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「先生、お願いします」
「お願いしますと言われてもなぁ」
アルフリート・ウルグルスは彼を頼みとすがるヒト種(ヒューマン)の老人に向かって苦笑すると、「子どもじゃないか」と言うしかなかった。
彼の目の前にいるのは確かに子どもだった。
それもヒト種(ヒューマン)と見られる脆弱な子だ。
年の頃なら六つか七つ。
栄養状態があまりよくないのか痩せていて、ボロキレ同然の着衣から伸びる手足は枯れ木のように細い。
珍しい真紅の髪もぱさぱさで、死界の草のようだ。
目ばかりがギラギラとこちらを睨んでいて、野生の獣を思わせた。
「子どもといって侮っちゃいけません。大の大人がもう何人ものされてるんでさぁ」
「はぁ」
小柄な童子にそんなことが出来るものなのか。
これが戦うために生まれてきたような、屈強な鬼種(ホルン)の子どもならば別であるが。
だが、食糧を食い荒らされたという貧民街(スラム)の長老の言葉を捨て置けない。
ここで隠居する以上アルフリートもまた、この地の食料事情に影響を受ける身だ。
もっとも。
欠食児童一人の食事量など高が知れているだろうが。
「ま、いいだろう」
言いながらアルフリートは己の肩を掴み、こきこきと鳴らして見せた。
このところの運動不足の解消になればと、この依頼とも言えぬ依頼を受けることにしたのだ。
貧民街(スラム)に身を置くのが道楽なら貧民達の依頼を受けるのも道楽。
アルフリートはその気になれば誰とも関わらなくとも生きていけるほどの資産を持ってはいるが、それでは生きているのがあまりにも寂しすぎる。
「長生きも考えものだ」
そう言いながら、アルフリートは童子に向き直った。
まるで猛獣のように牙をむき出しにして威嚇する童子。
アルフリートが野暮ったいローブの袖を捲くると、黒色精霊種(ダークエルフ)の特徴である褐色の、しかし美しい肌が晒される。
女なら思わず抱きついて口付けたくなるほどの美貌を笑みの形に曲げながら、永遠の美を持つという男は童子に向かって言い放った。
「かかっておいで」
どこかからかいを含んだ男の言葉を理解したのかどうか。
童子はガラクタだらけの地面を蹴ってまっすぐにアルフリートに向かって駆けて来る。
「ほう!」
その速度に、アルフリートは感嘆の声を漏らした。
およそヒト種(ヒューマン)ならば成人した戦士であってもこれほどの速度で動けるかどうか。
そんな速度で、年端もいかぬ子どもが駆けるとは。
あっという間に距離が縮まり、童子がアルフリートに肉薄する。
低い姿勢で拳を構え、アルフリートを殴りつけようとふりかぶる。
「そうはいかん」
しかしそこは身体能力でヒトを大きく上回る黒色精霊種(ダークエルフ)のアルフリート。
流麗な動きで身を屈めると、すばやい動きでさっと童子の足を払ってしまう。
「それでも子ども。動きが単調だ」
アルフリートが余裕の表情でそう言った瞬間、貧民街(スラム)の長老が警告するように叫んだ。
「先生!まだだ!」
「何?」
足を払われ体勢を崩したはずの童子は、なんとその細腕一本を地面についただけでその体を支え、あまつさえ腕一本のバネでアルフリートのほうへ飛びついてきた。
「なんと!?」
驚愕するアルフリート。
その肩に跨った童子は銀の髪を乱暴に掴み、右腕を振り上げてあらゆる芸術よりも尚美しいと称される黒色精霊種(ダークエルフ)の顔面に叩きつけようと振り下ろす。
「エル・ダラリ(汝、その身を竦ませよ)」
長老が思わず目を瞑った瞬間。
アルフリートが短く呪言(ルン)を呟いた。
生命がその身に生まれながらにもつ力「霊力(エーテル)」。
精霊種はその扱いに長けた種族だ。
拳を振り上げたままその体をびくりと震わせた姿勢で動きを止めた童子を、アルフリートはむんずと掴んで引き剥がした。
「ふぅ、確かにとんでもない子どもだ」
術が解けた童子がじたばたと足掻くが、そこは文字通り大人と子どもの身長差。
どうすることも出来ずに、童子は癇癪を起こす。
「この変態!離せ、くそ野郎!」
「ん?お前、話せるのか?しかもその声、女か?」
口汚い言葉で罵る童子を観察しながら、ふむとその素晴らしく整った己の顎に手を伸ばすアルフリート。
「いいから離せ!この、イ〇ポ野郎!」
「しかし、聞くに耐えんな」
アルフリートはそう言うと顎に添えていた方の指先をすうっと童子の眉間の辺りに宛がい、今にもその指に噛み付きそうな童子に向かって短く呪言した。
「エル・シタリ・エラ・ヤータ(汝、心を閉じよ)」
アルフリートがそう呟くと童子はふいに暴れるのを止め、すうっと目を細めてぐったりとする。
「こ、殺したんで?」
心配そうに駆け寄ってくる長老に、アルフリートは苦笑しながら首を横に振った。
「まさか。眠っているだけだ。子どもを殺す趣味は私にはないよ」
なるほどよく見れば童子は寝息を立て、その薄い胸がかすかに上下している。
長老はほっとしながらアルフリートに向き直った。
「これで食べ物を食い荒らされる心配もなくなりました。先生にはいつもお世話になってて申し訳ねぇ。出来るだけのお礼は…」
「いやいやお礼はいいよ。所詮は暇つぶしだ。それよりこの女子(おなご)を私に譲ってくれないか」
「は?」
「聞いてみると中央の方の綺麗な標準語を喋るし、身体能力はヒト種(ヒューマン)の規格ではない。何故こんなヒトが存在するのか興味がある」
「はぁ」
「道楽だ。捨て置けよ」
アルフリートはそう言って、得心がいかぬままの長老を放ったまま、眠る童子を担いで自分の住処へと帰っていった。
だがこの時アルフリートは長老が納得いくまでこんこんと語って聞かせるべきだったのかもしれない。
翌日の貧民街(スラム)ではアルフリートが幼児嗜好者(ペドフィリア)であるという噂が、まことしやかに広まっていたのだから。
―――十年後
そんな昔のことをまどろみの中で夢に見た後、アルフリートは安楽椅子(ロンキング・チェア)の上で目を覚ました。
いつの間に眠っていたのか。
キセルでくすぶる煙草の火を慌てて消すアルフリート。
寝煙草していたことがばれると同居人に怒られてしまう。
隣室では何かがくつくつと沸騰する微かな音がする。
黒色精霊種(ダークエルフ)の優れた聴力に頼らずとも良いほどに、この粗末な家は壁が薄い。
鼻腔をよい香りがくすぐる。
夕食にありつけるのはそう遠いことではないらしい。
「ルカ。今日の食事はなんだ?」
アルフリートが寝起きであることを悟られぬように声を整えてから隣室に声を掛けると、「兎肉と春キャベツのシチュー」というぶっきらぼうな返事が返ってきた。
その声にはやや棘がある。
料理好きの彼女は、食事の準備を邪魔されるとひどく怒るのだ。
「それは楽しみだ」
アルフリートがそう呟くと、きいっと扉が開いて一人の少女が室内に入ってくる。
真紅の髪をした美しい少女である。
年の頃は十五、六。恐ろしく丈の短いパンツに、胸元や臍を見せ付けるように露出したタンクトップという軽装ではあるが、不思議と卑猥な感じはしない。
幼さの残る、年相応のみずみずしさがあるだけだ。
単に体型に起伏がないからだという者もあるかもしれないが。
「イライの実、入れてもいい?」
「いいよ」
アルフリートがそう答えると、少女は台所に戻っていく。
黒色精霊族(ダークエルフ)のアルフリートが舌を巻くほどの身体能力を持ち、希少な赤い髪をした不可思議な少女。
彼が貧民街(スラム)で拾いルカと名づけた、その少女が成長した姿であった。
「あと、寝煙草は駄目だからね!」
しっかりばれていたらしい。
案外ずぼらな保護者の性格から存外にしっかり者に成長した少女のことを思い、アルフリートは小さく苦笑した。
その姿はだが、とても嬉しそうに見えた。
続く
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パスワード忘れで削除待ちの「ファーブル探偵記」の作者です。
まったくもって私の落ち度でご迷惑をお掛けして申し訳ありません。
同作品が削除されるまでこちらの作品を書きたいと思います。
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ファンタジー世界を舞台にした探偵モノになる予定です。
そんな需要があるのかどうかはなはだ不安ですが、何卒よろしくお願いいたします。