年6回の中、誰が考えたのか、自然の推移でそうなったのか、3場所は大阪、福岡、名古屋と地方都市の雄に割り振られている。考えてみると、この割り振りは実に巧みに機能していて、6場所がそれぞれの役割を果たす形になっている。
ひと場所交代の持つ効果も、ひと場所入れかわりであるだけに、それぞれの興味を深くし、地方都市に住む人々には、年一度の本場所を待ちこがれるところにつながっているのだろう。
今度の事件も、東京でなく、名古屋場所で表面に出てきたので、私はそれが事件にどう影響するのかと、案じていたし、いろいろ推測をめぐらしてもいた。だが、入場券の売れ行きが値崩れを起こしたといった展開にもつながらなかったようだし、初日の客の入りも、決して暗たんたるものにつながってはいなかったようだ。
三日目になったところで、客席の空席も目立ったし、やはり地方場所なのだなと思わされる映像も見せられることになった。だが、これは映画、演劇など、いわゆる興行にはすべて共通したものであって、名古屋場所の入りも、このまま客席を風が吹き抜けるようなものになっていくことはあるまい。まあ、そんなことになるまいと念じていたりもするのだが。
6場所の一翼を担うだけあって、名古屋場所には、名古屋場所に深く根を下ろしたファンがいることは、以前から感じていた。そういった客層が、今度の事件にどういった反応を示すか、それを気にしていた。
だが、いざフタがあいたとなると、何人かが客席に顔を揃えていたのだ。名古屋のファンはここと決めている席を通しで買うのだろうか、四人五人とテレビの画面で見なれた顔が目に入ってくる。大相撲も興行の一種なのだから、こういう客は大事にしなければなるまい。
その意味合いには、地方場所で年に一度の本場所を待ちこがれるような観客が、それこそ、大相撲の人気を、ここまで支えてきたのだと思うと、今回の謝罪の真意にもかなうと思うからだ。
なにが原因なのか、二日目、三日目と把瑠都の相撲が荒びていて、相手につけこまれる結果になっている。折角手に入れた大関の座なのだから、もっと大事にしなければいけない。この力士の最大の長所は体躯からは想像もつかない細かな相撲を取るところにある。その力士が、荒んだ相撲を取って、相手に思う通りに動かれてしまうようでは、本来は長所でなければいけない大型力士の看板が邪魔になっているではないか。
琴奨菊が三日目でお家芸のがぶり寄りの威力を出している。この力士も大事な相撲を取れば、もっと成績が上がるのにと思う。 (作家)
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