途方もない産みの苦しみをのりこえて、やっと名古屋場所が初日の幕を上げた。最初から最低限ひと場所は休まなければならないだろうとか、先に控えている困難などを考えると、身がすくむといった悲観的な意見も多かったし、そういったことも公然と人の口にものぼっていたりしていただけに、とにかく、今日の初日を実現させた人々の苦心のほどが、いかなるものであったか、思いやられてならない。
それにしても大相撲も苦難の道を越えて来たことよと、感嘆を深くする。しかし、今回の賭博事件と、それにかかわることどもから抜け出すこと、この件を超克すること等は、かなりな困難を伴うものとも思えた。
そういう悲観的な観測が述べられているものを目にする度に、私は土俵の先人として、見事な業績を上げた人々のことを思い出してきた。たとえば、戦後のあの混乱の中から抜け出して、栃若時代を築き上げた人々たちである。
彼らは相撲に強かっただけではない。人生の勝負にも輝くほどの成果を上げた。そして、彼らは、次々に後継者を生み、育てて、大相撲の黄金時代を築き上げていった。
それらの人々の業績に較べると、今回のことは、なに分にも大相撲に異質なものだといえよう。厳しい批判を投げかけた人々の真意もその辺のことから考えてみなければならないものだと思う。
だが、私は必ずしも悲観的な要素ばかりが、今の相撲界をおおっているわけではないと思い直した。それは、“目指すは双葉山”という若手力士が登場して来たからである。
他ならぬ白鵬である。この横綱が登場するまで、そんな大それたことを口にする力士はいなかった。だが、双葉山を追う者として、かなりの厚い可能性を秘めている力士はいないだろう。
双葉山は決して並み優れていた力士ではない。だが、厳しく批判されたうっちゃりを乱発する相撲から、努力と自重を重ねて別人のように生まれ変わった。
その変貌ぶりは、今回の相撲界に課せられた課題に共通しているところがある。しかも、一度構えに入ったら、二度と待ったをしないなどという、双葉山独特の美学は、現在の大相撲の課題にも通じている面を持っている。
白鵬に双葉山を追うだけではなく、白鵬に双葉山に通ずる大横綱に比肩するような白鵬時代を作り出すことを、新たな大相撲の使命として意識してもらう。こういったことも、今回、謝罪に共通する懸案としたらどうなるだろうか。
問題の場所の内容だが、白鵬の相撲の進歩には、少々不気味なものがある。この分では、連勝の数をかぞえて相撲を見る、そんな日が来ないともいえない。
他の上位陣で、相撲の鋭さが目立ったのは琴欧洲だが、どこまでこの調子を維持出来るか、それがこの大関の課題だ。 (作家)
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