2010-05-17
オタキングexの要旨を読んで、フリー化と承認の枯渇について考えた。
- 参照1:11.すべてはFREEに向かう(立志編)
- 参照2:12.オタキングexのひみつ「バベルの塔」大公開!
- 労働の目的が(一部の領域では)「お金をもらう」から「感謝される」「生きがいを与えてもらえる」「他人から評価を受ける」にシフトしつつあるのは確か。「お金は要らないから生きがいが欲しい」「お金は要らないから他人からの好意的評価が欲しい」という人が出てくるのは(ある程度の生活水準が満たされた階級では)考えられる帰結である。
- ただし、お金の経済と、評価(承認)の経済のそれぞれにおいて、ざっくり分けるなら資本主義と社会主義と家内制手工業的なものがあると思う。お金の資本主義に対して、承認の社会主義や承認の家内制手工業を対置するのは、あんまりクリアではない。お金の経済がどんどんFREE化して、著作物が無料になり(というより無料化せざるをえなくなり)、承認や評価が新たな貨幣として機能するようになったところで、資本主義的な富の集中というシステム自体は生き延びるのではないだろうか?
- 人は評価/承認の「私的所有権」への誘惑から逃れられるのか、という問題がある。お金の経済では、ごく一部の例を除いて、人類はこの「私的所有権」への誘惑から逃れられなかった。
- 多くの人がうすうす気づいているように、この社会は評価/承認の供給が需要に追いついていない。だから何とかして承認を(言葉は悪いが)水増しする必要がある。国家がその水増しを引き受けてくれていた時代が過去にあった(かもしれない)。「オリンピックの日本人選手は凄い!」というのはその個人に対する評価/承認であるけれども、同時に国民の多くが自分たちが評価/承認されたかのように感じることができた。
- オタキングexは、この評価/承認の水増し装置の役割を、「オカダ」姓の共同体(『スラップスティック』のミドルネームを思い起こさせる!)に引き受けさせているように思う。「オカダは凄い」「オカダのおかげだ」「オカダさん感謝しています」という評価/承認を、構成員が共有できればハッピーだ。
- だけどもそこで、「いや、オカダは評価されているけれど、そのアイディアを最初に言ったのは俺だ! 知的所有権・優先権・承認の私的財産権を俺によこせ!」という不満は出てこないのだろうか・・・僕は心の狭い人間かもしれないけれどそういう人間は必ず出てくると思う。
- というところで、{お金の,承認/評価の}{資本主義,社会主義,家内制手工業}という前述の話になる。人は私的財産権への誘惑から逃れられなかったし、それゆえに資本主義は猛威を振るった。同じことが承認/評価の経済においても起こるんじゃないか、と私は思う。言い換えれば、インターネットは情報の共有を可能にしたけれど、「プライオリティ」や「先行者の称号」については厳密な私的所有を帰結しているように思う。
- ファミコンの裏技を考えてみればいい。インターネット以前にはおそらく日本中の小学校で「この裏技は最初に俺が発見したんだぜ!」と言える人がいた。ところがインターネットの普及以降は、光のスピードで情報が共有され「最初に発見した人」の称号が得られるのは一人に限られるようになった。本当に「最初に発見した人」が誰であるかは別として、その情報をFREE化してバラ撒いた人間が、「最初に発見した人」の称号を独占することができるし、その独占は未来永劫崩れることはない。それが「(最初の一点を除いて)ズルの許されない」FREEで透明な社会だ。
- オープン化・フリー化はこの流れをむしろ加速させる。クローズドなものは(法的に厳密にはこれは誤りだが)プライオリティの証拠とならず、オープンにしてバラ撒いた者が、先行者の称号を独り占めできるようになると思う。
- そして、評価/承認の経済において、「先行者の称号」こそ、誰もが欲しくて仕方のないものであるに違いないのである。かくして承認の供給不足は進行する。モノが満たされ、情報がフリーになっても、「先行者の称号」という評価は決してフリーにはならないのだ。必ず情報には「byだれそれ」というタグが付いて回るし、そのタグはみんなものにはならない。
- そして、「ポスト物質社会」において人々が求めているのは、情報ですらなく、むしろ称号や承認なのではないか、と思うのである。
- 以下余談
- オタキングexは、「オカダ」姓を共有する、擬似家族的・ヤンキー的共同性(兄貴分/弟分)を導入することで、相互感謝と承認/評価を共有するシステムを作り、承認の枯渇に対抗しようとしているように見える。
- しかし、情報技術の進歩はあらゆる情報を透明化し可視化する。「ガラス張りのヤンキー組織」はありえるのか、というのが僕の率直な疑問だ。クローズドな組織にして忠誠やヤンキー的上下関係(およびそれにともなう一体感、精神的充実)をinvokeするというのは昔からやられてきたこと。「親分と俺らは秘密を共有するう仲間だ!」という意識を作り上げるのが共同体を維持するための昔からの常套手段である。
- しかし、全ての情報がオープンになってしまうのならば、何のためにわざわざ会費も払って、義兄弟的な精神的つながりを持つメリットがあるのか、というのがまず疑問だ。「アニキは俺らにだけは本当のことを教えてくれる。だから俺らはアニキに付いていく!」という忠誠心は、オープンな共同体で成り立つのだろうか。
2010-03-08
宇野常寛さんの過去の文章メモ
注6:結婚なんていう単語
と、「私」は語るがそれはいささか認識が甘い。日本恋愛共産党による調査報告によれば、秋葉原にたむろする顔偏差値48以下のギャルゲーマー247名に特殊催眠技術を駆使して自白材同様の効果を獲得した上でアンケートを行ったところ、次のような結果が報告されている。Q:あなたの人生最大の獲得目標はなんですか? A:1位「結婚」198名 小浜逸郎の言うように「若年層の結婚願望はいささかも衰えていない」のかもしれない。少なくとも、ある階級のオトコノコには。
http://web.archive.org/web/20070505014717/www.geocities.jp/wakusei2nd/takadababa013601.html
注14:穴さえ開いていればノー・プロブレム
要するにここで東明寺先生は「そこらのオバちゃん連れてきて、林原だって言ってもあんまり変わらないから大丈夫だろ」と言っているのである。
ある意味本当にそうなのだが、これはキングレコード大月文化の周到さを過小評価した発言だろう。その後の「所詮代替材」という発言も正しいが、これを言うと都合の悪い現実からひたすら目をそらしたい「諦めた人々」と、そんな彼等の弱みに付け込んで「そんな問題はこの世に存在しません」と言いたがる方々の神経を逆撫でしかねないので注意。今となっては懐かしいが、まだエロゲー論壇が元気だったころ、「オタクたちはモテない恨みをぶつけているんじゃなくて、あくまで独立したフィクションとして楽しんでいる」という見え透いたデマカセを平気で口にするアレなひとがたくさんいた。しかし結局オタクたち自らの「俺達は非モテだからオタクになったんだ!」というカミングアウトによって(例:電波男)こういうパフォーマンスをする人もほとんどいなくなってしまった(笑)。ちょっと寂しいなあ
http://web.archive.org/web/20070615043448/www.geocities.jp/wakusei2nd/takadababa013602.html
注19:生身の女性であることをそのものを、彼の前では忘れるべき
「マリみて」や「あずまんが」がオタクのオトコノコにヒットしているのは要するに男を選ぶ生々しい女性の視線が怖いということではないだろうか。だから彼等はストレートな学園青春モノを比較的好まない(「海が聞こえる」など)し、三次元の一般人向けアイドルはゴシップをもそのデータベース上の設定に含まれるので好まないことが多い。彼等は一般的に「フツーに付き合う」話は嫌うが、女の子のトラウマを癒したり大魔王と一緒に戦ったり、悪の洗脳を解いてあげたりとするものは大好きだ。これは単に「そうすると盛り上がるから」という理由ではあるまい。「フツーに恋する」という設定が彼等には生々しい現実を思い出させるので苦手なのだ。
http://web.archive.org/web/20070524214641/www.geocities.jp/wakusei2nd/takadababa013603.html
この辺、谷川流ってよくわかっていますよね。ハルヒも、この作品が好きなオタク男子たちも、「酸っぱい葡萄」状態にあるんですよ。 本当は「等身大の青春」に憧れているんです。でも、残酷な話だけどおそらくはスペック上の問題で、それが手に入らない。でも、そんな悔しさを素直に認めたくないんですね、プライドが邪魔して。それで「私は(俺は)日常で手に入る程度のロマンでは満足できない、非日常的なロマンじゃないと満足できないんだ」と、自分で自分に言い聞かせている。
tdaidouji
2010/03/09 02:27
…いやほんとに許してやれよ…
2010-03-06
「日本的未成熟をめぐって」
日程| 2010年3月6日(土)
時間| 14時00分〜17時00分
会場| 東京工業大学大岡山キャンパス・講堂(600名収容)
●登壇者
東浩紀(批評家)
黒沢清(映画監督)
宮台真司(社会学者)
村上隆(現代美術家)
キース・ヴィンセント(比較文学者)
これのustream配信を見て考えたこと。
- 日本的未成熟の文脈では、小此木啓吾『日本人の阿闍世コンプレックス』あたりも重要な文献のような気がする。
- 日本の戦後文学が「米国占領下で日本の若い男たちが「大人」になれずに「女性性」「母性」の元で去勢・幼児化する」というモチーフ(via>http://twitter.com/kasairyo/status/10061074061)を用いていたというキース・ヴィンセントのまとめ。これに近いことを、中央公論3月号で内田樹が書いている。
例えば、日本は「アメリカが失敗し、国際社会での信頼を失うようにしむけるために、アメリカの誤った政策を支持する」という複雑なマヌーバを操ることがあります。(中略)小泉純一郎の採用した「過剰な親米路線」は、イラク侵攻にせよ、グローバリストへの日本売り渡しにせよ、「大成功」を収めたと僕は思っています。アメリカの言うとおりにふるまい、アメリカのやりたいようにやらせて、その結果「日本人はこんなに不幸になりました」という事実を提示してみせる。それがもたらす結論は「だからアメリカは駄目なんだ」です。これこそ日本人が一番聞きたい言葉なんです。(中略)戦後日本人は、「完全なる従属を通じてアメリカから独立する」というトリッキーな対米関係を構築しましたが、小泉純一郎は対米独立という国民的悲願を「アメリカの誤りのせいで日本人が苦しむことで、日本人の対米劣等感を克服する」という迂回的な戦略によって達成した。
(「中央公論」2010年3月号、『日本は、「ふつうの国」にはなれません』、内田樹)
- このロジック、去勢された自分をアクティング・アウトすることで、劣等感を克服しようとするやり方は、精神分析評論の言うマゾヒスティックな倒錯者のロジックに通じるものがある。スラヴォイ・ジジェクは、『サイバースペース,あるいは幻想を横断する可能性』(http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic024/084-097.pdf)の中でこう書いている。
主体の構造が「ナルシシスティック」になればなるほど,主体は大文字の〈他者〉に責めを負わせ,そうして自分がそれに依存していることを確かめる.「苦情の文化」の基本的な特徴は,大文字の〈他者〉に向けられた,介入して事態を正してくれ(損害を受けた性的少数派あるいは少数民族などに報いてくれ)という要求である.(中略)
倒錯者は,〈法〉の猥褻な裏面のことを重々承知している.彼は〈法〉による支配を立てる身振りのまさに猥褻さ,すなわち「去勢」から満足を得るのだ.(中略)この,何よりも「正常」でまっとうなふるまいの規則をすべて侵すと言われる倒錯者という「違反者」が,実はまさに〈法〉の支配を求めているのだ.
- 「宮台:未成熟の捉え方の違い。キース=解放を見出す。村上隆=「カワイイ」による無関連化機能として肯定的に捉える。黒沢=オフビート。」(via>http://twitter.com/tokada/status/10063632088)
- 「未成熟」を「エディプスの終焉」と読み替えれば、「未成熟」に対する様々な論者の分類が、ジジェクによる「エディプスの終焉」論者の分類になぞらえられるはず。
今日優勢な通説は,サイバースペースはエディプスの支配を崩壊させる,あるいは少なくとも潜在的に危うくするというものである.サイバースペースは「エディプスの終焉」を意味する,すなわちサイバースペースで生じているのは,象徴的去勢(近親相姦的二者関係を禁止/妨害し,それによって主体が象徴界の次元に入り込むのを可能にする〈第三の媒体〉の介入)という構造から,ある新たなエディプス以後のリビドーの経済への移行だということである.
もちろん,この「エディプスの終焉」の認識のしかたは,理論家の立場にもよる.一方には,そこに個人が象徴以前の精神異常的熱狂へ退行し,最低限の批判的/反省的姿勢を維持する象徴的距離を喪失するという非ユートピア的展望を見る人――要するに,今日のデジタル化されたシミュレーションの宇宙においては,〈想像界〉は〈象徴界〉を犠牲にして〈現実界〉に重なるという人がいる.他方には,サイバースペースの解放的な可能性を強調する人々もいる.サイバースペースは,性的・社会的アイデンティティが変動し,複数あるような領域を開き,かつての形而上学的な対(「本当の〈自分〉」と「人工的な仮面」などの)の「脱構築」を実現する.サイバースペースでは,私はいかなる固定した象徴的アイデンティティも捨てざるをえないのであり,社会=象徴構造における自分の位置によって保証されるかけがえのない〈自己〉という法的/政治的虚構を捨てざるをえない――要するに,この第二のかたち(サンディ・ストーン,シェリー・タークル)によれば,サイバースペースは,かけがえのない「考える実体」としてのデカルト的なコギトの終焉を告げることになる.もちろん,この第二の視点からすれば,シミュラークルの宇宙における精神異常的「エディプスの終焉」を告げる悲観的な預言者たちは,はからずも自らがエディプスに代わるものを想像できないと言っていることになる.
- というふうに分類した後で、ジジェクはこれらの第一の立場(未成熟/エディプスの終焉を批判する)や第二の立場(未成熟/エディプスの終焉を、解放や無関連化の機能として肯定する)を批判する。
ここに見られるのは,かつての悪しき父権的な秩序の中で,主体の性的アイデンティティが,本人の,ある固定された象徴によるエディプス的な枠組みの内部での位置かつ/あるいは役割によってあらかじめ決定されているという,よくある標準的なポストモダンの脱構築論的説話の一つである.しかし今日では,フーコーが証明したと言われるように,性のエディプス的機能を支える〈権力〉の法的/禁止的なマトリクスは後退しつつありその結果,主体は,社会=象徴の秩序において,あらかじめ定められた位置を占めるよう呼びかけられているのではなく,主体が異なる社会的・象徴的な性的アイデンティティの間を移る自由,自分の〈自己〉を美的な作品として立てる自由を手にした.(中略)しかしながら,いずれの「エディプスの終焉としてのサイバースペース」とも対立して,サイバースペースとエディプス的な主体化のありようとの連続性を説く,数少ない,それでも洞察力のある理論家が何人かいる.サイバースペースは,介在する〈第三の次元〉の根本的なエディプス的構造を維持している.この次元は,そのまさに媒介/メディア化する当人の能力において,主体の欲望を維持し,他方,同時に,その直接かつ完全な満足を妨げる〈禁止〉の代理人としてふるまう――この介在する〈第三者〉のせいで,すべての部分的な満足には,根本的な「これはそれではない」が刻まれている.
- つまり、未成熟/「エディプスの(見かけ上の)終焉」がもたらす、(見かけの)アイデンティティの多様性≒無関連化機能は、じっさいには解放(何からの?)ではないというわけだ。
そう,サイバースペースでは,「自分がなりたければ何にでもなれる」し,象徴によるアイデンティティ(画面=人格)を自由に選べるが,ある意味で自分を裏切ることになるようなもの,決して完全にはあてはまらないものを選ばなければならず,自分の身代わりとして回路の中を走り回る意味作用する要素によって,サイバースペースの中に再現されることを受け入れなければならない…….そう,サイバースペースでは,「すべてが可能」だが,根本的な不可能性を引き受けるという対価を払ってのことである.インターフェイスの媒介,インターフェイスの「バイパス」を回避することはできず,インターフェイスはあなた(発話の主体としての)を,あなたの象徴による身代わりから,永遠に隔てるのだ.
- 未成熟/「エディプスの終焉」によってもたらされたアイデンティティの多様性は、「自分がなりたければ何にでもなれる」という解放や無関連化機能を見かけ上もたらすが、それははあなた(発話の主体としての)を,あなたの象徴による身代わりから,永遠に隔てるというわけである。
- ところで余談だけれども、この「サイバースペースではあなたは何にでもなれるが、主体のナルシシズムは放棄されざるをえない。あなたが何者であるかは、あなたの周りのつぶやきの循環によって決定されるのであり、あなた自身にはその決定権はない」というジジェクの主張は、最近宇野常寛氏や東浩紀氏が、ツイッター等の電子メディアによる人間のキャラ化機能(発言者のナルシシズム/実存と無縁なところで発言だけが循環していく)として論じているロジックにとてもよく似ている(これも余談だがこのジジェクの文章は12年前のものである)。
つまり、「民主主義2・0」は個人が特定の意見をもって自覚的に政治参加し、その意見が支持を集めることで実存的な承認が得られるという回路を採用しない。ウィキペディアや2ちゃんねるにおいては、自分の発言(断片)が承認されることを通じて全人格的な承認へ遡ろうとする傾向が顕著で、こうした回路がいわゆる「炎上」を生む。しかし東浩紀がここで述べている「ひととひととがネットを介して合意するのではなく、意思と意思がテクストが淘汰されるように均等化されるシステム」とは、そういった断片から全体へ遡るような回路はもちろん、「自分の発言」という「断片」すらも、実存から切り離されることを意味する。「自分の発言」が「自分」と「発言」に分離され、分離された「発言」だけがシステムに集約されるのだ。
(「思想地図」Vol4、p330-331、『ポスト・ゼロ年代の想像力』宇野常寛)
まず,「発話する主体」と「発話されたもの」との間にずれがある(私がサイバースペースで装う,「創作」でき,ある意味でつねに「創作」される象徴によるアイデンティティ――私のサイバースペースでのアイデンティティを記すシニフィアンは,決して直接には「私自身」ではない).相手側でも同じことが言える.サイバースペースでのやりとりにおける私の相手――ここでは非決定性は徹底的である.私は相手が誰なのか,相手が「本当に」自分で言っているとおりのものなのか,そもそも画面=人格の背後に「実在の」誰かがいるのか,画面=人格は,複数の人格を表わす仮面なのか,同じ「実在の」人物がもっと多くの画面=人格を所有しかつ操作するのか,それとも私は単に,いかなる「実在の」人物も表わさないデジタル化された実体とつきあっているだけなのか.(中略).私は「流し読み」,メッセージが自由に,定まった目的地なく循環しているこの無限の空間の中でさまよい歩く一方で,その〈全体〉――この巨大な「つぶやき」の循環――は,永遠に私の理解の範囲を超えたところにある.
- 宮台真司氏の講演
#cooljp #cswc 宮台「建前的な、トラディショナルが大事だとか、コミュニケーションが大事だとか、そういう社会があったならば、「カワイイ」は、社会からの開放を意味したので肯定できたが、社会が変革して『開放されるべき対象』が不在になると、また違った様相を呈していく」
宮台:カワイイものによる(社会的な文脈の)無関連化機能があった。このことには肯定的だった。しかし、そうしたコクーニングツールを使う契機は消えていった。96年にカワイイカルチャー的なものは完全に終わったと見る。 #cooljp
- しかし、建前としての社会からの抑圧がなくなると同時に、サブカルチャーが解放の契機にならなくなる、なんてことは橋本治が92年くらいの時点で言っているので(『貧乏は正しい!』)、96年断層説は個人的にはかなり眉唾である。抑圧がなくなっちゃったから、逃避先が魅力的な夢の対象でなくなっちゃった、なんて話は80年代とかそれ以前から幾度となく描かれてきたものだと思うのだが……。
海外(アメリカ)から見たHentai文化について
- 「日本的未成熟をめぐって」を聞きながら考えたこと。
- オタク文化が抑圧や言い訳の産物だっていう側面が、クールジャパン的な文脈では無視されがちなのがちょっと気になる。
- アメリカってのはhentai dubbing(Google検索すれば出てきます)なんかをやるような国だ。向こうの変態ってのはなんちゃって変態じゃなくて、自己暗示なのか本物さんなのかは分からないけど、本音と建前を使い分けないガチばっかりだと思う。
- 日本のhentai表現の横溢さは、ピラミッドの上側の「本物さん」を支える、膨大な「言い訳層」「ルサンチマン層」「なんちゃってロリコン」「にわか」がいるおかげなんじゃないか、とも思うんだよね。
- ダーガーは現実と虚構を区別しない人だったと思うし、アーティストのMr.って人も現実と虚構を区別しない人だったように見受けられる。
- だけども日本のオタクってむしろ、宇野常寛がしばしば揶揄するように、本当はバイト先のお姉さんと付き合いたいけどフィクションに対してはロリコンを擬態する、みたいな人たちが一定層いるわけで、ただそれが、言い訳やルサンチマンの産物だからいかんのかというと、そうはいってもその半分だってやっぱりある種の嗜好だと思うし、そういう人たちが文化の市場を底上げしていると思うんだよね。
- ともかく、アメリカにいると
- 1)個々人には本当のセクシュアリティがある
- 2)個々人は自分の本当のセクシュアリティを見出さなくてはならない
- 3)本当のセクシュアリティは一貫したものであり、キャラ売りや空気読みによって使い分けられてはならない
- みたいなイデオロギーが強すぎて息苦しいね。 そしてさらには、
- 4)個々人は自分の『本当のセクシュアリティ』をエクスプリシットに自己主張しなくてはならない
- という強制力まで働いたりするので、よけいに質が悪い。
- 『本当のセクシュアリティ』なんて定義できるわけねーだろ、半分はキャラ売りと空気読み、それか防衛機制だよ、って言いたくなるけどね。「本物さん」はいつの時代も少数派なんじゃないかなあ。と、思ってしまうのである。西洋人のセクシュアリティ論を読んだり聞いたりしていると。
killhiguchi
ご無沙汰しておりますというかはじめましてというか。体調が悪いので挨拶は抜きにさせてもらって。
ダーガーは、その作品から見ても、現実と虚構を区別していたと思いますよ。自分の妄想詰の作品に『非現実の王国』と名付けられたのですから。
tenkyoin
コメントありがとうございます。「現実と虚構を区別しない」というのは乱暴な表現でした。ダーガーのセクシュアリティ(ペニスを持った少女)というのが現実に妥当するかどうかは確かに検証困難ですし(ペニスを持った少女は現実には殆どいないですし、そのような少女にダーガーが性的欲求を示したかどうかも分かりません)、彼自身が『非現実の王国』と名づけていることからも、彼が「本当は少女にはペニスはない」ということを了解していたのは事実だと思います。
ただ、たとえばここで、よくあるオタクのセクシュアリティへの批判、「本当はバイト先のお姉さんと付き合いたいけど、そういうセクシュアリティを表明して傷つくのが嫌だから、フィクションに対してはロリコンを擬態する」というのがダーガーに対して当てはまるかというと、もちろんそんなことはないと思うわけで、多くの人が認めるようにダーガーは「本物の」人です。
で、私が思うのは、海外からの「クールジャパン」的視線が、「本物さん」ばかりを称揚して、実は防衛機制的にオタクをやっている(「本当は――」が当てはまる)「半数のヌルオタ」層を無視していないか、ということなのです。そのような防衛機制的な「ヌルオタ層」は、世間からもガチオタの人たちからも非難されますが、市場の何割かは彼らによって支えられているはずだと思うので。
宇野常寛なんかは防衛機制的にオタクをやっている(「本当は――」が当てはまる)「半数のヌルオタ」層に対して一貫して否定的ですが、市場の層を厚くすることを考えたら、「ヌルオタだっていいじゃないか」と私は思うのですね。
2009-12-19
BTOパソコンとしての批評
私は,これだけ情報へのアクセス可能性が拡大した時代において,誠実な批評家はBTOパソコンメーカのようになるべきだと思う.
昔だったら情報が限られていたので(例えば海外の文献を読もうとしたら1ヶ月待たなきゃいけない時代だったり),外国産や,国内のほかの人の思想を,ソースを書かずに転用(剽窃,とまで言うのはちょっと可哀想だ)して,あたかも自分の思想であるかのように書くことが可能だったかもしれない.だけどもそれって,BTOパソコンメーカーが内蔵のハードディスクやらCPUやらのラベルを書き換えて,あたかもBTOパソコンメーカーがそれらを発明したり開発したりしたかのように見せかけるようなインチキなわけで,誠実な批評家ならば,そこで自分が何からインスピレーションを受け,何を転用して論を組み立てているのかを,ちゃんと示すべきだと思う.BTOパソコンの内部のマザーボードなりCPUなりのラベルが,ちゃんと製造元のものになっているようにね.
私たちはもはやハードディスクを発明したりCPUを発明したりすることはできないけれど,それらの「相性のいい」組み合わせを見つけたり,効率よくそれらが動作する構成を考えたりすることはできる.私たちは後期近代論や啓蒙の弁証法を発明することはできないけれど,それらを使うことはできる.
昔だったら「学派」や「スクール」と呼ばれるものが幅をきかせていて,これは例えばA社のパソコンにはA社ブランドのCDドライブやマザーボードしか載せられなかった時代に似ているのだけれど,今ではパソコンと同様に「コンバータ」や「コネクタ」を介せば「スクール」「学派」の違う思想モジュール同士であっても,問題なく互換性を確保して使えるようになりつつあると思う.
だから,もはやハードディスクやCPUの再発明が不可能になった時代において,誠実な批評家ができることの一つのは,どの思想モジュールとどの思想モジュールが互換で,どのような「コネクタ」や「コンバータ」を介せば,コンフリクトなくそれらが同時に動作できるのか,というのを探求することだ.そしてその過程では,元の思想モジュールのラベルを削ったり貼り替えたりはしないこと,自分がハードディスクを発明したり開発したりしたかのような振る舞いをしないことが重要だと思う.
再発明した車輪をあたかも自分が発明・開発したものであるかのように吹聴する人間に,知的所有権のプライオリティを与えてはならないし,そのような人間に対しては新規性欠如を理由に知的所有権の無効審判請求がなされるべきだろう.
2009-12-17
階級とキャラ売り
- 『思想地図 Vol.4』の座談会で,日本では階級に根ざしたコミュニケーションが描かれにくいという話と,女性誌で「傾向と対策」的にサプリメント(読者の自意識を肯定してくれるための作品)として作品が紹介され消費されている,という話が出てくるのだけれど,これに関係してまじめな話をすると,スクールカーストとか文化圏カーストが,日本において新たな階級の変数として機能している,という宇野常寛の主張(決断主義トークラジオAlive3の音声ファイル参照)は,実は真に受けて良いのではないか,というのを最近考えている.
- 女性誌における、あるいはある種の文芸誌における「傾向と対策」的なブックガイドは,まさしく階級闘争のための指南書であり,特に女性たちは,無意識のうちに文化を使って階級闘争を戦っているのではないか,というのを思うのだ.
- 階級についてガチで語るのは「お里が知れる」「ダサい行為」であるとして日本では忌避されることが多いけれど,いまこそ階級闘争は存在するのではないか,ということをここ一年くらい考えている.
- 「文化がキャラ売りとアイデンティティ戦略のためのツールとして消費されている」というのは宇野常寛の指摘でもあったが,そしてそれゆえにそのような文化は他の文化との間で「同じレベルの足の引っ張り合いをしている」と揶揄されたりもしたわけだが,しかしキャラ売りとアイデンティティ戦略とはまさしく後期近代における階級闘争そのものなのではないか,と.
- 単なるナルシシズムを満たすための「キャラ売り」であるならば,それは交換可能なものであり,周りの空気を読んで使い分ければよいものとなるが,「キャラ売り」は階級(端的には年収・居住地域・学歴)と相関するものであり,階級上昇のための道具としてもいまなお機能している.
- 俗的な例でいえば「こんな田舎いやだ,職もなければ文化もない!」と言って都市に出てきた少女が都会文化を身に着けた自分という「キャラ売り」をするのは,まさしく階級闘争のための切実なツールであり,交換可能なものというよりは,彼女の将来の階級を決定する重要な戦略ではないか.
- もちろん,そんな議論は昭和時代の古臭いものかもしれない.のだけれども,そのような階級と相関した切実な闘争ツールとしての側面が「キャラ売り」「アイデンティティ戦略」がいまなお存在しているのは間違いないように思う.そしてその階級闘争が可視化されることによって,今まで表面上は階級闘争を意識せずに生きてこれた層の人間も,この闘争に(明示的に)巻き込まれつつあるのではないか? と.
- 「自分のナルシシズムを肯定するためのキャラ売り」は批判されても仕方ないが,「自分の階級を維持し,可能ならば上昇させるためのツールとしてのキャラ売り・文化パフォーマンス・アイデンティティ戦略」は,第三者が揶揄してよいものなのだろうか,とも思うのである.
- 女性誌のブックガイドは,意識的にか無意識的にかは分からないけれど,二重のメッセージを発しているのではないか,と思う.「こんな本を読めばこんなジブンになれますよ」というのが表向き.そしてそのヒドゥンメッセージは「こんな本を読めば,こんな階級の生活に参与できますよ」である.だから,「傾向と対策」的ブックガイドを揶揄すべきではないし,むしろ階級闘争の道具としてのブックガイドを,ミもフタもなく書いてしまうというのも有りなのではないか,とも思うのだ.
- たとえば,同類婚指数なんかを見ると,「大卒は大卒と結婚しやすい」「高卒は高卒と結婚しやすい」ということが大域的に明らかになっている.>http://bit.ly/7enaZz
- 同じような統計が,年収についても,あるいは居住地域についても言えるとすると,これは結果として統計的にある集団(階層)が形成されていることを意味しないだろうか?
- 「大卒が大卒を結婚相手に選びやすいのは,大卒である自分というナルシシズムを満たすためのキャラ売り」という指摘はまあ,字面上は可能だろううが,むしろそれは階級闘争の結果なのではないか,ということを思うのだ.
- むしろ階級闘争に居直って「高年収のまともな男を落とすためのブックガイド」とか「資産のある親の一人娘と付き合うためのブックガイド」とか「23区内の私鉄沿線在住の若い持ち家男と付き合うためのブックガイド」とかやったほうが,「傾向と対策」の徹底として良いかも.
- もちろんこれ↑は冗談で,階級闘争が熾烈化するのは,「これは階級闘争ではない」という身振りを取る場合にこそなのである.まあ,同人誌の企画とかとしては面白そうだけど.
2009-12-08
決断主義2.0
ゼロ年代の想像力という宇野常寛先生の本を読みました。
要約すると、引きこもりは古臭くて、野蛮になりふり構わず生きるのが新しいということでよいのだと思いますが、引きこもりはぜんぜん古くないと思います。
- 書いているのが本当の小学生なのか大人の釣りなのかは分からないけれど、「野蛮になりふり構わず生きるのが新しい」なんてことは宇野常寛先生は言っていない。マジレスすると、この文脈での決断主義ってのは「なりふり構わないこと」ではなくて、事後的に、あたかも事前了解があったかのような錯誤を作り出すことで、自己言及的に行動を正当化する方法のことである。「事前了解が得られていないので行動できません」と「洗脳工作を進めながら行動すれば、事後的にあたかも事前了解があったかのような状況を作り出せる!」との違いとも言える。
- 橋本治の『貧乏は正しい!』は渡米時に持ってきて今でもよく読み返すのだけれど、やっぱりバブル崩壊&冷戦崩壊ってそれこそ「これからはサバイブの時代だ!」というのを若者に知らしめた巨大な一撃だったと思う。でもそこから出てくる結論ってのは、たとえば一章の最後にいじめの話が出てくるんだけど、周りが正しいつもりでいても実は周りが間違っているかもしれない、周りが間違っていると思うのなら、一人になっても多数派に向かって戦いを挑め! なんだよね。
- この、バブル崩壊&冷戦崩壊ショックのときの「大人や社会は正しいことを教えてくれない」「だから生き残るために、根拠がなくても戦わなきゃいけない」というのは、90年代に既出の風潮だったと思う。この90年代型のサバイブ思想は、決断主義1.0(勝手に名づけた)と言えよう。
- それに対して00年代のサバイブ思想、決断主義2.0とでも言うべきものは、別段表立ってガチンコで戦うことを奨励しているわけじゃなくて、「大人や社会は正しいことを教えてくれないのだから、ローカルコミュニティで多数派工作と洗脳ゲームを繰り広げてプチ権謀術数主義者になろう!」という思想だと思う。
現在は誰もが自分の信じたいものを信じて噴き上がり、互いの足を引っ張り合う戦国時代のようなものだ。それはマクロには原理主義によるテロリズムの連鎖であり、ミクロには「ケータイ小説」に涙する女子高生と「美少女(ポルノ)ゲーム」に耽溺するオタク少年が互いに軽蔑しあう学校教室の空間である。
『ゼロ年代の想像力』p95
- とあるわけだけれども、じゃあ実際に全国の高校で女子高生とオタク少年が互いに互いを罵倒して抗争をやっているかと言えば(まあ、もし本当にやってたとすればシチュエーションとして超絶面白いが)、そんなことはないわけで、実際に起こっているのは小さな共同性のそれぞれが、彼らの言語空間・コミュニケーション空間に、自分たちの言説の正当性を自己言及的にサポートさせるべく、AWACS飛ばして制空権を取り合っているような、そういうイメージがある。
- 言語空間の制空権を取ることができれば、ガチンコで戦わなくても「相手のほうに非があるんだなあ」という多数派の意見を醸造することができるし、結果として本人の所属するコミュニティが「サバイブ」することにも繋がるだろう。
- このようにして、ガチンコのバトルロワイヤルが制空権争いに変化した状況について論じるための鍵は、高度経済成長後の「承認のゼロサム」化社会に、もしかしたらあるかもしれない。承認をゼロサム的なものとして捉えるのはたぶん、少なくとも社会的な理由から、女性においては以前から一般的だと思うのだけれど(イイコちゃん嫌悪が女性においてより顕著であるのはなぜか)、高度経済成長のような(男の子たちの)プラスサムの夢が失速したことで、ゼロサム的社会観という基層が、再び現れてきているというか、そういう感じを受ける。
- 「戦わなければ生き残れない」という決断主義1.0において既出であったテーゼを決断主義2.0的に言い換えるなら、「相手を洗脳しなければ洗脳されてしまう」「なんびとも洗脳ゲームからは逃れられない」「私は誰も洗脳して(傷つけて)いないなどと言う奴は詐欺師!」となる。つまりは、優等生の男の子的な生き方が衰退し、普通の女の子の処世術のレコンキスタが起こっている、ということで決断主義1.0から2.0への遷移を説明できると思う。
- この話にもう一つ補助線を引くと、決断主義1.0と決断主義2.0とを隔てるのは、「大人や社会が『正しいこと』を教えてくれなくなった時代」と「大人や社会が『理不尽なこと』を以って抑圧してくれなくなった時代」との断層である。「大人が若者(や子供)を殴らなくなった時代」と言ってもいい。大人が子供を殴ってくれた時代であれば、「世界≒大人に対してたった一人になっても戦いを挑む」という決断主義1.0的な態度があり得たが、優しい大人しかいなくなった時代では、子供たちには反抗によってアイデンティティを形成するチャンスがなくなるのである。それゆえに「脱洗脳」は正義ではなくなり、「万人の万人に対する洗脳ゲーム」が「ゼロサム化した承認のパイを奪い合うゲーム」として顕在化するのである。
2009-11-22
中二病について
- 中二病弄りを芸風とするネットウォッチャーの人が、タテマエ上「無差別に言及している」振りをしつつ、リアル中学生の中二病は弄らないように「大人の事情」でお手盛りをしているように見えることって、たまにあるような気がする。そういう「お手盛り」の背後に、「リアル中学生のうちの中二病は微笑ましいし、将来のネタになるので見逃してあげるべき」みたいなイデオロギーが見え隠れするんだな。
- リアル中二時代の中二病体験を語ることって、特に男の子にとっては、青年期に青年グループに参加するための入会試験みたいな側面があって、それを語って場を笑わせることができるというのが、「お前いい奴だな」「お前面白い奴だな」「お前、誰にでも心を開いてるな」という印象を青年グループの場に与えて、参加資格を得るための儀式として機能するわけだけど、そういうときに「軽く語れる鉄板の中二病ネタ」を持ってない、「こじらせた人」は、場から疎外されるわけです。
- 私が望むのは自分が書いたようなことをより多くのリアル中高生に知らしめることで、将来こじらせる人予備軍な人たちが、「ああそうか、将来のために、中二病ネタを作っておけばいいんだ!」ということに気づいてくれることです。
「若者組」的な共同性について
(この件、本日の最後のエントリーに補足あり)
- 「若者組」的なものの行方ってのはたぶんちゃんと考える必要があるんだと思う。僕自身は「若者組」的なメンタリティが世の中からなくなればいいと思っているのだけど。
- 僕が宇野常寛の思想を嫌いな点の一つは、彼が「旧来のムラ社会」は否定しつつも、「若者組」的メンタリティは温存しようとしているように見えるところで、この「若者組」的メンタリティは宮藤官九郎のドラマにもよく感じる。
- 「若者組」的、というタグ付けが正確かどうかちょっとわからないけど、宮藤官九郎のドラマに出てくるような、暴力団とか落語家の一門とか、ああいう感じの、「中二病を大人に引き上げてやるためのシステム」というか、「適切に去勢してやるためのシステム」ってのが、どうも僕は好きになれないというか、合理化された現代にあんなもののドリームを見たって御伽噺でしょ、と思う。
- 「若者組」的な共同体での会話って、例えば年少の構成員の恋愛話を年長の構成員が、半ば弄りながら「善導してやる」みたいなものが多い、と思うのだけど(ソースは宮藤官九郎のドラマ)、個人的には、そういうのって気持ち悪い、と思う。「俺が女を紹介してやるから舎弟になれ」「俺が女との付き合い方を教えてやるから舎弟になれ」的な人間関係って嫌だなあ、と。
- (シャイな男の子たちの)サークルクラッシュを防ぐ方法の一つは、「大人に引き上げてやる共同性」の復権。宇野さんみたいな善良な年長者を含んだ形でのね。そこで年少者の構成員がちゃんと自分の恋愛の嗜好を「腹を割って話す」ようになれば、(シャイな男の子たちの)サークルクラッシュは防げるだろうね。でもそんな共同体はもっと嫌だ、と僕は思う。
- 今回僕は「ホモソーシャル」という言葉を使うのを控えた。たぶん、西洋起源の「ホモソーシャル」という言葉を濫用するのは、この日本の「若者組」の伝統(笑)を考えると即さない部分があって、というかはてな非モテは「ホモソーシャル」の意味が分かってない人が結構いる気がする。
「大人が正しいことを教えてくれない」時代について
- 「私たちはいまや社会や大人が『正しいこと』を教えてくれない時代に生きているのです」みたいな「若者への啓発」が、冷戦崩壊以降何度繰り返されてきたことだろうか?!
- 90年代前半型の「社会は正しいことを教えてくれない時代」啓発(橋本治)は、だから「一人になっても、自分に根拠を置いて戦え!」と言ったわけだけど、その個人主義への回帰が、精神主義を導いてしまって、行き詰ったのが90年代で、むしろ宇野常寛だったら、「私たちはいまや社会や大人が『正しいこと』を教えてくれない時代に生きているのです」だから「仲間を作ってローカルな洗脳ゲームから始めよう!」となる。
- でも、それってグローバル闘争やスペックでしか測られえない競争からの退却になっちゃうわけ。橋本治だったらまだ、グローバル闘争へのアクセス方法を教えてくれた、と思う。まあ、グローバル闘争に熱くなりすぎるとカツマーになっちゃうわけだけど。
- 19歳のころの僕が1999年に書いたブギーポップ論を読み返してみても、「私たちはいまや社会や大人が『正しいこと』を教えてくれない時代に生きているのです」は90年代にはすでに大前提になってたと思う>http://bit.ly/4F8Zwm
リスク社会論と自己責任論について
- リスク計算と自己責任論ってのが、まるで証拠主義と神秘主義の対立のような対立として図式化されることがあるかもしれないのだけど、リスク計算とかリスクとベネフィットを天秤に載せるというような、30年前から消費者がなされてきた『訓練』が、むしろ自己責任論への加速剤として働くということは覚えていたほうがいい。「自分は合理的な近代人でありリスクを適切に計算できている。だから私は自分の行動に責任を持ち、誰にも責任転嫁せずに生きねばならない」という思想。
- リスク社会も自己責任論もともに、証拠主義の側にある観念なんだね。昔の責任論はむしろ神秘主義的だったけれども、リスク計算とトレーサビリティの拡充が、「責任」という概念から神秘性のベールを剥ぎ取ったわけ。
- だから自己責任論とリスク計算はセットになるべき。自己責任論を前提とした議論を立てるなら、その前提にあるリスク計算も肯定されねばならない。
- リスク計算がコモディティ化するほど、自己責任論によってより後期近代人は「自己のコントローラーたるべく」訓練されていくわけ。このからくりは、1986年(!)のU・ベックの『リスク社会』ですでに過不足なく説明されている。
以前は、貧しい階級に特有の生活連関が、そうした苦しい状況を耐えられるような解釈や防御‐支援形態を提供し引き継いでいった。しかし、かつては集団で経験された運命は、階級関係が失われた個人化された生活状況においては、まずもって集団ではなく個人の運命となる。
人間関係バイアスを公示する
otsune 「宇野さんの煽りにのって彼女作ったけど失敗したよ!責任とってよ!という話だとして読むと切なさ炸裂」という意見一票 2009/11/23
上の「若者組」的な共同性についての元ネタになったtwitter上の発言集に対して、このようなコメントがついたので、やっぱりちょっと個人的な人間関係によるバイアスを隠すのはフェアじゃないなと思うから、宇野常寛さんと自分の関係について、補足。
煽り、というほどでもないのだけど、5年くらい前の自分は、恋愛できないオタクを宇野常寛さんがウェブサイトやリアルに会ったときの会話で嘲笑するのを何度も聞いていて、それで彼に馬鹿にされたくないから、男女交際にアプローチした、というのは確かにある。当時の彼女にはとても申し訳ないことなのだけれど。もちろん、その恋愛はうまくいかなかった。
それで、「責任とってよ!」と思ったかというと、そんなことはない。恋愛は個人的なものだし、自己責任に基づくもの。自分が未熟で、ただ早く「性的経験がしたい」「彼女のいる人間というスペックが欲しい」と目がくらんだ、というのが実際のところ。当時の彼女には本当に申し訳ないと思う。
ただ、その後に、彼周辺の人が、自分の恋愛関係の失敗を、あちらこちらでネタにしたり嘲笑ったりしていたというのを人づてに聞いたり、あるいは彼自身から、他の人の恋愛関係の、しかも失敗の話を、嘲笑的に聞いたりもしたので、なんか、そういう、他人の恋愛話を嘲笑って盛り上がるような共同性って嫌だなあ、とは思った。これ、別に彼自身に対するだけの非難ではなくて、「そういう会話を別に悪気もなくやるような共同性」が嫌だ、という話です。
というわけで、上記の”「若者組」的な共同性について”のエントリーは、個人的な経験に基づく人間関係バイアスが入っているので、その分の修正値をプラマイして読んでいただけるとありがたいです。
追記
>......数年前に「自分の彼女がネットナンパされて困っている。アイツはイタい」とおおはしゃぎで僕にビミョーな自慢をしていた奴が、そんな過去を封印して「宇野周辺は他人の恋愛談をネタにしすぎイヤだ」みたいなことを言い触らしていることを今知った。
>まぁ、ネットではよくあることなのだろうが、この人物についてはだいぶ前から僕についてプライベートな会話ややりとりを存分に脚色して広めているので、今にはじまったことではないのだが。さすがに病膏盲入るとはこのことか、と思った。
>まぁ、何言ってもまた適当に嘘ついて(記憶改変して)取り繕うんだろうけど。重要なのは、ネットではそれくらいの風評攻撃は常に飛び交っているということだろう。僕も安易に鵜呑みにしないように、気をつけよう。
BM
あまりにも優等生かつ生真面目すぎるのでは?
他人の恋愛話を嘲笑って盛り上がるような共同性って宇野さんに限らずありふれてると思うし。
個人的には「恋愛を含めた」大体の失敗話なんて笑い飛ばすもんだと思うしネタにされたほうが気分的に楽だけどなあ。
まあガチの「嘲笑」なのかあくまでも「笑いのネタ」なのか、その度合にもよるし、
転叫院さんにとってはガチの嘲笑に見えたのだろうけど、それもバイアスかかってる可能性あるし当事者じゃないとわからないからなんとも。
転叫院さんの恋愛失敗話が身内だけではなく、自分と全く無関係の人にまで延々語り継がれていったのなら流石に少し同情するけど。
BM
http://twitter.com/tenkyoin/status/6035350573
http://twitter.com/tenkyoin/status/6035406094
http://twitter.com/tenkyoin/status/6035496263
↑ツイッターやってないんでコメントに書きますが、これは私への返答でしょうか?
確かにどっちもどっちだし、検証の正当性と動機は無関係というのもおっしゃるとおり。
これからも宇野憎しを原動力に宇野検証(批判)を続けていけばいいと思いますが、
もし「元から宇野を知ってて宇野批判を見たい人」(宇野ウォッチャー)以外の層に向けて
「宇野はこういう嫌な奴でこういうおかしなことを言ってる奴なんだ」と洗脳していくのだとすると、
http://twitter.com/tenkyoin/status/6008685866
↑こういう書き込みはマイナスにしかならないのでは?はっきり言ってヒキます。
宇野さんは(たぶん)強い人なので平気だったのでしょうが、私だったら人間不信に陥ってしまったかもしれない。
個人的には恋愛話を嘲笑するコミュニティよりも、嫌いな奴を陥れるために1年もこんなことできてしまう人の方が気持ち悪い。
まあ私個人の意見を表明してもあまり意味がないけど、他の人はどういう感想を持つのだろう?
もし「端から見て宇野とかいうのよりこいつのが性格悪いんじゃん」「(自称)優等生コミュニティの人たちって・・・」
といった印象を持ってしまう人が多いようであれば、そうなるとどうしても「これを書いてる奴はこういうやつ」というバイアスをかけて見てしまうものなので、
肝心の論の(本当に正当なものだとしても)その正当さが伝わらない恐れがあるし、下手すりゃ相対的に宇野への好感度を上げてしまう結果になるかもしれない。
勿論「自爆テロを続けるのも自由」といわれればそれまでですけどね。
tenkyoin
BMさん
ツイッターについては返答と捉えていただいてよいです。
>↑こういう書き込みはマイナスにしかならないのでは?はっきり言ってヒキます。
ですが、私自身は、そのようなことをしておきながら、後々ネタバレもせず、騙し続けるような人間のほうが社会的に問題があるのではないか、と思います。
私は騙し続けるよりは正直でありたいと、そう思って公表(といっても多くの人はとっくに気づいていると思っていましたが)した次第です。
jituzon
あなたから告白されて付き合った当時の彼女ですが、心から「とても申し訳ない」「本当に申し訳ない」と思ってるのでしょうか? 私との恋愛話を友だちとの間でいまだにネタにしていると風の噂に聞きましたが。″恋愛話を嘲笑って盛り上がるような共同性″はあなたも持ってるのでは? 陰で謗られ哂われている身としては赦しがたいことです。