかない足取りで現れたかと思えば、既に閉じられた外来の入口に頭をぶつけてそのまま昏倒した少女がいるという。
 熱が高く、体力的にかなりの衰弱が見られた為、そのまま空いていた病室に寝かされているという彼女の元へと案内されれば――案の定、その“少女”とは和美の事であった。

「夜分に済まんかったの。その少女の身柄は儂が保証しよう。保護者に連絡を取る必要もなかろうよ」
「まあ――麻帆良学園の学園長先生がそう仰るなら。それで、この方達は?」

 非常に特徴的な容貌を持った、“学園都市”の主。彼のことは、この病院に勤務する医者も知っていた。彼がそう言うのならば、昏倒したこの少女のことは大丈夫なのだろうが――少女を捜していたらしい若い女性達と、学園長と共に現れた青年と少年の事が、気にならないでもない。彼はふと思い出す。あの赤毛の少年は――確か数ヶ月前に麻帆良で話題となった、海外からやって来た天才少年教師、ネギ・スプリングフィールドでは無かっただろうか?
 心配そうに寝息を立てる少女を眺めている少年に、盗み見るような視線を送っていた医師に、学園長は問う。

「この少女の級友と、その保護者の方々じゃよ……して、院長先生はおるかの? 少し彼と話があるんじゃが」
「院長ですか? ……はあ、この時間でしたらまだ院長室におられると思いますが――用向きは?」
「なに――近衛近右衛門が、“生徒”の事でここを訪れたと伝えれば――わかるはずじゃ。申し訳ないが、頼まれてくれんかのう?」

 その言い様は、酷く遠回しだった。しかし断る理由も見あたらない上に、出自だけは確かな相手である。医師は怪訝そうな顔をしながらも、和美の眠る病室を出て行った。

「予想通りの結果だ――そんな顔してますね?」
「予想通りとまではいかんよ。まさか朝倉君が、ここまでの事になるとはの」
「こうなった以上は――の、話をしてるんです。これで全てが揃いましたよね? あとは――あんたの口から“相坂さよ”の全てが聞ければ、万事解決だ」
「解決――とな?」

 自身の隣でこちらを見上げる車いすの青年に、近右衛門は目を細めて視線を送り返す。いつしか彼の隣――自分の反対側に、銀髪の少女が油断無く寄り添って居るのを、ある種の微笑ましさをもって感じつつ――彼は、表情を緩めた。

「――そうじゃのう。今更腹にため込んでいる事があったところで、何の得になるとも思えん。まあ――掛けなされ。じじいの思い出話というものは、概して長くなるものじゃ」
「そう思ってるなら簡潔に済ませて欲しいわね」

 言われるまでもなく、窓際のパイプ椅子に足を組んで腰掛け、窓から宵闇を眺めていた金髪の美女が、あくび混じりにそう言った。ともすれば不快感を相手に与える仕草なのは間違いないが――どうしてだろうか、彼女からはそう言う印象を受けることはなかった。
 学園長が苦笑を浮かべれば、部屋にいた者は、めいめい来客用の椅子を病室の隅から引っ張り出し――

「あげは、お主――空気を読まぬか」
「別に。一人分椅子が足りないのは仕方のないことでしょう? 私ならば体重も軽いし、問題はないかと――ねえ? ヨコシマ?」
「俺に振るな。それにお前結構重く――痛っ!? わかった、わかったからつねるな! 痛いって!」
「ほっほ――モテる男は辛いのう、横島君――始めても構わんかな?」

 当たり前のように横島の膝の上に腰を下ろしたあげはと、シロの間で小競り合いが勃発し――直接的にはその争いに加わらなかった黒髪の女性が、何だか羨ましそうにそれを見ていたり。
 近右衛門は、そんな様子を満足そうに眺めると――自身も粗末なパイプ椅子に、それを軋ませながら腰掛け――小さく口を開く。その顔からは既に、先ほどまでの好々爺のような表情は消えていた。

「それでは――すまんが、懺悔させて貰うとするかのう。腐り果てたじじいの、昔日の罪を――」




 暗闇を切り裂いて、いくつもの光が交錯する。それは、強烈な意志の元に紡がれる、強力な力。相手を倒し、戦いを勝利に導くための、純然たる力の結晶。

「来たれ虚空の雷、薙ぎ払え雷の斧――ケノテートス・アストラプサトー・デ・テメトー・デュオス・テュコス!!」

 目を閉じて尚、身動きが出来なくなるほどの閃光。耳をふさいで尚、足がすくみ上がるほどの轟音。魔法の力により、何の前触れもなく地表に現れた雷光は、目の前に立っていた異形の存在――日本の伝説に語られるような異形の化け物を、容易く貫く。
 一瞬にして消し炭と化した化け物が、しかし最初からその場に存在しなかったように、虚空に解けて行けていく様を――“魔法”と呼ばれる力の結晶を行使した青年は、静かに見守っていた。

「やれやれ――今日は特に多いのう。全くご苦労な事じゃとて」

 妙に年寄りじみた口調で、青年は小さく呟く。黒いスーツに身を包み、長めの黒髪を、後頭部でひとまとめにした、二十代後半くらいの青年――彼は、木立の間から遠くに見える街の灯りを眺め、小さく息を吐く。

「ま――それももう一頑張りかの。一段落付いたら、月を肴に乾杯と行こう」

 誰に言うでもなく、一人呟いた彼は、その場からかき消えるように姿を消す。その瞳が見据えるは、この麻帆良を蹂躙せんとする、異形の存在――
 一九五〇年代半ば――近衛近右衛門は、麻帆良学園都市を守ることに心血を注ぐ、一人の若き“魔法先生”だった。




「まったく関東魔法協会と言う組織は人使いが荒いのう。今月に入ってから何度目じゃ?」
「お前が望めば報酬は上乗せしよう。それくらいの仕事はしてもらっている」
「皮肉を間に受けるでない。儂は傭兵ではないわ。自分の学舎が危険な目に遭っているというのに、それをただ手をこまねいて見ているわけにもいくまいよ――“教師”としてはの」
「それこそ皮肉だな」

 麻帆良学園都市が一望できる丘に立つ、二人の青年。一人は黒いスーツを身につけ、多少行儀悪く地べたに腰を下ろす青年――近衛近右衛門。そして彼の隣に立ち、夜が明けていく麻帆良の空をじっと眺めている、三十歳ほどの男。端正な顔に、短く切りそろえられた頭髪。朝焼けを映すその淡い茶色の瞳には、知性を感じさせる輝きが讃えられる。
 彼こそが、この学園都市“麻帆良”を統べる主――麻帆良学園学園長、その人であった。

「何故人間は争わなければならないのか――ここに来てからよく考える」
「関東魔法協会の舵取り――天下の麻帆良学園学園長とは思えぬ台詞じゃな?」
「はじめはな。理想の世界を作る、その為の努力に、異を唱える者など居ないと思っていた。それがどれだけ子供じみた馬鹿な考えだったかを、今になって痛感させられる」
「ふん――世の中がそれほど単純ならば、二度の世界大戦は起きんかったじゃろうに。自分にとっての理想が、他人にとってもそうであるとは限らん。そんなことは、誰もがわかっておることじゃ。何、大層な事ではない――教師をやっておるとの、一度はぶち当たる壁じゃろう」

 しかし、と言って、近右衛門は、草地に腰を下ろしたままで、大きく伸びをする。

「じゃからと言って――自分の理想と反するような事をしておってはまた、本末転倒じゃがな」
「己が理想を何処までも求められる――お前のような強い人間は、そう多くはない。元々はその為の魔法であり、魔法使いだった。理想を抱くのは勝手と言うが、力がなければそれを語ることも許されん」
「……ならば、儂らのやっていることは、ただのお節介の押しつけじゃと?」
「そうは言わない」

 落ち着いた淡い色のスーツに身を包む学園長は、小さく首を横に振ってみせる。

「麻帆良を狙う者は少なくない。だが――彼らにもまた、己に秘めた理想がある」
「思想の違い、過去の遺恨、そして――は、どれもくだらん。くだらなすぎるのう。あの東京の焼け野原を見て――それでもまだ争おうかという人間の考えが、儂にはわからん」

 学園長の呟きに、近右衛門はため息混じりに言う。その言葉は、果たして学園長が言わんとしていたことと重なるのか――ややあって、彼は軽く眉根を揉みほぐすような仕草をすると、草地に座る近右衛門に言った。

「彼女は、元気か?」
「ん? おお――最初は寂しそうにしておったがのう。今では元気すぎるほどに元気じゃわい。まったく――まだ連れ合いも見つけられんうちから、子離れの出来ぬ父親の気持ちを味わう羽目になるとは、お笑いじゃ」
「近衛」
「何じゃ?」
「――お前は、変わらないな」
「何じゃ藪から棒に――そうそう儂という人間が変わってたまるか」
「そう言うことが言いたいわけではないのだが――まあいい」
「……少なくとも、な」

 近右衛門は、小さく声を出して上半身を起こし――学園長と同じに、刻々と色を変えていく学園都市の空を見遣る。淡い橙に染まる空の更に上空には、言葉では形容しがたいような透き通った青緑色が広がり、彼らの背後の深い藍色へと、姿を変えていく。
 その刹那――光が溢れた。麻帆良を取り囲む山の稜線から、太陽が顔を出した瞬間、それらの色彩の渦は、光の奔流に飲まれて押し流されていく。近右衛門はまぶしそうに目を細めた。

「戦争の焼け跡で、笑顔の浮かべ方すら忘れていた幼子が――今は、無邪気に笑っていられる。儂はお主のように頭は良くない。物事の道理や本質を見極める事など出来ぬ。ただ、単純に――目の前の事に対してのみ、刹那的に、それも独善的に動くのみ。じゃが――あの子が笑っていられる限り、それは正解でなくとも間違いではない。儂はそう思うんじゃよ」
「確かにそれは、近視眼的で独善的な意見だ。だが――」

 学園長は、小さく息を吸い込む。麻帆良に張りつめた朝の空気は、透き通っていて心地よい。

「少なくとも、目の前のそう言うものに心を動かされない人間を――私は認めたくはない」
「難しいもんじゃのう。儂は倫理の教師でなくて正解じゃったわい」
「同感だ。次の週末には、杉森先生を誘って飲みにでも行くとしよう」
「……何故誘われたのかわからずに気味悪がると思うがのう、彼は」

 近右衛門の脳裏に、柔和な笑顔が似合う同僚の顔が浮かんだ。
 ややあって、彼は一つ伸びをして、草地から立ち上がる。

「さて――いい加減儂も徹夜が応える歳になってきたわい」
「何だ――しゃべり方だけでなく、正真正銘の老人になりつつあるのか? 私は、お前はまだまだ若いと思っていたんだがな」
「儂も人の子じゃよ。そういうわけで、儂はこれで失礼する。少しでも寝ておかねば、明日に差し支えるからのう」
「近衛」

 ひらひらと手を振り、去っていこうとする彼の背中に、学園長は声を掛けた。

「例の話は、考えてくれたか?」
「例の――ああ、よしてくれんかの。儂はその様な柄でないし――今の仕事には満足しておる。立場にも権力にも、色々な意味で興味などありはせんよ」
「だが――いい加減、いい年なのだろう?」

 何処か楽しそうな学園長のその言葉に、近右衛門は苦笑いを浮かべた。

「お主はいつから儂の父親になった。さしずめ儂に取ってのお主は、あの子にとっての儂のようなものか? ――勘弁してくれ。それだけは御免じゃよ」




 あくび混じりに近右衛門は、朝の麻帆良市を歩く。日曜の早朝と言うこともあって、流石の麻帆良学園都市も、今はまだ眠りの中にある。一週間分の疲れを癒すための安息日――それが過ぎ去れば、また麻帆良学園都市に、お祭り騒ぎの日常が戻ってくる。
 人気のない路地裏を抜けた先には、古ぼけた一件の平屋。教師としては少々特殊な事情を持っていた近右衛門が、教員寮には入らずに、代わりに学園長から斡旋して貰った借家である。
 スーツのポケットから、これまた古めかしい形の鍵を取り出し、“鍵穴”と言えばこの形とも言える――所謂前方後円墳の形をした――鍵穴に差し込んだところで、彼は違和感を覚えた。
 既に鍵が開いている。
 自分は夕べ、鍵を開けっ放しにして出てきてしまったのだろうか? 否、いくら冗談交じりに、年齢を感じるだとか何だとか言っていても、耄碌するにはまだ早すぎる――もとい、そこまで府抜けてはいないつもりだ。
 ならば――近右衛門は、知らず厳しくなっていた目元を揉みほぐし、軽く首を鳴らす。再び開かれた彼の瞳には――のんびりとした雰囲気を感じる、穏やかな光が宿っていた。
 むろん引き戸である玄関のドアを開け、狭い玄関で靴を脱ぐ。
 すると果たして、その音に気がついたのか――家の奥から、足音が近づいてくる。

「お帰りなさい、近衛先生――また、残業だったんですか?」
「そう言う君は何故ここにおるのかね? 相坂君」

 苦笑混じりに言った近右衛門の言葉に――ワンピースの上からエプロンを身につけ、お玉を右手に持った白髪の少女は――にっこりと微笑んだ。




「全く、少しは自重しようとは思わんのかのう。女学生が一人、男性教師の家に上がり込むなどとは、あまり褒められた事では無いのでの」
「酷い、そんな他人行儀に――私と近衛先生の仲じゃないですか」
「……何一つ儂の気持ちが伝わっておらんような気がするのは、気のせいかの?」
「ま、そんな些細な事はさておき」

 近右衛門の言葉をばっさりと切り捨て――白髪の少女は、土鍋で炊いたご飯を、お櫃に移しながら言った。

「近衛先生、私が出て行ってからろくなもの食べてないでしょう? 何故って――この土鍋もおひつも、一度洗わなきゃとても使えない状態でしたよ?」
「……一人暮らしの男の部屋など、そういうものじゃよ」
「もう――だから私、寮に入らなくても良いって言ったのに」
「麻帆良女子中は全寮制じゃしの。女学生が男の担任教師と同居というのも考え物じゃ」
「どーしてですか?」
「何故と問うなら――そのにやにやした表情を何とかせんか。大した理由など無い。世間一般ではそういうものじゃからじゃよ。それで十分」

 頬を膨らませながらも差し出された茶碗を、近右衛門は受け取る。言われるまでもなく最近は大概、食事は麻帆良の片隅にある大衆食堂で済ませるのがもっぱらであり、“彼女”が出て行ってからというもの、台所には蜘蛛の巣が張るような有様であった。

「それで――近衛先生はまた、残業ですか?」
「ん? おお――夕べは少し片付けておきたい仕事がの。これでも教師という仕事は、中々に忙しいのじゃよ」

 白髪の少女の問いに、近右衛門は何気なく答える。ただその間――自分は今、ちゃんと普通の表情を浮かべていられるだろうかと、彼は思う。
 不安そうにこちらをのぞき込む彼女に――彼は“努めて”いつもと変わりない笑顔を送る。

「心配するでない。好きだからやっておることじゃ。無理がたたって体を崩すようでは本末転倒。その程度のことがわかる歳には、もうなっておるよ」
「でも――私、昨日の夜から待ってたんですよ? 途中で耐えられなくなって寝ちゃったけど」
「相坂君の方こそ、妙な無理をするでない。儂のことを気遣って、お主の方が体を壊しては、本末転倒じゃからの?」
「何を仰る――私、こう見えて元気だけが取り柄ですよ?」
「元気“だけ”と、胸を張って言うでない」
「では、もう一つ」
「何じゃね」
「私のことは、ちゃんと“相坂君”じゃなく――“さよ”って呼んでください」
「何という脈絡のない」

 ころころと変わる少女の表情に、近右衛門は顔をほころばせずにはいられない。
 始めて出会ったときの彼女は――陳腐な喩えであろうが、まるで人形のように、表情の動かない子供だったから。
 終戦直後――近右衛門は、混乱のただ中にあった日本に一人降り立った。
 そこで、彼は色々なものを見た。その多くは、見るに堪えないものだった。思わず、目を背けてしまいたくなる現実が、そこにはあった。
 彼は思った。何故、このような争いが起きるのか。何故、こうまで人々は苦しまなければならないのか――魔法という特別な力を扱える自分には、何も出来ることが無いのだろうか。
 魔法使いとして出来ることを探す――それが、自分にとってすべきことであると、当時の近右衛門は思っていた。本当に心の底から――それが正しいと考えていた。“魔法使い”である自分が“正しいこと”をすれば――幾分かでも、世の中はきっと良くなるはずだ、と。
 それは当時の人々が、極限の時代の中で、かすかな希望を見いだして、ひたすらに明日を目指して生きていたのと、本質的には変わらない。そして当時の近右衛門は、時代に飲み込まれていた。
 ただ一つ彼が、当時の人々と違ったのは――彼が心の底から“魔法使い”であったと言うことだろうか。
 やがて彼は、志を同じくする仲間達と集い――ここ、麻帆良学園都市で、英語教師を務めながらも、自分の理想のために邁進した。
 つまりは――ここを“魔法使い”達の住処とし、自分たちが“活動する”拠点とする、その為に。
 その彼が、真白い髪の少女――相坂さよに出会ったのは、その頃だった。
 果たしてどこからやって来たのか――裸同然の格好で麻帆良に行き倒れていた幼い少女を、“立派な魔法使い”の当然の義務として――麻帆良学園学園長と、近右衛門は引き取った。
 出会ったばかりの頃の彼女は、本当に人形のような少女だった。必要以上の事は何もしゃべらず、表情が動くこともなく――日本人の、それもこの年頃の少女にはあり得ない、雪のような白い髪も相まって、幻想的な雰囲気すら漂わせていた。
 それから数年が経ち、近右衛門の手から巣立ちつつある、その少女は――

「駄目ですよ近衛先生。好き嫌いはいけません。ネギは体に良いんです」
「母親の様なことを言うのう、相坂君は」
「そうですか? では言い換えましょう――好き嫌いは駄目よ? “あなた”――」
「儂が教師として世間に顔向け出来んようになるのが嫌なら、その手の冗談は控えてくれんかのう」

 良く笑って、怒って、時々泣いて――心の奥に、ほのかに暖かな気持ちを灯す。かつて人形のようだった過去が、まるで嘘のような――そんな少女へと、成長を遂げていた。




「関西呪術協会? ――と言えば、“例の”組織ではないかのう?」

 麻帆良学園理事棟、学園長室――重厚な執務机に、無造作に腰を下ろし、近右衛門は、その机の上に手を組む男――麻帆良学園学園長の言葉に、そう問い返した。

「そうだ。もっとも例の話は、その一部の人間を通しているとはいえ、その総体とは関係ない、個人的なものだ。そう言う意味で彼らが一枚岩だというのなら――特に気にするような事では無いのだがな」
「何度も言うが、その話は――今はどうでも良かろう。して、その話は向こうに通して見たのかの?」
「万が一を考えて、敢えて“表”の方から素直に問うてみたが――知らぬ存ぜぬの一点張りだ」
「ふむん」

 近右衛門は、顎に手を当てて、虚空を睨む。その瞳が――鋭く細められる。

「ならば、気にするような事では無いのではないかの? 組織が一枚岩でないというのは、ある程度の規模を持つ組織ならば当然のこと。むしろ一枚の岩で出来た組織など、脆弱と言い換えられても仕方がない」
「それには同意だな」
「第一――向こうさんが、こちらに手を出す意味合いが、儂には思いつかん。その辺りはどうなんじゃ、策謀が本業の男としては」
「私の仕事は策謀ではない。あくまで麻帆良学園の学園長という肩書きが、仕事としての今の私を形作る全てだ。そこにどのような意味が込められていようが、な」
「ふん、真面目な男じゃ」

 関西呪術協会。関東魔法協会と対を成す、日本の異能者集団――しかしその構成は、西洋魔術を修める“魔法使い”とは異なり、東洋に古くから伝わる“まじない”を深く修めた、つまりは“呪術師”の集団。
 そんな彼らが、一つの大きな“群れ”を作り、行動している理由はといえば――関東魔法使いというこの組織が出来た経緯と、さほど変わらない。
 そしてそんな彼らの中に――近頃、関東魔法協会に対して、不穏な動きを取っている動きがあるという。

「彼らは我々とは違う異能の集団だ。そしてお互いに、その力の本質は理解できていない。自身が理解できないものを、人間は恐れる。怪談など良い例だな」
「まあ、確かに。ハッキリ言えば、幽霊などより生きている人間の方が余程怖い――じゃが、そんなことを怪談の最中に言ってみたところで、強がりにしか聞こえんじゃろうな」

 何にしろ、と、近右衛門は首を横に振る。

「乱暴も極まりない話じゃの」
「今の日本に、武器に対する忌避感情のようなものが芽生えているのと同じで――得体の知れない脅威に、過剰な反応を見せているのは間違いないが」
「ふん――それで? 麻帆良学園学園長としては、いかに動く」
「こちらからの勝手な行動は厳禁とする。代わりに――警戒の度合いを引き上げよう。近衛、お前達には負担を強いることになるが――」
「……仕方あるまいな」
「それと」

 学園長は組んでいた腕を解き、机に腰掛けていた近右衛門に、視線を向けてみせる。

「お前が例の話を受けてくれるのならば――あるいは丸く収まるかも知れないぞ?」
「……何度も言うが、儂にそんな気はない。それより何より、事は相手のある話じゃぞ? 儂の方はこの際どうでもいいとしても、取引の材料のような形で話を持ちかけられて、愉快な人間が居るはず無かろうに」
「経験者として語ってやるが――三十路を過ぎれば、時間が流れるのは早いぞ?」
「は――その年でもう耄碌しておるのかのう?」
「人が気にしていることをハッキリ言うのは、あまり感心できんな」
「抜かせ」

 どう見ても学園長が年齢の事を気にしているようには見えないし、また、気にするような見た目でもない。疲れたような顔をしながら、近右衛門は一つ、大きく息を吐く。

「何にしろ、まあ、無理強いは良くないな」
「その話はもう忘れい」
「いいや、友人の人生に関わる事だぞ? 簡単にできるような話ではない」
「だからこそ楽しめる、と言う言葉が抜けておるな」
「それともあれか。お前に純粋な好意を向ける“彼女”に惹かれているのか」
「それを本気で言っているなら、今すぐ教員免許を返上して来い」
「何を言うんだ。人が人を愛する気持ちを、そのように汚らわしいものでも見るような目で――友人として、私は悲しいぞ」
「ならばせめて、そのにやけ面を何とかせんかい。死ぬほど似合っておらんぞ」

 ため息混じりに机から腰を上げ、彼は学園長の背後にある、大きな窓に目を遣った。麻帆良女子中にほど近い場所に立つこの理事棟は、その校舎を含むいくつかの学舎が見て取れる。
 ――予感があった。いくつもの戦いを駆け抜けてきた“魔法使い”である近右衛門には。
 だから、彼は一人呟く。

「さて――いつまでこんな馬鹿らしい事を言い続けていられるかのう?」

 その言葉は、学園長に向けられたものではなかった。ただの自分への問いかけ――しかしそれが耳に入ったのだろう、学園長は、小さく応えた。

「もうしばらくと言ったところだろうかな」

 何かが起こりかけている。決して愉快とは言い難い、何かが――しかしこのとき近右衛門は、来るべきその“何か”――“それ自体”に対して、疑問を抱いては居なかった。




 一九五×年春の、ある日――麻帆良に、雨が降り始めた。当時のあまり精度の高くない天気予報は、それでもこの雨がしばらく降り続く事を告げていた。そしてどんよりと暗い空を見上げてみれば――おそらくそれが正しいのであろう事を、誰もが感じる。
 暗い空と、冷たい雨に包まれ――その一週間は、幕を開けた。










ここまで完全な捏造展開は初めてです。
「世界観を壊さない完全な捏造」もの凄く難しい。

結局四回書き直した、今回の話。
日々精進。


あと、お気づきの方も多いと思いますが、
五十年代に麻帆良の学園長をしていた男。
かれのモデルは、「RD潜脳調査室」の久島主任。

内面はあまり参考にしてはいませんが、
デザインは僕の心の師匠(笑)上山徹郎先生による力作です。
意志の強さが滲み出る、知的な男。かっこいいです。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・あの日、ナニカノアシオト
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/06/22 20:34
「いつ降った雨なのでしょう――地上にわき出したその水は、私たちを潤し、そして海へと流れ。そしてまた――雨となって地上に降り注ぐ。つまり私が持つこの湯飲みの中のお茶もまた、いつか降った雨には違いない――雨は巡り、命も巡る。ああ――この“雨”は、“いつから振り”に降った雨なのでしょう?」

 雨に打たれる夜の街を、古びた窓ガラスの向こうに眺めながら――憂いを帯びた表情で、少女は呟いた。歌い上げるように紡がれたその言葉を聞いて、ちゃぶ台に積まれた紙の束と格闘していた青年は、ふと顔を上げる。

「ふむ――詩人じゃのう」
「それほどでも」
「して、そのこころは?」
「こんな私がにわか詩人になってしまうくらいに――暇なんです」
「……もう少しでテストの採点も終わるでの、今しばらくにわか詩人を続けてくれんか。それと――そもそも相坂君が、どうして儂の家におるのかね?」
「二年前までは私の家でもあったわけで。それとも近衛先生は、私を寮に入れて厄介払いをしたつもりですか? ――酷いわ、私を弄んだのね」
「下らんことを言っておる暇があったら、勉強でもしておれ。それがどうしても嫌だというのなら、素直に儂の質問に応えんか」
「寮母には許可を頂いてますが。私にとっては実家に帰省するようなものですし」
「答えになっておらんよ」
「だって――放っておけないでしょう?」

 彼女――相坂さよが目を向けた先には――一人の少女の姿があった。おかっぱに切りそろえられた黒髪と、季節に合わず、日焼けしたように浅黒い肌。さよよりも幾分幼く見えるその少女は、少しサイズの大きな服に身を包み、両手で持った湯飲みを、じっと見つめたまま動かない。
 最初は熱くて持つのに難儀をしていた湯飲みも、今ではすっかり冷めてしまい――しかしその少女は、そこに注がれた緑茶に口を付けようとはしなかった。

「……どうかしたの?」

 それを怪訝に思ったさよは、少女に問うてみる。彼女は緑茶が揺れる湯飲みをじっとのぞき込み――ややあって、彼女に向かって首を傾げて見せた。

「まさか――お茶を見たことが無いの?」

 一つ分の呼吸を置いて――小さな少女は、人形のような仕草で頷いた。

「……確かに、放ってはおけんのう。この有様では」

 近右衛門は、テストの採点に使っていた赤鉛筆をちゃぶ台の上に放り投げると、自分の湯飲みを傾けた。少女の仕草からわかっていたことだが――そこに満たされていた緑茶は、既に冷め切り、渋みを増した液体が喉を滑り落ちていく感覚に、彼は小さく顔をしかめる。
 彼の意識は、日曜日の夜へと遡っていた。




「では、すまんが相坂君、儂は理事棟の方に少々仕事があるのでの――遅くならないうちに、寮に帰りなさい」

 狭い玄関で靴を履き、ネクタイを直しながら、近右衛門は、彼を見送るように玄関に立っていた少女――さよに言った。結局土曜の夜からここに押しかけていたという彼女は、あいにくの雨模様の一日を、近右衛門と共にのんびりと過ごした。特に何をして遊んだわけでもなく、会話もそれほど多くはない。
 だが、二人で過ごすその時間が、さよには――そして近右衛門にとっても心地の良いものだった事には違いない。二年と少し前――さよが中学校に上がるまでは、毎日繰り返されてきた二人の日常。
 近右衛門もまた、家族と呼べるものを持っていなかった。そしておそらく戦災孤児であったさよは言わずもがな――久方ぶりの“家族の時間”を、二人は楽しんだ。たとえば座椅子に座って書類仕事を片付ける近右衛門、その脚を枕に、さよは本を読む。そんなとりとめのない、しかし心地の良い時間――
 得てしてその様な時間は、早く流れてしまうものである。夕食の後に、近右衛門は出かける支度を始める。さよには理事棟での雑用と告げてあるが――実際のところは“魔法使い”としての任務である。
 果たしてそれが彼女に露呈してしまう危険は低かろうが――それでも近右衛門は、自分が平静を装えている事を強く願った。

「えー、でも、お風呂も頂いてしまいましたし。こんな雨の中寮まで帰ったら、風邪を引いてしまいます」
「……明日は学校じゃろう」
「ええまあ、こんな事もあろうかと、制服と授業の用意一式は用意してありますし」
「なるほど、確信犯という訳か」
「それでも近衛先生がお仕事というのに、自分だけ先に寝ているのも気が引けますから――何かお夜食でも作って待ってますね?」
「余計なことはせずに、さっさと寝なさい」
「お早いお帰りを」
「……相変わらず自分に都合の悪いことは、見事に受け流す娘じゃのう」

 その見事さと言ったら、伝説にあるペルセウスの盾もかくやと言うところか――近右衛門は非常に馬鹿馬鹿しい事を考えつつも、少女の声を背に、傘を広げ、夜の麻帆良へと足を踏み出した。
桜が散り、草花が芽吹き――これから季節は、目覚めの時期を迎える。しかしそれでも、この時期に降る雨は冷たく、そして夜の空気には、冬の名残が残っている。近右衛門は自分の吐息が、家々からこもれ出る光に照らされて、白く浮かび上がる様を見た。その光景が、余計に寒さを感じさせる。
こんな日に余計なトラブルは御免だ――“立派な魔法使い”とて、人間である以上、出来れば面倒は避けたいものである。
 近右衛門はスーツのポケットに片手を入れ――小走りに、麻帆良の郊外へと足を向けた。

「……とはいえ、ここまで空振りに終わるのも――妙じゃのう?」

 それから二時間ほど。自分が受け持つ区域を回った近右衛門であったが、どういう訳かこの日、彼に“仕事”が与えられる事はなかった。
 麻帆良学園都市を、外からの脅威から守る“魔法先生”の仕事の一つ――これが閑職と成り果てるような事は、実はそうそうない。学園都市に本拠地を置く“関東魔法協会”を快く思わない勢力はもちろんのこと――この麻帆良は、実はかなり特異な立地である。関東一円の地形的エネルギーが集約する、丘陵に囲まれた閉鎖空間。そしてその中心に立つ、“世界樹”と言われる、膨大な魔力を宿す巨木。
 果たしてこれだけの土地が、只の偶然に形成されたとは思えないと、後の専門家は語る。しかしならば、この麻帆良が一体いつから、そして何のために存在しているのか。今となっては知るものは誰もおらず――ただ、その特異な土地柄は、あらゆる者を惹きつける。
 それは果たしてここに集う学生達であり、ここに本拠地を築いた“魔法使い”達であり――あるいは、日常の外側に存在する脅威――魑魅魍魎の類であったりもする。
 そう言ったものから人々を守る役割として、麻帆良のような、あるいはそれとは違う淀みと歪み――それら全国に広がっていった、この後訪れる高度成長時代が、新世代の魔法使い――つまりはゴースト・スイーパーという職業を生んだのであるが、それにはもうしばらくの時間を待たねばならなかった。
 当時この地を守ることが出来たのは、この地を住処と決めた人間――“魔法使い”だけであり、もっともそれは、形を変えて現代にも引き継がれていくことになるのだが――ともかく、その日の近右衛門は、不思議とそういった“脅威”に出くわすことなく、ただ雨が降りしきる麻帆良の郊外を歩くだけだった。

「……化け物が現れることが当然の日常で――現れないことを非日常と感じて不安を覚える、か――まったくお笑いじゃのう」

 途中、唐傘をさした、狩衣姿の男性とすれ違う。普通ならば怪しいことこの上ないのだが、近右衛門は彼と、軽く会釈を交わしただけで、再び雨の中を歩く。何と言うことはない。彼は近場の神社に勤める神主であり――魔法使いがこの地に目を付けるよりも前から、魑魅魍魎と戦う役割を担ってきた人々の一人である。
 麻帆良は不思議で魅力的な土地だが――常に誰かが血を流していなければ、そこに人が住むことが出来ない、そんな過酷な土地でもある。だが、そんなことを、このお祭り騒ぎの日常を作り出す住人達――無限の可能性と未来を持った学生達が知る必要はなく、また知る意味もない。近右衛門はそう思う。
 娘のように可愛がってきた少女――相坂さよもまた、同じだ。いずれ彼女は麻帆良から羽ばたいていくだろう。そう言う確信に近い予感が、近右衛門の中にはある。それは少し寂しいことだけれども、素直に応援してやるべき事で――“魔法使い”としての自分の顔を彼女に教える事に、何の意味があるだろうか?

「とはいえ――本当に妙じゃのう。龍宮さんも、そう言う顔をしておったわい」

 龍宮――とは、先ほどすれ違った神社の神主である。かつてからこの地を守る戦士と、後からその立場に就く事を望んだ魔法使い。古くは確執もあったと言うが、今では共に“麻帆良を守る者”としての共感のようなものを感じている。
 ともかく――自分とは違い、そして同じ立場に身を置く彼も、今夜の状態には、怪訝そうか表情を浮かべていた。近右衛門は遊歩道脇の立木に手を当て――自身の中の“魔力”を強くイメージする。
 自分の中を渦巻く形容しがたい力の流れが、立木の生命力と触れあって――何か大きな川を覗き込んでいるような錯覚を、彼は覚える。それは、この麻帆良の地に流れる特異な力。魑魅魍魎を呼び込む一因でもあるその力は――今宵も変わらず。そこにある。

「麻帆良の土地そのものに変化はない――とすると、原因は?」

 小さく呟き――「わからん」と、自身で自身の問いを詮のないものにする。

「……ん?」

 ふと、近右衛門は顔を上げる。麻帆良に流れる力を探っていたが故に、彼はそれに気がつくことが出来た。それほど離れていないところに――動かない気配が一つ。日曜日の夜、雨の降る麻帆良の郊外――自分たちのような理由でもなければ、ここに足を踏み入れる人間は居ないだろう。しかもそれが、遊歩道を外れた森の中ならば尚更だ。
 彼は道を外れて森の中に入る。雨に濡れた下草や茂みが、彼が持つ傘をあまり意味のないものにしてしまう。スーツを通して肌を濡らす、冷たい雨滴の感覚に顔をしかめながらも、彼は歩みを進めた。

「……なんと」

 果たして彼は、呆然と呟いた。そこには粗末な着物を身につけた少女が一人――泥にまみれ、まるで死んだように力なく倒れ伏していた。




 近右衛門の行動は迅速であった。すぐさま少女を抱えて市街地へととって返し、手近な診療所へと駆け込んだ。日曜の夜――当然ながら、開いている医療機関は多いとは言えない。しかしここは、お祭り騒ぎの日常が展開される活気に満ちた街。日頃からこの手の対応には慣れているのだろう医師は、着崩した家着の上に白衣を引っかけただけの格好で、荒い息をつく近右衛門から少女を受け取り、診療室に消える。
 脱力して待合室の長いすに、崩れるように座った近右衛門には、医師の妻であるらしい中年の看護婦が、湯飲みに入ったお茶を差し出してくれるというおまけ付きで。どうやらこの診療所、本当にこの手の対応には慣れているらしい。「学生の元気が良すぎるのも困りものですよ」と言って、彼女は笑っていた。
 ややあって診療室のドアが開き、わざとらしく額の汗を拭うような仕草をしながら、医師は言う。

「外傷はない。多少体が冷えているようではあったが、風呂にでもブチ込んでおけば問題なかろう。おい――」
「はいはい。それじゃあお風呂を沸かしておきましょう」

 看護婦が、安いスリッパを鳴らしながら廊下の奥に消えるのを見遣って、医師は小さく息を吐き、近右衛門の隣に乱暴に腰を下ろす。

「それで、先生さん。事は警察を呼んだほうが良いのかね?」
「いや――今の時点では何とも。そうした方が良いかも知れませんがな」
「ま、それはあの娘っ子が落ち着いてからで良かろう。泥まみれだったが身なりはちゃんとしていたから行き倒れではなかろうし、乱暴をされた様子もなかったからな」

 近右衛門は、ほっと胸をなで下ろす。

「夜分遅くに申し訳ありませんでした」
「何、あんただってわかってるんだろう? ――表に書いてあるとおり、ウチの診療時間は平日に限って、それも夜の七時まで――だがな、この街で医者なんぞやろうってんなら――そんな泣き言は通じねえんだよ」
「……それはそれは」
「あんたみたいな奴らがもうちょっとしっかりしてくれりゃ――ウチも世間様並の休日を過ごせるんだろうがよ。そこはまあ、ここで医者を始めようと酔狂を起こした自分を恨むしかねえわな」

 男臭い笑みを浮かべる医師に対して、近右衛門は小さく笑う。
 そして、一つ問いかける。

「だったら何故に、他の土地に行くなり、大きな病院に勤めるなりしないんですかのう?」

 半ば――予想できる――いや、“期待してしまう”解答を求めて、彼はそう問うた。
 その問いに対して、医師は苦笑いを浮かべ――激務がそうさせるのだろうか、年の割に引き締まった胸板を叩いて見せる。

「そりゃお前――俺にしか出来ねえからだよ、こんな事はな」

 その瞳に宿る光は、若き近右衛門と同じものだった。




「お帰りなさい近衛先生」
「ただいま――して何故に相坂君が、当然のように儂の家に?」
「だって結局、昨日帰ってこなかったでしょう? 寂しかったんですよ、一人で学校行くの」

 一夜が明けて、月曜日の夕刻――家の玄関をくぐってみれば、当然のように自分を出迎える白髪の少女に、近右衛門は軽い頭痛を覚える。まさかとは思うが、この少女は寮を飛び出してまたここに戻ってくるつもりではなかろうか。彼は小さく首を横に振る。

「――思ったよりも雑用が多くての。気がつけばうたた寝をしてしもうた」
「お疲れ様です。ええと、ご飯にします? それともお風呂?」
「その言葉は純粋にとても嬉しいが、出来ればそのにやけた表情は何とかしてくれい」
「一度言ってみたかったんです。それに――あれ?」

 そこでようやく、さよは玄関先に立っているのが、近右衛門一人では無いことに気がついた。そう――彼の後ろに、隠れるようにして立っている、小柄な人影に。

「……近衛先生、その子は?」
「おお、言いそびれたのう。実は――」
「そんなっ――私という者がありながら、そんな小さな子に――!? いえ、落ち着くのよ、相坂さよ。先生は多少ならずとおかしい人だけど、腐りきった変態じゃない筈だわ。でも、だったらその子は――はっ!? まさか!? 近衛先生ッ!! 相手は、相手は何処の馬の骨ですか!? 返答次第では、私、先生と共に逝く覚悟も――きゃうっ!?」
「相坂君、君は、儂が本気で表を歩けなくなったらどうしてくれる?」

 唇の端を引きつらせながら、近右衛門は彼女の頭に、軽く拳骨を落とす。当然、痛みを感じるかどうかも怪しい程度の強さではあったが――さよは恨みがましく頭をさすりながら、涙目で彼を見上げる。

「たちの悪い冗談は程々にして、じゃ」
「……」
「――そんな目で見ないでくれるかのう。泣きたいのは儂の方じゃと思うんじゃが――して、この子の事じゃが。夕べ麻帆良の外れに行き倒れておったところを保護してのう――何というか」

 浅黒い肌に、黒い髪――まるでさよとは正反対の容姿を持つ、幼い少女。近右衛門は、彼のズボンにしがみつくようにして立っているその少女の頭を、そっと撫でる。少女は、まるで猫のように、心地よさそうに瞳を細めた。

「生まれつきこうなのか、何かの原因があるのかはわからんが――自分の名前すらわからんような有様でのう。今、警察の方で身元を調査してもらっておるところじゃが、時間が掛かるかも知れんという返答があっての。それまでの間、うちで面倒を見ることにしたわけじゃ」
「……何で近衛先生が?」

 その表情を、物欲しそうな目で見ていたさよは――頬を膨らませながらしゃべると言う器用な真似をこなしつつ、近右衛門に問う。

「君がそれを言うかのう? この子とそう変わらなかった君を、曲がりなりにも育て上げたのは誰なのか――よもや忘れたわけではあるまいのう?」
「むう……私、こんなドーブツみたいじゃなかったもん」
「これこれ、何と言うことを。人に向かってその様な言い方をするのは関心せんのう」
「だって――……わかりました」
「すまんな。このところ仕事も忙しくて、君ら教え子に割ける時間が減っておるのは、常々悪いと思っておるよ。じゃが――」
「不肖私、相坂さよ――この子の“お母さん”を勤めさせていただきます」
「……――はあ?」




「何であろうと、人生はままならぬもの――この年になってそのような感慨に浸るとはのう」
「三十路にもなってないのに、何を馬鹿なことを言ってるんですか」

 記憶の海にたゆたっていた意識を覚醒させてみれば、呆れたような教え子の姿。お盆に湯気の立つ湯飲みを載せたさよが、近右衛門を見下ろすようにして立っている。彼女は小さく息を吐いて腰を折ると、お盆の上に乗っていた湯飲みを、少女に手渡した。

「はい、これ。少し冷ましてはいるけど、ちゃんと“ふーふー”して飲みなさいね?」
「それは何じゃ?」
「ゆず茶です。お砂糖につけてある奴。この子さっき緑茶飲んで、泣きそうな顔してたから――ちょっと苦かったのよ、ね?」

 湯飲みを受け取った少女は、先ほどと同じように、じっとその中身を見つめていたが――ややあって、立ち上る香りに気がついたのか、小さく鼻を鳴らし、その小さな唇を、湯飲みに付けた。
 湯飲みが傾けられ――口の中に流れ込んだ暖かな液体に、少女は一瞬目を丸くしたが、程なく、その目元が嬉しそうに細められる。

「ああもう、可愛いなあ――」
「はは――そうしてみていると、姉妹のようじゃのう、君らは」

 そう言って、近右衛門は笑う。相坂さよが寮に帰らないのは、何かしらの問題があるのではないかとは思う。が、楽しそうに笑い合う二人の少女を見ていると、何を言う気も失せてしまう。かたや白髪に抜けるような白い肌。かたや黒髪に滑らかな浅黒い肌――容姿は正反対と言って良いほどに似ていない二人の少女であるが、何かと世話を焼き、そしてそれに甘える様子は、本当に姉妹のようであった。

「お言葉は嬉しいですけど――それはちょっと勘弁してください」
「どうしてじゃ? 相坂君は、その子が妹では不満なのかのう?」
「……だってこの子と私が姉妹って事は、私も含めて近衛先生の娘って事になっちゃうわけで」

 小さく呟かれたその言葉を、近右衛門は聞き取れない。

「? 何か言ったかの?」
「何でもありません。言ったでしょ? 私はこの子のお母さんになるんです」
「……生き急ぐでない、相坂君。母親というのはじゃのう――」
「何言ってるんですか。何だかんだでこの年まで独身の近衛先生が、母親について何を語れると?」
「……相坂君、流石にそれは儂、ちょっと傷つく。え、縁談の誘いならあったんじゃよ? しかし儂も忙しい身で――」
「結構」

 何故か満足そうにさよは頷き、少女が残した湯飲みのお茶に口を付ける。

「うあ、苦っ」

 はじめ、さよと少女の関係は、お世辞にも良いものとは言えなかった。言うまでもなく、さよが一方的に、少女に対してほの暗い嫉妬の炎を燃やしていたからである。
 とはいえ、その問題はすぐに解決した。嫉妬という感情そのものを理解できていない相手に対して、嫉妬を抱き続けるのは難しい。単純に、自分が酷くみっともないものに思えてしまうからである。
 それに気がついたさよは、半ば勢いで口にした言葉――自分がこの少女の母親代わりを勤めるというそれであるが――を、愚直にこなし始めた。
 口ではどうこう言いつつも、かつての自分――学園長と近右衛門に保護された頃の自分が、酷い有様であったのを、さよは理解している。壊れかけた心に、ボロボロの体――当時を思い出すと、思わず寒気を感じてしまう程だ。しかし、この少女の有様は、それよりも酷い。
 彼女は、自分の名前を名乗らない。否、名乗れない。何故なら、彼女は言葉というものを、おそらく知らないのだ。彼女が知的障害者であるのか、それともさよの想像も付かないような過去を過ごしてきたのか――それはわからないし、考えたくもない。
 当然その様な少女には、自分が当たり前に過ごす日常の全てが、当たり前ではなかった。服の着替え方を知らない。体の洗い方も知らない。食事をするにも箸は使えない。鏡が何なのかを理解できていない――足を滑らせてトイレに填った少女を助ける段になって、さよの頭から嫉妬などは消えていた。
 余談ではあるが――彼女はこの時、既に全国に先駆けて水洗トイレが備わっていた麻帆良のインフラに、心から感謝したという。
 彼女にとって、少女の世話を焼くことは“口実”であり――いわば“ままごと”のようなものだったのかも知れない。けれど時間が経つにつれて、さよはこの少女に対して、言いようのない愛情のようなものを、確かに感じるようになっていた。

「おかーさん」

 だから何気なく、その少女がそんな言葉を口にしたとき――さよは宿題のために広げていたノートと筆記用具を放り出して、もの凄い勢いで少女に抱きついた。

「聞きましたか――聞きましたか!? いま、今この子、おかーさんって、おかーさんってっ!!」
「ああ、ああ、聞いたとも相坂君!」

 近右衛門も不覚にも感極まり――さよの後ろから、少女の顔を覗き込む。突然抱きすくめられた少女は、不思議そうな顔をしていたが――小首を傾げ、もう一度呟く。

「……おかーさん?」
「そう、そうよ! 私があなたのお母さんよ! そしてこの人が、あなたのお父さん!」
「いや、相坂君、それはちょっと」
「何ですか近衛先生――いやさ、あなたっ!! 何か不満でも!?」
「不満というかあいさ――さ、さよ、君。実にほほえましい光景なのに君、目が怖――」
「ほら、言ってご覧なさい! お・と・う・さ・ん、ほら!」




「ははは――いや、幸せそうで大変結構なことだ」
「“学園長先生殿”――お主の墓には、何と刻めば良いかのう?」
「ふむ――そうだな。家族の肖像に憧れた寂しい男の魂、ここに眠ると」
「ふざけるのも大概にせい」

 麻帆良学園理事棟学園長室――いつも通り、無遠慮に机に腰掛けた近右衛門は、頭を抑えて盛大にため息をついた。

「冗談はともかくとしてじゃ。相坂君が幸せそうなのは、儂も文句を付ける必要はないと思っておるが――肝心のあの少女の身元は、知れたのかの?」
「昨日の時点では、有力な手がかりは何も見つかっていないと言うことだったな。ただ一つわかっていることと言えば、お前にあの子が発見されたときに着ていた着物――あれは関西の大手被服店で作られたものだった」
「となると、あの子は関西の出身と言うことか?」
「だから言っただろう? それだけでは何も言えん。有力な手がかりは、何もみつかっていない――とな」

 小さく息を吐き、学園長は肩をすくめる。

「……まあ、焦る話でもない、か」
「その通りだ。そちらの方はゆっくり探すしかあるまい。そのうち、手がかりの方が向こうからやって来るかも知れない。と言うよりも――我々には単純に、余裕がない」

 学園長は、机の上に散らばっていた用紙の束――その一つを無造作に取り上げた。書類の海と言って良い惨状を呈している状況で、的確に情報を把握しているのは、単純に彼の有能さ故だろう。
 近右衛門は一度目を閉じ――再びその瞼が開かれたとき、そこには鋭い光が宿っていた。魔法を使い、己の理想を実現する――“立派な魔法使い”としての、そしてその為に戦士としての道を選んだ男としての光が。

「……改めて言うが」
「ああ」
「麻帆良学園男子中学校社会科教師――虎堂隆一先生が、今朝方亡くなられた」
「……」
「……お前と彼は、メルディアナの同期だったな?」
「ああ。儂と違って、色々な意味で出来た男じゃったわい。あいつのところには、器量よしの出来た嫁と、まだ幼い息子がおった筈じゃ――それを――」
「彼はひき逃げに逢い、致命傷を負ったと――“そう言うことにする”。警察、医療関係の“同志”には、既に連絡を取ってある」
「……」

 近右衛門は、腕を組む。その腕が震えていることに、学園長は気がついていた。

「……目星はついておるのか。虎堂ほどの使い手を――」
「わからん。相手が何者なのかを含めてな――だが、早急に手を打たねばなるまい。ここ三日で――犠牲者は既に三人目だ。もはや――誤魔化すにも限界が来ている」

 週明けからこちら、ずっと麻帆良を濡らし続ける雨は、未だ降り止まない。学園長室から見える空は、相変わらず鈍色の雲に覆われていた。











今回ほど、キャラクターメイキングとストーリー展開のかねあいに頭をひねった事は無いと、
それほどの難産でした。

このオリキャラの登場は、当初から想定していたものではありますが――
「何やってんだ、技量不足だな」と囁く、もう一人の自分が居たりもする。
加えて重ね重ねのこの難産ぶり――日々精進いたします。

そして浮き彫りとなる課題。
よし、本読もう。もっと本読もう。ひたすら本読もう。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・あの日、終わる日常
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/06/28 17:41
 車やオートバイのエンジン、あるいはクランクケースから、オイルが滲んでいたらどうするだろうか?
 それらに詳しくない人間ならば、不安になってすぐに修理に向かうことだろう。
 だが、古い車などに乗る人間は、その程度のことでは眉一つ動かさない。
 オイルが滲むと言うことは、“滲み出すほどオイルがちゃんと入っている”と言うことであるから。特定のメーカーの、古い車種など、オイルが漏れなくなると、逆に不安になるオーナーすら存在する。
 “トラブルが起きていなければ不安になる”とは、つまり本末転倒であるが――つまり、現在の麻帆良はそう言う状態の中にあった。
 麻帆良学園都市は、関東一円の地形的エネルギーが集約する場所。その力が図らずも魑魅魍魎を呼び込み、人間の思念にすら形を与えてしまう。だからかつてよりこの地は、人々に計り知れない恩恵を与えてくれると同時に、人々にとっての脅威であった。
 そしてその日。雨と共に訪れた一週間の始まりに――その脅威が、唐突に消え失せた。
 麻帆良を古くから守ってきた集団や、新たにここを住処と決めた魔法使い達は、その原因の究明に乗り出した。しかしその理由は何もわからなかった。
 否、原因“は”わかったと言うべきか。
 麻帆良の怪異が消え失せた原因――それは人為的なものであった。何者かが、麻帆良の周囲を取り囲む丘陵地帯に巨大な陣――西洋の魔法陣や、東洋の結界のようなそれ――を敷き、魑魅魍魎や怪異の侵入を防いでいたのだ。
 しかし誰が一体何のために、このようなことをしたのかはわからない。
 麻帆良の為を思っての事でないのは、明白だった。力任せに敷かれた結界は、つまり麻帆良という土地のあり方を無理矢理にねじ曲げているという事である。結果的に今は、外敵の侵入を防ぐ事にはなっていても、放置すれば、どのような影響が出てくるかわかったものではない。
 しかしならば、どうしてこのようなことをするのか――それが、どうにもわからなかった。
 敷かれた陣の規模からして、おそらく単独ではなく、相当な規模を持つ集団がそれを敷いたのだろう、と言う推測も出来たが、そちらもそこで行き詰まった。敵と戦って味方を守る事を常としてきた麻帆良の人間は、明確な攻撃ですらないこの不思議なやり方から、相手にたどり着くことが難しかったのだ。
 彼らに出来ることと言えば、この力任せの結界を破壊し、麻帆良をあるべき状態に戻してから、時間を掛けて事の真相にたどり着く――ただそれだけである。もちろん言うは易く行うは難し。などという言葉は、今更言うまでもないことである。
 そして、麻帆良を守る彼ら以外には気づくことすら出来ない不安を覚えながら、いつも通りに彼らは麻帆良を“守ろうと”働き――
 木曜日が終わる頃には、既に五人の人間が犠牲となっていた。




「ふぁあ……ぁふ――ねむ……」
「どうしたの相坂――ちゃんと寝てないの?」
「ん――ちょっとね」

 口に手を当てることすらせずに、大あくびをした白髪の少女に、彼女の後ろの席に座る級友は、呆れたような目で彼女を見る。しかし――同時に少し意外にも思うのだ。相坂さよというその少女の成績は、お世辞にも良いとは言えない。しかしそれはどうやら、彼女がまともな初等教育を受けていないと言う理由から来ているところが大半のようである。現実に、彼女の授業態度は非常に真面目なもので、それを証明するかのように、成績の方はゆっくりと――しかし確実に上昇傾向にある。
 そんな彼女が、これから授業が始まろうかと言うときに、人目もはばからずに大あくび、と言う姿は、実は意外なものだった。見れば彼女の机の上には、まだ授業の用意すら出来ていない。

「ちょっとって何よ――近衛先生に夜ごと可愛がってもらってるとか?」
「……私としてはそれが理想なんだけど――残念ながら、まだそこまでは」

 そう言ってさよは、友人の問いに、目をこすりながら応えて見せる。
 彼女は今現在、寮の部屋を飛び出して、この学校の英語教師である近衛近右衛門という男のところに下宿している。それ自体は寮母にも許可を取ったものであり、クラスメイトの周知の事実でもある。
 三人寄ればかしましい、などという言葉がもはや陳腐に聞こえるこの年頃の少女の中で、何故にそう言う話題を提供して尚、彼女が平穏に過ごせるかと言えば――中学生になるまではずっと、近右衛門が彼女の親代わりであり、さよは彼の家に住んでいた、と言う事実もまた、彼女らの中では有名な話だからである。今更そんなことをからかう事に、意味はない。

「なんつーかさ――あんたって色々凄いと思う」
「へ? 何が?」
「何がって――わかってないならいいのよ、別に。それで? それじゃ眠れない理由ってのは何なのよ? それがひょっとして、わざわざ許可取って寮を飛び出した理由?」
「え? あ、うん――それとは関係があるような無いような」

 あくびをこぼしながら、さよは苦笑する。

「実は私――子供が出来ちゃって」
「………………ぅえっ!?」

 一瞬の氷のような時間の後で――級友は、もの凄い勢いでさよの下腹部に目を遣り――

「あ、ごめん。別にそう言う意味じゃない」
「そう言う意味も何も、その言葉に他にどんな意味があるって言うのよ!?」

 彼女の襟首を掴む勢いで問いかける友人に、さよは苦笑しながら事の次第を話してやる。ややあって――相手は脱力したように、自分の机にばったりと伏せた。

「あんたって子は――確信犯でしょう?」
「ごめんごめん――ついね、つい。でもね、もう、これが可愛いんだぁ――小首を傾げてね、こう、舌っ足らずな声で“おかーさん”って、ああもう――」
「……その可愛らしさに悶え苦しんでるせいで、夜も眠れないって」
「それもあるんだけど」
「あるのかよ」

 さよは小さく息を吐き、机に組んだ腕の上に顎を載せて、物憂げな瞳で虚空を見つめる。容姿のせいで、そう言う仕草が絵になる少女ではあるが――実際問題、彼女はそこまで可愛い性格をしていないと、友人は思う。

「あの子が行き倒れてたのもそうだし――何だか今週に入って、麻帆良で事件や事故がたくさん起きてるって」
「ああ――寮の方でも、夜間外出禁止になってる。何でも男子校の先生がひき逃げで死んじゃったすぐ後に、大学の学生が通り魔に刺されて死んだって――」
「そう、それでね、その対策だとかで、近衛先生、最近帰りが遅いの。私もなるべく起きて待ってるようにはしてるんだけど――」
「それで寝不足になってるって? 気持ちはわかるけどさ。そう言うことしてると、逆に先生に迷惑かけてるんじゃないの?」

 若いくせに老人のような口調で喋り、砕けた雰囲気の授業をする近右衛門という教師に対して、生徒の人気は低くない。とはいえそれが“面白い教師”という評価以上に発展しないのは、彼の人徳故か、それともさよの“努力”の賜か。
 ともかく友人の問いかけに、あくびを噛み殺しながら、さよは応える。

「でもね? やっぱり基本だと思うんだよ」
「何が」
「玄関先でこう三つ指ついて――お帰りなさい、ご飯にします? お風呂にします? それとも私? ……とかって言うのは」
「……それで先生、帰りが遅いんじゃないの?」

 わざとらしく体をくねらせて言う彼女に、友人は呆れたようにため息をつく。
 そこで教室の扉が開き、彼女らの担任教師が入ってきた。三十代半ばの女性で、普段は年齢よりも少しばかり若く見える顔に、柔和な笑みを浮かべている事が多いのだが――今朝の彼女は、難しい顔をしたまま、教卓に付く。
 クラス委員の一声で全員が席を立ち、“おはようございます”と唱和する。五〇年代、子供の数は多く、四十人を超える少女達の声が重なる様は、ある種の迫力すら感じさせる。

「おはようございます――皆さん、今日は、一時間目の予定が変更になります」

 難しい顔のまま、彼女は口を開き、そう言った。

「近頃この辺りで、深刻な事件や事故が多発しています。昨日も小学校用務員の先生が、何者かに襲われて、現在病院で手当を受けていますが――深刻な容態のようです」

 教室の中に、形容しがたい少女達のざわめきが広がる。それを想定していたのだろう、彼女はそのさざ波のようなざわめきを注意しようとはせずに、言葉を続ける。

「今日は最初に、体育館で全校集会を行います。校長先生からの諸注意などがありますので――皆さん、廊下の方に並んでください」




「ああいうことをやっているのを見ると、お主が本当に教師に見えてくるから不思議じゃのう」
「その言葉、そっくりそのままお前に返してやろう」

 体育館の壇上で、麻帆良学園の生徒――とはいえ、その数は膨大であるため、その時間に集められたのは女子中学生のみであったが――に対して注意を促した学園長は、近右衛門から投げかけられた言葉に、苦笑しながら応えた。
 ここ最近、麻帆良で物騒な事件が頻発しており、死者すら出ている。
 夜間の外出は出来る限り控え、単独での登下校も出来る限りしないように。
 ごくごく大ざっぱに言えば、学園長から彼女たちにもたらされた“注意事項”は、その点に集約する。

「お前はどう思う? もはや麻帆良学園そのものを、一時的に封鎖した方が、あるいは――」
「それは賢明な判断ではあるまい」

 舞台袖に引っ込み、壇上への階段に無造作に腰を下ろした学園長に、その脇に立っていた近右衛門は首を横に振る。

「考えても見るが良い。犠牲となった五名は、その全てが魔法関係者じゃ。単純な話――これは無差別攻撃ではあるまいよ。明確な、儂ら関東魔法協会を狙った敵意じゃ。その上で、学園を封鎖するのは得策でない。相手にとっては、この学園全てが人質も同じ。今はまだ、儂らに矛先が向いておっても――儂らが下手に動けば、いつ“人質”を取られんとも限らん」

 学生を守るための行動が、逆に相手を刺激しては話にならない。近右衛門はそう言って、小さく息を吐いた。

「だが――私たちが何もしなかったからと言って、相手の矛先がいつ、学生達に向かわない友限らない」
「……むろん、その通りじゃな。どう動いたところで、保証など何もない。どちらが幾分安全か――その程度の話でしかないというわけじゃ。ふん――外道め」
「相手が何者かは知らないが――向こうに言わせればこちらを指してそう言うだろうな」
「己は鏡を見たことがあるか、と、言ってやりたいのう」
「“魔法先生”など、突き詰めればそういうところに行き着くのかも知れんがな」
「――ならばお主は、何故“魔法先生”であることを選んだんじゃ?」

 不機嫌そうに問う彼に、学園長は目を閉じ――首を横に振る。

「自分が魔法使いであることはやめられなかった。そして、教師でありたいと願う自分の気持ちにも嘘は付けなかった。つまりはそういうことだ」
「我が儘じゃな」
「そうだな」
「そしてそれは――儂も同じ、か」
「――私は時々お前がうらやましく感じるよ。私のようなものから見れば、お前のような人間は輝いて見える」
「ふん――お主に言われてものう」

 近右衛門は僅かに苦笑を浮かべ――しかしすぐに表情を消して目を閉じる。再び瞼が開かれたとき、そこに宿るのは、鋭い“戦うもの”の目であった。

「犠牲となった者の中でも――虎堂やオルレアン助教授を、儂はよく知っておる。彼らの近接戦闘能力は、魔法界の中でも上位に位置するじゃろう。その二人を、他の魔法先生らが駆けつけるまでの短時間に殺害出来る者など、そうそうおらん」
「容疑者は裏の世界でも名が知れた人間――ということか?」
「むろん、無名の実力者という可能性もある。それだけでは何とも言えんが――もう一つ気になる事がある」

 彼は一呼吸を置いて、学園長を見遣る。

「儂らとて、馬鹿でも無能でもない。これだけの事態が起これば、こうして色々と頭を捻り、対策を考えておる。じゃが、事件はそれをあざ笑うように起こりおる」
「相手がそれだけ強力と言うことか?」
「ただ強力なだけの相手なら、いくらでもやりようがあるわい。お主もわかっていて馬鹿を言うでない。儂らは“得体の知れない相手”を警戒して動いておる。じゃが、相手はそれでも儂らの息の根を止められる――何故じゃ?」
「……私たちの想像が付かないほどの実力者か――そうでなければ、想像も出来ない相手が――」

 魔法使いが束になってもかなわないほどの、恐ろしい“何か”――その可能性も、無くはない。しかしそれならば、わざわざこのような回りくどいやり方を取るだろうか? 学園長は考えてみる。自分のところに、それほどまでの戦力があるならば――程なく、彼は解答に行き着いた。“現代”の世界の縮図のような、その解答に。

「そうじゃ。それほどまでの力を得たと言うのならば、それを傘に儂らに自分の理想を押しつければいい。どこぞの国が核兵器の力をたのみに、世界を二分したにらみ合いをしているように、のう。わざわざそれを隠して、このようなちまちましたやり方をやるとは――少なくとも、儂ならやらんわな」
「ではやはり、相手は私たちの警戒を縫った攻撃を? しかし確かにお前の言うとおり、私たちとて、“得体の知れない何かの脅威”には過敏になっている。とすれば、考えられるのは――想像を絶する新しい戦略、あるいは――裏切り」
「考えると頭が痛くなる話じゃのう。一体どうやって麻帆良の懐に、と、それを考えて儂らは怯える。儂らの中の誰かが裏切り者でないのかと考えて、儂らは疑心暗鬼に陥る」

 絶対に信頼の置ける者だけで、内偵を進めよう。と、学園長は小さく言った。今のところ、それ以外に出来ることもそうそう無い。身内を疑うのは気分が良くない事ではあるが、今更そうも言っていられない。
 話は終わりだと、踵を返した近右衛門に、学園長は言う。その瞳には、鋭い光が宿っている。

「……お前が拾ったあの少女――未だに身元がわからない」

 暗に込められた疑問に、近右衛門は明確に応えてみせる。

「少なくとも――記憶を覗いた限りでは、彼女は何も知らんようじゃった。記憶喪失の人間と同じで、その記憶は混沌としておる――じゃが、少なくとも、麻帆良で儂に拾われてからこちらの記憶は、鮮明なものじゃったが」
「そうか――すまない」
「まあ、時期が時期じゃからのう。何でも疑って掛かるのが正解じゃろうて――それと」

 彼は振り返り――その顔に、努めて消していた表情を蘇らせてみせる。
 それは、柔らかな笑顔だった。

「いつまでも「あの子」扱いしているのは何じゃと――相坂君がの。あの子は、“みや”――美しい夜と書いて、美夜、じゃ」




「お帰りなさい近衛先生」

 その日自宅に戻った近右衛門を出迎えたのは、さよが小さな少女――“みや”と彼女が名付けたその少女を抱きかかえ、絵本を読み聞かせている姿だった。その絵本はさよが近右衛門に引き取られた頃に買い与えられたものであり、当然近頃では、押し入れの奥でほこりをかぶっていた筈の代物である。
 自然と、近右衛門の顔に笑みが浮かぶ。
 さよは、自分の名前をよく知らない。“さよ”という読みに、どのような漢字が当てられるのか。彼女は幼すぎて、それを知らなかった。そんな彼女に、近右衛門は“小夜”という名前を与えた。自分が彼女と出会った、月の綺麗な夜を思い出すためだと、幼い彼女に近右衛門はそう言った。
 だから――と言うわけではないだろうが。さよは、この少女に、自分と似たような意味を持つ名前を与えた。果たしてそれが“みや”――美しき夜に、自分の娘となった少女。

「ごめん、ちょっと待っててね」

 “みや”に一言断って、さよは彼女を膝から下ろし、立ち上がる。どれほどその状態で居たのだろうか近右衛門にはわからないが、足がしびれた様子もなく、近右衛門が脱いだスーツの上着を、彼の手から奪い取る。

「この程度は自分で出来るんじゃがのう」
「出来てないからやってるんじゃないですか。先生、ハンガーに服を掛けるのが雑すぎます。あんなやり方じゃしわが出来るし、型くずれしちゃってもう――お風呂がわいてますから、そのまま入っちゃってくださいな」

 スーツの上着を叩きながら、さよは言う。
 当時の麻帆良では、既に気軽に使える湯沸かし器が普及しつつあった。麻帆良学園都市は“学園国家”。その片鱗は既にこの時期から現れており、新しいものは何でもどん欲に開発し、取り込んでいったのだ。果たして、現在の麻帆良を支える特異なインフラが発達する事になるのだが――戦争を直接体験していないものの、戦後の混乱期を経験した近右衛門は、内心贅沢なことだ、などと詮もない事を考えながら、ネクタイを緩める。

「君にそこまでやらせるのは気が引ける」
「私が好きでやってる事ですから、お気になさらず。さあさ、お湯が冷めてしまいますから――私とみやちゃんは、着替えを用意して後から行きますから」
「左様か――いかん。納得しかけたがそれはいかんぞ。儂は後で良いから、君とみやが先に入りなさい」
「ち」
「舌打ちをするな」
「昔は背中の流しっこしたじゃないですか。あの頃は楽しかったなあ」
「綺麗に纏めようとしても駄目じゃ。あとそんな目で見ても駄目なものは駄目。相坂君。君には人並みの羞恥心というものは無いのかね?」
「あるに決まってるじゃないですか。近衛先生だからですよ?」
「寝言は寝て言う事じゃな」

 ぶつぶつ言いながら、不思議そうな顔でこちらを見ていたみやの手を引き、風呂場へと向かったさよに、近右衛門は苦笑を浮かべる。しかしその時、自分の顔に浮かんだ、さよと居るときにはもはやお決まりとなりつつあるその表情が――まるで自分の顔に固く張り付いた仮面のように感じられた事に、近右衛門は努めて気がつかない振りをするのだった。




 冷たい雨が降りしきる。
 週の頭から降り始めた雨であったが、未だに降り飽きる事を知らず、麻帆良の夜は、まるで水底に沈んだような淀みの中へと落ちていく。
 そんな錯覚を覚えながら、その“魔法先生”は、麻帆良の街を歩いていた。
 首筋の辺りが、何とも落ち着かない。まるで全てが明け透けのガラスの部屋に閉じこめられているようにすら感じられる。その感覚は、ある意味で正しいかも知れない。今の麻帆良は、何者かによって敷かれた結界のせいで、完全な空白地帯である。言うなればそれは、森の中にぽっかりと開けた空き地。それも、膨大な地形エネルギーと、それを束ねる巨大な“世界樹”――その様な“餌”がただ中に置かれた空き地である。
 今はまだ、この結界自体の影響もあって、平静が保たれているが――彼は一つ身震いをした。何かがあれば、容易くこの均衡は壊れるかも知れない。そうなった時、麻帆良は魑魅魍魎で溢れかえり――それに蹂躙されてしまうのではないか?
 それは最悪の可能性。しかし、考えなければならない可能性であった。
 もはやガラスの部屋云々と言うよりも、町中を裸で歩いているような不安と心細さに襲われ、彼はポケットの中身を握りしめる。それは魔法使いの使う道具であり、一瞬にして離れた場所へと転移できるマジック・アイテム。
 言うまでもなく、“正体不明の脅威”に出くわした際、安全に退避するための非常手段であった。
 雨は降り止まず、側溝から溢れた水が、道路を薄く覆う。排水に関しては、首都圏よりもおそらく整っているだろうこの麻帆良で、ここまで水が溢れるというのはあまり例がない。川の様子を見てくるべきだろうかと、彼は帰路を急ぐ足を、一瞬止めた。
 その時、彼の瞳が、“あるもの”を捉える。

「……あれは――」

 彼は何気なく、そちらに足を向けた。麻帆良を襲う謎の脅威の事は、重々承知していたつもりだった。けれど、足は自然とそちらに向いてしまう。何故なら、その「もの」と言うのが――




「至近距離から心臓を一突き――ただしこれは普通の刃物じゃない。傷口は背中に達する程に深いが、傷口周辺の組織にほとんど損傷がない。信じられないほどに鋭くて“薄い”刃物だ」

 そう言って、学園長室を訪れた男――頭髪をオールバックに撫でつけ、白衣を羽織り眼鏡を掛けた――いかにも“研究者”然とした風貌の男は、自分の左胸を軽く叩いて見せた。彼は麻帆良の大学病院に勤める“魔法先生”の一人であり、病理学の研究と銘打って、その実、傷病治癒の魔法を研究している。

「人間の骨ってのは、存外に固い。大の男が正面から力任せに刃物で突いても、肋骨に阻まれて致命傷には至らなかった、なんて話もある。少なくともこうも見事に、肋骨ごと心臓“だけ”を貫くなんて真似は、素人には無理だろうね」

 麻帆良市内で、一連の事件の新たな犠牲者と思しき“魔法先生”の遺体が発見されたのは、今朝方の事だった。犠牲者は高校教師を務める男で、発見したのは登校中の小学生だったという。その児童はと言えば、やはりショックが大きかったらしく、今はこの――白衣の青年が勤める大学病院に保護されている。

「ただ素人考えかも知れんが――犯人は相当な技術の持ち主だが、戦闘のプロかと言えば、そうではないかも知れないな」
「どういう事だ?」

 机に腕を組み、鋭い輝きをその瞳に宿し――学園長は問う。その迫力に、青年は少なからぬ圧迫感を覚えながらも、一つ咳払いをして、その問いに答える。

「彼の体には、致命傷となった左胸の傷以外に、何処にも傷が無いんだよ。僕は魔法使いと言っても、戦闘屋じゃないが――それでももし、戦って相手を倒そうとすれば、急所を狙うだろう。そして犠牲となった彼は、戦う事の出来る魔法使いだ。当然、その程度の事は知っているだろう?」
「いくら不意を突かれたと言っても、何の抵抗もなく心臓を一突きにされるのは――不自然だと」
「だからあくまで素人考えだがね。強力な捕縛魔法で拘束された後に、致命傷を負った――とも考えられる。しかしどちらにせよ、僕は麻帆良学園の“魔法先生”は、一筋縄じゃいかない曲者揃いだって――そう言う評価を受けて居るんだろう?」

 皮肉混じりの賞賛に、学園長は何も言わない。彼は目を閉じ――ややあって、青年に言った。

「……報告、ご苦労だった。医療関係者と警察の方は?」
「情報はこちらで抑えてあるが――誰も信じはしないだろう? 魔法使い同士の争いが原因で、麻帆良で犠牲者が続発しています――学園長先生が左遷されるくらいはあり得るかも知れないが。その時は精神病患者としてうちで引き取ろうか?」
「――そうだな。その時はまた迷惑を掛ける事になろうが」
「皮肉に本気で応えられても困るんだがね――一応、僕も魔法先生の端くれとして、自分の出来ることをさせて貰うよ」

 そう言って片手を上げ、白衣の青年は扉の向こうに消えた。
 その姿を目で追い――近右衛門は言う。

「知っておるか? 奴が魔法界で発表した論文――現代医学と治癒魔法の融合じゃとか。立派なお題目を唱えてはおるが――中々に業が深いぞ、あれは。Mad scientist――と、言う奴じゃろうか」
「だが、信頼は出来る。確かに彼は、倫理観的、その他のタブーに触れる事に抵抗は薄い。だが、その根底にあるのは、あくまで人の命を救おうとする強靱な意志だ。彼をして狂科学者――この場合は狂医か――と後ろ指を指す輩は多かろうが――私は彼のような人間は、嫌いではない」
「少なくとも、権力争いにうつつを抜かす“立派な魔法使い”よりも、余程好ましいのは確かじゃがな」

 学園長は組んだ腕に顔を伏せ――ややあって、眉根を指で揉みほぐした。

「――少し寝ておいた方が良いぞ」
「そうさせて貰いたいところだが――今の時点ではそうもいかん。今朝には魔法界から、魔法陣の専門家がやって来ている。そろそろ最初の作業報告が上がってくる頃だ」
「……何か進展があればいいがのう――仕方ない。儂が隣の給湯室で、コーヒーでも淹れてやろう。味は保証せんがな」
「ふむ――済まないな。味などとはこの際どうでも良い。むしろ不味いコーヒーを流し込めば、眠気も吹き飛ぶかも知れんしな」
「ほほう。言ったな? ならば丹誠込めて、泥のようなコーヒーを淹れてやろう」

 近右衛門は意地の悪そうな笑みを浮かべ、学園長室の入口に向かって歩みを進める。しかし果たして、彼がドアノブに手を掛けようとしたときに、扉が外側からノックされた。

「どうぞ」
「失礼します」

 入ってきたのは、学園長の秘書のような仕事をしている女性だった。当然彼女も“魔法先生”の一人である。彼女は部屋に入るなり、ドアの側に立っていた近右衛門の方に向き直る。

「近衛先生――お電話です」
「儂宛にか? 誰からじゃ?」
「柳井診療所から――ですが、電話の相手は柳井医師ではありません」

 柳井診療所とは、近右衛門が“みや”を抱えて駆け込んだ診療所である。彼が一体自分に何用だろうか――とは思ったが、彼女は、電話の相手は柳井医師ではないという。
 では一体誰が、そんな場所から自分に電話を掛けてきたのか――怪訝そうな顔に気がついたのだろう、彼女は近右衛門に、簡潔に告げる。

「電話の相手は、“近衛さよ”と名乗っておりましたが」
「……相坂君は何を考えているのか。それで、何故相坂君が、診療所などに?」
「はあ――詳しいことは存じませんが――“みやちゃんが倒れたから、今すぐ来て欲しい”と」
「……何じゃと?」

 刹那、強い風が吹き――雨粒が窓を叩く音が、やけに大きく響き渡った。











オリキャラ少女の名前、センスがない自分なので難航しました。

「小夜」の当て字は完全に妄想。
これに関しては原作設定が無かったように記憶していますが、
もしもあったらごめんなさい。スルーしてください(笑)

「まや」と「みや」で最後まで悩みました。

最終的に「まや」だと、漢字が当てづらいのと、
「某化け猫退治漫画(笑)」のキャラクターとかぶるので「みや」に。

……本当に消滅しちゃったんでしょうかね、まやちゃん。カムバック(笑)



[7033] 麻帆良女子中三年A組・あの日、最後の夜
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/07/03 21:08
 麻帆良学園都市の一角に診療所を構える柳井怜医師は、風変わりな男であった。
 彼は自分の経歴をあまり話そうとしないが、その腕は“町のお医者さん”の程度を遙かに超えている。一説には、何処かの大病院で働くエリートだったとか、実は世界的な権威を持つスペシャリストだとか、そんな風に噂されることもある程だ。
 ただ現実の彼は、この騒がしい町の一角に、小さな診療所を開いているだけの町医者である。彼ほどの腕があれば、激務の割に見返りの少ないこんな場所で、こんな小規模の開業医をしなくとも、いくらでも引く手はあるだろうに――人は口を揃えてそう言った。
 そしてそう言った人が皆、その実彼が、ここから居なくなることを望んではおらず、そして彼自身はそんな人々に対して、“こんなしんどい仕事が出来る奴が他にいるか”と、胸を張り、今日も一線で学生達と向き合い続ける。
 そんな彼は今――難しい顔をして、ベッドの上で荒い息をつく少女を見下ろしていた。

「先生が来るまでにざっと検査をしてみたが――」

 柳井医師は頭を掻きながら、バインダーに挟まれた書類に目を落とす。そこには近右衛門には理解できない数字と、おそらくドイツ語だろう、英語教師の彼にもわからないアルファベットの羅列。

「バイタルが安定しねえんだよ。最初は症状から、ただの風邪かと思ったが――運ばれてきた時には体温が三十五度を割ってた。こいつはまずいと体を温めようとしたら、今度は四十度近く熱が出た。それだけじゃねえ。心拍やら血圧やらまでが、ふらふらと頼りなく変動してやがる」
「――それは、それはどういう事なんですかの?」

 汗の浮いた額を、乱暴に服の袖で拭いながら、近右衛門は問うた。
 この青年が、連絡をしてからここに駆けつけるまでの時間の短さには、柳井医師も目を丸くしたものである。今にも倒れそうな有様ではあったが、彼が今まで電話先――麻帆良学園理事棟に居たというのならば、彼はオリンピック級の健脚の持ち主だ。
 しかし残念ながら、今は彼を讃えているような場合ではない。

「――検査をするには、ここじゃ設備が足りねえから、麻帆良の大学病院の手でも借りる事になろうが――何とも言えんな。俺も医者をやってて長いが、こんな症状は初めてだ。見たところ外見的な変化はねえし、詳しくは調べて見る必要があるが、この間この子がここに担ぎ込まれた時の様子を見る限りじゃ、内臓疾患を抱えてるようにも見えなかったしな」
「では――ではどうすれば」
「そうだな。まずは少しだけ、あんたが落ち着く事だ」

 そう言って柳井医師は、バインダーをテーブルの上に置く。

「あんたの“嫁”を自称するあの娘っ子の姿が見えねーのが、気にならんか?」
「え? ――あ、相坂君は?」
「心配のしすぎでぶっ倒れた。まああの細っこい体で、子供一人抱えてこの雨の中をここまで走ってきたんだ。仕方ねえだろうさ。今はウチのが面倒見てるよ。こう言っちゃ何だが、今は麻帆良が危なっかしいってんで、学生の部活が自粛されてんのが救いだな。でなきゃ商売抜きであの子の面倒までは見る余裕がねえ。で、だ」

 そう言って彼は、強面の顔に、柔和な笑みを浮かべてみせる。

「ここであんたにまで心労を溜められると、こっちが迷惑だ」
「しかし」
「一家の大黒柱ならよ、どっしり構えておけ。どうせ今ウチで出来る事なんざ、たかが知れてる。少し様子を見て――症状が治まらないようなら、大きな病院に搬送だ。何、バイタルが不安定ではあるが――こいつは俺の勘だが、今すぐどうこう言うような大事には至らんよ」

 彼に背中を叩かれて、近右衛門は大きく息を吐く。彼の言うことは正論だ。自分がみやを心配することは間違っていないだろうが、今自分が慌てふためいたところで、得になる事は何もない。
 彼はそっと、苦しそうな寝息を立てる少女の額に手をやった。その褐色の肌はしっとりと汗に濡れ――かなりの熱を持っている。
 しかし気のせいだろうか。自分が手を載せた時――僅かだけ、彼女の表情が和らいだように、近右衛門には感じられた。

「わかるんだよ」

 柳井医師は、腕を組んでそう言った。

「少なくともその子は、意識が無くてもあんたが来てくれた事がわかってるんだ。あんたにだって経験はあるだろう? ガキの頃に病気でぶっ倒れて、苦しくて心細くて堪らねえって時に――側に誰かが居てくれるだけで、不思議と元気が出てくるってあれだよ」
「……」
「生憎と、子供の頃の事は良く覚えておりませんでな、しかし――」

 近右衛門は、そんな彼の方を見ることが出来ず、ただ黙って、みやの頭をなで続けた。

「このような馬鹿者を慕ってくれる人間が居ること――儂にとっては望外の喜びですな」




 その日――土曜日の夜。柳井医師の診療所に泊まり込んだ近右衛門は、不意に夜中に目を覚ました。通常ならば週末は、魔法先生として麻帆良の安寧を守るために戦う彼であるが、今はそうも言っていられない。
 今日はと言えば、麻帆良に敷かれた魔法陣を解除する作業が進む傍らで、三人一組程度のグループを作った魔法先生達が、麻帆良の警備を行っている筈だ。得体の知れない脅威に対して、それでも万全といえるのかどうかはわからないけれども。
 近右衛門は当初、予定通りにその警備に参加する予定だったが、学園長の方からそれは却下された。今はそれどころではないだろう――と、近右衛門はそれに対して口ばかりの反論をしてみたが、内心彼には感謝していた。
 果たしてそう言う経緯を経て、柳井診療所の空き部屋に布団を敷いて床に就いていた近右衛門であったのだが――何故こんな夜中に目が覚めたのだろうと訝しみながらも、壁に掛けられた時計を見る。
 外は相変わらずの雨が降り続いていて、部屋の中は非常に暗い。だがどうにか彼は、時計の針が午前二時を過ぎ指している事を知ることが出来た。布団から上半身を起こそうとして、柔らかな抵抗に阻まれる。
 隣の布団で寝ていた筈のさよが、いつの間にか自分の布団に潜り込んで、彼の腕を抱きしめるようにして寝息を立てている。その閉じられた瞼の周囲はまだ少し腫れぼったく、頬には涙の跡が見て取れる。
 近右衛門は小さく微笑んで、そっと彼女の腕から、自分の腕を抜き取った。

(慕われる事に悪い気がするほど、ひねくれてはおらんつもりじゃが――)

 近右衛門は、一人思う。
 自分は、相坂さよと言う少女の幸せを願っている。彼女が自分に対して淡い思いを抱いている事も知っているが――それに関しては、彼女も微妙な年頃の少女である。憧れと恋心をごちゃ混ぜにすることなど、この年頃の少女にはままあることだ。
 自分は今まで、自分が立派な魔法使いになるために邁進してきた。
 自分一人の力で出来ることなど、たかが知れている。しかし、自分が立派な魔法使いになれば、少なくともそれだけ、何かの役に立てるはずだ。そう言う思いがやがて、この醜くて愚かな世界を変えていく力になるに違いない。
 傷みに泣き叫ぶこの未完成な世界に、自分という魔法使いが存在することで、少しでも――しかしそれは自分の、“近衛近右衛門”の理想でしかない。
 彼の世界に、今まで他人は居なかった。さよと出会ってから、彼はその事に気づかされた。

(儂は相坂君に――何をしてやれるんじゃろうか。何をしてやるべきなんじゃろうか?)

 そして今更こんな事を考えている自分に腹が立つ。
 魔法使いとしての自分を、彼女に対して隠し続けている事に関しては、申し訳ないとは思うが仕方ないだろう。それが今の魔法界のスタンスであり、近右衛門も細かく言いたいことはあるにせよ、それには賛成している。
 急激な改革は、それに追従できない存在を全て否定する。ようやく戦争の傷跡から立ち直りつつある世界に、“魔法の世界”と言う名の、非日常を爆弾として投下する事は、今は望ましくないだろう。
 けれど結局それは、さよと出会ってからこちら、ずっと彼女に対して仮面をかぶり続けていると言うことでもある。人間には様々な顔があり、それを隠すことは大なり小なり誰にでもあることだ。だが、近衛近右衛門という青年の中核をなすのは、間違いなく“魔法使い”としての彼である。
 さよは、そんな彼がかぶり続ける仮面に恋をしている――そう考えると、彼はたまらないむかつきを覚えてしまう。

(この子は――この冷たい世界の中で孤独に震えておったと言うのに――ようやく出会えた他人――儂らまでが――儂らは本当に、この子に酷い事をしておるのう)

 指先に触れるさよの髪は、見た目の通りに、まるで絹糸のように滑らかで心地いい。
 いっそのこと――彼女が望むならば、彼女の想いを受け止めてやるべきだろうかとも思う。それが、彼女の幸せに繋がるというのなら。
 だが――それは悲しすぎるのではないかと、“立派な魔法使い”である近衛近右衛門が言う。確かにそうすることで、そうやって彼女に慈愛を注いでやることで、彼女は幸せな一生を過ごせるかも知れない。
 しかしそれは、作られた仮初めの幸せでしかない。
 何をして本物の幸せなどと言えるのか、近右衛門にはわからない。けれど――彼女は仮面をかぶった“近衛近右衛門”という人形を相手を愛して、そして真実に気がつかないまま一生を終えるのか?

(……理想を言えば、相坂君を振り向かせる事が出来そうな男が現れてくれればのう。じゃが――世の中はそう甘くはなかろうな)

 それは中途半端な父親の心理だと、近右衛門は思う。
 さよを伴侶とする男は、少なくとも心の底から彼女を愛せる男でなければならない。そう思うのは間違いではないのだが――そんな風に思う資格があるのか。彼女に対して、嘘を付き続ける、こんな自分が。

「……このえ……せんせい」

 さよが小さく、寝言を言う。まるで自分の心中を見透かされたような錯覚を覚え――近右衛門は、思わず彼女の頭から手を引いた。

「……いかん、少し外の空気を吸ってくるかの」

 雨に濡れた、よどんだ川底のような空気だけれど――近右衛門は布団を抜け出して、廊下に向かう。思えば、何故今更自分はこんな事を考えたのだろうか? それは多分――小さな病室で魘されているだろう少女の事を考えて、彼の足は、自然とそちらに向かい――

「……馬鹿な」

 その部屋のベッドの上には、誰もいなかった。はだけられたシーツが、ベッドの隅に引っかかっている。一瞬の稲光が病室を照らし出し――シーツの白さを、近右衛門の網膜に焼き付けた。
 彼は寝間着として借りた浴衣姿のまま、踵を返して、玄関から表に飛び出す。降りしきる雨の中――通りに人影は何もない。大粒の雨滴が、瞬く間に彼の体を濡らしていく。

「――ッ!」

 躊躇ったのは、一瞬。近右衛門はそのまま、雨の中を走り出した。
 一九五×年、四月某日、午前二時――近衛近右衛門にとって、最も長い一日が始まった。




 それは何も知らない人間が見れば、単なる石の固まりのようにも見えた。子供が河原で、戯れで作り上げたような、小さな石の塔。だが、彼らの目にはハッキリと、それがこの街を包み込む巨大な“力”を支えている事実が映っている。

「これで半分か?」
「その様です。しかし何という力任せな陣でしょうか。それも――一体、この陣を敷いた目的は何なのでしょう?」
「わからない。だが――果たしてこの一週間で、犠牲者は既に六人。愉快な目的ではあるまいよ」

 そう言って、“彼ら”は“作業”に取りかかる。単に石を積んだ塊のようにしか見えないそれは、しかし普通に押そうが引っ張ろうが、力任せに殴りつけたところでびくともしない。
 果たして彼らは、魔法世界から派遣された、こういった“陣”に対するスペシャリスト。言うなれば、魔法の世界の特殊工兵舞台のようなものである。

「来たれ――アデアット――」

 一人の青年が、懐から取り出したカードのようなものを掲げ――小さく呟く。途端、淡い光がカードから溢れ――その光はやがて、粘土のように蠢いて、何かの形を作っていく。
 それが消えたとき、青年は不思議な形の眼鏡を掛け――彼の目の前には、一メートル四方はあろうかという巨大な紙片が浮かんでいた。不思議なことに、その紙片は、降りしきる雨の中にあって、まるで濡れた様子もない。

「始めます」

 青年はその紙片に片手を置き、もう片方の手を石の塚に伸ばす。すると、その紙片に薄青い光が走り――その軌跡は光るラインとなって、紙片に複雑な図形を描いていく。程なくして、とてつもなく複雑な図形で埋め尽くされた紙片一瞥し、青年は眼鏡を押し上げた。

「……外縁の増幅式から始めましょう。まずは――」
「申し訳ない!」

 彼が何かを言いかけた時、彼らの中に、突然何者かが割って入った。ぬかるんだ足下の泥を飛び散らせながら現れたその闖入者に、その場にいた全員が一瞬身を固くするが――すぐに、彼らの中に居た麻帆良の“魔法先生”が、その闖入者の正体に気がつく。

「近衛先生!? 何故あなたがここに――いえ、それよりその格好は?」

 近右衛門は、事情により今夜の警戒には参加しないと聞かされていた。その彼が今、膝に手を突いて荒い息をつきながら、目の前に立っている。どれほどまでに走り回ったのか、冷え込みを見せる今夜の空気に、体から湯気が立ち上っている。身に纏うのはそんな様子には不似合いな浴衣で、それもずぶ濡れになり――靴すら履いていない足は、血が滲んで赤く染まっていた。

「はあっ……はあっ……ん、んんっ! 方村、先生! みやを――“うちの子”を見ませんでしたか!?」

 名前を呼ばれた“魔法先生”は、彼の異様な雰囲気に尻込みしつつも、その言葉を受け止める。“うちの子”――相坂さよの事だろうか? いや、彼は“みや”と言った。彼はその名前を聞き及んでは居なかったが――

「それはひょっとして、近衛先生が保護したという少女の事ですか?」
「そうです! こちらの方で、見かけておりませんか!? 診療所から姿を消して――体調がおかしいというのに、こんな雨の中を――」
「お、落ち着いてください、近衛先生――おい、誰かタオルを持ってないか!?」
「こちらでは見かけておらんのですな!? では申し訳ないが、失礼!」
「近衛先生! ――くそ、一体何が――すまん、ここを任せても構わないか!?」

 彼は近右衛門の様子にただならぬものを感じ取ったのか、同僚にその場を任せて彼の跡を追う。しかし近右衛門は、移動速度を上げる魔法でも使っているのだろうか、既に何処に消えたのか、姿が見えない。
 一体何が起こったというのか――彼が保護した少女が、診療所から姿を消したと、彼はそう言っていた。ならば彼は、それを追って飛び出してきたというのだろうか? 冷静沈着――それを具現化したような麻帆良学園学園長、その右腕を務める男らしからぬ様子ではないか。
 さてここはどうしたものか。その学園長に連絡を入れるべきだろうか――そう思って一度足を止めた彼の耳に、小さく足音が響く。
 近右衛門が戻ってきたのだろうかと振り返ってみれば、そこに立っていたのは彼ではなかった。

「……」

 ずぶ濡れの少女が、そこには立っていた。
 簡素な病院着に身を包み、当然その体は身に纏うその服ごとずぶ濡れになり。長い黒髪が顔や背中に濡れて張り付き、言いようのない雰囲気を醸し出している。
 思わず言葉を無くした彼であったが――はたと、思い出す。小さく華奢な体躯、浅黒い肌、長い黒髪――もしやこの少女は、今まさに近右衛門が探している少女ではないのだろうか?
 そしてその少女の様子は――一見して普通ではない。雨に打たれるがままに立ちつくし――その漆黒の瞳は、何も映していないかのようにうつろで、瞳を雨滴が濡らして尚、瞬きすらしていないように見える。

「――“みや”と言うのは、君のことかい?」

 少し背をかがめるようにして、彼は少女に問うた。少女は何も言わない。だが、こちらの言葉はかろうじて届いているのだろうか――わずかに、顔を彼の方に向けた。

「ああ――私は方村と言って、近衛先生の同僚なんだが――彼が探している“みや”というのは」

 軽い衝撃を覚えた。
 それと同時に――彼の意識は、深い闇の中へと沈む。
 近右衛門が探していた少女――“みや”が、“八人目の犠牲者”の傍らで倒れているのが発見されたのは、夜が明けた日曜日の朝になってからだった。




「ですから、何度も説明しているように――我々の身分は証明された筈ですが」
「ならばお前らの所属先そのものが怪しいって事だろ。何度も言わせるな。ハッキリとした理由も話せない様な奴らに、ウチの大事な患者は渡せねえ」
「ならばどうするんですか。ここの設備だけでは、彼女の容態は保証できません」
「ふん――東京の大病院のお偉いさんに、俺に借りのある奴がいる。頑固でムカっ腹の立つ男だが、腕は立つ」

 日曜日、朝――柳井診療所の玄関で繰り広げられる問答を、さよは心配そうに見つめていた。対峙しているのは、この診療所の主、柳井怜医師と、麻帆良の大学病院からやって来たという白衣の青年。
 昨夜、“みや”が行方不明になった。
 近右衛門が着の身着のまま飛び出して行って探したと言うが見つからず――今朝になって発見された彼女の側には、“胸を刺されて死亡している麻帆良学園の教師”が横たわっていたと言うのだ。
 彼女とその教師の遺体は、すぐさま麻帆良の大学病院に収容されたと言うが――ここに来てその事実に噛みついたのが、柳井医師だった。
 聞くところによれば、病院は柳井医師と彼女の面会を認めず、治療への参加も必要がないと言って拒否したという。その病院の態度に、柳井医師は怒りをあらわにし――そのまま病院に乗り込もうとしたところに、対応に現れたのがこの青年だった。

「何を馬鹿な――良いですか柳井先生。彼女は雨の中を出歩いたせいで、かなり消耗している。意味のない移動は体に負担を掛ける。ましてや彼女は“殺人事件の現場”にいたんですよ? 慎重に様子を見なければならないところへ、単なる感情論で食ってかかられてもね」
「感情論? 馬鹿を言うな。お前らも医者の端くれなら、あれがどれだけ特殊な症例かわかるだろう? お前らのところの方が設備や規模からしてもいい選択だってのは、俺も認めてやる。なら何故俺を治療に参加させねえ? 必要ないとは言わせないぜ。俺はあの子の“主治医”だからな」
「ですから事情が事情ですので――面会謝絶が解けるとこちらが判断すれば、是非柳井先生にも治療に参加して貰うつもりで」

 相手は麻帆良の大学病院である。普通ならば心配する必要はなく、単に柳井医師が意地を張っているだけ――とも考えられる。
 さよも最初はそう考えた。けれど何故だろうか。胸の奥に――言いようのない不安のようなものがある。みやの事は心配だ。だが、自分に出来ることは何もなく、口を挟む必要は無いはずなのに――じっとしていると、訳もなく叫びたくなるほどの、そんな得体の知れない気持ちの悪さが、胸の奥底に渦巻いている。

「……近衛先生」

 さよは、近右衛門を振り返る。
 廊下の長いすに、彼は腰掛けている。スラックスをはき、しかし上半身は素肌の上にワイシャツを羽織っただけの姿で――その両足には、包帯が巻かれている。効けば夜中に、みやが居ないことに気がついて、雨の中に裸足で駆け出して行ったのだとか。
 彼は玄関で繰り広げられる喧噪を見ているようだったが――その瞳は何処かうつろであるように、さよには思えた。

「近衛先生」
「ん? ……あ、ああ。何じゃね、相坂君」
「みやちゃん――そんなに酷い病気なんでしょうか? それにどうして――夕べは出歩いたりなんか」
「さて、のう――夢遊病という言葉もあるわけじゃが」
「せんせ……」
「相坂君」

 近右衛門は顔を上げる。

「儂は君やあの子を、自分の娘のように思っておる。独身の若造が何を言うか、と言う話かも知れんがの」
「そんなことは」
「じゃから――じゃから、のう」

 何処か遠くを見つめ、苦しそうに歯を食いしばり――そうやって立ち上がった近右衛門に、さよはかける言葉が見つからない。
 そしてその時の近右衛門の瞳は、白髪の少女を映してはいなかった。




「“みや”君の記憶を調べてみたが、昨日君の家で倒れてからこちらの記憶はない。つまり、彼女は何も知らないと言うことだ」

 学園長は抑揚のない調子で、応接ソファに座る近右衛門に言った。学園長室に据え付けてあるソファは、場所柄それなりに高級な座り心地のいい代物である。果たして、そこにほぼ仰向けに寝そべるような格好で座り、天井を仰いで右腕を顔に載せている彼の姿は、あるいは人によっては眉をひそめる程に気の抜けたものだろう。ブーツを履いた足は、これもそれなりに高級なテーブルの上に、遠慮無く載せられている。
 みや本人は、夕べ起こったことを何も知らない。つまり昨晩の行動は、彼女自身が知らない間に、夢遊病者の如く行われたものだった――と言うことになる。

「しかし――状況からして、彼女が方村教諭の殺害事件に関わっていることは明白だ」
「……何をして、明白という」

 事件の現場に居ただけで、その事件に関わりがある――などとは、随分乱暴な話である。どのような“迷”探偵とて、そこまでの“迷”推理はやらかさない――近右衛門は無表情のままに、軽口を叩く。

「彼がお前を追いかけて行ってから、遺体となって発見されるまでの時間は僅かに数分。方村教諭の様子を見に行った“魔法先生”による発見だった。その僅かな時間に“みや”君は偶然あそこに現れ、そして不運にも犯人が現れ、方村教諭を殺害し、彼女を放置して何処かへ消えた――可能性はゼロではないが、あまりに不自然だ」
「では彼女が、今回の事件の犯人だと言うのかの?」
「それはそれで、あまりに飛躍した理論展開だがな。彼女の記憶に犯行に及んだという情報はないし、直接的な証拠があるわけでもない。ただ私は、“何らかの形で事件に関わっている”と言っただけだ。あの状況では、流石に無関係と考えるのは難しかろう」
「ならば、その“何らかの形”というのは、どういう形だ?」
「……それはわからない」

 学園長は小さくため息をついた。近右衛門の見せる明らかな苛立ちに対して、彼は何も言うことが出来ない。

「彼女の右腕には、返り血と言うにはあまりに多量の血液が付着していた。言うまでもなく方村教諭のものだ」
「あの細腕で、大の男を大根か何かのように一刀両断、か。笑える話じゃのう」
「気持ちはわかるが、あまり茶化すな。お前らしくもない。それは方村教諭に対する冒涜でもある」
「……」
「ともかく、あの子は関東魔法協会に対する一連の敵対行動――その重要参考人として調査される。これは“本国”からの通達だ」
「――それで、今朝方柳井医師がもめておったわけか」
「彼女の体をさいなむ症状は、通常の病理学で説明できるものではあるまい。おそらくすぐにでも、彼女の身柄は魔法世界本国に送致される」
「意味のない移動は体に負担を掛けると、どの口で――」
「近衛」

 学園長は、感情を抑え切れていない様子の近右衛門の名を呼び、その言葉を強引に打ち切った。

「お前の気持ちはわかるが――ではお前は、あの子が今回の事件とは無関係だと主張したいのか?」
「……」

 黙り込んだ近右衛門に、学園長は一つため息をつく。これは本来まだ話せる事ではないのだが、と、断りを入れてから、彼は言った。

「学園都市を囲む陣の解除が始まってから、“みや”君の体調に変化が現れた。大学病院の“魔法先生”がそれに目を付けてな――詳しい結果は本国でないとわからんだろうが、彼女とこの“陣”の間には、何らかの関係がある――そういう見立てが出ている」
「……何じゃと? じゃが――」
「この陣を仕掛けた連中にとって、そんなことが何の得になるのか、我々にはまるでわからない。だが――それは事実だ。それだけはそのまま受け止めろ、近衛。いくら目をそらしても、事実は覆らない」
「――」
「ベストとは言い難い。だが、ベストを選べない以上、ベターなやり方を選ぶのは自然な事だ」
「それは英語教師に対する皮肉か?」

 近右衛門は天井を仰ぐ。彼の瞳に映るのは、照明の光と、細かな天井の細工。そしてその向こう側に広がる筈の空は――未だにこの町を濡らし続けているのだろう。

「儂は――どうすればいい? 儂に何が出来る? いや――儂には、一体何が出来たんじゃ?」

 近右衛門は、学園長の方を見ないまま言葉を続けた。

「今更かも知れんが――今の儂らは何かが違う気がするんじゃよ。魔法使いの理想に邁進し、結果として誰かと争い――むろん、儂らの理想を成し遂げる上では、誰かとぶつかる事は避けられまい。世の中は綺麗事だけでは成り立たん。魔法は単なる手段に過ぎん。国家における軍事力のようなものじゃ。そして今の世界――そうとも、儂らは魔法使いである前に――」

 近右衛門は、そこで一旦言葉を切る。学園長は何も言わず、ただ黙って彼を見つめていた。

「……今更、じゃな」
「……」
「どれほど事が穏便に進んだとて――みやは、もはやここには戻っては来られんじゃろうて。相坂君は――悲しむじゃろうなあ」
「だが、他にどうすることも出来まい。私たちには、私たちに出来る事をやるしかない」
「――いっそのこと、魔法使いなどと言う存在が最初からおらなんだら、のう」
「近衛」

 それは彼の本心ではない、と、学園長は思う。
 彼の理想の高さは、学園長も知るところである。過酷な時代に生を受けて、その世の中を憂う気持ちがあり、更に自分は“魔法使い”だった――立ち上がらない理由が何処にある、と、出会った頃の彼は言った。
 その根っこの部分は、それから年月が過ぎた今でも変わっては居ないだろう。
 けれど、魔法使いとして今まで活躍してきて、逃れることの出来なかった戦いの日々――その時間が、彼の中に暗い影を落としている。
 この麻帆良という特異な街を見ればわかるように、結果として魔法使いが行ってきた舵取りは、間違っていたと言うわけではないだろう。だが、時々近右衛門が見せる表情は、出会った頃の彼には無いものだった。それは一言で言うなら、無力感だろうか。

(近衛の優しさが、そして理想が、相坂君に笑顔をもたらした――そして、涙も。彼女は、魔法使いのあり方を映し出す鏡――か)

 全てを良い方向に持って行くのは不可能だ。それは“魔法使い”に限らず、どんな生き方をしていても同じだろう。けれどその生き方に於いて頑張り続ける限り、逆に全てが悪い方向に向かう、と言う事だって、そうそう無いわけで。

(結局――こういう風な世界で生きていくと言う事は、この男のような人間には厳しいものであるのかも知れないな)

 即ち――誰かのために戦える。魔法使いが理想とする生き方を、自然と体現できる人間にとって、この世界とは――

「学園長!」

 唐突にドアが開き、息を切らせた秘書が飛び込んできた。学園長は姿勢を変えずに眉を少し動かし――近右衛門が、上体を起こす。
 彼女は呼吸を整えると――顔を上げ、叫ぶように言った。

「本国に移送予定だった例の少女が――逃走しました! 現場にいた数名が、重傷です!」




 彼が着込むのは、まるで喪服のような漆黒のスーツ。そのスーツの下に着込むのは、同じような真っ黒のシャツと、同色のネクタイ。それこそそのまま葬式に出られそうな格好ではあるが――少なくともそれは避けられるべきだろう。彼が身に纏うのはそれだけではない。
 喪服のような黒いスーツの上からは、襟周りに不思議な文様が刺繍された外套――“魔法使いのローブ”と言えば誰もが容易に想像できるであろう衣装。革製のグローブがはめられた右手には、彼の背丈ほどのある長い木の杖が握られている。
 そして何よりも――頭には、巨大なつばをもつ、先のとがった黒い帽子。
 現代の礼装と、おとぎ話の中から抜け出してきたような魔法使いの衣装――その二つがせめぎ合った不思議な出で立ちで、近右衛門は麻帆良の郊外を一人歩く。
 日曜日の夜――いつもよりも静かなその時間、麻帆良を濡らす雨は未だに降り止まず。近右衛門の不思議な装いは雨に打たれ、帽子のつばからは滴がしたたり落ちていた。
 そして彼は立ち止まる。
 彼の視線の先には、子供が遊んだ跡のような、小さな石の塚がある。
 果たしてそれは、麻帆良を無理な力でもって空白地帯に仕立て上げる――その為の“陣”の、いわば基礎部分。今日一日でほとんどのそれは無力化され、彼の目の前に存在するそれが、最後に残ったものであった。
 彼は強く、杖を握りしめる。
 そんな彼の背後で、軽い足音が聞こえた。

「……みや」

 振り返った先に立っていたのは、褐色の肌を雨に濡らす、裸の少女。その瞳はうつろで、焦点が合わず――果たして、近右衛門は彼女の瞳に映っているのだろうか、それすらもわからない。

「これこれ――女の子が何という格好をしておるんじゃ」

 おどけた調子で、近右衛門は彼女に言う。

「人払いをしておいて正解じゃったのう。中途半端な助力はかえって邪魔になると――とはいえ、時間はあまりない。儂が単独で行動出来ておるのは、あやつが骨を折ってくれておるお陰とはいえ――今の状況でそう我が儘は言えぬでな」

 みやは、何も言わない。しかし果たして――彼の言葉に応えるかのように、彼女の影から黒い何かがにじみ出す。
 それは瞬く間に彼女の体に巻き付き、彼女を取り込むようにして形を変え――ややあって、小さな少女が立っていたその場所には、影を塗り固めて作ったような真っ黒い――そして、出来の悪い粘土細工のような、不気味な人の形をした“何か”が立っていた。

「……成る程、そう言うことじゃったか」

 近右衛門が、小さく呟く。
 瞬間、“化け物”の腕が伸びた。実際には、それを認識する暇など無い。まさに影の如くに厚みを持たない刃は、狙いを過たず近右衛門の胸元に向かい――

「風楯――デフレクシオ」

 目に見えない風の壁に、僅かに方向を逸らされる。
 影の刃はそのまま、近右衛門の外套を浅く切り裂き――背後の立木を両断した。

「随分と儂を――そして何より“みや”をコケにしてくれるものじゃのう?」

 もしもその“化け物”が、人間と同じく目でものを見ていたとしたら――その刹那、近右衛門の姿がかき消えたように見えただろう。果たしてそれが正しかったのかどうなのか――“化け物”は、体をひねるようにして背後に向き直る。刃のような腕が、しかし鞭のように大きな軌道を描いて――

「呪文始動――闇夜切り裂く一条の光、我が手に宿りて敵を喰らえ――白き雷――ヴァス・アビス・エアリス・オルシナス――ウーヌス・フルゴル・コンキデンス・ノクテム・イン・メア・マヌー・エンス・イニミークム・エダット――フルグラティオー・アルビカンス!!」

 近右衛門の杖から轟音と共に放たれた稲妻に弾き返される。その威力は“化け物”本体にも余波を与えたようで、“化け物”はたたらを踏むようにして、彼から距離を取った。

「手練れの“魔法先生”が何故にあっさりとやられていたのか――本当に、お笑いじゃ。お主どこまで、儂らを馬鹿にしてくれる? “それ”さえわかっておれば――あまり麻帆良の“魔法使い”を、舐めるでないぞ」

 雨滴をはじき飛ばし――近右衛門は、地面を蹴った。












難産は続く。いや、本当に難しいです、これ!
次回、過去編クライマックス。

参考までに、学園長の呪文始動キーは、
学園長(当時)のモデルとした人物共々、その元ネタからのイメージです。
意外と違和感のない「それっぽい」言葉を作るのは難しいですね。

原作愛衣さんの始動キーは正直「ねーよ」と思っているのは、僕だけではあるまい(笑)



[7033] 麻帆良女子中三年A組・あの日の終わり、懺悔の終わり
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/07/13 12:24
 夜の闇に、漆黒の刃が舞い踊る。
 かすかに雨滴を切り裂き、水煙を上げるそれを、街の灯りだけがかすかに届くだけのこの暗闇の中にあっては、単に目で追うだけでも不可能に近い。
 けれど、黒いマントと、とがった帽子を身につけた、奇妙なスーツ姿の青年は、自身に襲いかかるその刃を、苦もない様子でかわしていく。まるで――もはや、少しでも隙を見せれば己の命を刈り取るだろうその刃と、戯れるように。

「お主の武器――その変幻自在の刃は、発想としてはそう新しいものではない」

 首筋のわずか数センチほどの空間を切り裂いていく刃に、軽く手を添えるようにして青年――近右衛門は言う。ただそれだけの動作で、漆黒の刃はあさっての方向へとその力を逸らされる。

「儂はそういうものに詳しいわけではないが――鞭のようにしなる刀剣、というものは、洋の東西を問わずして、多く存在する。もっともそれらのどれもが、致命的なまでの扱いにくさ故に、現代まで長らえてはおらんがな」

 彼の足を斬り飛ばす勢いで、地を這うように振り抜かれた一撃を、近右衛門はごく軽く――地面から足が離れるか離れないか程度の跳躍でやり過ごす。あまつさえ、一瞬その刃に足を触れ――それを足場に上体を捻り、真上からの一撃に手を添えて、これも逸らす。
 漆黒の刃は、むなしく大地を抉り――その主である、影をこね上げて作ったような不気味な“化け物”は、慌てたように近右衛門から距離を取る。その存在には、不気味に輝く両の目以外には、顔を構成する部品は存在せず、従って表情などはわからないが――

「どうした? 何を驚いておる――悪趣味な化け物よ。魔法教師として、一つ講釈を垂れてやろうという儂の優しさが、わからんか?」

 明らかに、怒りのこもった声で、近右衛門は言った。

「お主の攻撃は、確かに一つ一つが恐ろしいほどの威力を秘めておる。じゃがのう、誰が隣町で放たれる銃弾を恐れるか? 誰が地球の裏側で炸裂する爆弾にすくみ上がるか? 所詮、お主に出来ることは、相手の虚を突いた暗殺、それのみではないか。もう一度言うが――あまり麻帆良の魔法使いを、舐めるでないわ」

 彼は、再び自身に向かって繰り出される漆黒の突きを、危なげなくかわす。それはまるで、良く出来た殺陣のような――最初から外れることが定められていたような、そんなあり得ない錯覚さえも感じさせる。
 その刃――変幻自在の“化け物”自身の腕に軽く添えられた近右衛門の手のひらは、それを覆う革のグローブ共々、傷一つ無い。

「成る程、ある程度の射程距離を持ち、持ち主が大きく動くことなく相手を追いつめられる武器――“しなる刃”というのは、合理的にも感じられる。じゃがな」

 じっとしていては、自分の重ささえ支えられない剣――当然そのような代物を完全に扱いきる事は難しいだろう。だがその扱いにくさがあろうとも、真に使いこなせばそれが無敵の武器となるのならば、その武器は、そしてその武器を扱う武術は、現代にも広く伝えられているだろう。
 そうでない以上、そこにはそれほどのメリットはない――と、近右衛門は言った。

「剣という武器を突き詰めれば、その攻撃方法は二つしかない。即ち、突くか、叩き斬るか。そのどちらか、じゃ。しかし鞭のような剣は、その二つの方法を使い分ける“剣”という武器に於いては、それを活かす事は難しい」

 体を僅かに傾けるだけで、彼は必殺の威力を持つ突きをかわしてみせる。

「剣そのものに剛性がまるでない為に、相手を突いて攻撃しようにも、その威力は、剣を振り抜いた“勢い”だけとなる。僅かでもその勢いを逸らすことが出来れば――」

 第一撃を避けたその先を、まるで予想していたかのように放たれる第二撃――近右衛門は持っていた杖を素早く振り抜き、その漆黒の切っ先に、僅かに触れさせる。
 それほど力を込めたようには見えなかったその一撃は、“化け物”の腕をあさっての方向へと容易く逸らす。

「この通りじゃ。これが普通の剣ならば、この程度の力を加えた程度、それを押し切って相手を貫くことも容易かろうがのう。そして――」

 近右衛門は、そのまま杖を手首を返す勢いで振り回し――引き戻されようとしてた“化け物”の腕にたたきつける。その衝撃で、刃物のようなその腕は大きくたわみ――バランスを崩した“化け物”は、その場に転倒する。

「切れ味がどれほど良かろうと、刃物は相手に刃を突き立て、そして引ききらねば切れ味を発揮してくれぬ。これが普通の剣ならば、切れ味云々を度外視して、相手に叩き付けるだけでもそれなりの威力になると言うのにのう。もっとも――そう言った武器が生まれた過程では、儂の講釈など何処吹く風と立ち回る達人の存在も、あるいはあったのかも知れんが――少なくともそれは、お主のような“化け物”ごときではないわ」

 近右衛門は、軽い音を立てて杖の先を地面に突き立てる。彼を濡らした雨が、その衝撃に小さな飛沫となって飛び散り――すぐさま、降り続く雨に混ざり合って消えていく。

「では――いい加減、正体を現してもらおうかのう? お主がただの“化け物”であるはずがない。“みや”の記憶にお主のことや、この麻帆良で犯した凶行のことは存在しなかった――お主が“みや”であり、“謎の化け物”じゃというのなら――可能性はそれほど存在せぬ。さて――」

 しかし“化け物”は、近右衛門の言葉を最後まで聞くことはなく、再びそのままの姿勢から、漆黒の刃へと変じた腕を、彼に向かって繰り出す。

「……あまり儂らを舐めるなと――言うておろうが!!」

 近右衛門は叫びと同時に杖を振り抜き――次の刹那、刃と変じた“化け物”の腕は、根本から切断されて宙を舞った。

「!?」

 黒い刃でしかなかった、その“化け物”の腕。
 切り離されて、ぬかるんだ地面に落下し、汚れた水しぶきを立てたその“腕”は――いつしか、まるで別のものとなっていた。
 日に焼けたように浅黒い――柔らかく、そして小さな、少女の腕に。

『――――――――!!』

 声にならない声――もはや“声とも言えない”声を発して、“化け物”は肩を押さえ、のたうち回る。近右衛門は杖を構えつつも、混乱を隠せない。先ほどの一撃は、あくまで牽制。あわよくば相手に幾分かのダメージを与えられたとしても――あの化け物の“武器”でもある腕を、根本から断ち切る程の威力は無かった筈だ。

(どういう事じゃ――一体、何が――?)

 近右衛門の混乱をよそに、苦しみ悶える“化け物”に、さらなる変化が訪れる。
 一際大きな絶叫と共に、かの“化け物”は体を仰け反らせた。近右衛門は一瞬、杖を構えて全身を緊張させるが――果たしてそれは、近右衛門に対する攻撃動作ではなかった。
 断ち切られた“化け物”の右腕から、赤い液体が迸った。
 果たしてそれが――血であったのかは、近右衛門にはわからない。だが、ぬかるむ地面にしたたり落ち、暗闇の中に黒く沈んで見えるそれは、少なくとも彼には、血のように見えた。
 そして見れば――彼が直接ダメージを与えた右腕だけでなく、影のようなその“化け物”の体から、にじみ出すように赤い液体が溢れ始める。

「みや――みやっ!」

 近右衛門は思わず、苦しむ“化け物”に向かって、少女の名前を呼んだ。
 しかしうかつに近寄る事は出来ない。おそらく犠牲になった魔法先生達は、そうやって命を奪われたのだろうから。
 やがて――化け物の胸の辺りが落ちくぼみ、そこから浮かび上がるように、一つの“形”が姿を現す。それは紛れもない、幼い少女の顔。苦痛と恐怖に悶え――そして、その苦しみがまるで理解できていない、そんな表情の、“みや”の顔だった。

「みや!」
「あ……お――とう、さん」

 彼女はおそらく、自身の凶行そのものを知らない――少女が化け物に変じ、病院から逃走したと言う報告を受け、近右衛門達が導き出した結論だった。
 彼女がどういう存在なのかは、彼女をここに送り込んだ“敵”にしかわからないだろう。だが、化け物としての行動と、普段のみやとしての人格――それは、完全に切り離されている。だから、記憶をいくら探っても、彼女から事件の全容は明らかにならなかった。
 それも当然だ。おそらく下位人格である“みや”は――己の本来の目的行動である“化け物”の事を、最初から知らないのだから。
 彼女が、自身をただの行き倒れと演じていたのならば、魔法先生達も遅れは取らなかったし、そもそも麻帆良に侵入した時点で彼女は捕らえられていた。
 彼女が近右衛門に引き取られ“みや”という名前を得て――そう言う一連の出来事が起こらなければ、あるいは魔法先生達は彼女を警戒できたかも知れない。
 だが――果たして彼女は“みや”という名前の、何も知らない少女である。その事実が、魔法先生達の油断を誘った。
 それは馬鹿な油断であると、誰かは言うかも知れない。
 しかし、それは仕方のないことだった。
 彼女を引き取った近衛近右衛門という優しい男は――かつてそうやって、一人の少女を、孤独から救った過去がある。
 その優しい事実が――優しい戦士達の瞳を、曇らせた。
 彼らはきっと、近右衛門を恨みはしないだろう。近右衛門もまた、彼らが殺された事を悔やんでも、それを理由にさよや己を責める事はしないだろう。
 だが――その重すぎる事実が、今、近右衛門の目の前に立ちはだかる。彼を突き動かす優しさが、彼を苛む。
 目の前の化け物は――本当に苦しんでいるのか?
 戦力では、本気になった近右衛門は、化け物を圧倒している。しかし――それでも、相手にどんな奥の手があるかわかったものではないし、化け物にしても、たったあれだけの遣り取りで、万策尽き果てた――というわけではないだろう。
 ならば、これは演技か? 近づいたところを、他の魔法先生と同じく、心臓を一突きに出来る機会を狙っているのか? しかし――

「おとう、さん」

 苦しそうな声。
 自分に何が起こっているのかさえわからない――そんな声。
 そして――化け物が何を狙っているにせよ、少女自身はそれを何も知らない。知らないから、彼女は“化け物”として、麻帆良の手練れを葬ることが出来た。
 しかし裏を返せば、それは目の前の存在が――単なる“化け物”ではなく、“みや”という一人の少女として。確かに生きていた証。
 彼女は何も知らない――己の凶行も、己に訪れつつある破滅も。

「く――くそっ!」

 近右衛門は、次に出すべきカードを迷う。これを罠と考えて身構えるべきか? ――しかし足下に転がる“みや”の腕はどういう意味だ? 今までの相手の行動を考えれば、この状態は“単なる罠”と考えていいものか?
これを好機と見て追い打ちを掛けるか? いや――それではあの様子が演技で無かった場合に、みやが無事では済まないだろう。
そもそも――自分は、“みや”を助けることが出来るのか?
彼女と化け物が別個の存在というのは、その意識に於いてのみ。みやという少女に、化け物が取り憑いているわけではない。あの化け物が、みや自身でもあるのだ。
多重人格の治療のように、長い時間を掛けて“みや”という自我を確立させる――それも難しいかも知れない。“みや”という少女はあくまで下位人格。化け物がこの麻帆良で行動をするための――いわば運搬屋、キャリアでしかな。
呪文を相手に向けるための銃身――魔法使いの間で“始動鍵”と呼ばれるその一節を紡ぐ事すら出来ず、近右衛門の体が固まる。

――我が儘を承知で言う。あの化け物の始末は――儂一人につけさせて貰えんか。

 ほんの三十分ほど前、学園長を前に、自分が言った台詞が頭を過ぎる。

――お前の実力ならば、事件の全容がほぼ明らかになった今、遅れは取るまい。だが――それなりに理由がなければ、麻帆良の魔法先生はともかく、本国は納得せんぞ。

 学園長の言葉に、彼は笑って返したのだった。

――大事な娘を助けるのに、理由が要るものか。それ自体が十分な理由ではないか。

 そう――事件の“全容”は明らかになっていた筈だった。“みや”の正体にも、彼らはかなりの確度で近づいていた。
 ならば何故――自分は、彼女を助けるなどと、気軽に言うことが出来たのだろうか?
 そんな事実に――苦しむ少女の顔を見て初めて気がつくとは、自分は何という愚か者なのだろうか。
 杖を握りしめ、近右衛門は唇を強く噛む。歯に噛み破られた唇から血が流れ出す。その鉄臭い嫌な味が――かろうじて、彼を正常に保つ。
 彼は石になってしまったように重い腕を振り上げ、自らの力を祝詞に込めて紡ぐ。

「……“呪文――始動(ヴァス・アビス・エアリス・オルシナス)――!!”」

 それは酷く遅い――聞き取れないほどに素早い、いつもの彼の呪文とは違っていた。一言一言を、まるで血を吐くようにして紡ぎ出す。それは彼の意思であり――
 ――そしてそれはやはり、致命的なまでに遅すぎた。
 “始動鍵”を唱え終わったその瞬間、彼の横を、“白い何か”が駆け抜け――

「みやちゃんっ!!」
「相坂君!?」

 暗闇の中でも、はっきりとわかる雪のような真白い髪。
 しかし何よりも目を引くその特徴がなかったとしても、近右衛門が彼女の事を間違えるわけがない。
 近右衛門の脇を駆け抜けたさよは、何の躊躇いもなく化け物――“みや”の元へと駆け寄ると、自分よりもずっと大きな、そして不気味なその黒い体を抱き起こそうとした。

「いかん! 相坂君! 離れるんじゃ!」
「何を言ってるんですか!? よくわかんないけど、みやちゃんがこんなっ……凄く、苦しそう――ッ!?」

 何故彼女がこんな場所に――そう自問するだけの余裕は、近右衛門には存在しなかった。
 彼の方を振り返ったさよは、気がついてしまう。地面に転がる――小さな腕に。

「こ……これって、これって――!! あ、ああ! 先生! みやちゃんが、みやちゃんがっ!!」
「落ち着くんじゃ相坂君! とにかく今すぐみやから離れろ!」
「そんなこと出来るわけないじゃないですか! 何で先生も、そんなところに突っ立って――何なの?! 何なのよ、これっ!!」

 さよはあろう事か、みやの顔が露出している化け物の胸部に手を伸ばし――彼女の顔と化け物の体の“隙間”に手を入れて、何とか彼女を引っ張り出そうとする。彼女には、得体の知れない化け物に、大事な“妹”が飲み込まれそうになっていると――そう見えたのだろう。
 火事場の馬鹿力と言うのか――その細腕に込められた力は相当のものだろう。果たしてそのせいで、彼女の爪は割れて、流れ出した血が、雨と混ざり合ってしたたり落ちていく。
 そんな光景を――近右衛門は、呆然と眺めていた。
 足は動かなかった。動けなかった。魔法使いとしての、戦士としての、危険な者にうかつに近づけないその“基本”が、彼をその場に固定していた。
 そしてその事を――彼はずっと、悔やみ続ける事になる。

「取れない――取れないよ!! 先生! お願い! 手伝って!! このままじゃみやちゃん――」

 振り返ったさよの言葉が、不自然に途切れる。
 ただかすれたような音が、彼女の喉からこぼれ落ちる。
 それが――彼女の発した最後の声となった。

「――」

 さよの胸の真ん中から――黒い何かが突きだしていた。
 それを中心に――雨とは違う何かが、さよの制服の胸元を濡らしていく。何故か、闇に溶ける紺色の制服の中で――見えにくいはずのその染みを、近右衛門ははっきりと見ることが出来た。
 すうっと、その黒い何かが、彼女の胸元から消え失せる。途端にその“染み”は一気に大きくなり――制服で抑えきれないそれが、スカートの下から伸びた彼女の白い足を伝う。
 彼女の白い足を赤く染め上げた“それ”は――耳障りな音と共に、ぬかるんだ大地に飛び散る。
 同時に、彼女は糸の切れた操り人形のように――泥を飛び散らせながら、地面にうつぶせに倒れ伏した。

「相坂――君――」

 近右衛門は、呆然と呟く。
 さよが倒れ伏した事で、“化け物”と――その中央に浮かぶみやの顔の間を、遮るものが何もなくなる。
 彼の視界の中、小さな少女は、小さく呟く。
 “母親”の体を貫いた――漆黒の刃を、それを濡らす彼女の血を、呆然と見つめながら。

「おかあ――さん」

 果たしてその顔が歪む。悲しそうに――と言うよりも、今にも泣き出しそうな、子供のそれになる。

「おかあさん――!」

 心を引き裂く叫びが、その唇からあふれ出す。彼女にはどうすることも出来ない――“彼女自身”の行動。
 ただの子供のように潤んだその瞳が――讃えきれない悲しみを、大粒の滴として溢れさせる。暗闇の中を、彼女の頬を伝った涙が、真珠のように輝いて見えた。
 そして――彼女は言う。
 近右衛門の方を向き――涙に濡れた顔で、懇願するように、ただ一言。

「――おとう、さん」

「……――“呪文始動(ヴァス・アビス・エアリス・オルシナス)
――契約により我に従え高殿の王(ト・シュンポライオン・ディアコネートー・モイ・バシレク・ウーラニオーノーン)
来たれ巨神を滅ぼす燃ゆる立つ雷逓(ケラウネ・ホス・ティテーナス・フテイレイン)
拘束解除(カプトゥラム・ディスユンゲンス)
全雷精(オムネース・スピリトゥス・フルグラノレース)
全力解放(フォルティッシメー・エーミッタム)――!! 
百重千重と重なりて、走れよ稲妻(ヘカトンタキス・カイ・キーリアキス・アストラ・プサトー)
――千の雷(キーリプル・アストラペー)”――ッ!!」

 それは本来、幾百・幾千もの軍勢を相手に出来る高位の魔法。限られた魔法使いにのみ操る事の出来る、純粋な力の奔流――しかし、その奔流を、近右衛門は同じく純粋な意思の強さによって、限界にまで絞り込んだ。
 その発動はまさに――天から降り注ぐ、一条の神の光。神話に登場する、悪魔を滅ぼした神の矢の如き光景。その光の柱は、“化け物”の中で涙を流す少女を包み込み――

「……」

 その光が消え去ったとき、膨大な熱量に晒された地面は、ふつふつと煮えたぎり――そこにはもはや、何一つ存在していなかった。
 漆黒の化け物も――近右衛門の事を父と呼んだ、小さな少女も。
 近右衛門は、倒れ伏したままのさよを抱きかかえ――

「――――――――ッ!!」

 思い切り、叫んだ。
 自身を濡らす雨の冷たさも、その雨音も。
 遠くから聞こえる、おそらく魔法先生達のものであろう喧噪も、もはや何も、彼は感じない。

――ありが、とう――さよ……なら――

 光の中に消えていく、自分の娘の舌足らずな言葉が――いつまでも胸の奥に残っていて。
 胸に抱くもう一人の娘の暖かさが、何処かにこぼれ出て行くのがわかるようで。
 この雨が、いつまでも降り続けばいい――何故か近右衛門は、その時そう思っていた。




「あの“化け物”は、言うなればまだ未完成の技術であったようだ。麻帆良の力が、あの魔法陣によって抑えられていたのはその為だ。魔力が無秩序に荒れ狂うと言い換えても良いこの麻帆良で、あの“化け物”は存在出来ない。魔法陣の解除と共に――彼女――の体調が崩れたのも、その為だろう」
「……そうか」
「結局彼女が何者だったのか、そこまではわからなかった。関西呪術協会に近縁の組織であり、過激思想の持ち主――そこまでは向こうからの連絡で判明したが、肝心の連中自身が、何者かに全滅させられていたそうだ。自ら敵対組織を増やすようなやり方を続けていては、無理もないか話かも知れないがな」
「……」
「――酷い部屋だな。相坂君が出て行ってからのお前の部屋も酷い有様だったが――」

 学園長はそう言って、辺りを見回した。
 以前のように散らかっていたのではない。そこにはまるで――誰もいないようだった。
 床には、ビール瓶が一本だけ転がっている。その側には、ひびの入ったグラスが一つ置かれていた。
 卓袱台の上には、くしゃくしゃになった煙草の箱が一つ。
 その隣には、広げられたままのノートと教科書、それに鉛筆が無造作に散らばっている。
 そして――それらは全て、薄くほこりをかぶっていた。
 誰も住んでいない、家人が出て行ったあとの部屋――そう言われても、知らない人間ならばその言葉を信じるだろう。
 だが、この部屋には人がいる。ここを訪れた学園長の視線は、卓袱台の向こう側で、座椅子に座って窓の外を眺めている男の姿がある。
 彼の瞳に光はない。頬がこけ、無精髭を生やした青年――近衛近右衛門は、よどんだ瞳で、じっと窓の外――初夏の近づく麻帆良の街を眺めていた。

「……儂の部屋が酷い有様じゃろうと、お主には関係はない」

 彼は小さく言った。その言葉に、感情はない。
 新たに二人の教師と、そして一人の生徒――その犠牲を最後に、麻帆良を襲った“事件”は収束した。犯人は精神に異常を来した男であり、現在は隔離施設に収容されている――表向きはそう言う情報が流れ、人々は安堵した。
 もちろん、悲しみに暮れる人々もいた。犠牲となった生徒のクラスは、事件から半月ほどが経つ現在でも、未だ葬式のような雰囲気を引きずっているという。
 近右衛門は、それを伝聞でしか知らない。彼はあれからずっと、家から出ていない。
 食事も睡眠もほとんど取らずに――ただ、椅子に座り、時折卓袱台の上に散らかされたままのノートを見つめ――そんな生活を続けているという。
 ただ、それだけだった。
 何かを嘆くでもなく、怒るでもなく。まるで自分は――あの時、少女達と一緒に死んだのだと、そう言わんばかりに。

「相坂君の事は」
「……今更何を言っても仕方があるまい」

 あの夜――さよを見逃したのは、魔法先生達の信じられないミスとも言える。
 しかし、それを責める事は出来ないだろう。ミスというのは結局結果論だ。あの混乱した状況で、それなりに広い麻帆良に於いて、近右衛門やみやと繋がりがあるとはいえ、彼女はそれほど重要度の高い存在ではなかった。あの状況で、彼女を監視する意味もなかった。
 大体、誰が予想できるだろうか。近右衛門の様子を案じ、みやを心配するあまり、彼女が夜の麻帆良に飛び出すなどと。
 そこまではまだ仕方のない事だとしても――彼女が“たまたま”向かった先が、まさに近右衛門と――“化け物”が戦いを繰り広げたその場所だなどと、一体それはどれほどの偶然が重なったと言うのだろうか。
 彼女はまだ子供だったけれど――子供を思う母親の心は、何よりも強い。それこそ、奇跡だって呼んでしまう。それが良いと悪いとに関わらず――学園長は、そんな風に思った。そして、そんなことを考えた自分を自戒した。
 しかし敢えて、それを口にした事もある。近右衛門の前で。そうすれば彼の感情が少しは揺れるのではないかと考えた。喩えそれが怒りであり、その為に自分が罵られようと、その結果、彼の心が少しでも動くのならばと、そう考えた。
 けれど、彼は一言言っただけだった。
 ――そうじゃのう――と。

「……それで、お前はどうするつもりだ? まさかこの部屋で、ほこりに埋もれて朽ち果てていく事が最良の選択――とは、お前も思わないのだろう?」
「――そうじゃのう。どうすればいいのか――儂には皆目見当も付かん。このような抜け殻で良ければ――好きに使うが良い」
「お前は……」
「儂は別に目をつぶり、耳をふさいでいた訳ではない。お主らのやっていることは、知らずと耳に入ってくる」
「……来週だ。本来ならばもう少しお互いに時間をおきたいところだが――関西呪術協会としても、組織を纏められずに暴発を起こし、しかもそれが火薬庫に――麻帆良に飛び込んだ様な状況では、形振り構って居られんのだろう」
「敵意はなかったと、そう言いたいが為に?」
「不幸な誤解を避ける為にも――此度の様な若者の祝い事は、組織としても祝福させて欲しいと、そう言ってきた」

 その話は、以前からあったことだった。
 関西呪術協会の幹部の娘と――近衛近右衛門の縁談の話は。ただ彼はそれに対して乗り気ではなかったし、その話自体が――関西呪術協会そのものとは無関係の筈だった。

「……好きにせい」
「構わないのか?」

 近右衛門は小さくそう言うと、再び窓の外に目を向ける。

「相手がどの程度の物好きかは知らんがの、この抜け殻の嫁になりたいと馬鹿を言う女がおるとも思えんが――それでも構わんと言うのならのう」
「言うなれば、形だけの事だ。お前には苦労を掛けるが」
「――苦労? 苦労などと――抜け殻は苦労など感じはせんよ」
「……それと――相坂君のクラスから――こういうものを預かっている」

 ふと、学園長は持っていた鞄を開き、何かを取り出す。
 それは一枚の色紙で――円を描くようにして文章が寄せられた、所謂“寄せ書き”であった。その内容はと言えば、さよの冥福を祈るもの――そして、近右衛門を励まそうとするもの。
 それを見て僅かに眉を動かした彼に、学園長は言った。

「お前と相坂君の仲は、あのクラスの皆が知るところだったからな」
「……」

 近右衛門は、黙ってその色紙に目を通す。所々にある文字のにじみはおそらく、それを書いた誰かの涙の跡だろう。

「お前が抜け殻のようになりたくなるのもわかる。当面はそうやって休むのも良いだろう。だが――お前にとって、それが本当に救いになるとは――私にはとても思えないがな」
「……」
「ではこれで失礼する。お前が居ないと仕事が立て込んでいかんな――次に来るまでには、せめて部屋の掃除くらいはしておいてくれ」

 近右衛門は窓の外に目を遣った。
 五月晴れの空は何処までも、青い。その青さが目にしみて、彼は――





「あれは結局――儂らの思い上がりがもたらした悲劇じゃったのかも知れんのう」

 椅子に座った老人は、静かに小さく息を吐き――周囲を見回す。
 金髪の美女は、変わらぬ表情でこちらを見ていた。
 黒髪の女性は、暗い表情で、ベッドの方に視線を向けていた。
 銀髪の少女は、赤い前髪に表情を隠して拳を握りしめ、車いすの青年と、その膝に座る少女は、じっと自分の方を見つめていた。
 そして、自分と同じ“魔法使い”である赤毛の少年は――泣きそうな表情で、こちらの方を見上げていた。

「それから後の事は語るまでもなかろう。結局儂は、その時の見合い相手と結婚し――つまりは彼女が、木乃香の祖母じゃ」
「乗り気じゃなかったんでしょう?」

 白髪の青年の言葉に、老人――近右衛門は、小さく首を横に振った。

「彼女もまた、儂と同じような無力感を抱えておった。関西呪術協会にしてもまた、争いごとからは逃れられない日々を送っておったと――言うなればはじめは、傷の舐め合いじゃったのかも知れん。じゃが――」

 彼は遠くを見るように顔を上げ――瞳を細める。

「あれは最期には、儂のような男に出会えて、愛せた事は幸せじゃったと――そのような酔狂な事を言っておった」
「……あんたも大概残酷ですね。その言い方だと――あんたは、木乃香ちゃんの婆ちゃんを“愛して無かった”ように聞こえるが」
「――あれのことを――か。彼女からの愛情は感じておった。それを幸せとも思っておった。愛と言えばそうなのかも知れん。じゃが――確かに時々、儂にはわからなくなる。じゃから言ったんじゃよ。あれは――儂には出来た連れ合いじゃった、と」
「学園長――俺は永遠の煩悩少年を自負してましてね。いい女を引っかける奴は全員、俺の敵だ」
「……ほう、それは中々」
「んでもって、いい女を泣かせる奴は、とびきりの敵だ――話の趣旨とは関係ないが、俺はあんたを一発ぶん殴りたい気分だ」
「横島君、同族嫌悪と言う言葉を知っておるかね?」

 近右衛門は苦笑いを浮かべて、首を横に振る。

「――何がベストな選択じゃったのか。今となっては――もはや儂にはわからん。じゃが――最悪の事態を招いたのは何かと問われれば、それは儂らの、魔法使いとしてのあり方じゃと応えよう」
「どういう事ですか?」

 そう問うたのはネギだった。大きな瞳を涙で潤ませ――彼は言う。

「だって――だって、それは仕方のない事じゃないですか! 敵が攻めてきたのは学園長先生のせいじゃない! 言ってみれば“みや”さんと相坂さんがそんなことになっちゃったのは――敵がそれを狙った卑劣な作戦を!」
「では聞くが――それは相坂君には関係があるのかのう?」
「――ッ!」

 ネギは思わず、言葉に詰まる。

「魔法使いとは、魔法を使える者の事を指すわけではない。言うなれば魔法は只の技術じゃ。学べば誰にでも扱うことは出来る。つまり魔法使いとは、己の理想のために戦うことを厭わない人間を言う。儂や――君のようなのう」
「それは――」

 “魔法使い”とは、結局“生き方”の事を指す。学園長はそう言った。魔法を使うだけなら、誰にでも出来る。それは、たとえば子供でも銃が持てるのと同じ事。拳銃を玩具としか考えない子供と、己の誇りを掛けて他人を守る立派な軍人の違いは、いったい何だろうか? そんなことは――今更問うまでもない。
 だからネギ達魔法使いが目指す存在には――わざわざ頭に“立派な”という修飾語がつく。
 そして――

「油断を誘う存在を、敵の懐に放り込み、内部から攻める――成る程、確かにそれは卑劣な作戦じゃ。じゃが――相坂君が、麻帆良に通う学生達が、何故にその様な事を気遣わねばならん? 魔法使いの理想とは、守られる方にすらそれを当然と課すものなのか?」
「魔法使いが理想に邁進するのは勝手だが――それに関係のない輩を巻き込むな、って事だな――って、予想はしてたがネギ坊主よ」

 学園長の言葉の後を取って横島は言い――疲れたように、うなだれるネギに言う。

「お前またぞろ、“僕はクラスのみんなを巻き込んで”とか何とか考えてんだろ」
「でも――だって、横島さん!」
「ああ、わかった。わかったから、お前は考えがまとまるまで喋るな。お前はガキだ。お前の言いたいことなんざ、ここにいる連中はみんなわかってる。それで一番わかってるのが、そこのジイさんだ。要するにジイさんはそれをわかってて、お前を虐めてんだよ」

 乱暴な言い方ではあったが――裏を返せば、彼もそれだけネギという人間を理解しているのだろう。いや――理解しようとしているのだろう。結局のところ、どれだけ言い訳をしても、彼はお節介だから。
 そう――彼は否定するだろうが、うなだれている少年自身と、同じように。

「それは人聞きが悪いが横島君――ネギ君が落ち込む必要がないと言うのも嘘ではない。当時の儂らと、今のネギ君では、置かれた状況がまるで違う。図書館島の一件にしてもエヴァンジェリンとの戦いにしても、言葉は悪いが茶番のようなものじゃ。儂らはそれを通じて、君に考えて欲しかっただけじゃ。君が教師として魔法使いとして――どう生きていくのかを。少々派手な勉強のやり方とて危険は無い。エヴァンジェリンはあれで――どういう人間かは、既に皆がよく知るところじゃろう?」
「それでも十分趣味は悪いッスよ」

 疲れたような顔のまま、横島は首を横に振った。

「あの頃の儂らに――学園都市という場所は、居心地が良かったのは確かじゃ。じゃがその為に――魔法使いと関係の無い人間を、危険にさらして良いという理由にはならん」
「言われなくても、ネギはその辺のことは間違ってませんよ。突っ走って道を間違える事はあるかも知れないけど、いい大人がこんなガキに向かって、偉そうに言えるようなことじゃない」
「ほっほ――実に耳に痛い言葉じゃのう。どうじゃ横島君、麻帆良で働いてみる気はないかね?」
「遠慮しときます。俺は馬鹿でスケベな男で十分っすよ。何が正しいとか間違ってるとか――他人に対して偉そうに言うのは柄じゃないし、言えるような人間でもない」
「そうね、あげはを膝の上に載せたままじゃ何言っても、説得力ってものがね」
「黙れタマモ」

 唇の端をつり上げて言う金髪の美女を、横島は冷たい目で睨み付ける。もちろん彼女には、そのような睨みなど、暖簾に腕押しと言うにも足りないものだろうが。

「そう言うわけでいい加減降りろ、あげは」
「良いじゃないですか。ヨコシマはアレでしょう? “乳・尻・太もも”が大好きと――さすがに私は胸と太ももに自信が持てるような歳ではありませんが、お尻くらいは」
「ふ――何を馬鹿なことを。お前はその三大要素の素晴らしさの何たるかを、まるでわかってない! 至高の尻とは、お前のようなガキのそれで代用出来るような代物であるはずがないのだ!!」
「わかりたくありません」
「……そこの馬鹿二人は放っておいてさ」

 手をひらひらと振りながら――相変わらずの態度で、その美女――タマモは言う。

「あんた結局、何がしたいわけ? “前途有望”な若者に、ジジイの馬鹿さ加減を伝えたいって訳じゃないんでしょう? 懺悔? 懺悔したからどうなるって言うの? 誰に許して欲しいの? 私ね――横島みたいな馬鹿は嫌いだけど、あんたみたいな“利口”ってのは、もっと嫌いだわ」
「よさぬか、タマモ」
「何よシロ。いいじゃないの。言わせなさいよ。その方がよっぽどそっちの“小さな先生”の為にもなるってものよ。第一、懺悔って言うなら余所でも出来るわ。こんな場違いな場所じゃなく、ね――ねえ、あんた」

 シロの制止を聞かず、タマモは言葉を続ける。
 もっとも、シロの彼女を止めようとする言葉にも、いつものような強さは無かったけれども。

「そもそも――ここに“そいつ”と横島を連れてきたのは――何のため?」

 ぴくりと、ネギの肩が跳ねた。
 白髪の青年はと言えば――自分の上に座る少女をどかそうと、彼女の脇に手を突っ込んだ中途半端な体勢のまま、小さくため息をつく。
 そしてタマモの視線に――学園長は応えない。

「ま……それは追々わかることでしょうけどね。それと、あんたが何を望んでるかはともかく――とりあえずあんたを罵ってぶん殴るのは、勘弁しておいてあげるわ」

 彼女は薄く目を細め――ベッドの上に目線を遣る。
 いつしかベッドの上で寝息を立てていた少女は体を起こし――俯いたまま、シーツをきつく握りしめていた。学園長の瞳が見開かれるのと同時に――タマモは言う。

「それは、その子の役目だものね」




「馬鹿にすんな」
「和美殿」

 慌ててシロが、ベッドの上で苦しそうに体を起こした少女――和美の体を抑えようとするが、彼女はそれを拒んだ。

「馬鹿に――すんな!」
「和美殿、あまり無理をされては――何処から聞いていたので御座るか? ……聞くまでもない質問やも知れぬが」

 シロは小さく息を吐き――諦めたように、和美の体を支えてやる。薬が効いたのか、幾分熱は下がっているようだが、それでも無理に動けるような状態では無いだろう。

「黙って、聞いてりゃ、わけのわからない事を――」
「あ、あのっ! 朝倉さん、これは――!」

 ネギが慌てふためく。何せ事は“魔法使い”そのものの話である。自分だけならまだしも、関東魔法協会の主が、秘匿事項の漏洩で罰を受ける――などとは、冗談でも笑えない。

「……少し落ち着かれよ、和美殿」
「落ち着け――だって? シロちゃん、あんた――」
「拙者が学園長先生の側に立つ人間なら、和美殿が目を覚ましている事に気づいた時点で話を止めているで御座るよ」
「えう!?」
「何を驚いているので御座るかネギ先生は。らしくもない――和美殿には、学園長先生の話を聞く資格がある。いや――聞かねばならぬ」

 近右衛門はそんな様子を見て――椅子から立ち上がり、和美に向き直る。

「……驚いたかね。儂らが、魔法使いであると言うことに」
「……ああ?」

 その言葉に――少女らしからぬ声で、和美は噛みついた。

「あんた――それ、本気で言ってるか? さっきの話を、あたしが聞いてて、言いたいことは、それだけか!?」
「……」
「あんたの話が事実だとしたら、言いたいことは“そんなこと”じゃない! あんたが、ネギ先生が魔法使い!? それがどうした! だから何だって言うんだ! あんたが魔法使いだろうが超能力者だろうが、そんなのあたしの知ったことか!」
「……ならば、君は何が言いたいのじゃ?」
「魔法使いのあり方? そんなもん、あたしらの知った事じゃない。あの子は――さよちゃんは、魔法使い“なんか”の為に、死んだ訳じゃない!!」

 シロと共に和美を押さえつけようとしたネギの手から、力が抜ける。

「あの子はあんたが好きだったんだ! “みや”ちゃんの事が、本当に大事だったんだ! なのに言うに事欠いてあんたは――この期に及んで、魔法使いがどうあるべきか? そんなクソくだらない事を、グダグダ言ってる暇が、どこにある!! 魔法使いが駄目なら駄目で、それでいいじゃないか! だからあんたは、まだ“魔法使い”やってんだろうが!! 
何で――なんであんたは――!!」

 力の抜けたネギの腕に、和美のまき散らした涙の滴が触れる。その小さな滴が、まるで身を焦がすような錯覚を、ネギは覚えた。

「何であんたは、さよちゃんを“見て”やらないんだ!!」

 苦しそうな顔で、額には脂汗を浮かべ――しかし、和美は学園長から視線を外さずに、ありったけの力を込めて絶叫した。そのまま口元を抑え――何かを押さえ込むように、彼女は荒い呼吸を繰り返す。
 シロとおキヌが、黙ってその背中をさすってやる。

「精神感応症候群――か?」

 横島が小さく言った。いつしか立ち上がって、彼に歩み寄っていたタマモが、疲れたように肩をすくめる。

「学園長の話云々じゃなく――あの子は最初から知ってたのよ。何せ、一時は彼女が“相坂さよ”になってたんだもの。学園長の話は――まあ、あの子の中に漂っていた断片が、一つの形としてまとまるための引き金では、あったんでしょうけれど」

 その言葉に、横島はすうっと瞳を細め――

「難しい話は俺にはわからん」
「偉そうに言うなこの煩悩大馬鹿野郎――ねえ」
「お前は何処ぞの毒舌タレントか? 何だこの天然怠慢女」
「あんたこういうのに関しては鋭いから、一応、だけど――気がついてる?」
「……」

 横島は、その問いに答えない。タマモはその沈黙をどう受け取ったのか――彼から視線を外し、未だベッドの上で近右衛門を睨み付ける少女に目を向ける。

「ああもう、私久しぶりにイラついてるかも」
「何が。学園長が和美ちゃんを“わざと”焚きつけた事か?」
「……ここまでイラつく人間に逢ったのは、三人目よ」

 タマモは、横島の問いには直接答えず、不機嫌そうにそんな台詞を言う。横島がそんな彼女に何かを言おうとした時――病室の扉が開いた。
 そこに立っていたのは、頭髪の薄い、五十過ぎくらいの、柔和な顔をした白衣の男。全員の視線が、自然とその男――おそらく医者だろう彼に、集中する。

「お取り込み中でしたかな? ――ご無沙汰しております、学園長先生」
「そちらも変わりないようで何よりじゃ、柳井君」
「とはいえ、いつまでも父の背中に追いつけない未熟者ですがね――さて、こんな時間に、改まって何かご用ですかな?」

 そう言えばここを訪れたとき――学園長が、院長を呼んでくれと言づてを頼んでいた。ならば――彼がこの病院の院長なのだろうか?
 そんな彼に――近右衛門は言う。

「……相坂君の事で、少しのう」
「――と、申されますと」
「案内を、頼めるかの? 朝倉君――辛いとは思うが、動けるかの?」
「ふざけんな、そっちだけで、話、進めんな。あと、這ってでも、あんたは一発殴ってやんなきゃ、気が、済まない」
「結構では――」

 和美の視線に動じることなく、彼は小さく――しかしハッキリと言った。

「済まんが、案内を頼む。“相坂君のところへ”の――」











相変わらず戦闘シーンに借り物が多い回でした。
まるまるパクって来たわけではないが、少し練習が必要でしょうね。

今回より、呪文の書き方を変更しました。
ルビを使わず、雰囲気を出す。
要望や提案などありましたら、感想レスの方で。
今後の参考にさせていただきます。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・弱音
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/07/13 12:22
 病院の匂いは嫌いだ、と、犬塚シロは思う。
 それも仕方ない事だろう。彼女の嗅覚は、普通の人間のそれとは比べものにならないほどに鋭い。普段から無意識的に、あまりに不快な匂いに悶える事が内容に、嗅覚に感じる匂いの取捨選択を行っているとは言っても、何せ場所は病院である。普通の人間であっても、“病院の匂い”と言えば、それだけで事が足りる。
 刺激を伴う消毒液の匂いは、決して彼女の鼻に優しいものではない。
 しかしその反面で、彼女は病院という場所が嫌いではなかった。ことあるごとに現代医学は云々と喚く知人の医者を見るにつけ、いつしか彼女は感じていた。この施設が、そして医者という存在が、自分たち“侍”に近い生き方をしているのではないだろうかと。
 果たしてそこは、形振り構わずに命を救おうとする人間の集まる場所。
 本来なら自然に淘汰されてしかるべき筈の命でさえも、どのような歪なやり方であっても長らえさせようとする。異論は何も認めない。ただ、目の前の命を救おうとする。それがどのようなあり方であっても――
 もちろん、医者と言っても色々ある。
 医者を只の商売と割り切っているところもあるだろうし、生きながらえる事に疲れた患者も居るだろう。
 けれど、病院と言う場所の本質は、果たして頭を揺らすほどの、この強烈な匂いに集約されている。
 だから、自分は――
 犬塚シロは、ふと、自分が押す車いすの青年に目を落とした。今は雪のように白い頭髪が、車いすの車輪がかすかな段差を乗り越える度に、僅かに揺れる。

「てっきり霊安室にでも案内されるのかと思ったわ」
「そう言えばあなた方はゴースト・スイーパーでしたな」

 ふとタマモがこぼした言葉に、柳井医師が振り返る。しばらく廊下を歩いた先には、プレートに矢印が刻印された案内板が存在していた。その案内板にはこう書かれている。『心霊内科』と。

「五年ほど前から、うちの病院にも設立されました。学問自体がまだまだ手探りの段階ですので、こちらも実験の域を出ませんが」
「そーねえ。それに霊障と聞けば、病院に駆け込むよりもまずは先に、ゴースト・スイーパーの方を頼るものだろうし」
「ええ――恥ずかしながら、専門の心霊医師は数も少なく、また彼ら自身、未だ必死に知識の幅を広げている最中である、と言うのが現状です。かつて、現代医学の基礎を築いた人々がそうであったように、ね」
「現代医学、ねえ。どうにもそのフレーズは、白井病院のオッサンを思い出すな」
「おや、白井先生をご存じで?」

 小さく呟いた横島の言葉に、柳井は意外そうに言う。横島は顔を引きつらせながら、それに応えた。

「非常に不本意ですが――俺の主治医です」
「それはそれは――世間は狭いものですな。彼とはかつて、医者とはどうあるべきかについて深く議論したものです。私が言うのも何ですが――色々と濃い男ですからな」
「そんな生やさしい言葉で表現出来るモンですか、あれは」

 口に出すのもはばかられる、とでも言いたげに、横島は首を横に振る。まさかこんな場所で彼の医者の存在が話題に上ろうとは――確かに世間は狭いのかも知れない。

「彼は近頃、心霊病理学の研究に熱心だとか。お互いに多忙で久しく顔を合わせてはいませんが、変わらないようで安心しました」
「病魔にプロレス技かますのが医学の研究って言うんですかね。どうしてあんなのが俺の主治医なんだろうと――運命の神様って奴はきっとヒャクメのような能なしに違いねえ」
「そう仰るな。全く先生と来たら、検診の度に駄々っ子のようにぐずるもので御座るから」
「狂犬病の予防接種が嫌で逃亡を繰り返してた奴に言われたくはねえ。最後に逃走したときは酷かったな? 通称“国道一号線の大追跡劇”は、今でも近所の獣医の間で語りぐさになってるらしいぜ?」
「うぐ!?」

 意地の悪そうな笑みを浮かべて、シロは言ってみたものの――すぐさまとうの横島に撃沈される。
 いつもと変わらぬ二人の遣り取りを、ほほえましそうに――そして何処か羨ましそうに見ていた黒髪の女性――おキヌは、自分が押す車いすに乗る少女に目線を戻す。願わくば、あの二人の馬鹿な遣り取りで、少しでも場の空気が和めば良いと思っては居たのだが、事この状況に至って、それは儚い望みというものだろう。
 病院着の上にカーディガンと毛布をかぶった和美は、柳井医師の隣を歩く老人を、未だ射殺すような視線で睨んでいる。彼女の隣を歩く赤毛の少年の歩みにも、見るからに力がない。
 彼女はため息をつきたくなるのを、どうにか我慢した。今回の事件で、彼女が果たした役割は大きい。しかし、彼女自身は、今回の事件に関して、自分を部外者だと思っている。麻帆良学園学園長――近衛近右衛門の話を聞いてからは、特にそう思う。
 自分が出来たことはとても少なく、また、自分の立場で言えるような事も無い。一通りの事情を知ったとは言え、自分は事件に巻き込まれた少女達の事も、この学園の長である老人の事も、何も知らないのだから。

「空気が重いですね」

 隣を歩いていた緑色の髪の少女――あげはが、小さく呟いた。その一言には全くの同意であるが――しかし、それをわざわざ口に出す事は無いのではなかろうか。この状況で明るく振る舞うなど――それを窘めようとしたおキヌに、あげはは言う。彼女の方を向かず、まっすぐに前を見据えたまま、変わらぬ調子で。

「もっとも――こうなってしまった以上、あとは“何とかする”だけなんでしょうが」
「何とかって――あげはちゃん」
「もちろん私には、どうするべきなのか、何が正解かなんて、わかりません。けど――“何とかする”となれば。それこそ私たちの得意分野じゃありませんか?」

 彼女の視線は、まっすぐに横島に向けられていた。
 おキヌはそんな彼女の様子を見遣り――半ば呆れたように、そして今度は遠慮無く、ため息をついた。

「言われてみればそうかも知れない。けど――あげはちゃん? 結局何が言いたいの?」
「いいですかおキヌさん。私たちは、平穏で幸せな生活のために麻帆良に来たんです。まあ、ヨコシマという人間にそんなことを期待すること自体が間違っているのかも知れませんが――」

 緑色の瞳が、すうっとこちらに向けられる。

「全くこうも厄介な出来事が続いては――これではおちおち、ヨコシマに甘えられません」
「結局それが本音なわけね?」
「それが何か悪いことですか? おキヌさんだって」

 おキヌは、あげはの問いかけには応えない。ただその表情は、先ほどに比べれば、幾分柔らかなものとなっていた。

「情けは人の為ならず、ってわけね?」
「私はそこまで殊勝な人間ではありません。私はただ、自分の幸せのために邁進するだけです。少なくともこのような重っ苦しい空気、私は我慢できませんから」
「成る程、タマモちゃんとあげはちゃん――気が合うわけね」
「それはどういう意味ですか?」
「言葉通りの意味よ?」

 その言葉に、あげはは何か言いたげな様子であったが――果たして不意に、先頭を歩く柳井医師が足を止めた為に、自然とその言葉は飲み込まれてしまう。
 彼が足を止めたのは、とある部屋の前だった。見たところ普通の病室のようではあったが――オカルトに関しては門外漢ではあるが、優秀な魔法使いであるが故に、かなり鋭敏な感覚を持つネギは、その部屋を取り巻く不思議な違和感に気がつく。

「これは――結界?」
「私は心霊医学に関しては、多少聞きかじった程度ですので受け売りとなりますが――雑霊の侵入を防ぐ、霊的衰弱者用の病室です。心霊内科が出来るまでは、関東魔法協会の持つ結界技術で代用していましたが――」
「霊的に衰弱している人間ってのはな、悪霊に取り憑かれやすいんだ。そうだな、ネギ、お前、ロボットアニメとか見たことあるか? そう、主人公がロボットに乗って戦うような奴」

 不思議そうにドアを見つめるネギに、柳井医師と横島が説明してやる。横島のゴースト・スイーパーとしての知識量は、決して豊富とは言えないが、“これ”に関してだけは話は別。その理由はと言えば――後ろに立つおキヌの表情が、微妙に変化した事に、ネギは気がつかない。

「生きた人間ってのは、そういうもんだとイメージしてくれ。肉体がロボットで、魂がパイロットだ。霊的に衰弱ってのは、つまりはパイロットが弱ってるってことだ。ともすれば、悪者がそれを狙って、ロボットを乗っ取ろうとしないとも限らない」
「それじゃ――」

 ネギは、ドアを見上げる。
 そのドアの脇のプレートには、ここ数日で見慣れた名前が刻まれていた。

 つまり――『相坂小夜』と。




「成る程、おキヌちゃんが違和感を感じるわけだわ――可能性の一つとして考えてはいたけれど――あんた、一体どこまで私たちを馬鹿にすれば気が済むわけ?」

 タマモの言葉に、近右衛門は沈黙する。
 和美がいたのと同じ程度の広さの病室の中には、ベッドがただ一つだけ置かれていた。ベッドサイドには、何も載っていない小さなテーブルと椅子が一つだけ。そのほかに、この部屋に調度品と呼べるものは何もなかった。
 病室という飾り気のない作りの部屋であるせいか、そこは見た名以上に広く、そしてがらんどうであるように感じられた。ともすれば、部屋の中央にベッドが置かれている事そのものに、違和感を覚えてしまう程に。
 そしてそのベッドには――一人の少女が横たわっていた。
 どれほど彼女がこうしているのかはわからない。けれど果たして、ネギなどはその姿に思わず息を呑んでしまった。元は整った顔立ちであるのだろうその顔は、既に頬がこけ、眼窩が少し落ちくぼみ――骸骨の一歩手前という有様。点滴が繋がれた腕は、もはや骨と皮だけ、と言う形容が皮肉にしか聞こえない程にやせ細り、まるで枯れ枝のようである。
 けれど、そんな状態でも、彼女は死んではいなかった。
 小さな――本当に、今にも途絶えてしまいそうな小さな呼吸と共に、シーツに覆われた薄い胸が、僅かに上下しているのに、彼は気がついた。
 同時に、おキヌが言っていた言葉の意味に、否応なしに気がつく。
 相坂さよは、普通の幽霊ではない――当然である。幽霊とは、肉体が死んだ後の魂が、輪廻の輪に入れない状態を指す言葉――しかし果たして、彼女は“死んでいない”のだ。

「……さよちゃん」

 力の入らない様子で、しかしよろめきながらも、和美は車いすから立ち上がった。シロとおキヌが黙って、その体を両脇から支えてやる。

「……さよ、ちゃん」

 和美はふらつく足取りでベッドの脇に向かい――点滴に繋ぐためにシーツから出されたさよの手を、そっと取る。
 やせ細った腕は、まるで、棒に触れているような感触で――かすかな暖かさが無ければ、生き物だと感じることすら出来ないような固い感触に、彼女は瞳の奥が熱くなるのを感じた。途端に視界が滲み――さよの手を包み込んだ自分の手のひらさえ見えなくなる。

「う……あ、ああ……あああ……!」

 彼女はその手のひらに、顔を押しつけるようにして、嗚咽を漏らす。シロが黙って、その背中を優しく撫でてやり――そんな様子を見ていた横島は、一つ小さく息を吐く。吐息と共に、肩の辺りが熱くなるような感覚を、彼は覚えた。

「――彼女が還暦を超えているようには見えないッスね」

 彼は囁くように言う。ベッドに横たわるさよは、確かに酷い有様ではあるが――間違っても、老婆には見えない。あくまで“やせ細った少女”のように見て取る事が出来る。

「新陳代謝が停止している訳ではありませんが、仰る通り、彼女は老化していません。もう、五十年以上もこの状態のままです」

 柳井医師は首を横に振る。

「専門家がいくつかの仮定を出していますが――それはあくまで仮定に過ぎず、それに対する対処も出来ない。我々に出来ることは、ただ機械的に彼女の命をつなぎ止め、体を維持してやること――ただそれだけです」
「ふうん――」
「もっとも可能性の高いのは――」
「ああ、それ以上はいいッス。どうせ聞いてもわかんねーから――もし可能性がありそうな事なら、おキヌちゃんに説明してやってください」

 横島は、難しそうな顔で言う柳井医師の言葉を、途中で遮った。自分は彼の言うような“専門家”ではないので、医学的、あるいは心霊学的な説明をされたところで理解が出来ない。その辺りをあっさり割り切ってしまう辺りが、何とも彼らしいと、おキヌは苦笑し――言われたとおりに、こちらに視線を向けた柳井医師と、言葉を交わす。

「――霊基構造、と言うものが――」
「はい、それは――それじゃあ――」

 その様子を横目で見ながら、横島は、今度は大きくはっきりと――それこそ深呼吸のような調子で息を吐き出した。

「これで、全部ッスか?」

 その視線の先に立つのは、ベッドに横たわる少女を見下ろす老人。
 彼は何も言わず、横島の方を振り返る。

「これであんたが懐に収めてたものは、全部出たのかって聞いてるんスよ。和美ちゃんに免じてあんたの“思惑”には見事に乗ってやろうかと思いますが――この際だから出し惜しみだけはすんなよ」
「心配せずとも、もはや鼻血も出んよ、横島君」
「それは結構。まあ、言い訳だとか何だとかは後でたっぷりと――」

 そこで横島は言葉を切り、顎に手を当ててなにやら考え込む。
 ややあって彼は、学園長の方を再び見遣り――力強く言い切った。

「やっぱりいいわ。ジジイの言い訳を延々と聞く趣味はねえし」
「……いっそ小気味良い程に遠慮が無いのう、君は」
「この期に及んで遠慮してもらえると思ってんなら、和美ちゃんにボコボコにしてもらいますよ――エヴァちゃんもあんたには、いつでもサービスしてやるって言ってたし――さて、と」

 出来ればそれは遠慮してもらいたい――などと冷や汗を掻く近右衛門を尻目に、横島は彼からひょいと視線を外す。果たしてそれが向かう先は――既にこちらを見ていた、緑色の髪の、小さな少女。

「……すまん、あげは」
「……わかってますよ。他に方法もないでしょうから――けど」

 彼の方にゆっくりと歩み寄りながら、あげはは強い調子で言う。

「これ、貸しですからね。絶対に、何があろうと返して貰いますから、そのつもりで」
「――お前、何だか美神さんに似てきたか? タマモ――あげはに変なこと吹き込んだんじゃなかろうな?」

 じっとりとした目線を向けられ――タマモは、軽い調子で手を振る。その仕草からは、横島の問いに対する応えが、否定であるとも肯定であるとも取ることが出来る。彼は小さくため息をつく。どのみち、言葉の応酬に於いては、自分ではタマモに勝てる道理がない。横島は早々に白旗を揚げ、今度はおキヌに目を遣った。

「……ごめん、おキヌちゃん。こっち来て早々に、心配してくれてたのに」
「――仕方ありませんよ」

 その言葉に、彼女は小さく――僅かに影のある微笑みで応えて見せた。

「言ったでしょう? あなたが無茶をするのは、いつもこういうときだから――悔しいけれど、私にはそれが止められないんです。何故って私もまた――そうやって、あなたに助けられた一人ですから」
「馬鹿言うなって。おキヌちゃんが俺に助けられた恩があるって言うなら、俺は何回おキヌちゃんに助けられたって話だよ。それこそ貸し借りで考えたら――借金で首が回らなくなっちまう」
「そうですか? だったら――少しは取り立てても構わないのかしら」
「……出来れば、穏やかな形でお願いします」

 引きつった笑みを浮かべながら、横島は歩み寄ってきたあげはの手を取った。
 あげははそのまま、彼の膝の上に乗る。ただし、先ほど近右衛門の話を聞いていた時とは逆向き――彼と向かい合うような格好で。
 そしてそのまま二人は目を閉じると、ゆっくりと顔を近づけ――額を触れあわせた。

「……横島さん? 芦名野さん?」

 そんな二人の遣り取りを、ネギは不思議そうに眺め――近右衛門は、僅かに眉を動かした。
 どれほどそうしていただろうか。不意に二人は同時に目を開き、触れ合わせていた額を離す。見れば二人の顔は、僅かに汗ばみ――特に横島は、呼吸がかなり荒い。

「大丈夫、ですか?」

 自分自身、汗に濡れた額を服の袖で拭いながら、あげはは横島に問う。

「大丈夫、この程度でヘバってるようなら、俺はお前に出会った時に、ケルベロスの餌になってるっつーの」
「茶化さないでください。私は――」
「大丈夫、だから――な」

 そう言って横島は、そのまま彼女の背中に手を回すと、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。当然あげはは――抵抗するでもなく、大人しく彼の胸に顔を埋める。
 和美の背中を撫でていたシロが、何かを言いたげな様子で、顔だけをこちらに向けている事に、横島は苦笑し――片手であげはを抱きしめたまま、今まで彼女と重ね合わせていた反対側の手を開いてみせる。

「学園長先生」
「……何じゃな?」
「俺に出来ることは、全部やる。言うまでもなくあんたの為じゃなく、和美ちゃんとさよちゃんの為に、だ」
「――当然じゃな。そしてこの愚か者は、その事に対して心から感謝する」
「そんなモン要らねーッスよ。そんなことしてる暇と余力があるなら、せいぜい覚悟しておいてください。あんたには――最後に一番働いて貰わなきゃならないんだ」
「……と、言うと?」

 彼の開かれた手のひらの上には――緑色に淡く輝く、ビー玉のようなものが、いくつか転がっていた。




(そう――私は忘れてたんじゃない。ただ、思い出したくなかっただけだ)

 暗闇の中で膝を抱え――“相坂さよ”は呟いた。
 思い出してしまうことが、ただ、怖かった。
 五十年も昔の――あの夜のことを。自分の理解の外側で起こった、最後の瞬間を。
“化け物”と戦う近右衛門。その化け物に飲み込まれた、可愛い妹。それを助けようとした瞬間に体を貫いた、形容しがたい感覚――断ち切られる意識。
 しかし断ち切られた意識の向こう側で、さよは確かに感じていた。近右衛門が――自分の愛する青年が、自分の大事な妹を消し去る、その瞬間を。
 とはいえ、さよは理解していた。
 “みや”は、あの化け物に飲み込まれようとしていたわけではない。あの化け物が――みや自身であったことを。
 けれどそれは、仕組まれた出来事。彼女は作られた歪な存在であり――間違っても、彼女が望んで暴悪に暴れ回っていたわけではない。そう、彼女もまた、被害者の一人。
 それをさよは――“彼女自身”から聞いていた。
 さよには、理解できなかった。争いを繰り返す魔法使い達の存在――その、事実が。何故彼らは争わなければならないのか? 何故、自分たちが――そして“みや”が犠牲にならなければならなかったのか?
 自分の知らないところで存在していた歪な世界。それが恐ろしくて、さよは逃げだそうとした。
 そして気がついたら――何も知らない幽霊として、教室の片隅にたゆたっていた。

(アレは悪い夢だったって――そう思いたかった。私は何も知らない女の子。私は世界の事なんて何も知らない。ただ目の前の教室を、眺めるだけ)

 その結果もまた、歪な存在。ただの幽霊ではあり得ない、不可思議な魂。しかし果たしてそれも――自身の弱さ故に、破綻する。
 何も知りたくない、何も見たくない――そう願ったのは自分だった筈なのに、自分自身が、その孤独に耐えられなかった。いつしか自分は、背を向けた世界に無遠慮に手を伸ばすようになり――気がつけば、何の関係もない一人の“友人”を巻き込んでいた。

(ううん……朝倉さんは、友達なんかじゃない。馬鹿な幽霊に捕らわれそうになった、運の悪い人――ただ、それだけ)

 光も音もない、自分の内面の世界。その中で、さよはぎゅっと、膝を抱える。何も見えない世界で、それでも周りを見る事が恐ろしくて、目を閉じる。

(このまま消えてしまおう。心をもっと――眠らせて。そうすれば――私はもう、怖い思いをしなくて済むから。誰にも迷惑を、掛けずに済むから)
「ところが、そうそう勝手な真似はさせらんないのよ」
「え!?」

 突然暗闇の中に響いた声に、さよは驚いて振り返る。
 そこには、勝ち気そうな輝く瞳の少女が立っていた。さよ自身と、一度は心が触れ合い、そして解け合った少女――朝倉和美が。

「……どうして」
「そんなことはどうだって良いでしょ。大した問題じゃないし――敢えて答えるなら、シロちゃんの“彼氏”の霊能力って奴。あたしにも良くわかんないから、正直どうしてって言われてもわかんない」
「そんな――だって、私は」
「私は、何?」

 暗闇の中を、彼女はまっすぐ、さよの方に歩いてくる。

「前にも言ったよね。謝るくらいなら、どうしてあたしに色々教えたのかって。あたしの意識とさよちゃんの意識が、何かゴチャアってなっちゃったのは、単なる偶然みたいだからそれは仕方ないにしても」
「……えっと、朝倉さん?」
「何かしら?」
「もしかして――怒ってます?」

 その言葉に、和美は目を閉じ――何故か腕を組み、にっこりと――唇の端に弧を描かせる。彼女は何も言わない。だが――果たして長い時間を過ごしてきて尚、人生の経験値を高められなかったさよでさえも、その表情から解答を割り出すことは、実に容易だった。

「……でも、ま」
「は、はい」
「その気持ちの大半は、あの駄目ジジイに向いてるから、そんなに怯えなくて良いよ」
「――あの、駄目ジジイって――もしかしなくても」
「あんたの愛しの近衛先生の事よ。ねえさよちゃん――あんたがどれだけ目をつぶってきたのか知らないけどさ、あの男の事はもう忘れた方が良いよ? でないと目が覚めたときに――あんた、今度こそ死ぬわよ? 具体的には、心臓麻痺とかショック死とかの類でさ」
「い、いえその――あれから何十年も経ってる事は、私だって理解してますし、近衛先生がお爺ちゃんになってても、その――私、別にあの人の見てくれに惚れたわけじゃないですから」
「ナチュラルに惚気んな――馬鹿、あたしが言いたいのは、まさに“そういう”こと。あの男の中身に惚れたってんなら――それこそやめときなって。あんな駄目男は、さよちゃんには似合わない」

 ため息混じりに言う和美の言葉に、さよは先ほどまで、自分の心に渦巻いていた冷たい何かも忘れ――思わず、頬を膨らませる。

「何で朝倉さんがそんなこと言うんですか」
「これでも一応、五十年前に何があったか知っちゃったし」
「あれは――だって、あれはっ!」
「起こった事がどうこう言ってるんじゃない」

 和美は顔をしかめ、頭を掻きながら言う。こんなのは麻帆良のパパラッチと呼ばれた自分らしくない――などと呟きながらも、ややあって彼女は再び、さよに向き直る。

「正直、魔法使いだとか何だとか――その辺の事は、今のあたしの理解を超えてる。でもね、正直そんなことはどうでも良いんだ。あたしがどうにもこうにも腹に据えかねてるのは――あの男が、あんたをモノか何かのようにしか見てないって事」
「――」
「自分は立派な魔法使いだから、困ってる人を放って置けません、って――ふざけてんの? さよちゃん、ずっと一途に思いを貫き続けたあんたを――あの男は、顔のない“その他大勢”と一緒にしてるんだよ? これがふざけて無くて、何だって言うのよ。あたしは――友達として、あんたをあんな男に任せられない。目が覚めたら、柿崎に頼んで合コンでもセットしてもらおうかしら?」
「大きなお世話です! 近衛先生には、近衛先生の立場ってものが――」
「ああもう!」

 和美は唐突に、さよの襟首を引っ掴む。さよの喉から思わず「ひっ」と、小さな声がこぼれた。

「どうしてあんたって子は、もっと我が儘になんないの!? あんたはあの男にとってのただの記号じゃなく、ちゃんとした心を持った、一人の女の子なんでしょう!?」
「――朝倉さん、だって」
「あん?」
「だったら朝倉さんだって、どうしてそう言うことが言えるんですか!?」

 襟首を掴む和美の手をそのままに、今度はさよが、両手で和美の襟首を掴んだ。その瞳は、うっすらと涙に濡れている。

「あなたは私の目を通して、当時の事を知っただけじゃないですか! 近衛先生の言葉を通じて、そこからあの時のことを想像しただけじゃないですか! 確かに傍目に見れば、近衛先生は馬鹿ですよ! 自分の立場とか、やるべき事とか――そんなものに雁字搦めにされて、悩まなくても良いことを悩んで――私、知ってるんです。幽霊になってからもずっと、自分でもわからないうちに、私はあの人の事を見ていたから!」

 暗闇の一部に、唐突に光が現れる。
 まるで窓のように切り取られたその部分の向こうには、病室が見えた。
 “現在”さよが寝かされているのよりも粗末で、薄暗い印象を受ける病室。そこに据えられたベッドの上で、今と変わらず昏睡状態にある少女。そして――その傍らには、パイプ椅子に腰掛ける一人の青年の姿が。
 それを引き金に、いくつもの風景が、彼女らの周囲に次々と浮かび上がる。どれもこれもが、同じような光景。しかし少女が横たわる部屋は何度も変わり、そのたびに彼女の隣に座る青年は、だんだんと年老いていく。
 時のはその男の傍らに――着物を着た、とても優しそうな女性が、寄り添うように立っている事もあった。
 しかし、どの光景にあっても、男の浮かべる表情は同じものだった。苦悩しているような、今にも泣き出しそうな――大人の男には、似つかわしくない、とても弱々しい表情。

「それは――」

 突然現れた、多くの“記憶の記録”――和美は思わず、一瞬言葉を失う。
 けれど、それはほんの一瞬。彼女の中に燃えさかる感情の炎は、そうそう簡単に消えはしない。だからこそ彼女は、ここに立っているのだから。

「でも結局、あの男は好きでもない女の人と結婚して――それも、その人を裏切って!」
「それは向こうだって同じでしょう? それに裏切られたと思うかどうかは、朝倉さんの問題じゃない。彼女自身の問題です。悔しいけど――凄く悔しいけど、あの人がいたから、近衛先生はあそこまで立ち直れた。好きだとか好きじゃないとか、裏切りがどうとか――そんなこと私にだってわからないけれど、それだけは、間違いない事実ですから」
「じゃああんたはどうするって言うの? このまま――目をふさいでずっと一人で生きていくの? 違うでしょ!? 生きたいんでしょ!? 今度こそ我が儘に生きればいいじゃない! 私に“これ”を見せたって事は――そう言う意味でしょう!?」

 さよの瞳に宿る光が、揺れる。

「あんたの体の事だったら心配要らないわ。シロちゃんの彼氏がどうにかしてくれる筈よ」
「でも――今更“生き返る”って言ったって――私」
「少なくとも死んでおるよりは生きている方が良い。全てはそれからじゃ。儂の罪も、相坂君の願いも――それから考えれば良い」

 暗闇の中から、一人の男が姿を現す。
 年の頃は、三十歳前と言ったところ、少し長めの黒髪を、後頭部で一つに束ねた優男。

「こ、このえ、せんせい――」

 さよの喉から、震えるような声がこぼれ――

「ここなら遠慮はいらねえぞコラぁぁあああああ――ッ!!」
「ごふうっ!?」

 絶叫と共に、和美の渾身の蹴りが、青年の体に突き刺さった。




「あー……死ぬかと思ったわい」
「そのまま死ねば良かったのに」
「朝倉さん! すいません、大丈夫ですか? 近衛先生」
「平気じゃよ。実際に儂の肉体がダメージを受けたわけではない。言ってみれば全てが“気のせい”という訳じゃ――とはいえ、死ぬほど痛かったがのう。朝倉君、“あれ”は――女の君にはわかるまいが、洒落になっておらんよ」
「知るか馬鹿。あんたみたいな女の敵、男として終わっちゃえばいいのよ」
「まるで横島君のような物言いじゃのう」
「もう、少しは落ち着いてください、朝倉さん――近衛先生が男として終わっちゃったら、私は困ります」
「次の男を捜しなさい」
「嫌です」

 さよに腰の辺りを撫でて貰いながら――近右衛門は、そのさよと、彼女とにらみ合う和美に目を遣った。

「……相坂君、少なくとも、儂は朝倉君の意見に賛成じゃ。君はこれから、本来生きるべきじゃった時間をやり直さねばならん。このような最低な男に関わっておっては、君は大事な人生を棒に振る事になる」
「へー、一応自覚はあんのね」
「当然じゃ。儂は教師としても魔法使いとしても、そして男としても、誇れる人間ではなかったからのう」
「開き直ったって意味なんてないわよ」
「朝倉さん! 私言いましたよね? こういう言い方をしたら何だけれど、あなたにはわからないことがたくさんあります。私にしかわからないこと、近衛先生にしかわからないこと――朝倉さんが近衛先生に腹を立てるのは勝手ですけど、それを人に押しつけないでください」

 頬を膨らませるさよの言葉を、腕を組んだ和美が受け止める。

「友達が駄目男に捕まろうかってのに、ほっとけるもんですか」
「その友達が良いって言ってるんだから、いーんです」
「良くない!」
「良いの!」

 そして再び始まるにらみ合い。近右衛門は苦笑しながら、そこに割って入る。若干腰が引けているのは、致し方ないことだろうが。

「朝倉君。君の言うことは矛盾しておる」
「……あ? 何だとコラ」
「君は儂に言った。どうして相坂君の事を見てやらんのだと。言うに事欠いて魔法使いの立場云々とは何事だと――じゃが、君にとっては、儂がそういう最低の男である方が、かえって都合が良いのではないのかね?」
「あたしにとってはね。でも友達の幸せを願わないほど、あたしも人間出来て無くはないのよ。この期に及んで過去の因縁がどうだ魔法使いがどうだ――そんなの、さよちゃんが救われなさすぎるじゃない」
「……もっともじゃな」

 近右衛門は小さく息を吐き、さよに視線を戻す。

「そう言うわけじゃから相坂君。君もこんなクソジジイの事はきっぱりと忘れてじゃのう。新しい気持ちで第二の人生を生きてはみんか」
「近衛先生――それ、本気で言ってますか? だとしたら――今度は私が朝倉さんと同じ事しちゃいます。いいですよね?」

 にっこりと、花の咲いたような笑みを浮かべるさよに、近右衛門は引きつった笑みを浮かべる。ややあって、和美はつまらなそうにそっぽを向き――それを合図にしたように、さよは近右衛門に抱きついた。

「相坂君」
「先生は――何が気に入らないんです?」
「言葉の意味がわからんのじゃが」
「この期に及んで、そんなこと言わないでください。もう一度聞きます。先生は――何が、そんなに気に入らないんですか?」

 近右衛門の手が、宙を彷徨う。ややあってそれは、さよの肩に置かれた。抱きしめるでもなく、突き放すでもない――ただ、彼女の暖かさを、確かめるように。

「逢いたかった。寂しかった。本当に――辛かったんです」
「相坂君」

 胸板に頭を押しつけるさよに、近右衛門は言った。

「戦争の焼け跡で君に出会い――そして、時間と共に君に表情が増えていくのを見て。儂は思った。儂の生き方は、少なくとも間違ってはいないと。そんな風に“思ってしまった”んじゃ」
「男の人は――いつまで経っても夢見がちだって、そんな話を聞いたことがあります。口ではどうこう言っても、自分の思うようにしか生きられない。どんなに望んでも、女の思い通りには生きてくれない、そう言う生き物だって」
「……果たしてそれは、相坂君――朝倉君の言うとおり、君という一人の人間を見てはおらんかったのかも、知れん」
「……」
「朝倉君に言われるまでもない。その程度は自覚しておる。儂が自分の事を腐っておったと言うのは――の。それは単純に、どちらか一つを選ばねばならぬものではないというのに。他人を純粋に思う気持ちと、己の理想のあり方、夢――であるのに、立派な魔法使いであろうとした自分は、一人の人間として他人と向かい合ってはならんような、そんな錯覚さえ覚えておった」
「でも、近衛先生は、私には優しかった。私は子供だったから――女として見てくれなかったのは悔しかったけれど、それでも」
「儂には、その気持ちがわからんのじゃ。もはや男としてというよりは――人間として、何処かが狂ってしまったのかも知れん」

 近右衛門は目を伏せ――小夜の頭を、優しく撫でる。

「人を愛する事に、理由は要らんと言う。多分それは間違いなかろう。じゃが――どうしてじゃろうかな、儂はそれに、理由を求めてしまうんじゃ。自分への理想や、何が相手にとっての最良であるのか――そんなものは言葉で説明できるようなものではない。それはわかっておった筈なのに」
「“あの人”は――でも、“あの人”は、そんな近衛先生と出会えて幸せそうでした」
「――あなたは“それ”でいいんですと――“それ”だからいいんですと、いつも言っておった。儂の中の気持ちが愛情なのか、それとも義務感なのか――その判断が付かずに苦悩する馬鹿な儂に、優しげにのう」
「――悔しいなあ。“あの人”は――そんなにも、近衛先生に大事にして貰って」
「じゃからそれは――」

 結局は自分の弱さなのだと、近右衛門は言った。自分はいつだって、自分の立ち位置だとかあり方だとか、そう言うものを考えてしまう。言ってしまえば、自分は“立派な魔法使い”を、いざというときの言い訳くらいにしか考えていないのかも知れない。
 ふと、和美の方を見る。さよの状態が状態なので、今のところ何も言っては来ないが――虫くらいなら殺せそうな瞳で、こちらを睨んでいる。
 あれが――普通の反応だというものだろうに。
 あらゆる事に理由を求めて、今まで生きてきた。魔法世界の戦争の時も――ごく最近、エヴァンジェリンやネギの一件の時も。立派な魔法使いでありたかった、その事を、逃げ道として用意して――
 だから、たとえばネギには自分とは違う道を歩んで欲しいと思うし、色々と馬鹿な事をしてしまう。
 そしてそんなことすらも、ただの言い訳だ。
 結局自分は、言い訳ばかりで、物事を何も、真正面から見てこなかったのだ。

「言い訳ばかりをこねくり回して――今の今まで生きてきた儂は、一体どうすればいいんじゃろうか」

 思わず口からこぼれ落ちたその言葉に、和美の手に力が込められ――

「んなこと、知るか。とりあえずそこの少女からさっさと離れろ、この西条参号機――いや、零号機か?」

 気がつけばいつしか、彼女の後ろには、白髪の青年が佇んでいた。普通に考えればセンス云々以前のものを疑う、くたびれがジージャンにジーパン、そして深紅のバンダナを頭に巻いた――しかし何故だかそれが非常にしっくりと感じる。そんな不思議な出で立ちで。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・生きるための祈り
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/07/21 00:10
 朝倉和美の知る横島忠夫という男は、軽いとは言えない障害を持っている筈だった。本人の意地で健常者とほとんど変わらない生活をしているが、ヘルパーが付いていたとしても不思議ではない。彼を慕う友人――犬塚シロから聞いたところによれば、彼の足は、本来ならば体を支えることすらかなり難しい状態なのだという。
 その状態で、あまつさえ時には杖さえ無しに動き回っている彼には、感嘆するやら心配させられるやらだと、彼女は言っていたが――そんな彼が、目の前に何の助けもなくしっかり立っている。
 そこで、ふと思い出す。
 ここは現実ではない――彼の“霊能力”によって入り込んだ、相坂さよの精神の世界。現に年老いた老人であるはずの近右衛門が、青年の姿を取って目の前にいる。

「横島さん――その格好は?」
「ん? こいつは――そうだな、“横島式除霊装備後期型”だ」

 何となく、いつもとは違う彼の格好をさして聞いてみると、そんな応えが帰ってきた。和美はもう一度、彼の姿を見る。ダークグレーのデニムジャケットに、サスペンダーを垂れ下げたジーパン。足下は有名スポーツブランドのスニーカー――とてもではないが“除霊”などと言う言葉とは縁遠い、普通の若者の格好のように見える。
 頭に巻いたバンダナを含めて、ひとつ間違えばとてつもなくセンスの悪い格好と成り果てるだろうが――不思議と、彼にはそれが、あつらえたかのようによく似合う。

「ああ、大層な事を言ってみたが、別にこの格好自体に意味があるわけじゃねえ。ただ、俺がゴースト・スイーパーやってた時に、基本がこのスタイルだったってだけで」
「はあ……後期型って事は、前期型もあるんですか?」
「ん? 基本的には同じなんだが――流石にもはや、ケミカルウォッシュのデニム上下は、はやり廃りとか言うレベルを超越してるだろ」

 まあ、俺のことはどうでも良いが――と、彼は肩をすくめて見せた。その様子を見ていた近右衛門が立ち上がり――彼に深く頭を下げる。

「……礼を言おう、横島君。儂らが何十年も掛かってどうにも出来なんだ事を、ここまであっさりと――その事自体は歯がゆいものじゃが、今は素直に、君に感謝を」
「今更礼を言われる筋合いはねえッスよ。まだ事が済んだわけじゃないし、何より男に感謝されるのは趣味じゃない――ま、言ってみれば、そこの可憐な少女のための先行投資、って事で」

 そう言って横島は、彼の後ろに立っていたさよにウインクをして見せるが――彼女は慌てたように、近右衛門の影に隠れてしまう。

「……和美ちゃん、俺、何かちょっと傷ついた。泣いても良い?」
「えっと――どうでしょうね」
「いや、俺自身、自分にウインクなんて真似が似合うかどうかはわかってるよ? でも――女の子が引く程似合ってないかな?」
「……割と」

 そのまま頭を抱えて膝を突き、横島は仰け反る。その格好は、戦争の悪夢に苦しむ男を描いた有名な映画を彷彿とさせた。彼はその様な苦悶の表情でしばらく悶え――ややあって、何事もなかったかのように起きあがった。

「ま、それはそれとして」

 “シロちゃんはこの人の何処が良いんだろう”と――かなり失礼な事を考えている和美は――自分の口元が、いつの間にか柔らかな曲線を描いている事に、気がつかない。つい先ほどまで、血が滲みそうな程に、怒りに歯を食いしばっていたと言うのに――

「とはいえ、事があっさり解決するかどうかは学園長――あなた次第ですよ」
「……どういう事か、聞いても構わんかね」
「とりあえずこっちへ」

 そう言って横島が軽く手を振ると――暗闇の中から、淡く緑色に輝く蝶が姿を現す。蛍火を思わせる幻想的な光を纏った、この世のものとは思えない程に美しい蝶――和美とさよは、その姿に思わず息を呑んだ。

「それは――エヴァンジェリンが言うておった」
「そう、俺の“眷属”です。と言ってもこれは、この精神世界の中で、俺が作り出した“それ”のイメージですが」

 眷属――自分たちが身を置く世界では、主に自分の主とする神に仕える存在を指す。当然ながら横島は、レアリティの高い霊能力を持つとはいえただの人間である。ただの人間に、その様な存在が付き従う訳がない。
 気にならないと言えば、大嘘も良いところである。しかし、それを問うても、横島は決して答えてはくれまい。近右衛門は、こんな時にまで、魔法使いとしての好奇心が首をもたげつつあることを恥じつつ、言葉を飲み込んだ。

「別に足下に何があるわけでもないですけど、どうもこういう真っ暗闇は落ち着かないッスから」

 仮にも悪霊と――この世の闇にはびこる存在と戦うことを生業とした、そんな彼が言うような言葉ではない。近右衛門だけでなく、和美も何かしら言いたいところはあったようだが、口を開くことは無かった。

「もともと、ここはさよちゃんのイメージの世界ッス。普通の人間が物思いにふけるときに、こんな風に“文字通り”思考の中に入り込んでるわけじゃないのと同じで――ま、さよちゃんの場合はかなり特殊ではありますが、この世界はさよちゃんのイメージを、俺の力で具象化したものと思ってください」
「イメージを、具象化?」

 何だかよくわからない――和美が首を傾げると、横島の唇の端が、にやりとつり上がる。すると暗闇の中から、何かがこちらにやって来るのが見えた。思わず一同は身構えるが――果たしてそれは、小さな子狐だった。
 ただし後ろ足二本で何でもないように立って歩き、その腰からは、九つにも枝分かれした尻尾が生えていたけれど。

「狐? ――あの、横島さん、これって――あたたたたっ!?」

 わけがわからない、と言う顔を彼に向けた和美は、突然の強烈な傷みに思わず声を上げる。見れば、いつしか自分の足下に立っていた子狐が――彼女の太ももを、思い切りつねり上げている。

「な、何すんのよいきなり!! ――え?」

 涙目で狐を追い払おうとした時――その狐は、闇の中にとけ込むように消えてしまった。
 それと同時に、ひりひりと疼いていた太ももの痛みも、嘘のように消えさえっていく。

「イメージを具象化って言うのは、そう言うこと。今の和美ちゃん――“狐につままれた”みたいな顔してたから」
「って、そのまんま!? つうか説明の為に人の足をつねるなっ!!」
「ま、実際に体験した方が早いと思って――今は反省している」
「都合の悪いときのシロちゃんみたいなこと言わないでください」
「そうなのか? 全くあの自称狼は、すっかり人間の世界に毒されちまってまあ」
「自分を棚に上げて何言ってんですか。その言い方だと、シロちゃんが人間じゃないみたいに聞こえますよ? まあ時々人間離れした娘だけど」

 そう言えば、和美はシロの正体を知らない。あの鼻の良さは確かに、犬か狼か、そんな動物じみてはいるけれど――などと呟いている彼女に、横島は苦笑する。
 光の蝶に導かれるように、一行は歩みを進める。一体どれくらい歩いただろうか。時間の感覚は、既に無い。どれだけ歩いても感じることのない疲労が、余計に時間の感覚を麻痺させる。まるで夢の中の、刹那の時間が永遠に感じられるような、あるいはその逆のような――形容しがたい、狂った時間の感覚。
 実際に歩いていたのは数分間か、あるいは気がつかないうちに数時間、数日間歩き続けていたのか――横島が足を止めた瞬間には、夢から目覚めた時のような感覚を、和美は覚えた。
 果たしてその時、彼らの前に存在していたのは――

「これは――世界樹、かの?」

 近右衛門が小さく呟く。それは、麻帆良の中心部にそびえ立つ、巨大な神木の通称である。その梢の高さは、その辺りのビルを軽く凌ぎ、樹齢は不明。もはやいつからそこに立っていたのかもわからない巨木。“世界樹”などと言う大仰な名前が疑問無く受け入れられてしまう――そんな威容を持つ大木である。
 彼らの目の前には、それと似たような大木がそびえ立っている。ただし、目の前にそびえるその大木は、半ばあたりで折れていた。それはいわば、巨大な切り株。近づけば更に現実感が失われる。ビルほどもある切り株など、少なくとも和美は見たことも聞いたこともない。

「あの大木ッスね。どう考えても、五十年前も変わらずあそこにあったでしょうから――まあ、そういうものって言っても間違いないかな」
「どういう事かね?」

 自身、顎に手を遣りながら言う横島に、近右衛門が問う。

「忘れたんスか? ここは、さよちゃんのイメージの世界だって。言ってみればあれだって、さよちゃんのイメージが具象化したものなんスよ」
「私の――ですか?」
「そ。俺には上手く言えないけど――なんて言うのかな、生命を司るもの――とでも、言うのかな。ごめん、俺って上手い言い回しが出来るほど、頭良くねーから」
「いえ、それは――」
「早い話、さよちゃんは、命とか生き物とか想像したときに、意識の根底にあの馬鹿デカい樹があるって事だよ」
「ふむ――では、この切り株は? 世界樹が相坂君の中で、生命そのものを意味するシンボルだとすれば――何故にこの樹はこのような姿に?」
「今のさよちゃんを見れば、言わずもがなでしょう? この子は幽霊として存在していた。幽霊ってのはつまり、死者のシンボルだ。生命なんてものとは縁遠い。さよちゃんは――五十年前に、自分が“死んだ”と強く思ってしまったんだ。精神が生きることを放棄した体は、いとも容易く生命活動を放棄する――ま、この辺りは聞きかじりだけど」

 そう言って横島は、無惨な姿をさらす倒木に、手を当てる。

「でも、この樹はまだ完全に死んじゃいない。それが――さよちゃんがまだ完全に死んでいない事と、一致する」

 彼が触れた幹は、遠目に見ても酷く朽ちているように見えた。触れた部分の樹皮が、ばらばらと崩れ落ちてしまいそうな程に。しかし彼が手を当てる場所のそのすぐ近くに、目にも鮮やかな緑色の若葉が芽吹いている。

「この樹は、生き物としてのさよちゃんのあり方自身だ」

 横島は言った。自分は、文珠から読み取った情報を完全にかみ砕いて説明するだけの事が出来ないが、ごく大ざっぱに言えばそう言うことだと。瀕死の床で眠りに続ける今の彼女の状態を、この樹は表している。

「さよちゃんを目覚めさせるには――さよちゃん自身が、強く生きたいと願わなきゃならない。心の底から、また目覚めて――強く強く、生きていきたいと。そう願う度に、この樹は蘇る。そして最後には、元の姿を取り戻す」
「そんな――こんな樹が、ですか?」
「そう」

 さよの震える声に――横島は樹を仰いだ。
 そう、この巨大な枯れ木は、半ばからへし折れた状態で尚、見上げるような高さがある。彼の手元にある小さな芽が成長し、元の姿を取り戻すには――一体どれほどの時間が必要なのか、想像すら出来ない。
 何百年か、あるいは何千年か――気が遠くなるような時間が必要なことだけは、間違いなかった。

「心配ねーよ。ここはさよちゃんの世界だ。何でもさよちゃんの思うとおりになる。現実の世界と時間の流れ方だって全然違う。ここに歩いてくる時に感じただろ? 何百年掛かろうが大丈夫さ」
「まるで夏目漱石の夢十夜――じゃな」

 近右衛門が小さく呟いた。女性の墓石の前で、百年をひたすら待つ――そんな男の不思議な夢の話。男は何でもないようにそれを成し遂げ――あまつさえ、気がつけば百年が過ぎていたことに、後になって気がつくのだ。横島はそれを聞いて感心したように、そんな話があるのか、と言った。

「……高校の授業で触れる機会もあるかと思うんじゃがな」
「……高校の授業とはイコール、バイトの為に体力を回復させる場でしたので」
「居眠りかね」
「平たく言えば」
「教師として思うところはあるが――今は、そのような場違いな事は言うまいよ。横島君――しかし相坂君は、いくら現実でないとは言え、ここでずっと――この樹が息を吹き返すまで願い続けなければならないと言うことかの?」

 呆然と樹を見上げるさよを横目に――近右衛門は目を細め、横島に問うた。

「言ったっしょ? 学園長には――一仕事してもらわなきゃ困るって」
「……ここで彼女を見守れと言うことかね?」
「は――和美ちゃんに手痛い一撃喰らって、まだその程度の認識なら――あんたの脳みそも大分緩んでますね」
「――自覚は、しておるよ。ならば、儂は何をすればいい? どうする――」
「そうですね。ま、こいつはサービスだ」

 横島は、彼に最後まで言葉を継がせなかった。まるでその先を口に出すのは許さない、とでも、言わんばかりに。
 そして――次の刹那、近右衛門の首筋の真横には、緑色の燐光を放つ剣が存在していた。

「よ――横島、さん?」
「近衛先生!?」

 和美が呆然としたように、さよが焦ったように彼らの名前を呼ぶ。近右衛門の首筋の、ほんの僅か横――そこに向けて、恐ろしい早さで、突然彼の右手から湧き出すように現れた“光の剣”を、横島は突きつけた。
 その背後で――影を塗り固めて作ったような、不気味な化け物が、彼の“光の剣”に貫かれて、ぐずぐずと崩れていく。

「これは――“みや”の、化け物」

 近右衛門は、呆然と言った。忘れるはずもない。かつて自分の娘となり得たかも知れない――そんな存在を内包していた、歪な“化け物”。見ればさよは口元に手を当て――元々白い顔を更に青白くして、化け物が崩れていく様を見つめていた。

「こいつは目覚める事が出来ない、そして生きたまま幽霊にまでなっていたさよちゃんの“歪さ”――そいつの象徴だ。それだけって訳でもないんだが――そいつは“歪”であるが故に、当然この樹が正常な命を取り戻す事を、邪魔しようとする」

 横島が一歩後ずさり――右手を軽く振る。彼の腕から伸びていた光の剣は、最初から存在しなかったように虚空にかき消えた。

「ふむ――では、この“歪さ”から、相坂君を守ることが、儂の仕事という訳か?」
「あんたは自分を“腐っていた”とまで言って“懺悔”したんだ。エヴァちゃんの言葉を借りれば――与えられた罰としては、軽いモノでしょう? ああ、心配は要りませんよ。この世界は現実じゃない。あんたは、あんたが望む限りいつまででも戦える――そう、望む限りは」
「横島君」

 近右衛門は、さよの肩にそっと手を置き――そして、言う。

「馬鹿な問いじゃと蔑んでくれても構わぬ。じゃが、敢えて言う。君は一体何者じゃ? これはまるで――神の所行ではないか」
「何を大層な」

 その言葉を、横島は、心底馬鹿馬鹿しい――とばかりに、切り捨てる。

「小器用さに賭けては多少の自信がありますがね、これに関して言えば――俺は見ての通り、馬鹿でスケベな男ですよ」

 だが――と、彼は続けた。

「時々こうも思いはしますがね――俺って時々すげーよな!!」
「……横島さん」
「……ごめん、調子に乗りすぎました。だから和美ちゃん、そんな微妙な目で見ないで! 目覚めちゃいけない快感に目覚めそう!!」
「って、そっちかい!!」

 ひとしきり暗闇の中を転げ回り――ややあって、酷く疲れた顔で起きあがると、横島は言った。
 まるで何でもない事であるかのように、和美の肩に軽く手を載せ、いつも通りの調子で。

「んじゃま、学園長先生――後は宜しく」

 その言葉と共に、横島と和美の姿は、この暗闇の世界から――さよの精神の作り出したというこの不思議な空間から、消え去った。




「……ぁ……はっ!?」

 目を開いた瞬間に飛び込んできたのは、視神経を突き刺すような強烈な光だった。和美はそれに耐えかねて、思わず顔の前に手をかざし――そこでようやく、それが蛍光灯の光であった事に気がつく。

「お目覚めで御座るか、和美殿」

 そして投げかけられた言葉に、そちらに顔を向けてみれば――そこには、白銀の髪を持ち、まるで時代劇のような口調で話す、不思議な友人の姿がある。そう、犬塚シロの姿が。

「あたし――あたし、さよちゃんの精神に入れるって――横島さんにビー玉みたいなものを押しつけられて、それから――」

 それから後のことは、良く覚えていない。気がつけば、さよと近右衛門が言い争うあの空間に立ちつくしていた。酷く長い夢を見ていたような気もするし――瞼を一度閉じて、開いてみれば、今この瞬間だったと、その様な気にもなる。
 そんな和美の表情に気がついたのか、柔らかく微笑みながら、シロが言う。

「和美殿が、横島先生と学園長と共に、相坂殿の精神に入ってから――十五分と言ったところで御座る。ここは相坂殿の隣の病室で御座るよ」
「――」

 和美は体を起こし――白い壁を見据える。シロは単に“部屋が隣”と言っただけなのだから、あさっての方向を睨んでいる可能性もあったのだが――果たしてその壁の向こうには、さよと近右衛門が、目覚めるための戦いに望んでいる筈であった。

「体の調子はいかがで御座ろうか? 柳井先生の言うところに寄れば、元々それほど大した病では御座らん故に。薬がそろそろ効いて来るよって、幾分かは楽になっている筈で御座るが」
「……ん、そだね」

 和美は、言われて初めて思い出した、と言う風に、自分の額に手を遣る。まだ少し熱を持ってはいたが、意識が混濁するほどの苦しみは感じない。いや――意識の混濁は、別の原因によるモノだったのだろうか。降りしきる――彼女が知るはずのない“あの日”のような雨の中を、もう一人の自分の元へと、自分を急き立てた、あの――
 やめよう、と、彼女は思う。自分にはさよを責めるつもりは全くない。彼女はお人好しであるから、きっとこんな事を自分が考えていると知っては、大なり小なり罪悪感を覚えるだろう。

「――何も、聞かないので御座るか?」
「へ?」

 不意に問いかけられたシロの言葉に、和美は思わず、彼女の方を見る。
 いつも何処か自分たちとは違う、大人びた柔和な笑みを浮かべている彼女の表情は――今は、固かった。

「先生とあげはのあの“霊能力”――それそのもの、そして、ここでそれが使われたこと――出来れば、口外を遠慮願いたいので御座る。和美殿を信頼していないわけでは御座らんが、拙者ら、麻帆良をよく知る知人からも、出来ればそうした方が賢明であるとの助言を頂いて」
「あー……」

 横島とあげはの“霊能力”とは、十中八九、自分たちをさよの世界へと誘った、あのビー玉のようなモノであろう。そう言えばあれをして、近右衛門は言った。これは神にも等しき所行であると――
 それを思い出して、和美は言った。

「……ま、あたしにゃ関係ないわ」
「――」
「あたしとしては、そのやり方がどうあれ――学園長にさよちゃんを任せて大丈夫なのかって、そっちの方が気になってる。横島さんの霊能力なんて、それに比べたら些細な事よ」
「それを聞いたら先生は複雑であろうが」
「だって、横島さんって“霊能力者”でしょ? 霊能力者が“霊能力”を使えるのは、当たり前じゃないの?」
「――和美殿」
「何?」

 花が咲いた――とは、こういう事を言うのだろうか。もしも自分が男だったら、きっとただでは済まないだろう――そんな風にさえ思ったとびきりの笑顔を浮かべて、シロは言った。

「和美殿は、麻帆良のパパラッチを自称している割には、マスコミには壊滅的に向いていないで御座るな。それも本質的なところで、それはもう全くもって」
「オイコラ。何良い笑顔浮かべて、人の目標を全面否定してやがりますか、この子は」
「されど」

 シロは、和美の言葉に半ばかぶせるようにして言い――首を横に振った。
 そして再びその顔に浮かぶのは――先ほどよりももっと、魅力を秘めた笑顔だった。

「拙者の友人として――和美殿は、最高のお方で御座るよ」
「……何を、恥ずかしいことを言っちゃって」

 図らずも心拍数が上がってしまった和美は、誤魔化すように手のひらをひらひらと振りながら――ふと、気がついたことを口にする。

「と、ともかく――シロちゃんだけ? 他の人は?」
「ああ――ちと支度があって、一度家に帰る事に。拙者も和美殿が目覚めたのを見届ければ、これにて失礼するつもりで御座る。和美殿の無事は、既に寮の方に伝えてあるよって――今夜はここでゆっくりするのが良かろう」
「支度? 支度って――何の支度?」
「先生とあげはが、これから九州に向かう故――その手伝いを」
「は!? 九州!? 何で九州――大体、これからって――こんな夜中にどうやって?」

 訳がわからず混乱する和美が――とりあえず発した疑問に対して、シロの反応は顕著だった。その言葉を聞いた途端に、彼女の体は硬直し――柔らかな笑顔を浮かべたまま、脂汗をだらだらと流す。

「……清水の舞台から飛び降りる覚悟で――美神殿に頼んで、小型飛行機を貸し出して貰ったで御座る……」
「?」

 美神令子と言えば、世界屈指のゴースト・スイーパーとして名高いのと同時に、長者番付に名を連ねる高額所得者としても有名である。元々彼女の事務所にいたと言う横島やシロであれば、そのつてで飛行機を借りる事くらい何と言うことは無いだろう。
 それが何かおかしな事なのか――と、和美は思うが、美神令子とその仲間達の人となりを知る人間ならば、皆が皆、和美に対して言うだろう。
 つまり――知らないと言うことは、幸せであると。
 果たして何も知らない和美は、油の切れたロボットのような動きで部屋から出て行くシロを、呆然と見送るしか無かったのであるが。




「“呪文始動(ヴァス・アビス・エアリス・オルシナス)
――闇夜切り裂く(ウーヌス・フルゴル)
一条の光(コンキデンス・ノクテム)
雷を纏いて(クム・フルグラティオーネ)
吹き荒べ(フレット・テンペスタース)
南洋の嵐(アウストリーナ)
雷の暴風(ヨウィス・テンペスタース・フルグリエンス)”!!」

 暗闇の中で青年が紡ぎ出す意思の結晶は、その祝詞が示したとおりの光の暴風となり、底の知れない夜の世界を吹き荒れる。その闇の深淵から現れた、影を形にしたような不気味な怪物は、その光の嵐に吹き散らされ、再び深淵へと帰って行く――
 そんな光景が、もう何度繰り返されたろうか。枯れた大樹を前に、祈りを捧げるような姿勢で跪く少女を背に、青年――青年の姿を取る老人は、小さく息を吐いた。

(一体どれほどの時間が過ぎたのか――もう十年が経ったのか、まだ十分も経っていないのか。それすらわからぬ――並の精神力なら、もはや心が壊れるところじゃわい)

 全く、横島忠夫という人間は人が悪い、と、近右衛門は思う。
 彼の言うとおり、確かにどれだけの時間が経とうと、どれだけの魔法を放とうと、自分の息は乱れず、欠片の疲労も感じない。何時間も立ちつくしているだけでも人間は疲弊するだろうに、そう言う些細な“疲れ”すら感じることはない。
 そして、少女の心の歪さの象徴だという、この化け物は、弱い。
 果たしてそれが、程度の問題なのか、少女の生きようとする心が、彼女のあり方を歪めようとする歪さを上回っていると言う事なのか――それは、わからない。けれど、自分の魔法で、化け物があっさりと消え去っていく。それだけは事実だ。
 さりとて、それを承知の上だと言わんばかりに、この化け物の群れは、いつまで経っても際限なく湧き出してくる。
 時間の概念が全く存在しないこの空間で――自分は一体、どれほどの化け物を屠ったのだろうか? 後どれほど、これを繰り返せば、終わりが見えるのだろうか?
 ――しかし全く、横島という男は人が悪い。
 彼は言った。近右衛門には魔法が使える。そして、この世界は、イメージが生み出した虚構の世界。現実世界の限界など、今の近右衛門には存在しないのだと。
 ――そう、“ただそれだけを”彼は言った。
 もしも、そのイメージの世界ですら疲弊したときにはどうなるのか。
 もしも、万一自分が倒れてしまった時にはどうなるのか。
 もしも――少女を、相坂さよを守りきれなかった時には、どうなるのか。
 彼はそれらのことを、一切言わなかった。まるでその様な事はあり得ないと言わんばかりに、いつも通りのふざけた調子で、さよの友人、朝倉和美を連れて。あっさりとこの世界を後にしてしまった。

(全く――人が悪い。そこまでされては――儂は、“際限のない戦い”程度に膝を突く訳にはいかんではないか)

 むろん、横島に言われるまでもなく、最初からそんなつもりはない。
 その態度が彼の近右衛門に対する信頼の表れかと言えば――そう言うわけでもないだろう。
 それがわかるから、彼は思うのだ。全く彼は、人が悪いと。
 近右衛門は、背後のさよを伺う。
 彼女の祈りは、終わらない。しかし――その口元には、安心しきったようなほころびが生まれている。
 そして、見るも無惨に枯れ果てていた巨木の、その断面は――鮮やかな緑色の光沢を持つ美しい若葉によって、覆われようとしていた。
 果たして、それが再び、この巨木を元の姿に戻すには、どれほどの時間が必要なのか――誰しもが、頭を抑えたくもなるだろう。
 しかし、そんな泣き言を言ってみたところで――多少の反則を許してやるのだから、少女をかばって幾星霜。数え切れない、数えるのも馬鹿らしいほどの夜を越える事くらい、何でもないだろう? と、あの人の悪い男は、笑って言うだろう。そんな彼に対して、自分という人間は――

(……考えるのは、後で十分じゃろうな。全く儂は――どうしようもない人間じゃ。ならばせめて、“この程度”の事が出来ねば、申し訳が立たぬ)

 その申し訳は一体誰のために――その意味を考えることもなく、近右衛門は、いつしか自分の手に握られていた杖を振りかざす。

「――“呪文始動(ヴァス・アビス・エアリス・オルシナス)
――影の地統ぶる者(ロコース・ウンブラエ・レーグナンス)
スカサハの(スカータク)
我が手に授けん(イン・マヌム・メアヌ・デッド)
三十の棘持つ(ヤクルム・ダエモニウム)
愛しき槍を(クム・スピーニス・トリーギンタ)
雷の投擲(ヤクラーティオー・フルゴーリス)”――!!」

 光が暗闇を駆け抜け、轟音が静寂を切り裂く。
 かつて青年だった老人と、子供のまま時を渡った少女の戦いは――まだ、始まったばかり。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・少女達の夜
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/07/26 19:52
 真夜中独特の空気の匂いが、鼻腔から肺の奥を満たしていく。まだ肌寒さを感じさせる、その冷たい空気は、自分に不思議な高揚感を与えてくれると、芦名野あげはは、一人思う。彼女は未だ、幼いと形容して差し支えない年頃であり、普段ならば、これほどまでに遅い時間には、容赦なく襲ってくる睡魔に対して、さっさと白旗を揚げてしまう。
 けれどこの真夜中の空気には、不思議な力がある。自分が真夜中に目を覚ましているという事実が、不思議な高揚感となり――そして、この“夜の匂い”を含んだ空気が、意識を更に覚醒させる。
 それは例えるなら、ランナーズ・ハイに近い状態なのだろうか。あるいは誰しも幼い頃は、夜更かしをする事に胸を高鳴らせた記憶はあるかも知れないが――

「いや、何つーか――そう言うのも無くは無いだろうが――嫌でも目が覚めるだろ」

 自身の隣で、車いすに腰掛けた白髪の青年が苦笑するのを見て、彼女の顔にも、自然と引きつったような不格好な笑みが浮かぶ。

「……そうですね――私たちは“小型飛行機”を頼んだはずなのですが――いえ、“小型の飛行機”であることは間違いないのですが」

 真夜中の道路沿いにぽつんと佇む、横島とあげは。彼らが立つのは、北九州のとある空港、そこからすぐの国道脇である。日付を大きくまたぐ頃になって、彼らはようやく目的地である九州の大地を踏んでいた。
 かすかな爆音と共に、彼らをこの地まで運んできた“小型飛行機”が、淡い燐光を伴って上昇していくのが、空港施設を取り囲むフェンス越しに見て取れた。紫色の淡い光は、普通の航空機にはあり得ない、爆発的な推進力を生み出す特殊な装置によるもの――

「……まあ、普通の人間はあれのことは――“戦闘機”って言うだろうなあ」

 連れ添う様に、夜の闇に消えていく濃紺の翼――二機の航空自衛隊F-2B支援戦闘機を見送って、横島は小さく呟いた。
 犬塚シロをして曰く、「清水の舞台から飛び降りる覚悟」――横島からすれば、果たしてそれはその程度の生やさしい形容に留まるのか、いささか疑問であるが――で、美神のつてを頼りに手配した“小型飛行機”――の、筈である。

「ここって一応、民間の空港なんですよね。夜中に戦闘機が着陸していいのかとか、私たちみたいなのがあっさり自衛隊を足代わりに使って良いのかとか、そもそもそれはどういう類のコネなんだとか――言いたいことは色々あるわけですが」
「――何でだろうなあ、“今更その程度”って思えてしまう自分が。そう言えば昔エミさんも、足が必要って時にあっさりと自衛隊のヘリを借りてきたような――なあ、あげは。俺――何だか泣けてきそうだ」
「私の胸で遠慮無く泣きなさい」
「出来ればその台詞は十年後に頼む――いやでもお前って、どっちかって言うと顔立ちはベスパよりルシオラに似てるし、十年後ったって――ごふっ!?」
「とにかく」

 自身の“希望”を打ち砕きかねないその言葉を、あげはは強制的に打ち切る。その方法がどのようなものであったのかと言えば、果たして横島は、車いすの上で、腹を押さえて悶絶していた。

「飛行機も新幹線もない時間帯に、おそらく最も早い方法でこちらに来れた事は事実です。その辺りは美神に素直に感謝しましょう。私を乗せてくれたあのパイロットさん――“自衛隊は! 戦闘機パイロットとは!”とか、大声で喚いてましたが」
「……あー、あのパイロットな、白井二尉って言うらしいぜ? なんつうか――時々“発作”が起こるらしいわ。まあ、そうじゃなくても今回の事は喚きたくもなるかも知れんがな」
「……それってひょっとして」
「血は争えないって事じゃねーか? 世間が狭いのか、俺の周りに妙な人間が集まるように世の中が出来てるのか――どっちだと思う?」
「聞くまでもないでしょう」

 横島の疲れたような問いかけを、あげははばっさりと切って捨てる。ともすればそれは、自分自身が“妙な人間”であることを認めるような意味合いを持ってしまう肯定であったが――果たしてそうであったところで、彼女に後悔は無いだろう。自分の有り様も――そして、彼と出会ったことは、言わずもがな。

「……ヨコシマ」
「何だ?」
「私は子供ですから偉そうな事は言えません。シロにしてもそう――ヨコシマ自身にしたって、自分の正しさを振りかざして道を説く――なんて、柄ではないでしょう?」
「当たり前だ。俺にそんなこと期待できるかどうかなんて、今更聞く程の事か? ……確かにネギや和美ちゃんの手前、多少良い格好しようとしたってのはあるが、俺だってお前とそう変わらねえよ。そーゆーのは神父かピートにでも任せとけ」
「だったらどうしてヨコシマは――あの二人にああまで拘るのですか?」

 頭髪の薄い柔和な顔立ちの壮年と、歪で、しかし底抜けな優しさを持つ金髪の青年の顔が、あげはの脳裏にもすぐに浮かぶ。確かに、そう言った“立派な行為”は、彼らにこそ似合うだろう。むろん、彼らのような人間は、それを吹聴するような事もまた、絶対にすることは無いだろうが――
 横島は小さく首を横に振り、消え入りそうな声で言う。

「……他人事じゃ、ねーからな」
「……ヨコシマ」
「ああ、全くこういうのは、俺のキャラじゃねえ。でも――ほっとけねーよ、やっぱりな」

 そう言って空を仰いだ彼は――すぐに、あげはの緑色の瞳が、こちらに向けられていることに気がつく。

「……悪い。でも、やっぱり俺――あの二人のこと、他人事だって、思えねーよ」
「ヨコシマ」
「魔鈴さんから、口酸っぱくして言われたってのに。麻帆良であんまり目立つ事はすんなって。すまん、あげは――俺」
「ヨコシマ!」

 かなり強い調子で、彼女は彼の名前を呼ぶ。

「私がそれを理由に、あなたを責めると思いますか? もしそうだというのなら――私は、少し悲しいです。こんなにも想っているのに――その想いが、あなたに遠く届かない、届いていない事が」
「――あげは」

 彼女の言葉に、ヨコシマは驚いたように、ただ彼女の名前を呼んだ。
 その彼の反応に満足したのか――ややあって、少女は緑色の瞳を細め――柔らかな笑みを浮かべる。青年の黒い瞳の中に、小さく映る自分の姿を、彼女は認める。

「……ねえ、ヨコシマ」
「何だ?」
「キスしても、良いですか?」
「十年後にな」

 真夜中の国道に、既に車の通りは絶え――手配している筈の、迎えが来るまでの僅かな時間。ややあって、遠く暗闇を切り裂いて、ゆっくりと車のヘッドライトがこちらに向かってくるのが、小さく見えた。




「で、あんた、とりあえず住所氏名職業、教えて貰おうか? こんな時間にこんな小さなお嬢ちゃんと一緒に、こんな場所で一体何やってたのかも」
「ちょっと待て! ワイは、ワイは無実やっ!! あげは、お前からも何か――何でそこで頬を染める!? 誤解、誤解じゃあ――ッ!!」
「あー、こちら南署三号、空港付近を警邏中に、少女を連れた不審な男を発見、現在職質中――」

 果たして数分後、偶然通りかかったパトカーの後部座席で喚く青年の姿が、そこにはあった。どうやら彼らが目的地にたどり着くには、今暫くの時間が必要なようである。




「しかし自分の事を棚に上げて申すが――和美殿も、大概出鱈目な体の持ち主で御座るな」
「どーゆー意味よ。ははーん、シロちゃんあれね? あたしのこのナイスバディに嫉妬してるのね? ふふん――そう言うのって、見苦しいわよ?」

 冗談半分に、クラスでも上位に位置すると密かな自慢である自分の胸元に手を当ててみるが――薬のお陰で収まった筈の悪寒がぶり返しそうな極寒の視線に晒されて、あっさりと白旗を揚げる。

「……ま、あげはの物言いでは御座らぬが、拙者の体にはまだまだ未来がある。されど――そういう言葉は、言う相手を選ばねば、いつか身を滅ぼすことを覚えておく事で御座るな」
「……反省してます。でもそういうシロちゃんだって、相当スタイル良いよね? 引き締まった体って言うのか――おねーさんそう言うの好みだわあ」
「当然で御座る。だらしなくたるんだ体など――“来るべき時”に先生を失望させたくないが故に」
「うわー、その一言で逆にあたしの方に殺意が芽生えたわ。どうしてくれる」

 既に深夜と言われる時間を過ぎ、早朝と言うのが適当になりつつある午前三時――横島とあげはを送り出したシロが、和美の様子を見るために病院に戻ってくれば、彼女は既に随分と回復していたようだった。
 昼間に意識を失っていた時間が長かったせいか、目がさえて眠れないという彼女に、シロはリンゴなどを剥きつつその相手をしてやっていたのだが――確かに彼女の体の不調は、霊的不調が体に及ぼした衰弱の結果であり、単なる風邪であった。とはいえ――肌寒さの残る季節に、雨の中を無意識的にここまで歩いてきたとなれば、肺炎を起こしても不思議ではない。
 それが僅か数時間前の事である事を感じさせない和美の様子に、シロは思わず苦笑をこぼすのであった。当然、自身がどうなのかと言うことは棚に上げる。

「シロちゃんはさ――横島さんの事が好きなんだよね?」
「何で御座るか、藪から棒に」

 突然そんなことを言った和美に、シロは何と無しにめくっていた雑誌から顔を上げる。

「あたしもさ――色々馬鹿な事言ってはいるけど、横島さんって凄い人だと思うのよ。霊能力が使えるだとか、いろんな事が出来るだとか――そう言う事じゃなくて、もっと何て言うのか――深いところでね」
「……和美、殿」
「ああ――大丈夫、心配しなくても、あたし、シロちゃんの愛しの“横島先生”を横取りしようなんて考えてないから」

 ひらひらと手を振りながらそう言う和美であったが、シロの表情は晴れない。何故なら和美は、シロが気づいて欲しくないと思う横島の魅力に、気がついてしまっている。
 よく馬鹿なことをして、女性に対して節操がない――それが、横島忠夫という男を見てすぐに受ける印象である。当然、彼は誤解されやすく、初対面における評判は、おしなべてあまり良いものではない。
 しかし付き合いが長くなるほど、普段の馬鹿げた行動に見え隠れする、彼の優しさや、底抜けに気持ちが良い程の明け透けさが理解できてくる。馬鹿でスケベで――けれど、“いい人”なのだと、彼と親しい人々は、柔らかな苦笑と共にそう言う。
 けれど、更にそれだけではない、シロは思う。
 そう言った“いい人”の更に奥にある、言葉に出来ない魅力――それこそが、自分を捕らえて離さない彼の本質なのだろうと、シロは思うのだ。そして――一目見てはまずわからず、長く付き合って尚わかるかどうかわからない――そんな彼の魅力に気づいた人間は、まず彼に惹かれずにはいられないとすら、思う。
 シロは知るよしもないが、だからケイは楓に言ったのだ。横島の事を男性として好みでないと言った彼女に対し、“最初はみんなそう言うのだ”と。

「――シロちゃん? だからさ、あたしは別に――」
「……いえ――和美殿の気持ちを、横からねじ曲げようとは思わぬ。先生は――果たして、それほどの魅力を持ったお方であるのだから」
「……シロちゃん?」

 単純に、和美が冗談で言うのならば、自分もまた冗談で返す。彼の優しさに惹かれたと言うのなら、半ば脅迫めいたやり方を持ってしてでもお帰り願う。
 けれど――彼の本質に気づいた人間に対して、自分はどうするべきか、シロはその解答を持たない。何故なら、自分が彼に思いを寄せる事は、もはや彼女自身の誇りであるから。彼の心の奥底に眠る輝きを、言葉にならずとも理解できていることが、その上で彼を慕っている事を、自分は誇らしく思うから。
 だからあげはにしろ、おキヌにしろ、そして――自分と同じ気持ちを持つ女性達を、シロは単なる、邪魔なライバルとは思えない。
 今はまだ、和美は――彼女の言うとおりに、横島に対してそれほどの好意を抱いている訳ではないだろう。多いとは言えない彼の接点の中で、一体何故、彼女が彼の本質を見抜いたのか、それもわからない。
 そんな友人に――自分はどうするべきか。その自問に、シロは悩む。

「ごめん――あのね、シロちゃん。あたし、本当にそんなつもりで言ったんじゃ――わかるよ。不安だよね? あげはちゃんだけじゃなく、おキヌさんも、横島さんの事好きみたいだし――怖くなるよね? 軽はずみなこと言っちゃって、本当に――」

 当然和美は、シロの内心などに気がつかず――自分の中に存在するその“原因”にも気がつかず、申し訳なさそうに謝罪を繰り返す。

「あ、い、いえ――こちらこそ申し訳ない。拙者この通り、先生の事となると前が見えなくなると評判で」
「それは評判って言わないわよ」

 どうにか、その場を取り繕う事に成功したシロは、自分の中に渦巻く強烈な感情に、努めて気がつかない振りをしながら――和美に言う。

「それで、先生が凄いのがわかって――どうしたので御座るか?」
「うん――なんて言うのか、あたし、よくわかんなくなっちゃってさ。シロちゃんは何で、横島さんの事が好きになったの?」

 今更それを問うか――と、シロは言いかけて、やめた。ともすれば、和美の中で、横島に対する気持ちに確固たる方向性を与えてしまいかねない行為であると、シロは気がついたのだ。
 だから、彼女は言葉を濁す。それくらいは、彼女に対する友情の裏切りにはならないだろう。そうとも――女という生き物は、時に狡猾なのである。

「拙者が先生を思い慕う気持ちに、理由など御座らん」
「えー。何かこうあるでしょ。胸の中で何かがはじけた瞬間みたいなのがさ。言ってご覧なさいよ、おねーさんに」
「……それが和美殿の話に何か関係が?」
「ほら、さよちゃんの事よ」
「……ああ」
「まーね……なんて言うか――あのジイさんがさ、心底悪い奴じゃないってのは、あたしだって理解してんのよ。何だかんだ言って、あの木乃香のお爺ちゃんだし……それなりの、見た名以上に裏のある立場の人間だしね?」

 和美は言った。たとえばジャーナリストの世界でも、生きるか死ぬかの瀬戸際にある人間にカメラを向ける事が、果たして正しいのかどうか――そう言う問いが成される事がある。

「それ自体は、解答のない問いかけだと思うし、あたし自身は、曇りのない目で事実を伝えるには、避けて通れない事もあるって、あんまりそういうのを非難する気持ちは起きない。それと同じでさ――あのジイさんの生き方が、あたし程度の人間にどうこう言えるわけじゃないってのは、理解してるのよ。流石に本人目の前にしては、あたしも自分を抑えられる程大人じゃなかったけど、さ」

 シロは膝の上にあった雑誌を閉じてラックに戻し、和美に向き直る。

「簡単な事で御座ろう。学園長先生がどのような生き方をなさっていようが、それが相坂殿に関係があろうか? 相坂殿がそれを理解しようとする、しないは別として――それそのものは、彼女には何の関係も無いことで御座る。少なくとも、彼女の思いには」
「シロちゃんはそう言うけど、それって簡単に割り切れること?」
「言葉にするのは簡単でも、そうはいかぬで御座ろうな」

 和美の問いに、彼女は苦笑する。

「あたしが怒ったのはさ――自分は単なる義務感からさよちゃんと一緒に居ました、みたいなことを言ってるくせに――その後、自分の理想がうまくいかなかった事を、さよちゃんの“せい”にしてる――そう思ったからなのよ」
「――」
「シロちゃんが横島さんへの想いで悩んでるのと一緒でさ、どれだけ好きになったからって、相手が振り向いてくれるってわけじゃない。こんなに好きなのに、何であなたは振り向かないの――なんて、ストーカーの言い分だしね。それはわかってるのよ、それは、ね。だから、別に学園長が、さよちゃんを女として見られないってのなら――仕方ないって言うしかない」
「左様で、御座るな」
「シロちゃんが落ち込まないでよ。横島さんがシロちゃんに振り向かないなんて、誰も言ってないんだし。シロちゃんに関して言えば、いつもの勢いのまま突っ込んだ方がいいんじゃないかとも思うし。小物入れの中の“例のブツ”でもこう、口にくわえてさ、横島さんに迫ってみたら、案外――」
「十年早いと一蹴された。血の涙を流しておられたので、希望が絶たれたとまでは言わぬが」
「やったのかよ!?」

 シロと和美は、そこで同時に咳払いをする。

「……あんたにとって、さよちゃんは一体何なんだって――そんな単純な問いにさ、色々屁理屈をこねてるのが、あたしには許せない。それって――単純に好きとか嫌いとか言うんじゃなくて、さよちゃんの気持ちそのものを踏みにじる行為だと思うから」
「難しい、とは思う。相坂殿はもともと、学園長先生の“娘”で御座った。その経緯がある以上、そして彼の立場を考えれば――学園長先生が相坂殿の気持ちに、真正面から応える事は難しかろう」
「……」
「しかし、相坂殿の気持ちもまた――彼の気持ちを揺らがせる程に強かった。なればこそ――学園長先生は“逃げ道となる理由”を探してしまったので御座ろうな。無意識のうちに」

 だから、と、シロは言う。

「今お二人は、最後の戦いの中にある。自分という存在の中に於いて、もはや言い訳は用を成さぬ。和美殿も言いたいことは山ほどあろうが――今は黙って、あの二人を見守るで御座るよ」
「ねえ、シロちゃん」

 小さく息を吐き、近右衛門とさよが眠る病室とを隔てる壁に目を遣ったシロに、和美は言った。

「シロちゃんは――どうしてそんなに――すごいのかな」
「言葉の意味がいまいちわからぬが――言葉通りの意味なら、和美殿は拙者を勘違いしておる。拙者もまた、和美殿と何も変わらぬ、十四歳の小娘で御座るよ」
「けどさ――」

 その時彼女が浮かべていた表情は、果たして自分と同じ年頃の少女に出来るものなのか――その問いを、和美は結局口に出すことは出来なかった。




 それは最初、小さな若葉に過ぎなかった。あるのかもわからない太陽に向かって細い幹――いや、今はまだ只の“茎”でしかないそれを必死に伸ばし、ある時に隣にある同じような存在に気がつく。
 そして二つの若葉は一つになり、そしてまた枝分かれをし、次第に一つの樹としての姿を成していく。見上げるほどの巨大な切り株の上には――いまや、そうやって一つの小さな森が出来ようとしていた。やがてその木々は寄り集まり、新しい大樹として、何処までも広がっていくのだろう。
 果たしてそれは、どれほど未来のことになるのか――それはわからないし、想像する必要すらない。この世界にただ二人、意識を持って存在する青年と少女は、この若い木々が、ただの若葉だったころから、ずっとそれを見守ってきたのだから。
 それが五分前の事なのか、五日前のことなのか――はたまた、五年前の事なのか、五百年前の事なのか。それも二人にはわからないし、考える必要もない。ここには、時間という概念が存在しない。それはとても不思議で、よりどころのない不安な世界であり――しかし、お互いの存在を、何よりも感じられる世界だった。

「近衛先生」

 その大木に向かって祈りを捧げる少女が、ふと口を開いた。

「何じゃね」

 彼女に降りかかる恐ろしい爪――影のような化け物を振り払い続ける青年が、応える。そこには致命的な隙が生じる――普通ならば。しかし、隙とは、他のことに意識が向いてしまった時間と言い換えても良い。時間という概念が意味を成さないこの世界に於いて“隙”などはあり得ない。
 そう――青年――近右衛門が、それを“隙”だと認識しない限りは。
 精神の中に精神を置く――まるで謎かけか何かのようなこの世界に於いては、思うことがそのまま自身の有り様に繋がる。しようと思えば何でも出来るし、逆に――まるでスイッチを切るように死に至る事すら出来てしまう。

「ここから出て――私の目が覚めて、先生はどうするんですか?」

 その問いにどのような意味が込められていたのか、すぐには計りかねる。近右衛門は僅かな逡巡の後に、彼女に問い返した。

「君はどうするんじゃね」
「……目が覚めれば五十年後の未来――幽霊“まがい”の存在として、世の中を見てきましたが――まるで夢か何かを見ているみたいに、実感は無かった。まるで浦島太郎みたいですね、私って」
「……」
「そうだなあ……あの頃の友達に会いに行ってみようかな。でも向こうはもう、良いおばあちゃんになってるだろうし、私のことも、もう、覚えてないかも」
「儂はそうは思わんがのう。あの頃の教え子の中に、今でも連絡を取れる者がいくらかはおるが――目が覚めたら、一度話してみるかね?」

 さよは、それには応えなかった。
 かつての友人に、逢いたくないわけではないだろう。けれど、五十年という時間を隔てた今――自分が変わっているだとか、逆に相手が変わっているだとか――そういう表面的な理由を別にしても、何かしら思うところはあるのだろう。
 実際に顔を突き合わせてみれば、その様な不安などは杞憂に過ぎなかったとわかるはず――かつてのさよと、そして彼女の友人であった“少女達”を知る近右衛門はそう思うが、こればかりは、さよの中で気持ちの整理がつくまで待つしかないだろう。

「それに――みやちゃんの、お墓にも参らないと」
「……麻帆良の市営霊園に、儂が墓をつくってある。目が覚めたら案内しよう」
「それに――ねえ、近衛先生?」
「何じゃね」

 少しの沈黙の後で、さよは言った。

「近衛先生の奥さんって――どういう人だったんですか?」

 振りかざした杖で、化け物の腕を弾き――返す刀で、その影の様な漆黒の体を袈裟懸けに切り裂きながら、近右衛門は応えた。

「……儂には出来た連れ合いじゃったよ」
「愛していたんですね」
「……儂は――それがわからんのじゃよ。あれのことは、大事な人間じゃと、そうは思っておった。じゃが――儂は自分の気持ちが、正直わからぬ。あれが愛じゃったのか、傷の舐め合いじゃったのか――はたまた、魔法使いとしての義務感じゃったのか」
「でも」

 さよは、組んだ両手に押しつけるようにしていた顔を上げ――近右衛門の方を振り返る。

「木乃香さんのお母さんが――子供まで生まれていたんですから、全く愛し合って無かったわけじゃないんでしょう? 少なくとも、近衛先生は、義務感とか成り行きとかだけで、そう言うことが出来る人じゃない」
「何故わかる。ひょっとすると儂が、君が幻滅する程の――それ以下の下衆だと言うだけの話かも知れぬ。儂も若い男じゃった。この際歯に衣着せずに言うが――女の体にも、当然興味はあった」
「いいえ、もしそうだったら、あの時の私はもう既に、先生に美味しく頂かれてしまっていたでしょうから――それはそれで望むところでしたけれども」
「相坂君、女に興味があるとは言ったがのう――儂、さすがに娘に手を出す趣味は無いんじゃが」
「しかし事実として、私は先生の娘じゃありませんから。言ってみれば赤の他人、先生とは何の繋がりもない、ただの女の子です。そう言う相手に対して、勝手に娘扱いして、手は出せないなんて――酷すぎます」
「いや、相坂君」

 あまりと言えばあまりな言いように、近右衛門は反論しようとするも――

「酷すぎるくらい――優しい人です、先生は」

 その言葉に、思わず言葉を無くしてしまう。

「なのにどうして――先生は、そんなにも自分を責めるんです? 私とみやちゃんの事が、そうさせるんですか?」
「それは」

 それは、何だというのか。近右衛門は、歯を食いしばる。
 違うと言えば、嘘になる。あれから自分は、以前にも増して“立派な魔法使い”であろうとした。けれどそれは無理だと、すぐに悟ってしまった。だから彼は、せめて自分に出来ることを色々とやってきた。清濁併せ呑むと言えば、聞こえは良いだろうが――誇れない事も、色々とやってきた。
 それが――自分に課せられた責務だと信じて。
 では、その責務を自分に課したのは、一体何だと言うのだろう? 立派な魔法使いであることを己に課したのは、己自身だった。では――彼を“麻帆良学園学園長”たらしめようとしたのは、一体何だったのか?
 それがあの悲劇以外に、何があると言うのだろうか。

「きっと近衛先生のそんなところ――奥さんは、わかってたんだと思いますよ? だから言ったんです。悔しい、って――これが近衛先生に似合わないような嫌な女だったら、まだ単純に嫌う事も出来たのに」
「相坂君――」
「いいんです。それが、近衛先生の性分だから。理屈じゃないんです。そんなところも含めて――とは言いませんけど、“そういうところもある”って事を知った上で、私は先生が好きになったんですから」
「……君も物好きな娘じゃのう。じゃが、オイディプス・コンプレックスと言う言葉を知っておるかね? 娘はある時期に、父親を思い慕うものなのじゃよ。それが精神的成長の、単なる一過程であると気づくこともなく」
「では私の気持ちが、単なる子供のそれであるって、言い切ってください」

 さよの言葉は、揺るがない。近右衛門は、口を閉ざすしかなかった。

「近衛先生――あなたが私に対して、罪悪を感じるしかないと言うのなら――その罪を、償ってください」
「……儂に出来ることならば、何でもしよう。横島君にも言ったが、その誓いに嘘はない」

 絞り出すようなその言葉に――さよは、小さく笑う。

「それは嘘ですね」
「……違う」
「いいえ、絶対に嘘です。先生はまた逃げ出します。償いとは、そういうものではないと、また変わらない言い訳をして」
「違う――違う! 相坂君が儂を怒るのは当然じゃ! じゃが、誓って言う! 儂は――君に対して償いが出来るのならば、何だってする!」
「それじゃ、目が覚めたら――私を抱いてくれますか?」

 小さく舌を出して言った彼女に、近右衛門は口を開けたまま固まってしまう。
 そんな彼の様子を見て――さよは、また、形容しがたい微笑みを浮かべた。

「ほら、困ってる」
「い、いや――じゃが、自分がどういう事を言っているのか、それくらいわからん君ではなかろうに!?」
「それは冗談としても」
「……冗談は選びたまえよ、相坂君」
「別に良いんですよ? 冗談じゃなくても。でも、そう言うわけだから――軽々しく、そんな大層な言葉は吐かない事ですね」

 さよは、組んでいた手をほどき――蘇り掛けた巨木をせに、立ち上がった。

「でもね、そういう願いじゃなくたって、先生は逃げ出しますよ。“立派な魔法使い”として――私に償いがどうこうとか、そう思ってる間は。だって、そう思ってること自体が、既に逃げなんですから」
「……相坂君――儂は、一体どうすれば――」
「ほら、また逃げてる。どうすれば許してもらえるか? そんなことを、何故“考えられる”んですか?」

 近右衛門は、さよの言葉に俯き――拳を握りしめた。
 彼女の言いたいことはよくわかる。その言葉が、自分の心を容赦なく抉る。自分の――嫌なことからはすぐに逃げ出してしまう、この弱い心を。これならいっそのこと、和美のように怒りを剥き出しにして殴りかかってくる方が、余程優しい。
 近右衛門は今更ながらに、自分がどれほどの事を、目の前の少女に対してやってきたのか――そして、ナギに、エヴァンジェリンに、ネギに、横島に、和美に――そして、自分の妻に、自分が何をしてきたかを思い出す。

「……相坂君、儂は――最低じゃ。じゃが、せめて今は――君を守らせてくれるか」
「いいえ、許しません」

 さよは、笑みを浮かべたまま、彼を裁く。

「絶対に逃げずに、私の質問に答えてください。そうしてくれない限り――私は、先生を許しません」
「……何じゃね?」
「もう一度言います。絶対に逃げないでください。自分の立場? 自分の人生? 周りの人間? 立派な魔法使い? そんなことは隅の方へ放っておいて、近衛近右衛門さんとして、私の質問に答えてください。単純に、それのみに。応えは、“はい”か“いいえ”それだけです」

 彼女は小さく、口を開く。

「あなたは――わたしと、みやちゃんを、愛してくれますか?」

 近右衛門は――ややあって、震える唇で言葉を紡ぎ出す。
 その瞬間、世界樹の切り株は、爆発したような光に包まれ――春を思わせる暖かな光が、世界の全てを包み込んだ。










F-2Bについて小一時間程度語りたくなる自分、自重。

次回、「相坂さよ」編、最終回です。



[7033] 麻帆良女子中三年A組・再び、始まりの朝
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/07/31 21:23
 あるところに二人の男が居た。
 彼らは二人とも、とてもとても大事な何かを失った。
 彼らはとても悲しんだ。彼らの心は一度は壊れた。
 一人の男は、壊れてしまったものはまた作り直せば良いと言って、作業に取りかかった。
 もう一人の男は、これ以上何も壊れるものがないように、その周りに頑丈な柵を作った。
 ピエロの格好をした狼と、白兎の装いをした軽業師が、それを眺めていた少年に問うた。
 あなたも、この二人と同じような愚か者なのか、と。




「ネギ君――うち、何や失敗してもうたやろうか――」

 不安そうに自分の顔を覗き込む木乃香の姿に、ネギははたと我に返る。見ればテーブルを挟んで向かいに座る明日菜も、何処か不機嫌そうに――しかし不安を押し込んだような表情で、自分の方を見ていた。
 そして彼女の前に並んだ食器は綺麗に空になり――ネギの前に並ぶ食器には、まだ半分以上の食事が残されたままになっていた。彼は慌てて、木乃香に詫びる。

「ご、ごめんなさい――ちょっと、考え事をしていて」
「そうなん? ご飯の途中に急に固まってまうから――うち、どんな失敗してもうたんやろかって、不安になってもうたわ。砂糖と塩間違えた、とか」
「木乃香がそんな漫画みたいな失敗、するわけないでしょ」

 そう言った明日菜は苦笑しつつ、食器を重ねて立ち上がる。そのまま台所に向かう彼女の背中を目で追ってから、木乃香は再びネギの方に目線を戻す。彼は慌てたように残りの食事を掻き込んでいたが――あの様子では、美味いか不味いかさえもわかっていないだろう。

「ネギ君――こんな事言うてええかどうかわからへんけど――」

 何処か申し訳なさそうに言う木乃香の言葉に、ネギは箸を止める。

「ここのところ、ネギ君――ずっと難しい顔してるような気がするんや」
「……木乃香さん」
「やっぱり、相坂さんの事なん?」

 自分の顔を覗き込むようにこちらを見る木乃香に、ネギは返す言葉を見つけられない。彼女の黒い瞳に映る自分の姿は、酷く弱々しいただの子供のそれだった。

「せやけど相坂さん――横島さんらのお陰で、無事に目が覚めたんやろ?」
「はい――けれど体の方が衰弱しきっているので、復学は二学期からになってしまいますが」
「うん、それは仕方ないやん。それまではみんなでお見舞いに行こう思てるえ」

 そう――犬塚シロが、教室に存在する“幽霊”を見つけた事に端を発する一連の事件は、少なくない動揺を三年A組の少女達にもたらしたものの――無事に終息した筈であった。何故なら、問題の幽霊――相坂さよは、五十年という長い眠りの果てに再び目覚め、暫くすれば改めて、三年A組の一員となれるのだ。
 当然、彼女の影響を受けて体調を崩していた朝倉和美は無事に回復し、当初懸念されていたオカルト業界からの介入も無く――果たして、ネギが頭を悩ませる理由とは、一体何だと言うのか。木乃香には、それがわからない。

「……ううん、ええんよ。ネギ君には、ネギ君の悩みがある。それが人に相談出来んもんやったかて、そんなん、誰にだって一つや二つあるやろ?」
「……木乃香さんにも、そういうものがあるんですか?」
「あるよ」

 その返答は、ネギにとって意外なものであった。当然、いくら平和そうに見えても、木乃香とて年頃の少女。悩みの一つや二つはあるだろう。だが――あっさりとそう言い切ったその姿に、ネギは違和感を覚えた。

「せやから――“気になるから”て、それを問いつめたところで、ネギ君が困るだけ――言うんは、わかるんやけど――ネギ君とエヴァンジェリンさんが喧嘩しとった時、うち、ネギ君のそばにおったのに、何の力にもなれへんかったやろ?」
「それは――それは、木乃香さんが謝る事じゃ」
「せや。それはうちの勝手や。せやけど勝手やから、そう思うんよ。うちは、ネギ君の側におるのに――何も出来へんのやろか、って」

 それは身勝手な優しさで――けれど、ネギはそれを否定したくはなかった。木乃香の気持ちは、涙が出てきそうなほどにありがたい。成り行きで転がり込んだこの場所だというのに、どうしてこの少女は――明日菜も含めてであるが、自分にこうも優しいのだろうか。彼女たちには、彼に優しくする義務など、ありはしないというのに。今までの経緯を考えれば、邪険にされても不思議ではないというのに。
 ネギはしばし迷った後に――小さく、口を開いた。

「何も失わずに誰かを助けるのが難しい状況――そんな過酷な状況は、あると思います」
「……せやね。あんまりそう言う事は、起こって欲しないけどなあ」

 彼の唐突な言葉にも、木乃香は疑問を投げかけない。

「今まで自分が積み上げてきた何かを失って――それでも、誰かを助けたい。そう思うこともあると思うし、それは間違いじゃないと思います」
「せやね。うちは――まだこんな小娘やし、そない深刻な事、考えたことあらへんけど」
「木乃香さん――誰かに手を差し伸べる為に失われたものは、捨てても良かったもの――なんでしょうか?」
「……? ネギ君の言うとることが、うちにはようわからへんよ」

 何かを得ようとすれば、何かを切り捨てなければならないことがある。その上で、何かを切り捨てて何かを得たならば――得た何かに、それだけの価値があったと言うことだ。それは、間違いのない事実だろう。
 けれど――ならば、切り捨てた方の何かに価値がなかったかと言えば、そう言うことでもない。切り捨てた何かにも、価値はあった。けれど得た何かと比べて、どちらが自分にとって重要だったかと、そう言う程度の話でしかない。
 けれど結果だけを見たときに――片方は手に残り、片方は切り捨てられた。
 最後に残るのは、一か零か。必要なのか、必要でないのか――その結果だけ。

「確かに、最後に手に残ったものが、何物にも代え難いものであったとしたら――そんな問いは、無意味かも知れません。だったら切り捨てなければ良かったのか――そんな話にはならないでしょう。あるいは今まで大事だったものを、零――必要ないと切り捨てても、最後にその代え難い何かを残す事が出来るのなら、それは決して悪い事じゃない」

 木乃香には、ネギの語る本質はわからない。ただ漠然と――全てを振り捨てて恋人を救うだとか――そう言った、映画のワンシーンのような壮大な場面が、頭の中に展開される。

「それが――ネギ君の悩みに繋がるん? それが、何か悪い事なん?」
「悩んでたわけじゃありません――その人にとって、何が大切で、何が必要でないものなのか――その選択の基準は、僕にはわからないものだから。たとえば木乃香さんにそう言うものがあったとしても――多分、それを僕に当てはめようとしても、無理だと思うんです」
「うん――せやね」
「……僕は、自分がネギ・スプリングフィールドという人間であり続ける限り、僕が正しいと思うことをします。それしか、僕には出来ません。でも――」

 台所で、小さな物音がしたような気がした。ネギの机の上で、クッションの上に丸くなっていた白いオコジョ――カモの耳が、僅かに動く。

「……考えなきゃ――少なくとも、考えることだけはしないといけない。そう、思ったんです」

 ネギのポケットで、携帯電話が鳴った。普段ならば、食事中に携帯電話を取り出すことを嫌う木乃香であるが、今ばかりは何も言わない。ネギは小さく“失礼”と言って、ポケットから携帯電話を取り出す。
 そのディスプレイに表示されている人物の名前が、ふと、木乃香の目にとまる。

「おじいちゃん」

「近衛近右衛門」の文字が点滅する携帯電話を見て、木乃香は何気なく、そう言った。




 木乃香とネギの会話から、時間を遡る事数日――瞼を開いた近右衛門の目に映ったのは、病院の無機質な天井だった。何度か瞬きを繰り返し、自分がベッドに寝かされているのだと気がついた彼は――そこで、跳ね起きた。
 どうやら彼は、入院患者への付き添い用の、簡素な折りたたみベッドに横たわっていたらしい。彼の隣には、本式の患者用のベッドが据えられており――その上では、痛々しくやせ細った少女が、小さな寝息を立てていた。

「相坂君――」
「お、良いタイミングだったな――意外に早かったッスね? 学園長」

 その声に振り返ってみれば、病室のドアが開き――銀髪の少女に車いすを押されて、一人の青年が部屋の中に入ってくるところだった。

「横島君」

 近右衛門は、彼の名前を呼ぶ。

「儂は――あれからどれだけ時間が経った?」
「正味丸一日とちょっと――って、ところッスかね。今日は学園長がさよちゃんの精神世界に入っていった翌々日――今の時間は午後四時。シロの学校帰りに合わせてこちらに来てみたら、丁度良いタイミングだった――ってところです」

 見れば二人の後ろには、緑色の髪の少女と、赤毛の少年――言わずもがなあげはとネギであるが――それに、麻帆良女子中の制服を着たシロと違い、ラフな私服に身を包み、マスクを付けた一人の少女――朝倉和美の姿があった。

「感覚からすりゃ、もう少し時間が掛かるかと思ってたんですが――その様子だと、どうにかこうにか上手く行ったみたいッスね?」
「横島君――儂は」

 言いかけて、近右衛門はふと奇妙な違和感に気がついた。最初は、長時間眠っていたので、喉の調子がおかしくなっているのだろうと思っていたのだが、どうも様子が違う。つまり――喉から出た声が、いつもの自分の声と違うのだ。
 何気なく喉に手を遣って、はっとした。手に触れた感触は、たるんで皺が寄ったものではなく――張りと弾力を備えている。間違ってもそれは、八十そこらの老人のものではない。
 慌てて喉から手を離し、その両手を眺めてみれば――そこには、たるみも皺もなく、筋肉の張った、若い男の腕があった。信じられない様子で窓ガラスの方を向いてみれば――日が傾いた麻帆良の街が広がる外界とを隔てる、透明なその板には、驚愕の表情を浮かべる若い男の姿が映っていた。
 それはまさに――五十年前の、近右衛門自身の姿だった。

「横島君――これは、一体」
「ま……あんたがありがたがってた“文珠”の力ッスよ」

 疲れたように一つ息を吐き、横島は言った。

「別に気まぐれってわけじゃ無いッスけど。さよちゃんには、まだあんたが必要だ。放っておいたら、年を取った事まで理由にして逃げ出しそうでしたからね、“老い先短い”なんて言い出す前に、ちょいと先手を打たせてもらいました」

 この青年にまで、自分の“逃げ”に対して言及されることに、思うところが無いわけではなかった。しかし、今その様なことは些細な事である。

「しかし――しかし、これは」
「あんたが寝てる間にってのは、和美ちゃんの意趣返しだと思ってください。どうせ起きてるときにこういう話持ちかけたって、あんた首を縦には振らないでしょ?」

 マスクで口元が覆われているのでよくわからないが――憮然とした表情で腕を組み、こちらを見下ろす少女には、近右衛門はもはや何も言うことが出来ない。もう逃げることなど出来ないところまで追いつめられた精神世界での事を、ここで話しても意味はないだろう。
 横島は変わらず近右衛門を睨み付ける和美に一瞬目を遣ってから、言葉を続ける。

「心配しなくても、“吸血鬼か何か”みたいに不老不死、ってわけじゃありません。そいつは一度若返れば、普通に年を取っていくように調整してある。平たく言えば――さよちゃんの為に、人生をやり直せって、そう言う話ッス」
「馬鹿な」

 近右衛門は思わず言った。

「何のために、そんなことをする必要がある。儂とて、相坂君の行く末を見届けぬまま逝くわけにはいかんとは思う。じゃが、こんな事をしては――逆に、相坂君を儂に縛り付けるような事になるやも知れん」
「ま、そうかもしれませんけどね」
「それを決めるのはあんたじゃない。さよちゃんよ」

 大きな瞳を薄く細め――和美が、横島の言葉の後を継いだ。

「言ったでしょ? あんたの性格じゃ、年を取った事まで、逃げの材料にされかねない。それだけは許せないのよ。さよちゃんにあんたは必要ないかも知れない。けど――不本意だけど、もしもさよちゃんが、あんたが必要だってそう言ったら?」
「学園長は良く、自分のことをジジイだジジイだって言ってますけど、そうなったときに、ぶっちゃけジジイだと困るんです。ただそれだけッスよ」

 そのあまりと言えばあまりに身勝手な言葉に、近右衛門は何かを言い返そうとする。しかし――その喉から出てきたのは、かすれたような吐息だけだった。
 ややあって、彼は脱力したように言う。

「……文珠――か、儂の目に狂いは無かったのう。まるで――本当にこれは、神の所行じゃ」
「いや、実のところ、俺は文珠使いッスけど、そこまで器用な事は出来ませんよ。『若』とかって文字を入れて、年寄りを若返らせる事は出来るかも知れませんが、多分それは一時的なモンです」
「ならば、これは?」
「あー……その、九州のね、某学問の神様が、俺と同じ文珠使いで――何かとあのオッサンには貸しがあるもんで。ちょっとばかりその取り立てをやっておこうかと」

 何でもないことのように、横島は後頭部を軽く掻きながら言う。
 つまり――この文珠は、まさに神の所行。人間である横島には無理であっても、本物の“神様”ならば――あるいは難しいことでは無いのかも知れない。
 それにしても――文字通りに奇跡を起こす能力に、現実に存在する“神”、そしてその“神”に貸しがあるなどと、ふざけているとしか思えないことを当然と話す男――

「儂の人生とは、一体何じゃったんじゃろうかの」
「誤解の無きよう言っておきますが、ゴースト・スイーパーの中でも、ヨコシマは特別製ですよ。誰しも、この人と一緒にされたくはないでしょう」
「あげは、お前実は俺のこと嫌いだろ?」
「何を言いますか。大好きですよ? この世の誰よりも愛してます」
「そんなクソ恥ずかしい台詞をよくもまあ……物好きな」

 苦笑を浮かべる横島であったが、彼は気がつかない。彼の後ろで車いすを押す銀髪の少女が、彼とは違う感情を込めた苦笑いを浮かべていた事に。

「こいつの冗談はさておき、学園長。人生の何たるかなんてことは、誰もが一度は考えることですが、出来たらそう言うのは思春期の間に終わらせといてください。哲学者にでもなろうってんなら話は別ですが、今のあんたにゃそんな暇はないッスよ」
「……遠慮が無いのう」
「前も言った気がしますが――この期に及んで、遠慮してもらえるとでも思ってるんですか?」
「まさか。空気が読めんと評判の儂じゃが、そこまでの愚か者になるつもりはない」
「どうでしょうね。その言葉が嘘じゃないなら、和美ちゃんに手痛い一撃喰らうことも無かったでしょうに」

 その一言に、シロとあげは、それにネギの視線が和美に集中する。彼女は軽く横島から目線を逸らし――マスクをしたまま、大げさに一つ咳払いをした。

「さて――あんたの目が覚めたって事は、もうじきさよちゃんも目を覚ますでしょう。あとは、あんたら二人の問題――ああ」

 苦笑を浮かべたままの横島は、小さな――しかし、心なしか穏やかに感じられる寝息を立てるさよに目を遣り、思い出したように言った。

「それで、一つ言っておかなきゃならないことがですね」
「何じゃね?」
「大した事じゃ無いッスよ。あんたはもう、何があろうと“立派な魔法使い”なんてものとしては生きられない。そう言うことです」
「――わかっておるよ。今更どの口で、その様なものを名乗れようか」
「あー……いえ、そう言う意味じゃなくてですね」
「……?」

 横島は、近右衛門から目を逸らしつつ、小さく頬を掻いた。




 そしてそれから数日後、土曜日の朝――ネギが“物思いに耽って”いた丁度そのころ。麻帆良学園都市の郊外は、朝靄の中にあった。まだ肌寒い朝に漂うその霧は、芽吹き始めた新緑の匂いを強く感じることが出来る。始まりの季節――麻帆良を囲む森林は、これから訪れるもっとも激しい季節に向けて、目覚めの時を迎えつつあった。
 そんな麻帆良を囲む丘陵地帯、そこを通る幹線道路――土曜日の朝と言うこともあって、車の通りなどほとんど無いその場所に、霧の中を駆け抜ける人影があった。朝の空気に銀髪をたなびかせる一人の少女――いつもの和服姿ではなく、パーカーにスパッツ、スポーツシューズという動きやすい服装に身を包んだ、犬塚シロである。
 ともすれば、短距離走専門のアスリートに匹敵する速度を保ちつつ、もうかなりの距離を走っているというのに、彼女の息は乱れず、せいぜいが、額に軽く汗が浮いている程度である。
 このペースを、彼女を知らない人間が見れば到底信じることは出来ないだろうが――この程度は彼女にとって、正しく“散歩”も変わらないのだ。
 ふと、そうやって走っていた彼女は、道の脇――“麻帆良市へようこそ”と書かれた看板が立つ、カーブの外側、展望台のように張り出したその場所に、一台の車が駐められている事に気がついた。深紅のボディ、地を這うような凶暴なスタイリング――ランボルギーニ・ガヤルド。彼女の“友人”の車である。

「タマモ」

 果たして、ガードレールにもたれかかるようにして、うっすら朝靄の中に浮かび上がる麻帆良市を見下ろしていた彼女に、シロは声を掛ける。

「朝食の後姿が見えぬと思っていたら、こんなところに居たで御座るか」
「あー、うん、ちょっと腹ごなしにね。あんたも? 流石に走ってここまで来たって言うなら、腹ごなしって程度を越えてる気がするけど」
「何を言う。この程度は正しく“散歩”で御座るよ」
「ま、そーよねえ……事務所から富士山まで、横島引っ張って往復してたあんたならね」

 意地が悪そうにそう言うタマモに、シロは目線を彷徨わせる。そんな彼女の様子を面白そうに見遣り――金髪の美女は、再び眼下に広がる町並みに、視線を戻した。

「……別に心配してたわけじゃないけどさ、元気そうにやってんのね、あんたらは」
「お主らしくもない、可愛げのある言葉では御座らぬか」
「単純に気になっただけよ。ま、結局――住む土地や立場が変わったくらいじゃ、あんたらは変わらないって事なんでしょうけどね。特にあの“永遠の煩悩少年”殿は」
「むう……先生はそんな風に名乗っている割に、妙なところで自制が強いお方で御座る故に、中々手強くて」
「誰もそんなこと聞いて無いわよ」

 腕を組み、顔をしかめ――しかし、僅かに頬を染めて言うシロに、タマモは呆れたような口調で返す。

「変わらないって言えば――あんたらのトラブル体質もね。魔鈴に言われるまでもなく、この街を選んだのは結果としてどうなのかしら?」
「後悔は御座らんよ。拙者らがトラブルに巻き込まれようが、結果として全てが丸く収まるならば――それにこの地が、先生とあげはにとって最も適当であると言うのは、事実で御座るし」
「……」
「タマモ、お主も先ほど、自分で申したでは御座らんか。住む場所が変わった程度で、拙者らという人間は何も変わりはせぬ。何処で暮らし、どのような人たちと出会ったとて――それは、変わらぬよ」
「そうね――そうかも、知れない」

 タオルで額の汗を拭きながら、何でもないことのようにシロは言う。それを見てタマモは、小さく息を吐いた。

「あんたも、成長してんのね」
「……タマモ、何か妙な物でも食べたで御座るか? いや、しかし今朝の朝餉はおキヌ殿と拙者が作ったもので御座るし――そこらに落ちている物は、例え好物とてむやみに拾い食いしてはならんで御座るよ?」
「するか! あんたは私を何だと思ってるのよ」
「何と問われても――油揚げに目がないおかしな狐で御座ろう」
「……いい加減、あんたとは決着を付けておく必要があるのかも知れないわね」
「ほう――良い覚悟で御座るな。されど」

 こめかみをひくつかせ、掲げた片手の上に、青白い炎の塊を浮かび上がらせたタマモに、シロは小さく、不敵な笑みを浮かべてみせる。

「それは今、ここで付ける様な物でも御座るまい」
「……そーね」

 揺らめいていた炎は、最初からそこに存在していなかったように、朝靄の中にかき消える。シロは汗を拭いたタオルを首に掛けると、タマモの方を見ずに、ガードレールの側まで歩き――彼女と同じように、遠くかすむ麻帆良の街を見下ろした。

「タマモ」
「何よ」
「……心遣い、ありがたく頂戴致す」
「……別に。あたしはただ――あんたの知っての通りのグータラ狐だからね。そうそう周囲の変化って奴に、柔軟に対応出来ないのよ」
「なれば心配致すな、拙者ら――」
「わかってる」

 タマモはポケットから煙草の箱を取り出し――しかし、シロの心底嫌そうな目線に気がついて、苦笑しながらそれを戻した。
 彼女は、思い返す。つい先日――目の前の少女の思い人が浮かべていた、あの表情を。




「近衛先生――あれから、もう随分と時間は経ってしまいました。けれど――私たちは何度だってやり直せる。もう――先生を信じても良いですよね?」

 ベッドに横たわったまま、さよは言った。彼女は仰向けのまま――視線だけを近右衛門に向ける。五十年物間、魔法とオカルト技術、それに“現代医学”による治療があったとはいえ、それだけの時間を眠ったまま過ごした彼女の体は、完全にやせ細り、もはや自分の意思では、指先を動かす事すら難しい。
 もっとも、柳井医師の見立てによれば、単に筋肉や体組織の衰弱によるものなので、リハビリを続ければ、ほぼ元の健康体を取り戻すことが出来るらしいが――それはもう少しばかり先の話になる。
 ともかく――彼女の言葉に込められた意味を、そこにいたシロや和美達は、推し量ることが出来ない。それを知るのは――彼女と同じ世界で、永劫に近い刹那の時を共に過ごした、近衛近右衛門ただ一人。
 青年の姿をした老人は、目覚めた少女の手に軽く自分の手を乗せ――小さく頷いた。

「……また、英語の勉強を教えてください」
「ああ」
「また、押しかけてご飯を作らせてください」
「ああ」
「――あの頃と変わらず――私の名前を、呼んでください」
「何度でも――お帰り、相坂君」
「……むー……」
「あの頃と変わらず、じゃよ。教師が特定の生徒をファースト・ネームで呼び捨てにするのは、あまり褒められたものではないのでの」
「ちぇ」

 さよの瞳に、涙が溢れる。気がつけば、近右衛門の横合いから、ハンカチが突きつけられていた。視線を移した先――マスクを付けた少女が、憮然とした表情のままそれを差し出している事に気がついた近右衛門は、苦笑しながらそれを受け取り、さよの顔を拭ってやる。

「先生、私――もう、手加減なんかしませんよ」
「……何に対する手加減なのかここで問うのは――愚問なんじゃろうなあ」

 涙声で言うさよに、近右衛門は小さく目を伏せる。

「当然です。私は――ちゃんと前を向いて生きていかなきゃいけないんです。みやちゃんの、分まで――」
「……」
「――相坂さん」

 さよの口から、その名前が出るのは当然の帰結である。しかし、近右衛門はそれに対して、どのような顔をすればいいのか、もはやわからなかった。そのような自分を情けないと感じたが、だからと言って今の自分にはどうすることも出来ない。
 しかし果たして――意外な人物が口を開き、さよの名前を呼んだ。今まで黙って横島に寄り添って立っていた、黒髪の女性――おキヌである。

「その――“みやちゃん”の事なんですが――」

 さよと近右衛門、そしてネギと和美の視線が、彼女に集中する。
 その時、彼女らは気がつかなかった。あげはとシロ、そしてタマモの視線が、何故か、このタイミングで、重要であるらしい事を言い出したおキヌとは、別のところに向いていた事に。
 それから暫く後――病室には、少女の泣き声だけが響いていた。
 しかしその嗚咽は、悲しみに満ちたものではない。むしろ、それは――




「“近衛美夜”は――“相坂さよ”の子供として転生する可能性が高い――か」

 タマモはその時の事を思い出す。かつてさよを襲った、“みや”――いや、彼女を内包した化け物の攻撃であるが、それはさよの肉体を傷つけた以上に、さよの“魂”に、強烈な衝撃を与えた。
 さよの精神世界で、彼女の生きようとする力を阻害していた化け物、そして、枯死する寸前だった、命の象徴たる世界樹。更には、柳井医師からもたらされた、心霊医学的見地から診断されたと言う、魂の有り様――“霊基構造”の乱れ。
 それらの情報から判断するに、その時彼女が受けた“魂への衝撃”こそが、彼女を五十年という長い眠りにつかせた原因である――そう、氷室キヌは推測した。
 それ自体は悲劇としか言いようのない出来事である。横島のサポートとと、彼女自身の意思によって、奇跡的に意識を取り戻したとは言え、学園長の昔語りを聞いたおキヌ自信、瞳の奥が熱くなるのを堪えられなかった。
 けれど――さよが目覚めた今、希望もまた存在する、と、彼女は言った。
 それが、タマモが呟いた一言である。

 “近衛美夜”は、“相坂小夜”の子供として転生する可能性がある。それも、低くはない確度で。

「……相坂殿の霊基は、その衝撃により変容した。それが相坂殿自身の、無意識の希望だったのか、それとも“みや”殿の強い願いだったのか、それはわからぬが――今の相坂殿の霊基構造は、多分に彼女の影響を受けておる。その影響と変容が、彼女を永い眠りにつかせ、そして――」

 確証は無い。だが――因果律やその他諸々を加味して考えてみた時、その可能性は高い。
 “非常にこの事例に近いケース”に於いては、それこそ神の“お墨付き”を頂いている程に――

「ねえ、シロ――」
「何で御座るか?」
「気まぐれで言うけどさ――時々私、あんたらの事凄いって思うわよ」
「は――何を言い出すかと思えば。伝説の化け狐とは思えぬ言い分ではないか」
「んな伝説、私の知った事かっての。今の私はただの“タマモ”よ」

 タマモの瞳が、何かまぶしい物を見るように細められる。その目線の先で――シロは、変わらず穏やかな表情を浮かべていた。
 あの時、病室で――ただただ涙を流す少女と、彼女の手を取ってうち震える“老人”を見ていた時の白髪の青年と同じような、柔らかくて、暖かな表情を。

「あの時、さ」

 タマモは唐突に言った。彼女の言う“あの時”というのが、この一件の事を指しているのではない――言わずとも、シロにはそれがわかっていた。

「今だから言うけど、私も――横島には、それなりに複雑な乙女心って奴を抱いてるつもりだった。吊り橋効果とか言えばそれまでだけどさ、でも、私の人生は、あいつとおキヌちゃんに拾われたあの時から始まったようなものだもの」
「まったく、口ではどうこう言いつつも、厄介ごとに首を突っ込まねばおられないお方で御座るからな」
「あんたがそれを言う?」
「……拙者だから、敢えて言わせて貰う」
「――でもね、“あの時”ね――あんたを見て、かなわない、って思った。横島を見て――“ついてけない”って、思っちゃった」
「……」

 タマモは、小さく息を吐いて、空を仰ぐ。いつの間にか、少しずつ――麻帆良を覆っていた朝靄は晴れつつある。その向こう側には、春を感じさせる青い空。

「私はあいつのことを、馬鹿でスケベで――とんでもなく優しい奴だって思ってた。でも違った。あいつの“優しさ”が――私には、理解できなかった。あいつは単なる優しい男なんかじゃない。あいつの“優しさ”は――それについて行けない相手を全て、否定する」
「タマモ」
「だから」

 彼女は、何かを言おうとしたシロの言葉を、自分の言葉で遮った。

「私は――あんた達と違う道を歩くことにしたの。だから――美神令子除霊事務所所属、ゴースト・スイーパー“千道タマモ”は――これからも、ゆるーくのんびりと、私の思うままに生きていくの」

 そう言ってから伸びをした金髪の美女は――未だ何かを言いたげな銀髪の少女にむかって、にんまりと、意地の悪そうな微笑みを浮かべて見せた。

「それよりさ、あんたはこんなところで油売ってて良いの?」
「……今日は土曜日で、学校もない故に。先生やあげはも――」
「おキヌちゃんがさ」

 シロの方に向き直り、タマモは言った。

「この際横島に“借り”を返して貰うんだって――随分楽しそうにしてたわよ?」
「う……」

 その一言に、シロの頬が僅かに引きつるが――自分の中で何かの折り合いを付けたらしい彼女は、わざとらしく咳払いをして、タマモに言い返す。

「し……仕方あるまい。おキヌ殿は、この一件の功労者で御座る。彼女のお陰で、相坂殿も和美殿も救われた。その恩を――と、拙者が言う事では無いかも知れぬが、まあ、彼女が言うならば――先生も、拒むことは出来まいし」
「昨日の夜ね、インターネットで、“夜景が綺麗なホテル”って検索してたけど」
「おキヌ殿ぉおおぉおおぉお――ッ!?」

 頭の芯に残るような絶叫の余韻を残して去っていくシロを、彼女はおかしそうに見送った。
 春の匂いの風が、辺りを駆け抜け――いつしか、赤い車の傍らには、妖艶な大人の色気を持つ美女ではなく――あどけない顔立ちをした可憐な少女が立っていた。
 その少女――タマモは、シロが走り去った方を一瞥し――やがて、朝靄が消え去り、透き通った空気の向こうに見える、麻帆良の町並みを見下ろす。
 そして一言、小さく呟いた。

「……みんな――大人になってくんだね」

 その呟きもまた、春の風に吹かれて、青空の中に消えていく。










相坂さよ編、終了。
語り残した部分は、次回よりの閑話にて。

閑話終了後、修学旅行編に入ります!



[7033] 麻帆良学園都市の休日・猫と忍者の後日談
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/08/09 20:26
――ひとつの目的が終わりを告げたと思ったら、次の目的が出来た。
――ひとつの問題が解決したと思ったら、次の問題が現れた。
――これこそがつまり、人生というものなのだろう。




「意外だな」

 麻帆良市中心部にほど近いショッピング・モール。場所柄、休日は学生を中心とした若者で賑わう一角に存在する、その映画館のホールで、長身の青年――藪守ケイは、一人呟いた。
 彼が見つめる先には、一枚のアニメ映画のポスターが貼られている。果たしてそこには、なにやら叫んでいるらしい少年と、稲妻の迸る杖を掲げた、ピンク色の髪の毛の少女が、躍動感たっぷりに描かれている。

「何がでござるか?」

 ジュースのカップを二つ手に持って、彼の方に歩み寄ってきた、こちらもかなりの長身の少女――長瀬楓は、不思議そうに彼の顔を覗き込む。

「楓さんって、こういう映画も見るんだって」
「それは暗に、拙者が“オタク”か何かだと言いたいのでござるか?」
「まさか。単純にイメージと違うなって、そう言う話」
「左様で。ならば拙者のイメージとは、一体どういう物か聞いてもいいでござるかな?」
「ん――映画の好みなんて、外見からイメージするのは間違いなんだろうけどさ。楓さん大人っぽいから、もっとこう――はやりの恋愛映画とか好きそうかなって」
「と言うより、映画全般に好き嫌いはあまり無いでござるよ。それこそ、アニメが特に好き、と言うわけでもござらんし」

 そう言って笑う楓に、ケイは特に何を言うでもなく同意した。
 今日は、彼が麻帆良に滞在する最終日となる。彼の胸には、ここに来てから起こった一連の事件が去来する。やはり何処に行っても自分の“兄”のトラブル体質は変わらないらしい――などと、自分を棚に上げて考えてみたりもするが、改めて思えば色々と考えさせられる数週間であった。
 東京に戻った後、己の雇い主がどういう様子であるのか――それを思えば別の意味で考えさせられる事もあるが、ともかく彼にとって、麻帆良での時間は短い物ではなかった。しかしその時間は、それでもあっという間に過ぎ去った様に感じられる。
 間違っても密度の薄い時間ではなかったからだろうと、ケイは思う。考えればこうして、“シロのクラスメイト”である楓と映画館に来ているなど、何気なく麻帆良を訪れた時の自分は考えもしなかった。

「どうかしたのでござるか?」
「いや、何でも。気まぐれで麻帆良にやって来て――今こうやって楓さんと、当たり前のように遊びに出かけてるのが、何だか不思議な気がしてさ」
「ふふ――そうでござるなあ。けれど拙者、もうずっと前からケイ殿と友達であったような、そんな気がするのでござるよ」
「奇遇だね、僕もだよ」

 そう言って、彼は礼を言いながら、楓からジュースのカップを受け取る。
 ともかく――明日で東京に帰るという彼を、映画に誘ったのは楓の方だった。週が明ければ、自分たちにとっての一大イベント――京都への修学旅行が始まる。そうなってしまえば、満足に別れを告げる暇もないだろうから、と言うのが、一応の理由であった。何を持ってして“一応”と言うのかは、多分楓本人にもわからないのであろうが。

「それでこれ――どういうアニメなの。何かテレビシリーズがどうのとか聞いたけど、それ知らなくても観られる奴なのかな」
「テレビシリーズを観ていなくても楽しめると銘打たれていたので、問題は無いと思うでござるよ。『僕と魔法少女の方程式』――魔法の国から現代の日本に“修行”の為にやって来た少女と、平凡な少年が繰り広げる、笑いあり涙ありのお話でござる」
「……」
「……ケイ殿? どうしたのでござるか そんな変なものを飲み込んだような顔をして」
「え? いや――何でもないよ」

 そう言えば、楓はこの一件に関わってはいるが――明確に“魔法の世界”云々の事情を知っているわけではない。この期に及んでそれを隠す意図もケイの方には無かったが――彼女の口から飛び出した、あまりにも出来すぎた映画のあらすじに、ケイは思わず言葉を濁してしまう。

「拙者のクラスに、漫画やアニメが好きな人間が居て――彼女がただならぬ様子で熱弁していたので、どのようなものかと気になったのでござるが。しかし――考えてみればケイ殿の方こそ良かったのでござるか? 時々忘れそうになるが、ケイ殿はもう高校を卒業しているのでござるし――アニメ映画など、と、言われるのではと」
「何で忘れそうになるのか気になるけど――いや、別に。あげはさんの付き合いで、女の子向けの子供アニメの映画に行ったこともあるしね。それに比べりゃ――ああ、ひょっとしてアレ? 楓さんって、あの映画見に行った時に、何故か親子連れに混ざって真剣に並んでたその――“大きなお友達”ってのか、アニメ映画と聞いて僕がそういう風に思うんじゃないかって気にしてた?」
「興味本位で選んだ後に、多少は」
「だったら、別にそんなこと気にしなくて良いって言っておくよ、僕は――おっと」

 ケイはふと、壁に掛けられたデジタル時計の表示が、映画の開演時刻に迫っている事に気がついて、楓に言った。

「そろそろ中に入ろうか。この分だと結構混みそうだしね」
「そうでござるな」

 そう言って、楓は、ケイの腕に自分のそれを絡める。

「か、楓さん?」
「カップルズデーの割引でチケットを買ったでござるからな。それとも――ケイ殿は、お嫌でござるか?」
「嫌じゃない――嫌じゃ、無いんだけど――僕は、僕はっ!?」
「……だからそーゆーどうでも良いところまで、横島殿に似なくて良いんでござるよ」

 何かに対して苦悩する青年を、楽しそうに――しかし、多少頬を染めながら引っ張る少女。二人に投げかけられる目線が、何かほほえましい物を見るようなものであった事は、とりわけ青年にとっては、知らない方が良い事実であろう。




 有名なアニメ映画の監督を起用し、多額の予算が掛けられたと言うその映画はと言えば、映画に関して“悪食”と言うだけで、とりわけアニメに興味があるというわけではない楓にとっても、満足できるものであった。映像も、ストーリーにも、及第点を与えられる。コレならば自分以上に“アニメ映画”などと言う物にはそぐわない印象を持つ、映画好きの某クラスメイトも、それなりに満足できるのではないだろうか、と、楓は思った。
 ある日突然、平凡な少年の前に、“魔法の国”からやって来たという少女が、突然に現れる。彼女は実は、“魔法の国”のお姫様であり、一人前の魔法使いになるために、人間の世界で修行を積む為にここにやってきたと言うのだ。
 紆余曲折を経て共に暮らすことになった少年と少女の前には、幾多の事件が立ちはだかる。二人は時に協力し、時に対立しながらも、それらの事件を乗り越えていく――と言うのが、このアニメのストーリーであった。
 劇場版と銘打たれたそれは、そんな日常を過ごす二人の前に、“魔法の国”から脱走してきた犯罪者が現れ――そして二人は窮地に立たされる、と言う話であった。

『理解できんな。何故お前はそこまでするのだ? お前は言っていた筈だ。この女は、自分の勝手な物差しに全てを当てはめようとする、身勝手な奴だと』
『そんなこと関係あるか! 目の前で人一人死にかけてて、それが良いとか悪いとか――そう言う事を“考えられる”ほど、こちとら人生の経験値を積んじゃいねえんだよ!』

 舞台は“魔法の国”に移り――人間の世界で奪った武器を使い、魔法の国を攻撃しようとする犯罪者に対して、傷ついたヒロインの代わりに彼を追う主人公は言う。戦闘機の背に乗り、身の丈程もある巨大な剣を構え――まるでファンタジーに登場する、竜に乗った騎士の如くに。
 最新技術を持ってして作られた圧巻の映像と、お約束――敢えて王道と言うべきか――ながらも、しっかりと筋が通り、盛り上げられたストーリーに、思わず楓ものめり込む。

『“あいつ”か“世界”か――二つに一つだ? お前は一体何様のつもりだ? そんなもん、“両方”選ぶに決まってんだろうが――ッ!!』

 ただ――映画の一番の見せ場であろう、この主人公と敵役の一騎打ちのシーンに於いて、何気なく隣に座る青年の顔を伺った楓は、困惑した。彼の目線は、じっとスクリーンに向けられては居たものの――その瞳は、そこに映し出された映画ではない何処かを見つめていたように、彼女には感じられたから。




「ケイ殿――もしかして、この映画はあまりお好みで無かったでござるか?」
「え? 何で? そんなこと無い。面白い映画だったよ? これを機会に今まで話題になったアニメとかも見てみようかって思ったくらい。ほらなんだっけ、ちょっと前のロボットアニメのリメイクとか、未来の警察が活躍するSFアニメとか――」

 映画が終わり、ケイと楓は、同じ建物の中にある喫茶店で一息ついていた。映画館と同じ系列の経営であるらしく、壁には映画のポスターが色々と貼られ、マガジンラックには映画の専門誌が色々と収められている。他の客もまた二人と同じように、自分が観てきた映画のパンフレットを広げながら、その内容について色々談笑しているようだった。

「映画の最中――なにやら、難しい顔をしていたように思うので」
「え? そう? ――そんな顔してたかな。いや、難しい顔って言うか――」

 ケイは、自身で浮かべた表情に気がついていなかったらしく、楓の問いに、申し訳なさそうに首を横に振る。アイスコーヒーの入ったグラスに立てられたストローをくわえ――ややあって、小さく息を吐く。

「映画そのものは面白かったよ。何て言うか、主人公の朴念仁振りには思うところがあるけどさ。最近はやりなのかな、ああいうの」
「――映画のシナリオを作った人間も、ケイ殿にだけはそれを言われたくは無いと思うが」
「何で僕が? いや、ともかくさ――あの映画はあの映画で面白かった。主人公はヒロインを助けて悪者を倒して、それでめでたしめでたし――僕は時代劇とかも結構好きだからね、ああいうわかりやすい勧善懲悪は嫌いじゃない」

 広げたパンフレットに描かれた、可愛らしいヒロインの顔に指を置いて、彼は苦笑する。物語のクライマックスで、彼女は言った。“私たちは、ずっと一緒ですよね?”と。

「“魔法の国”から修行に来てるのに、ずっと一緒にいるのはまずくないかとか、細かいつっこみどころもあるけど、そんなのはどの映画だって一緒だよ。映画が終わって感想を一言で表せって言われたら――“とてもおもしろかった”って事になるんだと思う」
「ケイ殿、それでは無理矢理書かされた読書感想文でござるよ」

 苦笑しながら言う楓に、ケイは自分には文才など無いから、と言って手を振ってみせる。

「ただね――現実の世界で、“良いことは良い”“悪いことは駄目”って――ハッキリ割り切れる事って、驚くほど難しいと思うんだ。悪いとわかってても我慢しなきゃならないことはある。良いとわかってても切り捨てなきゃならないことはある。ましてや、“良い”とか“悪い”とかって二択の外にある問題は、どうすればいい?」

 ああ、と、彼は首を横に振った。

「ああいう映画を観て思う事じゃないってのは、わかってるんだけどね」
「……相坂殿の一件――で、ござるか?」
「……」
「拙者は門外漢故に、よくわからぬが――相坂殿は長い眠りから目覚めたのでござろう?」
「楓さんは、今度の事件の事、どれくらいわかってる?」

 ケイの問いに、楓は口元に手を当てて考える。わざとやっているわけではないだろうが、その使い古された思考のポーズは、長身でスタイルの良い彼女にはよく似合っていた。

「学園長先生は、昔ゴースト・スイーパーのような事をやっていて――その時オカルトがらみの犯罪が、麻帆良で起きた。当時の麻帆良の教師幾人かと共に、学園長先生が保護した子供も犠牲となり、相坂殿も――」

 もしかすると誰かが、事の真相を楓に伝えたのではなかろうかと思っていたが、どうやらそう言うことは無いらしい。楓は、ネギや近右衛門が“魔法使い”であることを、エヴァンジェリンの一件を通して既に知っている。しかし彼女の思う“魔法使い”とは、言ってみればゴースト・スイーパーの同類――“現代の魔女”魔鈴めぐみと同じ、“魔法という名のオカルト技術を使う人間”でしかない。
 魔法の世界の事や、魔法使いの事情や、その思惑と言った裏の事情の事は、理解していない。もし理解した上で、今日誘った映画の内容がこれならば、彼女はケイにとびきりの皮肉を突きつけている事になるだろうから、それはないと彼も思ってはいたが。

「拙者、いまいち理解できないのでござるが――一言で言えば、事はハッピー・エンドに収まったのでござろうか? そう――殺された子供――“美夜”殿でござったか。彼女が相坂殿の子供に転生すると――その辺りの事も、拙者はよくわからぬが」
「ああ……あれね。僕もそっちの方面に詳しい訳じゃないんだけど――」

 ケイはパンフレットを閉じて、脇に置いた。

「おキヌさんが、大学で心霊学を専攻してて、つまりはその受け売りだけど――人間は死ぬと、魂だけの存在になってあの世に行く。それで、また自分に適した“魂の器”を持つ人間がこの世に生まれると、その人間に生まれ変わって、また新たな人生を歩み始める」
「イメージは出来るのでござるが――しかし矛盾してはいないでござるか? 良く言うではござらんか、人口問題がどうだとか、中国やアフリカで問題になっているという――何でござるかその目は。ケイ殿まで、拙者が“馬鹿ブルー”だとでも言いたげな」
「い、いや、別に――そういうわけじゃ。ともかく」

 楓の視線に、わざとらしく咳払いをして、長身の青年は続けた。

「魂がそもそも、何処から生まれて何処に向かうのか――今の時点ではわかってないらしいんだ。だから世界の人口が増えてるとか減ってるとかは、この際どうでも良い」
「ふむ」

 楓は小さく頷いて、カップを傾ける。テーブルマナーなどとは無縁の彼女ではあるが、容姿が容姿だけに、大人しくしていればその仕草はそれなりに絵になる。

「ともかく――魂は、“霊基構造”って言う物を基本に出来てる。早い話が、魂の遺伝子みたいなもんだよ。“美夜”ちゃんにやられたときに、理由はわからないけど、相坂さんの“霊基構造”は、彼女に強い影響を受けた。そしてこの霊基構造は、基本的に親から子供に遺伝する。重ね重ね、難しい理屈は僕にはわかんないけど――」
「ふむ。その“れいきこうぞう”とやらに影響を受けた相坂殿には、“みや”殿の魂に合う子供が出来やすいと、そう言うことでござるな?」
「乱暴に言えばね。それに――世の中には因果律ってものがあってさ。こっちも僕にはよくわかんないけど、近場では運が良いとか悪いとか、大げさには歴史は繰り返すとか世界の辿る道筋だとか――そういう奴」
「予言とかそう言う奴でござるか? この間、テレビでやっていたでござる。数年後に、地球はフォトンベルトに突入して、少なからぬ影響を受けると」
「あ、僕も観たよ。宇宙科学の専門家が、フォトンベルトって言葉を今日初めて聞いたって言った時には、思わず吹き出しそうになったけど」

 それはともかく、と、ケイはグラスの中に残っていたコーヒーに口を付ける。

「つまり――相坂さんと美夜ちゃんは、分かちがたい縁で結ばれた――そういうこと」
「……それが先の――ええと、“霊基構造”云々に加わって、その子が相坂殿の子供として生まれ変わる可能性が高いと――その話は、ほんとうでござるか?」
「少なくとも、嘘じゃない。色々と事情は違うけれど、似たようなケースでは、神様のお墨付きまで貰ってる」
「……」

 流石にその一言には、楓の動きが止まる。霊能力、魂、魔法使い――どれも、日常生活を送る上では、縁が無いを通り越す言葉である。空想の世界では、あるいは耳慣れた言葉ではある。しかしそうであるが故に、その言葉を日常に当てはめようとすると、それは酷く胡散臭いものとなる。
 しかしそこまでは、まあいい。オカルトは胡散臭い、だが、だからこそゴースト・スイーパーという職業は職業になるとも言えるのだ。楓自身の扱う“特殊な技術”もまた、特別な物として伝えられてきた。魔法のことは彼女にはよくわからないが、多分同じようなものだろう。
 とはいえ、果たしてそこに神様だの生まれ変わりだの因果律だの――流石にそれは、彼女の理解の範疇を超えた領域に存在している。

「ともかく――だから、僕は別に考え事をしてたって程じゃないんだ」
「何となくわかったでござるよ。ケイ殿は――世話好きなのでござるな」

 テーブルの上に置かれたパンフレットを、楓は何気なく見遣る。
 少なくともさよには、僅かばかりの救いが用意されていた。けれどそれを持ってして、この事件が一件落着であるとか、ハッピーエンドであるとか――そう言うことは、間違っても言えそうにない。成る程世の中とは、映画のように簡単にはいかないだろう。
 しかしその様な事は、誰にでも言えることであって。むろんそれは、ケイにも、楓にも。ただ――あの純粋な少年に関して言えば、“そういうこともある”で済ませられる事か否か。それくらいのことは、“馬鹿ブルー”なるありがたくない渾名を頂く羽目になった彼女にも想像できる。
 ケイがネギを――そして近右衛門やさよ自身を案じているのか、それとも彼らを通して別の誰かを見ているのか、それは現時点では楓にはわからないことである。ただ一つわかることと言えば、この一件を通して、彼は簡単には割り切れない何かを考えさせられたのだろう、その事実のみ。

「その言葉にしても、考え事をしていなかったのではなく――自分が考えても、それが意味のある行為ではない――そう思っているのではござらんか?」
「……楓さん――少なくとも、僕が中学生の頃は、君みたいに頭の良い子じゃなかったな。いや――ひょっとすると今も」
「……真名の言葉を借りる訳ではござらんが――“頭が良い”などと言われたのは、生まれてこの方初めてでござる」
「馬鹿言っちゃって。そりゃ学校の成績はどうだか知らないけど――頭の“良さ”って、そういうもんじゃないだろう?」

 ケイはそう言って苦笑した。

「……コレが映画なら、出来の悪いストーリーだと、僕は思う」

 彼はややあって、そう言った。まだ、全てはやり直されたばかり。やり直した結果上手く行くかはわからない。やり直した事自体が間違いかも知れないし、失われたまま二度と戻らないものもある。
 これが物語の幕引きなら、あまりに出来は良くない。“空に笑顔”だとか“戦いは続く”だとかの方が余程マシだと、ケイは言った。

「“運命の女神様の次回作にご期待ください”――ってね。でも――人生は映画みたいに出来たものじゃない。先がどうなるかはわからないし、生きることにそういう事を考える意味なんて必要ないのかも知れない」
「拙者には、難しい事は良くわからないでござる」
「僕にもだよ」

 ただ――と、ケイは言う。

「“作家・運命の女神様”の性格はきっと――最高か最低のどっちかだろうね」

 パンフレットの中で笑う少年と少女の絵を見下ろして、彼はそう言った。




 楽しい時間は、過ぎるのも早い物。映画館を後にした二人は、楓が修学旅行に持って行くための細々とした物を選んだり、あるいは何と無しにウィンドウ・ショッピングを楽しんだりしていた。しかしはたと気がつけば、長くなり始めたとは言え、春の太陽は既に、西の空を赤く染め上げていた。
 時計の針は夜と言うには未だ早い時間を指してはいたが、日曜を挟んで、週が明ければすぐに修学旅行が待っている楓を、あまり長く引き留める事はしない方が良い。若干不満そうな楓に、ケイはそう言って手を振って見せた。

「拙者、体力には自信があるでござる。例え夜通し遊んだ後に修学旅行が待ちかまえていようが、その程度がどうしたというのか」
「ふうん」

 そんな楓の言葉に、ケイは腕を組み――不敵な笑みを浮かべてみせる。

「何でござるか?」
「いや、何。楓さんは、修学旅行ってものを甘く見てると思ってさ」
「甘く見ている――で、ござるか?」
「旅行の行き先は京都――三泊四日の市内観光だっけ? それも三日目と四日目は自由行動で、班単位ではあるけれど、好きなところに行って好きなことをしていい――と」
「左様」
「楓さん」

 ぽん、と、楓の肩にケイの手が載せられる。

「知らない街でね、悔いを残さずに遊ぶのって――存外に難しいんだよ? リベンジ旅行とかって、聞いたこと無い? ましてや修学旅行。観光だけじゃない。これが普通の旅行なら、旅館で一日の疲れを流せば、また次の日にリフレッシュ出来る。けど、事は“修学旅行”なんだよ? 君らにそんな余裕が与えられていると、本気で思ってる?」
「あ、あの――ケイ殿?」
「夜の旅館――それは、生徒達の好奇心と期待と若さが渦巻く混沌の世界だ。教師の監視の目をかいくぐり、ともすれば明け方まで続く混沌の夜遊び――いくら君でも、出かける前から消耗していれば、そんな戦場を戦い抜ける筈はない」

 彼女の肩に載せられていない方の彼の手が、強く握りしめられるのを見て――彼は年長者として、なにやら自分の知らない世界を知っているのだろうと、楓は思う。彼女が経験した修学旅行と言えば、未だ小学校のそれだけであって。子供時分の旅行など、どれだけはしゃいでいても、夜は疲れからあっという間に眠りに落ちてしまう。

「ううむ――修学旅行とは、厳しい物なのでござるな」
「その通り。あとは、まあ――モテる奴にはロマンスがあったりするんだけど――ね……」
「……ええと――確か、真友殿とか言う」
「僕にはそんな名前の友達は居ない。居ないんだよ、楓さん」
「……毎度毎度、ケイ殿は全く――うちは女子校でござるからなあ、ロマンスを期待するのはちと無理があろうが」

 夕日に照らされて、彼の影が長く伸びる。何もかもがあかね色に染め上げられていく時間の中で――この青年に、もう少し期待をするのは、自分が間違っているのだろうか? 麻帆良を染め上げる美しい夕焼けを睨み、拳を握りしめるケイに、楓は小さくため息をつく。

「ケイ殿」
「ん? 何?」
「また――麻帆良に遊びに来てくれるでござるか?」
「そりゃ、もちろん」

 楓は、腰の後ろに手を組み、ケイの顔を見上げる。自分でもみっともないことを喚いたと言う自覚はあるのか、多少気恥ずかしそうな顔をしてはいるものの――おそらく自分の言葉の意味は、彼には伝わっていないのだろう。
 彼は楓の事を“友人”と言った。ならば、遊びに来るのもまた当然――もちろんそれはそうなのだが、本質的にまた、彼と会って、同じ時間を過ごしたい――そう思う、この形容しがたい気持ちは、おそらく今の彼には届かない。

「楓さん」
「何でござるか?」
「修学旅行――思いっきり楽しみなよ?」
「藪から棒に――一体どうしたんでござるか?」
「いや、何――」

 頬の辺りを人差し指で掻きながら、ケイは言う。

「楓さんは優しいから――何というかね。今のネギ君達の事が気にならないと言えば、嘘になる。けどね――あの子らもきっと、そんなに弱くない。あの子らを気に掛けるのは悪い事じゃないけど、それに気を取られて、楓さん自身が楽しめないってのは、良くないからさ」
「……」

 全く、この人は、もう――楓は、夕日に照らされた彼の顔を見て、ため息をつきそうになるのを必死で我慢する。そんなことは、言われなくてもわかっている。あの少年も、そして自分の知る少女達も――本質的に、そんなに弱くはない。それは彼らを見ていれば、すぐにわかることだ。
 つまりケイの言わんとするところは――

「見くびらないでほしいでござるよ。拙者もまた――“あの”三年A組の一員。その拙者に向かって、今更“楽しめ”などとは」
「ごめん――愚問だったね。土産話、期待してるよ」
「結構」

 楓は満足げに頷く。
 さて、と、ケイは振り返り――右手を軽く挙げて、拝むような仕草を取る。

「……ちょっとトイレ行ってきて良い?」
「……生理現象を我慢しろとは言わぬが――出来ればもう少しタイミングを計って欲しかったでござるな」




 ケイが近くのコンビニにトイレを借りに行き――楓は何気なく、麻帆良の丘陵に消えていく夕日を眺めていたが、軽快な電子音に気がついて、振り返る。見れば、先ほど腰掛けていたベンチの上に、ケイのウエストポーチが置き去りにされていた。彼は日常の移動にバイクを多用する為、普段からライディング用のポーチに小物を入れて持ち歩いている。今鳴っているのはつまり、彼の携帯電話だろう。
 何となく悪いとは思ったのだが――鳴り続ける着信音に、楓は心の中で彼に謝り、ポーチから携帯電話を取り出す。
 見れば液晶画面には「母・携帯」の文字が明滅していた。

「……ケイ殿の、御母上?」

 楓は暫くそれを見つめていたが、ややあって、楓は通話ボタンを押した。

『あ、ケイ? 確かあなた、今日帰ってくるのよね? ちょっと聞きたいんだけど、晩ご飯は――』

 受話器から響くのは、澄んだ女性の声。彼の母親というのは、まだかなり若いのだろうか? 少なくともその声からは、そう言う印象を受ける。

『もしもし? ケイ? 聞こえてる? おーい』

 彼女は暫く躊躇ったが――やがて、小さく咳払いをして、言った。

「もしもし」
『――え? あの――えっ? あの、どなたかしら? これ――ケイの携帯の筈よね? あらやだ、間違えちゃったのかしら――』
「いえ、間違えてはいません。せっし……わ、私、長瀬楓と申します。藪守さんとは――」

 もっと大変かと思っていたが、案外とすんなり、喉の奥から言葉が出てくる。その事実に気がついた楓の口元に――小さな笑みが浮かんだ。




 ――時間は移り、夜――東京某所。マンションの駐輪場にバイクを押し込んだケイは、疲れた様子でヘルメットを脱いだ。心地の良い疲労感と、出来れば勘弁して欲しい類の疲労感――その二つが、ない交ぜになっている。
 楓と別れの挨拶を交わしたケイは、その足で美神事務所へと向かった。果たして今回の一件に、戦闘機までかり出した己の上司が、いかなる言葉を彼に投げかけるのか――内心戦々恐々の彼であったが、幸いにも今に関して言えば、その不安は杞憂に終わる。
 事務所には彼の上司であり、事務所の主である“日本屈指のゴースト・スイーパー”美神令子の姿はなく、代わりに彼女の母親が、年の離れた彼女の妹――つまりは美神家次女と共に、お茶を楽しんでいた。
 聞けば美神令子はと言えば、飲み過ぎが祟って、今日はまともに動き出せていないらしい。いい加減に自分の歳を考えろと言う、彼女の母親に対して、言いたいことが無いわけではなかったが――当然、ケイにそれを口にする度胸はない。昨晩でっち上げた報告書を令子のデスクの上に放り投げて、彼は早々に事務所を後にした。
 とはいえ、埼玉の麻帆良を夕方過ぎに出発し――都心の事務所を経由していれば、彼がこの自宅マンションにたどり着いたのは、既に深夜と言える時間帯の一歩手前、と言ったところであった。

「ただいま」

 ケイは小さくそう言って、自宅のドアをくぐる。
 とりあえず腹に何か入れたいところではあった。帰りが遅くなるのはわかっていたから、とりあえず同居する母親には、炊飯だけしておいて欲しいと告げて居たのだが――ドアをくぐってすぐに鼻腔をくすぐった匂いに、彼は違和感を感じる。

「あら、ケイ――お帰りなさい」

 ダイニングに向かってみれば――彼の母親、藪守美衣は、妙に上機嫌な様子で、テーブルの上に皿を並べている最中だった。ケイはもう一度時計を確認する。やはり、かなり時間は遅い。

「母さん――遅くなるから、メシ炊いてるくらいで後は適当にって、言わなかったっけ?」
「いいじゃないの。ほら――今日はケイの好きなものを揃えてみたわよ?」
「……」

 夫を早くに亡くしている彼女は、息子のケイに少々甘いところがある。ケイとしては時折それを鬱陶しく思いながらも、基本的には彼女の気持ちをありがたく受け取ってきた。図らずも遊びに行った先で一仕事を済ませてきた息子に対しての労い――と言えば、それまでなのだが――
 ケイはそんな母親の様子を訝しみながらも、とりあえず上着を脱いで椅子に座る。それを見計らって茶碗に盛られたのが、湯気の立つ赤飯であった段になって、彼は我慢できずに母親に問うた。

「どうしたの母さん。今日は何か良いことでもあったの? 宝くじでも当たったとか――」

 とりあえず、サーバーからグラスに烏龍茶を注ぎ、何故自分がこんな思いをしているのかと言う葛藤に耐えつつ、とりあえず喉を潤そうとグラスを傾け――

「ねえ、ケイ――あの子――楓ちゃんだったかしら? 今度うちに連れていらっしゃい」
「ぶはあっ!?」

 盛大に、吹き出した。
 藪守家の夜は、まだ、長い。










閑話その一。

次回は横島君達にスポットが当たる予定です。



[7033] 麻帆良学園都市の休日・少女達の談笑
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/08/16 19:54
――ならば、あなたにとっての目的とは何だろう。
――目的とは、与えられる物なのか。
――それとも目的とは、自分から見つける物なのか。
――それを考えることもまた人生――そう思うのは、ただの逃避なのだろうか。




「お待たせ致して申し訳ない」
「あ、いえ――まだ待ち合わせには時間がありますから。しかし――」

 街角のベンチに腰掛け、手持ちぶさたに携帯電話をいじっていた金髪の少女――雪広あやかは、唐突に掛けられた声に顔を上げ――思わず、動きを止めてしまう。彼女に声を掛けた相手の方は、そんな彼女の仕草に対して、怪訝な顔をする。

「如何なされた?」
「いえ――何というか、いつものイメージと全く違う物で……」
「ああ――和服というものは、あまり距離を歩くには向かぬ故。それに買い物が目的となれば、町中を歩き回るのには、動きやすい格好が宜しかろうと」
「それはそうなんですが」

 あやか自身、良家の子女として、茶道や華道を嗜んだ事はある。その時に着せられた和服がどういうものかと言うことはわかっている。むろん、一口に和服と言っても色々あるが、目の前の少女が普段着にしているような女性らしいそれは、町中を歩くには向かないだろう。
 だが、彼女――今の犬塚シロの格好を見れば、普段の彼女を知るたいていの人間が驚くだろう。しなやかな体のラインがはっきりわかるタイトなTシャツに、黒いデニムのジャケットを重ね着して、下半身はジーパン。それも、左脚部分が足の付け根辺りでばっさり切り落とされていて、つまり彼女の細く長い左脚は、完全に剥き出しである。
 活動的だとか開放的だとか言い換える事も出来るが、それに加えて妙な色気さえ感じるその格好に、あやかは同性相手だというのに、僅かに頬を染めてしまう。努めて視線を外さなければ、彼女の剥き出しの左脚に視線が行ってしまいそうなのが、何だか恐ろしい。

「……あー……久しぶりに引っ張り出しては見たが、やはり似合っておらぬで御座ろうか。動きやすい格好にも限度があると――」
「いえ、似合っていますよ? 似合ってはいるんですが――やはり普段とのギャップが激しすぎて。それにそのジーパンは――何というか、目のやり場に困りますわ」

 あやかの指摘に、シロは乾いた笑いを浮かべるしかない。かつてはこれが、自分のトレードマークとも言える格好だったのだ――とは、彼女には言わない方が良いだろうか、などと、詮ない事を考える。

「うわ?! シロちゃん何そのカッコ! 生足がまぶしい! てか、エロい!」
「あなたは出てくるなり何を言うんですか!?」

 結局あやかとシロの間に交わされた微妙な遠慮は、遅れてやってきた和美が言った、あまりと言えばあまりに遠慮のない一言に、吹き散らされる事になる。




 修学旅行への出発を翌週に控えた土曜日――少女達が埼玉県の片隅に存在する麻帆良市を飛び出して、東京近郊まで脚を伸ばしたのもまた、来るべき修学旅行に備えての事だった。目的が決まった三泊四日程度の小旅行とは言え、そこは年頃の少女達のこと。彼女たちに言わせれば、色々と“準備”が必要なのである。

「そう言えば明日菜は?」

 ひとしきり盛り上がった後で、何事もなかったかのように和美が言う。あやかもシロも、彼女には言いたいことが無いでは無かったが、往来で恥ずかしい騒ぎはもう御免だとばかりに、それを飲み込む。この段に至って、シロは羽織っていたジャケットを腰に巻いていた。
 本来ならば、この場所には彼女ら三人の他にもう一人、来るべき修学旅行に備えての“しおり”を作成したメンバーの一人である、神楽坂明日菜が居る筈であった。しかし待ち合わせの時間を過ぎて尚、彼女の姿は見あたらない。

「ああ――待ち合わせの最中にメールが来ましたよ。ネギ先生に何か用事があって――どうにも様子が危なっかしいので、近衛さんと一緒に付き添う、と」
「そっか……んで、とりあえず落ち着け委員長。携帯電話ってのは精密機器なんだから」

 あやかは何でもないように告げた物の――彼女の手の中で、携帯電話が軋んだ音を立てたのに気がついて、和美はため息混じりに彼女を窘めた。

「仕方ないでしょ。ここ一週間、ネギ先生はああいう調子で――多分言い出したのは木乃香でしょ」

 和美の目線が――あやかが気づかない程に僅かに、シロに向けられる。
 ここ一週間という物の、彼女らの担任、ネギ・スプリングフィールドには、あまり元気がなかった。とはいえ、以前、エヴァンジェリンと対立していた時のように、あからさまに何かに怯えたり、意気消沈したりと――そう言う様子ではない。
 ただ行動の端々に、形容しがたい疲れのような物が感じられるのだ。仕事で単純なミスを繰り返して、学年主任である新田教諭に注意されているところを見た、という生徒もいる。
 もとより彼は、まだ十歳の少年である。
 知識の面では申し分ない。表向き、イギリスの名門、オックスフォード大学を飛び級で卒業したことになっていて――その経歴は用意された物であるにせよ――日本語という、世界でも類を見ない言語体系を持つ難しい言語を、僅か三週間で完璧に覚えたと言う事実は、彼にそれだけの、勉学に対する吸収力があるという事を証明している。
 さりとて、まだ十歳の少年。いくら頭が良くても、彼は精神的には、“少年”という範疇から、それほど足を踏み出しては居ない。
 特異な生い立ちや、その後歩んできた道筋から、時には大人顔負けの信念を見せつける事もあるが――しかし、どれだけの天才少年だろうが、一個の完成された人格を作り上げる、と言うのは、当然簡単な事ではない。果たしてそれも、それは才能によって作り上げられるのではなく、彼自身が、自分だけが歩く道程を確かめながら、経験を重ねて作り上げるしかないのだから。
 従って――と言うわけではないが、彼の感情の起伏の激しさは、ある程度周囲に“仕方のないこと”として黙認されている。当然教師としての最低限の役割を果たして貰うために、先に述べたように、新田教諭を筆頭とするベテラン教師陣が全力でサポートをする、という但し書きがついた上ではあるが。
 つまり彼がまた“ネギ病”を発症したので、仕方なくその“看病”に当たる。
 明日菜はそういう理由で、彼女たちとの約束をキャンセルした。
 彼女も、そしてルームメイトの木乃香も、口では何だかんだと言いつつも、世話好きな優しい性格である。でなければ“何故か”住むところが見つからなかったと言うネギを、今日まで同じ部屋に住まわせたりはしないだろう。
 そう、口ではどうこう言いつつ、明日菜は今まで、たびたび“ネギ病”を発症する彼に対して、いろいろと良くやってきた。
 ただ――今回のそれは、少し違う。
 明日菜が、と言うのでは無く――ネギが、と言うのでもなく。それを“いつものこと”として見ていた、和美が。
 彼女は、ネギが落ち込み加減である理由を推測できる。それだけの真実を、彼女は知ってしまったから。

「ネギ先生は大丈夫でしょうか? 来週から修学旅行だというのに――ああもう、明日菜さんがもう少し早く教えてくれたら、私も心からネギ先生を慰めてあげられましたのに!」
「まあまあ――あやか殿の気持ちは、ネギ先生もありがたかろうが――こういう時には、かえってそっとしておいた方が良いこともある。その辺りのさじ加減は、そばにいる木乃香殿や明日菜殿が察してくれよう」

 再び携帯電話を握りつぶしかけたあやかの肩を、シロが軽く叩く。

「つまり今の拙者らがすべきことと言えば――しっかりと修学旅行の準備を整え、旅行に当たって、ネギ先生に余計な負担を増やさぬようにする事で御座る」
「平たく言えば、とりあえず私らは私らの買い物を楽しもうって事ね」

 和美の気楽そうな言い方に、あやかとしては言いたいことが無いわけでもない。しかし――確かに、自分たちが、麻帆良から遠く離れたこの場所で、じっと気を揉んでいても、ネギにとって助けになるはずもない。彼のことだ。“自分の生徒”がその様に気を揉んでいると知れば、それを原因にまた落ち込みかねない。
あやかにとっては、完全に割り切れるわけではないが――

「まあ……ネギ先生の余計な負担にならないように、と言う点だけは、納得できます」
「ネギ先生もねえ、底抜けにいい子なのは間違いないんだけどさ――いい子過ぎて神経細いんだよね。もっとこう――横島さんくらいはっちゃけてもいいんじゃない?」
「……あの人も大概“いい人”なのは間違いありませんが――出来ればネギ先生には、ああ言う風にはなって欲しくはありませんわね」

 和美の言葉に、あやかは肩をすくめ、ため息をつく。
 彼女が横島の名前を出したことに、深い意味は無かったのだろう。先にシロに送られた視線にしても――一般人のあやかには話すことの出来ない“秘密”を知ってしまった、その言葉に出来ない感情を、彼女に伝えたかっただけだろう。
 しかし、この時犬塚シロは、和美の口から彼の名前が出たときに――自分の心の奥底に、小さな淀みのようなものが生まれ出たのを、確かに感じていた。
 そして、彼女はそれに気がつかなかった振りをした。

「――横島先生」
「ん? シロちゃん、何か言った?」
「いえ、何も――さて、いつまでも道の真ん中に突っ立っていると言うわけでも御座るまい。最初は何処に行くで御座るかな?」




「……ある意味つまんないわね」
「突然何を言い出すんだ貴様は」

 とある雑貨屋の一角で、小さめの鞄が並ぶ棚を覗き込んでいた金髪の少女に、彼女の背後に立っていた女性が投げかけた言葉に、彼女は怪訝そうな顔で振り向いた。

「だってエヴァちゃん、正真正銘、昔はお姫様みたいなものだったんでしょう? おまけに今は吸血鬼で、その性格だしさ。初めての“修学旅行”ってイベントに関して、どんな突拍子も無いこと言い出すんだろう、って、内心少し期待してたんだけど」
「……前々から思っていたが、貴様本当に私の事を友人と思っているか?」
「あ、この鞄可愛いかも。ちょっと掛けてみなよ、エヴァちゃん」

 自分を玩具か何かと勘違いしているような言葉に、引きつった笑みを浮かべて友人を睨んで見るも――彼女は涼しい顔で、陳列されている鞄の一つを手に取った。日本で言うところの柳に風というのは、こういう事を言うのだろうと、少女――エヴァンジェリンは思う。
 かつて魔法使いの世界で恐れられた賞金首であった彼女であるが、実のところ、彼女が犯したと言うその罪のほとんどは、今で言うところの正当防衛である。つまりは中世ヨーロッパで、キリスト教徒でないこと自体が罪になるような時代である。“吸血鬼”など、存在そのものが神に唾棄するようなものであって。
 それでも彼女が自ら“悪の魔法使い”を名乗るには――彼女なりに思うところがあるのだろう。それは、まるで子供のような彼女の容姿を見れば、何となくわかる。
 ともかく、そんな彼女が麻帆良学園都市に封じられて十五年――その長い時間の果てに、ようやく彼女の時間は動き出した。彼女に掛けられていた改竄された“呪い”は元に戻され、休日にはこうして外出も出来るし、果たして修学旅行にだって行くことが出来る。
 つまりこの日彼女は、かつて友人だった“少女”と共に、修学旅行の準備のため、麻帆良から脚を伸ばしていたのだった。
 彼女の“魔法使いの従者”であり、下僕でもある絡繰茶々丸が、麻帆良にて留守を預かっている事が、彼女の心中を物語っている。もっとも、エヴァンジェリンは別に茶々丸の事が疎ましいわけではないのだが――電子の魂を持つあの少女は、あまりにも自分に対して忠実すぎる。
 と――こんな事を考えてしまう自体、自分は変わったのだろうと、エヴァンジェリンは思わなくもないが。

「この鞄なんかはどうだ?」
「可愛いけど、あんまり物が入りそうにないわね。まあ、自由行動の小物入れ程度なら問題は――」
「え? あれ? ひょっとしてエヴァンジェリンさん?」

 唐突に投げかけられた声に、エヴァンジェリンと友人は振り返る。見ればその先には、自分の知る三人の少女の姿。

「あー、やっぱり。エヴァンジェリンさんも修学旅行の買い物? つか、エヴァンジェリンさんの私服姿って初めて見るかも――結構可愛い服好きなのね? 今日のシロちゃんのインパクトには負けるけど、結構新鮮だわあ」

 その中で、自分に声を掛けた少女――朝倉和美は、無遠慮に彼女の姿を上から下まで眺めて――何を納得したのか、小さく頷いている。
 果たして今日のエヴァンジェリンの格好はと言えば、先日友人の手で揃えられた、今時の少女達に流行のブランドのものだった。




「私――杉森恵子って言うの。エヴァちゃんの昔からの親友でね――よろしくね?」

 暫く後、彼女たちの姿は、彼女らが出くわした店からほど近いカフェの中にあった。楽しげな笑みを浮かべる女性とエヴァンジェリンが並んで座り、テーブルを挟んで彼女らと向かい合う形で、三人の少女が座る。

「私らを見れば何かと事情があるのはわかるでしょうけど、その辺りの事は聞かないでやってね? この子いっつもツンツンしてるけど、その実結構な寂しがり屋だから、気にせずに仲良くしてくれたら、おねーさんも嬉しいわ」
「頭に手を置くな。大体私は――もふっ!?」

 笑顔のまま、エヴァンジェリンの口にシュークリームを叩き込む彼女――杉森恵子の様子に、少女達は乾いた笑いを浮かべるしかないが――同時に、思う。こんな調子の彼女は初めて見る、と。
 杉森がエヴァンジェリンを、少々強引に黙らせたのは、興奮した彼女の口から、語ってはまずい事が漏れるのを防ぐ為なのだろう。本当に中学三年生なのかと疑いたくなる程に幼い容姿のエヴァンジェリンと、どう見ても成人した女性――“親友”を自称する彼女らの関係が、不思議に見えたとて仕方のない事であるが。
 もっとも実のところ、和美は“魔法の世界”に首を突っ込んでしまい、そう言った事の秘匿が求められるのはあやかに対してのみ。しかし杉森もエヴァンジェリンもそんなことは知らないし、まさかシロと和美も、あやかの前でその手の話題には触れられない。
 シロの知人の中には、七百年を生きた上で高校に通っていた吸血鬼もいるのだから、あるいはその方向――“魔法使い”と“オカルト”を切り離して考えれば、あるいは問題なくあやかにも話が出来るかも知れないが、そうまでする必要も、今はない。

「こちらこそ――私、雪広あやかと申します。マクダウェルさんのクラスで、委員長をやらせてもらっています」

 あやかの挨拶をきっかけに、シロと和美も、杉森に対する軽い自己紹介を済ませる。それを聞いた彼女は、ひらひらと手を振りながら言った。

「私のことは恵子でいいよ。話すときもタメ口でいい。何でって――うん、私はあなた達より随分年上だけど――同じエヴァちゃんの友達だし。エヴァちゃんの前では何て言うか――私はまだ、あの頃の私でいたいんだ」

 彼女が少し遠い目をして語る言葉の意味は、和美とあやかにはわからない。シロのみは、僅かにその意味するところを察する事が出来るが――敢えて、何も言わない。彼女の気持ちの本当のところは、彼女にしかわからないから。

「あと、この子の名前、やったら長ったらしいでしょ? この際“エヴァちゃん”で統一しちゃおうよ」
「ちょっと待て、貴様好き勝手な事を言うんじゃない。何が悲しくてこいつらに――」
「エヴァちゃん」
「エヴァちゃん」
「エヴァちゃん」

 ようやく、彼女の小さな口には大きすぎるシュークリームを飲み込み、反論を口にしたエヴァンジェリンは――目の前に座る三人の少女から、一度にそう呼ばれて、思わず口を半分開けたまま固まってしまう。
 そんな彼女を余所に――杉森は、意地の悪そうな笑みを浮かべると、右の拳をテーブルの上に差し出した。
 少女達がその意味を計りかねたのは、ほんの一瞬だけ。彼女の瞳に映る自分たちの姿を認めた少女達は――同じような笑みを浮かべると、三人同時に、差し出された拳に、自分のそれを軽くぶつけた。

「……貴様ら、こちらが黙っていれば好き勝手に――余程私を怒らせたいらしいな?」
「何を馬鹿なことを――純粋に友人が増えた事を喜ばぬか、“エヴァちゃん”」
「……貴様のしゃべり方にその渾名は死ぬほど似合わんぞ、犬塚シロ」
「まあそう言うなってエヴァちゃん。ほっぺた赤いよ?」
「気安く触るな! その指噛み千切るぞ! ああもう、私に味方はおらんのか!?」
「何を言いますか。私はあなたの味方ですよ? ――“エヴァちゃん”」

 にやにやしながら頬を突く和美の腕を振り払い、同じような表情のあやかを睨み――そのままエヴァンジェリンはテーブルに突っ伏した。何故だかその様子を見て満足げに頷きながら、杉森が言う。

「さて――あなた達も、修学旅行のお買い物? 実は私もエヴァちゃんの付き合いでね。この子今まで麻帆良の外に出たことがほとんど無いから、旅行の道具なんて全然持って無くて」

 テーブルに突っ伏した金色の頭を、彼女は軽く叩く。反論する気力も失せたのだろうか、叩かれるその頭の持ち主は、身じろぎもしない。

「でもねえ、こうやって他人の付き合いで旅行の道具が云々なんて見てたら――何だか年取ったって思っちゃうわ。私ね、今、小さな広告代理の会社で働いてるんだけど、意外に出張が多くてさ。その癖で、旅行に何を持って行くか――なんて、もう考えられなくなってんのよね。むしろ“何を持って行かずに済むか”の方に気が向いてる」
「杉森さん――じゃない、恵子、さん? 歳いくつ?」

 先に自分に対する敬いは要らないと言われたものの、よくもこうまで遠慮無くそれを実行出来る物だ――和美は、あやかから投げかけられる、そんな意味合いの込められた視線を気にもせずに、そう言った。

「んー……四捨五入すれば……三十路……現役中学生にはわかんないだろうけどさ、学校卒業したら――ホントに時間が経つのは早いわよ?」

 何故か隣の金髪をばしばしと叩きながら、彼女は言う。
 彼女が顔を上げないのは、反論する気力がないからなのか、怒りを堪えているからなのか、どちらからだろうか。この光景を己の担任が見たら、腰を抜かすだろうなどと考えつつ、シロは言う。

「ご忠告、ありがたく拝聴致す。されど、拙者言われずもがな、今という時間の大切さは身にしみているつもりで御座る」
「ほほー、言うじゃないの、“サムライ・ガール”」
「あー、まーねー、シロちゃんってねー」

 普段より一段階低い声で言うと、和美はちらりと、彼女の方に視線を向ける。

「仕方ないっすよ恵子さん。この子ねー、友達がいもなくねー、彼氏持ちだから」
「和美殿、拙者確かに先生と恋仲になりたいとは常々思っておるが、未だその何というか、この場でそう言うことを言うのはどうかと――ええと、その」

 意地の悪そうな笑みを浮かべる和美に、いつもなら喜々として応えるシロがしどろもどろに訂正を入れたのは、目の前に座る女性からの不穏な空気を感じ取ったからか。それに気づいてか和美の方は、しかも相手は大企業の社員で云々などと、余計なあおりを付け加える。
 不毛な女の争いが勃発するのを未然に防いだのは、意外にもエヴァンジェリンだった。
 単に、己の頭部に込められつつあった圧力に耐えかねての事かも知れない。

「いつまで詮ない馬鹿話を繰り広げるつもりだ、この低能どもめ。他に用がないなら私はもう行くぞ。鞄と化粧品の類は、今日のうちに揃えておきたいのだ」
「ああ――話に加われなくて寂しかったのね? ごめんねエヴァちゃん」
「朝倉和美――貴様余程、命が要らないと見えるが」




「カタはついたのか」
「ん? ああ――ついたといえば、ついたで御座るな。むろん――そういう言い方が正しいかどうかは、また別の話として」

 タオルや小物入れなど、旅行用の小物が並べられたとある店先で、唐突にエヴァンジェリンが言う。シロはすぐにその言葉の意味を察して応えて見るも――多少の引っかかりを感じて、彼女の方に振り返った。

「意外で御座るな? エヴァンジェリン殿が、此度の事件を気に掛けるとは」
「ふん――ただの気まぐれだ。あの狸ジジイにもネギ・スプリングフィールドにも、もはや私は興味がない。魔法界の有り様など、もはや言うまでもなく」
「それはそうで御座ろうなあ――しかし考えてみれば、エヴァンジェリン殿は、とても優しいお方であるが故に。相坂殿なら、衰弱が激しいので、復学は早くても二学期からになりそうで御座るが――柳井医師が太鼓判を押しているので、体自体に問題は無いで御座るよ」
「貴様は私の言葉が通じているか? 会話とは相手の言葉を受け止めてから続ける物だと、貴様は教わらなかったか? 誰が相坂さよの心配をしていると言った」
「左様で御座るか? これは失敬」

 腕を組んでシロに言うエヴァンジェリンに、シロは苦笑をこぼしながら振り返った。

「――茶々丸に軽く調べさせた程度だが――魔法関係者の一部には、既に動きがあるぞ? 詳しいことはわからぬまでも、関東魔法協会の長、近衛近右衛門に、何かが起こったらしい――とな」
「その辺りの事は、学園長先生がどうにかするで御座ろうよ。拙者は魔法使いではないし、その様な話は知らぬ事、と」
「ははっ――何だ、犬塚シロ。貴様も大概“悪者”だな?」
「何を申す。此度の一件は、あくまで学園長先生と相坂殿の問題。拙者らは――いや、“拙者は”彼らの運命に多少触れただけに過ぎぬ。此度の事件を通してどのような影響が生まれていようが――それをどうにかするのは、学園長先生の責務」

 シロは小さく咳払いをして、エヴァンジェリンに応えた。

「それが、もう二度と逃げ出さぬと己に誓った学園長先生の、責務で御座るよ」
「あの古狸にしては殊勝じゃないか。まあ、その言葉がいつまで続くか見物ではあるがな」
「それは相坂殿にお任せすれば宜しかろう。今ひとつ情けない男の手綱を上手くさばくのもまた、いい女の条件で御座る」
「貴様が言うと説得力が無いがな」
「――それはどういう意味か聞いても宜しかろうか」

 睨み付けるようなシロの視線に、エヴァンジェリンは動じない。腕を組んだまま――珍しく小さく声を出して笑うだけだった。

「まあ――気まぐれと言えば、そうなのだろう」

 金髪の少女の喉から、小さな声が漏れる。すぐには意味を計りかねるその呟きに、シロは何も応えない。

「ただ私も――あいつのことは、知らないでもないからな」

 エヴァンジェリンは十五年という長い間、先の見えない堂々巡りの時間を繰り返していた。彼女自身そう認めはしないだろうが、彼女はずっと気に掛けていたのかも知れない。自分と同じ――出口の見えない部屋から、明るい世界を見つめるだけの時間を延々と過ごす、一人の少女の事を。

「気まぐれなどと――誰に断りを入れる必要も御座るまい。今ここにいるのは、魔法使いの間でその名を馳せた“闇の福音”ではなく――ただの“エヴァちゃん”なので御座るから」
「ふん……前にも言ったがな、私は自分の肩書きなどに関係なく、強い人間が好きなのだ。自分の有り様に迷いを感じている今の自分は、正直あまり好かん」
「心配致すな、それは迷いではなく、ただの成長で御座るよ。エヴァンジェリン殿は今、己の進む道を探しているだけで御座る」
「貴様はどれだけ上から物を言えば気が済むんだ、犬塚シロ――まあいい。貴様のことは嫌いではないが、長く話しているとどうもこっちが疲れる。先にも行ったが、私は自分の用事を済ませておきたいのだ」

 そう言って何気なく、エヴァンジェリンは棚に並べられているクッションの一つを手に取る。どうやら猫を模して作られているらしいそれは、中身に何か新しい素材を使っているらしく、奇妙な――しかし確かに心地の良い手触りを持っていた。

「エヴァンジェリン殿は、枕が変わると寝付けないタチで御座るか?」
「そう言うことはないな。その程度のバイタリティが無ければ、今までやってこれなかっただろう」
「言われてみれば」
「そう言う貴様はどうなんだ? 犬塚シロ。まさか一昔前の漫画のように、旅行鞄に枕を押し込んで持って行くような人間でもあるまい」
「拙者も枕が変わった程度ではどういう事は御座らぬが――」

 途端に難しい顔をして顎に手を当てるシロを、何事かとエヴァンジェリンは見遣る。

「その――拙者近頃、先生に抱きついていないとよく眠れぬ故」
「……」
「はっ――そう言えば、拙者が家を空ける間――我が家には先生とあげはが二人きりで御座るか!? くっ――その発想はなかった――もとい、彼女がこのような機会を黙って逃すとは思えぬ――いやしかし、先生とて、彼女に手を出すほど人間として堕ちてはおらぬはず――されど! その程度の事はあげはも織り込み済みで、となれば如何様な行動にでるやも――」

 金髪の少女は無言で、上半身をよじりながら悶えるシロの頭を、半ば背伸びするようにして叩いてやった。

「人間に飼い慣らされた狼の事を、即ち犬というのだ。良く覚えておけ、犬塚シロ」
「失敬な。拙者は――ああでも近頃、先生の飼い犬と呼ばれるのもそれはそれで悪くない気が――エヴァンジェリン殿? 何故に拙者から遠ざかるので御座るか?」
「私は自分を常識人などと言うつもりはないがな、それでもまともな神経の持ち主として、変態の側には近寄りたく無いだけの話だ」
「つれない事を申されるな」
「何を言うか。これは正常な思考だろう。だから笑いながらにじり寄ってくるな。気味が悪い――」

「……ホント仲いーわねえ」

 数分後、店先でじゃれ合う――あくまでも彼女の視点では――二人の少女を眺めた杉森は、人知れず、柔らかな笑みを浮かべるのであった。

「ちょっと、妬けちゃうな」










エヴァンジェリンの友人――どうしても必要だったので、名前を付けました。

オリキャラ感を出すのがどうしても憚られたので、
こうなったら――と、「子供っぽいおねえさん」キャラとして、
僕の中手確固たる地位を誇る、上山徹郎先生のキャラクターを拝借。

けどこの人、名前が「ケイ」って言うんですよねえ。
苦肉の策で、「恵子(けいこ)」に変更。
泥沼に填ったような気がしなくもないが。

次回閑話を挟んで、修学旅行編開始です。




[7033] 麻帆良学園都市の休日・少年は轍に立って
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/09/06 10:03
 一度間違いだと思った事を思い直すなんて、今更出来るのか?
 それは大きな思い違いだ。最初から正しいだとか間違って居るだとか、そんな物自体が無いのだから。
 ならばその最初という時に、自分たちは何を思って生きていけば良いのだろうか?




「本当に綺麗な町並みですね。まるでヨーロッパの古い町に居るみたい」
「そう言えばおキヌちゃんは、そっちの方に旅行に行ってたんだっけか。ケイが拗ねてたぜ? まー、今のあいつをオカルト関係のオークションだの何だのに連れて行ったって仕方ないってのは、わからんでもないが」
「でもそのお陰で、ケイ君にも“素敵な友達”が出来たみたいじゃないですか?」
「……なんつーか――おキヌちゃんも変わったよね」
「当然です。変わりますとも――もちろん、私という人間が、そうそう変わってなるものか、という思いはあります。けれどそれとは別に、少女は大人になるものなんです」

 春の色に彩られた、異国風の麻帆良の町並み。その中を、黒髪の女性が、白髪の青年の乗った車いすを押しながら歩く。二人の交わす言葉の温度は、とても暖かく、すれ違う人々は、二人の纏う雰囲気に、少しだけ優しい気持ちになる。
 この二人は夫婦か恋人なのだろうか、あるいは親しい友人なのだろうか――何にしても、二人の間にある関係というのは、交わされる言葉同様に、暖かなものであるのだろうと、人々はそう思うのだ。
 そして当の本人達に、その様な自覚があるのかどうかと言えば――言うまでも無い事だろう。

「とはいえ、俺は素直にあいつを応援してやろうって気にはならんがね。全くあの野郎と来たら、自分に寄せられる好意には呆れるほど鈍感だからな。俺は女の敵と言えば西条のような野郎の事を言うんだとばかり思ってたが、どうも近頃のあいつを見てると、そうでもないような気がしてくる。まったくあの純真だったガキが天然ジゴロに育ちやがって――」
「ねえ、横島さん」

 眉間に皺を寄せながら、わざとらしく腕を組んで言う白髪の青年――横島忠夫に、彼の乗る車いすを押す女性――氷室キヌは、とびきりの笑顔を浮かべて見せた。

「あれを見てください」

 彼女が指さした先には、ブティックのショーウィンドウが存在していた。しかし果たして、その店はおキヌの趣味からは少し外れているように、横島には感じられる。それがどうしたのだろうと彼女を振り返れば、見惚れるような笑顔を浮かべて、彼女は言った。

「違います。そのガラスに、何が映ってますか?」
「何って――俺と、おキヌちゃん?」

 彼らの正面にあるそのガラスには、自分たちの姿が薄く反射している。つまりは不思議そうな顔を浮かべる車いすの青年と、笑顔でそれを押す女性の姿が。

「そうですね」
「……それが、何か?」
「それがわかってるなら、横島さんはケイ君の事を悪く言う資格なんてありません」
「ちょっと、おキヌちゃん?」

 表情に似合わぬ厳しい言い方に、横島は慌てて体ごと彼女に振り返る。しかしやはりその先にあったのは、変わらず優しげな笑みを浮かべるおキヌの姿のみ。
 ややあって――横島は、ため息混じりに苦笑した。

「あー……はいはい。わかりました。おキヌちゃんも隊長も、何かってーとあいつには甘いんだもんなあ。そりゃまあ、美神さんにシバかれるあいつを見てると、何だか昔の俺を見てるみたいで複雑な気分にはなるけどさ。でも言わせて貰うがおキヌちゃん、あの頃の俺と今のあいつには、決定的な違いが一つある」

そう言って横島は、大仰に両手を広げてみせる。

「それが即ち、俺の言いたい事なんだよ。去年のバレンタインなんて酷いもんだったって、真友――だっけ、銀ちゃんとこの後輩で、タマモとも知り合いだって言う、あのケイのツレが言ってたじゃんか」
「横島さん――ええ、人間、時間が経っても変わらないというのは素晴らしい事だと思います。思いますが――そのうち背中を“ずぶり”とやられても知りませんよ? ああ、いえ――その時は、私がとびきりのヒーリングをしてあげますけれども」
「おキヌさん、笑顔でその台詞は怖すぎるのでやめてください。てか、何で俺が刺されなきゃなんないのよ。愛子の奴も似たような事言ってた気がするけどさ」
「……ええ……これを本気で言ってるから、どうにか耐えられるんです、私。横島さんがこういう人だってわかってるから、どうにかこうにか。もしも横島さんが“わざと”こうしてるんだったら、今頃いっそ私が――」
「……おキヌ、ちゃん?」

 唐突に、前髪に表情を隠して、口ごもるように何かを呟き始めたおキヌに、横島がおそるおそる声を掛ける。果たして彼女は弾かれたように顔を上げると、何処か焦ったように笑いながら、左右に手を振った。

「い、いいえ、何でもありません」
「なら良いんだけど――まあ、ケイの事はともかくとして、ちょっと腹減ったな」
「結構歩き回りましたからね」
「俺はこいつに乗ってただけだけど――おキヌちゃんは疲れてねーの? 悪い、全然気が回らなくて」
「平気ですよ。こう見えても現役のゴースト・スイーパー、体が資本です」

 そう言っておキヌは、右腕をぐっと曲げてみせる。当然、薄い生地の長袖に包まれたその腕は、横島から見れば驚くほどに細く、筋肉の盛り上がりなど何処にも感じられない。しかしその滑稽な仕草が妙に彼女には似合っていて、横島は思わず表情を崩した。

「そっか――俺はまたおキヌちゃんを見くびっていたみたいだ」
「はい、そうですね。でも私、か弱い乙女でもありますから、しっかり守ってくださいね?」
「そりゃもう、当然。おキヌちゃんの為だったら、火の中だろうが水の中だろうが、ものの喩えじゃなく物理的に飛び込んでやるよ」
「ふふ――ありがとうございます。今は――これで良しとしておきましょう」

 そう言って小さく笑ったおキヌには――何だか自分の知らない、妖艶な女性の色気のようなものがあって――思わず横島は、熱くなった頬を誤魔化すように前を向いた。

「そ、それじゃあまあ――腹ごしらえしときますか。いい店知ってんだ、ちょっと変わってるけどさ。学園長経由でこの間知って」
「へえ――私はこちらのことはまだ全然何も知らないので、お願いします」
「その辺は任せてくれよ。どうせあげはもタマモも、今頃それなりに良いモン食ってんだろうしな」

 おキヌと横島が連れ立って出かけると聞いて、最後まで不満そうにしていたあげはは結局、タマモが引きずるようにして朝方出て行った。何処に行ったかは知らないが、こと遊ぶ事に関しては人一倍の情熱を燃やすタマモの事。それなりに楽しんではいるだろう。
シロはシロで、修学旅行の買い出しがあると言って、同じく朝方出て行った。久しぶりに見た、出会った頃のような格好が、何だか懐かしく感じられたのを覚えている。

「そう言うこと考えちまう俺って――歳食ったのかなあ」
「何ですか突然。やめてくださいよ。横島さんは十分若いじゃないですか」
「悪い悪い――でまあ、俺たちは俺たちで楽しもうってわけだけど――付き合ってくれる?」

 悪戯っ子の様に笑う横島の言葉に、深い意味などは無いのだろう。
 けれど――おキヌは、その言葉に、花が咲くような笑顔を持ってして応えた。

「ええ、喜んで」




「ええと――なんて言うか、凄い場所ですね」
「麻帆良のランドマーク、世界樹――大層な名前が付いてる上に、学園長の話じゃバッチリ曰くまでついてる怪しげな大木だけど――ま、この際俺らにゃそんなことは関係ねえって」

 麻帆良市の中心には、巨大な樹木がそびえている。“世界樹”の通称をも持つその大木の梢は、その辺りのビルの高さを優に凌ぎ――この場からでは、あまりの巨大さ故にその全体が視界に入らない。たとえばアメリカ大陸のセコイア杉は、幹の高さが百メートルを超えるものもあり、世界一の巨木と言われてはいるが、ではこの“世界樹”はどうかと問われれば――この麻帆良の地に於いて、それを問うのは野暮というものである。
 果たして横島とおキヌの二人は、何かと今回の一件で“曰く”を残してくれた巨木がそびえる麻帆良の中心部――その巨木の根元が収まる、大きな公園にやって来ていた。
 その公園の片隅には、小さな屋台が店を構えている。屋台の周りには簡素なテーブルと椅子が備えられ、即席のフードコートのような場所となり――土曜日の昼時であるこの時間、その場所はそれなりの人々で賑わっていた。

「聞いて驚けおキヌちゃん。何でもこの店、シロのクラスメイトがやってるんだと」
「シロちゃんの? 凄いですね。見たところそれなりに賑わっているようだし――」

 周りを見回して、おキヌが言う。談笑しながら、出された料理に舌鼓を打つ人々。自身、職場の台所を一手に引き受けてきた身として、彼女はこの店が、単なる“中学生のおままごと”ではない事を見て取った。

「まあ、あの爺さんとは、好む好まざるに関わらず、何かと話をする必要もあったわけで。話題の一つに上ったのがこの店なんだが――俺も最初は驚いたよ。そもそも中学生が勝手に店なんか開いていいのかって」
「――部外者の私が言うのも何ですが、今更でしょ」
「……ほんと、おキヌちゃんも言うようになったよなあ……実際のところ、一種の模擬店みたいな扱いになってるみたいだけど」
「模擬店――これが、ですか?」

 周囲をもう一度見回し、おキヌが言う。その時に彼女が浮かべていたのと似たような表情を浮かべ、横島は応えた。

「それこそ今更だろ? 六道女学院やうちの高校に比べたら可愛いもんだ」
「……それを言われると――何だか複雑ですね」
「ともあれ、物は試しと立ち寄ってみたら、これが中々どうして、“模擬店”と馬鹿にしたもんじゃない。その辺のレストランに入るよりは、洒落が聞いてるんじゃないかと思ってこっちに足を向けてみたわけだが――」

 そこで彼はおキヌから視線を外し――大きくため息をついた。
 そんな彼の様子に、今まで努めてそちらには触れないようにしてきたのだろうおキヌも、乾いた笑いを浮かべるしかない。横島はテーブルの上で手を組むと、目の前――自分とおキヌの前に座る相手に目をやった。

「んで、お前はどうしてこんなところで、そんな人生終わったみたいな顔してたんだよ、ネギ」

 おそらく彼もまた、この屋台程度が“今更”と言われる所以の一つであろう――僅か十歳の少年教師、ネギ・スプリングフィールドは、横島の言葉に、小さく肩を震わせた。




「ま――あれだ、わからねーでもねーけどさ。こちとら楽しくデートの最中なんだから、ちょっとは空気読めっつの」
「す、すいません……僕、そんなつもりじゃ」
「言い過ぎですよ、横島さん」

 今日の外出を、彼がデートと認識してくれているのは意外だが――彼の言葉に額面以上のものを求める事に、いい加減無意味さを感じていたおキヌは、わき上がる内なる声を押さえつける。
 ともかく――口ではどうこう言いつつも、横島はネギのことを気に掛けている。前が見えているのかどうかもわからないような状態で歩いていた彼を見つけて声を掛け、この屋台のある場所にまで引っ張ってきたのは、他ならぬ彼なのだから。

「でも確かに、あの様子はちょっと普通じゃ無かったですね。ええと――ネギ、先生?」
「あ、はい――呼び捨てで構いません、氷室さん」
「私も“おキヌ”で結構ですよ、ええと――ネギ君」
「……言っただろ、お前の気持ちはわからないでもないが――いつまでもお前がそんなんじゃ、そのうち明日菜ちゃん、胃潰瘍でぶっ倒れちまうぞ。美少女が心労で体調を崩すなんてなーな、世界の損失だ」

 いつもの調子で横島はそう言い――運ばれてきた中華料理を口に運ぶ。なるほどやはり――これは中学生の模擬店程度のレベルではない。料理を運んできた、チャイナドレス姿の少女をも含めて――と一度は思ったものの、聞くところによれば彼女もまた、シロのクラスメイト――つまりは中学三年生。
 自分はもういい大人で、彼女はまだ子供である――と、念仏のように自分に言い聞かせ、横島は料理を飲み込んだ。

「あの――その、氷室さんは、どうしてゴースト・スイーパーになろうと思ったんですか?」

 唐突にネギから発せられたその言葉に、横島とおキヌの二人は顔を見合わせ――

「ふむ――それじゃ及第点はやれんな、ネギ。いいか、ナンパの基本っつーのは、まず差し障りの無いところから会話を持ちかける事だ。相手がおキヌちゃんみたいな清楚系なら、尚更な」
「えう?! ご、誤解です、僕は別にそんな――」
「何を馬鹿なこと言ってるんですか。第一、女の人に声を掛けて成功した試しのない横島さんが、ナンパの何たるかを説こうとしても、説得力の欠片もないですよ?」
「お……おキヌちゃん、今のはちょっと、心にズシンと来たなあ……」
「わかったら、人が真面目に話してる時は、真面目に聞いてあげてください」
「いや、俺はこれでも、場の空気を和ませようと」
「真面目に聞いてるのにそうでない風に振る舞うのは、もっとたちが悪いです」

 じっとりとした――しかし、それだけでは形容できない暖かみのようなものも、何故だか感じさせるおキヌの視線に晒されて、横島は困ったように頭を掻く。
 それを満足そうに見遣ってから、おキヌは言った。

「それを聞いて、どうするんですか?」
「どう――と、言う訳じゃありません」

 ネギは俯き、首を横に振る。辺りを見回し、こちらのテーブルに注目している人間が居ないことを確かめて、小声で言う。

「僕は――立派な魔法使いになりたいと思っていました。同時に、明日菜さんや木乃香さんや――彼女たちにとって、少しでも相応しい先生であろうとも。だから僕は――自分の思う“魔法先生”として歩んでいこうと、そう思ったんです」
「今度の事で、お前に色々思うところがあった、って言うのは何となくわかるがな。別段、それが悪い訳じゃねーだろ」
「それはもちろん、その通りです。けれど――その為に、僕は何をしたいのか、わからなくなりかけている。そんな気が――するんです」

 理想と現実のギャップに気づいて考え込む事など、ままあることだ。しかしそれは別段、悪い事ではない。あるいはそれに気がつくことが出来たから、また前に進むことが出来る――そういうことだって、あるかも知れない。
 そしてネギ・スプリングフィールドと言う少年は、目の前に壁が現れた時に、そこで歩くのをやめるような類の人間ではない。その壁の横を回り込む事さえしない。意地になって、どうにかその壁を乗り越えようとするだろう。
 その様なやり方が、いつもいつも通用するとは限らない。けれど何故か、彼にはそのやり方を変えて欲しいとは思わない。ネギという少年は、そう思わせる何かがあって――つまりはそれが、彼という人間を指し示す答えになっているのではないかと、横島は思う。
 もっとも、思っていてもそんなことは絶対に口には出さない。
 彼は子供には優しいが、女性に好かれる二枚目には厳しいのである。
 だからせめて、こう言った。

「何だよ――調子狂うな。エヴァちゃんの時も大概アレだったが――お前はそう言うキャラじゃねーだろ」
「キャラ――ですか?」
「あー……なんて言えば良いんだ? そう言えばお前はイギリス人だったな。時々忘れそうになるが――その日本語、誰に習った?」
「メルディアナには、日本語に堪能な人も居るんです。日本に行くことが決まってから、その人に必死になって教わりました。でも流石に、細かいところまでは――」
「十分だろ。お前みたいな外人が“カタカナ英語”まで使えるなんざ――俺なんて、今の仕事になるときに、うちの親父に英会話くらいは出来るようになれって必死にしごかれたが――未だにおぼつかん」

 つまりはそう言うことだ。そこでも彼は、愚直な正攻法を選んだ。英語担当の外国人教師である。日本語があまり堪能で無かったとしても、何ら問題はない。現地に着いてからゆっくり覚える事も出来るし、何となれば、おそらく魔法関係にも、その手の反則技はあるだろう。学園長も確か、生徒のデータを頭に入れるのに“反則”を使っていると言っていた。
 正攻法以外は頭になく、そしてそれを可能にしてしまう才能があり――そして何より、周りに“それ”を望まれる。当人の性格故か、“英雄の息子”という肩書きを持つが故か――何にしろ、その様なやり方とは即ち――

(……キッついわなあ。あのジイさんとさよちゃんの事を、きっちり理解できる理解力があるってんなら――尚更なあ)

 横島は、餡のかかったチャーハンを頬張りながら思う。
 さりとて、自分には若者を諭してやれるほどの人生経験もなければ、話術も持ち合わせていない。歩んできた人生のアップダウンは、ともすれば目の前の少年を上回るかも知れないが、それを言っても仕方がない。

「横島さんも、ゴースト・スイーパーだったんですよね?」

 唐突に掛けられた声に、彼はとりあえず、口の中のものを飲み込んだ。

「ん? ああ――色々あってこんな風になっていまってからは、流石に廃業しちまったけどもな。俺は後方支援はそれほど得意なタイプじゃねえし――美神さんの脚を引っ張るわけにはいかねーし」

 その言葉を紡いだときに、自分に向けられていたおキヌの視線に気がついてないわけではなかった。だが、彼は敢えて、その深い感情を湛えた視線に、気がつかない振りをする。

「どうして、横島さんは――ゴースト・スイーパーを目指そうと思ったんですか? いえ――今のお仕事でも構いません。何故自分がここに立っているのか――考えたことはありますか?」

 ――ああ、なるほど。
 横島はネギの言葉に、何かが腑に落ちたような気がした。その全てをハッキリと把握できた訳ではないが――とりあえず、言葉を返してみる。

「俺はゴースト・スイーパーになろうとしたわけじゃねーぞ? 割の良いバイトはないだろうかってうろついてた時に――美神さんの曰く付けがたい魅力に惹かれてだな」
「えーと、意訳しますと」
「あの素晴らしい乳と尻と太ももに、俺の目線はもう釘付けに――って、何言わせるんや、おキヌちゃん!?」

 ついうっかりと喉からこぼれ落ちた言葉に、横島はおキヌの方を振り返る。果たして彼女は、口元に手を当てて、楽しそうに笑っていた。ともすれば、明け透け過ぎて、女性としては不快感を覚える言葉であろうが――彼の人となりを、彼が紡ぎ上げてきた人間関係を知る者に取って、その言葉は心地良い。

「……ゴースト・スイーパーを……目指していなかった? それほどの実力がありながらですか?」

 そして、そのあまりと言えばあまりにもな言葉に、ネギは呆然と聞き返す。
 背負う障害の事もあり、横島の“実力”というものを、彼ははっきりと理解しているわけではない。ただ――魔力が解放されたエヴァンジェリンの攻撃をあっさりと受け止め、あるいは相坂さよの夢の中に押し入り、果ては学園長を若返らせ――魔法という異能を使える自分だからこそ言える。彼は、異常なまでの才能の持ち主であると。
 単純に、ゴースト・スイーパーの間でも名の知れた人間だと言うことは聞き及んだが、多少なりとも彼の側にいれば、その様な話は聞くまでも無いことだ。

「――ま、それこそ色々あってな。思い返してみれば――人間死ぬ気になれば何でも出来るモンだぜ?」
「普通の人だったらとっくに死んでると思いますけど――今でも時々、何で横島さんは生きてるんだろうって、そう思う時があります」
「元幽霊のおキヌちゃんには言われたくねーやな」

 楽しそうな表情のまま言うおキヌの言葉に、横島は口をとがらせてそう返した。

「――なあ、ネギ、お前、先生やってて楽しいか?」
「え?」

 再び思考の深淵へと足を踏み出しかけていたネギであったが、不意に投げかけられた横島の言葉がそれを遮る。

「“立派な魔法使い”とやらを目指して、それで充実できてるか? “魔法先生”っつーのは、本当にお前のやりたいことなのか?」
「どういう事ですか? 僕は――」
「自分が好きなことと、自分に与えられた才能と――そう言うのは、往々にして一致しねーんだよ。俺が良い例だ。俺は最初――まあ、その、美神さんの色気に釣られてゴースト・スイーパーを始めた。そんでいつの間にか、美神さんとか小竜姫様とかワルキューレとか――ああ、“そっち方面”の俺の知り合いなんだけどな、もう馬鹿みたいに強い人たちで――そう言う人たちを見返してやりたいと思って、色々馬鹿やってきた」

 でも、と、横島は言う。

「俺の本質ってのは、何処まで行っても馬鹿でスケベなガキだったわけだ。悪霊は怖いし、痛い思いだってしたくない。俺は周りの人の為に――って言うと、何だか大層に聞こえるけど、結局自分と、自分が大事に思う人間の為にやってきたんだ。別にゴースト・スイーパーがやりたかったわけじゃない」

 ネギの脳裏に、長身の青年――藪守ケイの言葉が蘇る。ゴースト・スイーパーも、教師も――ただの手段でしかない。それは何のための手段なのか――考えねばならないとすれば、その部分だろうと。

「つまり俺の夢ってのは、美女で埋め尽くされた武道館でジョニー・B・グッドを歌うとか、美人の嫁さん貰って退廃的に暮らすとか――この際ハーレムルートもバッチ来い! みたいなところであって。でも悲しいかな、そう言うことをするのに必要な才能――ツラの良さとか、話術のうまさとか、ここ一番でガッつかない自制心とか、そう言うのが欠片も俺には無いわけで」
「そんなものあがる横島さんなんて、横島さんじゃありませんよ」
「――おキヌちゃんって、ひょっとして俺のこと嫌いだろ?」
「まさか――大好きですよ? この世界の、誰よりも」
「……それはあげはの受け売りかよ。まったくおキヌちゃんも、俺なんかからかって遊んでても良いことねーぞ? ともかく、だ」

 透き通るような笑み――おキヌがその時浮かべていた表情の意味が、ネギには理解できなかったが、自分に戻された視線に、ネギは横島の方に向き直る。

「お前は才能があるから魔法使いやってんのか? リーダーシップがあるから教師やってんのか? それとも、やりたいからやってんのか――」
「僕が」

 ネギは言った。

「僕が、本当にそれをやりたいのなら――才能なんて関係のない話だって、そう言うことですか?」
「馬鹿言え。俺はお前の問いに答えてやっただけだ。何で俺みたいなのがゴースト・スイーパーになろうと思ったんだって、な。癪に障るがお前――俺よりずっと頭良いんだろ。そんな天才サマの悩みなんざ、俺にはわかりませんよ」

 そう言って横島は、レンゲを口に運び――再び、ネギは押し黙る。
 彼の中では、色々なものが渦を巻いていた。
 この麻帆良の地にやって来るまで、愚直に信じてきた“立派な魔法使い”――それが、彼が思うほど単純ではないこと――それは、割合早い段階で知ることが出来た。いや、知った気になっていた。
 けれど、教師になるための期末試験を経て、エヴァンジェリンとの戦い、そして相坂さよの一件――それらを通して、ネギの最も近くにいた“立派な魔法使い”近衛近右衛門。彼のあり方が、ネギを困惑させる。
 単純に、彼が悪いとは思わない。
 ただ――事が終わって考えてみれば、彼は最初から――少なくとも、さよが昏睡に陥ってからこちらは“立派な魔法使い”などに拘ってはいなかったのだろうと、そう気がついた。彼にとってもまた――ケイの言葉とどれほど意味合いが通じるかはさておき、魔法使いとして、教師としての自分自身など、“手段”に過ぎなかったのだろう。
 では何故、そんな彼が、ネギに“立派な魔法使い”というものを、強く意識させるような行動を取ったのだろうか? ともすれば、他の生徒にも累が及ぶようなやり方で。ネギは、今朝方彼に呼び出された時の事を思い出す。彼が言いたいこととは、一体何だったのだろうか? そして今の自分は――一体、何をするべきなのだろうか?

「ネギ」
「あ、はい――」
「メシ食ってるときは、暗いツラすんな。メシが不味くなる」
「……すいません、つい」
「……俺みたいな人間が、お前に何かアドバイス出来るなんて思っちゃいないが――お前が俺に、ゴースト・スイーパーになろうとした動機を聞きたかったってんなら、一つだけ言ってやる」

 ネギは、身構える。
 目の前の青年は――自分など及びも突かない程に、濃い人生を生きてきた人間だ。シロやあげは、そしてケイらの口ぶりからすれば、彼にも悩みや葛藤はあったに違いない。
 その様な人間の口から出る言葉が、例えどのような者であれ――その意味をしっかりと考えよう。そうネギは思った。
 しかし果たして、彼はネギにレンゲを突きつけ――

「空っぽのままじゃナンパは出来ねえ。良く覚えとけ!」

 少なくとも、今の彼には理解不能な事を言いはなった。




「あれは確か――横島さんとか言ったかネ。犬塚さんのところの保護者の」
「超さん」

 少し早めの昼食を終えて、横島と――少しばかり心配そうにしていたおキヌが立ち去った後も、ネギはじっと、一人テーブルに向かったまま腰掛けていた。
 そんな彼に声を掛けたのは、この屋台の主であり、彼の教え子でもある――更には、中学生にして、既に大人顔負けの頭脳と知識量を持つと言われる、不思議な少女――留学生の、超鈴音だった。
 まさか、今までの会話を聞かれてしまったのだろうか――と、ネギは思ったが、彼女は素知らぬ顔で、彼の隣に腰を下ろす。

「随分熱心に話していたようだたが――何のお話だたネ?」

 独特の癖のある日本語で、彼女は言う。

「いえ――あの、ちょっと――相談に乗って貰っていただけで」
「ふうん」

 口元に手を当て、彼女はその大きな瞳を細めてみせる。

「あ、あの――何か?」
「いや、気にすること無いネ。私がネギ先生のお悩み相談出来るトモ思えないしネ」
「いえ――そんな」
「ま、彼の言うとおり、食事は楽しくするものネ。考え事をするのが悪いとは言わないけれども――失礼したネ」

 ネギに言葉を継がせず、彼女は彼の顔を覗き込むようにしてから、一呼吸置いて立ち上がった。そしてそのまま何事も無かったかのように、屋台の方に戻っていく。
 ネギは超鈴音と言う少女のことが嫌いではない――しかし、底の知れない謎めいた雰囲気を持つ彼女の事が、苦手でないと言えば嘘になる。そんな彼女が、自分をそっとしておいてくれたことに、ネギは内心で安堵した。
 だから、気がつかなかった。
 彼が横島と何の話をしていたかも知らないと言った彼女が、横島の言った言葉を繰り返して見せたと言う事実に。
 期待と葛藤と――誰かの思惑と。
 複雑に絡み合った糸は、未だに解かれる様子を見せないままに、時は流れる。麻帆良学園本校女子中等部、予定される古都、京都への修学旅行は、すぐそこにまで迫っていた。




「さて、あげは――もう一度釘を刺しておくが」
「何の釘を刺すのですか。シロが居ない間に勝手な真似はするなと? シロ、あなたは私の保護者ではありません。そして私には自由な意思があります。あなたの言う勝手な真似とは何ですか? 私が何をするのかにおいて、いちいちあなたに断りを入れる必要があるのですか? ましてやヨコシマが――」
「能書きは良い。では、拙者としても簡潔に、言いたいことだけをお主に言う」
「ふん――どうぞ?」
「――一着何処へ行ったのか見あたらぬ先生のパジャマと、先生が無くしてしまったと探しておった万年筆――さて、お主は知らぬか?」
「ッ!? し、し、シロっ!? あな、あなた、まさか――ッ!?」
「何をその様にうろたえておるのか。拙者は只、それらのものを、お主は見なかったのかと聞いただけで御座る――まあ、“あげはが知る訳も無し”。それはそれとして――拙者が修学旅行で居ないからと言って、“羽目を外す”でないで御座るよ?」
「ふ――ふ、ふふ――そう、ですか。そうですね、気をつけましょう――ねえ、シロ?」
「何で御座ろう?」
「地獄に堕ちろ」
「先生と共にならば、何処へでも?」

「……夜更けに何を睨み合ってやがんだあいつらは。いい加減風呂も抜いて――」

 その夜。なにやら廊下で火花を散らす、下宿人の少女二人を、横島は不思議そうに眺め――そんな彼のポケットで、携帯電話が軽快なメロディを立てた。









次回より、修学旅行編です。
多忙のため更新頻度が落ちると思いますが、
更新停止となる可能性はかなり低いので、今後とも宜しくお願いします。



[7033] 三年A組のポートレート・出発の朝
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/09/08 22:13
 自分たちは、大きな力を持っているのではない。自分の中に、巨大な化け物を飼っているのだ――幼い少女は、ある時両親からそんなことを聞いた。
 大きな力は、確かに何か人の助けになるかも知れない。けれど、自分が神の如き力を扱えると勘違いしたとき――自分たちは、その巨大な化け物に食い尽くされ、化け物になってしまう――少女にはその言葉がとても恐ろしく感じられた。
 小さな体を震わせる少女に、父親が言った。

 ――お前はとても優しい子だから、そんな話は恐ろしいと感じるかも知れない――

 その言葉のあとをついで、母親が言った。

 ――けれど大丈夫。たった一つの事さえ忘れなければ、あなたはそんな化け物なんかに負けたりしない。いえ――その恐ろしい化け物をも、大切な誰かを守る為の騎馬に変えてしまう――

 両親の言葉が、少女には理解できなかった。ただ、何故――両親がそんなことを言うのかが、不思議でならなかった。
 けれど、彼女を見つめるその瞳は、彼女の知らないような深い光に満たされて――だから、彼女は頷いた。自分はきっと、自分の中にいるというその“化け物”に、負けたりなんかしない――と。
 両親はそれを聞いて、満足そうに笑った。
 そして――少女の両親が、不毛な戦いの果てに帰らぬ人となったのは、それから程なくの事だった。




「じゃーん、新しいデジカメ。今までみたいな“なんちゃって”じゃなくて、一眼レフの一級品だよ」
「折角の修学旅行なのですし、性能の良いカメラなら言ってもらえればウチから取り寄せましたのに――良いお値段がしたでしょう?」
「そのブルジョワ発言がそこはかとなくムカつくゼ委員長。いんや、前に懸賞写真に応募して、入選したときの賞金がね。ホントは新しいパソコン買おうかと思ってたんだけど――せっかくだし、ね」

 埼玉県大宮駅新幹線乗り場、午前八時過ぎ。観光客の姿はまだまばらで、通勤客や出張に出向くのだろう、スーツケースなど携えたビジネスマンの姿が目立つそのホームに、目に華やかな一団があった。
 果たしてそれは、百人を超える女学生の一団である。麻帆良学園本校女子中等部、近畿、西日本方面へと修学旅行に向かう生徒達だ。
 かつて修学旅行に向かう学生達の一団は、学ランやあるいはセーラー服というその姿から、“カラスの群れ”という渾名で呼ばれていた。しかし華美でないながらも、制服としては割合明るい色合いを基調とする麻帆良の制服に身を包み、旅先への期待に黄色い声を上げる彼女たちは、“カラス”などと形容するにはあまりに華やかである。
 さて、年頃の少女達が旅行に赴くとなれば、それがやれ学業の一環だ、無駄な荷物は極力減らせだと注意を受けていたところで、手荷物はそれなりの量になる。ある者はキャスター式のスーツケースを引きずり、またある者は大きく膨らんだボストンバッグを抱え――そんな少女達のご多分に漏れず、大きめの荷物を抱えていた朝倉和美は、それとは別に持っていた、小さな鞄の中から、見た目からして本格的なカメラを取り出していた。

「これから結構な活躍をして貰う予定だしね。さよちゃんにも、どうせなら良い写真持ってってあげたいし」
「相坂さんですか――残念ですね、しかしあんな状態から、後遺症もなく回復できると言うのですから、まずは素直にそれを喜びましょう」
「そだね。ま、修学旅行は無理だったけど――夏休みもあるし。あたしらで個人的に旅行行こうか? シロちゃんも良いよね? 夏は横島さんとバカンスだとか抜かしやがったら、ただじゃおかねー」
「もう少し本音は内に秘めて欲しいもので御座るが和美殿――今のところそう言う予定は御座らんな、残念ながら」

 カメラのレンズを周囲に向け、オートフォーカスの機能など確かめていた和美は、ファインダー越しでも非常に威圧感を感じる視線を、銀髪の少女――犬塚シロに向ける。
 他の少女達よりも、少し少なめに感じられる荷物を持つシロは、乾いた笑みを浮かべながら、首を横に振った。
 ちなみにシロの荷物が少なめなのは、やはりゴースト・スイーパーの助手時代の影響だろう。仕事で全国を飛び回る事も少なくないその仕事に於いて、いちいち大荷物を抱えて動き回るわけにはいかない。もっとも彼女の場合、横島と同じで、その様な大原則を、まるで知らないかの如く振る舞う美神の荷物持ちを手伝う事が多かったせいもあるだろうが。

『――間もなく、列車が参ります。危険ですから、白線の内側までお下がりください――』

 ややあって構内アナウンスが流れ、朝日の中で尚強烈に輝くヘッドライトの光と共に、流線型の車体がホームに滑り込んでくる。東京行きの、上り新幹線。彼女らはこの車両で東京に向かい、そこから東海道新幹線に乗り換える事になる。

「おーおー、エヴァちゃんははしゃいじゃってまあ。記念に一枚、と」
「……本人には黙っておいた方が良かろうな」
「そうですわね」

 世界最高水準の営業運転速度と、世界一正確な運行ダイヤで知られる、日本が世界に誇る高速鉄道“新幹線”。鉄道ファンならずとも、それを頻繁に利用するビジネスマンでもなければ、そこはかとなく胸躍る、日本の旅の定番。果たして十五年と言う長い時間、同じ街から出ることも出来なかった小さな少女は、思わずシロやあやかが柔らかな笑みをこぼしてしまうくらいに、傍目にはしゃいでいた。
 本人はそれを必死で抑えようとしているのだろうが、それが丸わかりである分、逆に見ている分には非常にほほえましい。乗り口に班ごとに整列した少女達の列から、身を乗り出すようにしてホームに滑り込んでくる車体を眺めるエヴァンジェリンに、和美はそっとレンズを向けた。




「すまんな、犬塚シロ――この借りは、必ず返す」
「いや、たかが席を譲ったくらいで、そこまで恩を感じられても、逆にこっちが困るので御座るが」

 場面は移って東京駅、午前九時前――
子供がするように、靴を脱いで座席の上に上がり、あまつさえ窓に顔を押しつける勢いのエヴァンジェリンに、シロは苦笑した。この修学旅行におけるバスの座席は、生徒各々の希望によって割り振られているが、新幹線の座席は、最初から機械的に決められている。新幹線での移動もまた、旅行の楽しみの一つ――そう考えていたエヴァンジェリンの席は、残念ながら、三人掛けの一番通路側だった。
明らかに落胆しているが、それを必死で押さえ込もうとしている――しかし果たして、その様子が――彼女が何を考えているかなど、初めて彼女に出会った人間ですら容易に想像できる――そのような様子に、苦笑混じりにシロは、たまたま窓際だった自分の席を、彼女に譲った。
仕事柄新幹線に乗ることも多かったシロのこと。それでエヴァンジェリンが喜んでくれるのなら、窓際の席を譲るくらい、どういうことはない。彼女の代わりに、彼女に割り振られていた席に腰を下ろし、手荷物を棚に載せてから、座席の角度を調節する。

「悪いわねシロちゃん」

 そんなシロに声を掛けたのは、エヴァンジェリンと同じ班に落ち着いた、神楽坂明日菜。この班分けの時にもまた、一騒動あったことは言うまでもないが、それはこの際割愛する。窓際に座る彼女は、軽く手を挙げて、シロに詫びた。

「ホントなら私が代わってあげるべきなんだろうけどさ、あの子、私の言うことは素直に聞かないから」
「仕方あるまい、彼女は極度の“ツンデレ”で御座る故に」
「あはは、そらしゃーないなあ」

 三人掛けの席で、シロと明日菜に挟まれる格好の木乃香が、そう言って楽しそうに笑う。ともすればエヴァンジェリン本人に聞かれてしまうかも知れないが――そう思ってシロは、もともと自分の座席であったそちらに目を向ける。
 ――その心配はないと、確信する。あれでは、この車両でどんな騒ぎが起ころうとも、それに気がつくかどうかは怪しいものだ。

「そう言えばシロちゃん、ごめんね、土曜の予定、ドタキャンになっちゃって」
「気にしておらぬよ。あやか殿や和美殿もまた――明日菜殿も木乃香殿も、世話好きなお方で御座る事を、皆理解しておる故に」
「好きでお節介してやってるわけじゃないんだけどね――全くあのガキと来たら」
「まあまあ明日菜。ネギ君にはネギ君の苦労があるんや。確かにそれは、うちらには関係ないものかも知れへんけど、同じ部屋に暮らしとって、全く見て見ぬふりも出来へんやろ?」
「そりゃま……そうだけどさ」

 明日菜とて、認めたくはないがその気持ちは同じである。口ではどうこう言いつつも、今更ネギを部屋から追い出そうとしないのが良い証拠だ。彼は元々“居場所が見つかるまでのつなぎ”として、彼女たちの部屋に間借りしているのだから。

「それで――ネギ先生は如何様に?」
「今のところは落ち着いてるみたいだけどね。日曜日は旅行の打ち合わせだって、職員会議に出て行って――今朝も、そんなに変わった様子はなかったかな」
「せやな、でも――元気があるとも、言われへん。ネギ君、イギリス人やからやろか、修学旅行が京都やて決まったとき、えらい喜んでたやろ? ネギ君は先生やから、うちらと同じ目線で旅行は楽しめへんかも知れんけど――京都に着いたら、元気が出るとええんやけどな」
「そう言えば木乃香殿は、京都の出身で御座ったな」

 シロの言葉に、木乃香は小さく頷く。

「なれば、京都の案内は木乃香殿にお任せして宜しいか?」
「シロちゃん――うん、任されたで、近衛木乃香の京都観光ツアーや。その辺のガイドさんには、負けへんえ?」

 そう言って胸を張る木乃香を、明日菜と二人ではやし立てながら、シロは座席の背中越しに、教員に振られた席に座っているネギに目をやった。
 今のところ、彼に不安な様子はない。大宮での点呼や、出発前の挨拶――教師としての仕事も、きちんとこなしている。しかし、それがいつもの彼の様子と違っている――などとは、今更三年A組の少女達に問うてみる事ではない。
 一路西に向かう新幹線の中で――ネギの思考は、刻まれて間もない記憶へと飛んでいた。




 時間を遡り、土曜日の午前。学校関係者がひしめく麻帆良という土地柄にあって、この時間を自分のために割き、思い思いの時間を過ごす人間は少なくない。
 しかしそんな中にあって、我らが麻帆良学園本校女子中等部三年A組担任教師、ネギ・スプリングフィールドは、硬い表情のままに、麻帆良学園の中枢――麻帆良学園理事棟の廊下を歩いていた。

「ネギ君――ひょっとして考えごとて、うちのお爺ちゃんの事なん?」

 彼の一歩後ろを歩いていた少女――近衛木乃香が、彼にそう声を掛け、彼の小さな体は、ほんの少しだけその声に反応したように感じられた。木乃香の隣を歩く明日菜にもそれは同じで――彼女は、その整った眉を小さく動かす。

「このところ、ネギ君が仕事でミスをしとるて――でも、ネギ君は、怠けてミスをするような先生じゃあらへん。うちのお爺ちゃんは、そらまあちょっと変な人やけど、その辺のことくらいはわかっとるはずよ。それに、ネギ君はきっちり新田先生に叱られとるんやし――それでもまだネギ君を責め足りへん言うんなら、うちにも考えがある」
「木乃香、気持ちはわかるけど、そーゆーのは良くないわよ」

 明日菜は、そう言って首を横に振る。
 身も蓋もない言い方をするならば、木乃香の言っている事は、自分が学園長の孫娘であるという事を利用した、褒められたやり方ではない親切である。いやさ、この場合それを親切などと言うことは出来ないだろう。そしてネギもまた、そう言ったやり方を好む人間ではない。
 もちろん――木乃香もそれくらいのことは、重々承知しているのだろうが。

「いえ――そういうわけじゃありません。学園長先生の話に寄れば、今度の修学旅行の事で、少し話があると」
「あら、そーなの?」

 しまった、と言う表情で、明日菜は額を抑える。ネギがこの様子で、このタイミングで、学園長の言いたいことなど――またぞろ“魔法関係”の事に決まっている。そう考えたから、明日菜はネギに付き添った。一般人である木乃香へのフォローの為と、相坂さよの一件からこちら、ずっとこの調子であるネギのフォロー、その両方に目を光らせるために。
 本来なら今日は、“旅行のしおり”を共に作った友人達と共に、修学旅行に必要なものを買い揃えに出かける予定だったのだ。

(私って、お節介が過ぎるのかしらねえ)

 十四歳にしては、少しばかり年寄りじみた事を考えながら、明日菜は二人に気づかれないようにため息をつく。そうこうしているうちに、廊下を歩く三人の前に、“学園長室”のプレートがかけられた扉が現れた。




「とりあえず立ち話と言うには長い話になりそうじゃからの、そこに掛けるといい、ネギ君」

 そう言って、重厚な椅子に腰を下ろしていた“老人”は腰を上げると、自ら応接用のテーブルを挟んでおかれたソファの、その片方に腰を下ろす。手慣れた様子でテーブルの上にあるポットに手を伸ばし――そこで、声を掛けた少年、ネギが、黙ってこちらを見ながら立ちつくしている事に気がつく。

「この姿の事かね?」

 そう言って、“老人”――近衛近右衛門は、苦笑いを浮かべる。

「横島君の信頼できる筋を通して取り寄せて貰った変装用具じゃよ。“エクトプラズム・スーツ”なる、オカルト技術を使って作られた、どのような人間にも一瞬にして変装できる優れもの――魔法界にも似たようなものはあるが、今の儂がそれを取り寄せるのもアレじゃしな」

 そう言って近右衛門は、ポットの中のお湯を、急須に注ぐ。市販のティーバッグだが勘弁してくれ、などと、言わなくても良いような事を言いつつ、急須の蓋を抑えて軽く揺する。

「まあ――今しばらくは、儂が麻帆良の学園長を続ける事になりそうじゃからの。カビの生えたようなジジイが、急に若返りました、などと、おおっぴらに言うわけにもいかんじゃろうて。木乃香にも――どういうタイミングで話すべきか、未だに決めかねておるところじゃしの」

 そう――彼は、教員同士の話があるという理由を付けて、木乃香と明日菜に席を外す事を頼んだ。あるいは明日菜には、聞かせても問題のない話かも知れないが、名目上同じ立場にある二人の少女のうち、片方だけを帰らせる理由は無い。どのみち、彼女たちがここにやって来たことは、彼にとって予想外だったのだ。
 ともかく――老人の姿をした青年――しかし中身はやはり老人――という、もはや形容のしがたい存在に成り果てた近右衛門は、立ちつくすネギに、もう一度ソファに座るように促した。
 ネギはゆっくりとした仕草で、“失礼します”と礼儀正しく口にしてから、ソファに腰を下ろした。

「あの――木乃香さんにだったら、話しても良いんじゃないでしょうか。学園長先生が木乃香さんに、魔法のことを黙っておきたいという方針は知っていますが――だったら、それは横島さんが――“霊能力者”のやったことだと言うことにしておけば」
「ほう」

 その言葉に、近右衛門は小さく反応した。
 確かに魔法使いの存在と違い、霊能力者の存在は、国家にすら公に認められている。その事を話すことに、何のはばかりもありはしない。
 だが――他の誰よりも“立派な魔法使い”に拘っていたネギが、その様な事をここで口にするとは、近右衛門にとって意外な事であった。
 果たしてその変化が何を意味するものなのか――近右衛門は、ネギの前に湯飲みを置きながら、大げさに頷いて見せた。

「成る程、そう言うやり方もあるじゃろうの。じゃがまあ、木乃香を驚かせる事になるのは間違いなかろうし、その辺りの事は慎重に考えさえて貰うとしよう――とまあ、儂のことは今はさておき、じゃ」

 近右衛門は湯飲みを取り上げ――湯気を立てるお茶に息を吹きかけつつ、ネギに言った。

「話というのは他でもない。京都への修学旅行の話じゃ」
「……もしかして、やはり京都への旅行は中止になったとか――」
「何故そう思うね?」
「いえ――何となく」

 思えばその話が出たのは、エヴァンジェリンとの一件が解決してからすぐの事だった。
 麻帆良学園女子中等部三年A組の修学旅行先は、京都に決定したと、近右衛門から話があったのは。
 もちろん、京都は最初から、候補地の一つであったことに違いはない。しかし最終的にそこが選ばれたのは、生徒の意向という以上に、魔法使い達にとって、そしてネギにとって、京都が特別な土地であったからである。
 木乃香の父親が長を務める、東洋魔術を修める“魔法使い”の組織、関西呪術協会――麻帆良に本拠地を置く西洋魔術師の組織“関東魔法協会”と、何かと折り合いの悪いこの組織が存在する京都に、敢えて西洋魔術師の間では知らぬ者の無い“英雄の息子”――ネギ・スプリングフィールドを、特使として送り込む。その行為の意味するところは、今のネギにならば想像が付く。
 ――儂はもう、いがみ合うのはやめて仲良くしたいんじゃ――
 あの時、近右衛門はそう言った。
 その言葉自体は、嘘というわけではないだろう。ただ、やり方はもっと他にあるはずだ。
 確かに、今の関東魔法協会の中で、シンボル的な存在感を持つネギを京都に送ることには、それなりの意味があるだろう。しかしそれに伴う危険とデメリットもまた、無視できない。
 ましてや“修学旅行の引率”等という形で、ネギに使者の真似事をさせる――あの時は、京都にあるという父親の手がかりと、自分に課せられた重大な使命という言葉に舞い上がってしまっていたが、今ならば、わかる。
 ネギは小さく拳を握る。
 まさか、面と向かって言うつもりはない。相坂さよの一件において、近右衛門自身、魔法使いとして思うところが無かったわけでは無いはずだ。少なくともだからこそ、彼は懺悔をしたのだろう。

「そもそも儂が、君を特使として選んだのは、関東魔法協会の長としての判断じゃ」

 そんなネギの様子に気がついていたのだろうか――近右衛門は、お茶で僅かに喉を潤した後、その湯飲みをテーブルに置き、彼に言った。

「関西呪術協会との諍いを解消したいのは当然のこと。それを行うのが、英雄の息子である君だと言うことにも意味がある。そして君自身の成長のため――相手の勢力や出方を考えてみた時に、最悪でも、君ならば――そして何よりも、今の関西呪術協会のあり方からすれば、本当に最悪の状態には陥るまいと、そう踏んでの事じゃった。それに――」

 目を細めて、ネギから視線を外し――近右衛門は言う。

「横島君のお陰で、エヴァンジェリンが旅行に参加できる運びになった。それが決め手じゃったんじゃよ。彼女の性格からして、むざむざ級友に害が及ぶような自体を見過ごしはすまいと――これだけの材料が揃えば――例え多少の敵意が向けられる事があろうが、今回の京都行きは、英雄の息子ネギ・スプリングフィールドを一回り成長させ――そして、関東魔法協会の目指す未来への、一つの指針になるのではないかとな」
「ならば、何故ですか?」

 ネギは顔を上げ、近右衛門を見据えた。その瞳には形容しがたい――今のネギの内心を形にしたような、重苦しい光が渦巻いている。

「ならば今になって話というのは、何の事ですか? 相坂さんの一件を通して、そういう“魔法使いのやり方”に嫌気が差したとでも言うんですか? それとも単純に、僕では学園長先生の希望に添うには、力が足りないと――」

 自分でも、こんな事を言いたいわけではないと言うのはわかっている。単純かも知れないが――それでも、学園長の気持ちはわからないのでもないのだ。
 さよの病室での彼の懺悔が、一体何を意味していたのか。自分の理想通りに生きる事が出来ず、しかも大切な人を犠牲にしてしまった――しかしそれでも、学園長は“立派な魔法使い”であろうとした。魔法使いという生き方に、拘ろうとした。
 いや――それも違う。拘ろうとしたのではなく、拘っているように見える生き方を選んだ。そして、自分に、ネギ・スプリングフィールドに、その“拘り”を押しつけようとした。それが自分の責務だと、彼は言った。
 しかし相坂さよが息を吹き返した事によって――彼の考え方は変わったのではないか?
 今更だが――他人に対する思いやりに目覚めたとでも言うのだろうか? だとすれば、自分はとんだピエロではないか。
 しかし、ネギは、そんな事が言いたいわけではない。
 今更手のひらを返したような事を言って、善人になれると思っているのか――自分の言葉の裏に隠された暗い言葉に、ネギは気がついている。ネギ自信、もとより“立派な魔法使い”には強い拘りを持っていて――その思いを、近右衛門の“せい”にするわけにはいかない。それは、自分自身の意思。無茶と知りつつ麻帆良に来ることを決めた、自分の気持ちである。そこに何が待ち受けていようが、全てをやり遂げてみせる。あの日の自分は、そう誓った筈だった。
 だから――たとえ本当にこの老人の手のひらで踊らされようと、それを持って彼を恨むことなど、出来る筈もない。
けれど、それでも言葉は喉から滑り落ちてしまった。その事実が更に、彼を苛む。

「ネギ君。君が気に病む必要は何処にもない。儂は言った筈じゃ。儂は立派な魔法使いを目指そうとして――その結果腐り果ててしまった、馬鹿で愚かな男じゃと。今更その事を言い訳するつもりは何処にもない。事は単純に――事情が変わった、と言うことなんじゃよ」
「……事情が、ですか?」

 そしてその内心を見抜かれたネギは――問い返すことで、かろうじて平静を保つ。

「関西呪術協会の一部に――妙な動きがあるとの連絡が入った。そしてこの“動き”は、まるでその行動が読めぬ」
「妙な――動き?」
「これは婿殿――木乃香の父親、関西呪術協会の会長、近衛詠春を通じての情報じゃが――関西呪術協会は表向き、関東魔法協会と共同歩調は取れぬと言う態度を示しつつも、此度のネギ君の京都来訪を受け入れようという動向で一致しておる。ま――それを拒んだところで、あちらさんに大したメリットはない。当然と言えば当然じゃがな。“西洋魔術師の連中が、ネギ・スプリングフィールドという大したVIPを用意してまで何かを言いたいらしい。とりあえずそれを聞いた上で、相手の腹を探ろう”――と、常識的な判断じゃ。それが関西呪術協会の大勢であったからこそ、儂は君の京都行きを決定した」
「では――その妙な動きというのは?」
「詳しいことは何もわからぬ。じゃが――関西呪術協会の幹部の一人、“尼ヶ崎千草”という女性が――先月、突然姿を消した。以後、今に至るまで彼女の足取りは追えておらん。そしてどうやら――関西呪術協会が捕らえた妙な動きは、居なくなった彼女が、裏で糸を引いている可能性があると――そう言う事じゃ」

 ネギは緩めていた拳を再び握りしめ――近右衛門に何かを問おうとした。
 しかしそれに先んじて、近右衛門は彼に言った。

「ネギ君。儂を信用しろなどと、この期に及んで言うつもりはない――じゃが、君には予定通りに、京都に行って貰う事にする」
「――それは、僕が――」
「ただし」

 近右衛門は、何かを言いかけたネギの言葉を遮った。

「関東魔法協会所属――英雄ナギ・スプリングフィールドの息子ネギ・スプリングフィールドではなく――麻帆良学園本校女子中等部三年A組担任――ネギ・スプリングフィールド教諭として、な」




『あんまり深く考える事はありやせんぜ、兄貴』

 ぼんやりと、まるで飛ぶように流れていく窓の外の景色を眺めながら座っていたネギに、彼のポケットの中から、彼だけに聞こえる声で、白いオコジョが言う。

『兄貴に与えられた試練ってのは、そもそも麻帆良で先生をやること、それのみだ。言ってみりゃ、期末試験の一件だの、エヴァンジェリンの件だの――それにプラスアルファで試練をふっかけられてた今までのあり方こそが、俺っちはどうかと思いやすぜ?』
「……うん――いけないとは、思ってるんだ。こんな気持ちじゃ」

 ネギは、小さく応える。

「少なくとも――この場所に立っている僕は、魔法使いであるけれども、その前に先生なんだ。だったら――先生として信頼してくれた学園長の気持ちに、僕は応えたい。その気持ちに嘘はない、けれど――思わずには居られないんだ。今度の事は、僕が未熟だから、魔法使いとしての僕はまだ“使えない”から――今はまだ、先生に専念すればいい。そう言われているような気がして」
『兄貴』
「僕は――与えられるものをただ消化するだけじゃ、このまま前には進めない。もっと自分から何かをしなくちゃならないんじゃないかって、そう思ったんだ。自分が焦ってるのはわかる。でも、この気持ちが、抑えられない」

 その言葉に、カモは応えられない。
 彼の沈黙をどう受け取ったのか――ネギは再び、車窓の景色を眺めながら、茫漠たる思考に耽る。窓の外、遠くに日本の象徴とも言える山――富士山が見える。

「……本当に綺麗な山だね、カモ君」
『ああ――日本人が世界に誇りたくなるのも、わかる気がしやすね』

 緑に彩られた山麓、美しいなだらかな円錐を描く山肌、そして、荘厳な雪化粧を施した山頂――ここでしか見られないその風景は、はるばる地球の反対側からやって来た自分の胸を打つに足るものである。しかし――

「朝倉和美! カメラを、カメラをよこせ!」
「ああもう暴れなさんな。ほら、ちゃんと一緒のフレームに入れてあげるから――ほら、ポーズとってポーズ」
「ポーズだと? こ、こうか? これでいいか?」
「うっわ、エヴァちゃんにピースサインとか、死ぬほど似合うけど似合ってねー」
「やかましいわ! 良いから早くしろ! 通り過ぎてしまったらどうするつもりだ!」

 自分も“ああ”なると思っていたのだが――ただ静かに、その山の美しさに見入っていたネギは、自分の中に生まれたそんな違和感を、気づかなかった事にした。










修学旅行編開始です。

新幹線でのカエルパニック、式神パニック、まさかの全削除。
ネギまSSでは割と珍しいかも知れない(笑)



[7033] 三年A組のポートレート・彼女たちの宵の口
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/09/28 16:31
 東京世田谷区、東名高速道路起点、用賀出入り口――午前8時。
 目覚めの時を迎え、にぎわいを増していく朝の街を、甲高い排気音が切り裂いていく。道を行く車はバックミラー越しに“それ”の姿を認めると、そそくさと進路を“それ”に譲り、道を空けていく。純粋な速度の違い故に、そして――横から後ろから、過ぎ去っていく“それ”の姿を眺める為に。
 目の覚めるような深紅を身に纏う、凶暴な戦闘機の如きスタイリング。五リットルもの排気量を持つエンジンから、官能的なエクゾーストノートを奏でつつ、“それ”は疾走する。

「……捕まえた」

 周囲の注目などお構いなしに“それ”――ランボルギーニ・ガヤルドのハンドルを握る女性、千道タマモは、舌で唇の端を潤すと、フロントガラス越しに前を見据えて、小さく、しかし妖艶な笑みを浮かべた。
 彼女の視線の先には、一台のバイク。精悍な漆黒のフルカウルをその身に纏い、驚くほどにコンパクトなその車体に、排気量あたりの出力なら、ガヤルドの1,5倍以上を誇るエンジンを搭載する“じゃじゃ馬”――カワサキ、ZX-10R“ニンジャ”。
 車体と同じような、漆黒のレザージャケットに包まれたライダーの背中を見遣りつつ、タマモはほくそ笑む。

「ふん――車が増えてきたらそっちの有利だってのに、何を考えてトロトロ走ってるんだか――まあいいわ。ここまでよ、高速に乗ればこっちのもの――余裕を見せ過ぎたわね、ケイ」

 彼女の呟きは、当然前を行くバイクのライダー――藪守ケイには聞こえない。しかし彼は、バックミラー越しに近づいてくる凶悪なシルエットを一瞥し――フルフェイスヘルメットの下で、挑発的な笑みを浮かべて、誰にともなく言う。

「ふっ――あんまり遅いんで、待ってたのさ――!」

 ケイはアクセルグリップを握り直し、愛車に鞭を入れる。わずか一〇〇〇㏄の排気量から百七十馬力を絞り出す凶暴なエンジンが咆吼を上げ、車体は一気に加速する――
 かたや、数多の強力な闘牛を生み出した、伝説のブリーダーの名を冠する、誇り高き血統を受け継ぐ“スーパーカー”。
 かたや受け継がれる進化をその名に刻み、闇夜を駆け抜けるその名前の如くアスファルトを舞う“スーパー・スポーツ”。
 朝の空気を切り裂き、何処までも続くアスファルトを見据え――極限のハイウェイ・ダンスは、今ここに幕を開ける――
 ――そして、もはや恒例行事となりつつある、美神除霊事務所地方出張時のこのイベントを諫める人間――平たく言えば、朝も早くから某漫画の真似事じみた危険行為に“つっこみ”を入れる人間は――横島忠夫と犬塚シロが事務所を後にしてこちら、誰も存在していなかった。




 同日午後一時過ぎ、京都東山区、清水寺。

「清水寺の起源というのには諸説あるのですが、七百年代の末に高名な僧侶が、この場所で黄金色の水と共に、仙人のような不思議な修験者に出会い――この場所を託された、と言う逸話が残っています。その様な神秘的なエピソードは後の創作としても、実際にその時に見つけた金色の水と言うのが――」
「あやか殿、拙者思うので御座るが」
「何でしょうか?」

 京都清水寺と言えば、世界的にも名の知れた、日本を代表する寺院である。季節を問わず観光客が多く訪れ、中には海外からのツアー客や、そして今まさに参道を歩く彼女たちのような、全国からの修学旅行生の姿も多く見受けられる。
 その様な観光客に向けて、思い思いの趣向を凝らした土産物店が軒を連ねる参道を、麻帆良学園女子中等部三年A組の面々は、寺に向けて歩いていた。

「何でも綾瀬殿は、“馬鹿ブラック”なるありがたくない渾名を頂いているようで御座るが――今の様子を見るにしても、拙者、彼女がその様に呼ばれるような人間には、とても思えぬが」
「ああ」

 彼女らが視線をやった先には、華やかな少女達の一団がある。その先頭を歩く小柄な少女は、綾瀬夕映。彼女の蘊蓄は、もはやツアーガイド顔負けのそれである。彼女の話を聞いていればそれこそツアーガイド要らずと、彼女の周りには級友達が集まって、その蘊蓄を観光案内代わりに耳にしながら歩みを進めている。
 ほんの少し得意そうな表情で少女達を引き連れるその様子に、シロが口にした渾名はあまりに似合わない。

「綾瀬さんは――雑学に関しては、毎度毎度驚かされるほどに博学ですが――何と言いますか、自分が興味のない事に関しては、全く手を付けようとしないのです。語学や歴史などでは時折いい成績を収める事もありますが――理数系は割と壊滅的で」
「成る程――学校の勉強など、つまらないものの代名詞で御座る故に。博学なれど、成績は振るわず。ついた渾名が“馬鹿ブラック”と」
「そういうことですが――いつも目を輝かせながら教科書を広げているあなたが、そんなことを言いますか?」

 苦笑しながら言うあやかに、シロは同じような表情を浮かべて、後頭部を掻く。銀色の緩い三つ編みが、軽やかに揺れる。

「いやまあ――拙者事情があって、ろくな子供時代を送っておらんで御座るからな。今更それを悔やむ気は欠片も御座らぬが――とは言え、年相応の子供として、学校で勉学に励める事が、今はこの上なく幸せに感じるので御座る」
「まったく――その気持ちの欠片でも、“馬鹿レンジャー”の連中に伝えてやりたいですわね」

 土産物屋に置かれたイミテーションの日本刀を指さしてはしゃいでいるクラスメイト――その一角“馬鹿レンジャー”共に目をやり、あやかはため息をつく、しかし、そのため息は何処か柔らかいものであった。
 クラスメイトから“委員長”と呼ばれる事が定着し、ともすれば必要もない程度の責任感を持つ彼女とて、やはり修学旅行ともなれば、それなりに心が弾む。これは学習の一環だと念仏のように自分に言い聞かせたところで、やはり楽しいものは楽しいのだ。
 こんな気持ちを、目の前の彼女に言ったらどうなるだろうかと、あやかは思うが――おそらく、結果は言うまでもないだろう。修学旅行が学習の一環だったとしても、それが楽しいものである事に違いはないのだから。
 ふと視線を移せば、夕映が率いるのとは別の一団が目に入る。
 新撰組の陣羽織を制服の上から羽織り、鉢巻きを頭に巻いた、金髪の小さな少女を中心とした一団である。つまりは、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルを。
 彼女の羽織る陣羽織は、土産物屋で和美が見繕ったものである。嫌がるかと思われたそれを、どうやら彼女はいたく気に入ったらしい。普段の彼女を知る人間からすれば、驚かずには居られないほど、楽しそうな笑顔を浮かべるエヴァンジェリン――しかし果たして、その驚きはひとときの事。そんな彼女にカメラを向けてはやし立てる和美に釣られて、クラスメイト達も、こぞって彼女を盛り上げる。
 教室の片隅で、いつも不機嫌そうに空を見上げていた少女が――自分たちに笑顔を向けてくれている。彼女が今改めて、自分たちの仲間になったような気がして――少女達は、彼女と共に、心の底から笑う。

「――ああ、全く――エヴァンジェリン殿も、参道の上の方では土産物を買ってはならぬと言うのに」

 そんな一団を微笑ましげに見遣りつつ、シロは苦笑をこぼす。清水寺参道の土産物屋は、寺に近づくほどに値段が高い――インターネットなどでは割合簡単に知ることのできる情報であるが、あやかはそんな事をシロが口にした事が、どことなく意外であった。
 そんな彼女の視線を感じ取ったのか、シロは彼女に向けて、軽く手を振ってみせる。

「仕事で何度か訪れた事がある故に、この辺りは――古い町で御座るからな、それなりに人に害を及ぼす魑魅魍魎も跋扈すると」
「さらりと恐ろしいことを言わないで欲しいものですが」

 露骨に嫌そうな顔をするあやか。期待に胸膨らませて訪れた旅先で、実はそこが人智の及ばない危険地帯であったなどと、正直なところ聞きたい話ではなかった。

「安心されよ、“そういうものもある”で納得できる程度で御座る。古くよりの強力な結界に守られ、そして古くからこの町を守ろうとする人々に守られ――そうでなくば、この町は“古都”などと呼ばれる遙か手前で、文字通りのゴースト・タウンになっているで御座るよ」
「笑えませんわよ、その喩えは」

 あやかは僅かに眉をひそめ――すぐに眉間の力を抜く。果たしてその表情が、柔らかな苦笑に変わる。
 彼女の視線の先には、エヴァンジェリンの姿がある。見た目愛らしい容姿に、とってつけた陣羽織に鉢巻き。彼女に向けられる視線は、とても暖かなものである。彼女の容姿以上に、浮かべた表情がそうさせているだろうことに、きっと彼女は気がついていないだろう。

「あ、ちょっとそこのあんた! 勝手にカメラ向けちゃ駄目よ! この子を玩具にしていいのは、あたしだけなんだからね!」
「ちょっと待て朝倉和美、いつから私が貴様の玩具になった。と言うか少し落ち着け。どう見てもそいつは外人だ。言葉が通じていないぞ?」
「どの口で落ち着けなんて言ってんのよエヴァちゃん。だったらさっさと通訳通訳! すっかり忘れてたけど、あんた一応ヨーロッパだかどっかの留学生でしょ? “自分を撮影したいならこのおねーさんを通せ”って、ほらほら!」
「いつから貴様は私のマネージャーになった? と言うか茶々丸! 貴様も黙って見ていないで、少しは――マスターがあまりに楽しそうで? ふ、ふざけるなこのボケロボ、いつ私が――」

 通りすがりの観光客までをも巻き込んで、楽しげな騒ぎを繰り広げる一団を見遣り、シロもまた、あやかと同じような笑みを浮かべ――

「……ん?」

 首筋に妙な違和感を覚えて、振り返る。
 霊能力者の勘は、単なる気のせいと考えない方が良い――かつての上司は、彼女にそう教えた事があった。
 これが殺意や敵意ならば、望む望まざるに関わらず、数多の戦いを駆け抜けた自分が気がつかない筈がない。しかし――この違和感は、不意に感じた視線は、そのようなものではない。だから彼女は、それを訝しんで振り返った。
 その先には、一人の少女が立っていた。
 中学三年生にしては、幾分小柄で細身の体。あどけなさを残す柔らかな作りをしているものの、つり目がちの目元のせいで、幾分かきつい印象を受けてしまう顔立ち。そして長めの頭髪を、側頭部でひとまとめにした独特の髪型と、いつも携えた長い布包み――

「……桜咲殿?」

 シロの視線の先に立っていた少女、彼女のクラスメイトである桜咲刹那は、彼女の視線に気がつくと――そそくさと、その場から立ち去った。

「……?」

 こちらに背を向け――ただ一人で、参道を上っていく少女。彼女がこちらに向けた視線に込められた“何か”の意味を――シロは、未だ掴めない。




 ちょっとした事件が起きたのは、それから暫く経ってからの事だった。清水寺は、山の斜面から張り出した本堂がとにかく有名であるが、実際には多くの建造物が並び立つ、いわばそれらの複合体である。
 ともかく“いちいち”と言う接頭語を付けても構わないほどに、少女達は全力で、その仏閣を満喫した。遊びたい盛りの現代の少女達。ともすれば、神社仏閣の類など、つまらない存在と感じられるかも知れないが、こと“修学旅行”というイベントに於いて、その様な心配をするのは杞憂というものである。
 しかしその異様に目を引く集団が――この寺院が建立された原点であるとの伝承もある“音羽の滝”にさしかかったところで、トラブルが発生した。
 “音羽の滝”は、清水寺の施設の一つで、湧き出す清水を、三本の樋に流し、それを滝に見立てた場所である。流れ落ちるその水には、それぞれに御利益があると言われ、観光客はこぞってそれを柄杓に受けるのであるが――その水を口にした三年A組のクラスメイト数名が、気分が悪いと訴えたのである。
 泡を食って飛んできた寺の人間と、引率の教師陣が、とりあえず彼女らを休める場所に移動させ――その様子を横目に、シロは小さく鼻を鳴らした。

「……この匂いは、酒?」
「間違いなかろうな」

 横合いから、柄杓が突き出される。見れば、エヴァンジェリンが不機嫌そうな顔で、それをシロに向けていた。もっとも、未だに制服の上に羽織を重ねた彼女の姿は、その表情に似合わぬものではあったが――シロは敢えてそれには触れず、促されるままに柄杓の水に口を付ける。
 水に幾分薄められては居るが――口の中に広がった独特の芳香と、胸の奥が熱くなるようなこの感覚は、間違いなくアルコールのもたらすそれである。

「――これは」
「ふん――馬鹿なことをするものだ。中学生のガキ共に、何が悲しくて酒なんぞ――もったいない」
「いや、そういう事では御座らぬが」
「少なくとも、只の悪戯ではなかろうよ」

 “音羽の滝”は、有名な観光名所である。その様な場所に対する悪戯と考えられなくもないが――確かにエヴァンジェリンの言うとおり、只の悪戯と言うには妙な事をするものであると、シロもまたそう感じる。

「全く――何が目的かは知らんが、馬鹿なことをしてくれる。これで修学旅行の予定に狂いが出ようものなら――この悪戯を仕組んだ者をどうあっても探し出して、括り殺してくれるわ」

 少々言葉が過激なのは、いつものこと。だが、大筋のところで、シロも彼女の言い分には賛成だ。彼女らの視線の先では、新田やネギを含めて、引率の教師達がなにやら話し合いをしている。大した悪戯ではないが――それでも、生徒の一部に被害が出ているのだ。彼らにとっては、笑い事では済まされないだろう。
 そして彼女らにとって見ても――一度しかない修学旅行に水を差された事には、憤りを感じずにはいられない。幸いにも、滝の水に混ぜられた酒は、それほど量が多かったわけでなく、飲んでしまったのも柄杓一杯程度。暫く休んでいれば、少女達の具合もじきに良くなるであろうが――

「エヴァンジェリン殿」
「何だ?」
「エヴァンジェリン殿は――どう思われる」
「ふん――今の時点では、まだ何も言えんな」

 顎に手をやり、エヴァンジェリンは言う。

「悪戯と言うには少々妙だ。だが――単純な悪戯でしかないという可能性も、まだ残っている。私たちがここで酒に酔って昏倒したところで――何処の誰が得をすると言うのだ」
「それを言うならば――やはりこれは只の悪戯だという可能性の方が大きくはなかろうか」
「場所が場所だからな。そのようなちっぽけな成果の為に、冒すリスクが大きすぎよう。それに――今までこの場所で、そんな馬鹿な悪戯があった等という話は聞かん。そして――いささか不服だが、此度の旅行には、当初裏側の人間の思惑があったようだしな」

 その言葉に、シロの整った眉が小さく動く。

「貴様の男からは何も聞いていないのか」
「――先生は、ただ“楽しんでこい”と」
「全くあの男らしい――ま、知っていたからとて、どうなったものでは無かろうが。あの古狸にしても、相坂さよの一件から何かが吹っ切れたのか、わざわざ私のところに頭を下げに来たぞ。言うに事欠いて、あのクソガキのフォローを頼めないかとな」
「ネギ先生のフォロー、で御座るか――」

 学園長が当初、何を考えていたのか、シロにはわからない。そしてさよの一件を経て、彼が変化したと言うことも――何となくそれを感じ取る事が出来たとしても、その変化が、当初の“思惑”をどの程度変えたのか等、シロには与り知らぬところである。

「それで、エヴァンジェリン殿は?」
「とりあえず思い切り――頬面を張り飛ばしてやった」
「……」
「それくらいやっても罰は当たらんだろう? その上で頭を下げた態度に免じて、ふざけた言い分は不問にしてやったが」

 エヴァンジェリンの言葉に、シロは溜めていた息を吐き――彼女に問う。

「して、エヴァンジェリン殿は如何致すおつもりか」
「決まっている。あのクソガキがどうなろうと、私の知ったことではないが――これ以上修学旅行の予定が乱されるのは御免被る」
「ほう、では」
「ああ――犬塚シロ」

 金髪の少女は、不敵な笑みを浮かべ――シロの背中を、軽く叩いた。

「私が許す。我らが旅路を邪魔する者は――一人残らず、お前が斬って捨てろ」
「って、拙者で御座るか!?」

 思わず膝から崩れ落ちそうになったシロが、エヴァンジェリンの方を振り返れば――彼女は、満面の笑みを浮かべ、薄い胸を張ってシロに言った。

「当たり前だろう。何せ今の私は――吸血鬼としての力や、魔法の力――その一切を封じているのだからな」




 同日午後六時、京都、嵯峨嵐山、「ホテル嵐山」ロビー。
 いかにも旅館然としたたたずまいを見せるホテルのロビーに、麻帆良学園本校女子中等部、三年A組の少女達の姿はあった。
 多少のゴタゴタはあったものの、彼女たちは予定よりやや遅れた程度で、今回の修学旅行の基点となるこの宿にたどり着いていた。これより三日の間、彼女たちはこの宿で寝起きし、京都観光に赴く事となる。
 エヴァンジェリンの見立て通り、音羽の滝で“悪戯”にみまわれ、謝って酒を飲んでしまった生徒達も、バスに戻る頃には回復し、既にその事を笑い話として済ませるまでになっていた。

「あー、では、注意事項を、ネギ先生の方から」

 麻帆良女子中三年生の学年主任であり、“鬼の新田”の異名を取る新田教諭が、少女達を前に言う。京都方面に修学旅行に向かったクラスは三年A組だけでは無いというのに、何故寄りによって彼がこちらについてきたのか――これでは、羽目を外す事が難しくなると、一部の少女達は不満げであった。
 もっとも彼は、学園側から“ベテラン教師”としてネギのフォローを仰せつかっている立場である故に、他のクラスに回る事は最初からあり得なかったのだが――そのような事情など、少女達には関係のない事だ。
 ともかく、何故か説明の役目を譲られたネギが、緊張気味に少女達の前に立つ。いつも教卓で同じ事をしているとは言え、やはり場所が違えば緊張の度合いも違うのだろう。何処か硬い声で、彼は言った。

「え、えーと……この旅館には、一般の旅行客の方も宿泊していますので、騒いだりせずに、節度のある行動を心がけてください。夕食は午後七時から、入浴は午後八時からの予定ですので、時間を守ってください。えっと――入浴に関して、このホテルには二つ浴場がありますが、一つは貸し切りになっていないので、そちらは使わないでください。非常時の避難経路はしおりに載せてあるので、それに従って――」

 ネギの一通りの説明を終えて通された部屋は、旅館の外見から想像出来るとおりの和風の、落ち着いたものだった。普段は四人程度で使用するのが前提の部屋に、六人から七人の少女達がひしめく事になるのだが、それもまた、修学旅行という行事の醍醐味の一つであろう。幸いにも、部屋の一つ一つは割と広い作りで、それほどの圧迫感は感じない。
 シロ、あやか、和美の、近頃一緒に行動する事の多い三人組に加えて、“三年A組の母”こと那波千鶴、“自称地味な少女”村上夏美、そして近頃何かと横島一家とも接点の多い“自称では否定している忍者っぽい何者か”――長瀬楓を加えた修学旅行第三班の面々は、とりあえず部屋の隅に荷物を纏めると、制服の上着を脱いだり床に座ったりあるいは寝そべったりと、思い思いにくつろぎ始める。

「やっぱり旅館ったら温泉だよねー。しおり作ったときに調べたけど、ここ天然温泉が売りなんでしょ? 楽しみ楽しみ」

 座椅子に座り、大きめの卓袱台の上に人数分置かれていた手ぬぐいを手にとって頭に載せ、和美が言う。行儀が悪いとそれを窘めつつも、あやかも満更では無い様子であった。

「でもその露天風呂? 二つあるのに、一つは使えないんだよね。ちょっと残念」

 そう言ったのは村上夏美であるが――その言葉を、すぐさまシロが否定する。

「大丈夫で御座るよ。拙者らはここに連泊する故に、日替わりで入浴できる浴場が変わるので御座る」
「あらまあ」

 口元に手をやり――エヴァンジェリンなどとは正反対の意味で、中学生には見えない容姿を持つ少女――那波千鶴は言った。

「間違えないように、気をつけないと――大変なことになっちゃうわね」
「何で?」
「だって――ここのお風呂、混浴みたいだし」
「え、そーなの? 危ない危ない、後でチェックしとかないと――」

 暫く思い思いに談笑していた少女達であったが、不意に何かを思い出したように、あやかが夏美に向き直る。

「そう言えば夏美さん」
「ん? どったの委員長」
「いえ――昼間の悪戯の事ですが、もう気分は大丈夫ですか?」

 その言葉に、シロは僅かに反応する。果たして彼女の見せた些細な反応に、気づいた人間は誰もいなかったけれども。

「あ、うん。もう全然平気――けど、信じらんない事する人がいるよね。あんな場所に、お酒を混ぜ込むなんてさ」
「しかし、混ぜられたのがお酒程度で良かったではござらんか」

 そう言ったのは、和美と同じように座椅子に座り、湯飲みを傾けていた楓だった。シロと同じような、時代がかったしゃべり方をするせいか、和室で正座をする彼女の姿は、妙に絵になる。

「もしも仕掛けられていたのが毒物か何かだったら、今頃夏美殿は、全国ニュースのトップを飾っているでござるよ」
「う……嫌なこと言わないでよ長瀬さん。考えたら怖くなって来ちゃうじゃない」
「つーか、流石忍者。その辺の事には警戒を怠らないわけね」
「何のことでござるかなあ」

 自分の体を抱えるようにして言う夏美の言葉を継いで、和美が混ぜ返すが――考えてみれば確かに、笑い話で済まない事態になって居たかも知れない出来事で――
 だからこそ、わからない。そうシロは思う。
 現に夏美は既に回復し――新田教諭らの警戒心を煽り、エヴァンジェリンの気分を多少損ねた程度で、旅行は滞りなく続いている。一体あの“悪戯”に、何の意味があったというのか?
 それともやはり、当初はこの修学旅行には、裏に隠された思惑があると――それを聞かされたせいで、警戒心が高まっているだけで、あれは本当に、ただの“悪戯”だったのだろうか?

(ま――拙者がどれだけ考えても、答えは出まい。それよりも今は――)

 そこまで考えて、シロははたと気がつき、動きを止める。

(……成る程、だから先生は、あれだけ拙者に“楽しめ”と――確かにこう気を揉んでいては、旅行どころでは御座らぬな)

 後でネギとエヴァンジェリン辺りに事情を聞く必要はあるだろうが――それ以上は必要ない。それよりも、気を揉みすぎてろくに修学旅行を楽しめなかったとなれば――“遊びの達人”を自称するあの優しい青年は、どう思うだろう。

「シロちゃんシロちゃん!」
「な、何で御座るか?」

 そんなことを考えていた彼女は、唐突に声を掛けられて振り返る。見れば和美が、テレビの脇に座り込んで、なにやらこちらを手招きしていた。

「ここのテレビ、有料チャンネルあるんだけど! ほら、百円入れたら観られる奴! 修学旅行だと思って電源入んないようになってんだけどさ、甘いっての。主電落として配線抜いてるだけじゃ――シロちゃん小銭持ってる?」
「朝倉さん! あなた一体何を――村上さんと長瀬さんも、目を輝かせない!」
「ま、まあまああやか殿――和美殿も、流石に修学旅行でそう言った事をするのはどうかと――」
「何よ? あたしらだってうら若き乙女よ? それなりにこーゆーのには興味があるに決まってんじゃん。今更良い子ぶっても――それともアレっすか? シロちゃんには、もはやこんなモンは必要ないって? 羨ましいわねー、彼氏持ちは」
「えっ!? 犬塚さんって彼氏いるの!?」
「あれ、村上は知らなかったっけ? いやー、それがこの子ってば」
「かっ――和美殿、今は拙者のことは――」
「あらあらまあまあ」

 麻帆良学園本校女子中等部三年A組、修学旅行初日の長い夜が、今始まる。




 ほぼ同時刻、京都某所。
 コンビニの駐車場にて、深紅のスポーツカーにもたれかかる美女と、バイクにもたれかかる青年の姿があった。二人の容姿と、傍らにある各々の愛車も相まって、それなりに人目を集めてはいるのだが――今の二人には、その様なことは気にならない。

「……何処よここ」
「……知らないよ」

 金髪の美女――千道タマモがそう言えば、長身の青年、藪守ケイがそう返す。

「……」
「……」

 しばしの沈黙が二人を包み――

「何でナビついてるのに道に迷うんだよ! 大体、ここは自分の第二の故郷みたいなモンだから任せておけって、タマモさん一体どの口でそう言うことを!?」
「うるさいわね! しょうがないでしょ、ナビが故障しちゃったんだから! それにあんた、故郷ったってどれだけ昔の事だと思ってんの! もののたとえよ! ものの! それにあんたのバイクだってナビついてんじゃないの!」
「僕のはポータブルナビなの! それも結構古いから、道がわかるくらいで目的地までの詳しいルートなんて――どっちにしろ、タマモさんの車にガソリン入れなきゃ動けないし! 何で途中で給油しないのさ!」
「はっ――京都まで四回も給油が必要な奴に言われたか無いわよ! あんたひとっ走りガソリンスタンドまで行ってきなさい!」
「何で僕が――ああもう、これでシロさん達に何かあったら、僕ら美神さんにどんな目に遭わされるか――」

 ケイはそこで一度言葉を切った。
 彼の言葉に――タマモも思わず、彼と顔を見合わせる。
 そして二人は同時に、もの凄い勢いで振り返った。

「「すいません最寄りのガソリンスタンドって何処ですか!? あと、ホテル嵐山って知りませんかっ!?」」

 その先にいたコンビニの店員はと言えば――あまりの剣幕に、ゴミ袋を持ったまま硬直するしかなかったわけであるが。










今回は少しコミカルな感じに。
「ホテル嵐山」に独自設定が多く盛り込まれておりますが、
物語の為の変更とご理解ください。



[7033] 三年A組のポートレート・Mission Start!
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/09/28 16:33
 自分自身が助けて欲しいと思っている時に、他人に手を差し伸べる事なんて出来るだろうか?
 それは難しい問いかけだけれど、一つだけ言えることがある。
 藁にも縋る思いで、差し伸べられる手を待つしかない人間には、差し伸べられる手の“中身”なんて関係ないと言うことだ。




「気持ちいいですなあ、ネギ先生。夜にはまだほんの少しの肌寒さが残るとは言え、こういう場所では、それが逆に心地良い」

 ホテル嵐山露天風呂、午後八時過ぎ――頭に手ぬぐいを載せ、湯船に身を沈めた中年の男性、新田はそう言った。普段は“鬼の新田”などと呼ばれ、生徒に恐れられている彼ではあるが、流石にこういう場面に於いても、張りつめたままでいる――と言うのは無理だったのだろう。いつもは固く結ばれた口元も今は緩み、普段は厳しい表情は、今は柔らかな皺によって崩されていた。

「ええ――そうですね」

 しかし果たして、それとは対照的に、彼の隣に身を沈めて、ただ湯気の立つ水面に映る月を眺めるネギの表情は、硬い。イギリス出身のこの少年が、あまり日本式の風呂が好きでない事を、新田は聞き及んでいる。けれど、彼の表情が硬い理由は、そこから来ているわけではないだろう。

「昼間のことを気にされているのですかな、ネギ先生」
「……気にしてる、と言う訳じゃ――でも、生徒に危害が及ぶのを防げなかったのは、事実です」
「――あんな場所であのような悪戯を仕掛ける輩がいようとは――憤りを抑えられませんな。とはいえ――それを防げなかったのはネギ先生のせいではないでしょうに」

 観光名所にあのような悪戯が仕掛けられているなどと、誰が想像できるだろうか。新田は教師という仕事を続けてきて、今の今まであんな馬鹿馬鹿しい場面に出くわすことはなかった。

「まあ……馬鹿馬鹿しい、で済んだ事を、今は素直に喜ぶべきなのでしょうが。私も最初は考えが及びませんでしたが――長瀬が言っておりましたな。仕掛けられていたのが酒でなければ、あるいは――と」

 そう言って新田は、知らず硬くなりかけていた表情を解きほぐすように、湯で顔を洗う。

「全く生徒に言われて初めてそう言うことに気がつくとは、私も年を食ったものですが――時にあの子は、何かの武術でもやっているのですかな?」
「ええと……本人は“実家に伝わる古武術”とか」
「道理で」
「――あの、新田先生」

 ネギは、湯船に揺れる月から目をそらさないまま、新田に言う。

「先生はその――どう、思いますか」

 口に出してから、もどかしさに歯噛みする。誰が聞いたところで、その問いかけから自分の真意を推し量ることは難しいだろう。あまりにも漠然とした質問であった。けれど――今は自分が、一体何を言いたいのかもわからない。ネギは自分の心が乱れていることを感じながらも、それを落ち着かせる術を持たないのだ。
 あまりにも曖昧な問いかけを受けた新田は、暫く黙っていた。
 ややあって、彼は静かに口を開く。

「今回の一件がただの悪戯なのかどうか――と言う事ですかな? 私はそうだと思います。危険と言えば確かにそうだった。けれど――それはどうすることも出来ない、無差別な悪意でしかない。私らに出来ることは何もない」

 場所が場所だけに、修学旅行に赴いた彼女たちだけを狙った――と言うわけではないだろうと、新田は言う。
 その言葉に、ネギは小さく反応する。彼は気がついているのだろうか? わざわざ、自分たちだけが狙われていた可能性はない――などと口に出すと言うことは、彼女たちには“狙われる理由がある”と言っているようなものではないだろうか? それともそれは、ネギ自身の考えすぎなのだろうか?

「見た目華やかな女子中学生の集団ですからな――毎年大変ではありますよ」

 ネギの内心を見透かしたように、新田は言う。

「まあ、あまりネギ先生のような子供の前で言うのはアレですが――痴漢だの盗撮だのと」
「え、あ、はい……」
「ま――ネギ先生は、そう言う方面での心配はせずとも結構です。それとも――何か他に?」

 彼の問いに、ネギは黙り込んだ。単純に、何と言葉を返せば良いのかわからなかったから。その沈黙をどう受け取ったのか、一呼吸置いてから、新田が言う。

「んん……ここからは“同僚”としてではなく、まあ、厚かましい年長者として、君に話をしても良いだろうか、ネギ君」
「え? あ、はい」

 その口調は柔らかく――少なくとも、彼に付けられた“鬼の新田”などという渾名には似合わない。しかしゆっくりと、相手に諭すようなその言葉に、ネギは自分が、彼の生徒になったかのような錯覚を覚える。
 ああ、この男は、きっと何処までも“教師”なのだろう。
 自分のような半端な人間とは違って、自分の生きる道に迷いなど無いような、そんな立派な教師なのだろう。

「ここ最近、ネギ君が何かに悩んでいるのは知っている。ま……仕事中はそれを知りながらも、君がミスを犯せば叱責せざるを得なかった。勘弁してくれと言うつもりはないが、学年主任として捨て置くわけにもいかんのでね」
「いえ、そんな――実際、考え事をしてつまらないミスをしていたのは、僕の方ですから」
「私にその悩みを打ち明けろ、とは言わんよ。教師をやっていて長いが、私は思うんだ。悩みを人に打ち明ければ、楽になることもあるだろう。もしかすると、打ち明けられた方も、何かの助けになれることがあるかも知れない。けれど――人が悩むというのは、そんなに単純な事ばかりじゃない」

 何処か遠い目をして、新田は言う。彼の瞳に何が映るのかはわからないが――色々な意味で、彼は大人で、自分は子供なのだと、ネギはそう思った。

「人に打ち明けられない悩みだとか――そういうものでもない。悩んでいるものの正体が、自分に分からないことすら、ままある」
「……」
「何に悩んでいるのかがわかっているなら、言っては何だが話は早い。どうにかすれば良いんだ。本当にどうにかなるかは別としても、やるべき事は自然と見えてくる。けれど――人間には、道の見えない恐怖と言うものもまた、存在する。これは私が教師だから、そういう風に思うのかも知れないけれど」
「いえ」

 ネギは言った。

「新田先生は――立派な先生だと思います。でも、それ以上に――そう言うことが自然とわかるのは、新田先生が“立派な人”だからなんじゃないかと、僕は思います」
「私のような頑固ジジイには、過ぎた言葉だね。君のような前途有望な若者からそんなことを言われると、どうも面映ゆくてならない。ともかく――」

 照れくさそうに顔を擦りながら、新田はネギに視線を向ける。

「これは私の想像に過ぎないがね。ネギ君の悩みというのもまた――簡単に割り切れる類のものではないだろうと、そんな風に思うのだよ」
「……」
「――若いうちは悩むべきだ、などと、私にはとても言えん。悩みとは誰もが解消したいものであって、真剣に苦悩する人間に、何故そうも簡単な事を言えるだろうか。そんなのは、ただの自己満足だ。結局私には、どうすることも出来ないのだから」
「でも――新田先生は、ちゃんと生徒の助けになっていると思いますよ」
「何を馬鹿な。私は嫌われ者の“鬼の新田”だよ。そんな大層なものじゃない。顔が合えば怒鳴り散らす、そんなカビの生えたような、古風な教師だ」

 彼がそこで一度言葉を切れば、彼とネギの間には、沈黙が流れた。
 夜の匂いを含んだ風が、露天風呂から立ち上る湯気を吹き散らす。よりハッキリと見えるようになった月を仰ぎ、ネギは、思考に霞が掛かったまま過ごしてきたようだった、ここ数日の事を思い出す。




「しかし――それではやはり、修学旅行の京都行きは中止にするべきではないですか? あるいは、行き先を今からでも他の場所に変更するとか」

 二日前の土曜日、麻帆良学園理事棟、麻帆良学園学園長室――向かいに座る“老人”の言葉に、ネギは反論した。
 京都に怪しげな動きがある。それはどうやら、学園長が当初画策していた“思惑”――ネギを使って、東西の諍いに一石を投じる――それに関係があるものかも知れない。しかし、自称“身勝手な人間”である近右衛門は、自分の人生が一変するような事件を経て、その思惑を取り消した。
 ならば――今更ネギが、危険を冒して京都に向かう必要はない。
 いや、自分がどうなろうと、この際関係ないとネギは言う。自分は“立派な魔法使い”になる修行のために麻帆良にいる。その事実は変わらない。けれど――生徒にはそんなことは関係ない。その結果、生徒に危害が及ぶ事にでもなれば――
 近右衛門も、それを改めて認識したからこそ、当初の予定を取り下げたのではないか。ネギはそう言った。

「先にも述べたが、尼ヶ崎“女史”の足取りは、未だ追えておらん。彼女が何処で何をしているのか――一人なのか、あるいはそうでないのか。彼女の狙いが何処にあるのかも」
「……」
「彼女が単純に、心底儂ら関東魔法協会を嫌っておって、ネギ君が特使として西に赴くのが気に入らぬ――と言うのならば、話は早い。それこそ、予定を変更して、三年A組には京都以外の場所に行って貰うまでじゃ。京都行きと言うことで色々準備をしてきたであろうあの子らには、申し訳ないがのう」

 しかし、と、彼は首を横に振る。

「じゃが、彼女の本意が別のところにあったらどうじゃ? こちらが突然に修学旅行の予定を変えて――それで何も動かんと言う保証があるか?」

 ため息混じりに彼は続けた。その顔には、苦渋の表情がありありと浮かんでいる。
 ただならぬ何かが存在している――けれど、こちらが動き方を変えたからと言って、安全が保証されるわけでもない。むしろ、動きを変えた事が“あだ”になるかも知れない。
 建設的なやり方でないのは分かっている――五十年前、麻帆良学園を襲った脅威に対して、自分たちが何も出来なかった、あの時のように。

「当初、君が京都に向かうに当たっては――それなりの安全策を取っておった。万全とは言い難いが、それでも何かあったときに、何の対応も取れぬハワイに行くよりは、幾分かマシじゃろう。それを流用しつつ、新たにもいくつか策を取らせて貰う。じゃから、君には――」

 “好々爺”とした表情を消し、真剣な面持ちで、近右衛門はネギに言った。

「麻帆良学園本校女史中等部、三年A組担任として――その役割を果たすこと、それのみに全力を注いで貰いたいのじゃ」




「――さて、私は先に上がらせて貰いますよ、ネギ“先生”」
「あ、はい――あの」

 湯船から上がった新田に、漠然と記憶を蘇らせていたネギは、はたと我に返る。

「今日は色々と――いえ、いつも僕のために――本当に有り難う御座います」
「何を馬鹿な。年を取って説教臭くなっておるだけです。礼を言われる筋合いではありませんな――では」

 そう言って脱衣所に消えていく彼を、ネギはただ見送った。いつの間にか側に現れた白いオコジョが、「男だねえ」などと、感心したように良く分からない事を呟いている。
 そしてネギは気がつく。自分が先ほどまで彼と交わしていたのは、会話と呼べるようなそれではなかったことに。そしてその原因はおそらく――彼の言葉に全く応える術を持たない、自分。
 自分が自分で無くなっていくような空寒い感覚。自分が一体何を考え、どうしようとしているのかがわからない。新田はおそらく、そう言ったネギの心を、ほんの僅かなりとも感じていたのであろうが――
 不意にネギの脳裏に、白髪の青年が、冗談交じりに言った言葉が蘇る。

「……空っぽのままじゃ、ナンパは出来ない、か……」
『――あ、兄貴? 突然何を言い出すんで? 何かおかしなものでも食べたんですかい?』
「え? あ、い、いやそう言う訳じゃないんだけど――」

 ネギは、心に蘇ったその言葉が、知らず口からこぼれていた事に気がついて、慌てて首を横に振る。当然ながら、自分の悩みというのは、間違っても“ナンパ”などと言う行為が出来るかどうか――そう言うことではない。
 あの青年が言いたかったのはきっと――今の自分は、自分らしくないと、そう言うことだったのだろう。いつも下を向いて、靴の先だけを眺めて歩いていくような生き方は、少なくともネギ・スプリングフィールドという少年には似合わない。
 けれど――と、ネギは思う。

(今までの僕はきっと――立派な魔法使いだとか、教師だとか――そう言う自分の目指す何かであろうとする自分を、必死に“作ろうとしていた”だけなんだ)

 そしてならば、と、彼は思う。

(だったら――そんな自分を作ろうとしてた、本当の僕は――一体誰なんだろう?)

 自我の存在に気がついた子供のような、得体の知れない不安感が、自分の中に渦巻いている。そう、それはまさに、ネギにとって新たな自我の発見だった。英雄の息子、立派な魔法使い、少女達を導くべき教師――そう言う飾りを全て取り払った内側に佇んでいた、ただのネギ・スプリングフィールド。
 彼は一体どのような顔をしていて、何を思い、そして、どんな風に笑うのだろうか。
 それを一番知りたいと思うのは、他ならぬネギ本人であった。
 湯船にただ身を沈める彼の耳に――少し離れた場所から響く、少女達の楽しげな声が届いた。




「滑らかな肌に弾かれた水滴が、その艶めかしい起伏を筋になって流れ落ちる――かあ、良いねえ良いねえ、眼福だねえ」
「朝倉さん――あなたひょっとして、そっちの趣味がありますの? いえ、個人の趣向は自由とは言え――友人としては、少しばかり考えるところがありますよ」
「いや、あたしだって本気で言ってる訳じゃないけどさ。でもこう、わからないかなー? オンナのカラダってのには、こう純粋な美しさがあるわけよ。だからってあたしには、それを本気でどうこうしようって欲求はなくて。わかんないかなー、このさじ加減。何だかんだ言っても、無いものは立たぬって言うか――あたっ!? ひ、ひどいなー、何も叩くこと無いじゃない」
「友人として言いますが、あなたはもう少し慎みを持った方が宜しくてよ」

 一方、ネギ達が使っているのとは別の、もう片方の露天風呂では――少女達が、今日一日の汗を流していた。湯船の縁に腕を組んでそこに顎を載せ、洗い場の方に何気なく目線をやっていた和美が――冗談なのか何なのか怪しげな事を呟けば、隣に浸かっていたあやかが、苦笑混じりに合いの手を入れる。
 何だかんだと言って、やはりこの二人の仲は良い――洗い場で体を洗っていた犬塚シロは、そんな風に思う。

「和美のアレって、何処まで本気なんだろーね」

 隣にいた村上夏美が、苦笑いを浮かべつつシロに言う。何せ和美の言葉の対象は、おそらく先ほどまでシャワーを浴びていた彼女自身だろうから。
 むろん冗談であることはわかっていても――何せ相手は、中学校限定と言わず、麻帆良学園都市に名の通った報道部部員、“麻帆良のパパラッチ”朝倉和美なのである。妙な冗談に妙な気恥ずかしさを感じてしまい、湯船に背を向けるように――

「ふふ……村上って綺麗なお尻してんのね」
「ひいっ!?」
「朝倉さん!! ――軽い冗談でも、こと体に関しては、相手に大きな不快感を与えることもあるんですよ」
「いや、褒めてるんだってば」
「全然嬉しくない! もう――そう言うことを言うんだったら私なんかよりちづ姉の――」
「――いや、なんてーの……その、あたしにもプライドってもんがあってさ――言い訳も出来ないくらい圧倒的な戦力差ってものを目の当たりにすると」
「……和美、それは私に対する嫌味? あんたにはどーせわかんないわよ、何だかんだ言って美人でスタイルも良くて――そんなあんたに、私の気持ちなんて」
「ちょ、ちょっと、何言っちゃって、村上だって十分――話せばわかる!」
「問答無用! ――天誅、てんちゅーっ!!」
「ぎゃーっ!?」

 湯船に立ち上がる水柱と、あやかの怒声混じりの悲鳴を聞きながら――シロはシャワーで、体を包んでいた泡を洗い流す。
 その折に、ふと我関せずと髪の手入れをしている那波千鶴に目を向けて見れば――

(く――タマモのあれは、まだ紛い物と納得することも出来ようが――これが現実というもので御座るか? これがケイ殿の申す、格差社会と言う奴で御座るか――?)

 自分でも非常に――本当に馬鹿馬鹿しいことを考えているのはわかっているのだが、それでもその嗜好に歯止めを利かせられないのは――自分もまた、年頃の少女という奴だからなのだろう。きっとそうに違いないと、シロはただ一人、自分を納得させる。

「こんな場所で何を喚いて居るんだ――全く、迷惑な奴らめ」

 唐突に響いた声に顔を上げてみれば、そこには抜けるように白い肌にタオルを巻いた、金髪の小柄な少女――エヴァンジェリンが立っていた。顔を向けたシロに気がついたのか、彼女は視線を僅かだけそちらに向けると、いつものように小さく鼻を鳴らす。

「私は日本式の風呂場は嫌いではない――とは言え、風呂場とプールの区別も付かんようなガキ共と一緒に風呂に入らねばならんとは、残念でならん」
「そう申すな――和美殿も夏美殿も、言いたいことは色々あろうが、騒ぐのはその辺りにしておくで御座るよ」

 その言葉と共に、和美は引きつった笑みを浮かべ、夏美は仏頂面で、それぞれ湯船に体を沈める。それを見遣ってから、エヴァンジェリンは不機嫌そうなまま――しかし小走りに湯船に向かい――

「ちょっと待った」
「うきゅ」

 背後から彼女を追いかけてきた明日菜が、彼女の体に巻かれたバスタオルを引っ掴み――エヴァンジェリンは中々に愉快な声を上げた。

「神楽坂明日菜――貴様、何のつもりだ」
「何のつもりだ、じゃなくてさ。湯船に入る前にはちゃんと体を洗いなさい!」
「ふ、ふん――私は汚れてなど」

 明日菜は黙ってエヴァンジェリンの腕を掴み上げると――そこに顔を寄せて、鼻を鳴らす。

「……汗臭い。まー、あれだけはしゃぎ回れば当然だけど」
「く、き、貴様、言うに事欠いて――」
「いいからさっさと体流してきなさいっての!」

 不満そうに明日菜を睨みながら、エヴァンジェリンは鼻息も荒く、洗い場の椅子に腰を下ろす。手桶に蛇口から出した湯を溜めて、それを一息に肩口から――

「熱っつううっ!?」

「――ねえ、シロちゃん?」
「何で御座ろうか」
「何か――私、この間“アレ”の為に必死に足掻いてたのが、馬鹿みたい」
「ふふ――“友人同士の諍い”など、終わってみればそんなもので御座るよ」

 シロの言葉を受けて、明日菜は苦笑を浮かべ、彼女の隣、夏美が座っていた椅子に腰を下ろす。エヴァンジェリンとは違い、きちんと温度を確かめたお湯を手桶に溜めて、体に浴びる。
 その背後では、元々入浴していたシロ達第三班と、後から入ってきた明日菜達第五班によって――広い露天風呂は、俄ににぎやかになっていた。こういった馬鹿騒ぎもまた、修学旅行の醍醐味の一つ――
 その様な時間は、脱衣所から響いた悲鳴によって、唐突に終わりを告げる。

「きゃああああっ!? な、なんやの、これっ!?」
「木乃香!?」

 明日菜が友人の悲鳴に振り返る――その視界の端を、銀色の影が過ぎった。唐突に響いたその悲鳴にいち早く反応したシロは、明日菜が振り返るよりも先に、立ち上がって脱衣所に走り出していたのだ。
 刹那の時間――呆然としていた少女達も、慌てて彼女の後を追う。
 息せき切って脱衣所の扉に手をかけ――シロは、一瞬だけ動きを止めた。そしてそのまま扉を一気に開き――それと同時に、銀色の燐光に包まれた右手を一閃する。
 扉の向こう側から、彼女に飛びかかろうとしていた“もの”――ぬいぐるみの猿と形容するのが、もっとも適当だろうか――得体の知れない“何か”は、その閃光によって上下に分断され――煙となって、虚空に消えた。

「木乃香殿っ!」
「し、シロちゃんっ!? た、助けてえなっ!!」

 しかし彼女の視線の先には、同じような“ぬいぐるみの猿”がひしめき合っていた。そしてその中心には、今まさにその“猿”に連れ去られようとする木乃香の姿が。

「うわっ!? ちょ、こ、これって一体!?」

 シロの背後から駆けてきた明日菜も、脱衣所の中の予想外の光景に、思わず言葉を失う。

「悪霊の類――では、御座らんな、式神か何かか――しかし一体――くっ!」

 再び飛びかかってきた“猿”を、シロは腕の一振りで切り裂いてしまう。しかし、何分相手は数が多い。木乃香との間には、まだ多くの“猿”がひしめいていて、それをかきわけて彼女にたどり着くのは、かなり難しいだろう事が伺える。
 更に腕に纏わせた銀色の燐光――霊能力者の間では“霊波刀”と呼ばれる、魂の力で作った武器を扱える自分はまだしも、明日菜達は完全に丸腰だ。シロは歯を食いしばって、それでも腕を必死に振り回す。
 そうこうしているうちに、木乃香は“猿”の群れに押し流されるように、脱衣所から連れ出されていく。それと同時に、自分たちの方にまとわりついてきていた“猿”達も、ゆっくりと後退はしていくが――果たして足止めを食っている間に、“猿”の群れは、悲鳴を上げる木乃香を、脱衣所から連れ去ってしまった。

「し、シロちゃん――あれって、一体!?」
「わからぬ――されど、間違いなく放っておくわけにはいかぬ!」

 シロは適当な脱衣かごの中から浴衣を引っ張り出して袖を通し――帯を締めるのももどかしく、脱衣所から廊下に駆けだした。
 途端に、誰かとぶつかった。

「わぷっ!?」
「し、失礼――ネギ先生!?」
「犬塚さん!? あの、これは一体!?」

 浴衣姿で杖を構える少年の先には――廊下の奥へと消えていく“猿”の一団。ネギは全く状況が飲み込めていない。無理もない話だが、彼の様子からそれは見て取れる。しかし今彼に、詳しく説明している余裕はないし、あれが一体何なのか、シロ自身にもわからない。
 けれど――やらなければならないことは決まっている。シロはそのまま、“猿”の群れに向かって駆け出しながら、ネギに向かって叫んだ。

「木乃香殿が攫われた! よって、拙者はあれを追う!」
「え、ええっ!?」

 ネギも慌てて、彼女の後を追う。十歳とはいえ、魔法の力を自在に操る彼の体力は、その年頃の平均的な少年のそれを軽く凌駕する。わけがわからないまま、しかし生徒がその“わけのわからないもの”に攫われた等と言われては、彼としても黙って立っているわけにはいかない。

「シロちゃんっ!!」
「明日菜殿はすぐに警察に連絡を! オカルトがらみの事件だと付け加えるのを忘れずに!」

 脱衣所から顔だけ出した明日菜にそれだけ言って、返答を聞く前に、彼女は走る速度を上げる。“猿”の群れは、それほど素早く移動しているようには見えない。しかしそれはどうやら見た目に騙されているだけのようで、既に群れは、非常用の出口からホテルの外に出るところだった。
 それを追いかけて、シロとネギは開け放たれた扉から外に出て――二人の視界に入ったのは、耳障りなスキール音と共に、猛烈な勢いでその場から遠ざかっていく、一台の黒いミニバン。

(どういう事で御座るか? 相手が何者かは知らぬが――最初から、奴らは木乃香殿を?)

 そうでなかったとしても、最初から“誰か”を“攫う”つもりであったことには間違いない。暗闇の中を遠ざかっていくテールランプを睨み付け、シロは舌打ちをする。いくら彼女の脚を持ってしても、知らない街で車を追跡するのは難しい――

「丁度良いところみたいじゃない!?」

 しかし次の瞬間――耳をつんざく爆音と共に、赤と黒の影が、彼女らの前に現れた。思わずシロもネギも、両手で顔をかばってしまう程の勢いで。
 果たしてすぐに、それは深紅のスポーツカーと、バイクに跨った青年であることがわかったけれども。

「タマモ!? ケイ殿!? な、何故二人がここに――」
「良いから乗りなさい! 何かわかんないけど、アレを追っかければ良いんでしょう!? ケイっ!」
「了解――ネギ君、乗って!!」

 タマモは助手席のドアを蹴って開け、シロを引っ張り込む。ネギは目を白黒させながらも、ケイのバイクのリアシートに飛び乗り――

「待ってください! 私もっ!!」

 小柄な影が、ネギの更に後ろに飛び乗った。あまりの勢いにバイクがよろめき、ケイは左脚に渾身の力を込めてバイクを支えたが――突然飛び込んできたその小柄な影――黒髪の少女を、彼は知らない。

「って、君は!?」
「ああもう、良いから行くわよケイ!!」

 逡巡したのは、ほんの一瞬。
 アスファルトに黒々とタイヤマークを刻みつけ、無理な体勢のシロをシートに押しつけながら、タマモのガヤルドが急発進。続いて、有り余るパワーにフロントタイヤを持ち上げながらも、ケイのニンジャがそれを追う。もはや小さく霞むテールランプを見据えて、二人はアクセルを全開。夜の京都の静寂を、凶暴なエンジンの咆吼が切り裂いた。




「た、タマモ――この場は素直に助かったと礼を言うが、何故にお主が京都に?」
「何でって、そりゃあんた――それよりも、あんた今“助かった”って言ったわよね? 言ったわよね!?」

 どうにか狭い座席の上で体勢を整え、シートベルトを締める事に成功したシロがタマモに問えば――金髪の美女は、未だ彼女自身状況が飲み込めていないシロに対して、これまた訳の分からない迫力で問いかける。
 たまらずシロは、小さく頷く。木乃香はわけのわからない“何か”に攫われてしまったとはいえ――まだ、手遅れになったわけではない。正直なところ、彼女たちの唐突な登場は、シロにとってまさしく天の助けとなるものだった。
 果たして彼女が頷くのを見たタマモは――併走するバイクに向かって、形容しがたい程に力強く、親指を突き立てた。

「ケイ! 言質取ったわよ! 私たちは“間に合った”のよ!!」

 その言葉は、エンジンの咆吼と風を切る音にかき消されて、おそらくバイクのライダーには届かない。しかし、彼はアクセルからは手を離さないまま――空いた左手をこちらに向け、同じように力一杯親指を立てた。
 その様子を見て――シロはようやく、ただ一つのことだけを理解する。

「……仕事に遊び心を持ち込むのも、大概にするで御座るよ――また、迷子になったので御座るな?」
「けっ……結果オーライよ!! 世の中結果が全て! 過程なんてどうでもいいのよ!!」

 呆れたような少女の言葉に――金髪の美女は、応えになっていない事を、自信満々に言い放った。
 その額に脂汗が浮かんでいるのを見て――シロは小さくため息をついた。










プロットにさえなかった新田の活躍(ぇ)
親父キャラは良い。

正直少女達の華やかな入浴シーンより気合いが入っていたり。



[7033] 三年A組のポートレート・対峙
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/10/08 19:59
「それで結局のところ――何が起こってるわけ? あいつら一体何者なの?」

 ガヤルドのハンドルを握り、フロントガラス越しに、京都の町中を走り抜けるミニバンを追うタマモは、そうシロに問うた。

「それでよく“間に合った”などと自信を持って言えるもので御座るな」
「あんた“間に合ったのか”って聞いたら、頷いたじゃない。あんたがそう言うなら、私たちは間に合ったのよ――言っておくけど、土壇場で裏切るんじゃないわよ? 具体的には――美神への報告の段になって」

 タマモの言葉にため息を漏らし――浴衣の襟と裾を整えながら、シロは首を横に振る。

「それはともかく――拙者が見たのは、木乃香殿を連れ去る、奇妙な猿の――おそらく式神の類であろうが――群れだけで御座る。それを操っていたのが一体何者で、何のために木乃香殿を攫ったのか、拙者にも皆目見当が付かぬ」
「修学旅行中に生徒が攫われたって? あんたそれ、大事じゃない」
「だからそう申しておる。大事が取り返しの付かない事になる前に、とにかく奴らを捕まえねば」

 信号無視や反対車線の逆走などの暴走行為を繰り返しながら逃走する黒いミニバンは、しかし変わらず、フロントガラス越しに視界の中に存在している。市街地という場所は、タマモのガヤルドやケイのニンジャにとっても、決して最適の舞台とは言えない。しかし彼らには、競い走る為だけに生まれてきたそのパフォーマンスと、それを手足の如く扱う事の出来る腕がある。
 クラクションを鳴らされ怒りのパッシングを浴び――それでも彼らは、一般車のテールランプをかき分けるように、京都の町中を走り抜ける。

「タマモ」
「ま、流石に何処へ逃げようって言うにしても、こう人通りが多くちゃね。どのみち奴らは郊外に向かうはず――そうでしょ? 自称、狩りのプロフェッショナルさん?」
「自称は余計で御座る。狼の狩りからは逃れられぬ――そして拙者の目が黒いうちは、拙者の目の前から学友を連れ去る等という蛮行、断じて見過ごせぬ」
『シロさん』

 不意にスピーカーから、若い男の声がした。果たしてそれは、ケイのヘルメットに備え付けられた無線が拾う、彼の声。

『今のうちにこっちからも確認しておくけど――この子、誰?』
「はっ?」

 ほとんど引きずり込まれる勢いで、タマモの車に飛び乗ったシロには、ケイの言うことがわからない。確かに一緒に居たネギは、ケイのバイクに拾われた筈だが――もちろん、ネギと彼の間には面識がある。
 シロははっとして助手席の窓越しにケイのバイクを伺い――仰天した。視線の先にはバイクを運転するケイと、彼にしがみつくネギ――そして、ネギを包み込むような体勢で、必死にケイの背中にしがみつく少女の姿があった。

「さっ――桜咲、殿!? どうして桜咲殿が!?」
「は? 何よあの子、あんたの知り合い?」

 窓に顔を貼り付けるシロに、タマモは前方から視線を外さないままに問いかける。

「知り合いというか、クラスメイトで御座るよ――桜咲殿、聞こえるで御座るか?」
『あー、ちょっと今無理っぽいね。風に遮られちゃう』

 真正面から吹き付ける走行風に加えて、ガヤルドとニンジャの凶暴なまでの排気音。ケイのような専用装備を付けていなければ、例え密着状態でも声を伝えるのは難しい。彼はシロの言葉から、背後の少女が何者であるのかを知ることは出来たが、彼女が何故ここにいるのかは、そのシロにもわからない。

「……今はとにかく、あの車を追っかける事に集中しましょう。ケイ? 分かってるとは思うけど、死んでもコケんじゃないわよ?」
『了解』

 その言葉と共に返ってくるハンドサインを、視界の隅に捕らえ――タマモはアクセルを床まで踏み込んだ。
 黒いミニバンは、京都市街地を抜け、郊外に向かおうとしている。相手もこちらの追跡には、当然気がついているはずだが――

「さて、どうしましょうかしらね。よもやこのまま、“悪の根城”までご案内、ってんでも無いでしょうし」

 あの車で、こちらの追跡を振り切るのは難しいだろう。しかしそれは、純粋に車を使って“追いかけっこ”をしたら、の話である。相手は、式神――オカルト技術の使い手である。目くらましから直接的な攻撃まで、どのような手段を持っているのか、わかったものではない。
 追跡劇が始まってから数十分。周囲には人工の光が極端に減り、地面を黒く塗りつぶしたような暗闇が、あちらこちらに見受けられるようになってきた。それは単なる田畑であるのだが――薄い月明かりは、強烈なヘッドライトの閃光にかき消され、照明のないそれらの場所は、その強烈なコントラストを視覚が捕らえきれず、漆黒の闇の中に沈んでしまう。
 車を運転した事のないシロは、まるで自分たちが、真っ暗な空間の中を漂っているかのような錯覚を覚える。かろうじて、ライトに照らされ、恐ろしい勢いで流れていく前方のアスファルトと、カーブの度に全身に感じる重圧が、そうではない事を教えてくれる。
 自分の脚で、町中を走る車程度になら追従できる彼女には――いや、そんな彼女だからこそ、この闇夜の追跡劇には、形容しがたい恐怖を覚えてしまう。

「た、タマモ――」
「頃合いね――相手が痺れを切らす前に、こっちから仕掛けるわ。シロ――舌、噛むんじゃ無いわよ?」
「えっ?」

 何をするつもり――と、聞く余裕は無かった。シロの背後で、エンジンが甲高い咆吼を上げ――彼女は、シートに体が押しつけられるのを感じた。途端に、今まで変わらない大きさで見えていたミニバンのテールランプが、瞬く間に大きくなっていく。

「たっ――タマモ、ぶつかる――」
「喋るとホントに――舌、噛むわよっ!!」

 シロの言葉を遮ると同時に、タマモは思い切りハンドルを切る。
 当然ながら、自動車というものは、ハンドルをただ切れば曲がる、というものではない。一トンを超える車重と、それが突き進む慣性の法則を、はがき数枚分――などと形容される事もある、タイヤと地面の接地面で支えているのだ。
 当然物理法則には限界というものがあり――高速域で突然急なハンドルを切った彼女の操作は、通常の乗用車の倍ほどの幅があるガヤルドのスポーツタイヤと言えども、受け止めきることは出来ない。エンジンパワーに慣性が加わり、車体はすぐにスライドを始める。

「タマモ――タマモっ! 横っ! 車がっ! 横、向いて、るっ!」
「あら、知らなかったの? 車ってね、横向きにも走れるのよ?」
「嘘だッ!?」

 ほとんど声にならない悲鳴を上げるシロを余所に、タマモはミニバンから視線を逸らさず、ハンドルを僅かに逆に切る。絶妙なカウンター・ステア――ガヤルドの車体は、高速でスライドしたまま、黒いミニバンの前に出る。

「きゃああぁあぁああぁああっ!?」

 このままでは衝突する――視界を白く染め上げたミニバンのヘッドライトに、シロはもはや、恥も外聞もなく悲鳴を上げ、両手で顔を覆う。同時に、彼女は全身が真横に引っ張られた様に感じた。瞼越しに瞳を灼いていたヘッドライトの光が、吹き飛ぶようにかき消える。車の動きに、目がついて行かない。
 タマモは更にガヤルドのリアを滑らせ――衝突を避けるために、たまらず回避行動に出たミニバンの側面に回り込む。同時に――

「ケイっ!!」
『二人ともしっかり捕まっててよ!!』
『えっ――うわぁぁああぁあっ!?』
『――ッ!?』

 無線越しに、二人分の悲鳴がシロの耳に届く。無理もない。ケイのニンジャは、ミニバンがタマモの車との衝突を避けるために取ったコース――その直上に躍り出たのだから。
 当然、装甲車両か何かだとでも言うのなら話は別だが、彼らが乗るのはただのバイク。なすすべもなくただはじき飛ばされるだけ――そうとしか思えなかった。
 だが果たして、そうはならなかった。
 ぶつけることは出来たかも知れない。しかしミニバンを運転する“何者か”は――咄嗟に、ケイのバイクを避けようとした。おそらくそれは一瞬の逡巡。ぶつけると面倒な事になるだとか何だとか――そう言うことすら頭に浮かばなかっただろう。
 ぎりぎりのところで、突っ込んできた車を回避できたと思ったら、目の前に飛び出してきたバイク――考えるより先に、体が動くのも無理はない。ミニバンは凄まじいスキール音と共に進路を乱し――まるで予定されていたかのようにその場に存在していた、小さな寺の境内に飛び込んだ。

『よっ――と』

 すんでの所で激突を避けたケイは、クラッチをうまく当ててリアをスライドさせ――バイクを路上に停止させる。そんな彼の背中には、彫像のように動かない、少年と少女の姿。
 ややあって車から降りたタマモは、バイクに跨ったまま、寺に突っ込んだミニバンを見遣るケイと、ハイタッチを交わし――脱力したようにシートに座ったままのシロに、にっこりと微笑んで見せた。

「ほら――ね? もう一度確認するわ。私たちは――“間にあった”のよ」




「で――あんたが誰なのか、聞いても良いかしら? シロの友達ってのはわかってるんだけどね。餅は餅屋――って言葉、知ってる? 素人が下手にオカルトがらみの事件に手なんか出したら、怪我じゃ済まないわよ?」

 ケイの背中に、かなり昔に流行った人形の如く張り付いていたネギと少女――桜咲刹那を引きはがしながら、タマモは刹那に聞いた。シロに大まかなところを聞いても良かったのだが、ガヤルドのドアから這い出すようにして、四つんばいのまま荒い息をついている今の彼女に、それは酷というものだろう。

「え――あ、は、はいっ! あの――私、桜咲刹那と申します」

 長めの黒髪を、側頭部で一つに纏めた髪型、日本人形を思わせる、大人しいが整った顔立ち、シロに比べて幾分小柄で華奢な体。外見上、取り立てて特徴があるわけではない――そんな少女は、体を硬くしたまま、タマモの問いに応えた。

「私はその――お嬢様の護衛をしています」
「お嬢様? お嬢様って――攫われたっていう、その子?」
「……はい」

 タマモは、境内に突っ込んだミニバンに目をやる。未だ、動きはない。石灯籠を巻き込んだせいで、右のフロントがタイヤごと派手に壊れているから、もはや動けないだろう。とはいえ、車体自体に大きなダメージは無さそうである。あの様子ならば、乗っている人間にしても大した怪我は負っていないだろうが――

「護衛ったって――あんた中学生でしょ? 同級生の護衛なんて、何の因果で」

 怪訝そうな顔で、タマモは言う。
 攫われた少女――近衛木乃香という彼女は、それほどのVIPなのだろうか――そこまで考えて、タマモは唐突に思い出した。麻帆良に出向いた折に、ガヤルドの助手席に乗りたがった、あののほほんとした少女――彼女が確か、近衛木乃香――麻帆良学園学園長、近衛近右衛門の、孫娘。
 なるほど――彼女が魔法使いだとかそう言う連中に取って、それなりの価値を持つ人間である事は分かった。ともすればこれは、単なる営利誘拐ではないかも知れない。シロの話では、相手は式神を使役するオカルト技術者である。その可能性は更に高い。
 だが――目の前の少女、木乃香ともクラスメイトであるという彼女が、木乃香の護衛であるというのは、一体どういう事なのだろうか?

「……あなたに説明する必要はありません」
「いやまあ、そりゃそうなんだけどさ」

 硬い調子で放たれたその声に、タマモは軽く肩をすくめる。自分の疑問は確かに、知る必要自体は無いものだ。とにかく目の前の少女は木乃香の護衛であり、だから着いてきた――その話を信じるなら、何も問題はない。
 タマモは軽く、ケイに目をやる。彼は一瞬だけこちらを見てから――視線をミニバンに戻した。

「ま――って事はあれね? あんたもまたぞろ、“魔法”関係の人間ってわけだ」
「……」
「全くこんな年端もいかない娘にまあ。麻帆良ってのはよっぽど人使いが荒いみたいね。労働基準法は何処へ行ったのやら」
「……ごめんタマモさん。それ、ずっとにーちゃんの事を見てきたタマモさんが言っていい台詞じゃないと思う」
「……そうね」

 ケイの言葉に、タマモは何故か引きつったような笑みを浮かべ――未だ地面に這い蹲るシロに言う。

「そんじゃま、この子の仕事を手っ取り早く片付けてあげましょう。あんたもいつまでも、そんなところでヘバってる暇ないわよ?」
「……誰のせいでこうなったと――うぷ」

 口元を抑えてよろめきながら――しかしそれでもどうにかこうにか、シロは立ち上がる。それを認めたタマモがミニバンに向き直り――それを待っていたかのように、運転席のドアが、静かに開いた。




「まったく――無茶なことをしなさるお人らやなあ――」

 ミニバンの運転席から降り立ったのは、一人の若い女性だった。年の頃は二十代半ばくらいで、飾り気のないジーパンとブラウスを身につけ、その上からパーカーを羽織っている。
彫りの浅い、しかし美しく整った顔に、上品にアクセントを添える眼鏡。口調も相まって、京美人と言って差し支えないその彼女に、その格好はあまり似合っては居なかったが――考えてみれば、きらびやかに着飾った誘拐犯というのも、あり得ない話であろう。

「たまたまここに廃寺があったから良かったようなものの――一歩間違えばうちだけやない。近衛のお嬢はんかて、ただでは済まんかったかも知れへんえ?」
「は――誘拐犯がよく言うわ。盗っ人猛々しい――って言うのとは、ちょっと違うかしら?」

 怒った様子もなく、こちらを挑発しているというのでもない――ただ淡々と、自分が思った事実のみを語る。そんな様子の女性に、タマモは僅かに眉をひそめたが――構わずに言い返した。

「それで? 何のつもりで、オカルト技術まで使ってこんな馬鹿な事をしたのかしら? お金? それとも、何かの脅し? 女子中学生のカラダ目当て――ってのはまあ、あんたの頭がイカレてない限りは無いでしょうけど」
「いややわあ、変な想像させんといてえな」
「心配しなくても、変態は身内に一人だけで十分よ」

 うんざりしたように、タマモは言う。木乃香の体目当て――と言うのはもちろんのこと、単純な金銭目当ての犯行でもないことは、先の彼女の一言からはっきりしている。彼女は木乃香のことを知っていた。場当たり的な営利誘拐ではない。金銭的に裕福な子供を狙い、あらかじめターゲットを彼女に決めていた――などと言う可能性も考えられなくはない。が、おそらくそう言うものとは違うと、タマモの直感は告げていた。

「あれま――身内にそんな変態さんがおるんかいな?」
「まーね。ナンパはする、風呂は覗く、下着は盗む――そのくせ女の子と見れば妙に優しくて、最後の一線を越えらんないヘタレがね」
「面白そうなお人やなあ」
「否定はしないけどね、直接会ったら、多分あんた後悔するわよ? まあ、あの馬鹿の事はともかく、攫った子を返してくれないかしら? 今なら事は穏便に済むわよ? かっとなってやった、今は反省している――とかってね」
「生憎やけど――うちの頭はそこまでイカレとるわけやあらへんし」

 女性がミニバンに目をやると、そのスライドドアが開く。そこから現れた“もの”を見て、タマモの瞳が薄く細められる。
 女性と同じようなパーカーを羽織った、小柄な人影が二人分――そして、意識を失ったのだろう、ぐったりとした木乃香を抱え上げる、まるで熊のような“何か”。猿と変わらず、まるでぬいぐるみのような造形であるものの、月明かりを浴びて“のっぺり”とした印象を受けるそれは、可愛らしいと言うよりももはや不気味であった。

「あんた、式神使い?」
「多少かじった程度ですけどなあ、幸いにもうちは、それなりに才能があったみたいで」
「ふうん――一応ゴースト。スイーパーとして言っておくけどさ、オカルトの不正使用して捕まった場合って、普通の犯罪より罪が重くなるのよ?」
「は――なら、捕まれへんかったらええだけの話やろ?」

 片手を腰に当て――静かに笑う女性。
 それを見て、この場で一番先に痺れを切らせたのは――浴衣姿の少女、桜咲刹那だった。

「く――お嬢様ッ!!」
「あ、こら、待ちなさい――」

 慌ててタマモが手を伸ばすが、刹那には僅かに届かない。彼女はただの女子中学生にはあり得ない早さで、ミニバンの前に佇む相手との距離を詰め――

「神鳴流――斬空閃!!」

 帯に挟むようにして携えていた長大な布包み――その中から現れた、白木拵えの長大な日本刀を、横薙ぎに振り抜いた。その時、相手との間合いは、その日本刀の刀身よりも遙かに遠い――しかし、彼女が振り抜いたその軌跡をなぞるように、虚空に不可視の何か――魔法と同じような純粋なエネルギーの塊が現れ、彼女が突っ込んだ勢いのそのままに、相手に向かって殺到する。
 一瞬で空気を切り裂いたそれは、木乃香を抱える熊の化け物を食いちぎらんと――

「ざんくうせ~んっ!」

 その瞬間、化け物の横に立っていた小柄な人影――その片方が動いた。その両手には、いつしか小振りの刀が握られ――発せられた可愛らしい声とは裏腹に、恐ろしい勢いで振り抜かれたその刀は――刹那のそれと同じ、純粋なエネルギーの奔流を持って、先に放たれた刹那の“技”と激突した。
 “技”として、無理矢理に押し固められていたエネルギーが、それによって解放され――瞬間的に、爆風じみた猛烈な風が吹き荒れる。刹那は思わず手で顔をかばい――同時に、相手が羽織っていたパーカーのフードがめくり上げられ、その下の顔があらわになる。
 ふわりと、風に長い髪が揺れる――刹那やシロ達と同じ年頃に見える少女だった。しかしその口元には、そのあどけない顔に似合わぬ――酷薄で、艶めかしい微笑が浮かんでいる。
 刹那は空寒いものを背筋に感じ、爆風に身を任せる形で後退、彼女との距離を取った。

「……斬空閃、だと?」
「刹那さんと――同じ技?」

 油断無く刀を構え直して、刹那は小さく呟く。己の杖を構えて彼女に並び立つ格好になったネギも、それには気がついていた。長大な日本刀と、二本の小振りの刀――それぞれの獲物こそ一見対照的であるが――力の流れが、まるで同じに感じられた。あれは、同種の技の撃ち合い。
 それが何を意味するのか――ネギは刹那の方に視線を遣ろうとしたが、途中でその動きが止まる。

「――うふ」

 背筋に氷を突っ込まれたような――気持ちの悪い寒気が、ネギの全身を貫いた。
 それほどまでに――相手の少女が浮かべた笑みは、不気味だった。
 少女の顔は、多分にあどけなさを残す、柔らかなもの。全体的に整った造形は、美しいだとか、可愛らしいだとか、素直にそう言うことは出来るだろう。しかし――フレームの細い、上品な眼鏡――そのレンズの奥に輝く瞳を見てしまえば、彼女が美人だろうが不細工だろうが、さしたる違いなど無い。
 それはまさに、獲物を前にした猛獣の瞳だった。そこに人間的な感情の色はなく、ただただ、研ぎ澄まされた殺気だけが渦巻いている。
 目は口ほどにものを言う――などとよく言うが、もはやそう言う程度の問題ではない。人生経験が浅く、他人の表情からその内心を読み取る事など特に苦手とするネギにも、彼女の内心を推し量る必要などは無かった。
 本能が、彼女をして“危険だ”と言っていた。自分一人で彼女と向き合っていたら――すくみ上がっていたかも知れない。エヴァンジェリンと戦った時でさえ、これほどの恐怖は覚えなかった筈なのに。
 ネギには理解できない。それは、戦う事への恐怖ではなく、全く異質の存在に対する恐怖。底の知れない暗闇に、人間が本能的な畏れを抱くのと同じ。どれだけ強い者を前にしたとて、相手が“人間”ならば、戦うことが出来る。しかし――

「うふふ――何や、ウチ、ついとりますなあ? 面白みのない仕事やと思うてましたのに、まさか神鳴流の剣士に出会えるとは、思っても見まへんでしたわ。しかもそれが――こないに可愛い女の子やなんて」

 そう言って少女は、唇を舌で潤す。その不気味であり、妖艶な仕草に、刀を握る刹那の手にも思わず力が入り――

「戯れはその辺にしとき」

 タマモとにらみ合っていた女性の、疲れたような一言によって、少女の纏っていた雰囲気が霧散する。一転して、頬を膨らませて拗ねたように――見た目通りの可愛らしい仕草を持って、彼女は女性に言った。

「えー、せやかて」
「あんた今、仕事や言うたやろ? あんたは戦うことの出来るプロとして、うちらに雇われた人間や。戦うことが仕事の人間に戦うなとは言わへんけど、プロならプロの仕事してもらわへんとな」
「むー……ま、ええですわ。どの道あの人ら――この“お嬢様”を取り返すつもりでしょう? だったら、ウチは雇われた人間として、それを妨害する。何の問題もあらしまへん」
「そう言うのを屁理屈言うんや。覚えとき」
「盛り上がってるところ悪いんだけどさ」

 その会話に、タマモは無遠慮に割り込んだ。小さく肩をすくめて一歩を踏み出したその仕草には、迷いも恐怖も感じられない。ネギには、それが信じられなかった。今は唾を飲み込む音でさえ、相手に届いてしまいそうな錯覚を覚えていると言うのに――

「いい加減その子を返してくんないかしら? 言ったら何だけどさ、あんたらこの状況で、その子抱えて逃げ切る自信あんの?」
「……せやかて、はいそうですか――と、言えるとでも?」
「私、こういうの嫌いなのよね。真っ正面から殴り合ってどうこうするのってさ。疲れるし、下手したら痛いし」
「せやったら、黙って引き下がってくれたらありがたいんやけど。戦わずに済むわけやし」
「この流れでそう言うわけにも行かないでしょうが。だから頭が痛いのよ」
「その気持ちはお察ししますえ?」
「あんたに同情されてもね」

 不意に、女性が一歩、前に出る。思わず己の武器を構えたネギと刹那を、タマモが制した。

「焦って突っ込むんじゃないわよ。あんだけ余裕ブチかましてんだから、切り札の一つや二つ、連中には必ずある。あの危なそうなお嬢ちゃんはともかく――最後の一人だってまだ動きを見せてない――ケイ、シロ?」
「りょーかい」
「承知」

 かつて背中を預け合ったであろう三人には――それだけで十分であるらしかった。タマモは二人の反応に、満足そうに頷くと、ネギと刹那に言う。

「連中は私らで抑えるから、あんたらは全力であの子を奪い返しなさい。あの子が捕まってる事はこの際考慮しなくていい。あの式神を破壊する事だけを考えれば、どうにかなるはずよ」
「え――でも、それじゃ」
「成る程、あの様子では、連中は最初からお嬢様を狙っていた――そしてその“狙う”意味合いが、誘拐であったと言う事は――」

 木乃香を無視して、式神を攻撃しろ――その指示に、当然ネギは戸惑う。しかし刹那は、タマモの言葉の本質を理解したようだった。頭の回転が早い子は助かるわ、と、彼女は軽い調子で言う。
 あの連中は、木乃香を狙い、そして、攫った。
 狙いが木乃香の命ならば、出来たかどうかはともかくとして、風呂場で彼女を殺害すれば良かった。これだけのオカルト技術を扱えるのだから、そうした方が証拠も残らずに済む。
 目的はわからないまでも、彼女らは木乃香を生きたまま誘拐する必要があった。ならば――ここで木乃香に危害が及ぶというのは、彼女たちとしても避けたいはずだ。目的を果たした“その後”がどうなのかはともかくとして、少なくとも、今は。

「作戦会議は終わったやろか? ま――心配せえへんでも、こっちとしても、あんさんらと争う事が目的やあらへんし――手短に行かせて貰いますえ?」

 木乃香を背にして、女性はそう言い――下唇に指を当てる。そのまま大きく息を吸い――

「疾ッ!!」

 短い気合いと共に、吐き出されたその吐息は、一瞬にして紅蓮の炎と化し、更に周囲の空気を巻き込んで、小規模な爆発をも繰り返しながら、タマモ達に向かって殺到する。
 迫り来る炎の壁を前に――タマモは、それを無感動に見つめたまま、動かない。

「く――呪文始動(ラス・テル・マ・スキル・マギステル)
吹け、一陣の風(フレット・ウネ・ウェンテ)
風花・風塵乱舞(フランス・サルタティオ・ブルウェレア)ッ!!」

 代わりに動いたのは、ネギ。舌を噛みそうな勢いで呪文を紡ぎ、構えていた杖を思い切り振りかぶる。
 周囲の大気が、彼を中心に猛烈な勢いで動き始める。それはすぐさま寄り集まって巨大な流れとなり――猛烈な暴風となって、殺到する炎の壁に向かって吹き荒れる。
 技としての威力の違いか、込められていた力の質の違いか――ネギの生み出した暴風は、女性が放った炎の奔流を食い破り、そして吹き消した。
 果たしてかき消えた炎の向こう側に――彼女らの姿は、無い。

「逃げられ――」
「逃がすかああああっ!!」

 あさっての方向から響いたケイの絶叫に、思わず呟き駆けたネギは背中を跳ね上げる。まさか、今の攻撃は目くらまし――そう思って体ごと向き直った先には、緑色の燐光を纏う腕を“相手”に叩きつけるケイと、それを受け止める小柄な相手――先の少女とは違う、もう一人の、先ほどは動かなかった人物だ。

「……やるやないけ」

 パーカーのフードの奥で、その“相手”は言った。その声に、ケイの瞳が細められる。まるで子供――ネギと同じような、まだ声変わりもしていないような少年の声だった。

「あんだけ派手な技が飛んできたら、普通はそっちに釘付けになる筈やろ。兄ちゃんら――相当場数を踏んどるな?」
「場数って言うか――うちの業界、騙し合いが命みたいなところあるし」

 長身痩躯――そう見えて、ケイの腕力はかなりのものである。おまけに、彼の霊能力――霊波刀の一種、“恐腕の魂(スピリット・オヴ・ディノケルス)”は、純粋な腕力からは考えられない威力を、それに上乗せする。
 しかしその“子供”は――たとえ大人だろうと簡単に吹き飛ばしてしまうだろうその一撃を、組んだ腕だけでしっかりと受け止めていた。

「月詠の姉ちゃんの言い分や無いが――あかんなあ、俺もワクワクしてくるやないか」
「……うわあ、この子もか。そんなどっかの漫画の戦闘民族みたいなことを真顔で――ッ!?」

 突然、その子供の腕に込められていた力が抜ける。腕にかなりの力を込めていたケイは、それだけでたたらを踏みそうになるが――首筋が粟立つような殺気を感じて、脚と腹筋に渾身の力を込めて、上体が突っ込むのを抑えた。
 その瞬間――目の前を銀色の閃光が切り裂き、頬に鋭い痛みを覚える。慌ててどうにか距離を取り、頬に手を当ててみると――どうやら頬が薄く切り裂かれ、血が滲んでいるようだった。

「すばしっこいお兄さんですなあ」

 子供――少年の背後に立ち――薄い笑みを浮かべながら、刀を持った少女が言う。刀身に少しだけ付着した血を舐め取る少女の姿に、ケイは思わず身震いする。

「仕留められるとは思てませんでしたけど――」
「何をさらりと物騒な事言うてんね。殺したらあかんて、言うたやろ?」

 いつしか彼女の背後に立っていた女性が、疲れた様に言う。ケイは頬を乱暴に拭って、じっとりとした視線を彼女に送った。

「……部下の管理くらいしっかりしといてよ」
「そうは言いはってもな、どうにも癖の強い連中で――“常識人”のウチには、とてもとても」
「どの口で言うのさ、それ」

 ため息混じりに応えながらも、霊力を纏わせた腕を構えるケイ。その背後に、付き従うようにシロと刹那が立ち――

「あれまあ、両手に華や。羨ましいわあ」

 うっとりしたように言う少女に、思わず彼女ら二人は、先ほどとは意味合いの違う寒気を感じてしまう。口調こそ冗談じみていたが、冗談と割り切って彼女の瞳を直視することは、二人には出来なかった。
 もっとも目の前の少女の場合、“可愛い女の子”に対する欲求がいかなるものであるのか――それはもはや、考えたくもないけれど。
 心底からの拒絶感――それを形にするように、少女達は各々の武器を構える。刹那は日本刀の切っ先を相手の少女に向け、シロの腕からは、湧き出すように白銀の燐光が伸びていく。

「――とはいえ――足りんなあ」

 ふと、彼女たちの非常に嫌なにらみ合いを余所に――唐突に、女性は呟いた。その瞳は、先ほど自分の放った炎を吹き散らした少年と、それが陽動であることを咄嗟に見抜いた青年を往復している。

「足りへん。そんなんじゃ――全然足りへんよ」

 誰に言うでもなく、彼女は言う。その呟きには、何処か弱々しさすら感じさせる何かが含まれていた。偶然それを耳にしてしまったタマモは、その意味を計りかねるが――彼女本人に問うたところで、応えてくれる筈もないだろう。小さく眉を動かしただけで、タマモは女性に向き直る。

「結論は出たかしら?」
「結論――何のです?」
「わかってんでしょ? このままにらみ合ってたら、そっちの都合が悪くなるだけよ? いくら人気のないボロ寺でも、これだけ派手にドンパチやってたら、そのうち誰かが感づくわよ」
「……せやなあ、ま――仕方あらへんか」

 女性は小さく息を吐き、彼女の方からもタマモに向き直る。

「時にあの車、うちの自腹やね。修理代くらいは、払ってくれへんかな?」
「今のところお金に不自由してるわけじゃないから別にいいけどね、あんたの住所氏名と銀行口座でも教えてくれたら、きっちり振り込んであげるわよ」
「意地の悪いお人や」
「誘拐犯に言われたくないわね」
「……月詠! 小太郎! ここは退くで! 相手に取って不足無し――それがわかっただけでも、あんたら満足やろ?」

 その言葉を聞き――おそらくそれが二人の名前なのだろう――ケイ達とにらみ合っていた少年と少女は、僅かに躊躇った様子を見せるも――大人しく、一歩引き下がる。

「ま……仕方あらへんか。そこの兄ちゃん、次に逢ったときは――とことん楽しもうや?」
「ほんならウチは、そっちの可愛いお姉さん二人がええなあ。特に神鳴流の先輩とやり合えたら――最高や」

 付け加えられた余計な言葉に、ケイとシロはうんざりしたような顔をする。実のところ、この手の輩の相手をするのは、二人にとっても初めてというわけではない。とはいえ――そうであるからこそ、二人は思うのだ。“出来ればそれは勘弁して欲しい”、と。
 もっともそう思った時に、その願いが叶えられた試しがあるのかと言えば――どうやら神をも畏れぬと評判の美神事務所に対して、それでも救いの手を差し伸べられる程、運命の神様という存在は慈悲深くはないようであった。
 木乃香を抱えていた“熊の化け物”が、彼女をそっと石畳に横たえ――代わりに女性を抱え上げると、見た目からは想像も出来ない跳躍力で、廃寺の屋根に跳び乗った。パーカー姿の少年少女も、それに続く。こちらは純粋に自分の脚力で――まるで出来の悪いワイヤーアクションでも見ているような風に。
 すぐさま刹那が木乃香に駆け寄り、彼女の体を抱き起こす。脱衣所で連れ去られたからか、制服が少し乱れてはいるが――怪我をしている様子はない。

「ほな――うちらはこれで失礼しますえ。そこのお嬢様によろしゅうな」

 月の光を背負い、おどけた様子で言う女性を、タマモは冷ややかな目で見つめる。

「それと――置きみやげの一つくらいは、受け取っといてえな?」
「――ッ!?」

――呪文始動(ヴィシュ・タル・リ・シュタル・ヴァンゲイト)
小さき王(バーシリスケ・ガレオーテ)
八つ脚の蜥蜴(メタ・コークトー・ポドーン・カイ)
邪眼の主よ(カコイン・オンマトイン)
災いなる眼差しで射よ(トーイ・カコーイ・デグルマティ・トクセウサトー)
石化の邪眼(カコン・オンマ・ペトローセオース)――

 どこからとも無く朗々と響く声――彼女がそれに対して身構えた時には、既に気味の悪い燐光が、彼女の腕に浴びせられていた。

「ほな――良い夜を。ゴースト・スイーパー、千道タマモはん?」










多分ネギまSSの中で、もっとも地味な格好で登場の月詠さん。

上半身フード付きパーカー
下半身ハーフパンツ

です。
ゴスロリで作戦に挑もうとして、千草さんに止められた模様。



[7033] 三年A組のポートレート・現状
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/10/21 21:24
 目的と、手段と。
 それについて問われるあれこれと。
 色々な人が色々な事を言うけれど。
 詮ずるところ目的というものが達成されたとき、あらゆる道筋は手段となる。
 結局手段について論じている間は、誰もゴールにたどり着いていないのだ。




「お初にお目に掛かります。八角(やすみ)警備保障の浅野と申します――ええ、むろん、表の顔は、ですが」

 京都郊外の廃寺から、自身の車とタクシーに分乗してホテルに帰還したシロ達を待っていたのは、困ったような表情の明日菜と――そして彼女らの前に立っていた、長身のスーツ姿の男だった。
 彼は理知的な光を湛える瞳を眼鏡の奥で細め――隙のない動きで名刺入れから名刺を一枚取り出して、目を白黒させるネギに渡す。
 八角警備保障管理部課長・浅野潮(あさのうしお)――と、名刺にはそう刻まれていた。しかし何故に、警備会社の人間が今この場に立っているのか。ホテル側が異常に気がついて、警備会社に通報を入れたのだろうか? 現に少し離れたところには、和美やあやかと言った、あの時風呂場にいた面々と共に、警棒を腰に提げ、防弾ベストを身につけた男女の姿が見える。
――しかし彼は、わざとらしく付け加えた。それは自分の「表の顔」であると。

「関東魔法協会所属、ネギ・スプリングフィールド教諭ですね? 関西呪術協会幹部――浅野潮です」
「あ、どうも、ご丁寧に――」

 ついつい間の抜けた反応を返してしまうネギを一瞥し、シロは明日菜に目を向けた。彼女の視線に気がついた明日菜は、小さくため息をついて首を横に振る。

「警察を呼ぼうとしたら、急にこの人達がね――何でも、木乃香を攫った連中が何者か知ってるとか――」
「申し訳御座いませんが、警察組織に行動を制限されたくはありませんでしたので。お話しする必要は無いと判断しておりましたが、麻帆良学園本校女史中等部、三年A組の修学旅行ご一行は、当初より我々の護衛下にありまして。それが――つまりは“魔法関係”の秘密裏のものでしたので――警察に出てこられると、少々厄介な事になります」
「そんだけ大層な事をやっておきながら、女の子一人あっさり誘拐されてちゃ世話ないわよ。表の顔だか何だか知らないけど、警備会社の看板下ろしたらどう?」

 浅野の言葉に、ネギの側に立っていたタマモは腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らす。もっともその様子にも、浅野の表情は揺るがなかったが。

「面目次第も御座いません。烏合の衆と罵っていただいて結構です。流石にこうも大胆に動いてくるとは――」
「あんたら罵ったって何の得にもなりゃしないわよ。私はウチの上司とは違って優しいの」

 タマモは小さく肩をすくめ、ため息をつく。この仕事に於いて、関西呪術協会――裏の世界の人間が動いている事は聞かされていたが、その大層な連中があっさりと出し抜かれた理由は、その体質故にだろう。
 魔法使いという連中は、一般人に正体が露見することを、何故だか極端に嫌う。彼女の知る“魔法使い”の女性は、苦笑混じりにそんなことを言っていた。
 果たして正体が露見した人間には、厳しい罰則までもが存在するという彼らの常識では、一般人が大勢いる場所で、堂々と“魔法”を使って行動を起こすという選択肢が、考えの外にあったのだろう。
 似たような事例――来日中のザンス王国国王を狙ったオカルトテロであるとか――を上司から聞いている彼女には、何となくわかる。その時もテロの可能性が指摘されながらも、結局国王は自らのオカルト技術で自分を守る以外に方法は無かったというが。
 だからと言って、それを理由に自分たちが骨を折った事を納得するとは、もちろん言わない。気の弱い相手なら、それだけですくみ上がってしまいそうな視線を、彼女は目の前に男に向けた。

「――美神令子除霊事務所所属ゴースト・スイーパー――千道タマモさんですね?」
「そーよ。何か言いたいことでもあるの? 名刺が欲しいならくれてやるけど」

 当然浅野は、その凍てつく視線を、何でもないもののように受け流す。

「いえ――失礼ですが、千道さんは――妙齢の女性だと伺っておりましたので」
「浅野さん、だっけ?」
「はい」
「とりあえずその事には触れないで頂戴。私に大恥を掻かせたあいつらに対する恨み辛み――とりあえずあんたらの無能振りにぶつけられたくないなら、ね」
「承知しました」

 不機嫌そうに腕を組む彼女の姿は――いつもの妖艶な美女のそれではなく、シロや明日菜達とそれほど変わらない――あどけなさを多分に残す、小柄な少女であった。




 約一時間半前、京都郊外、某廃寺境内――
 唐突に響いた呪文の詠唱とともに、タマモの右腕に、その燐光は直撃した。すぐさまシロとケイが神経を研ぎ澄ませるが、既に周囲には何の気配もない。月を背負って、廃寺の屋根に立っていた筈の“誘拐犯一味”の姿も、既にそこにはない。

「逃げられたで御座るか――タマモ!」
「ん――平気、これは――」

 燐光に射抜かれた腕を振ってみせるタマモだったが――すぐさま、その異変に気がつく。スーツの袖が、妙に重い。いや――重いのはスーツだけではない。その下の自分の腕も――そこで気がつく。その重い右腕には、まるで断ち切られたように、感覚を感じない。
 無事な左手でそこに触れてみれば、感じるのは冷たく硬い手触り。布地も、自分の肌までもが――硬質な何かに置き換わっている。

「それは――石化の、魔法」

 震える声が、彼女の耳に届く。見れば、呆然と――そうとしか形容できない表情を浮かべたネギが、こちらを見つめていた。

「ど、どうしよう、タマモさんが――タマモ、さんが」

 震える唇が、たどたどしく言葉を紡ぐ。
 見た目からして、愉快でない効果をもたらす魔法である事には違いないが――ケイとシロが、その“魔法”を知っているらしいネギにその効果や対処法を問おうとするが、ネギはまるで壊れてしまったように「どうしよう」と繰り返すばかり。
 その様子は、明らかに尋常ではない。シロは身をかがめ、彼の背中を優しくさすりながら、何とか彼を落ち着かせようとする。

「タマモさん、平気?」

 その様子を横目で見つつ、ケイが心配そうにタマモに問う。彼女は小さく息を吐き――既に指先から二の腕までもが、彫像のように固まっている己の腕を振って見せた。

「趣味の悪い魔法ね」
「それには同感。何かアレだね。にーちゃんが苦労させられたって言うあの――大丈夫そう?」
「待って――ああ、無駄に力だけは強いわね。文珠か――そうでなくても霊符の一つでもありゃ良かったんだけど。無い物ねだりをしても始まらない、か」

 タマモはそう言って、肩の高さに、石となった右腕を掲げ――そこに左手を添えて、目を閉じる。美しく整った彼女の眉根に、小さく皺が寄り――ほんの僅か、苦しげな吐息が、その唇からこぼれる。
 反応は、すぐに訪れた。まるでビデオの逆再生のように、二の腕まで石となっていた腕が、元に戻っていく。石のような、ではなく、本当の石――月の光を鈍く跳ね返していた冷たい輝きは、元のスーツのそれ――落ち着いた光沢を持つ布地へと戻っていく。
 その様子を見て目を丸くしたのは――彼女の隣に立っていたケイではなく、地面に横たえられた木乃香を助け起こしていた少女、刹那だった。

「そんな――石化の魔法を、簡単に」

 その声に、タマモは額に浮かんだ汗を拭い、苦笑いをこぼす。

「何よ、私に大人しく石像になれと言いたいわけ?」
「い、いえ、決して――しかし――私は西洋魔法にはさほど詳しくありませんが、それでも石化の魔法と言えば、強力な攻撃魔法の一つであるはずです」

 それはそうだろう、と、タマモは思う。相手を石にしてしまうと言うのは、確かに恐ろしく強力な攻撃手段となるが、相手に直接手傷を与えるわけではない。簡単に解除できてしまうような魔法ならば、目くらましの意味にもならない。必然、それは相手を“問答無用で”石に変えてしまうほどの強力なものになるのだろう。
 だから、彼女は驚きを隠せていない刹那に――おそらく“魔法使い”であるだろう彼女に応えてみせる。

「だったらアレよ。単純に私はそれより強かった。それだけの話よ」

 手を振りながら軽くそう言って、タマモは未だ、呆然とした様子のネギに笑ってみせる。

「そういうわけだから、私は平気よ?」
「――」

 彼女にしては珍しく、その笑顔は柔らかなものだった。こんな場面でなければ、現在そのネギを落ち着かせようとしているシロならば、皮肉の一つや二つも出てきそうな――一瞬そんなことが頭を過ぎったが、タマモはそれに気がつかなかった振りをする。
 千道タマモはやれば出来る子なんです――と、“かつての相棒”に対する理不尽なむかつきを押さえ込むために、そんなくだらない事を念仏のように心中で呟きながら。
 しかし果たして、そんな彼女の――少なくとも彼女にとっては真剣な努力もむなしく、目の前の少年は、まるで凍り付いたように動かない。

「ネギ先生――? 見ての通り、タマモなら平気で御座る。と言うか三分の一くらい石化して貰っていた方が、大人しくて助かるやも知れぬ」
「……その台詞は、そのままあんたに返してやるわよ」
「失敬な。拙者、那波殿には及ばぬとは言え、クラスでも大人びていると評判で御座る」
「それは褒められてんじゃなくて馬鹿にされてんじゃないの? 猫をかぶった狼なんて、笑い話にもなりゃしない」
「ふん――その口が石になってしまえば良かったものを――」

 じっとりとした目線を、シロもまた“かつての相棒”に送り――そこで気がついた。いつしか自分の袖を、ネギの小さな手が掴んでいる事に。
 彼の表情は、長めの頭髪に隠されて伺うことは出来ない。しかし浴衣の袖を掴む彼の手には、尋常でない力が込められているように感じられる。
 ネギ・スプリングフィールドという少年は、決して怖いもの知らずではない。しかし、臆病だと言うわけでもない。あまりの恐怖に体がこわばってしまった――などということは、こと、今の状況においては考えにくい。

「……ネギ先生?」
「――あ……あ、ああ――」

 言葉にならない声が、ネギの喉からこぼれる。シロは彼の顔を覗き込もうとするが、彼は上半身ごと更に顔を伏せ――シロに向き合って、彼女の両肩を強く掴む。当然、この体勢では、彼の顔を覗き込む事は叶わない。

「ちょっとシロ? あんた一体、その子に何したの?」
「い、いや、拙者にも皆目――ネギ先生、一体どうしたので御座るか? まさか、何処かに手傷でも負われたので御座るか?」

 その問いかけに、ネギは俯いたまま首を横に振る。困り果てたシロは、自分よりも彼との付き合いが長いであろう刹那に視線を遣ってみる。しかし彼女も、木乃香を抱えたまま、首を横に振った。
 仕方なしにシロとタマモ、それにケイは顔を見合わせると、これと言って何も出来ないまま行動を開始した。シロがネギを支えるように、そして刹那が木乃香を背負い、とりあえず廃寺から移動。少し離れた場所から警察に通報を入れ、同時にネギと刹那、木乃香の為にタクシーを呼んで、ホテルに戻る運びとなった。
 ――が、しかし。
 ネギと刹那、木乃香をタクシーに押し込み、自分の車に戻ろうとしたところで、タマモがふと脚を止める。助手席のドアを開きかけていたシロと、バイクに跨ってヘルメットをかぶろうとしていたケイはそれに気がついて、彼女の方に目を遣った。

「――タマモ?」
「タマモさん?」
「……やっぱ駄目だわ。ちょっと、キツい」

 何かがはじけるような音と共に、タマモの姿が煙に包まれる。
 ややあって煙が晴れたとき――そこに立っていたのは、妖艶な魅力を持った美女ではなく、シロにとってはかつていやと言うほどに見慣れた、一人の少女の姿だった。




 時間を戻して、現在、ホテル嵐山ロビー。とりあえず木乃香を部屋に寝かせ、ロビーに戻ったところで、タマモが吐き捨てるように呟いた。

「屈辱だわ――この私が、よもや今の姿を維持するだけの力も出せないなんて」
「は――見栄を張るからそう言うことになるので御座るよ。所詮お主にとって、そのちんちくりんが身の丈に合った姿と言うことで」
「ああ? この自称狼の飼い犬が、何か吠えたかしら?」
「まーまー、落ち着いてよ二人とも。今はそう言うこと言ってる場合じゃないでしょ?」

 にらみ合いを始めた二人に、慌ててケイが割って入る。鼻を鳴らしてそっぽを向く二人を見つめつつ、何だか彼は懐かしさを覚えてしまうが――今はそう言うことを言っている場合ではないし、そんなことを考えているのがバレたらどうなるのか、想像もしたくない。
 彼は一つ咳払いをして、襟を正すと、スーツ姿の男、浅野に言った。

「すいません――ええと、僕は」
「美神除霊事務所所属、ゴースト・スイーパー助手の藪守ケイさんですね。関東魔法協会会長、近衛近右衛門氏より、お話は聞いております」
「えーと……まあとにかく、タマモさんのあの姿は何というか――“魔法”みたいなものなんで、それこそあまり詮索しないでいただけるとありがたいんですが」
「承知しました。個人的な好奇心が無いと言えば嘘になりますが、少なくとも好奇心程度で首を突っ込むべきでは無さそうですね。今は他にやるべき事もある」

 浅野は、背中合わせに――しかし鏡に映したように同じ仕草を見せる二人の少女を一瞥する。

「ネギ先生!」

 不意に、男の声がネギを呼んだ。そちらを見れば、浴衣姿の新田教諭がこちらに向かってくるところであった。

「ネギ先生、こちらにおりましたか――一体何が起こっておるのか、一部の生徒が大騒ぎしておりまして――こちらの方々は?」
「え、ええと、その――」

 ここに戻ってくるまでのタクシーの中で、ある程度回復したらしかったネギではあったが、新田の至極当然な疑問に、思わず言葉を失ってしまう。そもそも彼は、何かを誤魔化すという行為が非常に苦手なのだ。それこそ、彼の同居人である明日菜が、中学生にして胃の辺りに痛みを覚えてしまうほどに。

「お騒がせして申し訳ありません。八角警備保障という、警備会社の者です。実はこのホテルの警備を担当させていただいているのですが、どうやら浴場の方で警報機の誤報があったようで――」

 すかさず八角が一歩前に出て、ネギのフォローに入る。彼はそのまま新田教諭と言葉を交わし――ややあって新田教諭が、納得したように頷いた。

「そうですか――ネギ先生、それでは私は、源先生と一緒に騒いでいる生徒に静かにするように言ってきます。ネギ先生は――今日は色々あってお疲れでしょうから、先に休んでいてください。犬塚に桜咲――お前らも、旅行だからと言って羽目を外さずに、早く寝るんだぞ。朝食は七時半からだからな。遅れたら承知せんぞ」

 彼はシロと刹那にもそう付け足し、早足で去っていく。ロビーで不安そうに話をしている少女達にも、去り際に一言注意をしながら。和美などは、その背中に向かって、小さく舌を出している。
 きっとそんな彼女の事を、新田はお見通しなのだろう。シロは何となくそんなことを考えながら彼の背中を追い――ふと、視界の隅で、ロビーに据えられたソファに腰掛けていた小柄な金髪が、ゆっくりと立ち上がった。




「さて――整理しておかなければならないことは山ほどあるが、兎にも角にも、だ。私の修学旅行に水を差す――そんな馬鹿げた真似をした大馬鹿者の事だ。貴様らは、それが何者かわかっているのか?」

 ソファに深く腰掛け、腕を組んだエヴァンジェリンは、不機嫌そうに言った。いつもの事ながら、彼女にそう言った仕草は似合わない。容姿に加えて、今はホテルの名前が染め抜かれた浴衣をその身に纏っているのだから、尚のことである。
 ともかくそんな彼女の前には、テーブルを挟んで向かい側に座る浅野の姿。

「彼女は尼ヶ崎千草――関西呪術協会の幹部の一人です」
「ふん――あの古狸が言っていた、突然失踪して行方知れずになっていたという奴の事か。この場合やはりと言うべきか何というか――それとも、またぞろ“こいつ”のせいか?」

 エヴァンジェリンはため息混じりに、視線だけを、傍らにいるネギに送ってみせる。その視線に、ネギは小さく体を震わせる。当初、この修学旅行には、色々と裏の意味が含まれていたという。関東魔法協会と険悪な関係にあるという関西呪術協会。そこに、魔法使いの世界では名の知れた“英雄の息子”ネギ・スプリングフィールドを、橋渡し役として送り込む。
 それは東西の仲違いを解消するための大きな一手であり、また、ネギ自身を大きく成長させるための“課題”でもあった。

「今更言葉に直すと、馬鹿馬鹿しい以外の何者でもないがな。ふん――あの古狸め。今更生徒の安全を第一に――などと言えた口でもあるまいに。余程相坂さよに嫌われたくないらしいな」
「エヴァちゃんの意見にはあたしも賛成だけどさ、だったらどうして木乃香が攫われなきゃなんないわけ?」

 エヴァンジェリンの金髪に、軽く手を載せ――和美が言う。その無遠慮な仕草に、彼女は一瞬顔をしかめたものの、その手を払おうとはしない。

「彼女の目的は、我々にも計りかねます。当初、スプリングフィールド教諭が京都に特使としてやって来るという話が持ち上がったとき――紆余曲折はありましたが、関西呪術協会は総体として、それを静観しようと言う結論に落ち着きました。その段にあって、彼女は別段、それに異を唱えていたようには思えませんでしたが」
「すると何か? その尼ヶ崎ナントカという馬鹿女は、関西呪術協会の跳ね返りではないと、そう言いたいわけか?」
「関西呪術協会もまた、昨今のオカルトの時流の中にあっては、一枚岩というわけではありません。しかし――これはあくまで私見ですが、彼女は東西の仲違いであるとか、組織のあり方であるとか――そう言ったことには、あまり関心が無いように思えましたね」
「では何故そんな奴が、関西呪術協会にとっても重要人物であろう近衛木乃香を狙う?」
「え? 木乃香ってそんなVIPなの?」
「貴様は本当にジャーナリストを目指す気があるのか、朝倉和美。あいつはあの古狸の孫娘だぞ? それに――関西呪術協会のトップの名は、近衛詠春――あいつの父親だ」

 突かれたように――だが、律儀に説明してやるエヴァンジェリンに、浅野の眉が僅かに動く。彼がその光景に何を思ったのかはわからないが――エヴァンジェリンは敢えて、それを無視した。

「でもおかしーじゃない。何で木乃香のお父さんがトップやってる組織の幹部が、木乃香を攫うの?」
「だからそれが腑に落ちんと言っているんだ。その馬鹿女が、関西呪術協会の総意に反感を持っているというのならわからなくも――いや、無理だな。そこで馬鹿な実力行使に出たところで、組織のあり方が変わるわけではない。単純に敵を増やすだけだ」

 エヴァンジェリンは言いかけて、首を横に振った。
 木乃香を誘拐して、関西呪術協会の長である近衛詠春に脅しを掛ける――少し考えてみれば、それは賢明な選択とは言えない。そんなことをすれば、その瞬間に彼女は協会幹部から、只の“犯罪者”に成り果てる。流石に近衛詠春も、娘可愛さに、裏世界に名を響かせる組織のあり方を変えることはしない――いや、出来ないだろう。
 そしてそれより何より、尼ヶ崎千草という女性は、関西呪術協会のあり方に、別段不満を持っていた訳ではないという。

「彼女は二十年ほど前、魔法使いの世界で起きた大きな争いの折りに、両親を亡くしております。それ故か、魔法使いのあり方という点に於いては、自分なりの確固たる筋を持った人物ではありますが――理由も無しに、このような行動を起こすとは信じられません」
「――つってもねえ」

 エヴァンジェリンの隣で、彼女とは少し違う色合いの金髪を揺らし、浴衣姿の少女――タマモが腕を組む。

「愉快犯とまでは言わないけど、ありゃ絶対どっかイカれてるわよ? ひょっとして偽物なんじゃないかしら?」
「……その可能性は、まあ、否定は出来ませんね」
「ま――その辺の事は、私らがどれだけ喚いたってわかりゃしない、か……浅野さん、だっけ?」
「既に協会の方には連絡を――現在、動ける人間は総出で、彼女の足取りを追っています」
「目の前で護衛対象カッ攫われるような奴らに、どれだけ出来るか知れたもんじゃないけどね」
「面目次第も御座いませんが」

 タマモの後ろに立っていたケイが、遠慮気味に手を挙げる。

「そんじゃまあ、その辺の事はお任せするとして――問題はこれからだよね」
「そーね。あの連中――間違いなく、これで引き下がるとは思えない」

 タマモの応えに頷いて、ケイはネギの方に目を遣った。

「一番手っ取り早いのは――修学旅行を中止して、麻帆良に引き返す事じゃないかな? 僕はよく知らないけど、麻帆良は魔法使いの大きな拠点だって魔鈴さんが言ってたから、ここよりはちゃんとした策が取れるんじゃ――」
「それは却下だ、藪守ケイ」

 しかしネギが何かを応える前に、エヴァンジェリンが強い調子で彼の言葉を遮る。

「折角の修学旅行だぞ? 得体の知れん奴らに尻尾を巻いて逃げ帰る? 馬鹿も休み休み言え」
「……君ね。十数年ぶりに外に出られて嬉しいのは分かるけど――」
「まあ聞け。何も私の都合だけの話ではない。言ったはずだ。奴らはこの程度では引き下がらない。麻帆良に帰ったところで、私たちはいつやって来るとも知れない襲撃に怯えて過ごさねばならんのだ。だが、修学旅行を続ければ、奴らは必ず近いうちに現れる。この数日内に、私たちの行動する範囲の中で、だ。食事の時も風呂に入っているときも、果てはトイレの中までも気を張ってこの先麻帆良で過ごせという方が、私には酷だと思うがな」
「……それは極論でしょ。君が修学旅行にかける熱意みたいなものは伝わって来たけど――」
「結局同じような結論から、あの古狸はこの修学旅行にゴーサインを出したんだぞ?」

 エヴァンジェリンは、意地悪そうににやりと笑ってみせる。
 確かに今、修学旅行を中止して麻帆良に戻ったからと言って、それで彼女たちの安全が保証されるわけではない。いくらか対策は立てやすくなるかも知れないが――逆に、尼ヶ崎千草をよく知る関西呪術協会のバックアップは、一切受けられなくなる。
 更に、修学旅行という限定された時間と空間とは違い、麻帆良での生活はこれからもずっと続いていく。近くに学園祭があり、夏休みがあり、そして――その間中ずっと、彼女たちは気を張りつめて居ることが出来るだろうか?
 そう言う言い方をすれば――確かに、エヴァンジェリンの言い分も、まるっきり無謀なものであるというわけでもなかろうが。

「あーもう、交通事故に遭うのが怖いから、車をぶっ壊してやろうって突っ込んでいくみたいな、そんな感じ」
「そう言う面は無くもないでしょうね。けど――私もそこの年齢不詳に賛成」
「誰が年齢不詳だ」

 エヴァンジェリンの睨みを軽く無視して、タマモは首を回し、ケイの方を向く。

「ここで降りたら――契約金分しかお金が出ないのよ? 美神の奴が、それで納得すると思う?」

 言いたいことは山ほどある――けれど、何を言ってももう無駄だろう。一応の説得力がある反論は、既にエヴァンジェリンがしていることだし――ケイは、口から魂が抜けていくようなため息と共に、力なく首を横に振った。

「そう言えばケイ殿が、どうしてここに?」

 ひょいと彼の顔を、長身の少女――長瀬楓が覗き込む。ケイは疲れたように、肩をすくめて見せた。

「言ったでしょ? 仕事だよ。学園長先生から、ウチの事務所に――君らの護衛を、ってね」




「でもホントに、いざって時に大丈夫だって保証あるの? あの浅野さんって人たちを疑う訳じゃないけど――」
「実際木乃香ちゃん、あっさり攫われたしね」

 浅野が去り、話し合いを続けるにも一旦小休止を挟むべきだと、ケイとタマモ――それに楓とエヴァンジェリンだけが残ったロビーで、缶ジュースなど開けながら、ケイとタマモが言う。
 関西呪術協会の一組織であるという警備会社の人間と、それにケイとタマモ、ネギにシロにエヴァンジェリン――これだけで、三年A組の一行を果たして守りきれるのか。

「あの刹那って子はどうなのかしら」
「桜咲刹那か――古狸から、木乃香の護衛を任せているとは聞いていたが――私が言うことではないが、クラスの人間との接点は薄い奴だからな。奴がどれほど使えるのかは、正直わからん」

 エヴァンジェリンはそう言って、ラムネの瓶を傾ける。

「それと私は戦力に数えるな。学園側との約束があるから、下手には動けん。そう言う意味で、今回の旅行では、私は自分自身の魔力を封印してあるんだ。茶々丸も同じだ。もはや馬鹿げた戦いに割く時間も無駄だと――この間武装のほとんどを外してしまったしな」
「……あんた意外と律儀なのね」
「ふん――それより何より、私には京都を楽しむと言う崇高な目的がある。くだらん騒ぎに付き合っている暇など無い」
「自分でそのハードルを上げてる気がしなくもないけどね」

 苦笑しながら、ケイはタマモに目を向ける。

「私もこの有様じゃあ、満足に正面切って戦うのは気が引けるわね」

 タマモは浴衣の袖を引っ張ってみせる。元々着ていたスーツは、今の彼女にはサイズが大きすぎる。幸い今の彼女は、背格好がシロとほとんど変わらないので、彼女の服の予備を貸して貰う事になってはいるが。

「ある程度使えそうな奴は、そこの馬鹿忍者を含めて何人かはいるが――現時点では何とも言えんな」
「今更だけど、どういうクラスなのよ、あんたのとこは」
「……考えると頭が痛くなってくる。私は常識人なんだ」
「非常識筆頭が何を言うのかしら」
「ネギ先生も、どうも本調子ではないご様子でござるからなあ」

 楓が顎に手を遣りながら、小さく呟く。未だ魔法云々の事柄を、ゴースト・スイーパーと同じ“オカルトの一面”としか捕らえていない彼女は、事の本質を理解しているとは言い難いが――彼女に対しては、余計な心配は無用だろう。
 ここに横島が居たら、麻帆良に来た頃の学園長の言葉を実感するだろう。今という時代に、もはや魔法という技術を、特別なものとして秘匿する意味合いは薄い――その言葉を。もちろん今のケイに言っても仕方のない事ではあるが。

「あーもう、私も横島と同じでさ、こういう事に頭悩ますのって、性に合わないのよ。ケイ、あとで何かおごったげるから、この仕事あんたに丸投げしていい?」
「正社員がアルバイトに向かって何言ってんのさ」
「むー……」
「まー、しょうがないよ。後は浅野さんのところと相談して――そうだ、シロさんにも――」
「申し訳ないが、拙者も今ひとつ――戦力にはなれぬやも知れぬ」

 ケイの言葉を、シロの声が遮った。振り返れば、浴衣の上から、ホテルのロゴが入った羽織を重ね着した彼女が立っている。しかし彼女の言葉の意味がわからず、タマモは眉根を寄せた。

「戦力になれないって――何、あんたアレでどっか怪我でもしたの? 横島と一緒に人に散々野生がどうだとか言っておいて――あんたもなまってるんじゃないの?」
「別に怪我などしておらぬ。先ほどの追跡劇、何が一番危険で堪えたかと言えば、タマモ、お主の運転がそうだと言わせて貰う」
「スピードは控えて安全運転――なんて言ってられる状況じゃ無いでしょうが。嫌味言ってる元気があるなら、何だって言うのよ」
「……その、つまり――」

 タマモの視線に、何故かシロは言いよどむ。視線が戸惑うように宙を彷徨い――一旦ケイに向けられたかと思えば、すぐさま彼女はあさっての方を向く。
 ややあって――彼女は下腹部に手を遣ると、僅かに頬を染め――恥ずかしそうに言った。

「……その――始まってしまった故に」
「始まった? 始まったって――」

 タマモは怪訝そうに眉をひそめ――ふと、小さく鼻を鳴らした。
 かと思うと、盛大にため息をこぼす。

「ああ――いるのよねえ……旅行中に生理になっちゃう間の悪い奴って――かならず一人二人は」
「たっ……タマモ! そんなおおっぴらに! ケイ殿もいるのに! ――エヴァンジェリン殿もそんな目で見ないで欲しいで御座るよ!? こればっかりは、拙者の意思でどうこう出来るものでは御座らんし!!」
「あー……わかった。わかったから――二人とも少し落ち着きなよ」

 ばつが悪そうに、ケイは二人の言い争いに割って入る。とはいえ――男の自分にはどうにもならないことだ。弁護をしてみたところで、果たしてそれが本当にシロの助けになるかもわからない。
 エヴァンジェリンは眉間を揉みほぐしながら、小さくため息をつき――楓は、犬塚シロという少女には、愛しい青年の絡みでなければちゃんと羞恥心があるのだな――と、非常に失礼な事を考えつつ、ケイの援護をすべく立ち上がるのだった。










ネギパーティ、戦力絶賛減少中。
現実的な理由で、更に戦力を減らしてみました。
僕は男なので想像することしか出来ませんが、
修学旅行とか、そう言うイベントでアレになると、割と最悪だと、
友人から聞いておりますが。

必要に迫られたので、また作ってしまいました、オリジナルキャラ「浅野」さん。
開き直って、オリキャラの名称は、上山徹郎先生をリスペクトしてそれにちなみます。これで統一。

八角警備保障
浅野潮
どちらも「ランポ」のキャラクターにちなんでおります。

それではまた、次の更新でお会いしましょう。



[7033] 三年A組のポートレート・心の出口を求めて
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/11/01 14:32
 二日前、土曜日――午後一時、都内某所。
 古ぼけた煉瓦造りの建物の中で、電話が鳴り始める。その電話は品の良いデスクの上に置かれていて、そのデスクの上には、ファイリングされた書類が整然と並ぶ。
 それだけで有能さがうかがい知れるデスクの主は、きっかりスリーコール――電話を取るのに最高と言われるタイミングを逃さずに、受話器を取る。

「お電話有り難う御座います。美神令子除霊事務所、花戸がお受けいたします」

 少し癖のある頭髪を、後頭部で一つに纏めた、眼鏡を掛けた美しい女性。それが、受話器を取った人物であった。彼女はその外見に違わぬ澄んだ声で、電話の向こう側にいる誰かに向かって、形通りの礼を以て応える。
 果たして電話の向こうから響いてきたのは、良く通る若い男の声だった。

「はい――はい。除霊のご依頼でしょうか――は? はあ――しかし、申し訳ありませんが、当事務所は名称の通り、除霊を専門に行う事務所でして――ええ、まあ、業務に多少の“幅”は御座いますが――」

 その男が言う言葉に、彼女は多少当惑しつつも返答する。その間、彼女の右手はよどみなく動き、メモと言うには少しばかり綺麗な文字列が、メモ帳に記されていく。

「少なくともその様なご依頼でしたら、専門の業者に頼まれた方が宜しいのではと――」
「ういー、ただいま戻りました、と」

 彼女が電話の応対を続けていると、不意に部屋の扉が開く。入ってきたのは、上品なスーツを着こなした、金髪の美女――千道タマモだった。彼女はその部屋――美神令子除霊事務所の事務所内を一瞥し、電話応対する事務員以外の姿が無いことを悟ると、事務員に軽く手を振って、正面のソファに腰を下ろす。
 ポケットから煙草の箱を取り出し――出向いていた先が嫌煙家揃いと言うこともあって、自粛していた久々の一服を楽しもうとしたところで、事務員から声を掛けられる。

「タマモちゃん」
「ん? 小鳩ちゃん、何か用? 電話してたんじゃないの?」

 火の点いていない煙草をくわえたままタマモが顔を上げる。
 事務員――花戸小鳩という名前の彼女は、困ったような顔をして受話器を振って見せた。

「仕事の電話なんだけど」
「……いや、なんだけど、って言われても――美神は?」
「二日酔いで寝込んでる」
「……横島とシロが居なくなって、多少は大人になったかと思えば――小鳩ちゃんの裁量で勝手に決めちゃえば? 金払いが良いなら美神も文句は言わないだろうし、はした金程度の“訳あり”の依頼なら、ケイの小遣いにでもしちゃいなさい」
「それが――その相手って言うのがね。麻帆良学園学園長って名乗ってるの――タマモちゃん、今まさに麻帆良から戻ってきたところでしょ?」
「――は?」

 タマモの口元から、ぽろりと煙草がこぼれ落ちた。




 現在――月曜日深夜、京都、ホテル嵐山。
 その一室――タマモとケイがどうにか確保した客室で、一同は顔を突き合わせていた。美神除霊事務所の職員である千道タマモと藪守ケイ。麻帆良女子中三年A組担任教師ネギ・スプリングフィールド。その生徒である犬塚シロ、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル、長瀬楓、神楽坂明日菜、桜咲刹那、朝倉和美。
 ――つまりは、今回の修学旅行に潜んでいた危険――関西呪術協会と言う存在と、尼ヶ崎千草という人物――もちろん、彼女の目的は現時点では誰にもわからないものの――の存在。それらの事実を“正しく理解できる”面々である。
 簡潔に言えば、“魔法の世界”という裏側の存在を知る面々。
 “尼ヶ崎千草であろう人物”に誘拐されかけた近衛木乃香は、ひとまず部屋に寝かせ、雪広あやかや那波千鶴と言ったクラスメイトが、今はその様子を見ている筈である。

「とまあ、あんたのところの爺様から、うちの事務所に依頼があって。それなりの金額が出るって事と、私たちに因縁浅からぬ相手が、まだ舌の根も乾かぬうちに――って言うのとはちょっと違うかしら? ともかく私らが東京に帰るのも待つか待たないかってタイミングで持ち込んだ依頼だってんで、うちの所長様はそれを快諾したわけだけど」
「もとい、あんたらの厄介ごとはあんたらで片付けろ――の一言でね」

 浴衣を纏い、少女の姿となったタマモがそう言えば、その隣で疲れたようにケイが付け加える。

「冗談も休み休み言えっての。私は麻帆良学園の暗部に首を突っ込んだ覚えもないわ。私はただ単純に、一介のゴースト・スイーパーとして、目の前で起きた事件に付き合っただけ」
「ま、今の横島にーちゃんに、あれこれ何かを頼むわけにもいかない、ってのはわかるんだけどね」

 タマモは小さく首を横に振り、ため息混じりに言う。

「仕事はするわよ。麻帆良学園本校女子中等部三年A組――その修学旅行を、影ながら護衛せよ。こうなった以上“影ながら”ってのは、ちょっと無理だろうけど」
「学園長の言いたいこともわからないわけじゃないけど。でも除霊が本業の僕らに、SPの真似事をしろってのは、実際ちょっと厳しいわけで」
「そう悲観したものでもなかろう、藪守ケイ。ゴースト・スイーパーは確かに、悪霊退治を生業とする仕事だろうが、その戦闘力はかなりのものだ。十分に“つぶし”は効くと思うがな」

 何処か楽しそうに言うエヴァンジェリンに、ケイは曖昧な笑みを浮かべてみるしかない。ゴースト・スイーパーは、文字通り悪霊を祓う仕事である――とは言え、時には物理的に魑魅魍魎と殴り合いをする必要がある。後方支援に特化した能力の持ち主も存在するが、基本的には“戦う能力”無くしてなれるものではない。
 そして乱暴な括り方をしてしまえば、悪霊も魔法使いも同類――日常の外に身を置く脅威である。成る程エヴァンジェリンの言うとおり、“つぶし”が効かなくはないだろう。

「とはいえ――私の消耗は軽くはないわ。石化の魔法だったかしら。あれがまた妙にいやらしい魔法でね」
「普通は“いやらしい”で片付けられる程度の魔法では無いはずなのだがな」

 苦々しげに言うタマモに、エヴァンジェリンは少々呆れ気味に言う。石化の魔法と言えば、強力な呪いの一種。呪いを解く事を専門にしている魔法使いでも無ければ、気軽に防御したり解除したりは不可能な筈である――少なくとも、彼女の知識の中では。
 そして“石化の魔法”という言葉が出た瞬間に、ネギの体が小さく震えた事に、彼女は気がついていたが――敢えて、気がつかなかった振りをした。

「状況は良いとは言えない。今の私じゃ十分な戦闘は期待できないし、こと“魔法使い”となりゃ期待できるかと思ってた吸血鬼は、妙に律儀なせいで使えやしない」
「ふん――“うちの魔法先生”ではどうも手札には弱く、そこの自称狼はと言えば、破滅的な間の悪さのせいでろくに使えんと」

 タマモとエヴァンジェリンに視線を向けられ、シロはいたたまれずに視線を逸らす。彼女自身には何の責任も無いとは言え――やはり思うところはあるのだろう。

「てかさ」

 ふと、今まで黙って話を聞いていた和美が、小さく手を挙げて話に割り込む。

「あたしにはいまいちわからないんだけど」
「貴様も相坂さよの一件から、大体の事は聞いているのだろう? 自称ジャーナリスト」
「麻帆良が実は魔法使いの集まりで、関西にも同じようなものがあって、ずっと昔からにらみ合いしてて――馬鹿な話よね?」
「もっともだ。だが、馬鹿げた話だからと言う理由でそれをやめられるのなら、世の中に争いごとなどは無くなるだろう。貴様もジャーナリストを目指すなら、それくらいの事は理解できていると思っていたのだが?」
「そ。だからそれは、あたしの個人的な感想。あたしは――単純に、今何が起こっているのか、自分がどういう場所に立っているのか――それがわからない」

 女子中学生の考える事なんてたかが知れているかも――と、言い訳じみた前置きをしてから、和美は言った。
 関東魔法協会の長の孫であり、関西呪術協会の長の娘である木乃香が、双方の組織に取って重要人物である事は間違いない。しかし、相手は彼女を使って一体何をしようというのか、それが全く分からない。
 これだけ大胆な手を打ってくるのだから、それなりの理由があるのだろう。けれどどれだけ考えても、その“理由”というものが見えてこない。
そして何より――それら“裏の組織”という存在が、未だ和美の中では実感を持たない。もしかすると、木乃香が攫われたのは偶然で、狙われる対象は誰でも良かったのではないかと、そう言う事も考えられる。
 もっともそれは可能性の一つであり――その可能性は高くはないだろうが。

「それについてはこちらが聞きたいくらいだ――あの浅野という男も言っていたではないか。何故彼女がこんな馬鹿げた行動を起こしたのかがわからん――とな」
「現実感がないのよ。自分が気がついたら、断崖絶壁の上を歩いていた――そんな感じ。おまけにあたしは、自分がそこを歩いている事を知ってるのに、それを信じられていない」
「ふん、平和ボケした人間にありがちな事だ」

 エヴァンジェリンは鼻を鳴らして和美に言った。
 相手が何者かわからない。相手の動く理由もわからない――そんな状態で、クラスメイトが攫われかけたという事実だけが、目の前にある。
 和美のように、今までごく普通の日常を過ごしてきた人間にしてみれば、今目の前にある事実を、容易に受け入れられなくても当然だろう。彼女は、目の前で起きている事実に“納得がいかない”のだ。

「貴様はまだ若い。幼いと言っても良い。だから今は仕方のない事だろう。だが――貴様が真にジャーナリストを、世界を俯瞰する人間になりたいのならば、その様な気持ちは捨ててしまえ。目の前で起こる事のみ、それが真実だ」
「……」
「もっとも――それを認めてしまえば、貴様の中で確実に“何か”が壊れるだろうがな」

 そう言って意地が悪そうに、エヴァンジェリンは笑う。その笑みは酷薄で、幼く可愛らしい彼女の容姿には、とても似合わないものだった。

「果たして今、木乃香殿は攫われかけ、相手の正体はわからず、相手の出方もわからず、こちらはそれに対して対策を立てねばならぬ。されど――拙者を含めて、こちらにそれだけの働きが出来る人間は少ない。それが拙者らの置かれた現状で御座る」
「それこそ、警察とか――それが無理ならオカルトGメンとかに助けて貰って」
「そのこと自体に反対はないがな、これだけ派手に動く事を厭わなかった連中だ。派手に動けば即ち、官憲の類が動いても何ら不思議ではない。連中もそれくらいのことは織り込み済みだろうさ。実際にどうするかは、まあ微妙なところだな。官憲を呼べばそれなりに対策は取れるが、関西呪術協会や私たち自身の足かせにもなる」

 黙り込んだ和美を、複雑な光を湛えた瞳で一瞥し――エヴァンジェリンは、彼女から視線を移す。ネギの隣に座り――ただ黙って話を聞いていた小さな少女、桜咲刹那に。

「それで――この期に及んで“私は関係ない”などと言えると思うなよ?」




 あらゆる状況を考える必要がある――とは言え、それを考える人間の頭には限界がある。そう言ったエヴァンジェリンの言葉に異論はない。
 けれど、未だに目の前で起こっていることが理解できない――いや、実感できない。そう言った和美の気持ちもまた、理解できる。ホテルのロビーで、ソファに座り、窓の外に見える月を見上げながら、神楽坂明日菜は考える。
 ネギとエヴァンジェリンが対峙したとき――魔法使いがどうだとかいう、呆れるほどくだらないもめ事の時にも、感じたことだ。
 確かに、木乃香は微妙な立ち位置に居る人間なのだろう。彼女自身が、その事に気がついていないと言うだけで。
 けれど――彼女は彼女だ。魔法使いを知らず、しかし魔法使いの世界の重要人物――などではなく、自分の親友、近衛木乃香だ。
 そして自分と同じ――ただの中学生であるはずだ。

(何だかな)

 何気なく顔を覆った手のひらは、驚くほど冷たかった。明日菜は深く、そして長く息を吐く。既に消灯時間を過ぎ――こんなところを新田教諭辺りに見つかれば面倒な事になるだろう。しかし、彼女にとってそんなことはどうでも良かった。
 いや――むしろそうなることを、彼女は望んでいたのかも知れない。
 修学旅行の夜中、部屋からで歩いて、教師に叱られる。自分たちに似合いなのは、そういう“もの”だ。自分たちは何の変哲もない、十四歳の中学生。だから、それが当然だ。
 それが当然で、あるはずなのに――

『明言しておきますが、私はあなた方の敵ではありません。私の使命――いえ、私の望みはただ一つ。木乃香お嬢様をお守りする――ただ、それだけです』

 何でもないことのように――本当に、当たり前の事のようにそう言った刹那の顔が、脳裏に蘇る。
 それは何だ? どういう意味だ?
 明日菜には、それがわからなかった。
 刹那もまた、“魔法使い”の様なものなのだろう。自分たちには理解できない、それなりの技術を修めた人間なのだろう。そして、その言葉の裏に隠された意味――彼女の表情から、その言葉が嘘でない事が見て取れた。
 彼女は本当に――木乃香を守ろうとしている。自分の持てる力のすべてを賭けて。ともすれば、自分の命さえもかけて。
 ――それは“何”なのだ? “どういう”意味なのだ?
 ネギがエヴァンジェリンと対峙したときに、自分は言った。争うことになど、何の意味もない。そんなことは無駄だ、やるべきではないことだ――と、明日菜は言った。
 少なくとも自分たちは、争うべきではない――凶器を手に取り、傷つけ合うべきではない――そう思ったからだ。
 そう思うのは、間違っているのだろうか?
 いや――それが間違いであるはずがない。間違いであるはずがないのだが――
 あの時、エヴァンジェリンは言った。自分の考えは甘いと。そう言うことが言えるのは、自分が生ぬるい世界に浸っているからだと。
 武器を捨てて戦うことをやめれば、皆が幸せになれる――それが甘い考えであることくらいは、明日菜にだってわかっている。戦場のど真ん中に素っ裸で立とう等と、いくら何でも思わない。あるいはもっと単純に、自分の大切な誰かが傷つけられ、殺され――そんな状況で、自分は武器を持って奮い立たずにいられるか?
 だが――それはあくまで、一つの理屈でしかない。
 本来、自分たちはそんなことを考える必要はないのだ。何故なら自分は、日本という平和な国で、未だ大人になるための準備期間さえ終えてない、ただの子供なのだから。理由など、それだけで十分な筈だ。

(何だって言うのよ)

 自分も木乃香も、シロも楓も和美も――そして刹那も。只の中学生ではないのか。
 あの時エヴァンジェリンが言ったことは間違いでない。
 今自分たちが、自分の身を守るために動かなければならないのも、必然だろう。
 けれど――木乃香を守ると言った刹那の瞳が、明日菜には信じられなかった。

(ねえ、エヴァちゃん――ネギ――私たちに必要な事って、一体何なの? 少なくとも私は――ただの子供でしょ? そのただの子供が――一体なにをしなきゃならないって言うの?)

 刹那が何を思い、そうしているのかなど、明日菜にはわからない。しかしただ一つ言えることは、単純な疑問。それは本当に、彼女がするべき事なのか? 彼女がしなければならないことなのか?
 刹那の背負うものなど明日菜には分からないが――自分がそう考える事くらい、間違っては居ないはずだ。
 深夜のホテルのロビーは静まりかえり、物音もしない。しかしおそらく、自分にはわからないだけで、今この瞬間も、関西呪術協会とやらの人間が、自分たちをガードしているのだろう。あるいはタマモやケイもまた、神経をとがらせているに違いない。
 自分には一体何が出来るのか――確かにそう考えてしまう。この期に及んで、蚊帳の外に居たくはない、
 けれど、自分がただの子供であるという事実と認識がまた、彼女を混乱させる。おそらくは和美が言う“現実感のなさ”も、それに起因するものなのだろう。ただの女子中学生は、いきなり黒服とサングラスを渡されたからと言って、その日からSPになれる筈もない。

(――高畑先生――)

 誰かの腕に縋りたい。そんな風に明日菜は思った。
 その誰かの顔が、ぼんやりと頭に浮かぶ。それは無精髭を生やした中年の男であり、そして――

(――横島さん――)

 彼の名前が口から滑り落ちそうになったのは、偶然だったのだろうか? しかし何故だろうか。彼女の脳裏には、人なつっこい白髪の青年の顔が、自らの思い人の顔と共に浮かんだ。ネギに背を向けたあの日、車の中で、不器用に自分を励まそうとしてくれた、あの不格好な笑顔が――
 誰に縋れば良いのかも分からない暗闇の中――明日菜の耳は、小さな物音を捕らえた。




『兄貴――まだ気にしてるんですかい?』

 常夜灯が照らす廊下を、ネギ・スプリングフィールドは歩く。只一人――いや、心配そうに自分を見上げる小さな相棒のみを、足下に伴って。

『エヴァンジェリンの時もそうでしたが――兄貴に落ち度があるわけじゃねえ。今回はエヴァンジェリンの時よりもずっとシンプルだ。木乃香の姐さんを攫おうとする奴らなんざ、悪者に決まってる。疑問の余地なんてありゃしねえ。そいつらを憎むのは当然だし、そいつらから木乃香の姐さんをどう守るか――ゴースト・スイーパーの連中やエヴァンジェリンだって、それが当然と思ってやってる事だ。兄貴が何を思い悩む事がありましょうや』
「カモ君――うん――こうなったことは残念だ。僕は――みんなに修学旅行を楽しんで貰いたかった。でも――少なくともこれで、犬塚さんや桜咲さんには、そんな余裕はなくなってしまった。確かにそれは、僕のせいじゃないのかも知れない」

 自分を気遣うカモに、ネギは小さく首を横に振る。

「僕が居ても居なくても――こうなってしまったのかも知れない。だったら僕は、自分に何が出来るのか、そして何をするべきなのか――それを考えるべきだろう」
『……兄貴?』
「わかってる――カモ君。それはわかってるんだよ。でも――でも、僕には考えられないんだ」
『考えられない?』

 カモの疑問を無視して、ネギは間口に掛けられた布――日本では“暖簾”と言われるそれをくぐる。その先は、床にすのこが敷かれた広い部屋だった。壁際には棚が並び、洗面台が据え付けられ、体重計やタオルラックと言った小物が据えられている――つまりは、露天風呂の脱衣所である。既に入浴時間を過ぎたそこは、薄暗い常夜灯だけが照らす、静かな場所だった。
 ネギはそこを横切り、露天風呂に出る。天然温泉掛け流しを売りにしているこの宿の浴場は、時間外であっても、湯船に湯を湛えている。月の光のせいか、照明が完全に落とされている筈のその場所は、脱衣所よりも明るく感じた。

「タマモさんを見てから――ずっと同じ事が、頭の中をぐるぐる回ってる。何度忘れようとしても、何度“今はそんな時じゃない”って自分に言い聞かせても――他のことが何も考えられないくらいに、僕は――」
『――差し支え無ければ、聞かせて貰っても構いやせんかね?』
「こんなこと――こんな事、今は考えてる場合じゃないんだ。木乃香さんを――みんなを、守らなきゃならない。僕は、みんなの先生だから――それよりなにより、僕がそうしたいから。そうしたいって、そう誓ったのは僕自身の筈なのに」

 ネギはそう言って、転がっていた手桶を手に取り、湯船の湯をすくうと――自分の頭上に、それを浴びせかけた。当然彼は服ごと濡れ鼠になり、カモは悲鳴を上げながら退避する。

『あ、兄貴!?』
「父さんは――あの地獄から、僕を助けてくれた。けど――どうしてあの時、タマモさんはあの場所にいなかったんだろうって――いや、タマモさんでなくたっていい。恐ろしい悪魔、強力な石化の魔法――それが何だって言えるくらいの人が、どうしてあの時、僕の側には――」
『だからって――いえ、俺っちには、兄貴が何を言ってるのかわかりゃしやせんが――落ち着いてくださいや』
「――うん――そうだ、僕は――混乱してる場合じゃない。心が乱れてる場合じゃないんだ。だから、だから僕は――」

 ネギはもう一度、頭から湯をかぶる。
 もちろん物理的に頭を冷やしてみたところで、何が変わるわけでもない。彼は静かに手桶を洗い場に戻し、空を仰いだ。

「……」

 そんな様子を、脱衣所の扉からじっと見つめていた明日菜は――ただ黙って、踵を返すのだった。




「なんつーか……アレだな。おキヌちゃんといいシロといい――俺も知らない間に、随分幸せな食生活してたんだなあ。舌が肥えるとはこの事か」
「そうですね……美味しいのは、確かに美味しいんですが――何というかこう――何かが物足りないというか。あ、でも、聞くところによれば、最初シロの料理なんて酷いもんだったとか」
「そいつはちょっと語弊があるかな。あの頃のあいつ、肉のことしか考えてないような奴だったからなあ。自然料理も――つまり元々料理自体が下手なわけじゃないんだよ。俺がぶっ倒れてからこっち、良い具合に健康志向になったもんだから」
「成る程。ううむ、では私も、シロに溝を開けられぬよう努力するべきでしょうか」
「……まあ、止めはせんが――自分で作ったものの責任くらいは自分で取れよ?」
「ヨコシマ、世の中には、“出されたものを只黙って食う、それが全てだ”という言葉がありまして」
「お前如きの国語力で、勝手に格言を捏造すんじゃねえ」

 埼玉県麻帆良市郊外、横島邸――シロが修学旅行に出発し、台所の主を欠く事になった横島とあげはは、出前で取った丼ものを二人で食べていた訳であるが。何故だか何となく、二人の口からは、不満めいた言葉がこぼれてしまう。
 出前の丼が不味いというわけではない。シロやおキヌの料理の腕が良いと入っても、それはあくまでアマチュアとしての話であって、プロの腕には到底及ぶまい。
 おそらく――家庭の味というものから離れて長かった自分と、最初からそう言ったものに縁のないあげはだから、そう思うのだろう――横島はそんな風に思ったが、もちろん口には出さない。悟りきったような事を言って悦に入る趣味は、自分にはない。
 ややあって、食べ終わった食器を流しに移す。洗い物はあげはが買って出る。二人分の出前の食器など、すぐに洗い終わる。彼女は着慣れないエプロンで手を拭いながら、居間でテレビを観ていた横島の隣に腰を下ろす。

「洗い物くらい俺がしたっていいんだぜ。お前だって宿題だとか色々あるんだろ」
「あの程度の家事をヨコシマに押しつけたとなれば、シロに頭が上がらなくなります」

 そう言って彼女は、横島の肩に頭を預ける。横島はそんな彼女の行動に柔らかな苦笑を浮かべつつも、その頭をゆっくりと撫でてやる。

「もうじきお風呂の用意も出来ます」
「何だよ、今日はえらく手際が良いな? 日頃からゲームばっかりしてないでそういうトコきちんと抑えてりゃあ、シロに嫌味も言われずに済むだろうに」
「それはそれ、これはこれです。第一、シロは関係ありません」
「ま……俺も偉そうな事が言えた立場じゃねーけどな。俺がお前くらいの時って言ったら、そりゃもう――」
「煩悩魔神に性欲が芽生えた頃の話ですね、わかります」
「待てやコラ」

 軽く頭に振り下ろされる横島の平手を無視して、あげはは彼の首筋に、鼻先をこすりつける。小さな彼女の鼻先は、熱を帯びた頬よりも冷たく感じられた。

「まるで猫だな。喉でも撫でたらいい声で鳴くか?」
「確かめてみたらどうですか?」
「……これ以上妙な趣味に目覚めたら困るんでやめとくわ」
「何を今更」

 憮然とした顔で――横島からは彼女の顔は伺えないが――あげははそう言い、小さく息を吐く。

「ねえ、ヨコシマ。お風呂が張れたら、今日は一緒に入りましょう?」
「シロが居ないからって大概にしとけよお前。俺は美神さんに殺されるのも、シロに輪切りにされるのも、おキヌちゃんに汚物を見る目で見られるのも勘弁だ」
「そうやってすぐに逃げないでください。それでは学園長先生と変わりませんよ?」
「――タマモにも言われたけど、やっぱり俺とあの爺さんって似てるのか?」
「そうですね――そっくりです。そして、まるで似ていません」
「日本語でオーケー」
「私がヨコシマを愛している事は、私とヨコシマの間の問題です。あなたの女性関係は知っていますから、“彼女たち”がどういう反応をするかと言うこともまた、想像は付きます。ですが――それが私に、何の関係が?」
「そりゃお前は良いだろうよ。実害を被るのは俺なんだから」

 疲れたように額を抑え、横島は言う――
 果たしていつもならそこで、不満げに引き下がるだろうあげはは――今夜に限って、追撃の手を緩めようとはしなかった。

「――ルシオラちゃんに言い寄られたとき、ヨコシマは同じ事を言いましたか?」
「……あげは?」
「ヨコシマは自分の事を、煩悩魔神などと言っておきながら、どうして私たちに手を出さないのですか?」
「出せるわけねーだろ。お前らはまだ子供だ」
「ええ。ですがそれが何か問題でも?」
「西条の馬鹿野郎みたいなことを言うんじゃねーよ。大いに間違いたまえ! ってか? 俺は確かに馬鹿でスケベな男だけどな、ガチで犯罪者になりたいわけじゃねーのよ。わかる? この線引き」
「子供であることが問題なら、成長すれば良いだけの話です。ならば今でも構わないでしょう。多少遅いか早いかの問題です」
「良いわけあるか! ロリコンを正当化しようとすんな! 子供がそんなこと言っちゃいけません!」

 半ば絶叫するように首を振った横島だったが、あげはの表情は揺るがない。

「ええもちろん、ロリコンなんてのは最低最悪の人種です。子供に手を出す馬鹿は死ねばいいと思います」
「さっきと言ってる事が正反対ですよあげはさん」
「ですから――“私”を見てください。子供であるのも、あなたの妹の様な存在であるのも、それは私を形作るほんの一部でしかありません。私のこの気持ちは――魂の奥底から、私を突き動かすこの願いは、私が子供であることを理由に、いずれ薄れていく――その程度のものであると、あなたは本当に思っていますか?」
「……」
「私が子供である事を理由に、私を受け入れられないのなら――認めてください。“お前は子供だから、俺のことが好きだと思いこんでいるだけだ”と、“その気持ちはいずれ、他の誰かを好きになって消えていく”と、そう言い切ってください。そうでないのならば――」

 横島の首筋に顔を埋めたまま、あげはは言う。
 彼はそんな彼女を緩く抱きしめたまま――何も言わない。
 どれくらいの時間が過ぎただろうか。その静寂を破ったのは――あげはの小さな吐息だった。

「……もちろん、ヨコシマに今すぐ、身の回りの女性関係をどうこう出来る甲斐性があるとは思えませんが」
「――うわー、何か俺、自分が最低な男だって気がしてきたよ」
「ですから、私は待ちますよ? 私の心を形作るこの思いが、時間が経ったくらいで薄れていくとは欠片も思いませんし。今の自分の体が貧相であることくらい、まあ、自覚はしてますし」
「いや、だから」
「ですが――いずれは、答えを出してくださいね? この――最低の、女の敵」

 そう言って、横島の首筋から顔を上げたときの彼女の顔は――まるで青空に咲く大輪の花のような、底抜けに晴れやかで、心地の良いものだった――

「……まあ、あの馬鹿犬に弱みを握られていますし、あまりせっつくのも良くないでしょう。せいぜい後からボディーブローのように効いてくるじわじわとした攻撃を――いえ、いっそのことヨコシマにカミングアウトしてしまいましょうか? どうせヨコシマも変態の類であることは間違いありませんし、変態同士で“らぶらぶ”と」
「――と思った瞬間に、さっきの笑顔が嘘みたいな黒い表情になるのはやめてください」
「――計画通り――」
「だからやめろって」

 理由の分からない――いや、理由を考えたくない“安堵”のため息を漏らし、ヨコシマはそんな彼女の頭を“ぐりぐり”と押さえつける。あげはは頭髪をもみくちゃにされながらも、嬉しそうな笑みを浮かべ――

「と言うわけで、一緒にお風呂に入りましょう」
「そこに戻るな!」
「別に他意はないですよ。家族のスキンシップです」
「この流れで信用できるか。第一お前もう小五だろ」
「ふむ――もう小五と言うべきか、まだ小五と言い張るべきか。それが問題です」
「勘弁してくれ。白井病院のあの時なんざ、五年は寿命が縮んだぞ」
「今すぐ十年くらい延ばしてあげましょうか?」
「どうやって延ばすつもり――舌なめずりすんな! 何でお前と言いシロといい――ああもう、何で本来ボケ担当の俺が、近頃ツッコミに回ってばっかり――」

 横島の言葉は、その時に鳴り響いた電話のベルによって遮られる。携帯電話ではなく、廊下に据え付けてある固定電話の呼び出し音――彼はそれを、天空から差し伸べられた蜘蛛の糸だとばかりに、どうにか手の届く位置に置いてあった電話の子機に手を伸ばす。

「――天に届く寸前で、盗賊が縋った蜘蛛の糸は切れてしまうわけですが」
「人の心象風景を勝手に覗くな! ――はい、横島ですけど」

 にっこりと――蕩けてしまいそうな笑みを浮かべるあげはを、殴る真似をして追い払いながら、横島は通話ボタンを押す。

『――……えーと――横島君?』

 果たして電話の向こうから響いた声に、彼は一瞬、動きを止めた。着信表示を見るまでもない。その声を、彼は聞き間違えるはずもない。

「……美神さん」

 自分の人生を切り開いた、彼女の声を。



[7033] 三年A組のポートレート・一夜が明けて
Name: スパイク◆b698d85d ID:4d3c07f7
Date: 2009/11/16 11:13
――平行線とは何のことを指すのだ。
――決して交わらない線の事だ。
――それは、相手を引っ掴んで引っ張り寄せても交わらないのか?
――そんなものは最初から“平行線”とは言わないよ。




「では――麻帆良女子中の皆さん、いただきます」
『いただきます!』

 麻帆良学園本校女子中等部、修学旅行二日目、火曜日午前七時半――京都郊外、“ホテル嵐山”の大宴会場にて。少女達の元気な声が響き渡る。修学旅行の朝食メニューなど、おしなべて簡素なものではあるが――それでも、修学旅行という非日常空間を全力で楽しもうとする育ち盛りの胃袋には、何よりのご馳走だ。

「でもねー、あたし的には、甘い卵焼きってのはアウトかな」
「何を仰いますの。卵焼きと言えば、ほんのりと甘いものこそが最高です」
「何……だと……? あ、ひょっとしてアレだ、委員長って、スイカに塩かけないタイプだろ」
「スイカに塩をかけるなど邪道です。確かに甘みは際だつかも知れませんが、そんな味覚を馬鹿にするような真似を――あら、犬塚さん?」

 料理の細かい趣味について、隣の和美と言い争いをしていたあやかは、逆隣に座るシロの箸があまり進んでいない事に気がついた。彼女の知る犬塚シロという少女は、男勝りの大食漢である。この細い体の何処に――ものの喩えではなく物理的に何処に入るのか、と言うほどの食事を“ぺろり”と平らげ、苦笑しながら、自分は燃費が悪いから、などと言ってのける人間だ。
 膨らんだ消化器官を、腹筋で無理矢理圧縮しているのだろうか――食事中の彼女を見ていれば、いつもはそんな馬鹿げた考察が浮かばずには居られないのだが、今朝の彼女は、そんないつもの様子とは別人のように、ゆっくり箸を動かしている。

「どうかしましたの? 気分でも悪いのですか?」
「あ――いや、ご心配を掛けて申し訳御座らぬ」
「委員長、シロちゃんさ、アレになっちゃったのよ」

 和美の言葉に、あやかは箸を止め――改めてシロの方を見る。シロは苦笑しながら箸を置き、己の下腹部に手を遣った。お膳の上に並べられた朝食は、半分ほどより量が減っていない。

「大丈夫ですか? 痛み止めを忘れてしまったとか――一応私も持ってきていますけれども、お貸ししましょうか?」
「あ、いや――本調子でないとは言え、拙者、それほど重い方では御座らぬ。それに――痛み止めを飲んでしまうと、思考力や判断力が鈍る故」
「何を馬鹿な。常に痛みを我慢している方が、余程辛いに決まっているでしょう。犬塚さんが奈良の観光に並々ならぬ意思を持っているのはわかりましたが――今、薬を持ってきますから、食後のお茶と一緒に飲んでおきなさい」

 そう言って、シロが止める間もなく、あやかは席を立つ。

「まあ……あれでお人好しだからね、委員長は」

 その後ろ姿を苦笑混じりに見送って、和美は言った。あやかはシロが薬を飲まない理由を、今日の予定――奈良の自由行動の為だと勘違いしたようであるが――まさか本当の事を言うわけにも行かないだろう。
 薬で判断力が低下している状態では、咄嗟の“危険”に即応できないおそれがある、などと言うことは。

「でもシロちゃん、本当に大丈夫? 見るからにツラそうなんだけど」
「何――病気では御座らぬわけで。痛みそのものに拙者自身が辟易することはあれど――心配は要らぬ」
「そりゃ極論でしょうに。藪守さんとか千道さんとか――いまいち頼りないけど、あの警備会社の連中だって居るんだから、シロちゃん一人が無理する必要なんて無いんだよ?」
「むろん承知。タマモやケイ殿――そして関西呪術協会とやらの方々を信頼していない訳では御座らぬ。拙者一人に出来ることもたかが知れているかも知れぬ――されど、拙者はそれが自分に出来る事であるというならば、それを担いたいと――そう思うので御座る」
「シロちゃん……」

 心配そうに自分を見る和美に、シロは“にっこり”と笑って手を振ってみせる。

「和美殿こそ、その様な顔をしていては、あやか殿に心配されてしまうで御座るよ?」
「いや――だってさ」
「和美殿には、和美殿の仕事があるので御座ろう?」

 何かを言いかけた和美に、シロは再び箸と茶碗を手に取り――それらを顔の両脇に掲げるようにして、ポーズを取って見せた。

「……まったく、かなわないなあ」

 和美は小さく苦笑を浮かべ――自分の脇に置かれていたカメラを取り上げ、不格好なポーズを取るシロに向かって、シャッターを切る。

「ほんと、あんまり無理しなさんなよ?」
「だから平気で御座るよ。言い換えればこの痛みは、拙者の体が、女性として正常に機能しているという証――いずれ来たるべき時に、横島先生との」
「あー、わかった。わかったからもう、皆まで言うな――全く、横島さんも大変だわ」
「果報者と言って欲しいで御座るな? こんな“ぷりちー”な拙者が、この身を捧げると言っておるので御座るからな」
「その自信がどっから来るんだかねえ……いや、別に質問してるわけじゃないから、言わなくて良いわよ?」

 唇に人差し指を押し当てられて、シロは不満そうに――何故不満そうなのかは敢えて聞くまいが――口を閉ざす。

「全く何をやっているんですかあなた達は――はい、犬塚さん」

 自分の荷物から薬を持って戻ってきたあやかは、自分の席を挟んで、どうやら愚にも付かない言い合いをしているらしい友人達を見てため息をつき――とりあえず、当初の目的通り、持ってきた薬をシロに渡す。念のため持ってきているとは言え、今の自分にこれが必要になるような事態は訪れまいと、箱のままで。
 シロはあやかに礼を言って、薬の錠剤を取り出すと――それを口に含んだ“ふり”をして、お茶を飲み下した。




「ケイ、おかわり」
「もう五杯目だよ?」
「今の私にはね、どれだけ食べたって“食べ過ぎ”は無いのよ。何処ぞの有名な怪盗の三代目だって、“血が足りねぇ~”とかって食べ物漁ってたじゃないの」
「どーゆー喩えだよそれ。いや、食べ過ぎとかそう言うんじゃないんだけど、にーちゃんにせよシロさんにせよ――体の何処に入っていくんだろうって、不思議でならないんだよ」
「そうでもないわよ? 前にシロがね、焼き肉の食べ放題に行って、ギブアップしたことがあるんだけど――あの時のあいつ、信楽焼のタヌキみたいになってたわよ?」

 ケイの脳裏には、風船のようにふくれた腹を抱えて苦しむシロの様子が映し出される。げに恐ろしきは、彼女の食に対する執念か、それとも、そんな彼女に白旗を揚げさせるだけの食材を用意していた焼き肉店か。
 とにかく――麻帆良の女学生達が朝食を取っているのとは別の場所、“ホテル嵐山”本来の食堂で、タマモとケイは、その彼女たちに合わせた時間に朝食を取っていた。
 果たしてタマモが、あり得ないほどの食事を掻き込んでいる理由はと言えば、前夜に喰らった“魔法”のダメージが未だ抜けていないから――失われた体力を少しでも回復させる為であった。今の彼女が、いつもの妖艶な美女の姿ではなく、シロと同じくらいに見える少女の姿を取っているのは、その“ダメージ”のせいに他ならない。

「……女の子なんだから、もう……」
「心配しなくてもね、多少なりとも“男”だって思ってる奴の前じゃ、こんなガッついたりしないわよ」
「つまり僕は、タマモさんに男だって思われてないって事?」
「思われて欲しいわけ?」
「……いや、そうは言わないけど」
「だったら人の食事にケチをつけるのはやめなさい。シロだって一応、今はもう横島の前じゃあんまりはしたないことはしてないって――何よ」
「いや、何でも」

 タマモは小さく鼻を鳴らし、再びケイに向かって茶碗を突き出す。

「おかわり」
「はいはい」

 ケイは彼女の茶碗に“山盛り”にご飯を盛ってやると、おかずの塩鮭をほぐしながら、彼女に言った。

「どうするの?」
「何が。一応予定は頭に入ってるんでしょ? 女学生さんたちは、今日は奈良の自由行動」
「そうじゃなくて――今連中が仕掛けてきたら、どうするのかって事」
「ああ」

 彼の不安はもっともである。自分はゴースト・スイーパーとは言え、まだ見習い。タマモは夕べのダメージがまだ抜けきらないのは一目瞭然。そこにシロの体調不良が重なり、彼女の“同級生”である“有名な魔法使い”は、自らに科せられた制約のせいで、力を使うことは出来ない。
 シロが言うには、何故だか知らないが彼女のクラスには、彼女の他にも“腕が立ちそうな”人間は在籍しているらしいが――その理由はともかくとして、彼女らに助力を仰ぐのはもってのほかだろう。

「あとは八角警備保障――関西呪術協会のガード、か」
「あんな奴ら、最初から数に入れてないわよ。いくら“魔法使いの常識”から半歩踏み出したやり方だったって言っても、あっさり裏を掻かれた平和ボケ連中よ?」
「辛口だね」
「事実よ――んでもまあ、これは私の勘だけどね、あの連中、今日は派手に動きはしないわよ」

 そう言ってタマモは、お新香を奥歯で噛み鳴らし、ご飯を掻き込んで、みそ汁で流し込む。
 ケイはそのお世辞にも上品とは言えない仕草に、小さくため息を吐く。

「何よ。全くあんたは、“家族”の前でもいちいち礼儀を要求するの?」
「親しき仲にも何とやら――って言うじゃないか。全く、今の格好を真友の馬鹿野郎に見せてやりたいね」
「何、あんたら、また喧嘩でもしてんの? と言うかいい加減、あんた真友君に突っかかるのやめなさいよ、見苦しいんだから」
「くっ……あんな奴と! あんな奴と、思春期以降に仲良くなんて出来るもんかっ! 神は死んだんだよ、タマモさん!」
「あんたが死になさい。ホントにあんたと横島の“兄弟”と来たらもう……って、話が脱線してるけど、いいの?」

 タマモは、一人拳を握りしめるケイにため息をつく。

「……こりゃあの娘も苦労するわね」
「何か言った?」

 再び漏れそうになるため息を、お茶で無理矢理に飲み込み――顔の横で小さく手を振って、彼女は言った。

「昨日のアレ――近衛木乃香ちゃんの誘拐が成功するかどうかは、向こうとしても半々くらいの賭だったと思うわよ?」
「状況から考えればそうだね。どうせ――僕やタマモさんやシロさんや――あの吸血鬼の子とか、そういうイレギュラーが混ざってるのは、向こうの耳にも入ってたんだろうし」

 尼ヶ崎千草――と名乗ったあの女性は、タマモの事を知っていた。少なくとも、彼女が何者であるのか――表向きくらいではあっても、それも知っているのだろう。

「とはいえ、学園長の爺さんから、ウチの事務所に依頼が来たのが土曜日――美神が“面倒だ”ってんで、あんたと二人で頭突き合わせて、楽しくもない時間――もとい、ブリーフィングしたのが日曜日。私らがあの有様だったんだから、相手だってこのイレギュラーを考慮に入れた計画を練る時間は無かった筈よ。これは私の推測だけど――清水寺の滝に混ぜられたって言う、お酒の事もね」
「ああ、シロさんがそんなことを」
「これは単なる推測だけど――連中は、直前になって飛び込んだ不確定要素を懸念して――消せる限り、他の不確定要素を消したかったんじゃないかしら? たとえば、好き勝手に動き回る、好奇心旺盛な女子中学生――とかね?」

 そのような事件が起こったとなれば、当然、引率教師の監視の目は厳しくなる。しかしそれはあくまで教師のもの――“内側”に向けられるものだ。彼らは生徒をより厳しく統率しようとして――結果として、“生徒が起こすイレギュラー”は減るだろう。

「まあそれは私の推測だとしても、連中にしてみれば、“ここ”で決められたかも知れないチャンスを棒に振ったのよ? 次善の策があるにしても、そう次から次へとポンポン襲撃プランがあるとも思わないわ。それに今日の予定を聞いてみたら、大方の班が“東大寺見学”ってね」

 奈良、東大寺――木造建築としては世界最大の規模を誇る大仏殿が有名な、世界に誇る日本の巨大寺院の一つ。清水寺と並んで、観光スポットとしても名高い名所である。

「ま……滝の水に酒を混ぜる程度ならともかく、そんな場所で仕掛けてくる馬鹿も居ないでしょう――おかわり」
「それじゃあ、今日は僕らは?」
「あの子らと一緒に、東大寺の観光としゃれ込みましょうよ」

 そう言ってタマモは、ケイから茶碗を受け取った。




「えー、皆様、正面に見えますのが東大寺大仏殿で御座います。ではここで、大仏について、ガイドの綾瀬さんから」
「おほん――では、僭越ながら。一般に東大寺の大仏と言われている仏像ですが――正式名称は廬舎那仏像。聖武天皇の願いにより、七百四十五年に建立が始まり、完成したのは七百五十二年と言われています。とはいえ、現存するのはその仏像の一部分のみで、大部分は後世に修復されたものなのです。とはいえ、この仏像はもちろん国宝に指定されておりまして――」

 眼前にそびえ立つ世界最大級の木造建築物――東大寺大仏殿を指して、一人の小柄な少女が熱弁を振るう。“馬鹿ブラック”なるありがたくもない渾名を頂戴していながら、その実頭の回転は驚くほどに早い――綾瀬夕映は、そんなアンバランスな少女である。
 普段から振るわぬ成績に頭を抱えているとは言え、三年A組の少女達はもちろん、そんな彼女の本質を理解している。冗談交じりに振られた言葉に応え、彼女は級友達の一団を率いて、大仏殿に向かう。

「綾瀬夕映、この建物は――いつ頃に建てられたものなのだ?」

 そんな彼女に質問をしたのは、彼女以上に小柄な金髪の少女――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルである。その質問に、夕映は驚いた。質問の内容にではなく、彼女が自分に質問をしてきたと言うことに対して、だ。
 あまり社交的とは言えない夕映からしても、エヴァンジェリンは周囲の人間を避けているように感じられていた。そして“馬鹿ブラック”である自分を見下しているようにも。周囲の少女達にもそれは多かれ少なかれあったようで――しかし、夕映は敢えて何も言わずに、彼女の質問に応える。

「おおまかには、大仏の鋳造が完成した七百五十二年には、完成していたようです。あ――とはいえ、内部の大仏と同様に、大仏殿も二度ほどの致命的な損傷を受けていて――現在の大仏殿は、江戸時代、千七百年過ぎに再建されたものですね。これだけの大きさを誇っていながら、現存するこの建物は、初代より小さなものになっているそうですよ」
「ほう――これが、か。世界最大の木造建築と名高い東大寺大仏殿――今でさえ私たちに威容を示すこの建物が、遙かな時の彼方、どれほどの存在感を人々に見せつけたものか――何だか、自分という人間が酷く小さく感じられる」
「それには同感ですが、意外ですね? 失礼ですが、エヴァンジェリンさんは、そう言うことを呟いて悦に入るタイプには見えませんです」
「本当に失礼な奴だな。しかし――貴様はそう言うことが言えるほど、私という人間を知っているのか? ひょっとすると私は、貴様が思う“エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル”とは、正反対の人間かも知れないのだぞ?」
「……それは――ごめんなさい、です」

 小さく顔を伏せた夕映の脇を、エヴァンジェリンは歩き抜ける。その際に、彼女は夕映の小さな肩を、軽く叩いた。

「気にするな。誰それの人となりを見極めるには、それなりの時間が必要だ。私と貴様の間には、まだそれだけの時間が無い。貴様がそう思うのも当然だ」
「……」
「だが――時間はいくらでもある。ほら、先を急ぐぞ。折角便利なガイドが居るというのに、そいつがしょげかえって居ては意味がない」

 その言葉に、夕映は小さく頷いて、小走りにエヴァンジェリンの前に出る。そして少女達の方を大げさに振り返り――大仏殿を仰いで、再び知識の引き出しを披露し始める。

「しかし変われば変わるモンねえ……よっぽどストレス溜まってたんでしょうね」
「ええ、マスターのあんなに晴れ晴れした姿は、私が起動してからこちら、見たことがありませんから」

 その様子を遠巻きに見ていた明日菜の呟きを聞き取ったのか、彼女の側に立っていた茶々丸が、静かに言う。しかし、“私が起動”とは――何気なく放たれた言葉に、明日菜は思わず額に手を当てる。
 目の前の少女――絡繰茶々丸は、ロボットである。
 だが果たして、現在の日本に――中学校に通い、“主”を気遣う事の出来るロボットという存在が、ごく自然に存在していてもいいものだろうか?

「……いいや、考えるのが馬鹿馬鹿しい」
「何がですか?」
「ううん……千雨ちゃんが時々頭抱えている理由、今の私ならよくわかるな、って――ああ、別に茶々丸さんが悪いって言ってるわけじゃないのよ?」
「はあ……」

 よくわからない、と言った表情を浮かべる茶々丸の顔は、少なくとも普通の人間のそれと見分けが付かない。

「少なくともエヴァちゃんには……あの時みたいな顔は似合わないと思うんだ」
「そうですね、マスターは、馬鹿のように暢気に笑っているのが一番です」
「……茶々丸さんって、エヴァちゃんの“従者”なのよね?」
「そうですが?」
「……いや、いいわ。うん、ごめん、何でもない」
「明日菜さん」

 誤魔化すように手を振った明日菜の顔を覗き込むようにして、茶々丸は言った。

「何か――いえ、私の思い違いでしたら失礼なのですが――何か、お悩みでも?」
「へ?」

 明日菜を見つめるその瞳――無機質な筈のカメラアイには、形容しがたい複雑な――“感情”を含んだ色彩と――何処か疲れたような顔をした、亜麻色の髪の少女が映っていた。




「シロちゃん平気かいな? 何か飲み物でも買ってこうか?」
「拙者は平気で御座るよ。木乃香殿の方こそ大丈夫で御座るか? 夕べの疲れは残っておらぬか?」
「大丈夫やよ。うち、気がついたら布団の中やったもん――あんなんはもう懲り懲りやけど」

 力なくベンチに腰掛ける自分に、心配そうに声を掛けた木乃香に向かって、シロは苦笑を浮かべて見せた。
 木乃香には昨晩の事は、ホテルの近くで発生した霊障――つまりは“沸いて出た猿の悪霊の仕業”という風な説明をしてある。あやか達のような事情を知らない級友達にも同じような説明で誤魔化した。果たして“プロ”であるタマモやケイの口から語られたそれを、木乃香は何の疑いもなく信じている。

「実は明け方にこっそりお風呂にも入ってさっぱりしとるんよ。せやからうちは、何の心配もあらへんよ?」
「それは結構」

 そんな彼女は彼女で、中々したたかな少女であるとシロは思う。真実を隠し通したままであるのは、彼女に対して申し訳ないとは思うが、ひとまず彼女は大丈夫だろう。
 タマモ達の推測からすれば、“尼ヶ崎千草一味”は、少なくとも今日――奈良の自由行動中には、目立った動きを見せることは無いだろうと言う話だった。シロも一応、その推測は正しいのではないかと思う。夕べの一件を、適当な話で“ごまかせた”のが、その証明になっている。ならばいくら何でも、観光客で溢れるこの町中で行動を起こすような事はしないだろう。
 ならば自分に出来ることは、体を休めて体力の消耗を最低限にとどめる事である。あやかにも言った通り、この程度の生理痛は“病気”というわけではない。もっとも厳しいこの一日さえ乗り切れば――

「“二日目”さえ乗り切れば、拙者ならどうと言うことは御座らんよ。明日の自由行動は、思う存分に動き回れる」
「こればっかりはどうにもならんとは言え――変な罪悪感覚えてまうわ。うち、痛み止めが必要なくらいに痛いて思うた事、無いから」
「確かにそれは覚える必要のない罪悪感で御座るな――拙者のことなら、本当に気を遣う必要は御座らん。東大寺には以前、先生と共に参った事がある故に」
「それってデート?」
「……ただし除霊のついでに。それも、おキヌ殿と一緒に」
「あはは――そら残念やったなあ」

 木乃香は、その上品な顔立ちに似合わぬ噛み殺したような笑みを浮かべ――シロに小さく手を振って、踵を返した。彼女が所属する第五班は、夕映の先導によって、今まさに大仏殿の中へと入っていくところである。それに合流すべく、小さくなっていく彼女の背中を見送って、シロは大きく息を吐いた。

「随分参ってるわね」
「タマモ――タマモ?」

 ふと、横合いから掛けられた聞き慣れた声に、シロは彼女の名前を呼びつつそちらを向き――思わず、その名前を繰り返した。自分の隣にはいつしか、見慣れない制服――セーラー服に身を包んだ金髪の少女が、腕を組んで座っていたからだ。心なしか、その頬は僅かに赤いように感じられる。

「えーと……差し支えが無ければ、その格好の意図を聞いても良かろうか」
「……あんたの言う“差し支え”ってのは一体何よ?」
「実はお主には、俗に言う“コスプレ”の趣味が――ああ、別に馬鹿にしているわけでは御座らん。拙者、人の趣味をとやかく悪く言うような狭量な人間では――」
「丸焦げにしてやるわよあんた。ま……こんな姿になってる間は、こういう格好の方が目立たなくて良いでしょ。場所が場所だし――それと、この服の出所は、あの浅野って男だからね?」
「……何故あのお方が?」
「考えたくもないわ。ま、最悪、制服趣味の変態野郎ってワケじゃ無さそうだけど――今回みたいな裏の仕事の為の小道具じゃないの?」

 私の格好はともかく、と、タマモは首を振って、その話を打ち切る。

「ケイ殿は?」
「あいつ童顔の割にタッパあるから、学ランのサイズが合わなくて」
「いや、そう言うことではなく」
「結局観光客に紛れ込んで、どっかその辺りをうろついてる筈だけど。私たちだって本職ってわけじゃないからね、居ないよりマシ程度かも知れないけれどね」

 彼女は苦笑混じりに、周囲を見渡す。平日とは言え、日本屈指の観光地であるこの場所は、それなりのにぎわいを見せている。シロ達と同じ修学旅行生か何かであろう、制服を着た少年少女の一団や、カメラを持った外国人。パンフレットを片手に言葉を交わすツアー客の一団――

「あんたは良いの? あんたの連れ――大仏殿の中でどーやって写真を撮るかって、悪巧みしてたわよ?」
「確かあの中は写真撮影禁止で――まあ、しおりを作るときに調べてみたら、今は昔ほど五月蠅くは言われないようで御座るが」
「動けないくらい痛いんだったら、大人しくバスに戻ってなさい。こんな場所で敵さんが動くとも思えないし、ここは私とケイでどうにかするから」
「ふふ――お主に気遣われる日が来ようとは、拙者もさび付いたもので御座るなあ」
「すっかり横島の飼い犬になっちゃったあんたに、まだ牙が残ってると思うなら、とんだお笑いだわ。あんたはしっかり旅行に専念してれば良いのよ、女子中学生」

 タマモはシロの方を見ずに、つまらなそうに言った。
 シロは小さく彼女の方を伺い――そんな様子は、彼女には似合わないものだとふと思う。

「タマモ――」
「何よ」
「ひょっとして機嫌が悪いので御座るか?」
「機嫌が良いように見えるんだったら、眼科でも行ってきなさい。まったくどうして私がこんな事を――相坂って子の一件でもアレだったけど、あんたのところの学園長先生とやらは、余程私を不機嫌にさせたいらしいわね?」
「せいぜい相坂殿が、見事に学園長先生の手綱を握る事を期待するで御座るよ」
「何気にあの相坂って子も末恐ろしいわよね。あのジイさん、絶対将来は尻に敷かれる――って、あら?」

 そこでタマモは、ふと気がつく。大仏殿の入口に一人立ちつくす、小柄な少女の姿に。

「ねえシロ、アレって昨日の――“自称護衛少女”ちゃんじゃない? あんなところで一人で突っ立って、何やってんのかしら?」
「はて――」

 麻帆良の明るい色合いの制服は、修学旅行生の多いこの季節、この場所では割合目立つ。視線をいくらも彷徨わせないうちに、シロはその姿を捕らえることが出来た。思い思いのグループを形作るその明るい制服の群れから、只一人外れて立つ彼女――桜咲刹那の姿を。
 そこで、ふと思い出す。
 彼女は昨晩、自分の事を木乃香の護衛である、と言った。
 彼女の詳しい身の上は知らず、木乃香や学園長との間にどういう事情があるのかも、シロは知らない。しかしとりあえず彼女の言葉を信じるとするならば――

(……そう言えば、桜咲殿は――)

 視界の中で、その少女が不意に、こちらに振り返る。




「凄い大きな建物だね――これが何百年も前に作られただなんて、信じられないや」
『二十世紀に入ってから、軍隊の格納庫だとか何だとか、単純な大きさだけならこれより大きな木造建築もあるらしいですがね――そう言うのとはまた、意味合いが違うって言いますか』

 一方その頃、ネギ・スプリングフィールドは、大仏殿に続く、広い石畳の道を一人、歩いていた。
 昨晩――何か思うことがあったのか、深夜に風呂場の湯を頭からかぶると言う奇行に走った彼ではあるが、一夜が明けてひとまず落ち着いたようである――と、彼の肩に乗る、自称彼の“使い魔”、オコジョ妖精のアルベール・カモミールは思う。しかしそれはおそらく表面的なもので、彼の心が未だ酷く乱れている事もまた、何となく彼にはわかっていた。
 しかし、今藪を突いて蛇を出すのは得策とは言わない。彼の心に淀む、何か“膿”のようなものを絞り出すタイミングというのは、今ではない。だから彼は、単純に観光客のように振る舞う彼に、相づちを打って見せた。

『この“旅行のしおり”とやらによれば――この大仏殿には、一つ穴の空いた柱があるとかで』
「穴の空いた柱?」
『何でもその穴は、大仏の鼻の穴と同じ大きさで、くぐり抜ける事が出来ると良いことがあるとか――観光客はみんなこぞって挑戦するとか。と言っても、実際は大人でも細身の人間なら楽にくぐれる大きさだ。兄貴くらいの体格なら、楽に潜れるんじゃないですかね?』
「へえ……面白そうだね」
『願掛けとしては変わったモンですがね。兄貴はクリスチャンでしたか? まあ――こんな地の果ての島国で、神様も何もあったもんじゃねえ。一丁兄貴も挑戦してみたらどうですか?』
「そうだね……その柱って言うのは、何処にあるんだろう?」
『大仏殿の奥の方じゃないですかね。あの綾瀬って嬢ちゃんについていけば――』
「案内したろか?」

 唐突に声を掛けられ――ネギは振り返る。彼の体に走った緊張を感じ取り、カモは素早く彼の肩に回り込み――その先に立っていた人物を認めて、歯を剥き出しにした。彼の可愛らしい見た目では、威嚇などたかが知れているだろうが――
 果たして、彼らの先に立っていた、学ラン姿の小柄な少年は、身構えたネギとカモに向かって、小さく手を振ってみせる。

「そう睨まんでもええやろ。別に妙な意味はないで。ここは俺らの庭みたいなモンやからな――柱の穴、案内したるで?」
「君は――夕べの」
「千草の姉ちゃんからは、別に黙っとれとも言われとらんし――んん」

 細められたネギの視線を軽く受け流し、少年は言う。

「自己紹介したろか。俺の名前は犬上小太郎――以後よろしゅうな? ネギ・スプリングフィールド先生?」



[7033] 三年A組のポートレート・心の迷宮
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2009/12/01 21:44
――誰かのことが知りたいと言っても、それを聞いたところで結局のところ“だから何だ”でしかないのだろう?
――そうかも知れない――でも、だから何だ?




「こう言う言い方って良くないかも知れないけれど――茶々丸さんって、何で作られたの?」

 大仏殿を見上げながら、神楽坂明日菜は、絡繰茶々丸にそう問うた。
 絡繰茶々丸は、ロボットである。それも、現代の科学技術の程度からすれば、オーバーテクノロジーの結晶である。それが日本一の“学園国家”麻帆良の産物であると言えば、そこに通う自分としては不思議と納得してしまうのだが――冷静に考えてみれば、納得できるような代物ではない。
 さりとて、それを本人にそのまま問うというのも果たして失礼かもしれない。ただ、こんな類の質問をする機会など、普通に生きていれば一生訪れないだろうから、失礼も何も判断できない――彼女は、自分自身にそう言い訳をした。

「私は名目上、究極のインターフェースを目指して開発されました。麻帆良学園都市に存在する複数の大学の人工知能研究チーム、そして霊能学の研究チームの合同プロジェクトによって。この体もまたオーバーテクノロジーの塊ではありますが、それは大した問題ではありません。私の存在意義は、私という意思――それを構成するプログラムです」
「はあ」
「言い換えれば、人間もまた、脳神経という電気回路が構成するプログラムによって生きている、と言うことも出来ます。その辺りの研究は、随分昔から行われた来たようですが――私自身にはよくわかりませんが、人工知能プログラム“絡繰茶々丸”には、人工霊魂の研究を中心としたオカルト技術が取り入れられていると聞きます。ベースとなるコンピュータ言語“ファーティマ・サード”は、私専用に作られたものですが、ここには錬金術の応用術式が――」
「うん――ごめん、正直全然わかんないけど」

 そう言って、明日菜は苦笑する。馬鹿レッドなる渾名を拝し――こちらは、“馬鹿レンジャー”リーダーの“馬鹿ブラック”、綾瀬夕映とは違い、基本的に頭を使う事は全て苦手である。
 そんな彼女に、そのものずばり現代科学の最先端を突き抜けたような云々の話が、理解できよう筈もない。

「失礼――私が何故作られたのか、と言う話ですが、つまり、人と対話する機械の究極系、その概念実証――“その姿が見たいが為”に、私は生まれたと言うことなのでしょう」
「……そこまでは何となくわかる。茶々丸さんが、人と対話できる機械の目指すところだってそう言われても――うん、納得」
「恐縮です」
「でも、そんな茶々丸さんがどうして、エヴァちゃんのところに?」

 それは――と、僅かに間を開けてから、茶々丸はその問いに応えた。彼女が応えに淀むと言うことは、非常に珍しい。人間とは比べものにならない処理能力を持つ彼女である。言いよどむだけの事を考える必要が、彼女にはあったのだろうか?

「人と対話が出来るプログラム――それは自我を持つプログラム、と言うことです。データベースからの取捨選択――決められた入力に、決められた回答を返すだけではなく、真に自分で考え、言葉を相手に返す。それはつまり、人間と同じような心を持った存在を生み出すと言うこと」
「……」
「私がその様な高度な自我を持っているのか、それとも、与えられたボキャブラリーが、一般のインターフェースよりも豊富であるために、“その様に見える”だけなのか、それは私自身にも分かりませんが」
「それは」

 明日菜は言いかけて、口をつぐんだ。
 茶々丸には、心がある。少なくとも自分はそう思うけれど――断言は、出来ない。彼女の事を何も知らない自分に、その様な事はとても言えないだろう。
 そんな明日菜の内心を知ってか――はたまた、彼女の言葉を借りるならば“そう言う入力を得たが故の反応”であるのか――彼女は、明日菜に微笑んで見せる。

「少なくとも、私は“完成したからそれで終わり”程度で終わらせる事が出来ない――その程度には、制作者に愛されていたと言うことでしょう。この機械の体を授かり――この体の作成に助言をしたのが、マスターであるという縁がありまして」
「エヴァちゃんが?」
「ええ。マスターはあれでも、“人形遣い”の異名を持っています。その名の示すとおり、人形を作成し、そして使役する高度な技術の持ち主なのです。いわば私の“姉”とも言うべき人形も多く存在しています。もちろん、彼女たちは私とは違い――純粋な魔力、即ちオカルト技術で活動する存在ですが」
「あー……まあ、その辺はともかくとしても。そっか――あ、でも私は、茶々丸さんにはちゃんと“心”があるんだと思うよ?」
「――恐縮です」

 もう一度そう繰り返し、茶々丸は、明るい緑色の髪を揺らして、上品に頭を下げた。
 暫くの沈黙が、二人の間に流れる。

「茶々丸さんには、心がある――だから、生まれはどうあっても、私たちのクラスメイトだし、普通の女子中学生で良いと思う」
「望外の喜びです。しかし何故――急にその様なことを?」

 彼女の疑問は当然だった。明日菜はほんの少し考えてから――彼女に向き直る。

「私たち――もっといろんな事考えないと、駄目なのかな?」
「と、言いますと?」
「ネギがやって来てからこっち、いろんな事があって。三年生になって、シロちゃんが転校してきて、エヴァちゃんと大喧嘩して、相坂さんが――茶々丸さんの事は別にしても、正直なところ私には、理解の範囲を超えてるのよ」
「それは責められるべきではないでしょう。神楽坂さんはそれらの事件に、望む望まざるに関わらず巻き込まれた。それを理解するべき責務は。あなたにはありません」
「そうだけど――だからって、知らん顔もしていられないじゃない?」

 明日菜の苦笑に、茶々丸は小さく頷く。

「それは――わかってる。私が必死に目をつぶっても、現実は目の前にある。それを見ないふりをしておくのは簡単だけれど、それで何かが変わるわけでもない。嫌なことから逃げ出したって。ろくな事はないものね」

 ご立派な事です、と、茶々丸は言った。まさか同級生から、その様な言葉を掛けられる日が来ようとは――そんな風に思ってしまう明日菜ではあったが、そのまま話を進める事にする。

「それでも思うのよ。私はただの、十四歳の女の子――シロちゃんやエヴァちゃんや、横島さんみたく妙な力も持ってなければ、知っての通り頭だって悪い。そんな私がね――時々、ごく自然に――その、魔法の事とか、戦うこととか――そう言うことを考えてるのが、怖くなるの」
「……」
「今回のこと――頭では理解してるのよ。でもね、昨日朝倉が言ってたのと同じで、私にだって、実感がない。さっきの夕映ちゃんやエヴァちゃんを見てると、昨日のことが夢なんじゃないかって、そういう風にさえ思えてくる。でも――ねえ、茶々丸さん。私には、何が出来るの? 何を、しなきゃいけないの? 本当に必要なのは――一体何?」
「難しい――とても難しい問題だと思います」

 図らずも、何かを懇願するような瞳で問いかける彼女に、茶々丸はまっすぐに応える。機械の自分であるからそれが出来たのか、あるいは、自分の内にある何かに突き動かされたのか――それすら、わからないまま。

「考える必要は、あるのかも知れません。争うという行為は、本来避けられるべきですが――どうしても争いが避けられなくなったとき、考えることまで放棄してしまっては、争いの連鎖はとどまらない。私たちにはまだ、その余裕がある。それは幸運であるのかも知れません。世の中には、考える事すら許されずに、ただ武器を持たされ、他人と戦わされる――その様な少年少女もまた、少なくない」
「……そう言う子供達と比べたら、私たちはまだマシな方だって?」
「そう言いたいわけではありません。先ほど言った通り、争いとは本来避けられるべきもの。神楽坂さんの――“私たち”のような女子中学生が、事情があるにせよ、争いであるとか戦いであるとか――そう言うことを考える必要など、本来はないでしょう」

 明日菜は小さく俯いた。その拳に力が込められていた事に、彼女自身は気がつかない。手のひらに感じる鈍い痛みも、今はよくわからない。

「ですが――」

 茶々丸は一度言葉を切り、そして、再び言い直す。明日菜の、少し色素の薄い亜麻色の瞳を、まっすぐに見据えて。

「それを考える事は、とても大切だと思います。私たちには頭脳があり――そして、心があるのですから。今回のような大きな事件に対して、私たちの出来る事など、たかが知れているのかも知れません、しかし――」

 茶々丸の瞳が、僅かに色を変える。それは単に、周囲の光の加減に、人間ならば光彩にあたるだろう、カメラアイの“絞り”が動作しただけなのだろう。しかし、明日菜にとってそれは――

「心を持つものとして――自分が何のために、何をするべきなのか――それを考えられると言うことは、とても大切な事だと、私は思うのです」

 茶々丸が、自分には存在するのかどうかもわからないと、そう言った“心”の存在を、何故か感じさせるものであった。




 幼い頃の自分は、孤独だった。
 仲間からは疎まれ、外の人間には近づくことが出来ず――
 そんな自分に、彼女は何の疑問もなく近づいてきてくれた。彼女のお陰で、自分の心は凍てつかずに済んだ。誰に疎まれても、彼女さえいれば良かった。それだけで、幸せな時間を過ごすことが出来た。
 犬塚シロと、千道タマモ――異なる制服に身を包んだ二人の少女に挟まれるように、ベンチに腰を下ろし、桜咲刹那は、ぽつりぽつりと、そんなことを語った。
 彼女と、彼女の“護衛対象者”――近衛木乃香は、幼なじみである。木乃香は生まれた立場故に、周囲に一緒に遊べるような友達もおらず、孤独な幼年時代を過ごしていた。そして幼い日の自分もまた――自分の背負う事情故に、孤独だった。
 立場はまるで違う――けれど、他人の暖かさに飢えていた二人の少女は、すぐに友達となることが出来た。
 時間が流れ、幼子は、揺れ動く微妙な心を抱える少女となった。
 一人の少女は、自分と親友が置かれている立場を、正しく理解した。理解することが、出来てしまった。

「だから――私は、お嬢様をお守りしたいんです。私と違って、何も知らず、それなのに、ただそこにいるだけで、多くの人間に影響を与えてしまう、私の大事な――親友を」
「ふうん――まあ、私は部外者だし、あんたらの背負ってる事情の細かいところなんて、聞こうとは思わないけどさ」

 その話を聞き、タマモはスカートのポケットに手を突っ込み――しかし格好が格好だけに、煙草をホテルに置いてきてしまった事を思い出して、小さくため息をついた。

「だったら何で、あんたはこんなところでウロウロしてんのよ。護衛なんでしょ? もっと対象に張り付いて無くていいの?」
「それは――私はあくまで、影ながらお嬢様をお守り――」
「いや、それはどうなのよ。昨日のホテルでも似たような事言ってたけどさ」

 影ながら対象を護衛する、と言うやり方が、間違っているというわけではない。現に今日のタマモやケイは、そうやってこの場にいるわけである。しかしそれは、護衛の対象に面識のない人間が、対象の行動を妨げないためにそうやっているだけだ。まさか、黒いスーツに身を包み、あるいは防弾ベストを装備した一団に囲まれて、女子中学生が奈良の観光も何もあったものではない。

「友達なんでしょ? だったら普通に側にいてやればいいじゃない。その方が、何かあったときにすぐに動けるわよ?」
「……それは」
「いやまあ、事情があるのはわかるわよ。わかっててわざと言ったの。んで、私は別に、その事情に深く立ち入ろうとは思わないけど」

 膝丈のプリーツスカートに包まれた脚を無造作に組み、タマモは言う。普段の癖から来る仕草なのだろうが、今の彼女の格好にその仕草は、あまり似合っていなかった。

「でも――何かしら、内心の変化はあったんでしょう? 昨日の夜はあんた、そう言うこと全然言わなかったじゃないの」

 シロの眉が、その言葉に小さく動く。
 このタマモという女と、何の因果からか相棒のような関係に落ち着いてから割と長いが、彼女はいつもそうだ。やる気などまるで無いように見えて、自分よりもずっと、見るべきところを見逃さない。
 絶対に口には出さないが、かつてと変わらぬその様子に内心舌を巻きつつも、シロも昨晩の事を思い出す。
 言われてみれば――昨晩の刹那は、今以上にかたくなだったように思う。
 何を問うたところで、“自分は木乃香の護衛だ”の一点張り。
 彼女がここで嘘を付く意味はあまりなく、それに嘘を付くならばもっとマシな嘘を付くだろう。その様なことは、学園長にでも聞けばすぐにわかることだ。
 考えてみれば今の彼女は――もちろん、こちらに対して心を開いているようにも見えないが、こちらの話を聞く気も無い様子だった昨晩とは、随分違う。少なくとも、自分と木乃香の過去――彼女の抱える事情の、割と深い部分であろうその部分を、昨晩の彼女が自分たちに語るようには思えなかった。

「あの場で腹の内をぶちまける事が出来なくて――今の私たちの前でなら、言える。そう言う何かが、あんたにはあるのね?」

 膝の上に置かれた刹那の小さな手に――確かに力が込められるのに、シロは気がついた。

「全部――全部、わかってるんですか?」
「馬鹿言いなさんな。私はあんたの名前さえ、昨日知ったのよ? そんな私が、あんたの何を分かるって言うの? 全部って言うのは、どういうことなの? それを聞いても構わないと、あんたは言うの?」
「……」
「タマモ――」

 俯いた刹那の様子に――シロは、彼女越しにタマモの名を呼ぶ。タマモは小さく肩をすくめ、首を横に振った。

「ほら、顔上げなさい。これじゃまるで、私があんたを責めてるみたいじゃないの。私はあんたの背負ってるものになんて興味無いし、面倒なことには首を突っ込まない主義なの」
「もう少し他に言い様がないものか――ともかく刹那殿。こいつはこういう奴で御座る故に、拙者らは何も、刹那殿に、喋りたくない事を無理に喋れと言っている訳では御座らん」
「……犬塚さん」
「何か?」

 不意に自分の名前を呼んだ刹那に、シロは首を傾げてみせる。

「犬塚さんには――その、“喋りたくないこと”のようなものは、あるのですか?」
「どうかしらねえ、こいつの頭の中って、肉と散歩と横島の三つくらいしか詰まって無さそうだし。ま――あんたらの前じゃ猫かぶってるらしいけど、こいつの黒歴史だったら、いくらでも披露してあげるわよ? たとえば横島がね――」
「タマモ――お主の言う“黒歴史”とやらが何なのか、“拙者には皆目見当が付かぬ”が――命が惜しければ、うかつに口を滑らせぬ事で御座るよ?」

 “けらけら”と笑いながらそう言うタマモを、射殺せるくらいの視線で睨み付け――もちろん、相手はそんなものが通じるような相手では無いが――小さく咳払いをして、シロは刹那に向き直る。

「んん――ともかく、拙者とて、年頃の娘。己の内に秘めておきたい事の一つや二つ、当然あるで御座るが」
「……あの、あのっ――犬塚さんと、千道さんは――」

 突然、伸び上がるようにしてこちらに向き直った刹那に、シロは面食らう。自分はまだ麻帆良女子中三年A組に転入して日が浅く、親交のある級友と言えば限られているが――それでも、大方のクラスメイトの性格くらいは、何となく把握していたつもりだった。
 その中で、桜咲刹那という少女は、あまり他人と付き合わない、物静かな少女であるはずだった。
 少なくとも――自分の肩につかみかかる勢いで、こちらを見つめる彼女の表情を、シロは見たことがない。タマモもまた――昨晩の彼女の態度とまるで違う彼女に、何かしらの違和感を感じているようだ。
 そしてとうの刹那はと言えば――シロとタマモの名前を呼んだは良いが、そこで黙り込んでしまう。
 いや――何かを言おうとはしているのだ。
 だが、開きかけた口からは、小さく空気が漏れるだけで――
 何かを言いたいのに、その一言が口から滑り落ちてこない。シロからは、今の刹那はそんな風に見て取れた。

「せっちゃん?」

 唐突に投げかけられた声に、刹那の体が硬直する。振り返ってみれば――両手にジュースの入ったコップを持った木乃香が、そこに立っていた。

「木乃香殿――」
「あ、うん――シロちゃんに何か飲み物でも、と思うて……」
「飲み物でもと言っても、大仏殿の敷地内にはそんなものを買う場所は――」

 そこまで言って、シロは下腹部から来るのとは別の痛みに、額の辺りを押さえてため息をつく。もちろん、それは錯覚であるのだが。
 ともかく――基本的に東大寺という寺に参拝するのに当たっては、料金は必要ない。しかし大仏殿を中心とした一角は、その維持費を捻出する意味合いもあってだろうが、拝観料が必要となる。そして飲み物など買おうと思えば、一度その外に出なければならないのだが――その気になればそんなことをお構いなしに“してしまえる”人間が、三年A組には存在する。
 もしかすると、それも複数形で。

「近衛さん、だっけ? 私が言うのもなんだけどさ――この馬鹿犬に、常識云々で呆れられてるようじゃ、あんたら終わってるわよ?」
「はあ――せやけど、楓も龍宮さんも超りんも、千道さんには言われたくないと思いますえ?」
「……あんたらの中で私がどう思われてるか良く分かったわ――あとでその連中、私の前に連れてきなさい。あとあんた自身も。逃げたら殺す」
「何を大人げない事を――桜咲殿?」

 口元に引きつった笑みを浮かべつつ、拳を握りしめるタマモに、シロは呆れた視線を送り――その時、唐突に立ち上がった刹那に、彼女は驚く。

「すいません、犬塚さん、千道さん――お嬢様、失礼します」
「あ――せっちゃん!」

 “せっちゃん”と言うのは、刹那の渾名だろう――彼女を呼ぶ木乃香の声に、振り返ることさえせずに――彼女は、足早にその場を後にする。小さくなっていくその背中を、シロは呆然と目で負った。

「……何、あんたら――喧嘩でもしてるわけ?」

 タマモはベンチに背中を預けたまま――眉をひそめて、木乃香に問うた。
 いつも柔らかな微笑を浮かべた少女は――見たこともないほど沈痛な面持ちで、小さく首を横に振る。そんな様子を見てタマモは、空を仰ぎ、顔を手で覆った。

「……勘弁してよ、もう」




「――犬上君――で、いいのかな?」
「小太郎でええで? 俺はそっちのこと、ネギ、言うて呼ばせてもらうから。“スプリングフィールド”言うて長ったらしい名前、いちいち言うてられんしな」

 軽い調子で、ネギの前に現れた少年――犬上小太郎は言った。
 ネギは油断無く彼を見据えるも――対する相手に、警戒する様子は微塵も感じられない。短く切りつめた学ランと、多少“だぼついた”感じの学生ズボンをはいたその格好は、何処から見ても、少し悪ぶっただけの、ただの少年にしか見えないものだ。年の頃はネギより少し上――ネギが西欧人であることを考えれば、彼は中学生くらいだろうか?

「何や――そない睨まんでもええやないか」
「何だって?」
「今の俺は丸腰やで? こんな場所でドンパチやろうか言う馬鹿もあらへんしな――何や、おっかない連中が、睨み効かせとるみたいやし?」

 ズボンのポケットに手を突っ込み、少年――小太郎は、辺りを見回してみせる。彼の言う「おっかない連中」とは、おそらく関西呪術協会のガード――“八角警備保障”のガードマン達を指しているのだろう。彼らは観光客に混じって、三年A組の少女達を――そして、近衛木乃香を警護している筈だった。

『……だからと言って、余程の馬鹿でも無い限りは、暢気にお前さんに観光ガイドしてもうらおう――と言うわけにもいかんでしょうや』

 ネギの肩の上から、それなりに鋭い歯を剥き出しにしたカモが、小声で言う。それを聞いた小太郎は、大げさな仕草で肩をすくめて見せた。

「ま……それもそうやな。せやけど、ここであんたらにちょっかい出そう、言う気が無いのも事実やで? そんな事しても、こっちに何の得もあらへんしな」

 事実――八角警備保障のガードマンが動かなかったのも、そう言う理由だろう。こんな場所で、彼――犬上小太郎が、何らかの行動を起こすとは思えない。そんな中でガードマン達が先に行動を起こしてしまえば、彼らとしてはそちらの方がまずい状況になる。小太郎が見た目、只の少年に見えるというのが、この場合大きな問題だ。修学旅行生にも見える彼を、大の大人が乱暴に扱うわけにもいかない。

『だったらどうして、お前さんはのこのこ俺っち達の前に現れたんで?』
「おっかないイタチやなあ。そう睨まんと――あんたらが言うとった柱の穴でも見物しながら、その辺の事は話したろうか? どうせ大した話でもあらへんのや、気ぃ楽に構えとかんと、心労でぶっ倒れても俺は知らんで?」

 そう言って彼は、ネギに無防備に背を向け――右手を振る。ついて来いということなのだろう。

「……カモ君」
『とりあえず奴に従いましょうや。奴の言うとおり――ここで行動を起こす理由が、俺っちには思い付かねえ』
「……小太郎君」

 カモの言葉に小さく頷き――ネギは少年の名を呼んだ。

「何や?」
「その制服――麻帆良の“不良”さんたちもそう言うのを良く着てるけど――良くないよ。似合ってない」
「はっ――チビに見えても、しっかり先生っちゅうことか。男の美学のわからん連中や――まあ、これは俺の一張羅やから、今は我慢してくれへんか?」

 ――果たして大仏殿に存在する“柱の穴”の前には、既に人だかりが出来ていた。もともと有名な場所であるのに加えて、今はその前に、何とも姦しい集団が集まっている。言わずもがな、麻帆良女子中三年A組の少女達であるが。
 この穴は、実際にはもちろん、人間がくぐるために作られたものではない。鬼門からの邪気を逃すためであるとか、柱のねじれを解消するためであるとか色々言われているが――ともかく、そのようなものであるから、大人が通るとなれば、かなり厳しいだろう。
 しかし中学生の少女となれば話は別だ。詰まったらどうしようだの何だのと言っているが、彼女たちにはそれほどの心配はないだろう。
 中でもそう言った心配とはもっとも縁遠いだろう少女が、腕まくりをしながら前に進み出る。

「よし――では、私が行くぞ。朝倉和美、カメラの用意は良いな?」
「エヴァちゃんならそんな気合い入れる必要無いと思うけど――おおっと、勢い込みすぎだっての! パンツ見えるパンツ!」

 和美に腰の辺りを押さえられながら――もはやそれを気にしているのかいないのか。金髪の少女――エヴァンジェリンは、脚をバタつかせながら柱の穴に潜り込み、そのままの勢いで反対側から顔を出す。

「ふふ――なんだ、恐るるに足らんではないか」
「あんたの体格なら当然だっつの。あ、でもなんかそのカッコ可愛いかも。ちょっとこっちに向けてポーズ取ってみてよ。そうそう、顔と手だけ出して――」

 むろん和美の言うとおり、彼女の体格ならば、この程度の穴は難なく通り抜けられるだろう。しかしそのほほえましい光景に、それを見ていたクラスメイトも他の観光客も、暖かな笑顔を浮かべるやら、拍手を送るやら。その中心で得意になっているエヴァンジェリンは、果たして視線に込められた暖かさの意味合いに気がついているのだろうか――

「ははは――おもろい嬢ちゃんや。しかしアレが“何処ぞのギョーカイ”じゃ噂に名高い賞金首かいな。噂っちゅうもんは当てにならへんもんやな」

 エヴァンジェリンに拍手を送りながら――小太郎はそんな風に呟く。
 ネギはそんな彼に視線を送るが、彼は腰に手を当てて得意げに胸を張るエヴァンジェリンに指笛など送りつつ――その調子のままで、ネギに向き直った。

「俺が今日ここに来たんはな、別に千草の姉ちゃんの思惑とは関係あらへん。単純な俺の興味や。せやから、ほんまに身構える必要なんてあらへんで?」
「……興味?」
「せや――俺が傭兵まがいの仕事をやっとるんはな、強い奴と戦えるからや。せやかて、所詮傭兵、言う仕事はな、そないに上からものを言えるわけやない。自分が傭兵で食って行きたかったら、とりあえず仕事をせなあかん」

 小太郎はポケットからコインを取り出すと――手慰みにか、何度も手のひらの上で、それを投げ上げては受け止める、と言う行動を繰り返す。

「時には嫌な仕事もせなあかんと言うことや。正直今回の仕事は、気乗りしてたわけやない。千草の姉ちゃんの――おっと、これは喋りすぎやな」
「……」

 彼はコインを一際高く投げ上げると、音を立ててそれを受け止めた。

「ともかく――そんな仕事で、予想外の大物とカチ合うたんや。ワクワクして来るやないか?」
「どうして?」
「どうして? わからんか? ま、わからんならわからんでええ。ええやないか、正義の魔法使い。俺は強い者と見れば、喧嘩をふっかけずにはいられんチンピラや。な? わかりやすくてええやろ?」
『まあそうかも知れねえな。あんたは馬鹿か天才のどっちかでしょうや』
「褒め言葉と受け取っとくわ、イタチのおっさん」
『俺っちはイタチじゃなくオコジョだ。それに、おっさんなんて歳じゃねえよ』
「そら悪かったなあ、何せ、そんなツラしとるもんでな――さて」

 小太郎はネギの前に、コインを握ったままの拳を差し出して見せた。

「――昨日のノッポの兄ちゃんは何者や? そっちの仲間に、あれほどの使い手は、後どれくらいおるんや?」
『そんなこと聞かれて、馬鹿正直に応える奴が何処に居る』
「さてな――何、あの兄ちゃんは確かに強い。身震いがするほどや。せやけど――そっちにはまだまだおもろい何かがある。俺の直感が、そう言っとる」
『話にならねえな』
「そうかい? なあ、魔法使いの子供先生。お前は何も感じへんのか? いや、感じへんとは言わせんで。何で魔法使いなんや? 何で先生なんや? お前は子供や。子供らしゅう夢を追っかけとっても、誰も文句なんて言わん筈や」
『兄貴、気にするな。こんな奴の言うことになんて、耳を傾ける必要はありゃしやせん』

 カモは気がついていた。
 ネギの肩が――小さく震えていることに。
 その震えがどこから来るものなのか、カモには計りかねる。恐怖ならまだ良い。怒りなら自然なものだ。だが――もしも、そう言った何かとは、別のところ――もっと心の奥底にある混沌が、彼の体の制御すら奪っているのだとしたら?

「……あかんな、これじゃ弱い者虐めや。俺は弱い者いじめは好かん」

 小太郎は小さくため息をつき――踵を返すと同時に、ネギに向かって何かを放り投げた。大した衝撃もなく頭に当たって跳ね返ったそれを、ネギは慌てて受け止めた。

「ま――せいぜい楽しませてくれや――“立派な魔法使い”さん? ほな、またな」

 小柄な学ランの背中はすぐに、観光客の群れの中に消え――ネギは、それを見送って、ゆっくりと手のひらを覗き込む。
 まるで粘土細工のように大きくひしゃげた十円玉が、自分の手のひらの上には載っていた。










感想掲示板で指摘がありました、天ヶ崎千草の名前のミス。
諸処の事情があり、このまま行きます。
読み方が同じであるし、伏線と思っていただければ、
別に問題なく読めると思いますが――ご意見があれば、遠慮無くどうぞ。

そして同じくこちらの都合で、ネギ君より少し歳上に設定しています。小太郎君。

最後のシーンは、見る人が見ればすぐに分かると思いますが、
漫画「天上天下」(大暮維人先生著)からお借りしました。

最初はクルミを握りつぶしていたんですが、
場所が場所だけにコインに変更。
そうしたらかの漫画の登場人物が、話の冒頭でやっていたアレにそっくりになってしまいましたが、
割と違和感がなかったのでそのまま行きます。

これからのお話にご期待ください。では。



[7033] 三年A組のポートレート・おまつりのはじまり
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2009/12/13 14:57
 火曜日午後九時過ぎ、東京都内某所。ラッシュが一段落した郊外の道路を軽やかに走る、一台のスポーツセダンがあった。運転席でハンドルを握るのは、白髪の青年――横島忠夫である。

「遅くなっちまって悪いな。あのクソ親父、面倒な事はいつも俺に振って来やがって――何のための“非常勤”の肩書きか、ちゃんと理解してんだろうな?」
「いえ」

 不機嫌そうな言葉に、助手席に座る少女――芦名野あげはは、小さく微笑んでみせる。

「それはひとえに、ヨコシマが有能だからでしょう? 肩書きだけを与えられて仕事を干されるよりもずっとマシだと思いますが」
「それは極論だろ。大体あの親父の方が、俺よりどれだけ仕事が出来ると思ってんだよ? この間だって結局――なのにあのクソ親父と来たら、取締役なんてのは、椅子にふんぞり返って書類を眺めてるだけの存在なのが、結局会社にとっては一番良いんだとか何だとか――」
「王は君臨すれども統治せず、そんな言葉がありますね」
「馬鹿言え、あの親父の場合、口でそんなこと言いつつも、しっかり仕事はしてるからタチが悪いんだよ」

 苦笑しながら横島はハンドルを切り――そこで、大仰に腹を押さえてみせる。

「何にしろ、もう腹が減って死にそうだぜ」
「結構な事では無いですか。空腹は最高のスパイスである――と、昔から言います。何処の誰が最初に言ったのか知りませんが、私はその人を尊敬しますよ」
「……何だかんだ言って、お前も相当腹減ってんのな」

 少女の腹が、可愛らしく自己主張するのを聞いてしまった彼は、楽しそうに笑う。どうにかいつも通りの調子で取り繕おうとしたものの――結局のところ、それは意味のない行動であった。あげはは頬を薄く染めて、小さく俯く。

「何だよ、別に恥ずかしがる事じゃねーだろ?」
「……時々ヨコシマのそう言うところが、堪らなく恨めしくなります。あのですね、私だって一応女の子なのですよ? 好きな男性と二人で食事に行くというこの場面で――少しは相手の気持ちを考えてください」
「飯食いに行くんだから、腹が減ってるのは当然だろ? 俺もさっきから自分の腹が五月蠅いくらいだぜ。もう、腹と背中がくっつきそうって言うか――」
「だから――もういいです。ヨコシマには何を言っても――確かに何があっても変わらないと言うのは大切な事かも知れませんが、それは成長しなくても良いと言う意味ではありません。無駄かも知れませんが、一応言っておきますよ」

 彼女は小さくため息をつき、窓の外を流れていく夜景に、不機嫌そうに顔を向ける。当然横島はと言えば、そんな彼女の様子を見て、反抗期なのだろうかと――当人が聞いたら脱力のあまり突っ伏してしまいそうな事を考えつつ、スロットルレバーを操作する。
 ふと――彼のポケットで、携帯電話が音を立てる。

「悪い、あげは――」

 不機嫌そうな顔のまま――しかし嫌がるそぶりも無しに、あげはは横島のポケットに手を突っ込んで携帯電話を取り出すと、着信表示に目を落とす。

「……ケイ?」
「あ? 何であいつが――今は京都で、何だかんだとやってるんだろ? 俺に何の用が――」

 予想外の相手からの着信に、二人して首を傾げつつも――あげはは通話ボタンを押すと、横島の耳に携帯電話を押し当てた。彼の車は車いす仕様のもの――両手の操作のみで運転が出来るように改造されたものであるが、そうであるが故に、違反云々言う以前に、携帯電話を使いながらでは、物理的に運転が出来ない。
 ともかく自然と世話を焼いてくれる少女に礼を言いつつ、彼は電話口にいるのであろう弟分に応える。

「もしもし――どうした、何か用か?」
『うぁ……あ、あのっ! よこ、横島、にーちゃん!』
「……何だ、どうした。何があった? 声が裏返ってんぞ? 一度深呼吸してみろ――馬鹿、息は吸ったら吐くんだよ。緊張のしすぎで過呼吸になる女学生かお前は――大丈夫か?」
『う――エア・グート?』
「日本語でOK――いつからドイツ語なんか覚えたんだお前は。ドイツ人が聞いたら激怒しそうな発音の悪さだが――そしてお前は一体何が言いたいんだ? よもや覚えたてのドイツ語を誰かに聞いて貰いたい、ってんでもないだろう?」

 顔をしかめながら、横島は言う。電話の向こう側で、ケイが相当な恐慌状態にあるというのは何となくわかるが、それ以上のことはさっぱり分からない。それにこの慌てよう――今の彼はあれで、相当“場慣れ”しているので、本当に深刻な状況、たとえば誰それの命の危険であるとか、そういうわけでは無さそうだが――

『に、にーちゃん――僕、どうしよう!? や、やっぱり責任取らなきゃ駄目かなあ!?』
「だから俺には、お前が何を言っているのかわからん。責任? 何の責任だよ。タマモの車に傷でも付けたか?」
『いや――あ、あのっ――その、僕が、楓さんに――』
「OKわかった。それじゃあまたな」

 その言葉と共に、彼はハンドルから一瞬手を離し、電話を切る。

「……ケイは、一体どうしたのですか?」
「知らん。知りたくもないわい」

 不思議そうに言うあげはに、横島は首を横に振ってみせ――彼の携帯電話が再び鳴り始めたのは、それからすぐのことだった。苦笑いしながら、再びあげはが彼の耳に携帯を押し当てる。彼は“無視すればいいのに”などと呟きつつ――

「なんだケイ。お前の言い訳は後で聞いてやる。俺は今、腹が減って死にそうなんだ」
『……あの、すいません、僕――』
「――?」

 電話口から聞こえてきた幼い声に、横島はとまどいを覚える。これはケイではない――では誰か? 電話のディスプレイを見るまでもなく、程なく彼は解答に行き当たるが――

「……ネギか? 一体どうしたんだよ、お前まで」

 かの少年教師が自分に電話を掛けてくる理由など――自分の弟分以上に、横島には見あたらなかった。




 時間を遡り、同日午後六時前、京都郊外、ホテル嵐山ロビー。
 麻帆良女子中の少女達は、奈良の観光からホテルに戻り、夕食までの短い時間、思い思いにくつろいでいた。

「何というかね、このままではいかんと思うのですよ」

 ロビーのソファに腰掛け、腕を組んで難しい顔で、唐突にそう言った朝倉和美に、側にいたタマモと明日菜が怪訝な顔を浮かべる。

「いやほら――夕べのアレとか。あたしら何か今、知らない間にヤバい状況にあるんでしょ? 護衛付きの修学旅行なんて、洒落にもなんないよ」

 そう言って和美は、周囲を見渡す。ロビーにはまばらに、観光客と思しき人々の姿があるが――その実、彼らは皆、八角警備保障――関西呪術協会から、三年A組と近衛木乃香をガードするために派遣されたガードマンである。その事実を知っているのは、自分たちの他にはいない。
 言うまでもなく、確かにこの状況は普通ではない。彼女は大仰に鼻から息を吐いて、首を横に振る。

「そのせいなんだろうけどさ、ネギ君とかもギスギスしちゃって――宮崎なんか、こっちが見てて辛くなるくらい心配しちゃって」
「あー……黙ってようかと思ったんだけどね、奈良で“件の連中”から、軽いアプローチがあったみたいで」

 あの場で殴り合いをやらかすことが賢い選択で無いことくらい、相手は――“尼ヶ崎千草一味”はわかっていた。それはこちらにとって良い情報と言えるかも知れない。しかし冷静に物事を考えられる相手というのは、結局盲目的な戦闘狂よりも厄介なものなのだ。そう言う意味では、手を振りながら言ったタマモとしても、頭が痛いところである。

「ともかく、折角の修学旅行がこんな状況じゃいかんと思うのですよ。こんなんじゃさよちゃんへの土産話にもなりゃしない」
「それにはまあ同感だけど――それこそこの状況じゃねえ。某子供先生の性格じゃあ――神楽坂さん、あんた彼と同居してるんでしょ? 何かこう、あの子の喜びそうなものとかって、知らないの?」
「あ、明日菜で結構です――いえ、その――ネギはああいうところ頑固って言うか――一度悩み出したあいつは、そうそう人の言葉に耳を貸すような性格じゃないし」

 話を振られた明日菜は、小さくため息をついてそう言った。奈良から戻ってきてから、ネギの様子はいっそう悪くなっているようにも見える。彼が悩む理由はわからなくもないが、あれでは近いうちに自滅する――彼女でなくとも、そう思うだろう。

「んで? 今、私らが置かれてる状況が、いささか面白くないものだってのは理解したけど――それがどうしたって?」
「だからここはですね、私が一肌脱ごうかと。こう、全員が盛り上がるイベント的なものをですね」
「いやあんた、この状況でそれはどうなの?」

 何故か指を鳴らしながら言う和美に、呆れた顔で明日菜は言うが――タマモは暫く唇に指を当てて何かを考えたあと、思いがけない言葉を口にする。

「……具体的にはどうするつもり?」

 その言葉は、和美の浅慮をとがめるものではない――むしろ、それを後押ししようとしているように感じられた。明日菜は慌てて、タマモの方に向き直る。

「ちょ、ちょっと、千道さん!?」
「ん? どったの明日菜ちゃん」
「今の状況わかってますか!? 変な奴らが、木乃香の事狙ってるんでしょ!?」
「それも大方の予想――だけどね。だからって、あの子の脇をSPで固める訳にもいかないでしょ? それに関西呪術協会の連中に、“メン・イン・ブラック”みたいなのが務まるとも思えないし――私とケイじゃそう言うキャラじゃないし」
「いや、そう言う問題じゃ」

 タマモはそんな明日菜に苦笑する。ネギの事をどうこう言っているが、この神楽坂明日菜という少女もまた、大概生真面目過ぎる性格なのだろう。日頃からネギの世話をしている影響で、自然と気苦労が絶えないだけ――と言う可能性も無くはないが。

「ま、あなたの言いたいこともわかるけどね。ガチガチに構えてるだけじゃ、かえって良くない事もあるのよ。それに――初日の清水寺で、滝の水に酒が混ぜられたって話があったじゃない?」
「それが何か?」
「それで私たちは、あれが私たちの行動を制限するための仕掛けだって――まあ、そう踏んだわけだけど。だとしたらね、騒ぐ分には構わないのよ。どうせあんたらの事だから、“イベント的な何か”なんて言えば、突拍子もない行動に出る奴らが大勢居るんでしょ? この際、思いっきり遊んで、思いっきり騒ぎ回って、せいぜい連中に頭を抱えさせてやりましょう」

 そう言ってタマモは、悪戯好きの少女のように――今の外見では、何ともそれが似合う仕草であったが――ウインクをする。
 明日菜はそこで、自分が腰を上げかけていた事に気がつき――小さく息を吐いて、ソファに座り直した。

「――今度の事は、私たちも仕事でここにいるわけだし、あなたには何か義務があるわけでもない。もうちょっと気楽に構えてないと疲れるわよ? 若い内からそんなに気苦労ばかりじゃ、早く老けるだろうし」
「……ほっといてください」
「そうなりなさんな――それで和美ちゃん、そんな急ごしらえで、クラス全部巻き込んでイベントなんて出来るの? このホテルの中じゃ、出来る事なんてたかが知れてるだろうし、流石に引率の先生も、あんまり羽目を外させてはくれないだろうし」
「ふっふっふ――超りんが十五分でやってくれました。今やホテルの各部屋に置かれたテレビが、即席の中継装置に早変わり」
「……何者よそいつは――カオス辺りと気が合いそうな気もするけれど。中継装置って事は、何かを見物でもしようっての?」

 感嘆と呆れが入り交じったタマモの視線を受けて――和美は、その歳の割には豊かな胸を張って、得意げに応えて見せた。

「よくぞ聞いてくれました。名付けて――“クチビル争奪・ラブラブキッス大作戦”!!」

 明日菜とタマモが顔を見合わせ――同時に変なものを飲み込んだような表情になったことは、言うまでもない。




 和美の提案した“イベント”とは、早い話が、三年A組の少女達の悪のりに、ネギを強制的に巻き込んでしまおう、と言うものであった。聞けばネギ・スプリングフィールドという少年は、奇妙な事情で教師などやっているせいか大人びているが、根っこのところではやはり年相応の少年でしかない。
 とりわけ異性の事に関してなどは、思わずからかってしまいたくなるほどウブであり――現に、彼がこちらに来てから何度も、少女達は自らの発展途上の“色気”で彼をからかっては楽しんでいるのだとか。

「……どっかの誰かが聞いたら、血の涙を流して暴れ回りそうな話ね」

 和美からの話を聞いたタマモは、そう言って苦笑いを浮かべた。とある白髪の青年の関係者ならば、誰だってそう思うであろう。
 ともかく、落ち込むネギをどうにかするには、まず何も考えられなくなるくらいに困惑させるのがベストである。その為にはつまり、こういう“色仕掛け”が一番手っ取り早いのだと、和美は言う。

「なんつーか……女子校ってのはみんなこういうもの?」
「いえ……多分うちを基準にものを考えない方が良いと思います……」

 確かに彼女の言うことは一理あるのだが、その為に使うのが自らの“色気”である。女子中学生が思いつくには微妙なその発想――疑問を投げかけたタマモに、明日菜は引きつった笑いで返した。
 和美が提案したイベントの内容はこうである。クラスの中から参加者を募り、ネギとキスする事を目的とした競争を行う。相手を妨害することは可能であるが、その際取っ組み合いの喧嘩などはもちろん禁止であり、武器として使えるのは“修学旅行らしく”部屋から持ち出した枕のみ。
 他の参加者や、見回りの教師を出し抜いて、一番最初にネギとキスをした者が勝利者となり、景品が与えられる。
ゲームに直接参加しない人間は、“麻帆良の規格外”と言われる才媛、超鈴音の協力で、ホテルの防犯設備を流用して中継されるそのゲームの様子に盛り上がり、さらに誰が勝利者となるかのトトカルチョで盛り上がる。
 ――むろん、このイベントの事は、ネギ本人には伝えられていないし、もちろん許可も取っていない。和美曰く、年頃の少女にキスをせがまれて、嫌がる男など居るはずがないとの事であるが。

「――間違っちゃ居ないかも知れないけど、それにしたって――ま、私にゃ関係ないからいいけど。セクハラって言うにも可愛いもんだし、問題ないんじゃない?」

 そう言って肩をすくめるタマモに、明日菜は苦笑する。確かに事は、悪のりの域を出ない、単なる遊びである。修学旅行の夜ともなれば、誰もが羽目を外したくなるものであるし、それもまた楽しい思い出の一つとなる。
 昨晩は昼間の一件と、木乃香を巻き込んだ騒ぎのせいで、今ひとつ不完全燃焼であった少女達のこと。これくらいの騒ぎが起きたところで、何も問題はないだろう。

「それにしても、あの子も好かれてんのね。誰が最初にキス出来るか、なんて――そりゃまあ確かに、可愛い顔してるけれども」
「あれ、ひょっとして千道さんもああいうのが好みなんですか? 委員長と同じで――」
「待ちなさい。委員長って、あのあやかって娘でしょ? 私は自分を潔癖性だとは言わないけどね、流石にアレと一緒にされたくはないわよ。あんなナリしてあの娘、横島の同類じゃないの。あのね、ああいうのって、自分も相手も子供だから許されてるのよ? わかる?」

 げんなりした顔で、タマモは言う。
 ともかく、ネギが好かれているというのは確かだろう。でなければ、こんなゲームが計画されるわけはないし、そもそも彼が落ち込んでいると言うだけで、クラス総出で励まそうという事も無いだろう。結果として自分たちが楽しみたいと言うだけであったとしても。
 だからこのイベントそのものは否定されるべきではないし、タマモがそうであるように、苦笑いと共に見守られるべき、楽しい旅の思い出である。各々内に秘める思いに差はあるのだろうが――三年A組の少女達はこぞって、この申し出を受け入れ、今頃はそれぞれの部屋で“代表選手”たちが、“戦闘準備”を開始している筈である。

「でも――いいんですか?」

 明日菜は言った。
 彼女もまた、そのイベントの馬鹿さ加減に呆れはしたものの、イベントそのものに関しては、特に反対する理由はない。この程度でネギの調子が上向くとも思えないが――少なくともクラスの気持ちが、多少なりとも彼に伝わるのならば悪くはない。
 もっとも自分自身は、彼とのキスを――どのような意味合いであれ求める気は無く、だからこうして、部屋に戻らずに、タマモと話しながらホテルの廊下を歩いているわけであるが。
 何故だろうか――心の何処かに存在する、部屋に戻りたくないという気持ちに、彼女は気がつかない振りをした。

「何が?」

 そんな彼女に、タマモはいつもの調子で応える。
その様子に、明日菜は内心で嘆息する。
先日は、同性の自分ですら思わず見とれてしまうほどの妖艶な美女であった彼女が、自分とそう年の変わらない少女として目の前に立っている。その事実に頭を抱えたくもなるが、若返った学園長など目の当たりにしては、もはや何も言う気が失せる。タマモ自身が何も言うなと言うので問いつめたりはしないが、またぞろ“オカルト関係”の何かなのだろう。

「藪守さんの事ですよ」
「ああ」

 思い出したように、タマモは言った。

「いいじゃない。今の私らに出来る事なんて、本当にたかが知れてるんだし――これも仕事と割り切ってもらいましょう。それこそあいつにだって役得と言えなくもないんだし」
「はあ……」
「んで、私に出来る仕事と言えば――こうやって、騒ぎを大きくするために“爆弾”を投げ込んでみることくらいよ」
「?」

 そう言って彼女は、二つ並んだ暖簾の前、その片方に立つ立て札に手を添えると――それを無造作に、もう一方の暖簾の方に押しやった。
 ――『修学旅行生貸し切り・使用ご遠慮願います』――そう記された、その立て札を。




「うー……生き返る」

 京都郊外に建つホテル――“ホテル嵐山”の露天風呂は、このホテルの目玉の一つであった。源泉をほぼそのまま露天風呂に流す――火山大国である日本に、温泉と名の付く場所は星の数ほどあるが、それほど潤沢にお湯を使える場所となれば、限られてくる。
 温泉とはつまり、地熱によって暖められた地下水が湧き出す場所である。言い換えれば、井戸を掘ってお湯が出れば、それは全て温泉となる。その気になれば、どんな場所でも温泉を作ること自体は不可能ではないが――やはり、“生粋”の温泉はひと味違うと、ホテル嵐山の露天風呂に浸かりながら、藪守ケイは一人思う。
 とはいえ、自分には温泉の善し悪しを判断出来るような知識はないし、効能を紹介されたところで、それが実際に効いているのかどうかもよくわからない。
 ただ――やはりこういうところは“良い”と思うのだ。ただ、単純に。
 湯煙に霞む夜空には、明るく輝く月が掛かっている。露天風呂にはもちろん照明があるが――ともすれば、そんなものは必要ないのではとさえ、今宵の見事な月は思わせる。
 ここに月見酒の一つでもあれば完璧だろうか――と、ケイは思うが、悲しいかな、彼は未成年であり、それ以前に完全な下戸であった。“うわばみ”揃いの職場にあって、こと酒に関しては良い思い出がない。なのに月見酒云々とは、自分は何を考えているのかと自戒する。

(……でも確か、おキヌさんは昔はお酒が駄目だって言ってたような――シャンパン一杯でブッ倒れてたとか……)

 いつも優しげな微笑みを浮かべる“上司”の顔が、一瞬脳裏に浮かび――

「あの人が下戸とか、ありえねー」

 自然とそんな言葉が、喉の奥からこぼれてしまった。思わず言葉が言葉としてこぼれてしまった事に、手で口元を押さえてしまう。小さく頭を振って湯で顔を拭い、その台詞を“無かったこと”にする。

(ともかく)

 無理矢理に思考を切り替えて、ケイは呟く。

(あの学ランの男の子がネギ君に近づいたところを見ると――連中も、これで引き下がるわけじゃなかろうし)

 それに――と、彼は、濡れた頭髪を頭に撫でつけながら思う。

(何だろうな、あの連中の真意ってのが、未だによく見えてこない。首謀者は――木乃香ちゃんを狙ってるのが、あの自称“尼ヶ崎千草”なのはわかるけれど――あの気味の悪い女の子や、今日現れた学ラン君からは、そう言う執念は感じなかった。だとすると――)

 一つのことには納得がいく。彼はそう思う。それは、尼ヶ崎千草が、暫く前に関西呪術協会から失踪し、今に至るまで行方不明であるということ。
 彼女の仲間がどれだけいるのかはわからない。だが、昨晩現れた少女も、今日ネギに接触してきた少年も、一見して普通ではない。あの少年は、自分は傭兵のような身分であると言っていたが――ともかく、彼女が姿を消してからこちら、そう言う“普通ではない仲間”を集める事に時間を費やしていたのだとしたら。
 関西呪術協会は、歴史のある裏の組織であると聞く。そんな組織に繋がりが全く無く、それなりに腕の立つ仲間を集めようとしていたのなら、その空白期間は納得できるものだ。
 だが――一つの事が見えてこない。

(そんな手間を掛けてまで、彼女は一体何をしようとしているのか、だよな)

 白く濁った湯で満たされた湯船から、立ち上る湯気を見ながら、ケイは瞳を薄く細める。
 尼ヶ崎千草という女性が、仲間を集めるために姿を消していた――それが事実だろうとどうだろうと、そんなことは些細なことだ。
 彼女は一体何故、そんなことをしようとしているのか。
 浅野から聞いた、関西呪術協会幹部・尼ヶ崎千草という女性像からは、それが全く見えてこない。だから、暫くの時間をおいて、再び彼女の名を名乗る女性が現れたからと言って――それが本当に尼ヶ崎千草なのかどうか、それさえも彼らにはわからない。

(木乃香ちゃんを狙う事が目的だとしたら、彼女にそれなりの価値があるって事だけど)

 近衛木乃香は、関西呪術協会の長――近衛詠春の娘であり、関東魔法協会のトップ、近衛近右衛門の孫である。日本に存在する“魔法”関係の人間からすれば、それなりのVIPと言えるだろう。
 だが――今ここで彼女を狙うことに、何かの意味があるのか?
 タマモが“自称・尼ヶ崎千草”に疑問を投げかけていた通りに、いくつかの予想は立てることが出来る。組織への不満や、金銭目的。果ては木乃香の体が目当てだとか――
 しかし金銭目的などにしては、やることが大がかり過ぎているし、そう言う意味で言えば木乃香よりもあやかを狙った方が余程都合が良い。
 さりとて、組織の体制に不満があったからと言って――それを変えるための手段が、トップの人間の関係者を誘拐すること、と言うのもいただけない。

(――なんて、タマモさんや“エヴァちゃん”が考えてもわかんない事を、僕が考えても仕方ないんだろうけど――ああ、この場に西条さんか美智恵さんでもいたらなあ)

 ケイの知る、そう言った事を考える本職――警察組織に身を置く知人を頭に思い浮かべるが、今更そちらに助けを求める事は出来ないだろう。己の存在が明るみに出ることを極端に嫌う“魔法関係者”が、公の組織の介入を快く思うわけがない。
 あるいは自分個人としての相談ならば、何だかんだと言ってお人好しな彼らは手伝ってくれるかも知れないが――

(……美神さんに知られたら、後が怖そうだし)

 彼とて聖人君主というわけではない。事ここに及んで何をと言われるかも知れないが、それでも自分の身が可愛いのである。
 美神事務所という、除霊業界に燦然と輝くその場所において――その内情を少しでも知る人間ならば、今の彼を責めることは出来ないだろう。
 ふと――からからと、脱衣所の扉が開く音がした。
 はて、と、ケイは思う。今このホテルに宿泊しているのは、麻帆良の少女達をのぞけば、自分とタマモだけの筈である。他の宿泊客は、全て関西呪術協会のガードマン――ダミーであるはずだ。彼らはごく普通の観光客のように振る舞ってはいるが、さすがにのんびり温泉に浸かりに来るとも考えられない。

(って――まさかタマモさん!?)

 おかしい。彼女は、自分が今ここにいることを知っている筈だ。だが “一般客用”の露天風呂に、他に入ってくる人間が居るとは――

(ちょ、ヤバいって!?)

 もしも混浴の露天風呂で、自分と彼女が鉢合わせしようものなら――ケイの脳裏に“煉獄”という、物騒な二文字が浮かぶ。
 慌てて彼は湯船から上がろうとした。とにかく一旦何処かに身を隠して、彼女が気がつかないうちに、男性用の脱衣所に退避するしかない。彼女を相手に出来るかどうか――だが、やるしかない。
 そんな、非常に馬鹿馬鹿しくも悲壮な覚悟に彼は燃え、湯船から雄々しく立ち上がり――焦っていたせいで濡れた床に足を取られ、盛大にすっ転んだ。

「痛つつ……お、思い切り頭打った――何でこんなくだらないことでダメージを――あ」

 頭を抑えつつ、何処にも大した怪我や骨折など負っていない事を確認しながら、ケイは起きあがろうと――その途中、彼の視界に映ったのは、細くて白い――裸足の足。

(……終わった……かも――ああ神様――助けてくれ)

 よせばいいのに――と、冷静な自分が言葉を投げかけるのを裏腹に、視線はその華奢な足の先をなぞる。細い足に、手に持ったタオルにどうにか隠された下腹部に――そこで彼は、不意に違和感に気がつく。
 何故――自分は未だに、地獄の業火に焼かれていない?
 はっとして彼は、一息に顔を上げる。なるべく――“彼女”の、大きくはないが形の良い胸を視界に入れないように――
 果たしてそこに立っていたのは、予想していた“彼女”ではなく。
 呆然と自分を見つめていたのは、薄く桃色を帯びているようにも見える、不思議な色合いの淡い茶色の髪――それが何よりも目を引く、あどけない顔立ちの少女――

「君は確か――えっと――じゃなくて!? なんでここに――!?」
「――……」

 ケイの言葉が、果たして彼女の頭にきちんと届いたのか。
 数呼吸分を待って、彼女の顔が――剥き出しの肩の当たりまで含めて、一気に真っ赤に染まり、そして――

「――――――――ッ!!!!」

 言葉にならない程の絶叫が、“ホテル嵐山”の露天風呂に響き渡った。
 麻帆良学園本校女子中等部、修学旅行二日目、火曜日夜――“生徒発案の非公認イベント”、ここに開幕――










「髪の毛の色がレインボー」

漫画でもアニメでもよくありますが、僕、あれ、あんまり好きじゃないです。
個性がないのを髪の色でカバーしようとしているようで。

もちろん理由があってそうならその限りでないですが、
何の理由もなく髪の毛がピンクとか紫と緑とか、
「それは何かのネタなのか伏線なのか」と思ってしまう。

苦肉の策でこうなりました、某クラスメイト。

ラブラブ(以下略)開幕です。



[7033] 三年A組のポートレート・Mission Update
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2009/12/19 19:33
――お祭りを楽しむにはどうしたらいいの?
――そんなの簡単だ。楽しむってのが何なのか考えなければいい。




「“クチビル争奪・ラブラブキッス大作戦、間もなく開始”――今更だけど、何処をどういじったら、旅館のテレビでこんな事ができるのかな」
「さあ――私には皆目わからないけれど。でも、超さんがやったことだと言われると――不思議に納得できてしまうわね」

 部屋のテレビに映し出された、派手な色合いのテロップに、村上夏美と、那波千鶴は苦笑いを浮かべる。そんな様子を、部屋の奥、小さなサンルームのような拵えの場所に置かれた安楽椅子に座り、犬塚シロは見遣った。今朝方に比べれば、随分と下腹部の不快な痛みは和らいでいる。元々別に病気ではないのだ。明日には完調と言わないまでも、それなりに動き回れる程度には回復するだろう。
 ともかく、今、自分に出来ることは何もない。和美が提案したゲームに参加できるほど体調は良くないし、そもそもお遊びとは言え、ネギとキスをしようとは思わない。
 勝利者を予想するトトカルチョに参加するのも悪くないが、今ひとつ興が乗らず、シロはただ、この時間を体力の回復に当てることを選んだ。本当ならば折角の温泉に浸かってゆっくりしたいところであるが、流石に今、公共の浴場に浸かることは出来ない。温泉が目玉であるせいか、簡素な作りの部屋の風呂場で汗を流すのがせいぜいだ。

「そう言えば、あやか殿の姿が見えぬで御座るが」
「あー、委員長だったら、犬塚さんがお風呂に入ってる間に出てったよ? ゲームの内容が“これ”で、委員長が動かないわけないじゃん」
「愚問で御座ったか」
「それより犬塚さん、おなかだいじょーぶ?」
「心配無用――明日にはいつも通りに振る舞えよう」
「ならいいんだけど……」

 委員長――雪広あやかが、ネギに熱を上げているのは、クラスの皆が知るところである。そして彼女の性癖――“可愛らしい男の子”には、目がないと言うことも。もちろんネギが、これ以上ないほど彼女の趣味に合致すると言う以上に、彼女はネギに好意を抱いている――と言うことも、一応付け加えておくべきだろうが。
 良家の令嬢であり、そう言った肩書きに相応しい立ち振る舞いと、端麗な容姿を持つ少女であるあやかだが――何故だろうか、彼女の人となりを思い浮かべると、シロは脳裏に己の思い人がチラつく事を否定できない。
 今でこそ、一級の商社マンと言って差し支えない彼ではあるが、彼があやかくらいの年の頃と言えば、彼女と比べる事自体が間違っているだろう。なのに――

「――ネギ先生の唇は、私が死守しますわ――ってさ。どうやって死守するつもりなのかは、ちょっと聞けなかったけど」
「せめて警察の厄介になるようなやり方でない事を、祈りたいわね」

 テレビ画面を見つめて穏やかな笑みを浮かべつつも――己のクラスメイトを全く信用していない毒のある言葉を吐く千鶴に、シロと夏美は頬を引きつらせる――が、自分たちとて大なり小なりそういう風に思うので、残念ながらあやかを弁護する事は出来なかった。
 ふと、夏美の携帯電話が軽快なメロディーを奏でる。それはメールの着信音であり、その内容はと言えば――

「お、他の班の出場メンバーが出そろったみたい。トトカルチョ受付開始だってさ」

 どうやら、何処に消えたのか知らない和美から、クラスメイトの携帯に一斉送信されたものらしい。このゲームに参加する人間の名前が、一覧となって記されている。

「ふんふん――鳴滝姉妹に、くーちゃんに――おお、龍宮さんも出るの? 意外だなあ、あの娘、こういうイベントには興味なさそうなのに」
「意外とお祭り好きなのかも知れないわね? でも――ひょっとすると、彼女の事だから、傭兵よろしく、誰かに助っ人として雇われたとか」
「そんなまさか――……あり得なくも無い、か」

 千鶴の言葉を、夏美は笑って否定しようとしたが――頭に浮かんだ長身の少女は、とても自分たちと同い年とは思えない笑みを浮かべて見せた。あやかや千鶴と言った、只“大人びて見える”というのではなく、もちろん外見はそうなのだが、もっとそれ以上に――“大人”を感じさせる笑みを。
 夏美はふと、部屋の奥で安楽椅子腰掛ける、銀髪の少女を見遣る。纏う雰囲気こそ異なるものだが、何処か彼女――龍宮真名のそう言った部分は、犬塚シロにも通じるところがある――何故だろうか、彼女にはそんな風に思えた。

「そう言えば長瀬殿」
「ん?」

 そのシロが不意に口を開いたことで、夏美は我に返る。
 名前を呼ばれた楓はと言えば――ぼんやりとテレビ画面に目をやりつつ、部屋の備え付けのポットでお茶を淹れていた。

「長瀬殿は、こういう馬鹿騒ぎは好みでは御座らぬか? いつぞやは率先してネギ先生を“励まして”いたと聞くし、鳴滝殿らとも仲が良いと――それに、聞けば古殿らは“武道四天王”などと、何処ぞの漫画のような呼ばれかたすらしておると言う――いや、それは長瀬殿もで御座ったか――ともかく、そんな彼女らが出てくれば、他の者に勝ち目などあるので御座ろうか」
「つまり――同じ“武道四天王”として、拙者も出場してみないと、ゲームが盛り上がらない、犬塚殿は、そう言いたいのでござるな?」
「……ねえ、なんつーか、部屋の一角が時代劇みたいになっちゃったよ、ちづ姉」
「あらまあ」

 似通った奇妙なしゃべり方をする少女達は――自覚はあるのだろう、小さく咳払いをする。

「確かにまあ――馬鹿騒ぎの類としては、拙者が引っかき回して盛り上げるのもやぶさかでは無いが――どうにも、今ひとつ気が乗らんのでござるよ」
「ふむ」

 急須を揺すりながら言う楓に、シロは顎の辺りを押さえ――

「まあ、あれだけケイ殿に熱を上げておれば、当然か」
「!? い、い、犬塚、殿っ!?」

 何でもない事のようにシロが言った一言に、楓は湯飲みに注ごうとしていたお茶を、盛大にこぼしてしまうが――その事に慌てる暇もなく、目を輝かせた夏美がそちらに飛びつく。こぼれたお茶に“逃げ”られるとまずいと判断したのだろうか、テーブルの上にあったふきんを、そのこぼれたお茶に叩きつけながら。

「え、うっそ、マジ!? 長瀬さんが!? ケイって――あれだよね、相坂さんの事件の時にこっちに来てた――結構イケメンだったように記憶してますけどっ!! そういやあの時長瀬さんやたらはしゃいでたけど、ひょっとして!?」
「藪守ケイさん、ね――あやかから聞いたんだけれど、何でも彼、偶然仕事の都合で今、このホテルに泊まってるとか――ああそれで、長瀬さんの様子がいつもと違ったのね?」

 当然楓は――いつもは細められている瞳を一杯に開いてまで、夏美から――そして、意外にも言葉尻を捉えて食いついてきた千鶴からも、どうにか逃れようとする。

「ちょ――夏美殿――千鶴殿まで!? 拙者とケイ殿は別に――大体、いつも横島殿にご執心の犬塚殿にだけは、そう言うことを言われたくはござらんよ!?」
「ふ――何を今更。もう拙者、開き直ったで御座るよ? そうとも――もとより拙者、身も心も横島先生に捧げると誓った身の上――何を恥ずかしがる事があったので御座ろうか。拙者犬塚シロは、横島忠夫先生を、魂の底よりお慕い申し上げる――これで満足で御座るかな?」
「ぐうぅ!?」
「う、うわー……うわああ……!」
「あらあらあらあら」

 しかし前日の同じような騒ぎから、何かを吹っ切ったらしいシロは、安楽椅子から体を起こし――胸を張って堂々と応えて見せる。その開き直り様と言ったら、関係ない筈の夏美が、頬を染めて身をよじらせてしまうほどだ。
 果たしてそんな混沌は暫く続き――ややあって、顔を赤くした楓は、疲れたように一つ、ため息をつく。

「何というか――なにやら嫌な予感というか、そんな気がするのでござるよ」
「あ、結局藪守さんの事については明言避けたよ、この忍者は」
「な、何のことで、ござる、かな?」
「はて、嫌な予感と?」

 楓の言葉に、シロは少し身構える。彼女はこれで――“特殊な古武術の使い手”である。その類の人間の直感というのは侮れない。
 だが、楓はシロのそんな視線に気がついて、小さく首を横に振って見せた。

「どったの?」
「いや、何でも」

 首を傾げる夏美に、楓は手を振って応え――その時に再び、携帯電話の着信音が響いた。

「えっと――ルール変更のお知らせ? ……え?」

 ディスプレイに目を走らせた夏美が、何故か顔を上げ――目の前の楓に視線を送る。
 その様子に、シロと千鶴は、揃って首を傾げるのだった。




 数十分前、ホテル嵐山ロビー脇通路。
 まるで西欧人のような容貌の少女が、長身で浅黒い肌を持つ、これまた日本人離れした容姿の少女と、何事かを話し合っていた。

「何というか――私はあまり、こういうのは好きで無いんだがな」
「きちんと報酬はお支払いいたしますわ。あなたは自分をプロだと言います。ならば、何も考えずにプロの仕事をしてくださいな――ネギ先生、あなたの唇は、この委員長、雪広あやかが死守いたしますわ!」

 何処か遠くを見据えて、拳を握りしめるあやかに、浅黒い肌の少女――龍宮真名は、苦笑を浮かべずにはいられない。こういうところが無ければ、彼女は完璧と言っても良いだろう。だが――そんな彼女はつまらない、とも思う。
 もっとも、彼女のこういう“ふざけた”性格が面白い、とは思うが――こんなゲームに参加すること自体は、気乗りがしない。
確かに、自分は傭兵だ。もっとも、多少大人びた容姿と、特殊な技術を持ってはいるが、所詮自分はただの中学生、つまり“自称傭兵”ではあるが――まあ、“そういうもの”であることに違いはない。仕事を依頼されたとなれば、そしてそれを引き受けたとなれば、全力でそれに当たるのが筋だろう。
 それでも流石に――と思ってしまう自分を、まだまだ甘いなどと思いつつ、彼女はあやかに生暖かい視線を送る。
 何――仕事の内容など楽なものである。あやかがネギの元にたどり着くまで彼女をガードし、その際他の参加者とかち合うような事があれば、彼女らを牽制すればいい。
 得られるのは向こう三ヶ月の餡蜜代――正しく小遣い程度のものであるが、小遣いを稼ぐという意味では割の良い仕事だろう。

(只まあ何というか――この状況に於いて、自分がこんな事をやっていることに、思うところが無いわけでは無いんだよな)

 小さく嘆息し、真名は意識を集中させた瞳で、周囲を見渡す。ロビーで談笑している観光客が見えるが――あれは、観光客ではない。それを装った“プロ”の人間だ。学園の警備――それも、“裏の世界”の警備を任されている自分には、ある程度の情報が入ってきている。彼らは八角警備保障のガードマン達――“関西呪術協会”という、裏の世界の人間である。
 彼らに混じって、自分たちを狙う不届き者と戦いたい、とまでは言わないが――それでも、目を光らせる彼らの脇で、こういう馬鹿騒ぎに参加している自分を思えば、ため息の一つも出ようかというものだ。

(もっとも――何だかんだと言いつつも、私も只の中学生であって――こういう修学旅行の馬鹿騒ぎというのが、得難い思い出になると言うのは――わかっているつもりなんだがな)

 そう考えると、自分が何だか損をしているような気がしなくもない。さりとて、今更自分の性格を呪ってみたところで――

(ん?)

 意識を集中させる事で研ぎ澄まされた真名の瞳は、その視界を一瞬横切った人影に気がつく。浴衣姿の長身の青年――あれは確か、藪守ケイと名乗っていたゴースト・スイーパー見習いである。相坂さよの一件の時に現れて“あの”長瀬楓とコントまがいの遣り取りを繰り広げ――今回は学園側からの依頼で、密かにこちらの護衛を行っていると聞いた。
 果たして諸般の事情により、もはや“密かに”とは言い難い状況ではあるが――

「……」

 真名は唇に指を当てて、何かを考え――ややあって、浴衣の懐から携帯電話を取り出す。

(そうとも、私は一介の中学生だ。修学旅行に多少悪のりするくらい――構わないだろう?)

 唇の端に緩やかな弧を描かせ、彼女は電話帳から、級友の番号を呼び出す。この“素晴らしく馬鹿げたゲーム”の首謀者である、とある少女の名前を。

「――もしもし、朝倉か? ああ――いや別に、そういう理由で電話した訳じゃない――ああ――うん、いや、ものは提案なんだが――このゲームを、もう少しにぎやかにしてみないかと、そう思ってね? そう――“藪守ケイ”という人を、覚えているかい?」




「ま、まあ――何かの手違いがあったんでしょう。それは仕方ありません。藪守さんが堂々と女湯に入ってきたと言うのならともかく、このホテルの露天風呂は、もともと混浴なわけですし」
「どっかの誰かと一緒にしないでよ――おかしいなあ、僕、確かに、立て札が立ってない方に入った筈だったんだけど」
「大方掃除の人が、うっかり動かしちゃったとかってところじゃないのかにゃー?」
「あり得るッスねー、いや、流石のラッキースケベっぷりッスよ、藪守さん」
「何その評価!? 君らって、僕のこと一体どう思ってるの!? ――って言うか、君らこの状況何なの!? 恥ずかしいとか思わないの!?」

 理由は敢えて言うまいが、右の頬に綺麗な紅葉模様を付けたケイは、楽しそうに笑う二人の少女――明石裕奈と、春日美空に向かって叫ぶように言った。ただし――あさっての方を向いたままで。
 何故なら、彼女たちが居るのは、湯船に浸かるケイの両隣である。もう一人――佐々木まき絵だけは、先ほどの痴態が尾を引いているのか、少し離れたところで、顎までしっかり湯船に沈んでいるが。
もちろん、湯船に浸かるには多少のマナー違反ではあるが、少女達はしっかりとバスタオルを体に巻いている。とはいえ、悪のりの度が過ぎているのでは無かろうかと、ケイは思う。

「んー、多少は恥ずかしいけど、まあ、もともと混浴なわけだし――藪守さんだって、私たちに何か悪戯しようってんでもないだろうし――そんなに変な方向ばっか向いてると、首がおかしくなりますよー?」
「まき絵の悲鳴のおかげで、ちゃんとバスタオルも巻いてるッスからね。まき絵みたく、バッチリ見られちゃった訳でもないッスし」
「お――思い出させないで! 藪守さんも! 赤くなるなっ!! 忘れろ! 全力で!!」

 もの凄い目つきでこちらを睨むまき絵に、ケイは顔にタオルを載せて、空を仰いだ。そんなに恥ずかしいなら、自分が出て行けば済む話なのだが――何故だか、それはこの両隣の少女が許してくれそうにない。

「いやだって、藪守さんリアクションがおもしろ過ぎッスよ。まき絵にビンタされて頭から湯船に突っ込んでそんで――い、いかんッス、思い出したらまた、笑いが、笑いがこみ上げて――くく」
「ま、まあ――藪守さんに悪気がないのはわかってるし、どっちかと言ったら、悪いのはいきなりビンタ喰らわせたまき絵の方だし? しょーがないから私たち、カラダでそのお詫びを――」
「……もう、好きにしてよ。あと君らくらいの歳の子が、冗談でもそう言うこと言わない!!」

 笑いを堪えながら美空が言い、裕奈もまた、吹き出しそうなのを我慢しているような顔で――冗談めかして、ケイの肩を指で突く。

「おお――藪守さん、引き締まってるにゃー」
「マジっすか? うわっ! 腹筋割れてるッスよ! まき絵もこっち来るッス!」
「ちょ!? 春日さん何処触って――こっ、ここじゃ嫌――ッ!?」

 調子に乗って体中を触ろうとする二人の少女から必死で逃げまどいつつ、ケイは何処かで聞いたことのあるような叫び声を上げる。その失笑を誘う様子がまた、二人の悪のりを助長させているのだということに、当然ながら彼は気がつかない。
 ともかく手違いにせよ何にせよ、自分はどうやら“少女達の貸し切りになっている方”の風呂場に入ってしまったらしい。ならば他の誰かがやってくる前に、ここを出た方が良かろうが――それを聞いた裕奈は、苦笑混じりにまき絵を親指で指す。

「大丈夫だって、今うちのクラス、それどころじゃないから」

 ケイには知らされていなかったが、どうやらタマモや関西呪術協会のガードマン達も“黙認”の元で、現在このホテルでは、非常に馬鹿馬鹿しく――しかしだからこそ楽しめそうなイベントが開かれようとしているのだという。皆がそれに夢中だから、おそらくそれが一段落しない限り、風呂に入りに来る級友は居ないだろうとの事であるが。
 ならば何故彼女らがここにいるかと言えば、昼間の奈良観光でまき絵が“はしゃぎすぎ”たせいだという。奈良公園の広大な敷地内には、多くの鹿が放し飼いにされているのだが、間近で鹿を見たことのない彼女は、餌を片手にそれらに不用意に近づき――語るも哀れなほどにもみくちゃにされた、とは、笑いを堪えながらの美空の言。
 鹿に揉まれ舐められ押し倒され――余談であるが、奈良公園の地面には、至る所にその鹿の糞が落ちている。ある意味で、奈良公演の名物なのだ。鹿の糞は。“鹿の糞”の名前を冠するジョーク的なお菓子まで存在するくらいであり――

「くっ……くく……それは――災難、だったね」
「笑うなそこのラッキースケベ!! あんたらも思い出し笑いしてんじゃない! 人が必死で助けを求めてるってのに、笑うばっかでちっとも助けてくれなかったろ!」
「だって――ねえ?」
「そりゃもう、私だって、全身鹿臭くなりたくないッスから」

 頬を膨らませて、まき絵は距離を取った三人を睨む。当然ながら、口元まで濁った湯に浸かって頬を膨らませる彼女の姿からは、まるで恐ろしい印象など受けはしないが。

「って、まき絵あんた、ろくに体も洗わずにお湯に入らないでよ! エンガチョ! ばいきんまん! さっさと出てけ!」
「ゆ、ゆーな、言うに事欠いて――そう言う言い方って無いでしょ!? 大体この状況で、体なんて洗えるわけないじゃん!」

 体を洗うとなれば、当然体に巻いているバスタオルを解かねばならないわけで――今でさえ全力であさっての方向を向こうとしているケイならば、低俗な欲望に駆られて自分を盗み見――と言うことは無いだろうが、かといって異性がすぐそばに居る状況で全裸になれるほど、自分は恥知らずではない。佐々木まき絵はそう思う。
 ……大して恥ずかしそうな素振りも見せずに、ケイの両脇に陣取っている恥知らず達ならばどうだか知らないが。

「何かすっげー馬鹿にされた気がする」
「右に同じッス」
「喧嘩はよしなって――だから僕が出て行けば済む話なんだから」
「それじゃつまんないッスよ」
「結局それが本音だろ」

 苦笑しながら、美空の頭を“ぽんぽん”と叩き――ケイは湯船から上がる。その際に“ウホッ! 良い背中”などとおどけて見せた裕奈の頭も、ついでに軽く小突く。
 そのまま背中に感じる熱い――奇妙に熱い視線を全力で無視しつつ、小走りに脱衣所に向かい――その途中で勢いよく、女性用脱衣所の扉が開いた。

「ひいっ!? ごめんなさいワザとじゃないんです今出て行くところで――」

 条件反射的に、ケイは頭を抱えてそっぽを向き――
 しかし果たして、彼に投げかけられたのは、裕奈の時のような悲鳴ではなかった。

「ふっふっふ――見つけたアルよ、藪守サン!!」

 褐色の肌を、ホテルの浴衣に包んだ一人の小柄な少女――麻帆良学園三年A組に於いて、武道四天王の一人と名高い中国人留学生、古菲。
 ケイとは特に、深い繋がりのない筈の彼女が――何故だか枕を小脇に抱え、惚れ惚れするような良い表情と共に、人差し指を勢いよく彼に突きつけた。




 ほぼ同時刻、ホテル嵐山客室――三年A組第三班の部屋。
 蝶番が軋む音と共に、開かれたドアがむなしく揺れていた。部屋の中には、呆然とそちらを見つめるシロと、口元に手を当てて、それでも一応は驚いているのだろう様子の千鶴、そして、携帯電話を持ったままひっくり返っている夏美の、三人の少女達。
 夏美の持つ携帯電話のディスプレイには、和美からクラスメイトに一斉送信された一通のメールが表示されている。
 つまりその内容が――

『ラブラブキッス大作戦・目標追加――藪守ケイ。ネギ・スプリングフィールドとどちらを狙うかは、参加者のお好みで』

と。
 それを見た楓は、先ほどまでの表情を、全て何処かに置き忘れたような無表情で立ち上がり――そのあまりに不気味さに、不格好にひっくり返った夏美を気にする様子もなく、無言のまま部屋を出て行った。
 それ自体は、ごく自然な動きだったが――

「あらあら――扉の蝶番が外れかけてるわ。どうしましょう」
「那波殿――それは現実逃避なのか、お主の感覚がズレているのか――どちらで御座るか?」

 揺れる扉に手をやり、困ったように首を傾げる千鶴に、シロは引きつった表情を向ける。言葉を投げかけられた千鶴は、暫く、その形の良い顎に人差し指を当て――ややあって、彼女の方に向き直った。

「藪守さんと和美――本当に命が危ないのは、どちらだと思う?」
「そこはもうちょっとオブラートに包んでくれぬか那波殿」

 シロは安楽椅子に沈み込んでしまいたいのを必死に堪え、小さく気合いを入れて体を起こす。

「全く和美殿も馬鹿な事を考えてくれたもので御座るな。とはいえ――楓殿も何というか――うちのクラスとケイ殿の間に、それほどの繋がりがあるとは思えぬ。確かに少々顔立ちの良い男であるというのは認めるが、それだけで唇を奪おうという気になるほど、うちのクラスも恥知らずではあるまいに」
「そうかしら?」
「……いやまあ、真剣な表情で問い返されると困るが」
「まあ――シロちゃんがそう言うなら、私たちは今の内に部屋の準備をしておくべきかしら? 長瀬さん――勢い込んで出て行ったのは良いけど、あの分じゃ感情のぶつけどころを見失って自爆するのがオチよ――今の内に、慰める用意をしておきましょう。確か人目に付かない廊下に、お酒の自販機があったはず――」
「ち、ちづ姉の笑顔が怖い――」
「那波殿――一つ聞いておくが、お主本当に十四さ――い、いえ何でも御座りませぬ。お気になさるな」




「……な、何だろう。何か凄い寒気が」
『風邪ですかい? もう一波乱あるのは確実なんだ。あんたが倒れてちゃ、楽しむものも楽しめねえ。ブンヤの姐さん、気をつけてくださいよ?』
「いや、風邪とかそう言うんじゃなくて――気のせいかな?」

 同時刻、ホテル嵐山備品室――座布団やお盆、その他ホテルに必要な備品が詰まった段ボールなどが積み上げられたその部屋の片隅に、背中を丸め、持ち込んだディスプレイを見つめる一人の少女――もとい、一人の少女と、小さな一匹の姿があった。
 言わずもがな、朝倉和美と、アルベール・カモミール――通称カモである。
 和美提案のこのイベントが、タマモと浅野に黙認され、実行に移されようとしたとき、協力を申し出てきたのが、このカモだった。彼は魔法の技術の応用により、“目標と参加者がキスをしたかどうかの判定”を確実に行い、さらには“優勝者へのそれなりの商品の提供”を確約した。
 何故彼がそこまでしようとするのか――もちろん彼は、敬愛する兄貴分、ネギ・スプリングフィールドが、この馬鹿騒ぎで少しでも元気を取り戻してくれれば――そうでなくても、頭を悩ませ続ける事のいくつかを、僅かな時間でも忘れてくれればいい。その為に、普段何の役にも立たない自分が、僅かなりとも役に立てれば――と、彼自身はそう言った。
 その言葉は眉唾物である。明日菜から、この不思議なオコジョの小悪党振りは聞き及んでいる。
 ただ――彼はあくまで“小悪党”であり、ネギを助けようとする意思が彼の根底にあると言うのは、おそらく嘘では無いのだろう。それは何となく理解できる。
 自分はネギを助けたい。少しでもネギの力になりたい――しかしあわよくば、自分の利益も確保したい。そんなところだろう。明日菜がどう思うかはともかく、自分にとっては、下手に綺麗事のみで動こうとする人間――彼はオコジョであるが――よりは、好ましく感じられる。そう、和美は思う。
 自分自身、ネギを励まそうという気持ちに嘘はないが――やはり修学旅行を盛り上げてやろうという悪戯心の方が大きいのは事実だ。だからこうして、隠れるようにこんな場所で、イベントの管理をしているわけで。

「そう言えばあんたの言う“景品”って一体何? 今更だけど、魔法の云々って、おおっぴらに出来ないんじゃ無かったの?」
『そう気にするモンじゃねえよ、ブンヤの姐さん。兄貴の杖だって、ただ黙って置いてあるだけなら、単なるアンティークだろ? あれを“魔法使いの杖”だって目の前に出されて、あんた何も知らなかったら信じられますかい?』
「そう言われてみれば――危険物じゃないなら、まあ何でも良いか」

 確かに“魔法の道具”など、そうと言われてもとても信じられないし、魔法使いでない自分たちには扱えもしないものだろう。正しく記念品程度の価値しかないものなら、問題はない。和美はそう納得して、ディスプレイに目を戻した。
 その一角には、ホテルの片隅に立つ、小さな少年の背中が映し出されている。
 その背中がいつもより、もっと小さく弱々しく感じられたのは――何と理由を付けようと、どうしても感じてしまう後ろめたさのせいだろうかと、和美は思った。



[7033] 三年A組のポートレート・混沌とした夜に
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/01/03 09:17
「ちょっと――ゆえ、何でこんな場所を――」
「私なりに考えた結果です。“障害物”や“妨害”の事をふまえて考えると、ここを通るのがもっとも安全で都合が良いのです」
「何をもって“安全”だって言うの!? うう、手のひらと膝が真っ黒だよ」
「後でお風呂にでも入ればいいでしょう。まあ……ネギ先生とキスをするのに、薄汚れた手のひらというのはいささか問題があるかも知れませんが、事の本質に比べれば、些細なことです」

 “ゲーム”開始十数分後、ホテル嵐山、屋上付近。屋根と“ひさし”の中間部分。どうにか人一人が安全に通れるような場所をはいずり回る、二人の少女の姿があった。麻帆良女子中三年A組、綾瀬夕映と、宮崎のどかの二人である。
 クラスを代表する何処ぞの鉄面皮程ではないにせよ、表情にあまり変化が無く、“常に冷静沈着”を己の信条としているらしい夕映と――こちらは単純に、引っ込み思案で大人しい性格であるのどか。クラスメイト達にとっても、彼女たちの“ゲームへの参加”は意外であった。普段の彼女達は、“馬鹿騒ぎ”と形容できるだろう、このようなイベントに、進んで首を突っ込むような性格ではない。
 ともかく、そんな彼女たちが匍匐前進するその場所は、本来は人間が通るような場所ではない。屋根にたまったゴミやら、雨水が集めたのだろう埃やら――既に彼女たちの手のひらと膝下は、煤にまみれたように黒く汚れている。
 何故にそこまでして、彼女たちがそんな場所をはいずり回っているのかと言えば――

「何せ、龍宮さんや古菲さんまでもが参加するとなれば、まっとうな方法で――枕を武器に吶喊を仕掛けたところで、私たちには万に一つの勝ち目もありません。唯一可能性があるとすれば、彼女らに気づかれないようにネギ先生に接近する――その為には、ここが一番安全なんです」

 “図書館探検部”などという、恐らく世界でも麻帆良学園都市にしか存在しないだろう、珍妙な探検サークルに所属する彼女たちは、それなりに――少なくともその“探検”に耐えられる程度には、鍛えられている。単純な運動能力はともかくとして、こういう場所をはいずり回るのに不足のない程度には。
 しかし彼女たちはあくまで、特定の分野に於いて、同年代の少女達よりも鍛えられている、と言うだけの話であって――鍛え上げられた成人男性をも平気で向こうに回すであろう、そんな規格外のクラスメイト達とは、比べようもない。
 しかし今更それを嘆いても、ましてや“武道四天王”などと噂される彼女たちの存在そのものに呆れてみても意味はない。確かに分は悪い。嘆きたくもなる。しかし自分たちが嘆き悲しめば、神様が救いの手を差し伸べてくれるのかと言えば――答えは否だ。

「幸い、龍宮さんは委員長に頼まれて参加しただけのようで、それほど気乗りしない様子だったと――彼女の化け物じみた察しの良さでは、この裏道も見抜かれてしまう可能性があったのですが、ひとまず安心です」
「それには私も同感だけど、何もこんな――大体、何でこうまでする必要があるの? 大体、私なんかが――」

 目を細めて言う夕映のあまりの迫力に、多少尻込みしながら――弱々しい調子で、のどかは言う。それを聞いた夕映はと言えば――動きを止めて小さくため息をつくと、狭い足場の上で、器用にのどかに向き直った。

「のどかがそんなだから、ですよ」
「……」
「この馬鹿騒ぎがそもそも、ネギ先生を元気づけるためにある――朝倉さんの言うことが、まるっきりの建前だとは、私も思いません。ネギ先生は何かと物事を深く考え込むタイプですから、何故に今あんなに気落ちしているのかはわかりませんが――荒療治というのも一つの手だと言うことも、否定は出来ません」

 腕を組んで目を閉じ、大仰に頷きながら、夕映は言う。バランスを崩せばホテルの屋根から転がり落ちて、下手をすれば怪我では済まない事態になるのだが――自分と同じインドアタイプに見えて、この小柄な少女は割と底が知れない、と、のどかは思う。
 それが半ば現実逃避めいたものであることは、彼女自身も自覚している。

「ですが」
「ひゃっ」

 ずい、と。
 突然自分に顔を寄せてきた夕映に、のどかは思わず奇妙な声を上げて後退ってしまう。広い額と同じくらいに印象的な大きな瞳、それを細めてこちらを見据える彼女の表情には、形容しがたい迫力がある。

「このやり方だけは、許容できません」
「……ど、どうして?」
「どうして? あなたがそれを問いますか? のどか」

 そんなことを言われても――と、のどかの視線が、所在なく宙を彷徨う。それを見た夕映は、自分を落ち着かせるように、小さく鼻から息を吐き――首を横に振った。

「……責めているわけではありません。ですが、友人として言います。あなたはもうすこし、自分に素直に――いえ、我が儘に生きても良いと思います」
「そんな――こと、私――」
「とにかく」

 何かを言いかけたのどかを遮り――夕映はたたみかけるように言う。

「このイベントを認める訳にはいきませんが、始まってしまったものは仕方ありません。ならば取るべき行動は一つ――のどかが、ネギ先生の唇を死守することです」
「ちょっ――夕映っ!?」

 先に自分で言ったように、ネギを元気づける事自体は間違っていないと思う。しかし遊び半分で、ネギとのキスを奪い合うとなれば、看過は出来ない。確かに相手は子供であり、それも、こと、こういう異性との接触に対しては、いつまで経っても免疫が出来る様子がない。そのオーバー・リアクションと言ったら、趣味は良くないが見ていて飽きない、とも言える。
 だが――そんな彼に純粋な想いを抱く友人の事を考えれば、このやり方だけは許容できない。確かに遊びと言えばそれまでであるが――だからこそ、逆に。
 そう思うからこそ、綾瀬夕映はこうして、その“友人”と共に、汚れた屋上をはいずり回るという、似合わない行動に出ているのだ。

(お節介と言えば、そうなのでしょうが)

 自分がこうまでする必要があるのか、と、自らに問いかける声が無いわけではない。だがこの綾瀬夕映という少女、無表情な見た目に反して、その中身は誰よりも退屈を嫌う部分がある。
 結局のところ、自分の中のそう言った部分と、純粋に友人を思う部分が、今の彼女を突き動かしているのだろう。
 彼女は金属製の雨樋を軽く引っ張り、強度を確認する。それを足場に一旦降下すれば、ゲームが始まった時に確認したネギの位置――ホテルのロビーへ、妨害を受けることなく到達出来るだろう。あの時の彼は、ソファに座って何か考え事をしているようだった。だとすれば、まだそこにいるか、そうでなくても遠くへは行っていないだろう。
 膝に付いた埃を軽く払い、ひょいと窓から中を覗き込んだ夕映は、軽く眉をひそめた。

「……邪魔が入っていますね」

 彼女の視線の先、ネギは未だにそこに居た、
 ただし――長身のスーツの男性と、更には今一番顔を合わせたくない――見慣れた壮年の、浴衣姿の教師と共に。




「そうですな――ネギ先生の事を最初に聞いた時は――正直なところ、納得は出来ませんでしたよ」

 ソファに深く腰掛け、柔らかな顔で、新田教諭は言う。彼が身に纏うのはこのホテルの浴衣であるが、彼のように深みのある壮年がそれを着れば、中々どうして絵になる。自然と頼れる雰囲気を醸し出す彼には、言っては何だがこういう年寄りじみた格好がよく似合う。
 どう見ても“浴衣に着られている”という形容がせいぜいのネギはそう思うが、同時に不思議にも思う。生徒から“鬼の新田”と畏れられる目の前の教師の事は、ネギ自身、何処か苦手としていた筈であった。
 むろん、彼はただ生徒に厳しいだけの教師ではない。本当の意味で教師という職業を理解し、それに誇りを持って職務に当たっている素晴らしい人物である――と言うのは頭で理解していたが、所詮ネギは十歳の少年。早い話が、怖いものは怖いのだ。
 しかしネギが正式に麻帆良の教師となり――苦手だと思いつつも、彼と接する機会も格段に増えてからこちら、ネギはこのベテラン教師の事を、自然と慕うようになっている自分に気がついていた。
 それが何を意味するのか自分ではわからないまま――新田の口からこぼれた言葉に、彼は小さくない衝撃を受ける。
 ネギの表情に、彼の内心を感じ取ったのか――新田は唇の端に笑いを浮かべ、首を横に振る。

「世の中には色々な才能がある。誰にでも、その誰かにしか出来ない何かがある。私はそう考えております。あの時の私はまだネギ先生と出会って居なかったわけですから、あるいはネギ先生が“人にものを教える”天才である可能性も捨てきれない。しかしそれでも、私は納得など出来ませんでした」
「それはやはり、ネギ先生が幼すぎるから、と言う意味でしょうか?」

 隣に座る少年の様子を横目で見つつ、長身のスーツの男――関西呪術協会幹部、浅野潮は、新田に問う。
 彼がここに居合わせたのは、全くの偶然だった。
 彼は関西呪術協会の人間――もとい、“魔法使い”としては、割合柔軟な思考の持ち主である。
 “現代の魔女”魔鈴めぐみとまでは行かないが、魔法と言う技術を、ある程度の“手段”と割り切る事くらいは出来ていた。魔法はあくまで、人間をよりよくするための手段――ならば、人間が進歩する過程で、ゴースト・スイーパーのような“新世代の魔法使い”が登場したことも不思議ではないし、今現在の魔法世界が揺れている事も理解している。
 だから、彼は日本の魔法使い達――その東西の確執にもさほど興味はなかった。
 そんな彼だから、当初東側の特使としてこちらに赴く予定だった“英雄の息子”――ネギ・スプリングフィールドの事は知らないでも無かったし、彼の様子が何処かおかしいことにも気がついていた。
 余計なお節介だとは思ったが、一度彼と話をしてみるのも悪くはない。そう思って彼に声を掛けたところで、偶然ネギの“同僚”である新田に出くわし――そのままなし崩し的に、三人で世間話をするに至ったのである。

「早い話が、そうです。ネギ先生はその年で、名門と名高いオックスフォード大学を卒業している。これは紛れもない天才です。私のような凡人には、想像も出来ない才能を、ネギ先生は秘めている」
「い、いえ、それは――」
「私は飛び級――有能な人間が、自分が望むままに高みを目指すことの出来るその制度を否定しません。いえ、むしろ好ましく思う。日本の教育にも取り入れてしまえばいいのではと、ある意味では考えます」
「ほう」

 では何故、そう思いながらネギを認めようとはしなかったのか――新田は、浅野がそれを問う前に、自分でそれに答えた。

「自分の学びたいことを、年齢という区分に邪魔される事無く学ぶ――それ自体は素晴らしいことです。しかし、こと“学問を誰かに教える”となれば、話は違う。教師とは、生徒にただ知識としての学問を吹き込むだけの職業なのですかな? それは違うでしょう。もしそうなら、教師など要らない。教卓にテープレコーダーの一台でも置いてあれば、それで事足りる」
「……ネギ先生には、人を導くだけの経験が足りない――そう言うことですね」
「そうです。ネギ先生には指導力もあり、皆に慕われる――俗な言い方ですが、“カリスマ性”のようなものある。しかし、教師としての経験が絶対的に足らんのです。これが他の職業ならまだいい。才能さえあれば何でも出来る――しかし、中学生という時間を過ごした事の無い人間に、中学生を“中学生として”成長させる――これほど難しい事が出来るでしょうか」

 麻帆良やオックスフォードのお偉いさんが、ネギ先生の才能を何処までも引き延ばしたいと言うのは分かるが――と、新田は腕を組む。

「あの子らは、その為の教材ではない。あの子ら自身もまた、成長せねばならんのです」
「……新田先生の言うとおり――僕は、教師としては、全然駄目です。僕は――自分の事ばかり考えてて、全く前が見えていなかった。だから――」
「しかし」

 本人を目の前に、そこまで遠慮の無いことを言ってもいいものか――助け船を出すべきかどうか浅野が迷っていると、ふと、新田の声の調子が変わる。

「今では私の方が学ばされております。幼いが故の失敗もあるにせよ、ネギ先生は立派に、教師を務める事が出来ている――いやむしろ、三年A組の子供達にとって、ネギ先生が担任となる事が出来て良かった――そういう風にさえ思う。いや、前任の高畑先生が悪いと言っているわけではありませんがな。ネギ先生はあくまでネギ先生として」
「単純な興味として、伺っても宜しいでしょうか? いえ――学生という身分を卒業して既に長く、このような仕事をしていると――新田先生のお話は、心に響くものがある」
「浅野さんの仕事は、意義あるものだと思いますよ」

 ひょっとしてこの男にとっては、自分もまた生徒のようなものなのだろうか――浅野はそんな錯覚を覚えつつ、新田の言葉を待つ。

「つまり私は――私の常識からでしか、物事をはかれていなかったと言うことです。重ね重ね私は凡人ですからな。私が正しいと思ったことが、必ずしも正しいと言うわけではない。これは結果論ですが――ネギ先生には、ネギ先生の“やり方”がある」
「……」
「生徒を導くのが教師の一面であるならば、生徒と共に成長するのもまた、教師の一面である――むろん、問題が無いとは言いませんが。しかし果たして、そう言うときのために私が居る。ベテランと言えば聞こえは良いが――経験だけは無駄に積み重ねた、老骨の私がね」

 その時の新田の顔――満面の皺が刻まれた好々爺然としたそれを――浅野は、まるで少年のようだと思った。教師というのはこういうものなのだろうかと、己の学生時代を思い出し――それが意味のない行動であることに気がついて苦笑をこぼし、隣の少年を伺う。

「――ネギ、先生?」

 ネギは、俯いていた。膝の上に置かれた拳は小さく震え――頭髪の間から見える口元は、真一文字に締められたまま、歪んで見えた。そして――隠された瞳からこぼれ落ちた雫が、震える手のひらにしたたり落ちる。
 彼が酷い状態だとはわかっていたが、まさかこれほどまでに簡単に、感情が堰を切ってしまうとは――浅野は今のネギに、どう声を掛けて良いのかわからない。

「ネギ先生は若い。そして、才能に溢れている。先生はよほど、私などよりも“教師”に向いていると、そう思います」

 柔らかな口調で、新田は続ける。ネギに言い聞かせると言うよりも――誰にともなく、自分の気持ちを呟いている。そんな風な口ぶりで。

「昨日風呂場で言った事ですが――ネギ先生が何に悩んでいるかなど、私が気を揉んだところでどうしようもない。ですが、ネギ先生は立派にやっています。先生が教師として思い悩むことがあるというのなら――簡単なことだ。私を頼ればいい。いや、私じゃなくていい。学園国家、麻帆良――そこには多くの教師が身を置いている。教師としてネギ先生の助けになれる人間は、きっといる。頑固教師の私が、誰よりも生徒に優しく接する事が出来るネギ先生を、頼っているようにね」

 ネギの肩が小さく震え――彼は顔を上げる。
 涙に濡れたその表情を見て、浅野は何かが腑に落ちたような気がした。
 そうだ、自分は最初から知っていたはずではないか。僅か十歳の、心に大きな傷をもつ、英雄の息子――彼は“立派な魔法使い”になるための修行として、麻帆良で教師をやっているらしい、と。
 そして目の前に現れた少年は、自分が想像していたイメージと違わぬ、純粋でがむしゃらな子供だった。
 そんな子供が――“頑張っていない筈はない”のだ。

(我々は一体――彼に何を求めているのだろうか)

 ふと、浅野はそんなことを思う。彼が“立派な魔法使い”として成長することは、今の揺れる魔法世界に、大きな意味を持つことになるだろう。“千の呪文の男(サウザント・マスター)”英雄、ナギ・スプリングフィールドの息子。その存在はあまりにも重い。
 だが、目の前で涙を流すこの少年は――

(新田教諭は、魔法使いと関係がない人間だ。だからそう思ったのだろうか――いや、そうではない)

 浅野は、内心で自戒する。
 それは裏の世界を知っているとかどうだとか――そういう事ではない。もっと単純な、そう、とても単純な問題だ。
 彼は自分が、世の中の都合の良い部分しか見ていない、そんな人間になったような錯覚を覚える。知らず、心拍数が上がり――何気なく組んでいた腕に、力が入る。

(一体いくらの人間が――“この子”の事を見てやれているのだろうか。周りに誰もいない世界の中で、この子は――一体いつまで、頑張り続けることが出来るのだろうか)

 自分の中からこみ上げる衝動を抑えきれず――しかし結果的にどういう行動を取ったものか、それがわからず――浅野は、腰掛けていたソファから浅く腰を上げ――

「さあ、観念するアルよっ、藪守サン!!」
「観念ってどういう事さっ!? どうでも良いからせめて服くらいちゃんと着させてよっ!!」

 唐突に彼らの居るロビーを、一陣の風が駆け抜ける――
 もとい、パンツに浴衣を引っかけただけの姿の青年と、実に楽しそうな表情で彼を追いかける、小柄な少女――
 浅野もネギも、ネギに手を伸ばそうとしていた新田も、思わず動きを止め――その何だか良く分からない二人を、呆然と目で追った。
 とりあえずその中で、真っ先に我に返ったのは、浅野である。

「ええと――今のは――」
「……男性を追いかけていたのは、ウチの生徒ですな――一体何がどうしてあんな事をしているのかはまるでわからんが」

 こめかみをひくつかせながら、新田は立ち上がる。彼女が何故、喜々として見知らぬ男性を追いかけ回していたのか、新田にはまるでわからない。しかし、彼女を筆頭として、こういうときにこのクラスは必ず――
 ふと“何か”を感じて、ロビーの明かり採りの窓を振り返った新田は、そこからこちらを覗き込んでいた“何者か”と目があった。果たして慌てて頭を引っ込めた“何者か”に向かい、彼は大きく息を吸い込んで――

「貴様ら一体、何をやっとるか――ッ!?」




「あ、やっば、新田にバレた――つか、何やってんのよくーちゃんはっ!?」

 同時刻、ホテル嵐山備品室――持ち込んだディスプレイに映し出された、あまりに混沌としたその光景に、朝倉和美は思わず頭を押さえた。
 清水寺の一件に、昨晩ホテルで起こった“霊障”が重なって、夜間の生徒達の行動は、かなり制限されている。とはいえ、遊びたい盛りの修学旅行生だ。教師の目を盗んで、何かしら遊び回る事もまた、彼――“鬼の新田”は察していたに違いない。
 だから、そう言った修学旅行の“醍醐味”とも言えるものを、彼は黙認していたのだろう。夕べの見回りなどは、本当に事務的なものだったように、和美は思う。
 しかし――それはあくまで、“教師の目を盗んで”という大前提のもとに、である。あそこまで堂々と目の前に現れたとなれば、流石の新田教諭も見過ごしてはくれないだろう。
 全く何を考えているのか――いやきっと、何も考えていないのだろう。“格闘技馬鹿”のクラスメイトの事を考えて、和美はため息をつく。

「目標が“キス”だってこと、覚えてんのかしらねあの子は」
『いや、あれは多分、細かいことは兄さんをブッ飛ばしてから思い出す、くらいの勢いですぜ』
「……まあ、仕方ないわ。元々“鬼の新田”は、ゲームの障害物――見つかれば多分、朝まで正座くらいはやらされるんじゃないかって、そういう扱いだったし――」

 “格闘技馬鹿”――もとい、三年A組武道四天王とも言われる中国人留学生の古菲が、“ネギとキス”などと言うことを目的に、このゲームに参加してくるとは思っていなかった。そう言う意味では、タマモの言に従って、爆弾――藪守ケイを目標に追加したまでは良かったのだろうが。
 まあ、これはこれで楽しめるかも知れない。多少難易度が高い方が、ゲームは盛り上がるものだ。和美は思考を切り替えて、ディスプレイに目をやり――そこに、一人の少女が映し出されている事に気がつく。

「楓――って、風香と史伽っ!?」

 そして彼女の足下に倒れ伏す、小さな二人の少女――鳴滝風香と、鳴滝史伽姉妹も。

「ちょ――あの子ら生きてんの!? 何があったの!?」
『す、すまねえブンヤの姐さん、俺っちもちょっと目を離してる間に――』

 普段は実の姉妹である鳴滝姉妹と合わせて、まるで三姉妹のように仲の良い彼女たちの間に、一体何があったのか――枕を握りしめたまま、楓の足下に倒れ伏す風香と史伽から、それを伺うことは出来ない。
 馬鹿げたゲームと言うには、あまりに殺伐としたその光景――その中心に佇む少女が、ふと、こちらを向いた。
 全ての感情を忘れ去ったような無表情。そして――いつもは糸のように細められている瞳が、今はハッキリと開かれている。防犯カメラのデータを流用した、画素の荒い画像からは、彼女が目を開いている事がかろうじて判断できるくらいであるが――和美とカモは、その瞳の中に渦巻く暗い光を、見たような気がした。

『何というか――多少悪戯が過ぎやしたかね?』
「い、いやっ――でも、提案したのはあたしじゃなくて龍宮だし!? てかこんなの軽いお遊びじゃん! 楓も何でそんなにマジんなって――」
『……居るんだよなあ、普段は冷静に、客観的に物事を見られるのに、それが自分のこととなると、わざとやってんのか、って思うくらいに周りが見えなくなる奴。うちの兄貴もタイプは違うがそう言うところあるから、何となく――』
「わざとっつうか――あり得ないでしょアレは!? あんたも何を他人事みたいに!」
『まあ、提案したのは俺っちじゃねえしなあ』

 二人と一匹が騒ぎ合ううちに――いつしか長身の少女の姿は、ディスプレイの中から消え去り、後には廊下に倒れ伏す二人の少女だけが残されていた。




「……いかん、少し悪戯が過ぎただろうか? しかし冷静に考えてみれば、“彼”は別に危機にさらされている訳でなければ、お遊びで中学生に迫られた位で理性をなくすようにも見えない。ああまで楓が暴走する理由にはならんと思うが――」
「今更言い訳をしても遅いですわよ。何というかその――長瀬さんにも思うところがあるのでは?」
「思うところ――思うところ、ねえ。なあ委員長、それは藪守さんに起因するところなのか、楓に起因するところなのか、どっちだろうな」
「どっちでも良いですわよ」

 何故か廊下に倒れていた風香と史伽を、彼女たちの部屋まで担いでいき――その際に“中継”で、一体何が起こったのかを理解した龍宮真名は、半ば引きつった笑みを浮かべながらあやかに言い――あやかはふて腐れたように、首を横に振った。
 当然と言うべきか――風香と史伽は怪我の一つも負っていなかった。ただ逆にそれは、抵抗する間もなく意識だけを刈り取られたと言うことであって――

「ふ、ふ、今の楓の何と恐ろしい。クーが暴走して、新田が怒り心頭で辺りをうろついていると言うし――状況は良くないな、委員長」
「誰のせいでこうなったと思って居るんですか!? あなたが藪守さんを巻き込んだりしなければ、こんな事には――」
「それを言うなら、このゲームそのものが最初から“そういう”ものだろう。私はただ、イベントがもう少しばかり盛り上がらないかと、自分なりに考えてみただけだ。いや――まあ、その、あまり深く考えていなかったと言うことは、認めるけれども」

 真名は肩をすくめ、首を横に振る。口ではそんなことを言っているが――彼女の様子を見て、それを反省していると考える人間は居ないだろう。あやかは一つため息をつく。もっとも真名の言うとおり――このゲームそのものが、最初から“反省”などと言う言葉を向こうに回すものであることは、否定できない。

「とにかく、ならば失った信頼を取り戻すためには、私は仕事をしないといけないな。この騒ぎで、恐らくネギ先生は自室に戻されている可能性が高い。何――新田と楓に見つかりさえしなければ、勝機はあるさ」

 枕をくるくると回しながら、気楽そうに真名は言う。
 その様子を見ていると、あやかは何だか、自分がこのゲームに参加したことが間違いだったのではないだろうかと思えてくる。
 嘆息しそうになるのをぐっとこらえ――彼女は首を横に振る。

(いいえ――私としては、そんな風に思わなくもない。けれど、ならばネギ先生の唇が、他の誰かに奪われても良いというのですか? それこそ、このような“お遊び”程度の目的で――否! 断じて否!! ですわ!)
「ふふ、その意気だよ、委員長。クライアントにやる気がないのでは、仕事のやりがいも無いというものだ」
「だからといって自分を棚に上げて――もういいですわ。それより、声に出ていましたか?」
「いや――だが、今の委員長の心を読むことなど、実に容易い」
「あなたが言うと冗談に聞こえませんから、やめてください」

 あやかはそう言って苦笑し――そのまま、凍り付いた。
 果たして真名が、そんな彼女の様子から、何かを察するのに、そう時間はかからない。いや――仮にあやかの様子に気づけなかったとしても、彼女が異変を察知する事は難しくなかっただろう。
いや、中学三年生にして、世界中の紛争地を戦い歩いた――などと嘯く彼女でなくとも、まっとうな生存本能を備える生き物ならば――と、言い換えても良いかも知れない。
 常夜灯に照らされた廊下の向こうに――誰かが立っている。
 すらりと背の高いそのシルエットは、しかし柔らかな丸みを帯びていて、その人影の主が女性であると言うことを伺わせる。野暮ったい浴衣を羽織っていてもわかる、その体が描く曲線が――

(……いかん、現実逃避をしても、現状は変わらなん)

 目の前の現実を受け止めたくない――“兵士”にあるまじきそんな思考回路に、真名は内心で自分に呆れるも――無理もない話だろうと、そんな“模範的兵士”である自分に冷たく言い放つ、冷静な自分の存在にもまた、気がついていた。
 彼女は大きく息を吐き――あやかを背後にかばいつつ振り返り、似合わない愛想笑いなどを浮かべてみせる。

「やあ、楓。いい夜に誘われて散歩かい? そう言えばお前は“さんぽ部”とかいう部活に入っていたな」

 学校側に認められているのかどうかすら怪しい、活動人員三人の部活動であるが――彼女以外の残りの二人はと言えば、諸般の理由から昏倒中であり、他ならぬ自分たちが今し方、部屋に放り込んできたばかりである。

「左様」

 薄暗がりの中で、長身の少女は静かに言った。

「こちらからも一つ聞かせて貰って良かろうか」
「もちろん、友人として、答えられる範囲でなら何でも答えてやろう」
「真名――お主の狙いは、“どちら”でござるか?」

 背後で、安堵の吐息が聞こえた。
 鳴滝姉妹が何の地雷を踏んで昏倒させられたのかはわからないが、目の前の彼女には、まだ理性の欠片とも言うべき何かが残っている。

「委員長のお目当てなんか、聞くまでも無かろうに」

 苦笑混じりに、真名は言う。だがその呆れたような声色にも、楓の表情は揺るがない。

「では――真名、お主自身はどうか?」
「私? おいおい、楓――」

 自分が進んでこのゲームに参加していると思われているなら、少々心外である。確かに何だかんだと言いつつも、自分も所詮十四歳の小娘であるから、たまには羽目を外してみたくなる時もある。
 けれど流石に、この手の馬鹿騒ぎに進んで首を突っ込むような人間かどうかくらい、判断して欲しいものだ。別に格好を付けているわけではない。誤解されがちであるが、龍宮真名という人間は、それほど騒ぐこと自体が嫌いではない。これは傭兵という職業柄かも知れないと、彼女自身は思っている。娯楽の少ない戦地では、楽しめるものなら何でも楽しむと言うくらいの気概が無ければ、精神が参ってしまう。
 その予測が的を射ているのかどうかは別として――ただ何というか、かの少年が担任となってからこちら繰り返される、“この手”の馬鹿騒ぎが、どうも自分の性に合わないというだけなのだ。
 ふと真名は、己の中に、不思議なざわめきが生まれ出るのを感じた。
 言うなれば、性に合わない事に無理に付き合ったストレスがそうさせたのだろうか。目の前で自分たちを睨む少女を、真名は畏怖するべきものだと捉えつつも――命知らずにも、こう思ってしまうのだ。何故自分は、勝手にいらだっている相手に好きなことを言われて、そのご機嫌を取らなければならないのか? と。
 子供じみた嫉妬心など可愛らしいものだ。だが、これは単なるゲームではないか。恋人にもなれていない男のことでやきもきするのは結構だが、自分たちに八つ当たりをされてまで我慢する必要があるのか?
 ――いや、それは言い過ぎなのかも知れない。それはわかっている。
 楓のことは、大事な友人だと思っている。
 彼女のお茶目くらい、笑って水に流せばいい。いつもの自分なら、そうする。
 だから何故、このときこんな事を言ったのか――真名自身、理解が出来なかった。
 けれど、唇は自然と――自分の意思とは無関係に、言葉を紡ぐ。

「私はネギ先生には興味はない。藪守さんに決まっているだろう?」



[7033] 三年A組のポートレート・加速する混沌
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/01/10 19:30
 ――握りしめられた拳が、渾身の力で放たれた蹴りが、空気を切り裂く音がした。
 ――筋肉が、骨が、軋みを上げながらそれを受け止め、あるいはダンスでも見ているかのように、翻る肉体と交錯し――戦いは更に、その先へ。
 もっともっと、テンポを上げていこう。磨き抜かれ、研ぎ澄まされた肉体は、この日、この瞬間の為だけにある。まだ足りない。もっともっと――これで終わるには、早すぎる。
 幼い日の彼女が見たそんな戦いは、激しく――そして、何よりも美しかった。
 麻帆良学園本校女子中等部三年A組、出席番号十三番、中国人留学生の古菲は、母国に於いて、古くから伝わる伝統の武術を伝える、小さな道場の一人娘として生を受けた。
 彼女の一家は、副業としていくつかの事業に手を付け――実際のところ、道場の運営は、傍目には道楽のようなものであったが、彼女の両親をはじめとする一族は、あくまで自分たちは武道家であると公言し、武術の伝承と研鑽こそが、自分たちの仕事だと――そう、彼女に教えていた。
 “副業”の関係で、幼い頃から、彼女は幾たびか、両親と共に日本を訪れた事があった。そしてある時、彼女はそれを目にする事となる。これから先の人生を決定付けるであろう、ある大会を。
 ともすれば――いや、“学生による”という但し書きが付くのならば、ほぼ間違いなく世界最大級の規模を持つ祭り――麻帆良学園都市、学園祭。その筋では日本全国に名の知れたその祭りが開催されるその時期に、偶然古一家は、仕事の都合で関東地方に滞在していた。
 折角だからと足を伸ばしたそのお祭り騒ぎの一角で、“それ”は行われていた。
 「麻帆良学園格闘大会」
 格闘技系のサークルや、あるいは格闘技を専攻とする学生達を中心とした、常識はずれの一大格闘大会である。
 “格闘技”と聞いてじっとしていられなかった“武道家”を自称する古一家は、当然その大会を観戦する運びとなり――そして、幼い日の古菲は、それを見た。
 鍛え上げられた肉体がぶつかり合う、真剣勝負。
 体重による階級等という生やさしいものは存在しない。男女の区別すら存在しない。そして何よりも、相手に致命的な怪我を負わせない範囲に於いては、武器の使用すら認められている――そんな過激すぎる大会を指して、眉をひそめる者は居た。危険だ、野蛮だと、陰口を叩くものも居た。
 けれど、幼い日の彼女が見たそれは――舞台の上で、血と汗を飛び散らせながらぶつかり合う彼らは、彼女らは――今まで見たことが無いほどに、美しく見えた。
 伝統武術を伝える、道場の一人娘――そうは言われても、それの何たるかなど、幼い彼女にはわからなかった。そう、その時までは。
 幼心に、どれほどのものが過ぎったのか、もはや彼女は、自分自身ですらそれを覚えていない。けれど、単純に一つのことを思った。それだけは覚えている。自分も――こんな風に、美しく戦う存在でありたい。そう言う存在に、いつかなってみたい。
 十二歳の誕生日を控えたある日、古菲は、両親に日本への留学――麻帆良学園への進学の希望を打ち明けた。
 実情はどうあれ、武道家であることを信条とする両親はそれを快諾。彼女は麻帆良学園本校女子中等部に進学する運びとなった。
 そして昨年――彼女は夢であったその格闘技大会で、見事優勝をおさめる事となるのだが――

(何かが足りない――私が見ていたものは、こんなに容易く手が届くものじゃない――そう、思ったんだ)

 確かに、大会で戦った相手は、弱くはなかった。ぎりぎりの一線で判定勝ちを収めた試合もあったし、自分の容姿を利用して、相手の油断につけ込んでどうにかもぎ取った勝利もあった。
 徹底的な合理主義を貫くとまで言われる中国拳法の使い手である彼女は、それを恥ずべき事とは思わない。最終的に勝てれば、それでいい。使えるものは何だって使う。もちろん正々堂々、真正面からぶつかり合うのが一番ではあるが――ともかく、彼女は易々と大会を制した、と言うわけではない。前年優勝者を僅差で制したその時――彼女は満身創痍――と言う言葉では言い表せない程の惨状だった。
 戦った相手が、弱かったわけではない。
 ましてや自分が、彼らに比べて強い肉体や優れた技や――そう言ったものを持った“強者”であるなどとも思わない。
 けれどあの日から、自分の中に――くすぶり続ける何かがずっと存在しているのも、また事実である。

(私があの日見た大会と――私が勝利したあの大会。何が違った訳じゃないかも知れない。あの日の私は、ただの子供で――だから、そんな風に感じただけかもしれない。けれど――)

 そこは、あらゆる分野に於いて、己を研鑽しようとする学生達が集う場所、麻帆良学園都市。強い人間なら、大勢居る。今の彼女では手も足も出ない類の人間も、恐らくまだ存在している。
 自分がこうもくすぶり続けている理由がわからない。
 それは自分の於かれた状況故か、それとも自分自身に原因が存在しているのか――ぶつけどころのない火種を抱えたまま、彼女は過ごしていた。
 そんな時だった。自分と同じように、“古くから伝わる武道”を研鑽しているという級友から――不思議な青年の話を伝え聞いたのは。

「ふふ――本当は楓本人ともやり合ってみたいんだけれど、どうにものらりくらりとかわされてしまうから――あれがジャパニーズ・ニンジャという奴なのかな? けれど! その楓ですら、まるで敵わないという藪守さん! 何だか話を聞くにただノロケられたような気がしなくもないけれど! 武道家として手合わせ願いたい!!」

 だから――思わぬところで巡ってきたチャンスに、彼女の心は燃え上がる。
 あるいは彼なら――くすぶり続ける自分を、完全燃焼させてくれるのではないか? 枕を小脇に抱え、多少大仰すぎるポーズと共に、彼に高らかに宣言する。
 そんな高らかな宣言に彼は――

「にっ――日本語で、OK――ッ!?」
「おっと、これは失敬したアル」

 気持ちが高ぶりすぎて、思わず母国語で啖呵を切っていたことに、どうやら気がついていなかったらしい。

「つまり、武道家としてアナタと勝負したいと――そう言うこと、アルっ!」
「そう言う宣言は殴りかかりながら言うモンじゃないでしょ!? ああもう、このクラスには伊達さんみたいな人が何人いるんだよ!?」

 泣き出しそうな情けない顔で、長身の青年――藪守ケイは、古菲の攻撃をかわす。
 とはいえ、それは“さらり”と言うほど簡単な事ではない。相手の動作と動作――その“つなぎ”の、ほんの僅かな一瞬を狙った回し蹴り。間違っても大柄とは言えない彼女の体――その頭からつま先までを総動員した見事な流れで撃ち出されるその一撃は、まさに必殺の威力を秘めているが――

「――ッ!?」

 ケイは、その長身からは信じられないほどに低く体を落とし――絶妙の見切りでもって、振り抜かれた古菲の蹴りに軽く右手を添え――対角線の左脚を、彼女の軸足にごく軽く当てる。それだけで、芸術的に完成されていた技に綻びが生じ――技に込められた力は、彼女自身のバランスを崩そうとする。

「な――なんのっ!!」

 古菲は咄嗟に床に片手をつき、それを支点に体を半回転させる。弾かれた蹴り脚を無理に振り下ろし、今度はそれを軸足に、バランスを崩しかけた先の軸足を振り上げる。狙うのは――低く沈んだままの、彼の肩口――

「ひいっ!?」
「嘘!?」

 情けない悲鳴と、古菲の驚愕の声が重なる。咄嗟に放ったにしては、自分でも賞賛出来るほどの一撃だった。だが彼は、その不自然な体勢から更に一歩踏み込み――彼女の太ももの部分を、上腕で受け止める。大概の蹴り技は、膝より上の部分に威力はない。
 とはいえ――あの状況から、それだけの反応が出来るものだろうか? 逆の立場であったなら、――と、考えるまでもなく、彼女には同じ真似は出来ない。彼の反応速度は、とても人間業とは思えないそれだった。
 だが――驚愕している暇はない。頭で考えるより先に体が動いていたのは、日頃の鍛錬の賜だろう。この密着状態ではろくな技など出せないが――蹴りを受け止められた体勢そのままに、両脚で彼の上半身を挟み込んで、相打ち気味にでも体勢を崩せれば――

「やめんかはしたないっ!!」
「きゃうんっ!?」

 視界が回った。
 力任せに太ももを弾かれた――と気がついたときには、既に古菲は廊下に転がっていた。
 あの不自然な体勢から――何という膂力だろうか。転がるようにして彼から距離を取り、そのままの勢いで立ち上がる。
 ケイは何故か顔を赤くして、彼女に指を突きつけた。

「女の子はそんなことしちゃいけません!!」
「ム、男女差別は良くないアルよ、藪守サン」
「そう言う問題じゃなくて!」
「ではどういう問題で――アア」

 そこで古菲ははたと、自分の格好に気がつく。ホテルの名前が刺繍された浴衣に羽織り――当然その下にはもう、下着しか着けていない。そしてそんな格好でこれだけ動き回れば当然――

「……しかし、ソレ言うなら藪守サンの格好もどうかと思うアルが」
「誰のせいでこんなカッコだと思ってんのさ!?」

 パンツ一枚に、浴衣を引っかけただけのケイは、頬を染めて、浴衣の前をかき合わせてみせる。その仕草はまるで、恥じらう乙女のようで――

「……私が言うのも何アルが、気持ち悪いアルよ、藪守サン」
「はうっ!?」

 古菲の辛辣な一言に、ケイは頭を抱えて仰け反った。
 そのあまりにも滑稽な様子に、古菲は思わず吹き出してしまう。自然とこぼれてしまった笑いに、既に必殺の技をいなされた悔しさなど、忘れてしまっていた。
 いや、そんなものは最初から感じていなかった。
 彼は強い。それを肌で感じる。自分の技が通用しなかったから何だというのだ。こういう相手こそを、自分は求めていたのではなかったか?
 古菲は腰を軽く落とし――自然な構えを作る。
 ああ、駄目だ。楽しすぎて、顔が自然ににやけてしまう。“楽しい”以外の感情が、何も考えられない――こんなのは、いつから振りの感覚だろうか?
 小さく息を吸い――彼女は、間合いの僅かに外に立つケイに言う。ぞくりとするような――妖艶で、酷薄な笑みと共に。

「ふふふ――さあ、いくわよ。踊ってね?」

 彼女の母国語で放たれたその“誘い”を、彼は理解できない。だが、そこに込められた意味を読み取ることのみならば――実に容易い。

「ちょっ――君、目が逝ってる!?」

 悲鳴混じりに、ケイは再び逃亡を開始し――古菲は、それを追う。
 麻帆良女子中三年A組、中国武術研究会会長、“馬鹿イエロー”古菲。このとき彼女の頭の中から、この“ゲーム”の最終目標が、目の前の男の唇を奪う事であるという事実は――当然、綺麗に抜け落ちていた。




「いかん――焚きつけてみたは良いが、流石に真っ向勝負で楓と戦うのは分が悪いな」
「今更何を言うんですの!?」

 同時刻、ホテル嵐山客室通路某所――廊下の影に身を隠した真名とあやかは、荒くなった呼吸を落ち着けていた。
 自分にも良く分からない内心のざわめきによって、何やら暴走状態にある楓に啖呵を切ったまではいいが――彼女と同じ“三年A組武道四天王”などと呼ばれる真名であっても、長瀬楓という少女は、真正面からやり合うには荷が重い相手であった。

「ハンドガンか――せめてスローイング・ナイフでもあれば話は違うんだが」
「何を物騒なことを言って居るんですか。アナタが今までどういう人生を送ってきたのかは知りませんが、日本には銃刀法という法律があってですね」
「護身用だ」
「ですからここは日本です。ヨハネスブルグの路地裏ではありませんことよ。アナタは一体、何と戦って居るんですの?」
「とはいえ、楓ならどんな暗黒街でも十分にやっていけると思うがね。それこそナイフを突きつけられようが拳銃で撃たれようが」

 あやかは、緊張感の無い真名にため息をつく。楓の脅威は、彼女とて身を以て実感しただろうに、その態度は何だというのか。もちろん、真名も楓も“武器は枕のみ”という最低限のルールは守っているので、真名にしてみれば変わらず温い“遊び”なのかも知れないが。

「では今のうちに、あなたの雇い主として聞いておきますが――どうして、長瀬さんを焚きつけるような真似を?」
「ふむ――確かに、雇われの身分としては、やりすぎだったな。反省している――何というか、自分でも良く分からないんだが、何というか――イラつくんだ、今の楓を見ているとな」
「それは――しかしあなたも、そこまで度量の低い人間でも無いでしょう? 確かに色恋沙汰など全く縁の無かった長瀬さんがあの有様では、思うところもありますが――ここは素直に、友人として彼女の恋を見守るべきでは?」
「実際その通りなんだがね」

 真名は首を横に振り、あやかに言った。

「要するに、子供なんだろうがね。私も楓も。楓は今の無茶ぶりを見ていればわかるだろう? 藪守さんは楓の恋人というわけじゃない。楓がああまで怒り狂う理由には足りない。つまりあいつは、自分の中に渦巻く感情に飲み込まれて、パニックを起こしてるのさ」
「そこまでわかっているなら――長瀬さんをいじめて何になると言うのです?」
「何でだろうね。自分でも分からない。だから、楓だけじゃない。私も子供だって言うんだ。そうだな、まあ――敢えて理由を付けるなら」
「きゃ!?」

 廊下の角から僅かにはみ出していたあやかの髪を、もの凄い勢いで通り過ぎた“何か”がかすめる。果たしてそれは、旅館の備品である枕。
 修学旅行の枕投げなど、ほほえましいものである。騒ぐことで気分は盛り上がり、ものが枕であるだけに、危険などもない。だが――たった今自分の脇をかすめた“枕”は、果たしてそんな穏やかな代物だっただろうか?
 尚悪いことに、ゲームのルールでは“武器は枕”とだけしか指定されていない。枕を使って相手をどうすれば勝利なのか――それが、記されていない。
 もっともそれは、元々記す必要などないものだ。枕は枕。せいぜいが、“正しく枕投げ”をして、相手を牽制する。それくらいの役割しか果たすまい。そうであるはずの結果が――廊下に昏倒していた鳴滝姉妹であるわけなのだが。

「……仕方ないな、委員長。一旦非常口から外に出て、正面玄関からネギ先生の部屋に向かえ。ロビー周辺は経由するな。新田に捕まる」
「あなたはここで、彼女を足止めすると?」
「最後までフォローできなくて申し訳ないが、当初より“あんなもの”の相手は契約には入っていないだろう。これでイーブン、とは行かないか?」
「それは構いませんが――龍宮さんも、無理に長瀬さんと喧嘩をする必要は無いのでは? あなたが今の彼女にいらだって、つい彼女を焚きつけるような事を言ってしまったというのなら――逆に、彼女を落ち着かせる事も出来なくは無いでしょう」

 自分を廊下の向こうへと押しやろうとする真名に、あやかは言う。内心、これは何の戦争映画だと、頭を抱えたくなるのを必死で堪えながら。

「まあ――ここでフォローの一つでも入れておかんとな。楓もあれでは、我に返った後に悶え転がる事になるだろうに――ま、その辺りの事は那波か犬塚にでも任せておけば良いとして」

 まだ何かを言いたげなあやかの背中を押して、真名は残された武器――楓から先ほど投擲された枕と、あやかが残していったそれを回収する。相手は先ほどこの枕を投げてきたのだから、現時点では丸腰であるはずだ。もっともそれならそれで、こちらの持っている枕までを“武器”として使ってくるくらいの事はするだろうが。
 しかし、長距離の攻撃だけは無くなったと見て良い――真名は、小さく息を吸い、廊下の角から歩み出る。十数メートルほど離れた場所に、長身の少女の姿。今更ながらに己の軽口を後悔して、真名は小さくため息をつく。

(ま……たまにはこういう、底抜けの馬鹿をやってみるのも悪くはないさ)

 彼女は内心で呟いて、自分を納得させようとする。どのみち、大して危険があるわけではないし、あやかからは報酬として餡蜜代が入ってくる。
あやかがケイを狙うことはまずあり得ない。それは楓も分かっているだろうから、とりあえず彼女の意識は、目の前に立つ自分のみに向けられているのだろう。ならばこれはこれで、一応は依頼を果たした格好にはなる。

「はてさて――真名、一つ聞いても良かろうか?」
「……何かな?」

 前髪に表情を隠した楓の問いに、真名は小首を傾げてみせる。

「真名とケイ殿は、ほとんど面識などあるまいに――どうしてこんな馬鹿げたゲームに? お主は男の見てくれにうつつを抜かすような、尻の軽い女ではあるまいに」
「言葉がいちいち大げさというか棘があるぞ。委員長の付き合いと――それに何だか、お前に好き勝手言われるのも癪に障ったと、それだけの話だ。自分でも割に合わないとは思っているがね」

 小さく、楓の肩が動いたのを、彼女は見逃さない。
 この後に何と言葉を継ぐか――それ次第で、この後の結末が変わってくる。
 彼女が逡巡したのはほんの一瞬。そして彼女は、口を開く。

「それに彼は、私に対して“かわいい”だなんて、嬉しい事を言ってくれたしね」

 ああ、と、思ったときにはもう遅い。
 またしても真名は、自分の喉から、そんな無責任な言葉が滑り落ちてしまったことを――まるで他人事のように感じていた。




 同時刻。ホテル嵐山客室通路某所。
 自室に戻ろうとしていたタマモは、部屋のドアの前に誰かが立っている事に気がついた。訝しみながら近づいて見れば、それがホテルの浴衣に身を包んだ、一人の小柄な少女であることに気がつく。いつもは側頭部でひとまとめにしてある頭髪を下ろし、がらりと違う印象を見せる彼女の名は、桜咲刹那。
 自称近衛木乃香の護衛であり、京都に古くから伝わるという“神鳴流”という、化け物退治を専門としてきた特殊な剣術の使い手。
 タマモが彼女について知っていることと言えば、それくらいのことである。彼女が何かしら、腹に抱えているものがあることには気がついているが、本人が言おうとしていないことだ。わざわざこちらから何かを聞こうとは思わない。

「こんな時間に何か用?」

 自身のつま先を見下ろすように、うつむき加減に立っていた彼女は、そこでようやくタマモに気がついたのだろう。弾かれたように顔を上げ――ややあって、おそるおそる、と言った風に、頭を下げる。

「そう固くならなくても良いわよ。それで――何か、私に用かしら? それとも、ケイに? あいつに話があるって言うなら、おあいにく様だけれど」
「? 藪守さんに、何かあったんですか?」
「あったというか、何というか――その、陽動も兼ねてさ、あんたらのクラス主催の馬鹿騒ぎの中に、ちょいと放り込んできたんだけど」
「……」

 刹那は呆れたように、タマモの顔を見る。むろん、自分とて、何の考えも無しにケイを騒ぎの渦中に投げ込んだわけではないが――それでも彼女の目を見ていると、何だかいたたまれない気分になってくる。千道タマモという女性は、基本的には真面目な人間が苦手なのだ。

「ま、まあ、そのうち帰ってくると思うから――あいつに用があるなら、中に入ってお茶でもどう? こんなところで立ちっぱなしってのも、アレでしょ」
「い、いえ――千道さんでも構わないんですけど」
「私でも? んー……まあ、良くわかんないけど、とりあえず入りなさいな」

 今ひとつ要領を得ないタマモは、刹那を部屋へと導き入れる。夕食を済ませた後なので、部屋には既に、ホテルの従業員の手によって布団が敷かれている。タマモがそれを避けて、部屋の奥に備え付けてあるテーブルにポットを持って行く間――少しだけ間を空けて敷かれた二組の布団を、刹那はじっと見つめていた。

「どうかした?」
「あ、い、いえ――千道さんと藪守さんは、恋人同士なんですか?」
「は? ――ああ……何だ、安心したわ」

 その言葉を聞いて、タマモは一瞬あっけにとられたような表情を浮かべ――ややあって、おかしそうに笑う。

「何だかんだ言って、あんたもちゃんと女子中学生なのね? やっぱりそう言うことに興味あるんだ」
「い、いえっ! べ、別にそういうわけじゃっ……!」
「ああ、別に良いのよ。あんたをからかって楽しもうって訳じゃないし――あの馬鹿に比べたら、あんたの妄想なんて、妄想と言うのにも足りないわ」
「だ、だから――」
「単純に疑問に答えるとね――私とケイが恋人同士? 笑えるジョークね、それ。何て言うかつまり――自分の弟と同じ部屋に泊まるのは、おかしな事かしら?」

 タマモの言葉に、刹那は小さく息を吐く。その吐息の意味するところがおかしくて――タマモはまた、声を殺して笑った。
 彼女が刹那に言うには、ケイが刹那よりも年下の頃から、彼女は彼の事を知っているという。だから、彼女の中では、かの青年は弟のようなものなのだとか。ここ何年かで無駄に体ばっかり大きくなって――と、年寄りじみた事を言いつつ、タマモはポットのお湯を急須に注ぐ。
 そう、年寄りじみた――彼の事を昔から知っているなどと、そんな言葉は、目の前の少女にはあまりにそぐわないものである。刹那が見るに、今の彼女はどう見ても、自分たちと同年代――ケイよりも年上であるようには思えない。
 しかし、刹那は、それが本当の彼女の姿ではない事を知っている。妖艶な大人の色気を持った美女――その姿を、彼女は見ているのだ。
 あの姿は一体何だったのだろうか? いや――この姿こそが何なのだと、そう言うべきだろうか? 刹那は一礼して、タマモから湯飲みを受け取ったが、喉の奥から言葉が出てこなかった。
 自分でも、彼女に何を伝えたいのか、その結果、自分は何を求めているのか――それがわからない。何せ――自分と彼女らは“違う”のだ。そうでなければ――

「……どうしても、疑問に応えて欲しい?」
「え?」

 タマモの言葉に、刹那は顔を上げる。彼女は苦笑し――胸元の辺りを押さえながら言う。

「私のこの姿が気になって仕方ない。そうでしょ?」
「――で、ですが、しかし――」
「いいわよ別に。まあ、あちらこちらに吹聴したい話じゃないにせよ――ずっとそんな顔されたまんまじゃ、気になって仕方ないもの。ああ、私が勝手に気になってるだけだからね、それを理由に気に病むんじゃないわよ?」
「……」

 彼女は小さく息を吐き――そして、言った。
 “こんな事は大したことではない”――そんな調子で、彼女は言った。

「私ね、妖狐なのよ。あんたゴースト・スイーパーじゃないけど、その道の何かなんでしょ? 知ってると思うけど、狐の妖怪。わかる?」
「――ッ!?」
「ついでだから言っておくけど、ケイの奴は化け猫よ。多分――いや――何というか、最近私もちょっと自信なくなってきてるけど。だってそうでしょ、あいつ年々野生を無くしていくって言うか――あれが、化け猫――うん、一応、化け猫の、筈」
「……」
「んで、シロの奴は人狼ね? 狼人間。あとは――まあ、あれだわ。横島は自分の事を生まれついての人間だって言ってるけど、私は未だにそれを疑ってんのよね。あんな妖怪よりも化け物じみた人間が、そうそう居てたまるかって――」

 刹那の手が、テーブルを叩いた。その小さな手のひらが立てた大きな音に、タマモは思わず、湯飲みを持ったまま、面食らったような表情で動きを止める。

「な、何――どったの? 何か気にくわないことでも言った? ええと――あ! あんたもしかして、私が狐だからって寄生虫の類とか気にしてんの!? 失礼しちゃうわね。馬鹿犬はどうだかしらないけど、私はね――」
「ふざけないでください!!」
「――いや、ホントに寄生虫――」
「なんでっ――そんな――なんで、何であなたは、そんなに――ッ!」

 刹那の特徴的な――凛々しいと言うことも出来るだろう、つり目がちの目には、薄く涙が浮かんでいた。タマモは何が何だか分からないその迫力に圧倒され――思わず言葉を飲み込み、喉を鳴らす。

「えっと――あんた、狐は嫌い?」
「――」

 あるいは個人的な好き嫌いの問題なのだろうかと――彼女は軽い調子で言ってみるが、帰ってきたのは沈黙だった。いや、沈黙ではない。とても嫌な音がした。強く噛みしめられた少女の歯が立てた、とても嫌な音が。
 タマモは暫く、居心地が悪そうに視線を宙にさまよわせ――ややあって、小さく頬をかく真似をしながら、歯切れ悪く言う。

「――もしかしたら――もしかしたら、だけどさ――あんたひょっとして、気にしてるの? 私らが――“人間じゃない”事をさ」
「!!」

 その言葉が何かの引き金だったのだろうか。刹那は、竹で編まれた椅子を倒して立ち上がる。タマモは、湯飲みを中途半端に持ち上げたまま――そんな彼女を見守るしかない。今の自分には、それしか出来そうになかった。
 血が滲むほどに拳を握りしめ、唇を噛みしめ、小さな肩が細かく震え――何かしら、彼女にかけてやる言葉はあったのかも知れない。けれど基本的に、良くも悪くも気楽に生きてきた自分には、今の彼女にかける言葉が見つからない。タマモはそう思った。
 彼女は、自分の事を理解できていない。ともすれば、千道タマモという人間のあり方が理解できないから、彼女の心は爆発したのだろう。全く理解の外側にある人間の言葉など、知らない外国の言葉よりも受け止めがたい――なまじ意味だけは通じるだけに、それよりもたちが悪い。
 だからタマモは、今の彼女には何を言っても無駄だと悟ってしまった。
 そして――相手が自分を理解できないと言うことは、恐らく自分もまた、彼女を理解する事は出来ないのだろう。この、桜咲刹那という、何とも雅な名前を持つ少女の事は。

「……すいません、急に、こんな――」
「あー……うん、まあ、気にしないわ。大丈夫?」

 暫くの間の後、小さく頭を下げた刹那に、タマモはようやく湯飲みをテーブルの上に戻し、遠慮がちに声を掛ける。

「はい――でも、私は――これで、失礼させてもらいます」
「いいの?」
「自分からやって来ておいて――態度が悪すぎる事は、十分に承知しています。けれど――今は、これ以上は――自分の気持ちが、押さえられそうにありません」
「……そう。送っていこうかしら?」
「お気遣いはありがたく頂戴いたしますが――遠慮します」

 倒れた椅子を直し、タマモに一礼して、刹那は部屋の外に出て行く。
 一人部屋の奥に残されたタマモは、肺の中身が全て無くなるほどに、深く息を吐き――すっかりぬるくなり、苦くなってしまったお茶に口を付ける。

「……苦手なのよねえ、ああいうタイプ――どうしたもんだか。シロに何か言っておくべきかしら?」

 ただ苦く、生暖かい液体が、喉を滑り落ちていく感覚は、あまり気持ちの良いものではない。
 どうせ今夜、敵が大きく動く事はあるまい。多少頼りないが、自分以外にも味方はいる――いっそのこと、酒でも飲んで寝てしまおうかと、タマモは部屋に備え付けの冷蔵庫を開く。
 ホテルによくある販売用の冷蔵庫――プラスチックに区切られた、多少値段の張る飲み物の中から、彼女は缶ビールを取りだした。気分が乗らないときに飲む酒など、あまり美味いものではないが――そうと知りつつも、プルタブに指をかけたところで――廊下の方で、もの凄い音がした。

「……何だって言うの」

 直感に訴えかけるものはない。恐らく、敵の襲撃云々という大層なものではなく――自分も軽い気持ちで火薬を投げ込んだ、“馬鹿騒ぎ”の類なのだろうが。
 タマモはしばらく、缶ビールのプルタブに指をかけたままじっとしていたが――疲れたような吐息と共に、缶をテーブルの上に置き、部屋のドアへと向かう。
 果たしてドアを開けた彼女は――同じような言葉を、もう一度繰り返した。

「……何なのよ、このカオス」

 混沌と呼ぶに相応しい光景が、そこには広がっていた。
 部屋の出口すぐのところに、小麦色の肌の小柄な少女がひっくり返っている。かなり離れたところには、同じような肌の色を持つ長身の少女が呆然と立っている。
 その中間地点――タマモから見れば少し離れたところに尻餅をついているのは、さっき部屋から出て行った筈の刹那である。
 そして、彼女が見上げる先には、長身の青年と、同じく長身の少女。藪守ケイと、長瀬楓――なのであるが。

「……誰でも良いから、この状況、説明してくんない?」

 どういう経緯で、ケイと楓はこういう状況に至ったのであろうか?
 つまりは――楓がケイの襟首を両手で掴んで彼を壁に押しつけ――もはやそれを“キス”と呼ぶのが憚られる程に強く、彼と唇を重ねている――この状況は。










古菲さんの台詞「さあいくわよ――」は、
漫画「ブラック・ラグーン」の殺し屋、「ですだよ姉ちゃん」こと、
シェンホアさんから頂きました。

「似非中国人口調」に左右されない古菲さん像を描いてみると、
一線を越えていないだけで、意外とこの二人が似ているような気がしてきた、今日この頃。



[7033] 三年A組のポートレート・混沌の中にあったもの
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/01/31 03:04
 必要だったのは、きっと勇気の類。
 恋をするのは素敵なことだ。愛することは素晴らしいことだ。
 それに勇気が必要なのは、拒絶されるのが怖いからじゃない。むろん、捨てられるのが怖いからでもない。
 そこにあるのは、日常の中に明確に引かれた、一本のライン。
 素敵なはずのその気持ちを踏み越えてしまったら、僕らはもう、昨日までの自分ではいられない。昨日までの自分には、決して戻れないのだ。




「ええ……何と言いますか。私――龍宮真名はですね、その――色々と濃い幼少時代を過ごしてきた経験を生かしまして、麻帆良でまあ、警備員のような仕事を。つまりこの騒ぎには、小遣い稼ぎと思って参加した次第でして、この場で起こった事には何の責任も」
「コラ、真名、何一人だけ逃げようとしてるアルか。真名が委員長の護衛だた、言うならネ、真名が楓に追っかけられる意味、わかんないアルよ。委員長が藪守サン狙う訳、無いアル」
「普段は馬鹿イエローの名を甘んじて受けている割に、こういうときだけ妙に頭の回転が良くなるのは困ったものだな――時に刹那、お前がどうしてここにいる?」
「……少なくとも、お前のように馬鹿騒ぎに混じっていたわけではない。悪いが――言いたくない。言う必要もない」
「とはいえ――最後の引き金を引いたのはお前だろう?」
「何でそうなる!? ああいうのは不可抗力と言うんだ――と言うか、私だって泣きたい気分だよ!!」

 麻帆良学園本校女子中等部、三年A組が宿泊するホテル――ホテル嵐山。
 その片隅に、突然現れた“混沌”よりおおよそ十数分後。その場所には、かのクラスで“武道四天王”と言う渾名で呼ばれている少女達が勢揃いしていた。つまり千道タマモと藪守ケイが宿泊するその客室には、龍宮真名、古菲、桜咲刹那、長瀬楓の四人が揃い踏みしているというわけであるが――長瀬楓をのぞく三人の少女達は、床に敷かれた布団の上に正座をして、小声で何事か喋りながら、お互いを肘で突いていた。
 楓はと言えば、部屋の奥の安楽椅子に、一人腰掛けている。ただし彼女は椅子を限界まで倒し、顔の上半分にタオルを載せて天井を仰いでいるために、その表情を伺うことは出来ない。ただぐったりと脱力し、口を半分開いたまま微動だにしないその様子は、もはや死んでいるようにさえ感じられる。
 何故だろうか――そう、今の彼女からは、生気というものがまるで感じられなかった。
 それはさしずめ――物体が激しく燃え上がった後に、むなしく残る灰。
 そんな彼女を横目で見つつ、正座をして一列に並ぶ少女達の前で、ため息混じりにタマモが言う。

「まあ要するに、馬鹿やった結果が馬鹿を見たと、そう言う事ね?」

 半分ほど残ったビールの缶を揺らしてみれば、気の抜けた水音がする。先ほどからその量は減っていない。もういくらもしないうちに、炭酸が抜けて生ぬるい、ただの苦いだけの液体に成り果てるだろうが――これ以上それをあおってみようかという気には、彼女はなれなかった。
 それは恐らく、この頭の芯に残るような鈍痛が原因なのだろう。
 つまり――少し前に、廊下で起こった馬鹿げた喜劇の。

「……泣きたい気分――か。いや、ごめん――ほんとにごめんね。不可抗力って言葉は、言い訳にはならないと思ってる――」
「え? あ、い、いやっ――その、藪守さんが嫌いだとかそう言うことを言ってるんじゃないんです! だ、大体私、藪守さんの事は全然知らないわけで、その――」
「ふ、ふふ……そうでござるよ。刹那が謝る必要など何処にもない――朝倉殿やら真名やらに乗せられて、前が見えなくなっていた拙者が一人、大馬鹿者であると」
「……あんたらは黙って死んでなさい。これ以上、話をややこしくしようとするんじゃないわよ」

 タマモは、肺の底から空気を全て絞り出したかのような、深いため息をつく。安楽椅子に身を任せて真っ白な灰と化している少女と、長身を窮屈そうに屈めて、部屋の隅で膝を抱えている青年を、なるべく視界に入れないようにしながら。
 結局のところ――ことは、タマモが言った一言に集約される。
 馬鹿をやった結果、馬鹿を見た。それだけの話だ。このイベントの性格を考えてみれば、何もおかしな事ではない。
 この混沌とした状況は、只の偶然、成り行きである。
 古菲に追われて逃亡してきたケイが、タマモとの話を打ち切って部屋から出てきた刹那とぶつかった。咄嗟に彼女をかばって、古菲をはじき飛ばしたケイだったが、そこに現れたのが、龍宮真名と、彼女を追ってきた楓である。
 彼女たちが見たものと言えば――ひっくり返った古菲と、仰向けに倒れ込んだケイ、それに覆い被さるような体勢の刹那――そしてケイと古菲はもとより、もつれ込んで転がった刹那も含めて、三人の浴衣は大いに乱れていた。
 早い話――何も知らない者が見れば、刹那がケイを押し倒しているように見えたかも知れない。
 彼女もまた、朝倉和美主催のこの馬鹿げたゲームに乗り、状況すら全く飲み込めていないケイの唇を奪おうとしているのではと――
 もっとも言うまでもなく、刹那がこのようなゲームに名乗りを上げるような性格なのかどうか、そしてケイが彼女になすすべ無く押さえ込まれる程度の男なのかどうか。何よりも、すぐ側にひっくり返る古菲が意味するものは何なのか――“何も知らない者”であっても、この状況は“混沌”と言うほかに無いものであっただろう。タマモがそうであったように。
 混沌、しかしそれ以上でもそれ以下でもなく、ましてや――
 ともかく楓の中で何がどう繋がったのか、彼女はケイの上に乗る刹那などまるで気にせず、彼の胸ぐらを掴んで引っ張り起こし――そのまま彼と、唇を重ねた。その行動が、自分の何処から沸いて出たものなのか、彼女自身わからないまま。そして――

「もうめんどくさいったらありゃしないから、この際ストレートに聞くけどさ、そこのノッポの“シンデレラ”。あんたは、この馬鹿猫の事が好きなわけ?」

 布団に腰を下ろし、ため息混じりに投げかけられた言葉に――“燃え尽きていた死体”、つまりはシンデレラ(燃えがら)と言えなくもないその物体の肩が、ぴくりと動く。
 その腕までもが動きそうになったものの――結局その物体は、沈黙を守り通した。
 肩をすくめて女子中学生三人に目線を戻してみれば――何故か彼女たちは、揃って視線をタマモから外して、あてどもなく彷徨わせた。

「ちょっと、タマモさん、そんな――」

 途端、部屋の隅の“物体”から上がる抗議を、彼女はそちらに冷たい視線を向けるだけで制して見せた。

「あんたは黙ってなさいな。別にどっちでも構わないんだけどね。うん――私には関係の無いことだし、頭の中身が中学生レベルのこの男と、正真正銘の女子中学生――何処ぞの青春ドラマみたく、悶え転がるようなむず痒いことをやってくれたって、別に構いやしないんだけど――」

 タマモは音を立てて、ビールの缶を、部屋の隅に寄せられていたテーブルの上に置く。

「生憎とそれは仕事には関係ないわけで」

 自分もこの悪のりの一端を担っておいて何だが――と、タマモは小さくため息をつく。
 ケイと楓の関係に興味はない――いや、己の知る何処かの誰か、その再来とまで言われた朴念仁であるこの愚弟に、憎からず思う相手が出来たとなると、色々な意味で思うところはある。普段ならばこのような状況、楽しまずにいられるわけがない。
 けれど――まさに今、自分たちが引き受けている仕事を考えれば、そうも行かない。
 確かに、目の前の少女達が、ある程度の馬鹿騒ぎをしてくれている方が、タマモとしてはありがたい。だからそれこそ、ケイをダシにして騒ぎを大きくしようと、“軽い悪戯”をやってみたりもした。
 けれど――果たしてその結果、その彼が部屋の隅にうずくまっているようでは、本末転倒である。
 大体どうしてこのような状況が起きたのか、タマモにはわからない。
 このゲームの目標は、あくまでも少女達の担任、少年教師のネギ・スプリングフィールドとのキスであったはずだ。かの青年をダシに騒ぎを大きくしたところで、彼自身が少女達に付け狙われる理由がわからない――と、そこまで考えたところで、言いにくそうに長身の少女、龍宮真名が、それは自分のせいだ、と、口にした。

「いやその――旅は道連れ何とやら、と言いますか――餡蜜に釣られたとはいえ、私はもともとこういうゲームはあまり好きじゃない。何というかこう、煮え切らない気持ちを抱えていたところ、藪守さんの姿を見つけて――」
「魔が差した、と」
「申し訳ない」
「まあいいけど。謝る程の事じゃないし――とにかくあんたらは部屋に戻りなさいな。私は別にあんたらを説教しようって気はないし、出来るような人間でもないし。旅先で悪のりするくらい、若いんだから仕方ないでしょ」
「千道さんに言われると、説得力無いアル」

 同じ年頃――真名や楓と比べれば年下に見えてしまう今のタマモに、その様なことを言われるのは思うところがあったのか。口をとがらせて小さく言った古菲に、彼女は苦笑を浮かべる。
 実際に、彼女の言い分は正しい。
 見た目のことや年齢のことはともかくとして、本来、千道タマモという人間はもっと“いい加減”なのだ。それが彼女の元来の性格なのか、はたまた彼女の上司の影響なのか――それはわからないけれども。
 悪のりが過ぎて仕事に差し障るのが迷惑だ、と言うのはもちろん本音である。けれど、所詮ケイは未だ見習いの身であり、楓はエヴァンジェリンらには戦力として数えられているが、当然彼女らの仕事とは関係ない部外者である。
 いや、それすらも関係ない。タマモは理屈で物事や損得を考える事自体が好きではない。そう言うことを考えるのが“面倒臭い”のだ。「仕事に差し障るから云々」など、単なる言い訳――それ以下でしかない。彼女の本心は、そんなことを考えては居ない。
 ケイと楓がどんな“中学生日記”を展開したところで、自分が何をするかと言えば、生暖かい目でそれを見守る事のみ。たまにはそれを自分の娯楽にしてしまうかも知れないが――少女達から状況を聞き出して、“仕事のため”に釘を刺しておくなどと、そんな面倒なことを、どうしてやるものか。

(何て言うか……結局私も、あの事務所の人間だってことか)

 業界に燦然と輝くネームバリューと、その評判に相応しいだけの実力を持つ“美神令子除霊事務所”。金を積めばどんな依頼も遂行する、ただそれだけの、徹底した合理主義的な場所のように思われる事もある、その場所の内情と言えば――
 タマモは薄く細めた瞳を、目の前でしびれた脚をほぐしつつ立ち上がろうとしている少女達に向ける――いや、小さく息を吐いて、浴衣の襟と裾を整えている小柄な少女、桜咲刹那に。

「……ああ……面倒くせえ」

 自然と口からこぼれた乱暴な言葉に、三人の少女と“二つの物体”の体が、小さく震えたような気がしたが、彼女はもちろん、そんなことは気にしない。
 ふと、部屋のドアがノックされた。

「開いてるわよ」

 タマモの言葉に、開かれたドアの向こうから表れたのは、柔らかな笑みを浮かべた、一人の少女。

「こんばんは――連絡を受けて、うちの忍者を一人、回収に参りました」

 三年A組出席番号二十二番、那波千鶴――その人であった。




「最初は――面白い人だなって、思ったんだ……」
「そうね――私はよく知らないけれど、確かに彼は面白い人だと思うわ」
「拙者――“私”は田舎育ちの世間知らずだし、それを気に掛けた親の意向で、中学校からは麻帆良に通っているけれど――うちは女子校だから、正直なところ、男の人はちょっと苦手」
「けれど、彼はそうではなかったと?」
「出会い方は最悪だったのに。自分でも不思議に思ったことはある。けれど気がつけば、あの人が側に居ることが自然になっていた。犬塚殿に聞いたことがある――“彼ら”は、自然に人の心の内側に入ってくるんだって」
「ふうん……かくいう犬塚さんも、そういう感じだものね」
「私は――そんな不思議な空気に飲まれてるだけなのかな? いい人だってのは、すぐに分かった。危ないところを助けられた事もある――だから、私は」

 からん、と、グラスの中で、溶けた氷が小さな音を立てた。
 見れば、目の前に座る彼女――那波千鶴が、グラスの縁に指を滑らせている。耳の奥に響くような不思議な音が、僅かに響き、グラスに注がれた液体に、細かなさざ波が立つ。

「楓ちゃんは、運命の出会いって、信じる?」
「――何を持って運命というかなんて、わからない。でも――一人の女の子としては、そう言うのがあるって夢を見たい」
「私もそうだって言ったら、信じる?」
「那波殿は――ごめん、正直、そういうのを子供っぽいって切り捨てると思ってた」
「失礼しちゃうわね」

 目の前の彼女に倣って、楓は自分の前に置かれたグラスを傾けてみる。形容しがたい香りが、口と鼻を一杯に満たし――冷たく冷やされた筈の液体が、灼熱の感覚となって喉を灼く。そのあまりの刺激に、彼女は思わず咳き込んでしまう。

「うふふ――楓ちゃんには、ちょっと早かったかな?」
「……那波殿、私たち――同い年だよね?」
「ええもちろん。正真正銘――年齢詐称なんて言ったら、それなりの制裁処置を考えてるから、気をつけてね?」

 そうは言われても、妙に洗練された仕草でグラスを傾ける彼女を見るに――楓も体つきなどを指して、よく中学生には見えないと言われるが――もちろん見た目もそうなのだが、目の前の彼女からは、何か根本的な“違い”のようなものを感じてしまう。

「だったら、藪守さんが、楓ちゃんにとって運命の人だったって――そう考えても面白いんじゃない?」
「面白い、って――だから、私は自分の気持ちに整理が付かないんだ。ケイ殿の事は――好きだと、思う。けどそれはたまたま、妙な出会いをした彼が、私に一番近い異性だってだけかも知れない。“吊り橋効果”って奴も――」
「それならそれでいいじゃない」
「え?」
「私は運命の出会いは信じるけど、その“出会い方”や“相手”までが、おとぎ話じみたものだなんて思わない。運命の王子様は白馬に乗って現れるわけでもなかろうし、毒リンゴを囓って倒れた私を助けてくれる訳でもないと思う。ある日突然に私の前に現れて、その人がそうだと気がつかない間に、私は恋に落ちる――そんな気がする」

 そう、と、千鶴は小さく言った。

「そう言う言い方をすれば――結局楓ちゃんの悩みは解決しないままかも知れない。でも、結局誰かを好きになる事に理由なんて無いし、楓ちゃんはそこに理由を求めたいの? 出会ったばかりの人を好きになる事だって珍しくもないし、どれだけ優しくされても、嫌いなままの人だっているかも知れない。私たちはただの女の子で――ただの女の子は、理屈で動いてる訳じゃない。このもやもやした気持ちも、楓ちゃんがちゃんと女の子として生きてる証拠――そうは、思わない?」
「そう――言われても」
「それじゃ藪守さんが、フェイちゃんや真名の運命の人だったって言っても、それでも構わないの?」

 逡巡は、ほんの一瞬。僅かに目を見開いた楓は――小さく、しかしハッキリと、首を横に振った。

「楓ちゃんは、自分の中のその気持ちがわからない。ハッキリ自覚するのが怖いのかも知れない。でも――その気持ちを、大切に育ててみたら良いんじゃないかな? 今日みたいに、その気持ちに振り回されて悶える事があるかも知れない。でも、その気持ちがあるだけで、乗り切れる事だってあるかも知れない。その気持ちが――あなたが生きる支えに、なるかも知れない」
「なんか――うまく乗せられてるような気が」
「そう? それじゃ今までの話を全部取り消して、もう一度部屋の中を転げ回ってみる?」
「う……那波殿の、意地悪」
「ふふ――それじゃ、まあ」

 千鶴は、だいぶ嵩の減っていたグラスに、ボトルから新たに琥珀色の液体をつぎ足し――楓の前に置かれたグラスに、軽く触れ合わせた。

「友人の恋路に――乾杯」
「……もう」
「ふふ――自動販売機で買った安物のお酒だって言うのがアレだけど――悪くはないわ」

 楓はもう一度、おそるおそるグラスを傾ける。むせかえる程に口の中に満ちたその匂いは――彼女にとってはまだ激しすぎるものだったけれども、何故かそれでも、不快なものだとは、思わなかった。




「……ねー、犬塚さん」
「何で御座ろうか」
「ちづ姉と長瀬さん――どうしようか」
「それは拙者に問われても」
「長瀬さんと仲いいじゃん。しゃべり方も似たような――今の長瀬さん見たら、どっちが“素”なのかわかんなくなってきたけど」
「そう言う夏美殿こそ、那波殿と寮では同室なので御座ろう? 言っては何で御座るが――拙者どうにも、こういう時の那波殿は苦手で御座る」
「……」
「……」
「――私たち、何処で寝たら良いの?」
「――最悪、何処か別の班の部屋か、それともタマモのところにでも押しかけて」
「ただいまー……いや、凄いことになっちゃったね――って、何でシロちゃんと村上、部屋の外でしゃがみ込んでるわけ?」

 部屋の中で繰り広げられる、少し前のそれとはベクトルの違う混沌――それに耐えかねて逃げ出していたシロと夏美であったが――そこに響いた暢気な声に、二人のこめかみが同じように痛む。血管の一つくらい浮いているのでは無かろうかと、シロは思った。

「……何、どったの――ひょっとして楓、そんなに落ち込んでるの?」
「ご自分の目で確かめるで御座るか?」
「そうすりゃ一目瞭然よ。和美の命の保証まではしないけど」
「ちょ、ちょっと――提案したのは真名だよ!? タマモさんだって、シロちゃんだって納得したじゃない! あたしはあくまで、ネギ先生のために馬鹿騒ぎを――ちょ、ちょっと待って! 話せばわかる! 話せばわかるから!!」
『問答無用!!』

「……何をやっているんですの、あなた方は」

 ややあって、新田とネギが離れてくれなかった為に、行動が空振りに終わり――ため息混じりに帰還したあやかが見たものは――浴衣が乱れて半裸状態で廊下に突っ伏し、僅かに痙攣を繰り返す和美と――彼女の脇で、妙に清々しい顔で額の汗を拭く、シロと夏美の姿だった。
 結局彼女たちの混沌は、千鶴がいつも通りの笑顔を浮かべ、楓が寝てしまったと告げるまで、今暫く続く事になる。




「全くあいつらは何を考えとるんだ――またろくでもない事なのは間違いないが」
「え、えーと……さっき走っていった人は、実は僕も知っている人なんです。何で古菲さんと走り回っていたのかは知らないけれど――ええと、その」

 こめかみの辺りを押さえながら、新田はため息混じりに言った。ネギはどうにかフォローを入れようとするものの、何の理由で古菲がケイを追い回していたか、そして何故夕映が天窓からこちらを覗き込んでいたのかなど知るよしもない彼に、それは難しい。

「……何か言いたげですな、浅野さん」
「く、く……いえ、何も――くく」

 あまりに唐突に起こった出来事に唖然としていた浅野であったが、新田に視線を向けられた彼は今――どうやら笑いを堪えるのに必死であるようだった。ふと、ネギは思う。この人はちゃんと笑うのだ、と。出会ったときから何処か機械的で、仕事の事以外はほとんど口にしない彼であったから、その仕草はネギにとって意外なものであった。

「申し訳ない――ですが、何とも楽しそうな学校ですね。そう言えば私が中学生時分の時などは――ああ、懐かしき青春の日々を、と言う奴ですか」
「どう思おうと勝手ですが――うちの子らは、良くも悪くも一般常識とかけ離れた部分が多い。浅野さんがどれほどやんちゃな少年時代を送ったのかは知りませんが――」

 鼻息も荒く、新田はソファに腰掛ける。
 三年A組の少女達が騒いでいる理由はわからない。彼は入浴後ずっと、ここで新田、浅野と話をしていたのだから、責められる理由も無いのだが――それでも彼は、彼女らの“担任”である。新田の様子を見れば、心中穏やかではいられない。
 しかし浅野は楽しげな様子のままソファに腰掛け――悪戯めいた調子で、新田に言う。

「その割には、らしくないですね、新田先生」
「――どういう意味ですかな?」
「さっきの子を追って行くなり、他の教師に連絡を入れて部屋の見回りをするなり――そう言うことはなさらないのですか?」
「……黙って言うことを聞くような連中ではありませんからな。頭ごなしに言ったところで――」

 疲れたようにそこまで言って――新田は、笑みを浮かべた浅野の顔を見上げ、自身もまた笑みを浮かべる。もっともそれは、苦笑と呼べるものであったのは、言うまでも無かろうが。

「そう――どうせあれは、私が怒鳴り散らしたところで反省などせんでしょう。むしろいかにして私を出し抜くか――いえ、そんな私ですら、“楽しみの材料”とするかと。ずっと昔――もはやカビの生えた記憶の中にしか残っておらん、幼い頃の私がそうだったようにね」
「ほほう――では、新田先生も?」
「そりゃあ浅野さん――十代の、目に見えるものが全て新鮮に見えるあの年頃の子供らに、まさしく非日常と言える旅先での夜に――“消灯時間にはちゃんと寝ましょう”などと言って、それが通じるとでも? ネギ先生もどうか楽にしてください。先生の指導力云々の問題ではない――理屈ではないのですよ。遊びたい盛りの子供達の、その“遊びたい”という感情が、いずこから湧いて出るのかなど、ね」
「は、はあ――でも」

 ネギの言葉の後を取り、浅野が肩をすくめてみせる。

「しかしだからといって何もしないのは、教師としていかがなものですか? それを良いことに生徒が羽目を外すとなれば、新田先生としても示しが付かんでしょう」
「大した事にはなりませんよ。何となれば、今から廊下をかけずり回って、見つけた奴を片っ端からロビーに並べて正座させる――などと考えても見たのですが。よくよく考えれば、今このホテルは、昨晩の霊障騒ぎのせいで、優秀な警備会社に守られている」

 そう言って、新田は浅野に視線を向けてみせる。
 修学旅行には、規律が必要である。それがなければ、学生達は、学業の一環である筈の修学旅行を、単なる遊びと勘違いするだろう。当然であるが、遊びにそんな規律は一切無い。何処へ行って何をしようが当人の自由であり――その結果被る損害もまた、自分で責任を取らねばならない。
 果たしてそれが、中学三年生の少女達にとって重すぎるものであったとしても、また当然に――である。
 だから自分たちは、その“歯止め”をしなくてはならない。
 さりとて、わずか数人の教師陣で、数十人からなる生徒達を統率し切れる筈もなく――結局教師の目を盗んで、彼女たちは遊び回ろうとするだろう。

「教師の言葉ではありませんがな――私個人として言わせて貰いましょう。修学旅行とは――“だが、それがいい”」

 修学旅行のこのような場面で、教師など、最悪の事態を避けるための布石であればいい。けれど、それを堂々と生徒に対して告げるわけにはいかない。口うるさい注意を繰り返し、厳しすぎる規律で生徒を縛ろうとする教師でなければ――

「そういう“やかましくて鬱陶しい教師”でなければ、修学旅行は楽しめない――そうは思いませんかな、浅野さん」
「やれやれ、生徒が生徒なら、教師も教師だ。新田先生――私はあなたの事を、誤解していたのかも知れませんね」
「どういう誤解であるのか、それを聞いても構いませんかな」
「それはもちろん構いませんが――聞くまでも無いでしょう?」

 そう言ってスーツ姿の青年と、壮年の教師は笑い合う。
 彼らの中に通じる何かが一体何なのか――あまりに幼すぎてわからないネギは、それを呆然と見つめるしかない。
 そんな様子に気がついたのか――ややあって新田が、ネギに言う。

「ネギ先生――ネギ先生には、私たちがどうしてこうも楽しそうなのか、わからんでしょう。仕方ない――ネギ先生は、私たちが当然と経験した事を、経験しておらん。これは凡人が思う、勝手な押しつけなのかも知れんが――時には歩みを止めて、寄り道をするのも悪いことではありません」
「……新田先生、僕には――僕にはわかりません」

 ネギは言った。
 喉の奥から、絞り出すような声だった。

「敢えて聞きます。寄り道をすれば、本当に周りの景色が見えてくるのですか? 自分がどちらの方へ向かって歩いていくのか――それがわかるんですか?」
「道は自分で見つけるものだ――などと、わかったような口ぶりで誤魔化すのはよしましょう。けれど、その問いに対して明確な解答を持っている人間など、存在しない」
「それは――それはもちろん、そうだと思います。僕らは一人一人、背負っているものが違う。理想としているものが違う」

 ネギの脳裏に、おぼろげに“あの日”見た父親の姿が浮かぶ。それだけではない。学園長、エヴァンジェリン、横島――そして、今日の昼間に見た、不思議な少年の顔も。

「誰かにとっての正しいことが、他の誰かにとってもそうだとは限らない。正しい道を進んでいたつもりが、いつの間にか迷い道に填り込んでいる事もある――僕は新田先生を尊敬しています。けれど、そんな新田先生を見ていると――僕はいつもわからなくなる。僕は多分、一生掛かっても新田先生のようにはなれない。新田先生は僕が教師に向いていると言ったけれど――僕が、皆さんのために出来る事って、一体何なんでしょうか?」
「それに答える事は出来ませんな、ネギ先生。教師として目指すべきものが、私とネギ先生とではまるで違う。教師の数だけ目標や理想は存在する。仕方のないことでしょう。私たちに出来ることは、自分が正しいと思うことをする――ただそれのみ」
「ですから――もしもそれが、間違っていたら!」
「やり直せばいい――ただそれだけの話です」

 新田の口から出た言葉に、ネギは言葉を失う。
 言葉で言うのは簡単だ――だが、彼にはわかるまい。
 自分が間違いだと気づいたならば、やり直せばいい。それは当然だ。
 けれど――今はまだ、自分が間違っているのかどうか、それが分からない霧中の旅路に、ネギは立っている。
 今まで正しいと信じて生きてきた道が――突然、霧に包まれてしまった。
 純粋に“立派な魔法使い”を目指した近衛近右衛門。ただ歪な存在として生き続けることを宿命付けられたエヴァンジェリン。そして――本人は決してそんなことは言わないだろうが、ボロボロになった体を引きずり、今なお何かと戦い続けている、横島忠夫。
 彼らを見ていると。彼らが辿った道筋を見ていると――ネギはわけもなく、叫びながら駆け出したくなる。
 けれどその道は霧に包まれ――行く先もわからない。
 間違っているのなら、やり直せばいい。確かにその通りかも知れない。
 けれど、どこからが間違ったのかわからないから、何処までやり直せばいいのかもわからない。ネギの生きてきた今までの道は、シンプルな一つの道――自分を救ってくれた背中をひたすらに追ってきた道だった。
 一本道は何処まで引き返しても一本道でしかない。彼は幼すぎて、まだ分岐点にすら立っていない。
 嘘で塗り固められたネギの経歴しか知らない新田は、当然そんなことは知らないだろう。
 彼に言ってやりたい。自分の何も知らないあなたに、どうしてそんなことが言えるのかと。
 けれど、言えない。魔法使いである彼は、その正体を一般人である新田には明かせない。
 いや――それ以上に。
 そんな事を彼にぶつけることに、意味はない――そう告げる冷静な自分が、ネギの中には居る。学園長に対して、言いたくもない皮肉を言ってしまったあの時のように。そんなのは単なる八つ当たりだ、と、そう告げる自分が。

「いや――それは適当な言葉ではありませんな」

 ふと、新田は顎に手をやり――何事かを考えるような仕草をした後で、言った。

「間違えたと気がついたときには、それをやり直せばいい――そう言うべきでしょうか?」
「――?」
「何が正しいのかわからないと、ネギ先生は仰った。そして私もまた、何が正しいのかなどはわからない。絶対的な正しさなど――随分と抽象的な意味合いにはなりますが――この世には存在せんのかも知れません。では自分にとっての正しさとは何なのか。それは自分が、その事柄を正しいと思うこと、それのみです」

 しかしそれは、当然他人にとっての正しさであるとは限らない。
 人間は恐らく、現在のような知性を持ったその瞬間から、その葛藤と戦ってきた。どうにかして誰もが認める正しさを見いだそうとして――その結果としての一面が、人類の辿ってきた争いの道筋である、などと言い換える事も出来るだろう。

「しかし“ならばこそ”――間違えたと思ったときは、簡単にやり直す事が出来る。そうは思いませんかな? 正しさとは、所詮自分の物差しであり――やり直すとは、自分が納得できること、ただそれだけの事なのですから」
「それは――」

 そこまでなら“正しい”と言うことは、ネギにもわかる。
 しかし、あまりにも単純で正しいが故に、誰しもがこう反論するだろう。“そんな簡単な事ではない”と――しかし、目の前の男が、その程度の事がわかっていないとも、思えない。
 そう思っていると、新田は言った。

「むろん、ネギ先生は納得出来んでしょう。私とて、私程度の人間の一言で、君の行く手に立ちふさがる“何か”が霧散するとは思えない――しかし、君よりも無駄に、時間と経験を積み重ねてきた私だから、一つだけ言える事がある。君よりも“無駄に長く”生きた、そして“凡人”の私だからこそ」
「……」
「失敗はやり直せる。星の数ほどの失敗を犯した私が言うんだ。間違いない」

 彼は言葉を句切るように、そう言った。

「――それも只、単純で明快過ぎる言葉の一つには過ぎない――しかし、私と君の間にある最大の違いと言えば――“それ”なのだ。失敗をやり直した経験の無い人間は、失敗を“やり直せること”に、気がつかない」
「僕は何度も失敗を繰り返しました――人生経験なんて、新田先生には遠く及ばない。けれど、僕は先生が思うほど、凄い人間じゃない」
「そうですかな? まあ、天才というのは得てしてそう言うものだ。才能を持つ人間は、自分がどうして才能を持っているのかなど、気がつくはずがない――何」

 拳を握りしめ、必死に――どうしてか必死に自分に反論するネギに、彼は続ける。

「私は自分の言葉に力があるとも思っていない。だから――時折思い出すだけで結構です。今のネギ先生に必要な事――それは、正しい道を探すことでも、理想を追い求める事でもない。ゆっくりと――ただ、ゆっくりと大人になること。ただそれのみです」
「新田先生――あの、変なことを聞くと思いますが」
「何ですかな?」
「新田先生は――“魔法使い”なのですか?」

 その一言に、浅野はぎょっとしてネギを見る。魔法使いのあり方という事に対して、いくらか柔軟な思考が出来る彼ではあるが――現時点で、“魔法の秘匿”は、魔法使いとしての大前提である。それが正しいかどうかは後々わかることであろうが、少なくとも今は――罰則までもが存在するのだ。
 それをまさか、目の前の少年が――しかし果たして、浅野がどういう対応をするべきか迷っているうちに、新田はその言葉に応えた。彼はどうやら、ネギの言葉を単なる比喩と取ったらしい。
 魔法使い――即ち、常識では考えられない力を振るう、万能の人間――そう言うものであるかという問いに対して、新田は首を横に振る。

「まさか――私は何処まで行っても、ただの“教師”ですよ」




 それから後のことを、ネギは良く覚えていない。
 気がつけば新田と浅野と別れ――彼は一人、自室へと続くホテルの廊下を歩いていた。
 少女達の馬鹿騒ぎは、今はもう沈静化しているのだろうか――ホテルの廊下に人気は無く、かすかに空調の音だけが、低く響く。
 その空調の音さえも、今のネギの耳には入らない。彼の頭の中には、先ほどの会話が、何度も繰り返されていた。
 新田が言いたいこと、言いたかった事――その全ては、彼には理解できない。
 ただ、何か――言葉に出来ない何かが、自分の中で“かちり”と音を立てたような、そんな錯覚を、ネギは覚えた。

(間違えたら――やり直せばいい)

 少なくとも、それ自体は“間違い”ではない。
 ただ、いくらそう言われても、納得は出来ない。魔法使いというものの何たるかに、疑問を抱いてしまったあの時から――ネギは、今まで自分が立っていた場所が、突然消え失せてしまったかのような恐怖心に捕らわれた。
 それが間違いであるのならば――正せばいい。やり直せばいい。それは確かにそうなのだけれど――今までがむしゃらに前だけを見て歩いてきた自分にとって、その単純な行為の、何と恐ろしいことか。
 自分は一体何のために、今まで“立派な魔法使い”を――

(……)

 そこまで考えて、ネギはふと、足を止める。
 自分は何故――“立派な魔法使い”になろうと思ったのだろうか?

――俺はゴースト・スイーパーになろうとしたわけじゃねーぞ?――

 唐突に、頭の中に、白髪の青年が言った言葉がフラッシュバックする。彼は、畑違いの自分が見て尚、恐ろしいほどの才能に満ちあふれた男である。なのに――
 ネギには良く分からないが、どうやらかの青年――横島忠夫は、彼の元上司の色気に引っかかって、その業界に足を踏み入れたのだという。何ともはや、頭を抱えずには居られない動機ではあるが――

(それじゃ、横島さんの夢って、一体何だったんだろう。才能のあるゴースト・スイーパー――犬塚さんの言う“語られない勇者”――そんな肩書きに関係ない、あの人の目指したものって、何だったんだろう)

 それを真正面から問えば、またぞろ、馬鹿な回答が返ってくるのだろうが、それが――“それのみ”が、彼の本心だとは思わない。
 そう言えば、新田にしてもそうだ。彼は間違いなく立派な教師であるが――原初の彼は、一体何処に立っていたのだろうか? 一体何が、彼に今の道を歩かせる事になったのだろうか?
 今のネギが、迷い道の真ん中に立っている発端でもある、“立派な魔法使い”の姿――近衛近右衛門は、どうだろうか。彼もまた、大きな失敗と挫折を味わった人間である。しかし、遠い日の彼は、今の自分と同じ、ただ理想を夢見た若者であったに違いない。
 では――彼がそうなろうと決めた理由は、一体何なのか?
 いや、その様なことに、言葉に出来る理由など無いのかも知れない。けれど――自分は何故、“立派な魔法使い”を目指そうとしたのだったか?

――お前は才能があるから魔法使いやってんのか? リーダーシップがあるから教師やってんのか?――

 横島の言葉が、再び蘇る。
 そんなはずはない。才能や適性など、所詮“後付け”の理由である。なにをするにせよ、そう言うものにはやってみて初めて気がつく者だ。新田にせよ、近右衛門にせよ、横島にせよ――それは同じ。彼らは自分の中に眠る輝きに気がつかずに、しかしそれを開花させられる道を選んだのだ。
 ならば――ネギ・スプリングフィールドが立つ道とは、そして選ぶ道とは――

「ネギ先生」

 突然投げかけられた言葉に、ネギははっとして顔を上げる。
 自分の部屋のドアの前に、小さな人影が立っている事に、彼は気がつく。

「……宮崎さん?」

 そして彼は――自然と、彼女の名前を呼んでいた。










忙しいと、文章を書く楽しさを忘れがちになる。
いろんなものを書いて、まず自分が楽しみたいと思います。

というわけで、お知らせ。

「その他」板にて、「けいおん!」パロディ小説始めました。
仲間との複数人による企画です。

――その他板 「けみかる! 速報版(けいおん! パロディ)」――

是非覗いてみてやってください。
……いかん、いかんよ。二次創作楽しすぎる。
オリジナルの方も頑張りたいと思います。



[7033] 三年A組のポートレート・お気に入りのその場所で
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/02/06 20:02
 都内某所――見上げるばかりのビルが林立するオフィス街から、人々の暮らしが息づく住宅地へと、緩やかに景色が移り変わる、そんな場所の一角に、その店はあった。
 少し風変わりな洋風建築――しかし、不思議と住宅地の中程にあって、その建物は周囲の建物との違和感を感じさせない。古くもなく新しくもない、典型的な“日本の住宅”の群れの中に、その建物は見事にとけ込んでいた。
 だが、はたまたこれが、オフィス街のど真ん中であったとしても、そこを訪れる人間は、
違和感などを覚えないだろう。そこにそういう奇妙な建物があることには気がつく。その建物が、何かの店舗であろうことも、看板などを見れば一目瞭然。足を止めてその建物を見ることもあるだろう。
 しかしその建物を前にして、人々は不思議な――“不自然な程”に、その建物の違和感に気がつかない。独特の存在感と、飲食店特有の鼻腔をくすぐる香りに脚を止めつつ――その建物そのものには、誰も疑問を持たない。
 果たしてそんな不思議な店の入口には、いかにも手作りと言った風な看板が据えられている。

――魔法料理店・魔鈴――

 それが、この不思議なレストランの名前であった。




 火曜日午後十時――魔法料理店・魔鈴。その裏手にある駐車場に、横島は愛車を滑り込ませた。
 実のところ、この駐車場は客のためのそれではない。本来このレストランには来客用の駐車場はなく、この場所は店のオーナーシェフである魔鈴めぐみ自身のためのものである――が、それは単にこの店を建てたときに空いたスペースをそう使う事にしただけで、彼女自身は自家用車を持っていない。
 なのでこの場所は、実質的な来客用――彼女とごく親しい人間が、車で訪れたときのみにひっそりと使われる――そんな場所になっていた。

「ヨコシマ――ネギ先生は、何と?」
「あ? あー……いや、あいつもイマイチ要領を得んが――何やらややこしい事になってるのは確からしいな。それより」

 イグニッションを切り、それに連動したターボタイマーが、走行により過熱したタービンを落ち着かせてからエンジンを停止させるのを待ち、横島とあげはは車のドアを開く。

「お前、足下フラフラしてんじゃねーか。まあ、いつもならうとうとしてる時間にまで晩飯がおあずけじゃ、無理もねえか。恨むなら親父を恨んでくれよ?」
「善処しましょう――しかし、出来ればそういうことは黙っておいて頂きたいものです」
「女の子ってのは難しいね。人間生きてりゃ腹が減るモンじゃねえか。俺は永遠の煩悩少年を名乗っちゃいるが、それでもアイドルはトイレに行かない、なんて都市伝説を信じるような時代錯誤の人間じゃねーぞ?」
「食事の前にトイレとか言わないでください。だから、ヨコシマはそういう――ああもう、もういいです。ええ、お腹が減って足下がフラフラするので――膝の上に載せてください」
「仰せのままに」

 自身の仕事が長引いたせいで、夕食がこの時間にまで遅れてしまった事を申し訳なく思っているのだろう。普段なら軽くあしらわれていた筈の少女の我が儘を、彼は快く受け入れた。後部座席から下ろした車いすに腰掛け――その膝の上に、跳び乗るようにして彼女が腰を下ろす。

「痛え!! お前――自分で思うよりデカくなってんだからな、スキンシップはソフトに頼むぜ?」
「そうですか。善処します――この調子なら、ヨコシマ好みの女性に成長する日も、そう遠くはなさそうですね?」
「十年はえーよ。ゆっくり大人になりなさい、芦名野あげはさん」
「いつまでそんな強がりを言っていられるか見物です」
「抜かせ」

 彼女を膝に乗せたまま、横島は車いすを漕いで店の正面に回り、古ぼけたステンドグラスが填った木製のドアを開ける。ドアの上に据えられたカウベルが、澄んだ音を立てた。
 それを待っていたかのように、小さな影が、二人の側に舞い降りる。果たしてそれは小さな黒猫であった。
 そしてその猫は――それが“さも当然”であるかのように、二人に向かって口を開く。

『いらっしゃいませだニャー』

 その口から紡がれるのは、まるで子供のような柔らかな声。おかしな語尾はご愛敬。彼自身、それを狙ってやっているような節があるが、今更そんな些細な事を気にする者は、誰もいない。

「遅くなっちまって悪いな」
『ホントですニャ。もうオーダーストップの時間は過ぎてるんですがニャア――まあ、横島さん達なら、オーナーも文句言わないだろうし――とりあえず、案内しますニャ』
「おう。ご苦労さん」
『それにしても』
「あん?」
『随分と仲のよろしいことですニャ』
「……三味線にするぞこの野郎」
「まあ、よくわかっていますね――ふふ、そうでしょう、そうでしょう。今度チップの代わりに、上等な猫缶を持ってきてあげましょう」
『出来ればマタタビもお願いするニャ』

 黒猫は軽やかに向きを変え、尻尾を小さく振る。それを合図に、横島はため息混じりに車いすを漕ぐ。
 平日のオーダーストップ後の店内である。時間帯によれば予約が必要になる程に盛況しているこの店も、流石にこの時間となれば、空席が目立つ。と言っても、もともとそれほど大きな店ではない。いつもより少し静かな店内には、客の談笑する声が柔らかく響く。

「あら――いらっしゃいませ。お待ちしてましたよ、横島さん」

 カウンターの向こう側から、彼らの姿をみとめて声を掛けたのは、黒いコック服にとんがり帽子をかぶった、奇妙な出で立ちの女性。この店のオーナーシェフである、魔鈴めぐみその人である。

「あ、すんません魔鈴さん――うちの馬鹿親父のせいで、仕事が長引いちまって」
「構いませんよ。あなた達はお客様であると同時に、私の大事な友達ですもの――って、今日はやらないんですか?」
「は? 何がです?」
「“そんなことを言うなんて、それはもう愛の告白としか”――って」
「この状況で出来るわけないでしょ」

 横島は、膝の上に乗るあげはの頭をかき回しながら言う。苦笑めいたその表情は、昔の彼にはあり得なかったもので――魔鈴は時間の流れというものを、今更ながらに実感する。彼らと初めて出会って、馬鹿騒ぎをしたあの頃から――既に五年以上もの時間が流れているのだ。ともすれば忘れてしまいそうになるが――いや、その時間の流れを忘れられる程ならば、自分たちはまだ何も変わっていない。そう何も――彼女は、誰にともなく、自分に言い聞かせるでもなく、心中で呟いた。

「そうですか? 何だかんだ言って、あれはあれで見ていて面白かったんですけどね。そのたびに誰かに撃墜される横島さんとか――それに」

 悪戯めいた調子で、魔鈴は口元に人差し指を当ててみせる。

「若い男の子に熱を上げられるのは――それほど嫌じゃ無いですしね?」
「ま、魔鈴さん――そこまで俺のことを――委細承知しました、男、横島忠夫、あなたのご期待に応えまして――魔鈴めぐみさん、その言葉はもうぐはぁっ!?」
「何を馬鹿なことを言っているのですか。魔鈴さんも、この馬鹿をからかうのは程々にしておいてください。馬鹿が本気になって困るのは、あなたですよ?」

 腹を押さえて悶絶する横島の膝で、頬を膨らませて不機嫌そうに言ったのは、あげはだ。少し悪戯が過ぎただろうか――と、魔鈴は素直に謝罪する。

「ふふ――そうかも知れませんね。それじゃ、席の方に案内しますので――横島さんも、いつまでも悶えてないで行きますよ?」
「い、いや――鳩尾にモロに入ったんスけど……あげは、お前少しは手加減……」
「アナタという人間を相手に、そんな器用な真似は出来ません。さっさと復活して行きますよ? 私はもう、お腹がすいて死にそうです」
「あ、悪魔だ――悪魔が居る」
「何を馬鹿な――ヨコシマはもう忘れてしまったんですか? 私は“神の名を持つ魔物”の娘ですよ?」

 その言葉を耳にした魔鈴は、小さく眉を動かす。
 あげはの言った言葉は、冗談めかしていても、軽くはない。それをそのもの冗談として口に出来ると言うことは――彼女の口元に、柔らかい笑みが浮かぶ。
 時間は誰の上にも等しく流れている。先ほども感じたことだが――それは決して、悪いことばかりではないのだろう。

「畜生、俺に味方は――うん?」

 ふと、横島が何かに気づいたらしい。魔鈴は何事かと、彼の視線の先に目をやってみる。窓際の席――一人のスーツ姿の女性が目にとまる。彼女の顔に見覚えはない。客の顔は大概覚えているのであるが――多分、今日初めて店を訪れた客だろう。
 またぞろ横島の“発作”でも始まったか、と、魔鈴は思ったが、どうやらそうではないらしい。彼の膝に乗るあげはの様子を見ても、それは明らかである。
 ならばあの女性は、彼らの知り合いなのだろうか?
 それを照明するように――横島が、彼女に向かって手を振った。

「杉森さん――杉森さんじゃないッスか」




「何というかあなたはもう――」
「あの――魔鈴さん、やっぱり怒ってます?」
「怒ってはいませんよ。あなたの行動は、褒められこそすれ、非難されるようなものではありませんから――しかし、一人の友人として、少し呆れているだけです」

 店の奥のボックス席にて、持ってきた簡素な椅子に腰掛けた魔鈴は、小さなため息と共に、白髪の青年に言った。奥の席に座る女性は、困ったような視線を魔鈴に向ける。
 杉森恵子――都内の広告代理店に勤務する、ごく普通のOLである。しかし中学生時代、彼女は一人の不思議な少女と“親友”であった。
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル――かつて魔法使いの間で“闇の福音”の通り名で畏れられた、強力無比な“悪の魔法使い”。
十五年前、魔法世界の英雄ナギ・スプリングフィールドによって麻帆良学園都市に幽閉されたものの、その通り名は、今も魔法世界において語りぐさになっているという。
 もっとも、その本人の人間性がいかなるものかと言う事に於いては、この際言うまい。だからこそ、彼女――杉森恵子は、彼女の“親友”になり得たのだ。
 ともかく――魔鈴もまた、エヴァンジェリンの事は知っている。彼女は、魔法世界のあり方に反感を抱き、かの世界の恩恵を一切破棄して、自分のやり方で“魔法使い”として生きようとする人間であるが――だからといって、“闇の福音”や“千の呪文の男”の名前を聞いたことがない、と言うわけではない。

「あ、いえ――杉森さん、でしたか?」

 恵子の視線に気がついて、魔鈴は慌てて首を横に振った。

「私は決して、横島さんのしたことが間違っているとは思いません。エヴァンジェリンさん――“闇の福音”を――いえ、ともすれば、自らが英雄と崇めるナギ・スプリングフィールドさえも信じることをせずに、ただ“正義”と呼ばれる行動のみを行う。杉森さんや、エヴァンジェリンの実情などは見ようともせず、ナギ・スプリングフィールドが、その行動に込めた意思を考えようともせず――もちろんそれは一つの正義には違いありません。綺麗事だけでは“正しさ”は語れない。その様な甘い考えが、時には破滅をもたらすこともあるでしょう。けれど――私はごく普通に、誰かと胸を張って“友達になれる”魔法使いになりたかった」

 だから――少女達の小さな友情に目を向けることもしなかった魔法使い達の行動には、心情として賛成できない。彼女は小さくそう言った。
 もちろん、“闇の福音”のネームバリューを知る彼女であるから、魔法使い達が取った行動を完全にも否定は出来ない。自身が、“エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル”の人となりと――彼女が恵子と共に過ごしたという三年間を知らなかったとしたら。麻帆良の魔法使い達と同じような考えを起こさなかったとは、言い切れない。

「私は――魔法使いじゃありませんから。エヴァちゃんの事も、良くは知らない。けど――あの子は、悪い人間じゃないって事だけは、わかります。乱暴なところはある。魔法使いとして戦うことも出来るんでしょう。けど――あの子の心の奥には、寂しそうに誰かを待っている小さな女の子が、今も居るんです」

 恵子はそう言って――食後の紅茶のカップを傾けた。

「だから私は、単純に横島さん達には感謝しています。けれど、それ以上の事は――“魔法使い”というものに対して、別に憎しみや憤りは感じない。敢えて言うなら――“呪い”なんてものに屈して、エヴァちゃんの事を忘れていた自分自身に、悔しさを感じるくらいです」
「そうですか」

 魔鈴は安堵と共に――一抹の心苦しさ、寂しさのようなものも感じる。
 恵子の言葉は、暗に「魔法使いなどどうでも良い存在だ」と言っているようなものであるから。魔法使いが何と言おうと、どんな正しさを唱えようと――彼女にとってそれは、塵芥ほどの価値もない。
魔鈴のスタンスは、麻帆良学園都市や魔法世界本国の魔法使い達のものとは、明らかに違う。とはいえ――彼女もまた、“魔法”を素晴らしいものとして、誇りを持ってそれを扱う――“魔法使い”であることに、変わりは無いのだ。そんな彼女に、恵子の言葉は軽くない。

「えっと――だから、あまり横島さんを悪く言わないでやってください。私には事情は良く分かりませんけど、横島さん達のお陰で――私の止まっていた時間は、また動き始める事が出来たんですから」
「あ、いや、別に――私は、横島さんを責めようとしたわけじゃ――ただ、」

 魔鈴は言いよどむ。
 今の横島一家――厳密に言えば横島忠夫と芦名野あげはに取って、麻帆良学園都市という土地が、都合の良い場所である事は確かである。
 しかし、それはあくまで彼らが普通に生活をするために――という意味であり、彼の地の本拠地を置く魔法使い達とは、全く関係のないことだ。
 今の横島は、そのずば抜けた霊的な才能はそのままであるが、もはやその才能に、彼の体はついて行けない。暴発確実の銃の引き金を引く馬鹿は居ないだろうし、また周囲もそれを許しはしないだろう。
 しかし――横島の体調の事は、軽々しく他人に話せるようなものではない。当然、麻帆良の魔法使い達がそれを知るよしもない。更に悪いことに、“魔神アシュタロスの核兵器ジャック事件”に於いて、彼は中途半端に名が知れる存在となってしまった。
 “新世代の魔法使い”ゴースト・スイーパーの中でも、頭一つ抜け出た存在である横島忠夫が、古巣を捨てて麻帆良にやって来た――当然、それを只の気まぐれと考える人間は居ないだろう。彼が麻帆良に引っ越してすぐに、学園側が彼にアプローチを掛けてきたのが、その証拠だ。
 もちろん、魔鈴はその事を危惧していた。
 だから言ったのだ。彼に、“麻帆良という土地で、目立つ行動は慎め”と。

(けれど――横島さんは)

 彼のトラブル吸引体質は、今に始まった事ではない。もっともこの場合――彼の存在を見越して、横島一家の一人、犬塚シロを押さえられたのは、魔鈴にとっても盲点だった。彼女の転入したクラス、麻帆良学園本校女子中等部、三年A組は、“英雄の息子”ネギ・スプリングフィールドが受け持っている。
 魔法使い達の思惑と、彼自身を待ち受ける試練――それらを真っ先に被ってしまうだろう、そんな場所だ。そして転入そのものはごく自然なものであるので、表だって文句も言えない。
 そして案の定、彼はそこでトラブルに首を突っ込み――加えて横島忠夫という男は、“馬鹿”なのだ。暴発確実の銃の引き金を引く馬鹿はなどは居ないと言ったが――彼は、特定の場面に於いては、何の躊躇も無しにそういうことをしてしまう“馬鹿”なのである。
 魔鈴は心の中に、もやもやとした黒いものが広がっていくのを感じつつ、横島の顔を見遣り――

「いえいえ杉森さん、俺はただ、自分に出来ることをしただけに過ぎませんよ。アナタのような素敵な女性の助けになれるなら、この横島忠夫、命すら惜しくはありません」
「まあまあ、お上手ですね」
「大げさな事を言ったつもりはありませんよ? 杉森さん、あなたはそれだけの魅力を持った人だ。どうですか、この後、夜景の素敵なバーにでもご一緒に――」
「それは魅力的なお誘いですが――遠慮しておきます。私はどうやら、そちらの小さな淑女には敵いそうにありませんから」
「!! ――ぅはっ……あ……あげ、は……お、おま、そこは――そこだけは、洒落に、ならん……」
「つい手が滑ってしまいまして。さて、そちらのお姉さん。アナタの人生のために忠告しますが、こんな馬鹿のために時間を無駄にすることはありません」
「へえ……だったらあなたは良いの? まだ若いのに、“時間を無駄に”しちゃっても」
「ええ。仕方ありません。私一人が貴い犠牲になることにより、全世界の女性が救われるのです――永久にね」
「まあ凄い」
「ま……漫談は、いい、から――あげは、恵子、さん……どっちでも、いいから、こ、腰、さすって――くれ」

 その視線の先には、いつも通りの馬鹿をやる横島と、いつの間にか仲良くなったらしい、恵子とあげはの姿。
 唖然としたのは、ほんの一瞬。すぐに魔鈴の顔には――苦笑――それも、とびっきりの“ビター”であり“スウィート”なそれが浮かぶ。
 今の横島忠夫という男は、確かにボロボロになった銃身を持つ、引き金すら壊れた銃のようなものだ。しかしそれが何だというのか? この男はきっと、それでも必要なときには弾丸を撃つに違いない。こっちが撃つなと言っても、撃たずにはいられないだろう。
 ただし――彼ならばまた、“銃を使わずに弾を撃つ”事すら、出来てしまうに違いない。
 いや、そんなことを考えること自体が、馬鹿馬鹿しいのか。少なくとも、彼にとっては。

「さて、それじゃ――頃合いですから、デザートをお持ちしましょう」
「え……魔法、で、治して、くれることを……期待、してたんです、が」
「そんな都合の良い魔法はありません」




 午後十一時過ぎ――既に閉店時間を過ぎた“魔法料理店・魔鈴”の店内は、既に綺麗に清掃が行き届いていた。魔鈴自身の手際の良さと、近頃雇ったアルバイトが有能であると言うのはあるが、生きているように勝手に動き回る清掃道具の数々と、杖の一振りで消え失せる塵やほこり――即ち“魔法”の恩恵は大きい。そうでなければ、たった二人――使い魔の黒猫も含めて三人で、小さいとは言えこの規模のレストランを回転させることは難しい。

「お疲れ様でした」
「はい、お疲れ」

 調理服からラフな普段着に着替えた一人の少女が、魔鈴に向かって頭を下げる。彼女は六道女学院の霊能科に通う、れっきとした“霊能力者の卵”であり、将来は魔鈴のような、オカルト技術を応用した料理人を目指している。
 何でもかつて、彼女の両親は、魔鈴の“魔法”によって、救われた事があるという。
 六道女学院に入ったら、この店の門を叩くのだと心に決めていたという彼女の事を――当然だが、魔鈴自身は知らなかったし、救われたという彼女の両親の事も覚えてはいなかった。
 ただ、あまりの気迫に押されて彼女を雇い入れ、そして現在に至って、魔鈴は思う。
 この少女――今のところ只一人の“弟子”である彼女の成長する様を見て、嬉しく思うこと自体は、間違っては居ない筈だ、と。
 自分自身は、魔法世界の考え方に対立しているが、果たしてそれが正しいのかどうかは、魔鈴にはわからない。間違っているのが自分の方である可能性も捨てきれないが――それでも、そんなことは彼女の笑顔には関係ない事だ。
 ならば、単純に“それ自体”に限って言えば――自分の魔法の使い方は、間違っていないはずである。
 魔鈴は、小さく息を吐き――タクトのような棒を取り出して、呪文を紡ぐ。

「呪文始動(プラクテ・ビギ・ナル)――火よ灯れ(アールデスカット)」

 棒の先端に、小さな火の玉が一瞬生まれ――そして、すぐさまかき消える。そろそろ彼女に、“魔法”を教えてみても良いかも知れない。何故ならここは“魔法料理店”であり、彼女はそこを切り盛りする“魔法料理人”の弟子なのだから。
そんな風に思いながら、彼女は棒をエプロンに戻し、踵を返した。

「いや、冗談抜きでですね、恵子さんは美人だと思いますよ? ぶっちゃけて言うなら、アイドルやモデルとは流石に言いませんが、それでも客観的に、十分に――恵子さんが今まで男に縁がなかったって言うなら、周りの男に見る目が無かっただけでしょう」
「うん、うん! わかってる、わかってるじゃないの横島君! さすがにいい男は言うことが違うわね! その小さな彼女さんがいなかったら、私はもう君のことほっとかないよ!」
「勘弁してくださいよ恵子さん。俺は煩悩の塊ですが、ガチで犯罪者になるのだけは勘弁です。どうですか、ホントにこの後、俺のお気に入りの飲み屋にでも」
「あはは――そのお誘いは冗談抜きで嬉しいんだけどね、やっぱり遠慮しとく。それと横島君、何だかんだ言ってね、あげはちゃんは良い子だぞ? 大事にしてやんなよ? 十年も経ったら周りの男はみんな、君のことを歯ぎしりして妬むに違いない」
「想像出来ないっすねー……」

 奥の席に戻ってみれば、横島と恵子はすっかりうち解けた様子だった。あげははと言えば、流石にこの時間に満腹になった上で、睡魔に抗うことは難しかったのだろう。横島の膝を枕に、幸せそうな寝顔を浮かべて夢の中にある。
 肩をすくめながらも、そんな彼女の頭をゆっくりと撫でている横島を見ると、自然と魔鈴も恵子も、頬が緩んでしまうのを堪えられない。

「こいつは――いろんな意味で俺の妹みたいなもんですからね。まあせいぜい、こいつが大きくなって彼氏の一人でも連れてきたら、拳握りしめて“お前のような奴に娘はやらん”って言ってやりますよ」
「そんな日が来れば、の話だけどねー……時に横島君、君の友達に、イケメンで性格も良くて、稼ぎもいい男とかいないの?」
「ストレート過ぎっすよ恵子さん……そんな男の敵、思春期以降に仲良くできるわけが――ピートの奴はイケメンかも知れないけど、根っからの貧乏性だし、うかつなこと言うとエミさんに殺され……ん? 待てよ――恵子さん、“近畿剛一”ってタレント、知ってます?」
「知ってるも何も――隠遁生活でもしてなきゃ、知らない人の方が少ないわよ?」
「その“近畿剛一”――“銀ちゃん”って、俺の幼なじみなんですよ。まあ昔から何でも出来て女にモテて――思い出したら腹立ってきたけど――あんなんで良ければ紹介しましょうか?」
「え――マジ? ちょ、横島君、それ、冗談で言ってるんじゃなくて!? 幼なじみって――やだ、ちょっと――い、いくらなんでもそれはまずいんじゃないの!? 私だって軽いノリで言っただけだし――」
「いや、最近あいつ、芸能界に居ることに疲れた、みたいな事言ってやがるんですよ。そんだけ恵まれて何つうふざけた事抜かしてやがる――とまあ、その時はそう思いましたけど。実際あれはあれで厳しい業界みたいですし。俺は何だかんだで、結局世間知らずな無神経馬鹿ですし。恵子さんみたいな姉御肌っつうか、バイタリティのある女性なら、多少相談に乗ってやれるんじゃ――ああ、迷惑なら別に」
「そういうことなら是非っ!! うわあ、エヴァちゃんに自慢しちゃおう! 横島君、今から私とあなたは、親友と書いてマブダチよ!!」
「何気にエヴァちゃんの扱い酷くないっすか」
「はっ――女の友情なんてそんなもんよ。ふふ――修学旅行から帰ってきたあの子の悔しがる顔が、今から目に浮かぶわ」

 この人は本当に、昔から何も変わらない。
 あれだけの出来事をくぐり抜けてきて、それがどれだけ難しいことか――いや、普通に生きていて尚、人間は変わるものだ。良い意味でも、悪い意味でも。
 良い意味でなら、横島は変わったのかも知れない。けれど――悪い意味でなら。しかも苦笑と共に使われるだろうその“悪い意味”に於いて――彼は本当に、何も変わらない。
 少し前まで神妙な顔つきでテーブルに着いていた筈の恵子は、今やワイングラス片手に、横島の肩をばしばしと叩いている。
 本当に、この人はもう――弧を描きそうになる唇を必死に結び、魔鈴は自らの椅子を引いた。




「関西呪術協会?」
「ええ――ケイはともかく、ネギの奴がね」

 魔鈴を交えて一息ついた横島達であったが――いつしか話は、現在京都に修学旅行中である筈のシロらの方に向かった。

「大分混乱してるみたいで、良く分からなかったんですけど――どうも、きな臭い事になってるらしいんですよ。あいつが何をしたのか知らないけど、こんな状況で混乱してる自分はどうすればいいのかって――状況が何にもわからないうちに、勝手にパニクって電話切っちまいやがって」

 あの子供らしいと言えばらしいが――と、横島はコーヒーを啜りながら、小さくため息をつく。魔鈴は、恵子の小さな手が、強く握りしめられた事に気がついて、僅かに目を細めた。

「私はその名前くらいは聞いたことがありますが――しかし、その組織がどういうものかまでは――きな臭い、と言うのは?」
「ネギの口ぶりもそうだし――昨日の夜、美神さんから電話があったんですよ」
「美神さんから?」

 横島の口からその名前が出た事に、魔鈴は僅かに緊張感を覚えつつ――その言葉の先を待つ。

「ええ。さる筋からの情報で――京都のオカルト組織――この場合魔法使いの組織ッスかね。関西呪術協会に、妙な動きがあるって。そこに来て、シロ達の修学旅行先が、このタイミングで京都。また妙な事に首突っ込んでるのかって。全く動物的な勘の良さですね。霊感ってレベルじゃねーぞ」
「……」
「そこに来て、ネギの電話でしょ。詳しい話は明日の朝イチでタマモか学園長にでも聞いてみるつもりですけど――」
「エヴァちゃん――大丈夫かしら」

 恵子が、ぽつりと呟く。エヴァンジェリンが“闇の福音”とまで言われた伝説の魔法使いであることは、彼女も知っているだろうに――いや、彼女にとってはそんなことは関係ないのだろう。魔鈴は、僅かに視線を落とす。

「学園長はあれで馬鹿じゃないし、魔法使いっつうのは、魔鈴さんみたいな例外を除いたら、自分の存在を隠そうとするもんでしょ? “修学旅行の中学生一行”に、そう大々的な危険があるとは思えないッスけど――」
「そうですね――私も、そう思います。関西呪術協会は、京都陰陽寮や、オカルトGメン日本支部と言った日本の代表的なオカルト組織にさえ、実体がよく知られていません。そこまで徹底した秘密主義を貫く彼らが、一般の学生を大々的に巻き込むとは、考えにくいですね」
「けど――美神さんやネギの様子からして、何事もなく終わるとは――」

 そこで一つ、横島は言葉を切り――ややあって、首を横に振る。

「魔鈴さん、俺、正直悩んでました」
「何について、ですか?」
「魔鈴さんが、麻帆良で目立つことすんなって、俺に釘刺した事について」
「……」
「シロにもあげはにも、おキヌちゃんにも怒られましたよ。そう言えば愛子にも嫌味言われましたし、美神さんだって――」
「いえ――横島さんは理屈でものを考えられる人間じゃない。良くも悪くも――ですから私が何を言ったところで、結局は同じだったのかも知れません」
「地味に酷え」

 彼は苦笑し――そして、続ける。

「ちょっと前までの俺ならともかく、今の俺はみんなのお荷物だ。もめ事にしゃしゃり出て行ったって、出来る事なんてありゃしない」

 そう言って彼は、自分の脚――あげはの頭を乗せた、自分の太ももの辺りを撫でる。一瞬恵子の視線に、先ほどまでとは違う色が浮かぶが、すぐにそれは消え去った。

「難しい事は後から考える。とにかく何でもやってみる。それが、俺のやり方でした。魔鈴さんなら知ってるでしょうが、実際は格好付けて言えたもんじゃない。その後どうするかもまるでわからず、叫んだ決め台詞が「俺の煩悩を信じなさい」――そういう男っすから、俺は」
「……」
「今の俺だって、そういう結果の後にあるモンです。後悔なんてしちゃいない。“あの事件”の後、俺は方々からメチャクチャに怒られて、メチャクチャに泣かれました。でも、多分――同じ事があったら、俺は間違いなく同じ事をします」
「横島君」

 ふと、恵子が彼の名を呼ぶ。けれど――その後の言葉は続かない。
 彼とはエヴァンジェリンの一件で、僅かに顔を合わせた程度の面識しかない彼女には、彼の言うことがわからない。ただ――その言葉に込められた必死さを、感じ取れるのみ。

「魔鈴さん――俺、あの時――タマモに言われたんスよ。“あんたは誰よりも優しくて、最悪なほど何処までも自分勝手な奴だ”って。俺は、自分が馬鹿だって事は自覚してます。他人に立派なことを言える奴じゃないって事も。――そんな俺が――“優しい”なん言われたの、初めてだったんです」

 横島忠夫という男は、優しい。それは馬鹿でだらしがないと言う、彼の表面のすぐ下に存在する事実だ。彼と知り合えば、その事実に気づくことは、実に容易い。
 しかし――それを面と向かって彼に言うかと言えば、話は別だ。冗談めかして言うことはあるだろう。だが、本気で彼と向かい合って、そんなことを誰が言うだろうか? そんな場面など普通は滅多にないし、ましてや横島は、そう言うことを真面目に受け止めるような性格ではない。
 つまりタマモは――それだけの事を言ったのだ。それだけ――本気の言葉を。
 それで彼女と横島の仲が悪くなったわけではない。今の二人の関係は、悪友――そう呼ぶに相応しいものだろう。けれど――

「……こんなのは、俺らしくねえや。でも――俺がやってることは、只の自己満足なのかって、ガラにもなく考える。ああ、そんなの俺には似合わない。もちろんタマモを責めるなんて、微塵も思わない。結局、馬鹿な俺がどれだけ考えたって、答えなんて出るはずがないんだ。でも――駄目なんすよ、俺――こいつらの泣き顔、見たくないんです」

 安心しきった寝顔を浮かべるあげはの頬を、横島はそっと撫でる。彼女は一体、どんな夢を見ているのだろうか。

「俺は、本当に馬鹿ですから。自分のやり方でしか、動けない。でも――それじゃ、駄目なんです。魔鈴さんに言われるまでもなく、それは駄目だってわかってる。でも俺、動かないと――馬鹿をやるしか、俺に出来る事って無いんです。でもそれが、またこいつらを泣かしちまう事になるかも知れない。でも、でも――何もせずにこいつらの泣き顔を見るだけなんてのは、死んでもゴメンだ。だったら俺は――どうすりゃいいんスか?」

 人の気配が絶えた店の中に、漂うのは、沈黙。
 どれほどの時間が流れたのか――最初に再び口を開いたのは、恵子だった。

「……横島君、私は――君のことを、何も知らないわ」
「……」
「でも――私は、そしてエヴァちゃんは、君に救われた。あの時いきなり私のところに押しかけて、人さらいかと思うほどの勢いで、私を連れ出した君に」
「そんな――それは、恵子さんとエヴァちゃんが……何て言うか、友達だったからでしょ。恵子さんは自分が呪いに負けたのが悔しいって言いますけど――そもそも、あのツンデレの心を開くのは並大抵の事じゃないって事だけは、俺にもわかります」
「ううん――そう言えば、まだちゃんとお礼も言ってなかったね――ありがとう、横島君。私の心を取り戻してくれて。あの子を、先の見えない暗闇から、救ってくれて」

 恵子は小さく首を横に振る。

「私は君のことを何も知らない。“タマモ”って人が誰なのか、君たちの間に何があったのか、それを何も知らない。けど――だからこれは単なる想像だけど――そのタマモって人も、あげはちゃんも――それにあの時一緒にいた、銀髪の女の子も――私と同じなんじゃないかって、そう思うの」
「……」
「それは――正しいかどうかはわからない。わからないけど――“一つの答”には、ならないかしら? そして――」

 恵子はそっと、あげはの頭を撫でる。その頭髪はさらさらと柔らかく、絹糸のような手触りで、彼女の指を受け止める。

「それは私の勝手な言い分――君に助けられた私の、せめてもの気持ち。君は、自分の答えを探せばいいと思うよ。君なりの、やり方で。何の根拠もないけど、君なら出来るって、私はそう思う。これでも、“あの”エヴァちゃんの親友だからね――人を見る目は、確かなつもりよ?」
「恵子さん」
「何?」
「惚れた。結婚してくれ」
「ごめんなさい」
「絶望した――もはや生きてはいけない。死のう」
「どうでも良いですけど、横島さんはお酒飲んじゃいけませんよ。帰り、車でしょう?」

 魔鈴は柔らかな笑みと共に――横島が手を伸ばしかけたワインの瓶を、横からひったくった。



[7033] 三年A組のポートレート・少女の決意
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/02/13 01:37
――あなたの事を、好きだと思う。
この気持ちは、自分の何処から沸いて出たものなのだろうか?
――あなたへの思いが届かないことが、怖いと思う。
その恐怖は、一体何故のものなのだろうか?
単なる生物としての本能だとは思いたくない。
付け加えて、自分が寂しい思いをしたくないだけだとも思いたくない。
ましてや、それが運命だなんて。
――理由が無いのが一つの答だ、と、誰かが言う。
それは確かに一つの答えだろう。
ならば、敢えて問いたい。それが一つの答えならば、“他の答”とは、何ですか?




「ネギ・スプリングフィールド先生――最初に出会ったときから、あなたのことが好きでした」

 長めの前髪の隙間から――感情に濡れた瞳をまっすぐにネギに向け、彼女、宮崎のどかはそう言った。
 その言葉には、何の飾りもない。解釈の余地もない。だから逃げ場はない。
 そして――それに対する解答さえも、用意されてはいない。
 ましてや、“ネギが”その問いに対する答えなど、持ち合わせているはずが無かった。
 常夜灯のみが照らす、ホテルの薄暗い廊下。白い霧に覆われ、しかし嵐のような風が吹き荒れ、足下すら見ることが出来ない――そんな心を引きずったネギの前に、彼女は現れた。
 修学旅行に出発する前から、ネギの心は揺れていた。
 学ラン姿の少年の言葉を聞き、彼は自分が底なし沼か何かの上に立っているような錯覚を覚えた。
 そして――新田の言葉を聞き、彼は自分が一体何処に立っているのか、何処に向かっているのかさえもわからなくなっていた。いくつも別れた道筋など、自分には存在しない。自分は、だだっ広い荒野のど真ん中に、所在なげに立ちつくしていたのだろうか? それとも断崖の上を、それと知らずに歩いているのだろうか? あるいは――
 失敗はやり直せると、新田は言った。
 自分の歩く道が恐ろしくても、その言葉が正しいのならば、何も怖がる必要は無いだろう。
 しかし――今自分が歩いている道は――“失敗”なのだろうか?
 そもそも――“失敗”とは、一体何なのだろうか?
 単純にそう呼べるものなら、今まで何度だって犯してきた。
 けれど今までの自分は、本当にそれを失敗だと思っていただろうか? 自分が辿る道筋の上で、多少蹴躓いた程度の事――それが本当に“失敗”か?
 そもそも“失敗はやり直せる”などと、かつての自分だってそう思っていた。
 同じ失敗を馬鹿のように繰り返さなければ良いことであって――と、そんな風に考えていた。
 けれど、新田の言う“失敗”あるいは、横島が言った“やりたいこと”。
 それらは果たして、そんなに単純な事なのだろうか?
 さながら今の心は、バラバラに散らばったパズルのピースのようである。それを一つ一つ組み上げる事は、つまり失敗を繰り返しながら完成に近づいていくと言うことである。
 しかし――パズルを組み立てようとする事自体が間違いだったら?
 そんなはずはない。
 ネギは自分に言い聞かせる。
 物事に正解だとか間違いだとか、そんなものは存在しない。だとしたらどれだけ不安に感じられても、自分が思う自分の道を歩く――その事自体は、間違っていない筈だ。
 それなのに――

――儂は立派な魔法使いを目指そうとして、その結果腐り果ててしまった、馬鹿で愚かな男じゃと――

――空っぽのままじゃナンパは出来ねえ! 良く覚えとけ!――

――失敗はやり直せる。星の数ほどの失敗を犯した私が言うんだ。間違いない――

 ネギの脳裏に、近右衛門の、横島の、そして新田の言葉が蘇る。
 問いたい。あなた達はどうやって、その場所に立っているのかと。
 不思議な老人は、自分の行いを間違いと言い切りつつも、その道を歩くことをやめようとしなかった。
 傷だらけの青年は、自分という存在に正しさなど求めず、しかし他人を優しく包み込む。
 柔らかな心を、強面の仮面で隠した壮年は、自分の道の間違いを自覚し、しかし若者達に見事に道を指し示す。
 彼らを一言で褒め称える事は出来ないだろう。
 近右衛門は、そのものずばり褒められない事とて、時には迷わず選ぶ。横島の遠慮のなさは、時に他人を傷つける事もあるだろう。新田の導きは、相手によっては逆効果となることだってあるに違いない。
 それは時には偽善であり、欺瞞であり、独善であり、傲慢。
 けれど少なくとも、歩みを進める彼らの姿に、迷いは感じられない。

「……」

 新田を相手には、もはや言葉が出てこなかった。
 トイレに行く振りをして横島と連絡を取ってみたものの――結局自分が言いたいことを、ネギは言い出せなかった。と言うよりも、何が言いたかったのかさえ、最初からわからない。
 結局自分でもよくわからない事を――状況の説明にもならないような事を並べ立てた挙げ句、彼の返答を聞く前に電話を切ってしまった。
 我に返ってからもう一度電話をかけようとして――ネギは結局、携帯電話をしまいこんだ。今彼と話をしようものなら――ため込んだ弱音と一緒に、全てを投げ出してしまいそうだったから。
 その後浅野が何かとネギを気遣ってくれていたようだが、ネギ自身は彼と、そして新田と、どのような話をしたのかも、今となっては良く覚えていない。
 もはや深夜と言っていい時間帯を廻り――少女達の馬鹿騒ぎも一段落したのか、ホテルの廊下は静まりかえり、空調が静かに響くのみ。
 だからそこに突然現れた少女にネギはとまどい――彼女の発した言葉に、彼の思考は完全に停止した。




「宮崎さん……? 今、なんて?」
「ですから、私はネギ先生のことが好きです。そう、言ったんです」

 問い直したその言葉さえ、彼の脳に届くにはワンテンポの遅れを要した。いちいち頭の中で、彼女の言葉を英語に翻訳したくらいである。もはやネギは日本語の会話に於いて、その様な面倒な作業を行わなくても良い筈であったのに。
 She said “I love you”――彼女は、あなたが好きです、と言った。あなたとは、誰のことだ? それは自分の事だ。ネギ・スプリングフィールド――他でもない、自分自身だ。
 心臓の鼓動が、五月蠅いと感じた。酸素を欲しがり呼吸する肺が、鬱陶しいと思った。
 そんな事を感じるほどの時間を経て――ようやく、ネギは一つの言葉を絞り出す。

「……な、何で――ですか?」
「何でって、言われましても……」
「だ、だって、僕はまだ子供ですよ? 確かに、その、僕は、のどかさん達の担任ですけど、それでも、その――」
「と――歳のことは、関係ありません! いえっ……そりゃ、その、最初はちょっと自分でもおかしいんじゃないかって思いましたけどっ……その――十歳の男の子を、好きになる、なんて――」

 浴衣の裾を握りしめながら、彼女は頬を染めて、そう言った。
 確かに、のどかとネギの年齢差は、わずかに五歳ばかり。しかし、十歳と十五歳の五歳である。まだまだ幼いと言って差し支えない二人にとって、この年齢歳はあまりに大きい。
 のどかとて――そう言うことを思わなくもない。
 たとえばクラス委員長である雪広あやかは、ネギの事を臆面もなく「好きだ」と言ってのけるが――そんな彼女に向けられる周囲の視線はと言えば、微妙なものである。実際に、ネギと出会う前ならば、自分だってそう思っていただろう。
 もっとも彼女の場合、あれだけ堂々としていれば、もはや何かを言う気も失せる、と言うのも、無くはないが――ともかく。
 しかしそれ以上に面食らったのは、当然ネギの方である。
 どうにか子供から大人への“過渡期”にあるのどかと違い、彼は正真正銘の“子供”なのだ。誰かを好きになる――異性を愛する、などという気持ちを、自分のものとして理解するには、彼はまだまだ幼すぎる。
 もっとも彼は、年齢の割には聡明である。従って、それを“考える”事なら出来る。
 だが、愛だの恋だのと言った感情は、どれだけ理詰めで考えてみたところで、数式の如く答えが導き出せるものではない。
 たとえば、恋愛とは人間という生き物が、子孫を残すための本能のプログラム――と言う乱暴な解答だって、正解と言えば正解である。そう、理屈の上では。目の前のまだ幼さを残す少女にだって、それは言えること。
 だが、そんな乱暴で恥知らずな解答を、誰が認めることが出来るだろうか。
 結局そう言った事柄を理解するには――自分自身が、それを実感するしかない。
 出来ないうちはどうやったって出来ないし、出来るようになればそれを説明することがもはや難しい。
 ――のどかも、それくらいの事は理解していた。
 ネギの慌て振りからして、恐らく彼がそう言うことがまだわからない“子供”であるということも。
 理解していても、この思いは止められない。
 何せ――恋は、ロジックでは解けないのだから。その感情は何処までもひたすらにシンプルで、しかしどんな難解な定理よりも証明する事が難しい。

「えっと――はじめは、ネギ先生の姿が、ただただ好きでした。十歳で先生なんて――そんなの、無茶です。私だって、そう思います。けど――ネギ先生はいつも真剣でした。真剣すぎて時々失敗するときもあったけれど、それでも真剣でした。ネギ先生は、いつだって、私たちに本気で――私たちに、一生懸命で。そんなネギ先生を、私は見ていました」
「……宮崎、さん……」
「うん……その……私も、おかしいと、思います。ネギ先生みたいな子供を、好きになるなんて。でも――そんな、いつも一生懸命で、本気で、ちょっと不器用で、でもめげなくて――そんなネギ先生を見ていると、私――この気持ちが、押さえられない」
「宮崎さん」

 そんな彼女の名前を――ネギは小さく、そして強く呼んだ。
 単純に――彼女の告白を、これ以上聞きたくなかったからだ。

「ネギ先生は、きっとこんな事を言われても困ると思います。と言うよりも――私自身、ネギ先生にどうしてほしいのか、わかりません」

 のどかの言葉は、止まらない。小さな手を握りしめ、必死で紡がれる彼女の言葉――その言葉を聞く度に、ネギの頭の中は沸騰し――しかし、その端から凍り付いていく。まるで真空にまき散らされた水のように。

「私とおつきあいしてください――そう言うこと、ネギ先生には言えませんよね。いろんな意味で」

 教師と生徒という間柄としても、十五歳の少女と十歳の少年という間柄にしても。
 もう少し違う形で出会っていたら、彼女の告白は、いかにも甘酸っぱい少女のそれだっただろう。しかし言うなれば――今の彼女の言葉は、“儚い”。実際に相手が目の前に居るというのに、それでも尚。
 届かないと分かっていながら、必死に手を伸ばそうとする。どうしても触れたくて、けれど触れたい相手は、幻のように手をすり抜ける――そんな彼女を、ネギは幻視する。
 そこまでの余裕がいつしか生まれた自分の心を、まるで自分のものではないようにさえ感じながら。

「答えを出してくれとは、言いませんし、言えません。でも――私の気持ちを、受け取って欲しかった。我が儘を言って、ごめんなさい」

 まるでスクリーンのように、現実感を伴わない視界の中で、のどかの顔が、目の前に迫る。何故だろうか少し薄汚れた彼女の体からは、石鹸と汗の混じり合った匂いがした。お世辞にも良い香りとは言えないだろう筈のそれは――まるで麻薬のように、ネギの頭に甘く響く。

「どうしても、あなたに、気持ちを伝えたくて――もう、我慢出来ません」
「――ッ!!」

 熱に浮かされたように、呆然と立ちつくしていたネギが我に返れたのは、どうしてだろうか。思うにそれは、心の何処かで――自分を見下ろすもう一人の自分、そんなものを感じたからかも知れないと、ネギはそう思う。
 のどかの柔らかな唇が、ネギの小さなそれに重ねられる寸前――ネギはのどかの体を、思い切り突き飛ばしていた。

「きゃっ!?」

 西欧人であるネギは、日本の平均的な十歳児に比べれば、少しばかり体格が良い。加えて、“魔法使い”としても鍛えられている身の上である。少々小柄で、それ以上に華奢な彼女の体は、簡単にバランスを崩し、尻餅をつく。

「あっ――ご、ごめんなさいっ!! 大丈夫ですか?!」
「のどかっ!!」

 ネギが慌てて彼女に駆け寄るよりも早く――小さな影が、廊下の角から飛び出して、彼女の体を助け起こす。
 彼女と同じように、何故か少々薄汚れた格好の、綾瀬夕映が。

「夕映さん?」

 予想し得なかった第三者の登場に、ネギは思わず目を白黒させるが――のどかの上半身を助け起こした夕映は、そんな彼を強く睨み付ける。

「いきなり何をするんですか!?」
「い、いや――その、ごめんなさい! つ、つい、驚いてしまって……」
「そ、そうだよ――ネギ先生は悪くない。いきなりあんな事しようとしたら、誰だってびっくりするよ……」
「それにしたって――」
「ゆえ」

 強い調子で名前を呼ばれ――不承不承、夕映は引き下がった。自分がやったのは、相手の事を何も考えない、自分勝手な行為――のどかは首を横に振り、そう言った。ネギはのどかに、何も言わなかった。言えなかったし、多分理解すら出来ていない。
 そんな彼に好き勝手自分の言いたいことを言い――唇を、奪おうとした。
 冷静に考えれば、なんと自分勝手な行動ではないか。極論を言えば、自分は――宮崎のどかは、ネギ・スプリングフィールドが――“欲しい”のだ。その意味合いを、のどか自身すら、考えたくないほどに。

「……ごめんなさい――事情が分かっていないネギ先生を驚かせたのは、確かです」

 夕映は首を横に振り、事の次第をネギに話す。
 どうせゲーム自体は、楓が“目標を達成”した事に加えて、肝心のネギが新田のそばを離れないまま、時間が経ちすぎた事で、既に幕が引かれている。
 しかし――のどかの想いは、ゲームとは違う、本気のものだ。
 だから彼女達は、ゲームが“終了”してからもずっと待っていた。ネギが新田から離れて一人になる、その時を。
 事情を一通り説明すると――その事で冷静さを取り戻したのか、夕映はもう一度、ネギに詫びた。のどかを助け起こし、彼女の浴衣の乱れを直してやり――彼女と共に、ネギにもう一度頭を下げて、その場を立ち去ろうと――

「宮崎さん」

 ネギが、その小さな背中を、呼び止めた。




「宮崎さんの目に――僕は、どう映りましたか?」
「え?」
「宮崎さんは、僕が一生懸命に見えた、と言った」

 のどかと夕映は足を止め、彼の方を振り返る。
 そこには一人の少年が、うなだれて立っていた。
 その姿は、少女達の見たことが無いもので。
 彼女たちの前に立っていたのは、見慣れた自分たちの“担任”ではなく――何かに怯えるように、弱々しく立つ、小さな一人の少年だった。

「僕には――何かが出来ていますか? あなた達のために――何かが、出来ていますか?」
「ネギ先生?」

 夕映は、目の前の少年は、本当にネギだろうかと、一瞬思った。
 もちろん、そうでない筈はない。何処ぞから彼の偽物でも沸いて出たというのならともかく、そんなことはあり得ない――と言うよりも、そう言うことを思うことが、まずおかしいではないか。本人を前にして、“違和感”を覚えるとは――一体、どういう事なのか?
 つまりそれくらいに――今目の前に立つネギは、いつもと様子が違っていた。
 夕映は、自分の事を――望むと望まざるとに関わらず、クラスの中でもネギに近しい人間であると思う。
 それはあやかやのどかのような、彼に好意を抱いていると言う意味ではない。単純に、言葉通りの意味だ。彼が麻帆良にやって来てからこちら、色々な事があった。常識では考えられないような体験も、彼と共に経験している。
 たとえば学年末テストで迷い込んだ、図書館島の地下にあったもの。あれは一体何だったのだろうかと、今なお思う。麻帆良が常識はずれの場所であるというのは、彼女自身もわかっているが、それにしても――
 ともあれ、それはどうでもいい。それは今でない何時かに考えれば良いとして。
 そう言った、割合濃度の高い日々を過ごしてきた中で、彼女が感じていた“ネギ・スプリングフィールド”という少年の姿――それが、今目の前に立つ少年と、重ならない。

「ネギ先生? ――何か、あったのですか?」
「答えてください」

 おそるおそる、夕映はネギに問うてみるが――彼はそれに、応えない。

「宮崎さんに、僕の姿が好ましく映ったのなら――それは単純に、嬉しく思います。けれど、あなたは一体僕の、何を見てそう思ったのですか? 僕の何が、あなたにとって好ましく映ったのですか?」

 彼の目は、夕映を映しては居ない。弱々しく、凍えるような瞳が映すのは、彼女の側に立つ宮崎のどか、只一人。ひょっとすると――ネギは今、この場所に綾瀬夕映という少女が居ることすら忘れているのかも知れない

「僕は――僕は確かに、一生懸命にやって来たつもりです。でも一生懸命に――一体何が出来たんですか? 出来たことはあったんでしょうか? そんな僕を――見ていたというのなら、教えてください――」

 夕映には、ネギの言っていることがわからない。
 のどかの告白が、彼にとって唐突過ぎることであったのは間違いない。きっと彼のことだ、のどかが自分に好意を抱いている事など、気がついてもいなかっただろう。
 しかし――それを知ってパニックになった、と言うのではない。
 いつしか、彼の瞳からは涙が溢れている。
 彼の心が今――乱れに乱れている事は、見れば分かる。しかし、今の様子は、単純に“パニック”を起こしたときの彼のそれではない。だが――何が彼をそうさせるのか? 彼の心の中には、自分たちの気づかない、一体どんなものが渦巻いていているのだろうか? 何かを懇願するような彼の様子の意味するところは、一体何か?

「……のどか――っ」

 しかし何にせよ、のどかにしてみれば酷い話だ。勇気を振り絞った告白に対して、返ってきたのは――甘酸っぱい少女の想いからはあまりにかけ離れた、彼女への問いだった。
 ネギにも何か事情があるのだろう。自分たちの悪のりじみた行動も、反省はする。だがそれでも、これは――こんなのは、酷すぎる。引っ込み思案で心優しいこの友人が、どれだけ勇気を振り絞ったか。この結果に、どれほどの衝撃を受けているか。
 おそるおそる、夕映はのどかの方を見て――のばし掛けた手を、思わず引っ込める。
 彼女は――泣いていた。
 しかし、単純に、ネギの反応にショックを受けた――と言うわけでもないのだろう。
 前髪から覗く彼女の大きな瞳は、涙に潤んではいたが――彼女の表情に、悲しみの色はない。
 むろん夕映とて、友人の顔を見ただけでその心中を察する事は出来ないが、それでも、彼女はネギの態度に悲しんでいるわけではない。それだけは何故か、わかった。

「ごめんなさい」

 のどかは、小さく言った。

「私が――何か、ネギ先生の気に障る事を言ってしまったのなら――謝ります」
「――い、いえ――そうじゃ、ありません。そんなんじゃ」

 小さな声。しかしハッキリとしたその言葉に、ネギは俯き、視線を彷徨わせる。

「確かに、私は――ネギ先生の何を見ていたというのでしょうね。そんなにも悲しそうなネギ先生を見て、私には何も分からない。ネギ先生のつらさが、一体何処から来るものなのか、それがわからない」
「そ――そうじゃ、ない! そんなことが――そんなことが言いたかったんじゃないんです! 僕は――僕は、あなたに意地悪が言いたかったんじゃない!」

 頭を抱え、ネギは首を振る。

「僕は――僕は、あなた達の先生です。自分がまだ子供で、馬鹿で、失敗ばかりして――そんなことはわかってる。わかってるんです! それでも僕は――宮崎さん達の先生でいたかった」
「はい――私は、ネギ先生が先生になってくれて嬉しいです。嬉しすぎて――舞い上がっていただけなんです。先生の言うとおり、私には何も見えてなかった。だから――正直、心の中が真っ白になりました」
「あ……う……みやざき、さん」
「挙げ句、“ネギ先生を元気づけるため”――そんな名目があったにしても、馬鹿なゲームに乗っかって、自分勝手な想いを、ネギ先生に告げて」

 のどかの言葉は、途絶えない。
 夕映はうろたえるしかない。彼女は正気なのだろうか? ネギのあまりの反応に、何処か変なスイッチでも入ってしまったのではないだろうか?

「けれど――いえ」

 そんな夕映の心境を知ってか知らずか。のどかは首を横に振り――顔を上げる。いつも顔の上半分を覆う前髪をかき分け――遮るものの無い視界で、彼女はネギを見る。

「……さっきは、勝手なことを言って本当にすいません」
「あ、い、いえっ――その、僕の、方こそ。ちょっと――疲れてる、みたいで。取り乱して――」

 ネギは浴衣の袖で乱暴に顔を拭い――慌てて、のどかに言う。

「その――僕は少し、前が見えなくなりかけていたんです。僕は本当に先生をやり続けていいんだろうか。そんな思いにとらわれて――だから、怖かったんです。宮崎さんが僕の事を好きだと言ってくれたのは、本当に嬉しい。けれど、それが“一生懸命な僕”というものを見たからだと言うのなら――」

 拳を握りしめて、彼は言う。少し自分より高いところにあるのどかの瞳から、目をそらす事無しに。

「僕は本当に、そんなことを言って貰える資格があるんだろうか、って」
「そんなものは関係ありません。資格なんて――」

 その言葉に、のどかは首を横に振った。

「私が勝手に思って、勝手に言い出した事です。ネギ先生に求められるものなんて、何もありません」
「でも! ――でも、僕は馬鹿で、臆病です。宮崎さんの気持ちに応えられるような人間じゃないかも知れない。それが僕は、とても怖い。そして――そんなことを考えてる自分が、堪らなく嫌になる」
「先生」

 ネギは吐き捨てるように言うが――彼女の言葉に、揺らぎはない。先ほどまでの不安そうな彼女が、まるで嘘のように。
 彼女は何かを吹っ切ったのだろうか? 友人の顔を見ながら、夕映は考えてみるが――今の状況は、彼女の理解の範疇を超えたものだ。答えは、出ない。

「それは私も同じです。私はネギ先生が好き。その気持ちに嘘は無いけれど、だったら私はネギ先生の為に何が出来るのか――いえ、“どうしてあげたいのか”さえ、わかっていなかった。そんな自分勝手な自分が――嫌に、なります」
「そんな――宮崎さんは、宮崎さんは――」

 ネギは彼女の名を呼び――言葉が継げずに、小さく俯く。そんな彼に――のどかは、優しく言う。

「ネギ先生――私には、何も大した事なんて出来ません。ですが一つだけ、私は決めました」
「決めた? 何を――です?」
「私は、自分勝手に自分の思いを、ネギ先生にぶつけただけでした。それが、精一杯だったんです。自分の気持ちはもう、我慢できないところまで来ていて――けれど、その思いの向こう側に、私は何を望んでいたのか、それがわかっていなかった」

 その言葉に小さく反応したのは、ネギではなく夕映だった。
 のどかは非常に臆病で、引っ込み思案な性格である。もとよりこのゲームへの参加にしても、自分が強く後押ししなければあり得なかっただろう。例えそれ故に、他の誰かにネギの唇を――ひいては心を奪われることになっても、彼女は自分の感情を押し殺して居たのかも知れない。
 そんな彼女が見せた小さな“欲張り”――もはや目的も結果も無くした、この混沌とした状況で、夕映は何となく、ただその事実だけが何かの救いになっている――そんな気がした。
 そしてそんな臆病な少女が、ネギへの想いの向こうに求める“我が儘”それは――

「ネギ先生。私は――あなたの、力になりたい。私なんかに何が出来るかわからない。何も出来ないかも知れない。私なんかじゃ、邪魔なだけかも知れない。けど――お願いです。先生が、今の自分に不安を感じているというのなら――私に自分の言葉への責任を取らせてください。ほんの少しで良いから――あなたの支えになろうとする事を、許してください」

 そう言ってのどかは、ネギの肩に手を掛ける。
 今度は、彼はそれを拒まなかった。いや、反応できなかった――と言う方が、正しいだろう。

「それが、私の願いです」

 そうして二人の距離は、ゼロになる。



[7033] 三年A組のポートレート・「仮契約」
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/02/25 00:01
「なんか藪守サンの方は、予想通り過ぎて賭になんなかったけど――まさか本屋ちゃんがあんな反則すれすれの手段で勝っちゃうとはね」
「と言うか、最初からルールなんてほとんど決めてなかったじゃん? そう言うこと言い出したら、枕抜きで藪守さんに殴りかかったクーちゃんとか、のっけからアウトだったって話になるんだし」
「でもそれじゃそれこそ賭になって――いや、皆まで言うな。桜子、その食券の束見せつけんじゃねえ」




 一夜が明けた水曜日午前八時――京都某所、ホテル嵐山。
 そのロビーには、朝食を済ませた少女達の、姦しい声が響いていた。話題の中心はもちろん、昨晩行われたお祭り騒ぎ――“クチビル争奪・ラブラブキッス大作戦”と銘打たれたゲームの結果についての事である。
 枕を武器に教師の目をかいくぐり、彼女たちの担任であるネギ・スプリングフィールド教師――あるいは、修学旅行唯一の欠席者である相坂さよを通じて知り合った青年、藪守ケイの唇を奪った者が即ち勝利者であるという、至って単純かつ馬鹿馬鹿しい内容のもの。
 彼女らと出会って日が浅いケイなどはターゲットになり得るのか――あるいは、明らかに彼に好意を寄せる少女の一人勝ちとなれば、賭の対象としてのゲームが成立しないのではないか、などと器具もされたが、蓋を開けてみればどういう事はない。
 ケイを狙うグループは、適度に“面白みのある”戦いを展開しつつ、最終的に勝利者となったのは、本命の少女であった。
 むしろ“ゲーム”として盛り上がらなかったのは、“ゲーム”としての本命であった筈のネギ少年を狙うグループであった。
 彼は同じ引率教師であり、このゲーム最大の障害物として認識されていた学年主任教師――“鬼の新田”の側からほとんど離れる事が無かったために、少女達には手が出せなかったのだ。唯一ネギが彼の側から離れたのは、トイレに立った時くらいであるが――流石の彼女たちも最後の情けか、彼の人間としての尊厳くらいは尊重したかったらしい。
 もっとも彼は果たして、トイレに立つふりをして、知人の青年に連絡を入れたりもしていたのだが――それは今更言っても詮のないこと。
 結局ケイを狙う少女達の争いに幕が引かれ、ネギを狙う機会が訪れず――“ゲーム”自体が自然と立ち消えて尚、彼を待ち続けていた少女――その引っ込み思案な性格故に、真剣さを表されつつも“賭”の対象としては人気の低かった少女が、彼の唇を奪うこととなった。
 これはルール違反と言えるのだろうか?
 いや、そもそもルールなど、最初からこんな馬鹿なゲームにはあってないようなものである。それより何より、少女――宮崎のどか自身にとって、あくまでゲームとはついで――“きっかけ”の話。彼女の目的はゲームの外側にあり、彼女自身の問題に根ざしたものだった。
 ともかく――昨晩のゲームについて、黄色い声で騒ぎ立てる級友達を見遣りつつ――長身の少女、長瀬楓は、先ほどこのゲームの首謀者である朝倉和美から受け取った“賞品”を取り出した。

「あ、それが例の」
「え、あ……さ、左様」

 背伸びをするような格好で“賞品”を覗き込むクラスメイトから、思わず楓はそれを隠そうとするが、もはやそんなことが許されるはずもなく。途端に彼女は、数人のクラスメイトによって囲まれてしまう。

「おー、楓姉の絵が描いてあるです――」
「ほんとだ――って、これ、すっげー手が込んでない? どうやって用意したんだか――」
「絵は、写真の加工かしら? パソコンとか使っても――ああ、やっぱいいわ。ウチのクラスなら、何かそれくらい出来そうな輩がいるしさ」
「それには納得――でも、綺麗。で、これ何が書いてあるの? 何かのおまじない?」

 彼女の手にある“賞品”――それは、一枚のカードだった。トランプ程度の大きさで、中央に緻密なタッチで楓自身が描かれており――その彼女に重ねられるように、あるいはその周囲に、少女達には理解できない言語で綴られた文字列がちりばめられている。
 拵えそのものは、何となくタロットカードにも似ているようであるが――当然、その絵柄はタロットのそれには無いものであり、意味も分からない。
 カードの中に描かれた彼女は、パーティドレスのような衣装を身に纏い、椅子に座ってティーカップを傾けている。すらりと長身で、中学生離れしたスタイルの良さを持つ彼女であるから、文字通り絵にはなるが――果たしてそれは、何を意味するのだろうか?
 彼女の背後に描かれた、テーブルクロスが掛けられた小さなテーブルと、その上で、まるで給仕のような衣装を身につけて佇む、ぬいぐるみのような猫――それらの背景が意味するものもまた、良く分からない。

「く――私もあそこで諦めなければ今頃は――しかし、私は結局、昨晩のあれを“ゲーム”として割り切ってしまっていたというのでしょうか――ネギ先生の唇を死守する、それはこのゲームが行われているからであり、それ以上の意味はないと――ああ、この雪広あやか、一生の不覚――いえ、自分が悔しいですわ! 私のネギ先生への愛はその程度の――」
「どうでも良いけど委員長、これ読めない?」
「どうでも良いとは何ですか! 私は今、自らの過ちを悔い改めて――……ラテン語、のようですね。“ナガセカエデ”……す、スペクラー? トリックス……クランデス……ティナ? 申し訳ありませんが、私にもラテン語はちょっと……」

 拳を握りしめて、何処か遠くを睨み付けていた雪広あやかに、楓が持っていたカードを突きつけてみるも――中学三年生としては相当に外国語に堪能である彼女であるが、流石に万能の翻訳家と言うわけではない。刻まれた文字列がラテン語であると特定できただけでも、大したものだと言うべきかも知れないが。
 さてもう一人の“勝利者”である宮崎のどか嬢はと言えば、和美からカードを受け取るなり、逃げ去るように何処かに行ってしまった。彼女の普段の性格を考えれば、致し方のないことだろう。
 ただ――級友にはやし立てられるのが恥ずかしいと姿をくらます――その行動はいつもの彼女らしいと言えるかも知れないが、しかし今朝の彼女は――何処か、いつもと雰囲気が違っていた。
 いつもその瞳を覆い隠すようにしていた前髪を、ヘアバンドで持ち上げていたからだろうか? しかし彼女の雰囲気の違いが、ただ髪型から受ける印象の違いだと言い切ってもいいものか。
 何というか今朝の彼女は――少しだけ、いつもより嬉しそうに見えた。
 昨晩にネギの唇を奪えたから、そうだというのだろうか? もちろん、それはあるかも知れない。彼女のネギに対する想いは、クラスの仲間皆が知るところだった。
 しかしとうのネギの様子が昨晩とあまり変わらないのは、どういう事なのだろう。楓を取り囲む一団を、更に遠間から眺めつつ、神楽坂明日菜は思う。
 彼はと言えば、相変わらず何か思い詰めたような顔をして、一人でロビーのソファに座っていた。それが妙なのだ。のどかの性格からして、彼の唇を奪ったと言うだけでは――彼が気落ちしているのを余所に一人舞い上がる、と言うのは、何だか彼女らしくない。

(昨日の夜に一体何があったって言うのかしら)

 夕べの“ゲーム”に対して、明日菜は思うことがあったとは言え、結局彼女はそれを静観していた。自分たちが騒ぎを起こすことは、それほど悪いことではない――ゴースト・スイーパーである千道タマモの言葉には、それなりの説得力があった。それに、ことはネギとのキスを賭けた遊び半分の――正しく“ゲーム”である。のどかの彼に対する思いを考えれば、鼻息も荒く彼女を引っ張って出て行った夕映を責める事も出来まい。
 結局考えすぎたせいか、彼女はのどかと夕映が戻ってくる前に眠りに落ちてしまったので、昨晩のことをよく知らないのだ。

(それにあのカード……何か、引っかかるような)

 のどかと楓に“賞品”として渡された、彼女らの似姿が描かれたカード。
 相当凝った作りをしていたが、確かに三年A組のクラスメイトの中には、一晩もあればあの程度のものを作れる人間は存在する。だが――不思議と明日菜は、そのカードの事が気になった。
 ラテン語で刻まれた文字列や、普段とは全く違う様子に描かれた楓の絵――単なるお守りか何かの類だと言われればそれまでなのだが、彼女の頭には、何か引っかかるものがあった。
 明日菜は、あのようなものを見たことはない。にも関わらず、何故だかあれを知っているような気がするのだ。いつもの飄々とした様子など何処へやら、クラスメイトにはやし立てられてうろたえる楓の様子を見遣りつつ、彼女は考える。

(何だろう――何処かで……何処かで、何かを聞いたような……)
「あのカードの事で御座るか?」

 不意に投げかけられた声に顔を上げれば、そこには白銀の髪を持った少女の姿。明日菜はその彼女の言葉に、小さく頷く。

「そうだシロちゃん、もう、あっちの方は大丈夫?」
「心配を掛けて申し訳ない。拙者、二日目を乗り切ればどういう事は無いで御座る。痛みも昨日に比べれば――というわけで拙者の事はともかくとして、何やら思うところがあると、そんな顔をしておられたで御座るな?」
「あ……うん、楓と本屋ちゃんが貰ったあのカードなんだけど――何か引っかかるのよね。あんなの初めて見るはずなのに――何処かで見覚えがあるような、無いような」
「ふむ」

 シロはそう言われて顎に手を当て――暫く考え込む。
 彼女も何か思うところがあったのだろうか――と、ややあって、シロの眉が、小さく動いた。

「……確証は無いが、一つ思い当たるところが」
「え? そうなの?」
「和美殿に聞くところによれば、あのカードは、オコジョ妖精のカモ殿――その魔法の力を借りて作り出されたものであると」
「あ、やっぱり“魔法”のアレなんだ」

 明日菜は納得がいったように頷いた。確かにこのクラスには、あのような緻密な拵えのカードを、一晩かそこらで作れる人間は存在する。しかしそれが“魔法”の力によって作り出されたものだと聞くと――多少不本意ではあるが、今の彼女には納得できてしまう。

「それで――いや、拙者、何分内容が内容な話なので覚えておったので御座るが――その――前にネギ先生とカモ殿が、拙者に頼み事をしたことがあったで御座ろう? ほれ――エヴァンジェリン殿の一件の折に」
「ええと――あれは確か……あッ!」

 明日菜の脳裏に、その時の記憶が蘇る。純粋な力では到底太刀打ちできないであろうエヴァンジェリンに対抗するために、ネギは――恐らくカモの差し金だろうが、シロにあることを頼み込んだ。それは彼女に、ネギの“魔法使いの従者”となって、共にエヴァンジェリンと戦ってくれないか、と言うことである。
 この世の常ならぬ怪異と戦う事が仕事のゴースト・スイーパー。資格を得ては居なかったとは言え、シロには第一線でその助手を務めてきたという経験がある。彼らが助力を求めてくるのも、当然の流れと言えばそうだろう。
 もちろん明日菜の想像通り、その頼み事に対して、シロは首を縦には振らなかったが――あの時、カモは何と言っただろうか?
 ――“魔法使いの従者”などと大層な事を言っても、本式のものでなく、あくまで“仮”の契約というものがある。
 ――しかし“仮”の契約とは言っても、本式のそれと同様に、主従は魔法の力によって結ばれ、従者は主の魔法の力によって、力が底上げされる。
 そして――彼の言うところによれば、その契約は、魔力を込めた陣の上で、主従となる二人が“キスを交わす事によって”成立し、更に従者には、“専用の武器”が与えられる――

「まさか、あれって!?」
「本人に聞いてみない事には確証は無いが――口づけを交わす事によってもたらされる、魔法の道具――明日菜殿が気に掛かっていたものと言えば、そうではないかと思われるが」
「……あんのクソオコジョ――ネギがあの様子じゃ、多分あいつの独断なんだろうけど――どうしたモンかしらねシロちゃん。あの馬鹿が余計な事するのにはいい加減慣れてきたつもりだったけど――オコジョって食べられるのかしら」
「血抜きをすれば食べられぬ事は無かろうが――流石に話の通じる相手を食べてしまうのは後味が悪かろう。まずは事情を聞いてみてからでも遅くはないで御座るよ」




「へー……それじゃあんたは、私をダシにしようとしたわけだ――まあ、それはいいわ。それ自体はね。元々はあたしが言い出したことだし――あんたが夕べ言ってた“理屈”も、一応筋は通ってる」
『理解が早くて助かるね、ブンヤの姐さん。ならもののついでに、俺っちを理解してくれてるあんたが、どうして俺っちを握りつぶさんばかりの勢いなのか、それを聞いても構いませんかね?』
「だったら最初からそう言え。ハッキリ言えば、あんたは間違っていない。ただな、あたしは“そういう”やり口が一番嫌いなんだよ。そういう――“立派な魔法使い”のやり口って奴がな」
『そうかい、なら話は早え。昨日のアレは俺っちの独断だ。兄貴はこの事に何も関与しちゃいやせん。それはあんただって知ってるでしょうや? 昨日の一件は“単なる小悪党の浅知恵”であってだな、“立派な魔法使い”のやる事じゃねえ。それなら満足だろう?』
「ええ、そうね――ここであんたを握りつぶしても、“立派な魔法使い”のネギ先生には、それほど後腐れは残らないって事か」
「いや後腐れは残るからやめときなさいな。あとあんた、ねずみ取りに引っかかったネズミの死骸って、見たことある? 車に轢き潰された猫とか――そう、そう言う顔が出来るなら、素手でそいつを握りつぶすのはオススメ出来ないわよ」

 小さなカモの体を両手で掴み、その腕に力を込めようとした和美に、疲れたような顔でタマモが言う。
 相坂さよの一件から、朝倉和美は魔法使いの“やり方”というものを嫌悪している。とはいえ、“魔法使いそのもの”が嫌いだというわけではなく、ネギに接する態度なども以前とは変わらないが――それでも今回カモがしでかした事は、彼女の心の撃鉄を下ろすに十分なものだったようだ。
 “クチビル争奪・ラブラブキッス大作戦”――和美が提案した馬鹿馬鹿しいゲームに便乗してそこに仕込みを入れ、あわよくばネギの戦力――“魔法使いの従者”を確保しようとした、その行動は。
 僅かに力が抜けた和美の手から、カモはするりと抜け出し――テーブルの上に、すとんと腰を下ろす。
 それを見て、シロと明日菜も小さく安堵の吐息を漏らす。麻帆良に現れてからこちら、ネギのそばについて余計な事ばかりを繰り返すカモには、明日菜も言いたいことが山ほどあるが――事情を聞くやいなや、カモに掴みかかった和美の姿を見て、彼女の頭の中は僅かばかり冷静になった。

「そこのオコジョが余計なことをしたってのは、私も思うけどね。別に状況が悪くなった訳じゃあない。あの子かウチの馬鹿猫にキスしたら、何かしらの“魔法のアイテム”が手に入る、ってのは、あんたも承知してたんでしょ? なら、今になってそのオコジョだけを責めても仕方ないわよ」
「それは――そう、なんですが」

 言われてみればその通りである。和美は昨晩カモの助力の申し出があった際、それが“魔法”を使ったやり方で、“賞品として魔法のアイテム”が得られる、と言うところまでは自分で了承していたのだ。結果としてその“魔法のアイテム”というものが、「魔法使いとの主従関係を結ぶ」という、和美にとって理解の外にある契約の副産物であった――と言うだけの話であって。
 和美にこの結果までをも考えて行動しろ、と言うのは無茶な注文だろう。しかし、何も知らない被害者のように振る舞って、カモだけを責める事もまた、難しい。もっとも自らを小悪党と嘯くカモは、その程度のことなど気に掛けないかも知れないが。
 タマモは小さく息を吐き、テーブルの上のカモを見遣る。今現在この部屋にいるのは、タマモとカモ、それにシロ、和美、明日菜の五人のみ――出来ればこと“魔法”に関しては右に出る者のないエヴァンジェリンか、あるいは浅野でも居れば、彼女としては楽だったのであるが――今更彼女らを呼びに行くのもどうかと思う。
 テーブルの上でつぶらな瞳をこちらに向ける小動物の腹の底など、たかが知れている。まさに彼は、自分でそう嘯く程度の“小悪党”――それ以上でも、それ以下でもない。
 だからこそ、タマモとしてはやりにくい。
 非常に単純な動機で物事を引っかき回し――挙げ句、その行動が及ぼす影響が量れない。当然である。彼は後のことなどあまり考えずに行動しているのだから。
 その上彼の馬鹿げた行動原理には、何となく親近感すら覚えてしまうのだ。タマモの脳裏に、亜麻色の髪の美女――己の上司の姿が浮かび上がり、彼女は慌ててそれを打ち消した。

(……こいつもいっそ“小悪党”なんて自称してないで、あの人類のリーサル・ウェポンくらいに成長してくんないかなー……そしたら私ら、わざわざこいつの尻ぬぐいなんてしなくていいんだし)

 たとえば、たかだか己の体重管理のために、呆れんばかりの騒ぎを繰り広げ、挙げ句湯水の如く金を使ってそれを無かったことにしただとか――上司の武勇伝を思い返したタマモは、大きく息を吐く。

「……つか、私もなんであんなところに勤め続けてるのかな。いい加減、身の安全は保証されたって言うのに」
「は?」
「いやいやこっちの話。それで、“仮契約”とやらで手に入るアイテムってどんなのよ? 突然爆発するとか、破壊されると持ち主が死んじゃうとか、そういうどっかのゲームの呪われたアイテム云々――みたいなモンじゃないでしょうね?」

 付き合いの長いシロにだけは何となく、彼女がどういう思考経路を経て今に至るのかが何となくわかってしまったが、敢えてそれを口には出さない。彼女とて、くだらないことで自分の身を危うくする愚を犯さない程には、成長したのであるから。

『安心して下せえな、そう言う危険は一切ねえ。仮にカードが破壊されたところで、主従の契約が破棄されるだけだ。逆に言えば、カードを破棄するだけで、契約を打ち切れると考える事も出来る。俺っちとしちゃ残念だが、どうしても気に入らねえなら、それこそカードを千切って捨てちまえばいい』

 カモは何処からか、二枚のカードを取り出す。それは今朝方、楓とのどかが持っていたのと同じ絵柄のカードであった。
 彼が言うには、仮契約によって得られるカードは一枚であるが、主が持つ為のものと、従者が持つためのものに分割出来るのだという。彼が持っているのは、今朝方彼女らに渡されたカードからコピーされた、“主”用のカードらしい。
 本来ならそれは、彼女らの“主”である、ネギとケイの手に渡されるべきなのだろうが――

『ノッポの兄さんはともかく、今の状態の兄貴にこれを渡しても、混乱するだけだろうしな。しばらくは俺っちが預かっておくぜ』
「賢明な判断ね。それで――これ、ただのカードじゃないんでしょ?」
『もちろんでさ、いくつか機能はある』

 カモが言うには、このカードには大きく分けて二つの機能があるという。
一つは、“主従を繋ぐ魔法のライン”を作り出すこと。
カードを使えば無線のように主従間で通信をする事が出来るし、カードを通じて魔力を相手に送り込み、身体能力や魔法の力を底上げする事が出来るのだという。
 そしてもう一つは“従者専用のアイテム”を呼び出すことが出来ることであり、これこそが“仮契約”を行うことで得られるもっとも大きな能力であると、彼は言った。

『何せ、“従者の特性に合った専用のアイテム”が現れるんだ。そのチョイスがランダムとは言え、そいつはもちろん“魔法使い”じゃなくても扱える。それを行使することにこれと言った制約や制限はねえ』
「へー、それは中々便利じゃない。それで、このお二人さんの“魔法のアイテム”ってのは、どういうものなの?」
『そいつは実際に呼び出して見ない事には何とも言えねえな。“ニンジャ”の姐さんと本好きの姐さんに“合った”ものであることは確かですがね――こればかりは契約した本人にしか呼び出せねえ』
「と言うことは、あんたの説明に嘘がないって前提での話だけど――どうやら和美ちゃん、これはあんたの危惧を上回るような危険物じゃ無いみたいだわ。むしろ魔法のアイテムが手に入ったと喜ぶべきかも。うちの馬鹿猫には後でそれとなく説明して、あとは本人の判断に任せるけど――」

 タマモに言われ、和美は小さく頷く。完全に納得が出来たわけではないが――それでも、これは昨晩の自分の予想を、大きく上回る危険物――と言うわけでは無さそうである。少なくとも夕べカモが言った言葉に“嘘”はない。知らずに持っていればただのカードであるし、気に入らなければ好きなときに破棄できる。ケイと楓に関して言えば、それほどの心配はないだろう。
 問題は、ネギとのどかの方だ。夕べのゲームの結果、知らない間に自分がのどかと“魔法使いの主従契約”を結んでいたと聞かされれば、またネギは混乱するだろう。しかし彼に黙ったまま契約を破棄するのは難しい。今朝ののどかの様子では、彼女が渡されたカードを事情も聞かないまま廃棄する筈もない。さりとて、魔法使いでない彼女に本当の事は話せないから、“事情を伝える”こともまた出来ない。

「……ま、後のことは後で考えればいいでしょ。今日は連中も動くかも知れないし――私たちは仕事に戻るから、あんたらも昨日の事は一旦忘れて、適当に旅行を楽しみなさい」
「自分で地雷を投げ込んだ女狐が、何を言うか」
「野生の欠片も感じない馬鹿犬が、何を吠えるのかしら?」

 結局これと言って結論が出ないままに、いつも通りの気楽な様子で話を打ち切ろうとするタマモに、シロが小さく悪態を付くが――だからと言って、彼女の方にも妙案があるわけでもない。
 そのまま女子中学生達は踵を返し――ふと、部屋の出口で和美が足を止め、小さく言う。

「……ごめん……カモ、結局あたしも、あんたのこと責められなかったわ」
『気にすんな、ブンヤの姐さん。言ったでしょうや、俺っちは小悪党だ。詫びなんざ必要ありやせん』

 彼女はカモに向き直らないまま、シロ達と共にドアの外に消える。
 その姿を見送って――タマモは腕を組み、カモの座るテーブルの脇に腰を下ろす。

「……私ってさ、めんどくさいこと嫌いなの。他人の尻ぬぐいとか、死んでも嫌なの。ホントはね」
『そりゃ、好きだという人間はそうそう居ないでしょうがね』
「だからさ、あんたがややこしくしたこの事態――もうどうしてくれようかと」

 大仰に手を挙げてみせるタマモ――その細められた瞳に、カモは背中の辺りがむず痒くなるような嫌な感覚を覚える。

『……悪いが、俺っちは煮ても焼いてもさほど美味くは無いでしょうよ。姐さんの胃袋が鉄で出来てたとしてもだ、腹の保証はしやせんぜ』
「安心しなさい。私は何処かの馬鹿犬と違って、それなりにグルメなの――代わりに……そうね、“七割”で手を打つわ?」
『――ッ!? な、何の事ですかいね?』
「とぼけるつもり? こちとら、あんたの百倍は強烈な上司を相手にしてるのよ? その劣化版のあんたが“馬鹿”をやる理由なんて――何ならこの事を“ネギ先生”に相談しても良いんだけど」
『く――よ、四割で。しかし報酬はオコジョ妖精の通貨ですぜ?』
「おっけ、六割ね。馬鹿ねあんた。貨幣なんてものはね、存在してればもうその時点で“商売人”の天下なのよ――蛇の道は蛇というか――底のところの詳細、聞かせて欲しい?」
『……遠慮しときやす』




「和美殿、あまり気を落とされるな」
「え? あ……ごめん。そんなに気落ちしてるように見えたかな」

 部屋に戻り、私服に着替えて身の回りの準備を整え――そろそろ、各々の目的地に向けて出発しようかと言うときに、不意にシロが、和美に言った。

「少なくとも、元気があるようには見えなかったで御座るな。何というか――もしかすると、ネギ先生と和美殿は、案外似通った性格なのやも知れぬ」
「あたしがネギ君と? ちょっと勘弁してよ。そりゃま、あたしも昨日の事には結局思うことが出来ちゃったけどね――あたしは、あんなに生真面目な性格してないわよ」
「そうで御座ろうか?」

 そう言って、シロはワッペンの縫いつけられたキャップをかぶる。彼女の今日の格好は、この旅行の為の買い物に行った時のそれに近い洋装である。流石に修学旅行の自由行動に着物で出歩く生徒は居ないだろうが――それでもやはり、いつもの彼女を見慣れた和美には、違和感がぬぐえない。
 シロはレーシング・チームのロゴが入ったTシャツの上から、ダークグレーのデニムジャケットを重ね着して、袖をまくり上げる。似合わないわけではなかったが、彼女の体格にそのジャケットは、随分と大きいような気がした。

「シロちゃんそう言うのが好み?」
「“ぷりちー”で御座ろう?」
「いやまあ、可愛いと言えば可愛いけどさ――そんなオーバーサイズの上着着てたら、折角のボディラインがさぁ。シロちゃん意外と胸おっきいんだし……」
「“意外と”は余計で御座る……何というかいちいち目の付け所が気になるが。別に男の目を引きたいわけで無し、似合っているなら十全で御座ろう? それに――これは、先生のお下がりで御座る故」
「うあっ……久しぶりに出やがった、このナチュラルなノロケ――通りでブカブカなわけだ。そう言えば――」

 ふと、和美は、そのジャケットが見覚えのあるものであることに気がつく。そうだ、これは確か――相坂さよの精神の世界に入り込んだときに、そこに現れた横島が身に纏っていたものだ。

「ええと、『横島式除霊装備・後期型』だっけ?」
「……和美殿は何処でそれを?」
「いや、さよちゃんの一件の時にちょっとさ。別に深い意味はないから、その親の仇でも見るような目線はやめてくんないかな?」
「失敬」
「何て言うかホントに――シロちゃんって、横島さんが好きなのねえ」
「それが何か問題でも?」
「いや、別にそう言うんじゃ無いけどさ」

 シロは、自分の眉が小さく動いたことを、他人事のように感じ取った。そして同時に――“平静を装おう”としている自分の気持ちにも気がつく。

「ま……その事とはあんまり関係はないけど。シロちゃんはあたしよりも、随分と大人に見える」
「それは気のせいで御座ろう。拙者とてたかが十四歳の小娘。思慮も浅ければ出来ることもたかが知れておる」
「それでもなんつーか……シロちゃんって、空回りだけはしない気がする。空回りしてもさ、それはそれで無理矢理前に進むって言うか、そんな感じ」

 和美は肩をすくめ、シロに向かって首を横に振る。

「ごめん、忘れて」
「……拙者が言っても詮なき事やも知れぬが――夕べのことなら、あまり気にせぬ事で御座るよ。状況が悪くなった訳で無し――和美殿は和美殿で、ネギ先生の力になろうとしたのであろう?」
「……半分以上はあたしの趣味、だけどさ。結局、あたし、わかってなかったのかな? 木乃香のお爺ちゃん――学園長先生の事でさ。どうにも、あたしにはアレが気に入らなくて――でも、自分勝手な善意なら、あたしも同じじゃん」
「和美殿、その悩みは一言で解決できる――考えすぎ、で御座る。その一言に尽きる」
「そう? ん……シロちゃんにそう言って貰えると、助かる」

 和美は一度伸びをして――でも、と言って、肩を落とす。

「でもそれじゃ、あの爺さんと一緒だよね。学園長先生は結局――誰かに許して貰いたかったんだから」
「過ちを犯したときなど皆同じで御座るよ。誰かに許して貰いたくて、されど、誰に許しを請えばいいのかもわからない。皆、そのような葛藤を背負って生きていく」
「シロちゃんも?」
「当然で御座ろう」

 シロはリュックサックを肩に掛け、和美を振り返る。言葉とは裏腹に、その表情に迷いは感じられない。
 ああ、そうか、と、不意に和美は思う。言葉には出来ないけれど――自分とネギが似ていると彼女が言ったのは、“こういう”事なのかも知れない。何故なら恐らく今の自分は、何か失敗をしでかして新田当たりに叱られるか慰められるかされて――クラスの人間にもみくちゃにされて――そんな時の彼と、同じような顔をしているのだろうと、そんな風に思えたからだ。

「実はこのジャケット、先生には無断で拝借しているもので――あげはに何と説明したものかと」
「って、許しを請うってそう言う意味かい!?」
「い、いや、出がけにあげはに釘を刺して来た手前、何というか心苦しいというか……」
「……横島さんにねだって同じようなジャケット買って貰ったら良いじゃない」
「何を申すか和美殿。先生のお下がり、と言うのが重要なのでは御座らぬか! これを羽織っているともう、先生に抱きすくめられているような感じがして……拙者、もう、もう……」
「よしわかった。とりあえず生理痛はもう大丈夫そうね? ……なんつーか……ああ、もういいや」

 一体その言葉のどれほどが本気であるのやら――横島同様に、底の知れない目の前の少女に苦笑を浮かべ、和美は小物入れを肩に掛けた。

「貸し一つ、かな」

 そう言って彼女は、シロの返事を聞く前に、部屋のドアを開ける。










色々課題を残しつつも、修学旅行編、佳境に入ります。



[7033] 三年A組のポートレート・仮装舞踏会
Name: スパイク◆b698d85d HOME ID:43bc7a94
Date: 2010/03/01 22:11
「太秦シネマ村言うたら――修学旅行の定番やね。京都出身の人間としては、ちょいと面白みに欠けるトコやけど――ここやったら、ウチも何遍か来たことあるし、ガイドさんの代わりは出来るえ?」

 関所を思わせる門をくぐってみれば、そこには江戸時代の町並みが広がっていた――
 水曜日午前十時半、京都太秦シネマ村。麻帆良学園本校女子中等部三年A組、修学旅行第三班および第五班は、京都に訪れる修学旅行生の、ある種の定番ともなっているテーマパークを訪れていた。
 当然京都の一角にあって、三十年からの歴史を誇るテーマパークである。京都出身の木乃香には馴染み深いのだろう。まるで未知の惑星にでも迷い込んだように周囲を見回す級友――エヴァンジェリンの肩に手を置き、一つ咳払いをしてから、彼女らに向き直る。

「ほんなら、この自由行動にはガイドさんもおらへん事やし、僭越ながらウチが案内役を務めさせてもらいますえ? いくら雑学においては右に出る者のおらへん夕映かて、こと京都においては、一日の長がウチにあるはずや」
「流石に京都出身の人間に、地元の情報で勝てるとは思いませんよ。その役目、謹んでお譲りするのです」

 三年A組の雑学大王にして“馬鹿ブラック”――ある意味で相反する渾名を持つ小柄な少女は、苦笑して木乃香に視線を送る。はて、そうは言っても一昨日の清水寺で、本職のガイド顔負けの解説を行っていたのは彼女ではなかったか――流石の木乃香も、かの寺の来歴までは知らなかったわけで――シロはそんなことをふと思ったが、口には出さなかった。

「もともとここは、そのものずばり、映画の撮影のために作られた場所やったんや。せやけど、昭和の高度成長期以来、テレビの普及や何やらで、映画の需要が落ち込んでな? これだけの施設を、単に撮影だけで保持する意味合いが薄れてきたんや」
「へー、それじゃ、それでいっそのこと、セットをそのままテーマパークにしちゃおうって、そう言う発想?」
「その通りや和美ちゃん。以来このシネマ村は、時代劇映画をモチーフに、チャンバラショーや戦隊ヒーローショー、映画についての資料を見学できたり、そのもの時代劇や映画の撮影をやっとることもある――そう言う場所や」
「ふーん……いや、面白そうだけどさ……」

 そう言って顎に手を当てる和美の表情は、何処か冴えない。
 大の日本文化通であり、日本の文化をこよなく愛する少女――エヴァンジェリンが、不機嫌そうに彼女に問うた。

「いやね、ある程度面白そうではあるんだけど、しおり作ってた時から――あたしは時代劇とか、あんまり興味ないし、戦隊ヒーローで盛り上がろうって歳でも無いし――第二候補地だったハワイに比べると、見劣りするって言うか」
「ふん、海と砂浜と観光客しかいない島の何処に、この素晴らしい場所に敵う要素があるというのだ? 見ろ、この町並みを。セットとわかっていても、まるで江戸の昔に迷い込んだようではないか――何とも、胸躍る」
「せやせや。和美の気持ちもわからんでも無い――まあ、その辺りは後々のお楽しみという奴や。それと――ここに足を踏み入れたからには、一つだけ守らなあかんルールがあるんや」

 木乃香は人差し指を突き立てて、不敵な笑みを和美に向ける。

「それは単純にシンプルなルールや。ええか? ここに足を踏み入れたその瞬間から、ウチらは時間の迷子になったんや。ここは時代劇のセットやない、江戸時代の城下町や。それを忘れたらあかん。ルール言うのは、“それ”や」
「……それ?」
「うちらは、時代劇の登場人物になりきらなあかん。観光に来た修学旅行生やあかんのや。目が覚めるような事言うたら、絶対あかんで?」
「なるほどね」

 くすりと大人びた笑みと共にそう言ったのは千鶴である。彼女は、木乃香の言葉の意味を正しく理解したようだった。
 体験型のテーマパークに共通して言えることであるが、そういう場所を楽しむコツの一つは、とにかく“日常を忘れる”という事である。たとえば、やれ設定がどうだとか、アトラクションがどうだとか、そう言うことを気にしてはいけない。自分は夢の国を訪れた来訪者――いや、夢の国に“入国した”異邦人であり、そこは日常とは別の世界が広がっているのである。
 この大前提に尻込みしているようでは、こういう場所を真の意味で楽しむことは難しいのだ。

「と、言うわけでや。うちらは今こんな洋服を着とるわけやけど――ここは江戸時代や。もしかしたら、こんな格好をしとったら、怪しい奴やと言われてとっ捕まえられるかも知れへん。何せ、当時の日本は鎖国のまっただ中やからな」
「まあ怖い」
「ふふ――それは一大事だな。ではどうするのだ? 近衛木乃香」
「万事ぬかりなし――や。みんな迷子にならんと、ウチについてくるんやで?」

 淀みのない足取りで歩く木乃香に案内されてたどり着いたのは、「扮装の館」と銘打たれた看板の掲げられた、一件の屋敷――つまりは、貸衣装の店であった。来客はここで、思い思いの衣装に着替え、記念撮影をしたり、そのままの格好でテーマパーク内を散策することが出来るのだという。
 和装に着替えて、化粧やかつらまで用意して貰うのだから、それなりの大仕事となる。当然、本来は事前の予約と別料金が必要となるのだが――彼女らの場合は“修学旅行の一環”と言うことで、既に予約と支払いは済ませてあるらしい。

「せやかて、うちらの学校の修学旅行、申告制の自由行動やろ? ユニバーサルスタジオやとか、水族館やとかに行っとる班もあるし――入園料にも差が出とる。シネマ村の入村料なんて、他の遊園地に比べたらたかが知れとるんやし、これくらいしてもらっても罰は当たらへんて」
「つまり木乃香殿直々に、学園に交渉したと?」
「あ、念のため言うとくけど、お爺ちゃんに直訴したわけやないからな? 勇気を振り絞って、新田先生に言うてみたんや」

 スタッフに着付けをして貰いながら、木乃香は得意げに胸を張る。この少女は、普段のほほんとしているようで、その辺りの気質はやはり関西人というか――ともかく、ある種の場面に於いては、結構な行動力を発揮するのである。
 そんな彼女に柔らかな笑みを向けつつ、シロは帯の形を整える。普段から和装を着慣れている彼女のこと。スタッフの方が感心してしまう程に、その着付けは様になっている。
 見れば、他の少女達も皆、思い思いの仮装を楽しんでいるようだった。

「ね、ね、どう? 色っぽい?」
「和美は花魁かあ、あんた顔がキツいからそう言うの似合うよ」
「……村上、あんた私に何か恨みでも――い、いや、昨日のことは忘れて頂戴。それよりなんであんた腰元なのよ。もっと格好いい衣装あったでしょ」
「いいのよ、どうせ私、派手なのあんまりに合わないし、ちょっと苦手で――ッ!? ち、ちづ姉!?」
「ちょ――ちょっと待て那波!? あんたそれ何よ!?」
「何って――“遠山の金さん”だけど」
「いや、そんなさも平然と――ああ、剥き出しの肩が! サラシに押さえられた胸が! ガチでその下どうなってるんだって裾が――放送禁止ものよ、あんた!」

 案の定始まるいつも通りの大騒ぎに、まだこのクラスに入って日の浅いシロは口元を引きつらせ、木乃香は口元を押さえて、おかしそうに笑う。彼女の仮装――舞妓の格好にその仕草は、妙に似合うものだった。

「毎度毎度千鶴ちゃんには驚かされるなあ、シロちゃんどう思う? あの着物の下、ふんどしか何かやろか」
「いやそれは拙者に聞かれても――おや、エヴァンジェリン殿は新撰組で御座るか? 清水寺のアレが余程気に入ったのか、意外で御座るな、てっきりもう少し、きらびやかなものを選ぶと思ったので御座るが」
「命を賭けた覚悟と共に、幕末の闇を駆け抜けた、日本最後にして最強の剣客集団――ふふ、“闇の福音”には相応しいではないか」
「それだけ聞いたら中二病こじらせたようにしか聞こえないわよあんた」
「……神楽坂明日菜よ、貴様は余程命が要らないと――ふん、貴様も男装ではないか。女らしさの欠片もない貴様にはお似合いだ」
「いーじゃない別に。今話題の坂本龍馬よ。この北辰一刀流で、刀の錆にしてあげるわ、ってね!」
「ふふ――良い覚悟だ、今宵の愛刀虎鉄は、血に飢えておるぞ」

 幕末の名士、坂本龍馬が、北辰一刀流という剣術の免許皆伝であった――と言うのは、割と有名な逸話である。しかしまさか、よりにもよって“馬鹿レッド”たる神楽坂明日菜の口から、その様な歴史的な逸話が飛び出してこようとは――思わずシロと木乃香は揃って目を丸くして顔を見合わせるが、興が乗っているエヴァンジェリンがその事に気づかなかったのは、きっと明日菜にとっては幸いだったろう。
 ふと、その時。
 シロは騒ぎから少し離れた場所に一人立つ、小柄な少女の存在に気がついた。
 エヴァンジェリンと同じ、独特のだんだら模様の羽織を身に纏う武士――に仮装した、桜咲刹那の姿を。

「……桜咲殿」
「あ、犬塚さん――昨晩は、申し訳ありませんでした」

 シロが何気なく彼女に声を掛けてみれば、刹那は小さく頭を下げ――シロに詫びた。
 しかしシロには、その謝罪の意味がよくわからない。

「はて――昨晩、何か桜咲殿が気にするような事があったで御座ろうか?」
「……千道さんからは、何も聞いていませんか?」
「タマモから? いや、特には何も聞いては御座らぬが――しかし桜咲殿が、タマモに詫びねばならぬような事をするとは、拙者どうにも想像が出来ぬ。何を気にしておられるのか知らぬが――あのような馬鹿狐の一匹や二匹、放っておけば良いので御座るよ」

 ぴくり、と、刹那の肩が動く。
 その様子に、シロは何かまずい事を言ってしまったのだろうかと考えるが、そもそもタマモと刹那、面識すらほとんど無いこの二人に、一体何があると言うのだろうか――それがわからないシロには、当然わかるはずもない。

「……刹那殿? 拙者――何か悪いことを行ったであろうか? タマモが何か失礼をしたと言うのなら、拙者土下座をして許しを請う所存で御座るが」
「いえ――失礼、などと。ただ――犬塚さん。犬塚さんは――千道さんと、同じ――なん、ですよね?」
「……何がどうなってそう言う結論に達しておるのかは存ぜぬが――失礼ながら拙者、あの馬鹿狐と一緒にされるのは、この上なく不愉快で御座る」
「いえ、あの――そう言う意味でなく――犬塚さんは」
「おっ! せっちゃんも新撰組や! ウチも新撰組にするべきやったかなあ、そしたら、ウチとせっちゃんとエヴァちゃんで、“新撰組揃い踏み”みたいなん、出来たのに」

 不意に割り込んだ木乃香の声に――喘ぐように言葉を探していた刹那は、口を閉ざしてしまう。
 木乃香に対して、彼女の態度が妙であることは、シロとて気がついている。当然、木乃香自身も気がついている。それは、彼女自身の口から聞いている事だ。
 それでも――彼女は敢えて、何でもないように刹那に話しかけたのだろう。歩み寄ろうとし続けるのだろう。近衛木乃香とは、そう言う少女だ。
 だから――シロは咄嗟に、身を引こうとした刹那の腕を掴んだ。

「!? 犬塚さ――」
「ほほう、これはまた、可愛らしい新撰組もあったもので御座るな。虎鉄がどうこう言っていた以上、エヴァンジェリン殿は近藤勇で御座るか?」
「流石にちょっと可愛らしすぎるなぁ、せやけど、それはそれでアリやろか? ほんならウチが土方歳三で、せっちゃんが沖田総司、なんてのはどうやろ?」
「いやちょっと待ちなさい木乃香っ! それはそれで、アリと言えばアリかも知んないけど! 木乃香と刹那さんじゃこう、何というか――足りないのよ! 具体的にはこう、迸る妖艶なオトコのフェロモンみたいなのが!」
「何処から湧いて出た早乙女ハルナ。そして貴様は、新撰組を一体何だと思っている」
「ナニやろなあ……きっと」
「ちょっと木乃香、そんな身も蓋も無いことを」
「ハルナが新撰組にナニを求めるかはさておきや。せっちゃんもウチと一緒に、みんなの案内手伝ってんか? せっちゃん、昔ウチと一緒にここに遊びに来たこと、あったやろ?」
「――っ、お、お嬢様、しかし――」
「ま、ええからええから――」

 “機”を逃したのは、一瞬。しかし途端に刹那は、少女達の輪の中へと飲み込まれてしまう。困惑したようにこちらを見る彼女に対して、シロは一つ――あまり得意ではないウインクを、送り返して見せた。




「詳しいところはよう知らんけどな、それでも現代に比べたら、やっぱり江戸時代の治安は悪かった――っちゅう話や。その割に江戸が荒廃した場所にならへんかったのは、やっぱり日本人の気質、言う奴やろか。犯罪が起こってもそれを表沙汰にしたない――この辺り、現代人と似た感覚かも知れへんな?」
「……」

 ぱちり、と――目の前の将棋盤に、小気味の良い音を立てて駒を指しつつ、黒い着流しを身に纏った小柄な少年は言った。
 太秦シネマ村の一角、茶店風の売店の片隅に置かれた、赤い毛氈の掛かった長いす。そこに将棋盤を挟んで、二人の少年が腰掛けている。
 一人はまるで七五三のような羽織袴を身につけ、いかにも玩具然とした刀を腰に差し――しかしそう言った衣装にまるでそぐわぬ長い杖を傍らに持つ赤毛の少年。言わずもがな、麻帆良女子中三年A組担任教師、ネギ・スプリングフィールド。
 そしてもう一人、先に述べた、黒い着流しを纏う黒髪の少年。
 ――昨日の奈良観光の際に――そして、一昨晩の木乃香誘拐未遂の折に、ネギの前に現れた“自称”関西呪術協会幹部、天ヶ崎千草――その一味、犬上小太郎を名乗る少年である。
 化粧をする手間が無く、割合早く着替えが終わったネギは、ぼんやりとする頭のままで、近場にあったこの“茶店”に足を運んだ。
 彼の頭の中ではまだ、昨晩の出来事が――そして、今自分の置かれた状況が、渦を巻くように淀んでいる。それに対する解答もまだ、見つかっていない。
 ただ――昨晩までと比べると、ネギは心の何処かが軽くなっているような錯覚も感じていた。

――私はネギ先生の力になりたい――

 いつもは内気で引っ込み思案な少女は、ネギの目から見ても明らかな勇気を込めて、彼に言った。
 もっとも、力になると言ったところで、彼女――宮崎のどかに、何が出来るというわけでもない。彼女は魔法使いでなく、ネギのことも何も知らない。せいぜいが、彼が麻帆良で働くためのカバー・ストーリー――嘘の経歴を知っているくらいである。
 彼女が真にネギの力になろうと思えば、当然その辺りから彼女に教えなければならない。そんなことが出来るわけがない。だから、のどかが何を言おうが何を思おうが――彼女の思いは、届かない。

(いや――そうじゃない。宮崎さんの事じゃないんだ。僕はどうして――それを“嬉しい”と思ってる? 何も知らない彼女を、僕の方に引き込むなんて、しちゃいけないことなのに。それくらい、僕はわかっているはずなのに)

 困惑と――そして、彼女の言葉に、知らず救いを求めそうになっている自分への葛藤と。自分の歩く道の先はまだ見えず、ネギは何となく、近場にあった長いすに腰を下ろし――

「――よう、また会ったなあ、子供先生。ここ――ええか?」

 そんな彼の前に、その少年は、何でもない事のように現れた。

「せやから――あんな都合のええことは、そうそう無かったかも知れん。せやけど、ここでそう言うことを言うのも“ナンセンス”言うやっちゃな」

 少年――犬上小太郎の視線の先では、剣を振り回す男達の姿が見える。
 通りすがりの女性――たまたま通りかかった観光客に乱暴しようとした暴漢を、たまたま通りかかった正義の浪人が退治する――そう言う筋書きの、即興のショーだ。このシネマ村では、時折こうやって、観光客を巻き込んだ打ち合わせ無しの芝居が行われ、それがこのテーマパークの売りの一つでもある。
 やがて暴漢役の男達は、下手な捨て台詞と共に路地裏に逃げ去り、それこそ芝居がかった調子で刀を収める浪人役の役者に、周囲からは大きな拍手が送られる。
 小太郎は気のない拍手をそれに向けて送り、手に持った詰め将棋の本に目を落とし――暫く黙考した後に、迷いがちに駒を動かす。

「時代劇っちゅうのはそういうもんや。救われない結末なんぞ、存在したらあかんねや。正義の侍は、悪漢共をばっさばっさと斬り倒し、ほんで全てはめでたしめでたし――それ以外の結末は、認められへんねん」
「それは皮肉のつもり?」
「ようやっと返事してくれたな。せやけどそんなピリピリしとらんと――今日はあのイタチ――もとい、オコジョのオッサンはおらんのか?」
「カモ君だったら、千道さんと一緒だよ。多分」
「千道タマモ――あのとんでもない姉ちゃんか。俺はどうもあの姉ちゃんは苦手やなあ。真正面から行って勝てる相手とは思えんし、せやかて俺は、絡め手からこそこそやるのは性に合わん」
「……こうやって僕の前に堂々と姿を現すのは、その証明とでも言いたいの?」
「たまたまや、たまたま――言っとくが、俺は単なる傭兵や。この際やから言うとくが、俺の役割は、千草の姉ちゃんがアクションを起こした時に、お前らの牽制役になることや。せやからまあ、つまらん仕事やと思ってはいたんやが」
「……そう」

 仮にも“敵”であるはずのネギに対して、この少年は一体何が言いたいのか。ネギ自身には、それがわからない。自分たちの事をぺらぺらと喋ることには、何のメリットも無いはずだ。
 今朝方タマモのところに行ったカモは、今頃何処にいるのだろうか? 彼女たちの仕事の事を考えれば、このシネマ村には来ている筈だが――そしてカモならば、少なくとも口先の争いとなれば、自分よりも余程使える筈なのであるが。

「言うた筈や。俺は弱い者虐めは好かん。ぶっちゃけた話、今のお前は俺らの敵やない。西洋魔術師の期待の新星、ネギ・スプリングフィールド――拍子抜けやな。俺はお前を相手にするつもりはないし、お前が勝手に動いたところで、俺にも千草の姉ちゃんにも、大した不都合はあらへん。だから、俺はこうやって、暢気にお前の前に現れた、っちゅうわけや」
「……そう。なら、今すぐ僕の前から消えてくれない? 君が僕を相手にしないって言うなら、僕の前に居なくても同じだろう?」
「ふん――ええんか? 少なくとも俺がお前に釘付けになっとったら、そっちはそれなりに対策が取りやすくなるかも知れへんのやで?」

 小太郎は音を立てて、持っていた将棋の本を閉じ――あさっての方向に視線を向ける。先ほどまでショーが行われていたのとも違う場所――何もないように見える、ただの路地裏を。

「ふん――なあ、ネギでええか?」
「え?」
「いつまでも“子供先生”言い続けるのも面倒や。単純に名前で呼び捨てても構わんか、言うてんねや」
「……勝手にすればいい」
「ほか。なら俺のことは“小太郎”言うて呼んでくれ」
「うん――じゃあ、小太郎君、答えてくれる? 君の――君たちの目的は、一体何?」

 ネギの言葉に、小太郎は一瞬あっけにとられたような顔をして――ややあって、面白そうに口の端をつり上げる。

「中々おもろい事を言うてくれるやないか」
「僕が君たちにとってどうでもいい人間なら、別にそれくらいのことは“どうでもいい”んじゃないの?」
「はは――ちょっとだけ見直したで? 本気でそれを言っとる辺りがな――せやけど、お断りや。ネギ、お前自身は千草姉ちゃんの障害にはならん。せやけど、あの馬鹿強い姉さんやノッポの兄さん――それに、霊波刀使いの姉さんは、その限りやない。“告げ口”でもされたら、洒落にならんわ。それに――」

 肩をすくめ、彼は言う。

「俺自身は、姉ちゃんの目的を完全に知っとるわけやない。俺は単なる雇われボディガードや。俺はただ、俺がやりたいように戦うことが出来たら、それでええ」
「小太郎君――君は、頭がおかしいんじゃないの? どうしてそんなに、他人を傷つけたがるの?」
「馬鹿言うなや。俺は強い人間と戦いたいだけや。そうやって自分の“強さ”を証明したいんや。俺が強い、言うことはつまり――まあ、自己満足に浸る趣味はないさかい、多くを語るつもりも言い訳をするつもりも無いけどな。せやから俺は、お前に手を出すつもりはないで? お前の教え子さんにもな」
「それで君は、自分が正しいとでも言いたいの?」
「は――馬鹿言うなや」

 ネギの言葉に、小太郎は笑う。
 ネギの言葉など、さもくだらない事だ――彼の表情は、そう言っていた。

「俺が正しかったとしたら、何やっちゅうんや。それでお前は、納得できるんか?」
「そんなわけないだろう」
「ならその問いは無意味や。試みに問うが、お前は正義の味方と胸を張って言えるんか? 言えんわな、どれだけ自分は正しいと信じとっても、正義の物差しは一つやない。世の中には“立派な魔法使い”を心底憎んどる奴もおるやろ。それも“正しい”理由でな――まあ、小難しいことはええねん。単純にお前が、自分が正しいと信じとるんならや、お前はそうやって、女の腐ったような態度を取っとるわけがない」
「――」
「もちろん、俺自身、俺が正しいなんぞ、欠片も思っとらん。せやけど俺は――俺が“間違っとる”とも思ってないで?」

 小太郎は、先ほどつまんでいた団子の串を片手で弄びつつ、将棋の駒をつまみ上げる。
 そして暫く、何かを考えていたようだったが――将棋盤に駒を指すのと同時に、ネギの方に視線を向けた。

「なあ、ネギ。お前――人を殺した事、あるか?」
「……無いよ」
「そう睨むな、幸か不幸か、俺も無いわ。せやけど――“あるはずがない”とは、言わんのやな?」
「何だって?」
「今のこの平和な国で――いや、大概の国で、普通に生きとったら、人を殺すことなんてそうそうあらへん。大体、余程頭が狂っとるかアホな育ち方でもしとるか、そうでもない限り、人を殺そうなんざ、そうそう思わへん。人殺しっちゅうのは悪いことや、そんなことをわざわざ断らへんでも、俺らは自然にそう思っとる」
「何が――言いたいの? その質問に普通に答えた僕は、間違ってるって、そう言いたいの?」
「アホ」

 小太郎は苦笑し、首を横に振る。

「人殺しは悪いことや。せやけど、世の中やらなあかん時もあるやろ。理由は色々や。殺されて当然のゲス野郎かておるし、相手を殺さな自分が殺されてしまう状況もあるかも知れへん。せやから、人殺しかてな、悪者とは言い切れへんのや。なのにただ質問に答えただけのお前が、正しいとか間違っとるとか、言えへんやろ」
「なら何が言いたいのさ」
「人殺し、言うんもな、単なる例えや。ある種の最悪の結末や。そしてネギ、お前はな、そう言う最悪の結末に、相当近い場所に、自ら立っとるねんで? 自分を“立派な魔法使い”言うんは、そう言うことや」
「そんな! ――そうじゃない。確かに魔法使いは、命を賭けて戦わなきゃいけない時もある。誰かを守って、自分の正しいと思うことを――その為の“魔法”じゃないか! だけど――」
「アホな。何が間違いや。ちゃちな魔法の一発かて、当たり所が悪かったら死ぬんやで? それに言いたいことはそう言うことやない。警察や軍隊かて、人を殺せる武器を持っとる。ネギ、お前の言うことは正しいんや。立派な魔法使いの持つ力は、誰かを守るためのもの、自分の正しいことをやるためのもの――それでええやないか」

 小太郎は、将棋の駒を手のひらに握り込む。
 まさか東大寺の時のように、それを握りつぶすつもりではないだろうが――彼の拳が軋んだ音を立てたように、ネギには感じられた。

「お前の言い分は正しい――なら、“それでええ”やないか。何が気に入らんのや?」
「小太郎……君」
「それで割り切れへんのやったらつまり――お前は間違うとる、言う事や。俺は西洋魔術師は好かんが、そう言う事や無い。正しいのか間違っとるのか――そういう事やないんや。そう言うんはな、自分が考える事やない。仮にお前の目指す“立派な魔法使い”が正しかったとしてもやな、お前は――ネギ・スプリングフィールド自身は、それを“間違うてる”と思ってるんや」
「――ッ!」

 ネギは、音を立てて立ち上がり、小太郎の方に向き直る。弾みで将棋盤が長いすから転げ落ち。地面に将棋の駒が散らばった。小太郎はため息混じりに腰を上げ、散らばった駒を拾い始める。

「お前、魔法使いやろ。魔法使いがやりたいんやろ? せやったら――覚悟決めんかい、みっともない」
「う――うるさい!」
「うるさい? 吠えよんのはお前やろ、ネギ」
「うるさい――うるさい、うるさい、うるさい!! 君なんかに僕の何がわかるっていうんだ!」
「わかるか、アホ。俺を何やと思うてるんや。何度も言わすなやボケが。俺はただの傭兵や。釈迦でもキリストでもあらへんわ」

 その言葉に――ネギの中で、何かが切れた。
 彼は傍らの杖を取り上げ、それを振り抜いて小太郎に向け――

「おっと、喧嘩は良くないね、ご両人。火事と喧嘩は江戸の華、とは言ってもね」

 その瞬間に、二人の間に、派手な羽織を身に纏った――“火消し”姿の長身の青年が割り込んだ。
 美神令子除霊事務所所属、ゴースト・スイーパー見習い、藪守ケイ――その人が。彼はネギの杖を片足で押さえ、左腕を小太郎の方に伸ばしていた。その手のひらは、ネギの攻撃に反応しようとした小太郎の肩を、軽く押さえている。

「ふん――先に手を出そうとしたんは、そっちの子供先生やで? なあ、ノッポの兄ちゃん、こういうのは、教育委員会とか何とか言う奴に告げ口したらええんやろか」
「かもね。でも僕はネギ君に教師を続けて欲しいから――邪魔はするよ?」
「こういう大人がおるから、日本の教育は駄目になるんや」
「耳が痛いね」

 ケイはそっと、ネギの杖から足をどける。同時に、小太郎の肩からも、手を離す。

「さてそろそろ、女の子達の着替えも終わる頃だから――ここで騒ぐのはまずいでしょ」
「……したら、俺はそろそろ退散させてもらおかな。“何事も無い”ままやったら、俺の出番はあらへんのやし――」
「ふむ」

 ケイは腕を組み、小太郎の方を見下ろし――
 そして、悪戯っぽく、微笑んだ。

「こういうところを一人で回っててもつまんないでしょ。良かったら、君も一緒に来ないかい?」











チート展開というか、登場人物の強さだの何だのを際だたせるためには、
二つの「チート」があると思います。

一つは、敵を圧倒的な力とか正しさとかで下すこと。
もう一つは、明らかにパワーアップされた敵と、ノーマルのまま渡り合うこと。

うちの小太郎君を見て「誰だこいつは」と思ったお方に対しては、
とりあえず二つめを言い訳にしておきます。

さて、
昨年に購入したタブレットを、ようやく使う事が出来ました。
しかし未だペンタブレットという道具に慣れていないのと、
フォトショップを何処かにやってしまったので、
(昨年パソコンの調子が悪く、一度初期化してデータが消えました)
タブレット備え付けのソフトを使ったのですが、
これがまた使い勝手が悪い悪い。

もっとも一番悪いのは、作者の技量ですが。
文章担当ですが一応絵も描くスパイクです。
絵描きの仲間には見せられないな、と思いつつ、
でもいつかは自分も挿絵を描いてみたいので、実験的に描いてみました。

……シロファンの皆様、ごめんなさい。

http://437.mitemin.net/i4873/

「挿絵」が形になる程度の技量が付いたら、削除予定。
敢えて晒します。
底辺から成長するスパイクを見たい方は、ご自由にどうぞ。

……我ながら言い訳ばかりですね。男らしくないぞ!
精進したいと思います。



[7033] 三年A組のポートレート・演舞
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/03/08 02:11
「ふぇっ!? ケイ殿!? な、何でケイ殿がシネマ村に!?」
「何でって――僕の仕事は一応、君たちの護衛をする事なんだけど」

 “扮装の館”から出てくるなり、素っ頓狂な声を上げた長身の少女――長瀬楓に、藪守ケイは頭を掻きながら応えた。とは言えよく見れば、彼の頬も薄く染まっている。初々しいと言えば聞こえは良いが――その辺りは、二人を見る少女達の視線が、非常に生暖かいものであることを考慮する必要もあるだろう。

「う……あ、あの……あのっ……ケイ、殿」
「えーと、その、だね。昨日のことだったら――僕は、気にしてない。むしろ、その――ごめん。僕がもっとちゃんと、毅然とあの――古菲さん、だっけ? 彼女と話が出来てたら、楓さんがパニックになることも無かったかも知れない」
「そんな――ケイ殿は、謝る必要なんて――」

 そもそもパニックになったとて、楓が起こした行動は、彼女の内から湧いて出たものだ。何だか良く分からない、煮えたぎるマグマのような、あるいは凍てつく吹雪のような――そんな強烈な感覚が心の中を埋め尽くし、気がつけば彼の唇を奪っていた。
 だから、彼が謝る必要など、本来何処にもない。彼の唇を奪ったのは、楓の心を埋め尽くした、理解しがたい感情――少なくとも彼女にとっては――それ故にだ。「わけがわからなくなったので、とりあえずあなたの唇を奪いました」などと、一歩間違えれば程度の低い犯罪である。
 ケイがそのように気を遣ってくれることは、楓にとってはありがたかったが――

「まあ、とにかく――昨日のことは、お互い忘れよう。何というか、忘れた方が良い。人間ってのは、忘れることで生きていける生き物なんだ。誰にだって忘れたいことの一つや二つはある。今はそれで良いと思う」
「あの……ケイ殿」

 咳払いをしつつ、首を横に振るケイに、楓はおずおずと言う。その姿に、いつもの飄々とした彼女の面影は、何処に求めようもない。

「“私”は――忘れなくても、いい」
「……楓さん?」
「ケイ殿は、私の事、嫌い? ううん――いきなりこんな事言われても、困るのはわかる。それよりなにより、私にだって、わからない。私自身が、ケイ殿のこと、どう思ってるのか。どう、したいのか」
「……」
「でも――思うの。昨日のことは、私が馬鹿だったと思う。忘れたいほど恥ずかしいとも思う。けど、けどね――忘れなくても、良いと思う。それはきっと、“駄目なこと”じゃないから」

 楓の言うことの意味は、ケイにはよくわからない。わからないけれど、何故だろう。いつもと違う彼女の口調、そこから紡がれる言葉は、その意味を吟じてみるまでもなく、すっと彼の胸の内に入り――そして、心臓を熱く燃え上がらせる。
 今は――今はまだ、この先の言葉は言うことが出来ない。楓はそう思う。
 彼のことは好きだ。一人の男として、今まで生きてきて感じたことのない想いを、彼に抱いている。
 恥ずかしいというのではない、それ故に躊躇いがあるというわけではないから。けれど――今ここで、その言葉の先が出てこないと言うことは、きっとそれが今の自分を表しているのだろうと、彼女は思う。
 じれったい。そんな風に思うのは仕方ない。
 けれど、それもまた――今の、未熟で小さな自分自身なのだろう。

「昨日のことは――ごめんなさい。でも――私は」
「楓さん」

 彼女の言葉を待たずして、ケイが首を横に振る。

「何て言うか――うん、昨日のことはね、忘れるべき事のような気もするし、単なる馬鹿騒ぎで片付けても行けないような気もするし――良く分からない。でも――これだけは言える」
「……何?」
「昨日の事をごちゃごちゃ考えすぎて、楓さんと話も出来なくなるのは嫌だ。だから、僕は昨日のことを忘れる。楓さんがどう思うかわからないけれど、僕はそうする。もしかしたらそれって、楓さんにとって失礼な事なのかも知れないけど――構わないかな?」
「……」

 暫くの沈黙の後、楓は黙って、首を横に振る。

「ううん……きっと私も、ケイ殿と、同じ気持ち。恥ずかしいけど、恥ずかしいからって、ケイ殿の顔も見られなくなるのは、嫌」

 彼女は首まで真っ赤になっていたけれど、その表情は先ほどとは違い、とても晴れやかで、そして――

「……い、いかん……鼻血出そう。何この激ラブ空間」
「あー……何や、俺、ここにおってもええんかな」

 そんな二人の傍らで、一人の少女が鼻を押さえてうずくまり――黒の着流し姿の少年は、頬をかきながら気まずそうに言った。早乙女ハルナのそれはともかくとして、ケイの何らかの思惑で“ここに居ろ”と言われた小太郎としては、今の状況は非常に辛い。
 かの青年に、何らかの思惑があるのは間違いない。容易に想像も出来る。小太郎とて、単なる暇つぶしにシネマ村をうろついていたと言う筈もない。目の届かないところに追い払うよりは、こちらに手が出せない状況に追い込んだ上で、目の前に居て貰った方が都合は良い――そう言うことだろう。
 この状況で彼は、こちらに手を出さない。それは、東大寺でネギの前に現れた彼の行動からも、容易に判断できる――と、そこまでは良いのだが。あの様子ではその当の本人は、そんな自身の“思惑”を覚えているのかどうかすら疑問である。

「ああもう……みなぎってきたっ……! 明日菜、ちょ、ちょっとトイレ行ってきていい!?」
「あんたはあんたで大概にしときなさい――んで、そこのあんたは? 藪守さんの知り合い?」
「ん? ああ……まあ、知り合い、っちゅうか……」

 小太郎はちらりと、ネギの方に視線を遣る。彼はうつむき加減にこちらを睨んでいる。
 彼の近くに立つ木乃香の脇では、射殺す程の視線を向ける、桜咲刹那の姿。そう言えば彼女は、三年A組の生徒の中では、犬塚シロ以外には唯一、小太郎の顔を知っている。そう――彼女が“お嬢様”と呼び守ろうとする、近衛木乃香を連れ去ろうとした輩の一味である、彼の顔を。

「……」

 そんな視線を受け止め――果たして、小太郎の唇の端が、小さくつり上がる。
 さも愉快であると――そう、言わんばかりに。

「ま、そんなところやな。俺は犬上小太郎、言うんやけど――よろしくな、姉ちゃん」




「何のつもりですか?」
「何の、とは?」
「ふざけないでください。何故あの少年を、わざわざこちらのそばに?」

 木乃香を先頭に、シネマ村を歩く少女達の中で――刹那は、隣を歩くシロに問うた。
 彼女は、小太郎の事を知っている。彼は、月曜日の夜に木乃香を誘拐しようとした一味の仲間――つまりは、彼女らの“敵”である。間違っても仲良くできるような相手ではないし、放置すれば彼女たちに――そして木乃香にとって、どのような危険があるのかわからない。
 刹那の言葉からは、小太郎に対する怒りと、現状――シロ達も含めた現状に対する苛立ちが、はっきりと滲み出ていた。
 彼女の言いたいことはわからなくもない――シロは、現在エヴァンジェリンの隣で、彼女に何処まで信憑性があるのか分からない、江戸時代の蘊蓄を披露している最中である。
 エヴァンジェリンは小太郎の顔を直接知らないとは言え――シロや刹那達の様子から、何かを感じ取ってはいるだろうに。あの余裕は流石に、最強と謳われる悪の魔法使いとやらのものなのか。
 もっとも彼女の考えている事が知れないのはいつものこと。緊張感のない態度のケイやシロにも、刹那は思うところがあるのだろう。
何故だか木乃香本人を避けている感はあるが、その理由はシロにはわからなくとも、彼女が木乃香を守ろうとする想いは本物である。だから――だが、

「それは、桜咲殿にもわかるのではなかろうか?」
「……」
「左様――拙者らはあの少年をどうするべきかと言うよりは、“どうともできない”ので御座るよ。昨日、東大寺にて、あの少年が拙者らに手を出さなんだのと同じで、このような人気の多い場所で騒ぎを起こすことは得策でない。むろん、それは向こうにも言える事で御座るがな?」
「しかし――彼がここに現れたと言うことには、何らかの意味があるはずです」
「それとこれとは、話が違う。仮にあの少年に何らかの思惑があったところで、今動けないのは向こうも同じ――話を聞くに、相手は無関係の人間を無差別に巻き込むような戦い方は好まぬ様子。桜咲殿とて、今あの少年を追い払ったところで、それが賢い選択肢でないことくらいは、わかるで御座ろう?」

 刹那は拳を握りしめ――小さく俯く。
 シロは、その様子に何も言わない。彼女が今、頭に血が上った状態である事は、ほぼ間違いない。
 けれど、彼女の事情を知らない自分が何を言っても、今の彼女には届かないだろう。
 木乃香を不必要に避ける様子や、夕べタマモの部屋を訪れたと言う彼女の行動の意味するところも、シロにはわからない。

「――ならば、こうするで御座る。“自称天ヶ崎千草”一味が、何らかの動きを見せた折りには――拙者とタマモとケイ殿で、あの少年を“人質”にする」
「!?」
「何を驚いているのか。桜咲殿――彼がここに現れた事が拙者らにとって危険だと言うのなら、逆に彼にとってもまた、ここは敵陣のど真ん中とも言えるので御座るよ? あの少年がどの程度の使い手かは知らぬが――今の拙者らとて、三人がかりでなら、押さえ込む事くらいは出来よう。よって、桜咲殿は、全力で木乃香殿をお守りすればよい」
「――犬塚さん」
「いい策とは言い難いで御座るがな。そもそも彼が、向こうにとって人質の役割を果たせるだけの人物かどうかも分からぬ故――ただの雇われ用心棒と切り捨てられるやも知れぬ。されど、彼がここに現れたのが偶然か必然か――その区別すら関係なく、戦いはもう始まっている。今更起きたことをあれこれ論ずるのは、詮なき事」

 シロの言葉に、暫くの沈黙を経て――刹那は、小さく頷いた。彼女は少しばかり歩く速度を速め――そして、木乃香の側に並ぶ。
 やはり、彼女が木乃香を避けている理由は、彼女が木乃香を嫌っているから――というわけではないようだ。木乃香の言葉からも、二人は幼なじみであり、かつては仲の良い友人であった事が伺える。
 もっとも――二人の間にあるものなど、今は考えても仕方がない。シロは小さく首を横に振り、先ほど出てきた“扮装の館”の方を振り返る。

「さてあの馬鹿狐は一体、何処の辺りをうろついているのか――」
「え? 千道さんも、ここに来てるの?」

 彼女の呟きを聞き取り、そう言ったのは明日菜だ。シロは彼女が自分に並ぶのを待って、頷いて返す。

「そもそも、あの馬鹿とケイ殿の仕事は、拙者らの護衛で御座るからな。最初は影からそれを成そうとしていたようで御座るが――あの二人にそんな器用な真似が出来るとも思えぬ。まあ、三年A組としても、あの二人は知らない人間でも無し、問題はなかろう」
「ふうん……それで――ねえ、あの子って、誰? ほんとのところ、藪守さんの知り合い――ってわけじゃ、ないんでしょう?」
「何故にそう思われる?」
「何でって――そりゃまあ、ネギの様子が尋常じゃないしさ」

 肩をすくめ――明日菜は、前を歩くネギを見遣る。
 羽織袴に玩具の刀を差した彼の姿は、見ているだけで心が和むような、可愛らしい少年のものである。しかし、彼の纏う空気は何と言うべきか――その様な彼の外見とは、全く一致しない。
 一言で言えば、話しかけたくないのだ。
 ネギの調子が悪いというのを知っていて、何とか彼に元気を取り戻して欲しいと――打算無しに気遣う少女達であっても、今の彼に話しかけるのは難しい。唯一、昨晩の“ゲーム”の勝利者である宮崎のどかが、彼の隣に付き添い――時折、シネマ村の何かを指して彼に話しかけているようだが、彼はそんな彼女の様子が目に入っているのか、気のない返事を返すだけ。
 日頃から彼のことを愛してやまない雪広あやかでさえ、今のネギにはどう接して良いのかわかっていないようだ。

「……ネギの事情もわからないでもないし、それをふまえて明るく振る舞えなんてのは、厳しい話だと思う――けど、あれは酷すぎるんじゃないの?」
「……仕方ない――では、片付けられまいな」
「ん……いや、ネギを責める気も無いんだけど――本屋ちゃんが、さ、なんか見てて痛々しいよ」
「――」

 シロは口元に手をやり――のどかの方を伺う。うつむき加減に歩くネギに寄り添って歩く、彼女の姿を。

「宮崎殿は、今朝から少し様子が違うようで御座ったな」
「まー……ねえ。カモの思惑はともかく、結局あの子も、長瀬さんと同じなのかも。考えてみたら、内気で大人しいあの子が――過程はどうあれ、“ネギとキス”だもん」
「今朝方からは何やら髪型まで変えて」
「気持ち、わからないでもないけどね――シロちゃんは、何か思うところでもあるの?」
「いえ――どうというわけでは御座らぬが――はて」

 今朝から、のどかは髪型を変えた。今まで瞳を覆う用に、垂れ下がるに任せていた前髪を、ヘアバンドで持ち上げ――額までも剥き出しにした今の彼女は、どうにも今までとは違った印象を受ける。
 もっとも、人間の印象などあやふやなもので、髪型程度でも容易に変わる。特にシロは、他の三年A組の少女達に比べれば、のどかと接した時間が格段に少ない。

(いや――だから、なのかも知れぬが。もっとも、その辺りの事に、拙者が首を突っ込むべきではなかろうが)
「まあ、本屋ちゃんの事はともかくさ――結局あの子、誰?」
「……“天ヶ崎千草”の一味で御座るよ」
「……え? ――ッ!」

 明日菜はシロの応えに大声を出しそうになったのだろう――慌てて、自分の口を手でふさぐ。シロは口元に人差し指を当て――明日菜の肩に軽く手を添えて、彼女の呼吸が整うのを待ってから、事の次第を話す。

「……成る程、そりゃネギもああなっちゃうわけだ――でも、本当に大丈夫なの?」
「むろん、保証は出来ぬよ。されど――今は他に、どうすることも出来ぬであろう」
「何というか……旅行の初日に藪守さんが言ってた事思い出すわね。何をやっても安全牌なんて無いならいっそのこと――何だっけ、“交通事故に遭うのが怖いから、車をぶっ壊そうと突っ込んでいく”だっけ?」
「言い得て妙――で、御座るな。されど拙者がいた職場は、基本のやり方がそう言う風で御座ったから――今更という感もあるが」
「藪守さんだってそうじゃない。あの人も、美神事務所のバイトなんでしょ? 職場の内情とか、あえて聞かないけどさ……」
「拙者も先生も、ケイ殿はあの職場でやって行くには神経が細すぎるのではないかと時折心配になるので御座る。長瀬殿には悪いが、果たして十年ほど経って、ケイ殿の髪の毛か胃袋か、その辺りが根を上げるのでは無いかと」
「それは――何というか、まあ、その、藪守さんに頑張って貰うことにして」

 あまり茶化した様子のないシロの言葉に、明日菜は頬を引きつらせて気のない返事を返し――ふと、何かに気がついたように彼女の方を見る。

「藪守さんって――シロちゃんより年上だよね? バイク乗ってるし」
「左様」
「でも、二人の会話を聞いてるとさ、何かシロちゃんの方が年上って言うか――お姉さんみたいに聞こえるんだよね」
「……年寄りじみているとハッキリ言えば良かろうに。拙者こういうしゃべり方である上に、その――まあ、色々あったので御座るよ。この業界に身を置いている時間は、藪守殿より長いと言うこともあって」
「は? シロちゃん一体いくつの時からゴースト・スイーパーやってんの? まさか、小学生?」

 明日菜に問われ――シロは、言葉に詰まる。
 犬塚シロは現在十四歳であり、中学三年生である。この事実に別段、嘘偽りはない。無いのだが――彼女に、恐らく明日菜が思っているような“子供時代”が存在しないのもまた、事実である。
 自分が“普通”の人生を歩んできたなどとは、自分でも思わない。しかし、それを明日菜に何と言うべきか。
 もちろん、彼女であれば、シロがどんな人生を歩んできたとて、それを受け入れてくれるだろう。明日菜もまた、両親の顔すら知らず、苦労の多い人生を歩んできた少女である。けれど――

(……ん?)

 そこまで考えて、シロは何か――思考の片隅に、“何か”が引っかかるのを感じた。
 その“何か”が何なのかわからないまま――彼女の視線は、一団の先頭に向かう。木乃香の脇に付き添い、油断無く小太郎を睨む小柄な少女、桜咲刹那に。
 木乃香はと言えば、普段自分を避けている彼女が側に居ることが嬉しそうな雰囲気であるが――

(……何で御座ろうか、今の感覚は?)

 シロは考える。はて、自分と彼女に、何か通じるところでもあっただろうか?
 転校してからこちら、ほとんど言葉すら交わしていない彼女と、何か――

「あー……シロちゃん、ひょっとして私、何かまずい事聞いた?」
「え?」

 思考に没頭してしまったのだろうか、シロは明日菜の申し訳無さそうな声で我に返る。

「いや、私も不幸自慢みたいなことするつもりはないけどさ、それなりに思うところの多い人生送ってきたもんで――その」
「ああ――気にする必要は無いで御座るよ。拙者とて、辛気くさいのは苦手で御座る。何と言うべきか――」

 その瞬間、明日菜の視界から、シロが消え失せた。

「……えっ?」

 代わりに、彼女の瞳に――銀色の光が映り込む。それは、研ぎ澄まされた刃が、鈍く反射した、淡い光。いつしか彼女の首筋には、鈍色の金属光沢を持つ――日本刀の刃が突きつけられていた。
 そしてその刃は、ぎりぎりのところで、その刃に映り込む光の持ち主――白銀の輝きを持つ、光の刃によって受け止められている。霊能力者の間では“霊波刀”と呼ばれるその能力――犬塚シロの手から伸びた、魂の剣。
 一瞬で明日菜の側面にまで回り込み、霊波刀を振り抜いたシロの動きそのものが、明日菜には見えなかったのだ。

「――何奴で御座るか?」
「ふふん――惜しいことをしましたなあ。かの“坂本龍馬”を仕留められる、千載一遇の機会でしたのに。まさかこんなお強いご婦人が一緒とは」

 芝居がかった調子で――“相手”は、刃を弾く。
 其処に立っていたのは、一言で言えば――“忍者”であろうか。ただし、本物の忍者ではなく、創作物の中に良く出てくる類のそれ――とでも言うべきもので。
 黒い袴に足下は地下足袋。しかしその帯は腰の後ろでリボンのような拵えになっていて、同じ黒い色の上着には袖が無く、籠手だけをはめた細く白い腕が露出している。そんな格好に襟巻きをたなびかせる、眼鏡を掛けた少女――

「ほう――“幕府の手の者”か?」

 一瞬でシロから距離を取ったその少女に、エヴァンジェリンが言う。その顔に、愉快そうな表情を貼り付けたまま、そして――視線だけを僅かに、隣に立つ小太郎に向ける。

「いや、その設定はどないやねん。新撰組かて、幕府の組織やろ?」
「ん? 設定? 設定とは何のことだ――? おい、そこの女ネズミ。私は貴様の事を何も聞いていないぞ? この私に黙って京都で暴れようとは、中々いい度胸ではないか」
「おやまあ、そう言うそちらさんは、泣く子も黙る新撰組は鬼の局長――近藤勇殿ではありまへんか。ふふ――所詮ウチのような隠密、あなた様に名乗りを上げるなど、畏れ多い事ですえ」
「そう言うな。同じ幕府のために剣を振るう者同士だ。何を遠慮することがある? ふん――開国だの革命だの、世迷い事を喚いて人心を惑わす策士・坂本龍馬は、新撰組としても見過ごせんが――私の獲物を、断りも無しに横取りとは、いささか出過ぎた真似だと思わんか?」

 木乃香の脇で、刹那が軽く腰を落として、刀の柄に手を掛け――ケイが自然な動きで、小太郎と少女――両方を視界に捉えられる位置に移動する。
 シロはシロで、着物の股下の部分を強く叩いてある程度動きの邪魔をしないように整え、霊波刀を構え直す。
 そんな遣り取りを呆然と見ながら――明日菜は、自分の首筋に手をやった。
 もちろん、傷などは何処にもない。けれど気持ちの悪い寒気が、まるで本当に斬られてしまったかのように、その部分には存在する。冷や汗が着物の下を伝い、気持ちの悪い震えが、腰の辺りからはい上がってくる。

「案ずるな、明日菜――いや、坂本龍馬殿。貴殿の命、拙者が必ずお守りする」
「シロちゃん――」
「うわ、何なに!? 何か始まった!!」
「くの一が坂本龍馬を襲ってきた!? よし楓! あんたの出番だ!」
「しかし今の拙者は町娘でござ……いやいやいやいや、普段の拙者とて、別に忍者とは何の関係もないでござるよ?」

 シロの声に、明日菜が我に返ると同時に、“襲撃”に気がついたクラスメイト達がはやし立てる。彼女たちは当然、この状況を――イベントの一つと考えているだろう。

「さあ、答えろ女ネズミ。貴様は一体、何処の手の者だ?」
「答えられへん――言うたら、どうします?」
「知れたことだ――行け、“土方歳三”!」
「えっ……あ、はいっ!!」

 エヴァンジェリンは、木乃香の側にいた刹那に向き直り――腕を振り払うように叫ぶ。
 その言葉に込められた意図を察知した刹那は、刀――シネマ村の模造刀ではなく、己の愛刀――の柄に手を掛けたまま、“忍者”との距離を一瞬で詰め――

「シィッ!!」

 裂帛の踏み込みと共に、鞘から刀を抜き放ち――そのままの勢いで、相手に向かって振り抜く。居合い、抜刀術――そう呼ばれる必殺の剣撃である。一分の隙もないその型から放たれた一撃は、まさに必殺の威力を込めているが――

「ひゃっ」

 間の抜けた悲鳴と共に、それは忍び装束“まがい”の少女が、腰から引き抜いた小太刀によって防がれる。その動きは、情けない声とは裏腹に、洗練され、迷いがない。
 つばぜり合いの格好になった刹那は、少女に顔を近づけ――小声で言う。

「良くものこのこと、私たちの前に姿を現せたものだな――」
「何を言うてはりますの、いけずなお方やなあ。強うて麗しいお姉さん方と戦えるんなら、ウチは火の中水の中、何処へだって馳せ参じますえ?」
「は――酔狂な事だ。だが、よりにもよってこの状況とは、正気を疑う。貴様、本気で神楽坂さんを殺すつもりだったのか?」
「“坂本龍馬”はんでっしゃろ? まさか――そんな事を許す筈もない護衛が、側に付いてるのはわかってましたからなあ……でも、ま」

 酷薄な笑みと共に、少女は唇の端を、舌で湿らせた。

「そうなってしもた時は、その時のこと、ですわ」
「狂っている」
「褒め言葉ですわあ」
「チィッ!!」

 刹那は渾身の力を込めて刀を振り抜き――その勢いで、シロの隣まで一時後退する。

「犬塚さん――」
「わかっておる」

 シロは小さく、その声に答える。
 頭のねじが何処か抜け落ちたようなあの少女はともかく、だからと言って、こちらはこの状況下では、下手に反撃も出来ない。おまけに、未だ“自称・天ヶ崎千草”と、タマモに対して石化の呪文を放った“魔法使い”は、姿を現していない。

「そんじゃま――とりあえずは予定通りに」
「うおっ!? いきなり何するねや兄ちゃん!?」

 その上で動いたのは――ケイだった。彼は何処か呆れたように少女を見遣る小太郎に近づき――その足下を蹴って払うと、そのままの勢いで上半身を押さえつける。

「近藤局長! この少年は、そのくの一の一味です!」

 その言葉にエヴァンジェリンの唇の端がつり上がり、小太郎の顔に、苦笑が浮かぶ。なるほど――あくまでここは、これをイベントとしてやり過ごすつもりなのか。それは最善の策とは言い難いが――悪くはない。エヴァンジェリンは腕を組み、ケイの方を振り返る。

「よし、でかしたぞ――そう言う貴様は、誰だったかな?」
「ええと……江戸の火消し“め組”が一人、藪守ケイとは仮の姿、その正体は――……正体はその――ええと……世を忍ぶ隠密?」
「藪守ケイ、それは日本語として何かおかしいぞ」
「……兄ちゃん、俺が言うのも何やが――少しは考えて喋った方がええで。勢いで滑ると、ごっつ悲惨な目に遭うねんて」
「……外国人と関西人に言われると、何か重みがあるよ」

 エヴァンジェリンだけでなく、地面に押さえつけられたまま、呆れたような表情で小太郎が言う。この様子では、未だ彼は何か切り札を持っているというのだろうか? しかしそうであったとしても、ケイとしてはこのまま彼を拘束し続ける以外に、出来ることは何もない。

「せっちゃん! 気をつけるんやで!」
「……お嬢様」

 無邪気な声援が、刹那の背中に投げかけられる。
 彼女はその声に、ぐっと歯を食いしばり――そして気がつく。

「……何だ?」

 煙幕を焚いたような濃い霧が――辺りをゆっくりと、包み始めていた。










失礼いたします、作者のスパイクです。
ペンタブレットによる挿絵の練習を始めて1週間、苦戦しております。

お目汚しになるかとも思いますが、再び敢えて晒したいと思います。
今回は少し説明が必要なものもあるので、簡単な説明を添えて。

まず一つ目

http://437.mitemin.net/i5074/

「これ誰?」の典型ですね。絵描き担当者にも言われました。
横島君です。
「二枚目にはするな、二枚目にはするな」と、
念仏のように唱えながら書きました。

結果二枚目にはなってない気もしますが、
果たしてこれはどうなのか。
髪型は原作未来の彼と同じようにオールバックにしようかとも思いましたが、
今時二十代半ばでオールバックと言うのは……と、思い、
しかし敢えて原作とはまるで方向性の違った髪型を選択。
結果「誰?」となりますが。

横島君です。

続いて二つ目

http://437.mitemin.net/i5075/

芦名野あげはさんです。

こちらは逆に、最低限原作の面影は残そうとしたのですが、
はい、欠片も残ってないです。

顔のアングルを変えただけの筈だったのですが、
タブレットへの不慣れがもっとも色濃く出た一枚です。
勉強が必要ですね。

「こういうキャラ」だという印象が伝わる程度なら、十分です。
もっともっと練習しないと、そう言う一枚でした。

そして最後に。

http://437.mitemin.net/i5076/

ネギ君です。
これも絵描き担当に「ネギじゃねえだろ」と言われました。
ネギと言い張ればネギに見える、その程度ですね。
眼鏡を書き忘れたのが痛かったですが、
大人姿のネギ君とか眼鏡かけてないような気がするので、それはそれで言い訳か。

絵描き担当に教わった色調補正ツール、「何このチート」でした。


僕は本来、絵描きではありませんが、
それでも自分の作品に自分で挿絵を付けたい、と言う誘惑に勝てませんでした。
その結果お目汚しとなっている可能性、正直否定できません。
しかし、創作活動というのは実に楽しい。
そういうものの一環であるとご理解いただき、
またそう言う暖かい目で、少しでも楽しんでいただければ、幸いです。

一応イラストの方もご感想お待ちしています。

では長々と蛇足、失礼いたしました。



[7033] 三年A組のポートレート・真白い闇
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/03/15 01:58
 水曜日午前十一時過ぎ、京都某所太秦シネマ村。
 その一角が突如として、濃い霧に包まれつつあった。当日の天気予報では、京都盆地は快晴であり、霧が発生する要素は何処にもない。しかし現実に、数メートル先も見渡せない、まるでスモークを焚いたのかと疑いたくなるほどの濃い霧は、確かにその場所に立ちこめていた。
 その霧が徐々に世界を埋め尽くしていく中で、小さく呟く者が居た。

「いや……何というか、凄いものだね。これだけの事を魔法を使って起こそうとしたら、どれだけ手間が掛かる事やら」

 それは小柄な少年だった。年の頃はネギと同じくらい。西欧系の美しく整った顔立ちに、雪のように白い頭髪。ジーパンのポケットに手を突っ込んだその様子には、緊張感というものはまるで感じられない。
 そんな少年に対して、品の良い着物を身に纏い、フレームの細い上品な眼鏡を掛けた美しい女性が、気だるげに言う。

「それは嫌味かいな」

 関西呪術協会幹部、天ヶ崎千草――彼女は、そう呼ばれていた。
 その不機嫌そうな言葉に、少年は軽く肩をすくめてみせる。

「純粋に褒めているだけだ。魔法使いと言っても、僕らは所詮人間だ。出来る事には限りがある」
「そんなもん、誰かて、何をやっとったって同じ事や」
「そうかな? 少なくとも君は、僕には出来ないことは出来る」
「せやな。あんさんも、ウチには出来へん事が出来る――何のつもりや。そない思わせぶりな事言うて、気持ち悪い」
「手厳しい」

 そう言って少年は笑う。その仕草に、千草は薄く瞳を細めて見せた。

「……何を考えとる?」
「君と同じさ」
「――まあ、ええわ。あんさんには恩がある。役にも立つ。腹の中に何を抱えとったかて、あんさんがおらへんかったら、ウチは動くことも出来へんかった――多少の事には目ぇつぶるのが筋、やろかな」
「そう考えてくれると嬉しい。何――利害は一致している。僕は君の障害にはならないさ」
「ふん――なら、行くで? 近衛の御姫はんに、ちょいとご足労願いに――な」

 片手に持っていた扇子を“ぱちり”と鳴らし、彼女は立ち上がる。彼女の周囲に渦巻いていた霧が――まるで意思を持っているかのように彼女の体にまとわりつき、その姿を、深い乳白色の闇の中にとけ込ませていく。
 ややあって、その空間には白髪の少年、只一人だけが残され――そして彼は、小さく一言呟いた。

「……化け物め」




「……この霧は」
「ただの霧じゃない。何か――変な力が込められてる。霊気が全く感じられない」
「ふん――魔力も、だな。こちらが使う魔力にジャミングを掛けるほどの力はなさそうだが――これでは至近距離で極大魔法を使われても、撃たれるまでそれに気づく事も出来んな」

 小太郎を拘束したケイと、エヴァンジェリンは周囲に立ちこめ始めた霧を見遣り、憎々しげに言った。この霧は、ただの霧ではない。どれだけ神経を研ぎ澄ませても、霊能力者や魔法使いとして感じられるはずの気配――周囲の“霊気”や“魔力”を、感じ取ることが出来ないのだ。
 かつてゴースト・スイーパーのチームが、霊気を帯びたスモークを目くらましに、“魔神の兵器”を攻撃したことがあったと言うが――恐らくこの霧は、それに近いものだろう。もしかすると、結界の一種かも知れない。すぐ側にいるはずのクラスメイト達の声も、今は聞こえない。

「ふん――おいそこの小童。答えろ、これは貴様の仲間の仕業か?」
「知らんなあ」
「素直に答えんと、貴様の為にもならんぞ? 藪守ケイ、私の質問にそいつが応えるまで――そうだな、そいつの爪を一枚ずつ剥がしていけ」
「嫌に決まってるでしょ! 何で僕がそんなスプラッタな事しなきゃなんないのさ! 自慢じゃないけど、僕は血とか苦手だし、痛いのも怖いのも駄目なの! 呪いのビデオが出てくる映画が怖くて見られない!」
「……本当に自慢ではないな――貴様、本当にゴースト・スイーパーか?」
「くくっ……ホンマ、おもろい兄ちゃんやなあ。こんな格好で知り合ったんが残念でならんわ」
「そうか?」

 エヴァンジェリンは腕を組み――愉快そうな笑みを浮かべて、ケイに押さえつけられた小太郎を見下ろす。

「ならば、天ヶ崎千草を見限って、我々の側に付くつもりはないか? 貴様が所詮金で動く傭兵だというのなら、それなりの報酬は用意しよう」
「……どういう風の吹き回しや? 魔法使いの間でその名を馳せた“闇の福音”とは思えん台詞やないか。それとも――隠遁生活が長すぎて、すっかり牙を抜かれてもうたか?」
「ま、今の自分が府抜けているとは感じているがな――別に大した理由じゃない」

 彼女は鼻を鳴らし――何故か両手を腰に当て、薄い胸を張って、堂々と言い放つ。
 今の彼女を、こうまで突き動かす――その原動力を。

「貴様らの目的など知らんが――私の修学旅行がこれ以上邪魔されるのは我慢がならん! 私にはこんなところで足止めを食っている暇など無いのだ! まだこのシネマ村のマスコット――カラス天狗の兄妹に握手もしてもらってないんだぞ!!」
「……こいつ、ホンマモンのアホか? ノッポの兄ちゃん――俺が言えた義理やないが、もうちょっとように人生考えて生きても――罰は当たらんと思うで?」
「言わないでよ。流石の僕もちょっと――心が折れそうになった。でも、ま――」

 小太郎を押さえつけるケイの腕に、軽く力が込められる。

「修学旅行なんてのは、これ位で丁度良いのかも知れないけどさ」
「……まあ、そこは同感や」

 頭を押さえつけられたままの小太郎は、小さく苦笑を浮かべ――目線だけで、ケイとエヴァンジェリンを見上げる。

「せやけどな――悪いが、あんたらのお誘いはお断りや」
「ほう――傭兵にも矜持はあると言うことか?」
「そんな大層なモンやない。もっとシンプルな話や」
「……っ!」

 ぎしり、と、彼を押さえつけているケイの腕が、軋んだような音を立てる。この不利な体勢から、彼は力任せに、ケイの拘束をふりほどこうとしている――?
 刹那、ケイの両腕に、わき出るように薄緑色の燐光がまとわりつく。恐腕の魂(スピリット・オヴ・ディノケルス)――腕力と防御力を底上げする、霊波刀の一種。攻防一体の霊力の籠手――彼の霊能力の、一つ。
 しかしそれをして尚――小太郎の笑みは大きくなる。

(嘘だろ――なんて、力だ!?)

 ケイは渾身の力を込めて、小太郎の小さな体を押さえ込もうとするが――何という力だろうか。これはただの少年の力などでは、決してない。まるで、巨大な獣と力比べをしているような――いや、もはやそれも生ぬるい。自動車と相撲でも取っているような、そんな錯覚すら覚える。

「一昨日顔を合わせた時から、ノッポの兄ちゃんとは一戦やりあってみたかったんや――少なくとも今この場所で、こんな好機、逃してたまるかいな」




「――みんなの気配が、感じ取れなくなった?」
「これは結界の一種で御座ろうか。拙者らのみが周囲から断絶されたのか、それとも皆もそう言う状況にあるのか――厄介で御座るな」

 霊波刀を構え、目の前の一風変わった忍び装束の少女を睨みつつ、シロは鼻を鳴らす。周囲にいるはずのクラスメイト達の匂いが、今は全く感じ取れない。この霧は、ただの目くらましでは無い。
 では、一体この霧の目的は何か? 今の自分の置かれた状況を考えれば、一目瞭然――自分たちを分断することであろう。シロと刹那が目の前の少女に、そしてケイが犬上小太郎というあの少年に釘付けにされた上で、全く他の少女達のフォローに回れなくなるとすれば――

「お嬢様――!!」
「落ち着かれよ桜咲殿――焦れば向こうの思うつぼで御座る」
「それは――それはもちろん、そうなんですが」
「相手が今の状況を見極めて拙者らを分断したとしても――まだ長瀬殿もタマモもいる。むろん楽観など出来ぬが――今は目の前のこの女に集中せねば」
「――結論は出ましたかえ? うちはもう、いい加減我慢出来へんのやけど」
「ふん、年頃のおなごがはしたない事を。お主はもう少し、慎みという者を覚えるべきで御座るな」

 小太刀を両手に、唇を舐めつつ言う少女に、シロは憮然とした風に言う。ここに彼女の保護者――横島忠夫が居たら、言いたいことの一つもあるだろうが、それはともかくとして。
 目の前のこの少女の目的は、状況から考えれば時間稼ぎである。
 しかし、月曜日の夜、一度邂逅したときに、彼女から感じ取った、背筋が寒くなるような気味の悪さを、シロは思い出す。
あれは、戦いに“狂った”者の纏う空気だった。一度ならず、そう言う手合いを相手にした自分だからわかる。彼女はあくまで、足止めのためにここにいるのだろう、それは間違いないが――だからと言って、彼女は決して安全ではない。シロが止めに入るのが分かっていたとは言え、少しでもそれが遅れれば、今頃――傍らにへたり込む明日菜の首は斬り落とされていただろう。

「――ここに至って、相手の思い通りに動いてやる必要は何処にもない。不本意ながら――そこのお主の誘い、受けて立とう」
「シロちゃ――きゃっ!?」

 シロの足下が、爆発したようにはじけ飛ぶ。その土煙と石つぶてから、明日菜は思わず着物の袖で顔を覆う。そう――明日菜には、それしか見えなかった。
 人間離れした脚力で、一瞬のうちに少女との間合いを詰めたシロは――そのままの勢いで、霊波刀を斬り上げる。所謂“逆袈裟”――果たして少女は、今度は気の抜けた声を上げるでもなく、逆手に持った小太刀でそれを受け止める。

「桜咲殿!」
「神鳴流――斬空閃!」

 シロと少女の力が拮抗し、双方の動きが止まったほんの一瞬――それを狙って、刹那の放つ不可視の一撃が、少女を襲う。“氣”と呼ばれる、純粋なエネルギーの奔流――それは振り抜かれた刀から空間を隔て、小柄な少女の体を切り裂かんと殺到し――

「くうっ!?」

 シロの手元から、力が抜ける。彼女の一撃を受け止めていた小太刀を、少女が僅かに引き――もちろんそれでたたらを踏んでしまうようなシロではないが、突然彼女の体を、凄まじい衝撃が突き抜ける。霊波刀を返しかけた瞬間に、彼女は不可視の力によって吹き飛ばされたのだ。
 どうにか空中で体勢を整え、間合いを取った場所に着地するが、シロは今一体、自分が何をされたのかがわからない。果たしてその解答を導き出したのは、刹那だった。

「神鳴流――桜楼月華」
「ゲホッ――雅な響きの技で御座るが、それが一体何なのか聞いても宜しかろうか?」
「氣を纏わせた腕で相手の技を受け流し――自身が攻撃に移る技です。しかし、今のは」
「受け流した力のほとんどを、そのまま拙者にぶつけてきた、か。何と出鱈目な。しかし、それでは」
「……一昨日の時にも、奴は“斬空閃”を――間違いない、あいつは、私と同じ――京都の古流剣術、“神鳴流”の使い手」

 刹那も修める剣術――京都神鳴流は、肩書きこそ古流剣術の一派である。しかしその実情は、もはや“剣術”の域を超えた、超常の力を操る戦闘術。世間からは隠匿され、歴史の闇の中で、同じような超常の力を持つ者――時には人間ですらない者達を相手に戦うために編み出され、研ぎ澄まされてきた裏の世界の武術。
 その有り様は、単純な武術よりももはや、シロ達ゴースト・スイーパーの扱う“霊能力”や、ネギ達魔法使いが扱う“魔法”に近い。

「何とまあ――面妖な」
「ふふ、お姉さんがそれを言いはりますか? 魂の力を自在に操る異能、“霊能力”――その中でも、確固たる力としてそれを顕現させる“霊波刀”――考えられませんわ。自分の魂を、刀の形にして振り回すなんて――ゾクゾクする力やありまへんか」
「お主に言われてもあまり嬉しくは無いが――拙者が心の底より愛するお方より受け継いだ、拙者の誇り高き“牙”で御座る」
「ああ――もう、たまりまへんなあ。同じ神鳴流の剣士に、異能の使い手――それが揃いも揃って、可愛らしいお嬢さんと来とる。ウチはもう――どうにかなりそうや」
「……何こいつ、ハルナの同類?」
「それでカタが付けば、楽なので御座ろうが」

 気味悪そうに言う明日菜に、シロが疲れたように返す。
 当然、目の前の少女の笑みは、崩れない。

「……犬塚さん」
「わかっておる。ここでこやつとダラダラ戦っていては――こやつ自身にも、そして“天ヶ崎千草”にも踊らされておるということ。多少手荒なやり方でも――」
「手荒な、やて――いややわあ、ウチ、どないされるんやろ? 出来たら優しくしてくれへんやろか? ああ――言うても、乱暴されるんも大好きやけど」
「――前言撤回。あんたに比べたら、ハルナの方が千倍マシだわ」
「そうでっしゃろか? その“ハルナ”言う人と、いっぺん話がしてみたいわ」

 緊張感無く体をくねらせる少女に、シロはため息をつき――刹那が刀を構えるのを視界の端に捉えて、自分も深く腰を落とす。

「ではお望み通り手荒に行かせて貰う。よもやこの状況で、二対一とて、卑怯とは言わぬで御座ろうな?」
「当然や。ウチは来る者拒まず、去る者は――場合に寄ったら追うかも知れへんけど」
「結構、では――参る!!」

 再び、地面が爆ぜる。
 シロの脚力は、同じ“健脚”と言われるだろう明日菜と比べても、度合いが違う。常人の目には、動きを追うことすら難しいが――更に其処から放たれる一瞬の剣閃すらも、少女の瞳は難なく捉える。優雅に舞うように腕を半回転させ――逆手に構えた小太刀で、シロの霊波刀を受け止める。
 だが、そこまではシロも予想したことである。最初の一撃は、あくまで牽制。シロは霊波刀をかき消し、体をひねり込んで、少女の片腕を掴んだ。
 そこを、刹那の一撃が捉える。峰を返した野太刀の一撃が、伸びきった少女の肩口に叩き込まれる。
 いくら峰打ちとはいえ――数キロの重さがある長大な野太刀である。鉄パイプで殴られたのと変わらないわけで、その衝撃は――

「!?」

 ぞくり、と、二人の背筋に冷たいものが走る。
 それは、戦う者としての本能。危険を察知する生物としての直感を、訓練によって昇華させた、本物の戦士だけが持つ能力。
 咄嗟にシロは少女から離れようとするが、今度は小太刀を投げ捨てた彼女の腕が、シロの着物の襟を掴む。そのまま体を回転させるように、彼女はシロの腹を――

「ぎゃぅっ!!」

 シロは無理矢理、その一撃――腹を狙った膝蹴りとの間に、腕を割り込ませる。結果、無理な防御に動きが止まり、がら空きになった顔面に、少女の肘が入った。

「犬塚さん!」
「シロちゃんっ!!」
「だ、大丈夫――で、ござ、る。鼻の骨までは、折れて、無い」

 鼻の辺りを手で押さえて、シロは立ち上がる。その指の隙間からは血がしたたり落ちていて――例え彼女の言うとおり鼻の骨が無事だったとしても、ダメージは軽くないだろう事が容易に想像できる。

「あらまあ――ウチ、女の子の顔は傷つけとう無いんやけど――勘弁なあ。いきなり隙だらけになったもんやから、咄嗟に打ち込んでしもうたわ」
「ふん――お主に、心配など、される必要は、御座らん」
「まあそう言わんと――せやけど急にどないしたんや?」

 本当に心配そうに言う少女を、明日菜は歯を食いしばって睨み付ける。
 こいつは――“狂っている”。心の底からそう思う。ネギとエヴァンジェリンが戦ったとき、彼女は二人のことを、納得できないまでも理解することは出来た。しかし、目の前の少女は――明日菜の理解の、その外側に存在している。
 そんな少女に――立ち上がったシロは言う。鼻を押さえるのと逆の手を、自分の下腹部に当てながら。

「当然で、御座ろう。ここには――女として最も大事なものが詰まっている」
「なんちゅうか、えらい乙女な事を言いますけれども――あかんなあ、そんなこと考えながら戦っとったら、面白ないやないですか?」
「拙者の言うことは、“真理”で御座る。拙者には、愛する先生の子を産むと言う、重大な使命がある――お主ごときの為に、それをふいにする気は更々無い」
「むぅ――その“先生”言うお人が憎たらしいわあ。あ、でもでも、お姉さんが女として終わってしもても、ウチがちゃんともらってあげますさかい」
「全力でお断りいたす」

 シロは乱暴に、着物の袖で鼻を拭う。真っ赤に染まった袖を見て、しまったこれは貸衣装なのだが――などと、場違いに緊張感の無い事を考えつつ――ふと、少女から注意が逸れた事で、あることに気がついた。

(……これは――霧が、流れている?)

 まるで舞台装置のスモークのように、周囲に深く立ちこめる霧が、ゆっくりと一つの方向に流れている。しかし、シロの肌は風を感じない。これもまた、敵の布石だろうかと身構えてみるが――鼻血のせいで鼻が効かず、目に見えている以上の事が掴めない。

「犬塚さん、大丈夫ですか?」
「そ、そうだ、ちょっと待っててシロちゃん、私ハンカチ持ってるから――」
「いや、多少派手に血が出たとは言え、怪我の程度は浅い。それよりも――」

 刹那と明日菜が、シロに駆け寄ろうとするのを、彼女は手で制する。彼女たちは、恐らくこの変化に気がついていない。うかつに動けば――
 その瞬間、爆発したように、霧がはじけた。




 暫く時間を遡り、木乃香が、忍び装束の少女と対峙する刹那に向けて声援を送った直後の事。
 立ちこめる霧は、彼女たちをも飲み込み始めていた。僅かばかり離れた場所に立つ人間の姿も見えなくなるほどの濃い霧に、木乃香も――そして彼女の側にいたハルナも、驚きを隠せない。

「うわ――何この霧? ちょ、何にも見えないじゃん。これもイベントのひとつ?」
「どないやろか、せやけどこれじゃホンマに――せっちゃん! 大丈夫かえ!?」

 霧の向こうに居るのだろう刹那に向けて、木乃香は呼びかけてみるが――確実に声が届く距離にいるだろう筈なのに、刹那からの反応は無い。
 自分が何故か刹那から避けられているのは知っている。しかし、流石にこの状況で声を掛けられれば、彼女とて返事くらいはするだろうに――ハルナが首を傾げ、少し離れた場所に立っていた楓が、素早く周囲を見渡す。

「……ケイ殿! 犬塚殿! ネギ坊主! ――エヴァンジェリン殿!」

 何も知らない二人と違い、楓は一通りの事を知っている。この修学旅行――自分たちを付け狙う何者かが存在するという、その事実を。
 果たして彼女が名を呼んだ相手からの返事は無い。声が聞こえる距離に居ない筈は無いのに――楓は小さく舌打ちして、木乃香とハルナの側に歩み寄る。二人をいたずらに不安にさせるのも本意ではないが、自分一人では何処まで出来るかわかったものではない。

「木乃香殿、ハルナ殿――少し、様子がおかしい。イベントにしては、何か妙でござる」
「え、嘘、マジ? この霧って――火事、じゃないよね?」
「まさか――でも、本当に変や。さっきまでみんなすぐ側におったはずやのに――今はまるで、ここにうちらしかおらんような――」

 気持ちの悪い寒気のようなものが、木乃香とハルナを襲う。得体の知れない異変に対する恐怖心と不安感――そんな様子を見て、楓は再び周囲を見渡すが、もはや辺り一面が、牛乳をぶちまけたような白一色の世界に取って代わっている。薄い霧のヴェールを通して見える地面がもしも見えなければ、自分たちはきっと、白い空間の中をあてどもなく漂っているような錯覚に陥っていた筈だ。

「ともかく、皆を捜すでござる。足下に気をつけるでござるよ? ついうっかり水路にでも転落してしまえばことでござるから――」

 自分自身、緊張から早鐘を打つ胸を鎮めるべく、楓は大きく息を吸ってから、二人に言う。二人が頷くのを認めてから――と、その時彼女は、何者かの足音を聞いた。
 じゃり、じゃり、と――下駄が、地面を踏みしめる音。ややあって木乃香とハルナもそれに気がつき、足音のする方にこわごわと顔を向ける。
 やがて霧の中から、ゆっくりと人影が姿を現す。白い闇の中から、ゆっくりとその姿が明らかになっていく。
 果たしてそれは――一人の女性だった。
 白と桜色を基調とした、品の良い振り袖を身に纏い、彫りの浅い柔和な――京美人と言う言葉が当てはまるだろう整った顔に、細いフレームの丸眼鏡を掛けた、若い女性。顔立ちのせいだろうか、彼女は立ち振る舞いから受ける大人びた印象よりも、少しだけ若く感じられた。
 クラスメイトの声すら届かない深い霧の中から突然現れた女性――これがシネマ村のイベントであるという可能性も残されていると、それは木乃香やハルナも頭ではわかっていたが――自然と体がこわばってしまう。
 楓はそんな二人を背後にかばうように、さりげなく立ち位置を移し――彼女に問うた。

「何者でござるか?」
「――東の館の主よりの使いで御座います――何でも借金のカタに、そちらの舞妓さんを連れて来いと」
「え、ウチ?」
「え? え? 何これ、やっぱりシネマ村のイベントなわけ?」

 顔立ちから受ける印象そのままの、柔らかな声――その声が紡いだ言葉に、木乃香は目を丸くして自分を指さし、ハルナは彼女と女性の間に、何度も視線を往復させる。
 彼女は借金のカタに木乃香を連れ去る――などと、いかにも芝居めいた事を言った。ならばやはりこれは、シネマ村の名物、客を巻き込んだ寸劇の一部なのだろうか? けれどそれならば、この奇妙な霧は何だというのだろう。これでは、“観客”からは芝居など見ることが出来るはずがない。
 楓はいつも細められている瞳を開き――片手を帯の辺りに回しつつ、女性に言う。

「ほう、なにやら穏やかではござらんな。しかしその申し出は受け入れられんでござるよ。このお方は京都でも有名な芸者でござる。突然借金のカタ、などと言われても」
「そうですか? 困りましたわあ。ウチも――手荒な真似はしとうないんやけど」

 いかにも困った――と言う風に、女性は着物の袖で口元を押さえる。
 それと同時に――霧の中から、新たに人影が現れる。がっちりとした体格を着流しに包み、帯には匕首(あいくち)を差した大男が二人。時代劇などで登場すれば、いかにも場末のチンピラと言った風貌の男達である。
 ただ奇妙なのは――彼らは揃って、まるで縁日のテキ屋で売られているようなお面――それも、子供が買い求めるようなキャラクターを模したそれではなく、古ぼけた狐の面で、その顔を隠していた事である。

「そちらのお方が来てくれへんと、ウチは怒られてしまいます――穏便に済ますつもりはあらへんやろか?」
「明らかに穏便に済ませる方向とは違う連中を出してきて、何を言うのでござるか――木乃香殿、ハルナ殿、拙者の後ろに」
「え? あ、う、うん――な、なあ、長瀬さん――これ、お芝居――なんよね?」

 楓はその問いに答えることなく――ただ、木乃香に笑みを向けた。何かそれらしい事を言って誤魔化すという事も出来なくは無かったが――今の彼女には、それだけの余裕はない。
 楓は一歩前に足を踏み出し――大きく腕を振って、帯に隠していた“くない”を投擲する。わざと動きを大きくした理由は、それを木乃香とハルナの視界から隠すため――しかし狐面の男の片割れに向かって投げられた“くない”は――まるで其処に何も存在しないかのように、男の体を“突き抜けた”。

(……幻術!?)

 オカルト技術を使用したり、あるいは催眠術の類を使ったり――やり方はどうあれ、あの狐面の男は、女性が作り出した幻なのだろう。

「あれまあ――物騒なものを使いなさる。ひょっとしてお姉さんは、“くの一”という奴やろうか?」
「はてさて、何のことでござるかな? しかしあくまでお主が木乃香殿を連れ去ろうと言うのならば、拙者もまた、木乃香殿の為に一肌脱ぐでござるよ?」
「弱ったなあ……交渉決裂、かいな」
「……一つ問うてもよかろうか?」
「何でっしゃろ?」

 楓は帯から引き抜いた鉄の棒――棒手裏剣を手のひらに握り込み、腰を軽く落として身構える。

「お主の名は?」
「ただのお使いに妙な事を聞きますなあ。名乗るような名前は――なんて言うてもええんやけど――“天ヶ崎千草”言います。以後、お見知りおきを」
「結構――では!」

 二人の間の空気が、冷たく張りつめる。もはや、遠慮は要らない――それが、合図だった。楓が腕を振り抜き、棒手裏剣を投擲する。
 対して女性――“天ヶ崎千草”は、飛来する凶器に対して、只笑みを向けるのみ。
 果たして刹那の後――手裏剣は、先ほどの男達と同様に、千草の体をすり抜けた。

(これも幻――)
「んぅっ!?」
「うわっ!? 木乃香!?」

 突然背後から響いたくぐもった悲鳴と、焦ったようなハルナの声に振り返ってみれば――先ほどの大男が、木乃香の口元を押さえて、彼女を拘束していた。そしてその男の隣には、優雅に扇子を口元で広げる、千草の姿がある。

「く――そっちか!」

 知らず彼女らから距離を取りすぎていたことを悔やみつつ――だが、今更そんなことを悔やんでも始まらない。楓は渾身の力を込めてそちらに跳躍。着物の裾がまくれ上がるのも構わず、木乃香をとらえた男の頭に、そのままの勢いで蹴りを――

「っ!?」

 しかし、彼女の長い脚は、男の頭部を捉えたと思った瞬間――それを、すり抜けた。まさか、これも幻術――楓は自分の放った蹴りの勢いに体勢を乱し、半ば転がるようにして着地する。息をつく暇はない。脚を振り抜いた勢いを利用して、跳ね起きるように立ち上がり――

「堪忍な。ウチ、あんさんと違って殴り合うのは苦手なんよ」

 すぐ耳元で声が響く。弾かれるように振り返れば――いつの間に回り込んだのか、彼女の背後には、千草が立っている。咄嗟に体を振り回して、彼女の横面に裏拳を叩き込もうとするが――果たしてそれもまた、何の抵抗もなくその顔を突き抜ける。後には蜃気楼のように、何も残らない。
 焦って振り返れば――白い霧の中、あちらこちらに立って笑みを浮かべる、十数人からの“天ヶ崎千草”の姿。

「うわ、うわわわっ!? な、何これ!? 特撮!? え、でも特撮って言っても私ら、今――」
「ハルナ殿! その場を動くな! ――木乃香殿っ!!」

 あまりに常識はずれのその光景に、完全に混乱したように周囲を見渡すハルナを、楓は制止する。
 そして木乃香は――いた。少し離れた場所に、狐面の大男に抱えられるような格好で、千草と共に。ぐったりと脱力しているその様子から、彼女は意識を失っているのだろう。先ほど捕らえられた時に、薬でもかがされたのかも知れない。
 楓は舌打ちをして、くないを構え――

「あっ……あかん、ちょっと待ってえな」
「待てと言われて待つ馬鹿が、何処に――わぷっ!?」

 何故か慌てたように扇子を振った千草に構わず、楓は跳躍――果たして、霧に隠されていた水路――シネマ村のセットの一部として存在している用水路に飛び込む格好になってしまった。それほど深さのある水路ではないが、勢いの付いていたところにいきなり足下を取られたせいで、頭から水の中に倒れ込んでしまう。

「せやから待ってえな、言うたのに――こんな季節に水浴びっちゅうのも、無い話やろ?」
「く――くそっ!」

 口に入ってしまった水を吐きだし、どうにか立ち上がろうと、楓はもがくが――そんな彼女を見下ろしていた千草は、ふと、何かに気がついたように視線を彷徨わせ、ややあって、再び楓を見遣り、瞳を細めてみせる。

「ほな、このお方は確かに貰って行きますえ? 何や――怖いお方も来てしもうたみたいやしな?」

 そう言って扇子を軽く振った彼女の姿は、木乃香と彼女を抱える男共々、足下から吹き上がった霧に飲まれてかき消えてしまい――ほぼ同時に、猛烈な突風が辺りを駆け抜けた。




 ――その風が止んだとき、周囲を覆い尽くしていた霧は、跡形もなく消え去り、再び現れた江戸時代の町並みには、狐につままれたような顔をした少女達が立ちつくす。
 果たして彼女らの視線の先、突風が吹き付けてきた方向には、一人の少女が立っている。
 平安貴族の如き、豪奢な十二単に身を包んだ、美しい金髪の少女――後ろには、恐らく彼女が乗ってきたのだろう人力車。
 煙霧を吹き払う一陣の風と共に現れる――まるで何かの物語に登場する姫君もかくやという様な、そんな派手な登場をした少女は、腰に手を当て、扇子を広げて高らかに言う。

「――待たせたわね! さあ、私が来た以上は、悪者共の好き勝手になんか――」

 彼女はその見事な金髪を掻き上げ、見た目の年齢にそぐわぬ妖艶な仕草で――

「……あ、あれ?」

 “何か”をしようとしたのだろうが、それはかなわない。
 何故なら彼女――千道タマモの前に広がっていたのは、彼女の派手な登場を盛り上げるには、あまりに空虚な光景。
 呆然と彼女を見つめる少女達、そして同じような状態のネギは良いとしても――腹を押さえて苦しそうにうずくまるケイに、顔を血に汚して、刹那と共に武器を構えるシロ。そして用水路の中から、目を白黒させて彼女を見上げる楓――

「……随分と気の利いた登場だな、千道タマモ。なるほど――ヒーローと言うのは、遅れて登場するものらしい」
「え……ええと」

 その中で真っ先に我に返ったのは、新撰組の衣装を身に纏う小さな少女、エヴァンジェリン。彼女は唇の端を引きつらせ、こめかみに血管を浮かび上がらせ――西欧人の白い肌にそれは妙に目立った――彼女は言う。

「この様子ではどうやら、貴様の仕事は八割方失敗したようなものだろうが――私は優しいからな。どれだけ有能な人間にも不可能はあるという事は知っている。ああ、知っているとも――そして千道タマモ。貴様は有能だ。私たちが手も足も出なかったこの得体の知れん霧を、こうも易々と吹き払ってしまう程には、な」
「え、ええ? そ、そんな褒められると照れちゃうっていうか……そのぉー……」
「そうとも、そんな貴様にも限界はある。我々の切り札とも言える貴様が、この状況に中々出ることが出来なかったのには――それなりの理由があるのだろう? なあ、犬塚シロ。貴様も、そう思うよな?」

 エヴァンジェリンはシロに歩み寄り――呆然と霊波刀を構えたままの彼女の尻を、軽く叩く。それでシロは我に返る。
 当然――彼女の目の前に、既にあの怪しげな少女は居なかった。

「それで我々の切り札となるべきその有能な貴様は、一体何処で何をしていた?」
「……それは……何というかその――ですね」
「よもや――“その大層な衣装の着付けに時間が掛かった”とは言うまいな?」
「う」
「……タマモ」
「あ、ああ――って、シロ、あんたそれ、平気なの? 結構派手に血が――ちょ、ちょっと待っててね? 確かこの近くに医務室があってね。私、急いでお医者さん呼んで来るから――」
「気遣いは無用。ただの鼻血で御座る――若い時分には良くあること故、ティッシュでも詰めておけばどうと言うことはない。それに、お主に情けを掛けられるほど、拙者は落ちぶれてはおらぬ」
「やーねえ、人の好意は素直に受け取っておくもの――い、いや、ちょっとあんた、顔が怖いわよ? ちょっ――血だらけの顔でにじり寄って来んな――」
「さらば相棒――地獄で逢おう」
「アッ――!?」

 修学旅行三日目、水曜日正午前、京都某所太秦シネマ村――オカルト技術の悪用による、女子中学生の誘拐事件――発生。










「尼ヶ崎千草」と「天ヶ崎千草」の表記揺れ、申し訳ありませんでした。
開き直ろうかとも思いましたが、原作通り「天ヶ崎千草」に統一します。
過去の話は順次訂正予定――紛らわしい事をしてすみません。

今週の挿絵特訓は、予想外の人気に僕自身もお気に入りになった、
この作品最初の「半オリキャラ」藪守ケイ君。

今回より、少しだけ描き方を変えてみました。

http://437.mitemin.net/i5290/

少しはマシになっていればいいのですが……
ご意見ご感想など頂けると嬉しいです。



[7033] 三年A組のポートレート・捜査線
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/03/26 22:34
『――では、次のニュースです。本日午前十一時三十分頃、京都府京都市右京区にあるテーマパーク“太秦シネマ村”において、修学旅行に訪れていた十四歳の女子中学生が連れ去られる、と言う事件が起こりました。今のところ犯人からの要求などはありませんが、警察は誘拐事件として、犯人の行方を追っています。現場の状況などから、犯人はオカルト技術に詳しい人物であると見られ、京都府警ではゴースト・スイーパー協会やオカルトGメン関西支部などにも協力の要請を――』

 水曜日午後六時三十分、京都某所。まるで大きな神社のようなたたずまいを見せる建築物が、その場所には存在している。しかし果たしてそのたたずまいや鳥居の連なった山道を備えているものの、そこは神社ではなく、訪れる人間はごく僅か。
 そもそも、京都の市街地から外れ、かなり奥まった――もっと言えば、半ば山の中に建っているとは言え、これだけの規模を持つ施設は、それなりの存在感を放つものであるが――国道から伸びるその山道への入口などは、そこに興味を持つ人間すら皆無である。
 人々は皆、そこに何かがあるのを知覚することは出来る。
 知覚――などと、大層な言い方をしたのは、“見えていないわけではない”という事だ。言い換えれば、人々はその場所を見知っていても、それに気づかない。路傍に転がる石や、道ばたの立木のように、それなりの存在感を放つはずのこの施設は、通りすがる人々にとって、ただの“背景”と成り果てる。
 そんな不思議な建物の一角にて――一人の男が、部屋の片隅に据えられたテレビを眺めていた。
 病弱な印象すら受けるほどの痩身で、しかしある程度の上背がある――一言で言えば“痩せぎす”の中年男性である。その顔は血色があまり良くなく、言っては何だが人相も悪い。
 しかし――眼鏡の奥、柔和な光を湛えた瞳が、それだけで彼の印象を見た目よりも数段良いものに変えていた。しかし――普段は柔らかなその目元も、今は厳しく細められている。

「――木乃香」

 彼の口から、一人の少女の名前がこぼれる。
 かの男の名は、近衛詠春――この施設を持つ組織“関西呪術協会”の長にして、渦中の少女――近衛木乃香の、実の父親である。
 ふと、部屋の襖が静かに開く。
 襖を開いたのは、一人の若い女性だった。白の着物に、赤い袴――それこそ神社などで良く目にする、巫女の装束に身を包んだ彼女は、静かに言う。

「本殿にて、“年寄り衆”がお集まりです」
「わかりました。すぐに参りましょう」
「“来客”は如何致しますか? 現在――別棟にてお待ちいただいておりますが」
「彼らも本殿に通しなさい」
「……しかしながら、長――」
「ことここに至って、今更何を取り繕っても意味などありません。後のことを考えるには――とりあえず“後”を作らない事には、意味がないのですよ」
「――かしこまりました」

 女性は彼――近衛詠春に一礼して、その場を立ち去る。廊下を遠ざかっていく足音を見送り、詠旬は力なく、首を横に振った。

「もちろん、後のことを考えれば頭は痛い――しかし、娘が連れ去られて、こうも冷静に余計な物事を考えられる私は、父親としては全く駄目なのだろう――」

 一つの世界でかつて英雄と呼ばれた事のある男は、果たして今――あまりに力なく、傍らに置かれた白鞘の刀を手に取り、立ち上がった。

「私も君も、こういう事には全く駄目だな。予想はしていたが――なあ、ナギよ」




 時間を遡り――同日午後三時、京都府警管轄下、某所轄署――その中枢とも言える刑事課は、非常に慌ただしい空気に包まれていた。彼らの管轄地域とは違うが、何でもテーマパークの中で、オカルト技術を悪用した誘拐事件が発生し――結果、広域に渡って走査線が敷かれ、この所轄署にも応援要請が舞い込んでいるのだという。
 ――そう言う話を、慌ただしく動き回る警官、刑事を見遣りつつ、一人の男が聞いていた。
 彼は高校を出てすぐに、交番勤務の巡査となり、以来四十年以上に渡って警察官として働いてきたベテランである。つい先日定年を迎えた彼ではあるが、現場の人間には引退を惜しまれ、また本人の強い要望により、現在は非常勤の指導員として働いている。

「おいおい、ありゃ半ば倉庫の肥やしになっとった対霊装備やないか?」
「ええ、ですから――犯人はどうやら、オカルト技術を使う人間のようで。と言っても誘拐事件の広域緊急配備ですから、心霊係だけじゃ手が足りないって言うんで」

 刑事講習を終えたばかりの新人刑事が、肩をすくめながら男に言う。彼は現在、新人研修と称して、この“指導員”のもとで、目下経験を積んでいる最中であり、実質的にはこの老刑事の補佐役を務めている。

「心霊係言うたかてな、連中やてわかるもんかい。わけのわからん適性検査で“霊能力あり”っちゅうて言われてやな、そこらのゴースト・スイーパーの事務所で、研修と言う名の雑用してきただけの連中やで?」
「それは俺に言われましても――でも、えらく詳しいじゃないですか。親父さんみたいなタイプは、霊能力なんて胡散臭いモンを――とか何とか言い出すんじゃないかと思ってましたが」
「まあ……俺もつい一昨年まではそう思っとったわ。せやけどまあ、定年目前にして、最後の最後であんなアホみたいな事件に巡り会う事になろうとは――」
「経験はするもんですね」
「アホ」

 そう言って、男は苦笑する。

「まあ、これほどの大事や。指導員と半人前の刑事一人――出る幕やないやろ」
「またですか」
「また、とは何や」
「勘弁してくださいよ。何度目ですかその“俺には関係ない”は。結局指導員の趣味がどうとか、新人への特別研修が何だとか言って――結局はドブの底まではいずり回って。俺、断崖絶壁で犯人を説得するなんてのは、テレビドラマの中だけの話だと信じてましたよ」
「……まあ、そう言うなや――と、言いたいところやけど。実際誘拐事件、っちゅうのは苦手でな。俺みたいな古いタイプの刑事には、な。現役時代に何回管理官と喧嘩したかわからへん」
「府警本部のあのお方ですか」
「何や、知っとったんか?」
「ええ、何の因果か、こんな新米刑事が――この間、場末の屋台で一杯ご馳走になりました。何処ぞの不良刑事への愚痴を、酒の肴にね」

 若い刑事の言葉に、彼は顔に手を当て――わざとらしく、天井を仰ぐ。当然そこには、無機質な光を放つ蛍光灯くらしか存在しないが――
 ふと、そんな遣り取りをしている二人に、制服を着た一人の男が声を掛ける。

「暁光寺さん――来客だよ」
「来客? 課長――そいつは急ぎかいな? 俺は今ちょっと、やってみたいことがあるんやが――」
「親父さん! 結局あんた、また何ぞしでかそうって言うんじゃないっすか!?」
「まあ固い事は言いっこ無しやで坂田――で、どないや課長。急ぎや無いんやったら、生活安全課の方にでも回ってもらってやな――」
「いいや、あんたを名指しだよ、暁光寺指導員殿。それより何より、誰が好きこのんであんなのの相手なんか――もう二度とゴメンだね。生活安全化の課長が、血相を変えて飛び込んできたよ」
「は?」

 一体何の話をしているのか――坂田と呼ばれた若い刑事が首を傾げたのと、その声が響いたのが、ほぼ同時だった。

「暁光寺警部――助力を、願いたい!!」

 ――声の主は、白銀の髪をたなびかせた、制服姿の少女であった。坂田刑事は思わず、その場違いな闖入者に言葉を失う。年の頃は中学生か高校生くらい――頭髪の色も相まって、何処か神秘的な美貌を持った少女だった。
 老刑事の名を呼び、余程慌ててここまでやって来たのか、膝に手を突いて、汗だくで荒い呼吸を繰り返していなければ――であるが。
ややあって、廊下の向こう側から、ふらふらになった少女達が、こちらに走ってくるのが見えた。

「はっ……はあっ……少し、お待ちに、なって、くださいな……」
「はーっ……はーっ……ゲホッ……し、シロちゃん、速すぎ――」
「純粋に脚力だけで犬塚殿について行けるお二人も相当なものでござるが――犬塚殿、そちらが、例の?」

 金髪の少女が壁にもたれかかり、亜麻色の髪の少女が、床に突っ伏して必死に呼吸を整える。そんな二人を横目に――彼女たちよりは幾分余裕があるらしい長身の少女が、一つ咳払いをして、先の銀髪の少女に問う。
 彼女たちは一体何者なのか――坂田刑事の疑問には、彼の指導員たる暁光寺“元”刑事が応える事となる。

「シロちゃんやないか!? ――どうしたって言うんやこんな突然に。またぞろ、とんでもない事件が――あのエロガキのセクハラにとうとう愛想が尽きたっちゅうんなら、それなりの相談には乗ってやるつもりやが――」

 しかし果たして、彼の言葉の意味は、坂田刑事には何一つわからないのであったが。




「それじゃ、さっき親父さんが言ってた“馬鹿げた事件”ってのが――」
「そう言うことや。ああ――ここら辺のとある暴走族のやな、何代目やったかとにかく、そこの頭がな、大きな集会を目前に事故であっさり逝っちまって。それだけなら只のアホやっちゅう話やが――悪いことに、このアホが気合いの入ったアホでなあ。化けて出よったんや」
「それはまた――でも何で刑事課の親父さんが。交通課の頭が痛くなるってだけの話じゃないんですか?」
「そりゃお前、事はそのアホだけやのうて、そいつが似たような“悪霊”を集めてもうて。京都の町中を“首無しライダー”が隊列組んで大爆走――なんちゅう馬鹿な事態、起こった時点でアウトやろ。幸い、自分のトコのチームが幽霊に取り憑かれとる、っちゅうて、怖くなったメンバーからのタレコミがあってな――で、俺もその手の“専門家”を探すのにかり出されたんや」

 その結果、確実にこの事態を収拾できる専門家としてはるばる東京からやって来たのが、その業界に於いては知らぬものの居ない“美神令子除霊事務所”の面々だった。果たして京都府警の経理課が、その為にどの程度の悲鳴を上げたのかは、ここでは割愛するが――

「世界を滅ぼそうかっちゅう魔神のテロを止めた連中や。あきらめの悪いガキのお仕置きなんぞ、赤子の手をひねるようなモンやろと――しかしまあ、やって来た連中を見たときには俺も騙されたか思うたわな。かの有名な所長さんかて、まだ三十路にもならん小娘と来とる。そのほかの連中は言わずもがな、や。このお嬢ちゃんも含めてな」
「はあ――それで、どうなったんです?」
「聞きたいか? 事件は無事終息――付け加えて言うなら、実際に現場に出とった交通課の三分の一が熱出して寝込んだわ」
「……今更だけどさ……シロちゃん、ほんと、あんたどういう過去持ってんの?」

 何処か遠い目をして語る暁光寺刑事に、シロは引きつった様な笑みを浮かべ――思わず和美は、その友人にじっとりとした目線を向けてしまう。
 もっとも今は、シロの過去――彼女に言わせれば“黒い歴史”云々を問いつめている場合ではない。シロは一つ咳払いをして、暁光寺刑事に言った。

「拙者らの事はともかく――暁光寺警部。今騒ぎになっておる女子中学生の誘拐事件というのは――拙者の学友の事で御座る。どうか――助力を願いたい」
「いやまあ、そう言うことなら断る理由は何処にもあらへんが――相手はオカルト技術の使い手やろ? 俺には力のなさを嘆くような殊勝な趣味はあらへんが、霊能力の“れ”の字も持たん老いぼれ刑事の出る幕やないんちゃうか? それとシロちゃん、俺はもう警部やない。去年めでたく定年退職して――今はうだつの上がらん指導員や」
「だからどの口でそう言うことを」

 苦笑して肩をすくめて見せたのは、坂田刑事である。彼はシロの事は何も知らないが、暁光寺という共通の知人を持っているのなら、話は早い。つまりは――それだけでカタが付くような人物なのである。この老刑事は。

「何や。嘘は一言も言うとらんで」
「霊能力に関しては、左様、警部は門外漢やも知れぬ」

 自らの言葉を訂正せずに、シロは言う。

「されど、拙者らにはこういう状況にあって、どのように動けば良いのかなどわかりませぬ。相手はオカルトの使い手、拙者らも、似たような技術は使える――されど、拙者らにはわかりませぬ。相手が何を考えて、何をしようとしているのか――拙者らはどうするべきなのか。拙者らが自身で動くべきなのかそうするべきでないのか、それすら拙者らにはわからぬのです」
「俺ならそれが出来るってのか? それは買いかぶりやで、シロちゃん。シロちゃんかて、まあ、あの一件では色々とあったけどな、それでも俺の何を知っとるわけでもないやろ?」
「意地の悪いことは言いっこ無しですよ。言に親父さん、さっき……」
「お前は黙っとれや」

 目を細めて、暁光寺は新人刑事を睨み付ける。
 シネマ村で木乃香が攫われてから、当然ながら麻帆良女子中三年A組は、宿泊場所であるホテル嵐山に急遽集められた。新田を中心に、教師達が麻帆良に連絡を取り、緊急に協議も行われているようだが、どのみち、少女達は今暫くホテルに缶詰となるだろう。
 そんな中で、シロは新田を説き伏せて、この警察署にやってきた。現場にいた彼女たちは既に簡単な事情聴取を終えているが――警察関係の知人で、どうしてもこの事を報せておきたい人物が居ると、シロは彼に言った。
 果たしてこの状況で、生徒の勝手な行動を認めるわけにはそうそういかないだろうが、新田は意外にすんなりと許可を出した。恐らく、シロ達の精神面を気遣っての事だろう。そして――

「……僕からも、お願いします」
「何やこの坊主は? 外国の子供かいな? それにしちゃ、えらい流暢に喋りよるが」

 深々と――妙に礼儀正しい“お辞儀”をする少年に、暁光寺は首を傾げる。シロは小さくその“少年”――ネギの方を見遣り、暁光寺に言った。

「ええと――その、このお方は――拙者らの担任の教師で御座る」
「……なあ、シロちゃんよ。俺はどうも、寄る年波には勝てんようでなあ。どうも耳がおかしゅうなってしもうたみたいなんやが――今、何やって?」
「そのお気持ちは察するが、正真正銘、ネギ先生は拙者らの担任教師で御座る。心配はご無用。イギリスの有名な大学を飛び級で卒業した天才児で、教師としての資質も十分に備えておられる」
「……なんつー世の中だ。まあ――今は、まあ、いい。で――ネギ、先生?」
「はい。その――僕らには――僕には、何も出来ませんでした。そして、今もまた、何も出来ない! けれど、少なくともあなたには、何かが出来るんです!」

 暁光寺の眉が、小さく動く。
 妙な物言いだ、と、彼は単純に思った。“刑事”という肩書きを持つ自分に、友人が――あるいは彼の場合は教え子か――が誘拐された彼らが、縋りたいと言うのはわかる。けれど、先の言葉に、暁光寺は違和感を覚えた。
 しかし――その違和感が何なのかは、はっきりしない。どう見ても外国人である彼の物言いがおかしいのは、単純に彼が外国人だから――という理由であるかも知れない。
 少しの逡巡の後、彼ははっきりと言ってみる事にした。

「なあ、ネギ先生よ。少し落ち着けや。“自暴自棄”になったかて、物事は解決せえへんで?」
「――ッ! しかし!」
「確かにお前さんに、誘拐事件の捜査が出来るとは、俺も思わへんわ。せやけどな、今のお前さんに出来る事はあるで? 落ち着くことや。お前さん――シロちゃんらの先生なんやろ?」
「……」
「……――あかん、あかんな。堪忍や。どうも調子が狂う――やっぱり俺には、指導員なんちゅう肩書きは似合わへん――おい、坂田! 課長ん所に行って、取調室使うって言うてこい!」

 この少年の心は今、恐ろしく不安定な状況にある――暁光寺にはそれがわかる。
 しかし、彼のことを何も知らない自分には、それ以上の事はなにもわからないし、何も出来ない。するべきではない。
 内心で舌打ちをしつつも、彼はネギの頭に手を置き――坂田刑事に指示を出す。

「何にせよ、まずは情報や。シロちゃん、脳みそが干上がるくらいに喋って貰うことになるやも知れへんけど――我慢せえよ?」
「委細承知」
「ええ返事や――ほな、行こか――ああ、そや」

 ネギの頭に手をやったまま、暁光寺は踵を返し――そして、苦笑混じりにシロに言う。

「あのエロガキは、元気しとんのか? まあ、殺しても死なへんとは思うがな。セクハラに困ったら、いつでも警察に言うんやで?」

 それは、シロの気持ちをほぐすための戯言だったのだろう。
 しかし――彼女はその言葉に、言葉を詰まらせた。
 暁光寺が彼女の返事を待たず、彼女の方も見ずに、勝手に納得して一人歩き出していたのは――きっと彼にとっては、幸いだっただろう。




「意外だな。貴様らからは横槍が入るとばかり思っていたのだが」
「どうしてそう思います?」

 同時刻、ホテル嵐山ロビー。不機嫌そうにソファに身を沈めるエヴァンジェリンは、目の前に座る男、浅野に問うた。他のクラスメイト達の姿はない。ホテルから出られないこの状況で、部屋から出てうろつく気にもなれないのだろう。だから今、この場には彼女しか居ない。

「旅行の初日の夜に、雪広あやかや神楽坂明日菜が警察に連絡しようとしたのを止めたのは、他ならぬ貴様らではないか。その理由も、我々魔法使いにとっては納得できるものだ。下手に公の組織の介入を招いては、魔法の秘匿に縛られたこちらには身動きが取れなくなる」
「あの時は完全に不意を突かれた状況でしたからね。事態の推移を、千道さんらが見極めてから動いた方が得策だと思ったまでです」
「……まあ、その馬鹿げた言い分までは納得してやっても良い。しかしあの時と今で、何が違うと言うのだ? こちらの素性を隠し通したままで、警察やオカルトGメンだったか――公の組織と上手く共同歩調が取れるとでも?」

 エヴァンジェリンは呆れたようにため息をつき――首を横に振った。

「まあ、そんなことは今更どうでも良い。問題なのは、貴様らを含めて関西呪術協会とやらが、度を超した無能だったと言うことだ。時間は十分でないとは言え、それなりにはあった。天ヶ崎千草という女の実力に関しては、言わずもがなだ。貴様らは身内の実力さえも満足に計れんのか?」
「お言葉はいちいちごもっともです、“闇の福音”」
「それは嫌味か」

 彼女の言葉に、浅野は目を閉じて頭を浅く垂れ――いかにも己の無力を感じていると、そう言ったポーズを取る。その“いかにも”な態度が、またエヴァンジェリンをいらだたせる事になるのは、彼もわかっているだろうに。

「事がここに至るとなっては――貴様は間違いなく終わりだぞ? シネマ村で天ヶ崎千草が取ったやり方は、私から見てもまあ及第点だ。一度行動の火ぶたが切られては、こちらに相手を上回る圧倒的な戦力が無い限りは、行動そのものが止められん。仮に犬塚シロが完調で、藪守ケイに妙な手心が無く、こちらにぶつけられた手駒を制する事が出来ていたとしても、だ。貴様ら“八角警備保障”が指をくわえて見ているしかなかったのも、仕方ないと言えば仕方ない」
「……」
「だがそれはまあいい。もともと千道タマモ――あの馬鹿女を含めてゴースト・スイーパーの連中は、貴様らの手駒ではない。その上で、貴様らの戦力が天ヶ崎千草と比べてどれほど貧弱だったとしても、それは責められる事ではない。未知なる脅威を相手に出来るだけの戦力、それを用意できなかった関西呪術協会の総体の問題だ。だが――自分たちに何も出来ぬと、事を我々に丸投げした貴様の責任は重いぞ?」
「それは、私の心配をしてくれているのですか?」
「貴様の耳は節穴か? 何だったらその頭に新品の穴を二つ三つ空けてだな、他人の言葉が良く聞こえるようにしてやろうか?」
「あなたにそれだけの労力を負わせるには及びませんよ。遠慮しておきます」
「気が変わったらいつでも言え。――で、どうなんだ? 浅野潮。今の私は腑抜けてはいるが――それでも貴様に対しては、それなりに腹に据えかねたものはくらいはあるぞ?」

 氷壁の迷宮を思わせる、深いアイスブルーの瞳――それを細めてこちらを睨むエヴァンジェリンに、浅野は小さく息を吐き、肩をすくめて見せた。

「私の進退など、天ヶ崎千草の暴走という一件を顧みれば些細なことです」
「それはもちろん、そうだろうな。貴様がただ保身のために動くような低俗な人間でなければ、もはや言い訳をするには遅すぎると言うことくらいはわかるはずだ。ただならばこそ忘れていないはずだぞ? 今の貴様は、関西呪術協会と言う組織の――そうだな、我々に対するインターフェースのようなものだ」

 その有り様が全く違うものを、理解させるための何か――そう言うものを指して、そのような呼び方をすることがあるのだろうと、エヴァンジェリンは言った。それはかつて自分の従者に退屈しのぎに語らせたことであるが――当然彼女は、機械の魂を持つその少女の言葉をほとんど理解できなかったが、言葉の持つ意味くらいは理解が出来た。
 その喩えを使い、彼女は言う。

「関西呪術協会と言うのが、どれほどの組織なのか私にはわからんが、あの古狸の言からしても、それなりの規模の組織なのだろう。その様な組織は、組織の総体としての意思はあれど、私たち個人が面と向かって話が出来るような、明確な対象を持っていない。そんな存在が私たちに言葉を放つのに使うのが、果たして貴様のような存在だ。たとえば政府の役人が、国の決定事項を報道陣に伝えるようにな。そしてそれは言い換えれば――」
「今の私は、関西呪術協会の総体を代弁する立場にある」

 よどみなく、浅野は言った。

「それがわかっているなら、どうして事の対処をあの“坊や”共に丸投げした? 貴様自身、関西呪術協会そのものへの対応には骨を折った筈だ。今の貴様がそうしたということは、関西呪術協会はこの事件にはもはや手が負えないと言っているに等しい」
「――お答えする前に、一つだけ教えてください」

 浅野の言葉に、エヴァンジェリンは小さく眉を動かしたが――その唇が言葉を紡ぐことはない。彼はそれを、自分の求めに対する肯定だと捉えた。

「それを知って、あなたはどうするのです?」
「私がどうしようと、貴様に関係があるのか?」
「そうですね――そして、私がどうなろうと、あなたには関係ない」
「……」
「つまりは、あなたの気まぐれだ。数百年を生き、魔法使い達の間で“闇の福音”と恐れられる伝説の吸血鬼――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。そんなあなたらしくもない、つまり、気まぐれだ」
「目の前の相手がそうだとわかっているとは思えん言葉だな」

 エヴァンジェリンは鼻を鳴らし――じっと浅野を見据えた。彼の黒い瞳に映る自分の姿を、彼女は見る。不機嫌そうな――しかし、少し前までの自分にはあり得なかっただろう、“普通の不機嫌な少女”の顔を。

「……突き詰めれば、疑念と好奇心――と言うことになるのだろうな」

 暫くの沈黙の後、エヴァンジェリンは言った。

「貴様らの実力が、天ヶ崎千草に比べて劣っている事は事実だ。あるいは、判断力や狡猾さ、と言った部分がな。だがそれにしても、貴様らは無能すぎる。ここまでの出来事の中で、貴様らは居ても居なくても同じだったではないか。無能と言って蔑む事は簡単だが、いくら何でも――な。もしかすると貴様は、天ヶ崎千草の一味で、わざと無能を演じて奴らを手助けしているのではないかとすら思えてくる」
「……その問いには、“否”と答えられます。“八角警備保障”の人間は、“護衛任務”など経験したことがない。美神除霊事務所のあの方々と同じようにね。その上魔法の秘匿に縛られたまま、一般人を警護しろなどと――頭の痛い話です」
「気持ちはわからんでもないな。だが、泣き言も言ってられまい。それが組織の命令というものだ――言い換えれば、それが関西呪術協会の姿勢そのものだったのだろう。あの坊やの特使の話が無くなった以上、貴様らは組織としてこちらを出迎える必要はなくなる。懸念されるべきは、行方不明になっていた天ヶ崎千草の動向のみだ」

 浅野は小さく頷き――彼女の言葉に応えた。

「関西呪術協会という組織は、そのあり方としては関東魔法協会とそれほど変わったものではない。魔法という技術の秘密を守りつつ、それを悪用する人間を牽制し、なおかつ魔法技術のあり方を模索する組織です」
「くだらんな」
「あなたから見れば、そう見えるかも知れませんね。そして――私が取った行動は、その縮図――とでも言うべきでしょうか、そう言うものに過ぎません」
「――」

 浅野の口元に、薄い笑みが浮かぶ。しかしそれは軽薄なものではない。彼の目は笑っていない。
 エヴァンジェリンは思う。これは無力を嘆く人間の浮かべる表情ではない。今の彼からは――どこからか、自分と同じような匂いを感じる。

「あなたにとっては愚問かも知れませんが、どうして魔法は秘匿されるべきなのでしょうか?」
「いくつかの解答は用意できる。超常の力を操れる人間がその優位性を保持しようとするのは自然なことであるし、無制限の力の流出は危険でもある」

 すぐに思いつくのはそういうところだ。他人より優れた力を身につけた人間が、その優位性を保とうとするのは自然な事である。結果魔法使い達は、自分たちを“魔法使い”――ただの人間とは違う存在であると区別している。
 そしてそれは、ただの驕りと言うわけではない。魔法は確かに、強大な力であるのだ。脆弱なはずのただの人間が、ともすれば近代兵器を凌駕するほどの力を簡単に発揮できる。その様な力が、際限なく人々に広まってしまえばどうなるだろうか? 最終的にその力を御するのは、本人の意思のみなのだ。そこに善悪は存在しない。客観的にはもちろん――主観的にも。

「その通りです。核兵器を論ずるときなどにもそれは似ていますね。あのようなものが考え無しに誰しもの手に渡るようになれば、世界は終わる。魔法にはそれほどの力はありませんが、人間を殺すには十分という意味では同じ事です。そして関西呪術協会をはじめとして――魔法使いの組織とは、結局その為に存在する。強大な力を操るための、強固な意志の総体として。色々と問題はあるでしょうが――そう言うものが存在する事は、決して間違いではない」
「……」
「そう言ったものに存在を認められなかったあなたとしては――愉快な話では無いでしょうが」
「ふん――私を相手に真顔で皮肉とは、随分と剛気だな、浅野潮。それで、その不愉快な連中がいるからどうしたと言うんだ?」
「そんな我々は、だから英雄という存在に弱い。互いを見張らねば恐ろしくてその力も振るえない我々は、強固な意志の元に強大な力を操り――そして自らの正しさを体現する、そんな存在がまぶしくてたまらないのです」

 浅野の言葉に、エヴァンジェリンは何処か遠くを見つめるような表情になる。
 彼女の脳裏に浮かぶ、一人の青年――
 自分は彼らとは違う。英雄などにあこがれを抱いたりはしない――けれど、あの英雄と言うにはあまりに破天荒なあの男は――
 彼女は誰にも聞こえないくらいに舌打ちをした。

「貴様らはあの“坊や”が、この事件を解決してくれる事を望んでいるとでも言うのか? だとしたら、信じられん大間抜けだ。今のあのガキなど、百人いても天ヶ崎千草に翻弄されるのがいいところだ。ナギが“死んだ”今、魔法使いが新たな旗印を求めているのは理解できる。わざわざ英雄がどうだと大仰に語らずとも、な。だが――」
「そうではありません。関西呪術協会としても、今のネギ君にそれが可能な事かどうかくらいは、理解しています。今は何よりも、事態の収拾が優先される」
「その為には組織のあり方や理想などに構っている場合ではないと言うことか?」
「……ネギ君は、犬塚シロさんが言い出した警察機構への助力を、阻もうとしなかった」

 浅野の言葉に、エヴァンジェリンは腕を組む。
 そう言えばそうだ。魔法の秘匿に絡んでいつも大騒ぎする彼にしては、シロの行動に何も口を出さなかった。

「ふん……いい加減あの馬鹿も、自分一人の力など、たかが知れていると言うことがわかったのだろう。ま……貴様らが期待する“英雄”としては、いささか情けない成長だがな」
「それを見てみたかった――と言うのは、答えにはなりませんか?」
「――何だと?」
「英雄の素顔を見てみたくはないか、と言ったのです。その為に、今は彼の“邪魔”はしたくない。私たちがどう動くかにかかわらず――彼らの“邪魔”だけは、したくない。彼が近衛木乃香嬢の為ならば魔法の秘匿など――と言うのならば、私はその意見を尊重しましょう。例えその結果、私の立場がどうなろうともね」
「……」
「なぜならば私もまた、魔法使いの組織に身を置く者の一人――“英雄”の一人を旗印とする、組織の一員なのですから」




 午後六時四十五分、京都某所、関西呪術協会本部本殿。
 十人ばかりの男女が見守る中、狩衣を身に纏う痩身の中年と、スーツ姿の壮年が握手を交わす。関西呪術協会会長、近衛詠春と、京都府警指導員、暁光寺である。
 見守る、とは言っても、暁光寺に向けられる視線は、穏やかなものではない。彼らは通称“年寄り衆”。関西呪術協会の幹部達であり、それぞれが何らかのグループを束ねている面々である。
 今まで秘匿されてきたこの場所に、魔法使いでもないのに無遠慮に上がり込んできた男に対して好意的になれ――と言うのも、いささか無茶と言うものである。それを黙認した浅野――今は狩衣に着替えて、“年寄り衆”の末席に座る青年にも、時折冷たい視線が向けられている。

「空気重くない?」
「ここで拙者らを歓迎しようと言う方がどうかしていると思うが」

 本殿に通された面々の中で、ケイとシロが小声で囁き合う。とはいえ、二人の態度はその面々の中では軽い方である。木乃香が連れ去られた現場にいたと言うことでやって来た、麻帆良学園本校女子中等部3年A組、修学旅行第三班と第五班の少女らは、身を寄せ合うようにして、こわごわと辺りをうかがっていた。
 刹那もまた、普段とは違う重々しい空気を身に纏っていたが、もちろん彼女のそれは、居心地の悪さから来るものではないだろう。

「京都府警の暁光寺と申します――こちらは、京都の古いオカルト組織だと聞いていますが」
「その通りです。私は関西呪術協会会長――近衛詠春。誘拐された近衛木乃香の父親です」
「……心中はお察ししますが、今は捜査に協力をお願いしたい――構いませんかな?」
「どうぞ」

 近衛詠春が顔を上げると、障子が開き――巫女の格好をした女性が、素早く人数分の座布団を用意する。少女達はおっかなびっくり、その座布団に腰を下ろし――最前列には暁光寺、坂田の刑事二人を筆頭に、ネギ、シロ、ケイ、タマモ、刹那、楓の六人が座る。

「我々は同じオカルト組織と言っても、京都陰陽寮やオカルトGメン関西支部とは性格の異なる組織です。あまり大声では言えませんが――」

 詠春はそう言いながら、自身も用意された簡素な座布団に腰を下ろす。

「あまり穏やかでない――“敵”と呼べるものも多い」
「確かに警察の人間として穏やかでない話とは気になりますが――警察にはまた、民事不介入という原則もありますので、その辺りは不問と致しましょう」
「そうしていただけるとありがたい」

 暁光寺の言葉は、挨拶代わりのそれほど意味を持つものではなかったのだろうが、幹部の誰かが小さく舌打ちをしたのを、シロの耳は捕らえた。オカルトを何も知らない人間が、上から見たような視線でものを言えば――彼らにとっては愉快でないだろう。

「では会長――いえ、詠春さんは、今回の事件を、その“敵”の仕業と考えるのですね?」
「いえ――それが、今回我々が犯人と考えている人間は、何というか少々――もちろん、その辺りのお話も、出来うる限りは話しましょうが、その――」
「……あー……気になるなら、どうぞ」
「い、いえ、それは――ん、んんっ。結構です。では、暁光寺刑事――我々に問いたいこととは、何ですか?」

 一つ咳払いをして、詠春は暁光寺に視線を戻す。
 その様子を見て、シロは内心でため息を一つつき、隣をうかがう。
 そこには、頬を真っ赤に腫らして――ふて腐れたように下品にあぐらを掻く、金髪のスーツ姿の少女――もとい、千道タマモの姿があった。

「いつまでふて腐れているつもりで御座るか、馬鹿狐。自慢の顔が下膨れになったのが、そんなに嫌か」
「どうせ私はええ格好しいの大間抜けですよ――そんな私の事なんて、どうでもいいじゃない」
「……そう言うことらしいので、どうかこちらは気にせず――暁光寺殿」

 疲れたようにシロは言う。
――ややあって、暁光寺もまた一つ咳払いをして、詠春に問う。

「……大方の事情は、後ろのお嬢さん方から聞きました。攫われたお嬢さんの父親――つまりあなたが、京都の大きなオカルト組織のトップを務めている――と言うこともね」

 いくつかの視線が、刹那に向けられる。
 彼女の手が、制服のスカートの上で強く握られ――前髪に隠された彼女の表情を代弁していた。しかし流石に、声を出すものは誰もいない。

「それをふまえて――まずは、天ヶ崎千草という女性について、いくつかご質問いたします」











マガジンを多少流し読みして思うこと。

赤松先生――お願いです。もう勘弁してください(笑)

「衝撃の展開」と言うことに関してはファンとして期待したいところですが、
このお話を書いている身としては、悲鳴を上げたくて仕方ない。
もはや展開を追えなくなってこちらの「魔法世界編」を読むのが恐ろしい。

このお話は、「学園祭編」までのお話を独自に考察し、
そこから設定をしています。ご了承ください。

補足として。
暁光寺、坂田の良刑事は、例によって上山徹郎先生の漫画をモチーフにしております。



[7033] 三年A組のポートレート・彼女の輪郭
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/04/04 13:05
 天ヶ崎千草――二十五歳、女性。
 フリージャーナリストであった父、天ヶ崎衛(まもる)と、フリーのゴースト・スイーパーであった母、天ヶ崎千夏(ちなつ)の長女として生まれる。それまでは日本はもとより世界各地を転々としていた天ヶ崎夫婦は、千草の誕生を境に京都に定住し、母・千夏はゴースト・スイーパーを辞めて育児に専念する。
 しかし千草が五歳の折、両親は事故により死亡。両親共に近しい親戚も居なかったため、千草はその時預けられていた、母がゴースト・スイーパーになるために師事した霊能力者に引き取られる。
 高校、大学において心霊学――その中でも主に、日本古来よりの呪術について研究し、卒業論文が関西の心霊学研究機関に認められ、大学卒業後はそこの研究員となる。しかし一年後、突然辞職し、京都のとある清掃会社の事務員として働き始め、現在に至る。
 それが――“関西呪術協会”側からもたらされた、天ヶ崎千草という女性の経歴であった。

「その清掃会社、と言うのは、我々関西呪術協会のダミー企業です」
「……ダミー、ですか?」

 関西呪術協会会長、近衛詠春の言葉に、刑事――肩書きは“元”であるが――である暁光寺の目つきが鋭いものとなるが、詠春は苦笑して、首を横に振った。

「それ自体は法に触れるものではありませんよ。企業として法人登録をしていますが、清掃会社としての実体がない、書類上の企業――と言うだけの話です。我々の組織は古来からその存在を表沙汰にしていませんが、そこに身を置く人間を全て、映画の中の秘密結社よろしく、地下の秘密基地に押し込める、というわけにもいきません」
「なるほど――関西呪術協会の人間が、己の肩書きを名乗るための企業、というわけですな。まあ、それはいいでしょう。では、彼女はどうして、所属していた研究機関を辞めてまでこの協会に?」
「それは私どもにはわかりません」
「しかしあなた方は、その存在を秘匿しているのでしょう?」
「表だって存在を公表していない、というだけですよ。でなければ、あなた方の来訪とて、何らかのやり方でやり過ごそうとしたでしょう。オカルト関係者ならば、我々の存在を知っている人間も少なくはない――彼女の母やその師匠もまた、オカルト関係者であるわけですから、あるいは」

 ふむ、と、暁光寺は顎に手をやる。あまり手入れをしていない無精髭が、小さく耳障りな音を立てる。目の前に座る痩身の男を彼は見遣る。彼がどの程度の事を語っているのかは暁光寺にはわからないが――彼は少なくとも、おかしな事は言っていない。

「彼女の母親の師匠――と言うのは」
「残念ながら、数年前に他界しております。除霊作業中に重傷を負い――本人はそうは言っていなかったようですが――恐らくその怪我が原因で。年齢的な理由で引退を考えていた折だったので、無念であると――縁者からは聞いております」
「それはご愁傷様です――おい、坂田。何やねんさっきからソワソワと――ちっとは落ち着かんかい。すいませんね、こいつはまだ半人前で、礼儀っちゅうもんがなっとらんのですわ」
「礼儀とかそう言う話ですか、親父さん――い、いえ、失礼」

 暁光寺は隣で居心地が悪そうに周囲を見回していた坂田を軽く小突き――坂田はそれに反論しようとしたが、あまりの空気の重さに耐えきれず、早々に白旗を揚げた。
 そんな彼に、詠春は優しく笑いかける。

「どうか楽に――と言うのも無理な話かも知れませんが。どうでしょう。このような雰囲気の場所に只座っているだけでは、刑事さんはともかく、後ろのお嬢さん方はお辛いでしょう。近くの部屋にお茶など用意させますので、よろしかったら」

 大の大人でさえ耐えかねるほどのこの空気の中では、そこまでが限界だったのだろう。顔色を悪くした幾人かの少女達が、申し訳なさそうに巫女装束の女性の案内に続いて、部屋から出て行く。
 木乃香と同じ班であるのどかや夕映は特に思うところがあるようだったが、結局千鶴とあやかが手を貸すようにして部屋から出て行く。彼女たちは逆に――自分たちがこの場にいては邪魔になると判断したのだろう。
 果たして少女達の一団の中で、その場に残ったのは、明日菜とエヴァンジェリンの二人だけ。もちろん――二人が残った理由は、それぞれ全く違うものであろうが。

「では、一息ついたところでもう一つお聞きしましょう。聞くところによれば――あなた方は、被害者である近衛木乃香さんが、修学旅行の初日にも誘拐されそうになったのを知っていて――警察に通報しなかったそうですね?」
「それについては――」

 “年寄り衆”の末席に座っていた浅野はその言葉に反応するが、暁光寺は首を横に振る。どちらかと言えば――柔らかな表情で。

「その事を責めるわけではありません。明らかにオカルト技術が使われた事態にあって、あなた方は、我々よりもプロフェッショナルです。警察の心霊係など、お恥ずかしい話ですが、民間ゴースト・スイーパーの真似事が出来るか出来ないか、その程度のものでしかありませんでな」
「日本の警察機構の心霊捜査は、まだ導入されたばかりだと聞きます。何でも警視庁のそれに先行する形で、国際警察の心霊捜査専門機関――オカルトGメンが設立された経緯があるとか」
「よくご存じで。正直なところ、魔神の核ジャック事件が無ければ、心霊係の設立は未だ“議案”のレベルでしか無かったでしょうな――まあ、身内の恥を晒すのはこの程度にして――ですから近衛さん」

 無遠慮に頭を掻きつつ、暁光寺は詠春に言う。

「私どもは、あなた方を――あなた方の“あり方”を疑う事はしません。警察では手も足も出んような化けモン共から、それこそ何百年も京都を守ってきたのは、あなた方のような“表沙汰に出来ん組織”なのでしょうからな」

 その言葉に、詠春の眉が小さく動く。それは皮肉ではない、純粋な賞賛の言葉だった。彼は思う。暁光寺の様な立場の人間が、良くこの場でその様なことを言えたものだと――しかし当然、そんなことは口に出すわけにはいかないが。

「――“そのため”に存在している我々としては、何とも光栄なお言葉です」
「そういうわけで近衛さん。私はあなた方を疑うわけではないし、責めるつもりもない。ただ単純に質問します。今日に至るまでの一連の事件を経て、あなた方はこの事件の容疑者を“天ヶ崎千草”だと断定できますか? 我々は犯人どころか、事件そのものを伝聞でしか知らんのです」
「……それについては、申し訳ありません。しかし――いえ、単純に質問に答えるならば」

 それは当初から、浅野やタマモ達も抱いていた疑問だった。何せこちらが事件の容疑者を“天ヶ崎千草”だと判断している理由とは、容疑者自身がそう名乗ったからという単純なものである。そしてとうの天ヶ崎千草は、少し前からその足取りが掴めていない。
 それだけで犯人を天ヶ崎千草本人だと決めつけるのは早計とは言えないだろうか?
 たとえば犬塚シロは、己の師匠――横島忠夫が関わったという、ザンス王国国王襲撃事件を知っている。その事件に於いては、オカルト技術を利用した変装によって、一時彼が逮捕される騒ぎになったというのだ。

「出来ません。浅野をはじめ我々の誰もが、今回の首謀者――“天ヶ崎千草”を名乗る彼女を確認できていない。彼女が天ヶ崎千草本人であるとは、我々には断言できない。しかし――」

 しかし先に挙げた事件などとでは、決定的に異なる事が一つある。
 それは、犯人が天ヶ崎千草を名乗る事に、さしたるメリットが無いと言うことである。
 偽物が彼女本人に罪をなすりつけようと言うにはどうも妙であるし、そもそも当の本人が行方不明なのだから、捜査が進めば本物か偽物かに関わらず、追われるのは“犯行を犯した人間”と言うことになる。
 ザンス国王襲撃事件の折は、横島や国際警察の西条を装う事で、捜査を混乱させることが出来たが、今回の事件ではそういう効果への期待は薄かろう。

「千道さん達から聞いた犯人の特徴は、天ヶ崎千草本人と一致しますが――彼女のことを知らない千道さん達を前に、彼女の名前を名乗ったり変装をしたりと、そう言うことをしたりする意味はわかりませんね」
「――そういう事ならば、その事には今は結論は出せませんな。とりあえずは、彼女を天ヶ崎千草本人として捜査を進める他ありません」
「――ふん――揚げ足を取るようだが、その“捜査”というのはどう進めるべきなのか、聞かせて貰っても構わないか?」

 今まで話していた詠春とは正反対――自分の背後から掛けられた声に、暁光寺は振り返った。見ればシロ達と同じ格好――麻帆良女子中の制服に身を包んだ金髪の少女が、不機嫌そうに座布団にあぐらを掻いている。

「既に京都一帯には、警察による大規模な捜査線が敷かれている。もっとも、魔法――もといオカルトに明るくない警察に出来ることなど、期待はせん方が良いだろうが。ならば私たちはどう動くべきだ? 暁光寺――と言ったか、貴様は凶悪事件を解決するプロフェッショナルではあろうが――オカルトに関しては素人だろう?」
「ちょ――ちょっと、エヴァちゃん!」
「どうなのだ。ここで無能な連中をいくら問いつめたところで、天ヶ崎千草への道のりは縮まるとは思えん」

 いつも通りの尊大な口ぶりに、明日菜は慌てて彼女の口を押さえようとするが、エヴァンジェリンは軽くそれをいなして、暁光寺に言う。
 それを見て、ふとシロは思う。エヴァンジェリンはああ見えて、所謂“空気を読む”事には長けた人間だ。自分勝手なように見えて、その実相手の気持ちの動きに敏感で、それに合わせた立ち振る舞いをすることが出来る。もっとも、それを敢えて無視する場合も多々あるのだが――この場合、その行動の意味するところは――

「――私の修学旅行を台無しにしたあの女を、私は絶対に許さん。その上近衛木乃香に何かあってみろ。私たちは新聞の一面に間抜け面を晒す羽目になるのだぞ? ――全く、冗談も大概にしろ。なあ、神楽坂明日菜? 私は一体、何のために京都に来たのだ? 日本の古都を心ゆくまで満喫し、旅の思い出を残すため――ではないのか?」
「……エヴァちゃん」
「私は無駄なことはしない主義だ。自分に出来る事の範囲も理解している。しかし、こんなわけのわからん場所で、社交辞令混じりに腹の探り合いをしていて、果たして本当に黒幕にたどり着けるのかと、そう言って居るんだ」

 エヴァンジェリンのぶっきらぼうな言葉に、思わず隣にいた明日菜は、彼女の体を抱きしめたい衝動に駆られる。奈良の大仏殿でも思ったことだが――これが本当に、命がけで自分たちと“大喧嘩”をしたあの少女だろうか? 出会ってから二年あまり――彼女の記憶の中で、いつも教室の隅でつまらなそうに空を見上げていた、あの少女だろうか?
 どうやらそれは、その場に残ったシロや楓にも通じる所があったようで――一瞬だけ、彼女に向けられた暖かな空気に、明日菜はその場の居心地の悪さを忘れた。

「ふむ……中々お利口なお嬢ちゃんや」

 果たして遠慮のない言葉を向けられた暁光寺は腕を組み、小さく頷く。

「京都市街一帯にローラー作戦が敷かれとる今、これ以上の物理的な捜査線の拡大は難しいやろな。連中の使うオカルト技術に関しては、恐らく心霊係を通して国選ゴースト・スイーパーやオカルトGメンに協力要請が行っとる筈やが――まあ、そっちはそっちで任せとったらええわ」
「ならば我々のこの行動の意味するところは何だ? 暁光寺と言ったか――貴様は既に、一線を退いた人間なのだろう? よもや天ヶ崎千草の縁者に対する“聞き込み”が、貴様に一任されているわけでもあるまい」
「結論を急ぐなや、名探偵のお嬢ちゃん」

 鼻息の荒いエヴァンジェリンに、暁光寺は苦笑する。

「恐らく既に、詠春さんの言うとったダミー企業――天ヶ崎千草が書類上籍を置いとった会社には、捜査本部の調べが入っとるはずや。と言っても、とうの本人が一月も前から姿を消しとるんやから、今更意味は無いやろけどな。オカルト関係っちゅう事で“ここ”に捜査関係者が来ることがあったとしても、まあ、俺ら以上の何かがわかるわけでもないわ」

 せいぜい分かることと言えば、関西呪術協会が知る“天ヶ崎千草”という人物の人となり、と言ったところであろうか。それも――何処まで確かなものなのかわかったものではない。浅野をはじめ、関西呪術協会は、明らかに彼女の実力を――“月詠”や“犬上小太郎”と言った外部の雇われ協力者の存在を抜きにしても、見誤っていた。

「与えられた情報は多いとは言えん――せやったら、俺らはそこから、犯人像やその行動を予想せなあかん」
「……プロファイリング、と言う奴か?」

 エヴァンジェリンは眉を動かして、暁光寺に問う。
 プロファイリングとは、得られた情報から、犯人の特徴や行動を分析し、その犯人の人物像や犯行手段、行動パターンなどにおいて推論を立てる手法のことを呼ぶ。近年になって取り入れられ始めた手法ではあるが、テレビドラマなどの影響もあって、その認知度は高い。

「えっと……犯行現場がこんな感じだから、犯人の性格はこうだ……とか、そういう奴?」
「うん、多分、そう言う奴」

 小声でケイに楓がそう問い、ケイが頷く。彼とて犯罪捜査に詳しいわけではないが、それでもそれくらいのことは知っている。

「そう言えん事も無いけどなあ……捜査本部の方で、既に専門のプロファイリングチームが組織されとる筈やで? 所詮俺は老いぼれ指導員で、坂田かてまだ半人前の新米や。シロちゃんらは警察やないし、お嬢ちゃんは名探偵かも知れへんけど、単なる中学生やろ?」
「ほう――なら、私たちは何の意味もない貴様の暇つぶしに付き合っているとでも?」
「そうや――と、言いたいところやが、流石の俺もそこまでのアホは言いたないわ。せやけどな、俺らは捜査本部とは関係ないところで、半ば独立愚連隊気味に動いとるわけや。ふん――プロファイリングか、そう言う言い方も出来へんわけやないがな」
「……何が言いたい?」
「俺がやりたいのは、そんなお上品なもんやない――言うことや」

 その時好々爺然とした老刑事の顔に浮かんだ表情は――先に述べた彼を形容する要素――“好々爺”でも“老いた”“刑事”でもない、まるで悪戯好きな少年のようなそれだった。
 そしてエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、こんな表情を良く浮かべる青年を一人、よく知っていた。




 天ヶ崎千草を名乗るあの女性が、本物の天ヶ崎千草であるかどうかは、もはやどうでも良いことであるが――と、前置きをして、暁光寺は言った。

「問題は、その女の目的や。これだけは出来るだけ早くに目星を付ける必要がある。奴の目的は俺にはわからん。せやけど――奴はまだ、その目的を果たしとらん筈や」
「本当ですか!?」

 彼の言葉に食いついたのは、刹那だった。彼女の隣に座っていたタマモは、驚いて軽く仰け反るような格好になる。暁光寺はそんな彼女に軽く目をやり――一つ、咳払いをした。

「誘拐事件っちゅうのはな、大概、人を攫う事そのものが目的やあらへん。余程トチ狂った愉快犯なら、まあその可能性も無きにしもあらず――やが、今回の事件に限っては、まあ、それはあらへんやろ」

 人を攫う為に誘拐事件を起こす――もちろん、暁光寺の言うとおり、余程“おかしな”人間でなければそんなことはしないだろう。当然ながら、そこには目的がある。身代金であるとか、交渉の取引材料であるとか、はたまた人身売買であるとか――ともかく、目的があるから、誘拐事件を起こすのである。
 その辺りは、一度タマモやエヴァンジェリン、そしてケイも考えてみた事である。果たして、素人である彼女らに、結論などは出なかったが。

「まずそこから行くが――身代金目当てや何かの交渉――近衛木乃香ちゃんの立場を考えたら、詠春さん、あんたら関西呪術協会に関わる何かでしょうが――とにかく、犯人の目的がそういうものなんやったら、奴らは何らかのコンタクトを取ってくる筈や。そして最低限それまでは、彼女の身の安全は保証できる」
「何故わかる」

 エヴァンジェリンの短い問いに、暁光寺は首を横に振った。

「死体を相手に身代金を払ったり交渉のテーブルに着いたりする馬鹿はおらんやろ。交渉を持ちかけてくる時点では、相手は明確に木乃香ちゃんの無事を証明する必要がある――この事件に限っては、やけどな」
「どういう事だ?」
「これが普通の誘拐事件やったら、犯人はそこまでする必要はないわな。人質は足手まといになる。交渉を持ちかけてきた時には、既に人質は殺されとった――なんちゅう話もよう聞くわ。せやけど、奴らの目的が何であれ、木乃香ちゃんが誘拐されたら、“関西呪術協会”さんが動くのは明白や」
「……」
「普通に“お宅の娘さんを預かった”やったらな、脅迫された方は、一縷の望みに掛けて必死に動く。もちろん、詠春さん個人はそうしたいやろけどな――“関西呪術協会”としては、そうもいかんやろ。既に死体になっとるかも知れん相手に、リスクは犯せへん。せやったら、交渉のテーブルをもうけるまでは、木乃香ちゃんを殺す訳にはいかんわな」

 もちろん根拠があるわけではないが――と言って、暁光寺は首を振る。
 近衛詠春も関西呪術協会の幹部達も――そしてタマモも、彼の唱える仮説に異論は唱えない。一応の説得力はあるし、結局自分たちは、彼の仮定を信じるしかない立場にいる。

「――せやけどな、どうも連中の目的はそうやない気がするんや。聞くところよれば、このクラスには、結構な金持ちの娘さんもおる。単純に身代金が欲しいんやったら、そっちを狙った方が得策や」
「それじゃ――」

 何か言いかけたネギを視線で制し、暁光寺は続ける。

「せやかて、金目当て以外の交渉――言うのもな。“天ヶ崎千草”は、関西呪術協会の幹部――なら、その組織に対する何らかの脅迫やろか? そうは思えんわなあ、社長になりたいから言うて、社長の娘を誘拐して脅す馬鹿はおらへん。たとえ詠春さんが会長の椅子を明け渡しても、自分が牢屋の中に入ってしもたら、そこに座る事はかなわんわな」
「彼女が我々関西呪術協会――それそのものの壊滅を期待している――という可能性は無いでしょうか?」
「そりゃ詠春さん――あなた個人に揺さぶりを掛ける事は出来るかも知れませんがね。私が“天ヶ崎千草”でそれを狙っているのなら、木乃香ちゃんを誘拐するよりも、この建物に爆弾でも仕掛けますよ。あるいは彼女はこの組織の幹部なのですから、こういう――幹部が顔を揃える会合とか、そう言う場所で何らかのアクションを起こします。毒ガスをばらまくとか、オカルトの――何でしたか、ゴーレムでしたか式神でしたか、そういうモンを暴れさせるとか」
「道理だな――“交渉”では、組織の壊滅は期待できない。そして誘拐という行為からは、“交渉”以上のカードは引き出せない――伝説の英雄の一人ともあろう男が、そのくらいのことがわからんでどうする」

 その言葉に詠春はそう問うたが――暁光寺はそれを否定し、エヴァンジェリンもまた、疲れたようにため息をつく。

「――たとえばこういうのはどうだ? 天ヶ崎千草の狙いは、関西呪術協会と敵対する人間で、その人物は現在、関西呪術協会によって自由を奪われている――政治犯がらみのテロリストに良くある話だ。ふふ、もっともそれが確かなら、それ自体、暁光寺の前では口が裂けても言えんかも知れんが」
「大昔ならあり得た話かも知れませんが――暁光寺さん、その様な目をされずとも、現在の関西呪術協会にはその様な事実はありません。協会には、組織の人間を罰する為の場所は無くはないですが、今となっては歴史的な史跡に近いものですよ。かつてここでは、組織に従わない人間を云々――と言う奴です」
「ふむ」

 暁光寺は顎に手を当て、暫く何かを考え――ややあって、声のトーンを落とす。

「……まあ、相手が交渉を持ちかけてこない限り断言は出来ませんが、連中の目的は身代金や交渉ではない――と、今度は考えましょう。目的が“近衛木乃香”自身にあると仮定します」

 その言葉に、“年寄り衆”の幾人かは僅かに表情を変える。関西呪術協会の事をほとんど何も知らない木乃香自身に目的があると言うことは即ち――その目的は“交渉”よりも非道なものになる可能性が高い。しかし――

「それにしちゃやることが大げさ過ぎるわよねー……あの子ばっかりが狙われる理由もわかんないし。“いたいけな女子中学生”狙いならまあ、うちの馬鹿犬でもいいわけだしさ」

 気だるげに言ったのは、未だ両の頬を手で押さえたままのタマモである。その仕草は間違いなく“年寄り衆”の機嫌を逆なでするに違いないが――もちろんとうの彼女に、その辺りのことを気にする様子は微塵もない。

「あ、それじゃだめか。“いたいけ”ってガラでもないし――そもそもこいつ相手に興奮できる変態なんて――ニーズが特殊すぎるわ」
「言いたい放題言ってくれるなこの馬鹿狐――ふん、拙者とて、女を欲望の対象としか見られぬ男など願い下げで御座る。そもそも拙者の魅力には、この世でただお一人さえ気がついてくれれば――」
「その“お一人”と数ヶ月も一つ屋根の下に暮らしておいて、何の進展も無しじゃ、希望薄いんじゃない?」
「貴様――言わせておけば――」
「あのさ――真面目な話ししてるんだから、とりあえず今は自重しなよ」

 呆れたようなケイの言葉に――タマモの軽口に爆発しかけていたシロは、はっと我に返る。慌てて座布団に座り直すも、時既に遅し――と言う奴だろう。暁光寺や明日菜からの、何とも言えない温度の視線がとても痛い。シロは顔を赤くして、膝の上に置いた己の拳にじっと目線を落とす。
 対してタマモは一つ大きく息を吐き――何を気にする様子もなく、軽い調子で続ける。

「不特定多数の女子中学生――って意味じゃ、連中の行動は説明できないわ。近衛木乃香――あの子だから意味がある何か、ってのがあるんじゃないの?」
「堂々巡りではないか千道タマモ――近衛木乃香は、関西呪術協会トップの娘である――しかし、状況から考えればそれだけを理由に“交渉”の材料になるとは思えん」

 と言うよりも、持ちかけるべき“交渉”が相手方には存在しない――仮の結論ではあるが、先ほどそう言う話が出たところである。エヴァンジェリンの言うとおり、“近衛木乃香”個人が持つ何かと言えば、それを考慮すれば、話は堂々巡りに陥ってしまう。

「あ、あの――」

 弱々しく何かを言いかけたのは、桜咲刹那であった。
 何とも儚く、雅な名前を持つ彼女の小さな声に――果たして、“年寄り衆”の視線が集中する。そう言えば、彼女は木乃香の護衛であったとか――
 視線に身をすくめた刹那に目をやり、タマモが小さく舌打ちをした。

「何よ。あんたらこの子が喋る事に何か文句でもあんの?」
「千道さん――いえ、私は――お嬢様の護衛という立場であったわけですから――」
「気に病む事じゃないでしょ。何処ぞの警備会社さんに比べたら、よっぽど役には立ってるわよ? ねえ――浅野さん」
「その通りですね」

 苦笑混じりに応える浅野に、冷たい視線が集中するが――彼の笑みは崩れない。
 おや、彼もまた、“関西呪術協会”で一括りにするには適当でない人間なのだろうか――と、タマモは一瞬思ったが、今はどうでも良いことである。首を横に振り、結局彼らとて、今の今まで何の力にもなれなかった事を思い出す。
 もちろんそれは、彼らだけを責めるべきではないのだが――それを言うなら、目の前の少女とて同じ事だ。

「それで、何? あんた何か――木乃香ちゃんが狙われる理由、知ってるの?」
「はい、そ、その――お嬢様は――潜在的な魔力――その、“オカルトの才能”には、計り知れないものがあるのです。天ヶ崎千草が、関西呪術協会の人間であって――お嬢様のみが狙われていたのだとすると、もしかしたら――」
「ん? 何やそれは。オカルトの才能があったら、何ぞ不都合でもあるんかいな」

 恐る恐る、と言った風に言葉を紡いだ刹那に、暁光寺が問う。
 果たしてその問いには、刹那の代わりにエヴァンジェリンが応えた。

「“過ぎた”という言葉が付くほどの才能ならば――という但し書きが付くがな。魔法――オカルト技術というのは、個人の才能に寄るところが大きい。たとえば――」
「レベル1の“魔法使い”が、最強の呪文を唱えたところで――“その呪文はまだ覚えていません”とか“マジックパワーが足りません”とか、そう言うオチが付くでしょ? 才能ってのはそう言うこと。才能のない人間は、どれだけ頑張ってもレベル1のままなのよ」
「……間違っては居ないが、もう少し学のある喩えはないものか、千道タマモ」

 それは魔法使いに対する皮肉か――と言う言葉を、エヴァンジェリンはどうにか飲み込む。そんな彼女に構わず、タマモは続けた。

「暁光寺さんは、ロールプレイング・ゲームをやったことは?」
「あー……娘がちょいと前に何やったか、“キャラバン・クエスト”やったか? 一時流行ったアレにはまっとってな。ちょいと手を出してみたんやが――結局クリアできへんかったなあ」
「だったら今の喩えは何となくわかるわよね? 私も多分、木乃香ちゃんが攫われる理由は“それ”しかないと思う。問題は――“レベル99の魔法使い”になれる彼女に、一体何を求めているのか――ということね」
「ふむ――ん? せやけどタマモちゃん、木乃香ちゃんは“レベル99になれる魔法使い”かも知れへんが――今の彼女は“レベル1”ちゃうんか?」
「うーん……“レベル1だけどマジックパワーは最大値”って言うのか――うん? ちょっと待ってよ? 木乃香ちゃんがそういう力の持ち主で、連中が求めてるのが彼女の魔力――っうわ」

 暁光寺にかみ砕いた説明をしようとして――何かに気づいたらしいタマモは、額に手を当てて天を仰ぐ。

「……どうした、千道タマモ?」
「あー……うん、何というか――ちょっと良くない想像に行き着いたって言うか――」

 ほら、あれよ――と言って、タマモはエヴァンジェリンを振り返る。

「ロールプレイング・ゲームの定番ってあるじゃない? “曰くのある女の子”が、怪物だの天変地異だのを鎮めるために云々――つまりその――“生け贄”って奴」




「――馬鹿な」

 タマモの言葉――木乃香が何らかの“生け贄”にされる可能性があるという言葉を聞いて、半ば呆然とそう言い返したのは、近衛詠春であった。

「馬鹿な――そんな、まさか」
「落ち着いてください、詠春さん。自分はオカルトの分野は専門外ですが――あくまで、可能性の一つと言うだけです。そうやな? タマモちゃん」
「ん……まあね。でも――」
「せやけど、詠春さんの言うとおり“馬鹿な”という仮定でもあるわな。タマモちゃんかて、さっきの話は覚えとるやろ?」
「そりゃまあ――」

 天ヶ崎千草の行動は、関西呪術協会に対し――脅迫でもって交渉のテーブルをもうけようという風は感じられない。そして、タマモが行き着いた“生け贄”という可能性を別にしてではあるが、木乃香本人に狙われる程の価値があるとも考えにくい。
 ならば、その“生け贄”という仮説――彼女が秘めたるというその強力なオカルトの才能を対価として、自分の目的を果たす、という可能性はどうなのだろうか?

「“生け贄”なんて言うと仰々しく聞こえるけど、別に祭壇の上で腹を割いて心臓を――とか、そういうモンである必要は無いのよ。血の一滴を垂らすとか、髪の毛を切って捧げるとか――そう言うのも広義の“生け贄”ではある。オカルト業界ではね」
「ようは近衛木乃香の魔力が利用出来るものなら何でもいい――彼女はあくまで“鍵”に過ぎんのだからな。だが――」

 口元を押さえながら、エヴァンジェリンが続ける。

「その“先”の目的を考えると――またしても堂々巡りだな」

 相手が求めるものが、木乃香の膨大な魔力だとするなら、オカルト的な意味で、一応彼女に狙われるだけの理由はある。しかし――それをどうするのかと問うた時に、答えは限られてくる。彼女を何らかのオカルト的儀式の生け贄として使う、と言うのは、その中でも可能性の高いものの一つではあるが――

「……いや、それだけではない。近衛木乃香に膨大な魔力が潜在しているとすれば、それを何かに利用する事は可能だろうし、そうでなければあいつだけが狙われる理由も良くわからん。だが――その“利用”というのは一体何なのだ?」
「え? アレじゃないの? その――フィールドのモンスターを生け贄に捧げて、ボスモンスターを召喚――とか――その――ゲームの話だけど」

 明日菜が、自分がすぐに思いつくイメージ――木乃香と時折やっているカードゲームの事ではあるが――を口に出すが、エヴァンジェリンは首を横に振る。

「それはわかりやすいイメージではあるが――では神楽坂明日菜、貴様はその召喚したボスモンスターを使って、何がしたいのだ?」
「相手プレーヤーを攻撃――あたっ!? ちょ、エヴァちゃんいきなり殴らないでよ!?」
「馬鹿レッドはさておき――今までの話では、“ボスモンスター”とやらが宙に浮いてしまったぞ? 脅迫や直接攻撃に使うには、もっと手っ取り早くて効果的な手段があるだろう」
「じゃあ、こういうのは? 木乃香さんの魔力は、実は隠された財宝の扉を開くための鍵だった――とか」
「夢があっていい話だけど、多分それもないわ」

 首を傾げながら、エヴァンジェリンの言葉に応えたのはケイだったが――今度はそれを、タマモが否定する。

「その“財宝”って何なのよ。これだけの事をしでかした天ヶ崎千草が、その財宝をつつがなく裏でさばけるとはとても思えないわ。あるいはその財宝ってのはもの凄い力を秘めたオカルトアイテムか何かで、彼女はそれを使って世界を――とか一瞬考えたけど、そんなモンがその辺に転がってるとは思えないし、それがいくら凄いったって小娘一人の力でどうにかなるモンでも無いでしょうし――魔神さえも挫折した偉業を成し遂げようって言うには、貧相なパーティだしね」

 頬を押さえたまま言うタマモの言葉を聞き――腕を組んで何事か考えていた暁光寺は、小さく言った。

「確かに堂々巡りや――けど――多分“それ”で間違いないやろな」
「――どういう事だ?」

 瞳を細めるエヴァンジェリンに、暁光寺は言う。いつもは柔らかな光を湛えるその瞳に――切れ味鋭い刃物のような、鋭い気迫を宿らせて。

「単純な消去法や。天ヶ崎千草の目的は、近衛木乃香ちゃんを人質にした交渉やない。木乃香ちゃん自身の力を狙った“何か”や。連中がその“何か”を使って“何”がしたいんかは、わからん。せやけど――」

 そこまで言って、彼は詠春に向き直る。
 かつて魔法使いの世界で英雄と呼ばれたことのある壮年は――目の前の老刑事に、いい知れない何かを感じた。

「詠春さん。その辺の事に関して言えば、あなたの方が詳しいはずだ。あなたの娘に宿るという力を使わないといけないほどの何か――そんなものは、何かあるのですか? 理由など、目的など何も考えなくていい。今はただ――単純にそれだけを考えてください」
「……心当たりは、あります。しかし――」
「言った筈やで、詠春さん。俺がやりたいのは、捜査本部がやっとるような正式な捜査やない。犯罪科学に基づいたような、お上品なやり方でもない――この訳の分からんメンツやからこそ出来る、そういう無茶なやり方や」

 彼は一瞬、エヴァンジェリンの方に目をやり――そして、続ける。

「犯罪者の目的なんぞ知った事かいな。そんなモンは、とっつかまえたあと本人に聞いたらええやんか」











「京都編大ボスのアレ」に、
バトルを介せず自然にたどり着くにはどうすればいいのだろう。

結論――一話消費しました。

次回より、ラストバトルの開始です。



[7033] 三年A組のポートレート・毒蛇の侵入
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/04/11 08:17
 リョウメンスクナノカミ――
 由来となった「両面宿儺」は、三世紀半ば頃、仁徳天皇の治世に、飛騨に現れたとされる伝説の妖怪である。一つの体に、前後に顔があり、四本の腕、四本の脚を持ち、その腕には剣や弓矢を持ち、強大な力を振るったという伝承が残されている。
 かの有名な日本書紀に於いては、その強大な力をもって民衆を苦しめた挙げ句、朝廷が差し向けた武将によって退治されたと言われている。
 しかしその反面、別の記録によれば、人々に仏教を伝え、あるいは強大な力を持った英雄としても伝えられている。
 事の真偽は今となってはわからない。両面宿儺という何者かが、実際に存在したのかどうかさえも、この程度の伝説からでは確かめる事など出来はしない。ただ大昔に、強大な力を持った異形の「何者か」が存在したらしい――と言うことが、おぼろげながらに想像できる程度である。
 果たして、この“リョウメンスクナノカミ”が、伝説の“両面宿儺”と関係があるのかどうかはわからない。その姿形が伝説の怪物に似ていたから、単純にそう呼ばれただけなのか、あるいはそれそのものが、かつての伝説の怪物なのか、今となってはわからないことである。
 ただ――かつて遙かな世界を巻き込んだ大きな戦いが起こった折に、それこそ伝説となるほどの暴悪な力を持った怪物を、命を賭けて封じた英雄達が居た――それだけは、疑いようのない事実なのである。




「飛騨の伝説の鬼神――ねえ……ぐあ!?」

 近衛詠春によって語られた伝説の化け物――神楽坂明日菜が言うところの“ボスモンスター”の存在に、千道タマモは口の辺りを押さえて小さく呟く――が、未だ熱を持つ頬の痛みに、慌てて両手で頬を押さえる。

「あんた……これ絶対暫く跡が残るわよ……どうしてくれんのよ、暫く人前に出られないじゃないの?」
「美神殿の仕置きを考えれば、まだ生やさしいものであると思うが」
「あんたねえ――あの女が、あんたに前もってお仕置き喰らったからって――容赦してくれると思う? 言う気は無かったけど、これ、結構な額の仕事なのよ?」
「……はて、初夏を迎えようと言うのに耳に春霞でも掛かったか、お主の言うことが良く聞こえぬなあ――して、その飛騨の化け物が何であると?」

 恨みがましく言うタマモであったが、シロはわざとらしく視線を逸らしつつ、詠春に問う。

「チクショウ、覚えてろ……ああもう、来週真友君と出かける予定立ててたのに……」
「……話を続けても宜しいでしょうか?」
「是非に。苦情の類は全て、この馬鹿狐がお受けいたします故に」
「あんたね……」

 詠春は一つ咳払いをして――どうにか気持ちを切り替えたのだろう――話を続ける。リョウメンスクナノカミ――彼が思い当たる、木乃香の力を利用する事で使えるだろう“ボスモンスター”の輪郭を。

「二十年前、一部のオカルト関係者の間で――表沙汰に出来ない大きな争いがありました」

 いくらかの逡巡はあったようだが、結局詠春は、魔法使いを“オカルト関係者”と言い換えた。魔法使いの事は秘匿されるべきである、とは言っても、事情が事情である。もちろんその秘匿は軽いものではないとは言え、あまりに厳格なものであれば、とうの昔にネギはオコジョになっている――秘密漏洩の罰則を科せられているだろう。
 それでも暁光寺達にその事を伏せたのは、彼の中で何か思うところがあったからのだろう。その言い回しに、エヴァンジェリンが小さく眉を動かした事に、恐らく彼は気がついている。

「その折に、リョウメンスクナノカミ――その“怪物”は、言ってみれば一種のオカルト兵器として使われようとしていました。もっともその時は、かの怪物は完全に解放される前に再び封印され、幸いにも争いの道具として使われる事はありませんでしたが」

 その発想はある程度納得できるものである。先ほどのロールプレイング・ゲームの喩えを引っ張り出すまでもなく、オカルト関係者でない暁光寺達にも、その程度の事はわかる。強大な力を持つ何者かを何に使うかと言えば――当然、その強大な力を活かせる“何か”と言うことになる。戦車やミサイルに対して、これは何に使うのか――と言う問いかけもあったものではないだろう。

「ふむ――では、目的はともあれ、近衛木乃香ちゃんの力を“使う先”として、最も可能性が高いものが近隣に存在している――と言うことは、事実なのですね?」
「その通りです」

 暁光寺の問いに、詠春は頷く。

「何となれば――二十年前、その怪物を封印したのは、私を含むオカルト関係者の一団だったのですから。未だ英雄と謳われるナギ・スプリングフィールドが率いた“赤き翼”――そう呼ばれる者達によって、ね」

 エヴァンジェリンの組まれた腕に力が込められ――ネギが、弾かれたように顔を上げる。

「……“スプリングフィールド”? 確か……」
「はい、ナギ・スプリングフィールドは――僕の父親です」

 暁光寺が刻まれて間もない記憶を呼び起こし、ネギがそれを肯定する。ナギ・スプリングフィールド――魔法使い達の間で“英雄”と呼ばれる、伝説級の魔法使い。千の呪文を操り、強大な悪魔を討ち滅ぼし、仲間と共に、魔法使い達の争いに終止符を打つことに尽力した男。
 そして――エヴァンジェリンに、長い暗闇から外に出る為の鍵を渡した青年であり、ネギが、未だにその背中を追い続ける、偉大な魔法使い。
 むろん、暁光寺はその様な事は知るよしもない。しかし――そんな彼でも、詠春の口ぶりには違和感を覚える。彼の口ぶりは、自らの英雄的行動を誇るようなそれではない。
 彼がそれを誇るべきだ、とは言わない。見たところ、近衛詠春という青年は、これだけ大きな組織の長であるにもかかわらず、謙虚な男である。むしろ自らの過去をひけらかすような真似はしないだろうが――しかしそれは、吐き捨てるように語られるべき過去でも無いはずだ。

「ふむ――ネギ“先生”――詠春さんと面識は?」
「いえ――ありません。ただ、話には聞かされていました。京都に――僕の父親と、ゆかりの深い人物がいると」
「暁光寺警部――ネギ先生の父親――ナギ・スプリングフィールドは、ネギ先生が物心付いた頃には既に行方不明となっていたので御座る。公式には既に死亡した事になっているらしく――その――」
「ああ――いや、すまんかったな、ネギ先生」

 助け船を出したシロの言葉に、暁光寺はばつが悪そうにネギに謝り――もちろんネギは慌てて、首を横に振った。彼はネギの事はもちろん、魔法使いの事など全く知らないのだから、この話の流れでは、致し方ない。

「なあ、坂田――どう思う。こりゃ、出来すぎやろか?」
「……俺には、何とも――ただ、偶然と言うには、少し――」

 暁光寺の問いに、坂田も首を傾げる。彼もまた、新米とはいえ、暁光寺の下で、既に並の刑事では経験出来ないような事件をいくつも乗り越えてきた過去を持っては居るが――それでも最終的な判断をするには、時間が足りない。
 ネギは、そんな彼らに、当初、この修学旅行そのものが、魔法使いの諍いを解消するために仕組まれたものであった事を告げるべきかどうか悩んだ。魔法をオカルトと言い換えれば、それなりの部分までを話すことは出来るだろう。だが、その場合――エヴァンジェリンはともかく、シロや楓、刹那、そして明日菜に、自分の揺れる心をさらけ出す事にもなりかねない。
 果たしてネギは、暫く考えた末に――ただ、膝の上で拳を握りしめるだけに留まった。

「出来すぎというなら、出来すぎでしょうな。そうでなければ、我々はこの結論には至らなかった」

 詠春はため息混じりに、小さく言う。

「ネギ先生はこの件には関係ありません。あくまで個人的に、彼の父親と私が旧知の間柄であった――と言うだけです。出来すぎというならば、暁光寺さん、これを置いては進まない事が、一つある」
「……お伺いしましょう」
「我々――いえ、関西呪術協会ではなく“赤き翼”――私がかつて身を置いていた“チーム”ですが、関係者にはリョウメンスクナノカミを封印したのは、我々と言うことになっている。しかし――我々は、その手助けをしたに過ぎません。本当にかの化け物を封印したのは、天ヶ崎衛と、天ヶ崎千夏――天ヶ崎千草の、両親です」
「……」
「うーん……出来すぎも出来すぎ……って奴かしら?」

 彼の口から出た言葉に、暁光寺は眉間を押さえ――タマモはため息をつき、ネギの方を一瞥し――彼の肩を、軽く叩いてやる。
 それで我に返ったらしいネギは、一度軽く頭を振り――詠春に問う。それをタマモは止めなかった。

「それじゃ、やっぱり――で、でも、それはおかしくないですか!? その“リョウメンスクナノカミ”という化け物が、天ヶ崎千草や詠春さんと無関係とは思えない――ひょっとしたら木乃香さんも、その関係で連れ去られたのかも知れない。因果関係を考えてみれば、それは十分あり得ます、でも――」
「そうね――理由までが、やっぱりわからない。ねえ、近衛さん。天ヶ崎千草の両親ってのは、やっぱり――」
「お察しの通りです。天ヶ崎衛は、“リョウメンスクナノカミ”の暴走に巻き込まれ即死――天ヶ崎千夏もまた、それを封印するための身体的負荷に耐えかねて、数日間の昏睡の後に死亡しています」
「……親が命がけで封印した化け物で、一体何をしようって言うのかしら? 聞いたところ組織に不満を持ってるわけでもなく、頭がイカレてるわけでもない――ああもう、わかんなくなってきたわ」
「せやな、なら、やっぱりここは――」

「天ヶ崎千草を捕らえて聞き出すしか無い、かい? ――悪いが、そういうわけにはいかないね」

 暁光寺が何か呟き掛けた時――この場に居る誰の者でもない声が、本殿に響いた。




「――伏せなさい!」

 最初に動いたのは、近衛詠春だった。彼は立ち上がりつつ、腰に掃いた白鞘の刀を抜き放つ――それが全て、刹那の間の動き。一般人である明日菜や暁光寺らには、振るわれた刀の軌跡どころか、彼の動きそのものが捕らえられなかった。
 そしてその一瞬で彼から放たれた高純度のエネルギー――“氣”と呼ばれる裏の世界の戦士が使う秘技である――は、一直線に目標に殺到する。即ち、いつの間にか本殿の入口、明日菜とエヴァンジェリンが座る席の後ろに佇んでいた、小柄な少年目がけて――

「おっと」

 果たしてその一撃は、彼の腕の一振りに引きずられるように、本堂の床を貫いて突然出現した石版によって受け止められる。

「ノウマク・サンマンダ・バザラダンカン――疾ッ!!」

 しかし詠春が次の行動に入るよりも速く、浅野が何事か呪文を唱え――立ち上がりざまに、両腕を交差させるような仕草を取る。
 “呪文”と思えたのは、真言と呼ばれる密教の言葉――割合広く知られた、敵を討ち滅ぼし、勝利を導くという不動明王の力が込められた言葉である。それは恐らく、魔法使いが唱える呪文と同じ――自身の力に、明確な方向性を与えるための“銃身”であるのだろう。短い気合いと共に、淡く赤と青に輝く光が、少年が出現させたのであろう“石版”に殺到する。
 赤い光に触れた石版は、まるで出来の悪い特撮でも見ているかのように一瞬で蒸発し――すぐさま訪れた青い光が、その石版に身を潜めていた少年を――

「――外した」

 浅野は小さく舌打ちをする。石版の向こう側に、既に少年の姿はなく、青い燐光に晒された本堂の床が、まるで液体窒素でもぶちまけたかのように、白く凍り付いていた。

「なるほど、これが東洋の神秘という奴か――西洋魔法とは全く体系を異にするとはいえ――あながち、地の果ての野蛮な秘術と馬鹿に出来たものでもない」

 いつしか本堂の隅に移動していた少年が、まるで人形のような冷たく、薄い笑みをその顔に浮かべて、小さく呟く。
 ネギとほぼ同年代に見える、小柄な少年である。色素欠乏症のような白い髪に赤みがかった瞳――ネギと同じく整った西欧系の顔立ちであるが、ネギよりも更に中性的であるために、少女と見紛う程の美貌である。しかしその無機質な表情が、彼の外見から受ける印象をただ“不気味”なものに変えている。
 彼は本堂に集う面々を一瞥し――仮面のように薄っぺらな笑みを浮かべたまま、愉快そうに言う。

「どうやら、君たちは僕が考えていた程――どうしようもないほどに馬鹿でも無能でも無さそうだ」

 彼の視線の先――本堂に集う一同を取り囲むように、半透明の“何か”が蠢いている。まるで巨大な蛇のような、あるいは不定形の薄い煙のような――しかしそれは確固たる意思をもって、彼らを取り囲んでいるようであった。
 果たして浅野の背後に立つ狩衣姿の女性が、何事かを呟きながら、青緑色の――恐らく青銅で作られているのだろう、手鏡のようなものを掲げている。一同を取り囲む“何か”は、どうやらそこから湧き出しているようであった。
 それは彼女の力によって、この場所に呼び出された、この世の者ならざる存在――“式神”と呼ばれる、呪術によって使役される異形の存在である。簡単なものであれば、訓練次第では一般人でも使いこなすことが出来るが、これほどのものを呼び出すとなると――先にタマモが言った喩えではないが、術者自身に“レベル99になれる素質”が必要となる。
 具体的には、この恐るべき化け物を制御する事が出来るだけの強靱な意志と――想像を絶する程の、膨大な力が。
 見れば彼女だけではない。本堂に集った“年寄り衆”のほとんどが、各々の獲物であろう道具を構え――もちろんその切っ先が向かう先は、突如として現れた白髪の少年、ただ一人。

「……これがオカルト技術の本領っちゅう奴か――長生きはするモンやな」
「い、いや、親父さん――まだ年寄りと言うほどでもないでしょう」
「何や坂田、俺はもう立派に定年で――腰が抜けて立てへんか?」
「これが普通の反応です! 何なんすか、これっ!?」
「関西呪術協会がその名に冠する“呪術”――日本古来のオカルト技術で御座りましょう。これほどに見事なものは、拙者も久方ぶりに目にするが――」

 坂田の悲鳴に近い問いに答えたのは、シロだった。彼女の右腕からもまた、わき上がるように白銀の燐光が伸びていく。魂の力を武器として振るう霊能力の一つ――“霊波刀”。
 ――それらを見遣る少年は、両手をジーンズのポケットに突っ込んだまま問う。まるで世間話でもしているかのような、自然体で。

「盛大な歓迎をどうも――と、言いたいところだけれど、あれはやりすぎじゃないかな? もしも僕がただの観光客だったら、今頃はどうなっていた事やら」
「それは反省するべきかも知れませんが、その反省は無意味でしょう。ただの観光客はこの場に入ってこれる筈がないし、ましてや君は、天ヶ崎千草を庇護するような発言をした」
「そうだったかな?」
「天ヶ崎千草の目的を知られては困る――君はそう言った」

 油断無く刀を構えつつ――詠春は少年に言った。
 言葉を向けられた少年は、頭を掻きつつ、小さく息を吐く。

「この期に及んで、目的を知られては困るとはどういう事か? 君は実力でもって、私たちの行動を封じようとしたのでは無いのですか?」
「まあね――でも、心配は要らない。彼女からは、相手を殺すなと言われている――僕だって、むやみと人の命を奪ったり、人を傷つけたりしたくはない。それほど狂ってはいないつもりだからね」
「それはいい心がけです」

 その言葉は、裏を返せば、状況次第ではそうすることを躊躇うことはしない、と言うことだ。暁光寺の瞳に、鋭い光が宿る。多くの凶悪犯を相手にしてきた彼だから、感じることができる。この目の前の、小さな少年は――“危険”だと。

「――そう――だから、せいぜいが、足止め程度なわけだ――
呪文始動(ヴィシュ・タル・リ・シュタル・ヴァンゲイド)
小さき王(バーシリスケ・ガリオーテ)
八つ脚の蜥蜴(メタ・コークトー・ポドーン・カイ)
邪眼の主よ(カコイン・オンマトイン)
その光我が手に宿し(ト・フォース・エメーイ・ケイリ・カティアース)
災いなる眼差しで射よ(トーイ・カコーイ・デルグマティ・トクセウサトー)
石化の邪眼(カコン・オンマ・ペトローセオース)――!!」

 よどみない――しかし驚くほどの早さで紡がれた呪文は、銃身となり少年の意思に方向性を与える。彼の内からわき上がってきた魔力は、確固たる“魔法”として顕現し、不気味な燐光となって――

「石化の魔法!」

 一度それを喰らっているタマモが、いち早く呪文の正体に気がつく。その声に、詠春を含む“年寄り衆”、シロ、ケイ、楓、刹那が身構える。少年の放つ石化の魔法は、燐光を放つ光線のようなものであるが――“光線”というわけではない。相当な速さではあるが、飛来を目で捕らえる事くらいはできる。
 とはいえ――それは彼らが、それなりの技量を持つ“戦う事が出来る者”であるから出来ることであって――

「――あ!」
「馬鹿者、何を――!?」

 それが少年の狙いだったのかどうかはわからない。しかし果たして、一同を取り巻く“式神”の間をすり抜けた燐光は、咄嗟に身構えようとしたエヴァンジェリンに向かい――彼女に抱きつくように倒れ込んだ明日菜の肩口に命中した。二人はそのままの勢いで、もつれ合うようにして床に倒れる。

「く――貴様!」
「躊躇うな、やれ!」

 誰かの叫びに、手鏡を持っていた女性が動く。舞い踊るような彼女の動きに呼応するように、半透明の巨大な“蛇”に、突然頭のような部分が生まれ――大きく開かれたあぎとが、恐ろしい勢いで少年の半身に噛みついた。
 少年はすんでの所でかわそうとしたが、不自然に動きを止め――そのまま式神に、右半身を食いちぎられる。見れば少年の足首を、本堂の床から生えた木の蔓のようなものが絡め取っていた。恐らくこれも――“年寄り衆”の誰かが放った呪術なのだろう。
 明らかな致命傷を負った少年は、その場にふらつくように尻餅をつく。
 いくら敵意を明らかにしているとはいえ――暁光寺は思わず、彼に駆け寄ろうとした。

「いけません!」

 詠春はそれを、刀の鞘で制する。

「しかし――!」
「大丈夫です。最初に攻撃を放ったときから感じていましたが――あの少年は、“彼自身”ではない。恐らく、この式神と同じような存在です」
「……何やて?」
「あれ、気づかれてたのか。本当――油断は禁物だね」

 右腕から右胸までをごっそりとえぐり取られた――誰が見ても助かるはずのない怪我を負った少年は、しかし何でもないことのように、むくりと起きあがった。その傷口はのっぺりと白く、血の一滴も流れては居ない。

「流石にただの分身で、全てにカタが付くと思っていたのは――君たちを舐めすぎていたようだ。素直に反省して、君たちに対する評価も改めよう」
「要りません――君は、一体何者です?」
「気になるなら確かめてみればいい。君たちが知りたがっている、天ヶ崎千草の目的と一緒にね。ただし――」

 少年の体が、まるで霧のように虚空に溶けていく。彼は言った、自身はただの分身であると――その“分身”というのが一体何であるのかはわからないが、恐らく少年自身が、この偽物の体を遠隔操作していたのだろう事は、想像できる。全くオカルトと言うのは何でもアリだ――と、暁光寺は一人毒づく。
 そんな彼らに――少年は再び笑う。あの気味の悪い表情を、溶けていく顔に貼り付けて。

「ただし――君らには、そんな事をしている暇はないと思うけどね? そこの女の子の事はどうでも良いのかい?」
「――あ、明日菜さんっ!?」

 その言葉に、ネギは振り返る。明日菜は未だエヴァンジェリンを抱いたまま、床に倒れていたが――制服の肩口のあたりが、鈍く照明を反射する、硬質な何かに変化している。

「く――お前は、お前――は――ッ!!」

 ネギは杖を振りかぶり、少年に向かって駆け出す。自身の練り上げた魔力を、魔法として形にすることもせずに――ネギはただ、渾身の力を込めて、少年の脳天に杖を振り下ろした。
 十歳の少年が繰り出したとは思えないその一撃は、しかし霞を切り裂くように何の抵抗もなく、本堂の床に叩きつけられる。その力の奔流が生み出した、あまりの衝撃に、いくら硬いとは言っても木製の杖は耐えることが出来ず、先端部分が折れ飛び――細かな破片が、浅くネギの頬を切り裂く。
 少年はと言えば、漂う煙を吹き散らかしたように、その一撃で虚空に消え去っていった。ただどこからとも無く、彼の緊張感の無い声が響く。

「それはただの八つ当たりというものだよ、ネギ・スプリングフィールド――君にそんな時間があるのかい? もっとも、手遅れではあるのだがね」
「黙れ――黙れ、黙れ!! 逃げるな、出てこい!! 僕は――僕は、絶対お前を、許さない! 許さないぞ!!」
「落ち着くで御座る、ネギ坊主」
「――ッ! 長瀬さん、離して――離してください!!」
「離すのは別に構わぬが――何処へ行こうというのでござるか。奴はもう、この場所にはいない。逃げられたでござるよ――気配が、感じられない」
「……」
「ケイ殿――明日菜殿の様子は?」

 ネギの体から力が抜けたのを感じ――楓は、ケイを振り返る。彼はシロと刹那と一緒に、明日菜を助け起こそうとしていた。
 タマモは、この石化の魔法を出鱈目な力でねじ伏せて見せた。
 しかし、明日菜に同じ事が出来るとは、到底思えない。ネギは、心臓の鼓動が、破裂しそうな程に高まるのを感じ、同時に吐き気を催すほどの緊張感を――

「あ、あれ? 何ともない……」
「え?」

 しかし、一同が心配げに見守る中で――明日菜は、ゆっくりと起きあがった。恐る恐る、魔法の直撃を受けた肩口に触れてみると、石化した服の一部が、ひび割れて剥がれ落ちる。しかし、その下にある彼女の肌には、特に異常は無い。
 シロが「失礼」と断ってから、服が剥がれ落ちてしまった部分から手を入れて、明日菜の上半身を触ってみるが――特にこれと言って、異常は見あたらない。安堵のため息をこぼして、自分の制服の上着を掛けてやる。

「何――あのガキ、痴漢まがいのハッタリかましただけだったの?」
「あの時と詠唱が同じものでしたし、実際服は石化しているのですから、それはないと思いますが――手加減を、されたのでしょうか?」
「あの子供の目的は時間稼ぎ――みたいなこと、言ってたしね」

 タマモの怪訝そうな声に、刹那とケイも首を傾げてみせる。彼の目的が単なる陽動、あるいは時間稼ぎならば、ある程度その目的は達成されたのかも知れないが、しかし――

「それはともかく神楽坂明日菜――何のつもりだ。私はあの程度の子供だましにやられるほど、お人好しではないぞ」

 エヴァンジェリンが、制服のスカートを払いながら、不機嫌そうに腕を組み、明日菜に言う。明日菜はシロに借りた制服の前を合わせつつ、苦笑した。

「でも、今のエヴァちゃん――普通の人間と変わらないんでしょ?」
「そうだな。多少体力や回復力に於いて、貴様らより優れてはいるだろうが、な。つまりは神楽坂明日菜――貴様よりは、な。これが陽動で無かったとしたら、今頃貴様はどうなっていたことか。私をかばおうとしたというのなら――それは最悪の自己満足だ」
「何――心配してくれてんの?」
「そう聞こえたならさっさと耳鼻科に行ってこい。余計なことをされると足手まといだと言って居るんだ」
「……いや――何かね、自然と体が動いちゃった」
「……貴様は長生きは出来んだろうな――ふん――おい、な、何だその目は。言いたいことはハッキリと――いや、言わなくていい! 言わなくて良いぞ! まったく、大体貴様、どうしてこの場に残ったのだ。貴様は多少まほ……オカルトの類に首を突っ込んでいるかも知れんがな――」

 エヴァンジェリンは鼻息荒く、明日菜を指さして文句を言い始める。その頬が僅かに赤かったのと、その表情が何処かやわらかなものであったことは――恐らく彼女には言わない方が良いのだろう。
 明日菜は大仰に、「ごめんなさい」と何度も言いながら、芝居がかった様子で彼女に頭を下げる。
 本堂の中の空気が、ほんの少し柔らかなものとなり――

「大変です!! 来客を待たせている別棟が、何者かの襲撃を受けたようです――!? こ、これは一体?」

 突如として駆け込んできた巫女装束の女性の言葉によって、凍り付いた。




「――まさか、ああもあっさり分身が撃退されるとはね――本当に彼らのことを、少し侮っていたようだ」
「せやから、言うたやないか」

 何処とも知れない場所で、頭を押さえながら、小さくため息をついた白髪の少年に、和服姿の眼鏡を掛けた女性――天ヶ崎千草は、さも馬鹿らしい、と言った風に告げた。

「関西呪術協会っちゅうんはな、つまりは異能者――あんさんらが言うところの“魔法使い”の組織や。組織としての総体は、まあお粗末なモンやわ。ウチらがこんな馬鹿げた計画を立てられたくらいには、な――せやけど」

 度の弱いレンズの向こう側で、知的な光を湛える瞳が、すうっと細められる。

「会長を務める近衛詠春を筆頭に、組織を構成する個々人の力は本物や。“年寄り衆”が雁首揃えとる所を相手に、なんて事、考えただけで寒気がするわ。そら、組織の管理かて上手くいかんわな。スタンドプレー上等、第一線の現場で戦おうかっちゅう連中に、“秘密結社ごっこ”をやれ、言うとるんやから」
「それでよくもまあ、組織が今まで長らえてきたものだね」
「そう言う連中やから、出来ることもある。確固たる力の存在が、それが指し示す方向性があるだけで、人間は満足できるモンやで? ナギ・スプリングフィールドが“英雄”と呼ばれとるようにな。大体――関西呪術協会に求められとるんは、“まつりごと”やない。誰かのために戦う人らの、旗印であり続ける事や」
「……青臭い考えだ。その考えが古より続く組織の根幹だというのなら、呆れてものも言えやしない」
「せやけど、あんさんはそうやって、連中を侮っとったんやろ?」

 着物の袖で口元を隠し――何処か愉快そうに言う千草に、少年は言葉を詰まらせる。

「まあ、何でもええわ。もうじき月詠と小太郎が帰ってくるさかい――あんさんはあんさんの仕事をしてもらえるやろか?」
「……ああ」

 不機嫌そうに、白髪の少年が踵を返すのを見遣ってから、千草は視線を元に戻す。
 そこは、木造の小さな部屋の中であった。せいぜい、十畳程度の広さ――しかし、その中央には、そんな場所にはあまりに不釣り合いな程に大きな祭壇が拵えられている。
 そしてその祭壇の上には――薄い羽衣のような衣装を身に纏った少女が一人――小さな寝息を立てていた。その呼吸が穏やかなものであることを確かめるように、千草は息を吐き――誰にともなく、呟いた。

「もうすぐや――もうすぐ、全部終わらせられる。そしたら――そしたら、ウチは――」

 聞く者の無い呟きは、ただただ――少女の寝息だけが響く小部屋の中に、消えていく。











質問があったので参考までに。
暁光寺刑事は、「ぎょうこうじ」と読みます。

例によって上山徹郎先生の漫画より拝借。
かの先生方が、藤子不二夫先生を尊敬してよくモチーフにしているのと同じで、
僕もまた――と言うには、まだまだレベルが足りませんね。



[7033] 三年A組のポートレート・そして舞台の幕が開く
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/04/19 09:09
 逃げろ、逃げろと、頭の中で誰かが叫ぶ。
 逃げなかったらどうなるのか?
 逃げ切れなかったらどうなるのか?
 答えの見えた問いかけを、彼女はやり過ごす。脇腹が痛い。乱れきった呼吸ではしり回ったせいだ。苦しい。空気が欲しい――悲鳴を上げる体。その体の悲鳴で、己の内側から湧いてくる恐ろしい問いかけを、やり過ごす。
 自分は今こんなにも苦しいのだ。苦しいから、そんなことは考えられない。そんなことを考えている暇など――
 無我夢中で廊下の角を曲がり、彼女はそこで、何かにぶつかった。
 それが、限界だった。

「ひっ……いやぁああぁああああああ!!」

 彼女は頭を抱えて、冷たい廊下に倒れ込む。もう、脚が動かない。体が、言うことを利かないのだ。まるで、自分で自分の体の動かし方を忘れてしまったように。そして、彼女は――

「村上殿!? お、落ち着かれよ――大丈夫、大丈夫で御座る!」

 かろうじて耳に届いたのは、慌てたような――しかし、聞き覚えのある声。こわばった体に優しく回されたのは、細く柔らかな腕。涙に濡れた視界がとらえたのは、雪のような白銀の輝きを持つ長い髪。

「――いぬづか、さん」
「左様――もう、大丈夫で御座る。村上殿――一体、何が?」
「なに、が、って――い、あ……み、みんなが、みんなが――っ!」

 こぼれそうになる悲鳴を、彼女――村上夏美は、口元を両手で押さえる事で無理矢理飲み込んだ。涙と鼻水が混ざったぬめりが、手にからみつくのが気持ち悪いと――そんなことだけは、妙に冷静に考えてしまう。
 それは一種の現実逃避だったのだろう。目の前の“友人”は何と言ったか――一体何があったのかと、彼女はそう言った筈だ。
 何があったと問われれば、答えなど一つしかない。控え室に通された自分たちの前に現れたのは――

「い……いや、いやぁ……あやかが……ちづ、ねえが――」
「……村上殿、無理はせずとも良い。今は――タマモ」
「おっけ。この子は私が見てるわ。あ、そこのあんた、丁度良いからその大層な上着よこしなさい」

 シロの言葉に、小さく頷いたタマモが、夏美の側にかがみ込み――丁度脇に立っていた男に、ぶっきらぼうに言う。
 言われた方は何か思うところがあったのかも知れないが――少女のスカートと、彼女が座り込んでいる床が“何か”に濡れている事に気がついた彼は、そそくさと上着を脱ぐと、タマモに渡してやる。彼女はそれを夏美の肩に優しく掛けると、ポケットから取り出したハンカチで、彼女の顔を拭ってやる。

「親父さん――まさか」
「その先は言わんでええ」

 暁光寺が、何か言いかけた坂田の言葉を遮る。彼の言いたいことは、言わずとも誰でもわかる。このタイミングで、関西呪術協会本部――この建物の別の場所が襲撃を受けたという。そしてその場所には、あの時本殿に居なかった少女達が待機していた筈であり――タマモに抱かれて、もはや壊れたように震える少女は、その場所に居たのである。
 ぎり、と、耳障りな音がした。それは、ネギの口元から響いた音だった。彼の口元は小刻みに震え――折れた杖を握りしめた拳からは、薄く血が滲んでいた。

「……急ぎましょう。そこのあなた達は、彼らの後ろに――」
「ひゃっ!?」

 詠春が刀の柄に手を掛けたまま、廊下の先を見据え――戦闘能力のない明日菜とエヴァンジェリンに声を掛けた瞬間、シロが奇妙な悲鳴と共に、背中を跳ね上げた。
 一呼吸遅れて、彼の耳にも何かの音が届く。機械的な、断続的に響く振動音――携帯電話の、バイブレーション機能。

「も、申し訳御座らぬ――失礼」

 シロは小さく咳払いをして、スカートのポケットから携帯電話を抜き出し――そのディスプレイに明滅する名前を認めて、目を見開く。

「……先生?」

 ――横島忠夫――彼女の敬愛する青年の名が、そこには示されてた。




「私たちがこの部屋で話をしていたら――突然、白い髪の男の子が現れて、変な光線を撃ってきたのです。最初にそれに当たった委員長が――その――い、石に――されて、しまって――あとはもう、何が何だか、わからないうちに――」

 別棟の庭先に倒れていた綾瀬夕映は、助け起こされてから、震えながらもそう言った。普段の彼女の性格がそうさせるのだろうか、彼女は村上夏美ほどのパニック状態には陥っていないようだったが――それでも顔色はもはや蒼白で、自分を抱きかかえるように、自身の肩に当てられた手は、細かく震えていた。
 それも仕方のないことであろう――シロは、そんな彼女の肩を軽く撫でつつ、歯を食いしばる。
 横島からの電話は、一体今シロがいる場所で、何が起きているのかという問いであった。普段のお気楽な様子とは違う、せっぱ詰まった口調が、一体何からもたらされたものなのか――別棟へ続く廊下に歩みを進めて、彼女たちは理解した。
 “それ”が目に入るのと、横島の口からその解答が得られるのは、ほとんど同時だったから。

――いきなり和美ちゃんから、助けてくれって電話があって――

 はいずるような格好で廊下に倒れ伏す石像――否、石と化した朝倉和美の姿が、シロの目に飛び込んできたのは、その声が電話の向こうから耳に入るのと、ほぼ同時だったのだ。和美の延ばされた腕の先には――むなしくイルミネーションを明滅させる、彼女の携帯電話が転がっていた。

「……案ずるな綾瀬殿。それは“オカルト技術の悪用”で御座る。あやか殿も那波殿も、あのような姿にされてはしまったが、死んでしまった訳では御座らぬよって――」
「ほ、ほんとう――ですか? だって、だって、あんな――」
「今は落ち着けと言っても無理な相談で御座ろうが、大丈夫、大丈夫で御座るよ」

 その言葉に嘘はない。少なくとも――関西呪術協会幹部、“年寄り衆”の一人が言う言葉そのものが、嘘でなければ。
 彼は治癒系の呪術に特化した“魔法使い”であり、彼が言うには、相手を石に変えてしまう魔法には、二種類が存在するという。即ち、相手を一時的に石に変えて動けなくする魔法と、相手を完全に石にしてしまう魔法である。一時的、と言うのがどの程度の時間なのかは、術者の力と意思によってある程度任意に変えられると言うが――魔法使いであっても使うのが憚られる、また、強大な力を必要とする“永久石化”の魔法で無い限り、石像と化した少女達を元に戻すことは不可能ではないと――彼はそう言った。

(なるほど、それで足止めか――何とも悪趣味な)

 なるほど――少年の言った言葉に、嘘はない。
 天ヶ崎千草の目的が何であるにせよ、それを遂行するための時間稼ぎ。それが少年の持っていた役割だろう。
 彼は天ヶ崎千草から、相手を殺害してはならないと命じられていたと言い、自身にもその意思はないと言った。なるほど、彼は嘘は付いていない。彼の行動は、詠春やネギ、シロらをこの場所に足止めする事に成功した。誰も殺さず――“傷つける”事さえせずに。
 しかし、そのやり方は最悪と吐き捨てても構わないはずだ。
 目の前で人間が石にされてしまう――たとえその結末に“危険がない”と言われようが、少女達はそんなことは知るよしもない。結果がどうあれ、想像を絶した怪現象は、彼女たちの心に、浅くはない傷を残す事になっただろう。

「犬塚殿」
「長瀬殿――そちらは?」
「別の部屋に隠れていたのどか殿を見つけたでござる。やはり彼女も軽いパニック症状に陥っているが――目立った外傷はない」
「あとはハルナ殿で御座るが――」

 挙げられたその名前に、楓は小さく首を横に振った。つまり彼女もまた、石像にされてしまっている、と言うことである。夕映を抱きしめたまま唇を噛みしめたシロに、楓は言う。

「あの少年がそこまで計算していたのか――“年寄り衆”のかなりの力を割いても、皆を元に戻すには明日の朝程度までは掛かると」
「逆に言えば、明日の朝まで時間を掛けていては、天ヶ崎千草の目的は果たされるも同然――という事で御座ろうか。しかし、皆を放置して、そちらに全ての戦力を割り振るというのは――」

 関西呪術協会としては、それは難しい選択肢である。石化の魔法を解除するのは、極端な話となればいつでも出来るかも知れない。しかし石化された少女達と、恐慌状態に陥った少女達を放置することは難しい。彼女らは完全に無防備なのである。石化の解除という意味合いも含めて、ある程度の守りをおいておく必要はあるだろう。
 たかをくくって全ての戦力を天ヶ崎千草に向ければ、あの少年がその間に彼女たちに危害を加えないという保証はない。彼は恐らくそれを見越して、このたちの悪い魔法を使ったのだろう。

「近衛詠春殿や、ネギ先生は――」
「一人飛び出していきそうになったネギ先生を、浅野殿がどうにか取り押さえて――今は人員の割り振りを決めている最中でござるよ。暁光寺殿は、京都府警とオカルトGメン――それに、自衛隊にも連絡を」

 楓の言葉に、シロは顎に手を当てる。
 確かに――あの少年は、自分たちをここに足止めすると言う目的は、上手く果たせたと言って良いだろう。しかし――彼のやり方では、騒ぎが大きくなる事もまた、容易に想像できたはずだ。
 その大きくなりすぎた騒ぎは、彼らにとって不都合では無いのだろうか?
 リョウメンスクナノカミとは、その様な騒ぎなどは、耳障りな虫の羽音程度にしか感じられないほどに強大な力を持っているのか? それとも、天ヶ崎千草の目的とは、ここに自分たちをわずか“だけ”足止めするだけで、果たすに事が足りるものであるというのか――

(――いかん――こうして悩むこと自体が、あの少年の思うつぼで御座る)

 シロは頭を振って思考を切り替え――小さく気合いを入れて、夕映の体を抱き上げる。小柄で華奢な彼女の体を抱え上げる事程度、見た目からは想像も付かない程の膂力を持つシロには造作もない事であった――が、普通は抱え上げられる人間の方が嫌がるだろう。
 しかし夕映は何も言わず、シロに首筋に頭を埋めるように、彼女に抱きついた。

「そう言えば犬塚殿――横島殿は、何と? この事態を聞いて、黙っていられるようなお方ではなかろうが、よもやこちらに来るなどとは」
「いくら先生とて、それは無かろうと思う。エヴァンジェリン殿の時はともかく、今の先生が、戦闘に耐えられぬ事くらい、ご自身でも承知しておられるはず――ただ」

 彼女は自分にしがみつく夕映を、優しく抱き返しながら、楓の言葉に応えた。

「ただ――思い悩んではおられよう。そのような責務など――あのお方には無いと言うのに。そんなお方だからこそ――和美殿も、無意識に頼ろうとしたのかも知れぬ」
「犬塚殿」
「……さあ、早く皆の所に合流するで御座るよ。拙者らにはもはや、僅かばかりの時間の猶予も無い。先生はまあ……この“ぷりちー”な拙者が、戻ってから目一杯尽くして差し上げるよって」
「はあ――横島殿の胃に穴が空かねば良いが」
「……それはどういう意味か問うても良かろうか?」




「捜査本部に連絡を入れて、対心霊装備ありったけで人員をこっちに回せと言うたが――準備が出来るまで、あと一時間、っちゅうトコやろか。陸自の対オカルト部隊にも府警を通じて連絡が行っとる筈やが――こっちが動くには警察に輪を掛けてややこしい手続きがあるさかい、間に合うかどうかは微妙やな」

 関係各所に連絡を入れて戻ってきた暁光寺が、ため息をつきながら首を横に振る。そもそもが、京都の山中という団体戦に向かない場所にあって、慣れない心霊装備を扱いかねる警察官がどの程度の戦力になるのかは疑問である。
陸上自衛隊の対オカルト特殊部隊ならば、それなりの戦力にはなるだろうが――自衛隊には厳格な命令系統が存在する。要請が受理されて部隊が実働体勢に入れるまでには、幾ばくかの時間が必要となるだろう。
 国際警察の対心霊現象課――つまりオカルトGメンに至っては論外である。慢性的な人手不足を抱えるかの組織では、捜査という段階ならまだしも、“戦える戦力”を用意できるだけの余力はない。
 事ここに至って、魔法使いの世界を知らない人間を、それも相当数事件に関与させる事に対して、“年寄り衆”は何も言わなかった。それは組織としての道義を優先させた結果なのか、それとも――彼ら自身“戦う人間”であるが故の考えだったのか。
 彼らの中でも防御能力に特化した者が、本部の守備として残り、半数ほどが石にされたあやか達の回復に抜擢され――“天ヶ崎千草”に向けられる人員は、浅野を含めてわずかに三名ほどであった。それもまた――相手の思惑通りなのだろうか。

「“リョウメンスクナノカミ”が封印されている場所は、ここから山道を抜けて、沢を下った先にある湖――その中央に存在する祠です。彼女らの狙いがスクナにあるとすれば、十中八九――奴らはそこにいる」

 古びた地図を広げ、そこに記された地形に指を走らせながら、詠春は言う。果たして結論は、こちらからすぐにでも天ヶ崎千草の下へ向かう――と言う事で一致を見た。少年が“時間稼ぎ”をしてきた以上、彼女の目的が果たされるまでに、そう時間の猶予はない。
彼の言う、“リョウメンスクナノカミ”が封印されているという場所までは、直線距離にして二、三キロと言ったところだろうか。ある程度の道があるとは言え、森の中を走り抜ける事を考えれば――三十分程度の道のりである。
 足止めをしておいて門扉を開いたまま――と言うのも無い話であろうから、当然途中には、彼女たちの妨害があるはずだ。ともすれば――犬上小太郎と名乗ったあの少年や、神鳴流の使い手である少女ら自身も、立ちふさがって来るかも知れない。

「確認されている実質的な敵勢力は僅かに三名ですが、そうであると決めつけるのは危険でしょう。加えて場所が場所ですから、数の力に頼る事は出来ないと考えた方が良い。ならば――」
「こちらも強いカードから順に切っていって、逆に中途半端な戦力はない方が良い、か」

 腕を組み、地図を見下ろしたエヴァンジェリンが言う。その言葉に詠春が頷くのを待って、彼女は続けた。

「……近衛詠春と浅野潮、それに年寄り衆の二人――こちらからは、千道タマモと藪守ケイ、それに犬塚シロと長瀬楓くらいか」
「結局面倒な事にはなるわけね――まあ、美神の折檻よりはマシだと諦めるしかない、か。シロ、あんたお腹の調子は?」
「……腹を下したような言い方はやめろ。ん……あれから随分と落ち着いている。昼間に比べれば、痛みもけだるさも抜けている。あの少女が相手であれば――と言う前提で御座るが、二度は遅れは取らぬ」
「結構。あと、ケイ――二度はないわよ? あんたも、美神に殺されるのが嫌だったら――いい加減“本気”出しなさい」

 タマモに視線を向けられた長身の青年は――僅かばかりの間をおいて、小さく頷いた。
 しかし彼はその後に――強い調子で付け加える。

「僕は――まあ、仕方ないけれど。楓さんを戦力に入れるのはどうかと思う」
「ケイ殿――心配してくれるのは嬉しいけれど、私も、木乃香殿を助けたい。少しでも助けになるのなら――私は、戦いたい」
「けど」
「……長瀬楓。今朝方貴様が受け取ったカードを出せ」

 自身を案ずるケイの言葉に、複雑な思いを抱きつつもそう反論した楓だったが――意外な所から助け船が現れた。不機嫌そうに腕を組んだまま成り行きを見守る金髪の少女――エヴァンジェリンである。

「貴様にはまだ言ってなかったが――そいつは、“魔法使いの主従契約”を交わしたものに与えられる専用の武器――“アーティファクト”と呼ばれるものだ」

 楓はポケットからカードを取り出し――そこに描かれた自身の姿に目をやった。パーティードレスの様な大人びた装いを身に纏い、ティーカップを持った彼女自身の姿が描かれ、背後には猫のぬいぐるみ――のようなものが載ったテーブル。
 これが――武器だと言うのだろうか? 楓でなくても、首を傾げずには居られない。

「論より証拠――使ってみるといい。何、特別な知識は何も要らない。カードを掲げて呪文を唱えるだけだ。呪文と言ってもたった一言――来たれ(アデアット)、とな」
「……? ええと――アデアット――?」

 途端にカードがまばゆい輝きを放ち――その光が消え去った後、彼女の足下には、先ほどまで存在していなかった“もの”が佇んでいた。
 すなわち、カードに描かれていた“猫のぬいぐるみのようなもの”――エプロンドレスを身に纏った、妙に可愛らしい黒猫である。

「……あの、エヴァンジェリン殿?」
「私に聞くな。あと、そんな目で私を見るな。先ほどの言葉に嘘はない。それが貴様の専用武器――と言うことになる。まあ、ここまで珍妙な代物は、私も初めて見るが」
「武器というのは戦うための道具でござるが――はて、エヴァンジェリン殿、このぬいぐるみのような物体で、どう戦えと?」
「私に聞くな。あと、その目つきはやめろ。何だか貴様に小馬鹿にされたような目で見られると、異常なまでに腹が立つ」
「そう言われても――おや、自分で動けるようでござるな? あんよが上手、あんよが上手、と――ははは、これは何とも恐ろしい――? ケイ殿?」

 足下で自分に向かって手を振る黒猫を、冷ややかな目で見下ろしつつ――ふと、楓は、ケイの様子が何処かおかしい事に気がつく。体調でも悪くなったのだろうかと彼に問えば、彼は首を横に振った。

「……いや、そう言うんじゃないんだけど――何でだろう。何だかその猫を見てたら、何というかこう――嫌な感じがするんだ。見えない手で首筋を引っ掴まれたような、そんな感じ」
「? 私は特にそう言うことは感じないけど――エヴァンジェリン殿?」
「どうでも良いが貴様、その男と私たちで、露骨に言葉遣いを変えるのはやめろ。男にこびを売る女など、見ていて気持ちの良いものではない――いや、別に私も妙な感じなど受けはしないな? 見た目通りの、何の役に立つかもわからん――」

 別に媚びを売ってるわけじゃ――などと騒ぎ立てる楓を尻目に、エヴァンジェリンは視線を見回すが、ケイ以外にその様な感覚を覚えている人間は居ないようである。だとすれば、これは何らかの条件に当てはまる人間に、精神的な負荷を与える武器なのだろうか?
 だとすれば、あまりに使えない。その条件が何なのかわからないし――味方にも等しくその効果が及ぶのならば、うかつに発動させることすら出来はしない。
 しかし“仮契約”で得られるアーティファクトは、個人の特性に合った“武器”であるはずだ。楓本人さえも扱いに困るような物体が召喚されるとは思えない。
 魔法使いとしてのエヴァンジェリンは、当惑すると同時にその事に興味を覚えもするが――今はそれどころではないと、敢えてそれ以上の思索を打ち切った。

「ま、何か隠された能力があるのかも知れん。とりあえず使えそうだと判断したら使ってみるべきだ。それと藪守ケイ――長瀬楓の事が心配なのは分からなくもないが、結局シネマ村で失態を見せつけるしか出来なかった貴様に、抗議をする権利はない」
「ま――待ってください!」

 再びエヴァンジェリンの言葉に待ったを掛けたのは、今度はネギであった。
 彼と直接対決をしてからこちら、彼とはなるべく関わり合いを避けてきたエヴァンジェリンは、不機嫌そうに眉を動かし――彼に言う。

「何だ。よもや貴様――自分も行くなどと言い出すつもりではないだろうな?」
「当然です! 僕は、木乃香さんの先生で――それ以上に、木乃香さんは僕にとって大切な人です! 黙って待っているだけなんて、僕には出来ません!」
「……なあ、千道タマモ――私はこいつを殴って良いか?」

 眉根を揉みほぐしつつ言うエヴァンジェリンに、タマモは肩をすくめる。シロにも視線を遣ってみるが――彼女は困ったような表情を返してくるばかりであった。
 自分はいつからこんな苦労性が板に付いたのだろう――などと詮ない事を考えつつ、タマモはネギに言う。

「あんたがそれなりに戦えるのは知ってるけど、とにかく落ち着きなさい」
「――僕は、僕は確かに皆さんほど強くありません。けど、何かの役には立てるはずです! いろんな事が僕の中で渦巻いていて、訳も分からず叫びだしたくなりそうで――でも、今は木乃香さんを助けたいって、それだけを思うんです!」
「だから落ち着けっつの。私の話を聞きなさい。きついこと言うようだけど、それって単なる現実逃避よ。あの子を助けたい気持ちに嘘は無いでしょうけど、パニックになってる気持ちを全部、“それ”にぶつけてるだけじゃないの」
「そんな――千道さんに、そんな言い方って無いでしょう!?」
「言い方なんかどうでもいいのよ。んで、木乃香ちゃんには、そんなものは“もっと”関係ない。あんたが何を考えてるかとか、どんな気持ちで動いてるか――なんて事はね」

 冷淡とも取れるタマモの言葉に、ネギは必死に反論するが――彼女はあっさりと、彼の反論を斬って捨てる。

「もっとも、どうでも良いと言えば――あんたが何を考えていようが、どれだけパニクってようが、結果として木乃香ちゃんを助け出せればいいわけだけど。でもね、少なくとも、相手の居場所もわからない状態で飛び出していこうとする奴が、私たちの脚を引っ張らないとは思えない。“落ち着く”って言葉の意味もわかってないような、今のあんたじゃあ、ね」
「あ、あの――」
「ついでに貴様もだ、桜咲刹那」

 ネギを援護しようとしたのか、あるいは自分自身何かを訴えたかったのか――控えめに何かを言いかけた刹那を、エヴァンジェリンは強く制する。

「二言目にはお嬢様お嬢様と馬鹿の一つ覚えのように言っておきながら、よくわからん妙な拘りで、近衛木乃香の護衛を半ば放棄していた貴様が、今更役に立つとでも?」
「――」
「……ふん、貴様がどれだけ睨んでも、それが事実だろうが。私は正義の味方を気取るつもりなど毛頭無い。ましてやこのような状況で、かんしゃくを起こしたガキ共相手に言葉を選んでやれるほど、私は優しくはないぞ。そんなに誰かに優しくして欲しいのなら、何処か余所へ行け。大体――」
「お話中に失礼します!」

 彼女の言葉を遮り、突然巫女装束の女性が、けたたましく室内に駆け込んでくる。

「西側山中より、敵と思われる妖怪が――恐らく式神の類でしょうが、無数に本部に向けて侵攻中との連絡が入りました――現在、こちらの応援に向かっていた京都府警の機動部隊と接触、一部が交戦に入っています!」

 暁光寺がため息をつき、坂田が勘弁してくれとばかりに天を仰ぎ――エヴァンジェリンは、小さく鼻を鳴らして刹那に目線を向けた。

「……どうやら私たちには、説教をする時間すら無いらしい。近衛詠春――」
「ええ――陽動なのは見え見えですが、黙って見ているわけにも行きません。浅野と霧島、古柏は私に続きなさい。千道さん、藪守さん――恥を忍んでお願いいたしますが」
「ん、まあ……依頼料分の仕事はするしかないから。ケイ、行くわよ」
「僕の給料で換算したらあっという間に過労死するよ。タマモさんはどうだか知らないけど――」

 ケイは自分に続いて、その場を後にしようとする楓に目を細めたが、結局何も言わずに、部屋を出て行くタマモの後を追った。
そんな彼らの足下を、楓に呼び出された“ぬいぐるみの猫”が、軽やかな足取りでついていく。何の役に立つかはわからないが――あれが彼女の“アーティファクト”ならば、最悪でも味方の足を引っ張るような事にはならないだろう。それをカードに戻す呪文を伝える事を失念していたエヴァンジェリンは、自己完結気味にそう納得する事にした。

「――それで、貴様は随分と覇気のない顔をしているな、神楽坂明日菜」
「……」

 シロのブレザーを羽織った明日菜は、エヴァンジェリンにそう問われ――力なく笑みを浮かべた。彼女の思うところはわからなくもない。しかし、わざわざ彼女の相談に乗ってやるほど、自分はお人好しでも暇をもてあましているわけでもない。

「貴様はあの時私に言ったな。理由はどうあれ、戦うことなど認められない――と。どうだ? 状況としては多少“ぬるい”が――貴様の考えが変わらんというのなら、連中と――いっそ天ヶ崎千草にでも、同じ事を言ってやれ」
「……意地悪言わないでよ、エヴァちゃん」
「貴様を虐めて楽しいことなど何もない。勘違いはするな? 私は貴様らに対して、何も期待などはしていない。せいぜい十年そこらしか生きていない貴様らに、一体何が期待できると言うのだ? 子供に対して人生の何たるかを説く馬鹿もおるまい」
「……私が子供だ、って事は良く分かった――けどさ、全部分かっててネギと喧嘩したのは、エヴァちゃんの意思じゃないの?」
「……そんな昔のことは忘れたな」

 エヴァンジェリンは金髪を翻して、部屋を仕切る襖に手を掛ける。
 その時――場違いに軽快な音楽が、辺りに鳴り響いた。明日菜はその音源を辿ろうとして――エヴァンジェリンがポケットから携帯電話を取り出したのを見て、思わず変なものを飲み込んだような表情になる。

(……ああ見えて深夜アニメとか見るタイプかしら――ひょっとして授業をサボってるのが多いのも、単に眠いだけ?)
「茶々丸か――何だ、こちらは今暫く身動きが取れそうにない。新田辺りがやかましいなら、ここに役立たずの担任教師が居るからそっちに――……何?」

 それこそ場違いな印象を、小柄な少女の後ろ姿に抱く明日菜を尻目に――携帯電話を耳に当てたエヴァンジェリンの瞳が、わずかに細められた。




 西の空がぼんやりと鈍く光る。それはこのお祭り騒ぎの最後を飾る、舞台の光。
 かつてこの祭りの始まりを告げた英雄の息子は、折れた杖を握りしめ、ただその舞台を眺めていた。ただその背中を、じっと見つめることしか出来ない少女と共に。
 修学旅行三日目、午後七時十五分――夜明けには未だ遠く、彼の進む道は、未だ闇に閉ざされたまま。










詠春さんの部下、霧島(きりしま)氏と古柏(こがしわ)氏
彼らも一応、上山先生の作品から。
わかる人がいたら、きっと僕と友達になれる筈です。



[7033] 三年A組のポートレート・舞台への花道
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/04/26 21:46
 友達が少なかった訳じゃない。自分の事を、気に掛けてくれる人も。
 でも、本当の意味で、自分と心を通じ合わせる事が出来る人間なんて、居ないと思っていた。
 自分の廻りにいた人たちが悪い訳じゃない。ただ、怖かっただけだ。
 仮面をかぶって、周りの人たちと同じように、何でもない日常を過ごして、何でもないことで笑い合って――本当の私は、そんな自分を、仮面の奥で見つめていた。
 この仮面を脱がなければ、私は彼らと同じ人間では居られない。
 でも――仮面を脱いだら脱いだで、きっと私は彼らと同じでは居られない。

 幼い頃、両親が死んだ。
 伝説に残る恐ろしい化け物と勇敢に戦って、死んだそうだ。
 父親とは、遺体とすら対面させてもらえなかった。母親もまた、死の床で私や父親の名前を繰り返し、うわごとのようにただ呼び続け、私がそれをただ黙って見ているしか出来ないうちに死んだ。
 二人の名前は、英雄として残らなかった。
 それは、別に良い。
 あの人達は、そんなことを望む人間じゃない。幼心にも、それはわかっていた。
 二人の代わりに“英雄”としてまつりあげたられた男の人を、私は知っている。どうしようもないくらいに馬鹿で、どうしようもないくらいに明るくて――そして、優しい。そんな彼が、酷く苦しそうな顔をしていたのを、私は知っている。
 幼い私に、彼は謝った。
 謝る必要もないのに――彼は、謝った。

 彼は紛れもなく「英雄」だった。
 その彼が、どうしてあんな顔をしなければならなかったのか?
 それはきっと――私が、私の両親が――そんな風に考えてしまう。
 だから私は、ここにいる。
 傍目には、きっと私は悪人に見えるだろう。「英雄」である両親が見たら嘆くような、救いようのない小悪党。そしてそれは、事実である。
 でも、私は、悪人として裁かれても、蔑まれても――ひょっとしたら命さえ残らなくても、それでも構わない。もうこれ以上は、耐えられそうにないから。

 お父さん、お母さん、先生――私を支え続けてきてくれた、全ての人へ。
 私は、どうしようもない身勝手な大馬鹿者です。
 けれど、一つだけ言い訳をさせてください。わたしはただ――あなた達と同じ所に並んで立っていたかった。ただ、それだけなんです。




「チクショウ――化け物め! 消え失せろ!」
「馬鹿野郎、こちとら弾薬が十分やないんや! 闇雲に無駄弾ばらまくんやないっ!!」
「退くな――ッ!! 正義は、我にあり!!」
「無駄な気合い入れとる所悪いが、叫んどる暇があったら怪我人運ぶの手伝えやっ!! あかん、こら正面からぶつかったらどうやっても勝ち目なんかあらへんで!?」
「遮蔽物を上手く使えっ! それと連中には対人戦のセオリーなんか通じへんで! 暗視装置は付けんなや! 弾丸が切れたら即時後退! 応援が来るまで持ちこたえるんや!」

 京都某所山中、午後七時二十分――関西呪術協会本部近隣の山道に、銃声と怒号が響いていた。暁光寺の応援要請によって駆けつけた京都府警機動隊約五十名は、本部へと続く山道の中程で、突如として現れた妖怪の大群による襲撃を受けていた。
 対霊仕様のタクティカル・ベストや、銀の弾丸を装填した銃器で武装しているとはいえ、彼らは本来、このような相手に対しては素人である。かろうじてゴースト・スイーパーの元で“研修”を受けた経験のある“京都府警捜査一課心霊係”の警官が指揮を執るが、彼らとて素人に毛が生えた程度の存在でしかない。
 対する“妖怪”はと言えば、自力でも数の上に於いても、彼らを圧倒している。巨大な武器を振り回す鬼のようなものや、長大な槍を必殺の威力で振るう鎧武者のようなもの。あるいは自在に空を舞う天狗のようなもの――樹木を盾にしてどうにか防戦に持ち込もうとするが、それすらままならない。

「応援って何やねん!? 陸自の特殊部隊が来る頃には夜が明けとるかも知れへんのやぞ!? それとも噂の関西ナンタラ協会言うところが助けに来てくれるっちゅうんか!?」
「応援に駆けつけて応援を待っとるんやから、世話無い話やわな」
「今愚痴を言うたって仕方あらへんわ、とにかく――」

「失礼――そのまま、動かないで」

 こちらに突進してくる妖怪に、アサルトライフルの銃口を向けた警官は、突然響いた声と――同時に銃身に感じた僅かな重みに、動きを止めた。
 彼の視界が遮られる。翻る布――狩衣の裾によって。銃身に感じた重みは、その狩衣を纏う人間の重さだった。そう――彼が構えた銃の上に、何の前触れも無く、一人の人間が立っていたのである。年の頃は四十代半ば――恐ろしいほどに狩衣が不似合いな、何処にでも居そうな中年の女性が。
 警官は呆然とする。当然、銃を構えた腕からは僅かに力が抜ける。もとより、小柄であるとはいえ、人間一人を銃身に乗せるとなれば、五十キロを超える負荷をその腕で支える事になるのだが――まるで小鳥が載っている程の重さしか、彼の腕は感じない。
 彼女はそんな警官に軽く笑みを浮かべ――それこそまるで鳥が翼を広げるかの如く、狩衣の袖を大きく翻す。刹那――その袖から、無数の帯のようなものが一瞬で伸びた。
 幅も厚みも、それこそ着物の帯と大差ないその白い帯は、物理法則を無視したような動きと“長さ”でもって、妖怪達の群れに殺到する。
 こちらに突き進んでいた妖怪は、それに気づいて、持っていた武器でそれを受け止め、あるいははじき飛ばそうとするが――意思を持つように妖怪に向かった帯は、そんなものは障害にもならないと言わんばかりに、彼らが掲げる武器ごと、その体を易々と貫いた。
 明らかに致命傷を負った妖怪はもんどり打って倒れ――風船が破裂したように煙をまき散らして消滅する。後には、何も残らない。
 それらは恐らく“式神”の一種なのだろうと、心霊係の警官は思う。
 自らの力に確固たる方向性を与え――更に、仮初めの体を作り出して使役する、日本古来の霊能力の一種、“式神”。
恐らくあれは、妖怪そのもののように見えても、妖怪を模して作られた式神――あるいは、“あの世”や“地獄”と言った、認識外の異世界に存在するそれらの概念を、霊能力でもって具象化した存在なのだろう。

(何だったか――確か業界用語では“写し身”とか――)

 研修先のゴースト・スイーパーから聞かされた説明を、何となく警官は思い出し――そこでようやく我に返り、薄暗い林の中で、こちらに向かって殺到する妖怪の群れに目をやる。
 その一角が、突然“はじけた”。
 何の前触れもなく。鬼が持つ棍棒が、その巨腕ごと何かに斬り落とされる。
 空から様子をうかがっていた天狗のような妖怪が、翼をもぎ取られて悲鳴を上げながら消滅する。
 鎧武者のような甲冑を着た妖怪が、数体纏めて真一文字に切断される。
 彼らも困惑しているのだろう。それを行っている何者かは、姿が全く見えない。それだけなら、何らかの技術で姿を消しているのだろうとだけ判断できるが――移動の痕跡、攻撃の片鱗さえも、認識することが出来ない。
 まるで妖怪達が勝手に、糸のちぎれた操り人形のように屠られ、そして消滅していくようにさえ、警官達からは見て取れた。
 そして足並みの乱れた妖怪達を、赤と青の燐光を放つ奔流が蹂躙する。赤い光に触れただけで妖怪の腕が蒸発し、青い光に触れただけで、脚が真っ白に凍り付く。
 果たして少し離れた場所で、まるで指揮者のような動きで両腕を振るう、狩衣の青年の姿。関西呪術協会幹部――浅野潮である。

「あんたら――」
「京都府警機動隊の方ですね――本来なら管轄外であるはずのこのような事件に巻き込んでしまったことを、まずはお詫びいたします」

 警官が何かを言いかけたその時、彼の背後で落ち着いた男の声がした。彼は思わず、その声の主にライフルを向けそうになったが、それをどうにか押さえ込み、半身でそちらの方に振り返る。
 そこに立っていたのは、白鞘の刀を持った、壮年の男。

「我々が何者であるのか、この事件のあらましなど――色々聞きたいことはあるでしょうが、時間がありません。どうかこの場は、私どもにお任せいただきたい。たとえあなた方が一線の軍隊を相手に出来る技量があったとしても、あれらは見ての通り、そう言う相手とはあり方そのものが違う」
「あ、ああ――この期に及んでメンツに拘るつもりはあらへんが――あんたら、一体何者や?」
「申し遅れました、私は――関西呪術協会会長を務めさせていただいております、近衛詠春と申します」

 そう言って壮年――近衛詠旬は、澄んだ音を立てて、自らの持つ白鞘の鯉口を切った。




「いやはや――圧倒的じゃないの、我が軍は!」

 山道の少し離れた所から、近衛詠春と“年寄り衆”の奮闘を眺めていたタマモは、何故か満足そうに腰に手を当ててそう言った。

「浅野って男も、自分には何も出来ません、みたいな事言っておきながら、結構やるじゃない。あれならウチの業界に転身しても、第一線でバリバリ稼げるんじゃないかしら?」

 もちろん、ゴースト・スイーパーの仕事は、単に悪霊と戦ってそれを倒せばいい、と言うものではない。目的はあくまで“霊障を解決”することであって、戦闘力ばかり突出していても何の役にも立たない事もある。タマモの上司、かの美神令子が業界の第一線で活躍出来るのも、その筋では専門家――心霊学の博士を凌ぐとも言われる、その実践的知識のあればこそだ。
 だが、最終的に悪霊と対決するだけの技量が無ければ、ゴースト・スイーパーとして生きていくことなど出来はしない。

「ふん――なれば、浅野殿にはこちらの仕事に専念していただくべきで御座ろうな。あのようなお方が大勢業界に参入するとなれば――美神殿とて、黙っていられまい」
「……そういや美神さん、昔魔鈴さんにロケットランチャー撃ち込みかけたって、にーちゃんが」

 シロが苦笑気味に付け加え――更にぽつりと付け足されたケイの一言に、かつて苦楽を共にした三人は、乾いた笑みを浮かべる。その表情はと言えば、ケイの側にいた楓が、思わず一歩後退ってしまうほどのものだった。

「さて、あっちはあっちで何とかなるでしょ。京都府警も自分の尻は自分で拭くだろうし」
「タマモさん、間違っちゃ居ないけど、もう少し言葉は選ぼうよ」
「あんたに心配されなくても、真友君の前でならもうちょっとおしとやかにしてるわよ」
「……くっ……何でいつもいつもあの野郎は女の子に――僕だってあいつより身長あるのに……顔だって不細工って程じゃないはずなのにいつもいつも……なんでさっ!? タマモさん!!」
「……少なくともそういう気持ち悪い性格はしてないわね、真友君は」
「はうっ!?」
「あ、あの、ケイ殿、そんなに悲観しなくても、ケイ殿には私が……」

 平常心で居られることは少なくとも悪くはないのだろうが――シロは小さくため息をつき、関西呪術協会から借り受けた日本刀の鍔を、軽く鳴らした。タマモはわざとらしく咳払いをし、ケイは気まずそうに視線を彷徨わせる。

「漫談はその程度にしておくで御座るよ。タマモ――この道の先で御座るな?」
「ん? ああ、そうね――当然っちゃ当然だけど、こっちも団体さんのお出迎えね」

 関西呪術協会本部に向かう道――そこから枝分かれして、沢の方に下っているという山道には、現在詠春らが対峙しているのと同じような、異形の存在――恐ろしげな妖怪達が大挙して、こちらの行く手を阻んでいる。
 この月明かりの下で、それらの姿は鮮明には見えず、ぼんやりとその輪郭が確認できる程度ではあるが――それがかえって不気味な雰囲気を醸しだし、楓は知らず、制服の胸元を掴んだ。

「心配しなくても、あれは程度の低い式神よ。機動隊が対処に手こずってるのは、連中がああいうオカルトに慣れてないから。訓練次第じゃ一般人でも――あんた、うちの馬鹿猫相手に組み手くらいは出来るんでしょ? だったら十分よ」

 その様子に気がついたタマモが、気楽な調子で言う。自分は今どんな表情をしているだろうか――楓は一つ大きく息を吐いて、頷いて見せた。

「とはいえ――肉の壁とか盾とか言う言葉もあるしねえ」

 それを認めたタマモが、面倒臭そうに呟く。あの妖怪の力は侮れないが、恐れおののく程のものでもない。現在詠春らが、それらを圧倒している事から見ても、その推測は正しいものであるだろう。
 ただ、何せ数が多い。たとえ一人で百人を相手に出来る武道の達人が居たとしても、ラッシュアワーの通勤電車につつがなく乗れるかと言えば話は別である。

「? 犬塚殿――何か不安でも?」
「え? い、いや――何でも御座りませぬ」

 ふと、楓が、形容しがたい表情を浮かべていたシロに気がついて声を掛けるが、彼女は曖昧に首を横に振るだけだった。果たして楓には、シロの敬愛する“先生”こと横島忠夫が、かつて美神事務所にてまさにその役目――“肉の壁”となる事を担っていたなどとは、知るよしもない。

「まあ、表だってそう言うことを言われぬ分、タイガー殿よりはマシかも知れぬが……」
「?」

 口元に手を当てて何事かを呟くシロに、楓は結局首を傾げるしかないのだが――ともかく、今は目の前に迫る妖怪達をかき分けて、「リョウメンスクナノカミ」が封印されているという場所を目指すのが先決である。

「んじゃま――どうする?」
「ふむ――お主、拙者、長瀬殿、ケイ殿で。後のことはまあ大丈夫であろうよ。機動隊の援護が一段落すれば、詠春殿らもこちらを追ってくるであろうし」
「ん……普段ならそれでいいんだけど、でも今の状態じゃ、私もなるべく無駄な力は使いたくないのよねえ」

 そう言って、タマモはスーツの裾をつまんでみせる。“大人の姿を保つ”だけの力を使うこともままならないらしい今の彼女は、シロの提案した布陣に難色を示す。

「しかしこの中で、あれだけの数を薙ぎ払える力業が使えるのはお主だけで御座ろう。時間が余計に掛かることを厭わねば、拙者らとて力押しでどうにかなるかも知れぬが――」

 今はとにかく時間が惜しい。さりとて、未だ姿を見せていない犬上小太郎や、あの二刀流の少女、そして白髪の少年が何処で邪魔をしないとも限らない。石化の魔法を力業で破り、そのせいで未だに全力が発揮出来ないとは言え、それでも自分たちの中で最大の戦力は、間違いなくタマモだろう――シロは思案する。
 目的地にたどり着くのを最優先で、出し惜しみは考えないべきか。それとも、相手にどんな隠し球があるかわからないことを考えて、タマモの力は最後まで温存しておくべきか。
 その思案の時間さえも、本当は惜しいところであるが――ふとその時、シロは何者かが、自分のスカートの裾を引っ張るのを感じた。
 はっとしてそちらを見れば――エプロンドレスを纏った黒猫が、背伸びをして彼女のスカートを引っ張っている。

「……長瀬殿?」
「い、いや、拙者は何も――こら、いたずらをしてはいかんでござるよ?」

 楓が、ケイとの“魔法使いの主従契約”で得たらしいこの黒猫――楓自身、それが何に使えるのかはわからない。ただエヴァンジェリンの言うように、これが“武器”であるとは、楓にはどうにも思えない。いつもクラスで自分になついている、双子の姉妹に言い聞かせるのと同じように――楓は身を屈めて、黒猫の額を軽く弾いた。
 すると黒猫は、何処か憮然としたような表情で身を翻すと、彼らの方を向き――エプロンの胸元を、軽く叩いてみせる。

「……ひょっとして、任せろって事かしら」
「いや、でもさ」

 ケイもまた、困ったような苦笑を浮かべ、腰を屈めて黒猫に視線を合わせる。――やはり、何故だろうか、この黒猫からは、言葉に出来ない威圧感のようなものを覚える。タマモやシロ、それに楓は平然としているから、恐らくこの感覚を覚えているのは自分だけなのだろう。
 それが一体何なのかは、この黒猫の“持ち主”である楓自身もわからないようであるが。
 ふと――黒猫は、ケイの方に前足――完全に直立しているので、もはや手と表現した方が良いだろうが――を延ばし、それを自分の方に向けて曲げる仕草を取った。早い話が、ケイにこちらに寄れと手招きしているように見える。
 何事かと近づいたケイの顔を、黒猫は両手で挟み込み、そのまま――

「!?」
「な、にゃにを!?」

 楓のおかしな悲鳴が響く。黒猫は外見からは想像も出来ないような力でケイの頭を引き寄せ――そして、彼に唇を重ねたのだ。
 思わず“それ”が自分の“専用武器”であることも忘れ、スカートの内側に隠した“くない”のケースに手をやりかけた楓だったが、それより早くにその変化は訪れた。
 黒猫の姿が、一瞬にしてかき消えた。
 いや、“ほどけた”と言った方が適当かも知れない。黒猫を形作っていた“カタチ”は一瞬にして崩れ去り、そこから生み出された影のように黒い何かが、ケイの全身にまとわりつく。
 ケイはあまりに突然の出来事に何も対処が出来なかったのだろう、呆然と立ちつくしたまま、全身を黒一色に染め上げられ――果たしてすぐに、そこに立っていたのは黒一色の人間のカタチをした“何か”と成り果てた。
 予想だにしなかった事態に、タマモ、シロ、楓共に、呆然と立ちつくしたまま言葉をなくすが――ややあってその黒い“影人間”の細部が、まるで粘土細工のように形を変ていき――

「……こ、これは、一体」

 呆然と、ようやくそれだけ声を出せた楓の前に立っていたのは、エプロンドレスに身を包んだ黒猫――ケイを“飲み込んだ”楓のアーティファクトそのものであった。ただし、ぬいぐるみのようであったその顔は、精悍な黒豹のようなそれとなり、エプロンドレスを纏ったその肢体もまた、女性的な“メリハリ”が効いた艶めかしいものとなっている。背丈もまた、楓とケイの丁度中間くらい――かなりの長身だ。

「あー……ケイ? あんた、大丈夫?」
『多分……何だか良く分からないけど、状況だけはわかる。テレビモニターを通じて外を見てる感じ』
「ひいっ!?」

 タマモの問いに対する解答は――楓の頭の中に、直接響いた。“魔法使いの従者”契約のもたらすカードには、主従の間で念力による会話を可能にする機能がある。その発展系と言えば、そうなのだろう。しかし当然、その様な事を、楓は知るよしもない。悲鳴を上げてしまうのも無理は無かろう。

「……何なのよ、これ一体……」
「――ケイ殿の方でも、さっぱりわからないそうでござるよ」

 ケイの声は、楓にしか聞こえない。楓がそれをタマモに伝える。
 今度はシロが、“黒猫”に問うた。

「では――これの中身はケイ殿で御座るか? 楓殿の黒猫は、身に纏う装具のようなものであったとか」
「……だとしたら趣味の悪い鎧もあったものね」
『それが、さっきから試してみてるんだけど――これ、自分の意思じゃ動けないんだよね。ただなんだろ。防御力って言うのか――生半可な攻撃じゃ僕自身はどうにもならないし、たとえこの黒猫が真っ二つにされても、僕自身だけは無事――らしいけど』
「何でわかるのよ」
『知らないよ。でも――何でかそれが“わかる”んだよ』
「ああ――げに素晴らしきは魔法の世界――きっと私たちの向かう先には、未知なる冒険が待っているのね」
『投げやりになんないでよタマモさん――あ、楓さん、そう言うわけだから、僕は大丈夫みたい』

 疲れたように両手を掲げて見せたタマモに、げんなりした様子のケイは言い――しかしその責任は誰にもないのだ。申し訳なさそうな顔をしている楓にさえも。

『お?』

 ふと、黒猫は踵を返し――こちらを睨み付ける妖怪の大群に目を遣った。律儀にこちらの動きを待っていたのか――とも思ったが、単に使役している人間の命令のせいであろう。天ヶ崎千草は、積極的に“敵”の人間を傷つけようとはしていない。趣味は非常に悪いものの、白髪の少年もまた、そこだけはぎりぎりで遵守している。
 小太郎と剣客少女は、傭兵という立場故か、少々自らの楽しみを優先しているきらいがあるが――あの妖怪は千草の呼び出したものだ。足止めだとか妨害だとかいう目的が達成されている以上は、積極的に襲ってくることは無いのだろう。

「だったらそれを今からでも機動隊に教えて――まあいいか、あの連中がサポートしてるわけだし、そう代わりは無いでしょ。それであんた――」

 何かを言いかけたタマモに“黒猫”は深々と頭を下げる。片手を腰の後ろに、もう片手を体の前に添え――まるで執事が主に行うような、見事な一礼。いや――その一礼が捧げられた相手はタマモではない。彼女の後ろで、呆然とそれを見つめる楓である。

「え? ええ?」

 わけがわからず、楓が困惑する間に――黒猫は、猛然と走り出した。上半身を低く構え、エプロンから引き抜かれた両手には、何処に収まっていたのか、洋風の拵えの短剣が一つづつ握られている。

「ええええ!?」

 妖怪の方にしても――よもや、あの意味のわからない物体が、突然こちらに向かってくるとは思いもしなかったのだろう。戸惑ったように、それぞれの武器を掲げ――

「――嘘」

 タマモが呆然と呟いた。
 短剣の一振りで、“黒猫”の前に立っていた、身の丈数メートルはあろうかという巨大な“鬼”が、真っ二つに切り裂かれたのだ。それも、その獲物である巨大な棍棒と共に。
 両断された“鬼”は、力なく両側に倒れていき――そして、詠春達が屠った他の妖怪と同じように、煙をまき散らして消滅した。つまりあれもただの式神――とはいえ、それなりの戦闘力は持っているはずである。詠春達の力が突出しているからそうは見えないが、少なくとも“足止め”になる程度の戦力を有していなければ、案山子を並べて居るも同じ事だ。
 果たして、それがスイッチとなった。
 仲間を一瞬で倒された事により、妖怪達は目の前の“黒猫”を、倒すべき対象として認識する。
 式神とは言え、ただ無策に吶喊するような真似はしない。まずは敏捷性に優れる鎧武者と天狗が、二方向から同時に、黒猫に向かって斬撃を繰り出す。
 黒猫は短剣を持ったまま――しかし、その剣で攻撃を受け止める事はしない。軽やかな動きで跳躍し、あまつさえ、鎧武者の繰り出した刀、ついで天狗の肩を足場に跳躍。一息に見上げるほどの高さまで跳ね上がると、宙返りしながら両手に持っていた短剣を投擲――それに貫かれた鎧武者と天狗が、煙となって消滅する。
 黒猫はそのまま近くの立木を蹴り、妖怪の群れから少し離れた場所に着地するが――当然、丸腰となったそのチャンスを逃すまいと、今度は一撃必殺の威力を持った鬼の棍棒が振り下ろされる。
 黒猫は身をよじるようにそれを紙一重でかわし――その時、いつの間にかその手には、古めかしいライフルが一丁掲げられていた。威力の高い重い武器を振り下ろしたが故に、一瞬動きの止まった鬼に向け――黒猫は無慈悲に、ライフルの引き金を引く。
 火打ち石が火ぶたを打ち――果たして装填されていたのはただの弾丸と火薬の類なのか。信じられないほどの大音響と共に、鬼は一瞬にして消し飛んだ。
 いや、それだけではない。
 鬼の後ろに立っていた妖怪達が、一直線上に消滅している。
 その場の誰もが呆然と立ちつくす中――黒猫は何事も無かったかのように、エプロンのポケットから何かのケースのようなものを取り出し、ライフルの銃口に押し当てる。ついで左腕を振り抜くような動作をすると、そこから現れたのは長い木の棒――そこで誰もが気がつく。
 それは、次弾を装填するための動作であると。
 妖怪達はそれを阻止するべく、狂ったように黒猫に殺到するが、もはや時既に遅し――

「……け、結果オーライ? 道は出来たわ!」

 ややあって、タマモは彫像のように立ちつくす二人の少女の頭を、両手で同時に叩き――彼女たちは、舞台への花道を進み始める。
 得体の知れない従者の切り開いた、その花道を。




「この杖は――父さんの形見なんです。いえ――父さんはきっと、今も何処かで生きているから、形見という言い方は適当でないのかも知れません。けど、父さんがたった一つ、僕に渡してくれた――」

 ネギは折れた杖を手に、力なく言った。
 午後七時三十分、関西呪術協会本部――その部屋には、三人の少年少女が居る。ネギ・スプリングフィールド、宮崎のどか、そして桜咲刹那。
 綾瀬夕映と村上夏美は、未だに恐慌状態にあるため、関西呪術協会の巫女らによるケアを受けている。神楽坂明日菜は、そんな二人を心配して様子を見に行っている。エヴァンジェリンは、彼女の“下僕”であるところの少女――絡繰茶々丸から電話を受けてから、何処に行ったのやら姿が見えない。
 のどかとて、その心中は穏やかなものとは言えないだろうが――彼女はただ、ネギのそばにいることを選んだ。

「宮崎さん――こんな事は言うべきでないかも知れないけれど――僕に、失望しましたか?」
「いえ……そんなことは」

 その言葉には、怯えたような色が含まれていた。しかし果たして、のどかは小さくその言葉を否定しただけで、包帯が巻かれたネギの手に、そっと自分の手を重ねる。ネギの小さな手は、限界を超える力を振り絞った為に、手のひらの皮が破れて血が滲んでいた。

「……ネギ先生、ネギ先生は――一体?」

 どれくらいかの沈黙の後で、のどかは小さく言った。
 それは、聞きようによっては意味のわからない質問だっただろう。しかし、ネギにはそれがわかった。

「オカルト関係者――と言う答えでも、間違いはありません――でも、本当は違うんです。僕は――“魔法使い”です」

 同じ部屋にいた刹那は、ネギの言葉に反応する。しかし、何かを言いかけた口は、中途半端に開かれたまま――結局言葉を紡ぐことなく、閉じられる。今の自分には何を言う資格もない――彼女の表情は、そう言っていた。

「……魔法使い? それは――ええと、それは、ゴースト・スイーパーとか、そう言う人たちとは違うんですか?」
「違います」

 ネギは短く、しかしハッキリと言った。
 魔法使いとは、単なるオカルト関係者ではない――しかし、それ以上の事はなにもわからない。
 のどかは、ネギに何も問わなかった。その事が、ネギには幸いだった。
 しかし――いつもは前髪に隠された彼女の瞳が、今はまっすぐ自分を見ている。その事に、彼は言い知れない不安のようなものを感じた。

「……はじめは――僕が頑張れば、何かが見えると思っていました」

 ネギは弱々しく言った。彼は知るよしもないが――その独白は、かつて麻帆良学園学園長、近衛近右衛門が、人知れず呟いたそれに、よく似たものであった。

「僕のお父さんは、立派な魔法使いでした。昔――僕が生まれる前に、魔法の世界では大きな戦争があったんです。僕のお父さんはその時に活躍して――みんなから尊敬される、英雄だったんです」
「……」
「僕はそんな父の背中を、ずっと追ってきました。でも、色々なことがあって――僕は、立派な魔法使いって何なのか――わからなくなりかけたんです。絶対に正しい事なんて無い。どれだけ自分が正しいと思っても、それは他人にとっては間違いなのかも知れない。だったら、僕が目指している事って何なんだろうって」

 のどかはそんなネギに何も言えない。もちろん刹那も、それは同じ。

「僕には、何もわかっていなかった。立派なことって言うのが、一体何なのか。僕が魔法使いの力を使ってみんなを助ければ、それが立派な魔法使いになることだって、馬鹿みたいに思ってたんです。でも――違った。僕の頑張りなんて――結局僕が頑張ったって、何も変えられない。変えられやしないんだ。僕はお父さんとは違う――お父さんのようには、なれやしない。でも、それを認めるわけにはいかなかった。認めたくなかった」

 けれど、と言って、彼は折れた杖を握りしめる。

「でもこの杖が折れたとき――いえ、この杖は僕のせいで折れてしまった。その時に、わかったんです。結局僕は、今まで中身のないものをずっと信じて、自己満足に浸っていただけなんだ、って。だって、僕はお父さんの事を何も知らない。お父さんがどんな人で、どんな風に戦って、どんな風に世界を見ていたのか、それを何も知らない。僕が知っているのは、あの日僕にこの杖をくれたお父さんの姿だけだから。僕は――そんな、からっぽの風景画みたいなものを、ずっと追いかけていたんです」

 そんなことは、と、のどかは言いかけた。しかし、言えなかった。
 その言葉を否定することは、彼女には出来ない。彼がそう思うのならば、“そう”なのだ。少なくとも――彼の中では。それを覆すだけの事は今ののどかには言えない。言えるだけの存在でもない――そう、彼女は思う。

「小太郎君――天ヶ崎千草さんの一味の、シネマ村で会ったあの男の子にも言われました。結局何が正しいかなんてことは、自分で判断するしかないんだって。でも今の僕には、何が正しいのか――もう、わかりません。いえ、何が正しいかなんて、もうどうでも良いのかも知れない。でも――僕は何も出来ないんです。千道さんや、エヴァンジェリンさんに言われたことは、間違っていません。今の僕は、魔法使いとしても教師としても――何も、出来ない」
「……」
「宮崎さん、こんな僕を――見て、失望しませんか? あなたは、いつも頑張っている僕が好きだと言ってくれた。でも僕は――もう、何を頑張ればいいのかわからない。何かを目指して頑張っても、それが間違いだったらと思うと――」
「……動けない、ですか?」
「はい」
「怖いんですか?」
「……はい」

 ネギは俯いた。ネギの手のひらに載せられたのどかの手に、熱い滴がしたたり落ちる。彼は――泣いている。
 のどかはその手に――わずかに、力を込めた。

「ネギ先生――顔を、あげてください」

 彼女の声に、ネギは顔を上げる。
 彼女はどんな顔をしているのだろうか。それが怖かった。
 軽蔑されるだろう――とは、思っていた。軽蔑されても仕方がないと思っていた。
 なぜならば、自分は彼女たちの教師であることを――彼女たちと共に成長していこうと思った己の誓いも含めて、放棄したからだ、先に進む勇気が無いというのは、そう言うことの裏返しである。
 しかし――のどかの顔に浮かんでいた表情は、ネギの予想とは違うものだった。
 彼女の顔に浮かんでいたのは――泣き笑いのような、そんな表情。泣き出したいのを堪えているのではない。泣きそうなのに――自然と口元に笑みが浮かんでしまう。そんな表情だった。

「私は、昨日の夜言いました。ネギ先生の助けになりたい、って」
「……」
「私は、魔法使いの事とか、オカルトの事とか――そんなことは全然知りません。ネギ先生が何か複雑な事情を背負って居るんだって、それすらも夕べ初めて知りました」

 だから、と、彼女は言った。

「同じなんです。私も。私、ネギ先生のこと、何も知らない。何も知らないけど、好きなんです。助けたいんです。ネギ先生が、何も知らないお父さんの背中を追ってきたって、そう言うように、わたしも――」
「そんな――でも、それは」
「ええ、もちろん。それはネギ先生の思う事とは違うのかも知れない」

 のどかはゆっくりと首を振る。まるで――自分自身に、言葉を言い聞かせるように。

「でも、私は変わりました」
「え?」
「以前の私は、ただただ、“頑張るネギ君”を応援したいと思っていた。子供だけれどかっこよくて、でもちょっと抜けてて、可愛くて、そんなネギ先生が大好きだった。でもそれは、ネギ先生が言う“空っぽの目標”と変わらないのかも知れなかった」
「い、いえ――それは」

 それは、何なのか。ネギには言葉が継げない。
 確かに、ネギとのどかでは、置かれている状況も、焦点にしている事柄さえもまるで違うのかも知れない。けれど、ネギはそれを否定できなかった。

「でも、私は知りました。ネギ先生が、いろんな事に悩んでるんだって事を。ネギ先生が、私と同じで、先に進むことを怖がってるんだって事を。だから――今の私は、そんなネギ先生を知っています。この間までの、私とは違う」
「……宮崎さん」
「違うんです。そしてきっと、ネギ先生だって――今は暗闇の中に居るのかも知れない。でも、でも! ネギ先生は、一人の人間です。ネギ先生のお父さんの事は、私にはわからない。でも、ネギ先生の事だったら! ネギ先生は、私にとって、もう空っぽの憧れなんかじゃ、ないから! だから、きっと――」

 のどかは、ポケットから一枚のカードを取り出す。そこに描かれているのは、凛とした表情で、一冊の本を大事そうに抱える、彼女自身の姿。ネギと彼女の間に成立した“魔法使いの主従”関係を証明する“仮契約カード”。

「考えましょう! 今の私たちに、何が出来るのか。ネギ先生は、ネギ先生なんだから! 一人の人間なんだったら、きっと何かが出来るはずです! 前に進むことは、怖いです。怖いけど――みんな同じなんです! 怖がって、怖がって先に進むんです! 私が、私自身がそうしたみたいに! 偉そうなこと言ってるのは、わかります。謝ります! でも――でもっ! 怖がることは、いえ“怖い”事は、悪い事じゃ無いんです!!」
「宮崎さん――」

 ネギは、涙を拭うのも忘れて、呆然とのどかの顔を見つめる。
 暫く部屋の中には、我慢が出来なくなったのだろう、のどかの嗚咽だけが響き――その沈黙を破ったのは、ずっと二人の遣り取りを見守っていた刹那だった。

「ネギ先生――宮崎さん。お話ししたいことがあります――」










長瀬さんの仮契約カードのアーティファクト、完全オリジナルです。
今回の話だけ見るとチートに見えますが、そういうわけでもありません。

浅野、霧島、古柏の三人は、それぞれ元ネタになったキャラクターから、
その特殊能力をモチーフとしています。
ただ浅野さんだけは、元ネタキャラクターがどんな能力を持っていたのか不明なので、
とりあえず「あの作品の典型的な能力」を付与してみました。

多少オリジナル色が濃すぎるかも知れません。
書いている方としては楽しいけれど、
二次創作としての物語としてはどうなのだろうか……精進します。



[7033] 三年A組のポートレート・ラインを踏み越える
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/05/11 02:00
 紺碧の空に、白く淡く光る月が掛かっていた。
 今宵の空気は、幾分水っぽいのだろうか。地上から見上げた月は、僅かにその輪郭がぼやけて見える。
 京都某所、午後七時三十五分――その場所は、静寂に包まれていた。
 関西呪術協会本部からいくらか離れた山中を沢伝いに下った場所に、その湖はある。外周はおおよそ一キロ。美しい円形をしており、その中程には緑に覆われた浮島が存在している。
 鏡のように滑らかな湖面は、紺碧の空を映し出す。その夜空に掛かる月もまた、同じように。まるでその湖面の向こう側には、もう一つの世界が広がっているようにさえ感じられる。周囲を包む静寂も相まって、その場所は何とも幻想的な雰囲気に包まれていた。
 ふと、遠くの方で音がするのが聞こえた。辺りが静かすぎるからこそ、その音はこの場所まで届く。そう――今夜のこの場所は、静かすぎる。湖を取り囲む森に住むだろう、動物たちの気配ですら、今夜は感じない。
 ぱしゃり、と、遠くから響く剣呑な物音とは違う、小さな水音が、彼の耳に届く。
 見れば、湖岸より浮島へと続く桟橋に、一人の少女が腰掛けている。妙に可愛らしい服装に身を包む、眼鏡を掛けた大人しそうな少女。彼女の靴底が、僅かに湖面に触れ――水音と共に、滑らかな湖面に、美しい同心円が広がっていく。
 それを見遣り――彼は、小さく呟いた。

「……詐欺やな」
「……何を突然、失礼なことを呟いてますの」

 短く切りつめた学ランに、だぼついたズボン――一よくある“改造制服”を纏う少年、犬上小太郎の呟きに、その少女は頬を膨らませて、彼の方を振り向いた。

「事実やないか。こういう言い方もアレかも知れんが、月詠の姉ちゃんは見てくれだけはええんや。そうやって思わせぶりな仕草の一つでもしとったら、それなりに絵にはなる。こんな場所やったら特に、な――せやけど姉ちゃん、今何考えとった」
「そらもう――あの可愛らしいお姉さん方とまた戦える――それも、今度はお互いに本気で命を賭けて――そう思うたらもう、ウチはこの胸の高鳴りを鎮めるのが大変やわ」
「ほれ見てみい――詐欺やないか」

 そう言って小太郎は肩をすくめる。彼の言っていることは少なくとも間違いではないが、少女――“月詠”としてはそれでも不満なのだろう。頬を膨らませたまま、傍らに立つ彼から視線を外す。

「ええもん――ウチのこの気持ちが、犬上君にわかってもらえるなんて思てへんし」
「わかりたくもないわ、そんなもんは」
「どうしてです?」

 月詠は言った。

「犬上君もウチと同じで、戦うのが大好きやないですか。自分の事は棚に上げて、ウチのことを悪いように言うのは、ちょっと納得出来ませんわ」
「一緒にせんでくれ。俺は殺し合いで興奮出来るような変態とちゃうわ」
「そうなんですか? でもそれは嘘ちゃいますの? 戦うことが好き――言うのは、突き詰めたらそう言う事やろ? 戦えることが楽しいから、好きやからやっとるんやったら、根っこの部分は同じやないですか。どんだけ綺麗事で飾ったって、ウチや犬上君は、戦いに快楽を求めとるんや」
「……綺麗事を言うつもりは無いんやが――あからさまに言うのもどうかと思うで。百歩譲って姉ちゃんの主張を認めたとしても、や。その“快楽”の中身は、俺と姉ちゃんではまるっきり違う。それくらいは弁明さしてくれや」

 引きつったような顔でそう言う小太郎に――月詠は顎の辺りに指を遣り、視線を上に向けて、何かを考えるような仕草を取る。それは無意識の行動ではないのだろうと、小太郎は思う。彼女の動きには、隙がない。
 意図して可愛らしい仕草を取ると言うのは、女性ならば普通の事だろう。ただ目の前の彼女の場合、気を遣う場所が何処かずれているのは否めないが。

「せやなあ――犬上君はウチみたいに、可愛らしい女の子と戦うのが好き、言うわけやないし」
「いや、そんな奴はそうそうおらへんやろ。普通女子供とやり合うのは気が進まへんわ」
「そうですか? ウチは――犬上君やったら全然許容範囲やわ。男のくせに可愛らしい顔立ちしてますさかいに――これが終わったら、お姉さんと“いいこと”しまへんか?」
「全力でお断りするわ。それと顔のことは言うなや。俺かて、もっと男らしい顔に生まれたかったわ。せやけどこればっかりはどうしようもないやんか。お袋の遺伝子が強かったんやろ、きっと」
「犬上君のお母さんですか――どないな人でしたん? もう亡くなられとる、言うて聞きましたけど――残念ですわ。存命やったら、一度やり合ってみたかったのに」

 何処かうっとりした顔で呟く月詠に、小太郎はげんなりした顔で首を横に振る。
 ややあって――彼は月詠が腰掛けているのとは反対側の桟橋の縁まで歩き――今は暗く沈んで見える水底を見下ろした。

「ウチのお袋はただの主婦やで?」
「せやの? それなら別の“やりかた”でやり合うまで――ん、んんっ……何でもありませんわ。ほんなら、犬上君は?」
「裏の世界の傭兵稼業、言うんは――親父の家の家業や。もっともこんな時代にそれを選んだのは俺自身やから、うちの家がどうこう言う問題やないけどな。ただ強うなって化けモンやとか、化けモンじみた相手と戦うなら、ゴースト・スイーパーの資格取ってもええわけやし」
「そうしないことに、犬上君は何か思うところがあるんやね?」
「……傭兵は金で動く。せやけど、俺はホンマはそうやとは思わへん。表の世界の傭兵かてそうや。もちろん、金目当てでやっとる奴はおるやろ。せやけど、傭兵やっとって貰える金なんて、微々たるモンやで? 正規の兵隊が用意出来ん奴が、はした金でどうにかかき集める戦力が“傭兵”やから、当然やけどな」
「でも、戦えるやないですか」
「それは単に頭が狂っとるだけや。問題は――“何のために戦うか”やろ?」

 小太郎は小さく息を吐く。もちろん、自分の考えがこの少女に伝わるとは思わない。この少女と自分では、そのあり方が根本から違う。馬の耳に念仏とは、この事だ。

「なんや酷く馬鹿にされとる気がしますけど――ほんなら“傭兵の犬上君”は、何の為に戦うてるん?」
「せやな――うまく言葉には出来へんのやけど――それでも誤解を承知で言うなら――」

 重く、腹に響く音がした。さっきよりも、随分この場所に近づいてきている。轟音は衝撃となって空気を揺らし、鏡のようだった湖面もまた、ほんの僅かに揺れた。
 小太郎は膝に手を置き、一呼吸置いてから立ち上がる。月詠もまた、彼の方を見ることなく、その可愛らしい服装に不似合いな腰の刀に手を当てつつ、立ち上がった。

「自分の信念のために強くなる、そのため――なんやろな」
「ええやん、ウチ、そういうシンプルなの好きやわ」

 月詠が楽しそうに言う。
 彼らの視線の向こう側――木立の合間に伸びる山道から、静寂を切り裂いて足音が響く。




「ケイ殿――体は大丈夫? おかしなところは、ない?」
「大丈夫だよ。動き回ったって言う疲労感すら感じない――あれは一体何なんだろう。タマモさんはどう思う?」
「私に聞かないでよ――自律行動できる武器――だけど、“芯”になる誰かがいなけりゃ使えない、ってところかしら?」
「芯って――トイレットペーパーか何かみたいに言わないでよ」

 沢伝いに続く山道を駆け抜けながら、ケイはタマモの問いに苦笑する。シロ、タマモ、楓、そしてケイ――身長が違えば歩幅も異なる四人ではあるが、それでも彼と彼女達は、見えない糸で繋がれているように、お互いに一定の距離を保ちつつ、驚くほどの速さで山道を駆け抜ける。時折散発的に襲い来る妖怪を、軽くあしらいながら。
 楓は一瞬――今はポケットに収まっている“仮契約カード”に手を遣った。
 エヴァンジェリン曰く、魔法使いの主従契約を結ぶことによって得られる、従者専用の武器“アーティファクト”が収められた、魔法の力によって作られたカード。
 どのようなアーティファクトが現れるのかは、主従契約を結ぶ両者にすらわからないが、従者の特性にあったものであることだけは、確かだという。
 その結果現れた、不思議な黒猫。
 ぬいぐるみのような姿で、しかしケイを――タマモ曰く“芯”にして、彼に取り憑く事によって、驚くほどの戦闘能力を発揮したそれは、今はカードに戻っている。何故かその能力が少しはわかったらしいケイが言うには、この“武器”は一回に使える時間は十分程度。一度使ってしまえば、もう一度使うのに半日程度の時間が必要となるのだという。
 “ぬいぐるみの黒猫”の姿でならそう言った制限は一切無いが、その代わり出来るのはお茶くみだとか部屋の掃除だとかその程度――それはそれでかなり便利だと、楓は人知れず思ったが、もしそんなことをエヴァンジェリンに言えば、何を言われるかわからないだろう。

「しかしそうとわかっておれば、最初からいきなり使う事も無かったものを」
「どうかしら。あの黒猫の戦闘力は未知数だし――露払いの役割はこれ以上ないほど果たしてくれたんだし、贅沢は良くないわ。そうね――さしずめ、“アレ”と同系統の代物、ってところかしら?」
「アレ?」
「ほら――アレよ……あの“プッツン女”のところの――」
「う……」

 途端に、シロとタマモの顔に影が差す。タマモの言う形容が当てはまる人間は、彼女らの周囲には一人しかいない。
 当然彼女の事を知るよしもない楓は首を傾げるが、ケイに問いかけてみたところで、返ってきたのは引きつったような笑みだけだった。

「大丈夫――大丈夫だよ。楓さんは、絶対あんなのと同類じゃないから!」
「あんた、仮にも上司の友人を“あんなの”って……いや、横島がいなくなってから“アレ”の被害を受けるのはあんたの役目だし――ケイ、あんたのことは忘れないわ」
「不吉なこと言わないでよ! 大体何で僕ばっかり――くそう、僕は意地でも生き延びてやる――生き延びてやるぞ!」
「ケイ殿? ……犬塚殿、ケイ殿は一体――“あんなの”とか“プッツン女”とか、一体何のことでござるか?」
「長瀬殿――世の中には知らなくても良いことがたくさんあるので御座るよ」

 押し殺したようなシロの声に、楓は思わず言葉を無くしてしまう。果たして自分は今、無意識のうちに何かの地雷を踏んでしまったのだろうか――ややあって、疲れたように、タマモが言った。

「“あんなの”ってのはね――“世界最強の式神使い”よ。その……いろんな意味で、ね」
「ふむ……世界最強とはまた――」
「いやだから、出来れば知らずに一生過ごせるならその方が」

 そう言われても、楓にはいまいち“ぴん”と来ない。
 ただ漠然と、ファンタジー映画に出てくる巨大な怪物のような、そんな化け物を操る女傑を思い浮かべる程度である。隣でケイがぶつぶつと“きょう”の字は“凶悪の凶”かも知れないけど――などと呟いている意味も、いまいちわからない。
 もっとも、“世界最強”などと言われるくらいなのだから、その女性とは、人となりはともかくとして、その力は恐ろしいものなのだろうと――楓は納得する事にした。
 ともかく――どこか緊張感のない空気を纏ったまま走り続けること十数分。
 唐突に、視界が開けた。
 詠春に聞いていたとおり、その先には湖が存在していた。この風景をそのまま切り取れってしまいたくなるほどの、美しく、幻想的な景色――しかし果たして、一行はすぐに、湖に掛かる桟橋の前に立つ、二人の人影に気がつく。
 足を止め――タマモは闇夜に目をこらす。
 闇夜、と言っても、今夜は月の光が明るい。これほどまでに開けた場所であるから、夜目の利く彼女にとって、その二人が何者であるかを確認する事は、実に容易かった。
 そもそも、この局面で現れる相手となれば、相手方に隠し球が控えていない限り、選択肢はいくらもない。

「当然と言えば当然だけど――また逢ったわね」

 彼女は腕を組み――軽く足を開いたスタンスで、月の光に照らされた二人を睨む。犬神小太郎と、月詠――その二人を。シロはその姿に、久しく会っていない、かつての雇い主を見たような気がした。

「こちらこそ――せやけどそんな嫌そうな顔せんといてくださいな。ほんに、ウチ好みの可愛らしい子になってしもて――」
「やめてよ。私はノーマルなの。ちゃんと男が好きなの」
「靡く男がいるかどうかは別で御座るがな」
「あんたにだけは言われたくないわね」

 背後で呟いたシロの声に、耳ざとく反論し――タマモは大きく息を吐く。
 彼女の上司ほどではないにせよ、自分もまた、率先して労力を払うことを厭わないような人間ではないのである。

「――今の時点でも、私にとってはオーバーワーク気味なのよ。ウチの所長がそれで給料上げてくれるとも思えないし、無駄な労力は無いに越したこと無い――と言うわけで、そこをどいてくれるとありがたいんだけど」
「そこで“ああそうですか”も無いと思うんやけどな、狐の姉ちゃん」

 苦笑しながらそう言ったのは、小太郎である。タマモは小さく眉を動かし――背後で給料がどうこう言うなら自分の立場は――などと呟いているケイを無視して、彼に言う。

「あら、知ってたの?」
「俺もそれなりに鼻は効くんや」
「――お主、人狼か?」

 シロの問いに、小太郎は首を横に振る。

「“狗族”――やとか、死んだ親父は言うとったな。まあ俺が狼男やろうが“ぬらりひょん”やろうが、俺自身に不都合があるわけでなし――ああ、お袋は普通の人間やったらしいけどな」
「“狗族”――私らと同じ、犬神系の妖怪、か……正しくはそのハーフ……」

 タマモは、口元に手を当て――そして、一つ頷く。

「何か……中学生の黒歴史ノートみたいよね。ほら“設定”とか書いて悦に入ってる奴」
「ちょ……い、いや、自分の出自をひけらかして自慢する趣味なんぞあらへんけど、流石にうちの実家を“中二病”扱いするのはやめてもらえへんやろか……」
「タマモさん、流石にそれはどうかと――僕が言うのも何だけど」
「何よ馬鹿猫。自分の霊能力に名前付けて自己満足してる奴もいたわね、そう言えば?」
「い、いやっ……僕のアレは美神さんが名付けたんであって! 僕は別にそんなのどうでもよかったんだけど、技に名前を付けると言霊が云々で霊能力としてのアレがどうだって……!」
「何を必死になってんのよあんたは」
「えーと、話を進めてもよろしいですやろか?」

 のんびりした月詠の言葉に、タマモとケイ――それに小太郎は、揃って一つ、大きな咳払いをする。
 果たして、ともかく――と、小太郎が腰に手を当て、大仰な仕草でタマモらに向き直った。

「とっ……ともかく、ここは通行止めや! 近衛のお嬢さんを取り戻したかったら、俺らをブッ倒してからにしてもらおうか!」
「んん……交渉の余地は?」
「ありませんわ。もっともそれを決めるのはウチらやない、千草さんですけど――ウチはもちろん、そちらを千草さんの所に行かせるつもりなんて、毛頭ありませんし」

 小太郎が拳を突き出し――月詠の腰から、白銀の煌めきが伸びる。
 それをみとめたシロとケイは、表情を引き締めると――示し合わせたような動きで、タマモの前に立った。
 戦闘力は高い――と、エヴァンジェリンに評価を貰ったものの、実戦経験など皆無に等しい楓は、自分はどうするべきかと逡巡するが、シロとケイに道を譲るように一歩下がったタマモが、彼女の肩を軽く叩く。

「連中はこの二人で抑えるわ。私たちはその隙に、“本命”を狙うわよ」
「あ、は、はい――しかし」

 楓は思う。数の上ではこちらが有利だ。相手は二人しかおらず、現時点ではこちらは四人。更に機動隊の援護にけりがつけば、近衛詠春ら、手練れの呪術師達が応援に駆けつけてくる。
 しかしその程度の事は、相手も承知の上だろう。その上で“二人”でこちらの進撃を止めると言っていると言うことは――

「心配しなさんな。仕事と関係ない女子中学生に傷を付けたとあっちゃ――私の今月の給料が心配だもの。必要なことは私がやる。あんたは私から離れずに、出来るならフォローだけしてくれたらいい」
「……」
「出来るかしら?」
「……はい!」
「良い返事ね」

 タマモは満足そうに瞳を細め――そして、振り向きざまに、高らかに宣言する。

「助さん、格さん――懲らしめてやりなさい!」

 果たして、戦いの口火は切られ、その冗談半分の宣戦布告に、二人は苦笑する。

「……どっちが助さんで、どっちが格さん?」
「どちらでも大した差は無かろうよ。問題があるとすれば、拙者ならこんなご老公の下で働くのは御免で御座る」
「そう? 結構楽しいかも知れないよ?」
「……前々から思っていたが、ひょっとするとケイ殿は――その――“ドM”という奴で御座ろうか?」
「何でそうなる――いやっ! 違う! 違うから!! 楓さん、そんな目で見ないでっ!? こっ……小太郎君、君も心なしか一歩引かないで!」
「あー……月詠の姉ちゃん、俺がそっちの姉ちゃんの相手してもええか?」
「嫌や」
「即答!? 僕だって君みたいなおかしな娘の相手はしたくないけど、何で嫌なのかその理由って聞いてもいい!?」
「ウチは虐めるのも虐められるのも好きやけど、それで喜ぶような奴を相手にするのは嫌なんよ」
「もの凄い理不尽な理由をきっぱりと言い切った!?」
「それはええんですよ。世の中にはきっと、ウチの全部を受け止めてくれる、理想のお姫様がおるはずや……」
「本物だよこの人!! まずそこは王子様からやり直そうよ!? 僕ってこんな娘に変態扱いされてんの!?」

 ――ややあって、そのまま燃え尽きてしまいそうになるケイに助け船を出したのは、“敵”であるはずの小太郎だった。相当嫌そうな顔をしていたが――それでも、この空気に飲まれてしまうことは避けたかったのだろう。
 シロやタマモがそれを狙っていたのかは、かなり微妙なところであるが。

「ああ、もうええわ……月詠の姉ちゃんも本気で言っとるわけやあらへんから、いい加減話を進めてもええんやないか? 不満はあるけど、こっちはこのままグダグダやっとったら、それはそれで目的が果たせるんやが」
「はっ……忘れるところだった。なんて狡猾な――」
「俺は関西人やけど漫才師やないんや。慣れんツッコミばっかりやらせんといてくれや――せやけど、ええんか?」

 慌てて、頭を抱えていた腕を解いて構えるケイに、小太郎は言う。

「兄ちゃんはゴースト・スイーパーとしては十分かも知れへんが、格闘戦で俺を抑える事が出来るんか? シネマ村じゃ、好きに動けへんかったとは言え、俺に力負けしとる。兄ちゃんの“霊能力”が俺に通じへん事は実証済みやで? 大口叩いてもええんかな」
「戦闘力の比較か……中二病家系?」
「しつこいわ!! それこそ技に名前付けとる奴に言われたかないっ!!」
「でも――負ける気もない。負けてられない。さっきはちょっと羽目を外しちゃったけど――“負けてる時間もない”わけで」
「は――おもろいやないか。ようやくやる気になったっちゅうわけか? ほんなら――ッ!?」

 刹那――
 小太郎の視界から、ケイがかき消えた。
 そう思った瞬間、彼の視界が捕らえたのは、紺碧の空に掛かる、月――

(――は――?)

 視界が、歪む。体が湖面を滑り、水しぶきが全身を濡らすのを、まるで他人事のように現実感無く感じ――小太郎はそのまま、湖面から突き出して岩に叩きつけられた。

「……かはっ……!?」

 その衝撃で、我に返る。だが痛みに歪みかけた視界の中に、月の光を遮る影を見つけ――

「――冗談や――ないっ!」

 巨大な水柱とともに、彼が体重を掛けていた岩は、緑色の軌跡を描く燐光に粉砕される。しかし彼もまた、その程度で怯むような人間ではない。押し流されてしまいそうな程の水しぶきを踏ん張って耐えると、水煙の向こうに一瞬見えたケイに向けて、渾身の一撃を繰り出す。
 ケイは、それを避けない。
 純粋な一撃の威力ならば、彼のそれを上回るだろう小太郎の一撃を、ケイは――

「――ッりゃあぁっ!!」
「づぁ!?」

 横合いから“蹴り”をぶち当てて、無理矢理に逸らす。むろん、蹴撃の威力は、彼の霊能力によって強化済み。拳の骨が砕けそうな衝撃を、小太郎は無理矢理押さえ込み――

「――ナメんなやぁぁああっ――!!」

 滑らかな湖面を、巨大な水柱の立てるさざ波がかき乱す。




「……あのお兄さんは、前に見たときと様子が違いますなあ……これはあれですやろか? “実力を隠していた”っちゅう奴ですやろか?」

 可愛らしい服に不似合いな、腰に差した小太刀の柄に手を遣り、月詠は言った。彼女の視線の先では、まるで至近距離から大砲でも撃ち合っているかのように、盛大な水柱がいくつも連続して上がっている。
 月詠の見立てでは、藪守ケイという青年は、決して弱いわけではない。
 ただ、真正面から小細工無しでぶつかった場合、彼の力量や“霊能力”の性質では、小太郎には及ばない――そう考えていた。しかし現実には、彼は小太郎と互角以上に渡り合っているようだ。
 ならば、考えられる事は一つしかない。即ち、彼は月詠らに対して実力を隠していたと言うことである。
 しかし――その呟きに返ってきたのは、複雑な感情をはらんだ、シロのため息だった。

「ケイ殿はそんな器用な真似が出来る御仁では御座らぬよ。普段のアレはアレで――ケイ殿の本気で御座る」
「――どういうことですやろか?」
「おや、お主はこと誰かと戦うとなれば――女性相手にしか興味がない奇特な趣味の持ち主だと思っておったが。ケイ殿に興味がおありで御座るか?」
「強くて綺麗なお方でしたら、ウチはイケますえ? もちろんそう言う意味では、お姉さんなんてその理想なんですけど」
「全力でお断り致す。ケイ殿はケイ殿でお相手を見つけたようで御座る故に――お主も女ならば、潔く身を引くのが宜しかろう」
「お堅いお人ですなあ。今時、あきらめの良い女なんて美談にもなりまへん」

 肩をすくめて言う月詠に、シロは首を横に振る。

「ま――純粋な疑問ですわ。やる気次第で力量が変わる人間は割合多いですけど――ウチらの業界やったらそんなもん命取り以外の何モンでもあらへん」
「ふん、ならばお主は、何のために本気を出して戦うので御座るか?」
「美しいものを愛でるやり方は、人それぞれや。何に対して楽しみを見いだすのかも、人それぞれ――お姉さんにウチの趣味を語ったところで、理解できるとは思えませんけどな?」

 月詠は、澄んだ音と共に小太刀の鯉口を切り――その刀身に目を落とす。
 どれくらい敵の血を吸ってきた刀なのだろうか。しかし磨き抜かれたその刀身には、血錆も脂の曇りも存在しない。

「綺麗やろ? しっかり手入れしとりますさかい。お姉さんの持っとるそれも、そうや」
「借り物で御座るがな」
「日本刀は優れた武器でありながら、純粋な美しさも兼ね備える、世界最高の刀剣や。ウチはそう思うとる。拵えや飾りが華美な刀剣は世界にぎょうさんあります。せやけど、抜き身の刀身それのみが、ここまで美しい刀剣が他にありますやろか?」
「美神殿ならともかく、拙者は学のない人間で御座る故、骨董品としての刀剣の価値などわからぬが」
「わからんでええよ、そんなもの――小難しい理屈なんてむしろ邪魔や。ただその刀身に魅入られるような美しさがある――そこに理由なんて要らんのや。そして――」

 衣擦れにも似た、小さな音が響く。隙のない動きで、月詠は二刀の小太刀を、鞘から抜き放つ。月の光を浴びて淡く輝くその刀身は、確かに、彼女の言うとおり、言い知れない美しさを持っている。

「これは人を斬るために作られた刃物や。せやったら、日本刀が最も美しいのはまさに“その時”でっしゃろ? それを振るうのがウチ好みの美人さんやったら最高や。美しい人間が、日本刀の美しさを最大限に引き出すんや」
「その理屈をそのまま解釈するなら、斬られる対象がお主自身となってしまうわけで御座るが?」

 シロは苦笑し、自らも鞘に収めた刀の柄に軽く手を添え――低く腰を落とす。

「それがお主の本音で御座るか? ただそれのみのために、お主は剣を振るうと?」
「どうですやろ? 単に可愛い女の子が好きや――言うのも、ちゃんとした本音ですけど――こちらの質問には、答えてくれへんのですか?」
「……ケイ殿が自分の意思で力を加減しているのだとしたら――それこそ正真正銘の「どM」で御座るよ……負ければ苛烈な仕置きが待っているとわかっていて、どうして手を抜ける」
「……人間には色々な側面があると聞いたことがあります。お仲間の趣味が少々特殊やったからて……その、認めたくないのはわかりますが」
「気の毒そうに言うでない。流石にお主にそう言う勘違いをされたままでは、ケイ殿も哀れで御座る故――」

 左手の親指を刀の鍔に掛け――嫌そうにシロは言う。

「……何処かの誰かと同じで、ケイ殿は本来争い事など大の苦手なので御座るよ」
「ふうん……戦うのが嫌やから、普段は実力も出せへんて?」
「良い風に考えて欲しいもので御座るな。左様、確かにケイ殿は、闘争本能などと言う言葉とは、おおよそ無縁の性格で御座る。だが――“どうあっても退くことが出来ない場面”があるという事実を、単なる理屈でなく理解している」

 シロの足下で、砂利が湿った音を立てた。

「そう――かつてケイ殿がその背中を追い――拙者が恋い焦がれるお方が、それを拙者らに教えてくださったが故に――」




「あ、あの……何か凄いことになっているようでござるが、大丈夫ですか?」
「まー、あんたの愛しの馬鹿猫も、本気が出せるならあの子供には遅れは取らないだろうし――シロも体調が万全なら問題ないわよ」
「はあ……」

 桟橋の上を、タマモと共に駆けながら、楓は心配そうに言う。湖岸では未だ激しい戦いが繰り広げられているのが、ここからでも確認できる。
 犬上小太郎と、月詠――この二人の目的は、あくまでこちらの足止めにある。白髪の少年が、関西呪術協会本部を襲撃した際に“一時石化”などというまだるっこしい手段を用いた事からも、相手はこちらに犠牲者を出すことをよしとしていない。あの二人にしても、よもやシロとケイに、文字通り“とどめを刺す”ような真似はすまいと――予測は出来るが、もちろん保証などはないわけで。楓としては気が気ではない。
 しかし――タマモはそうではないようだ。楓は少しの躊躇の後で、彼女に問う。

「それは――信頼、と言う奴ですか?」
「そんな大層なモンじゃないわ。ただ、こんな馬鹿正直というか単純明快というか――その程度の戦いで泣き言言ってるようじゃ、ウチの業界じゃやってけない。あの二人はいろんな意味で甘ちゃんだけど、そこまで“弱い”奴じゃないわ」

 つまり――と、タマモは続ける。

「“真正面から殴り合える程度の相手”に、ゴースト・スイーパーは絶対に負けられないのよ」
「……よく、わからないでござる……」
「その辺のことは後で馬鹿猫にでも聞きなさい。それより――どうにも嫌な感じよね」

 小太郎と月詠が、敵の差し向けた足止めである――とは、先に述べたとおりである。現在二人は、シロ、ケイと激しい戦闘を繰り広げてはいるが――タマモと楓は、その脇を簡単に抜けることが出来た。
 ある程度の妨害は承知の上で、それを強行突破する構えであったタマモとしては、嫌な予感がわき上がるのを隠せない。何故、彼らはこちらの邪魔をしてこないのだろうか? 単純に手が回らないと言う理由だけではあるまい――

「……あの白髪のガキか――それとも、他に隠し球があるって――わぢゃっ!?」
「ひいっ!? せ、千道殿――!?」

 その瞬間、彼女の姿が、青白い炎によって飲み込まれた。










作中にて、原作より「容姿」が少々変わっている二人。
宮崎のどかと、犬上小太郎

自分でイメージを確認するために、絵に起こしてみました。
時間がなかったのでラフスケッチですが、
イメージを掴む一助になれば幸いです。

宮崎のどか
http://437.mitemin.net/i6800/

一応最低限の特徴は残しましたが、
髪型一つでこうも変わるものか。もはや別人(笑)
「鬱陶しい前髪の内気な少女」というイメージが原初にあったので、
とりあえずその大前提を変えてみました。

続いて

犬上小太郎
http://437.mitemin.net/i6801/

原作よりも少し年上に設定しています。
大体年齢は13~14歳。
しかしその年頃の少年の平均よりも、少し小柄という設定です。
どうも屈強な彼というのは想像が付かない。
ケイと同年代と言うのも考えましたが、
やはり彼はネギのライバルであって欲しい。
その辺りの妥協です。

しかしもう少し絵も上手くなりたいものだ……
勉強いたします。



[7033] 三年A組のポートレート・僕らはなぜ牙を持つ
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/05/21 02:01
 人体が丸ごと炎に包まれる――などという惨状は、引火性の高い燃料を取り扱う場面でもなければそうそう起こる事ではない。しかし、ひとたび起こってしまえば、それが取り返しの付かない結果を招くことは、誰の目にも明らかである。
 人間が火だるまになった場合、その火は消えにくい。人間の直立した姿勢は、火が燃え上がるのを助ける上に、大概の場合、人は燃えやすい“衣服”を身につけている。とりわけ石油由来の繊維は燃えやすく、ひとたび火がつくと激しく燃え上がる。
 そうこうしているうちに炎に包まれた体表は取り返しの付かない火傷を負い、炎が周囲の酸素を奪って酸欠となり、苦し紛れに息を吸い込もうものならば、肺の奥までが焼かれてしまう。
 むろん、日常での事故ならば、そうなるまでには僅かであるが、時間の余裕がある。その間に水を掛けるなり、転がって火を消すなりする事は、パニックを起こさなければある程度は可能だろう。
 しかし、楓の目の前で起こった惨劇は違った。
 タマモを包んだ炎は、正確には“燃え上がった”のではない。まるでそこに突然現れたかのように、一瞬で彼女の上半身を包み込んだのだ。楓に出来たことは彼女の名前を呼ぶことだけ――それも、それは無意識のうちに喉の奥から絞り出された声だった。
 両脚から力が抜けそうになる。尻餅をつきそうになるのを堪えてようやく――楓は、ここが湖上に掛かる桟橋であることを思い出した。慌てて彼女は体勢を低くしてタマモの両脚を払い、腰の辺りを突き飛ばして彼女を湖面にたたき落とす。
 手応えはほとんど無かった。タマモの体からは、力が全く抜け落ちていたのだ。
 彼女は糸の切れた操り人形のような動きで桟橋から転落し、水柱を上げる。炎が湖水にかき消される耳障りな音と、激しく巻き上がった湯気と共に。
 彼女が炎に包まれた時間は僅かだったと、楓は思う。
 火傷も呼吸器系へのダメージも、運が良ければ致命傷とまではいかないだろう。
 しかし、保証があるわけではない。おまけに彼女を包み込んだ炎は、“ただの炎”とは違うのだ。

「千道殿――」
「おっと、それ以上動かない方が良い。君が火だるまになったら、今度は助けてくれる人間が居なくなる」

 突如響いた声に、楓はそちらの方に体ごと向き直る。
 白髪の少年――関西呪術協会本部に現れたあの少年が、そこには立っていた。湖面の上に、まるでそこがしっかりした大地であるかのように。

「この浮島の周囲は、彼女――君たちがこの事件の首謀者と睨む“天ヶ崎千草”の力によって包み込まれている。さながら、地獄を包み込む炎の壁のようにね。目に見えず、触れることも出来はしない。しかし、ひとたびそこをくぐり抜けようとすれば、ご覧の有様だ」

 少年は湖面の上を歩きながら、未だ白く煙を上げる、タマモが転落した湖面に目を遣る。

「まったく、大した化け物だよ、あの女は」
「……己の雇い主に対して、大した言い方ではござらぬか」
「僕は彼女の指示に従っては居るが、彼女に雇われているわけではない。僕がそうしているのは、たまたま彼女と僕の目的が合致しているからに過ぎない。いわば僕と彼女は、共犯者なのさ」
「……共通の、目的?」
「ふん――悪いが、流石にそれを喋るわけにはいかないね。そのうちわかることではあろうが、少なくとも今はね。念のためこれだけの備えをしてあるとは言え、悪者というのはとかく、無駄な余裕を見せて自滅をするものだ」

 少年の自嘲的な笑みを、楓は睨み付ける。スカートの内側に隠し持っている“くない”と“手裏剣”のホルスターに手を遣り、全身を緊張させる。

「それが様式美だとわかっているならば、正義の味方に道を譲るべきでござるよ」
「現実とは非情なものだよ、ジャパニーズ・ニンジャのお嬢さん」
「覚えておくと良い。女の忍者は普通は“くの一”と呼ぶ」
「ほう。それはそれは――一つ勉強になったね」

 肩をすくめて言う少年に、楓は抜き放った武器を構える。元々敵と戦うことなどほとんど想定していない制服姿である。これら自衛程度の武器だけで、強力な魔法を操り、手練れの呪術者達すら翻弄した相手とどこまでやれるものだろうか。
 正直なところ、勝算は薄い。しかし、今この場には自分しか居ない。自分の身を守れるのも――タマモを助ける事が出来るのも。

「よしなよ。わかってるんだろう? それこそ悪役じみた陳腐な台詞は好みじゃないが、君の力量じゃ、僕には勝てない」
「……試してみるでござるか?」
「良いのかい? 君は僕には勝てない。しかし、この国の素人にしては大した力の持ち主らしいと言うことも知っている。さすがに僕も、そこまで難しい力の加減は出来ない。彼女からは無駄な殺人は避けろと言われているし、取り返しの付かない怪我をしたくなければ、素直に引き下がった方が良い」

 何――と、少年は湖面に映る月の上に立ち、大きく両手を広げてみせる。

「退くも勇気だ。それにこの場面で退いた君を、誰も責めはしない。不可能に挑戦するのは、筋書きの決まったギリシャ悲劇くらいで良い。結果が見えている事に挑むことを、人はすなわち蛮勇という」
「腹の立つご高説をどうも。しかし、拙者は退くつもりはない。お主に千道殿を助ける気がないのならばそこをどけ。殺人は避けろとのお達しなのでござろう?」
「命の遣り取りを避けて通るには、彼女は強すぎる。それに彼女たちはプロだ。敵と戦って命を落とすこともまた、覚悟の上だろう? 君たちとは立場も課せられた使命も違う。それに――」

 少年はつまらなそうに、徐々に静かになっていく湖面に視線を落とす。未だその波紋の中央からは、静かに湯気が立ち上り、タマモを包み込んだ熱量の膨大さを物語っている。しかし――

「正直なところ、僕はあの程度で彼女の息の根を止められるとは思えない」
「拙者も心底それを期待してはいる。が、それとこれとは話が別でござる。拙者は千道殿を助ける。木乃香殿もまた、助けてみせる」
「わからないな。何故そうも無駄な――そうだ、ならばこうしよう。言う必要は無いと思ってはいたが、一つ良いことを教えよう。僕らの目的が果たされたところで」

 少年の目線が、湖の中程に浮かぶ島へと向けられる。
 今は不可視の力で入ることが許されないと言う、その場所、楓達が目指すべきゴールへと。

「君たちが奪還を試みる近衛のお嬢様に、命の危険はない」
「その話を信じる根拠は?」

 しかし果たして、楓の問いに、少年は肩をすくめてみせる。

「今はないね」
「話にならない」
「そう判断するのは君の勝手だが、どうあっても退かないつもりかい?」
「くどい」
「……この場にやってきたと言うことは、少なくとも君は――あの役立たずの子供先生よりは幾分賢い人間だと思っていたんだがね」
「拙者がネギ坊主よりも賢いと? はっ……笑える冗談で御座るな。お主は拙者が普段、クラスで何と呼ばれておるか存じておるか?」

 楓は大きく息を吸い――そして、高らかに宣言する。

「麻帆良学園本校女子中等部、三年A組――“馬鹿ブルー”長瀬楓、推して参る!!」




「……あの馬鹿狐は本当にもう――泣けてきそうで御座る」
「まあ、そう言わんと。せやけど、千草さんもなんちゅう事をしなはるんや。あないなことしてあのお姉さんが死んでしもたら、勿体ないにも程があるわ」

 未だ湖岸でにらみ合いを続けるシロと月詠であるが、桟橋の上で繰り広げられる遣り取りは、彼女らからも見て取れた。シロは炎に包まれて湖に転落した“元相棒”の姿に、自分が真剣を構えた相手を前にしているにも関わらず、思わず額を抑えて天を仰ぐ。
 むろん、月詠はその隙を突くような真似はしない。それは彼女の望むところではないからだ。
 シロは力なく首を振り、そんな彼女に言う。

「お主がどうしてそれを勿体ないと思うのかはさておき――あの程度で息絶えているようでは、あの職場で生き残れるはずもない」
「……ウチが言うことや無いかも知れませんが、お姉さん達の職場っちゅうのは、一体どういうところなんですか?」
「素晴らしい場所である事に間違いはあるまいよ。されど、その内情となると――申し訳ないが拙者、口をつぐませて貰うで御座る。何となればその……命が惜しい故に」

 軽く身震いをするシロに首を傾げつつ、月詠は彼女に対して再び構える。二刀の小太刀を逆手に持ち、無駄の力の抜けた、美しい立ち姿。シロから見ても、彼女の技量の高さを十分に伺わせる構えである。
 対してシロは、刀を鞘に収めたまま、軽く腰を落とし、右手を刀の柄の前に軽く添える。

「ともかく、あの馬鹿がはい上がってこないところを見ると、まだ何かの罠があるやも知れぬ。長瀬殿の技量は相当なものであると思うが、それでもちと、裏の世界を知らぬ彼女には荷が重かろう」
「“居合い”の構えですか? 一撃でウチを斬り伏せて、あのお姉さんの所に向かおうっちゅう腹づもりですかいな? はあ……ウチもナメられたもんやな」
「馬鹿を言うでない。このご時世に、どんな理由があったとて、拙者“人殺し”になるつもりは御座らぬよ」

 月詠の眉が、小さく動く。その言葉は、彼女にとって意外なものであった。
 むろん、彼女が命の遣り取りを最高の快楽と捉えている事は、シロに理解されるとは思っていない。しかし彼女はゴースト・スイーパーであり、なおかつ“侍”である。進んでそれを望むわけがないとはいえ、それでも相手を切り伏せる覚悟くらいはしていると思っていた。

「……何や醒める物言いですな。悪いですけど、お姉さんの技量は知っとります。殺す気で来んかったら、ウチは倒せへんで」
「倒して欲しいので御座るか? 斬り殺されたいので御座るか? 馬鹿を言うでない」
「あかん。お姉さん、それはあかん。戦う人間なら、その覚悟は決めなあかんよ。お姉さんは遊びで戦っとるんちゃいますやろ? 戦いっちゅうのはそう言うもんや。怪我もするし、死ぬかも知れん。それに目をつぶったままウチの相手をする――いいえ、戦場に立つっちゅうんは、戦いを快楽と考え取るウチよりも最悪の行為です」
「ほう、己が楽しみたいが為に剣を握る、そんな悪趣味な人間には似合わぬ台詞では御座らぬか。そう言えば、エヴァンジェリン殿も似たような事を言っておられたな。ふむ、お主の言うことは道理で御座る。戦いとは、本来そう言うもの。その様な覚悟をせずに首を突っ込めば、どのような結果が訪れるかは知れたもの」

 しかし、と、シロは刀の鍔に左手の親指を掛ける。刀身を鞘から僅かに押し出し、鞘を持つ左手ごと、体の捻りを大きくする。一見、刀を抜き放つ動作を経る分、撃ち合いには不利と思しきこの体勢。しかしここから放たれる達人の抜刀は、まさに必殺の威力を秘めている事を、剣士である月詠は知っている。

「されど、敢えて言わせて貰う。“だが、断る”と。拙者は人を殺す覚悟など持たぬ。持ちたいとも思わぬ」
「……」
「拙者らゴースト・スイーパーの本分は、死者を導くこと。これが意外に骨の折れる仕事で御座ってな? 生憎と、自ら道に迷う死者を増やすような真似をしている暇など、拙者らには無いので御座るよ」
「左様ですか」

 月詠の小太刀を持つ手に、力が込められるのがわかった。
 彼女がシロの言葉を何と取ったのかはわからない。挑発か、それとも、己に対する侮辱か。

「左様で御座る。それと――血に濡れた手で、先生との子供を抱くわけにもいかぬで御座ろう? 誰が許すとも、他人の人生を奪った事実は、拙者を一生責めさいなむ。拙者の神経は、そこまで太くはない故に」
「その甘さが破滅を招く事もあると、理解しての言葉とは思えへんな?」

 月詠は瞳を閉じ――そして開く。
 そこに宿るのは、狂気の色。隠そうともしない剥き出しの殺気が見せる輝きは、まるで彼女の瞳の色が白黒反転しているような錯覚さえ感じさせる。

「……最初は腕の一本くらいで、その不便はウチが一生面倒見てあげようと思てましたけど。お姉さんが今のままウチと戦う言うんなら、それくらいじゃ済まへんで。まあ……最後の情けや。死なへん限りは、どんなになってもウチが責任取ったるわ」
「お主のような奴に傷物にされるほど、拙者の体は安くはない。お主の方こそ、きちんと“止める”で御座るよ? 最初の一撃はお主の顔を立てて、真正面から全力で行く」
「はん。何度も言わせんといてえな。昼間のアレで、お姉さんの力量はわかっとる。心配は要りませんえ」
「結構。では――横島忠夫先生が一番弟子、犬塚シロ――いざ!!」

 シロの姿が、かき消える。彼女の体に流れる、人ならざるものの血を最大限に発揮した、高速の突進。けれど、極限まで研ぎ澄まされた月詠の感覚は、水飴のように重く感じる空気の中で、自分に向かってくる彼女の姿をしっかりと捉える。
 そこから裂帛の踏み込み、そして刀を鞘に走らせ、一息に抜き放つ――問題はない。彼女は馬鹿正直に真正面から来ると言い、そしてその言葉に嘘はない。どれだけ強力な一撃だろうが、それを見切っていればどうと言うことはない。
 右手に持つ小太刀で彼女の攻撃を受け流し、そして――月詠は、小太刀の柄を握る手に力を込める。
 もはや、遠慮は要らない。強力な威力を持った一撃が外された後、致命的な隙を見せる彼女に浴びせる左の一撃は、無慈悲に彼女の柔肌を切り裂くだろう。“綺麗に”決まれば、シロの上半身は袈裟懸けに真っ二つにされてしまうかも知れない。
 だが――構うものか。せめて骸となった彼女に、自らの愛を囁こう。月詠は、シロの返り血と臓物にまみれたまま、彼女を抱きしめる自分を幻視する。
 狂気に染まる瞳を通して、振り抜かれるシロの刀に己の小太刀を合わせ――

「――ッ!?」

 その刹那、彼女の視界に、月が映る。
 何が起こったのかもわからないまま、彼女の体は宙を舞い、湖水の中にたたき落とされた。




 宵闇に、緑色の燐光が帯を引く。熱を伴わない、冷たさすら感じる光、しかしその色は不思議と、誰の目にも優しい。
 けれど、虚空に複雑なラインを描くその光の帯は、想像を絶する威力を秘めた力の奔流。
 小太郎は、もう何度目かもわからないその迫り来る光を、身をよじるようにしてかわす。すぐ横の湖面が、まるで爆発したようにしぶきを上げ、彼は煽られそうになる体を、必死で踏ん張ってどうにか保つ。
 しかし、“踏ん張る”とは言っても、そこは湖の上である。現在彼らが戦っている場所は、膝丈ほどの深さではあるが、それでも常人ならまともに動くことすら敵うまい、
 彼は戦士としての天性のセンスと、人並み外れた膂力で、どうにか戦闘に耐えるだけの動きをしているが、正直なところ、ケイの攻撃を避けるだけで精一杯である。

(あかん――この状態じゃ、向こうの攻撃は捌ききれへん!)

 小太郎は転がるようにして、続けざまに襲い来る燐光を避ける。彼が相対するその光の主は、しかし果たして、ここがそんな場所ではないかのように、熾烈な連撃を放ってくる。
 それもそのはず――小太郎は濡れて肌に張り付く衣服の気持ち悪さも忘れて舌打ちする。

(この兄ちゃん――フザケんなや、水の上を走りよる!)

 そう、ケイは、湖水の上を自在に走り回っている。彼の両脚を包む緑色の燐光――彼の霊能力がそれを可能にしているのだろう事は、想像に難くない。あれはてっきり、攻撃力を底上げするだけの能力だと思っていたが、何という器用さだろうか。小太郎も裏の世界の傭兵としては、この年にして実力者と呼べる位置にいる。足に“氣”を集めて水面を“蹴る”くらいの事は出来るだろうが、ああまで微妙な力のコントロールなど、出来よう筈もない。
 それも、このような乱戦の最中に於いて、である。
 しかし泣き言を言っても始まらない。相手に力が及ばないことを憤慨するのは、それこそ理不尽な怒りである。傭兵、いや、戦士として、あってはならないことだ。
 相手のあまりの“反則”振りに、頭に血が上りかけた小太郎ではあったが、冷静さを取り戻すと、今度は一つの疑問が首をもたげてくる。
 彼は今度は、ケイの一撃をかわした余波に“耐えず”に、自らその勢いに乗るようにして、彼と距離を取った。

「兄ちゃん、今まで手ぇ抜いとったんか?」
「……僕が相手を見て手加減が出来るほど器用な人間に見える?」

 小太郎の言葉に、ケイは油断無く構えたまま応える。その両脚は湖水に浸かっている。当然であるが、ただ水の上に立ち続ける事が出来るほど、さすがにその能力は器用ではないようだった。

「正直見えへん。せやけど、兄ちゃん、シネマ村の時とはまるで違うやんか。あの時三味線引いとったちゅうのが、一番妥当な理屈やと思わんか?」
「あの時は――単に僕が、君に力負けしたってだけじゃないか。こういう言い方をしたら何だけど、力が及ばない相手と戦う方法なんて、いくらでもある」
「何やその“こういう言い方は何だ”っちゅうのは」
「……中二病臭い」
「……確かになあ」

 小太郎は苦笑し――しかし、その僅かな時間で呼吸を整えた彼は、膝に手を突いて上体を起こす。

「せやけど、言うべき人間が言うんやったら、何にも問題あらへんわ。さすがに、世界を滅ぼせる魔神を倒した連中の言う事や。重みがあるわ。俺は正直、真っ正面からぶつかって相手をぶちのめす――みたいな事が一番好きやからな」

 もちろん、それで全ての戦いを切り抜けられる筈もない。それは小太郎もわかっている。自分の実力は、傭兵として及第点を付けられる位置に居るのかも知れないが、彼よりも強い人間くらい、世の中にはいくらでもいるだろう。
 だからそんな相手とまで、真正面から全力でぶつかって勝てるとは思わない。思わないが、自分と彼らでは戦いそのものに対するスタンスが違うということはわかる。
 だとすれば――彼のそれは、単なる“戦い方”の現れだろうか?
 今の自分がケイのインフィールドに居るとして、果たしてここまで劇的な変化が現れるものだろうか? 廃寺やシネマ村で対峙したときの彼は、小太郎にとって圧倒できるとは言わないまでも、正面から戦って勝てない相手では無かった筈だ。

「魔神を倒した――か」
「せや。兄ちゃんも、その関係者やろ? 魔神起こしたオカルトテロが解決したとき、その中心におったのは、美神令子除霊事務所の人間やて――ワイドショーでも騒がれとった事や。世界屈指のゴースト・スイーパー美神令子、そして単身魔神の陣営に乗り込んだ、“謎の少年”っちゅうて」
「……」

 ケイの沈黙の意味は、小太郎にはわからない。
 ややあって、彼は言った。

「小太郎君。僕は正直、君が悪者であるようには思えない。こんな事を言えば、君は傭兵はお金で動くものだって、そう言うのかも知れないけれど」
「わかっとるんやったら最初から聞くなや。せや。俺らは金貰って働いとるんや。兄ちゃんらと同じやで? 兄ちゃんが火付きの悪い人間やっちゅうことはようわかったが、せやかて、嫌がって逃げ出す訳にもいかんやろ。それは何でや? 単純や。それが仕事やからや」

 もちろん、それが仕事だからと言えば何でもするというわけではない。しかし最終的にそれを判断するのはケイ自身であり、そして彼はここにいる。

「……君が本当にそう思っているようには見えないから言って居るんだ。この際だから、君とは腹を割って話したい」
「なあ、兄ちゃん。自分、頭大丈夫か? 俺は兄ちゃんらの敵やで?」

 小太郎は呆れたような顔をするが、ケイの表情は変わらない。
 ――どうやら本当に、彼はシネマ村で対峙したときの彼とは何かが違うらしい。ならば、無理に虚勢を張って馬鹿を見るよりは、相手の言うことに乗って出方を見た方が良いのかも知れない。

「……まあ、ええわ。ほんなら俺が偽悪者やったとして、兄ちゃんは何が言いたいんや? 悪いけど、あのちっこい嬢ちゃんが言うとったように、仕事を投げ出してそっちに付く気はあらへんで?」
「君はどうしてそうまでして戦うんだ?」
「は――それに応えろっちゅうんか? それこそ中学生がノートに書いた小説にありそうな問いかけやないか。アホらしゅうもない。“いつかあの男を倒すためだ”とか、“滅びた一族の復興のためだ!”とかとでも言えば、兄ちゃんは満足か?」
「僕は最初、君があの娘みたいな――まあ、ウチの身内にもそう言うのが居るからあんまり大きな声では言えないけど、戦うことが三度の飯よりも大好き、みたいな奴かと思ってた」
「その認識は間違いやない。何や、そっちのお仲間にもそう言うのがおるんか? 一度やりあってみとうなる話やないか」
「連絡はしとくよ。救いようのないマザコンの上に、泣けてくるくらいに奥さんの尻に敷かれてて、結果スーパーの特売日には目が無くて、自転車の後ろに子供乗っけて幼稚園に送ってるような人だけど、いい?」

 小太郎は思わず、変なものを飲み込んだような表情になる。

「……いや、まあ、その事実はともかくとして――兄ちゃん、その“誰か”と、仲悪いんか?」
「別に――横島にーちゃんが体を壊してからは、“俺のライバルの跡を継ぐもの”なんてはた迷惑な対抗心が僕に集中してることなんて、全然、これっぽっちも気にしてないよ」
「俺にどうコメントせえっちゅうんや」
「いや、別にその人の事は今は良いよ。ただね、君らは木乃香ちゃんを誘拐して、何か危険な悪巧みをしてる。君が単に“傭兵”だって言うなら、どうしてそんな汚れ仕事に首を突っ込んだ? 傭兵がクリーンな仕事だとは言わないけれど、お金で結ばれる契約には信頼関係が必要だ。こんな契約をただお金や戦いたいという欲求のためにしているなら、君は傭兵になんて向いてない」

 ケイの言うことは正論である。傭兵ではないが、ゴースト・スイーパーもまた、金銭契約によって依頼を遂行する職業であるから、当然と言えば当然だろう。彼の言うとおり、傭兵は高潔な仕事であるとは言わない。しかし“汚れ仕事”ばかりを引き受けていては、そのうち信用をなくすのも事実である。依頼がなければ、傭兵は生きてはいけない。結局そう言った仕事を続けられるのは、兵隊よりももっと深い闇の中にその身を置く人間だけである。

「……まあ、兄ちゃんが意外と物事を考えられるっちゅう事はようわかった。せやけど、その話が確かで、俺が腹ン中に何ぞ抱えとったとしても、それが兄ちゃんに何か関係はあるんかい? 悪いが俺は、話し合いで全てを丸く収める、なんて気はあらへんで?」
「別に――」

 ケイの両腕にまとわりつく燐光が、輝きを増したように、小太郎には感じられた。

「このまま君を“悪者”として倒すのは、何となく寝覚めが悪いから」
「――ははっ! 何や、大した余裕やな! もう勝ったつもりでおるんかい!」

 その笑いは、腹の底から湧いて出た。不思議とケイのこちらを舐めきったような言い分に、小太郎は腹が立たなかった。

「……せやな、ガラにもないけど、たまにはこういう余興もええか――もったいぶったようで悪いが、俺も千草姉ちゃんが何をしようとしとるんかは知らん。せやけど、“何のため”にそれをしようとしとるんか――その部分だけは、少しだけなら教えて貰うとる」
「それを聞いても構わない?」
「何を今更――そいつはな、兄ちゃん。自分の存在証明、言う奴や。わかるか? レゾンデートル、言うたかな」
「全く一から十まで、中二病こじらせた人が好きなそうな話じゃないか」
「違いないわな。せやけど、兄ちゃんにかてわかるはずやで? 兄ちゃんも俺と同じで、純粋な人間やないやろ?」

 ケイの動きが、一瞬だけ止まる。

「それが悪いわけやない。言うた筈や。俺は俺が狼男やろうが“ぬらりひょん”やろうが、別にどういう事はあらへんわ。“犬上”っちゅう裏の仕事を生業にしとる家に生まれたかて――まわりから何を言われようともそれは変わらへん。せやけど、俺は俺や。俺が“犬上”やから、こんな生き方を選んだんやない。俺が、俺やから選んだんや。そこの所だけは、勘違いされたない。勘違いされても仕方ないからこそ、勘違いされたないんや」
「君は、それを証明したいから傭兵をやってるって?」

 事は、そんなに簡単に言い表せるものではない。小太郎の言葉を理解しようとしても、恐らくそれは、正確にはケイには伝わらないだろう。
 しかし、その時、彼の脳裏に、幼い頃に見た一つの光景が浮かぶ。それは彼の原風景の一つ。“藪守ケイ”が、今この場に立っている、その始まりの光景。
 あの時の自分からは、見上げるほど背の高い一人の青年が、みっともなく泣き喚きながら、それでも自分たちの前から動こうとはしなかった。震えるその背中が、とても大きく、そして強く見えたことを、ケイは覚えている。

「それじゃあ天ヶ崎千草の目的というのは? 彼女は木乃香ちゃんを誘拐することで、何かを証明したいって言うの? わからない。それがどうして、伝説の化け物を蘇らせる事に繋がるのか」
「さあな。せやけど、“自己満足”や――言うて、千草の姉ちゃんは言うとったで。その物言いが何や気に入ったから、俺は“汚れ仕事”を受ける事にしたんやが――これで満足かいな、ノッポの兄ちゃん」
「……僕の名前は、藪守ケイだ」
「さよか、ほんなら“ケイ”兄ちゃん――聞くことを聞いて満足したかいな? ほんなら次は、自分の腹ン中、この目で確かめさせて貰うわ」

 小太郎は顔の前で腕を組む。防御ではない。何やら得体の知れない気配に、ケイはうかつに近寄れない。
 彼の足下の湖面が、動いても居ないのにさざ波を立てる。それは次第に大きな動きとなり、刹那、彼の姿を覆い隠すように、激しい水煙が噴き上がった。




「呪文始動(ヴィシュ・タル・リ・シュタル・ヴァンゲイド)
障壁突破・石の槍(ト・ティコス・ディエルクサストー・ドリュ・ペトラス)」
「くぅ……!」

 湖水の上に立つ少年が祝詞を呟けば、それだけで湖面を割って、鋭い石の槍が四方八方から襲い来る。この槍は湖底から伸びているのだろうか。この辺りの水深は、湖の規模からしてもそう浅くないはずであるが。
 ともかく、桟橋の上という限られた空間で、自分に向かって襲い来るこの変幻自在の攻撃に、楓は苦戦を強いられていた。
 彼女が修める“忍術”は、ただの忍者のそれとは幾分違う。ケイとの組み手で本物の“分身の術”を披露してみたところからもわかるとおり、一種のオカルト技術を組み込んだ戦闘術――それが、彼女の故郷に伝わる“古武術”であった。魔法でもなく、霊能力と言い切れるものでもない。かつて歴史の闇に生きたという、彼女らの祖先が編み出した、正真正銘の“忍法”である。
 しかしそれを駆使しても、目の前の少年には有効な手だてが打てない。
 手持ちの武器では、遠距離から石の槍を撃つ少年を捕らえるには、射程も威力も足りない。そして彼女が正真正銘の忍術使いだからといって、“何でも出来る”というわけではない。漫画や映画で活躍する“ニンジャ”のように、その身一つで炎を吐いたり敵を吹き飛ばしたりと、そう言うことが出来るわけではないのだ。
 石の槍が、彼女の肌を浅く切り裂く。
 彼女の身に纏う制服はあちらこちらが切り裂かれ、薄く血が滲んでいる。かすり傷程度のものではあるが――楓は撃ち込まれる攻撃を避けて、大きく後方に跳んだ。呼吸が苦しく、全身から汗が噴き出しているのがわかる。
 その消耗も無理はない。彼女はいままで、圧倒的な戦力差を持つ敵と戦った事がないし、戦う術も知らない。
 そもそもが忍者というものは、文字通り忍ぶ者なのだ。忍者にとって戦いは極力避けるべきものであり、正面から敵とぶつかり合うなどと言うことは愚の骨頂。そう言う意味で言えば、強敵と戦って己の研鑽をすることを楽しみとする楓は、いつも彼女が言うとおり「忍者ではない」のかも知れない。厳密には。

(これは――まずい)

 楓は内心で舌打ちをする。
 あの少年は“石化の魔法”を操る強敵である、と言うことは知っていた。
 しかし、注意していればその魔法は、それほど恐れるようなものではないと、そう言ったのはエヴァンジェリンである。
 石化の魔法を使って相手を石化させるには、発動した魔法を相手に“当てる”必要がある。逆に言えば、それに当たりさえしなければ問題はないのだ。
 そして楓の身体能力を持ってすれば、それは難しいことではない。あの気味の悪い燐光にしても、来るとわかっていれば避ける事も可能だろうと、エヴァンジェリンは言った。もしも石化の魔法が不可避のものであるならば、今頃魔法使いの世界は、“石化の魔法を使う魔法使い”によって席巻されている筈だ、と。
 その言葉で、少年を甘く見ていた。
 彼は石化の魔法を操る魔法使いだが、それ以上に“強い”魔法使いであった。少なくとも、今の楓では到底太刀打ち出来ないほどの。
 桟橋を後退した彼女に対して、少年は追い打ちを仕掛けない。それは彼の余裕なのだろうか?

「先ほどまでの威勢は何処へ行ったのかい?」
「威勢の善し悪しで勝負が決まるなら、時代劇で最後に笑うのは悪代官でござるよ」
「……その喩えはよくわからないが、失礼なことを言ったのは詫びるとしよう。しかし、もはや君に手だてはない。君の仲間が助けに来るのを待つにしても今暫く掛かる。僕に課せられた仕事は、これで果たした」
「ふん――日本には、“勝って兜の緒を締めよ”ということわざがござって――なっ!」

 楓は気合いと共に、隠し持っていた棒手裏剣を投擲する。しかし、直撃すれば致命傷をもたらすほどの威力が込められたそれは、少年の寸前で、何か見えない壁のようなものに弾かれて、力なく湖に落下する。
 魔法で作られた障壁――そのあまりの堅牢さに、彼女は舌打ちする。なんと厄介で、なんと強力な技術なのだろうか、魔法というものは! 自分の扱う古流忍術や霊能力も大概ではあるが、まるで人間を相手にしているという気がしない。
 そう、それはまるで、人のカタチをした兵器を目の前に置かれた気分である。

「十万馬力のロボット少年というのは、こういう感じでござろうか」
「日本の名作漫画だね。知っているよ。ただ、さすがに僕はあそこまで非常識な人間ではないが」
「似たようなものでござる」
「だから言ったじゃないか。君では僕は倒せない。せいぜい、取り返しの付かない怪我を負わないうちに――」

 少年は、楓に情けを掛けるような事を言いかけ、ふと、口元を手で押さえる。
 何かを考えるようなその仕草は、まるで楓が目の前に居ることすら忘れているようにも見える。しかしそれは油断ではない。そうできるだけの余裕が、彼にはある。

「……今の君は、僕よりも弱い」
「それがどうした」
「挑発しているわけではない。ただの、純粋な疑問だ。今の君は僕よりも弱く、僕は君よりも強い。しかし、僕がかなわない相手というのも世の中にはまた存在する。いや、仮に僕がこの世の誰よりも強い力を手に入れたとしても、結局僕一人では、世界を相手にすることは出来ないだろう」
「世界征服がしたいとでも申す気か? 正気の沙汰とは思えぬな」

 いっそ、少年が世界を征服して理想の世の中を作ってくれるというのなら、ともすれば今の世の中よりマシな世界が出来上がるかも知れない。しかし当然ながら、そのような事は“無理”なのだ。
 彼が神様――宗教上の概念や、それが具象化した存在ではなく、本当に絶対の神様のようなものがいたとして――だったとしても、そんなことが出来るかどうかはわからない。世界を相手にするとは、そう言うことなのだ。

「ならば、僕は何をしても無駄なのだろうか? 君が僕に対して無力であるように、僕は世界に対して無力なのだろうか? そんなはずはない。僕が何もしなければ何も変わらない。しかし、僕が動けば変わるものはあるんだ」
「……わかっているならそれで結構ではないか。拙者とて、それがわかっているから、力及ばずともお主に立ち向かう。天ヶ崎千草に、立ち向かう」
「現実は残酷だ」
「……お主は自分で自分の首を絞めているのでござるか?」

 少年は首を横に振り、楓に向き直る。先ほどの口ぶりから、彼は世の中に対して“何かをしたい”と思っているのだろう。しかし彼が楓に言ったことは、そのまま自身にも当てはめられる。彼が先にそう言った通りに。

「僕と君の戦いが、世界の縮図か。不愉快だ。僕は君とは違う」
「自分が言った事でござろう――が、そうとも。お主と拙者は違う。拙者はどうあっても、彼女らを助け出す。お主はそこで、よくわからぬ無力感にうちひしがれているが良い」
「――不愉快だ」

 少年が、大きく腕を振る。湖面を割り、桟橋を突き破って、鋭い石の槍が楓を襲う。
 彼女はそれを後退ってかわすが、知らないうちに疲労が足に来ていたのだろうか。桟橋の板に躓いた――と思った瞬間に、彼女はバランスを崩す。目の前には、石の槍の、無機質で無骨な切っ先が一杯に広がり――彼女は思わず。目を閉じた。
 閉じてはいけないと自分に言い聞かせる間は無かった。そのまま石の槍は、彼女の胸元を――

「風花・風障壁(フランス・バリエース・アエリアーリス)!!」

 突如として巻き起こった猛烈な風が、まるで意思を持ったように楓を包み込む。その恐ろしいほどに圧縮された空気の壁は、硬質な石の槍の一撃すらも受け止める。
 いや、むしろ巨大なあぎとを開いた獣のように、彼女を包み込んだ一陣の風は、石の槍の周囲に一瞬で流れ――それを“かみ砕いた”。

「――ッ……呪文始動(ヴィシュ・タル・リ・シュタル・ヴァンゲイド)――」
「呪文始動(ラス・テル・マ・スキル・マギステル)!!
光の精霊十一柱(ウンデキム・スピリートゥス・ルーキス)
集い来たりて敵を射て(コエウンテース・サギテント・イニミクム)
魔法の射手(サギタ・マギカ)!!」

 咄嗟の逡巡すら、彼には許されなかった。
 迷い気味に紡がれた呪文は、果たして完成を見ることなく、絶叫じみた声と共に放たれた光の矢が、少年に向けて殺到する。
 やむなく彼は詠唱中の呪文を破棄し、身を守るべく身構える。
 まばゆい光を放つ光の矢は、彼を貫く寸前で、先ほどの楓が放った手裏剣と同様、見えない“壁”に阻まれ――

「燃え尽きろこの木偶人形が――ッ!!」

 青白い光を放つ炎の柱が、“光の矢”ごと、少年の体を一息に飲み込んだ。



[7033] 三年A組のポートレート・白き翼
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/06/21 10:35
 さあ、行こう。いい加減足を止め続けるにも疲れたところだ。恐怖に身をすくめ続けるにも疲れたところだ。
 失うものはない、などと言うつもりはない。
 むしろ失うものがあるからこそ、前に進まなければならない。失うものがないのならば、前に進む必要が無い。
 追いつめられたと感じたその時、自分にはまだ失いたくないものがあって、なおかつ前に進むだけの道は残されていた。
 どうして。
 どうしてこんなにも簡単な事に、今まで気づかなかったのか。
 今の自分には、まだこんなにも余裕があると言うことに。




「ちっ……薄々感づいてはいたけど、やっぱりあれは分身か」

 湖面から顔を出して大きく息を吐き、タマモは顔をしかめた。見上げる夜空の中で、彼女の力で炎に包み込んだ少年の体が、炎と共に跡形もなく消えていくところだった。そう、関西呪術協会本部に現れた、あの分身と同じように。
 分身などと簡単に言うが、何とも便利で出鱈目な能力であると、彼女は思う。
 もっとも、あの偽りの体を操っていたのが、かの少年本人であるならば、それを操る“ライン”を通して、相応のダメージを受けたはずである。それくらいの力を、タマモは先の炎に込めたつもりではあった。

「ゴキブリ以上、横島未満かしら。今のところは――厄介ね」

 しかしあくまで分身は分身。本体に致命的なダメージを与えるには至っていないだろう。それこそ、際限なく湧いてくる家庭内害虫の様な、どこまでも嫌なしぶとさを持つ相手である。

「千道さん!」

 桟橋の上から、心配そうに楓が声を掛ける。タマモは片手を上げてそれに応える。

「大丈夫よ、こっちにダメージは無いわ。不意を突かれたせいで酸欠になって、ちょっと意識が飛んじゃっただけよ。で、ホントに悪いんだけど、あんたの上着貸してくれない?」

 彼女本人は何でもないような顔をしているから平気なのだろうが、彼女が着ていた服にまで、持ち主と同等のタフネスを期待することは出来ないだろう。ましてや今の彼女が着ていたのは、関西呪術協会に用意して貰った出来合いのスーツである。
 楓は慌ててブレザーを脱ぐと、下着を残して半裸になってしまったタマモに渡してやる。幸い、上背のある楓のブレザーは、今のタマモには少々サイズが大きかったので、彼女は太ももの半ばまで肌を隠すことが出来たが――

「漫画やアニメじゃあ、どんなに激しく戦っても下半身の衣類は無事だと言う法則を知らないのかしら」
「それはそういう事態になると話の趣旨が変わってしまうからと言うか何というか……」
「いや、まともに応えてくれなくて良いわよ。単なる現実逃避だから――って、酷くやられたわね。大丈夫?」
「え? あ、ああ、見た目より傷は浅いですから、平気です」

 タマモの言葉に、楓は慌てて両手を振った。彼女がブレザーの下に着ていた白いブラウスは、そのあちらこちらが彼女の血で赤く染められている。一見して重傷といえる傷は見あたらないが、非情に痛々しい。

「私よりも千道さんの方が――あんな炎に巻かれたんだから、火傷とか」
「ん? ああ――言ったでしょ? 酸欠で意識が飛んじゃっただけで、別に怪我はないわ。私も炎を扱う“霊能力者”だし、それよりなによりこの炎は――」

 タマモは何かを言いかけたが、そこで一旦言葉を切り、その瞳を細めてみせる。彼女が一体何を考えているのか、それを楓はうかがい知ることは出来ない。ややあって、彼女は大きく息を吐き、楓に向き直った。

「ごめんなさい。あなたには迷惑を掛け通しね。この件が終わったら、必ず何か埋め合わせをするわ」
「い、いえ、拙者はまだ未熟者故、迷惑などと……」
「気にしないで。私もこのままじゃ、いろんな意味で気が済まないだけよ。っつってもお金とかモノとかあんた受け取りそうにないし――ねえ、私、あんたの愛しの馬鹿猫の弱みとか色々知ってんだけど――興味ない?」
「――……い、いえ、それは、ケイ殿に悪いから」
「今間があった?」
「いや、違っ……!」

 思わず、その長い両手を振り回しながら否定する楓に、タマモは声を上げて笑う。
 笑いながら、あまりやる気のない調子で楓を宥めてから、彼女は空を仰ぐ。

「さて……連中にも借りを作っちゃったかしら」

 言われて楓も、空を見る。そう言えば、タマモの炎があの少年を焼き払う寸前、楓を少年の魔法から守ったのは、何だったのだろうか? タマモの様子からすると、あれは彼女がやってくれたのではないのだろう。
 楓は思わず目を閉じてしまったあの瞬間に、異国の言葉のような、理解不能の絶叫を聞いた気がする。我に返ってみれば、あの叫び声は何処かで聞き覚えがあるような――
 そんなことをぼんやりと考えながら、空に掛かる満月に目を遣った時。何かが一瞬、その月の光を遮った。柔らかな月光の中に、黒く沈んで見えたそれは、しかし純白の大きな翼であった。
 鳥だろうか、と、楓は思った。
 果たしてそれが“鳥”ではないと言うことは、彼女自身気がついていた。けれど、彼女は自分の目が捉えたそれを、見たままのものとして信じることが到底出来なかった。
 それは、彼女のせいではないだろう。彼女でなくとも、自分の目を信じられなくなるだろう。
 背中から大きな翼を生やしたクラスメイトが、担任教師を抱えて悠々と空を舞っていた――そんな非常識と言うにも馬鹿馬鹿しい光景を、前にしては。




「――……ケイ……兄ちゃん――いくら何でも、そら、あり得へんやろが……」
「いや、でも君、明らかに普通じゃなかったし――つい」
「ヒーローの、名乗りと、変身は、邪魔せんのがお約束やろ……」
「や、僕、悪の組織の戦闘員じゃないし」
「なら、百歩譲って隙だらけやった俺が悪いとしてもやな……俺は男として、兄ちゃんを絶対に許さへん……」
「……正直すいませんでした」

 一方、湖岸近くでは、小太郎が蒼白な顔でうずくまり、何故かケイが引きつったような顔で、その腰の辺りを撫でてやっていた。彼らの周囲では、まき散らされた“力”によって湖水が蒸発し、巻き上げられた湯気がかなり残っている。
 しかし、その中央にいる二人は、その大仰な光景に似合わぬ様子であった。

「……一体何をやっておるのか」

 唐突に掛けられた声に、ケイは振り返る。見れば、気を失っているのだろう、ぐったりとした月詠を背負ったシロが、妙な物を見る眼差しでこちらを見下ろしつつ、すぐ側に立っていた。

「あ、シロさん――勝ったんだ。良かった」
「割合際どいところでは御座ったが――それでケイ殿の方は、その……これは“勝った”と言っても良いので御座ろうか?」
「み、美神さんなら、多分胸張ってそう言ってくれると思う」

 焦ったようにそう言うケイに、シロは苦笑する。確かに自分の元上司、日本一のゴースト・スイーパーとして名高い美神令子その人ならば、果たして確実にそう言うだろう。どういう手段を使ったとしても、最後に立っていたのが勝利者だと、そう言うだろう。

「雪女に液体窒素をぶちまける人間の言うことで御座るからなあ……」
「う」

 そしてケイの言葉を認めるならば、すなわち彼は同類と言うことになる。彼の言うところの、勝利のためには手段を選ばない――それを地でいく彼の上司と。

「シロさん……僕、汚されちゃったのかな?」
「オノレは、何を、被害者ヅラして、言うとんねや……」

 がっくりとうなだれたケイに、うずくまったままの小太郎が、虫くらいなら殺せそうな視線をぶつけてくる。シロはその遣り取りで、何となく彼らの戦いがどういう方向で終結したのかを察することが出来たが――それは言わない方が良いのだろう。主に、目の前の少年の精神衛生のためには。
 そしてその想像は、事実から遠くない場所にある。
 小太郎の異変を察知したケイは、反射的に動いて“しまった”のだ。普通ならば、小太郎からはき出される膨大な力の奔流を感じ取った時点で、そのまま彼に吶喊するには二の足を踏むだろう。
だが結局の所、藪守ケイという青年もまた、美神事務所の職員であることに代わりはなかったのだ。そう――“普通”などという言葉からは、最も縁遠い場所にあると方々で囁かれる、その場所の一員であることには。
 結果、頭で考えるより先に動いた体から繰り出された一撃は、小太郎の“急所”を正確に穿った。果たしてつまり、小太郎は――見た目にそぐわない力を持った少年は、一歩も動けないほどに苦しんでいるのであって。

「……」

 深く考え込むと“ドツボ”に填りそうな気がして、シロは一つ、咳払いをした。心なしか、その頬は僅かに赤く染まっている。

「ともかく、これで拙者らは第一関門を突破した――と判断しても宜しかろうか?」
「……それは俺に聞いとんのか」

 ようやくいくらかは動けるようになってきたらしい小太郎が、しかし湖水の中に尻餅をつくような格好のまま、シロに言う。言われて彼女は、その血の気の引いた顔を出来るだけ視界に入れないように――ついでに必死に目線を逸らしているケイを睨み付け、小さく頷いた。

「敵の寝首を掻くのは俺の流儀やない。負けは負けや――言うよりも、こんなアホらしい負け方したなんぞ、自分自身に腹が立つわ。これ以上恥の上塗りはしたない」

 ふてくされたように小太郎は言うが、彼の言うことは嘘ではないだろう。このような場面での戦いに、ルールなど最初から存在しない。理由や状況など関係なく、戦っている最中に隙を見せた自分が悪いことを、彼は理解している。

「結構な事で御座る。ではついでに、一つ問うても宜しかろうか」
「何やねん」
「お主にせよ、この娘にせよ――頭のネジが一つ二つ抜け落ちてはおるが、“悪者”という感じでは御座らぬ。ましてやただ金銭や、己の欲望の為に戦いに身を投じるとも思えぬ」
「今更持ち上げても何も出ぇへんで」

 シロの言葉に、小太郎は、歪んだ笑みを浮かべてみせる。それは単純に、苦痛から来るものではないだろう。

「されど、果たしてお主らのしている事は、ただの“悪事”と唾棄されるべき行為。お主らや天ヶ崎千草がそうまでして目指す目的と言うモノが、ことここに至って尚、まるで見えて来ない」
「ふん、らしくない言い方やないか、お侍の姉ちゃん。俺がここでお涙頂戴でもやったら、姉ちゃんは千草の姉ちゃんを見逃してくれるんか? アホ言うたらあかんで。そんな余計なこと考えとる余裕が、姉ちゃんらにあるんか?」
「……左様で御座るな。では、ケイ殿」
「え? あ、な、何?」

 先ほどの遣り取りを聞いていたのかいないのか。あてどなく視線を彷徨わせつつ、二人の側に佇んでいたケイは、名前を呼ばれて焦ったように振り返る。シロはそんな彼にじっとりとした視線を送りつつも、彼に背中を向けて、背負っていた少女を受け渡す。

「ここを任せても宜しかろうか? こちらは良い具合に一撃が入った故、暫く目を覚まさぬとは思うが、放っておく訳にもいくまい」
「う、うん、任せてよ。タマモさんの方は――ああ、何とかなったみたい……い?」

 気を失った月詠を抱きかかえつつ、湖に掛かる桟橋の方に視線を遣ったケイの言葉が、不自然に途切れる。丁度、楓のブレザーに袖を通しながら、タマモが桟橋にはい上がったところであった。楓に襲いかかっていた少年の姿は今はなく、あの様子では彼女によって退けられたのだろうが――
 そんな彼女らの立つ桟橋の上に、ゆっくりと、純白の翼が降り立ったのを、彼は見た。




 時間を遡り、午後七時三十分過ぎ、関西呪術協会本部。
 麻帆良学園本校女子中等部三年A組担任、ネギ・スプリングフィールドと、彼の教え子である宮崎のどかは、唐突に自分たちの会話に声を挟んだクラスメイト――桜咲刹那に目線を向けた。
 同時に、気持ちが高ぶりすぎて彼女の存在自体を忘れていたことに二人は気づき、言いようのない気まずい感覚に陥ってしまう。が、今はそのような事を言っている場合ではないだろう。

「話――ですか?」
「はい」
「それは……今起きている事件に関する事ですか?」
「はい」

 ネギの問いに、刹那は小さく頷く。

「この建物の裏手に、古いほこらがあるんです。これはここの人たちも知らない事ですが、そのほこらの床下には、沢の近くまで繋がっている長い地下道があるんです」
「――」

 彼女の言葉に、思わずネギとのどかは顔を見合わせた。
 このタイミングで、彼女が突然言い出したその情報の意味するところとは――

「多分、昔の秘密の抜け道なんだと思います。戦国時代とか――そういう頃のものじゃないかと。ただ、元々大きな空間ではない上に、所々が砂で埋まっていて、大人が通り抜けるのは無理でしょう。ですがネギ先生や私であれば、十分に通ることが可能な筈です」
「……つまり桜咲さんは、その通路を通って、僕らも木乃香さんが攫われたと思われる湖に向かおうと、そう言いたいのですか?」
「……はい」

 確認するようなネギの言葉に、刹那は小さく――しかし、ハッキリと頷いた。

「先も言いましたが、その通路の存在を知っているのは、私の他にはもうお嬢様くらいでしょう。大の大人――とは言いましたが、恐らく私よりも少し大きな体格の持ち主……神楽坂さんくらいなら、もう通ることは出来ないでしょう。そんな場所を敵が抑えているとは考えにくい。そこを通れば、こちらに押し寄せているという妖怪達を無視して湖まで進むことが出来ます」
「ええと――前に一度、木乃香さんから聞いたことがあるんですが、桜咲さんと、木乃香さんは……」
「……幼なじみ、です。その通路も……幼い頃に、二人で遊んでいて、偶然に見つけたものです。今思えば随分危険な事をしていたものですが」
「い、いえっ……そう言う事じゃなくて!」

 ネギは一瞬のどかに視線やり――慌てて首を横に振った。

「い、今更――今更僕らが出て行ったって、何が出来るって言うんですか!? 僕の杖は折れてしまったし、桜咲さんは……その、剣術が使えるのかも知れないけれど……」
「はい、今の私じゃ――千道さん達の足を引っ張るだけかも知れません」
「だったら」
「――でも! 少なくとも、私やネギ先生にだって出来ることがきっと――!」
「桜咲さん」

 唾を飛ばす勢いで言う刹那に、しかしネギは再び、首を横に振る。
 彼は諦めているわけではない。彼自身、木乃香の救出を他人に丸投げして、のんびりと待っていられるような性格ではない。
 しかしそれを差し引いても、状況は厳しい。少なくとも彼らにとっては。ネギや刹那は、一般人に比べれば優れた戦闘能力の持ち主であるが、それでも戦力として彼らは、タマモらゴースト・スイーパー達や、“年寄り衆”には及ばない。
 これが表の世界の単なる“戦闘”ならば。そうでなくても、もう少しでも事態に余裕があれば。少々の戦力の差などは些細な問題に過ぎない。少しでも戦力と呼べるものがあれば、どうにかしてそれを使わない手は無いのであるが、如何せん今はそう言うわけにはいかない。中途半端な戦力は、かえって味方の足を引っ張る結果しかもたらさない。
 だから、ネギは首を横に振る。
 血が出るほどに拳を握りしめ――タマモやエヴァンジェリンによって無理矢理冷やされた頭を、横に振る。そう、彼とて――

「……この場合、足を引っ張るというのがどういう状況であるのか、それが問題です」

 ぽつりと、のどかが言った一言に、ネギの全身から力が抜ける。刹那もまた、あっけにとられたように彼女の方を見る。

「私には戦いの事はよくわかりませんが、確かに相手の力がネギ先生や桜咲さんを上回っているなら、真正面から殴り合いをするのは危険だと思います。かといって、今の状況で陽動や偵察に意味はない。では私たちには、一体何が出来るのか」
「……あ、あの……宮崎さん?」

 おそるおそるに、刹那が彼女に声を掛ける。
 何か妙なスイッチが入ったかのように思えたのどかだったが、刹那に名前を呼ばれるとあっさりと顔を上げ――そして、手に持っていたカードを顔の横に掲げて見せた。
 彼女自身の姿が刻まれた、“魔法使いの主従”契約によって得られる、“仮契約”カードを。

「最初に言ったでしょう? 私たちに何が出来るのか、考えましょうと――私一人ならあるいは、何も出来なかったかも知れません。でも――これは単なる勘なんですけど、“惜しい”と思うんですよ、私。ネギ先生も桜咲さんも、普通の人よりもずっと優れた力を持っていて――それは純粋に“使える”って思うんです」
「純粋に“使える力”ですか――」

 彼女から見れば、ネギや刹那が強い力の持ち主であることは間違いないだろう。その力にしても、実際には“使える”のではなく“使わざるを得ない”のである。
 ただそれを“惜しい”と思う感覚が、ネギと刹那、とうの二人の中に無かったのは確かであった。

「宮崎さんは、そのカードが何なのかわかっているのですか?」
「……すいません、こっそり――聞き耳を立てちゃいました」

 “来たれ(アデアット)”の一言を、のどかは口にする。途端、カードがまばゆい輝きを放ち――その光が消えたとき、彼女の手の中には、カードに描かれていたのと同じような、一冊の本が存在していた。
 刹那はいくらか呆れると同時に、彼女のバイタリティに驚嘆する。
 現に、級友を目の前で石にされた夕映や夏美は、未だに落ち着きを取り戻していないのだ。それがあの部屋からこっそり抜け出して、エヴァンジェリンの説明に聞き耳を立てていたなどと――普通ならば剛胆と言ってもおつりが来るようなこの彼女の力は、何処から湧いて出でているのだろうか?

「しかし――やはり、危険です。これは僕のつまらない意地かもしれないけれど、あなたたちは僕の大事な生徒です。正面から直接戦わなくったって、危険であることに代わりはない。今更――いえ、僕のつまらない意地だから“こそ”、僕はあなた達を巻き込みたくない」
「はい、ですから危険でないやりかたを考えましょう」
「そんなモノがあれば苦労はしません!」

 のどかの言葉に、ネギは思わず声を上げてしまう。静かな部屋の中に想像以上に響いた自分の声によって、彼は我に返る。

「ご、ごめんなさい、つい――」
「ネギ先生が私たちの事を心配してくれているのはわかります。ですから気にしないでください。確かに、簡単にそんな方法が思いつけば苦労はしませんが、だったら苦労してでも思いつけばいい。そうでしょう?」
「思いつけばいい、って……」

 その言葉に、呆れたように動きを止めるネギに軽く微笑みかけ、のどかは言う。

「一つ一つ、整理していきましょう。まず、私たちの目的はこのかさんを助け出す事です。その為の障害は、何でしょうか?」
「――私たちの戦力が不足していること、でしょう」

 口元に手を当てつつ、そう言ったのは刹那だ。
 その言葉は正しい。そうであるからこそ、自分たちはここに残された。真正面から敵と戦うだけの力が、今の自分たちには無いと、そう判断されたから。
 しかし、と、刹那は一人拳を握りしめる。それ以上に、自分とネギが戦力から除外されたのは、その精神状態のせいだったのだろう。ネギは目の前で自分の生徒を石にされてしまい、頭に血が上っていた。そんな状態で敵に突っ込んで、勝てる道理があるはずもない。
 そして自分はといえば――

「そうですね、私にはよくわかりませんが、魔法使いがどうとか、戦うことがどうとか――そう言う意味で一番使えないのは私なんですが」

 申し訳なさそうに言うのどかに、刹那は慌てて首を横に振る。どう考えてものどかが謝る筋はない。ただの中学生に“敵と戦う力”など、求める事がそもそも間違っている。

「けれど一緒に考える事は出来ると思います。桜咲さんの話だと、目的地までは危険が無く行くことが出来るでしょうけれど、問題はそこから先ですよね。犬塚さん達が先に目的地にたどり着いているとして――ああ、でも私たちの言う“敵”は、どういう状態でこのかさんを確保してるんだろう?」

 そうだ――木乃香は一体、どのような状況で天ヶ崎千草に拘束されているのだろうか? “ボスモンスター復活のための生け贄”などと明日菜が言うものであるから、刹那はつい、祭壇の上に縛り上げられた木乃香の姿など想像してしまったが――その場所が一体どういう場所なのか、そもそも目につく場所に彼女はいるのか、そう言うところも問題となってくる。
 しかしそんな事は言い出せばきりがない。だとすれば結局、エヴァンジェリンの言うとおり、こちらの最大戦力でもってして、問答無用で正面から吶喊――という事になるのだろうか。

「桜咲さんは、もともとこの組織を知っているんですよね? オカルトの知識もありそうですし……なにか心当たりは?」
「すいません、心当たりと言えそうなモノは特に何も……ああ、でも、確かその湖ですが、綺麗な円形をしていて、真ん中に浮島があって……湖岸とは桟橋で繋がれていた筈です。小さい頃に遊びに行った時のままであれば、の、話ですが」
「では、このかさんはその島に閉じこめられていると?」
「そこまではわかりませんが……」

 しかし敵が、こちらが動くことを予測しているのならば、そうするべきだろう。その場所こそが“リョウメンスクナノカミ”が封印された場所であり、“そのため”に木乃香を攫ったのだとしたら、尚更である。

「防衛戦をやるにはもってこいの場所ですね。島に向かうには桟橋を渡るしか……」

 自然と、生真面目なネギは、話の流れに乗っかってしまう。そんなネギを見るのどかの視線は、柔らかなものではあったけれど。

「えっと……ネギ先生は魔法使いなんですよね? 空を飛べたりしないんですか? 私たちが桟橋を渡ってやって来ると相手が考えているなら、裏をつけたりなんかして」

 彼女の言い出したことは普通ならばあまりに突飛であるが、無理もないだろう。人間を生きたまま石に変える技術があるのなら、物語の中の魔法使いの如く、ほうきに乗って空を飛ぶ術があっても不思議ではない。
 果たしてネギには、実際にそういうことができる。しかし、

「あ、その……杖があれば、何とか。でも、僕の杖は折れてしまって……」
「代わりになりそうなものでしたら、関西呪術協会にもあるはずです。非常事態ですから、目的を告げなくても借りる事は出来るでしょう」
「ごめんなさい――借り物の杖で上手く飛ぶ自信が……」

 本当に申し訳なさそうに、ネギは言う。その辺りの事は、当然のどかにはわからないが、どうやら“魔法使いだから簡単に空を飛べる”というのは素人考えであるらしい。

「それじゃあ思い切って、湖を泳いでいくとか」
「時間が掛かりすぎるし目立ちすぎます」

 何処か吹っ切れたらしいのどかではあるが、やはり何だかんだと言っても考えつくのは素人のそれである。刹那はため息混じりに首を横に振る。
 しかし――相手の裏を掻くという意味では、“それ”しかないだろう。桟橋を使って真正面から突っ込むというのでは、例えタマモやシロの援護に回る程度だとしても――彼女たちと連携を取る自信があるわけでもない。それこそエヴァンジェリンの言うとおりに、自分たちはただの弱点として、彼女らの足を引っ張るだけかも知れない。
 けど、けれど――
 刹那はその拳を、強く握りしめる。

「ちょっと一度考えをまとめてみましょう。えっと……何か書くモノは」

 のどかは制服のポケットからシャープペンを取り出し――おもむろに、抱えていた本――彼女がネギとの“契約”によって手に入れたそれを開いた。

「ちょっ……宮崎さん!?」
「え? いや、メモ帳が無くて」
「だからって、アーティファクトをメモ代わりにするなんて聞いたことありませんよ!?」
「そうは言っても、これ、一体何に使うのかわかりませんし……ちょっとくらいなら……?」

 “本”を開いたのどかは、思わず動きを止める。
 彼女が開いたそのページ――先ほどは何も書かれていない白紙であった筈のその紙面には、いつの間にか絵が浮かび上がっていた。

 「なにこれ――天使――?」

 それを形容するならば、最も適当な言葉であろう。
 そんな絵が、そのページには現れていた。




 そして現在、午後八時、関西呪術協会本部近く、湖面に浮かぶ桟橋の上。
 三年A組担任教師ネギ・スプリングフィールドを抱きかかえたその“天使”は、その場にいた人間が見守る中、ふわりとその場所に降り立った。

「それで――宮崎さんのアーティファクトは、恐らく人の心を読み取るものだったのです」
「人の心を読み取る――で、御座るか?」
「本のような形状をしたアーティファクトで、その場にいる人間の考えていることや、あるいは心象風景そのものが、絵日記のような格好で浮かび上がってくるんです」
「……もしかしなくても、割合エゲツない武器よね、それ」

 ネギの説明に、タマモは腕を組み、眉をひそめる。のどか自身に戦闘能力が無いにせよ、その能力はゴースト・スイーパーの彼女から見ても十分反則級である。むしろ魔法使いやゴースト・スイーパーの本分である“敵と戦うこと”以外の面で、その真価を発揮するだろうという点に於いては、殊更たちが悪い。

「そう言うことを思うのは、心にやましいことがあるからではないか」

 そんなタマモに目線を向け、シロは冷ややかに言う。

「はん、誰だって人に知られたくない事の一つや二つあるでしょうが」
「左様。されどそれは誰にとっても同じ事。それを過度に恐れると言うことは、どうせ普段からろくなことを考えておらんと言うことで御座ろうに」
「ほーう、さすが三大欲求に従って生きてるだけの自称狼は言うことが違うわね。人間様の頭の中は、あんたが思うよりずっとデリケートなのよ」
「お主にだけは言われたくない。大体お主にしたって――……」

 この二人が顔を突き合わせれば喧嘩になるのはいつものことである。もっともそれを以てこの二人の仲が悪いかと言えば、そう言うことではないのだが――ともかくシロは、タマモに言葉を返しかけて、じっと俯いて立っている、白い翼を持つ少女に目線を向けた。

「……桜咲殿」
「はい……私は、見ての通り純粋な人間ではありません。“烏族”という、翼を持つ妖怪とのハーフです」
「……あのさ、ひょっとして――あんたが私に対して腹にため込んでたモノって、それ?」

 苦しそうに言う少女に、タマモは、昨晩自分の部屋を訪れた時の彼女の様子を思い出す。あの時は馬鹿げた騒ぎのせいでうやむやになってしまったが、彼女の言いたかった事は、間違いなく“それ”だろう。
 刹那はタマモの言葉には応えなかった。

「今は――この翼のことを黙っていたのは、謝ります。ですが……私は空を飛ぶことが出来ますから、いくらかお嬢様を助ける手助けが出来るのではないかと――それで、宮崎さんにサポートをしてもらって、ネギ先生と共にここへ」

 現在のどかは、湖岸の何処かにカモと共に潜み、こちらの援護を行っているらしい。“魔法使いの主従”の間には、念じるだけで言葉を交わす事の出来る魔法のラインが出来上がる。それを利用した、即席の通信指令である。先ほど楓を助け、少年の先手を打って彼を魔法で攻撃できたのは、彼女のサポートがあればこそ、ということらしい。
 淡々と告げる彼女を一度見遣り――タマモは、シロへと視線を振った。
 顔を合わせれば喧嘩ばかりの彼女の“相棒”は、しかしやはり、その視線に込められた意味を察してくれたらしかった。小さく一つ頷いただけで、抜き身の刀を一旦鞘に収める。

「そうね……今は本当に助かったわ。あんたらがあのガキの気を引いてくれたお陰で、こっちの攻撃が綺麗に入ったもの――私もあのおチビちゃんも、見る目がなかった、って事なのかしら」
「いえ――タマモさんやエヴァンジェリンさんの言うとおりです。僕はちっぽけで、いろんな意味で弱虫で――何も変わってなんかいません。ただ――ただ、僕がここにいるのは……宮崎さんが、いてくれたから」
「……?」

 茶化して言うタマモに、ネギが応えた言葉の意味は良く分からない。彼女のサポートがあったから、即席の連携があそこまで上手く行ったのだという事はわかるが、彼が言いたいのはどうにも、そういうことではないらしい。

「でも、最初から浮島に吶喊しないでくれて助かったわ。この島のまわりは、見ての通り、たちの悪い結界が張られてる」

 そう言ってタマモは、楓に借りたブレザーの襟元を引っ張ってみせる。今の彼女は、その下にはもう下着しか着けていない。当然、あらわになった白い胸元と飾り気のない下着に――ネギは顔を赤くして、慌ててそっぽを向いた。

「あら失礼、英国紳士」
「ネギ先生、こんな貧相な狐の体など見てしまったくらい、気にする事は御座らぬ。タマモ、お主ももう少し気を遣うというか恥じらいを持つというかは出来ぬのか」
「別に子供が相手じゃないの。近頃私のまわりに男がいなかったから、つい気を抜いちゃうのよね」
「先生とケイ殿は男ではないと」
「馬鹿な兄貴と弟の前で猫かぶる必要なんて何処にあんのよ。ああもう、今はそんなことはともかくとして、私がこうやって恥晒したのも満更無駄じゃなかったかしら。もしあんたらがあのまま浮島に突っ込んでたら、今頃焼き鳥になってたわよ?」

 さしずめ焼き鳥のネギま串――などとタマモは茶化して言うが、どう考えてもそれは笑えない冗談である。シロが彼女の後頭部を軽く叩き、一つ咳払いをする。

「しかし――では、ここから先にどうやって進めば良いのですか?」
「それなら大丈夫。私に任せなさい」

 ネギの問いに、タマモは胸を張って言う。その自信の根拠がわからないネギは首を傾げるしかない。

「長瀬さん、あなたどうして、私がこの炎に巻かれても大丈夫だったかわかる?」
「え? ……それは――確か、千道さんが、敵と同じで“炎”を使う霊能力者だからって……」
「その通り。相手は――天ヶ崎千草は、“私と同質の炎の使い手”。逆に言えば、私ならこの壁をどうにかすることが出来るのよ」

 その言葉に反応を見せたのは、楓でもネギでもなく、シロだった。
 彼女は小さく眉を動かし――刹那の方を一瞬見遣ってから、タマモに言う。

「……タマモ、では、この炎は」
「狐火」

 彼女は、小さく頷いた。

「炎に巻かれてわかった。間違いないわ。この炎は、私の使う狐火と全く同じもの――相手は妖狐――狐の、妖怪よ」









多忙にて更新速度低下。申し訳ありません。

創作という場を与えてくださる全ての方々に、感謝を。
一人では中々見られない「読んでくれる方」の生の声、
本当に自分を成長させてくれます。

これからもお気軽にご感想をお寄せくださいませ。



[7033] 三年A組のポートレート・鬼神の目覚め
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/07/08 21:57
 古来より、日本では狐という生物は神聖視されてきた。
 もっともなじみの深いものとしては、赤い鳥居と共に稲荷神、いわゆる“お稲荷様”の遣いとして描かれる白い狐が挙げられるだろう。この“お稲荷様”は、日常生活に置いてさえ、ところどころで目にすることが出来る。
 何とも“いかにも”と言った風情で、田舎の山際に立つ赤い鳥居があるかと思えば、時にはビルの谷間にひっそりと佇む社があったりする。宗教的な代物を軽視しがちな日本にあって、それは奇異な光景であるが――しかし、我々はそれを奇異であるとは思わない。
 つまりそれほどに、“お稲荷様”は我々の生活にとけ込んでいる。
 それを筆頭にして、超常の力を持つ狐という存在は、日本人には非常に馴染み深いものである。狐に取り憑かれておかしくなったという言い伝え、あるいは狐の妖怪を呼び出す事が出来るというオカルトじみた遊び――果ては、遙か伝説の時代に、大国を滅ぼす力すら持っていたと言う、恐ろしい狐の化け物の話まで。
 では実際に、狐の妖怪とはどういうものなのだろうか。
 日本人が想像するような、時には人に化け、人を惑わす力を持ち、時には神様の使いであり――そういう神秘的な存在なのだろうか。
 その問いに対する一つの答えを、麻帆良学園本校女子中等部に通う犬塚シロは知っている。

「されど――それを口に出すのは憚られるで御座るよ。拙者の知る狐の妖怪というのは、それらの中でもかなり特殊なものであろうし。そう、主に性格的な意味で。怠慢で横柄で可愛げがなくて、その上相手によってころころと態度を変える。ふん、猫をかぶった狐などと、笑い話にもならぬ。その馬鹿さ加減によって引き起こした迷惑事は数知れず――そのような理由から、拙者はその問いに対する回答を保留させていただく。その馬鹿を基準に“妖狐”を論ずるは、全国の狐の妖怪に申し訳が立たぬ故に」
「もしかしなくても喧嘩売ってんのかあんたは」

 腕を組み、神妙な面持ちで、小さく頷きながら――しかし妙に饒舌に、蕩々とそれだけの事を述べた彼女を、千道タマモは、額に血管を浮かべながら睨み付けた。

「喧嘩を売るなどと。拙者は自分の認識に基づいて事実を述べただけであって。大体、何が悲しくてお主に喧嘩など売らねばならぬのか。短い人生にあって、そのようなくだらない時間を費やす暇など、拙者には御座らぬ」
「よしわかった。じゃあ私も時間の節約を兼ねてね、妖狐のチカラって奴を実演してやるから、そこに座れ。こんな馬鹿犬、煮ても焼いても食えそうにないが、とりあえず丸焼きにして――長瀬さん? ちょっと、離してくれない? いや、時間がないのはわかってるわ。わかってるから。一瞬で終わるから」
「落ち着いてください。焦らずに居られるのは良いことかも知れませんが、今は馬鹿をやっている時間が惜しいです」
「そんな……馬鹿レンジャーの馬鹿ブルーが、馬鹿を放棄するので御座るか?」
「……犬塚殿は拙者に何か恨みがあってか? それと近頃、犬塚殿を“馬鹿シルバー”と認定するか否かという意見が出ている事実をご存じか?」
「なんで……ござると……? な、何を仰るか! 拙者、失礼ながら“馬鹿レンジャー”の面々ほど成績は悪くないで御座るよ?」
「主に言動と頭の中身が……」
「はう!?」

 頭を抱えて仰け反るシロを見て、多少の溜飲が下がったのだろうか。タマモは小さく息を吐くと、楓に一言詫びてから、肩に掛けられた彼女の手を外す。
 幾分の本音が混ざっているとは言え、シロの言葉の意図はわかる。これでも、短くは無い時間、彼女の“相棒”として過ごしてきた身の上である。

(ただ、何というか――空気を読むのは相変わらず苦手みたいね。“あれ”からこっち随分大人びて落ち着いて見えても、結局馬鹿犬は馬鹿犬って事か)

 内心でタマモはそう呟き、しかしかすかに、首を横に振る。

(ま……いくらこいつが頭使ったって、そう言うことを素でやるどっかの馬鹿にはかなわないんだろうけどさ。ガラにもない変な責任感持っちゃってまあ)

 そんなことを思ってしまう自分自身が、“らしくない”。あるいは、どう言葉で取り繕っても、自分たちは等しく流れる時間の中に居るのだと、普段思ったことも無いような事を考えてしまいそうになる。

「あ、あの……」

 そんな彼女に、遠慮気味に声を掛けたのは、ネギだった。

「さっきの話を聞いてる限りじゃ――まるで千道さんが、狐の妖怪みたいな……」
「あら? あんたには言ってなかったっけ? そうよ、私、狐の妖怪なの」
「え、ええ!? だってそんな――千道さんは」

 言いかけて、ネギはその言葉の先を見失う。
 突然見かけ上の外見が幼くなった事はともかくとしても、タマモの外見は普通の人間である。とてもではないが、“狐の妖怪”などと言われて信じられるものではない。むろん、天ヶ崎千草にしても同じ事である。
 しかし、それを彼女に自分が問うてどうするというのだろうか。
 思わず彼は言葉を止め――そして、傍らに立つ翼の生えた少女の事を思い出す。遠慮がちにそちらに目線を送ってみれば、彼女はただ、タマモの方を見て佇んでいた。その表情から、彼女の内面に渦巻く感情はうかがい知れない。ただ、ネギはその時、まっすぐに彼女の瞳を見ることが出来なかった。

「そっか、あんたイギリス人だもんね。日本ほど狐の妖怪に馴染みはないか。松原の狐って話、聞いたこと無い?」
「美神殿の話では、それは既に差別用語ではなかったか?」
「んなもん、妖狐の私が気にしないってんだから良いのよ」

 タマモが言ったのは、大阪に残る化け狐の言い伝えの事である。とはいえそれは、言い伝えと言うほど古いものではなく、戦後暫くの頃までの話。当時の大阪府松原市では、化け狐が公然と存在し、住民達と普通に交流していたというのである。
 オカルト業界の資料を紐解くに、恐らくそれは、昔からその辺りには妖狐の集落が存在していたのでは無いか、という説が有力であるらしい。むろんそれが“言い伝え”と化した現在では、既にその集落が存在しないと言うことであり――今更それを強調して口にするのは、既に人間として暮らしているだろう妖狐達――同じ“日本国民”に対する差別ではないかと、そう言われる事がある。
 果たしてそれは気にするような事なのか――その話を知らないネギにはわからない。
 しかし、目の前の少女が実は妖怪であるという事実を、自分はどう受け止めるべきなのだろうか? 普通の人間とは違う、“亜人種”などとも呼ばれる人々が生活する魔法使いの世界を知るネギにとっても、その問いかけは難しい。

「ネギ先生、今はこの馬鹿が何者であろうと気にする必要は御座らぬ。ようはこの結界を抜けて、木乃香殿を奪還出来ればそれで良い。なればこやつが狐の化身であろうがゴキブリの化身であろうが、大した違いなどは無い」
「今から頼ろうって相手をゴキブリ扱いかよ」

 そうだ――今は近衛木乃香の奪還こそが、何よりも優先される。その為に自分たちは、足手まとい扱いされながらもここに来たのだ。
 のどかのアーティファクトによって、刹那の“苦悩”をかいま見てしまったネギは、思考を切り替える。今は彼女らが何者であるかなど、大した問題ではない。第一、自分は彼女たちが“人間”と呼ばれる線引きでくくれないからと言って、それを気にするか? 自信に問いかけるまでもない。そんなことは、あり得ない。だからそれは気にする事ではない――例えその思考そのものが、自分自身のエゴだとしても。
 のどかのアーティファクトは、対象の考えていることや、あるいは心象風景を、まるで子供が書いた絵日記のようなカタチで、白紙のページに浮かび上がらせる事が出来る。
 その最初のページに浮かんだ天使のような絵に添えられた言葉が、ネギの脳裏に蘇る。

――わたしは、ばけものだから――

 彼は頭を振って、刻まれて間もない記憶を振り払う。

「家庭内害虫と同列視されるのが嫌ならば、少しは役に立つところでも見せたらどうか」
「あんたマジで覚えてろ。具体的には、月のない夜には気をつけ――」
「シネマ村の空回り」
「うぐ……」
「これを美神殿に黙っておくには、お主を害虫扱いするくらいでは足りぬなあ?」
「く……わかったわよ。今度の休みには、私のおごりであんたの我が儘に付き合うわ」
「素直なのは美徳で御座るな。それでは――さっさとやれ」
「あんたいつか殺す」

 物騒な言葉と共に、タマモは大きく腕を振り上げる。
 その腕の軌跡に添って、虚空からわき上がるように、青白い炎の帯が伸びていく。
 見た目にも膨大な熱量を持っている筈のその炎は、不思議なことに、これだけ近くにいてもまるで熱さを感じない。信じがたいことに、この炎は、熱量とその方向を完璧にコントロールされているのだ。いわばそれは純粋なエネルギーの奔流であり、周囲に熱をばらまいて、無駄に消費されるような事はない。
 彼女を中心に出現した炎は、まるで竜巻が成長するようにどんどん大きくなっていき、まるで意思を持つように、浮島の周囲を取り囲み始める。ネギも楓も刹那も――その圧倒的な光景を、呆然と眺めるしか出来なかった。込められた恐ろしいほどの力が燃えさかる炎と、しかし感じられない熱が、目の前の光景から現実感を奪い去る。
 かつてネギの生徒、神楽坂明日菜は、ネギとエヴァンジェリン――“魔法使い同士”の戦いを目の当たりにして、まるで現実感を感じない、映画を見ているような錯覚に襲われた。それが、人間の常識を越えた圧倒的な光景を前にしたときの、自然な感覚である。
 しかし目の前の光景は――その魔法使いのネギを以てしても、理解の範疇を超えたものであった。
 大蛇のように浮島を取り囲んだ炎に、タマモが腕を振る。
 変化はすぐに訪れた。炎の勢いが、一気に強まったのである。同時に、ネギと刹那、それに楓は、肌に感じられた灼熱に、思わず顔をかばう。先ほどまで、全く熱さは感じていなかったというのに。

(これは――一体)

 ネギは顔を庇いながら考える。
 しかし果たして、それ自体は単純な帰結であった。
 浮島の周囲に張り巡らされたのは、天ヶ崎千草の結界。触れるもの全てを焼き尽くす、妖狐の力でもって生み出された地獄の壁。
 タマモはそれに、自らの炎をぶつけたのである。炎の結界に、炎を。

「コラそこの無駄に嫌らしい結界――この私のやり場のない怒りを受けてみろ――ッ!!」

 炎の結界は、そこに触れたものを燃やし尽くそうとする。しかし、それは逆に、結界そのものよりも更に高いエネルギーを持った炎によって食い尽くされる。油田の火災をダイナマイトで消すような乱暴な方法ではあるが、そうであるが故に結果は単純であった。炎の結界は、より強力なタマモの炎を受け止める事が出来ずに力を失い、消滅する。
 浮島の周囲を覆っていた“何か”の残滓が、風に吹き散らされる霧のように虚空に霧散していくのを、ネギ達は呆然と見つめていた。




 午後八時十分、ネギ達一行は、ついに湖の中央部に存在する浮島にたどり着いた。
 島は樹木に覆われてはいるが、その周囲はせいぜい百メートルあるかないか。一般的な学校のグランド、その半分程度の広さもない。
 そこには桟橋から続く石畳に舗装された道があり、その奥には朱に塗られた鳥居が据えられていた。そしてその更に向こう側、プレハブ小屋ほどの大きさの、小さな社が建っているのが見えた。

「鬼が出るか蛇が出るか――と言ったところで御座ろうか」
「出来ればどっちも勘弁して欲しいけどね」

 一行の中では突出した近接戦闘力を持つ二人――シロとケイを先頭に、一行はその社に近づく。

「ケイ殿――あの二人は?」

 結界が消えてから追いついてきたケイに、楓が問う。

「タイラップで縛って、安全そうな場所に置いてきた。小太郎君には意識があるし、何かあっても大丈夫だと思う」
「タイラップ? あのコードとかを縛るのに使う奴?」
「と言っても、ゴースト・スイーパーが使うオカルト犯罪者拘束用のね。呪縛ロープって言って、悪霊捕まえるのに使うロープの応用で作られてるから、力任せに引きちぎるのは難しいと思うよ――それにあの女の子はともかく、小太郎君は逃げたりしないだろうし」
「何でわかるのよ」
「本人が逃げる気がないって言ってたからね。こっちの寝首を掻こうってんでも無いだろうし――仮に逃げられても僕らには関係ない」
「ま、それもそうか」

 口元に手を当てつつ、何やら考えていたタマモだったが、ケイの言葉に思索を打ち切ったらしい。
 やがて一行は社の目の前にたどり着き、足を止める。
 一見して、その社はそれほど古いものでは無さそうであった。もっとも、それがこの場所に封印されているという“リョウメンスクナノカミ”の為に作られたものであるのなら、作られてからまだ二十年も経っていないということになるから、当然である。
 シロとケイが視線を交わし、小さく頷く。シロは油断無く刀の柄に手を遣り、ケイは己の霊能力――霊力の籠手を腕に纏う。その背後では、楓が“くない”を、刹那が野太刀を構え、少し距離を置いてからタマモとネギ――遠距離攻撃を得意とする二人が殿を勤める。
 全員の呼吸を揃え――ケイが一息に、社の引き戸を開く。
 果たして彼らの目指すもの――天ヶ崎千草と近衛木乃香は、そこにいた。

「……お越しやす」

 一行に背中を向ける格好で立っていた女性――天ヶ崎千草は、さほど慌てる様子もなく、そちらに背中を向けたまま、小さく言った。
 そこは、十畳ほどの部屋であった。板張りの床で、奥には大きな祭壇が据えられている。
 オカルト儀式の為だろうか、その祭壇の上に横たえられた木乃香は、肌が透けるほど薄い、不思議な羽衣のような着物を纏い、胎児のように体を丸めている。やはりと言うべきか、意識は無いようだ。刹那の足下の石畳が、強く踏みしめられて、小さく音を立てた。

「しかしようもまあ、あれだけの仕込みを突破してきた事で。あんさんらがお強いのはわかってましたけど――」

 そこで千草は振り返る。上品な拵えの眼鏡の奥で、つり目がちの瞳が細められるのがわかった。そこに湛えられた感情は、感嘆か、それとも嘲笑か。

「まさか表の結界が力ずくで破られるとは思いませんでしたわ――ゴースト・スイーパーの方々が結界を“抜ける”くらいは、想定しとりましたけど」
「へえ、それは想定のうちだったんだ」
「これでもゴースト・スイーパーの下で勉強さしてもろうてましたから。ほんに、魔法使いや呪術師なんて可愛いもんですえ――あのエゲツなさは理解しとります」
「ちょっと前に死んだって言う、あんたの――てか、あんたの母親の師匠の事? 残念ね、多分そいつ、ウチの所長と美味い酒が飲めたでしょうに」
「ほんに。その話は長――近衛はんからお聞きに? 光栄ですわ。日本一と名高いゴースト・スイーパー、美神令子――先生も草葉の陰で喜んどられる事やと思います」

 タマモの言葉に、千草は着物の袖を口元に当て、上品に笑う。
つまりその余裕は、崩れない。

「ついでにあんたの来歴も――まさか妖狐だとは思わなかったけど」
「ふうん……左様ですか。せやけどこっちも意外っちゅうか、想像も出来へんかったですわ。よもやウチと同じ――なんちゅうのもおこがましい、伝説級の妖狐が出てくるとは」

 シロの眉が、小さく動く。
 千道タマモの正体は、妖狐――それも、ただの“狐の妖怪”ではない。神話の時代より語り継がれる、国を滅ぼす程の力を持った伝説の妖怪、“九尾の狐”である。平安時代に高名な陰陽師によって一度は退治され、石に封印され――果たしてタマモは、その伝説の妖怪そのものというよりは、その要素をもって新たに生まれた存在――“生まれ変わり”と言った方が良いのかも知れない。
 とはいえ、彼女が強大な力を持った妖怪であることは間違いなく、一度はそれを危惧した日本政府によって退治されかけた事もある。
 その時に彼女を退治しかけたのが今の彼女の上司であり、機転を利かせてそれを助けたのがシロの保護者であるのだから、何ともはやとしか言いようがないが――そんな経緯があって、タマモの正体は厳重に隠匿されている。主にその上司――美神令子によって。
 したがって、現代に蘇った“九尾の狐”は、既に退治された事になっている。
 その事実を知る者は、自分たちの身の回りの限られた人間のみであるはずだ。それをどうして、目の前の女性が知っているのか――知らず、刀を握る手に力が込められる。
 タマモはそんなシロを一瞥し、つまらなそうに苦笑した。

「……一応それって秘密の筈なんだけど」
「自慢やあらへんけど、“天ヶ崎”はこれでも、高位の妖狐の一族なんですよ? うち自身は実はハーフなんやけど――それでも、それに真っ向から力業で張り合える同族なんて限られとります――あとはまあ、単なる勘やけど」
「名探偵も真っ青の勘の良さね」
「別にそう言うわけやありまへん。狐の妖怪の中でも最高位の存在、“九尾の狐”様にはわからへんと思いますが、うちらみたいな存在には、わかるんよ。自分の器みたいなモンが。どう足掻いても敵わない、高位の存在っちゅう奴を」
「どう見たって尊敬されてるようには思えないんだけど。いや、して欲しいわけでもないけどさ――まあ、今更あんたが何を言っても大丈夫だとは思うけど、その手の話、一応黙っててくれると嬉しいわ」
「せやね……ほんなら口止め料として、あんさんが潰した車の修理代で手を打ちましょうか」

 そう言って千草は、もう一度小さく笑う。

「いやまあ……それくらいは払っても良いんだけどさ……気のせいかしら、私、この仕事受けてからこっち、どんどん負債が増えてる気がするわ」
「半分以上はお主の馬鹿が原因で御座ろうに」

 引きつった笑みを浮かべつつ応えるタマモの言葉を、ばっさりと斬って捨てたのはシロだ。油断無く刀を構えたまま、彼女は千草に言う。

「うちの馬鹿狐の事はこの際どうでも良い。ここで漫才や禅問答の類をするつもりも無い。大人しく、そこに寝ておる木乃香殿をこちらに引き渡すで御座る」
「ふふ……怖や怖や。別に構いまへんで? ウチのやらなあかん事は、もう終わってますさかいに」
「……何?」
「ついでに言うとや、早いところ近衛の御姫さんを連れて、ここから逃げた方がええで?」
「それはどういう――タマモ、刹那殿」
「おっけ」

 柔らかな笑みを貼り付けた表情のまま――千草はすっと、彼女らに道を空けるように、部屋の隅に移動する。牽制のために、シロが彼女に刀の切っ先を向け、ケイの霊力の籠手が輝きを増す――しかしそれらの武器を向けられて尚、千草の表情は変わらない。

「どないしたんや? 近衛の御姫はんを取り戻すんちゃいますの? 別に罠はありまへんで?」
「無関係の人間をためらいなく巻き込むような卑劣な輩の言うことなど、どうして信じられようか?」
「フェイト――あの白髪の子供の事でしたら、うちとは関係ありまへん。あれとはある程度目的が合致しとるから協力関係を結んどるだけや。うちは西洋魔術師はあんまり好きやないし――あれの趣味の悪さには、うちも閉口したくなるところや」

 僅かに顔をしかめる千草の言葉に、一応の嘘は感じられない。しかし相手は、修学旅行が始まってからこちら、執拗に三年A組を、そして近衛木乃香を付け狙い続けた紛れもない“敵”である。
 とは言え何にせよ、ネギ達一行の目的は“それ”である。千草の言うことが本当だろうと嘘だろうと、木乃香の奪還だけは果たさねばならない。危険だからと立ちつくすだけの余裕は、既に無い。
 最初に動いたのは、刹那だった。彼女は千草に視線を向けたまま祭壇に向かい、横たわる木乃香を抱き起こす。

「お嬢様――お嬢様!」

 彼女に揺さぶられても、木乃香は目を開かない。しかし、小さく呻いて身じろぎをする。呼吸にも脈拍にも乱れはない。刹那は、ほっと一息をつき――

「!?」

 突如として感じた揺れに、弾かれたように顔を上げる。

「うわっ!? じ、地震!?」

 イギリス人であり、この一行の中では最も地震に耐性が無いだろうネギが、思わず悲鳴にも似た声を上げるが――果たして、それはただの地震では無いだろう。最初は小刻みな揺れを感じるだけだったが、次第にその揺れは大きくなり、やがてじっと立っているのもままならないほどの揺れが、彼らに襲いかかる。

「これは、お主が――」
「別に“罠”やあらへんよ。せやから言うたやろ? 近衛の御姫はんを連れて、さっさとここから逃げた方がええ、言うて」

 その揺れの中に平然と立っていた千草は、シロの問いかけにそう答える。
 同時に、彼女の体が煙に包まれた。かと思えば、既にその場所には誰もいない。まるで最初からそうであったかのように。今までここに立っていた彼女は、幻覚の類だったのだろうか?

「く――ここは化け狐の領分か。おまけにこの嫌な感じ――こちらの鼻が効かぬ」
「み、宮崎さんに連絡を取ってみたんですが、湖岸では特に揺れを感じないそうです。けれど、向こうからはこの浮島のまわりが“凄いこと”になってるって――」
「“凄いこと”ってどんなことよ!? ああもう、戦略的撤退! ここにいたらこの社と一緒に潰れちゃうわ!」




「な……何よ……あれ」
『伝説の鬼神なんつうから、仰々しいモンを想像してはいたが――こいつは』

 湖岸の遊歩道近く――茂みに身を潜め、ネギの持っていた魔法の道具の一つである、気配を遮蔽出来るマントを被り、事の成り行きを見守っていたのどかとカモは、目の前の光景に圧倒され、呆然と呟いた。
 はじめに、湖の中程に浮かぶ浮島――先ほどネギ達が突入していったその島の周囲に、細かなさざ波が立ち始めた。
 それは次第に大きくなり、やがて湖底から得体の知れない燐光がわき上がる。それはスポットライトのように浮島の周囲を暗闇から切り取り、そして強さを増し、寄り合うようにして一つの光となり――果たして、浮島の周囲から天空に向かって伸びる、一つの光の柱となった。
 ネギからの連絡が来たのは丁度そのころであったが、状況を俯瞰していた二人にしても、わかることは“何かとてつもないことが起こりつつある”と言うことだけである。兎にも角にも、それだけを伝えて、彼らの脱出を促す。
 そうこうしている間に、島の一角が爆ぜ飛んだ。土塊の破片や立木が湖面に落下して、鏡のようだった湖面に白波を立てる。爆ぜた中から現れたのは、得体の知れないロープのような何かだった。
 続けざまに、いくつもの同じような“ロープ”が、浮島の内側から、島の表面を強引に破って飛び出し、まるで鞭のように縦横に振り回される。
のどかとカモの居るこの場所から浮島まではかなり距離がある。だから、いくら小さいとは言っても、それこそ島が鞭で打ち据えられ、“叩き削られ”て行くようなその様は、彼女らに現実感を失わせる。
 一際大きく、その“ロープ”が振り回された――かと思った瞬間、島そのものが、内側から爆ぜた。
 それはまさに、その内側に封じられていたものが、その封印を破って、外の世界に身を躍らせた瞬間だった。月の光を浴び、不気味な燐光を放ちながら、“それ”は島を構成していた破片が降り注ぐ中、湖面に降り立つ。
 数十メートルはあろうかという巨大な水柱が上がる。その衝撃はのどかとカモのいる湖岸にまで届き、彼女らは思わず、腕で顔を庇う。
 立ち上った巨大な水柱が、水煙となって島のあった場所を包み込み――やがて夜の風に吹き散らされる。果たして月の光の中に、その中から現れた“もの”が、その姿を現した。

『あれがかつて“英雄”によって封印された化け物――リョウメンスクナノカミ』

 カモが、呆然と呟く。のどかは、言葉を発する事が出来なかった。
 距離感を失わせる程に巨大な体躯を持つ、鬼のような鎧武者――“それ”は一見して、そのように見て取れた。ただしその鎧武者は、二人の人間が一つにくっついたような、異形の姿をしている。すなわち、体の前後に顔があり、四本の腕と、四本の脚を持っている。
 全身が淡い燐光を放つ中で、その二つの顔に存在する無機質な瞳は、底冷えがするような“暗い光”を湛えている。
 乱された湖面が、さざ波となって湖岸を打ち、巻き上げられた小さな破片が、水面に落下する小さな音が響き渡る。その音が返って引き立てる、一瞬の、気味が悪いほどの静寂。そして――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ

 大気が、揺れた。
 もはや文字で表す事などかなわないだろう、異形の鬼神から発せられた、咆吼。音と言うよりも、世界そのものを震わせるかのごとき、巨大な空気の衝撃。
 のどかは無意識に、耳を押さえて絶叫していた。その彼女の叫び声は、大気を、地面を、そして彼女の体を打ち据える大気の震えにかき消され、誰の耳にも届かない。
 彼女は訳もわからず立ち上がり掛けて――無様に、その場に転んだ。足腰に、力が入らない。当然だろう。失禁を免れただけでも奇跡ではないかと、彼女自身そう思う。
 しかし――今はそのような事を気にしている場合ではない。

「ネギ先生――!!」

 音という音のほとんどがかき消えてしまう世界の中で、彼女は叫ぶ。
 彼女が自らの意思で、共に歩こうと決めた愛しい少年の名を。その声は届かない。届くはずがない。

『落ち着け姉さん! カードだ!』

 彼女の耳に頭を突っ込む勢いで、カモがのどかの耳元で叫ぶ。そうだ、静寂であっても、自分の声はこれだけの距離を超えられない。しかしそれすらも失念していた事は、責められる事ではないだろう。
 のどかはポケットから、本を抱えた己の姿が描かれたカードを取り出し、額に当てる。

「ネギ先生――ネギ先生、聞こえますか!? 大丈夫ですか!?」
『宮崎さん!』

 果たして――頭の中に響いた少年の声に、のどかは安堵する。自分のものではないように力を失っていた下肢に、その一言でようやく意識が行き渡る。

『こっちはどうにか湖の岸にまで逃げました――木乃香さんも無事です! でも――宮崎さん、ここは危険です! 早くさっきの通路を使って、本部に戻ってください!』
「しかし――」

 しかし、何だというのだ。
 自分がここにいても何も出来ない。それは、のどか自身理解している。彼女は魔法の力により、ただの中学生以上の能力を得ることが出来たが、それは“不思議な本によって相手の心を読む”というものである。使い方は様々に考える事が出来るが、だからといって額面以上の事が出来るわけではない。少なくとも今、彼女の能力は役に立つようなものではない。
 この場所は確かに危険だ。あの化け物がどれほどの、そしてどのような力を持っているのかわからない以上、多少の距離を取っているからと言って安全は保証出来ない。そう言う意味で言えば、関西呪術協会に居ても多少の危険はあると言うことでもあるが――しかしここにいれば、ネギ達の足を引っ張る結果しか生まない。先ほどからカモが、耳元でそう言う主旨の言葉を喚いているが、それはのどかにもわかっている。
 あんな化け物に、自分はかなわない。逃げるのが正しいとか間違っているとか、そう言う程度の話ではないのだ。
 だが果たして、それはネギ達に取っても同じではないだろうか?
 あんなものを前にして、それと渡り合える人間など、この世に居るのだろうか? 聞けばかつて、英雄と呼ばれた者達によって、かの化け物はあの場所に封印されたと言うが――その“焼き直し”が、果たして自分たちに出来るのだろうか?
 そして、のどかがそれを考えることに――恐らく、意味はない。
 彼女は自分でも気がつかないうちに悔しそうな表情を浮かべ、そして――

「ふん――宴もたけなわだというのに、浮かない顔をしているな、宮崎のどか」
「ひいっ!?」

 突然背後から投げかけられた声に、悲鳴を上げて文字通り飛び上がった。










「松原の狐」の下りは、実際にある言い伝えです。
しかしそれを「オカルトが実在する」前提である世界観に当てはめて、
「普通の話」として昇華させるのは存外に難しい。

いっそ無かった方が、とも考えましたが、勉強のために。

そして勉強と言えば、久々の挿絵です。
所詮使っているのがフリーソフトなのですが、
それでも未だに使いこなせていなかったりする。

着色の仕方を劇的に変えたので、少し試してみました。

芦名野あげは
http://437.mitemin.net/i8947/

前回もそうだったが、どうもこの子は僕の鬼門です。
いい加減可愛く描いてやりたい(笑)
もはや前回と別人というか……

犬塚シロ
http://437.mitemin.net/i8948/

改めてみると、このやり方ではこのやり方で、
良くない部分も目立ちます。要改善。

これからも文章共々、精進していきたいと思います。



[7033] 三年A組のポートレート・目的
Name: スパイク◆b698d85d ID:43bc7a94
Date: 2010/07/14 22:37
 修学旅行三日目、午後八時三十分。京都郊外――山林に接する地域に、避難指示が発令される。地震や台風が来たわけでもない突然の避難指示に、該当地域の住民は困惑しつつも、それを伝えに来た京都府警機動隊の指示に従って、近隣の施設に避難する。考えてみれば、消防でも自衛隊でもなく、警察の機動隊が避難指示を伝えに来るというのも妙な話であるのだが、突然の報せにそれを疑問に思えるだけの余裕は彼らにはなかった。
 避難する道すがらも、別段変わったところはない。怪訝に思い、警官に避難指示の原因を問えば、近くの山中で強力な不発弾が見つかったからだという。確かにそれならば納得できる――“納得できる脅威”の存在に、住民は急ぎ足になる。
 だからこの時点で、彼らは気がつかなかった。
 京都の街は、戦時中、このような山林で、今になって不発弾が見つかるほどの空爆を受けていない。
 そして何より――どうしてこんな夜中に、誰が何をしていて不発弾を“見つけた”のか――その違和感に、気がつく人間はいなかった。
 ただ、一部の人々は、後にこう言った。

――山が妙に静かだったような気がする。そして、その静かすぎる山の何処かから、山鳴りとも獣の鳴き声ともつかない、不気味な音を聞いたような気がする――

 それもまた、彼らの避難を急がせた一因なのだろう。京都府警の迅速な活動によって、ものの十数分のうちに、当該地域の避難は完了する。
 その時、小さな子供が何気なく言った。

「おばけの声がする」

一緒にいた親は、それを山鳴りか何かだろうと言った。
その時、近くにいた警官の肩が震えたことには、結局誰も気がつかなかった。




「はー……死ぬかと思った……全員生きてる?」
「お主からその言葉を聞くとはな」
「どうにか生きてるよ」
「右に同じく」
「だ、大丈夫です」
「何とか……お嬢様も無事です」

 社もろとも吹き飛んだ浮島から、どうにか脱出することに成功したタマモ達一行は、湖岸にへたり込むようにして荒い息をついていた。普段ならこれくらいで息を乱すような事はない面々ではあるが、さすがに爆発するようにはじけ飛ぶ島を背後に、崩壊する桟橋を全力で駆け抜けて湖岸までたどり着いたのだ。その消耗も無理はないだろう。ネギなど、まだ安全が確保されていないのがわかっていても、その場に実際にへたり込むのを堪える事が出来なかった。
 彼らの視線の先――先ほどまで浮島があった場所にはもうもうと水煙が立ち上り、その中央に、不気味に光り輝く巨大な怪物が佇んでいる。
 古の鬼神――“リョウメンスクナノカミ”。三十メートルほどもあろうかという身の丈に、二つの顔、四本の腕、四本の脚。一見して動きにくそうな格好ではあるが、どれだけ希望的観測を以てしても、相手は二人三脚をして無様にすっ転ぶような相手ではないだろう。
 咆吼一つで、視界が揺れる。どれほどの力を持っているのか、もはや見当が付かない。だが――

「……動かないわね?」

 タマモが湖の中程に立つその巨大な鬼神を見遣り、首を傾げた。あれだけの仕込みと、こちらの妨害を経て蘇らせた“ボスモンスター”である。てっきり、すぐにでも何らかの行動を開始すると思ったのだが、未だ水煙の中に立つかの鬼神は、動かない。

「ひょっとして……電池切れとか?」
「まさか」

 ケイの楽観的な、もとい、現実逃避じみた予想に、シロが首を横に振る。確かにあれだけの化け物を維持するエネルギーは膨大だろう。それを何処から供給しているのかは知らないが、復活した途端にエネルギーが枯渇するような欠陥品を、誰が必死になって封印するだろうか。

「特撮でおなじみの宇宙人とか、巷で話題のアニメのロボットだって何分かは戦えるのよ?」
「もう少し比較対象としてマシなものは無いので御座るか?」
「タマモさん最近、ひのめちゃんの付き合いで特撮だのアニメだの見てるしね。この間なんか散々文句言ってたのに、気がついたら自分がすっかりハマっちゃって、変化で子供に化けてまで劇場版を――」
「わ――っ!? ちょ、ケイ、あんた、それは内緒にしてろって――はっ!? ち、違うのよ長瀬さん! ネギ先生も! あれは知り合いの子供がね、どーしてもって……」
「ま……この馬鹿の事は放っておいて」

 がっくりと地面に手を突いてうなだれるタマモを、妙に満足そうな様子で見下ろし――シロは、再び湖に現れた鬼神に目を遣る。
 相方がはまっているらしい漫画やアニメのように、エネルギーが切れて動けなくなる――などというような期待は、最初からしない方が良いだろう。では何故、あの鬼神は動かないのだろうか? 動けないのではなく、何かを伺っているのだろうか?
 そうだ、と、シロは思い出す。
 この段階に至るまで、天ヶ崎千草の目的というのは、全く見えていなかった。強大な力を得て何かをしようと言うには、彼女の行動はおかしな点が多すぎる。ならば、あの鬼神は、こちらが思いも付かないような理由のために呼び出されたのだろうか?
 しかしその理由というのは一体何なのか。二十年ほど前にあったという大きな戦いの折には、かの鬼神は武器として使われようとしていたという。
 当然である。武器や兵器というのは結局、武器や兵器としてしか使えない。どれだけ頑張っても、戦車でドライブは出来ない。というよりも、する意味がない。

「“リョウメンスクナノカミ”は、伝説にある両面宿儺を“モデル”に作られた、一種の巨大な式神や。もっともそれ自体が、うちらが想像できる式神とは桁違いの存在ではあるんやけどな。ゴースト・スイーパーならわかるんやないか? 世界を滅ぼすために作られた、魔神の究極の兵器――やったか」

 唐突に聞こえた声に、全員が身構える。歌うように澄んだ、女性の声。聞き間違える筈もない。天ヶ崎千草――その人の声である。
 果たしていつの間にか、少し離れた湖岸に、彼女は立っていた。狩衣とは違うが、白を基調とした着物に、赤い袴を履き、巫女のような出で立ちで、じっと鬼神を見つめる彼女に、敵意は感じられない。一見して無防備――しかしそれでも彼女には、近寄りがたい雰囲気がある。
 野太刀を構えた刹那と、くないを構える楓も、彼女を前にして、二の足を踏む。

「……アシュタロスの“究極の魔体”だったかしら。私はそれを直接見た訳じゃないけど――ウチの上司から、話は聞いてるわ」

 タマモが千草の声に答える。
 かつて人間の世界に侵攻し、世界の改変を企てた強大な魔神、恐怖侯アシュタロス。その魔神は己の目的が潰えた事を知ると、自身の力の枯渇を承知で、世界を破壊しようと行動を開始した。
 その折に使われたのが、“究極の魔体”と呼ばれる巨大な兵器である。減退した威力で尚島を吹き飛ばし、“最上位の神魔”の力を持ってしても「ようやく止めることが出来た」と言わしめる力を持った強大な鬼神。
 それは作られたものであり、言いようによっては式神――もっと言えば人間の扱う兵器と、根本では同じもの。ただ、人間にとってその力は、まさに人智を超えたものであるというだけであって。

「せや。いつ、誰が、何のために、どうやってあんな代物を作ったのかはわからへん。せやけど、あれは単なる兵器や。せやから、“扱う”事が出来る。銃や大砲は引き金を引かな弾は出ぇへんし、爆弾も信管が作動せんかったら爆発はせえへん。それと同じや。今のあれには、何にも命令が与えられてへん。せやから、あれは動かん」
「……は? だってあんたがあれを復活させたんでしょう?」
「ウチの地力やと、力が足りへんから、近衛の御姫はんの力を借りはしましたけど。全く末恐ろしいお嬢さんですわ。高位の妖狐を軽く上回る力のキャパを持っとるんやから」

 千草は肩をすくめ――そして続ける。

「まあ、そう言うわけで御姫はんの力を借りてあれを蘇らせたんはウチや。せやけど、そのウチが命令を入力してへんから、あれは動かん。単純な結論でっしゃろ?」
「なら、今のあれは単なる木偶の坊だってこと?」
「それで済めば一番都合がええんですけどな、悪いことに、あれには自己防衛本能みたいなもんが備わっとる。自分から行動はせえへんけど、襲いかかる敵には容赦は無いで。そのうち――あんさんらや関西呪術協会を“敵”と判断して動き出す可能性も、まあゼロとは言わんわ」
「いやいやいやいや――そう言う事じゃなくて!」

 彼女の様子に、思わずタマモは脱力しそうになるが――大仰な仕草で手を振りつつ、千草に言う。

「だから何でそうなるのよ!? 何であんたは、あれに命令を入力しないわけ!? あんた、あの鬼神の復活が目的だったんでしょう!?」
「せや。あの木偶の坊が封印されたままやったら――ブチ壊す事も出来へんからなあ」
「な――!?」

 彼女――天ヶ崎千草の目的は、鬼神の利用ではなく、その破壊であったというのか? 一行に、稲妻に打たれたような衝撃が走る。

「戯言を!」

 そう叫んだのは刹那だった。彼女は千草にまっすぐ野太刀の切っ先を突きつける。高ぶった感情に呼応するように、その背中の翼が、大きく広げられる。

「既に鬼神は封印されていたのだ! 魔法世界の英雄達と、貴様の両親によって――私たちは、そう聞いた! 今更それを蘇らせて、ぶち壊す!? 馬鹿も休み休み言え! 貴様の言うことはまるでメチャクチャだ! その為に貴様は、無関係のお嬢様や、クラスの皆を巻き込んだと言うのか!?」
「……吠えなや、ガキが。せやけどあんさんにだけは言われたないな。中二病こじらせて、悲劇のヒロイン気取っとる子供にはな」
「何だと?」
「あんさんらの事を調べるくらいは、さしてもろたからな。桜咲刹那はん? ふうん……まあ、その背中の翼の事を気にするなとは、うちも言わんわ。それを近衛の御姫はんに知られた無い、言うのも、あんさんくらいの年頃なら自然な感情やろ。背が低いとか太っているとか地黒やとか毛深いとか――そう言う身体的なコンプレックスの延長線や。“私は実は、背中に羽が生えてるんです、みっともない”――思春期には、“ようある”悩みですわな?」

 馬鹿にしたように言う千草に、刹那は反論しようとする。自ら押し込めてきた秘密を、些細なコンプレックスと一緒にされたくはないと――だが、細められた彼女の瞳に、刹那は言葉を継げなくなる。

「何が、違うんや? あんさんが“それ”を気にしとったかて、それが近衛の御姫はんに何ぞ関係が? それがバレて距離を置かれるようなら、あんさんらの関係はそこまでっちゅう事やないか。いっそそれを覚悟して全てを打ち明けてもええし、それが嫌なら最初から近づかなええ。いや、逆にとことん“それ”を隠して、いつも通りに接してもええ。なのにあんさんは、護衛と称して中途半端に御姫はんに近づく癖に、御姫はんが近づこうとすれば必死で逃げる――あんさん、一体何がしたいんや? 御姫はんをおちょくって楽しんではるん?」

 そんなはずは――と、刹那は反論しようとする。しかし、出来ない。
 自分の内心は自分にしか理解できない。千草は多少自分の事を調べているようだが、それでも顔も知らなかった相手に、好き勝手を言われたくはない。
 だが――客観的には、彼女の言うことは正しいのだ。
 刹那は強く、歯を食いしばる。

「あんさんは、近衛の御姫はんにどうして欲しいんや? 自分の事を受け入れて欲しいんか? それとも、自分の秘密を隠したいんか? 友達として近づきたいんか、それとも徹底的に距離を置きたいんか? そのどれにしても、やり方はいくらでもある。あんさんがどう思っとるかて、どういうやり方を選んだかて、誰も文句は言わへんわ。せやけど、あんさんは何もしてへんやないか。“何でも出来る”のに、“何もしてへん”やないか」

 ふと――タマモは、千草の様子が変化しているのに気がつく。今の彼女からは、紛れもなく、精神の“揺れ”が感じられる。
 はて――今まで対峙してきた天ヶ崎千草とは、こういう人物だっただろうか? 目的のためには手段を選ばない、間違っても善人とは言えない人物ではあるが、女子中学生を虐めて楽しむような性格の持ち主では無かったはずだ。
 桜咲刹那という少女には、確かに見ていて何というか“もやもや”するところがある。だからと言って、そこに踏み込んで引っかき回す意味はない。タマモとてそう思うから、今まで彼女に深く接する事はしなかった。ましてや、敵である天ヶ崎千草がそんなことをする意味がわからない。
 この変化は――一体何を意味するのだろうか?

「うちは確かに、悪者やよ。褒められた事はしてへんよ。せやけど――あんさんには、あんさんにだけは、文句を言われたない。いや、どんだけ文句を言っても構わへんけどな。言うに事欠いて、言うことがメチャクチャ、やて? それだけは――言われる筋合い、あらへんよ」
「――何だと?」
「結局あんさんは、わかってないんよ。自分がどういう立ち位置におりたいんかも、わかってない。だから、何もしてない。なのに、嘆いとる。救われんことを、嘆いとる。別にそれは構わへんよ? 子供の頃にはままあることや。子供はそうやって助けを求めて泣いとったらええ。それで助けが来ないことは虚しい事やけど、泣くこと自体が悪いことやあらへんからな。せやけど――そんな子供に、うちのことをいいように言われるのは、我慢出来へん」
「何を――言いたいように言って居るのは、貴様の方ではないか!! 盗っ人猛々しいとはこの事だ。貴様がどれだけ私を貶めようが、貴様のやったことが正当化できるわけではないだろう!」
「うちがいつ自分を正当化したんや? うちは悪者やと言うたやろ? それを許して貰うつもりも、実は正義の味方でしたと言うつもりもあらへんよ? ただ――あんさんと違って、うちはやりたいことは、やる。それだけや」

 刹那が刀の柄を握る手に力を込め――その時、誰かの足音が聞こえた。

「皆さん、無事で――木乃香!?」

 山道からこちらに走ってくるのは、抜き身の刀を持ったままの、近衛詠春の姿であった。彼は湖岸に出たところで、湖の中に立ちつくす異形に気がついたようであったが――それを一瞥しただけで、まっすぐタマモやネギらのもとに向かう。
 彼らの後から姿を現した“年寄り衆”と、京都府警機動隊の中でも、どうにかあの混戦を突破できたのだろう手練れと思しき数名は、さすがの光景に思わず足を止めてしまったが。
 詠春は、シロに抱きかかえられるように横たわっていた木乃香を抱き起こし――彼女がただ意識を失っているだけである事を認めると、一つ大きく息を吐いて、彼女の体を強く抱きしめた。

「……ご無沙汰しております、長」
「――君は天ヶ崎千草、本人か」

 千草は、その光景を無感動に見つめていたが、ややあって、小さく彼に向かって頭を下げた。
 詠春はその言葉に、小さな声で応える。その声には、冷たい敵意が渦巻いていた。

「疑われるのも無理はありませんが――本人です」
「何故こんなことをしたのか――聞かせて貰っても構わないだろうか?」
「私の目的に決着が付き――その時私が生きていれば、必ず。ですが、今はご勘弁を」
「目的――君の目的とは、一体何か?」
「そうよ、あんた、一体何がしたいわけ? 自分で蘇らせたあのデカブツをぶっ壊すって、どういう意味よ?」

 詠春の問いに、タマモが追従する。
 そうだ、その疑問に対する回答は、未だ得られていない。天ヶ崎千草がこれだけの行動をしておいて、その結果“得られた”のであろうリョウメンスクナノカミを、自ら壊すとは、一体どういう事なのか?

「リョウメンスクナノカミには、自壊を命令することは出来ません。従って、外部からの攻撃によって崩壊させる必要があります。ある程度の備えはしてきましたが――その力はあまりにも強大です。私が彼女らや、ご息女に対して行った数々の非礼、とても詫びて許されるものであるとは思いませんが――長、関西呪術協会年寄り衆が一人、天ヶ崎千草――この愚かな女に、最後に力を貸して下りませぬか」

 そう言うと、千草は一度袖を大きく振るい――その場に膝を突くと、地面に頭をすりつけた。彼女の長く艶やかな黒髪が、砂にまみれる。
 その行為に、詠春は木乃香を抱えたまま動きを止める。タマモやシロには、もはや彼女がなにをしたいのかがわからない。頭の上に疑問符を浮かべたまま、立ちつくすしかない。

「……ご両親の仇討ち――の、つもりですか?」

 その中で千草に問うたのは、ネギだった。

「ひょっとして、あなたの目的は、それだったのですか? ご両親の命を奪った“リョウメンスクナノカミ”を、自分の手で討ち滅ぼすために、それを復活させたのですか?」
「……」

 千草が、顔を上げる。そのつり目がちの瞳には、今まで見たのとは違う光が宿っているように、ネギには感じられた。

「その顔……ほんに、あの時見たあの人によう似とるわ」
「あなたは、父をご存じなのですか?」

 千草は、小さく首肯する。

「仇討ち、言うのとは、ちょっと違うんやけどね。まあ、結局は――自分を納得させるため、言うたら、同じ事になるんかな」
「自分を……納得させる、ため?」
「小太郎君は、あなたの目的の事を“自己満足”と言ってた」

 そう言ったのは、ケイだった。自分の存在証明のため、そして自己満足のために、千草はこの行動を計画し、小太郎と月詠、そしてあの白髪の少年――千草はフェイトと呼んだが――を仲間に引き入れたのだという。

「自己満足――か。ええ言い方やね。せや、事は、ぜーんぶ、うちのわがままや。うちはどうしても、今度の事をやらな気が済まんかった。それだけの、事や」
「……僕には、あなたの言うことがわからない。けど――」
「ええよ。わかって貰う必要なんか、無いんや。うちが近衛の御姫はんや、そのクラスメイトさんに酷い事をしたんは、確かなんやからな」

 そう言って、千草は立ち上がる。額に付いた汚れを、袖で強引に拭い――彼女は再び、詠春に頭を下げた。

「助力を、と申しましても、具体的になにをしてくれ――と言うわけではございません。ただ、私の行動の邪魔をしないでいてくれるだけで、結構です」
「……」
「事が終わった後に命さえ残れば、いかなる罰でも甘んじてお受けしましょう。ですが――今だけは、私の行動をお許しください」

 では――と、千草はそれだけ言って、踵を返す。半ばまでが湖に沈んだ桟橋に向けて歩みを進め――それは次第に、駆け足となる。彼女はそのまま桟橋の上を駆け抜け、そして、跳んだ。
 その瞬間、彼女の周囲の空間から、炎が吹き上がる。
 青白く輝く、その炎は、所謂“狐火”――タマモと同じ、高位の妖狐が扱う、魂の底から引き出された力。エネルギーの奔流。彼女は全身を弓のようにしならせ、そして、高々と掲げたその腕を、一気に振り下ろす。
 その動作に指揮されたように、炎の奔流は流れを変え、一直線に“リョウメンスクナノカミ”に突進する。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!

 鬼神が再び吠え、湖面が爆発した。
 否、爆発と見えたのは、湖水ごと振り上げられた、鬼神の腕だった。そこに握られた、ちょっとした建物ほどの大きさもあろうかという巨大な刀剣は、迫り来る炎の塊を、いとも容易く両断する。
 しかしその瞬間、炎は輝きを増し、周囲を巻き込んで大爆発を起こす。
 鬼神の咆吼と、爆発の衝撃が周囲を揺らし――湖岸にいる一行は、思わず顔を庇う。
 最終戦の火ぶたはここに切って落とされ――しかし、その銃口が向けられた先は、詠春でも木乃香でも、そしてネギでもタマモでもなく、蘇った古の鬼神、そのものだった。




「……どうするのよ」
「どうしようか」
「どうするで御座るかなあ」

 未だ困惑した様子で、タマモ達が顔を突き合わせる。
 はっきり言って、自分たちには未だ状況が飲み込めない。
 天ヶ崎千草が、何かの為に鬼神を復活させようとしているのだろうと言う“あたり”を付けたまでは良かったが、とうの千草は、その鬼神を“壊す”事こそが目的だという。
 現実に、自ら蘇らせた鬼神に一人吶喊していった所を見ると、それは嘘ではないのだろうが――何のためにそうするのかは、未だ計りかねる。
 ネギは、それを彼女の両親を奪った鬼神への復讐なのではないかと言った。
 だがタマモはそうではないだろうと思う。
 千草は言った。鬼神は所詮、武器のようなものであると。あれを武器や兵器の類だと認識しているのなら、復讐などは必要ない。たとえば両親が暴漢に射殺されたとしたら、まさかその銃を憎む馬鹿は居ない。鬼神が兵器であるとは、そう言う意味だ。
 恐らく状況からして、二十年前の戦いに於いて、鬼神を蘇らせて兵器として使おうとした者達は、“紅き翼”や、関西呪術教会によって殲滅されているに違いない。その上で、リョウメンスクナノカミは、千草の両親が命を賭して封印したのだ。
 彼らの犠牲は悼むべきかも知れないが、全ては終わった話である。今更かの鬼神を、それも相当なリスクを背負った上で破壊することに、一体何の意味があるというのだろう?

「自己満足、ねえ……」
「ふむ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という奴で御座ろうか?」
「それとも彼女は実は本当に正義の味方で、あの化け物がまた誰かに利用されたりしないために、ここでそれを破壊するつもり――とか」
「正義の味方にしちゃ趣味悪すぎるわよ。いや、勝てば官軍とかって言葉もあるけど、下手すりゃ私もあんたも死んでたのよ?」
「ふむ、今更恨み言を言うつもりは御座らぬが……」

 シロは口元を抑え、湖の方を見る。巨大な爆発と、恐ろしい咆吼が衝撃となって、周囲の空気を振るわせる。

「……皆さん、申し訳ないが、木乃香の事を宜しくお願いします」

 そう言って、詠春は立ち上がる。白鞘の刀を携えて、桟橋に向けて一歩を踏み出す。

「文字通りあの女に手を貸すっての? それとも、あの女を背後からばっさりやるつもり?」
「……事実関係の確認が出来ていない以上、彼女は私の部下――関西呪術教会“年寄り衆”の一人ですので」

 タマモの問いに詠春は直接は答えず、ゆっくりと桟橋に向かって歩いていく。彼女らはそんな壮年の後ろ姿を見送って――小さく、ため息をついた。

「どーするのよ」
「どーしようか」
「どーするで御座るかなあ」

 同じような事を言い合い――皆で、苦笑する。

「堂々巡りでしょ」
「そうは言っても、お主も同じで御座ろう。拙者とて、未だ頭の整理が追いつかぬ」
「僕はタマモさんの意見に従うよ。だって僕の上司だし」
「都合の良いときだけそう言うこと言うな。じゃああんた、私が死んでこいって言ったら死ぬのかよ?」
「拙者なら死んでもごめんで御座るな。と言うか拙者が死ぬくらいならお主を殺す。しかし――」
「いや……わかっちゃいたけどさ、関西呪術協会ってのは、相当な馬鹿で無能揃いに違いないわ。んで、この子の親父さんがその筆頭」
「あー……フォローできない」

 ケイは“がしがし”と頭を掻きながら、小さく気合いを入れて立ち上がる。タマモと、そしてシロが、それに続く。

「どう思う、あれ。彼女はあれは自爆させる事が出来ないから攻撃して倒すしかない、とか言ってたけどさ。実際問題おかしくない? 彼女が命令すれば、あの化け物はその通りに動くんでしょ? だったら――“じっとしてろ”って命令すれば、それで事足りるんじゃ」
「そんな気はするけど、私らが文句言っても仕方ないでしょ。防御反応と命令系統は別だとか、そんな感じじゃないの? まさかあれを造った何処かの大馬鹿野郎も、あの女みたいな馬鹿な使い方をする奴が現れるとは思わなかったでしょうし」
「道理で御座るな。ここで拙者らが文句を垂れても、事は始まらない――しかし、勝算は?」
「神のみぞ知る――って所かしら」
「ちょ、ちょっと待ってください――まさか、あれと戦うつもりですか!?」

 何だか話が妙な方向に進みつつあるのを察知して、慌ててネギが三人に割って入る。

「まあ結局、そう言うことになっちゃうのかしらね。ここで天ヶ崎千草に死なれるわけにもいかないでしょ」
「いわんや――木乃香殿の父上を、で、御座るな」
「大丈夫。僕らだって命は惜しいからね。まさか真正面からあれに突っ込む気はないよ」

 ネギの目には、蘇った鬼神は、どう見ても人間の太刀打ちできるような相手には見えなかった。止めることは出来なかったが、彼には千草や詠春が、死にに行くようにしか見えなかったのである。
 呆然と彼らを見つめるネギに、タマモが言う。

「これは希望的観測だけどさ」

 天ヶ崎千草の目的は、リョウメンスクナノカミ――あの鬼神を破壊する事だという。それは簡単なことではないだろうが、万に一つの可能性もないならば、彼女はそもそも行動できないはずだ。
 ならば、あの鬼神は――何かの命令を受けて活動している状況ならいざ知らず、防衛本能のみで動いている状態では、それほどの脅威で無いのではないか?
 少なくとも――“天ヶ崎千草一人で相手が出来る”程度には。彼女も相当な覚悟を持って吶喊した事は見て取れたが、しかし命を捨てる覚悟で挑めば、可能性はある――その“程度”のものだと、言い換える事も出来るのではないか?

「ネギ先生、長瀬殿――桜咲殿。木乃香殿の事を宜しく頼むで御座るよ? この役目を任せられるのは、お主らしかおらぬ故」
「しかし――しかし、それは!」
「一つ良いことを教えてあげるわ。ネギ先生――ゴースト・スイーパーはね、“現世利益最優先”なのよ?」
「は?」

 この場面に全くそぐわないタマモの言葉に、思わずネギの口から間抜けな声がこぼれる。苦笑しつつ、シロがタマモの言葉の後を取る。
 
「あまり胸を張れる言葉とも言えぬが――左様、こんなところで命を賭けている暇など、拙者らには御座らぬ――長瀬殿も」

 そこでネギは、さっきからずっと黙っていた楓の存在を思い出す。
 彼女はじっとネギのそばに立ち――三人を見つめていた。うつむきがちの瞳は心なしか潤み、両手はぎゅっと強く、スカートの裾を掴んでいる。
 彼女もきっと、ネギと同じ気持ちだろう。
 どうするべきが最善なのかはわからない。だから、何を言って良いかもわからない。ネギのように慌てふためくことがないと言うだけで、その根っこの部分は同じである。
 何を言って良いかわからないが、自分に出来る事が無い、と言う点に於いては、彼女はネギと同じなのだ。もはや“睨む”と形容しても良いだろうその視線に、シロはケイの肘を小突く。

「えっと――僕も何て言ったらいいか。でも、その――心配しないで。そうだ、この戦いが終わったら――」
「だからって死亡フラグは立てなくて良いのよ」

 その時、彼らの背後で、また一つ、大きな爆発が起きる。見れば――一つの脚と、二つの腕を失い、その場所から炎と煙を巻き上げながら、水しぶきを上げて体勢を崩す“リョウメンスクナノカミ”の姿。

「何あの人外魔境。あの二人、ホントに人間?」

 思わずタマモはぽつりと呟く。その表情に、かつて大国をも滅ぼしたという妖魔の面影は――言うまでもなく、微塵もない。乾いた笑みを浮かべたケイが、同じようにぽつりと呟いた。

「いや、天ヶ崎千草が人間じゃないって言ったの、タマモさんじゃないの」
「そうだった」

 それにしても、と、タマモは背後を振り返る。

「ここまで盛り上げておいてあの二人だけでけりが付いたら――私ら、完全なピエロよね」

 こちらに背を向けたままのシロとケイ――その背中が煤けているようにも見えたのは、きっとネギの気のせいではないだろう。




 白鞘の刀剣が、横薙ぎに振るわれる。まるで稲光のようなまばゆい光を纏う切っ先は、もはや対象を“切り裂く”などと言う生やさしい表現では足りないほどの威力を持つ。すなわち、近衛詠春の裂帛の気合いと共に刀が振るわれた瞬間――“リョウメンスクナノカミ”の脚は、真っ二つに両断された。
 当然ながら、その切断面は、詠春の持つ刀の刃渡りを優に超える。
 稲妻の如き力を自らの振るう刀剣に与え、その力でもって、押し寄せる軍勢すらも、一太刀の元に薙ぎ払う――“雷光剣”と呼ばれる秘技であった。
 脚の一本を失い、さしもの“リョウメンスクナノカミ”も堪えたのだろうか、その巨体は大きくバランスを崩し、湖の中に突っ伏すような格好になる。
 巻き上げられた湖水に、濡れ鼠になりつつも――天ヶ崎千草は叫ぶ。

「詠春様――!!」
「あなたに手を貸すわけではありません。関西呪術協会の長として、この場を見過ごすわけにはいかないのです――それに私は、木乃香の事を許したわけではありません」
「……はい」
「ですが、今は目の前の敵に集中しなさい。これほどの相手――いくら優勢にあっても、瞬き一つで体が消し飛びますよ」
「――はいっ!」

 嬉しそうに返事をして――両腕に炎を纏わせる千草に、詠春は一瞬、かつて見た幼い少女の姿を幻視する。
 “魔法使いの英雄”となりつつあった自分たちに、畏怖と敬意の目を向ける呪術師達――そんな中で、一人の女性の脚に隠れるようにして、こわごわとこちらを伺っていた、一人の少女。
 仲間達の中でも、“一際の馬鹿”であった青年にすぐに懐き、よく母親に叱られていた小さな少女。
 詠春はその幻影を振り払うように、剣を構える。

「しかし――妙ですね」

 手応えが、なさ過ぎる。
 詠春は訝しむ。かつて対峙した鬼神は、これほどまでに易々と相手に出来るような代物では無かったはずだ。その為に――“あの少女”の両親は、命を失ったのだから。

「今のリョウメンスクナノカミは、目の前の脅威を自動排除するだけの存在です」

 その疑問に応えるように、千草は言った。

「そこに、防御を最優先に行動するように、命令を上書きしました。しかし、基本となるべき命令が入力されていないので、基本的にただ身を守ろうとするだけです。結果――多少の危険はありますが、今のこの鬼神は、あの頃のそれに比べ、ただ鈍重で硬いだけの、木偶の坊です」
「成る程。我々だけでも戦うことは難しくない――ですか。しかし、あなたはどうやってそのようなやり方を?」
「……」
「――まあ、良いでしょう、今はとりあえず、この哀れな“木偶の坊”を片付けてしまいましょう。時間を掛ける必要はありません、このまま一気に――」

「――悪いが、そうさせるわけにはいかない――」

 不意に響いた声に、詠春と千草の背中に冷たいモノが走る。
 本能的にその場から飛び退るが――何故か詠春は着地のバランスを崩し、島が崩壊したせいで浅くなった湖水の中に、もんどり打って倒れた。

「詠春様!?」
「く――くそっ……油断、した……」

 見れば、その腰から下は、鈍く硬く、冷たく光を跳ね返す、石の固まりと化している。
 石化の魔法――千草は舌打ちする。詠春ほどの腕の持ち主ならば、あれを避ける事くらいは容易いことだ。しかし轟々たる音が響き渡るこの戦場では、魔法の詠唱を聴き取る事が出来ない。なによりも全神経を“リョウメンスクナノカミ”に集中させているこの状況では、不意にあさっての方向から放たれる攻撃を察知することは難しい。

「く――フェイトか!? 何のつもりや――ッ!!」

 ややあって、水煙の中から、白髪の少年が姿を現す。いつも通りの薄い笑いを――その顔に、張り付かせたまま。

「何のつもり? 僕らは自分の目的のために、その手段が合致したから手を組んでいるに過ぎない。それは君も承知の上では無かったのか?」
「……」
「天ヶ崎――この、少年は――何者、ですか」

 体の半分ほどが石にされてしまった詠旬が、苦しげに千草に問う。
 千草はそれに応えない。ただ、目の前の少年を、鋭い目つきで睨み付ける。

「つまりは、今君にこいつを倒されるのは困る。それだけの話だ」
「ふん――なら、その目的を果たすのは、うちを倒してからにしてもらおか?」
「陳腐な時間稼ぎのつもりか? お笑いだな、天ヶ崎千草――この期に及んで、この僕が正面切って君の相手をするとでも思っているのか?」
「……何やて……!? し、しまった――」
「暫く眠っているが良い、化け物め」

 少年の言葉に、怪訝そうに眉をひそめる千草だったが、その瞬間、彼の意図に気がついた。指先の感覚が、唐突に失せたのだ。見れば、右の手のひらが詠春と同じ――既に、石と化している。
 石化の光線と同系統の威力を持つ西洋魔法――“石化の煙”。完全に、してやられた。水煙がもうもうを舞い上がるこの状況では、その発動を察知することなど出来はしない。
 少年は確かに、強力な魔法使いである。しかしそれ以上に、状況を読むことに長けた優れた“戦士”である。千草はそれを見誤っていた事に気がつくが、今更どうしようもない。渾身の気力でもって、石化の進行を止めようとするが、鬼神の復活にかなりの力を割いた今、タマモのように力業でその魔法を解除する事は難しい。

「安心すると良い。僕が欲するのはあくまで、この鬼神の力だ。無用な破壊や殺戮は、僕の望むところではない――とはいえ」

 少年の目が、薄く細められる。

「邪魔をしそうな連中を排除するくらいは、しておくべきだろう。私怨はないが――全ては新しい世界のためだ」
「は、ん――ここにも一人、中二病を、こじらせた、馬鹿が、おったようやな?」
「何とでも言うが良い――さあ、“リョウメンスクナノカミ”よ。我らの道に立ちふさがる全てを薙ぎ払い――暴悪に、荒れ狂え」

 倒れ伏した鬼神の冷たい瞳に、ほの暗い炎が宿る。












間違えて「全削除」を押すところでした。
他の方が書かれているのを見たことがありますが、
これは注意するべきですね。


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