昼語り「好きだということ」
ブログ内の整理をしないといけないなと考えながらも中々手が出ない白桃の句です。今日も一日お疲れ様です。
今日は、悪堕ち・MC小説から離れた話題、「昼語り」を少々。
位置づけ的には、私の創作メモ・日記のような感じになるでしょうか。
今回は、「好きなことと向き合う」をテーマに、私が考えていることを書いていきたいと思います。
あなたの「好きなこと」は何でしょうか?
今日は、悪堕ち・MC小説から離れた話題、「昼語り」を少々。
位置づけ的には、私の創作メモ・日記のような感じになるでしょうか。
今回は、「好きなことと向き合う」をテーマに、私が考えていることを書いていきたいと思います。
あなたの「好きなこと」は何でしょうか?
昔から文章を書くのに抵抗はありませんでした。小学校の時分、読書感想文を書かなければならなかった時も、興味の無い本を無理やり読まさせられるのは苦痛でしたが、原稿用紙と向きあい、鉛筆を走らせていくこと自体は嫌ではありませんでした。
そのころは、今の自分のように、こうやって文章を書いていくことが「好きだ」と自覚してはいなかったと思います。ただ、思ったことをすらすらと無理なく書けるので、「嫌なことではない」と、何とも味気の無い思いを持って原稿用紙に向かっていました。
嫌なことではない、と感じていた今と、好きだと自覚して文章を書いている今。どちらのほうが良いのかと考える時があります。筆が進まなくなる状態に陥った時がそうです。
「好きなのに書けない」「好きなのに書きたくない」
何も書けない、または書きたくないときの私の思考は、一言で言うとこのようなものです。単純だなと思います。でも、この一見単純なことだからこそ、何かの拍子で簡単に嵌ってしまうんでしょうね。
昔考えたことが、「好き」が足を引っ張っていないか、ということです。
書けないのは書けないで仕方がないことです。書きたくないのは、その時の気分がたまたまそういう気分だから仕方がないことなのです。
それは分かっているのです。
けれど、自分が「好きなのに出来ない」と考え始めてしまうんですね。こう考えると、何とも嫌な気分になってしまいます。
もし、文章を書くことが「嫌いでは無い」だったらどうでしょう。
書けない時があっても仕方が無い、嫌いでは無いってだけなのだから。
嫌いでは無いから、書きたくない時も当然あるだろう。
こう、自然に捉えられてしまうのです。
だから、好きと思って原稿に向かうより、ある程度距離をもった、嫌いでは無いと思って向かった方が楽ではないか。良くない考え方だと思うのですが、ひどいときは本気でこう考えてしまう自分がいます。
ですが、「好きだから何でも出来る」わけでは無いのですよね。
文章が好きな人にだって、書きたくない気分の日はあるし、書けない時もあって当然。もっと言うと、好きだから、嫌いな人に比べて良い文章が書けて当然……そういうことも無いのです。
いくら互いを愛し合っている恋人同志だからといっても、いきなり、「愛し合っているんですよね?じゃあ、これから死ぬまで手を繋いだままでいられますよね?」と言われて、実行出来てしまう人なんていないでしょう。もちろん、これは極端すぎる例なのですが、私が陥る考え方「好きなのに……」は、この極端な例にとてもよく似ています。趣味も、人間関係と同じように、その日その時で、間合いが変わってしかるべきな筈なのです。
だから、好きだということを、何も枷にしないでもいいのです。
好きだからしなければならない。
出来なければおかしい。
そういうタイプの「好き」ならば、無い方がましです。苦しいだけですから。
でももし、私が文章を書くことを「嫌いでは無い」としか捉えていなかったら……私はこの文章を書いてはいないいでしょう。小説を書こうとも思い立たなかったでしょう。他の、もっと別な「好きなこと」をやっていた筈です。
好きだからと言っても、何でも出来るわけではありませんし、出来なければならないということもありません。
ですが、私が文章を書くことが好きでは無かったら。少なくとも小説を書こうと思うことは「出来なかった」、文章系のブログを立ち上げようと思うことも「出来なかった」。
そう断言できます。
もしあなたが、好きなのに出来ない、もしくは、そもそも本当に好きだったのだろうか、というような悩みを抱えておられましたら、一度、「好きだということ」について考えてみてはどうでしょうか。何か発見があるかもしれませんよ。
そのころは、今の自分のように、こうやって文章を書いていくことが「好きだ」と自覚してはいなかったと思います。ただ、思ったことをすらすらと無理なく書けるので、「嫌なことではない」と、何とも味気の無い思いを持って原稿用紙に向かっていました。
嫌なことではない、と感じていた今と、好きだと自覚して文章を書いている今。どちらのほうが良いのかと考える時があります。筆が進まなくなる状態に陥った時がそうです。
「好きなのに書けない」「好きなのに書きたくない」
何も書けない、または書きたくないときの私の思考は、一言で言うとこのようなものです。単純だなと思います。でも、この一見単純なことだからこそ、何かの拍子で簡単に嵌ってしまうんでしょうね。
昔考えたことが、「好き」が足を引っ張っていないか、ということです。
書けないのは書けないで仕方がないことです。書きたくないのは、その時の気分がたまたまそういう気分だから仕方がないことなのです。
それは分かっているのです。
けれど、自分が「好きなのに出来ない」と考え始めてしまうんですね。こう考えると、何とも嫌な気分になってしまいます。
もし、文章を書くことが「嫌いでは無い」だったらどうでしょう。
書けない時があっても仕方が無い、嫌いでは無いってだけなのだから。
嫌いでは無いから、書きたくない時も当然あるだろう。
こう、自然に捉えられてしまうのです。
だから、好きと思って原稿に向かうより、ある程度距離をもった、嫌いでは無いと思って向かった方が楽ではないか。良くない考え方だと思うのですが、ひどいときは本気でこう考えてしまう自分がいます。
ですが、「好きだから何でも出来る」わけでは無いのですよね。
文章が好きな人にだって、書きたくない気分の日はあるし、書けない時もあって当然。もっと言うと、好きだから、嫌いな人に比べて良い文章が書けて当然……そういうことも無いのです。
いくら互いを愛し合っている恋人同志だからといっても、いきなり、「愛し合っているんですよね?じゃあ、これから死ぬまで手を繋いだままでいられますよね?」と言われて、実行出来てしまう人なんていないでしょう。もちろん、これは極端すぎる例なのですが、私が陥る考え方「好きなのに……」は、この極端な例にとてもよく似ています。趣味も、人間関係と同じように、その日その時で、間合いが変わってしかるべきな筈なのです。
だから、好きだということを、何も枷にしないでもいいのです。
好きだからしなければならない。
出来なければおかしい。
そういうタイプの「好き」ならば、無い方がましです。苦しいだけですから。
でももし、私が文章を書くことを「嫌いでは無い」としか捉えていなかったら……私はこの文章を書いてはいないいでしょう。小説を書こうとも思い立たなかったでしょう。他の、もっと別な「好きなこと」をやっていた筈です。
好きだからと言っても、何でも出来るわけではありませんし、出来なければならないということもありません。
ですが、私が文章を書くことが好きでは無かったら。少なくとも小説を書こうと思うことは「出来なかった」、文章系のブログを立ち上げようと思うことも「出来なかった」。
そう断言できます。
もしあなたが、好きなのに出来ない、もしくは、そもそも本当に好きだったのだろうか、というような悩みを抱えておられましたら、一度、「好きだということ」について考えてみてはどうでしょうか。何か発見があるかもしれませんよ。
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