双葉山には随分長いこと、こんな話がつきまとっていた。
といっても、私の方も子供が世間話を聞いての話だから、その信ぴょう性は分からない。その内容は、本来の実力は番付には及ばないもので、実は幕内力士の数を水まししたり、実績を過大に評価したり、いろいろ細工が加えられているのだといわれたものだった。
私の育った漁師町の子供たちは気が荒くできあがっているから、そんなことで真剣なけんかざたになったりしたものだ。この陰口同然のもので、今になって、面白いと思うのは、ある時になってうわさが、双葉山の出世を追いかけきらなくなってしまうことなのだ。
この陰口同然のもので面白いのは、双葉山の出世を後追いする形で出たことなのだ。別な言い方をすれば、なんのかんのと言っても、双葉山の力にケチをつけるような意味合いになってしまうから、いっそ、口惜しくても、先方の力を認めてしまうかという世の風潮だったのだろうか。
とにかく、ラジオで実況を放送しているアナウンサーが「双葉山上手を取りました」というと、声の調子が、ラジオで聞いていた子供にも双葉山の勝ちと分かってしまうほどだった。とにかく、上手を取られただけで勝負のすべてが見えてしまう。それが、子供にも共通理解として行き渡る。こういった力士は他にはいなかっただろう。
ぐっと後年になって、千代の富士がそれに通ずるところを見せてくれたが、そのあとを追う力士は思い当たらない。あまり先のことを占うような話は避けた方が良いかもしれないが、白鵬がその域に迫ることができるかどうか、大相撲の未来にも関係のあることだが、どんなものだろうか。
その双葉山にかんして、もうひとつ多く、なん度となくいわれてきたことがある。それは双葉山が強いというより、相手側の力が落ちていたからだという一種、皮肉な面を秘めた言葉なのだが、果たしてどうだろう。
そんなことに関連して、今場所の行く末にもかかわっていることで、ぜひとも力士に心得ていてほしいことがある。双葉山がまさにその側だったのだが、周囲の状況が、いつもの場所と違う。
これを混乱に巻き込まれた形にして過ごすか、双葉山が強かったことは否定しないが、周囲が弱かったことにも原因があると考えるか。この選択の差は非常に大きな差につながりかねない。願わくば“自分はあの混乱を利して大きく変化したのだ”。そういえる力士が出てきてほしいものである。 (作家)
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