石橋 みちひろ  つながって、ささえあう社会へ。

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石橋みちひろプロフィール

労組役員の家庭に生まれる

私は、1965年(昭和40年)7月1日、島根県の安来市で、労働組合活動家の次男として生まれました。

父は、自治労(全日本自治団体労働組合)の中央執行委員で、当時、東京に単身赴任中でした。しかも、私が生まれた時には参議院議員選挙の候補者の応援で忙しく、しばらく自分の子どもの顔を見ることができなかったとのことです。

子どもの頃は、身体を動かしたり人と触れ合うのが好きで、勉強ほったらかしでスポーツばかりしていました。小学生の時は野球とバスケット、中学生ではバレーボール。とてもいいチームメートに恵まれて、中学3年生の時に島根県大会で優勝して、全国大会にも行きました。でも東京体育館での全国大会は、会場の大きさと天井の高さに戸惑って、敢え無く二回戦で敗退してしまったのが何とも残念でしたが。

高校は、地元の松江北高校へ進みました。部活動をやめて勉強に専念するはずだったのですが、今度は音楽に傾倒してしまい、コンサートに行ったり自分でバンド組んだりで、結局、遊んでばかり。「周りと同じなのが嫌で、目立ちたがりな性格だった」のが災いしたのかも知れません。でも、高校3年生の時、学園祭のコンサートに出演して全校生徒の前で演奏した、あの感覚は今でも忘れられません。

故郷を離れ、東京の大学へ

高校卒業後、東京の八王子にある中央大学へ進学しました。広大な敷地の中にある白亜の校舎で、今度こそしっかり勉強しよう!と思ったのも束の間、登校初日に誘われた「中央大学プロデュース研究会」という企画サークルに入り、そしてズッポリとはまり込んでしまいました。その結果、学校で勉強していた時間よりも、サークル活動とアルバイトしていた時間の方が圧倒的に長いという、予想外(?)の大学生活になってしまったのです。

それでも、サークルの仲間と力を合わせていろいろな事を成し遂げたこと、3年生の時、サークルの代表として学園祭の音楽イベントを成功させたこと、早稲田、慶応、青学、上智など、他大学の企画サークルとの合同イベントに関われたことなど、忘れがたい思い出がいっぱいです。

正直言って勉強はほとんどしなかったので、学業の方の思い出はほとんどない(苦笑)のですが、ゼミにはいろいろお世話になりました。「多田ゼミ」というマスコミ研究のゼミに所属させていただいて、先生の教えをいただいただけでなく、よく出来た同級生たちや、先輩後輩たちと知り合うことができました。皆さん、今ではいろんな方面で活躍しています。

結局、4年生の6月頃までサークル活動を続けていたので、就職活動を始めたのはその後でした。完全に出遅れていました。当初、(無謀にも?)マスコミ関係を目指して就職活動をしたのですが、当然の事ながら連戦連敗。ところが、マスコミ関係の就職戦線がほぼ終わりに近づいた頃、奇跡的に、某有名スポーツ新聞社の最終面接まで残ったのです。「なんとかこのチャンスを!」と意気込んで最終面接に臨んだのですが、なんと、そこでネイティブ(アメリカ人?)による「英会話試験」があったのです。結果はもちろん、惨敗でした。当時は英語が大の苦手で、英会話なんてとんでもない。しかも、ネイティブの人と話をしたのなんて生まれて初めてだったのです。

でもそれが、立ち止まって自分の将来を考えてみるいいきっかけになりました。「英語もできない、日本の外を見たこともない、このまま社会に出てもいいのだろうか?」と悩んだ末、就職活動をやめて、アメリカに留学することを決意したのです。結果的に、その決断が人生を変えてくれたのですから、本当に分からないものです。

生まれて始めての海外で

生まれて初めて行った海外が、米国南部のアラバマ州タスカルーサという田舎町でした。アメリカの典型的な大学町で、大学のほかには基本的に何もないというところでしたが、かえってそれが良かったのだと思います。地元のアメリカ人学生だけでなく、多くの国からの留学生たちともしっかり交流できて(何せ他に何もすることがなかった!)、世界の多様性を実体験することができました。同時に、南部に根強く残っていた人種差別に直面したことも、いい経験になりました。

また、人生で最も勉強したのがこの時期だったと思います。当初、英会話だけ勉強する予定で行ったのに、なぜか、大学院に入って政治学を勉強することに。「入るのは簡単だが出るのは難しい」というアメリカの大学を身を持って体験した訳ですが、卒業まで連日のように、閉館時間まで図書館にこもって勉強していました。

そこで、恩師のS.リード先生にも出会いました。日本人の奥さまをお持ちの、日本語ペラペラの先生で、日本の政治、特に選挙制度を研究対象にされていたこともあり、なにかと面倒を見ていただきました。その後、先生は私の母校、中央大学に来られて総合政策学部で教鞭をとられています。そして、私の仲人にもなっていただきました!

それにしても、途中、高速道路で大きな交通事故を起こして九死に一生を得たこともあったりして、多くの得がたい経験をした、とても貴重なアメリカ留学時代でした。もちろん、それまで全く話せなかった英語が話せるようになったこと、それが一番大きかったかも知れません。

そして全電通へ

大学院を修了し、日本に戻って、社会人としての第一歩を切らせていただいたのが、全電通(全国電気通信労働組合-当時)の中央本部でした。労働組合を就職先に選んだのはなぜ?とよく聞かれますが、その理由は「社会に貢献できる仕事がしたかったから」ということに尽きると思います。自分の中では、労働組合は最善の選択肢の一つだったのですね。その意味で、全電通が本当にいいチャンスを与えてくれた訳です。

所属は国際部で、そこで労働運動のいろはから、国際労働運動のXYZまで(?)、教えていただきました。1994年には、国際自由労連アジア太平洋地域事務所(ICFTU-APRO)へ出向する機会をいただいて、シンガポールで2年3ヶ月、仕事をしました。この時に、APROの青年担当として、児童労働撲滅キャンペーンを立ち上げてパキスタンやインドの最貧地域で学校プロジェクトを実施したのですが、その時の経験もまた、貴重な経験でした。パキスタンのれんが製造所で債務児童労働者として働く子どもたち、その一方で、整備された居住区で豪奢な生活を送る大金持ちたち・・・。甚大な貧富の格差と政治の無責任さに怒りを覚え、それがその後の運動のエネルギー源になりました。

1996年6月に全電通本部に復帰して、引き続き、国際分野を担当しました。全電通(のち、NTT労組)国際担当として、全電通&NTT労組の国際活動に携わらせていただいただけでなく、私たちが国際的に加盟をしていたCI(国際コミュニケーション労連)の日本加盟組合協議会や、UNI日本加盟組織連絡協議会などの仕事もさせていただきました。そういった国際労働運動の活動を通じて、情報労連の仲間の皆さんと一緒に活動する機会もありましたし、連合の他の産別の皆さんとも活動させていただきました。

一番思い出深いのは、旧PTTI(国際郵便電信電話労連)時代から受け継いで実施していた、年に一度の国際労働学校ですね。毎年、アジア各地で場所とテーマを変えながら企画して、NTT労組や情報労連の若手活動家の皆さんたちに国際労働運動について他国の仲間たちと一緒に学び、考える機会を提供することができました。個人的にも、後々の活動にいい影響を与えてくれたと思っています。

国際労働機関(ILO)で貴重な経験と勉強を

「国際労働機関(ILO)で働いてみないか?」というお誘いをいただき、「挑戦してみるか!」と一大決心をして日本を離れたのが2001年1月でした。家族ともども、イタリアのトリノに移り住み、全く新しい生活が始まりました。

ILOでの最初の任務は、トリノにあるILO国際研修センター(通称トリノ・センター)で、労働者教育プログラムのアジア太平洋地域担当として働くことでした。具体的には、アジア太平洋地域の労働組合指導者向けに、ILOの主要課題(例えば国際労働基準、雇用問題、社会保障や労働安全衛生、社会対話など)に関する研修プログラムを企画・実施したり、教育用の教材を作ったりしていました。

イタリアで一番良かったのは、イタリア人の働き方や生き方を間近で観察できたことでしょうか。定時になったらすぐに誰もいなくなって、オフィスが真っ暗になってしまったこと、配達や修理を頼んでも夕方5時以降は来てくれなかったこと、夜の7時過ぎたらお店が閉まって買い物できなかったこと、日曜日にお店が全然空いてなかったこと、家族との時間をものすごく大切にすること、などなど、驚きの連続でした。

その後、2006年4月にフィリピンのマニラへ異動になりました。今度は、ILO東南アジア太平洋地域担当小地域事務所(通称SROマニラ)で、労働者活動担当上級専門官として技術協力活動の現場での仕事です。担当国は9カ国(その後11カ国)で、フィリピンからサモアまで、非常に範囲の広い地域を担当させてもらいました。

SROマニラでは、ILOの政労使三者構成主義による社会正義の追求を、実際に現場で体現できたこと、それが大きな成果でした。各国の労働組合指導者の皆さんとだけでなく、政府や経営者団体の皆さんとも協議する機会を持てたこと、労働法の改正問題という大きな課題に関わることができたこと、いい勉強になりました。

結局、ILO時代は、「豊かさとか社会のあり方、政治の役割について悩み、考え、行動する毎日」でした。その結果、「果たして今の日本は本当に豊かなんだろうか?」と、日本の現状に対する疑問がどんどんと膨らみ、それが政治を志す契機になりました。

そして2009年3月末、ILOを退官し、新たな志を持って東京に帰ってきました。