あふれる情熱を沢山のセリフで紡いできた激情の作家が最後に残した言葉は、シンプルで力強く、決意に満ちあふれていた。
「友人、知人の皆様、つかこうへいでございます。」との書き出しで始まり、「先に逝くものは、後に残る人を煩わせてはならないと思っています」という死生観を披露。自分は無宗教であり、戒名や墓は必要ではないとし、通夜、葬儀やお別れの会などを固辞している。
ただ一つの願いは、娘の実花による散骨。その場所には、自分のルーツである韓国と生まれ育った日本の間に横たわる対馬海峡を指定した。
つかさんは、福岡県生まれの在日韓国人二世。初めて韓国の地を踏んだのは1985年、30代後半だった。自身の出自を隠さず、声高に語ることもなかったが、90年、当時4歳だった娘のみな子(実花の本名)に向けて書いたエッセー「娘に語る祖国」を発表。在日ゆえのつらい体験と祖国への複雑な思いを綴っていた。
“遺書”は、つかさんの女性マネジャーが今年4月、一時退院していたつかさんから都内で手渡された。封印された一通の白い封筒で、つかさんは「ぼくが死んだら開けるように」と指示した。
当時、つかさんの病状は小康状態。本人は封が切られる時期について、“それほど近くない、いつか”と考えているようだったという。手紙はその後、事務所で大切に保管していた。
マネジャーはサンケイスポーツの取材に「今朝、開封しました。こんなに早く開けることになるとは思いませんでした」と声を沈ませた。
新たな年の始まりに、「思えば恥の多い人生でございました」と60余年の生涯を振り返ったつかさん。かかわったすべての人に等しく、感謝し、筆を置いた。